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2008年 3月号 2008年 4月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●


(奇数月用1―13号)





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 31日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please 
read this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるよう
になる。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り
立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感と
いうことになる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力
ということになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能
性も高くなる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、
猜疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの
人と、まず疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗して
いる可能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構
築に失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題
ということになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信
関係は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護され
る価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11
月)を形成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともある。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に
形成されることもわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくという
こと。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができ
る。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに
機会をとらえて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間とい
っても、10年単位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 ボンディ
ング 母子関係 はやし浩司)

+++++++++++++++

この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

+++++++++++++++

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な
方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくという
のが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)
が基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくるこ
と。そういう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。
親自身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

++++++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から、【1】【2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように
接する。
きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなる
というのは、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。

++++++++++++++++++

【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではな
いか。しかしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わ
かりやすく言えば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでも
ない誤解である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のな
い子どもが、ふえている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。
感情が乏しい子どもとなると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達している
かどうか、判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえ
ばペットが死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、う
れしいはずと思うようなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなと
きでも、悲しまなかったりする。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうに
はしゃいでいた子ども(小一男児)がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれし
いときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微
妙な表情が、だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮
面をかぶったりするようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわ
からない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が
仕事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただ
しギャーギャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情と
は言わない。今、その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる
「心のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考え
てよい。幼児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば
下の子どもが生まれたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなた
はお兄(姉)ちゃんでしょ」式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大
きい声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話がで
きれば、よし。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「た
だいま!」と言えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したの
が、いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと
質問すると、ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」な
どと、心にもないことを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望
ましいことではない。イヤだったら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を
大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよい
とか、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子
どもは、それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、や
がて心が二面性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、
わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切
ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうで
ない子どもは、そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じに
なる。ふつう子どもは、抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人
に対して、体の力を抜き、身を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体
をこわばらせるため、何かしら丸太を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、
好ましいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさ
や様子が残る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格
の核形成が遅れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望まし
い姿ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、
昔から、物知りの子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いから
といって、頭のよい子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新
しい考えに、自分でたどりつくことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを
見せたら、静かにそれを見守るようにして、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せれ
ばよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、
注意する。とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭
から叱るのではなく、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応
変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会
話をしていても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子ど
もは、「退屈〜ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくな
る。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示す
こともある。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理
由や目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその
根性を感じたら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビ
ゲームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをす
る力」のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみ
てほしい。風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気で
できれば、かなり忍耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断
できる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようで
あれば、親像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で
蹴ったりする。ちなみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約2
0%の子どもは、無関心であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の
良質な愛情に恵まれた子どもほど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 信頼関係)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月31日号

++++++++++++++++

この原稿は、3月31日号用の
原稿ということになる。

予定より遅れること、8日!

本来なら、今ごろは、4月9日号用の
原稿を書いていなければならない。

いろいろあった。

忙しかった。

……ということで、今日は、3月31日号用の
原稿をまとめることにした。

+++++++++++++++

●「Yahoo Internet Guide, Japan」(04)

昨日、「Yahoo−04」という雑誌を購入してきた。
350もの無料サイトが紹介してあった。
どれも、すばらしい!

いくつかを選んでみる。

(1)400種類の辞書を横断検索できるサイト
(2)翻訳結果を10パターン表示するサイト
(3)病名や病院、処方薬を探すサイト
(4)書き順を調べるサイト、などなど。

どれもすぐ役立つサイトばかり。

中には、膨大な書籍ライブラリーを提供しているサイトもある。
何と、その数、18000冊。
すべての作品が、立ち読みできるというから、スゴイ!

もちろん子育てにそのまま役立つサイトもある。
この先、順を追って、私のサイトでも、紹介していきたい。


●「子育てはじめの一歩」(PHP版)

先ほど、「子育てはじめの一歩」(PHP版)を、まるごと一冊、私のHPに収録した。
その作業を終えた。
1995年に、生協ルートで販売した本である。

……ということで、少し説明をしておきたい。

(モノを書く)というのは、だれにでもできる。
しかし書いたモノを、本にするためには、出版社を通さなければならない。
その出版社で、(本)になる。
出版社を通さない自費出版という方法もあるが、そういう本は、書店に並ばない。
取次店が扱ってくれない。

(本)というのは、基本的には、(商品)である。
売るためには、(書店)という(店)に並べてもらわなければならない。

が、自分で並べることはできない。
書店に並べてもらうには、取次店を通さなければならない。
その取次店が、全国の書店に、本を配本してくれる。

これが一般的な、本の販売のし方である。

が、本の販売のし方は、書店経由だけではない。
いろいろな方法がある。
そのひとつが、生協ルートと言われる、生協組合を通して売る販売方法である。
全国の生協組合を通して、本を販売する。
その組合員数が、全国で、2000万人もいるという。(当時の担当者の話)。
巨大な組織である。

「子育てはじめの一歩」(PHP)は、そういうルートで販売された本である。
だから一般書店には並ばなかった。

言い忘れたが、この世界には、おかしな縄張り意識がある、……らしい(?)。

書店販売されている本は、生協ルートでは流してもらえない。
反対に生協ルートで流されている本は、取次店が取り扱ってくれない。
(これも当時の担当者の話。)

そんなことはどうでもよいが、「子育てはじめの一歩」は、そういう生協ルートで
販売された本である。

結果は、黒星。初版で絶版。
つまりまったくといってよいほど、売れなかった。
しかしこの種の子育て本は、息が長い。
「5年とか、10年かけて売り切ればいい」ということらしい。

(書店に並べてもらっていたら、もう少し売れたのではないかと思っている。
生協ルートのように、本の性質上、カタログだけで売るというのは、むずかしい。)

が、初版から、すでに13年。「絶版になった」という連絡は受けていないが、
常識的には、絶版ということになる。

というわけで、先ほど、その本を、まるごと1冊、HPに収録した。
その作業を終えた。
私のトップ・ページより、読んでもらえるようにした。

若いときに書いた本なので、随所に心恥ずかしいか所もあるが、それは許してほしい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●鼻くそ(Picking one's nose)

子どもは、よく鼻くそをほじる。
ほじって、食べてしまう子どももいる。

昨日も、A子さん(年中女児)が、レッスン中に、
鼻くそをほじっていた。
それを指先で丸めて、机の下に落していた。

私「あ〜ア、もったいない! だめだよ、下へ捨てては……」
A「……?」
私「あのね、鼻くそは、おいしいんだよ。ご飯にかけて食べると、
おいしいんだよ」
A「……?」
私「だから、今度は、その鼻くそを、机の上に集めておいてね。
あとで、ぼくがもらって帰るから……」

A「おいしくないよ」
私「おいしいよ。ごはんにかけて食べるんだよ。わかった?」
A「食べないよ」
私「ぼくは子どもの鼻くそが、大好きなんだ。だから捨てないでよ。
ちゃんと、ここに集めておいてね」
A「いや!」と。

こういう会話を、2、3度、繰りかえす。
子どもは、それで鼻くそをほじらなくなる。
いや、ほじりそうになったら、舌なめずりをして見せる。
おもしろそうに……。
おかしそうに……。
それを見て、子どもは指をパッと鼻先からはずす。

……ということで、子どもに何か注意するときは、「〜〜してはダメ」式
の禁止命令は、できるだけ避ける。
鼻をほじることにしても、ほじること自体は、悪いことではない。
だれだって、している。みんな、している。私もしている。

ただし、人の前では、しない。
それはエチケット。
だから、そこはユーモア。子どもに罪悪感をもたせない。
おもしろ、おかしく指導する。
指しゃぶりも、同じようにして、指導する。

「先生にも、あなたの指、しゃぶらせてよ」と。

これは幼児を指導するときの、コツ。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの自立

+++++++++++++++

Yさん(女性、母親)からのメール
が届いた。

夫のカードローンが、家計を圧迫している。
子どもが、タオルを一日中、吸っている。
夫に、おかしな性癖(?)があるなどなど。

そのため離婚を考えているが、どうしたら
よいか、と。

+++++++++++++++

 子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギを
にぎるのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分
自身のもつ(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。

 さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしな
がら、子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、
巣から追い出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。

 親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。

 当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密
になりやすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、
(狩りのし方)を教えること。

 もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なこ
とですら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)というこ
とになる。

●Yさんのケース

 Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにか
らんでいるのがわかる。(メールは、掲載許可がいただけなかったので、ここでは紹介でき
ません。)

 Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、Yさんの問題点を整理してみよう。

(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。

 Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさん
に与える衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だ
けは、自分が何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。
それがわからないと、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけとい
うことになる。

●時は心の癒(いや)し人

 「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』とい
う言葉は、私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、
あとは、はやい。

 あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようにな
る。「これは本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズを
もっている。そのキズが、今のYさんをつくりあげた。

 「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったという
よりは、勉強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもし
れない。どこか自虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。

 しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭
を求めていたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。

 ……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確
に割り切ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」と
いう問題である。

●世代連鎖

 こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめて
いる。周囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に
口にしない。そういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人ほど「離婚」
という言葉を、口にしやすくなる。

 そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いと
いうのではない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわ
る必要はない。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」
の崩壊である。

 Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りか
えそうとしている。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、
心を開けないなら開けないで、それは構わない。

 しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ど
も自身である。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対
して心の開けない人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのこ
とに、Yさん自身が気がついていない可能性がある。

 言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし
心を開けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと
考えてしまう。

 こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってし
まう。これを世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまで
も、その結果でしかない。

【Yさんへ……】

●あなたはすべてをもっている

 かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあな
たを怒らせるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。

 あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。

 今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しか
しこれは、たいへんな誤解です。

 実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。
家庭と家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありま
すが、しかしこの日本では、平均的というより、平均以上!

 あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、
経験、常識。すべてです。

 ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまって
いる。あなたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。

 ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう
意味では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをし
ているのは、あなたの夫であり、子どもです。

●借金など、何でもない問題

 はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事
業に失敗し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、
ゴマンといますよ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに
五万といますよ。いちいちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚す
る人などいなくなります。

 (あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのか
もしれませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。
どうして単身赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしく
なっていたのですか? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反対し
てきました。「家族がバラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)

 それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることで
はなく、やるべきことを自分に向ってすることです。

 もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、
負けを認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を
出して、心を空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついて
きます。

●もっとさらけ出して生きる

 がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あな
たの夫や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。
ダメで、ダメもと。

 「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、
あなたは書いています。

 いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことな
のですか。

 いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのです
か。

 いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪
いことなのですか。

 私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の
告白手記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だってい
るそうです。毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。

 さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、
その彼の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだ
そうです。わかりますか? みな、それぞれです。人、それぞれです。

 みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、こ
れは悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言
いなさい。あなたの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさい。言いたいことを、
言わせてあげなさい。他人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。
だから、夫婦であり、家族なのです。

 おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということ
です。勝手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。

●あとは、居直る

 あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性
癖があったとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることは
ありません。

 Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひ
ょっとしたら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題の
ように思います。ある意味で、何でもないですよ!

 どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。

 イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押
さえると、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。
私は、いったい、どこが悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨
が折れているだけですよ」と。

 いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生
きている)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、
解決しますよ。

●すばらしい母親

 Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。す
ばらしいことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内
容から、それがわかります。

 それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、
「男像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方の
ないこと。大半の母親がそうです。

 方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を
置いてみることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。

 たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの
視点の中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきま
す。

 ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面
にばかり向っている」と。

 こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服すること
ができます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。

 Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時
間の問題です。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているから
です。

 あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからつ
いてきます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感、あれこれ】

●笑いのない世界(A world where no laughter is heard)

久しぶりに大病院へ行った。驚いた。

まず、臭いが消えていたこと。
少し前までは、どこの大病院でも、よどんだ病臭が、鼻をついた。
とくに外科病棟は、ひどかった。
消毒薬の臭いと体臭……。

が、それ以上に驚いたのは、(笑い)がないこと。
病院という性格上、それは当然としても、その(落差)に驚いた。

私の住む世界には、いつもその(笑い)がある。
子どもたちの声がする。

その(落差)に驚いた。

「こんなところで働いていたら、私なら、1か月でうつ病になるな」と思った。


●認知症のはじまり(The beginning of the Senile Dementia)

60歳になると、天井が見えてくる。
それまで見えなかった、天井が見えてくる。
70歳の人、80歳の人。

介護度が、2とか、3になる人もいる。
この世界では、「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。
自分では、それがわからない。
が、そうでない人からは、それがわかる。

今、私の周辺で、あぶないのは、Kさん(67歳、女性)と、
それにM氏(70歳、男性)。
ともに、どこか、ヘン。おかしい?

まずKさん。

ものの視野が狭い。極端に狭い。目先のことしか、わからない。
それだけに振りまわされている。
一貫性がなく、ワーワーと騒ぐ。そのつど、内容が変化する。
言っていることが、支離滅裂。めちゃめちゃ。取り越し苦労の連続。
ささいなことを大げさにとらえては、ああでもない、こうでもないと騒ぐ。
ことこまかく説明しながら、どんどんと自分の世界に入ってしまう。

つぎにM氏。

時刻表的生活。雨戸を開ける時刻、閉める時刻などが、1分きざみで、正確。
道路の車が気になるらしく、だれかがほんの少しでも車を自分の家の
前に止めたりしただけで、パトカーを呼びつける。
がんこで、融通がきかない。
他人と接しているときは、まともな感じがする。
応対のし方も、ふううの人と変わらない。
が、同じ行動を、何度も繰り返す。
庭先を、用もないのに、言ったり来たりする。

ともに(こだわり)が強い。

ただ認知症と、うつ病は、この時期、区別がつきにくい。
認知症から、うつ病になる人もいるというし、反対に、うつ病から
認知症になる人もいるという。

どちらでも構わないが、周囲の者こそ、よい迷惑。

その人がそういう病気であるということがわかっていればよいが、
そうでないと、その人に引きずられてしまう。

Kさんについては、「?」と思うようになったのは、数年前から。
M氏については、5、6年ほど前から。

M氏についてはよくわからないが、Kさんについては、
夫も、気づいていないのではないかと思う。
それとなく話題にしてみるが、いつもヘラヘラしている。

夫のほうも、このところ少し、おかしくなってきた?
こういうケース、つまり夫婦ともにおかしくなるケースも少なくない。

だからこのところ、Kさんからの電話も、M氏からの電話も、
適当に聞き流すようにしている。
まともに聞いていると、こちらまで、気がヘンになる。
あるいは、話を聞きながら、心の中で、歌を歌っている。

しかしこの問題は、私自身、ワイフ自身の問題でもある。

ときどきワイフを横から観察してみる。
で、私が見たところ、とくにおかしいと思うところはない。
が、私自身も、同じように認知症になったとしたら、どうなのか。
ワイフの変化はわかるのか。

このところ、そんなことが心配になってきた。
それが冒頭に書いた、「天井」ということになる。
つまりこの世を生きる人間の、「限界」ということ。


●友人の申し出(To live in New Zealand)

ニュージーランドに住む友人から、メールが届いた。
海の見える別荘をいっしょに借りて、住まないか、という。
彼は、30年ほど前、彼は、オーストラリアから、
現在のニュージーランドに移り住んだ。
オークランドから車で、2時間ほどのところである。

「週、300ドルで、借りられる」と。
彼も、今年、定年を迎える。

300ドルというのは、日本円になおすと、
2万5000円。
月額になおすと、10万円。
高いか、安いか?

為替レートが、つりあっていない。
去年、オーストラリアへ行ったが、何もかも、
日本のものより割高な印象をもった。
とくにホテル代が、高かった。

反対に、先週、オーストラリアへ帰った友人は、
こう言っていた。
「日本の物価は、安い」と。

現在、1オーストラリアドルは、100円前後だが、
1ドル、80円くらいでもよいのでは?

で、その申し出を読んで、しばらく考えた。
いっしょに住むといっても、たがいに妻がいる。
仕事はどうするのか?
生きがいはどうするのか?

「いっしょに住む」といっても、現実は、そこにある。
その現実は、どうするのか?
夢やロマンだけでは、生活はできない。

いろいろ考えたが、やはり今は、行けない。
だから「NO」という返事を書いた。


●犬のクソと運命

庭掃除をしながら、「運命」について考える。

その庭には、ハナ(=犬)の糞が、ゴロゴロしている。
ハナは庭で放し飼い。
しつけもしていない。
だから、当たりかまわず、糞をする。
一応、庭のはずれでしているが、それでも庭掃除は、欠かせない。

その糞の始末をしながら、ふと、運命について考える。

「運命とは、それを受け入れてしまえば、悪魔は、向こうから
退散していく。しかしそれを避けようとすると、キバをむいて、
向こうから、襲いかかってくる」。

……というのは、私が考えた格言だが、こういうこと。

ときどき、失敬な人がいて、私の家の玄関先で、犬の糞をさせて
いく人がいる。
玄関のまん前で、である。

そういうとき、それを見つけた、ワイフが、こぼす。
ついで、私が怒る。

しかし、そこでふと立ち止まる。
犬の糞など、珍しくも何ともない。
先ほども書いたように、私の家の庭には、ハナの糞がごろごろしている。

数日も始末しないで放っておくと、結構な量になる。
しかしハナの糞については、何も感じない。
ごく当たり前の、日常茶飯事として、その糞を始末することができる。
が、玄関先の糞は、そうではない。

つまりここに運命に対する考え方のヒントがある。

私は、ハナの糞については、受け入れてしまっている。
だから気にならない。
一方、玄関先の糞については、それを避けようとしている。
だから腹が立つ。

同じ糞、なのに!
しかも量のことを言えば、玄関先の糞など、ハナの糞の何十分の一にも
ならない。

どうしてか?
……というより、ものごとは、前向きに受け入れていく。
そこにあるものを、そのまま受け入れていく。
とたん、ものの見方が、180度変わる。

たとえば……

今、ここに生きていることを原点に、ものごとを考えてみよう。

ものが見える。
ものが聞こえる。
体が動く。
食事がおいしい。

日ごろの何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

そこに子どもがいる。
子どもといっしょに遊ぶ。
子どもといっしょに風呂に入る。
子どもといっしょに、本を読む。

その何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

私について言えば、仕事ができるというだけでも、ありがたい。
仕事があるというだけでも、ありがたい。

ものごとは、そこから考える。
つまり今、私を取り巻く、無数の「糸」を、前向きに受け入れていく。
とたん、心が軽くなる。気が楽になる。

犬の糞について言えば、それを始末できるというだけでも、ありがたい。
それこそまさに、私が生きているという証(あかし)そのもの。


●時は、金の砂時計

前にも書いたが、「時」は、金の砂時計。
刻一刻と過ぎていく時間には、黄金ほどの価値がある。
……というたとえは、あまり好きではない。

現在、金は、1グラム3400円前後(08年3月)。
だからといって、1秒がいくら……というわけではない。
お金に換算するのは、正しくない。

ただこういうことは言える。

お金にこまかい人でも、時の使いかたにルーズな人は、
いくらでもいる。
よい例が、パチンコ。

半日、パチンコ店にいて、5000円、稼いだとする。
その人は、「5000円、儲けた」と思うかもしれない。
が、その人が過ごした半日は、どうやって取り返せばよいのか。

同じ1日でも、賢く使う人もいれば、そうでない人もいる。
が、どう過ごせば「賢い」といい、どう過ごせば、そうでないと
いうのか。
その判断が、むずかしい。

その上、加齢とともに、脳みそは、どんどんと萎縮していく。
知恵や知識は、こぼれるように、脳みその中から消えていく。
言うなれば、穴のあいたバケツのようなもの。

補っても補っても、それでも足りない。
そんな脳みそを、補わないでいたら、どうなるか?

その先は、まさにあの世界。恍惚(こうこつ)の世界。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●6か国協議(6 Nation Conference)
Wake up, Ms. Rice and Mr. Hill! North Korea is not such a nation as you think of but 
only a dictatorship. While only very limited class of North Koreans enjoyed American 
music but even now many have been killed under the name of public execution. Don't 
you know this fact while you enjoy drinking wine with North Koreans in Peking.
(ライス国務長官、ヒル次官補よ、いいかげんに目を覚ませ。NKは、あなたがたが考え
ているような国ではない。ただの独裁政権国家。ごく限られたNKの人たちが、アメリカ
の音楽を楽しんでいる間、多くのNKの人たちが、公開処刑の名のもとで、殺されている。
あなたがたがペキンで、NKの代表とワインを飲むとき、この事実を忘れないでほしい。)

++++++++++++++

6か国協議が、霧散する気配を帯びてきた。
アメリカが提案していた連絡事務所の開設を、K国が拒否したという。
「連絡事務所」というのは、大使館や領事館を開くための、その前段階的な事務所をいう。

今さら改めて言う必要もないが、K国は、核兵器をぜったいに放棄しない。
核兵器そのものが、恐怖政治を執行するための本尊になっている。
たとえば昨日のニュースを見ても、公開処刑は、頻繁(ひんぱん)に行われているという。
群衆の見守る中、後頭上部から口の方に向けて、銃を発射するのだそうだ。
遺体の損傷をできるだけ少なくするために、そうするとか。ゾーッ。

こういうメチャメチャな処刑が行えるのも、バックに、その本尊があるからである。
でなければ、とっくの昔に、K国は、崩壊している。
K国に向かって、核兵器を放棄しろと迫ることは、恐怖政治をやめろと言うに等しい。
そのあたりのことが、ライス国務長官も、ヒル次官補も、まったくわかっていない。

結局は、金xxと韓国の前大統領のNに、踊らされただけ。
金xxに、核兵器開発のための時間を与えただけ。

そのK国だが、アメリカの国防白書によれば、6〜12個の核兵器をもっているという。
これはたいへんな数といってよい。

中には、東京に1発ぐらい核兵器が落とされても、日本はビクともしないと説く人がいる。
何かの雑誌に、そう書いていた(07年)。

しかしこれはとんでもない誤解。
核兵器の威力は、YOU TUBEでも紹介されている。
興味のある人は、見てみたらよい。

「YOU TUBE」→「Nuclear Bomb」で検索すればよい。
(ただし気の弱い人は、見ないほうがよい。)

http://jp.youtube.com/watch?v=kLqkgxwa1Hk&feature=related

たった1発で、瞬時に、200万人の人が死ぬと言われている。
もちろんその時点で、日本の経済は、奈落の底へとたたき落とされる。
日本の社会機能そのものも、停止する。

で、今ごろになって、アメリカ政府は、K国の体制崩壊をうんぬんし始めている。
金xxの急死、それに伴う体制崩壊、さらに核兵器の拡散問題などなど。
「平和的解決」とは言うものの、すでにその時期を逸してしまった。

もちろん日本も、たいへんな迷惑をこうむる。

しかしここは腹を決めて、K国に臨むしかない。
K国の体制崩壊を導きながら、そのときがきたら、一気にK国を押さえ込む。
それがまた、結局は、K国の一般民衆にとっても、最良の方法である。

つまるところ、ヒル次官補がしたことは何だったのか。
何度も日本政府を裏切り、裏工作に裏工作を重ねただけ。
今の今も、その裏工作を重ねている。
あげくの果てには、拉致問題を棚上げしてしまった。

いいかげんに、目を覚ましたらどうか?


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

『生きる』
When we say, " We live" or "We are alive", what does this really mean? I hereby think 
about this theme.

●自己の統合性

少し前、「自己の統合性」についての原稿を書いた。
それが、最近になって、気になってしかたない。
自分で書いた原稿が気になるというのも、どこか
おかしな話だが、時として、自分は自分に教えられる
ものなのか?

まず、そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。
日付は、2007年10月になっている。

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キング・Jrである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キングは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin 
Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マ
ーティン・ルーサー・キング・Jr)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、
初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。
勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、
勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)
と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町
の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを
求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」
(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

+++++++(以上、07年10月に書いた原稿より)+++++++

この原稿を読み返してみて、「では、今の私はどうなのか?」と自問する。
私は、すべきことをしているのか、と。
その前に、私には、命がけでしなければならないことがあるのか、と。

何度も書くが、(命がけでしなければならないこと)というのは、
そうは、簡単に見つからない。

見つかっても、それを命がけでするようになるまでには、10年とか20年とかいう、
熟成期間が必要である。

「定年退職になりました。明日からボランティア活動に専念します」という
わけにはいかない。

そこでもう一度、黒澤明監督の『生きる』を思い浮かべる。
死の宣告を受けた渡邊勘治(市の職員)は、最後の仕事として、
小さな公園作りに、生きがいを求める。
まるで人が変わったかのような猛烈な仕事ぶりを発揮する。

脚本はだれが書いたか知らないが、つまり、この映画は、それが「生きる」という
ことだということを、私たちに教えている。

で、実は、こんなことがあった。

私は、子どもたちを教えるということに、このところ、少なからず、
自信を失い始めていた。
いくら声高に叫んでも、またその弊害を説いても、私の教室のような小さな教室は、
大手の進学塾にはかなわない。

年齢というより、このところ体力的な限界を感ずることも多くなった。
そんな中、私にとっては、ありえないことが起きた。
地元のタウン誌が、私の教室を、広告費無料で、紹介してくれた※。
うれしかった。が、それ以上に、驚いた。
「こんな教室でも、応援してくれる人がいるんだな」と。

とたん、おかしなことだが、それまでの迷いが消えた。
私は何も変わっていない。
10年前、20年前の私とくらべても、むしろ今のほうが、体の調子もよい。
頭の回転が鈍ったという感覚も、ない。

むしろ、精神面では、人間的に丸く(?)なったような感じがする。
今では、どんなドラ息子でも、またドラ娘でも、笑って対処できる。
笑って対処しながら、その子どもを、私のリズムに乗せてしまうことができる。

若いころの私なら、「お前は、退塾!」と叫んでいたかもしれない。
そんな子どもでも、私は自由に操ることができる。

何も年齢など気にすることはない。

そうそうたまたま昨日(2月7日)は、こんなこともあった。

先月、地元の小学校で講演をさせてもらった。
自分では、ひどいできだったとばかり思っていた。
集中力も弱くなった。
聞きにきてくれた人の心も、うまくつかめない。
それに話す内容も、どこか、陳腐。つまらない。
その講演のあとも、「ぼくの講演は、もう、みなに、あきられ始めている」と思った。
「そろそろ潮時かな?」とさえ思った。

が、家に帰ってみると、その感想が届いていた※。
「一部……」ということだが、24人の方からの感想がコピーしてあった。
私はそれを読んでいるうちに、目頭が熱くなった。

うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。

「まだまだがんばれる」という思いは、「私は何も変わっていない」
「何も変える必要はない」という思いに変わった。

人生には天井(=限界)があるのかもしれない。
が、今は、そんなことを気にする必要はない。
気にしてはいけない。
やるべきことを、まずやる。
その先に何があるか、私にもわからないが、とにかく、前に進む。

「♪若者は、また、歩き始める」(「若者たち」より)、である。

注※……「中日ショッパー、県西部、豊橋版」
注※……感想は、HP→プロフィール→講演の感想に収録しておきました。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 26日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親を捨てる?】

●今朝・あれこれ(3月3日)(March 3rd)
My mother was carried to a hospital by ambulance car, since she lost consciousness in 
that morning. She received some medical checks but she recovered her consciousness 
around that time. And in the next day I sent her back to the Center. In the car with my
 mother, I thought a lot of things. My mother is me myself of 20 0r 30 years later. 

+++++++++++++++

このところ母の容体が、よくない。
今年に入ってから、これで2回、
救急車で、病院へ運ばれた。

今朝は、朝食後、意識がなくなって
しまったという。

あわててかけつけると、母は、酸素
吸入器を口につけ、ハーハーと
あえいでいた。血圧は、90弱〜70
前後。

母にしては、異常な低さである。

大声で声をかけると、意識はもどった。
つきそいの看護士の方が、「一時的
だといいですね」と言った。

母を見ていると胸が詰まった。
姉だけには連絡を……と思って
電話をかけたが、つぎの言葉が出て
こなかった。

「今朝まで、ちゃんと朝食をとって
いました」とのこと。
午後からはワイフに任せた。
私は自宅にもどった。

……この静けさは何か?
この穏やかで、やわらいだ気分は何か?

カーテンを見ると、白い光が、
木々の小枝の影を、くっきりと
映し出している。

その向こうで、隣の屋根瓦が、キラキラと
光っている。

風もない。
寒さも、やわらいだ。

ワイフからの連絡を待つ。
今の私には、それしか、することがない。
静かに、静かに、どこまでも、静かに。

+++++++++++++++

(3月5日)

幸い、母は、たいしたこともなく、
「様子見入院」だけですんだ。

で、病院に1泊して、翌日(=昨日)、センターに戻った。
帰りは、タクシー会社の、寝台つきバンだった。
そのバンの中で、いろいろ考えた。

センターでは、母は、(お荷物)に
なり始めているらしい。
今年に入って、寝たきりの状態がつづいている。
だからといって、センターの人を責めているのではない。
センターとしても、できることには限界がある。
それはわかる。

一方、病院側には、病院側の論理がある。
治療が目的。
「治る見込みのある患者を治すのが、病院の役目」。
どこかの医師も、そう言っていた。老人を預かる施設ではない。

とくに母のように、とくにどこかが悪いという
わけでもない老人は、患者ではない。

医師もこう言った。「何かあっても、延命措置は
取りません」「寿命ですから」と。

その日の午後には、心電図検査を予定して
いたが、私がキャンセルした。

私が「しても意味はないですね」と言うと、
医師も、すんなりと、「そうですね」と。

……私たちも、いつかは、母のようになる。
母のようになるのが、どうこうというのではない。
現在の母が置かれているのと、同じような、立場に置かれる。

そのとき、医師も含めて、周囲の人たちは、
私たちを、どう扱うか。

「いつ死んでも仕方ない」という扱い方をするだろう。
治療といっても、治療の方法すらない。

一方、たとえば病院に、1週間も入院していると、
センターのほうでは、母の居場所が末梢されてしまう。
そうでなくても、入居を待っている人は多い。

医師もこう言った。

「そうなったら、どこかのセンターに再入居する
しかないですね」と。

しかし今度は、そうは簡単にいかない。
再入居するのに、数か月待ちということになったら、
その間、母は、どこにいればよいのか。

「やはりセンターに戻してもらったほうがいい」という
ことで、母は、センターに戻してもらった。

老人介護、老人医療には、いろいろ問題があるようだ。
そんなことを帰りのバンの中で、考えた。

見た目には、スヤスヤと眠っている母を見ながら……。

+++++++++++++++

介護のコツは、介護のことを考えているときと、
そうでないときで、頭の切り替えを、しっかりと
すること。

仕事にもどったり、家庭にもどったりしたら、
介護のことは忘れる。母のことは、忘れる。

「死んだら、死んだとき」と。

なかなかむずかしいことかもしれないが、
そこまで割り切らないと、気苦労だけが倍加してしまう。

ものごとは、なるようにしかならない。
「なるようにしかならない」と自分に言い聞かせて、
心の中を、サッと洗う。

ところで、こんな話を聞いた。

参観に来ていた母親に、「親の介護もたいへんですよ」と、
私がふと漏らすと、その母親は、こう言った。

「私の夫なんかは、母(=夫の実の母親)を見舞ったことは、
めったにありませんよ」と。

その母(=夫の実の母親)というのは、入院して、2年になるという。
事故で頭をけがしてからというもの、認知症に
なってしまったという。

年齢を聞くと、その母(=夫の実の母親)は、まだ60歳とか。

私「若いのに……。60歳で、寝たきりですか……」
母「そうですね」
私「でも、また、どうして? どうして、2年も……?」
母「いろいろありましたから」と。

親子の間で、私には想像もつかないような確執があったらしい。

私「親子関係といっても、さまざまですからね」
母「そうですね」
私「……」と。

+++++++++++++++++++

それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
外からでは、ぜったいにわからない。
だからあなたがもっている(常識)だけで、
その家庭を判断してはいけない。
一方的な話だけを聞いて、判断するのも正しくない。

仏教の世界にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という
言葉がある。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、
親子であっても、どこかで歯車が狂うと、そうなる。
親子であるがゆえに、その苦しみも大きい。

さらに兄弟、姉妹となると、憎しみ合っている人は、
ゴマンといる。
遺産問題、金銭問題がからんでくると、兄弟、姉妹でも、
それこそ、血みどろの争いになる。
そういう例も、これまたゴマンとある。

そういう相手と会う……それはまさに、「怨憎会苦」。
「四苦八苦」のひとつにもなっている。

では、どうするか?
そうしたトラブルから、いかにして自分を救出するか?

つまりは、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高めるしかない。
(言葉はキツイが、それくらいに思わないと、この問題は
解決しないので、そう書く。)
が、「サルだと思え」「イヌだと思え」と言っても、
それはむずかしい。

だから自分を高める。
芸術に親しみ、本を読み、教養のある人と話をする。
その結果として、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高める。

私のばあいも、同じような立場に立たされたことが、
何度か、ある。
そういうときは、心の中で、歌を歌っていた。

(一度は、思わず、口が動いてしまい、相手に
バレそうになってしまったこともあるが……。)

言いたい人には言わせておけばよい。
思いたい人には、思わせておけばよい。

相手は、サルはサル。イヌはイヌ。どうせその程度の人間。
人間と言うよりは、サルかイヌ。
あなたが相手にしなければならないような人ではない。
また「わからせよう」と思っても、ムダ。
それだけの知恵もない。頭もない。

あとは無視。適当につきあって、それですます。

++++++++++++++++++

こんな例を、ワイフが話してくれた。

「2年どころか、10年間、一度も、実の母親を
見舞っていない人もいるわよ」と。

その人を、Z氏(50歳、男性)としておく。

実の母親というのは、10年前に認知症になり、
今年85歳になるという。

「どうして、そうなったの?」と聞くと、ワイフが、
こう話してくれた。

ワ「もとはと言えば、Z氏が、今の奥さんと結婚するため、
家を出たのが始まりみたい。
1人息子だったのね。
そこでZ氏の母親が、猛反対。『結婚して家を出るなら、
今までお前にかけた、養育費を全部、返せ!』という
ことになったのね。
一時は、裁判沙汰にまでなったそうよ。
で、親子の関係は、それで切れてしまったというわけ」

私「養育費を返せというのも、ふつうではないね」
ワ「でも、そういう親も、多いわよ。私の知っている
別の人(=男性)なんか、いまだに実の親に、『お前にかけた、
学費を全部、返せ」と言われているそうよ。額は、
3000万円だってエ!」
私「でも、そんなことを親のほうが言えば、親子関係は、
おしまいだよ」
ワ「そうね。親もそのつもりではないかしら。Z氏の
母親にしてもそうよ。つまり親のほうから、先に縁を
切ってきたというわけ。だから、それでおしまい」

私「Z氏が家を出たというのも、わかるような気がする。
そういう親だから、家にはいたくなかったんだろうね。
つまりそういうことをしそうな親だということが、Z氏には
わかっていたんだよ」
ワ「そう、Z氏が家を出たから、親子関係が切れたのではなく、
すでに、Z氏が家にいるころから、切れていたのね。
それにZ氏の母親は、気づかなかっただけなのね」と。

表面的な部分だけを見れば、Z氏は、「子らしからぬ子」と
いうことになる。

事実、ごく最近まで、Z氏は、母親の兄(伯父)に、「お前は
親不孝者」と、ののしられていたそうだ。

Z氏の苦しみも、また大きい。……大きかった。

ワ「だから、今でも、Z氏は、実家の近くにさえ近寄らない
そうよ」
私「わかるね、その気持ち。とても、よくわかる」
ワ「Z氏にしてみれば、子どものときからの積み重ねも
あるから……。私の友だち(女性)にも、結婚して以来、
一度も実家に帰っていない人がいるわよ」
私「何年くらい?」
ワ「私より10歳くらい若いから、ざっと計算しても、
20年近くじゃ、ないかしら……」
私「20年ネエ〜。よほどのことがあったんだろうね」
ワ「そうね……。よほどのことがあったんでしょうね」と。

そんなわけで、もし今、あなたが、どこかのだれかに、
その家の家庭問題であれこれ言っているようなら、
すぐやめたほうがよい。

あなたは気がついていないかもしれないが、
言われたほうの人は、死ぬほど苦しい思いをしているはず。
あなたは親切心のつもりで言っているかもしれない。
もしそうなら、おカネを出してやったらよい。

それができないなら、だまっていること。
口を出すことくらいなら、だれにだって、できる!

ともかくも、これから母を見舞いに行ってくる。

+++++++++++++++

その前に、以前、「親捨て」と、親類の人からだけではなく、
近所の人たちにも、呼ばれている人がいました。
その人について書いた原稿を、ここにあげてみます。

+++++++++++++++

●親捨てる子ども(Son and daughters who abandon their parents)

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、
親不孝者」の人のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚
づきあいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られると
いう。現実には、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組
みこもうとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびし
く排斥することによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへ
んなことになるぞ」と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむこ
とになる。 

 こんなメールが、Nさんという方から、届いた。

++++++++++++++++

●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カ
ッとなりやすい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、
生活しているようなところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかっ
たようである。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、
高校生のときのことである。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、
あなたはもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係
が、崩れたように感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教
えてあげたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、も
っと自分たちのことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、
つまりあちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。
どうか、ご理解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書い
てきた。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族と
して、お前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識
という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がし
ばられる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみる
べき」と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということに
なる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だか
ら、親のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自
分自身がしばられる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、そ
れなりに、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、
その親子関係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、
苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ
以後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨
て」のレッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られ
るようになるという。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良
好な親子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、
まさにカルト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、
その信仰に背を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだとい
うこと。親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソ
の中枢部にたたきこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多
かれ少なかれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、
子どもたちに大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけ
で、「何だ、親に向かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親
意識をもっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的
に未熟なまま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メー
ルの中で、こう書いている。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」
と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえって
Nさんへの心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかか
えるのも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、
自分で生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊
力を、自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶
対教にも、似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに
56歳。その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたこと
がないということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、
かつそれなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一
人もいない。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生き
るうち、その範囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせ
よ、そして道徳観にせよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いと
いうこと。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、
むずかしい。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親
だから……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそ
れを見抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っている
のではない。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じような
ことを書いたとき、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」
と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視
点から、親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分
を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の
経験では、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説
得しても、ムダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに
脳細胞そのものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。
進歩などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、
仮にそれを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味
わうことになる。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思
えばよい。その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、
その家の中に、あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。ま
た言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはま
ちがっている」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならな
い。そのよりどころを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家
族自我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつ
け、苦しんでいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私
が本気で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにから
まれてしまう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私
は、みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、
他人のために何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、し
たことがない。それを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいい
のは自分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というの
は、たいてい自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさん
のメールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげた
い」と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道
を見つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切
ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、
子育てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさ
んは、私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、
参考にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。
x月x日号を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いてい
ません。

 それでx月x日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いしま
す。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●二男のBLOGより

+++++++++++++++

このところ、二男が、鋭いというか、
私にはない感覚で、原稿を書くように
なった。

おもしろい!

……ということで、ときどき、
二男のBLOGもよろしく!

+++++++++++++++

●パレイト・プリンシプル
 
パレイト・プリンシプル、もしくは80/20ルールという言葉がある。

多くのできごとにおいて、80%の結果は20%の原因に因る、というのがその基本的理
論。とりあえずプログラミングで言うなら80%の処理時間は、全体の20%のコードに
よって占められている、とか、ビジネスの世界では、80%の利益は、20%のクライエ
ンとから来る、とかいうのがよく知られていると思う。

ソローを読んだ後、子供の頃から思いつづけてきた事がある。80%の努力は、20%の
生活の質の向上のために占められているのではないか、ということ。

例えば、明日給料が80%カットされて、その結果影響を受けるのは、生活の質のたった
20%なのではないか、ということ。たった20%の給料でも、イラクのように毎日身の
回りの知人が爆弾で吹っ飛ばされたり、ウズベキスタン政府のような腐敗だらけの政府か
ら迫害されたり、キリスト教徒でないからといって、火あぶりにされることはない。

ボロ家であっても、おそらくまともな水を飲むことができ(スーダンの一部ではおそらく
無理)、基本的人権は守られ、切り詰めればなんとか生きていける。

もう少し極端過ぎない例としては、家の掃除がある。20%の労力で80%の「きれいさ」
を保つことができるのではないか? 残り80%の労力は、床をピカピカにしたり、チリ
一つない本棚にするなど実際の「きれいさ」からみれば、20%の向上に満たないことに
費やしている。潔癖症の人の行動を見れば、それがよくわかる。

つまり、人生、ありとあらゆる活動において、この80%の価値が分かれば、たった20%
の労力でも、満足できる人生が送れるのでは、と感じる。

(語句の使い方などは、私の文調に合わせた。)

++++++++++++++++

なるほど!

よいことを教えてもらった!
「そういうことだったのだ」と、改めて納得。

私たちはえてして、20%のものを失うにすぎないのに、
すべてを失ってしまうかのように、あわてたり、騒いだりする。

その愚かさに、気がついた!

ところで、「パレイト」とは、どうつづるのか?
そういう説明もしてくれると、ありがたい。

Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司


●士気(Morale of the Soldiers)

+++++++++++++++++

もともと士気がたるんでいたから、ああいう事故が
起きた。私もそう思う。

しかし今回の事件を通して、その士気が、さらに拍車をかけて、
ますますさがることになりやしないか。

私は、それを心配する。

+++++++++++++++++

海上自衛隊のイージス艦「A」と漁船「S丸」の衝突事故は、
防衛大臣の辞任問題にまで、発展している。
昨日は、日本国の最高責任者であるF首相までもが、遺族宅を訪問して、陳謝した。

もともと士気がたるんでいたから、あの事故は起きた。私もそう思う。
しかし今回の事件を通して、ますますその士気が、
さらに拍車をかけて、さがることになりやしないか。

……何とも、気の抜けた話である。
まるで気の抜けたビールのよう。
あの防衛省まで!
これで、ほんとうに、日本の平和と安全は守れるのか。

やることはやる。しかし余計なことはしない。
言われたことはやる。しかし余計なことはしない。
万事、ことなかれ主義。
もっと悪く言えば、役人根性丸出し。サラリーマン的。

自衛隊員の士気は、しばしば問題になる。「ほんとうに死ぬ覚悟はあるのか」と。
今までの士気もさることながら、これでは、ますます士気はさがる。

「戦争」とまではいかなくても、「国を守る」ためには、士気が必要。
その士気なくして、国を守ることはできない。
サッカーの試合に、たとえるまでもない。

「勝ちたい」という強い意思があってはじめて、サッカーの試合は試合としての
意味をもつ。
はじめから、「言われたことはやる。しかしそこまで」では、もとから
試合にはならない。

遺族の方には、ほんとうにお気の毒だと思う。思うが、事故は事故。大切なのは、
現場の責任者を、徹底的に処罰すること。当然、国は国としての責任を取る。
が、問題は、そこから。
今回の事件で、防衛大臣が辞任し、総理大臣までもが頭をさげるよう
であれば、現場の士気は、ますますさがる。さがるだけ。

それらは、ただのパフォーマンス。
自衛隊員の気持ちになってみれば、それがわかるはず。

いくら上からの命令がなくても、現場の自衛官は、自分の判断で、漁船の
乗組員たちを助けるべきだった。それをイチイチ、上へ、上へと、(おうかがい)を
たてているから、こういう不幸な結末になってしまった。

中には、「オレが海へ飛び込む……」と考えた自衛官もいたかもしれない。
「オレが助けてやる」と考えた自衛官もいたかもしれない。

もし今回の事件で、問題があるとするなら、この一点に集約される。
どうしてそういう自衛官が、海へ飛び込めなかったのか?
助けることができなかったのか?

つまり、これが私が言う、「士気」の問題である。
もっとわかりやすい言葉を使えば、「やる気」の問題ということになる。

これからは自ら船を止め、海へ飛び込む自衛官は、ますます少なくなるだろう。
「言われたことはやる。しかしそこまで」と。

自衛官「隊長、向こうが機関銃を撃ってきました!」
隊長 「本国に連絡して、指示を請え」
自衛官「隊長、今度は対艦ミサイルです!」
隊長 「それも本国に連絡して、指示を請え」と。

やる気のない自衛官。そこへもってきて、ますますやる気をなくす自衛官。
しかも不幸なことに、そのやる気のない自衛官から、ますますやる気を奪っている。
上官からして、責任逃れのウソばかりついている!

これでは、国どころか、自分の船さえも、守れない!

何か、おかしいぞ、日本。日本の防衛省。そして自衛官!

総理大臣は、遺族の前で、「2度とないよう頑張りますから」と再発防止を誓った
という(Yahooニュース)。

が、防衛大臣が辞任したからといって、また総理大臣が謝罪したからといって、
今回の事件のような事件が、防げるわけではない。
どこかピントがズレている?

たまたま今朝(3月2日)の新聞によれば、国土交通省だけでも、
1200あまりの役人が、その先で、道路財源から、
約2000億円の補助金や事業発注名目の支出を
受け取っていたという(2006年度)(中日新聞)。

公僕意識など、どこ吹く風。こういう問題を一方で放置しておいて、
自衛官だけに、「やれ!」と言っても意味はない。
問題の「根」はもっと深い。別のところにある!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●心のトゲ
Ignorance is itself a sin. But we cannot blame anyone since he or she is ignorant.

無知は、それ自体、罪悪だが、
だからといって、その無知を責めることはできない。

程度の差こそあれ、人は、あなたも私も、例外なく、
無知の世界で生きている。

遠い昔、こんなことがあった。

J君(当時、17歳くらい)は、レコードを集めていた。
レコードというレコードは、すべてもっていた。
J君は、中学を卒業すると、家業の小間物屋を手伝い始めた。
給料はなかったが、ときどき小遣いをもらっていた。
その小遣いで、J君は、レコードを買いつづけた。

何しろ昭和40年代のころのことで、診断方法すらなかった。
もちろん診断基準もなかった。

しかし今なら、こう診断されたであろう。
「自閉症」と。

J君は、今でいう自閉症の症状を、すべて合わせもっていた。
そのひとつが、異常なまでの(こだわり)。
その(こだわり)が、レコードに向いた。
J君は、レコード一枚一枚に、メモをつけ、それを整理していた。
番号をふり、あいうえお順に、きちんと、一寸の狂いもないほどに
並べていた。
J君のゆいいつの楽しみだった。
それが、J君の世界の、すべてだった。

が、母親も、父親も、またJ君の妹も、弟も、あまりにも無知だった。
とくに母親は、「精神病」というレッテルを張られることを、
何よりも恐れた。世間体を気にした。

いつしかJ君は、家の中に閉じこめられるようになった。
J君自身も、外には出なかった。
回避性障害、対人障害、対人恐怖症、先端恐怖症などなど、J君の障害に診断名を
つけたら、10以上になったかもしれない。

さらに不幸なことに、両親は不仲で、毎日のようにいがみあっていた。
J君は、家族の愛にも恵まれなかった。

そんなある日、J君にとって、一大事件が起きた。

母親が、J君の集めたレコードを見て、激怒した。
それまではレコードは、その家の目立たないところに、隠されていた。
とくに隠したというわけではなかったが、J君は、そこにしまっておいた。
誰からも見えないところ、に。
誰からも触れられないところ、に。

母親は、J君のレコードを片っ端から、箱に詰めた。
そしてその箱を、倉庫がわりに使っていた、別棟の二階にしまってしまった。

その夜から、J君の様子が変わった。
変わったというより、おかしくなった。

オドオドしていたかと思うと、突然、ニタニタと笑い出すなど。
突然、階段の上から両手をのばしたまま、下に落下するということもあった。

その異変に驚いた伯母が、J君の母親をたしなめた。
が、母親は、こう言ってのけたという。

「何百枚もレコードはいらない。2、30枚もあればじゅんぶん」と。

しかしJ君にとっては、レコードには、特別の意味があった。
家族を愛する人の、家族のようなもの。
芸術家にとっての、芸術のようなもの。
「命」そのものだった。

その後、J君がどうなったか、……それを書くのは、ここでの
目的ではない。最初の話にもどる。

無知は、それ自体、罪悪である。
キリスト教の単語を使うなら、「sin(宗教的な罪)」である。
もちろん刑法上の罪悪とはちがう。
だからといって、その罪悪を責めることはできない。

だれしも、例外なく、その無知の世界に生きている。
この世界では、「私がいちばんよく知っている」と豪語する人ほど、あぶない。
そういう人ほど、罪悪のワナにはまりやすい。

J君のケースにしても、J君の母親を責めることはできない。
もちろん父親を責めることもできない。

しかしJ君の自我は崩壊し、人間であることそのものを、
やめてしまった。
そのあと、四六時中、カギのかかった病院の一室で、死を待つだけの
生活をするようになったという。

……で、こうした無知は、いたるところにある。
そういう無知に、しばしば出会う。
おとといも出会ったし、昨日も、出会った。
だからといって、私が無知ではないということではない。
私だって無知である。
しかしときとして、その相手の無知が、手に取るようにわかるときがある。
しかしそれを口に出すことはない。
とくに教育の世界では、そうである。

「どうせ言っても無駄」という思いが、口をふさぐ。
とくに相手がそれを望んでいないときは、口をふさぐ。
この世界には、「10%のニヒリズム」という言葉がある。
「20%」でもよい。

昔、どこかの会合で、だれかが口にしていた言葉である。

最後の10%は、自分のために残しておく。
けっして全力投球は、しない。
全力投球をすれば、この世界では、身も心もズタズタにされてしまう。

いや、「ひょっとしたら、私だってまちがっているかもしれない」という
思いもある。
他人の無知を指摘する私自身が、無知ということもありえる。
そのためにも、10%は、自分のために残しておく。

が、それがこのところ、心のトゲとなって、私を苦しめる。
そのJ君について、こんな思い出がある。

J君の妹にあたる女性から相談があった。
そのときJ君は、40歳くらいになっていたのではなかったか。
相変わらず、家の中に引きこもっていた。
J君の父親は、他界していた。
私はJ君に会った。

が、何よりも驚いたのは、J君の母親の態度だった。
表面的には、柔和でやさしい顔をしていが、時折見せるJ君への視線には、
ぞっとした。
鋭く、心を射貫くような視線だった。

しばらくJ君と話したあと、私がJ君に、「つらいのか?」と声を
かけると、J君は、ポロポロと涙をこぼした。
私は自分がもっていたハンカチを、J君に渡した。

その日はそれで終わったが、J君の症状が、一気に悪化したのは、
それから数か月ほどたったときだったという。
そしてそれからさらに5年後、J君は、50代半ばという若さで
他界してしまった。直接の死因は、肺炎だったという。

私はワイフにこう言った。

「ぼくの人生には、いろいろなことがあった。無数の人に出会い、
いろいろな経験をした。しかしあのJ君のことだけは、どうしても
心からぬぐいさることができない。どうしてあのときぼくは、J君を、
助けることができなかったんだろう」と。

方法はいくらでもあったと思う。
病院へ連れていくこともできた。
専門医を紹介することもできた。
父親を説得することもできた。
いや、J君と母親を切り離すこともできた。
J君の母親は、陰に隠れて、J君を虐待していた。

それが今、それからもう15年以上にもなろうというのに、
心のトゲとなって、ときにつけ、シクシクと胸の中で痛む。
痛んでは、私を苦しめる。

ワイフはそういう私を横で見ながら、「しかたないのよ。
みんな、一生懸命したのだから……」と。

そうかもしれない。そうでないのかもしれない。
が、これだけは言える。

世の親たちよ、よく聞いてほしい。
「無知は罪悪である」。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 無知という罪悪 無知 罪
悪)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 24日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分を見失う子どもたち】(Spoiled Children)
Where should I go? What should I do? What do I want to do? These children don't 
know even what they really are.

●ドラ息子、ドラ娘

 ドラ息子症候群というのがある。自分勝手でわがまま、ものの考え方が、享楽的で(=
その場だけの快楽を求める)、ぜいたく。自己中心性が強く、対人、対物許容範囲が狭い。
好き嫌いを平気で口にし、相手やものの「非」をとらえて、不平、不満を並べる。

 このタイプの子どもについては、たびたび書いてきたので、ここでは、その先を考える。
ずいぶんと前だが、こんな子ども(中学生、女子)がいた。……といっても、架空の中学
生と考えてほしい。いくつかの事例を、ひとつにまとめてみる。名前を、Yさんとしてお
く。

 ある日のこと、Yさんが、突然、こう言った。「帰ります」「タクシーを呼んでください」
と。あまりにも突然のことなので、驚いた。が、私はその場の雰囲気に負けて、タクシー
を呼んだ。

 あとで理由を母親に聞くと、母親は、こう言った。「あの子は、よそのトイレが使えない
のです」と。つまり「よその家では、大便ができない」と。

 こういうケースは珍しくない。わがままというより、ぜいたくざんまいに育てると、子
どもは、そうなる。いやなことはしない。きたない仕事はしない。つらい経験はしない。
世界が自分を中心に回っているかのように錯覚する。また世界の中心にいないと、気がす
まない。

 そのYさんは、よくこう言った。「先生は、教室の消毒をしていますか?」と。「どうし
て?」と聞くと、「机の上に、ホコリがたまっています」「壁にゴキブリのウンチのシミが
ついています」と。こまかいことを、そのつど指摘しては、おおげさに騒いだ。

 で、このタイプの子どもは、学習面でも伸び悩む。「学習」には、ある種の苦痛がともな
う。その苦痛を乗り越える「力」がない。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、ここではさらにその先を書く。

●自己同一性の危機

 このタイプの子どもは、やがて、自分を見失う。発達心理学の世界には、「自己の同一性」
という言葉がある。その「同一性」が、バラバラになってしまう。

 自分で何を、どうしたらよいかも、わからなくなってしまう。自分が何をしたいかも、
わからなくなってしまう。自己中心性が強いから、他人から、どのように見られているか
も、わからなくなってしまう。

 たとえて言うなら、糸の切れた凧のような状態になる。フラフラと風任せ。あるいはそ
のままドスンと下に落ちてくる。つまり非行の道へと、まっしぐら。

 Yさんは、教室へ入るやいなや、よくこう言った。

 「あんた(=私のこと)も、おかしな顔をしているね」
 「奥さんがかわいそう」
 「こんな暑苦しい部屋じゃ、勉強なんかできない」と。

 もちろん勉強など、しない。能力的には、かなり恵まれた子どもだった。頭もよかった。
しかしそれだけに、扱い方がむずかしかった。自分の非を棚にあげて、「ああでもない」「こ
うでもない」と、他人を批判した。

 Yさん自身も、「私はできるはず」という部分で、葛藤していたと思う。(プライド)と
(現実)のギャップの中で、もがいていた。

 一度、こう言ったことがある。「そんなにここへ来るのがいやだったら、お母さんに、そ
う話してあげようか」と。

 しかしそれについては、Yさんは、がんこに拒否した。心の中では、不満と不平が、ウ
ズを巻いていた。それから生まれる怒りを、私にぶつけていた。私を口汚くののしること
で、欲求不満を解消させようとしていた。私にも、それがよくわかっていた。

●非行

 で、このタイプの子どもは、一度、非行の道に入ると、そのまま、まっしぐらにその道
へと入ってしまう。(だからといって、非行が悪いというのではない。またそれでもって、
子育てに失敗したというわけでもない。誤解のないよう。)

 Yさんは、中学2年になるころには、性的経験をもつようになった。私には、雰囲気か
ら、それがよくわかった。ある日、筆入れの中に、子どもがもつようなものでない装飾品
が入っていた。それを私が指でつまんで、「これは何?」と聞くと、Yさんは、艶(なまめ)
かしい声で、こう言った。「ウフン……。いいじゃん……」と。

 私は親に話すべきかどうかで、迷った。しかし言わなかった。言えば、私と子どもとの
間の信頼関係は消える。信頼関係が切れた状態で、子どもの指導はできない。親の側から
相談でもあれば話は別だが、こういうケースのばあい、知って知らぬフリをする。性的経
験にしても、「疑わしい」というだけで、確証があるわけではない。

 では、どうするか?

●二番底に注意

 このタイプの子どもは、進むべき方向性をいっしょにさがしてやるのがよい。しかし先
にも書いたように、自分でも、どうしたらよいか、それがわかっていない。「あなた何をし
たいの?」と聞いても、「遊びたい」とか、「お金がほしい」とか、言う。そこでさらに、「ど
んなことをして遊びたいの?」「お金があったら、何を買うの?」と聞いても、その答がな
い。「わかんない……」とか言う。

 別の方法としては、スポーツや運動で、自分を燃焼させるというのがある。しかしこの
段階になると、それもしない。「いやだ」「できない」「したくない」の悪循環の中で、ます
ます遠ざかっていく。

 ……と書くと、「お先、真っ暗」ということになる。が、ここで待ってほしいのは、この
タイプの子どもは、その状態が、最悪の状態ではないということ。その「最悪」の下には、
さらにその最悪がある。これを私は「二番底」と呼んでいる。

 (この「二番底」「三番底」論は、はやし浩司のオリジナルである。どうか、無断で流用
しないでいただきたい。)

 たとえば非行といっても、いろいろある。(門限破り)→(外泊)→(家出)と進む。さ
らに(長期家出)→(同棲)→(性病、妊娠)と進む。

 わかりやすく言えば、「直そう」とは思わないこと。それ以上、状態を悪くしないことだ
けを考えて、対処する。あとは、時間を待つ。この段階で、あせって、何かをすればする
ほど、逆効果。私が言う、二番底、三番底へと落ちていく。

 その期間は、驚くほど、短い。ほとんどの親は、こう言う。「あっという間でした」と。
それこそ、1、2か月の間に、そうなる。それだけに、親が気づくということもない。「非
行に走る」という言葉がある。まさに「走る」という状態になる。

 で、子どもが非行に走ると、ほとんどの親は、「うちの子は誘われただけです」と言う。
「友だちが悪い」と。しかしよく調べてみると、その子ども自身が中心核になっていると
いうケースは多い。

●変化に注意

 さらに問題がつづく。子どもというのは、ウソをつく。仮面をかぶる。一方、親のほう
は、「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、子どもの変化を見逃してしまう。私の
経験からして、こういうケースで、子どもの姿を正確にとらえている親は、まずいない。

 Yさんにしても、父親の前では、借りてきた猫の子のように、おとなしかった。が、そ
の一方で、母親は、Yさんを溺愛していた。一度、こんなことがあった。

 私がYさんの希望進学校を聞いたときのこと。母親は、私にこう言った。「私からは聞け
ませんので、先生(=私)のほうから、聞いてください」と。私は、「ハア……」と言った
だけで、何も言うことができなかった。
 
 そのYさんについて言えば、極端にきびしい父親、極端に甘い母親の間で、(三角関係)
ができていた。つまり家庭教育そのものが、崩壊していた。

 結局、この問題は、行き着くところまで行く。行かなければ、親も気がつかない。この
問題だけは、子どもの問題というよりは、親の問題。親問題というよりは、家庭の問題。
子どもは、その(代表)にすぎない。

 が、だからといって、それでその子どもが、ダメになるわけではない。先に、「非行が悪
いわけではない」と書いたが、それは、そういう意味である。多かれ少なかれ、子どもと
いうのは、同じような道をたどりながら、やがておとなになっていく。この時期の失敗(?)
が、そのまま一生つづくということはない。

 さらに言えば、ドラ息子、ドラ娘ということになれば、日本の子どもたちは、みな、ド
ラ息子、ドラ娘ということになる。世界的な水準からすれば、そうである。ある母親は、
こう言った。

 「先生は、ドラ息子の話をしますが、私の夫が、そのドラ息子です。どうしたらいいで
しょうか?」と。

 しかし……。

 よいか悪いかということになれば、子どもは、ドラ息子、ドラ娘にしないほうがよい。
苦しむのは、結局は、子ども自身ということになる。それこそおとなになる過程で、「長く
て曲がりくねった道」(ビートルズ)を歩かなければならない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

育児ノイローゼ
When mother suffers from child-care neurosis.

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育児ノイローゼについては、たびたび
書いてきました。

原稿のほうは、ヤフー、グーグルの
ほうで、「はやし浩司 育児ノイローゼ」を
検索してくだされば、読んでいただけます。

以前、中日新聞で発表した原稿を、そのまま
紹介します。

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( 夫よ、妻を理解せよ!)

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子
ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたと
きのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも
熱湯。すんでのところで、下の子ども(2歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動
かなかった。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくな
ってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、
うつ病と診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育
園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになっ
た。食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。
昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をし
ていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会
ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、
「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめ
と泣き始めた。そしてこう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありま
せん。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれ
たことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶
力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪
失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)「ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロール
ができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につな
がることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多
い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんど
ない。脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつ
う」と思い込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状
が重くなってしまったり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってし
まうこともある。Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すこ
とができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。A
さんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関
心であった。それではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くこと
にした。この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

+++++++++++++++

ここでは、さらにつぎの段階に
ついて考えてみます。

+++++++++++++++

 当然のことながら、育児ノイローゼ、つまり、心がうつ状態になると、ものごとへの(こ
だわり)が、強くなる。ささいなことを気にして、それについて悶々と悩んだりする。悩
むだけならまだしも、ときに、人との接触を避けたり、反対に、周囲の人たちに、当たり
散らしたりする。

 ある日、突然、Cさんという女性から、電話がかかってきた。見知らぬ女性である。私
の電話番号は、近くの交番までやってきて、そこで知ったらしい。

 その声からして、ふつうではなかった。オドオドというか、サメザメというか、息子(2
1歳)のことについて、あれこれ言った。

 「よくない女性とつきあっている」
 「コンビニで万引きをした」
 「タバコを吸っている」
 「酒もよく飲む」
 「仕事は、高校を出てから、4回も変わった」などなど。

私「タバコを吸っている人は多いですよ」
C「でも、うちの子は、17歳くらいから吸っています」
私「みんなそれくらいからですよ」
C「20歳未満からタバコを吸うようになると、肺ガンになるといいます」
私「そういう説もあります」
C「私たちが生きているうちなら、何とかなりますが、私も、もうすぐ50歳です」
私「……」と。

 こういう押し問答が、延々とつづく。まさにああ言えば、こう言う式の相談がつづく。

私「で、よくない女性というのは、どういう女性ですか?」
C「夜は、スナックで働いています」
私「はあ〜。いまどき、そういうことを言ってはいけません」
C「水商売です」
私「だからね、それが偏見だということです。どうしてスナックで働くことが悪いことな
のですか」
C「……今は、そういう時代ですか? 私が古いのですか?」
私「そうですね。古いですね。戦前の考え方ですね。あるいは封建時代の身分制度の名残
かな? 職業によって、相手の価値まで判断してしまう」と。

 私は何度も電話を切ろうとしたが、こちらの都合など、まるで意に介さない。自分のこ
とだけを、ペラペラといつまでも話しつづけた。

 電話は、その翌日もかかってきた。そのまた数日後もかかってきた。朝、夜の区別もな
かった。

 こういう相談のときは、とにかく聞き役に徹するしかない。Cさんは、私に話すことで、
自分を整理する。心の中にたまったうっぷんを晴らそうとする。しかし私にも、(時間)と
いうものがある。

 いつだったか、どこかの小児科のドクターがこう言っていたのを思い出した。私が、「カ
ウンセリングはどこまでしていますか?」と聞いたときのこと、そのドクターは、こう言
った。

 「うちではしていません。看護婦も、10人いますから、そういう人たちの給料も稼が
ねばなりませんから」と。

 つまりカウンセリングといっても、1人あたり、最低でも30分ほどかかる。しかもお
金にならない。そのドクターは、それを言った。「現実には、不可能です」と。

 では、どうするか?

 育児ノイローゼといっても、たまたま対象が、「育児」、つまり「子ども」というだけで、
中身は、うつ病と考えてよい。心の病気。そういう前提で、子どもの問題というよりは、
母親自身の心の問題と考える。

 私は、Cさんの夫に電話をかわってもらった。幸い、おだやかで、静かな口調の人だっ
た。私は、「一度、心療内科かどこかへ、相談したらよいのでは……」と話した。夫も、す
なおにそれに同意してくれた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 育児ノイロー
ゼ うつ うつ病)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の矛盾(Contradiction of Mind)

When we see dead bodies of cats or raccoons, we avert our eyes from them. But in the 
house we don't hesitate to cook meat or pork without thinking anything. Isn't this a 
kind of contradiction of mind? Are human-beings a creature like this?

++++++++++++++

熱帯魚を飼うようになって、
もう25年近くになる。

が、その水槽が、突然、音を
たてて割れた(ワイフの言葉)。
中の水が、外に漏れた。

原因は、不明。

「どうしようか?」とワイフが
聞いた。
「もう、飼うのをやめようか」と
私。

生き物を飼うのは、たいへん。
それだけで、何かと束縛される。
それをこのところ、負担に思う
ようになっていた。

が、問題は、住んでいた魚たち。
ネオンテトラにコリドラスなど。

まさか殺すわけにはいかない。

ワイフは鍋の中に、熱帯魚を
移した。

「毎朝、小魚の佃煮を食べているのに……」
と私。

この矛盾!

この心の矛盾は、いったい、どこから
どう生まれるのか?

+++++++++++++

 道路で、タヌキかネコの死骸を見ると、思わず、目をそむける。その同じ私が、家の中
では、牛肉をまな板の上で、調理する。こうした心の矛盾を、いったい、どう理解したら
よいのか。数日前も、私の家で、こんなことがあった。

 熱帯魚を飼うようになって、25年近くになる。最初、飼い始めたのは、三男だった。
いや、私の方が先だったかもしれない。三男は三男で、私は私で、熱帯魚を飼うようにな
った。たがいに教えあい、いっしょに育てた。

 その間に、水槽は、数回、取り替えた。当初は、幅が80〜90センチもある大きな水
槽だった。が、だんだん小さくなって、そのときは、45センチくらいのものになってい
た。その水槽が、突然、音をたてて割れた。

 ワイフの話では、「突然、バリッという音がして割れた」とのこと。原因は不明。内外の
温度差に、ガラスが耐えられなかったのだろう。このところ、庭では毎朝、氷が張ってい
る。

 書斎にいると、ワイフから電話。「どうしようか?」と。つまり水槽を買い換えようか、
と。

 生き物を飼うのは、けっこう、たいへん。1泊旅行のときなども、エサのことなど、だ
れかにあれこれと頼んでおかねばならない。このところ、それを、少し重荷に感ずるよう
になっていた。「エサをあげた?」「まだよ」というような会話は、毎日、している。時と
して、エサをやり忘れることもある。

私「もうやめようか」
ワ「そうね……」
私「たいへんだしね……」
ワ「魚は、どうする?」
私「焼いて食べようか」
ワ「冗談でしょ」
私「うん」と。

 もちろん冗談でそう言ったが、そのとき、ふと、心の中で矛盾を感じた。その朝も、私
は、小魚の佃煮を、パクパクと食べた。数にすれば、100〜200匹近く食べたのでは?
 その同じ私が、ほぼそれと同じほどの大きさの熱帯魚の始末に、困っている。

ワ「だれか、もらってくれる人がいればいいけど……」
私「あの熱帯魚屋は、もう店を閉めてしまったしね」
ワ「どうしよう……?」と。

 こうした矛盾は、日常生活の中で、よく経験する。冒頭に書いた、(肉)の話も、そうだ。

 たとえばワイフは、テニスクラブに行くとき、車で行く。歩いても、10分もかからな
い距離である。「歩いていったほうが、ずっと運動になるのに」と思う。

 ほかにもダイエットがある。モリモリとたくさん食べたあと、下剤をのんだりする。

私「人間の脳みそも、いいかげんなものだな」
ワ「うん」
私「矛盾したことをしながら、それを矛盾とも思わない」
ワ「そうね。でも、やっぱり、ペットは殺せないわ。情が移っているから」と。

 で、あとで聞いたら、ワイフはその熱帯魚を、ペットショップにもっていったそうだ。「鍋
に入れたままもっていったから、笑われちゃったア」と。

 よかった。……ということで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2503)

●今日あれこれ(2月28日)

●私の義務(What I should do now for the children of the future)

+++++++++++++++

私にはやらなければならないことがある。
「死ぬまでに……」ということになるが、
はっきり言えば、そういうことになる。

家族の記録を残すこと。

いつかその日はやってくる。
明日かもしれない。
20年後かもしれない。

その日のために、今できることを、
しっかりとしておく。残しておく。

昨夜、ワイフにこう言った。
「いつかぼくが先に死んで、さみしく
なったら、ぼくのHPを見るんだよ。

ぼくは毎日お前が見ても、見きれないほどの
思い出を、そこに詰めておくから」と。

ワイフは、すなおに「うん」と言ってくれた。

+++++++++++++++

「♪千の風」も、よい歌だが、あれは幽霊の歌。幽霊でもない人間が、幽霊の歌を作っ
て、どうする? 子どもたちに、「あれは幽霊の歌だね」と声をかけると、みな、「そう
だよ」と言った。子どもたちでも、そんなことは知っている。

 ……とまあ、辛辣(しんらつ)な批評はさておいて、私にとって「千の風」とは何かと
問われれば、「千の原稿」と答える。「千のビデオ」でもよい。「千の音楽」「千の思い出」
でもよい。

 今、生きている私が、将来の家族のために、何かを残しておく。残すといっても、「風」
のような、つかみどころのないものではなく、記録。その記録を残す。役にたつかどうか
はわからないが、そのとき私の気持ちが、時空を超えてワイフや子どもたち、さらには孫
たちに伝われば、うれしい。「お前たちを、心底、愛しているよ」と。

 「今」は大切だが、私は、もう「今」にこだわらない。時として、私は20年後、30
年後の私に飛ぶ。もちろんそのとき、私はすでにいないかもしれない。が、それはそれで
かまわない。そう言えば、昨日、小6の子どもたちと(お別れ会)をした。みなに、写真
を渡した。私はその中に、こう書いた。

 『2050年1月1日、午後1時に、浜松城の前で会おう』と。

 2050年といえば、60+42=102で、私は102歳になっている。すかさず計
算して、子どもたちがみな、こう言った。「先生は、生きているの?」と。私は、「生きて
いるよ。心配しなくてもいいよ」と。

 今、こうして書いている文にしても、ひょっとしたら、子どもたちは、20年後、30
年後にどこかで読むかもしれない。そのとき、私の今の心と、子どもたちの心が、時空を
超えてつながる。それが重要。

 私はここにいる。この文章を読んだ君たちも、ここにいる。そう、私は、「♪眠ってなん
かいない!」。

 いつかその日はやってくる。明日かもしれない。20年後かもしれない。それは私にも
わからない。しかし、ともかくも今は、今を燃やしつくす。

 そのために私に残された時間は、あまりにも少ない!

★下Kさん(姉)へ、……あなたは予言どおり、幸福になっているよ。
★飯Nさんへ……あなたは予言どおり、長生きをするよ。
★K本さんへ……あなたは予言どおり、すばらしいお医者さんになっているよ。
★下Kさん(妹)へ、……あなたは予言どおり、日本一の作家になっているよ。
★O川さんへ、……あなたは予言どおり、ものすごくすてきな女性になっているよ。

Sage Hayashi and Mae Hayashi

Some day I wish you can read my articles when you grow up. Then my mind and your 
minds would be connected. Remember that your grandfather and grandmother once 
lived in Japan. We are with you now. Time is now Feb. 28th 2008.

誠司と芽依へ

いつかこれらの原稿を読んでくれるかな。お前たちの祖父母は、かつて日本に住んでいた
よ。お前たちがこの文章を読むとき、ぼくとお前たちの心はつながるよ。今、ぼくたちは、
お前たちとともにいるよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Sage Hayashi Mae 
Hayashi)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2504)

●私の中の「私」(Me in "Me")

+++++++++++++++

私の中には、もう1人の「私」がいる。
たしかに、いる!

たとえばだれかが私に親切にしてくれたとする。
すると、私は、それをうれしく思う。
そういう私は私。それが私。

しかし私の中には、もう1人の私がいて、
こう考える。

「この人は、何が目的なのだろう?」と。
あるいは、
「この人は、何を求めているのだろう?」と。

すなおにそれを喜べばよいのに、
いつももう1人の「私」が、それをじゃまする。

こうした現象は、どの人にも共通しているのか?
それとも、私だけに起こる現象なのか?

ワイフにそれを聞くと、ワイフには、それがないという。
私には、むしろ、そういうワイフが信じられない。

「もう1人の自分がいないのか?」と聞くと、
「いない」と答える。

「ほんとうにいないのか?」と聞くと、
やはり「いない」と答える。

が、私の中には、もう1人の「私」がいて、それが
私を操作する。

いじけさせたり、ひねくれさせたりする。
ときに自虐的な行為に走らせることもある。

そういうもう1人の「私」と、どうすれば、私は決別できるのか?
それをこのところ、よく考える。

恐らく、もう1人の「私」は、私が幼児期のころ、
生まれたものだと思う。

私の父は、よく酒を飲んで暴れた。
その恐怖が、私の中に、もう1人の「私」を作った。
言うなれば心のキズ。
そのキズが今も、深く、自分の心の中に残っている。

よく、「心のキズは消えますか?」と聞く人がいる。
だから私は、そう聞かれるたびに、私は、こう答えるようにしている。

「一度、ついたキズは、消えません。忘れることは
できますが、消えません」と。

私自身が、その経験者ということになる。

しかし方法はないわけではない。
まず、自分の心の中にあるキズを知る。敵を知る。
知れば、あとは時間が解決してくれる。
キズの程度にもよるが、時間が解決してくれる。

そしてもう1人の「私」が顔を出したら、自分にこう言って
聞かせる。
「これはほんとうの私ではないぞ」と。

あとは忘れる。あとは、仲よく、つきあう。

心のキズというのは、そういうもの。

が、私のワイフのような人間のほうが、少ないのではないか?
このことは、子どもたちを見ているとよくわかる。

いじけたり、ひねくれたり、ひがんだり、嫉妬したり……。
そのつど別の「私」に、操作される。
そんな子どもは、多い。

みんな、多かれ少なかれ、何らかのキズを引きずりながら、
生きている。

これは自己弁護か?


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●涙、ボロボロ

YOU TUBEで、サーフィンしていたら、
突然、「♪若者たち」をヒットした。

偶然だった。

以前にも何度か検索したことがあったが、ヒット
できなかった。

見ると、最近、だれかが、UPLOADしてくれた
らしい。

見たとたん、聴いたとたん、涙、ボロボロ。
学生時代の自分に、そのままタイムスリップしてしまった。

うれしかった。何度も聴いた。何度もいっしょに、歌った。


●法の番人とは何か?
*What is the watchman of the Law?
We, the Japanese, support the arrest of K. Miura by the L.A. Police Headoffice. If it is 
wrong, then we will ask what the watchman of the Law? We can not forget that one 
woman was murdered by someone. All of us know who murdered her, but no one can 
speak out of his name. Is this fair? Please do your job and make clear who murdered her. 
This is the justice we want, and the justice we, the Japanese could not do. According to a 
eyewitness of the place, a white ban stopped in front of him and when the ban went 
away, there had left two men there, one was lying on the ground and the other was 
crying for help. How can K. Miura explain about this fact? The ban was there, since the 
part of the car photoed by his own camera. This is the fact. Here again we support your 
having arrested his for the suspicion of the murder.

++++++++++++++++

MK事件では、当初から、MKなる人物自身の
犯行が疑われていた。

それについて、ロス市警のジャクソン捜査官は、
会見の席で、「殺人現場を目撃していた、第3者
がいた」と、つぎのように述べている(産経ニュース)。

「彼のあずかり知らないことだが、現場から
1ブロックに位置する高層ビルから、事件の
一部始終を目撃していた第三者がいた。彼らの
車両に関する証言は、MK容疑者の供述と
全面的に異なっていた。これが、当時の捜査の
詳細である。そして基本的に、これが現在の
流れである」と。

記者の「その目撃者らは、実際の銃撃を見たのか?」
という質問に対しては、

「現時点でいえるのは、1台の車が止まり、
視界をブロックしていた。その後、バックして、
そして2人が倒れていた、ということだ」と。

つまりその目撃者の話によれば、1台のバンが
止まった。
そしてそのバンが立ち去ったとき、MKという
男性と、その妻が、そこに倒れていたということ
になる。

この目撃した男性は、当時のテレビ報道などでも、
同じような証言を繰りかえしてしていた。

が、ひとり、「無実だ」「えん罪だ」と、息巻いて
いるのが、MKという男性の弁護をしてきた、
HN弁護士。

「あってはならない不当なことだ。前の刑事事件の時に
日本とアメリカの捜査当局が連絡しあっていたことを
含めて言えば、ダブルでやるのはおかしな話」(産経ニュース)と。

MKという男性が、日本の裁判所で無罪になったのは、
要するに、物的証拠がなかったこと、実行者が特定できな
かったことによる。

しかし当日、(白い)バンは、そこにあった!
MKという男性自身が撮った写真の中に、そのバンの
一部が写っていた。

もちろんMKという男性自身は、そのバンのことを否定
している。

ならば私は、HN弁護士に問いたい。
「いったい、法とは何か?」「法の番人とは何か?」と。

「法的正義とは何か?」と言いかえてもよい。

枝葉末節の法論議に始終し、事実そのものを見ようとしない。
そして法を武器に、事実を押し隠して、被告人の利益だけを
優先させる。

大切なことは、1人の人間が、実際に殺害されているという
その事実。
そのすぐそばに、MKという男性がいたという事実。
だったら、MKという男性に、真実を話させるようにし向ける
のが、弁護士、つまり法の番人の役目ではないのか。
その真実を明らかにすることこそ、法の番人の役目ではないのか。
あるいは百歩譲って、その「矛盾」を説明するのが、法の
番人に役目ではないのか。

何も被告人の不利益になるようなことをせよというのではない。
もう少し、1人の人間が殺害されているというその事実に、
謙虚になるべきではないかと、私は言っている。

「私はあなたを弁護士として弁護したが、ここから先は、あなた
自身の良心の問題だ」と。

裁判所の中で法的正義を貫くのは、それは職務。しかし裁判所を一歩
出て、一般社会の中で、MKという男性の無罪を主張するのは
どうか?

HN弁護士は、「MKさん」と(さんづけ)で呼びながら、
「弁護士が決まるまでの間も、言うことはきちんと言って、
向こうの言いなりになってロスで裁判することを認める必要はない
と伝えた」とか、「当然、選ばれた弁護人は逮捕の不当性を訴えて
いくことになる」とか、述べている(※)。

またHN弁護士は、「あってはならないこと」と言っているが、
では、殺された妻は、どうなのか?
それはあってはならないことではないのか?

繰りかえすが、1人の人間が殺されている。
その事実は、どうなるのか? 「30年近くもたってから、再裁判は
おかしい」と言うことこそ、おかしい。
30年たったら、死んだ人は生き返るのとでもいうのか?

私は、ロス市警の再裁判を、支持する。
その声を届けるため、英文で、この原稿を、ロス市警の掲示板に
送る。

(付記)

最近では、子どもたちにカメラを向けただけで、子どもたちは
こう叫ぶ。

「肖像権の侵害だ」「慰謝料を請求する」と。

悪しきテレビ番組の影響である。

「法」というのは、何かあったときに、表に出てくるもの。
「最初に法ありき」という考え方は、法律家たちの
ゆがんだ意識から生まれる。まちがっている!

「法」を信奉するあまり、法を本尊よろしく、カルト化する。

私たちは、法を盾に取る前に、人間である。
それを忘れて、法は、ない。

たとえば常識で考えて、「おかしい」と思ったとき、
そこに法が登場する。

常識をゆがめるために、法を利用してはいけない。
それは法律の専門家を自称する人たちの、
最低限のモラルではないかと、私は思う。

(注※)産経ニュース(2・26)
 『MK容疑者(60)の日本での弁護を担当していたHN弁護士は27日、MK容疑者
のサイパンでの弁護士選定作業について「MKさんは手持ちの金をそれほど持っているわ
けではなく、(私選で選ぶとすると)もう少し長引くだろう」との見解を示した。

 その上で「弁護士が決まるまでの間も、言うことはきちんと言って、向こうの言いなり
になってロスで裁判することを認める必要はないと伝えた」と説明し「当然、選ばれた弁
護人は逮捕の不当性を訴えていくことになる」と語った』。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【インターネットの世界】

●時空を超えて……(Beyond Time and Distance)
To Mae and Sage and other G-sons and daughters, I am talking to you beyond time and 
distance. Can you hear me? Can you feel me? In case when you wish to meet me, please 
visit my websites where you can meet me. Now is the year of 2008, when I am just 60 
years old. Time flies quick. Don't waste your time! Hiroshi, your G-father.

+++++++++++++++++

この数日間、ヒマをみつけては、
「MUSIC & I」のコーナーを
充実させている。

YOU TUBEで配信されている
音楽や動画へ、私のHPから、直接
ジャンプできるようにしている。

その編集をしながら、ふと、こんなことを考えた。

もし私か、ワイフか、どちらか、ひとりが残されたら、
このコーナーは、役に立つだろうな、と。
つまりどちらかが先に死んでしまったら、
残されたほうにとって、役にたつだろうな、と。

どちらか一方が、認知症か何かに
なったようなばあいでもよい。

きっとこのコーナーを見て、過去を思い
出すにちがいない。
脳みそにとって、よい刺激になるかも
しれない。

とくに2人でいっしょに見た映画などは、
そうである。
いくらそのときは感動しても、そのまま
にしておいたら、その映画の題名はもちろん、
内容まで忘れてしまう。

ときどきその断片でもよいから見たり、聞いたりして、
思い出す。感動を新たにする。

そこで私は、インターネットの新しい
使い方を考えついた。

60歳をすぎるころになったら、思い出の
写真や映像を、どんどんとYOU TUBE
などの、画像登録サービスに載せておく。

そしてその映像や画像を、自分のHP上から
いつでも見られるようにしておく。

こうすれば、どちらか一方が、ひとりぼっち
になっても、さみしく思うことはない。

たぶん、年齢からして、また男の平均寿命は
女より短いから、私の方が、先に、あの世へ
行く。

認知症についても、私より、ワイフのほうが、
あぶない?

だったらなおさら、将来のワイフのために、
そういうコーナーを用意しておくことは、
悪いことではない。

さらにこんなことも考えた。

いつか息子たちや孫たちが、ひょっとしたら、
私のHPをのぞいてくれるかもしれない。

そんなとき、そういうコーナーがあれば、
息子たちや孫たちは、そこに収録されて
いる私の画像や声を聞いて、何かの参考に
してくれるかもしれない。

言うなれば、今、私は未来の息子や孫たちに、
そしてひょっとしたら、ひ孫たちに、時空を
超えて、語りかけていることになる。

こんなケースを考えてみよう。

西暦2080年。私のひ孫たちの世代が、
壮年期を過ぎて、老年期にさしかかる。

そのときインターネットをとおして、
私のHPを見る。私の映像を見たり、
声を聞いたりする。

そのとき、孫やひ孫たちが、「おじいちゃんだ」
「これはぼくの、ひいおじいちゃんだ」と言う。
英語では、「Oh, this is my grand grandfather!」と。

あるいは自分自身の未来に語りかけることもできる。
10年後の自分、あるいは20年後の自分自身に、
である。

いろいろな使い方が考えられる。

が、ひとつだけ、問題がある。
そうしたHPをしっかりと管理してくれる
会社なり、組織が必要だということ。

私は現在、無料のHP配信サービスをいくつか
使っている。が、3か月以上、アクセスがなければ、
廃止するという規約がある(N社)。

3か月以上、だれも見てくれなければ、廃止される
ということ。

さらに携帯電話用HPについては、3か月以上、
更新がなければ廃止されてしまう(F社)。

もちろん有料のHP配信会社のばあいは、
まさにカネの切れ目が、縁の切れ目。

こういう問題を、どう克服するか?

方法としては、未来の人たちにも役立つような
HPにすること。
そうすれば、だれかが見てくれる。アクセスが
1〜2件でもあれば、HPが廃止されてしまう
ということはない。
しかしそれは可能なのか?

ところで、2008年になって、原稿に、英文のガイダンスを
書き加えるようになったのは、言うまでもなく、
孫たちのために、である。

父親(=私の息子)が日本人だからといって、
孫たちが日本語を話せるようになるとはかぎらない。
ときどき、インターネット電話(Skype)で
彼らと話すが、日本語がまったく、通じない。

日本語の読み書きなどは、夢のまた夢。

それで私は、英語のガイダンスを書き加えるようにした。
いつか孫たちが、読んでくれるかもしれない
からである。

……とまあ、いろいろ考えている。考えながら、
いろいろな方法を試している。

今は、何とか元気だから、その元気なうちに、
いろいろなことをしておこう。

とりあえず、「MUSIC & I」コーナーを
充実させる。

つぎに、孫やひ孫たちのコーナーも用意する。
アルバムの写真を、スライド化して、それを
YOU TUBEに載せておく。

……どこか、死ぬ準備をしているような感じも
しないではないが、ここは明るく前向きに
とらえていこう。

(補記)

「HPの50年間、保存サービス会社」というような会社を作れば、
新しいビジネスになると思う。
50年もすれば、また別の新しい方法が考えられるようになる
だろう。だから今のところ、「50年」でよい。

聞くところによれば、政府主導で、日本中のHPを、そっくり
そのまま保存するというしくみも、考えられつつあるそうだ。

本などは、すでにそういう方法が実行に移されている。

なお有料のHP登録サービスについては、登録料の先払いができない
ものかどうか、今度、確かめてみる。
「50年分、先払い」というのは、どうだろうか?

(補記2)

インターネットは、(距離)という垣根を取り払ってくれた。

以前は、手紙を交換するだけでも、4、5日はかかった。外国の
ばあい、10〜14日は、かかった。
が、それが今では、瞬時、瞬時にできる。

しかしそれだけではない。

今や、インターネットは、(時間)という垣根すら、取り払おうと
している。

私は、こうして未来に向かって話しかけている。未来の孫やひ孫
たちに向かって話しかけている。

もう少しすれば、簡単な会話さえできるようになるかもしれない。
相手の質問などに応じて、用意しておいた返事を選んで、表示
するとか、など。

たとえば、ひ孫が、「ひいおじいちゃん」と語りかけてくれたら、
「何だ?」と答えるなど。

もちろんそのとき、私は、もうこの世にいない。しかし孫やひ孫
たちは、あたかも私がそこにいるかのように感ずることができる。

これは考えるだけでも、ワクワクするほど、楽しいことではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Sage Hayashi Mae 
Hayashi 林誠司 林芽衣)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●老後(+老化)との闘い
(Young Old men should fight against getting old.)

晩年の母は、毎日、仏壇の仏具ばかり、磨いていた。
私はそれを見るたびに、「老後は、そうであってはいけない」と、
いつも、そう思っていた。

母には、母の思いというものがある。それはわかる。
そういう行為がまちがっているというのではない。
しかし同時に、人は、歳をとればとるほど、新しい
記憶を忘れてしまうものらしい。
忘れるというよりは、消えてしまう?

たとえば今、母の記憶の中には、私の父と結婚してからのものは、
ほとんど、ない。
見舞いに行くたびに、「家へ帰る」という。
母にとって、「家」というのは、自分が生まれ育った、K村にある
実家をいう。

そういう母の姿は、そのまま、私の未来像でもある。
私もそうなる。あなたもそうなる。私のワイフもそうなる。
例外はない。

そこでひとつの試みとして、新しい記憶を、古い記憶に負けないほど、
強烈に、自分の脳みそに焼きつけてみるというのは、どうだろうか。

その方法のひとつとして、新しい記憶を、繰りかえし呼び戻す。

たとえばアルバムを繰りかえし見る。
くりかえし見るというのがたいへんなら、スライド化して、パソコン上で
いつでも見られるようにしておく。

そうすれば、ちょうど母が仏壇の仏具をみがいていたように、
自分のアルバムを見ることができる。
見ることによって、最近の記憶を、呼び戻すことができる。

これはまさに、脳の老化との闘いといってもよい。
自分の脳みそを、けっして、腐らせてはいけない。
いつも新しい情報に触れ、刺激を与える。
どこまでできるか、実のところ、私にも自信はない。
自信はないが、しかしやるしかない!

……そういう点でも、パソコン+インターネットというのは、役に立ちそう。
おおいに活用して、老後を、心豊かに送りたい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●インターネット遺言+墓地(Graveyard in Virtual Reality)

In near future we will have a kind of virtual graveyard where we can store our own 
whole life in it. The bereaved will open the files and read and see them whenever and 
wherever they want to do it. When I die, please come and see me in the files stored in
 the internet. I am not in the grave. 

ついでにインターネット遺言とか、インターネット墓地というのは、
どうだろうか。

どこかのインターネット会社に、遺言を管理してもらう。
「遺言」といっても、財産の管理だけではない。
自分の(思い)や(願い)を、管理してもらう。

遺族は、それを読んだり、見たりする。
あるいは葬儀の席で流してもらう。

葬儀屋「これから故人自らが制作したビデオを流します。一同、礼拝!」
とか何とか……。(楽しいね!)

歳を取ってヨボヨボになってからでは遅い。
まだ元気なうちに、ビデオを制作して、それをインターネットのどこかに
ストーレッジ(保管)しておく。

さらに、インターネット墓地というのも、考えられる。
その人の過去、経歴、実績などを、やはりインターネットのどこかに、
ストーレッジしておく。

故人に会いたくなったら、その墓地を訪問すればよい。

「やはり遺骨が大切……」と考える人には、この方法は向かない。
しかし大切なのは、中身。その人自身。思想、信条、哲学、生きざま……。

……ということで、インターネットの発達は、現在、私たちが
もっている死生観まで変えてしまう可能性がある。

さらに宗教観まで変えてしまうかもしれない。

インターネット墓地というのは、ずっと先の話かもしれないが、
インターネット遺言というのは、そのうちどこかのサービス会社が
始めるかもしれない。

けっして荒唐無稽なことを書いているのではない。
この私にしても、この5年間だけでも、2万枚(40x36字)
以上もの原稿を書いた。
しかしそんな原稿にしても、1枚のDVDディスクに、軽く収まってしまう。

たった1枚だぞ!

あと10年もすれば、マッチ棒の先ほどの大きさの記録メディアに、
その人の一生の記録さえ残せるようになるかもしれない。

それがその人の「遺骨」ということになる。
それをどこかのインターネット・サービス会社が保管、管理する。
そういう時代は、すぐそこまで来ている!

個人的な意見を書き添えるなら、私は、自分の遺骨には意味はないと思う。
もし私が死んだあと、私のことを思い出してくれるというのなら、墓ではなく、
パソコンの前に座ってほしい。
パソコンをたちあげて、「はやし浩司」を検索してほしい。
そこに少しでも私の原稿が残っているなら、それを読んでほしい。

遺骨について言えば、散骨でも何でもよい。
もちろん仏壇もいらないし、墓もいらない。
葬式にしても、「いつ死んだかわからない」というような雰囲気で、
こっそりとしてほしい。

「千の風」をもじるなら、こうなる。

♪私のお墓の前で、泣かないでください。
 そこに私は いません。
 眠ってなんかいません。
 パソコンの中にいて、無限の
 電子の世界にいます。

 もし私に会いたくなったら、
 パソコンを開いてください。
 いつでも、私は、あなたと話をすることが
できます。

たぶん、私が先に死ねば、ワイフが寂しがるだろうから、(あるいは
喜ぶかな?)、今のうちに、私の記録を、できるだけたくさん残して
おこうと考えている。

「MUSIC & I」というコーナーを更新しながら、
そんなことを考えた。

My wifeへ、

お前と見た映画は、すべて収録しておくよ。
お前が好きだった音楽も、すべて収録しておくよ。
いつかぼくが死んだあと、さみしくなったら、
このコーナーを見てほしい。

ついでに、お前の好きな音楽を載せて、
アルバムの中の写真をスライド化しておくよ。

ぼくは、お墓の中なんかにはいないよ。
死んでもいないよ。
ぼくはいつも、ここにいて、お前のそばにいるよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist インターネット墓地 イン
ターネット遺言 バーチャル墓地 バーチャル天国)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(2月25日)
More than 100 thousands accesses to my websites and blogs have been counted, for 
which I thank you very much. It encourages me a lot.

●BGM

ビデオを制作するとき、いちばん困るのが、BGM。
バックにどのような音楽を使うかで、けっこう、悩む。

編集ソフトに付録でついてくる音楽を使うことが多いが、
どこか物足りない。安っぽい。
そこで30年とか、40年前に発表された音楽を使う。

日本のばあい、著作権は、「保護期間」として考えられている。
原則として、その保護期間は、著作権者の死後、50年。
音楽著作物も同じように考えられている。

さらに映画や写真については、「公表してから何年」という
ふうに考えるのが一般的だそうだ(Yahoo知恵袋)。

原則として、50年以上。映画については、70年以上
ということらしい。

そこで音楽などを借用する人は、BGMに少し手を加えたり
することが多い。わざと雑音を挿入したり、途中で音楽が
切れるようにしたりする。
「雑音」というのは、人の声や、風の音などをいう。

もちろん個人として許された範囲で、使ったり、楽しんだり
する分については、問題はない。
問題は、YOU TUBEなどの配信サービスを使って、ビデオを
公開するばあいである。

もっともYOU TUBEで配信すると、音質が、かなり落ちる。

で、YOU TUBEのばあい、そのせいか音楽については、それほど
うるさくない。が、画像については、かなりシビア。
性的描写などが一部でもあると、即、削除される。

が、それでもいざ借用するとなると、気が引ける。

そこで今日から、BGMには、息子たちが作曲、演奏した音楽を
使うことにした。これなら、だれにも文句は言われないはず。

で、二男のBLOGから、15曲あまりを、今日、ダウンロードしてみた。
CDに一度、焼いた。が、それに喜んだのが、ワイフ。
そのあと、ずっと、そのCDに耳を傾けていた。

今夜あたり、そのうちの一曲を使って、ビデオを編集してみるつもり。

●時間がない!

が、ここでまた別の問題。
こうしてワクを広げていくと、それが、どんどんと、際限なく広がってしまう。
「あれもしたい」「これもしたい」となる。

おかげで、昨夜は午前1時ごろまで、パソコンと格闘した。
今朝は、なんと、6時起き。
こんな日が、このところ毎日のようにつづく。

忙しいというより、時間がない。

で、ひとつ心配なことがある。
このところ、またまた乱視が進んでいるようだ。
先日、DVDを見ていたら、画面上の文字が二重に見えた。
メガネをかえて、まだ半年くらいしかたっていない。
目をあまり酷使すると、失明!、ということにもなりかねない。
そういう話も、よく聞く。

ただそれも、ストレスがあるばあい。
私のように、楽しんで(?)、目を使っているばあいには、
だいじょうぶ(?)。
自分にそう言い聞かせながら、パソコンに向かっている。

●励み

先日、私のHPやBLOGへのアクセス件数を計算してみた。
結果、月間で、軽く10万件を超えているのがわかった。
たとえば1月に開設した、「音楽と私」のコーナー(ページ)だけでも、
毎日500件〜ものアクセスがある(08年2月)。

月になおすと、そのコーナーだけで、1万5000件ということになる。
BLOGは、「楽天日記」のほか、「GOO BLOG」、「はてな」など、
4か所から発行している。
それぞれに、毎日300件近いアクセスがある。
月になおすと、約3万6000件となる。

もちろんHPへのアクセスもある。
現在、メインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6つほどある。
それぞれに、毎日、200〜400件ほどのアクセスがある。
300件で計算しても、300x6x30で、約5万4000件。

以上で、計、10万件以上!

ほかにカウンターでは把握できないアクセスも、ある。
たとえば何か、別の検索文字で検索して、どこかのページに
ジャンプしてくる人もいる。
だから実際には、もっと多いはず。

そこでHPサービス会社によっては、アクセス件数ではなく、ダウンロードした量で、
それを表示してくれるところもある。
たとえば同じ1件でも、あちこちのページをていねいに読んで
くれた人がいたとすると、ダウンロード量は大きくなる。
件数よりも、ダウンロードした量こそ、大切というわけである。

また同じ1人の人が、毎日、何回もアクセスしてくれるということもある。
だからもちろん10万件イコール、10万人ということではない。

それはわかっているが、しかしそれにしても、すごいことだと思う。
実感はないが、すごいことだと思う。

HPをはじめて、開設したころは、1日、多くて、30件とか40件だった。
それが今では、1日、3300件以上!

ますますやる気が出てきた。ホント!

●だからどうなの?

件数がふえたからといって、それがどうなの?、と思う人もいるかもしれない。
それには、こんな悲しい物語がある。

今から30年ほど前には、本というと、初版でも、6000部とか、1万部は
印刷してくれた。

しかし年を追うごとに、どんどんと部数が少なくなり、多くて3000部という
時代になった。

大手の出版社では、今でも、1万2000部とか、それ以上のところもある。
しかしそれは実績のある人の本についての話。
私のように実績のない者については、そうはいかない。
それでいつの間にか、3000部ということになってしまった。

しかし3000部というのは、最低限。
全国の書店に1冊ずつ、やっと並べてもらえるか、もらえないかという
部数である。

「3000」という数字は、そういう数字をいう。
それがまた、私が「3000」という数字にこだわる理由でもある。

わかりやすく言うと、「せめて3000部は売りたい」という思いが、
「1日に、3000件もアクセスがある」という喜びにつながっている。

「だから、それがどうしたの?」と言われると、私も困るが、
私にとって、「3000」という数字は、そういう数字である。

わかってもらえましたか? プラス、みなさん、ありがとう!

●音質

YOU TUBEの音質については、これはもっぱら、スピーカーの
性能によるところが大きい。

良質の音質を楽しみたかったら、それなりのスピーカーにする。
これはこの世界での、常識。

というのも、ときどき私のワイフが私の書斎をのぞいて、こう言う。
「同じ曲なのに、どうしてあなたのは、そんなにも音質がいいの?」と。

ワイフのパソコンのスピーカーは、外付けだが、4、5000円のもの。
私のは、値段は忘れたが、2万円前後はした。音の深みがちがう。
低音部では、ビリビリと腹の底まで、音がしみこんでくる。

ノートパソコンでは、よい音は楽しめない。
「どうも音が割れる」と感ずる人は、一度、外付けのスピーカーの購入を
考えてみては?

●「♪そよ風をあなたに」

昨夜、息子が作曲、演奏した曲を使って、新しいビデオを作ってみた。
勝手に、私のHPのテーマ曲にしてしまっている。

短い曲だが、秀作だと私は、思っている。(親ばかかな?)
息子はこの曲を、高校3年生のとき作曲した。

で、この曲を聴くたびに、私は、こう思う。
「どうしてもっと、こういう才能を伸ばしてやれなかったのか」と。

興味のある人は、どうか聴いてみてください。(↓クリック)

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM&eurl=http://hiroshihayashie.ninja-web.net/
page023.html
(♪そよ風をあなたに)

<object width="425" height="355"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&rel=1"></param><param 
name="wmode" value="transparent"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&rel=1" 
type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" 
height="355"></embed></object>


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●今朝・あれこれ(2月24日)
Who killed his wife? We are very much interested in the MK' case.

The American investigation authorities arrested MK for the murder suspicion. His 
suspicion has been proved innocent in the Japanese court but why now? According to 
today's morning newspaper he was arrested because the investigation authorities have 
found a new proof about his case.

+++++++++++++++++

昨日は、「子育てはじめの一歩」(PHP版)を、
そのままホームページにUPLOADした。

生協ルートで販売した本なので、書店には並ばなかった。
で、発刊日付を見ると、1995年となっていた。

ちょうど13年前に出した本ということになる。
「長いようで、短かった」「短いようで、長かった」。
私にとっての、「13年」というのは、そういう
年月である。

第1章と第2章を、とりあえず、公開した。
それでも作業が終わるのに、3時間ほどかかった。

一度、スキャナーで1頁ごと、スキャンする。
それをFrickrにUPLOADする。
登録画像から、埋め込みようのアドレスを取得して、
1頁ずつ、HPに張りつける。

直接HPに載せるという方法もあるが、画像の質が
悪くなる。
HPに負担がかかりすぎる。……ということで、
私は、この方法を使っている。

興味のある人は、(はやし浩司のHP)→(ここが
子育て最前線)→(子育て、はじめの一歩)を
のぞいてみてほしい。

++++++++++++++++++

●ロス疑惑(Who killed his wife in L.A.?)

 今朝の新聞に、MKという男性が、アメリカのサイパン島で身柄を拘束されたという記
事が載っていた。MKといえば、あの「ロス疑惑」の主人公である。当時私たちは、毎日、
テレビのワイドショーに釘づけになった。

 が、ロス疑惑については、無罪。最高裁でも、無罪が確定している。無罪ということは、
無罪。事件そのものがなかったということになる。だからここでも、本来なら、MK氏と、
「氏」をつけて書かねばならない。しかしどうも、すっきりしない?

 話は変わるが、「思考回路」という言葉がある。大脳生理学の本などには、「思考プロセ
ス」と書いてあることが多い。それぞれの人は、みな、それぞれちがった思考回路をもっ
ている。

 たとえば私のような(もの書き)は、何か問題が起きると、それを文章にして解決しよ
うとする。(問題)と(ものを書くこと)を、直接的に結びつける。

 一方、たとえば暴力団の男は、(たぶん?)、何か問題が起きると、それを暴力によって
解決しようとする。(問題)と(暴力)を、直接的に結びつける。

 これが思考回路である。

 そこで私の頭の中をさがしてみる。さがしてみるが、どこをどうさがしても、(殺人)と
いう思考回路はないことがわかる。今までにも、心底、憎く思った人は、何人かいた。が、
そういうときでも、「死ねばいい」とは思ったが、「殺してやる」とまでは、思わなかった。

 さらに「殺してやる」と思うことと、それを実行に移すということの間には、距離があ
る。その距離がある間は、人は、殺人など、しない。つまり殺人を実際に実行する人とい
うのは、そういう点で、ふつうの人とは、かなりちがう人と見てよい。どこがどうちがう
かということは、私にもよくわからないが、ともかくも、ちがう。

 だからといって、MKという男性が、どうこうというのではない。繰りかえすが、MK
という男性は、無罪である。無罪であるということは、事件そのものが、なかった。そう
いう前提で、考える。しかしこと、思考回路ということになると、MKという男性は、ふ
つうの人とは、少しちがった思考回路をもっていると考えたほうがよい。

 事実、妻殴打事件では、有罪になり(※1)、6年の刑に服している。その事件では、1
人の女優と共謀して、妻を殺害しようとしたという。ロス疑惑は、その殴打事件の延長線
上に浮かんできた。「延長線上」というよりは、ロス疑惑を追及していたら、殴打事件も出
てきたというほうが、正しい。

 さて、どうなるか? 明日あたりから、再びテレビのワイドショーは、にぎやかになる
ことだろう。新聞の報道によれば、「新証拠が出てきたから、身柄拘束に踏み切った」(中
日新聞2・24)とある。新証拠とは何か? 

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える(2月24日)。

「アメリカ・ロサンゼルス市で1981年に起きた妻銃撃事件で、同市警に殺人容疑な
どで逮捕されたMK容疑者(60)について、アメリカ捜査当局が日本の捜査当局に『新
証拠が見つかった』と説明していたことが24日、分かった。

 日本では2003年に無罪が確定したが、ロス市警は地道に捜査を継続。新たな証拠で
一気に進展し、逮捕に至ったとみられる。

 MK容疑者の逮捕は23日夜、米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版)が報道し、その
後、市警も正式発表した。

 日本の捜査当局が説明を求めた際、アメリカ当局側は、逮捕理由について、新証拠が見
つかったことを明らかにしたという。

 MK容疑者は22日午後、サイパン島の空港で逮捕された。ロス市警の未解決事件担当
班が同容疑者のサイパン入りの情報を入手、サイパンとグアムの地元当局と共同で捜査
していたとされる」と。

(※注1)60年5月元女優がKさん(妻)殺人未遂事件への関与を公表、元女優ととも
に同年9月、Kさん殴打事件の容疑者として逮捕される。
 
62年8月Kさん殴打事件に関して、東京地裁により懲役6年の実刑判決が下る。のち
同事件に関して東京高裁より再び懲役6年の実刑判決が下る。MKという男性は、現在、
その服役を終えている。

(追記)

 ついでながら、なぜ、MKという男性は、日本では、無罪になったか?

 MKという男性は、日本での控訴審では、「共犯者との謀議や実行犯が解明されていない」
ということが理由で、無罪になった(平成10年)。

 つまり共犯者とどの程度、謀議を重ねたのか。どちらが実行犯だったのか。それが解明
されなかったから、無罪になった(産経新聞2月24日※2)。

 こんな事例がある。

 2人の、どこからどう見ても、そっくりな双子の姉妹がいた。

 その2人のうちの1人が、1人の男を殺した。もう1人は、そのとき、その現場にいな
かった。ちゃんとしたアリバイがあった。

 双子の姉妹は、2人とも、「私は殺していない」と主張した。2人とも、「その現場には
いなかった」と主張した。

 こういうケースのばあい、日本の刑法によれば、2人も、無罪になる。かりに2人の間
に、謀議があったとしても、実行犯が特定できないからである。

 が、アメリカのカルフォルニアの州法によれば、2人が共謀したことさえ立証できれば、
2人も有罪ということになる。カルフォルニアの州法によれば、実行犯の特定は不要だか
である(同紙)。

(注※2)

「カルフォルニア州では、2人以上が犯行を共謀したことを立証できれば、実行犯の特
定は不要で殺人共謀が成立。日本では『共犯者との謀議や実行犯が解明されていない』(平
成10年控訴審判決)ことが無罪の理由とされただけに、カルフォルニア州の低いハー
ドルの殺人謀議が適用されたことで有罪立証が現実的になった、との見る向きも出てい
る」(産経新聞)

(補記)(2月26日)

 やはり予想していたとおり、MK事件は、がぜん、騒がしくなってきた。MKという男
性に殺害されたかどうかは別にして、被害者であるKさんの母親は、こう言っている。「よ
かった」「MKの顔は見たくもない」(中日新聞)と。

 MK事件というのは、そういう事件である。

 で、それにしても驚いたのは、そんなMKという男性にも、支援者がけっこう、いると
いうこと。そういう支援者たちが、「不当逮捕」と、息巻いている。「ヘエ〜?」と思った
だけで、私にはつぎの言葉が出てこない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●22人の脱北者(22 North Koreans who escaped from the country)
22 North Koreans might have been already executed after they were sent back to North 
Korea. These people, including children and women of some families, escaped from 
North Korea and captured by South Korean Navy ship. They were sent back to North 
Korea less than in three hours. In case they had been executed already, the present 
President of South Korea should have whole responsibility for it. 

2008年2月8日、未明、22人の脱北者と思われる
北朝鮮の人たちが、韓国側の海域で漂流していたところ、
韓国軍によって、身柄を確保された。

北朝鮮では、船に女や子どもを同船させることは禁じられて
いるという。脱北を防ぐためである。
そんな常識を知ってか知らずか、その22人の脱北者と思われる
人たちは、その3時間後には、韓国軍兵士によって、北朝鮮へ
と送り返されてしまった。

その後の報道によれば、その22人たちは、すでに処刑されて
しまったという。

また韓国軍がそれらの人たちを送り返した理由として、北朝鮮側から、
遭難連絡があったからだという。すみやかにそれらの人たちを保護し、
北朝鮮へ送り返すよう、ホットラインを通して、要請があったからだという。

これに対して、韓国国内はもとより、世界中から、非難の声があがって
いる。「10年にわたる左翼政権の結果」(韓国紙)という記事も
目にとまった。

北朝鮮といっても、問題となっているのは、あの独裁者。そしてそれを
取り巻く小数の為政者たち。ほとんどの民衆は、その犠牲者にすぎない。

そういう人たちが、北朝鮮を逃れて、韓国へやってきた。
「3時間」という時間は、「即座」に近い。
事情を聞かれることもなく、即座に、北朝鮮へ送り返されてしまった。
しかし今の今も、まだ韓国は、ノ政権下にある。
言うなれば、これら22人の北朝鮮の人たちは、もしすでに
処刑されているとするなら、ノ大統領によって、殺されたと言っても、
過言ではない。

いつかかならず、あの独裁国家は、崩壊する。
そして金xx一派が、歴史の中で、見なおされる日がやってくる。
そのとき、それを助けたノ大統領たちも、無事ではすまないだろう。

心のどこかで、「これは北朝鮮の問題」と割り切ろうとするが、
どうも、スッキリしない。
が、「かわいそう」だけで、すますこともできない。怒りの向け先もない。
たとえて言うなら、ヌカに釘をさすかのような歯がゆさを覚える。

怒るに怒れないというか、金xxにしても、ノ大統領にしても、さらに
言えば、あの金大中にしても、どうも得体がつかめない。

韓国に亡命した、脱北者の一人(ホン氏、元北朝鮮外交官)は、こう言っている。

「漂流してきたといっても、みな韓国へ来た同胞でありお客さんだ。それほど忙しいわけ
でもないのに、その日のうちに22人全員の調査を終えて送り返すというでたらめなこと
をやる国が、韓国以外に一体どこにあるというのか」(朝鮮N報・080219)と

+++++++++++++

(以下、朝鮮N報・2月19日版より)

今月8日に西海(黄海)上で漂流していたところ、韓国船に救助された北朝鮮住民22人が
北へ送り返された事件に関し、脱北者の団体でつくる「北朝鮮民主化委員会」の副委員長
で、北朝鮮の元外交官のホン・スンギョン氏(写真)は18日、「その日のうちに北朝鮮へ
送り返すというのは、一言で言って韓国の国家機関の"職務放棄"だ」と述べた。
 
 ホン氏はタイの北朝鮮大使館に勤務していた当時、亡命を図ろうとして北朝鮮の工作員
に捕らえられ、連行される途中に車が転覆して、九死に一生を得た経験を持つ。そのホン
氏は「北朝鮮では、韓国側から漂流してきた人に対しては数カ月間調査を行い、北朝鮮の
社会主義の優越性について教育を施した上で送り返している。これはどこの国でも行われ
ていることだ」とした上で、「漂流してきたといっても、みな韓国へ来た同胞でありお客さ
んだ。それほど忙しいわけでもないのに、その日のうちに22人全員の調査を終えて送り返
すというでたらめなことをやる国が、韓国以外に一体どこにあるというのか」と批判した。

 また、ホン氏は国家情報院の調査の内容についても不満をあらわにした。北朝鮮の法律
上、家族はもとより親戚と一緒に船に乗ることも禁止されているため、複数の家族が一緒
に漂流してきたのは、どう見ても亡命の意図があるとみるべきだ、というわけだ。

+++++++++++++++

(以下、朝鮮N報2月20日版)

  「北朝鮮民主化委員会」(ファン・ジャンヨプ委員長)など、脱北者や北朝鮮の人権問
題に関する21の団体は19日、ソウル・世宗路の政府中央庁舎の前で集会を開き、今月
8日に西海(黄海)上で漂流し、韓国の艦艇に救助された北朝鮮の住民22人をその日の
うちに北へ送り返した事件について、「真相究明と関係者の処罰」を求めた。

 各団体は「処刑されたといううわさも出ている22人の安否からまず確認するべきだ。
火のない所に煙は立たないはずだ」と主張した。

 また、北朝鮮民主化委員会のソン・ジョンフン事務局長は「今回の事件について、北朝
鮮がいまだにコメントしていないことから考えると、22人に対して危害が加えられた可
能性が高い」と述べた。許可なく中国へ行ってきただけでも処罰されるという状況で、韓
国へ密航しようとして送り返されたのだから、無事でいられるはずがないというわけだ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●月刊「現代」(3月号)を読む(Reading "Gen-Dai" (March Issue)
"Gen-dai", a monthly issued magazine, is reporting about the problem of the Social 
Insurance Agency of Japan. My brain was filled with anger when I read the column, 
written by Tatsuya Iwase. Why can we remain calm when we know this fact? They 
should be punished but who must be punished? This is our bureaucracy system of 
Japan. Japan is not a country of democracy. Japan is a country of loyal 
bureaucracy. This fact lets us know it again.

月刊「現代」3月号で、社会保険庁問題が取り上げられていた。
題して「年金統合・大崩壊の現場」(岩瀬達哉)。
それを読んで、久々に、頭にカーッと血がのぼるのを感じた。

そのまま紹介させてもらう。

「……年金官僚たちは、われわれが納めた年金保険料をこれまで
7兆円も中抜きした上、グリーンピア(大規模年金保養基地)などの
拡充に浪費し、数百カ所にのぼる天下り先を確保して、2515名
ものOBを養っていたのである。

しかもそうした新たな職場では、キャリア官僚OBで、約2000万円、
ノンキャリアOBでも、500〜1000万円近い年俸が、年金保険料
を使って支給されている」(P28)と。

で、その社会保険庁問題は、いっこうに解決のきざしが見えてこないという。
この怠慢。この無責任。このデタラメさ。

現在、「宙に浮いた年金記録5000万件」(民主党・長妻昭)が問題に
なっている。5000万件といえば、日本の人口の約半数ということに
なる。

が、だれも責任を取らない。第一、その追及の矛先(ほこさき)を、
どこへ向けたらよいのかさえ、わからない。

官僚制度の弊害、まさにここに極まれりといった感じがする。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●大人旅(「GD」3月号より)(Long Vacation after Retirement)
Some enjoy a long vacation after they retire from their work. Some visit whole cities of 
Japan and others visit whole peninsulas of Japan. But what for? We have something 
that we should do, which is different from what we would like to do. To think about what 
we should do is a key point in which we can live after we retire from the work. 

定年退職をしたあと、長期の旅行にでかける人がふえているという。
「GD」(3月号)に、その特集記事が載っていた(P188)。

読んでおもしろかった。楽しかった。しかしそのあと、「私には
できないな」と思ってしまった。なぜだろう?

++++++++++++++

大人旅……いろいろなキーワードをたよりに、自分流の大旅行を
する。たとえば全国の「裸祭り」を旅する、全国の「市」を旅する、
全国の「岬」を旅する、など。

全国に裸祭りは、160か所もあるそうだ。
市については、651市。
岬については、2900以上。

さらに国際的な大人旅をしている人も、紹介されていた。

ヨーロッパの全国々(33か国)、アメリカの州都すべて(48州)
を旅した人、など。

「フ〜ン」と思ったり、「ヘ〜エ」と思ったり。

しかしそのあと、つまり読み終えたあと、「私には、とてもできないな」
と思ってしまった。それにかなり辛辣な意見に思う人もいるかもしれないが、
こうも感じた。

大人旅もけっこうだが、「だからといって、それがどうしたの?」(ゴメン!)と。

こう書くからといって、大人旅をするのがどうとか、それをして
いる人について、どうこう言うつもりはない。
そんな失礼なことを言うつもりはない。

そういう大人旅を経験した人は、その分だけ、スケールの大きな人物に
なるのかもしれない。
そこは私の知らない、未知の世界。
実際、そういうふうに変化した人の話も載っていた。

しかし同じ立場にある(私)に当てはめてみたばあい、
「私には、とてもできないな」と思ってしまった。

人生は、人、それぞれ。それぞれが何かの生きがいを見つけ、
それぞれが自分流の生き方をすればよい。しかし私が感じた
空しさは、何か?

ある男性の話が紹介されていた。

「……T県警の元警視は、退職後の無為徒食の日々にうんざり
しながらも、八方ふさがりの状態から抜け出せないでいた。
しだいに気力も失われ、屍(しかばね)のようになっていく。
その日が限界に達したのであろう。ある日突然、『カネがなくても、
テントがあれば、日本一周も不可能ではない』と思い立った……」と。

「無為徒食」とはいうが、私などは、死ぬまで働かねばならない。
「うらやましい」とは思わないが、「ぜいたくな話だな」と思った。
「カネ」の話になれば、私には、もっと、カネがない!

それに日本一周の旅といっても、個人的な享楽の追求でしかないのでは?
そのときは自分を忘れることができるかもしれない。
が、それが終わったあと、その人は、どうなるのだろう?
達成感は、あるのだろうか?

退職後……私たちはどう生きたらよいのか? 何に生きがいを
求めたらよいのか? それについては、心理学の世界では、
統合性の確立こそ重要であると説く。

つまり(すべきこと)を見出し、それを(現実にする)。
それを一致させていく。それを「統合性の確立」という。
(したいこと)をするのは、統合性の確立ではない。
では、その(すべきこと)とは、何か? 

去年(07年)の9月に書いた原稿を、読みなおしてみる。

++++++++++++++++++++

●老後が不安?

++++++++++++++

数日前の新聞(中日新聞)に、
「70%近い人たちが、老後に不安を
覚えている」というような記事が
載っていた。

あまりにも当然と思われる内容だったので、
むしろそちらのほうに驚いた。

「不安か、不安でないか」と聞かれれば、
だれだって「不安」と答える。不安で
ない人などいない。

もし「不安でない」と答える人がいたとする
なら、よほど恵まれた人か、それとも
何も考えないノー天気な人と、思って
よい。

あるいは、バリバリと仕事をこなしている
若い人?
 
++++++++++++++

 介護施設の職員は、はっきりとは言わない。言わないが、介護度によって、介護施設で
は、フロアが分けられている。たとえば要介護度4前後の人は、1階の西、要介護度4〜
5の人は、1階の東、要介護度5の人は、2階の西、さらに重度の人は、2階の東、と。

 母は、一番重度の人たちが集まる、2階の東にいる。同じ部屋の隅には、鼻から管(く
だ)を通して、一日中眠っている人もいる。

 介護施設で見る老人たちの姿は、そのまま私たち自身の近未来図である。私たちは段階
的に老化し、そして最終的に、死を迎える。

私「君たちは、幼稚園(ヨーチエン)か? ぼくは、もうすぐ要支援(ヨーシエン)だ」
子「先生、ヨーシエンではなくて、ヨーチエンだよ」
私「フーン。でね、幼稚園が終わったら、どこへ行くの?」
子「小学校だよ」
私「ぼくは、要介護(ヨーカイゴ)学校だよ」

子「ヨーカイ(妖怪)? そこはヨーカイが住んでいるの?」
私「住んでいるよ。とてもこわい学校だよ。みんなね、自分のウンチで、粘土細工をして
遊んでいるよ」と。

 私が教室でよく使うギャグである。

 が、後ろ向きに考えてばかりいては、いけない。老後はだれにでもやってくる。が、そ
れまでは、老後ではない。老後などというものは、心の戸棚の、その一番奥に押し込めて
おけばよい。

 大切なのは、それまでどう生きるかということ。老後について言えば、すべきことを、
どう、しながら、生きるかということ。したいことではない。すべきことを、だ。これを
心理学の世界では、「統合性」と呼ぶ。

 したいことをしているだけでは、やがて自ら、限界にぶつかる。これを「自由の限界」(サ
ルトル)と呼ぶ。そこで人は、やがて自分は何をすべきかを模索し始める。そのターニン
グポイントは、心理学の本によれば、「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後だという。

 この時期から人は、その基盤と方向性を模索し始める。そしてそれから後、10年とか
20年とかいう長い時間をかけて、それを熟成させる。「自己の統合性」は、青年期の「自
己の同一性」とちがい、一朝一夕にできあがるものではない。熟成期間が必要である。

 が、ここから先は、人によって、みな、ちがう。

 老後を迎えて、(すべきこと)と、(現実にしていること)を一致させる人もいれば、そ
うでない人もいる。そのレベルも内容も、これまた人によって、みな、ちがう。しかしひ
とつのヒントとして、つまり老後を心豊かに生きるためのヒントとして、この統合性の問
題がある。

 自己の統合性をその時期までに確立した人は、心豊かな老後を、老後と意識することな
く、過ごすことができる。そうでない人は、そうでない。

 たとえば恩師のT先生は、80歳前後で、ある国際学会の長となっている。フランスで
開かれた大会には、世界中から2000人もの、最先端をいく学者が集まったという。つ
い先日は、アメリカの化学の本を翻訳出版している。そして80数歳という年齢にありな
がらも、天下国家を論じ、日本の教育についてあちこちで意見を発表している。講演活動
もしている。

 私たちが見習うべき老人というのは、T先生のような人をいう。生き様そのものが前向
きというよりは、自己の統合性をしっかりと確立している。で、そのことを先日会ったと
きに、直接先生に話すと、先生は、「統合性ねエ?」と言った。

 T先生のような人にしてみれば、統合性など、ごく当たり前のことということになる。
もう40年近いつきあいになるが、その40年前から、先生は、自分のすべきことを、し
っかりと自覚していた。

 私がある日、「先生、食糧危機がきたら、人類はどうなるのですか?」と聞いたときのこ
と。当時は、地球温暖化の問題よりも、人口爆発による食糧危機のほうが深刻な問題とな
っていた。

 が、それに答えてT先生は、こうはっきりと断言した。「そのために私たち科学者がいる
のです」と。「いざとなったら、合成タンパク質だって、できるのです」とも。

 私は20歳そこそこの学生だったが、その言葉に、感動した。視野そのものが、私の想
像できないほど、広く、大きかった。たしかに食糧危機の問題は、遺伝子工学の驚異的な
進歩によって、今のところ、何とかなっている。さらにT先生がめざしていた、水を水素
と酸素に分解する触媒の研究にしても、かなりのところまできているという。

 もし水を触媒によって、つまり電力を使わないで分解できるようになったら、それこそ
人類は、無公害のエネルギーを無尽蔵に手にすることになる。

 といっても、何度も書くが、「すべきこと」には、常に、苦労と困難がつきまとう。その
苦労と困難を乗り越えることなしに、統合性の確立は、ありえない。簡単に言えば、した
いことだけをして、楽な生活をしている人には、統合性など夢のまた夢。その老後もまた、
あわれでみじめなものとなる。

 そこで……実は私自身も含めてだが、「老後が不安」などと言っている人は、それだけで
甘い人間ということになる(失礼!)。本来なら、そんなことを考えるヒマなど、ないはず。
楽天的な言い方をすれば、そのときがきたら、また、そのとき考えればよい。

 ……ということで、私は、今日もがんばる。これから熱海まで行き、夕方は、伊東市の
小学校で講演をしてくる。明日も袋井市での講演会が待っている。体の調子はあまりよく
ないが、電車の中で眠っていけば、だいじょうぶだろう。

 2007年9月10日、みなさん、おはようございます!


林様:

  「老いる」ということは「生きている」ことです。 「老いて初めて老いを経験 
するのです。 若いうちは分からなかったことを。 それだけ「学ぶ」ことになるの 
です。 めきめき老いながら、毎日感謝です。 有り難うございました。

  田丸謙二

++++++++++++++++

私たちはそのときがきたら、自分の命を、つぎの世代の人たちに
還元していく。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI氏がよく使っている
言葉である。すばらしい言葉である。

孫の世話と庭いじり……それだけで老後を終えてはいけない。また
そんな老後を、けっして理想の老後と思ってはいけない。

大切なのは、私たちが得た知恵と経験を、つぎの世代の人たちに
伝えていくこと。つぎの世代の人たちが、それぞれ、よりよい
人生を送ることができるようにするために、である。

それを「還元」という。

「大人旅」については、また別の機会に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2447)

●介護(Care Service)
The other day my mother was carried to a hospital abd received a medical check. But it 
was just a check. They did not pay any attention to what my mother complains about 
her condition. As the number of old men and women grows, we can receive less and less 
care service in the future. Now is just the beginning of the tragedy.

++++++++++++++++

団塊世代よ、
これからの老後は、ますます
きびしくなるぞ!

++++++++++++++++

先日、母が、救急車で病院へ運ばれた。
幸い、検査の結果、なにごともなかった。が、そこでのこと。
病院側の、あまりに、無神経な対応に、驚いた。

脳梗塞の疑いがあるということで、センターは、救急車を呼んでくれた。
そのこともあって、病院では、検査は、脳梗塞に関するものだけ。
脳のCTスキャンを撮影しただけ。
で、その心配がないとわかると、「何ともありません」と。
母は、そのまま、返された。
ふつうのタクシー、で!

ワイフが、寝台つきのタクシーを呼んでくださいと頼んだが、
「今の時間は、あいていません」と。

現に、右半身に力が入らない。
まっすぐ体を立てて座っていることができない。
食欲がなく、体の随所の痛みを訴えている。

そういう母の症状には、一顧もしない。
要するに、「どうでもいい」という姿勢。それが、見え見え。

「老人医療というのは、そういうものかな?」とは思ったが、
それにしても……?

母には、命あるかぎり、できるだけ長く生きていてほしい。
母には、つらい毎日かもしれないが、それでも、私はそう思う。
しかし現実は、そうは甘くない。

今、母が入居しているセンターにしても、入院治療が必要になった
ときには、出なければならない。
看護師は何人かいるが、医師はいない。

そんな話を、知人(60歳、女性)にすると、その女性はこう言った。

「そんなの、まだいいほうですよ。
うちの父のときは、『もう平均寿命を過ぎていますから』といって、
満足な検査すらしてもらえませんでした。

認知症になった母のときは、『私の病院では、治る見込みのある
患者さんを治療します』と言われました」と。

つまり「治る見込みのない患者は、治療しない」と。

こう書くからといって、病院や医師を責めてはいけない。
これが現実だということ。
そしてその現実は、年を追うごとに、ますますきびしくなってきている。
現在の介護制度を見て、「私たちも同じような介護を受けられるはず」と
あなたが思っているとしたら、とんでもないまちがい。

私たちは、やがてゴミのように、捨てられる?
そんな時代が、すぐそこまで来ている。

ところでその母のことだが、会うたびに、「帰りたい」と言う。
「どこへ?」と聞くと、「(郷里の)K村へ」と。

何度か連れて行くことも考えたが、今の母には、無理。
中型の寝台つきのバスのような車を借りれば、何とか可能だが、
そういうバスはあるのか?

もっとも、今の今でも、母は恵まれている。
三食は、母の健康に合わせて、献立されている。
一年を通して、室温は一定。
24時間態勢で、手厚いケアを受けられる。

そういう母を見ながら、私とワイフは、いつもこう言い合う。

「ぼくたちがああなったときは、とてもこんな介護サービスは
受けられないよね」と。

やがてそのときがくるだろう。
そのときは、静かに死を受け入れる。
いや、これは母のことではない。
私自身のことだ。

現実がどうであれ、そういう現実をつくったのは、ほかならぬ、
この私たちなのだ。
文句を言うほうが、おかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2448)

●Stop the Concert at Pyong Yang for Kim Jong Il!

ピョンヤンでの、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラの公演に、抗議の念
をこめて、強く反対します。

We are strongly to oppose here against the Concert held in Pyong Yang for Kim Jong Il 
on Feb. 26th. The concert means nothing but to show the obedience to the tyrant for his 
profits. Mrs Rice and Mr. Hill, wake up your eyes and see the fact lying there in fron of 
you. You are to be utilized by him.

平壌で26日に行われるニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラの公演で、北朝
鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記はオープニングから観覧せず、演奏途中の休憩時
間に姿を見せるものとみられる。北京の北朝鮮消息筋が21日に明らかにしたもので、公演
を貴賓室で最初から最後まで観覧することは多分ないだろうとしている(ヤフー・ニュース
より)。

North Korean Kim Jong Il General Secretary doesn't see it at the concert of New York 
Philharmonic orchestra held in Pyongyang on the 26th from the opening, and it is 
seemed that he will appear in the rest period in the middle of the performance.
2008/02/23記


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(2月22日)

●友人の離婚

++++++++++++++

オーストラリアの友人のひとりが、
離婚した。

離婚したのは、昨年の夏ごろだが、
財産分与で、もめているらしい。
英語では、「Legal Seperation」と
いう。

たがいに収入があったため、財産を
どう分けるかが、問題になっている?

そのため日本へ来る予定が、延びて
いる。
私も3月に会いに行く予定だったが、
少し延期した。

よい奥さんだった。
37年もつきあっていると、私と
その友人、私と奥さんの距離は、
ほとんど、同じ。

友人が離婚したことによって、私と
その奥さんとの関係は切れた。

本来なら、私と友人の関係は、私と
友人の関係、私と奥さんの関係は、
私と奥さんの関係と、割り切って
つきあえばよいのだが、日本人の
私には、それができない。

いくらたがいと親しくても、こと
夫婦の問題となると、私のような
他人が入り込むようなスキはない。
成り行きを静かに見守りながら、
現実を受け入れるしかない。

その友人は、「昨年(07)は、
ひどい1年だった」とメールの
最後に書いていた。

改めて、「夫婦って、そういうもの
かなあ」と、考えさせられた。

+++++++++++++++

●作曲

このところ、自転車に乗るたびに、何かのメロディーを口ずさんでいる。
歌詞はできているのだが、どうもそれをメロディーに載せることができない。

I am alive(私は生きている)

I can run.(私は走ることができる)
I can walk.(私は歩くことができる)
I can see.(私は見ることができる)
I can hear.(私は聞くことができる)
I can feel your warmness of love.(私はあなたの愛の暖かさを感ずることができる)
I can feel I am here and I am alive.(私はここにいて、生きているのを感ずることができ
る)
What else can I want to get?(ほかに何を得ることができるのか)
In this world.(この世界で)
In this universe.(この宇宙で)
Whatever I am and whatever you are,(私が何であれ、あなたが何であれ)
I love you. (私はあなたを愛する)
Yes, I do love you.(そうとも、私はあなたを愛する)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●大人旅(2)(A long journey after the retirement)

Those who have lived in the same generation as mine have felt some kind of burdens on 
our shoulders all the time while we were working. It is a kind of freedom in a water 
tank. 
We mistake it for the freedom. But it is a fake freedom. A man started a long journey 
after he retired from his job. I can understand why he did it.

+++++++++++++++

私たちの世代は、いつも何かを
犠牲にしながら生きてきた。

「自由」と言いながら、その自由
というのは、「しくまれた自由」(尾崎豊)
でしかなかった。

まじめに(?)生きることが美徳とされ、
そのワクの中だけで生きてきた。

「会社人間」「組織人間」と呼ばれた
人ほど、そうではなかったか。

だから定年退職とともに、社会の外に
放り出された人の衝撃も、これまた
大きい。

昨日、ある男性の話を書いた。
月刊GDに載っていた記事である。
元警視だったその男性は、こう
言ったという。

「……退職後の無為徒食の日々にうんざり
しながらも、八方ふさがりの状態から抜け
出せないでいた。
しだいに気力も失われ、屍(しかばね)の
ようになっていく……」と。

しかし程度の差こそあれ、それは私やあなた
の現実の姿でもある。

だからその男性は、ある日、突然の長旅
に出る。
それまでの呪縛から、自らを解き放つかのように……。

誤解があるといけないので、もう一度
確認しておく。

私はそういう大人旅が、無駄だとか、
意味がないとか、そんなことを書いたの
ではない。

その男性はその男性なりの方法で、自分を
取り戻そうとした。「私」の再発見といって
もよい。それを目指した。

ただ私とは立場が大きくちがうのは、
私は、20代のはじめから、自由に生きて
きたということ。
呪縛そのものを受けつけなかった。
組織とも肩書きとも、無縁の世界を生きてきた。

したいことをした。
20代のうちに、世界中のほとんどの国を
見て回った。
「旅」というよりは、「仕事」でそうしたが、
立場は、あくまでもフリーターだった。

一方、その男性は、元警視。
警察機構の中で、順当に仕事をこなし、それ
なりの地位についた人である。
つまりその分だけ、組織の中で、がんじがらめに
なっていたにちがいない。

だから爆発力も大きかった(?)。
だからそのような大人旅ができた。

一方、私には、その爆発力は、あまりない。
「私にはできないな」と思った理由は、
そんなところにある。

決して、大人旅を、どうこう批判するために
そう書いたのではない。

どうか、どうか、誤解のないように!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●これから講演(Speech)
I am going to have a speech this afternoon at a near-by school. I become more nervous 
when I do it near to my neighbourers. They know me. I know them. I will talk about 
myself exactly as I am.

+++++++++++++++++

これから講演に行ってくる。
地元のO小学校である。
自転車で、10分ほどのところ。
地元であるだけに、かえって緊張する。

昨日も、近くの銀行へ行ったら、
窓口の女性に、「林先生ですね」と
言われてしまった。

こわ〜イ!

で、どんな話をするか?
大筋は決めてあるが、あとはその場の
雰囲気。

いや、今日は、子どものウソ、悪口、
盗みかの話から入るつもり。

気取った話は、やめよう。
気取ってもしかたない。
みな、私の正体を知っている。

ただコンディションはあまりよくない。
昨夜1単位、今朝1単位、サイクリングを
した。(1単位=40分の運動)

なまった体では、講演はできない。
が、少し、無理をしたかな?
かえって疲れが表に出てしまった。

++++++++++++++++

●たった3部が、1億円!(300 million yen =abt 3 million US dollars 
only for 3 copies of booklets)

(The National Government paid 300 million yen for 3 booklets, issued by "Association of 
Internatuional Construction Technonogy", which is an assistant organization of The 
Ministry of Land, Infrastructure of Japan. Moreover these booklets were issued, copying 
other materials officially issued in overseas. But who paid 300 million yen only for these 
copies?)

またまた驚いた。
たった3部で、1億円!

国土交通省が、社団法人「国際建設技術協会」(=もちろん国交省の天下り先)
に発注した報告書が、たった3部で1億円ものコストがかかったという。

しかも、……驚かないで、読んでほしい。中日新聞の記事(08年2月23日)
をそのまま紹介する。

「……海外の道路関係情報などに関する調査で、『海外の道路関係情報』などに
関する調査で、費用は、9200万円。3か月間で、報告書を作成した。
しかし製本したのは、たったの3部だけで、報告書の半分は、世界銀行
などのデータの引用だった。

 ウィキペディアの流用とみられる部分も、4、5か所みつかり、インターネット
上の文書を自動翻訳したともられる意味の通じない部分もあったという。

 同協会の常勤役員3人は、全員、国交省からの天下りで、理事長は、年収約
1800万円。同様に国交省から約6000万円で受注した別の報告書では、
前年度の報告書の引き写しが相当部分を占めたという」(同紙)と。

しかしみなさん、こんなのはまさに氷山の一角の、そのまた一角。しかも
こうしたインチキが、今の今も、全国津々浦々でなされている。

さらにこうした事件が明るみに出たからといって、だれも責任を取らない。
責任を追及されても、職員はそのまま、別の組織に配置換え。クビになることは、
ぜったいにない。方法がさらに巧妙になるだけ。

日本が、なぜこうまで高コスト社会なのか? 世界的な標準からみても、2倍
は高い。その理由は、こんなところにもある。つまり不必要なところで、不必要な
費用を払っている。

もしそれらの費用が、一般庶民に還元されたら、日本人は、今より、2倍は、豊かな
生活ができるはず。

今より2倍、大きな家に住み、2倍、豪華な車に乗り、2倍、おいしいものを
食べられるはず。

しかしそれにしても、3部で、1億円とは! おったまげた! 驚いた! そして
怒った!

官僚どもよ、いいかげんにしておけよ、ほんとうに!
日本政府は、日本国民の名のもとに、関係者を詐欺罪で、告発すべきではないのか。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●信頼関係
To trsut to each other is essential between Parents and Teachers. Otherwise education 
itself would be collapsed.

++++++++++++++++

教育は、信頼関係で、成り立つ。
改めて、それを思い知らされる事件が
あった。
「事件」というほど、おおげさな
ものではないが……。

しかし「大切なのは、信頼関係」。

Nさん、ほんとうに、ありがとう!

++++++++++++++++

ことの発端は、こうだ。
このところ反抗期に入って、何かとうるさくなってきた。
ああ言えば、こう言う式の反論を繰りかえす。
こちらの言葉尻をつかまえ、これまたああでもない、
こうでもないと言い返す。
頭もズバぬけてよいから、かなり知能的。

N兄(小3)君のことだ。

で、おとといの夜のこと。
そのクラスは、いつも午後7時ごろまでする。
本来は、6時50分に終わるクラスである。

が、その夜は、ワイフと映画を見に行くことになっていた。
で、子どもたちにこう言った。

「今夜は、6時50分に終わらせてね。
映画を見に行くから」と。

私はこういうとき、ぜったいに、ウソはつかない。
映画を見に行くから、映画を見に行くと言った。

が、翌日、N兄君の母親から、電話があった。
「うちの子が言うには、先生は、映画を見に行くから、
今夜は10分早く終わると言った。
先生がそんなことをするはずはないから、電話を
してみた」と。

いつもは7時ごろまでしているので、その子どもは、
10分、早く終わると誤解したらしい。
もしそうなら、つまり通常のレッスンを、勝手に
短縮すれば、親のひんしゅくを買って当然である。

私が親なら、怒る。
「映画に行くために、勝手に短縮するとは、何だ」
「不謹慎だ」と。

しかしN兄君の母親は、電話をしてくれた。
これが、私と親との信頼関係である。

私「N兄君は、このところ、私の悪口ばかり言っているでしょう?」
母「反抗期ですからね」
私「私が何をしても、気に入らないみたいです」
母「うちでも、そうです」と。

ついで、N弟君(小1)の話になった。
N弟君も、今、同じクラスに来ている。

母「N弟が言うには、先生は、教えてと言っても、先生は、
知らぬ顔をしていると言っています」
私「ハア〜? N弟君は、私の真横で勉強していましたから、
そんなはずはありません。私の右手が当たるところに、N弟
君のノートがありましたから……」
母「そうですよね」
私「フィクションのような気がします」と。

この時期の子どもは、平気でウソをつく。
そのウソで、親や先生を操る。
ウソが悪いわけではない。
子どもはウソをつくことで、親や先生をコントロールし、
それでもって、おとなのもつ優位性を、破壊しようとする。
自立を図る。

こんな例もある。

いつも忘れ物ばかりしてくる女の子(小4)がいた。
そこで私がその女の子にこう言った。

「今度、忘れたら、お母さんに言いつけるよ」と。

が、その女の子は、先手を打った。
家へ帰ると、母親にこう言った。
「林先生は、問題ができないと、棒で私の頭をたたく」と。

それを聞いた母親が、びっくりした。
びっくりして、私に電話をかけてきた。
その女の子は、母親がまさか電話するとまでは思っていなかったらしい。

で、その女の子のウソは、そこでバレた。

……というようなケースは、この世界では多い。
日常茶飯事と考えてよい。

で、大切なのは、信頼関係ということになる。
その信頼関係があるから、母親たちは、私に電話をしてくれる。
が、もし、その信頼関係がなければ、そこで私とその子どもたちの
関係は、終わる。

N兄君について言えば、「林は、なんて、不謹慎な男だ」ということになる。
N弟君について言えば、「ひどい教室だ」ということになる。
さらにその女の子について言えば、「とんでもない教師だ」ということになる。

では、どうするか?

私の教室のばあい、教室は、全回、例外なく公開している。
参観は、いつでも自由。
どのクラスも、いつもたいてい1〜2人。
幼児教室では、6〜8人の親たちが参観している。
親たちは、いつも私の教え方や、姿勢を見ている。

信頼関係は、そういうところから生まれる。

もちろん失敗例もある。

+++++++++++++++++++++

●冗談は、ほどほどに

 夏の暑い日だった。幼稚園へ着いて、麦茶を飲んでいると、子どもたちがやってきて、
こう聞いた。「先生、何を飲んでいるの?」と。そこで私はウイウウイと酔ったフリをしな
がら、「これはウィスキーと言って、命の水だよ」と。

しかしこの一言が、大問題になろうとは! 父母の間で、「あのはやしは、授業中に酒を
飲んでいる」という噂(うわさ)が、たってしまった。私の耳に入るころには、当時の
園長の耳にも入り、私はそれこそ、こっぴどく叱られてしまった。最近でもこんなこと
があった。

 年中児でも乱暴な子どもは、乱暴だ。Kさん(五歳女児)もそうだった。「おはよう」と
言いながら、その場で、私を足で蹴っ飛ばす……。そのときもそうだった。そこですかさ
ずKさんに、私はこう言った。「ぼくは、君のような乱暴な女の子とは結婚しないからな。
結婚するなら、丸山さんのような女の子がいい」と。

たまたま最前列に座っている丸山さんが、目に入った。が、それから一週間ほどたった
ときのこと。別の母親から、こんな話を聞いた。何でも丸山さんが、私の話を真に受け
てしまったというのだ。それで「私はおとなになったら、はやし先生と結婚する」と言
って、真剣に悩んでいる、と。

で、何とかしなければならないと思っていたら、そのまた数日後のこと。丸山さんの父
親が、丸山さんを迎えにきていた。そこで私は父親をつかまえて、こう言った。「いやあ、
先日は丸山さんに、結婚すると言ってしまいましたが、あれは冗談です。丸山さんの心
をからかったみたいで、ごめんなさい」と。

私はこの道に入ってから、子どもの名前はすべて、名字で呼ぶようにしている。それが
まずかった。その夜遅く、丸山さんの父親と母親が、私の自宅へ押しかけてきた。「どう
いうことだ!」「きちんと説明してほしい!」と。父親は、私と母親が、ただならぬ関係
にあると誤解してしまった。失敗は続く。

 私はよく(虫)を食べたフリをする。(泣き虫)(怒り虫)(ジクジク虫)など。得意なの
は、(オカマ虫)に(暴力団虫)。その日も怒り虫を食べたフリをして、子どもに怒ってみ
せた。プリントを丸めて、それで子どもたちをポンポンと叩いてみせた。が、これがいけ
なかった。

その夜遅く、Mさん(年長女児)の母親から電話がかかってきた。いわく、「先生は、授
業中に虫を食べているそうですね。うちの娘が、気味悪がって泣いています。そういう
ことはやめてください。それに先生は、体罰反対ではなかったのですか。うちの娘は、
何も悪いことをしていないのに、先生に叩かれたと言っています。きちんと説明してほ
しい」と。

 この事件のときは、説明するのに時間がかかったことといったらなかった。母親はいき
りたっているため、私の話を聞かない。

私「いやあ、あれは怒り虫です。ハハハ」
母「何がおかしいのですか。笑いごとではすまされないでしょう!」
私「それを食べてみせてですね……」
母「みせた?」
私「だから、それを食べたフリをしたのです」
母「フリでも、そういうことをしてもらっては困ります。あなたは頭が、少しおかしいの
ではありませんか」
私「冗談です」
母「冗談で通る話と、そうでない話があるでしょ」
私「……」と。

 子どもに言う冗談には、くれぐれも気をつけましょう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 信頼関係 親と教師の信
頼関係 教育の基本 教師と親の信頼関係)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【民主主義一考】
What is the Democracy for the Japanese? 

+++++++++++++++

日本人にとって、民主主義とは何か?
私たちが「民主主義」と思っているものは、
それは外国から見れば、まるで異質のもの。

+++++++++++++++

私たちがもっとも恐れなければならないのは、独裁政治。
戦前の日本を見るまでもない。
現在の北朝鮮を見るまでもない。

そこで民主主義ということになるが、
「選挙をしているから、民主主義」ということにはならない。
むしろこの(選挙)こそ、魔物。
ときとして、世俗的愚衆が、国の進むべき道を誤らせることもある。
1人の代表者が、選ばれたことをよいことに、
好き勝手なことをすることもできる。
つまり選挙そのものが、独裁者の道具として利用されることもある。
戦前の日本を見るまでもない。
現在の北朝鮮を見るまでもない。
北朝鮮の正式な国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。
「民主主義」という言葉が、そこにあることに注目してほしい。

そこでギリシア時代のアテナイでは、官職は、くじ引きで選ばれていた。
民イコール、国であり、国イコール、民であるという考えに根ざす。
つまり民主主義という制度は、制度の問題ではなく、その構成員である、
民衆の意識の問題ということになる。

その意識のない国民に、いくら民主主義の重要性を説いても、無駄。
その意識のない国民が、いくら選挙をしても、無駄。
まさにネコに小判(失礼!)。

よい例が、今の日本。

どこかのお笑いタレントが、知名度を利用して、いきなり、
どこかの県の知事になったりする。

あとはお祭り騒ぎに、バカ騒ぎ。
先日も私の近くに住む知人が、あのM県へ行ってきた。
どこかの観光地に行ったのだが、そこにたまたま、あの知事がいたという。
そこでその知人は、その知事と記念撮影。
その知人は、その写真を誇らしげに(?)、みなに、見せていた。

方向こそ逆だが、あの北朝鮮で、「金xx様、金xx様」と騒ぐ民衆と、
どこがどうちがうというのか。

民主主義に対しする一片の畏敬の念すら、ない。
あればそんなバカなことはできない。
私は何も、お笑いタレントが知事になってはいけないと言っているのではない。
そういう人を選ぶ、選挙民が、どうかしていると言っている。
いや、そういう知事に対して、批判的な人も多いはず。
しかしそういう声は、巨大な知名度の前では、ブルドーザーに立ち向かう、
立て札程度の力しかない(※1)。

そこで「思想」ということになる。
選挙について言えば、「弁論」ということになる。
しかしこの弁論ほど、これまたアテにならないものはない。

たいていは美辞麗句。うそにインチキ。大衆にとって心地よい言葉の羅列(られつ)。
へたをすれば、政治そのものが、個人の立身出世主義の道具として利用される。
つまりここにも、選挙がもつ限界が、潜む。

では、どうすればよいのか?

結局は、(考える力)ということになる。
たとえば政治家にしても、思想に思想を重ね、議論に議論を重ね、
その結果として、練りに練られた状態で、政治をめざすなら、よい。

知名度は、あくまでも、あとからついてくるもの。
が、この日本では、それが逆。
まず知名度を利用して、政治家になる。政治家になったあと、
思想らしきものを用意する(?)。

当のM県では、「観光客がふえた」とか、「新婚旅行客がもどってきた」とか言って
喜んでいるそうだが、それを喜ぶのは、まさに世俗的愚衆。
もし日本中の、あちこちの県が、それをまねたら、この日本は、どうなる?
すでに、その兆候は、あちこちに、見え始めている。

私たちは、あの戦争で何を学んだのか?
あの戦争の、どこをどう反省したのか?
アメリカという外圧によって与えられたものかもしれないが、民主主義という
ものを、どう理解しているのか?

民主主義というのは、攻撃的な姿勢で守って、はじめて守れるもの。
そこにある空気のようなものだと思っていたら、おおまちがい。

たとえば言論の自由とはいうが、この日本では、バカなことを
言ったり書いたりする自由は、ある。
しかし宗教団体や皇室、さらには建設業界や官僚を批判したら、
たちまち猛攻撃にさらされる。命の保証すらない。
仕事すら回ってこなくなる。

ちなみに、日本の報道の自由度は、先進7か国の中では最低の42位(※2)。
42位だぞ! 

いいのか、日本! このままで!

(注※1)

●知名度

かつて、こんな調査がなされた。「上司としてふさわしいのは、どんな人物か?」と。

その結果、テレビでの知名度順に、お笑いタレントたちが、ズラリと名を連ねた。それも
そのはず。

こういう例で考えてみよう。

A氏、知名度90%。1億x0・9=9000万人の人がその名を知っている。

B氏、知名度10%。1億x0・1=1000万人の人がその名を知っている。

しかしA氏に対して嫌悪感を抱いている人は多い。約80%の人が嫌悪感をいだいている
とする。で、残りの20%の人が、A氏を支持したとする。結果、支持者の数は、900
0万x0・2=1800万人となる。

一方B氏のほうは、反対に約80%の人が好感をもっていたとする。従ってその支持者の
数は、1000万x0・8=800万人となる。

A氏の支持者は、嫌悪感をいだく人が7000万人もいたとしても、1800万人。
B氏の支持者は、そのほとんどが好感をもっているとしても、800万人。

もしこういう計算が、選挙にも働くとしたら……。A氏とB氏が、同じ選挙区で立候補し
たら、その勝敗は、選挙の前に決まっていることになる。それがここで私が言う、「ブルド
ーザーに立ち向かう立て札程度」という意味である。

(注※2)

●報道の自由度、42位

パリ発10月26日の時事通信によれば、日本の報道自由度は、昨年と比べわずかにラ
ンクアップしたものの、先進7カ国中最低の42位だったという。報道の自由の擁護を
目指す国際団体、「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、世界167カ国の報道の
自由度の順位を発表した。

 最上位は、デンマークやアイルランドなど北欧を中心とする欧州8カ国。最下位はラ
ンクづけ発表当初から3年連続で、北朝鮮だったという。 

 日本では、一応、報道の自由が確保されているかのように見えるが、国際的にみれば、
どうも、そうではないということのようだ。

 くだらないゴシップ記事のような報道については、たしかに、自由はある。何を書いて
もよいという、つまりは無責任な姿勢はある。しかし報道の自由といっても、あくまでも、
そのレベル。

 日本の外で、よく問題にされるのが、皇室報道。さらには官僚批判。私も、いろいろな
テーマについてものを書くが、こうしたテーマでものを書くときは、いつもどこかで、何
かしらの(息苦しさ)を覚える。

 この(息苦しさ)こそが、日本の報道の自由の限界ということになる。日本は、世界に
名だたる、官僚主義国家。日本の中だけに住んでいる人には、それがわからない?

 あのK国が最下位だったということについては、異論はない。しかしあのK国の人たち
は、自分たちではそうは思っていない。「外の世界のほうが狂っている」と思っている。そ
の国の人がもっている、意識というのは、そういうもの。

 しかしそれにしても、42位とは! この数字には、いろいろ考えさせられる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●はびこるカルト信仰(Cult)

  ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を
中心に、三〜四名の若者があと追い自殺をした。

家族によって闇から闇へと隠された自殺者は、もっと多い。自殺をする人にはそれなりの
人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私のような部外者がとやかく言
っても始まらない。しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら……。

 一九九七年の三月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件が
アメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船と
ランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、三九人の若者が犠牲に
なった。

この種の事件でよく知られている事件に、一九七八年にガイアナで起きた人民寺院信徒に
よる集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四名もの信者が犠牲になっている。な
ぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」
と考えるのは早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想
の混濁が、それである。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)
が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あの
たまごっちを供養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのではない。
本気だ。本気で供養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NH
K『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範
囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなる
か。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、二一世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、そ
れに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自
由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長
線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカ
ルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをな
くしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。

終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、
急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。あやしげなパワーや念力、超能力を売りも
のにしている。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教
えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この
日本ではまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に
安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になっ
てからでは遅い。

このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●日本人の依存性を考えるとき(Dependance of the Japanese) 

●MSの『おくふろさん』

 MSが歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育て
る。これは日本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、
「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。
そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコー
ル、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して
保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子
ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着は
もちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげ
たまま、教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の
袋から取り出すこともできない。できないというより、じっと待っているだけ。多分、
家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだ
が、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタ
オルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系
の家庭では、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ど
も」という考え方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に
招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母
親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言っ
た。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立
させること」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなた
の子どもはどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ
言葉」というのが、それである。

たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だ
から何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」
と言う。もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなお
しなさい」、子「ケシで消してからするのですか」、私「そうだ」、子「きれいに消すのです
か」、私「そうだ」、子「全部消すのですか」、私「自分で考えなさい」、子「どこを消すの
ですか」と。実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまで
も続く。

 さてMSの歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさん
よ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背
後には、日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

+++++++++++++

 この記事についての、批評、批判は少なくなかった。こうした日本の名曲を評論するの
は、実際のところ勇気がいる。書くほうとしては、それだけのインパクトをねらって書く
が、ばあいによっては、読者の逆鱗に触れる。で、この記事はその逆鱗に触れた。今日、
からんできた人も、その一人だ。

 が、ここで改めて、日本人の依存性について書くつもりはない。それについては、もう
あちこちで、何度も書いてきた。だからここでは、その先について、書く。

 こうした原稿を読んで、不愉快に思うなら、それはそれでよいのでは……? 私は、M
Sの『おふくろさん』のファンの人に、攻撃をしかけたわけではない。「こういう見方もあ
る」という立場で書いた。それが逆鱗に触れたからといって、つまり私を個人攻撃しても
意味はない。そういう攻撃を受けたからといって、私は一度書いたものについての意見は
曲げない。(自分で訂正することはある。)また私が自説をひっこめたところで、どうにか
なる問題でもあるまい。あるいは私が、「あの原稿の中で書いたことはまちがっていました」
と書くとでも、思っているのだろうか。しかもその記事を発表してから、すでに一年半以
上もたっている。アフターサービスという考え方からしても、すでに保証期間(?)は過
ぎている。

 私はまったくフリーの立場にいて、公的な役職も、責任も、まったくない。要するに、
私の意見に同意できなければ、「同意できない」ですむ話である。それをああでもない、こ
うでもないと批判するなら、その人はその人で、自分の意見を書いて、世に問えばよい。
それが言論の自由というものではないのか。

 ときどき自分でも、「どうしてこんな仕事をしているのだろう」と思う。「私にとって、
メリットは何か」とも。地位や肩書きなど、私にはもとから無縁だし、名誉といっても、
地位や肩書きのように「中身」がはっきりしない。金銭的な利益といっても、こうして地
方に住んでいると、ほとんど、ない。ここに「仕事」と書いたが、仕事にはならない。

 いや、もう少し若いころは、有名になりたいと思ったこともある。しかし今からでは遅
過ぎる。そういう気力そのものが、消えた。いや、有名になることの虚しさが、自分でも
わかるようになった。そしてそれにかわって、私はこの世の中に生きてきた痕跡(こんせ
き)を残したいと思うようになった。よく私は、「自分の書いたものは、墓石のようなもの」
と書くが、それは本心である。私はワイフや息子たちに、「死んでも墓はいらない。私の書
いたものを墓と思ってくれ」と言っている。遺言のようなものだが、これも本心である。

 だから私は書く。思ったこと、考えたこと、それを書く。それが評価されるか、されな
いかは、他人が決めることであって、私の問題ではない。
(02−8−20)※


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

【考える人】(Independent Thinker)

●「考える」こと

 「考える」ということと、「動物的」ということとは、反比例する。これを計算式で、表
現すると、(考える)=(定数)/(動物的)ということになる。(こんな公式を作っても、
意味ないが……。)

 つまり人間は考えれば考えるほど、動物的ではなくなるということ。動物が動物である
のは、考えないから。一方、人間が人間であるのは、考えるから。だから公式にするまで
もなく、こんなことは当然といえば、当然。

 そこで改めて、「考える」ということは、どういうことなのかを、考えてみる。……と考
えて、最初に思いつくのが、「言葉」。私のばあい、(おそらく、ほとんどの人にとっても、
そうではないかと思うが……)、言葉があるから考えられる。もっとも言葉がなくても、考
えることはできる。絵画や音楽、さらに芸術の世界では、言葉というのは、それほど重要
な意味をもたない。

が、私にとっては、「考える」ことイコール、「言葉」ということになる。たとえば今、
私はこうして文を書いているが、「書く」ということが、「考える」ということになる。
実際、こうして書いているとき以外、私はほとんどものを考えない。……考えることが
できない。ヒラメキのようなものは、しばしば感ずるが、しかしそれは「考え」ではな
い。

●考える人 

 考える人からは、考えない人が、よくわかる。(多分、考えない人からは、考える人がわ
からないだろうが……。)たとえば、考えない人は、どこか動物的。ものの考え方が、短絡
的。直感的。浅い。それにすぐ感情的になる。子どもでも、「スベリ台を、下からあがって
きた子がいます。どうしますか?」と聞くと、「そういうヤツは、ぶん殴ってやればいい」
と答える子どもがいる。原因はいろいろあるが、そういうような発想をする。

 一方、考えない人は、その分、反応が鈍くなる。子どもでもそうで、考える子どもは、
どこか様子が重い。「重い」というのは、何かテーマを与えたりすると、それを頭の中で反
芻(はんすう)するようなしぐさを見せる。もっとも、それは相対的なもので、考えない
子どもと比較してみて、はじめてわかる。考えない子どもは、ペラペラと調子はよいもの
の、中身がない。

 ……となると、「考える・考えない」は、能力の問題というよりは、習慣の問題というこ
とになる。あるいは教育の問題といってもよい。たとえば日本では、学校の授業でも、「わ
かったか?」「では、つぎ!」が、教え方の基本的な形になっている。しかしアメリカでは、
「君はどう思う?」「それはいい考えだ!」が、教え方の基本になっている。この「形」は、
家庭でも同じで、こうした形の違いが、やがて独特の日本人像をつくったともいえる。つ
まり日本人は、その構造からして、もともと、考える人間をつくる構造になっていない。

●違った意見

 日本人が、考えない民族であることは、世界へ出てみると、よくわかる。あるいは、小
学生でもよい。外国の小学生とくらべてみてもわかる。ひとつの基準として、それぞれの
子どもが、どの程度、違った意見をもっているかが、ある。それを知れば、それがわかる。

 たとえばオーストラリア人の子どもに、「将来、何になりたい?」と聞くと、それぞれが、
てんでバラバラなことを言い出す。中には、「イタリアの女王様になりたい」と言う子ども
(女児)もいる。おそらく一〇人に聞けば、一〇人の意見が出てくるのでは……。しかし
日本では、子どもの意見というのは、そのときどきにおいて、流行に流される。そして子
どもたちのものの考え方は、ある一定のパターンに集約される。……することができる。

 少し話がそれるが、この私の意見を補足するために、こんなことを書いておきたい。

 七〇年代に、中国の北京大学へ留学したオーストラリア人の友人がいた。その友人が、
北京から帰ってきて、こう言った。「向こうでは、みな、テープレコーダーみたいだった」
と。つまりどの学生も、同じ意見しか言わなかったというのだ。こうした傾向は、独裁国
家ほど、顕著になる。ほかの意見をもたせない。もつことを許さない。つまりそもそも考
える人間を必要としていない。

 では、日本はどうか。日本はどうだったか。日本も戦前は、今の北朝鮮のようなものだ
った。あるいは江戸時代は、今の北朝鮮以上に北朝鮮的だった。こうした傾向は、私が子
どものときですら、何かにつけて、まだ色濃く残っていた。よく覚えているのは、政府を
批判しただけで、父や母から、それをとがめられたこと。あるいは「天皇」と呼び捨てに
しただけで、父に殴られたこと。岐阜県の田舎のほうでは、言論の自由はもちろん、思想
の自由すらなかった。

●考える人間にするために

 こう考えると、日本人が考えない民族であることは、民族性というよりも、長くつづい
た封建時代と、そのあとの君主(天皇)官僚制度の中で、「ものを考えない国民」に飼育さ
れたためということになる。しかもそれがあまりにも長くつづいたので、「考えない」とい
うことが、社会のスミズミまで、根をおろしてしまった。あるいは、脳の構造そのものに
まで、影響を与えてしまった。

 言いかえると、日本人を考える国民にするということは、同時に、こうした過去の亡霊
との決別を意味する。またその決別なくして、日本人を考える国民にすることはできない。
教育の世界では、いかにして、中央による思想管理を排除するかということにもなる。家
庭においては、いかにして、価値観の多様性を、親がもつかということになる。

たとえば教科書問題をひとつ取りあげても、いまどき、検定制度があること自体、おかし
い。国としては、「まちがったことを教えたくない」という意図があるのだろうが、それは
同時に、「思想統一」につながる。繰り返すが、中央政府が、思想を統一しようとすればす
るほど、それは国民から考える力を奪うことになる。

 今、この日本で大切なことは、たとえば「A」というテキストで学んだ子どもと、「B」
というテキストで学んだ子どもが、たがいに自由に意見を対立させ、討論することである。
「考える」という習慣は、そういう軋轢(あつれき)の中から、生まれる。

 家庭においても、同じで、今のように、「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」
と親が考えているような状態の中で、どうやって子どもの個性を伸ばすことができるとい
うのか。親自身が、ガチガチの思想にこりかたまっていて、子どもに向かって、「個性をも
て」「もっと考えろ」は、ない。

●「考える」こと

 「考える」というテーマは、実は、このように奥が深い。そしてそのテーマは、個人の
問題というだけではなく、社会や家庭など、あらゆる部分にからんでくる。もちろん「考
える」ことによって、人間は、より人間らしくなる。つまり「人間とは何か」というテー
マにもからんでくる。

 ……と書いても、こんなことは、実は、常識。識者の意見を並べてみる。

 よく知られているのが、パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者、数学者)。『人
間は考えるアシである』(「パンセ」)と書いた、あのパスカルである。『人間は一本のアシ
にすぎない。自然のうちで、もっともひ弱いアシにすぎない。しかし、それは考えるアシ
である』と。彼は、同じ本の中で、こうも書いている。『思考が人間の偉大さをなす』と。
「考えるから、人間は人間であり、そこに人間の偉大さがある」という。

 そのパスカルと、どこかで接点があったのかもしれない。さらに思考の重要性を、完結
させたのが、デカルト(一五九六〜一六五〇、フランスの哲学者)。『われ思う、ゆえにわ
れあり』(「方法序説」)という、有名な言葉を残している。「私は考えるから、私はここに
存在するのだ」と。もうこの言葉を疑う人は、だれもいまい。

 「考えること」を、決して、粗末(そまつ)にしてはいけない。生きることの「柱」に
してもよいほど、重要な問題と言っても、決して言い過ぎではない。
(02−12−18)

【追記】

●一般論として、人間は、そのレベルに応じて、自分のまわりに仲間をつくる。そこで、
では、そのレベルとは何かということになると、思考の深さということになる。思考の
深い人は、深い人どうしで集まる。思考の深い人は、浅い人の間にいると、落ち着かな
い。同じように、思考の浅い人は、浅い人どうしで集まる。思考の浅い人は、深い人の
間にいると、落ち着かない。実は、子どもの世界もそうで、もしあなたがあなたの子ど
もを客観的に、どういう子どもであるかを知りたかったら、あなたの子どもが、今、ど
んな友だちとつきあっているかを見ればよい。

●それはさておき、子どもでも、考える子どもと、考えない子どもは、かなり早い時期に
分かれる。小学一年生くらいの段階で、かなりはっきりしてくる。考える子どもは、考
えることそのものを楽しむ。そうでない子どもは、考えることから逃げる。こうした子
どもの違いは、かなり早い時期に決まるのでは。おそらく生後まもなくからの、親の接
し方によって決まる? 要するに、子どもを考える子どもにしたかったら、親の過干渉
などで、子どもを振りまわさないこと。いつも親のほうが一歩、退いて、子どもが自分
で自分の考えを言うまで、待つ。この「待つ」という姿勢が、子どもを、考える子ども
にする。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●言論の自由(Freedom of Speech)

 週刊「B」が、発刊停止処分になった。元国会議員の娘の記事が問題になった。が、そ
れに対して、東京高裁は、発刊停止を、無効とした。当然である。

 言論の自由は、あらゆる権利の中でも、神聖不可侵な権利である。国民の権利として、
最大限尊重されねばならない。たかがこの程度の離婚問題で、言論の自由が制限されたら、
たまらない!

 しかしなぜ、その娘の記事が、週刊「B」に載ったか? 理由など、述べるまでもない。
それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたの周辺にも、離婚した人がいるだろう。しかしそういう人の記事が、週刊「B」
に載ることはあるだろうか? ぜったいに、ない! その娘の記事が週刊「B」に載った
のは、あの元国会議員のT氏の娘だからである。

 娘は公人か、公人でないかという議論もある。しかしその娘のことは、私でさえ、よく
知っている。母親のT氏と、よくマスコミにも、顔を出してきた。一方で、そうしてマス
コミをさんざん利用しておきながら、「私生活を暴かれた」は、ない。

 ただ私にも、言いたいことはある。

 週刊「B」側は、言論の自由を盾(たて)にとって、自分たちの正当性を主張している。
しかしこういうくだらない記事は、「言論の自由」というときの言論とは、意味がちがう。
ただのゴシップ記事。そういう記事が問題になったからといって、言論の自由が侵害され
たと騒ぐのも、どうかしている。

 週刊「B」側は、著名な文士をズラリと並べ、反論記事を掲載した。どの文士も、週刊
「B」の息のかかった、イエスマンばかりである。東京あたりで、週刊「B」に嫌われた
ら、メシを食っていかれない。

 言論の自由。

 本当に、この日本には、言論の自由はあるのかという議論から、始めねばならない。も
ちろん、くだらないことを、そのレベルで、ギャーギャー騒いでいる間は、問題ない。元
国会議員の娘の離婚記事など、その範囲の話題でしかない。

 しかしその範囲をひとたび超えて、たとえば、天皇制の問題、国歌、国旗の問題となる
と、そうはいかない。さらに日本にはびこる宗教団体の問題。政治と宗教の問題となると、
さらにむずかしい。

 こうした問題について、率直な意見を書いたりすると、私のところでさえ、いやがらせ
の電話などがかかってくる。教室へ怒鳴り込んできた人さえいる。

 まあ、あえて言うなら、週刊「B」も、もう少し、高い視点から、日本をながめたらよ
いということ。今回の事件は、週刊「B」が、くだらないゴシップ記事を載せた。だから、
書かれた人が、待ったをかけた。それだけの事件である。

 それを仰々しく、「言論の自由が侵害された」と、おおげさに騒ぐことのほうが、おかし
い。週刊「B」は、たくみに問題をすりかえようとしている。しかし、そうはいかない。

 こうした軽薄なゴシップ記事を書かれた人は、ウソやまちがいがあれば、そのつど、名
誉毀損(きそん)か何かで、出版社をどんどん訴えればよい。それは正当な権利である。
決して、泣き寝入りしてはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ボランティア精神・段階論(Regarding Volunteer activities)

 何らかのボランティア活動を始めると、ふつうでは経験しない、心の変化を感ずる。そ
の変化を段階的に考えてみた。

【第一段階・とまどい】

 たいていは、何らかのきっかけでボランティア活動を始める。だれかの指導によること
もある。仕事や趣味の延長で始めることもある。

 「何となくしている」と言った感じで、始まることが多い。同時に、やり始めたころは、
他人の目が気になる。少し油断をすると、「してやっている」「してあげている」という思
いにとりつかれる。

【第二段階・快感】

 他人が喜ぶのを想像することは、楽しい。実際、喜ぶかどうかは、別にして、想像する
だけで、楽しい。

 しかしそういう思いをしたことがない人には、それはわからない。あるいはなかなかこ
の第二段階まで、くることができない。

 が、一度、どこかでそれを経験すると、別のボランティア活動をしても、意外と簡単に、
この段階まで、くることができる。思考プロセスが、できあがっているためと考えられる。

【第三段階・葛藤】

 しばらくつづけていると、「何のために?」「どうして?」という疑問がわいてくる。み
ながみな、活動を正当に評価してくれるわけではない。

 草を好意で刈っていたら、そこへ見知らぬ他人がやってきて、「もっときれいに刈れ」と
言われるようなことは、この世界ではよくある。

その相手も、何らかのボランティア活動をしていたというのなら、まだ納得できるが、
そうでない人のほうが、多い。そういう人たちの、心ない言動で、キズついたりする。

【第四段階・無我】

 意識しないまま、つまりボランティア活動をしているという意識がないまま、自然な形
で、そうした活動ができるようになる。

 何も考えず、何も求めず、何もキズつかず、無私の状態で、それができるようになる。
それ自体が、生活の一部になる。

 以上、私の憶測も含めて、段階論を書いてみた。私自身、何か大きなボランティア活動
をしているわけではない。あえて言えば、電話相談、講演会、子育て相談などが、そうし
た活動の一部ということになる。

 ただ講演会というと、多額の報酬を想像する人も多いと思うが、それは中央で活躍する
有名人の話。

 いかに少ない額かは、近くのPTAの役員の人たちに聞いてみるとよい。もし金額のこ
とを考えるなら、講演会の講師を務める人など、いないだろう。私は、講演を、ボランテ
ィア活動の一つと考えながら、している。

 電話相談や子育て相談は、もちろん無料である。

 しかしそうした活動についても、あれこれ文句を言ってくる人がいる。ときどき、やり
きれなくなるときがある。

 理由の一つとして、こうしたボランティア活動そのものが、日本の社会に定着していな
いこと。つぎに、それをしている人が、まだまだ少数派であること。ボランティア活動を
している人を、お人好しのバカと見る風潮さえある。

 こうした日本人の意識を変えないかぎり、日本人全体は、成長しないと、私は思う。

 しかし、ボランティア活動には、その活動を超えた、何かがある。たとえて言うなら、
ボランティア活動をしていない人は、小さな画用紙の中で、絵を描いているようなもの。
が、ボランティア活動をしている人は、その画用紙をかぎりなく大きくすることができる。

 このことは、あなたの近所に住む、高齢者たちを見ればわかる。

 自分のことしかしない。自分のことしかできない。自分勝手でわがままな高齢者を見て
いると、その(小ささ)に驚くことがある。

 一方、地元の世話役などになり、無私で活動している高齢者を見ると、反対にその(大
きさ)に驚くことがある。私がここでいう「画用紙」というのは、そういう意味である。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●うつ(Depression as to my case)

I am often depressed and feel dull. Why do people get depressed and how can we get out 
of the depression. This is an article about it.

++++++++++++++++

うつについて考えてみる。
考えてみるというより、私自身に
ついて書いてみる。

何を隠そう、私は、そのうつ型人間
なのだア!

ハハハ!

++++++++++++++++

●一時的な問題

「うつ」にもいろいろある。
軽いうつから、重いうつまで。

そのときどきに、うつになる人もいれば、慢性的にうつ状態の人もいる。
そういうちがいはあるが、うつのメカニズムは、それほど、複雑ではない。

こんな例で考えてみよう。

たとえば会いたくない人と、会わなければならない状況になったとする。
仏教の世界にも、『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉がある。
四苦八苦のひとつにあげられている。
会いたくない人と会うというのは、それだけでも、たいへんな苦痛である。
大きなストレスとなる。

(会いたくない)という思いと、(会わなければならない)という状況の中で、
人は大きく葛藤する。

心は緊張状態に置かれる。

よく誤解されるが、情緒不安というのは、情緒そのものが不安定になることではない。
心が緊張状態に置かれることを、情緒不安という。
そういった状態のとき、不安や心配が入り込むと、それを解消しようと、
心は、一気に不安定になる。
情緒が不安定になるのは、あくまでもその(結果)である。

ささいなきっかけでそうなる。

たとえば先の例で考えるなら、会いたくない人に会わなければならないという
ような状況になると、心は、緊張状態に置かれる。
そういうとき、あなたなら、あなたの子どもが、公園でけがをして帰ってきたとする。
頭から血が出ている。
それを見て、あなたは、いつも以上に、パニック状態になる。
ふだんのあなたなら、冷静なまま、子どもを病院へ連れていくことができる。
しかしそのときは、そうでない。
ワーワーとわめき散らす。

……という状況が、一時的なものであれば、問題はない。
会いたくない相手かもしれないが、会うことで解決する。
会うことで、たがいの関係が好転するということもありえる。

が、こうした状況が、毎日のようにつづいたら、あなたはどうなるだろうか。
来る日も、来る日も、会いたくない人と、会わなければならないとしたら……。

●何もしたくない

原因はさまざまだが、うつになると、脳の機能そのものが、変調する。低下する。
脳間伝達物質が、慢性的なストレスなどが原因で、正常に機能しなくなる。
つまりやる気を喪失する。

もう少し正確には、脳間伝達物質(セロトニンやノルアドレナリン)が、情報をつぎの
神経細胞に伝達する前に、もとの細胞に、取りこまれてしまう状態になる。
結果として、神経細胞どうしの情報の伝達が、スムーズに進まなくなってしまう。
そういう状態を、「うつ状態」という。

で、私もよくうつ状態になる。
そのときどきによって、きっかけはさまざまだが、うつ状態になると、
(1)行動面と、(2)精神面に、影響が出てくる。

行動面では、体がだるくなる。行動が鈍くなる。
精神面では、何もしたくなくなる。考えるのも、めんどうになる。

もちろん人に会うのもおっくうになる。
とくに理由はないのだが、とにかく、おっくうになる。
つまりこの段階で、私は、先に書いた、(会いたくない人と会う)というのと、
同じ状況になる。

相対的に、どの人とも、会いたくなくなる。
行動面についても、同じ。

実際、(何もしたくない)という状況のとき、それをしなければならないというのは、
苦痛である。

もう少し具体的に考えてみよう。

たとえば親しかった友人が、亡くなったとする。
通夜だ、葬儀だと、それなりに忙しく、自分を忘れることができる。
が、それが一段落したとき、どっと疲れが表に出てくる。
(何もしたくない)状態になる。
だれかが話しかけても、上の空。
ぼんやりと空を見つめている。

そういうとき、だれかに会って、仕事の段取りを決めなければならなくなったとする。
本当なら、家にいて、ぼんやりとしていたい。
しかし、仕事をしなければならない。

このとき、(したくないこと)と、(しなければならないこと)の間で、葛藤する。

●心の葛藤

いつもなら(したいこと)でも、脳の機能が低下してくると、(したくないこと)になる。
いつもなら(会いたい人)でも、脳の機能が低下してくると、(会いたくない人)になる。

繰りかえすが、相対的に、したくないことをし、会いたくない人と会うのと、
同じ状況になる。

一度、こうなると、あなたは、心の中で、慢性的に葛藤するようになる。
常に、(したくないこと)と戦わねばならなくなる。
これは先にも書いたように、相当なストレスとなって、はねかえってくる。
つまり心は、常に、ある種の緊張状態に置かれる。
ピンと張りつめたような状態になる。

たとえばこんなケースで考えてみよう。

受験勉強の最中(さなか)にある子どもがいる。
受験塾では、毎週のようにテストが繰りかえされる。
順位も張り出される。
その子どもなりにがんばってはいるが、成績は思うように伸びない。
その子どもは日常的に悶々とした状態になる。

そんなとき、母親が、「今度の成績は、どうだった?」と声をかけたとする。
母親は、軽いあいさつ程度のつもりでそう言う。
が、子どもは、そうではない。
その言葉を聞いて、突然、激怒する。
ふつうの激怒ではない。
狂人のような叫び声をあげながら、こう怒鳴る。
「ウッセー!」「バカヤロー!」と。

●反応

一度うつ状態になると、心はそれを解消しようと、さまざまな反応を示す。

基本的には、(何もしたくない)状態になる。
が、それをしなければならない。
それから生まれる不平不満は、妄想へとつながりやすい。

「こんなことをさせるのは、あいつが悪い」
「こんなに苦しんでいるのに、だれもわかってくれない」と。

あるいは、「こんな自分にしたのは、あいつだ」と思うこともある。

つまり(したくない)自分を棚にあげて、そういう自分を正当化しようとする。

これはある知人(女性)の例だが、母親の介護をするようになったときのこと。
毎日のように、あちこちに電話をかけ、こう言っていた。

「介護で時間が取られて、内職ができなくなった」
「町内会の仕事ができなくなった」
「送り迎えの自動車のガソリン代がかかるようになった」
「弟がいるが、何も助けてくれない」と。

要するにその知人は、介護をしたくなかった。
しかし「介護をしたくない」とは、言えない。
そこでその介護をしたくないという気持ちを正当化する(=ごまかす)ため、
こうした不平不満を、あちこちにぶつけた。

心理学の世界でも、こうした心理的反応を、「置き換え」と呼ぶ。
防衛機制(心を守るための心理的反応)のひとつである。
わかりやすく言えば、八つ当たりのこと。

●自責から他責へ、

うつを理解するためには、反対の心理状態を考えてみればよい。

たとえば(したいこと)を、している子どもを見れば、それがわかる。
したいことをしている子どもは、生き生きとしている。
輝いている。

さらにその状態が進むと、しなくてもよいようなことまで、するようになる。
他人の仕事まで引き受けたり、ばあいによっては、他人の責任まで、自分のものとする。

話は少し脱線するが、人は(子どもも)、大きく、2つのタイプに分けられる。

(1)自責型人間と、(2)他責型人間である。

何かあるたびに、「ごめん」「ごめん」と、自分の責任にしてしまうのを、
自責型人間という。

反対に、何かあるたびに、「あなたが悪い」「私は悪くない」と、自分以外の人やものの
責任にしてしまうのを、他責型人間という。

たとえば台の上にあった花瓶を不注意で、落としたとする。
そのとき、「ごめん」とすぐあやまるタイプが、自責型人間。
「こんなところに花瓶を置いておく人が悪い」と、だれかに責任を転嫁するタイプが、
他責型人間ということになる。

他責型人間は、うつになりにくいという。
しかしひとたびうつになると、それまでは自責型人間であった人まで、
他責型人間になる。

話をもとにもどす。

生き生きと活動している子どもは、総じてみれば、自責型人間と考えてよい。
「ごめん」「ごめん」と言いながら、さらにその先を、自分でしようとする。

●私の場合

先にも書いたが、私も、しばしばうつ状態になる。
たとえば数日前もそうで、きっかけは、友人の死であった。

何とも重苦しい気分に包まれた。
何を考えても、悲観的。消極的。
加えて被害妄想だけが、どんどんとふくらむ。

原稿としてはボツにしたが、そのとき、「先細り人生」と題した原稿も書いた。
(あとで読みなおしてみて、あまりにもうつ的だったので、ボツにした。)

基本的には、「うつ型人間」と考えてよい。
ここでいう自責型か他責型かと問われれば、完全に自責型。
何があっても、まず、「ごめん!」という言葉が先に出てくる。

だからうつになりやすい。
が、うつになったとたん、今度は、他責型に変身する。
まるで自分の中に、2人の自分がいるよう。
ときに、そう思うことがある。

たいていは、ワイフに八つ当たりをする。

が、私には、すばらしい救世主がいる。
子どもたちという救世主である。

その子どもたちに接したとたん、私のばあいは、もとの私に戻ることができる。
そういう意味では、私にとっては、職場が、ストレス発散の場所になっている。

おとといも、昨日も、実は、仕事には行きたくなかった。
(行きたくない)という自分と、(行かなければならない)という自分が、私の中で、
はげしく対立した。

が、何とか、自転車にまたがり、仕事に出かけた。
とたん、いつもの私に戻ることができた。

……ということで、今のところは、かろうじて、自分を支えている。
が、いつまでつづくかわからない。
そのうちさらに症状がひどくなるかもしれない。

休みたい。休みたいが、休めば休んだで、自分がどうかなってしまいそう。
今は、そういう状態。

+++++++++++++++

みんさんも、うつには、どうか、お気をつけください。

なおWHO(世界保健機構)の統計によれば、約3〜5%の人が、
うつ病の有病率だそうです。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆとり教育

産経新聞(2月17日)は、「未来像…学力低下はさらに進む!!」と題して、つぎのよう
に伝える。

『昨年12月下旬、福島県相馬市から県立S高校の2年生14人が、元文部大臣の有M朗
人氏(77)を東京に訪ねてやってきた。

 生徒たちは研究発表の資料を携えていた。「学力低下の要因の1つは『ゆとり教育』」「授
業で習うことが社会で役に立たないから、学習意欲・関心が低下している」「教員の質も問
題だ」…。資料には有M氏を詰問するかのような学力低下の"分析結果"が並んでいた』。

+++++++++++++++++

私が過去に書いてきた原稿を集めて
みた。

+++++++++++++++++

【日本の教育】

●英語教育

++++++++++++++++

外国人の客が、私の家にいるときは、
みな、英語で話すようにしている。

ワイフも、カタコト英語だが、懸命に
英語で話す。

それは客に不安感を与えないための、
最低限のマナーではないのか。

++++++++++++++++

●英語教育に「待った!」をかけた、文科相

 I文科相は、こう言った。「私は、(小学校での英語教育を)必修化する必要は、まった
くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と。

 こういうのを、パラドックスという。わかるかな?

 『張り紙を刷るな』という張り紙を張る。
 『私は逆らっていない』と言って、相手に逆らう。

 『美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ』と言って、きたない日
本語を話す。

 「外国の言葉をやったってダメ」? ……美しい日本語では、「外国の言葉を学んでも、
意味がありません」という。

 もう10数年も前から、同じような論理で、小学校での英語教育に反対している教授が
いる。しかし今どき、「英語教育が必要ない」なんて……!!

●予定では…… 

中央教育審議会の外国語専門部会は、2006年3月、「小学5年生から、週1時間程度、
英語教育を必修化する必要がある」という提言をまとめた。が、それに「待った」をか
けたのが、ほかならぬ、I文科相だった。それが冒頭に書いた言葉である。

「やったって、ダメ」と。

 そこで各小学校では、総合学習の時間を利用して、英語教育というよりは、英語活動を
するようになった。英語でゲームをしたり、リズム運動をしたりしている。結果、文科省
の調べによれば、公立小学校の93・6%が、何らかの(英語の活動)を、授業の中に取
り入れている。

 しかし現実には、過半数の学校では、月1回か、それ以下だという(以上、「朝日キーワ
ード」2007)。

●現実はどうか?

 日本が国際社会で勝ち抜き、生き残るためには、国際語としての英語教育は、MUST! 
数年前に書いた原稿を、そのままここに転載する。

++++++++++++++++++

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。こ
の数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2002年に入って、マクドナ
ルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、
コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用
しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)に
よる情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとす
れば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ
2を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試
験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や
理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レ
ベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそ
うだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000
近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、1つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。し
かし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(2002年
時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと
多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、
たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学
校の参観日(小1)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、
まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立
高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを
言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているの
がいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「み
んな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、
疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を
支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも
崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内
閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2
000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌク
と生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比では
ない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」
を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに
10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フラン
ス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになってい
る。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、
芸術、コンピュータの科目もある。

芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。
もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科
目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減
しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教え
てくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを
閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っている
のだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。も
っとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方
に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかし
い。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をの
さばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良
な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会
社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から
生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふ
つうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、
それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「ま
だ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言
える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のことも
よくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、
「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身につい
てから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校
では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、
4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立
大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、
教育の目標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も
次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てる
こと」(長野県経営者協会会合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたち
は学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語
を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立た
ない。こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもた
ちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言
葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三
人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌
いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答え
る。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。

「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほ
しい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねば
ならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から
押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけ
ればいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第
3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がな
い。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから
英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子ど
もがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人が
いる。早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気を
なくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育ま
で押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。ある教師(小学5年
担任、女性)はこう言った。

「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかか
えて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそ
れができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもあ
りき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたない
という制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えな
い(バンクーバー市)。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。す
るとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいの
か悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほ
うが多いことも忘れてはいけない。

++++++++++++++++

 「英語を学んだから、日本語がおろそかになる」というのは、根拠のない、まったくの
デマ。ウソ。たしかに乳幼児期に、バイリンガルの環境で子どもを育てると、言語中枢そ
のものの発達に、支障をきたすという報告は、しばしば耳にしている。しかし満5、6歳
以上の子どもには、そうした影響はない。むしろこの時期のほうが、発音にせよ、感覚的
に言語をとらえるため、すなおに身につけてくれる。

 さらに言えば、「美しい日本語」というのは、母親の会話能力によって決まる。母親が、
子どもに向って、「テメエ、殺すぞ!」(実際、ある人がコンビニで耳にした会話)という
ような言い方をしていて、どうして子どもが美しい日本語を話すようになるというのか。

 文章能力(=作文力)にいたっては、英語を学ぶことによって、よい刺激を受けること
はあっても、それで文章がへたになるということは、ない。

 I文科相の発言を聞いていると、「日本もこの程度」と思うと同時に、「日本も、ここま
でだな」と思う。

 ちなみに、現在、アジアの経済の中心地は、東京から、シンガポールに移動している。
アメリカでも、日本の経済ニュースですら、シンガポール発で、配信されている。

 ついでに日本の子どもたちの学力について。5年前に書いた原稿だが、その後、日本の
子どもたちの学力が、よりさがったという話は聞くが、あがったという話は、聞いていな
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 日本の英語教育)

++++++++++++++++++

【公立小中学校・放課後補習について】

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度か
ら導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環
で、全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指
導を行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつ
ませる一石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくす
るのがねらいだという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生
徒に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々
の学力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、
だれしも知っている。順に考えてみよう。

第一、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、
昔から「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに
残り勉強を課するが、子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強
をします」と告げただけで泣き出す子どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅
れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、なおさらである。残り勉強が、
子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためである。

第二、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間
で、パニックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」
と。あるいはかえって受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度
の中で、「優秀」というのは、「受験勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、
こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという問題が、同時に起きてく
る。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりか
えないでほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」な
のだ。どうしてそういうウソをつく! 新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減され
た。わかりやすく言えば、今まで小学四年で学んでいたことを、小学六年で学ぶことにな
る。

しかし一方、私立の小中学校は、従来どおりのカリキュラムで授業を進めている。不利
か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利であ
る。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 
「東京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限り
いませんよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の
改革(?)に不信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単な
ことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆ
る天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁
の中でもダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩
くことによって、死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一
方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。

この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかという
ところにメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、
この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就
職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやと
いうほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はい
つも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を
支配する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、
すべてボロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。その教育改革にしても、
ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は自由選択制の単位
制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、
指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。
いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オー
ストラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしてい
る。しかし検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検
定してはいけないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入
学後の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。
学科はもちろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯
事。なのになぜ日本の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐
れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいの
か?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改
革」というよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに
日本の教育はにっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年
を待たずして、その教育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最
低になる。小中学校や高校の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとん
ど勉強などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく
知っている。その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部
系の学生と、教育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、
一番よく知っている。いわんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習
授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲
弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本
から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確か
に一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教
育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査
よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅
れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世
界はどこまで進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低く
はない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数
の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題
で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)
だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL
(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジア
で日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)
だそうだ。オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロして
いる。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちな
みにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田
丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、
この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政
である。私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不
公平である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まった
くといってよいほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのも
のが、不公平社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて
水泡に帰す。今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、
またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじ
めて「改革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカ
では、すでに教師のインターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。
オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラ
リア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもし
れないが、こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言う
ような改革ではない。で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人には
まだ夢のような話かもしれないが、こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日は
ない。日本に明日はない。なぜなら日本の将来をつくるのは、今の子どもたちだからで
ある。
(02−8−28)※
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本
の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。
以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、
台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメ
リカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教
育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメ
ントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶとい
うメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」
と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で
勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、
テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を
公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結
果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、
小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から
六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛
け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五
七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判
した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑
いようがない。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答
えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。

反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しか
いない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも
考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持してい
ると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学など
を研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点
満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学
の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとっ
たという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
学力 日本の子どもの学力 子供の学力 英語力 (はやし浩司 家庭教育 育児 育
児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education 
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行する日本の教育 自信をなくす日本の若者たち)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●教育の自由化

++++++++++++++++++++

アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。

アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。

++++++++++++++++++++

 アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。18
59〜1952年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考
え、哲学を教育の場で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。

 彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。
それ以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なこ
とを教えることが教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。そ
の方向性に、デューイは、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、ア
メリカには、農業、工業など、実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。

 どうして教育は、実用的であってはいけないのか?

 一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」
という教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山
では、毎日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流
のアカデミック教育が混入した。

 それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。

 が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミ
ックな教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリ
カ流実用主義的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。

 日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。
それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられて
いたからである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたち
の中で、将来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校
における英語教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。

 数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その
方式こそが、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行とい
う名目の、読経、写経。

 なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を
暗記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえば
スペインの小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという
(スペイン在住の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フ
ランス革命について勉強をしているとのこと。

 こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?

 デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」
という、ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にな
らない概念には、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそ
ういう幻想を、教育にいだいてはいけない。

 アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。
そのテーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小
切手の使い方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容と
なっている。

 重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。

 日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以
来の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩
も、抜け出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そ
ういう子どもを嫌う傾向すらある。

 何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子ども
を、優秀な子どもと言ってよいのか?

 ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイか
と言えば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書
教育の上で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うな
ら、歌舞伎という舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、
おのずと、無理がある。

 どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。

 今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方があ
りがたくいただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進
国で、どの国が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定
であって、中国や韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえし
ている。検定も、国定も、どこもちがわない。

 自由なる教育こそが、日本を発展させる。

 これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえ
ば、そこに自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースク
ール)をはじめとして、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。
もちろん失敗も多いという話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、
アメリカの原動力にもなっている。

 ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100
年間の間に、日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省
庁が、戦後こぞって欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに
背を向けた。なぜか? どうしてか? 

 われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)

【付記】

 韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。
「日本には、もう、そんなものは、ありませんヨ〜」と。「そんなものを使っている国は、
全体主義国家だけだヨ〜。ハハハ」と。

 気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。

 それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オー
ストラリアにも、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をする
のは、純然たる民間団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史につ
いては、検定してはいけないことになっている(南オーストラリア州など)。

 自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、
自由化すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、
その子どもたちがつくるのだから。

 で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっ
こい。もしそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっている
はず。ちがいますか?

 さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く
人もいる。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。

 本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?

 もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史とい
うことになれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長〜イ。日本だって、
中国の歴史の一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観
をいうのですね。少なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。

 日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、
こうなる。もとから、かないっこない。

 日本***************(15)
 中国************************************

******************(55)

 日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、
意識革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでい
く。そのための意識革命。

 それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ…
…。(つぶやきでした。)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。
高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。
小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。
誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、
息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。
少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。
そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。
やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏
に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には
際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意は
わからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と
述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に
立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、
そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、
受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、
成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、
それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と
言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、
自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、
私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、
いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、
その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、
ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。
こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、
私は学校の本来、あるべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが
入学してきたら、教師や父母は、どのように反応するだろうか。
さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、
学歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、
文部大臣ももう少し庶民の側におりて、ものを考えてほしいと
思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、
障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。
15年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、
1人の身体に障害のある子どもを入学させようとしたことがある。
そのとき、「そういう子どもが入ってくると、
子どもたちの勉強の進度にさしさわりが出る」と、
反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、
報道されたので、覚えている人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。
が、今、そんな反対運動をすれば、反対に、その親たちが
袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、
親たちの意識が、たしかに今、変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●「公」について(What is "Public"?)

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。いわく
「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬(い
けい)の念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てると
ともに、社会生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づけ
る」と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育
審議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。それによれば、「国や社会など、
『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)することが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは
何か。日本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とあ
る。が、それにしても、抽象的な文章である。実は、ここに大きな落とし穴がある。こう
した審議会などで答申される文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。その
ほうが、官僚たちにとっては、まことにもって都合がよい。解釈のし方によっては、どの
ようにも解釈できるということは、結局は、自分たちの思いどおりに、答申を料理できる。
好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみ
よう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受け
ている人と考えてよい。お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言
うのに似ている。具体的には、「金を出せ」と。しかし仏様がお金を使うわけではない。実
際に使うのは、僧侶。まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い
方をする。要するに「自分を守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。しかし愛「国」心と、そこに「国」と
いう文字を入れるから、どうもすなおになれない。この日本では、国というと、体制を意
味する。戦前の日本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。「民」は、いつも「国」
の道具でしかなかった。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。もともとは、
ラテン語の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。日本語では、
「愛国心」と訳すが、中身はまるで違う。この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、
「愛郷心」「愛土心」となる。「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷
心」という言葉に反発する人はいない。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(か
んよう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮
肉なことに、公務員と呼ばれる人たちではないのか。H市の市役所に三〇年勤めるK市(五
四歳)も私にこう言った。「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証します
よ」と。

とくに長年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことは
いっさいしない。情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利
用している。そういう姿勢が身につくから、ますます公僕心が薄れる。恐らく戦争にな
れば、イの一番に逃げ出すのが、官僚を中心とする公務員ではないのか。そんなことは、
先の戦争で実証ずみ。ソ連が戦争に参画してきたとき、あの満州から、イの一番に逃げ
てきたのは、軍属と官僚だった。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感するこ
とである。もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるとい
う意識をもつことである。とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、こ
れは当然のことではないのか。そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が
生まれる。「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれ
る。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使
える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが
今まで、日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をしめ
たという(読売新聞)。私もそう思う。まったく同感である。言いかえると、「個人」が確
立しないまま、「公」が先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてしまう。あるいは日本
が、あの北朝鮮のような国にならないともかぎらない。それだけは何としても、避けなけ
ればならない。

 再び台頭する復古主義。どこか軍国主義の臭いすらする。教育の世界でも今、極右勢力
が、力を伸ばし始めている。S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生
まれた。それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさ
ねばならない。このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていき
たい。
(02−11−4)

(読者のみなさんへ)
 私の意見に賛成してくださいそうな人がいたら、この記事を転送していただけませんか。
みなさんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくな
ります。みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 公僕意識 公教育 道徳教
育)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●明治の偉勲たち(Our leaders in Meiji Period)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 負の遺産 復古主義 教育
の復古主義 武士道 封建主義の亡霊 封建主義的教育)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 12日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育て・ワンポイント】(One Point Advices for Young Mothers)

●作文の前に、速書きの練習を

計算力は、算数の力の基礎である。計算力があるからといって、算数の力があるというこ
とにはならない。しかし計算力がないと、算数の力を下へ引っ張ってしまう。同じように、
速書きは、作文力(表現力)の基礎である。速く書くことができるからといって、作文力
があるということにはならない。しかし速く書くことができないと、作文力を発揮できな
い。小1〜2レベルで、15分間に、100〜150文字を筆写できるようにするのを目
標とする。


●国語力が、学力の基礎

理科は、理科的な国語、社会は、社会的な国語と考える。国語力(読解力、理解力、表現
力)のあるなしは、すべての科目に大きな影響を与える。「本を読む」、つまり読書の重要
性は、今さら説明するまでもない。方法としては、大きな図書館で、子どもを自由に遊ば
せてみるとよい。それを定期的な習慣にする。


●会話は、正しい日本語で!

「ほら、バス、バス、バスよ」ではなく、「もうすぐ、バスが来ます。あなたは外に立って、
バスを待ちます」と言う。こうした正しい言い方が、子どもの国語力の基礎となる。子ど
もの国語力は、親、とくに母親が決める。なおこうした語りかけは、生後直後から始める。
赤ちゃん言葉(ウマウマ、ブーブーなど)、幼稚語(ワンワン、ニャーゴなど)は、避ける。


●思考は作文力で

これだけ視覚情報(テレビやゲーム)が多い中、さらにその上、右脳教育をあえてする必
要はないのではないか。それよりも大切なのは、分析力、論理的な思考力。こうした能力
は左脳が司っていると言われている。その分析力、思考力は、左脳が司る。分析力、思考
力を養うには、作文が第一。作文に始まって、作文に終わる。ものを書くという習慣を大
切に。


●思考と情報を分ける

もの知りだからといって、その子どもに思考力があるということにはならない。かけ算の
九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに算数の力があるということにはな
らない。思考と情報は、いつも分けて考える。思考力のある子どもの目つきは、いつも深
く、静かに落ち着いている。


●「文化」は、心の体力

その人(子ども)の精神的な深みは、日ごろの文化性で決まる。何かの事件に遭遇したと
き、あわてふためいて、ボロを出す人もいれば、そうでない人もいる。そのためにも、子
どもには、日ごろから、本物を見せておく。絵画でも音楽でも、さらに子どもが読む絵本
にしても、本物を見せておく。そういう日ごろの姿勢が、子どもの中の文化性を高める。
それが精神的な深みとなって、その人(子ども)を側面から支える。


●反面教師のゴーストに注意

あなたの周囲にも、反面教師と呼んでよいような人がいるかもしれない。ひょっとしたら、
あなたの親が、そうであるかもしれない。人は(子どもも)、反面教師を教師として、自分
を高めることができるが、対処のし方を誤ると、あなた自身が、いつかその反面教師そっ
くりの人間になることもある。これを「ゴースト」という。反面教師がいても、批判のた
めの批判だけに終わってはいけない。どこかでその人を乗り越える努力を忘れてはいけな
い。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(2月11日)

●死亡率64%(The Death Rate is 64%!)

A Department of Health announced that two high cause of a disease bird influenza 
(H5N1) infection people were confirmed newly for four days. According to WHO, as for 
the total of the infection person, the number of dead persons was 229 people 359 
people.(Feb. 5th 2008). This means 64 % of people die from bird influenza.

++++++++++++++++++

弱気と強気の交錯する中、
昨日は、ワイフと2人で、浜松市内を散策した。

市内から、浜松城へ、美術館を回り、そのあと
鴨江神社へ。

観光用のビデオを収録した。

「家の中で、悶々としていると、心が腐る」ということで、
そうした。

このところ、弱気と強気が、交互に心の中にやってくる。

「もう、だめかな?」という弱気。
「人生、これからだ!」という強気。

「とにかく、生きているんだから」とワイフは言う。
「元気で、生きているんだから、感謝しなくちゃア」とも。

一方、「そこまで自分を落とさなければならないのか」という私の思い。
「生きているだけでいい」という思いで、生きるのも、つらい。

途中、浜松城公園のベンチに座って、弁当を食べた。
寒さもゆるみ、どこか春めいた風。
気持ちよかった。楽しかった。

で、家に帰ると、足が痛かった。
たっぷり、7キロは歩いた。
歩数にすれば、1万歩以上。

夜は、ワイフと、ゴア元副大統領が制作したという、
『不都合な真実 (an inconvenient truth) 』というDVDを見た。
地球温暖化の問題は、ますます深刻化している。
いろいろ考えさせられた。

ところで、こんな恐ろしい話も伝わってきている。

中国で鳥インフルエンザ(高病原性鳥インフルエンザ)が流行するのは、
もはや時間の問題ということらしい。

仮に日本で1人の患者が発生すると、1週間後には、
数千万人の人が罹患するという。
死亡率は、2%以上。日本だけでも、100万人単位の
人が、それで死ぬかもしれないという。

WHOの報告(08年2月5日)によれば、
全世界で、すでに359人が感染し、229人が
死亡しているという。

WHOの、この数字で見るかぎり、死亡率は、ナント、64%
ということになる。

(64%だぞ!)

初期症状について、「ヤフー・ヘルスケア」には、つぎのようにある。

『……従来のインフルエンザと同様に、突然の高熱、悪寒、筋肉痛や関節痛がみられます。
このほかに、咳や息切れといった呼吸器症状や、下痢などの消化器症状がみられます。こ
れは、従来のインフルエンザウイルスが鼻やのどなどのいわゆる上気道に感染しやすいの
に比べ、鳥インフルエンザウイルスは、上気道のみならず気管支や肺などのいわゆる下気
道に至る呼吸器全般にのみならず、小腸などの消化器に至る広い範囲に感染するためとさ
れています。

このようにヒトの体の至るところに感染が起こった結果、過剰に起こった炎症反応が、ウ
イルスのみならず肺などの自分の臓器までも障害することにより、呼吸不全をきたし、時
に死に至ると考えられています。

鳥インフルエンザは1997年香港にて集団発生があり、その後2004年頃から再び世界中で
散発的な発生が確認されていますが、その臨床症状は年次を追うことに激烈となり、とく
に呼吸障害の発生率は高まっています。このことから、鳥インフルエンザウイルスの変異
に伴う病原性は次第に高まり、感染時の症状も激烈なものになっていることが考えられま
す』と。

また農林水産省は、つぎのような報告書を出している。

『……保健省は(2月)4日、新たに2人の高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)感染者
を確認したと発表した。うち、バンテン州出身の29歳の女性はすでに死亡している。感染
者の累計は126人、死者数は103人となった。

一方、先月29日にH5N1で死亡した男性(32)の遺族は4日、入院していた2病院を告訴
した。訴えによると、男性が24日に入院した同州タンゲランのバクティ・アシ・タンゲラ
ン病院ではデング熱と誤診された上、デング熱治療に必要な輸血も受けられなかった。ま
た、26日に転院した東ジャカルタのプルサハバタン病院では、手術の同意を求められなか
ったにもかかわらず、遺体には胸や腹部に切開のあとがあるという』と。

 日本のどこかで鳥インフルエンザの患者が発生したら、即、臨戦態勢。

(1)マスク、手洗い、手の消毒(エタノール消毒)は、かならず、励行。
(2)食料品を、ある程度買いだめをしておく。
(3)外出をひかえ、人との接触を少なくする。

 弱気な私だが、まだまだ死にたくない。やりたいことは、山のようにある。
(08年2月11日記)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)
The death rate is 64%~82%. H5N1 has been spreading out without doubt.

昨日も書いたが、高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)
が、じわじわと、不気味な広がりを見せつつある。
年を追うごとに、「臨床症状は激烈となり」(ヤフー・
ヘルスケア)とある。

WHOの報告では、死亡率は、64%。
(359人が感染、229人が死亡。)

日本の保健省の報告によれば、126人が
感染し、死亡者は、103人とか(2月4日)。

保健省の数字で計算すると、死亡率は、
82%ということになる。

82%といえば、がんによる死亡率を
はるかに超える。

しかしこの不気味な静けさは、いったい、
何なのか?

だれもがそこにある脅威を肌で感じつつ、
だれも、何ごともないかのような顔をして、
生活している。

が、ここで待ったア!

仮にこの日本で1人の感染者が出たとすると、
その感染者の潜伏期間のうちだけで、すでに
数万人から数10万人の人に、H5N1は
広がっているとみる。

そしてそれらの人がH5N1を発症するころ
には、さらにその数万倍の人たちにH5N1が
広がっていることになる。

感染力は、従来のインフルエンザどころでは
ない。

だからこの日本で感染者が出てから対策を
考えても遅い。

ただ今のところ、「家禽(かきん)と、濃密な
接触のあった人だけが感染している」という
ことだから、それほどあわてる必要はない
かもしれない。

しかしそれも「時間の問題」とか。
「鳥インフルエンザが、人インフルエンザに
変異するのは、時間の問題」(WHO)と。

こんな恐ろしい病気が流行したら、世界は
どうなるか。経済活動そのものが崩壊する。
医療機関そのものも崩壊するかもしれない。

私たちの健康は、私たち自身が守るしかない。
私も今日から、外出するときは、マスクがけを
励行する。
February 12, 2008

(補注)

こうした問題がつぎからつぎへと起こると、
悲観的な見方から、一気に、自滅的な見方に
拡大する人が出てくるかもしれない。

「世界は、これでもう、おしまい」とか何とか。
あるいは人の不安につけこんで、わけの
わからないことを言う人が出てくるかもしれない。
すでにその種のカルト教団が、動き出している。
「天罰」「神の裁き」とか、何とか。

しかしそれは、まちがっている。

たしかに今、私たちは大きな問題をかかえて
いる。が、どれも解決できない問題ではない。
私たちがやるべきこと、できることは、山の
ようにある。

けっして自暴自棄になってはいけない。
また自暴自棄になっている人に、耳を傾けて
はいけない。

私たちは戦う。その戦うところに、生きる
意味がある!


+++++++++++++++++++

●人獣共通感染症(ズーノーシス)

「人獣共通感染症」というのがある。何もH5N1だけが
人獣共通感染症というわけではない。

ざっと並べてみる。

ニパウィルス
ハンタウィルス
SARSコロナウィルス
西ナイル熱
ラッサ熱
エボラ・マールブルグ・出血熱
出血性大腸菌症
肺ペスト
レプトスピラ病、ほか。

現在1709種類の感染症が確認されているが、
そのうちの約半数が、人獣共通感染症と言われている。

もともとは自然宿主である、特定の獣とだけに共存していた
ウィルスが、地球温暖化や環境の変化により、変異して、
人間を襲うようになったと考えるとわかりやすい。

SARSコロナウィルスもそのひとつだが、今ではあの
ときの騒動を覚えている人は、少ない。

しかしこれで驚いてはいけない。

この自然界には、「生きていて代謝機能を維持しているが、
培養できない状態の菌」(藤田紘一郎・日本の論点08)が、
まだ「いっぱい、いる」という。

「これらの中には、よく知られた病原性大腸菌O157や
コレラ菌」がある、と。

こうした菌が、ひとたび人類を襲い始めたら、人類は
どうなるか。「まさに絶滅の危機に迎えるという」(同氏)。

地球温暖化は、何も、環境だけの問題ではすまないと
いうことらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●鳥インフルエンザ

+++++++++++++++++

あれほど騒いだ鳥インフルエンザも、
今は、話題のひとつ?

しかし恐ろしさは、変わらない。
エイズにしても、そうだ。
当初は、たった1人の発病者に、
日本中が、動転した。
しかし今は、病気のひとつ?

鳥インフルエンザは、すぐそこまで
迫っている。

インドネシア保健省の発表によると、
同国の感染者は、127日(2月14日
現在)。死亡者は、103人(同日現在)。

死亡率は、ナント、81%!

人から人への感染は、まだ確認されて
いないが、しかし「時間の問題」(WHO)
とか。

ひとたび感染力をもったら、中国本土だけで
「最悪のばあい、2800万人もの死者が
出るだろう」(オーストラリア政府)と
いわれている。

「日本はだいじょうぶ」と考えるのは、
早計。「むしろ日本のほうが、あぶない」と
いうことらしい。

「清潔好きなのはよいが、その分、
免疫性がないから」だ、そうだ。

東京で1人の発症者が出たら、その翌週には、
数万〜数百万人以上もの感染者が発生するだろう
といわれている。

++++++++++++++++

●日本経済新聞は、つぎのように伝える。

【ジャカルタ=代慶達也】インドネシア保健省は14日、ジャカルタに住む母親と娘が鳥
インフルエンザに感染したことを明らかにした。同国の感染者は127人(死者は103
人)で世界最多。今回は人から人への感染の疑いもあるため、同省と世界保健機関(WH
O)が感染経路の調査に乗り出す。 

 感染したのは西ジャカルタの38歳の母親と14歳の娘。2月3日に母親が感染、11
日に娘の感染が確認された。2人は鶏を放し飼いにしている祖母の家で感染した可能性が
高いが、「従来型の鳥から人への感染か、新たな人から人への感染かについては調査中」(同
省)としている。 

 インドネシアでは06年にスマトラ島北部で人から人への限定的な感染が起こったケー
スが報告されているが、ジャカルタのあるジャワ島での報告例はまだない。同国の感染死
者は全世界の4割を超え、今年に入っても9人が死亡している。 (00:28)
(日本経済新聞2月14日)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●復刻版(Reprinted Edition of Books)

+++++++++++++++++

日本だけのことかと思っていたら、
世界でも、そうだという。

欧米で、Pブックスと言えば、知らぬ
人はいない。

そのPブックスでも、復刻版だけが、
この出版不況下にあって、売り上げを
伸ばしているという。

復刻版というのは、著作権の切れた、
日本でいう、古典的な本をいう。
たとえば夏目漱石の本とか、森鴎外の
本など。

オーストラリアのPブックスの支店に
勤める、Tさん(女性)が、そう話して
くれた。

++++++++++++++++++

●私のおしゃれ(My Fashion)

私には私流のおしゃれのし方がある。
たとえば映画『大脱走』に出てくる、スティーブ・
マクウィーンの服装をまねるとか、
『タクシードライバー』に出てくる、
ロバート・ディニーロの服装をまねるとか、など。

今日は、ロバート・ディニーロの『タクシー
ドライバー』の服装で決めた。

髪の毛は、ぼさぼさ。赤いチェックのシャツに、
タンク兵のジャンパー。もちろん左肩には、
「キング・コング」のワッペン。

「キング・コング」というのは、戦車部隊の名前である。
またジャンパーの背中には、「BICKLE.T」の文字も
印刷されている。
『タクシードライバー』の中の主人公の名前である。

それを着て、オーストラリアの友人に会うと、すかさず、
「Are you talking to me?」(君は、オレに話しかけて
いるのか?)と。

「それは何だ?」と聞くと、「ロバート・ディニーロが、
映画の中で言った、セリフだ」と。

知らなかった!

すかさず私がまねをして、「Are you talking to me?」と
言うと、「そんなやさしい言い方ではだめだ。
もっと、相手を脅かすような言い方をしろ」と。

さすが、本場。日本でこの服装をしていても、それに
気づく人は、まず、いない。

右手を伸ばし、相手を指差しながら、そう言うのだ
そうだ。

ナルホド!
また新しいことを学んだ。
これからは、その服装をしたら、みなの前で、
こう言ってみよう。

「Are you talking to me?」と。

+++++++++++++++++++++++

●ジョーク(Who is the President of China?)

アメリカのブッシュ大統領が、ライス国務長官に
こう聞いた。

「中国の主席は誰だ?」(フー・イズ・・・?)と。

それに答えて、ライス国務長官がこう答えた。

「フー(胡)が、中国の主席です」(フー・イズ・・・・)と。

わかるかな、このジョーク。

日本では、「コ・キントウ」と、音読みにする。
しかし正しくは、「胡」は、「フー」だそうだ。

わかるかな、このジョーク。

++++++++++++++++++++

●毒入りギョーザ事件(Poisoned Chinese Food)

中国政府が、とんでもない声明を発表した。
「ギョーザに毒を入れたのは、中国側ではない」
「中国側で、毒を入れるのは、不可能」(2月13日)と。

結構!

そういう声明を出すらなら出すで、かえって
日本人は、中国食品に不信感をもつだけ。

買うか、買わないかを決めるのは、この私たち。

どうぞ、ご勝手に!

「だれが、ギョーザに毒を入れたか?」(Who put poison into Gyo-za?)
「フーが、ギョーザに毒を入れた」(Ho put poison into Gyoza.)


●捕鯨反対(What is "Research Whaling"?)

オーストラリアの友人が、こう言った。
オーストラリアでは、連日、日本の捕鯨船の話が、
新聞のトップ記事になっている。

が、日本へ来てみて、それがまったく話題になって
いないのに、驚いた、と。

オ「どうして、日本政府は、捕鯨を容認しているのか?」
私「どこかの地方の利権問題とからんでいるからだ」
オ「オーストラリアでは、大問題だ」
私「おおいに問題にして、日本の捕鯨船団を、追い出せばいい」
オ「いいのか?」
私「かまわない。だいたい調査捕鯨という名前が、おかしい。
『調査』といいながら、実際には、クジラを殺して、肉を取っている。
その肉は、東京の赤坂あたりでは、珍味として、もてはやされている。
つまり政治家の胃袋に入るだけ」と。

日本も、もう、こういうインチキなことはやめようではないか。
何が、「調査」だ? 「調査捕鯨」だ?
笑わせるな!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●友、逝(ゆ)く

昨夜遅く、30年来の友が、急逝(きゅうせい)した。
その連絡が、友の妻から、今朝、入った。
「突然でした・・・」と、妻は言った。
「ぼくも覚悟していましたが・・・」と言ったきり、言葉がつづかなかった。

10年ほど前、脳梗塞で倒れ、それ以来は、ずっとリハビリをつづけていた。
つい先週、施設から病院へ移ったという。
そんな連絡を受けたばかりだった。

その友との思い出が、走馬灯のように、頭の中を横切る。

手紙を出すたびに、かならず返事をくれた。
脳梗塞をしてからというもの、文字は乱れ、傾いたままだった。
読みづらい文字だった。

で、たまたま遊びに行ったときのこと。
偶然、道端で、その友に会った。
「どこへ行くの?」と声をかけると、「ちょうど、あなたのところに手紙を出すところです」
と。

私は、友の体を支えて、ポストまでいっしょに歩いた。
「ここで手紙を渡してもいいのですが、切手を張ってしまいましたから」「ポストへ入れま
す」と。
私と友は、大声で笑った。

今夜は、通夜。
葬儀は明日。

ポーランドのボランスキー博士という人物に傾注し、その学者の本を何冊も翻訳している。
ポーランドで、厚生大臣を務めたこともあると聞いている。
私はそのボランスキー博士に2度ほど、会ったことがある。
その友が紹介してくれた。

・・・などなど。こうして私のまわりから、また大切な人が、1人、消えた。

今は、さみしいというより、まだその事実を受け入れられないでいる。

おかしなことに、ほんとうに、おかしなことに、目の前の時計だけは、相変わらず、カチ
カチと音をたてて回っている。空は青く、空気は澄んでいる。

こういう現実を、どう理解したらよいのか。

2008年2月11日


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●逝った人

逝(い)った人は、静かだ。
ほんとうに静かだ。
まるで何ごともなかったかのように、この世を去っていく。
そして時だけは、何ごともなかったかのように、過ぎていく。

だれのことでもない。
それは私のこと。
あなたのこと。

いつか私やあなたも、この世界を去る。
しかしこの世界は、何も変わらない。
そしてそのときから、時だけは、何ごともなかったかのように、過ぎていく。

その不思議さ。
その深淵さ。

逝った人は、ほんとうに静かだ。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●グレグ・ケッツ

実は、もう一人、昔の友が逝った。

オーストラリアの別の友人から、連絡が入った。
名前を、グレグ・ケッツという。
マッド・レンガ(泥レンガ)の研究者で、
その世界では、よく知られた人物である。
何冊か、本も書きのこしている。

「ケッツ」というのは、聞きなれない名前だが、
お父さんが、中国人だったからだそうだ。

「2年前に死んだ」と、その友人は言った。

「若すぎるのに(So young?)」と言うと、
「そうだ(Yes)」と。

グレグの思い出というより、グレグのガールフレンドのほうが
印象に強く、残っている。

かなりはげしい気性の女性で、何か気に食わないことがあると、
ギャーギャーと騒いだ。怒ったり、泣きわめいたりした。

そんなガールフレンドをグレグはもてあましていたが、
別れることもしなかった。

そのあとその女性と結婚したかどうかは、知らない。

グレグの話をしながら、頭の中ではあのガールフレンドの
ことを思い浮かべていた。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●生きている人

いくつか悲しみが重なった。
そんな思いで、子どもたちに会うと、
子どもたちは、いつもの子どもたち。

明るく、屈託がない。
ワイワイと、いつものように騒いでいる。
そこはまったくの別世界。
生きる力が、満ちあふれている。

その落差。
信じられないほどの落差。
その落差は、どうすれば、心の中で
埋めることができるのか。

「この子たちも、いつかは死ぬのか?」と
思ったところで、思考が止まってしまった。

こちらはこちらの世界。
あちらはあちらの世界。

そう割り切ることの、残酷さ。
ニヒリズム。

死んでいく人は、ほんとうに静かだ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2437)

●友の死を悼む

My friend over 30 years has passed away and I had an honor to say good-bye to him in 
his funeral party. I could hardly say words with too much tears but I did.

++++++++++++

30年来の友が逝った。
弔辞を読ませてもらった。
あふれ出る涙を、必死で
こらえながら、そして
声をふりしぼりながら、
私は、弔辞を読んだ。

涙を出すつもりはなかった。
しかし友の遺影と対峙したとき、
万感の思いが、のどを詰まらせた。
私は原稿を下にたらした。
そして私の心の中にあるもの
を、遺影だけを見つめながら、
友に語った。

私はあふれ出る涙を、どうする
こともできなかった。

2008年2月12日

++++++++++++

弔辞

○○大先生へ

時の流れは、風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、そしてまたどこかへと去っていく。
「時よ、止まれ」と何度、その風をつかんでも、
その風は、指の間をすりぬけて、またどこかへ行ってしまう。

○○先生、あなたは、今、その風に乗って、天上界へ行かれたのですね。
古来より、善き人は、金の橋を渡って、天上界へ行くと言われています。
先生は、今ごろは、その金の橋の上から、私たちを、見おろしておられるのですね。
心から、ご冥福を、お祈り申し上げます。

○○先生からいただいた思い出は、数多くあります。
岐阜県M市の平田先生を、共通の師とあおぎ、ときに激論を戦わせたこともありますね。
私の山荘でいっしょに過ごした日々、ポーランドのボランスキー博士を紹介してもらった
ことなどなど。

しかしこんなことがありましたね。

ある日私が先生のところへおうかがいしようと、路地を回ったときのこと、
そこで先生を見かけました。
「どこへ?」と声をかけると、「角のポストにハガキを出しにいくところです」と。

見ると、私あてのハガキでした。そこで私が、「ここでいただきましょうか」と言うと、先
生は、軽やかに笑いながら、「切手が張ってありますから」「運動になりますから」と。

私たちはたがいの体を支え合いながら、ハハハ、ハハハと笑いながら、そのまま歩きまし
たね。
春の、のどかな一日でした。

この小さなできごとの中に、先生のお人柄、温もり、やさしさ、まじめさ、すべてが集約
されているように思います。

身分も立場も、まるでちがうにもかかわらず、先生は私のことを、最後の最後まで、「先生」
「先生」と呼んでくださいました。

ありがとうございました。

こうして先生の弔辞を読ませていただくことを、光栄に思います。
最後になりますが、重ねて先生の、ご冥福をお祈り申し上げます。
先生、長い間、ごくろうさまでした。

どうか、心安らかに、お眠りください。


浜松市
はやし浩司

February 13, 2008

Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●底なしのサブプライム・ローン問題
The sub-prime loan problem is becoming serious without the bottom. 

++++++++++++++++

さらに底なしの様相を見せ始めている、
アメリカのサブプライム・ローン問題。
金額を言われてもピンとこないが、金融機関
や証券業界がかかえる損失は、株価の暴落
という副次的被害も含めて、当初の予想の
10倍以上とも言われている※。

日本円にして、1000兆円以上(某
経済誌)。

日本の国家予算が、50〜60兆円の幅だから、
その額は、まさに天文学的数字。

「当初から日本の比ではない……」とは、
思っていた。そのことは、アメリカの大都市の
郊外を散歩してみれば、わかる。

日本でいう、大邸宅が、当たり前のように
並んでいる。そしてそれほどたいした仕事を
していない人たちまで、日本では考えられ
ないほど、リッチな生活を楽しんでいる。

土地や住宅価格が上昇しつづけている間は、
そうした生活の可能だったかもしれない。
しかしひとたび、下落に転じたとたん、
この始末。

銀行は、サブプライム・ローンを債権化して
証券業界や金融機関に売りつけた。その債権に
世界中の証券業界や金融機関が、高金利につら
れて、群がった。

が、今や、その債権は、10分の1の値段でも
買い手がつかないという(同誌)。

今朝のニュースによれば、またまたアメリカの
株価は、100ドル近くも値をさげたという
(2月11日)。

アメリカ発の大激震は、この日本の土台まで
揺るがしている。「だいじょうぶか、日本?」と
書きたいが、本当は、「いつまでもちかたえる
ことができるか?」というところかもしれない。

(注※)
08年2月、アメリカの投資情報会社・スタンダード&プアーズ社の統計によると、今年
1月世界各国の証券市場の株価は下落、時価総額は合計で5兆2000億ドル(559兆円)
減少したという。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 10日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●正直な子ども

+++++++++++++++

「うちの子は、すぐウソをつく」と
悩んでいる親は多い。

しかしその前に、ほんの少し、
こんなことも反省してみてほしい。

子どもがものを正直に言える
家庭環境になっているかどうか、と。

++++++++++++++++

 A先生(現在、A小学校教頭)と、昨夜1時間ほど、電話で話す。その中で、「正直な子
ども」という言葉が出てきた。A先生は、こう言う。「正直な子どもに育てるためには、正
直にものが言える環境がなければなりませんよね」と。まったく、同感である。

 そのA小学校で、こんなことがあったという。

 ある日、一人の母親が、「どうしても校長に話したいことがある」と言ってやってきた。
話を聞くと、「担任のX教師に、たいへんな問題がある」と。で、その日は、あいにくと校
長は外出中。かわりにA先生が、その母親の話を聞くことになった。

 母親は、こう言ったという。

 「担任のX教師は、勉強ができない子どもを、棒をもってきて、頭をたたく。うちの娘
は、それにおびえて、学校へ行きたくないと言い出した」と。

 で、A先生は、その話を校長に伝えておきますとだけ話して、その日は、母親に帰って
もらった。母親は、何度も「この件は、X教師には、内密に」と言ったという。が、そん
な話を内密にすませる教頭は、いない。母親が帰ったあと、A先生は、X教師を呼んで、
事情を聞いた。

 X教師は、こう説明した。

 「まったく、身に覚えがない」「プリントを丸めて、子どもの頭をたたくようなことはし
たことがあるが、しかしその子どもには、したことがない」「その子どもは、最近、忘れ物
が多くて、昨日も、強く注意したところ」と。

 話の内容をまとめると、こういうことらしい。

 忘れ物が多いので、その母親の子どもに、X教師は、こう言った。「明日、○○を忘れた
ら、お母さんに、電話するからね」と。X教師にしてみれば、軽いおどしのつもりだった。
が、その子どもは、それを真に受けた。そこでその子どもは、先手を取る形で、家に帰っ
てから、母親に、X教師の悪口を言い始めた。「勉強ができない子どもを、棒をもってきて、
頭をたたく」という話は、そのとき、出てきたらしい。

 よくある話である。子どもだから、ウソはつかないはずというのは、幻想。学習塾でも、
おけいこ塾でも、子どもは、やめたくなっても、親には、「やめたい」とは言わない。そう
いうときは、まず、先生の悪口を言い始める。つまりそういう形で、親をして、「そんな塾
ならやめなさい」と思うようにしむける。

 だからある音楽教室の先生は、こう言った。「そういう子どもの親というのは、教室をや
めるときには、蹴飛ばすようにしてやめていきますから、わかります」と。

 私にも似たような経験はいくつかある。そういう話をA先生に話すと、A先生は、こう言った。

 「どこまでこういう問題に首をつっこんでいいものか、いつも、それに悩みます。実は、
こんなこともありました」と。

 その小学校で、家庭教育講演会を開いたという。そのとき、担当の若い先生が、お知ら
せに、「……子育てで失敗しないためにも、ぜひ、みなさんの参加を……」と書いたという。
そのお知らせについて、猛反発した母親がいたという。「失敗とは何だ!」「失敗という言
葉が許せない!」「子育てをしている親に対して、失礼だ!」と。ものすごい剣幕だったと
いう。

 しかしこういう事件が重なると、現場の教師たちは、ますます萎縮する。やる気をなく
す。若い教師なら、なおさらである。

私「結局、まあ、親しだいということになりますね」
A「しかし、その親も、表面からはわかりませんから……。どこまで信用して話していい
ものかどうか、それについても悩みます」
私「親との信頼関係をつくるのにも、1、2年はかかります。『この人なら、だいじょうぶ。
何を話しても心配ない』という確信を得るようになるまでには、何年もかかります。今は、
それができない時代かもしれませんね」と。

 で、先の子どもの話に戻った。

 本来なら、子どもは正直でなければならない。が、それには条件がある。子どもが正直
に、何でも話せるような家庭環境がなければならないということ。それがないと、子ども
は、ウソをつくようになる。親は、「うちの子はウソをつく。どうしたらいいか」と悩むが、
それこそ、親の身勝手。正直に話せないから、ウソをつく。

 神経質で強圧的な家庭環境。親が権威主義であってもいけない。そんなことは、子ども
の立場で考えてみれば、すぐわかる。先にあげた子どものケースにしても、本当の問題は、
親自身にある。今どき、生徒を棒でたたくような教師は、いない。少し冷静になれば、そ
んなことは、だれにだってわかるはず。

 そうそう、A先生が、その母親に、「棒でたたくということはありえません」と言うと、
その母親は、こう叫んだという。「うちの子は、ウソはつきません。あなたは、うちの子が、
ウソをついていると言うのですか!」と。

 何ともドロドロした話だが、たがいにこういうグチでも言いあわないと、やりきれない
のが、この世界。A先生は、最後にこう言った。「平成時代は、教師、受難の時代。いつか
この時代を振りかえって、そう位置づける人も出てくるでしょう」と。それについても、
まったく同感! 

 以上、一言、学校の先生のほうの立場から、先生側の言い分を、代弁してみた。
(はやし浩司 子供の虚言 虚言癖 子供の嘘 嘘をつく子供 虚言)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心気症

++++++++++++++++++

ささいな病気を、ことさら大げさに
考えて、心配する。不安になる。

「もしや……?!」と思って、悩む。

そういうのを「心気症」という。

何を隠そう、私がその心気症なのだア!

++++++++++++++++++

 病気でもないのに、自分の心身のささいな変調にこだわり、苦痛を訴える症状を、心気
症という(「心理学用語辞典」・かんき出版)。

 つまりささいな病状を、ことさら大げさに考えて、あたふたと心配する。「もしや…
…!?」と思うこともある。つまり「がんではないか?」と。そういう症状を、心気症と
いう。

 「心気症」という用語があるほどだから、かなり一般的な症状と考えてよい。不安神経
症、あるいは強迫神経症の仲間と考えてよい。とくに病気と結びついた不安神経症、ある
いは強迫神経症を、「心気症」という。

 程度の差もあるのだろうが、何を隠そう、私が、その心気症なのだ。実は、数日前もあ
った!

 夜中に目が覚めると、のどが乾いたようになって、痛い。が、よく観察してみると、右
側の奥歯が痛い。ズーンとした痛み。その痛みが、のどから、上の歯のほうまで、響く。

 その奥歯は、治療して、金冠がかぶせてあるはず。指を口の中に入れて、その歯をさわ
ってみる。が、さわった感じでは、どうということはない。もっと奥のほうから痛みが骨
のほうに伝わっている。そんな感じがする。

 「風邪で、歯が痛むというようなことはあるだろうか?」と、最初は、そう考えた。し
かしそんなことはありえない。

 夜、ふとんの中で、暗い天井を見あげながら、いろいろ考える。考えては、それを打ち
消す。「しかし……。もしや……?」と。

 数年前に、脳腫瘍で死んだ、友人のことを思い浮かべる。その彼は、こう言っていた。
私が、「ぼくも、よく頭痛に悩むよ」と言うと、「林、何を、バカなことを言っているんだ!
あのな、脳腫瘍の痛さは、想像もつかん痛さだよ」と。

 どんな痛さだろうと考えながら、口の中から伝わってくる痛さに、静かに耐える。眠れ
ないほどの痛さということでもないが、しかし安眠できるような状態でもない。

 「しかし、初期症状というのもあるだろう。初期症状のときは、それほど、痛くないの
かもしれない。だんだんと痛くなって、やがて耐えきれなくなる……」「このまま、痛みが
どんどんひどくなったら、どうしよう?」と。

 横を見ると、ワイフが軽い寝息をたてていた。起こすのも悪いと思って、じっとそのま
まにしている。10分、20分……。と、そのとき、ワイフの寝息が止まった。モゾモゾ
と体を動かした。すかさず、話しかけた。

 「なあ、風邪みたいだよ……」
 「風邪……?」
 「なあ、歯が痛いよ……」
 「薬をのんだら……?」
 「うん……」と。 

 私は起きあがって、台所へ行くと、バナナとジュースをお湯に溶かしたものをもってき
た。枕元にはいつも、薬が一式、置いてある。湿布薬に頭痛薬、睡眠薬に精神安定剤、そ
のほかもろもろの漢方薬にハーブなどなど。もちろん風邪薬も置いてある。

 「どれにしようか?」
 「風邪薬にしたら?」
 「でも、歯が痛い……」
 「だったら、バッファリンがいいんじゃない?」
 「うん、……ノーシンではだめだろうか?」
 「じゃあ、それにしたら」
 「うん」と。

 私はバナナを食べながら、ジュースを飲んだ。時計を見ると、午前4時を少し回ったと
ころ。時計を見ながら、粉薬を口に入れた。

 「なあ、がんじゃないだろうか?」
 「どうしてがんなの?」
 「骨の奥が痛い……」
 「どんなふうに?」
 「ズーン、ズーンと痛い」
 「きっと虫歯よ」
 「だって、ちゃんと治療したところだよ」
 「金冠の中で、虫歯になることだってあるわよ」
 「そうかなあ……?」と。

 この世界には、骨まで腐るという、恐ろしいがんもあるそうだ。詳しい病名は知らない
が、昔、そんな病気になった女性の映画を見たことがある。私はそれかもしれないと思っ
た。思いながら、「ああ、これでぼくも死ぬ……」と思った。

 「このまま死んだら、どうしよう?」
 「死なないわよ」
 「どうして?」
 「バカねえ、虫歯で死んだ人の話なんか、聞いたことないわよ」
 「虫歯かねえ……?」
 「虫歯よ。ハーッて息を吐いてみたら」
 (ハーッ)
 「……おかしいわね、虫歯臭くないわよ」
 「だろ、虫歯じゃあ、ないよ」と。

 不安で、心臓がドキドキするのがわかった。いやな気分だ。ただほかに風邪の症状もあ
ったので、それに希望をつないだ。「風邪だ、風邪だ。これは風邪による症状だ」と。しか
し風邪で歯が痛くなったという話は、聞いたことがない。そう考えたとたん、また不安に
なった。

 で、その朝は結局、そのまま起きた。ふだんならそのまま書斎に入って原稿を書くのだ
が、そんな気は起きなかった。「まだ、やりたいことはあるのに……」「まだ、58歳じゃ、
ないか」「がんとわかっても、ぼくは治療しない。そのままオーストラリアへ行く」などと、
あれこれ考える。

 が、しばらく体を起こしていると、痛みがやわらいできた。薬がきいてきた。

 こういうとき、私のような心気症の人間は、頭の中で、2人の人間が戦うような状態に
なる。ボクシングで言えば、デス・マッチのようなもの。どちらか一方が死ぬまで、戦う。

 「風邪だ、虫歯だ! お前は、バカだ。いつもの取り越し苦労だ!」
 「何だと! 油断していると、命取りになるぞ。これはがんだ。がんの初期症状だ!」
 「前にも、似たような痛みがあったではないか。虫歯の治療のときを思い出してみろ!」
 「あったかもしれないが、その歯は、たしか神経を抜いているはず」と。

 「何でもない!」という私。「がんだ」という私。そういう2人の私が交互に現れては、
消える。おまけにのども、痛い。のどの奥に痰がからんでいる感じ。何度も、うがいを繰
りかえす。

 これは生への執着によるものか、それとも死がもたらす絶望感との戦いによるものなの
か。……わけがわからない状態で、朝を迎え、その日が始まった。

 「どう、具合は?」と、のんきな様子で、ワイフが起きてきた。「起きたら、痛みが収ま
ってきた」と私。「でしょ、心配ないわよ」とワイフ。

 そのときになって、恐る恐る、手鏡をもってきて、口の中をのぞく。「もし、大きな病変
でもあったら……」と、不安になる。心臓の鼓動が高まる。が、押しても引いても、歯は
ビクとも動かない。(動くはずもないが……。)とくに変わった様子もない。

 歯間ブラシを歯と歯の間に入れてみる。「がんなら、出血があるはずだ」と。以前、どこ
かの病院で、ドクターがそう言っていたのを思い出していた。「がんだとね、組織が破壊さ
れますから、出血があるはずです」と。

 しかし出血はなかった、が、よく見ると、金冠の下、つまり歯ぐきと、金冠の間のすき
間に、小さな薄茶色の穴が見えるではないか! 虫歯! そうだ、虫歯! 歯の側面から、
虫歯になっていた!

 とたん、安堵感で、胸のつまりが消えた。「ナーンダ、虫歯だア!!」と。

 「虫歯だよ、これは!」
 「でしょ、だったら、歯医者へ行ってきたら?」
 「うん、そうだな。風邪の様子をみてから行くよ」
 「そうね」と。

 で、その日は、歯医者へ行かなかった。昨日も、行かなかった。で、そのまま今日にな
った。時計は、午前8時、少し前。あれからも、ずっと、ズーン、ズーンとした痛みが、
ときおり、つづいている。これから行きつけの歯医者に電話をして、そこへ行くつもり。

 しかし心気症というのは、いやなもの。いつも早合点と、取り越し苦労。この繰りかえ
し。ときどきこう思う。「死神よ、そんなにぼくをいじめるなら、さっさと殺しに来い!」
と。

 が、ひとつだけ、変化がある。若いころとくらべると、「死」への恐怖感が、変わってき
たということ。若いころは、一度心気症になると、居ても立ってもおられなかったが、つ
まりそのままあわてて病院へ駆けこんだものだが、今は、ちがう。

 「勝手にしろ」という、どこか投げやりな気持ちも生まれてきた。「まあ、今まで健康に
生きてこられたのだから、文句はないだろう」と、自分をなぐさめる気持ちも生まれてき
た。多少、「死」への覚悟もできてきたということか。

 そして今。私は、改めて健康で生きている自分が、うれしい。「今日こそは、悔いのない
人生を、思う存分生きてみる」と、そんな思いさえわいてくる。心気症というのは、悪い
ばかりではないようだ。
(はやし浩司 心気症 不安神経症 強迫神経症)

【追記】

 やはり虫歯だった。金冠の中の詰め物が、欠けていたという。そこから虫歯が進んだら
しい。

 で、その治療中、正確には、麻酔をかけられ、歯科助手の若い女性が、歯の間の歯石を
取ってくれている間、不思議な経験をした。

 それはうっとりとするほど、気持ちのよいひとときだった。カリコリ、カリコリと、歯
石を削る音がする。そのたびに、その女性の胸が、頭に触れる。強いライトが、春の陽気
を思わせる。縁側で日なたぼっこをしているような気分にさせる。

 そのときだ。私の目の中に、女性の性器が、超リアルに浮かんできた。最初は、まぶた
の模様が、強いライトで、そう見えたのかと思った。しかしそのうち、それがより鮮明に
なってきた。たしかに女性の性器だった。何度も確かめたが、女性の性器だった。

 いつものような卑猥(ひわい)感は、まったく、なかった。もちろん美しいとか、美し
くないとか、そういう感じもなかった。ただどういうわけか、女性の性器が、至近距離で、
超リアルに見えてきた。どうリアルだったかということについては、ここには書けないが、
ともかくも、リアルだった。

 あるいはひょっとしたら、胎児のころの記憶が、麻酔の作用で、呼び起こされたのかも
しれない。……しかし、胎児はまだ目が見えないはず。

 麻酔のせいだろうか? それとも私に頭にときおり触れる女性の胸のせいだろうか? 
それとも強いライトのせいだろうか? 私は、半分、夢を見ていたのかもしれない。とも
かくも、それは不思議な経験だった。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「きっと麻酔のせいよ」と言った。そして
こう言った。「あなた、そんなことマガジンに書いてはだめよ」と。

 「しかしね、これは不思議な経験だ。だれかが書きとめておかないといけない。きっと、
同じような経験をしている人は、多いはずだよ」
 「でも、へんね。どうしてそんなものが見えたのかしら?」
 「女性だとね、きっと、ペニスか何か、そんなものが見えてくるのかもしれないね」
 「そんなこと、ないわよ。絶対に!」と。

 春は近い。そのあと家に帰ると、強い睡魔に襲われた。それはまちがいなく、かけられ
た麻酔のせいだと思う。コタツに入ると、そのままウトウトと眠ってしまった。

【補記】

●強迫神経症(こだわり)

 何かのことで不安になると、その不安が、ペッタリと頭にくついてしまう。そしてその
不安を消すために、(そんなことでは決して消せないのだが)、何か儀式的な行為を何度も
何度も繰りかえすようになる。

 子どものよく見られる、手洗いぐせ(潔癖症)も、そのひとつ。「手にばい菌がついた」
「手のばい菌が、取れない」などと言って、手を洗ってばかりいる。トイレから帰ってき
た父親に対して、「パパは、きたないからさわらないで!」と泣き叫んだ子ども(年長女児)
もいた。その子どもは、手の皮膚が破れるほどまでに、暇さえあれば、繰りかえし、石鹸
をつけて手を洗っていた。

 こうした症状を、強迫神経症という。心理学の本などによると、不安神経症のひとつに
位置づけられている。大きなちがいは、何かの儀式的行為をともなうこと。宗教の世界で
も、同じようなことを経験する。

 ある女性は、毎日3〜5時間、仏壇の前に座って、念仏を唱えていた。また別の女性は、
同じように、目をさましているときは、手に数珠を握って、それを指先でクルクルと、何
やら呪文のようなものを唱えながら、回していた。そうすることによって、不安を紛らわ
しているというよりは、そういう行為そのものが、やめられないといったふうであった。
念仏を唱えていた女性は、「やめると、バチがあたって、地獄へ落ちる」と本気で信じてい
た。

 こうした症状を示す子どもの特徴としては、何かのものやことに対して、(こだわり)を
もつこと。その(こだわり)の内容は、そのときどきによって、変化することもある。母
親が、ベッドの位置をほんの少し動かしただけで、「精神状態がおかしくなってしまった」
(母親談)子ども(中学男子)もいた。

 この先のことはよくわからないが、今では、(こだわり)を和らげるための、新しい薬も
開発されているとのこと。症状があまりひどいようであれば、一度、心療内科か精神科の
ドクターに相談してみるとよい。
(はやし浩司 手洗い癖 潔癖症 強迫神経症 不安神経症 こだわり はやし浩司 子
供のこだわり)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(2月9日)

Now my friends are in Tokyo, whete it is snowing according to the weather report of 
today. They must have been very happy with snow, since in Australia they seldom have 
snow-falls.

++++++++++++++++

今、オーストラリアの友人たちは、
東京にいる。

天気図を見ると、現在、東京は雪。
今ごろは、「雪だ!」「雪だ!」と
はしゃいでいるにちがいない。

オーストラリアでは、雪は、めったに降らない。

「スキーをしている」などと言うだけで、
金持ちと見られる。

++++++++++++++++

●救急車

 昨日、センターから連絡があった。母の様子がおかしいという。あわててワイフと行っ
てみると、私が見たところ、とくに変わったところはない。ヘルパーさんの話では、昨日
の朝、ベッドから起きあがれなかったという。

 で、午後1時に救急車に来てもらい、そのままE病院へ。検査は、半時間ほどですんだ。
「どこも悪くありませんから、お帰りください」ということだった。薬も、もらえなかっ
た。

 しかし郷里から回ってきた、ケアマネ(ケア・マネージャー)の報告書を見ると、母は、
脳梗塞を経験し、アルツハイマー病にかかっていることになっている。が、昨日の検査で
は、脳梗塞を起こしたあとはないとのこと。もちとんアルツハイマー病でもない。だれか
が、どこかで、いいかげんな報告をしたためらしい。

 だれだ、こんないいかげんな診断名を、口にしたヤツは!

 そうそう私の母は、若いときから、みなの同情を買うために、わざと弱々しく演じて見
せることがあった。今は、それがますますはげしくなってきたようだ。


●日本の家

 本来、日本の家は、夏を主体として考えられている。徒然草(吉田兼好)の中にも、そ
ういう一節がある。「住まいは夏を旨とすべし」と。

 だから冬の寒さに弱い。少なくとも、今までの家は、そうだった。

 しかしここ20年、日本の家は、大きく様がわりした。ふつうの家屋でも、マンション
風の家が多くなった。窓が小さくなり、その分だけ、密閉性が高くなった。エアコンの普
及が、それに拍車をかけた。

 しかし私は、個人的には、ガサガサの家のほうが好き。どこからともなく、すきま風が
スースーと入り込んでくるような家のほうが、落ち着く。夏などは、そういう家のほうが
よい。

 一方、そういう家は、冬には向かない。そこで日本人は、暖房にはいろいろ気をつかっ
た。コタツもそのひとつ。

 で、そのコタツだが、今では、コタツのない家も多いとか。子どもたちに聞いても、コ
タツのある家は、10軒に2、3軒程度。ときどき「うちには掘りゴタツがある」と言う
子どももいるが、それは例外。

 私は、コタツが大好き。最初に建てた家でも、最初に注文をつけたのが、その掘りゴタ
ツだった。今も、自分での書斎では、掘りゴタツを使っている。

 ところで、そのコタツだが、外国人には、たいへん評判がよい。アメリカ人のS君など
は、日本へ来たとき、コタツ一式を買って、アメリカへもって帰っていった。よほど気に
入ったらしい。

ここにも書いたように、今ではコタツを知らない子どももふえている。少しさみしい気
がするが、これも時代の流れか?


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●初老ブルース(Young Old Men's Blues)

+++++++++++++++

何もかも、先細り。
仕事はもちろん、体力、健康も。みんな、先細り。
60歳を超えると、とたんに、そこに、70歳の天井が見えてくる。
80歳の天井が見えてくる。

何とか、70歳まではがんばれそう。
しかしその先のことは、わからない。
「それまでの蓄(たくわ)えで、何とかなる」とワイフは言う。
が、そんな蓄えで、どうやって10年を生きられるのか。
蓄えがなくなったら、死ぬときなのか。

が、ここは明るく前向きに生きよう。
ハハハと、笑って過ごそう。
したいことをして、おいしいものを食べて、明日のことは考えない。
今、できることを懸命にする。
結果は、あとからついてくる……。

しかしいくら自分にそう言って聞かせても、そこには乾いた風。
ふと振り返ってみると、そこでヒューヒューとほこりを巻きあげている。
「オ〜イ!」といくら叫んでも、返ってくるこだまは、むなしい。
「そんなことをして、何になる?」と。

釈迦は、こういうとき、こう言った。

「明日のないことを嘆くな。
今まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」(説話)と。

そう、何がどうであれ、また年齢がどうであれ、
私はともかくも今、ここにいて、生きている。
先はどうであれ、私は今は、健康だ。
食事もおいしい。
家族もいる。
それ以上に、私は何を望むことができるのか。

「これから先、どうする?」とワイフに聞く。
そのたびに、ワイフは、こう言う。
「何とか、なるわよ」と。

そう、何とか、なる。
世の中というのはそういうもの。
やがて雲が風になびくように、
やがて水が低いところを求めて流れていくように、
ものごとは、何とか、なる。

恐らく、私がこの世を去るときも、そうだろう。

あせってみたところで、どうにもなるものではない。
先のことを心配したところで、どうにもなるものではない。

……とまあ、今朝も、自分にそう言い聞かせながら、床から出た。
気分はあまりよくないが、ともかくも、みなさん、
おはようございます。

今日も、がんばります。
がんばるしかないですね。

++++++++++++++++++

●10万件!(10 thousands of readers)

ざっと、つまりドンブリ勘定で計算してみた。
私のHPへのアクセス数が、1日あたり、合計で、1000件を超えている。
マガジンは、週3回発行している。読者数の合計が、3000人。
ほかにBLOGへのアクセス数が、1日あたり、合計で、約1000件。

こうして計算してみると、私、(はやし浩司)へのアクセス数は、1か月、10万件以上と
いうことになる。

10万件、だぞ!

「10万件!」と驚いてみたり、「10万件ねえ」と思ってみたりする。
書籍の世界で、1か月に10万部も売れれば、たいへんなこと。
しかしこの世界では、その実感は、ほとんど、ない。
[10万件のアクセスがある]というだけで。それ以上の意味はない。
仕事や収入に結びつくということもない。
「10万」といっても、ただの数字。

インターネットの世界は、ほんとうに、奇妙な世界だ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●心境の変化(See unseeable stars)

私は、「今」の世界に、期待はしていない。
「今」という世界に、失望しつつある。
何度も裏切られた。

だから私の目は、当然のことながら、未来に向かい始めている。

たとえば昨日も、撮りためたきた写真を、ビデオ化した。
それをYOU TUBEを使って、世界に向かって配信した。

しかしビデオの最後を、私は、こうしめくくった。

「メイ、セイジ、いつか日本へ、おいでよ」と。

メイはまだ1歳。セイジはまだ5歳。
2人の孫たちが、ひとりで日本へ来られるようになるのは、10年先?
しかし私はその10年先に向かって、メッセージを残す。

いつかメイやセイジが、YOU TUBEで、自分の名前を検索するときがやってくる。
そのとき、メイやセイジは、私が書いたメッセージを読む。

これは一例だが、私のものの考え方は、総じてみれば、その方向に向かって進んでいる。
「今」は、もう、どうでもよくなってしまった。

50年後でも、100年後でもよい。
そのとき、たった1人でも、私が書いた文章を読んでくれれば、それでよい。
そのためには、どうすればよいか。
そんなふうに考えることが、多くなった。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb 08++++++++++はやし浩司

●郵便局(Privatizing of Japan Postal Office)

What has been changed after the privatizing of the postal office of Japan? As far as we 
know at the local office, nothing has been changed.)
 
郵便局は郵便局。
実際には、従来の郵便局は、(郵便局)(ゆうちょ銀行)(かんぽ生命保険)(郵便事業)の
4事業体に分割された。
それを統括するのが、「日本郵政」。

……ということで、最近、郵便局へ足を運ぶたびに、どこがどう変わったか、それに関心
がある。
が、実際には、従来のまま(?)。
「やや親切になったかな?」と感ずる部分はあるにはある。
つい先日も、小包をしばるヒモはありませんか?」と声をかけると、局員の人が、奥の方
から、わざわざヒモをさがしてもってきてくれた(08年2月)。

では、何のための分割だったのか?

言うまでもなく、(ゆうちょ銀行)と(かんぽ生命保険)がもつ、300兆円とも言われる
金融資産、である。
これらの金融資産は、従来は、主に「官」、もしくは「公」に投資されていた。
官僚や役人たちによって、言いように使われていた。
「財投」の名のもと、公団公社の資金源にもなっていた。
当然、その先で、天下り先を形成していた。

その300兆円とも言われる金融資産を、民間に回す。
それが郵政事業の民営化の最大目標である。……あった。
つまり郵便局にせよ、郵便事業にせよ、私たち庶民と直接、接する窓口は、もともとどう
でもよかった?

で、2007年10月1日以来、つまり郵政民営化会社が誕生してから、何がどう変わっ
たか?
が、おかしなことに、そのリンカクが、いまだに見えてこない。
聞くところによると、民間に投資するといっても、現在のように、ちまたに資金がジャブ
ジャブの状態では、その投資先を見つけることすら、むずかしいらしい。

その上さらに、株に投資するといっても、それだけの人材が、まだそろっていない。
それまでは、資金は、そのまま財務省(大蔵省)に回していればよかった。

さらに中央と地方の関係もある。
これだけ地方の財政がひっぱくしてくると、公共事業様々(さまさま)ということになる。
今までは、財投が、その公共事業を支えていた。

……となると、300兆円という資金の使い道は、おのずと決まってくる。

私の近所では、昨夜も遅くまで、道路の側溝工事をしていた。
が、まさにムダな工事。工事のための工事。
近く、デジカメで、「before」と「after」を紹介するつもりでいるが、こうし
たムダな工事が、今の今も、全国津々浦々でなされている。

もう少し様子を見てみたいが、今のところ、私の結論は、こうだ。
何のための郵政民営化だったのか?
あるいは郵政民営化そのものが、すでに骨抜きにされてしまっている?


Hiroshi Hayashi++++++++Feb 08++++++++++はやし浩司

●裁判員制度(Juryman System of Japan)

+++++++++++++++

2009年5月から、日本でも
裁判員制度が始まる。

裁判員に選ばれると、裁判官と
いっしょに法廷に立ち合い、
量刑まで決定しなければならなく
なる。

裁判員は、抽選で選ばれる。

対象となる事件は、「殺人のほか、
強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死、
放火、誘拐など」となっている。

民事事件については、適応されない。

で、制度が開始されると、
有識者(市民)の裁判員6人と、
プロの裁判官3人で、事件に関する、
証拠調べなどを行うことになる。

証人や被疑者への直接的な
質問もできるという。

陪審員制度については、アメリカ映画
などで、すでに馴染み深いが、
しかしそうはうまくいくものか?
あるいは、そのメリット、デメリットは
何か?

++++++++++++++++

 欧米、とくにアメリカやオーストラリアのような移民国家では、「民が犯罪者を裁く」と
いう意識が、その根底にある。それをコントロールするのが、「国」であり、「法律」とい
うことになる。(ただしオーストラリアでは、大英帝国時代の裁判制度が、そのまま踏襲さ
れている。)

 一方、この日本は、奈良時代の昔から、中央官僚制度。「国が犯罪者を裁く」という意識
が、その根底にある。「(無知で無学な)民は、国のすることに、口を出すな」という意識
も、根強く残っている。

 同じ裁判員制度(陪審員制度)といっても、そこに向かう出発点が、まったく逆なので
ある。

 そこで賛否両論が、巻き起こっている。

 これは私が法学部の学生だったころからよく言われてきたことだが、法律家というのは、
えてして、法律バカになりやすい。法律のことは熟知しているが、そのため、世俗的な常
識から遊離しやすい。とくに裁判官のように、(世間)と直接的な接点をもたない法律家は
そうである。

 それではいけないということで、そのあと、いろいろな改革がなされてはきている。き
てはいるが、じゅうぶんではない……ということで、今度の「裁判員制度」が生まれた。

 表向きは、「市民の社会常識を刑事裁判に反映し、(裁判を)、身近でよりわかりやすいも
のにする」(内閣府)ということになっている。

 一般論から言えば、法律の専門家ほど、この制度に疑問を感じている。一方、選ばれる
市民にしても、これはえらい迷惑(?)。いろいろな模擬裁判があちこちでなされているが、
評判は、たいへん悪い。アメリカの陪審員制度では、有罪か無罪かを決めるだけだが、日
本の裁判員制度では、量刑、つまり刑の内容まで決めなければならない。

(責任、重大だぞ!)

 しかし動き出した以上、やるしかない。これから先、いろいろな試行錯誤はあるだろう。
しかしその一方で、日本人ほど、法に無知な国民も、そうはいない。こうした制度が、日
本人の民主主義意識を高揚させる起爆剤となれば、それはそれで、すばらしい。

 「法律は、私たちが作る」「私たちが法律を守る」と、そんな意識が、日本人の中にも芽
生えてくれば、こんなすばらしいことはない。

 すこし前、京都で教壇に立っている先生から、こんなメールが届いた。掲載許可をもら
ったので、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++++++

京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
●はやし先生へ

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私も
そうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、
そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そん
な話ばかりでしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と
言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をして
いました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法
学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ
入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったと
いうわけです。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまっ
たく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、
「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話
をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていま
した。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした
傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の8
0〜90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学してい
きます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりた
いという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純
粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私
のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、
外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いま
すが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番
目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよか
ったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインド
の国費留学生試験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活
躍をした時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になり
たかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですか
ら、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、
(1)のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、ま
ったくなかったと思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、
結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知
のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい
世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふ
つうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく
覚えているのは、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振って
もよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。
ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学
の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公
害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、
自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たち
から講義を受けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生
は、つぎのように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要
なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教え
ることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに
応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせ
てもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、
複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できない
のでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の
教育には、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、
お許しください。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。その
あと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけで
も、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb 08++++++++++はやし浩司

●行列のできる法律S談所

+++++++++++++++++++

ただし一言。

法律は、あくまでも紛争解決の手段として
用いられるもの。

「はじめに法律ありき……」という
発想は、そもそも、法の精神に反する。
よい例が、あの『行列のできる法律S所』
というテレビ番組。

で、改めて、考えてみる。

法律が先か、それとも法律はあとか、と。

法律が先に立つ世界は、まさに闇。

『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?

+++++++++++++++++++

 ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、
「?」と思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。

 昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。

 結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、
だらしない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。
こういう妻のばあい、離婚はできるかどうか、と。

 いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4
人の弁護士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。

 が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その
立場で、一言、意見を書いてみたい。

 法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争
が起きたとき、その紛争を解決手段として、法律がある。「はじめに法律ありき」という姿
勢は、本来の法の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足
しているなら、法の出る幕はない。

 しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろ
うが、私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S
談所に訴えてやる」と言う子どもがふえてきた。

 たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」
というのではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうし
たらいいか」と考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話
が出てくる。

 弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそ
ういうことをきちんと言う学者が、あの番組には、出てこないのか? あの番組を見てい
ると、かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねな
いのではないかと心配する。

 で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由にな
る」「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかと
いうところまで見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのよう
になっている(民法770条、法定離婚事由)。

++++++++++++++

夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。

1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚
姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

+++++++++++++

 つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に
該当するかどうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況
を総合的に判断して、結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。

 で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまってい
るということが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能
であろう。おならは、その一部にすぎない。

 が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふ
つうの人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないというこ
とでも、それ自体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけとい
うことになる。で、このばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままというこ
とになる。

 どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」
と論ずるのは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこ
そ、この世界は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そ
んなことは、百も承知のはずと、私は思うのだが……。

 ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あ
とに来るべきではないのか?

 たとえばこんな事例で考えてみよう。

 一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパト
カーを止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドラ
イバーに対して、つぎつぎと違反キップを渡している。

 よく見かけるシーンである。

 このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているの
がわかる。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようとするなら、運転者がその
前にわかるように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。

 では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、
ドライバー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、
それを裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、
ドライバーは、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止
しないで、飛び出してよいというものではない。

で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あな
たは一旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確
認をすべきだった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。

 ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などとい
うものは、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、
納得していれば、これまた法などというものは、必要ないのである。

「配偶者の生死が3年以上明かでないとき、離婚事由になる」という項目についても、
「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのではない。中には、夫の帰りを待ち
ながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だっているはず。本来、ユ
ートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。

 しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。
それが法なのである。

 はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。
……ということで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あな
たも、一度、そういう視点から、あの番組を見てみるとよい。

【補足】

 法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良
識ある行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識あ
る人ばかりではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれるこ
とがある。そのとき、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律で
ある。

(悪人を守るためにあるのではないぞ!)

 「〜〜したら、離婚できる」「〜〜したから、慰謝料が請求できる」というように、教条
的に法を運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて
困っています。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいま
す。どうしたらいいでしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法
律が前に出てくる。

 法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解
釈するのは、たいへん危険なことでもある。

 繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、
まちがった先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をして
もよい」というふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさ
がすようになるかもしれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、こ
の世の中は、どうなる。小ズルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」
という。
(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義)

●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能する
とき、その世界は、闇となる。(はやし浩司)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 裁判員制度 陪審員制度 
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私らしく生きる(I live as I am.)

If someone speak ill of you behind you, what will you do? In may case I cope with such a 
problem, just ignoring him or her. We don't have to be a good friend for all the people. 
There is a saying in England, that we can't be a good man to two people together. In 
Japan we say that those who wish to be a good man to everyone are called "8-direction 
good man". We rather despise this sort of man. This means to be a good man to someone 
means to be a bad man to another man. We are often forced to choose one of them. 
Moreover the older we get, the less time we have. We don't have time to waste but to go 
forward with good people around us. Our life itself is so limited. This is an article I write 
about it.

+++++++++++++++++

ときとして人との交わりは、わずらわしい。
こちらが望まなくても、災いは、向こうからやってくる。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとする。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。

弁解したり、反論したり、言い争う必要もない。
「必要もない」というより、
そういうことをしても、意味はない。

サルはサルと喧嘩する。
イヌはイヌと喧嘩する。
(ちょっと言いすぎかな?)

その相手が気になるということは、
あなた自身も、そのレベルの人間ということ。
あなたが相手を超えてしまえば、
その相手が気にならなくなる。

無視すればよい。
相手が近づいてきたら、それなりに
適当にあしらっておけばよい。

やがて相手は、自らを追いこんでいく。
あなた以上に、苦しんだり、悩んだりする。
いやな思いをする。

つまりは、「根くらべ」ということになる。

その根くらべのできる人を、「丸い人」という。
「賢い人」という。

私のばあいも、あるときから、八方美人で
あることをやめた。
英語の格言にも、「2人の人にいい顔はできない」
というのがある。
年を重ねれば重ねるほど、そうで、人は人を
選んで生きるようになる。

言いかえると、「去る人は追わず」ということか。
そのため友人の数もぐんと減るが、その分だけ、
残り少ない友人たちとの関係が、濃密になる。

・・・というものの考え方に、当初は、自信がなかった。
「広く浅くつきあうことこそ大切ではないか」と
迷ったことも、しばしばある。

たしかにビジネスの世界では、そうかもしれない。
知人の輪は、それが広ければ広いほど、利益につながる。
「名刺の数が多ければ多いほど、金が入る」と説く人もいる。

が、私は、エイズを発症した一人の青年の
手記を読んだとき、私は、自分の考え方が
正しいと確信をもった。その青年は、こう書いていた。

「私の人生は残り少ない」「無駄にできる時間はない」
「だから無駄な人と無駄な時を過ごす時間は、もうない」と。

それを書いたのはアメリカ人の青年だった。
で、それを読んだとき、私もこう思った。
「私にも無駄にできる時間は、もうない」と。

その後、その青年は、半年足らずで亡くなったそうだ。
しかしその青年の半年と、私がまだもっているであろう
10年と、どこがどうちがうというのか。
20年でもよい。
半年を短いといい、20年を長いと、どうして言う
ことができるのか。

この広い宇宙を基準にして考えれば、半年であろうと、
20年であろうと、ともに星がまばたきする瞬間に
過ぎない。どこもちがわない。

しかも20年あるとはかぎらない。明日、交通事故
か何かにあうかもしれない。あさって、不治の病を宣告
されるかもしれない。

だったらなおさら、私には、無駄にできる時間はない。
さらに言えば、無駄な人と無駄に過ごす時間は、ない。

・・・と考えていくと、自と結論が出てくる。

私たちは人を選びながら、生きていく。
当然のことながら、相手も、私という人間を選びながら
生きていくだろう。「あの林はいやなヤツだ」
「あの林とは、もうつきあわない」と。

しかしそれはそれで、かまわない。
かまわないから、私は私で生きていく。
人は、人、それぞれ。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとしても、気にしない。
言いたいように、言わせておけばよい。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。ないから、別れる。
古い言い方をするなら、「縁を切る」。
縁を切って、そのまま忘れる。
時の流れに任せる。

どうせ私にしても、あなたにしても、
50年を超えて、生き残ることはない。
100年を超えることは、ぜったいに、ない。

そう考えて、私は私で生きていけばよい。
あなたはあなたで生きていけばよい。

やがて相手は、自らの愚かさの中で、
自らクビをしめていくだろう。
不愉快な思いをするのは、その相手自身ということになる。

(追記)

 私のまわりにも、口だけ出してくる人は多い。しかし口を出すくらいなら、だれにだっ
て、できる。しかもこちら事情も知らないで、そう言ってくるから、たまらない。あるい
は、どこからか一方的な情報だけを聞いて、そう言ってくるから、たまらない。

 さらに権威主義というか、1、2歳、年上というだけで、そう言ってくる。私は内心で
は、「ごちそうさま」と思うが、しかしそれは言わない。言っても無駄。それなりの人物な
ていない。

 だから相手にしない・・・ということになる。が、相手にしないでおくと、その相手は
ますます墓穴を掘り始める。騒げば騒ぐほど、だれからも相手にされなくなる。

 大切なことは、そういう相手はもちろん、そういうことも忘れて、私は私、あなたはあ
なたで、サバサバと生きていくということ。「無視する」というのは、そういう意味。

(追記2)

 この原稿をたまたま横にいたワイフに読み聞かせると、ワイフはこう言った。「冠婚葬祭
がそうね」と。

 ワイフの姉(=私の義理の姉)は、いつもこう言っているという。「もう何十年もつきあ
いはないのに、冠婚葬祭の連絡を受けたりすることがある。うちは本家(ほんや)だから、
顔を出さないわけにはいかない。しかし出るたびに、どうしてこんなつきあいをしなけれ
ばならないのかと疑問に思う」と。

 「田舎」と呼ばれる地方では、こうした風習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
「親戚づきあい」という言葉が、いまだに色濃く残っている。しかしみなが、声を合わせ
ていっせいに断ち切れば、この日本も変わる。

ワ「でも、私たちが断ち切るということは、私たちも相手の人から、断ち切られるという
ことになるのじゃない?」
私「そうだね。だからぼくは、たとえばお前の葬式やぼくの葬式には、だれも来なくても
かまわない。息子の結婚式だって、ほんとうに祝ってくれる人だけが集まってくれた。ぼ
くはそれでいいと思う」
ワ「孤独にならないかしら?」

私「みんな、ほんとうは、孤独なんだよ。みんなその孤独を、ごまかしながら生きている
だけなんだよ。しかしいくらごまかしても、孤独から逃れることはできない」
ワ「冠婚葬祭に、みなが集まってくれるからといって、孤独がいやされるというものでは
ないわね」
私「そう。孤独というのは、もっと別のところにある。だからもっと別の戦い方をしなけ
ればならない。孤独と戦うということは、そんな簡単なことではないんだよ」と。

 私が臨終のときは、ワイフと、もしできれば息子たちがそこにいてくれれば、それでよ
い。葬式も、そうだ。派手な葬式など、望むべくもないが、そんなものをしてくれる必要
はまったくない。

ワ「でも、叔父や叔母の葬儀などは、どうしたらいいの?」
私「そのときの気持ちに、すなおに従えばいい。参列したいと思えば、参列すればいい。
そうでなければ、参列しなければいい。義理にしばられる必要はない」
ワ「でも、相手が、不愉快に思うわよ」
私「そう思うなら思わせておけばいい。どうせその程度の人間関係なんだよ」
ワ「でも反対に、うちの葬式には、だれも来なくなるわよ」
私「ハハハ、それも結構。いいじゃない、それで。どうせその程度の人間関係。うるさい
連中は、こちらから願い下げだよ」と。

(追記3)

 「親戚づきあい」とは言うが、私自身の人生を振りかえってみたとき、たとえばこの私
をその家に一泊させてくれたことがある親戚と言えば、母の実家の1軒しかない。金銭的
な援助を受けた親戚といえば、1軒もない。

 (反対に我が家に泊めてやった親戚となると、何十人もいるぞ!)

 こうした事情は、いまでは、たいていどこの家庭でも似たようなもの。親戚といっても
形だけ(?)。そんな親戚も、少なくない。が、なぜか、日本人は、「親戚」というだけで、
その言葉にしばられる。

 私たちは今、「親戚づきあい」そのものを考えなおす時期に来ているのではないだろうか。
江戸時代の昔ならいざ知らず、今は、もう「血筋」にしばられる時代ではない。こだわる
時代でもない。またそうであってはいけない。

 親戚であっても、また親戚でなくても、そこにあるのは、純然たる人間関係。その人間
関係は、中身を見て判断する。形や外見ではない。中身だ。

 (今日の私の意見は、少し、過激かな?)


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●意識のちがい(Toiket and Bathroom)

In western world they have, in most cases, a bathroom and a toilet in one single room. It 
may be a serious problem for us, Japanese. What shall we do if someone comes in when 
I am sitting on a toilet. Why do they have a toilet and a bathroom in one single room?


++++++++++++++++++++

いくら欧米化が進んでも、またいくら
アメリカやオーストラリアの家がすてきと思っても、
どうしても、納得できないものがある。

あのトイレである。

欧米では、バスルームとトイレが同じ部屋にある。
ほとんどの家庭では、そうである。
バスルームへ入っているときも、落ち着かない。
トイレを使っているときも、落ち着かない。

だれかがシャワーを浴びているとき、便意を
もよおしたら、どうすればよいのか。
反対のばあいでもよい。
シャワーを浴びているとき、となりでだれかが
用を足したら、どうすればよいのか。

これは日本人にとっては、大問題である。
実際、向こうで生活していると、そういう場面に、
よく出くわす。

+++++++++++++++++++++++

 意識のちがいというより、生活、文化、風習のちがいは、ときとして、私たちを驚かす。
教育の世界でも、しばしば経験する。それについてはたびたび書いてきたので、ここでは
省略する※。

 要するに、私たちがもっている意識にしても、常識にしても、けっして世界の標準でも
なければ、基準でもないということ。ときには、世界の標準や基準と、大きくかけ離れて
いることもあるということ。

 最近でも、こんなことに驚いた。

 今、マスコミの世界では、毒入りギョーザ事件が、大きく騒がれている。それについて
今朝(08年2月7日)の新聞報道によれば、どうやら製造過程で、だれかが故意に農薬
を混入したということらしい。

 しかし当初から、だれしも、そう思っていた。思っていたが、だれも、この日本ではそ
れを口にする人はいなかった。万にひとつの可能性でも残っているなら、そういったこと
を軽々に口にすべきではない。ひょっとしたら、日本人のだれかが混入したかもしれない
……。

 が、である。当の中国では、「日本人陰謀説」が、流されているという。つまり「中国の
発展に嫉妬した日本人が、中国をおとしめるため、しくんだ陰謀である」(新聞報道)と。

 しかしそんな(陰謀)など、ありえない。ありえないということなら、日本人なら、み
な、わかる。日本にもワルはいるが、そういった陰謀(?)を仕組ほどのワルはいない。
つまりここに意識の大きなズレがある。

 が、問題は、どうしてそれほどまでに大きな意識のズレがこうした問題で、起きるかと
いうこと。もちろんそうした背景には、過去の歴史や、それから生まれる悶々とした反日
感情がある。それが被害妄想につながり、それがさらに「陰謀」という言葉を生み出した
(?)。

 話が大きく脱線してしまったので、もとに戻す。

 私たちはいつも、私の意識を疑う。国際というレベルの話はもちろんのこと、地域、さ
らには個人というレベルの話も、である。風習や文化にいたっては、なおさらである。だ
からといって、それを否定したり、排斥せよということではない。

 私たちは自らを疑うことによって、つぎのステップに進むことができる。言いかえると、
自分を疑うことを知らない人は、つぎのステップに進むことはできない。つまり進歩など、
もとから望むべくもない。

 ところでトイレの話だが、こんな話も伝わってきている。2年ほど前、私の家に寝泊ま
りしたオーストラリア人だが、こうメールで書いてきた。「今度、家を新築することになっ
たが、ヒロシの家のように、トイレとバスルームを2つに分けた」と。そういう人も、ふ
えている。

 
Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

教育者が教育カルトにハマるとき  
●教育カルト  
 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法
を信奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。こ
の教育カルトにハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても
「右脳教育」と言いだす。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。 
 親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵
の紋章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式
教育法」などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。
宗教だってそうだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。

 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、そ
の教育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれ
がわからない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆
に押しつけようとする。これがこわい。

●自分勝手な教育法 
 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほ
か、小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化す
る盲信性など。これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという
攻撃性も出てくる。自分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に
向って、「あなたはまちがっている」と言う。

はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにす
ら気づかなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。

「皆さんも、○×教育法で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと
思います」「この方式が日本の教育を変えます」と。あるいはこんなのもあった。「私た
ちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門をくぐることになるでしょう」
(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、おこがましくて、こ
こまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルトの特徴
と言ってもよい。

●脳のCPUが狂う?

私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることに
よって、「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学
論」は、わかりやすい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾
は、この方法を使う。それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出
ることは容易なことではない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題
は、先にも書いた攻撃性だ。

一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空
白ができると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけ
いに抵抗する。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみ
るとよい。「S方式の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、
あなたの意見に反論するというよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。

 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよ
い。こうした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控
えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう場面を
見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人は
こう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、ある
いはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそう
だ。長男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。
別居も何度か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今
の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のこと
か。

一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って
二人の仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだ
かまりは、想像以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかというこ
と。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まった
くと言ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人に
なってもらった。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてこ
とあるごとに、先祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほ
どの大地主であった。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そ
してその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。
少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを
説明できる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければな
らないのか。だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使
われる。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と
服従、保護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれ
るはずがない。権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。

権威、つまり「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から
子どもへと、一方的なものになる。そのため子どもは心を閉ざす。Mさん親子は、まさ
にその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。しかし
それをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが
一番よいが、それはできない。

権威主義的であること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するという
ことは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あな
たの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利
なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●家族主義(1)

 「立派な社会人になりなさい」「社会で役立つ人になりなさい」というのが、出世主義。
日本人は明治以来この出世主義に踊らされ、「個」を犠牲にしてきた。その典型例が、単身
赴任。欧米では単身赴任そのものが、考えられない。先日もニュージーランドからの留学
生たちと話をする機会があったので、そのことについて聞くと、反対にこう質問された。「な
ぜ日本人は、家族とバラバラに暮らして、平気なのか」と。

 欧米人は伝統的に、「家族と楽しいときを過ごすために、仕事をする」という考え方をす
る。学校の教師も、そのつど子どもたちに、「よき家庭人になりなさい」と教える。そうい
う視点からは、単身赴任など、考えられない。ニュージーランドの学生はこう言った。「ぼ
くなら仕事を変える」と。あるいは「ニュージーランドで単身赴任を命じられたら、裁判
ざたになる」と言った学生もいた。ものの考え方の基本に、家族を置く。これを私は出世
主義に対して、勝手に家族主義と呼んでいる。

 出世主義と家族主義。その違いを如実に表しているのが、あの「釣りバカ日誌」である。
あの中で、浜ちゃんとスーさんは、よく釣りに行く。しかし二人が、妻や子どもを連れて
いくシーンは、めったにない。子どもたちに聞くと、「ときどき変な女の人が一緒に行く」
とのこと。日本の男性たちは、「仕事のためなら、家族が犠牲になって当然」という考え方
をする。だから会社の同僚とゴルフに出かけたり、飲み食いに出かけたりしても、何も疑
問に思わない。

しかし欧米では、たとえばオーストラリアを例にとっても、こういうことはありえない。
会社の同僚とのパーティでも、夫婦同伴が原則。土日に、夫だけが遊びに行ったとした
ら、それだけで離婚事由になる。そのことをオーストラリア人の友人に確かめると、こ
う教えてくれた。「年配の夫婦の場合、妻がめんどうがってついて来ないことはある。若
い夫婦の場合、たいてい同伴する。妻が仕事をしているケースもあるが、妻が同僚とパ
ーティに行くときは、一〇〇%、夫が同伴する」と。

 この家族主義は、教育にも大きな影響を与えている。日本では出世主義のもと、学歴や
肩書きが重要な意味をもつ。子どもたちが勉強するのも、それを身につけるのが目的だ。
しかし欧米では、子どもたちは「その道のプロになること」を目指す。制度そのものも、
大きく違う。

たとえばアメリカでは、前の大学の単位さえそろっていれば、大学生の転入、転籍は自
由にできる。大学名にこだわらねばならない理由そのものが、ない。私のオーストラリ
ア人の友人は、大学の一、二年の間は、メルボルン大学で学び、そのあと一年間、北京
大学で学び、帰国後は、大学の四年生になった。そういうこともできる。

 そもそも教育の内容そのものが違う。日本では明治以来、選別主義、能率主義が基本に
なっている。わかりやすく言えば、進学(=人間選別)を念頭に置いた、管理方式による
詰め込み教育。しかし欧米では、「将来子どもたちが役にたつ知識を身につける」ことを基
本に、能力主義が基本になっている。だからアメリカでは、子どもの成績が悪かったりす
ると、親のほうから落第を頼みに行く。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●家族主義(2)

 日本人は、古来より上下意識の強い国民である。男が上で女が下。夫が上で、妻が下。
先生が上で生徒が下、と。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という関係をつくる。
そしてそれが組織の秩序となる。

で、この秩序を支えるのが、権威。もともと上下関係には、理由などない。根拠もない。
「偉いものは偉い」という権威が、その関係を支える。日本人はこの権威に弱い。ある
いはその権威にあこがれを抱く。そのよい例が、「水戸黄門」。

黄門の取り巻きが、葵の紋章を見せて、「控えおろう。これが目に入らぬか!」と一喝す
ると、周囲の者が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう世界を「痛快だ」
と思う。しかし水戸黄門は絶対的な善玉だからよいようなものの、もし悪玉だったら、
どうする。日本人のことだから、それでも頭をさげるに違いない。実際、秀吉や家康と
いった圧政暴君たちが、この日本では必要以上に美化され、英雄になっている!

 この権威主義は、教育にも暗い影を落としている。「大学の教授」というだけで、一も二
もなく、日本人は皆、頭をさげる。しかし実際には、大学の教員の世界は、完全に年功序
列の世界。「そこに人がいるから人事」が、長年慣行化している。幼児教育の世界に限って
みても、実際幼児教育などしたこともないような教授が、その道の権威者になっている。

日本でも有名なA教授は、たった数か月間、幼児の心理を調査しただけ。またN教授は、
ラジオのトーク番組の中で、ふとこう口をすべらせている。「私は三人の孫で、幼児教育
を学びました」と。たった三人である! ある幼稚園で講演をしたときのこと。「S大学
附属幼稚園」という名前がついていたので、「教授たちは来ますか」と聞くと、そこの副
園長がこっそりこう教えてくれた。「たまにね。来てもお客様ですから」と。そういう教
授でも、「教授」というだけで、皆、頭をさげる。

 家族主義というと、小市民的な生き方を連想する人は多い。九九年の春、文部省がした
調査でも、「一番大切にすべきもの」として、約四〇%の人が、「家族」をあげている。が、
これに対して、さっそくその夜、あるテレビの解説者が、「日本人は小市民的になった」と
評した。

とんでもない。とんでもない誤解である。家族主義は、新しい国家観、新しい愛国心に
もつながる。昔の日本人は、国、つまり天皇制という体制を守るために戦場に出かけた
が、これからはもうそういう時代ではない。家族の集合体としての「国」を考える。そ
してもし戦争することがあるとするなら、私たちは「家族を守るために」戦う。愛国心
も、そこから生まれる。

 日本は欧米化したとよく言われるが、それは表面的な部分だけ。日本は日本。しかも旧
態依然のまま。今でも日本は、世界から見ると、「わけのわからない国」ということになっ
うている。欧米化が必ずしもよいというわけではないが、世界の人に安心してつきあえっ
てもらえる国民になるためには、欧米化は避けて通れない。

これからは「家族を大切にします」「一番大切なものは家族です」と、日本人も胸を張っ
て言う時代になった。家族主義は、決して恥ずかしいことではない。 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ウォーターホース(Water Horse)

My wife and I went to the theater to see a film "Water Horse" on the day when it was 
released. It was just good, but a bit boring for me.

++++++++++++++++++

先日、仕事の帰りに、ワイフと
「ウォーターホース」という映画を見てきた。

封切り日初日ということで、まあまあ
の客の入りだった。
(全体で、30人前後だったかな?)

ウォーターホースというのは、いわゆる
ネス湖の怪獣のこと。

物語は、1人の少年が、ひとかかえもある
大きな卵を海辺で発見するところから
始まる……。

星は三つの、★★★。

「ウィリー」というシャチの映画が
昔、あった。その焼きなおし版かな、
という印象をもった。

途中で、少し、あくびが出た。

で、そのウォーターホースだが、
「ホース(馬)」というだけあって、
馬の顔、そっくり。

……というより、うちのハナ(犬)
の顔そっくり。

制作者は、きっと、ポインター種の
犬をモデルにしたにちがいない。
私は、映画を見ながら、そう思った。

家に帰って、しみじみとハナを見た。
やはり、よく似ていた。

ところで、今度、「いつか眠りにつく
前に」という映画が、封切られる。

原題は「EVENING」というらしい。
ワイフがもらってきたパンフレットには、
こうある。

「死の床にある母が語った物語は、
娘たちが知らない40年前の愛の物語」と。

フ〜ン……。どこか、「マジソン郡の橋」
に似ている……?

私の母も、会うたびに、昔の話をするぞ。
しかし子どものころの話ばかり。
結婚してから現在までの記憶は、
とうの昔に、どこかへ消えてしまったらしい。

父や、父の父母(=私の祖父母)の写真を並べて
やったこともあるが、1〜2日で、
興味を示さなくなってしまった。

今は、自分の実の母の話ばかり。
その実の母が、実家で、まだ生きて
いると思っているらしい。

生きていれば、今ごろは、140歳前後
ということになるが……。

最近は、施設の中で、ほかの女性たちと
よく喧嘩をするという。

先週も、ワイフが見舞うと、テーブルを
はさんで、1人の女性と喧嘩をしていたという。
テッシュペーパーを丸めて、投げあっていたという。

何でも相手の女性の菓子を、その相手の女性に
向かって、「食べるな」と、怒鳴っていたという。

そこでヘルパーさんがやってきて、
「トヨコさん(=私の母)、このお菓子は、この
人のものだから、この人が食べてもいいのよ」と、
諭(さと)していたとか。

そういうところは、実に私の母らしい。
昔から、ケチで嫉妬深い。ホント!

その話を聞いて、私は笑った。ワイフも笑った。

……ということで、映画の内容とは、大違い。

で、私はこういう映画は、あまり好きではない。
パンフレットのどこかに、「切ない映画」と
書いてあったが、まだ、「トランスフォーマー」
とか、「ナショナル・トレジャー」のような映画の
ほうがよい。

わかりやすい分だけ、おもしろい。

今度封切られる、「ライラの冒険」でもよい。

ところで、少し前、「シルク」という映画も見た。
この映画は、どこか「?」。ネチネチとした
暗い映画だった。

「どこまで深く人を愛せますか」「世にも美しく
切ない、驚くべき愛の結末」というような
文句が、パンフレットに並んでいた。
しかしこれは大げさ。

1人の男が、日本へ蚕(かいこ)の卵を仕入れに
行く。そこで日本女性と恋に落ちる。……という
部分の描写が、とくに、甘い。

星は2つの、★★。

以上、映画の話ばかりで、ごめん!

+++++++++++++++++++

●今日・あれこれ(2月5日)(Mt. Fuji)

I could see Mt. Fuji from Sanaru Lake, very clearly early in the morning when I was 
riding a byke. But I forgto to bring a camera with me. Then I went there again in the 
afternoon, but there were thick clouds which covered Mt. Fuji. We seldom can see Mt. 
Fuji from our place.

+++++++++++

昨日、朝、サイクリングに出かけると、
佐鳴湖からあの富士山が、まるまる、
くっきりと見ることができた。

が、そういうときほど、カメラを
もっていないもの。「残念」「残念」と
何度もつぶやきながら、ペダルを
こいだ。

で、昼過ぎ。
もう一度、佐鳴湖まで行ってみると、
白い雲がそのあたりを、覆っていた。
またまた「残念」「残念」と、何度も
つぶやいた。

「あんなふうに、富士山が見える日は、
1年でも何日もないのに……」と、ワイフに
こぼすと、「あとで、もう一度、行ってみたら」と。

で、仕事に行く途中に、佐鳴湖へ寄ってみた。
が、やはり厚い雲。
しかたないので、佐鳴湖の様子を、ビデオに
収めた。

こういうのを、「やけ撮り」とういう?
「やけくそ」の「やけ」。だから「やけ撮り」。

ハハハ。

+++++++++++++++++

●はてなワールド
(Hatena World)

「はてなワールド」という新しい
サービスが始まった。

先ほど、少しのぞいてみた。
セカンド・ワールドに似ているが、
その簡略版といったところか。

仮想現実の世界で、そこで知り合った
人と、自由に会話を楽しむことが
できる。

が、朝の10時前後ということもあって、
広い大地には、私、1人だけ。
ぐるりとあたりを見回してみたが、
だれもいない。

と、そのとき、不思議な感覚に
襲われた。

ツンとした孤独感?

インターネットの世界で、私は、
生まれてはじめて、(孤独感)を
覚えた。

あたりには、だれもいない……。

ヘエ〜〜〜と思った。
ふ〜〜〜ンと思った。

これから先、こうしたサービスは
どんどんとふえていくだろう。
楽しみというより、ソラ恐ろしさすら
覚える。

興味のある人は、一度、「はてなワールド」を
のぞいてみるとよい。

浜松市あたりに、ポツンと立っているのが、私。
もしそこに私が立っていたら、ぜひ、
声をかけてほしい。

(はてなワールドへは……)

「はてなワールド」を検索。所定の入室
手続きをして、入室。

+++++++++++++++++

●A Great Lady!

About my daughter−in−law

My daughter-in-law is a great lady, I admit. She has been always alive and kind to 
everyone as well as to me. She looks quiet and moderate when I talk with her, but deep 
in her mind she has her own ambition, to which she is always stepping forward. I really 
respect her. She is at this moment a house-wife with two children but she studied hard 
by herself alone and she could pass the examination to a law school with scholarship. 
Why don't we admire her? Can you see such a lady around you? What she is doing now 
is what I couldn't do even when I was young. I had no hesitation to say to her, 
"Congratulations!" when she let me know the result of the examination. She said 
"Thank you". In her area where she was born and raised up, even still now, she is a kind 
of exceptional lady. But as far as I know she does not care about it. So I write to her 
back, saying, "Freedom means to do what you want to do, feeling to be alive. Chase up 
your own dream. We can't live without a dream but if we have a dream we can be alive, 
even when we have nothing. Be alive with a dream. I really respect you and I am really 
proud of my son who could marry to such a wonderful lady. Congratulatitons! And thank 
you very much for having given me a dream too."

私の嫁は、偉大な女性です。彼女はいつも、(生きている)。そして私のみならず、みなに
親切です。彼女と会って話しているとき、彼女は、いつももの静かで、控えめです。しか
し彼女は、心の奥に野心を秘め、いつもそれに向かって前進しています。私はほんとうに
彼女を尊敬しています。彼女は現在、2児の母親であり、家庭の主婦です。が、彼女はそ
のかたわら、独学で勉強し、ロースクールへの入学資格と奨学金を手にしました。私たち
が彼女を敬わないということはありえません。あなたはあなたのまわりで、こんなすばら
しい女性を見たことがありますか。彼女がしていることは、私が若いときでさえ、私がで
きなかったことです。彼女が試験結果を伝えてくれたとき、私は、何らためらわず、「おめ
でとう」と言いました。彼女が生まれ育った地域では、現在の今でも、彼女は例外的な女
性のようです。しかし私が知るかぎり、彼女は、そんなことは気にしていません。それで
私は、つぎのような返事を書きました。「自由というのは、生きているという実感をもちな
がら、したいことをすることです。私たちは夢なくして生きることはできません。が、夢
があれば、何もなくても生きていくことができます。夢をもって、生きてください」と。
私は彼女を尊敬しています。そしてそんなすばらしい女性と結婚した息子を、誇りに思い
ます。おめでとう。そして私にも夢をくれたあなたに感謝します」と。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 5日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page004.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●頭のよい子(A Smart Kid)

 五〇人に一人とか、それ以上の中に一人という、頭のよい子どもが、いる。よく「能力
は平等だ」という人がいるが、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言
えば、「脳の神経シナプスは、非同時的に発達する」※という。この「非同時性」が、子ど
もの「差」となって表れる。

 で、その頭のよい子どもの特徴としては、(1)目つきが鋭く、静かに落ち着いている、
(2)集中力があって、いったん集中し始めると、他人を寄せつけない気迫を見せる、(3)
言葉を頭の中で反すうする(何度もかみくだく)ため、それだけ言葉が重くなる傾向を示
す、など。動作もどこか鈍くなることが多い。

 ここでいう(3)「言葉を反すうする」というのは、同時進行の形でいろいろなことを考
えることをいう。たとえば「地球が暖かくなることをどう思うか」と問いかけると、知的
能力の「深さ」によって、子どもの反応は大きく変化する。

レベル0……「暖かくなる」という意味そのものが理解できない。
レベル1……「暖かくなっていい」などと言って、そのレベルで思考を停止する。
レベル2……「暖かくなって、冬なども過ごしやすくなる」などと言って、自分にとって
つごうのよいことだけを考える。
レベル3……「暖かくなると、困ることもある」などと言って、問題点をあれこれさぐる。
レベル4……「どうして暖かくなるのか」とか、「どうして困るのか」などと言って、いろ
いろな情報を集めて、それを分析しようとする。
レベル5……問題の深刻さが理解でき、「どうすればいいのか」「どんな問題が起きるのか」
「どう対処したらいいのか」というレベルまで考えを切りこんでいく。

 こうしたレベルは、作文を書かせてみればわかる。考えの「深い」子どもは、その片り
んを文のはしばしで、それを示す。

 中学生について言うなら、ほとんどの子どもが、レベル0〜2の範囲に入る。「五〇〇字
程度の作文を書いてください」と指示しても、すぐ書き始める子どもは少ない。これは日
ごろから、「考える」という習慣そのものがないためと思われる。

※シナプスの過剰生産と選択は、脳の異なった部分で異なった速度で進む。(Huttenlocher 
and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかにピーク
に達する。中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところである
が、その過程は更にゆっくりと進み、シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの
密度は五、六歳の年齢まで増え続く。

※ 選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそれに続
く四、五年続き、初期の青年期で終わる。このように脳の部分で異なった速度で進むこ
とは、それぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて、異なった速度で
進む可能性が高い。(Juraska, 1982, on animal studies 参照)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

頭のよい子(2)(A Smart Kid -2-)

 実際に中学生(一〜三年生、一〇人)に、「地球温暖化について」というテーマで作文を
書かせてみた。

 最初の一〇分間で、作文を書き始めた子どもは、ゼロ。一〇分ぐらいたってから、何と
なく鉛筆を動かし始めた子どもは、二人だけ。あとは黙ったまま。そこで強く促すと、残
りの六人が、何かを書き始めた。しかし残った二人は、体をぶらぶらさせるだけ。私が「思
っていることを書けばいい」と言うと、「だって、何を書いたらいいのか、わかんないもん」
(女子二人)と。

 二〇分後、まだ書いている途中だったが、そこで中断。以下、子どもたちの書いた作文
を紹介する。(句読点を含めて、原文のまま)

(M女、中一)「いままで夏は暑いのに地球温暖化がすすんでいったらどうなってしまうの
だろう。まだ6月なのにこんなに暑くて、7時ごろまでひがのぼっていて、明るい。今年
は桜がさくのもきょ年より何日もはやかったから、何年かたったら、冬ごろでも暑いかも
しれない」

(T女、中一)「今、学校でも、総合の時間に地球環境や、温暖化についてやっています。
私は地球温暖化の一番いけない理由は、地球が汚れてしまったことだと思います。車や工
場から出た有害ガスが、地球の森林をなくしてしまったりしたことだと思います。外国で
は日本よりもっと早くから行動をおこしている国もあると聞いたので、日本もいろいろな
ことをして、温暖化が少しでもなくなるようにしたらいいのにと思いました。私も身近な
事から環境が悪く……」

(J君、中二)「南極や北極の氷がとけて大洪水になり人間などが住むばしょがなくなる…
…」

(G君、中三)「ここら5、6年だけでもかなり変化があったので危機感を感じている。『あ
と、どのぐらいで人間は住めなくなるのだろうか?』『なぜこのようなことになる前に気が
つかなかったのだろう?』こんなことを考えると恐ろしくなる」

 上から順に、M女は、温暖化の事例を集めているにすぎない。レベル2〜3。
 T女は、温暖化の理由を懸命にさぐろうとしている。レベル3。
 J君は、具体的に原因をとらえ、結果について考えようとしている。レベル3。
 G君は、危機を感覚的にとらえているが、分析性がない。レベル2。

 何も書かなかった子どもが、レベル0ということにはならないが、外から観察すると、
思考がループ状態に入っているのがわかる。言いかえると、思考力のない子どもというの
は、きわめて浅いレベルで、思考がループ状態に入る子どもということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●三角関係

+++++++++++++++++++

ADHD児でもない。自閉傾向もない。
ごくふつうの子ども。しかし統制がきかない。

母親が目の色を変えて、「やめなさい」「やめなさい」
と叫んでも、効果なし。まったくの無視。

子どもはつぎつぎと、新手の遊びを取り出し、
部屋の中で、それを散らかす。散らかすというより、
無造作に動き回る。

再び母親が目の色を変えて、さらに大きな声で叫ぶ。
「やめなさい!」と。

++++++++++++++++++

 親の育児姿勢に一貫性がないと、家庭教育は崩壊する。たとえば極端な例で考えてみよ
う。

 あなたは一人の母親だ。毎日、言うことがコロコロと変わる。子どもが外へ遊びにでか
けるようなとき、昨日は、「友だちとは仲よくしなさい」と指示した。しかし今日は、その
反対のことを言う。「意地悪されたら、やり返すのよ」と。

 あるいは子どもがお茶をこぼしたようなとき、昨日は、「あら、だめよ、気をつけてね」
と言った。しかし今日は、その反対のことを言う。「何度言ったら、わかるの!」と。

 こういう家庭環境が日常化すると、子どもは親の指導に従わなく。最悪のばあいには、
家庭教育そのものが崩壊する。子ども自身も、ドラ息子、ドラ娘化する。当然である。

 この話は、母親と子どもという、一対一の関係である。まだ話がわかりやすい。こうい
う例をあげると、たいていの親は、「そうだ、それはまずい」と、すなおに納得する。

 が、その親が2人、さらには3人……と分散したら、どうだろうか。

 たとえば極端にきびしい母親と、極端に甘い父親。さらに極端に甘い祖父、あるいは、
祖母。

 子どもは、そうした親や祖父母の間を動き回ることによって、同じような環境に置かれ
ることになる。

 こうした関係を、心理学の世界では、「三角関係」と呼ぶ。子どもの視点から見て、親が、
2人、3人……といることになる。そして一貫性がないという点で、先にあげた母親と子
どもの関係になる。

 何かにつけて、きびしい母親。子育てに無関心な父親。そしてデレデレに甘い祖父母。
こういう家庭環境が日常化すると、子どもは親の指導に従わなくなる。最悪のばあいには、
家庭教育そのものが崩壊する。子ども自身も、ドラ息子、ドラ娘化する。当然である。

 ……と同じ文句を繰りかえしたが、こういう例は多い。

 大切なのは、一対一であれ、一対二であれ、一貫性である。子育てには、この一貫性こ
そが大切。よくても悪くても、一貫性があればそれでよし。たとえば両親ともども権威主
義的であるなら、それでもよい。子どもはその一貫性の中で、自分を見いだしていく。そ
うでなければ、そうでない。

 さて冒頭の話。母親が目の色を変えて、さらに大きな声で叫ぶ。「やめなさい!」と。

 こういうケースのばあい、家庭教育は、すでに崩壊しているとみる。失敗しているとみ
る。言うなれば、無秩序状態。

 ではどうするか?

 ……が、「どうするか?」ということを考えるよりも、こういったケースでは、悪循環の
中で、子どもがさらに粗放化することが考えられる。ますますきびしくなる母親。ますま
す甘くなる父親。

 が、さらに大きな問題が生じてくる。子どもが小学2、3年生くらいまでなら、まだ何
とかなる。母親の力で、子どもを抑えつけることができる。しかし小学4、5年生になる
と、そうはいかない。体格も、母親より大きくなる。やがて手に負えなくなる。

 そうなったときのことを考えて、家庭の中における一貫性を、もう一度、見なおす。家
族で話しあう。それは家庭教育のためというよりは、子ども自身のためと考える。

 子どもがドラ息子、ドラ娘化すれば、結局はそのあとつらい思いをするのは、子ども自
身ということになる。それをしっかりと認識して、家族で、子育てのあり方を調整する。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●三角関係

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判し
たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●子どもの人格の完成度

++++++++++++++++

子どもの人格の完成度は、(おとなも
そうだが……)、幼児性の持続の有無を
みて、判断する。

その年齢の他の子どもと比較してみて、
「どこか幼い」と感じたら、その子どもの
人格の完成度は、低いとみる。

++++++++++++++++

 あなたは自分の子どもが、どこか幼稚ぽいと思っていないか。もしそうなら、あなたの
子どもの人格の完成度は、低いということになる。

 子どもの人格の完成度は、(おとなもそうだが……)、幼児性の持続の有無をみて、判断
する。その年齢の他の子どもと比較してみて、「どこか幼い」と感じたら、その子どもの人
格の完成度は、低いとみる。

 たとえば……。

(1)しぐさ、動作が、どこか幼い……自己管理能力、現実検証能力が低く、してよいこ
とと、悪いことの判断にうとい。突発的に、幼稚ぽいことをしたりする。(幼児だからとい
って、幼稚ぽいというのは、誤解。幼児でも、どっしりと落ち着いている子どもは多い。)
全体に、ヘラヘラ、チャカチャカしている。

(2)ものの考え方が直感的で、論理性がない……深くものごとを考えることができない。
表面的な部分で、思考が上すべりする。ダジャレを言ったりする。おとなと対峙しても、
論理的な会話ができない。ペラペラとよくしゃべるが、内容が浅い。

 こうした症状がいくつか思い当たるなら、あなたの子どもの人格の完成度は、それだけ
低いとみる。反対に人格の完成度の高い子どもは、みるからに静かに、どっしりと落ち着
いている。思考をいつも頭の中で反復させるため、見た目には、反応がにぶい。

 忍耐力、思考力、管理能力にすぐれ、いつも自分がどういう立場にいるかを知っている。
また何をしなければならないかも知っている。

 よく誤解されるが、ここでいう幼児性の持続と、(子どもの心)は、別のものである。(子
どもの心)というのは、純粋で、すなおな感動にあふれた、豊かな情操性をいう。いくら
年齢を経ても、(子どもの心)は、(子どもの心)として大切にする。

 おとなでも、「この人は、どこか幼い?」と感じたら、それだけその人の人格の完成度は
低いとみてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【現実検証能力】

+++++++++++++++

現実検証能力という言葉を使ったので、
それについて書いた原稿を載せる。

+++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができる
のか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。
だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならな
いでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親
から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもら
う。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そし
て船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょう
ね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、
子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援
護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見が
あるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、
まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子ど
ものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大
原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中
で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会
だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子ど
もに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみ
るとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い
出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、そ
れで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、
あなたはどうするだろか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつ
くる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話
しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめ
て、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。そ
の第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問
題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになっ
たら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ども
になる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警
察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまた
まその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩い
たりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼
児性の持続」は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どう
か、この点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度 現実検証能力 (はやし浩司
 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi
 Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 三角関係)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゴースト(Ghost)

Unfortunately in case you have unrepected parents, stop criticizing your parents. Or 
you will be the same man and woman as your parents. This is called "Ghost", I name.

++++++++++++++++++

不幸にして、親らしからぬ親をもった人は、
親を批判しても意味はない。
批判すればするほど、今度は、あなた
自身が、あなたの親そっくりの人間に
なる。

いつか反面教師の限界論について書いた。

ある人を、親なら親でもよいが、反面教師
にしていると、いつの間か、自分自身も
その反面教師そっくりの人間になってしまう。

もう少しかみくだいて説明してみよう。

仮に今、あなたがあなたの親を、猛烈に
批判しているとしよう。
「私の親は、おかしな親だ」「私は、ああいう
親にはなりたくない」「ああいう親だけには
ならない」と。

しかしその関係が濃密であればあるほど、
やがてあなた自身も、あなたの親そっくりの
親になる。

理由がある。

なぜなら、あなたは、そういう親しか
しらないからである。親を批判しながら、
実は、あなた自身が、あなた自身の中に、
あなたの親そっくりのコピー人間を
つくっている。

たとえばある女性は、若いころ、自分の
母親を、猛烈に批判していた。
「ウソつきだ」「ずるい」「人の悪口ばかり
言う」と。

しかしそれからちょうど30年。
今度は、その女性が、その女性の母親そっくり
の人間になっていた!

……というような例は多い。

私も、高校生のとき、英語教師の教え方が、
大嫌いだった。こまかく書いても意味が
ないので、このあたりは省略する。
が、しかしあるとき、私は、その英語教師
そっくりの教え方をしている自分を知った。

どこかの予備校で、英語の講師をしていた
ときのことである。

それもそのはず。

私は高校生のとき、その英語教師を批判
しながらも、その英語教師の教え方しか
知らなかったからである。

では、どうするか?

ある人を、親なら親でもよいが、反面教師
にするならするで、その人を乗り越えた
ところで、自分を作らなければならない。

もっと言えば、それがあなたの親なら、
その親が、愚かで、小さな人間に見える
ようになるまで、自分を高めなければならない。

わかりやすく言えば、あなたがあなたの親を相手に
しなくなるまで、自分を高める。

その努力を怠ると、結局は、あなた自身も、
あなたの親そっくりの、つまりは反面教師
そっくりの人間になる。

ユングという学者は、「シャドウ」という
言葉を使った。親のもつ邪悪な部分を
子どもが引き継ぐ現象を説明するのに、
ユングは、その言葉を使った。

それに似ているが、私は、こうした現象を
「ゴースト」という言葉を使って説明する。

親子というのは、そういうもの。
よきにつけ、悪しきにつけ、あなたは
親の影響を大きく受ける。先にも
書いたが、その関係が濃密であればあるほど、
そうである。

それがよいものであれば、問題はない。
しかしそれが悪いものであれば、まず、
それに気がつく。同時に、批判などやめて、
自分をそれ以上に高める。

でないと、あなた自身が、ここでいう
ゴーストを引き継ぐことになる。

++++++++++++++++++

●親の悪口

この日本では、親の悪口を言うのは、
タブーということになっている。

「いくら悪くても、親は親」と言う
人は、多い。「親の悪口を言うのは、
子として失格」などと言う人も、多い。
悪しき儒教の影響と考えてよい。

しかしどうしてタブーなのか?

いろいろな親を見てきたが、「どう
してこんな人が親?」と、首をかしげたく
なる人も、これまた多い。

また「親の愛は、海よりも深い……」とか
言う人も多い。

しかしその実、つまり「愛」という言葉を
使いながら、それが溺愛であったり、
代償的愛(=親の身勝手な一方的な愛)で
あったりする。そういうケースは、多い。

世の中には、親をだます子がいるが、
一方、子をだます親だっている。
子どもの財産をまきあげ、それを自分の
ものにしてしまう親だっている。

そこでその子が、親に、「どうしてそんな
むごいことをするのか!」と泣きながら
抗議したところ、その親は、こう答えた
という。

「親が先祖を守るために子の財産を使って、
何が悪い!」と。

とんでもない論理だが、悪玉親意識、さらに
は封建時代の家意識に染まると、それがわから
なくなる。

「産んでやった」「育ててやった」「親は絶対」と。
そういう言葉を、平気で口にする。
「親絶対教」の信者ともなると、なおさらである。

しかしこの段階で、そうした親を批判して
も意味はない。

批判すればするほど、反対に、その毒牙
にかかってしまう。いや、その前に、そういう
親をもった子の苦悩には、はかり知れないもの
がある。

ある男性(当時45歳)は、こう言った。
「私は毎晩、寝る前になると、悔しさと
怒りで、体がほてりました。それが10か月
近くもつづきました」と。

不幸にして親らしからぬ親をもった人は、
親を批判しても意味はない。
批判すればするほど、今度は、あなた
自身が、あなたの親そっくりの人間に
なる。

だから乗り越える。無視する。相手に
しない。そして自分を高める。

あなたはあなたで、自分の道を歩めば
よい。

やがてあなたの親が、あわれで、ちっぽけな
人間に見えてくる。

そのとき、あなたは、ゴーストと決別
することができる。

さてここに書いた男性だが、今は、
こう言っている。

「そのあとも、私の母は、あれこれ
口実をつくっては、私をだましては、
お金を取っていきました。

私はだまされたフリをして、母に
お金を渡してきました。今では、
懸命にサル知恵をしぼって、私を
だまそうとする母が、あわれで、
かわいそうに見えるようになりました。

妻にもこう言うときがあります。
『あのバーさん、またぼくたちを
だまそうとしているよ』とね。

それを聞いて、妻も笑っています」と。

その男性は、母親のゴーストと決別
できたことになる。

++++++++++++++++

親といっても、ある年齢以上になると、
進歩を停止する。

早い人で、20代、遅い人でも40代で
進歩を停止する。

その段階で、脳みそが硬直化する。

そして一度硬直化が始まると、今度は
過去へ、過去へと、退化し始める。

特別な訓練でもしないかぎり、
(仏教ではそうした訓練を、「精進」と
呼ぶが……)、その親の進歩など、
望むべくもない。

つまりやがて子どものほうが、親に
追いつく。(追いつけないまま、親
以下に、退化する子どもも、少なく
ないが……。)

そのとき、対等の人間として、親と
子は、面と向かい合うことになる。

つまり親であることには、それなりの
きびしさが伴うということ。

その(きびしさ)を忘れて、親は
親であることはできない。

常に精進あるのみ。その努力を
怠ったとたん、結局はみじめな思いを
するのは、あなた自身ということに
なる。

++++++++++++++++++

ここで私は「退化」という言葉を使ったが、
その内容は、さまざま。

いちばん多いのが、ループ状態。
毎年、毎月、毎日、同じことを考え、
それを口にするようになる。

それについては、今までたくさんの
原稿を書いてきた。

Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●無限ループの世界(Unlimited Loop of Thinking)

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットー
にしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。
たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それを
さかのぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗
北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこ
とだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見れ
ばよい(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分を
もっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に
入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●ノーブレイン(No Brain)

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよ
うな苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感に
なる。しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが
多い。

そのためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。言いかえ
ると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかも
しれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと
考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言
う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でな
くなってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考
える」ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならない
のは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。これについてはまた別
のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態(堂々巡り)になら
ないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。

一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止して
しまう。それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大き
な問題と小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。とき
としてどうでもよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」
ということには、そういうさまざまな問題が隠されてはいる。

しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であることの大前提
といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの
放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●考えない子ども(Children who don't think)

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらな
い。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうなが
すと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。

今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。
四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活
発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども
(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考える」ということだけ
ができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣その
ものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

考えない子ども(Children who do not think)(2)

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生ま
れてこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基
準をつくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対
策が生まれてこない。

つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの
教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子
どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えること
ができるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべ
っているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)
の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけ
てよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何
がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるの
はその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 親絶対教 はやし浩司 ゴ
ースト シャドウ 悪玉親意識 思考のループ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●神々との対話(Dialogs with Gods)

Are only those who believe in Gods saved? If so, what is the God? 

 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶとき
に、神の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房
がこう言った。「ほかの人たちはどうなるの?」と。

 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」と
いう説が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(た
った数年!)は、ふつうではない。

この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度にまでなって
しまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三〜四度。最大で六
度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」が
やってくる。

 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれ
ば、だれだって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。
それから信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているので
はないかしら」

 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や
海を泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほ
うがまちがっている。

たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとして
いる。医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を
治したり、神の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめて
しまう。あのトルストイも『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いてい
る。

 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間
どころか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほう
がおかしい。あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。

 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究
極の命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なもの
であっても、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」
がある。神様に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなもの
だ。あとの判断は、それこそ神様に任せればよい。

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇
年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというも
のは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレスト
の母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(そ
の味は)わからないのよ』と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬
時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生
からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 3月 3日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日・あれこれ(2月3日)

The ability of calculation is needed to solve math problems. Then young children are 
advised to practice calculation. Similaly young children are required to write letters 
quickly. Some are very slow to write and some are very quick to write. Children of the 
first grade can write 100~150 Hirakanas and Chinese Characters per abt 15 minutes. 
But there a few (abt. 20% of children) take a much longer time to write. So children of 
younger age are advised to practice to write things quickly.

++++++++++++++++

昨日から今日1日、シトシトと雨が降る。
冷たい雨だ。ほかの地方では、雪になって
いるという。

おかげで、今日は外出することもなく、
こうしてパソコンの前に座って、原稿を
まとめる。

++++++++++++++++

●速く書く

計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。

しかし計算力がないと、ときとして、
算数の力を、下へ引っ張ってしまう。

今でも、私は中学生たちと、難問競争
をよくする。

難問をどちらが早く解けるかという競争
である。

こうした競争では負けないが、しかし
最近多くなったのが、計算ミス。
そのため、答が合わず、私の方が
負けることが多くなった。

この計算力と算数の力の関係に似ている
のが、速く書くという力と作文力の関係。

最近の入試では、作文力が試されることが
多くなった。作文力と言うよりは、
もちろんその(中身)。作文の内容を見て、
試験官は、子どもの(中身)を知る。

この作文を指導していて、とくに苦手
というわけではないが、文章として
自分の考えを、まとめることができない
子どもがいる。

そういう子どもに共通しているのは、
書く速度が、極端に遅いということ。
ノロノロというよりは、モタモタし
いる。時間ばかりかかり、先へ進む
ことができない。

そこで調べてみた。

小学1〜2年生で、15分前後で、100〜
150文字を書く。

小学2〜3年生で、15分前後で、150〜
200文字を書く。

何かの本を、原稿用紙に書き写させてみる
とよい。

そのとき、15分前後で、30〜50文字しか
書き写せない子どもがいる。全体の約20%、
5人に1人はいる。

その一方で、15分前後で、250〜350
文字、書き写す子どももいる(小3)。

この(差)は大きい。そのまま作文力の差と
なって、反映される。

だから、子どもに計算練習をさせるように、
作文指導をするときは、速書きの練習をさせる
とよい。

少し訓練をすると、かなり速く書けるように
なる。コツは、10分前後、毎日、すること。
(ダラダラと長い時間をかければよいという
ものではない。短時間で、す早く書くという
練習をする。)

また書き写し(書写)については、2〜3
年、学年が上の国語の教科書を勧める。

内容もよく吟味されているし、値段も安い。
大きな書店に行くと手に入る。

読めない漢字などは、横で読んであげればよい。
あるいはその部分は、ひらがなで書かせれば
よい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●濃密に生きる

Some home-less people were living underpass in the city, but last night I found there left 
only one man. Along the pass dozens of flowerpots to exclude home-less people from 
there. I felt a strong anger about it. I kicked two flower pots besides him and I gave 
some money to him, saying "Are you all right?" He said "I am sorry." I came back again 
to my office and went back to him with two thick cushions and another money.

++++++++++++++++++

「映画も見たい」「山荘へも泊まりたい」
「HPの更新もしたい」「ビデオも制作したい」
「原稿も書きたい」・・・と。

そういうときは、すべてをする。選ばない。

X曜日の夜は、ワイフと2人で、映画を見に
行くことにしている。

で、最近は、その映画を見たあと、一度、
家に寄って、そのまま山荘に行くように
している。

山荘には、古いパソコンが置いてある。
原稿は、それで書ける。

またその途中で、あちこちを回り、ビデオを
撮る。家に帰ってからは、HPの更新をする。
電子マガジンを発行する。

もちろんその間に、仕事もする。講演もする。
加えて、ほかにも、やりたいことが、たくさん
ある。USTREAMで、声も録音したい。

忙しいというより、私には、時間がない。

昨夜も、午前1時ごろまで、ビデオの編集を
した。デニーズの誕生日祝いをしていなかった
ので、孫たちの写真を、ビデオに編集した。

朝は、6時に起きた。再び、編集。ビデオが
できあがったのは、午前9時頃ごろ。ワイフを
書斎へ呼んで、2人で、試写会。そのあと、
そのビデオを、デニーズに送った。

月末は、さらに忙しい。マガジンの翌月号の
準備がある。原稿の整理もしなくてはならない。

BOXというサービスを使って、原稿を、
そこに保存している。BOXというのは、
原稿の倉庫のようなもの。書いた原稿は、
そこに保管する。

午後からは、仕事の準備。教材を用意し、
プリントを作る。が、ここで大切なことが
ある。

できるだけワイフの相手をする。ワイフが
行きたいと言えば、外食することにしている。
家族の主導権は私にあるとしても、その絆(きずな)
をつなぐのは、私の役目。

この世界には、「パソコン未亡人」という言葉も
ある。ワイフをその未亡人にしたくはない。

・・・ということで、今日も、始まった。
がんばろう! あと10年か? それとも
20年か? どうせ、それまでの命。
徹底的に燃やし尽くす。燃やし尽くして、
おしまい。

そのときが来たら、いさぎよく、サラバ。
未練はない。未練は残さない。悔いも残さない。

+++++++++++++++++++

●「切符が、どうした?」

 昔、こんな手記を書いた男の人がいた。戦後直後のことだった。その人は、放心状態だ
った……と思う。戦争で、家も家族も、すべて失っていた。その上、日本は敗戦した。そ
れまでの価値観が、すべて否定されてしまった。

 電車をおりて改札口を出ようとしたときのこと。駅員が、その男の人に声をかけた。「切
符は?」と。その言葉を聞いて、その男の人は、ふと我に返った。そしてこう言ったとい
う。「切符ぐらい、何だ!」と。その男の人は、切符をもっていなかった。

 私はときどき、その男の人の話を思い出す。そして今でも、自問する。その男の人の言
ったことは、正しかったのか、それともまちがっていたのか、と。その男の人は、「切符が
ないからといって、それがどうした」と言った。

 実は、今夜も、似たような場面に出くわした。

 私の教室の近くに、地下道がある。その地下道をくぐると、ザザシティと呼ばれる、シ
ョッピングセンターに出る。いつもなら、その地下道に、3〜4人のホームレスの男たち
が、いる。が、今夜、そこを通ってみると、60センチ長の植木鉢が、通路に沿って、並
べてあった。

 ホームレスの男は、一人しか残っていなかった。

 ポケットの中をさぐると、小銭が少しあった。それをすべてその男に渡した。渡しなが
ら、「役人のすることは、せこいね」と声をかけた。植木鉢を並べることで、ホームレスの
男たちを、追い出した。

 男は、ただだまって、「ああ、すんません」とだけ言った。とたん、涙が、私の目を濡ら
した。

 成功者も失敗者も、紙一重。大きくちがうようで、どこもちがわない。ほんの少しリズ
ムが狂っただけで、失敗者は、失敗者になる。今、成功者だと思っている人だって、明日
のことはわからない。

 同じ、日本人ではないか。同じ、人間ではないか。同じ、この日本に住んでいるではな
いか。私有地ならともかくも、通路のすみで小さく身をかがめて生きている人に、どうし
て、そういうむごいことができるのか? 

 教室へ帰ると、小5のS君が来ていた。私はサイフから1000円を取り出した。S君
には、こう言った。「フトンを届けるから、手伝ってくれるか?」と。S君は、すなおに、
それに応じてくれた。

S「先生の友だち?」
私「友だちじゃあ、ないよ」
S「・・・」
私「友だちになりたいとは思わない……」と。

 男にザブトン2枚と、1000円を渡した。男は、再び、「すみません」「すみません」
と何度も言った。私たちは、そそくさと、その場を離れた。

 「通路を占有したぐらい、何だ!」と思ったとき、あの男の人の書いた手記が、頭の中
を横切った。「切符ぐらい、何だ!」と。

 そう、道路を占有したぐらい、何だ!

 役人たちは、中央の官僚は言うにおよばず、市町村の村レベルまで、天下りに天下りを
重ねている。それぞれの役人に責任があるわけではないが、一方で、こうした矛盾を放置
しておきながら、何が、ホームレスだ!

 昨日も、1台分、5000万円の費用をかけてつくった駐車場の話を書いた。私たちが
支払うガソリン税を流用して、どこかのだれかが、そういう駐車場を建設している。もち
ろんそうした駐車場は、役人たちの天下り先になっている。しかも、だ。土地代は、ただ。
収入として入ってくる駐車料金は、すべて自分たちで使っているという(報道番組)。

 言うなれば、この世の中、矛盾だらけ。ホームレスの男と、駐車場とを直接結びつける
ことは、正しくないかもしれない。それはわかっている。わかっているが、「切符ぐらい、
何だ!」

 実は、私は若いころは、こう考えた。いくら終戦直後であっても、法治国家なのだから、
無銭乗車は許されない、と。

 しかし今は、ちがう。無銭乗車を擁護するわけではないが、私がそのときの男の人なら、
私も、同じように言っただろう。「切符ぐらい、何だ!」と。

 ……だから、あえて浜松市の役人たちに、もの申す。

 通路に、必要もないような植木蜂を並べて、ホームレスの男たちを追い出すような、小
細工はやめろ! どうして地下道に、植木鉢なのか? 彼らには、あそこしか住むところ
がない。公衆トイレも近い。洗面は、近くのショッピングセンターですますことができる。

 行く先も用意しないで、「出て行け!」とは、どういうことなのか。どうして、そんなこ
とがわからないのか、バカヤロー!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●私たちは生きている(We are alive!)

++++++++++++++++++

●私たちは、生きている  We are alive.

息ができる。 I can breathe.
ものが見える。 I can see.
音が聞こえる。 I can hear.
歩ける。 I can walk.
走れる。 I can run.
自転車にも乗れる。 I can ride a bicycle.

そのすばらしさに、 Just feel it and
すなおに感動してみよう。 Make it impressed.

その感動は、あなたを It will wrap you
やさしく包む。 Gently ,softly
暖かく包む。 And warmly.

とたん、冬の寒さも、 Then you will see shining stars
心地よい冷気に変わる。 In the dark night streets
夜の街も、星々が輝く、 the coldness of winter time
天空に変わる。 Will change to be comfortable fresh air.

ものが食べられる。 Here you are some food
食べるものが、そこにある。And I can eat it.

そのすばらしさに、 Just feel it 
すなおに感動してみよう。 And make it impressed.

とたん、食卓の上の Then suddenly the food there
食べ物が、ごちそうに変わる。Will be a dinner.

そこに夫がいる。 There you see your husband.
妻がいる。 There you see your wife.
子どもがいる。 There you see your children.
家族がいる。 You have your families.

そのすばらしさに、 Just feel it.
すなおに感動してみよう。 And make it impressed.

とたん、家族にまつわる問題が、Then all troubles will go away,
すべて霧散する。 Leaving nothing behind.
解決する。

そう、私たちは、今、 Yes, we are here and alive.
ここにこうして生きている。We are alive like this.
星がまばたきする、その瞬間に、together with each other.
こうして共に、生きている。in a moment of a twinkle of a star

そのすばらしさに、 Just feel it
すなおに感動してみよう。 And make it impressed.

++++++++++++++++++

●自由(Freedom)

We are here and alive. When you feel it, you can say it to be Freedom. The day will come 
when you feel that you have been alive as you are. Then you will know you have had 
Freedom. Just liberate your mind into the air as you are. Just live as you are. It means 
Freedom.

生きている実感、それを自由という。
私はここにいるという実感、それを自由という。

いつかあなたも、自分の今の人生を振りかえるときがくるだろう。
そのとき「私は生きてきた」と実感する。

それを自由という。

私は私らしく生きる。それを自由という。
私は、私そのもの。それを自由という。

さあ、あなたも、心のクサリを解き放とう。
クサリを解き放って、大空に手を伸ばしてみよう。
あなたは、あなたらしく、どこまでもあなたらしく、
生きてみよう。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

それを自由という。

+++++++++++++++++++++

●心にキズを負った人たち(Men who have deep hunger)

Just try to give warm blankets to those home-less people, then you will know what it is. 
But do not expect anything from them. When you are deceived by them, just forget it 
and forgive it. Only one thing you can do is just to walk away from them. They are the 
people who have deep hunger in their minds. You are too much blessed to understand or 
to kiberate their minds.

++++++++++++++++

「先生は、ホームレスの人たちと
友だちか」と、子どもたちは、私に
よく聞く。

私は、「友だちではない」と答える。
「友だちになりたいとは思わない」と
答える。
「友だちにはなれない」と答えるとき
もある。

相手がどう感じているかは、私は、
知らない。わからなくても、よい。

「私はいいことをした」とか、
「あの人たちは感謝しているはず」とか、
そんなことは、考えてはいけない。

私はすべきことをして、そして
目を涙で濡らす。別れる。忘れる。

ホームレスの人たちは、みな、
病んでいる。心に大きなキズを
負っている。

そのキズは、あまりにも深く、大きい。
それがわかったら、私たちは、
だまって静かに、別れる。忘れる。

+++++++++++++++++

 教室の近くに小さな公園がある。そこにも、3、4人のホームレスの男たちが、寝泊ま
りしている。ホームレスの中でも、恵まれた男たちである。登山家が使うような、大きく、
がんじょうなテントをもっている。その中に住んでいる。

 その中の1人が、ときどき、公園の隅で店を開く。どこかで拾ってきたものを、そこに
並べる。ブリキのおもちゃに瀬戸物など。小さな植木鉢に、観葉植物を埋めたものもある。
値段は、けっして、安くない。5〜7センチもないような観葉植物でも、500円前後。

 どうせ根など、ついていない。どこかで手に入れた葉を、植木鉢にさしただけ。今まで、
何個か買ったことがあるが、どれもそうだった。そのまま枯れてしまった。

 しかし私は、「また買いにきたよ」と言って、それを買う。男は、こう言う。「水はやっ
てよ」「水は、やりすぎては、いけないよ」と。私は笑って、「またいいのがあったら、買
うよ」と言って別れる。

 心に大きなキズを負った人たちである。そのキズを感じたら、だまされても、だまされ
たフリをして、その場を去る。そして再び、また、だまされてやる。そのキズは、私やあ
なたが、少しぐらい親切にしてあげたからといって、癒(いや)されるものではない。私
やあなたが、どうこうできるものではない。

 心に病気をもった人も多い。そういう病気を感じたら、そっとしておいてやる。何も期
待してはいけない。何も求めてはいけない。私は、子どもたちにこう言う。

 「友だちというのはね、おたがいに、心を交換する人のことだよ」と。

 私のような人間に、心の交換など、できるはずもない。私は、彼らにすれば、恵まれす
ぎている。その恵まれすぎている私が、どうやって、彼らの心を溶かすことができるとい
うのか。

 でもね、みなさん。みなさんも、一度でよいから、ああした人たちに、やさしい言葉を
かけてやってみてほしい。「寒くありませんか?」「おなかはすいていませんか?」「何か、
食べましたか?」と。

 あなたの家に古着があるなら、あなたの家に、使っていない毛布やクッションがあるな
ら、そっと、それを手渡してみてほしい。

 ……そのあとのことは、あなたは自分で知る。あのマザーテレサは、こう言った。「みな、
イエス・キリストだ」と。その意味が、あなたにも、わかるはず。


+++++++++++++++++++++++

●紙一重(Nothing is different)

What is the difference between the rich and the poor? Nothing! But do not have to 
grieve your lives. Once you live alive in a moment of the day, you will know the truth of 
the life.

成功者も失敗者も、紙一重。
健康な人も、病気な人も、紙一重。
幸福な人も不幸な人も、紙一重。
長生きしている人も、短命な人も、紙一重。

どこもちがわない。ちがうはずがない。
私は成功者と思う人も、
健康な人も、
幸福な人も、
長生きしている人も、
明日のことはわからない。

が、わからないからといって、嘆くことはない。
不安に思うこともない。

無益に生きる10年に、どれほどの意味があるというのか。
20年でも、30年でもよい。
明日も今日と同じという人生に、どれほどの意味があるというのか。

たった一日の、そのまた瞬間に、自分を燃やすこともできる。
それを「生きる」という。

あなたが今、ここにいて、生きているなら、
その生きていることを、みなに、伝えよう。
みなに、返していこう。

それが生きるということ。
美しく生きるということ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●息子のガールフレンド(My son's girlfriend)

It is the cleverest not to interfere your sons or daughters whatever kinf of girlfriends or 
boyfriends they have. But if it is about the marriage, things are different. Parents are 
keenly interested in what sort of circumstances his or her friend are raised up.

息子や娘に、ガールフレンドや
ボーイフレンドができると、
最初のころは、親の方があわてる。
しかしそれも度(たび)重なると、やがて
どうでもよくなる。
めんどくさくなる。

息子や娘たちには、息子や娘たちの
世界がある。親が賛成したからと
いって、どうこうなるものでは
ない。
へたに反対すれば、かえって
恨みを買うことになる。

が、結婚となると、話は別。
「どんな子だろう」と知りたい。
どんな家庭環境に育ったのか。
どんな性格なのか。
どんな両親をもっているのか、など。

が、それにも限界がある。
「知りたい」というだけで、それ
以上はない。

知ったところで、これまたどうこう
なるものではない。知って反対する
くらいなら、つまり、それで家庭騒動
を起こすくらいなら、知らないほうが
よい。

だから私は息子たちには、いつもこう
言ってきた。……言っている。

「お前たちが選ぶ子だから、きっと
すばらしい子にちがいない」と。

それ以上は干渉しない。口出しもしない。
あとは、成り行きに任せる。
「縁」があれば、結婚につながる。
「縁」がなければ、そのまま消える。

どうであるにせよ、こういうケースでは、
親が口を出して、うまくいくことは、
まず、ない。もちろんあえて賛成する
こともない。

若い人の恋など、熱病のようなもの。
賛成したところで、こわれるものは、
こわれる。

いくら親の私が、「すてきな子だな」と
思っても、息子の熱情がつづかなければ、
それでおしまい。

話は変わるが、以前、こんな原稿を
書いたことがある(中日新聞発表済み)。

++++++++++++++++++

●親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、
そのまま口にします。こわくてなりません」と。

話を聞くと、こうだ。お母さんが内心で、同居している義母のことを、「汚い」と思った
とする。するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行っていてよ」と言う。
またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。するとその娘
が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関
係にあるときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。
子どもは子どもで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。

こんな簡単なテスト法がある。まず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の
場所で、「山、川、家」を描いてみる。そしてそれが終わったら、親子の絵を見比べてみ
る。できれば他人の絵とも見比べてみるとよい。濃密な関係にある親子ほど、実によく
似た絵を描く。二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ絵を描く。親子というのは、そう
いうものだ。

 こういう例はほかにもある。たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っ
ていたとする。するといつしか息子も、そう思うようになる。あるいは母親が、「この世の
中で一番大切なものは、お金だ」と思っていたとする。すると、子どももそう思うように
なる。つまり子どもの「心」を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。……強
かった。「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。いつも
「男は……」「女は……」というものの考え方をしていた。

その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外国へ出て……、という経験の中で、自
分を変えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を変えるのは、容易なことでは
なかった。今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残っていて、私を苦しめる。油
断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。先日、新幹線に乗っていたときの
こと。うしろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたよう
だが、話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。呼吸がピタ
リと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。「あなたと娘さんは、すばらしい親子関
係にありますね。せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘
さんの心づくりを考えたらいい。あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あ
なたの娘さんに、そっくりそのまま伝えることができますよ」と。 

++++++++++++++++

この原稿の中で、私は「新幹線に……」
と書いたが、本当は、「バスの中」だった。
当時はまだ、生々しい話だったので、場所を、
バスから新幹線の中に変えた。

こんなことはどうでもよいが、中には、
そういう親子もいる。生きざまそのものが、
ピッタリと一致している。
しかしそういう親子は、珍しい。

で、結婚ということになれば、嫁や婿は、
そのまま自分の子どもということになる。
自分の子どもと同じように考える。

が、ふと我に返ると、私たち夫婦も、もう
老人。先も短い。
それに頭の働きも鈍くなる。感受性も
弱くなる。

ということで、(自分の子)といっても、
やはり、どうでもよくなる。限界がある。
乳幼児や、少年少女時代の(自分の子)
と同じように考えることはできない。

息子や娘たちには、息子や娘たちの
世界がある。親が賛成したからと
いって、どうこうなるものでは
ない。
へたに反対すれば、かえって
恨みを買うことになる。

……と最初の話に、もどった。
もどったので、この話は、ここまで。
大切なことは、みな、たがいに愛しあい、
幸福になること。

すべては、そこに行き着く。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●いじめの陰に嫉妬(Jealousy often drives men and woman crazy.)

Jealousy often drive men and women crazy and it is the same in the world of ch
ildren.

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というの
は、恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。
それだけに扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をし
ていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの
母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口は
こうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ご
めんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしなが
ら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるように
なったという。ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく
話をしてみたが、その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、
同じ病院に勤める医師だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、
問いただすことができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男
児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にする
と、母は、こう言って笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったか
らね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでい
た。体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそ
れが一年以上も続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさ
んの親友と思われていたUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残
って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、
クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、
どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつも
Tさんのスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいい
でしょうか」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわ
たって続くときは、身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、
毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その
子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知って
いますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子ど
もにそう言った。以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●新型インフルエンザ(A new type of Influenza in China)

In case of new type of influenza spreads, Australian research organization predicts that 
about 28000000 people die only in China when it is the worst.

++++++++++++++++

中国発の新型インフルエンザの発生が
危惧されている。

夕刊フジは、つぎのように伝える。

「さらに五輪開催に向け各国の専門家が憂慮するのが、中国からの新型インフルエンザの
大流行だ。人は新型ウイルスへの免疫を持っていないため、感染すれば死亡する確率が高
く、オーストラリアの研究機関は最悪の場合、中国だけで約2800万人が死亡すると試
算している」と(08年2月3日)。

よく誤解されるが、インフルエンザは、
「風邪」ではない。しかもおとなも、
子どももない。相手が幼児だから、
ウィルスの力も弱いなどと思っていると、
とんでもないまちがい。子どもがゴホン
とやったとたん、こちらに感染する。

今まで、それで何度も、やられた!
しかも子どもだから、無頓着。
「先生……」とやってきて、ゴホンとやる。

が、今度、中国で発生が危惧されている
インフルエンザは、ものすごい。

オーストラリアの研究機関は最悪の場合、
中国だけで約2800万人が死亡すると
試算しているという(夕刊フジ)。

もし戦争か何かで、2800万人も
死んだら、どうなる?

あの第二次大戦で、日本軍は300万人もの
外国人を殺したが、同時に、300万人もの
日本人が死んでいる。

合計で、600万人。2800万人といえば、
その約4・5倍!

ギョッ! ギョーザどころではない。
北京オリンピックは、まさに(命がけの戦い)
ということになる。

私なら、行かない!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●下着ドロ

+++++++++++++++++

TBSのi-newsは、こう伝える。
今度は、教頭による、下着ドロ!

+++++++++++

 K県・S市で、小学校の教頭がアパートのベランダから女性の下着を盗んだとして逮捕
されました。

 窃盗の疑いで逮捕されたのは、S市立H小学校の教頭・NY容疑者(54)です。

 警察の調べによりますと、NY容疑者は2日午後10時すぎ、S市にあるアパートのベ
ランダに干してあった23歳の女性の下着を1枚盗んだ疑いが持たれています。

 NY容疑者は午後9時半までPTAの会合に出席していましたが、その直後、犯行に及
んでいたということです。調べに対し容疑を認めた上で、「以前から女性の下着に興味があ
った」と供述しているということです。

 教頭のNY容疑者が逮捕されたことについて、小学校は「勤務態度は真面目で本当に驚
いている」と話していますが、NY容疑者は他にも数件の犯行を認めているということで、
警察は裏付けを進めています。(2月3日)

+++++++++++

こうした事件を見聞きして、「私はだいじょうぶ」
とか、「私の夫はだいじょうぶ」などと思って
はいけない。

精神医学の世界でいう「性的エネルギー」、
大脳生理学でいう「視床下部からの命令」には、
ものすごいものがある。

こうした欲望は、一度は辺縁系内部で、つぎに
大脳の前頭前野でコントロールされることに
なっている。が、最近の研究によれば、コントロー
ルできるような、シロモノではないことが
わかってきた(サイエンス誌)。

さらに「54歳」という、年齢からして、
何らかの脳の病気も疑われる。認知症の
初期症状のひとつに、判断力の低下という
のもある。

つまりだれが、こうした教頭を、『石もて
打てるか』ということになる。

つぎは私かもしれない。あなたかもしれない。

ただし私は、女性の下着には興味はない。
そのあたりは、割と正常で(?)、かなり
オーソドックスな性的感覚をもっている。

(この世界には、「正常」という概念は
ないぞうだ。)

NY容疑者を検索してみた。かなりまじめな(?)
理科の教師らしい。業績も多い。

非難する前に、同情心すら覚える。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 2日
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★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

私の方の配信手違いで、マガジンのほうでは、別のページを送信してしまいました。
改めて、HTML版を送ります。

すみませんでした。

http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html

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(なお、4月中は、この方式で、つまり別便で、HTML版を送ります。)

浜松市 はやし浩司


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2008−4








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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 30日
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★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●行きすぎた指導(Excessive Teaching)
In one of elementary schools in Japan, a young woman teacher forced a second grader to 
sit and study on the floor, since the girl had forgotten her homework at home. This hurt 
the girl and she started suffering from a mental problem and she refused to attend 
school since then. The teacher has continued visiting her home and trying to hand 
letters to her, but all her actions are refused. This is a sad story for a teacher as well as 
for a girl and for the mother.

++++++++++++++++++

廊下に、土下座させて指導?

しかしそんなのは、指導ではない。
もちろん教育でもない。

江戸時代の昔なら、いざ知らず、
いまどき、廊下で、土下座?

「行きすぎた指導」(校長)で
あることは、事実。

その教師に弁解の余地はない。
ないが、ここでは、一歩、
退いた視点で、子どもの指導に
ついて、考えてみたい。

++++++++++++++++

何といっても子どもの指導で難しいのは、
子どもといっても、千差万別。
生まれ育った環境もさることながら、
「心」の内容も、さまざま。
親の価値観も教育観もちがう。

つまり同じ指導をしても、
それを受け取る子どもによって、
その受け取り方は、みなちがう。

私は、こうした指導を受け取る部分を、
「レセプター」と呼んでいる。

そのレセプターは、みな、ちがう。
このレセプターを無視して指導すると、
たいへんなことになる。

……ということを改めて知らされた
事件が、F県で、起きた。

ふつうの状況なら、ひょっとしたら、
何でもない指導だったかもしれない。

子どもによっては、笑ってすんだ話かも
しれない。

あるいは教師と父母の間に、
一定の信頼関係があれば、別の解決方法が
あったかもしれない。

さらに言えば、教師にしても、まさか
そこまでことが深刻になるとは、
思っていなかったのかもしれない。

「軽い罰(ばつ)」のつもりでした罰が、
子どもの心に大きな傷を残してしまった。

今回の事件は、そんな事件である。

+++++++++++++++++

スポーツ報知は、つぎのように伝える(4月4日、ヤフー・ニュースより)

+++++++++++以下、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

F市立H小学校で3月、20代の女性教諭が当時2年生の女児(8)に対し、忘れ物を理
由に教室で授業を受けさせず、廊下でプリントの問題を解かせ、女児が精神的苦痛を理由
に不登校になっていたことが3日、わかった。

年度末の総まとめに燃える教諭が、女児の週3回の忘れ物に激怒した末に至った「行きす
ぎた指導」(同校校長)。女児の母親からは学校に「(女児が)自傷行為をした」との連絡も
入っているという。

F市教育委員会やH小学校によると"事件"が起きたのは3月14日。始業前、算数のプリン
トの宿題を「忘れました」と申告した女児に対し、教諭が「今はまとめの時期なのに、そ
れでは3年生になれない」「あなたは2年生ではない」などとしかった。

教諭は女児を、同じ階の1年生の教室の前に無理やり連れて行き、放置。同校は廊下と教
室の間に段差や仕切りがない「オープン教室」建築を採用しており、女児の姿は1年生や、
水飲み場で清掃活動をしていた6年生らに見られていた。

1時間目の途中、女児はクラスの記念撮影のため教諭に呼ばれ、教室横の「フリースペー
ス」に入ったが、再び教諭から「1年生からもう一度やり直さないといけない」などと諭
され、廊下に戻った。2時間目、算数のプリントを配布されると、女児はその場でひざを
つき、木の床にはうような姿勢で問題を解いた。

始業前から2時間目の終わりまで約2時間、女児は廊下にいたことになる。3時間目から
は通常通り授業に参加。女児はこの週、算数のプリントの宿題を忘れたのが3回目で、教
諭は「年度末で、しっかりまとめていこうとクラスの意識を盛りあげたかった」と、「廊下
でプリント」指導に至ってしまった心境を説明しているという。

学校には、14日夜に女児の母親から抗議の電話があった。女児はそのまま不登校になり、
春休みに突入。母親から学校に入った連絡によると、女児は病院で「強迫性障害」の疑い
と診断された。女児は「死にたい」「眠れない」と話し、髪の毛を抜くなどの「自傷行為を
繰り返している」との連絡も入ったという。

教諭は「申し訳ない」と、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる。関係者によると、教諭は先生になって今年で3年目。「厳しいとこ
ろもあるけど、熱心」という。

+++++++++++以上、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

記事の内容をまとめると、こうなる。

(1)ある女児(小2)が、忘れ物を繰り返した。
(2)担任の教師が、激怒した。
(3)罰として、廊下で、その女児に学習をさせた。
(4)女児は、自傷行為を伴う、「強迫性障害の疑い」と診断された。
(5)女児は、3月に入って以来、不登校を繰りかえしている。
(6)教師は、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函している、と。

まず、忘れ物について。

子どもによっては、(この女児がそうというわけではないが)、いくら注意しても、
それをなおせない子どもというのは、いる。

集中力そのものが散漫というか、反対に、いつも四方八方に、触覚がのびていて、
そのため、ことの重要度が適確に判断できない。あるいはひとつのことに集中しすぎて、
ほかの面がおろそかになる。

ふつうは、このタイプの子どもは、メモ用紙にメモを残させるなどという方法で
指導するが、学年があがるとともに、症状は、軽減する。
(中学生くらいになると、忘れ物はぐんと減るが、それでも、なおったという
状態にはならない。)

で、こうした症状は、生来的なもので、叱ったくらいでは、なおらない。
そのため、叱っても意味はない。
その子は、そういう子どもと認めた上で、指導するしかない。

全体としてみると、このタイプの子どもは、10〜15人に、1人はいる。
知的能力との関連も指摘されるが、私の知るかぎり、それはない。

その教師は、たぶん、経験も浅いということもあって、そういうことを知らなかった
のではないか。

もちろん繰りかえすが、その女児がそうであったと言っているのではない。

私が言いたいのは、子どもの世界では、忘れ物は当たり前ということ。
みんな忙しい。子どもだって、忙しい。親は、さらに忙しい。
何もかも教師の指導どおりに……というわけにはいかない。
そういうことも知った上で、つまり「忘れ物は当たり前」という前提で、
子どもの指導に当たっていたら、こういう不幸な事件は起きなかったかもしれない。
その教師には、そうした(おおらかさ)が欠けていた?

つぎに、「廊下で学習させた」ということについて。

その教師を批判して申し訳ないが、その教師は、かなり権威主義的なものの
考え方をする教師のように思う。
「謝るときは、土下座」式の、古風な教育観をもっているのかもしれない。

仮に反対の立場で、そういうことをされたら、その教師は、どのように感ずるだろうか。
子どもに土下座をさせてはいけない。
子どもを廊下に土下座させて学習させてはいけない。

武士道とやらを信奉する人にとっては、そうではないかもしれないが、こんなことは、
指導のイロハ。

(もっともアメリカの小学校などでは、図書館などでも、みな、寝ころんで本を
読んでいたりするが……。)

しかし何よりも問題なのは、信頼関係。
教師と子ども、教師と親の間の信頼関係がしっかりしていれば、こうした事件は
起きなかった。
仮に起きたとしても、別の解決方法があったはず。
ばあいによっては、たがいに、笑ってすんだ話かもしれない。

「私、廊下で勉強させられちゃった」
「バカねエ」
「ハハハ」と。

さらに冒頭に書いたように、レセプターはみな、ちがう。
児童心理学の世界にも、「過敏児」「鈍感児」という言葉がある。
繊細な感覚をもっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
(もちろんその女児が、敏感児だったと言っているのではない。誤解のないように!)

A君に有効だった方法が、B君にもそのまま有効とはかぎらない。
ばあいによっては、とんでもない方向へと、ことが進んでしまうかもしれない。
今回の事件も、そういう経緯をたどった可能性がある。

ただ、だからといって、一方的に、その教師を責めるのもどうか?
無知はそれ自体、罪だが、そこまでオールマイティな教師を求めるのも、むずかしい。
「子どもの忘れ物なんて、何でもないですよ」という指導ができるようになるまでには、
10年とか20年の経験が必要。

幼稚園の世界でも、「親がなっていない」「親の顔が見たい」などと言うのは、
たいてい自分で子どもを育てたことのない若い教師。
自分で子どもを育ててみると、そうはいかない。
そうはいかないことを、さんざん、思い知らされる。
と、同時に、こういう生意気な(ゴメン!)言い方は、消える。

その教師にしても、「教師になって3年」とか。
その教師は教師なりに、「熱心に指導」(報道)したのかもしれない。

で、気になるのは、「毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる」という部分。
女児はもちろんのこと、親にも会えない状態がつづいているということか?
親の気持ちもわからないではないが、もしそうなら、親のほうも、ほんの少し、
心を開いてほしいと願う。

大切なのは、子ども。子どもの心。
子どもの立場で見て、親と教師が緊張関係にあるのは、たいへん、まずい。
その緊張関係が、子どもの心をさらに悪い方へもっていってしまう。
その危険性は、ないとは言えない。

……ということで、今度は、教育についての一般論。
こういう事件を見聞きする教師の立場で、考えてみたい。

現在、「教育」そのものが、たいへんやりにくい時代になっている。
今回の事件は別として、どこの学校へ行っても、「萎縮する教師」が話題になる。
今では、子どもに向かって、命令したり、怒鳴ったりすることは、タブー。
「掃除をしなさい!」(=命令型)はだめ。
このS県でも、「掃除をしてください」(=お願い型)、「掃除をしましょう」(=提案型)
という言い方に変わってきている。
プリントを丸めて子どもをたたいただけでも、「そら、体罰!」と、問題になる。

「教師の萎縮」イコール、「教師のやる気の喪失」と考えてよい。

その上、目が回る忙しさ。
子どもが家出をしたときでも、親たちが真っ先に電話をするのが、担任の教師。
学校でもない。自治会でもない。学校の教師、だ。

ある女性が、こんなメールをくれたことがある。

「夫(=中学校教師)は、昨晩も、家出した生徒を捜し回って、家に帰ってきたのは、
午前2時です」と。

こんな事件を見聞きしたら、あの産婦人科医問題と同じように、この先、学校の
教師になる人は、いなくなってしまう(?)。

もちろんだからといって、その教師のしたことを擁護しているのではない。
校長が言っているように、「行きすぎた指導」であることには、ちがいない。
その教師は、してはいけないことを、してしまった。
それは事実。
どうか、誤解のないように!

……ということで、この話は、ここまで。

しめくくりとして、この報道だけでは、これ以上のことはわからない。
今回の事件にいたるまで、何があったのか? またなかったのか?
ただただ残念な事件であることには、ちがいない。

子どもの気持ちもよくわかる。
教師の心痛も、これまたよくわかる。
その間に立って、その親は、本当に苦しんでいる。
本来なら、愛しあい、助けあい、慰めあう人たちが、たがいに袋小路に入って、
もがいている。
これを悲劇と言わずして、何と言う。

早く、その女児が、立ちなおってくれることを、心から願う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 行きすぎた指導 体罰 廊
下で学習 強迫性障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集・東洋医学】

●目で見る漢方診断

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みなさんは、「漢方(医学)」をご存知ですね。
広くは、「東洋医学」とも言います。

最近では、「東洋医学」と呼ぶほうが、
一般的になっているようです。

その「漢方」、ルーツは、「黄帝内経・素問」と、
「黄帝内経・霊枢」という、2冊の書物です。
それぞれ、「こうていだいけ・そもん」
「こうていだいけい・れいすう」と読みます。

「書物」というよりは、「バイブル」と呼んだ
ほうが、正しいかもしれません。

私たちが現在、東洋医学と呼んでいるものは、
これら、黄帝内経・素問、黄帝内経・霊枢に
始まり、同じく、黄帝内経・素問、黄帝内経・
霊枢に終わると言っても過言ではありません。

今度、私のHPのほうで、私が若いときに
書いた、『目で見る漢方診断』を、全ページ、
公開することにしました。

そのこともあって、かつて黄帝内経について
書いた原稿を、ここに再録することにしました。

「漢方!」と、どうか、逃げないでください。
黄帝内経には、日常で役立つ健康法が、
いっぱい書かれています。

もしみなさんが、ここに再録した原稿を
読んでくださり、またHPに収録した
『目で見る漢方診断』に目を通してくだされば、
あなたは、ちょっとした、漢方の「通(つう)」
になれますよ。

おもしろい世界です。
どうか、一度、ドアをたたいてみてください。

Welcome to Chinese Medical Science!

++++++++++++++++++

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、
東洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書か
れたものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、
黄帝内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、
多くの医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中
国に残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和
寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの

的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同
一人物でないかと思うようになった。

黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文明を築いた、シュメール人には、
ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、ここの目的ではないので、省略す
る。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな
変化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、
サルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、
こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真
円である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は

正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の
直径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話
題になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたく
さん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサ
イトを開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもち
ろん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、
NASAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセ
ントにすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しか
し、クレーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、
何でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
ではないか。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合

したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、
メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の「史
記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれたも

と言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に

されてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝
子工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に

んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を

つようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。
「天から来た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(こ
の形に似た楔形文字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味で
ある。メソポタミアでは、神(エホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書
いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。
が、これだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて
呼ぶならわしがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「d
ingir 〜〜」というように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。
たとえば、「キング・ジェームズ」とか、など。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」
という部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れ
るサルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ

になってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、私の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかし
そんなことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が

さくなっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。
「人間は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎ
りなく自分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、
どこまでも明るい。
(030925)

+++++++++++++++

ついでにもう1作!

日付を見ると、2004年の
原稿ということになっています。

内容が一部、ダブりますが、
お許しください。

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【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ

も、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった
7500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大
きな変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった
(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。
それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれて
いる。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく
似ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似
た土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つなが
っている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シ
ュメール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、
ほぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってき
たとされる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてか
ら、こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、
35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(た
ぐい)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。
何か、目標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがって
いるかもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、い
つの間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、
中国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)


+++++++++++++++++

そして「黄帝内経」へ……。

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●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。
漢方(東洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にある
とは言わないが、しかしこの本がその原点にあることは間違いない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法
と逆であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(きはく)という学者の問答形式
で書かれているが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質
問、さらには矛盾につぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言っ
た」という形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話
をその中に書いている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な
権威ということになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分も
あるが……。)岐伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由が
ある。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢
書「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたこと
が正しいかどうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流
に、だからといって「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかと
いう疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしか
ない。科学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことで
もある。その科学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝とい
う聖王の無謬性(一点のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という
哲学と大きく違う点である。つまり黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせること
によって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情が
ある。黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。し
かし断片的な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことで
ある。たとえばこの私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いま
だに「教育論」なるものは、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くこ
とはできない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医
学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。
これは実は聖書についても同じことが言えるが……。

+++++++++++++++++

謎はつづきます……。

+++++++++++++++++

●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中に
つぎのような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、
「岐伯曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫
氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)とな
る。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の
中にある」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識
をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当
時の常識と考えてよいのか。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世
紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の
王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦七六二年の常識ではなかった
はずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮
内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もな
い状態と考えるのが正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」とい
う意味。気のひとつである。その気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚とい
う。今風に言えば、まさに真空の状態ということになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識
に沿って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始ま
った、蓋天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代であ
る。

恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分
の増さんには苦心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの
話だが……。)その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見ら
れる。つまりわざと医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。

さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんな
ことをこんなところに書く必要はない。この文につづくつぎのところでは、気象の変化
について述べているのである。王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、
改ざんしきれなかったのではないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時
の私は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄
帝ととらえた。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五
〇〇年。今から五五〇〇年前ということになる。

(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)少なくと
も、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。

+++++++++++++++++

もう少し、深く考えてみましょう!

+++++++++++++++++

●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざん
された。それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削
り、新しい文句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、
薮内氏の訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日
余でまたもとの位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、
小曾戸氏のほうでは、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と
気のめぐり方には一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳した
ものと思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。

一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。こ
の部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、
その傾向が見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳して
いる。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言
葉はどこにもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされ
たともとれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考え
られる。

中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。
そういう時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをし
たため、弾圧された人すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の
回転について」)。宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。
さらに中国では、中国式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく
排斥された。そういう時代的背景を忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなけ
ればならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱え
るについて、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられな
いこともない」というように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさき
に削除されたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、
あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからと
いって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されない。

私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、そ
の向こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言い
かたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。


+++++++++++++++

いよいよ核心部分です!

+++++++++++++++

●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対し
て、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもど
る」とある。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼ら
は迷わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三
六五日余で一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、
医学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、
そんな常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んで
ほしい。こうある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動き
について聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。い
わんや大気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただ
け、と考えるほうが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに
書く必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、
改めて書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、
それこそまさに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説
はおろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう
前提で訳している。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左
右から」という部分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と
訳したが、本当にそれは正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したら
いけないのか。もし「左右に(回って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置に
もどる」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つ
まり右転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。
つまり左転している。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、
まさにそれをいったものである。

++++++++++++++++++

ここから先は、ロマンです。
壮大なロマンです。

++++++++++++++++++

●火星探査機

 二〇〇四年一月五日。アメリカ航空宇宙曲の無人火星探査機『スピリット』が、火星へ
の着陸に成功した。

 アメリカから日本のどこかにホールインワンをしたようなものだと、マスコミは書いて
いた。着陸地点はかつて湖があったと推測される、赤道付近のグセフ・クレーターだ、そ
うだ。水があったとするなら、生物がいた可能性は、きわめて高い。

 このニュースを聞いたとき、またまた私のロマンが、かぎりなくふくらんだ。火星には、
生物がいたのではないか。しかもその生物は、自ら、火星そのものを破壊してしまうほど、
高度な文明をもっていたのではないか、と。

 一説によれば、火星が今のような火星になってしまったのは、そこに住む生物によって、
環境破壊が進んだからだという。ちょうど、今の地球で起きていることと同じようなこと
が、火星でも起きたということになる。

 この地球も、あと一〇〇年とか、二〇〇年もすると、温暖化がさらに加速され、ゆくゆ
くは、今の火星のようになるかもしれないと言われている。つまり、火星にも、かつて環
境破壊を起こすほどの生物がいたということになる。

 犬やネコのような生物ではない。人間のような生物である。

●人間は、火星人の子孫? 

 ここから先は、荒唐無稽(こうとうむけい)な、ロマン。空想。そういう前提での話だ
が、しかしもし、人間が、それらの火星人によって作られた生物だとするなら、これほど、
楽しい話は、ない。

 最近、人間は、遺伝子の中のDNAを組みかえる技術を、身につけた。この方法を使え
ば、陸を歩く魚だって、作れることになる。空を飛ぶ、リスだって、作れることになる。

 もし火星人たちも同じような技術をもっていたとしたら、自分たちの脳ミソをもった、
サルを作ることなど、朝飯前だっただろう。いや、ひょっとしたら、人間は、そうした技
術によって、火星人ではないにしても、だれかによって作られたのかもしれない。

 そこで、これはあくまでも、仮定の話だが、もし火星人たちが、地球に住んでいたサル
を見つけ、そのサルの遺伝子の中に、自分たちの遺伝子を組みこんだとする。そしてこの
地球上に、新しい生物が生まれたとする。で、そのあとのこと。火星人たちは、その新し
く生まれた生物に、何をするだろうか。

 私が、火星人なら、その生物たちを、教育しただろうと思う。言葉を教え、文字を教え、
そして生活に必要な知識を教えただろうと思う。

 もちろんこれは、ロマン。空想。しかし順に考えていくと、どうしても、そうなる。つ
まり、私が若いころ出あった、東洋医学、なかんずく黄帝内経(こうていだいけい)は、
こうして生まれた本ではないかと、いつしか、私は、そう考えるようになった。

●壮大なロマン

 私は、いつでも、どこでも、コロリと眠ってしまう割には、よく、夜、ふとんの中に入
っても、眠られないときがある。

 そういうとき、私は、この壮大なロマンを、頭の中に描く。

 かつて仰韶人と、シュメール人は、同一の「神」をもっていた。仰韶人の神(帝王)は、
黄帝。シュメール人の神は、エホバ。天を駆けまわる神々は、黄河流域に住む仰韶人に、
科学を。そしてチグリス・ユーフラテス川にすむ、シュメール人には、宗教を与えた。

 こうして地球上で、人間による文明は、始まった……。

 しかしこういう話をまともに書くと、まず、私の脳ミソが疑われる。実際、こうした荒
唐無稽な話をかかげて、おかしな活動をしている宗教団体は、いくつか、ある。

 ただ私のばあい、こうした話はこうした話として、生活の一部に、しまっておくことが
できる。ロマンは、ロマン。空想は、空想。いつもいつも、頭の中で、考えているわけで
はない。

 が、こういう壮大なロマンを頭の中でめぐらせていると、いつの間にか、眠ってしまう。
それはちょうど、私が子どものころ、『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』を、頭の中で想像
しながら眠ったと同じ。そのころの習慣が、そのまま残っている。そう、私には、その種
の話でしか、ない。また読者のみなさんも、そういうレベルの話として、このエッセーを
読んでほしい。

 では、おやすみなさい!
(040105)

+++++++++++++++++

謎の民族、それがシュメール人です。
何でも乾電池まで使っていたという説
があります。

よくオーパーツの一つとして、あちこちの
雑誌にもよく登場します。

しかし知れば知るほど、不思議な民族で
あるのは、事実です。

+++++++++++++++++

●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ
離れた文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、
よく知られている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのこと
だった。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシ
ャオ人(?)の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤ
ンシャオ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだ
けである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味
が、同じであるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、
意味は「星から来た神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書
いた。なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブ
ルとも言われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。
この中の素問は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだ
ろうか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以
後に写本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁
和寺にあるという。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされて
いる。なぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。
年代的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよ
い。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていた
のか。そういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹
介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブッ
クス」(学研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、
と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってか
ら、ティアトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝
突してできたということになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動
説よりは、ずっと、どこか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができ
ない天王星や海王星、さらには冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベー
スに、宗教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これ
またとんでもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! 
それがシュメール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で
考えたり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、もの
の見方が、変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、
こう言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみ
たいなものだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはな
い。ただし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人
だの、中国人だのと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとする
なら、一度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、
西暦3600年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、
ロマンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感
じたようなロマンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始ま
る、あの映画である。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩
いていると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の
帰りにでも、またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の
別の惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。
ひょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをし
ている? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやって
くるのは、多分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消でき
るのも事実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成
構造が、地球とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには
宇宙人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月
を見ながら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情
をしてみせるが、こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の
中で、「ウム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、
数字が並び、その計算式が書いてある。

+++++++++++++

1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、
ニネヴェのアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調
査した結果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に
関するものであると結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(お
よび秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に
太陽のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が
1周してもとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるので
ある。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転
するのに要する時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的で
あるが、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、そ
の移動周期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたって
は、現在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いること
だろう。

+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、
計算したもの。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまっ
たく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私
たちが知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2
万5920年と、計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげて
みよう。そこには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少
しずつ、西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるよ
うに、1年に、2万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第
一、その時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度妙な
移動など、どうすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置い
てある跳び箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、
500回転周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いて
ある。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描け
ない。しかし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図
形としては、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を
拾ってみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形
文字の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個
数と、点を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれ
ない可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の
点を線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字では
ないか!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書
を買って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でも
よい。その点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文
字と一致するという。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で
交わっている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということにな
る。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結
んでできた文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは
順序が逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が
集合されて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たち
は、文字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったというこ
とになるのだろうか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それ
を結ぶ線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑な
キーボードは必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動か
すことなく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。
想像するだけでも、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚え
た感動がもどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明して
やるつもり。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そ
うねえ」と感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 
運動周期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくび
を始めた。(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

++++++++++++++++++

さてどうですか?

東洋医学に興味をもってくださいましたか?

よろしかったら、『目で見る漢方診断』を
一度、ご覧になってみてください。

私のHPのトップページより、お読み
いただけるようにしてあります。

現在、改訂版を、HPにアップロードして
います。
より読みやすく、編集しています。

よろしく!

+++++++++++++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 黄帝内経 素問 霊枢 漢
方 目で見る漢方診断 はやし浩司 東洋医学 経穴編)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.※※  ***※
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 4月 28日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page063.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●とても、すばらしい話(A Wonderful Story)
My son has written a wonderful story, which was actually happened in one of schools in 
USA. Here I would like introduce it.

++++++++++++++++

息子がこんな記事を、自分のBLOG
に書いた。

そのまま紹介させてもらう。

++++++++++++++++

●ピンクのシャツ 

幼稚園と小学校が普通一緒になっているここアーカンソーでは、
誠司が今年8月から行く幼稚園/小学校へ、今ぐらいから登録の
手続きをしなければいけない。知人とよく小学校の話をしてい
て気になるのは、皆そこへ行っている子供の親の平均収入の話
だったり、NCLBで行っている統一テストの平均点だとか、そう
いうくだらない話が多い、ということだ。

前までは高校でそんな話を聞くことが多かったと思うのだけど、
今では幼稚園からそんな感じなのだろうか。

学校の良し悪し、というのはそこでどんな友達を作り、彼らと
どんな経験をするか、ということに尽きる。

去年の9月の年度始めに起きた(北米の学校は9月に始まる)、
どこにでもある普通の中、高校での出来事。

ある最年少の生徒が、ピンク色のシャツを着て初めてこの学校
へ登校して来た。年上のいじめっ子がその少年を見つけ、「お前、
ホモだろう、明日から毎日ぶっ飛ばしてやる。」などと脅した。
それを見つけた2人の生徒が、僕を含め北米全土が注目する行動
を起こす。

「もういじめなんて沢山だ、と思ったんです。」
後のインタビューでそのうちの一人が話したコメント。

いじめを目撃した次の日、彼らは地元の安売り店でピンク色の
シャツ50着を買い、いじめられた生徒の側に立とうと、翌日
そのシャツを着て登校。Eメールなどで他の友人に呼びかけ、
反いじめの為に賛同するよう促した。次の日、彼らが登校すると、
予想していた10、20人の参加を遥かに上回る数百人もの生徒が
ピンク色のシャツを着て登校し、クラス、学年を超えて学校中が
ピンクだらけになったのだそうだ。

そんな中、いじめられた生徒が学校へ登校してきた時の光景を
目撃したクラスメート達は、「とても感動的な光景だった」と
話している。そのクラスでの模様を想像する度にいつも鳥肌が経つ。

「いい学校」とはどこかに住所付きで存在するのではない。
平均点だとか、いくら予算があるだとか、くだらないデータを
元にアタフタせず、僕はただ誠司によい友達とかけがえのない
思い出を沢山作って欲しいなあ、と願うのみ。
(08年4月1日)

++++++++++++++++++

●『No Country』

たまたま今、『No Country』という映画を見てきた。
07年度、アカデミー賞・4部門を獲得したとか。
期待が大きすぎた分だけ、がっかり。
ただの殺人映画。
頭の狂った殺し屋の、ただの殺人映画。

「どうしてあんな映画が、アカデミー賞?」と、叫びたくなる
ような映画だった。

ただ一点、ところどころに、ベトナム戦争の話が出てきたのが、
気になった。
みな、あの戦争の犠牲者(?)ということか。

星は、ひとつの★。が、本当は、ひとつもつけたくない。
帰り際、「二度と見たくないね」と言うと、ワイフも
すなおに、それに同意してくれた。

で、そのとき、こんな会話もした。

私「どうしてあんな映画が、アカデミー賞で、4部門も獲得
したんだろ?」
ワ「アメリカの世相を、そのまま反映しているからじゃ、ない?」
私「あんなに、殺伐としているんだろうか?」
ワ「かもね……?」と。

で、家に帰って、息子のBLOGをのぞく。
読んで、ほっとする。

いつだったか、息子の友人のスミスという男性が、私たちを
車で空港まで送りながら、こんなことを言ったのを思い出す。

「Mr & MRs ハヤシ、ハリウッド映画だけを見て、
これがアメリカだと思わないでほしい」と。

今、その言葉が、しみじみと胸の中で、響く。

アメリカといっても、広い。このアジアがスッポリと入るくらい
広い。
だからいろいろな人がいて、いろいろなドラマを展開する。
それはわかるが、『No Country』は、たとえそれが
事実ではあっても、いちばん見たくない映画の部類に属する。
(きびしい批評で、ごめん。)

あえて言うなら、だれだって小便をする。大便もする。
しかしだれが、小便する男の映画や、大便をする男の映画を
見たがるだろうか。
とくに子どもには、見せてはいけない!

私「日本にも、昔、緒方拳が主演した、『復讐するは我にあり』
という映画があった。ぼくは、あの映画のほうが、凄味(すごみ)
があったように思う」
ワ「そうね。あの映画のほうが、凄かったわね」と。

そのとき道路で、知りあいの女性が、「こんにちは」と声を
かけてくれた。
その瞬間、私たちは映画の世界から解き放された。我にかえった。

息子へ、

すばらしい話、ありがとう!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●4月1日(火曜日)、2008(April 1st, 2008)
I think of an un-seeable world beyond this seeable world.

+++++++++++++++++

今朝、ワイフより少しだけ早く起きて、
ワイフにこう言った。

「オ〜、外は雪だ。
雪が積もっている!」と。

それを聞いて、ワイフがフトンの中で、
首をすくめながら、こう言った。

「おかしな天気ね」と。

エイプリル・フール!

……という冗談が通じるほど、
今朝は寒かった。
冬に逆戻り?

そんな感じがした。

+++++++++++++++++

●姫路城

昨日(3月31日)は、兵庫県は、姫路城まで行ってきた。
朝方、天気が心配されたが、行ってみると、晴。
ほどよく白い雲が浮かんでいて、写真撮影には、申し分なし。

おまけに桜が、部分的に、満開。
さすが、世界遺産。天下の名城。
まるで夢を見ているかのような、(ホント!)、景色だった。

あとでYOU TUBE用に、動画を編集してみるつもり。

+++++++++++++++++

●光と分子の織りなす世界で……(Un-seeable Another World)
There may be another un-seeable world beyond this seeable world. What we can see 
now is not everything. Or we had better not think this seeable world is all.

+++++++++++++++

今、こうして見えるものだけを見て、
「これがすべて」と思ってはいけない。

この(見えるもの)の向こうには、
まったく別の世界がある?

+++++++++++++++

昨日、バスの中で、こんなことを考えた。
「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」と。

たとえば長野県の野辺山には、電波望遠鏡というものがある。
電波望遠鏡というのは、その名のとおり、宇宙からの電波をとらえて、それを(見る)
望遠鏡である。

もちろん人間の目では、電波を見ることはできない。
一度その電波を、人間の目にも(わかる)ように、画像に変換して、(見る)。

さらに(見る)といっても、実際には、大脳の後頭部にある視覚野に映った映像を、
脳が感知しているにすぎない。
わかりやすく言えば、視覚野というのは、パソコンのモニターのようなもの。
そこに映った映像を、脳が、(見る)。

そこにある物体にしても、そうだ。

どれも分子のかたまり。
かたまりというよりは、集まり。
しかし分子ということになれば、その間にある、空気(酸素や窒素)にしても、
これまた分子の集まり。

が、私たちは、空気を、直接見ることはできない。
「見ることができない」というよりは、「見えないようにできている」。

こうしておおざっぱに考えてみると、「見る」ということにしても、「そこに
物がある」ということにしても、たいへんあやふやなことであることがわかる。
私たちは、すべてのものを見ているように思っているかもしれないが、
その実、私たちのまわりには、見えないものも多い。

そこで私は、あらためて、周囲にある(物)を見てみる。

青い空、白い雲、若葉を吹き始めた山の木々……。
そこにある(色)にしても、これまたたいへん、あやふやなものである。
どうして青が、青なのか。
どうして緑が、緑なのか。
どうして白が、白なのか。

たとえば昆虫などは、人間にとっては同じ赤でも、いろいろな赤に見分けることが
できるという。
中には、人間には見えない、紫外線や赤外線を見ることができる動物もいるという。
つまり、私たちが見ている(色)にしても、絶対的なものではない。

……というふうに考えていくと、「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」
ということになってくる。
このことを逆に言うと、「見えているものだけがすべてではない」イコール、「見えて
いるものの向こうに、もっといろいろなものがある」ということになる。

このことをバスの中でワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「でも、物は、ちゃんと、そこにあるわよ」「手でつかむことができるから」と。

それは、そうだ。

物は分子の(集まり)なら、手も分子の(集まり)。
ほどよく(硬さ)が同じなら、私たちは、その物を手でつかむことができる。
しかし「ほどよい」と言っても、たいへん微妙なもの。
たとえば空気などは、手でつかむことはできない。

反対に、人間の手が、空気のようなものだったら、これまたそこにある物を、
手でつかむことはできない。

(物)といっても、人間にとっての(物)であって、そこに「物がある」と断言
するのは、どうか?

たとえばこの宇宙には、電波の集合体のような、巨大な生物がいるかもしれない。
もしそんな生物がいたとするなら、地球など、スルスルとすり抜けてしまう
かもしれない。

……というのは、荒唐無稽な話だが、たとえばイルカなどは、超音波を発信して、
その反射波をとらえて、脳の中に映像らしきものを映し出すことができるという。
(見る)といっても、いろいろな見方があるということ。
またそれによって、見えるものも、すべてちがうということ。

つまり人間について言うなら、私たちは、人間という生物の目を通して、
それを見ているにすぎない。
しかもその見えるものと言えば、あくまでも人間にとって、見えるものにすぎない。

もし人間が、紫外線まで見ることができたとするなら、青い空は、紫色に見えるはず。
そしてそこにオゾンホールのようなものがあれば、私たちが白い雲を見るように、
紫色の雲を、そこに見るはず。

さらに赤外線まで見ることができたとするなら、光のない真夜中でも、熱を発する
生物を見ることができるはず。
ちょうど軍隊が使っている、赤外線スコープのように、だ。

(物)といっても、光が反射しているから、物としてわかるにすぎない。

私「この世界は、映画、『マトリックス』の世界のようなものかもしれないね」
ワ「どういうこと?」
私「つまりね、ぼくたち自身が、実は仮想現実の世界で生きているかもしれない
ということ」
ワ「別のところに、別の世界があるということ?」

私「そうかもしれない。しかしその別の世界というのは、この世界とは、まったく
異質の世界かもしれないよ」
ワ「まるで、ホーキング博士みたい……」
私「何が?」
ワ「ホーキング博士も、私たちが住んでいるような大宇宙は、ここにも、そこにも、
無数にあると言っているわ」

私「そう……。でもぼくたちは、それを見ることができない。さわることもできない」
ワ「不思議な世界ね」
私「いやね、そういう世界が不思議というわけではないんだよ。ぼくたちが生きている、
この世界もまた、不思議な世界だということだよ」
ワ「……?」
私「いいか。こちらから向こうの世界を見ると、不思議な世界と思うかもしれないが、
向こうの世界からこちらの世界を見ると、不思議な世界に見えるはず」と。

考えれば考えるほど、私たちは、不思議な世界に生きている。
この大宇宙にしても、もとはと言えば、(無)がふたつに分かれてできたという説が
ある。(線)のような世界が、爆発してできたという説もある。

どうやってこの宇宙が生まれたかは別にして、ともかくも、私たちは、風船
(=バブル)のような大宇宙の中で生きている。

この風船のような大宇宙の向こうには、何があるのか。
その向こうは、どうなっているのか。
あるいはひょっとしたら、私たちは、(無)の世界で、生きているのかもしれない。
繰りかえすが、あのホーキング博士は、そうした大宇宙が、ここにも、そこにも、
無数にあると説いている。

しかしそうした世界は、人間が見るかぎり、(無)である。
仮に私の横に、そうした大宇宙があるとしても、私は見ることも、さわることもできない。

さらに仮にその大宇宙の中に、無数の銀河があり、その銀河の一角に地球に似た惑星
があり、そこに生物がいるとしても、それを見ることも、さわることもできない。
私たちにしてみれば、その大宇宙も、世界も、そこに住む生物も、(無)ということになる。

しかし反対に、向こう側の宇宙から見れば、私たちが住む大宇宙も、世界も、ここに
住む私たちも(無)ということになる。

今、私たちが見ている世界の向こうに、いったい、どんな世界があるのか?
それは私にもわからない。
わからないが、これだけは事実である。

そこには、私たちの知らない、まったく別の世界がある。
想像もつかないような、まったく別の世界で、ある。
私たちが見ているこの世界だけを、けっして、すべてと思ってはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(4月4日)

++++++++++++++++

昨夜は、軽い頭痛。
このところ、何かと、睡眠不足。
それがどこかに、たまってきたらしい。

だから昨夜は、午後9時に、就寝。
が、今朝は、その分だけ早起き。
時刻は、午前5時。

一応、8時間、眠ったことになる。
が、起きてからも、あくびの連続。

私の体は、いったい、どうなって
いるのか?

++++++++++++++++

●「後退」という恐怖

人間の目は、顔面前部についている。
うしろが、盲点。死角。
そのため、人間は、前に向かって進むのが得意。
また前に向かって進んでいないと、不安。
少なくとも、前に向かって進んでいるときは、うしろから襲われるという
心配はない。

たとえば子どもの鬼ごっこを見る。
逃げる子どもは、一目さんに、前に向かって走る。
「全力で、前に向かって走れば、(鬼)は追いつけない」と。

うしろを振り返るということは、めったにしない。
うしろを振り向いたとたん、その分だけ、速度が落ちる。
子どもも、それをよく知っている。

さらに言えば、前向きに走ることはできても、後ろ向きに走ることはできない。
(練習すれば、後ろ向きでも、速く走れるようになれるという説もあるが……。)

こうした人間の特性のせいか、人間は、後退するのが苦手。
後退を強いられただけで、言いようのない不安感に襲われる。
顔を前に向けたまま、後ずさりするときのことを思い浮かべてみればよい。
うしろに何があるかわからないまま、後ずさりするのは、こわい。

……という話を、車の中で、ワイフとする。
どこかの商店街の中を走っていたときのこと。
その地域も、郊外に大型店ができたせいか、毎年、見るたびにさびれていく。
シャッターをおろした店も、目につく。

「かわいそうだね」「そうね」と。

私の実家も、大正時代からの自転車屋だったとはいえ、私が中学に入ることから、
斜陽につづく斜陽。
高校生になるころには、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
また大学時代も、仕送りといっても、下宿代の1万円だけ。それだけ。
その1万円にしても、母は、毎月、「講」※という組織を使って、
工面してくれていた。

「斜陽」のもつ恐怖は、子どものときから、いやというほど、経験している。
さらに言えば、「後ろ向きに歩く」ことの恐ろしさを、いやというほど、
経験している。

私「ああいうところの店の人たちは、つらい思いをしているもんだよ」
ワ「……」
私「明日が今日より悪くなるというのは、いやだね」と。

きっとその内では、「どうしたらいい?」「どうしよう?」という会話が、
毎日のようになされているはず。

私「商店主というのは、意外とつぶしがきかない。ほかに仕事をさがすと
いっても、それができない。50歳を過ぎると、なおさらできない」
ワ「……そのまま、つづけるわけ?」
私「そう、それしかない。毎月のように、家計を切りつめながらね」
ワ「でも、それにも限界があるのでしょう?」
私「あっても、さらに切りつめるしかない」と。

ある段階までは、虚勢や虚栄を張って生きることができる。
しかしそれも枯れるときには、枯れる。
最後は、枯れた木がポキリと折れるようにして、店はつぶれる。

人間の「目」の話が出てきたのは、そのときのこと。
「ほら、人間の目って、前についているだろ。だから後ろ向きに歩くということが、
苦手なんだよ」と。

たとえば……。

私も、現在、こんな問題に直面している。

ワイフが言うには、老後は、家や土地を売って、そのお金で、そういった施設に
入って過ごせばよいと。
「そのために、家や土地を買ったのだから」と。

前向きに(?)、家や土地を買ったころは、それなりに楽しかった。
しかし「売って、そのお金で、老後を過ごす」というのには、ある種の恐怖感が
ともなう。
「さみしさ」とは、内容がちがう。「恐怖感」だ。
断崖絶壁に追いつめられたかのような、恐怖感である。
その恐怖感の中身が、ここでいう、「後退」ではないか?

ワ「あなたは、いつも前しか見てこなかったから、こわいのよ」
私「そうかもね。これからは、うしろも見ながら、歩いていくよ」と。

ところで母が、いつも口癖のように言っていた、「講」とは、何か。
正確には、「頼母子講(たのもしこう)」という。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「……21世紀となった現在でも、日本各地(主に農村・漁村地域)に、無尽や頼母子、
模合と呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた
金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番で
あることが多い)が、金額を総取りする形態のものもある。多くは実質的な目的よりも、
職場や友人、地縁的なつき合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入
っている人もいる。沖縄では県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山
梨県などでもよく行われている」と。

毎週、どこかの家に集まって、1000円とか2000円を出しあう。
そのお金を、順番で、だれかが手にする。
それを「講」という。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●いじけるK国(Sulky North Korea)
South Korea on Sunday reacted calmly to North Korea's threat to suspend all 
inter-Korean dialogue in protest over remarks by Seoul's top general.(UPI)

+++++++++++++++++

「テロ支援国家指定を解除しなければ、
核開発リストを提出しない」と、
理由にもならない理由をこじつけて、
ノラリクラリと、約束を反故(ほご)
にしようとしているK国。

テロ支援国家指定といっても、国連という
国際的な機関が、そう指定しているわけで
はない。

アメリカという一国が、その国内で、
いわば勝手に、そう指定しているに
すぎない。

もしそれが気にくわないというのであれば、
K国はK国で、たとえば「金権腐敗国家」
として、アメリカを指定したりすればよい。

それに仮に解除したところで、国際社会が、
それで同調するわけではない。
国際社会は、国際社会として、独自の
判断で、独自に行動する。

こうした、つまり理由にもならない理由を
こじつけて、ああでもない、こうでもない
とゴネるのが、K国の常套手段。
そのゴネ方は、うつ病質の人のゴネ方と、
どこか似ている?

ささいなことにこだわり、それを針小棒大に
問題にして、おおげさに騒いだりする。

そこへもってきて、このところ、南北関係
が、少し、おかしくなってきた。

おかしくなってきたといっても、韓国が
おかしくなったわけではない。
韓国は韓国として、やっと(まとも)な
ことを言い出した。

それにK国が、反発し始めている。
例によって例のごとく、理由にもならない
理由をこじつけて……。

++++++++++++++++++

ことの発端は、韓国の統合参謀本部議長が、「K国に核攻撃のきざしがあれば、
先制攻撃も辞さない」と発言したことにあるとされる。

しかし当の統合参謀本部議長は、そんなことは言っていない。

正確に統合参謀本部議長の言葉を、拾ってみる。
統合参謀本部議長は、つぎのように言っている。
朝鮮N報の記事をそのまま紹介する(3月29日付)。

++++++++++++以下、朝鮮N報+++++++++++++++

K議長は26日、就任前の国会人事聴聞会で、「K国が核兵器で韓国を攻撃しようとした時、
どう対応するか」との質問に、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃
することで、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることが
ないようにすること」と答弁し、緊急時の軍事攻撃の可能性を示唆した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

K国はこれを、「宣戦布告も同然の無分別な挑発行為」と解釈し、韓国の先制攻撃の動きに
対しては、「より迅速かつ強力な先制打撃で応じる」と断言したという(同)。

++++++++++++++++++

核攻撃を受ければ、ソウルの市民は、一瞬にして、その600万人が命を失うとされる(ア
メリカ国防省の推算)。

問題は、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次に
ミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」
の部分。

同じく朝鮮N報は、30日付のほうでは、つぎのように報道している。

「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイ
ル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」と。

30日付の記事のほうが、正確ということになる。

この発言をよく読んでも、「先制攻撃」という感じは、あまりしない。
少なくとも「先制攻撃する」とは、言っていない。
しかも核兵器をもたない韓国としては、常識的な発言ということになる。
今の今ですら、もしK国が韓国を核攻撃する様子を見せたら、韓国としては、
K国のその場所を攻撃するしかない。

何しろ、たった一発で、600万人の人たちが命を失う。
ソウル市はそれで壊滅し、韓国経済は、そのまま崩壊する。
それを「だまって見ていろ」というほうがおかしい。

つまりは、核兵器というのは、それほどまでに恐ろしい武器であるということ。
その(おそろしさ)を棚にあげて、「先制攻撃は許さない」とがんばるK国のほうが、
おかしい。
狂っている。

自分たちは、「ソウルを火の海にする」「東京を火の海にする」などと、さんざん言いたい
放題のことを言っておきながら、ほんの少し、その反対のことを言っただけで、
大騒ぎする。
その身勝手さ。
その自己中心性さ。
そしてその幼稚さ。

で、そのあと、K国は、矢継ぎ早に、ケソン工業団地から当局者を撤退させ、
ミサイルを東シナ海に発射し、さらに今度は、韓国当局者が、軍事境界線を渡る
ことを禁止するという措置に出た(08年3月)。

どれも、自分で自分のクビを絞めるような行為ばかりである。
だれが得をして、だれが損をするか、もう少し冷静な頭で考えてみたらよい。

……ということで、K国は、今、完全に、現実検証能力を、喪失している。
つまりまるで自分のことが、わかっていない。
この08年には、穀物だけでも、150万トン以上もの不足が
予想されている。

こうしたK国の動きに対して、韓国政府は、今のところ、正式に返答するか
どうかを検討しているという。
2、3日のうちに、その結論を出すという。

まったくもって、わけのわからない国、それがK国ということになる。
が、言いかえると、それだけK国内部が、今、大混乱しているということになる。
恐らくもう、収拾がつかない状態になっているのでは?

「殿、ご乱心!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●やはり、私の予想通りだった!

+++++++++++++++++
決裂したかのように見えた、ジュネーブでの
米朝会議。

すべてのマスコミも、そう報じていた。

しかしその裏で……!

私が、3月14日に書いた原稿をまず、読んで
みてほしい。

++++++++++++++++++++++

(3月14日、記)

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行わ
れた。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定
するなど米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・
太平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもや
っていないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K
国は拡散とウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったこ
とを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したこと
を明らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、
具体的には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会う
つもりはない」としている。

++++++++++以上、3月15日、記+++++++++++

しかし、だ、
こんなニュースが、先ほど、飛び込んできた。
朝鮮N報発、聯合ニュース。

そのまま紹介させてもらう!

+++++++++++++

【ソウル3日聯合】
北朝鮮と米国が外交ルートを使い核開発申告と関連した大詰めの協議を行っており、この
結果により双方の6カ国協議首席代表による会合開催時期が決まるものとみられている。

 双方はまず、核開発申告書の形式を、プルトニウムとウラン濃縮、すべての形態の核協
力の3つの項目に区分し、内容は北朝鮮がウラン濃縮計画(UEP)と、シリアとの核協力
疑惑に介入していたことを間接的に認めることを骨子としているもようだ。

 政府消息筋は「米朝協議が先月のジュネーブでの協議以来、大きな進展を見せているが、
まだ本質的な部分で調整すべきことが残っている。ウラン濃縮もそうだが、核協力の部分
でも双方が折衝と文案整理作業をさらにしなくてはならない」と話している。別の消息筋
は、「ジュネーブでの協議以降、大枠については共感に達しているが、一部項目で詰めの調
整が残っていると考えればよい」とし、今週中に米朝首席代表による会合を開くのは困難
だとの見通しを示した。

 米朝が協議している「間接的な是認」は、米国が北朝鮮との話し合いを基に「北朝鮮が
ウラン活動と核拡散活動に介入したということが米国の理解事項」と明記し、北朝鮮側は
こうした内容に「反論しない」とすることを骨子としていると伝えられている。

双方はこうした趣旨に合う文案作成に入っており、プルトニウムの項目はほとんど整理
され、UEPと核協力の一部をめぐって駆け引きが行われているようだ。

 政府消息筋は、ウラン活動と核拡散活動という大きな項目は簡単だが、その中に盛り込
まれる細部の内容をどうするかがとても難しいことだとし、「これは後に検証の対象にな
るため、北朝鮮としてもむやみに同意するのは難しい問題だ」と話している。

+++++++++++++++++

やはりヒル氏と金氏の間で、密約がなされていた。

(4月3日、記)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 25日
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page062.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a 
report, regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼ
す影響に関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにし
た。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される
可能性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍
感になるなどと結論づけた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについての
み、年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、
その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の
嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と
説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様の
ような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに
夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームを
してみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、
カウンセラーまで配置される状況になっている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、
書いてから9年にもなるのに、いまだに、抗議の書き込みが
あとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム
 子供とゲーム ゲームの危険性 テレビゲーム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I 
have found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 
愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)】
Japan has been originally a royal bureaucratic country since the Nara Period and still 
now it is. From now on children at schools would be forced to sing an anthem to worship 
the Emperor's Family. 

●愛国心?

++++++++++++++++++

中央教育審議会のある委員は、こう
言った。

「今までの議論は、何だったんだ。
非常に気分が悪い」(中日新聞・3月28日
朝刊)と。

最後の最後の土壇場になって、突然、
文科省は「字句修正」(?)を行った。

そしてそこに「我が国を…愛し」という文言を
挿入し、「(君が代を)歌えるよう指導する
こと」とした。

文科省は、「政治家の圧力」を臭わせて
いるが、審議会そのものがもつ性質上、
それはありえない。

自分たちのよいように審議会を誘導し、
それがうまくいかなくなると、今度は、
外部の圧力を理由にする。

いつもの常套手段である。

国際基督教大学のFH教授も、
「愛国心重視の文言を最後の修正で
加える手法はけしからん。

改正教育基本法は強行採決で成立した。
パブコメ(=パブリック・コメント)は
民意を代表していない。

こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは
まちがっている」(同)とコメントを寄せている。

まったく、……100%、同感である!

++++++++++++++++++

日本の中央教育審議会の答申は、海外ではどのように受け取られているか。
まず、韓国の朝鮮N報の記事を紹介しよう。

『日本の文部科学省は28日、義務教育の小中学校での教育内容に直接影響を与える学習
指導要領を、愛国心を強調する方向で見直し、正式に発表した。

政界の圧力を受け、新指導要領には総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が新たに加
えられ、音楽の教育方針には「(君が代は)いずれの学年においても歌えるよう指導する」
と明記した。

2月に発表された改訂案には、「愛国心」に関する記述はなかった。また、(君が代)をめ
ぐっては「指導する」としただけで、「歌えるようにする」との文言はなかった。朝日新聞
は「保守系の国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は異例の修正
に踏み切った」と伝えた。

一方、渡海紀三朗文部科学相は、27日、国公立小中学校の生徒たちの靖国神社訪問など
を禁じた1949年の政府通達について、「既に失効している」と明言した。靖国神社は太
平洋戦争の戦死者を祭る宗教施設で、日本の戦争史を正当化する戦争博物館(遊就館)が
境内にある』(東京発、N報特派員・朝鮮N報・3月29日)と。

++++++++++++++++++

もう少し修正内容を、詳しく見てみよう。

(小中学校総則)では、

【改正案】「道徳教育は…伝統と文化を継承し、発展させ、…道徳性を養うことを目標とす
る」。

【修正案】「道徳教育は…伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛
し、…道徳性を養うことを目標とする」。

(小・国語)では、

【改正案】「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。

【修正案】「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりす
ること」。

(小・音楽)では、

【改正案】「君が代」は、いずれの学年においても指導する。

【修正案】「君が代」は、いずれの学年においても、歌えるように指導する。

(中・社会)では、

【改正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化を…理解させる」。

【修正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰…を理解させ
る」など。(以上、中日新聞・08・3月28日より)

++++++++++++++++++

これだけ並べてみてもわかるように、修正案なるものは、全体として、「天皇中心の神話国
家」を目指していることがわかる。
その意図が、見え見え。
つまり「国を愛する」という言葉を使いながら、何とかして、それを「天皇家を愛する」
ことにもっていこうとしている。

が、どうして(君が代)を歌うことが、愛国心につながるのか?
(君が代)を歌うから、愛国心があるということにもならないし、反対に(君が代)を歌
わないから、愛国心がないということにもならない。

たかが、ひとつの(歌)ではないか。

もしそれほどまでに国民の愛国心なるものを確かめたかったら、北朝鮮のように、バッジ
制にすればよい。
階級、功績、レベルに応じて、色分けするのもよい。何度も繰りかえすが、(君が代)の「君」
は、「天皇」を指す。

だったら、思い切って、改正案をこう修正すればよい。
「バッジは、いずれの学年においても、胸に着けるように指導する」と。
そのほうが、よほどわかりやすいし、いずれ、日本もそうなるだろう。

で、かつてあの小泉首相は、「君が代の(君)は、(国民)をさす」と説明したが、私はこ
れほどまでの珍解釈を、聞いたことがない。

そこで(君が代)を擁護する人たちは、「君が代は、日本独特の古典音階を使用している、
世界に類のない曲である」と主張する。
それは私も認める。
世界の国家を並べて聞いても、日本の(君が代)には、独自性がある。
すばらしい!

しかし私たちが問題にしているのは、(曲)ではない! 
(歌詞)である!
つまり(君が代)を擁護する人たちは、こうして巧みに、(曲)と(歌詞)を混同させなが
ら、私たちを煙に巻いている、などなど。

さらに憲法を改正して、天皇を現行の(象徴)から、(元首)にするという動きも、目立っ
てきている。
それが「国としての品格である」と説く人もいる。

しかし21世紀の今、どうしてこの日本で、王政復古(Restoration)なのか?
その必要はあるのか? 
どうして(象徴)であっては、いけないのか? 
その前に、天皇家の人たちが、それを望んでいるのか? 
その了解を取っているのか?

日本が民主主義国家だと思っているのは、悲しいかな、私たち日本人だけ。
ウソだと思うなら、外国の人たちに聞いてみることだ。

日本は、奈良時代の昔から、君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)。
今の今も、君主官僚主義国家。
あの北朝鮮だって、一応、「民主主義国家」ということになっている。
(北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」だぞ!)

「審議会」なるものは、彼らの行動を正当化するための、道具。方便。
だいたいどういう基準でメンバーが選ばれるか、それすら明確ではない。
たいていのばあい、YES・MANだけを集め、自分たちにとって都合のよいように、結
論を出させる。
これを「答申」というが、あとはその答申に基づいて、好き勝手なことをする。
そのためにも、答申の文言は、おおざっぱであればあるほど、また抽象的であればあるほ
ど、よい。
いかようにも解釈できる。

あとはその答申に基づいて、「控えおろう!」と。
が、今回は、そんな審議会から出された答申ですら、さらに修正した!

……というわけで、たかが【修正案】と、あなどっていてはいけない。
文科省は、こうした答申が出たことをよいことに、これから先、矢継ぎ早に、(君が代)の
強制を、全国津々浦々の学校にまでしてくるはず。
ついでに靖国神社参拝を、修学旅行の日程に入れるよう強要してくるはず。
各学校では、「天照大神」の神話が、堂々と語られるようになるはず。

徐々に徐々に、少しずつ、しかし長い時間をかけて、日本という国は、そういう方向に導
かれていく。

もちろんその目的は、ただひとつ

天皇を頂点にいだく、官僚主義国家の完成!

もう一度、国際基督教大学のFH教授の言葉を、かみしめてみよう。

「こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは、まちがっている」と。

+++++++++++++++++

●日本の神話

(修正案)の中に出てくる「神話」とは何か。
ウィキペディア百科事典から、そのまま抜粋、引用させてもらう。

+++++++(以下、ウィキペディア百科事典より)++++++++++

『古事記』においては、イザナキがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗
い流した際に、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツク
ヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナキは天照大御
神に高天原を治めるように指示した。

海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため、
イザナキによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高
天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
スサノオの潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、スサノオ
の物実から三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。

天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。

 アメノオシホミミ 
 アメノホヒ 
 アマツヒコネ 
 イクツヒコネ 
 クマノクスビ
 
これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れ
てしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。(知恵の神様の秩父の神様天の八意
思金命(やごころおもいかねのみこと)と天の児屋根命など八百万の神々は天照大御神を
岩戸から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。

葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が
平定され、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生ま
れたので、孫に当たるニニギを降臨させた。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++

こうした神話をもとに、紀元後645年の大化の改新以後、天皇家は、天照大神をまつる
ようになる(ウィキペディア百科事典)。

「……ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノ
ホアカリは尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニ
ニギで、神武天皇の曽祖父にあたる」と。

やがてすぐ、小学校で、こうした神話について、読み聞かせが始まることになる。
子どもの受験勉強に熱心な親たちは、今から、しっかりと予習しておいたほうがよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中央教育審議会 愛国心 
国歌 国歌論 神話 神話教育 官僚主義 官僚主義国家)



Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●依存宗教(Religion to depend on)

++++++++++++++++

何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いなが
ら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一
定に保たれている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよ
い。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮ら
せるかもしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということ
になる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。
インチキ。アホ。バカ。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、
神によって救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、
アルマゲドンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めて
かかるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってし
まう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。
インチキ。アホ。バカ。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と
脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように
見えるはず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れること
ができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こう
いうふうにも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教
とは 宗教論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2533)

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

少し前に書いた原稿だが、気になる。
自分で自分の書いた原稿を、もう一度、
読みなおしてみる。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー 
Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マ
ーティン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング牧師はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。
(きびしい言葉だ!)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その
日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからで
ある。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街
に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だ
が、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田
切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下
町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがい
を求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでい
く」(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自己の統合性 老後の統合
性 生きざま)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●社会科の春休みの宿題(浜松市、某中学校)
(Edo period was one of the most dark and terrifying period even in the world as well as 
in the history of Japan. Only 6~7% of Samurai warriors governed the rest of people and 
80~85% of Japanese population was farmers. The farmers should provide Samurai 
warriors with 40~50% (sometimes 60%) of their products. Farmers did not at all have 
freedom of moving or changing their jobs, of course no freedom of speech. So it was one 
of the most dark and terrifying period.

+++++++++++++++++++++++

(1)共通テーマは、武士、700年間の時代の中で、
人々が、幸せに暮らしたのは、いつか。

(2)社会の安定、自由、繁栄、平和、家族という視点
の中から、ひとつ選んで、追究する。

+++++++++++++++++++++++

中学1年生のKさんが、こんな宿題をもってきた。
春休みの宿題だという。

日本の教育も変わってきた。
もちろん宿題の内容も変わってきた。
これを見たとき、私は、「日本の教育は確実に欧米化している」と感じた。

(暗記)から(思考力)へ。
(ジェネラリスト)から(スペシャリスト)へ。
(従順な子ども)から(問題意識をもった子ども)へ。

その変化は、いろいろな言い方で説明できる。
しかし教育というのは、「学校で学んだことを、すべて忘れてしまったあとに
残っているもの」とするなら、こうした教育は、その(残るもの)を目指した
教育と言える。

すばらしいことだと思う。

で、Kさんには、こう説明した。

(1)武士の時代といっても、きびしい身分制度が敷かれていた。
武士の立場で考えるか、農民の立場で考えるか、それによって、
見方が大きく変わる。

(2)「幸せ」の定義をしっかりとしておくこと。何をもって「幸せ」というか。
   それによっても、見方が、大きく変わる。

(3)「安定、自由、繁栄、平和、家族」の中から、何を選ぶか。
   もちろんそのうちのどれを選ぶかで、見方が、これまた大きく変わる。

私「基本的には、あの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの
暗黒かつ恐怖政治の時代だった。それを忘れてはいけない」
K「結構、みな、楽しそうだったみたい」
私「だれが、そう教えたの?」
K「……教科書……?」

私「移動の自由もなく、職業選択の自由もない。もちろん言論の自由もない。
きびしい身分制度の中で、生まれながらにして、みな、職業が決まっていたんだよ」
K「武士にとっては、住みやすい時代だったかもしれないわね」
私「そう、武士にとってはね。でも、その武士は、6〜7%。農民は、80〜85%。
その農民たちは、武士に虐げられていた」
K「そう? 武士って、そんなに少なかったの?」と。

ちなみに、ヤフー・知恵袋によれば、つぎのようにある。

「幕末の人口約3200万人のうちわけは、諸藩の統計を平均して、武士6〜7%、農民
80〜85%、工商を含む町人5〜6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%と、
推測されている」と。

つまり人口の6〜7%に過ぎない武士が、人口の80〜85%もいる農民を虐げ、
好き勝手な生活を楽しんでいた。
「好き勝手」というのは、農民の納める年貢にしても、収穫高の4〜5割を自分たちの
ものにしていたことをいう。

身分制度については、こんな話が残っている。

浜松市の西に、江戸時代に代々、庄屋として栄えた農家がある。
そんな農家ですらも、上から下まで、厳格な身分制度が敷かれていた。
小間使いは、一生、小間使い。
代々、小間使い、と。

また恐怖政治については、こんな話が残っている。

私の山荘のある地域では、明治時代に入ってからも、士族たちは、
刀をさして歩いていたという。
歩くたびに、刀の鞘(さや)が、カチャカチャと音をたてたという。

農家の人たちは、その音が聞こえてくると、道路の脇に正座して、頭をさげ、
その氏族という人が通り過ぎるのを待ったという。

この話は、10年ほど前、90歳でなくなった女性から、直接、私が
聞いた話である。

こういう(事実)をすべて無視して、「江戸時代は、自由な時代だった」とは、
私はぜったいに言わせない。

Kさんが、どんなレポートを書くかは、私は知らない。
しかしそれが、江戸時代を考える、新しいきっかけになればよい。

……私はKさんが数学の問題を解いている間、「幸せな暮らし」と何か、
それを考えていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 武士 農民 比率 江戸時
代)

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of 
the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is 
not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる
気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other 
brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the 
frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of 
words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない
部分 視床下部 大脳前頭前野)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(今日・雑感・3月27日)

●ボケていく頭(Brains that is rusted)
I saw a movie last night with my wife, which is about Alzheimer's disease. It was a nice
 one and I thought about again what is the brain.)

昨夜、渡辺健、樋口可南子主演の「明日の記憶」(邦画)を見た。
若年性アルツハイマー病をテーマにした映画だった。
よい映画だった。
(あえて星はつけないでおく。)

ヤフーの映画紹介欄には、つぎのようにある。

『第18回山本周五郎賞を受賞した、荻原浩の同名長編を原作に、
『トリック』や『ケイゾク』の堤幸彦監督が映画化した人間ドラマ。
若年性アルツハイマー病に侵された男と、ともに喪失を乗り越えようとする
妻の夫婦の情愛をたおやかに描く。互いを受け止め合い、痛みを共有する
熟年夫婦を、渡辺謙と樋口可南子が好演。人を愛することの根源的な意味を
問いかける重厚なテーマを、ソフトな語り口でつづる堤監督の演出手腕が
冴え渡る感動作』と。

その映画を見ながら、随所で、「明日は、わが身」を実感した。

ただ、私もこのところ、アルツハイマー病になった人たちを、見る機会がよくある。
が、症状は、もっと深刻。
顔つき、そのものが、変化する。
顔じゅうから、緊張感が消え、ダラーッとした感じになる。

映画の中の渡辺謙は、最後の最後まで、りりしい(?)表情をしていたが、
そのあたりでは、少し違和感を覚えた。

で、そのあと、私とワイフは、脳みその検査をしあった。
ああでもない、こうでもない、と。

私「なあ、最近、ぼくの様子、少し、ヘンじゃないか?」
ワ「ヘンじゃ、ないわよ」
私「ボケたとか、そういうふうに思うことはないか?」
ワ「ないわねエ……」
私「でもさ、お前も、同じようにボケ始めていたら、たがいにそれがわからないよ」と。

映画の中でも、最初、渡辺謙は、自分が病気であることに、強く反発する。
ものを投げつけたり、机を蹴飛ばしたり、怒鳴ったりして、反発する。
それもそのはず。
脳みその中枢部分が変化する。
パソコンでいえば、クロック数そのものが、落ちる。
だから自分で自分の変化を知るのは、(理論的には)、不可能。

これは何も、アルツハイマー病にかぎらない。

加齢とともに、脳みその機能が低下する。
しかし低下したことを自分で知るのは、(理論的には)、不可能。
ほとんどの人は、低下していることにすら気づかない。
気づかないだけならまだしも、「私はふつう」「私はまとも」と、がんばる。

それを繰り返しながら、徐々に、5年、10年単位で、ボケていく。

で、最近、私は、こんな経験をした。

6年前の生徒たちの写真を見たときのこと。
全員、幼児教室の生徒たちである。
そこには、5人の子どもたちの顔が写っていた。
が、うち4人まで、名前どころか、そういう子どもがいたことすら、思い出せなかった。

たった、6年前である!

この数字で計算すると、私は、6年前の記憶のうち、80%を失ったことになる。
6年前といえば、2002年。
「2002年には、どんなことをしたか?」と聞かれると、さらに困る。
何があったかさえも、思い出せない。

言い換えると、今という(現在)にしても、6年後には、そのうちの80%が
消えることになる。
さらにその2倍の12年後には、残りの20%のうちの、さらに80%を失う。
ざっと計算してみると、残っているのは、たったの4%!
私が、72歳になるころには、今という(現在)の記憶は、4%しか、残っていない?
生徒数で考えると、100人の生徒のうち、4人しか、覚えていない?

この数字を見て、ゾーッとしない人は、いないと思う。
いや、中には、「私はだいじょうぶ」と思っている人もいるかもしれない。

しかしほんとうに、そうか?
そう信じてよいのか?
むしろ、そういう人のほうが、あぶない?

……と書いただけで終わったのでは、エッセーにならない。
問題は、では、どうしたらよいか、ということ。
どうすれば、ボケていく自分の脳みそと、戦うことができるかということ。

映画「明日の記憶」の中では、妻を演ずる樋口加奈子が、アルバムから写真を
抜き取って、それを部屋中に、張ったり、並べたりする。
この方法は、アルツハイマー病には効果は、あまりないかもしれない。
しかしボケ防止には、よいかもしれない。
記憶を繰り返し再燃させることによって、脳みそ活性化する。
が、問題がないわけではない。
活性化できるとしても、その部分だけ?
ほかの記憶は、どうしたらよいのか?

さらに思考力の維持となると、もっとむずかしい?
思考力が低下すれば、表面的な会話しか、できなくなる。
現在の私の母が、そうである。
「元気?」
「元気だよ」と。
それでおしまい。

(そう言えば、あの母にしても、ほんの5、6前までは、「私はボケていない!」と
がんばっていたゾ。
私が、「おまえ、少しボケたんじゃ、ない?」と言ったときも、そうだった。
母は、ムキになって、それに反発した。)

……ということで、この問題だけは、考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。
わけがわからなくなってしまう。

そこで映画の中で、だれかが、こう言う。
私のボケかけた脳みその記憶によるものなので、不正確かもしれないが、こう言う。

「ものごとには、始まりがあれば、終わりがある」と。
つまりそういう状態になることを、(終わり)ととらえれば、よい、と。

「終わりねエ……」と思ったところで、この話は、おしまい。
考えたところで、どうにもならないし……。

++++資料++++++++++++++++

●若年性アルツハイマー病の初期症状(NPO 朝日ネットワークHPより、抜粋)

こんな症状があったら要注意

若年性アルツハイマーの初期症状としては

●頭痛やめまい   
●不眠
●不安感       
●自発性の低下
●抑うつ状態

などがあります。

発症すると、
自己中心的になったり、
以前より頑固になったり、
他人への配慮がなくなったりします。

●以前よりも自己中心的になった
●以前よりも頑固になった
●他人への配慮(気配り)が、なくなった

(こういう症状がみられたら、専門医に相談したらよい、と。)

(注)なお若年性アルツハイマー病の患者は、推定で、10万人以上
いると推定されている(厚生労働省、補助事業調査)。

さらに、武田病院画像診断センターのHPによれば、つぎのようにある。

認知症の自覚……ないことが多い
進み方……ゆっくり単調に進む
神経症状……初期には少ない
身体の持病……持病との関係は少ない
特徴的傾向……落ち着きがなかったり、深刻味がないことが多い
認知症の性質……全般的認知症(全般的に能力が低下している)
人格・人柄……変わることが多い

+++++++++++++++++

これらの診断基準を見ると、すべて、私に当てはまるから、恐ろしい!
つまり私も、あぶない? とくに気になるのは、「深刻味がないことが多い」
という部分。
このところ他人の不幸話を聞いても、どこかサバサバしている。
相手の深刻味を、自分のものとして聞くことできない。

気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Mar 08++++++++++はやし浩司

●保守点検(Maintenance Check)

先ほど、家電の保守点検の人が、やってきた。
知らなかった。

その保守点検の人が、階下で、電源を落としてしまった。
知らなかった。

パソコンの画面が、一瞬、暗くなった。
パソコンのパイロットランプも、みな消えた。

「パソコンの故障?」と思った、つぎの瞬間、
顔から血の気が引いていくのが、わかった。
3〜4時間分の原稿が、すべて消えた!

こういうときパソコンを使っている人は、
「真っ青」という言葉を使う。
たとえばパソコンの故障でも、ブルー画面(青い画面)が
出ることほど、恐ろしいものはない。

パソコンを使っていて、そのブルー画面が出たら、
パソコンの(臨終)と考えてよい。

私は、真っ青になった。

が、電源はもどった。
しかしデータは、すべて紛失。
その状態で、階下へおりていくと、そこに保守点検の人が!

「電源を落としたでしょ!」と言うと、「すみません」と。

ハア〜〜〜〜〜〜〜!

私「すみませんで、すむ話ではありませんよ、これは!」
男「すみません」「すみません」
私「だから、すみませんで、すむ話ではないのです」と。

書斎に入って、パソコンを立ち上げてみると、データの
90%は、残っていた。
ビスタが、勝手に、データを保存しておいてくれた。

よかった。
ホ〜〜〜〜〜〜〜!

(ビスタって、すごいね!)

あとの心配は、ハードディスク。
突然(=瞬間的に)、電源を落とすと、たまにハードディスクにキズがつくことがある。
ハードディスクが針を落としたまま、フル回転しているときが、ヤバイ!
ハードディスクにキズがついた可能性もないわけではない。

しかしこれについては、一度、検査(ハードディスクのエラーチェック)
をしてみなければわからない。
その検査に、2時間弱は(320GB)、かかる。

私「これだけは、すみませんですむ話ではありませんから、そのときは、
責任を取ってくださいよ」
男「わかりました」と。

しかしそれにしても、不注意な人だ。
電源盤をいじるならいじるで、一言、警告してくれればよかった。

言い忘れたが、保守点検の人は、嘱託で働いている、65歳くらいの男性だった。
そういう人だから、パソコンには、うといのだろう。
それに同年齢ということもあって、同情心ばかり、先に立った。

……ということで、1時間分(ぶん)ほど、今朝は、時間を無駄にした。

なお、エラーチェックの結果は、つぎのようにして、知ることができる。

(ビスタ)のばあい

(1)コンピュータを右クリック
(2)「管理」を選択
(3)コンピュータの管理画面から、(イベントビューワー)→(Windowsログ)
→(アプリケーション)へと進む。
(4)右側の(ログ一覧表)から、(Wininit)をダブルクリック
(5)その下に、「Windows has checked the file system and found no problems」
と記載されていれば、OK.

心配な人は、一度、そこまで調べてみるとよい。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ミラー反応(mirror phenomenon)
When a boy or girl wants to leave a learning center or a Jyuku, he or she would never 
say straightly "I want to quit it". Or he or she starts speaking ill of teachers, in order to 
let their parents think "Stop going there." This is a common phenomenon but recently I 
have found a kind of "Mirror Phenomenon" in a boy or a girl. He or she reacts badly 
against teachers at the same time they start speaking ill of their teachers. So I call it 
"Mirror Phenomenon".

++++++++++++++++++

子どもというのは、塾や、おけいこ塾を
やめたくなっても、「やめたい」とは
言わない。

そういうときは、まず塾や、おけいこ塾の先生の
悪口を言い始める。

「教え方が悪い」
「ていねいに教えてくれない」
「先生が、サボっている」など。

親をして、「そんな塾などやめなさい」と
言わせるように、しむける。

こうした現象は、学校教育の場では、顕著に
現れる。

それについては、たびたび書いてきた。

が、最近、これとは別に、もうひとつ、
興味ある現象が起きることを発見した。
称して、「ミラー反応」。

子どもというのは、親をして、そういう
ふうに思わせる一方、今度は、先生当人に
対しては、ぞんざいな態度を示すようになる。

子どもなりに、一貫性を保とうとするわけ
である。

つまり、親には、先生の悪口を言いながら、
その一方で、先生に対しては、「私も親も
怒っている」という様子をして、見せる。

だから、ミラー反応。

先生に対して、反抗的になる。
つっぱったしぐさを、して見せる。
言い方が乱暴になる。
先生の指示に従わなくなる。
すなおさが、消える、など。

つまりこういうプロセスを経て、子どもは、
塾や、おけいこ塾を去っていく。

このタイプの子どもは、(親もそうだが)、
あたかも教室を蹴飛ばすかのようにして
去っていくので、それがわかる。

親は、子どもの言い分のみを、一方的に
信じてしまう。

で、このタイプの子どもが、もっとも
恐れるのは、先生と親が直接対話をすること。

「一度、お母さんと話がしたい」などと
言ってみると、それがわかる。

ああでもない、こうでもないという理由を
並べて、取りあってくれない。

「お母さんは、仕事をしている」(ウソ!)
「夜は、おばあちゃんの家に行っている」(ウソ!)
「携帯電話の番号は知らない」(ウソ!)と。

「電話をかけてもいいか」と言って、受話器を
取ったとたん、それに飛びかかってきた子ども
(小5女児)もいた。

『子どもを信じる』ことは、大切なことだが、
ことこういうケースでは、まず子どもを疑って
みること。

で、私のばあい、こうしたケースを毎年の
ように経験している。
だから、その流れが、おおまかにわかる。

(1)まず私に対して、反抗的になる。理由は、
いろいろあるのだろうが、この時期の子どもの心理は、
かなり複雑。

過負担、親の過剰期待、過干渉などが、子どもの
心をゆがめることもある。
それに家庭事情が、からんでくる。

外からでは、理由は、わからない。

(2)親に対して悪口を言い始める。
悪口の内容は、さまざま。かなり知的な操作をするので、
親には、それが見抜けない。

反対に、「私は、もっと勉強したい」「あの教室では
勉強できない」などと言うこともある。

親の態度が、ぐんと冷ややかになることもある。

(3)親から連絡がある。
子どもの言い分だけを聞いているから、いつも
一方的。

先にも書いたように、「蹴飛ばすようにして」やめていく。
たがいの(あいさつ)すら、ないことも多い。
子どもが、そういうふうになるよう、しむけてしまう。

……ということは、何も珍しい現象ではない。
たいへんよくある現象と言っても、よい。

若いころは、それなりに気にしたが、今は、ちがう。
年の功というか、(フン)と笑って、それで
すますことができる。

ときに、「なかなか、やるなあ」と感心することもある。

というのも、この年齢になると、おかしなことだが、
子どもも、親も、同年齢に見えるようになる。
子どもだから、親より劣っているというふうには、
見えない。
親だから、子どもよりすぐれているとも、これまた
見えない。

親に説明して、誤解を解いたところで、どうこうなる
問題ではない。
その時点で、子どもの心は、すでに私から離れて
しまっている。

だからこういうミラー反応を子どもが示し始めた
ときには、私は、こう言うようにしている。

「ここ(=私の教室)をやめたかったら、やめたいと
先生(=私)に話してよ。お父さんとお母さんに、うまく
話してあげるから」と。

ほとんどのばあい、それに応ずる子どもはいない。
いないが、そういうふうに、こちらが一歩、退いて、
話をする。

子どもを追い込むのだけは、私は、避けたい。

++++++++++++++++++++

8年前に書いた原稿を、そのまま載せる。
(中日新聞、発表済み)

++++++++++++++++++++

●単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に
行くところです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小4)の先生は、点の悪い子ど
ものテストは、投げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうとき
はまず、先生の悪口を言い始める。

「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしている」など。

つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけ
で、学校の先生の悪口を言うようになった子ども(小3女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子ど
もの言い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しか
し一方で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中1)も、その言葉で苦し
んでいるはずだった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。

「君の力は君が一番よく知っているはずではないか。だったら、お父さんに正直にそう
言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場が
なくなってしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面
で自分のわがままを通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上に
していた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんな
のがある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表
するということは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参
観にきていた。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私
は少し大げさにKさんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。

と、そのときである。Kさんがスーッと涙を流したのである。私はてっきりうれし泣き
だろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わってから、Kさん
にその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜
んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさ
んは、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みに
じる行為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。
その範囲の行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまち
がえると、この種の抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。

私はAさんのうしろ姿を見送りながら、むしろそちらのほうを心配した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ミラー反応 ミラー現象 
先生の悪口を言う子ども 教師の悪口を言う子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●心と表情のミスマッチ(mismatch between mind and facial expression) 
 
 子どもの心は風船玉のようなものだ。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れる。
反対に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れる
こともある。

問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人
格性をもつことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹
いじめを繰り返す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられ
ないほど、よい子を演ずることが多い。

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。
教える側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ど
も」ということになる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこと
もある。ともかくも心と表情が、ミスマッチ(遊離)するようになる。

ブランコを横取りされても、笑みを浮かべながら渡す。失敗して皆に笑われているよう
なときでも、表情を変えず平然としている、など。「ふつうの子どもならこういうとき、
こうするだろうな」という自然さが消える。が、問題はそれで終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ること
が多い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマ
りこんでしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。

ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪文を、空に向かって唱えていた。「超能力をくだ
さい」と。あるいはものの考え方が極端化し、先鋭化することもある。異常な嫉妬心や
自尊心をもつことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい
情緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、
息を抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よ
い子」になるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。

 子育ては、『まじめ八割、いいかげん二割』と覚えておく。これは車のハンドルの遊びの
ようなもの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、自分を伸ばす。が、そ
の「いいかげん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。外から帰って
きたら、必ず手洗いさせるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそ
れが子どもの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚
がない。ないばかりか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席な
どで、堂々とそれを誇示する人もいる。

 子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行
ってみて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もし
あなたの子どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。

しかし園や学校では、別人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そして
もしそうなら、心の開放を、何よりも大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を
大切にする。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●生命力を大切に(Whatever your child is, it is your child.)

 昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子
どもほど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の
情が薄くなる。しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっ
ても、文字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学
習面でI君に無理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→
(もっと無理をする)の悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれて
しまうぞ」と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一
方、父親は父親で、そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きな
がら私の胸に飛び込んできてくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほ
ど、Iの気持ちが遠ざかっていくのがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走
しそうになると、間に入って、父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主
人なりに息子のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかってい
るから、つらがるのでしょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の
愛。その父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。

 「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ま
すます勉強から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間に
あいます。あきらめて、I君の好きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。

「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」
「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」
「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息
子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」
「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」
「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」
「他人の子ども? 実は私はその問題で、10年以上も悩んだのです。自分の子ども、他
人の子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をして
いません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその
子どもは自立する。そして何十年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親
があせって、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとし
た人間になってしまう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、そ
の瀬戸ぎわにいた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

さらに「抱き癖がつくと、子どもに
依存性がつく」と教える育児書もある。

「抱き癖」と「依存性」は、まったく
別のもの。

そんな区別もつかない人が、
空想だけでモノを書いている?

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。こ
のスキンシップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」
な理由により、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」
というのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味
である。そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベ
イビー」という言葉を使った。

(1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子
どものことを、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」
の表現ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能
面のように無表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能
面のように無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。
そのままというより、こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私は
Sさんが、泣いていることがわかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育
園へ預けました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられた
ということになる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすら
しないとしたら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。
それだけではない。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかっ
てきた。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ
球、大食細胞を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳
児が、母親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラ
クチンなど)が刺激され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍
数が、自分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親の
ほうが、子どもに合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何
か別の作用が働いていると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象
が、よく見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。た
とえば母親が体を丸めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、
右を向いて眠っていたりする。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説
明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべ
きように育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。
するとそのとき、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それ
がスキンシップである。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めて
きたときが、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとす
るのはよくないが(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じて
やる。間を置かない。そしてぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小
魚を放す要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事
情がある母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊か
な心をはぐくむ。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供
 母子相互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキ
ンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケース
もある。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキ
ンシップとは、分けて考える。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】(March 25th)
3300 accesses to one of my blogs were counted yesterday. It is a great thing for me.

●3300件!

昨日、G・Blog、ひとつだけで、アクセス数、3300件を記録した。
1日の記録しては、今までの中でも、最高。
もちろん3300件イコール、3300人というわけではない。
重複閲覧も、その中に含まれる。
しかし、これはものすごいことだと思う。

月間ベースでみれば、3300x30=10万件となる。

ほかに私は、毎日、5つのBLOGを発行している。
そちらのほうも、平均して、毎日、300〜500件のアクセスがある。

もちろんHPへのアクセスもある。
しかしこちらのほうは、実数は、わからない。
アクセス・カウンターをつけているのもあるし、ないのもある。

またメインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6〜7つある。
ページ数だけでも、数百ページ以上。
合計で、500MB前後。

その中でも、最近、人気があるのが、「音楽と私」。
このコーナーだけでも、毎日、300〜600件ものアクセスがある。(毎日だぞ!)
この1月に開設したばかりのコーナーなのだが……。

が、何といっても、私にとって重要なのが、電子マガジン。
こちらのほうは、読者数が、合計で、3000人になった。
毎月、12〜13回、発行しているから、延べにして、約4万人。

毎回、20〜30枚分(40x36)の原稿を載せているから、
原稿枚数(400枚詰め)に換算すると、1回分が90枚。
1か月で、1125枚。
それに読者数の3000を掛けて、340万枚。
つまり340万枚の原稿を、毎月、配信していることになる。

「ものすごいことだと思う」というのは、数字ばかりではない。
こんなことが、浜松という地方都市に住んでいて、できるということ。
しかもそういうことが、東京を通り越して、全世界に向けてできる。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、その(実感)が、ほとんどない。
私の目の前にあるのは、パソコンの画面だけ。

今、その画面をながめながら、「この画面の向こうにねエ〜」と、思った。
この画面の向こうに、この地球と同じくらい広い、世界がある?


●TK先生(My Friend, Prof. TK)

TK先生の体の具合が、あまりよくないらしい。
昨夜も、メールが届いた。
「憂うつです」と、それにはあった。
私も、先生のメールを読んで、憂うつになった。

TK先生との出会いは、1970年。
ちょうどあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた前後のころのことだった。
ラジオか何かのニュースでそれを知り、TK先生にそれを告げたのを覚えている。

以来、今年で、38年目になる。
近くもなく、遠くもなく、それでいて、たがいに言いたいことを、言いあっている。
実のところ、TK先生は、「先生」というよりは、「友」。
身分も立場も、まるでちがうのに、そんな関係でつきあってきた。

こんなことがあった。

いつものように東大の理学部へ遊びに行くと、こう言った。
「5時まで、遊んでいきなさいよ」と。

そのときは、へんに時刻にこだわる人だなあと思った。
が、その5時になって、理由がわかった。
TK先生、専用の黒塗りの乗用車が、理学部の玄関の前に横付けになった。
今は知らないが、東大の副総長(早朝特別補佐)になると、そういう車があてがわれる。
それがちょうど5時にやってきた。

TK先生は、それに私を乗せたかったらしい。
TK先生も私も、車の中では、一言も話さなかった。
が、車を出ると、たがいにゲラゲラと笑いあった。
笑いながら、東京駅の下にあったレストランで、食事をした。
あのとき私は、生まれてはじめて、マンゴーなる果物を口にした。

私がまだ、30歳になる前のことではなかったか?

……こうして書き始めると、思い出はつきない。
しかしそのTK先生が、私の生き方を決めた。
私はTK先生に会ったのがきっかけで、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で
生きてやる」と決めた。
その経緯を話せば長くなるが、ともかくも、TK先生との出会いは、それほどまでに
大きな影響を、私に与えた。

そのことを昨夜もワイフに話すと、こう言った。

「TK先生と出会ったのが、あなたにとってよかったのか、悪かったのか、
わからないわね」と。

TK先生の父親の、TS氏は、日本学士院の院長まで務めている。
「親子2代、つづけて、日本化学会の会長をしました」と、いつだったか、
TK先生が話してくれたのも覚えている。

TK先生のばあい、地位や肩書きだけでも、今では数百以上になるのでは……?
上は国際触媒学会の前会長に始まって、下は鎌倉テニスクラブの会長まで。
ときどき天皇陛下も、そのクラブにやってきて、テニスをする。

それで私は、TK先生に反発した。
反発して、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で生きてやる」と。

……以来、38年。

先生との出会いが、遠い昔のことのようにも思われるし、つい先日のことのようにも、
思われる。

昨夜の返事に、こう書いた。

「一度、そちらへ行きますよ」と。

私はいつもTK先生を追いかけてきた。
今も追いかけている。
だから今度ばかりは、どうしても会わなければならない。

「ひとりで行きます。そうればパジャマ姿でも、先生は気になさらないでしょうから」と、
メールには書いた。

+++++++++++++++

こんな原稿を書いたことがある。
(中日新聞、発表済み。
「世に無不思議な留学記」より。

+++++++++++++++

処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に
籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、
「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう
言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本
語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と
笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなか
った。「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さな
いばかりか、マレー人そのものを、どこか「下」に見ていた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人
にまちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも
嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、
地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しよう
としなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠して
しまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そ
のT君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ−
は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ−は42歳だ。人妻だ。しかも
子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教
授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。
教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ−シアで処刑
されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、そ
れはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、
マレ−シアで、1980年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニ−
とクアラルンプ−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をし
てみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、
見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレ−シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そ
して処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているとい
う。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに…
…」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私
は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私
の心の中で生きている。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●3月26日(March 26th, 2008)

++++++++++++++++++

このところTK先生のことが心配で、
どうも気が晴れない。

昨日もメールを打ったが、返事がない。
いつもなら、半日以内に、かならず
返事をくれるのだが……。

++++++++++++++++++

●ハッピー・ウェンズディ

私は、水曜日のことを、「Happy Wednesday(楽しい水曜日)」と
呼んでいる。
月曜日を、「Blue Monday(憂うつな月曜日)」、
金曜日を、「Dark Friday(いやな金曜日)」と呼んでいる。

月曜日は、仕事がはじまる日。だから憂うつ。
水曜日は、調子が出てくる日。だから楽しい。
しかし金曜日になると、1週間の疲れが、そこにシワ寄せされる。
だから、「Dark Friday」!

が、今日は、水曜日というのに、どうも気分が晴れない。
恐ろしい夢も見た。

理由はいろいろある。
このところ精神状態が、あまりよくない。
ときどき「うつ病って、こういう状態をいうのかな?」と思う。
(あるいはすでにうつ病かも?)
で、そういうときは、幼児を相手に、思いっきり、大声を出して遊ぶ。
たいていは、それで気分が晴れる。

そうそう、こういうときは、何か新製品を買うと、私のばあい、スッキリする。
これは私だけの現象なのか。
それともみなに、共通した現象なのか。
今、ねらっているのは、C社の薄型デジタルカメラ。
昨日、パソコンショップでみかけたが、あの金属感が、たまらない。
脳みその奧まで、ゾクゾクっとした。

しかしデジタルカメラだけでも、4台もある。

それにこのところ私のもっている株の価値は、低迷中!
ここはぐっとがまんするしかない。
が、その分だけ、ストレスがたまる。

ほしいものが手に入らないというのは、それだけでもストレッサーになる。

カタログを読みながら、自分をなぐさめる。

何とか、今日も、ハッピー・ウェンズディになればよいが……。


●いとこ

春休みに、いとこ夫婦が、2組、遊びに来ることになっている。
楽しみだ。

とくに何かを予定しているわけではないが、話しているだけで楽しい。

それとN先生と、会食もしよう。
数日前、電話をしたが、奥さんは元気そうだった。
(あいにくとN先生は、不在だったが……。)


●春休み

私のばあい、春休みが、10日前後もある。
計画はいくつか、ある。

ワイフとの旅行も、予定している。
今度は京都方面と紀伊半島方面へ、旅をしてみたい。

あとは、絶版になった私の本を、HPに収録すること。
これが結構、たいへん!

1ページずつスキャナーで読んで、それをFrickrに
アップロード。
そのあと今度は逆に、1ページずつ、アドレスを読み込んで、
HPに張りつける。

1冊の本を、無事(?)、HPに収録するのに、5〜6時間は
かかる。

「無事」というのは、ときどきソフトがヘソを曲げる。
フリーズしてしまうこともある。
HPのソフト会社に、先日も電話を入れると、こう言った。

「そのソフトは、ビスタには対応していません」と。

しかたないので、今は、騙(だま)し、騙し、使っている。


●バカ番組

昨夜、久しぶりに、テレビで、アホ・バカ番組を見た。
どこかのバラエティ番組だった。

相変わらず、この種の番組は、繁盛しているようだ。
サルのような人間が、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワーワーと
騒いでいた。

「おもしろい」と思う前に、「これが同じ人間か」と思って、
さみしくなった。

「低俗」という言葉があるが、まさに低俗。
コメントするだけの価値もないほど、低俗、低劣、下劣。

ああいう番組は、東京だけの範囲で流して、それで
おしまいにしてほしい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ネット中毒(Internet poisoning)
According to the newspaper of today, about 210000 young people (6-19 years old) in 
Korea are under the condition they need some kind of medical treatment for the 
internet poisoning.

韓国の東亜N報が、こんな記事を載せている(08年3月24日)。

+++++++++++++++++

米オレゴン健康科学大学のジェラルド・ブロック博士は、
米精神科学会誌の3月号のコラムで、「インターネット中毒は、
精神障害診断マニュアル(DSM―V)に含まれるべきだ」
という韓国青少年保護委員会の昨年のシンポジウム資料などを引用して、
韓国の事例を紹介した。 

ブロック博士は、「韓国ではインターネットカフェでの10件の
心肺関連死亡事故や、1件のゲーム関連殺人事件が起きた後、
インターネット中毒を最も深刻な公衆保健問題と思うようになった」と述べ、
「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、190の病院や治療センターが
学校と連携をとっている」と紹介した。 

同氏はまた、「韓国政府の資料によれば、6〜19歳の青少年のうち約21万人が、
(インターネットのため)苦しんでおり、治療が必要だ」と述べ、
「そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要かもしれない」と明らかにした。 

ブロック博士はまた、「韓国の高校生たちは1週間に平均23時間を
ゲームに費やし、(現在のインターネット中毒者のほか)、120万人ぐらいが
追加で中毒になりかねない危険性をはらんでいるという」と紹介した。 

+++++++++++++++++

日本での調査はないが、この日本でも、事態は、同じようなものと思ってよい。
死亡事故や関連殺人事件が、起きてからでは遅い。早急に、日本でも対策を
立てるべきではないのか。

韓国の状況を、もう一度、整理してみる。

(1)6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である。
(2)そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要と推定される。
(3)そのため韓国には、「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、
190の病院や治療センターが学校と連携をとっている

あまりよく知られていないが、この日本では、テレビゲームを批判しただけで、
たいへんなことになる。抗議の嵐が殺到する。私自身も、経験している。

テレビゲームそのものが、カルト化している。常識で考えれば、おかしなことだが、
その常識が狂い始めている。テレビゲームといっても、それに没頭している人に
とっては、ただのゲームではない。

だから「6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である」と
いっても、その治療を求めているのは、当の青少年たちではない。恐らく、これらの
青少年たちは、治療そのものを、がんこに拒否するはず。

自分がおかしいという認識(=病識)すら、ない。

もちろんインターネット、イコール、ゲームということではない。
反対に、ゲーム、イコール、インターネットということでもない。

さらに言えば、たとえば「検査で正常である」と診断されたからといって、
「問題ない」ということでもない。
テレビゲームを支持する学者たちは、「検査」という言葉をよく使う。
ゲーム脳を否定する学者もいるが、彼らは決まってこう言う。
「検査してみたが、どこにも異常は見られない」と。

しかし教育の現場では、少しちがった見方をする。子どもの微妙な変化をとらえて、
おかしいと言う。様子や行動を観察して、「おかしい」と言う。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

子どもの世界では、常に、『疑わしきは、罰する』。
先手、先手で守ってこそ、はじめて、子どもの世界を守ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳、ネット中毒、イ
ンターネット中毒)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●子は父になる(A Child becomes a Father and the Father returns a Child.)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

スーパーマン・リターンズ(最新作)の最後で、スーパーマンは、
こう言う。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』と。

父親というのが何であるかと問われれば、この一言に尽きる。
私たちは子どもからおとなになり、家庭をもち、子どもをもうける。
その子どもも、やがておとなになり、父親になる。

そのとき、私という(父親)は、父親としての役目を終えるのではない。
私という(父親)は、最後の仕上げとして、子どもたちの中に、
自分の命を伝える。心を伝える。生きざまを伝える。

こうして私は自分の命を、私の父親から引き継いだ命を、子に伝え、
子は、さらにその子へとつなげていく……。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』。

この言葉については、いろいろな解釈のし方があるだろうが、今の私は、
そう思う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

目が見える。
音が聞こえる。
春の風を肌で感ずることができる。
私は、今、ここにいて、そして生きている。

その確かな実感こそが、私が今、生きているという証(あかし)。

昨夜、ワイフが布団(ふとん)の中で、こう聞いた。
「あなたは、何のために生きているの?」と。

私は、ある医師の話をした。
その医師は、記者のインタビューに答えて、こう言った。

「私は、どうせ死ぬなら、がんで死にたい。
脳出血や心筋梗塞で死ぬのはいやだ。

がんだったら、死ぬまでに、しばらくの時間的猶予がある。
その間に、最後にやり残した仕事をすべてする」と。

私「どうせ死ぬなら、がんで死ぬ方がいいという意見は、はじめて聞いた」
ワ「自分が、この世界に生きてきたという証(あかし)を残すためにかしら?」
私「どうも、それだけではないような気がする。もしそうなら、墓石を残せばいい」
ワ「じゃあ、何かしら……」と。

話はそれるが、老年期の入り口に立ってみて、ひとつ気がついたことがある。
つまりその入り口というのは、夢や希望に満ちた、明るい通路への入り口ではない。
その先は、細く、暗闇に包まれた通路への入り口である。
夢や希望など、もちようもない。
またもったとしても、そのままつぎの瞬間には消えてしまう。

このスイッチング(転換)をどうするか?

そういう意味で、今、子育てで夢中になっている人は、まだ救われる。
自分が年老いているという(現実)を、忘れることができる。
が、その子育てが終わったとたん、そこに待っているのは、(老後)。
その老後が突然、目の前に、パッと姿を現す。

多くの人は、そこであわてふためく。狼狽(ろうばい)する。取り乱す。
その先に見える世界は、今まで生きてきた世界とは、まるでちがう。
ちがうから、そこでそれまでの自分の生きざまを、変えなければならない。
が、しかしそんな生きざまなど、どこにも用意していない。
変えようにも、変えようがない。
ないから、ここに書いたように、あわてふためく。

そこでほとんどの人は、その時点で、老後のあり方を模索し始める。
「どう、生きたらいいのか」「どう、生きるべきなのか」と。

しかし同時に、それは(空しさ)との闘いでもある。

享楽的な生き方が、その人の心の隙間を埋めるということは、ありえない。
庭いじりも結構。孫の世話も結構。旅行するのも、これまた結構。
しかしそんなことを繰りかえしたところで、かえってみじめになるだけ。
もっとはっきり言えば、時間の無駄。
刻一刻と、砂時計の砂がこぼれ落ちていくように、時間だけは過ぎていく。

そんな中、息子たちのニュースが、私を励ましてくれる。

私「おかしなことだが、息子たちが、私のできなかったことを、つぎつぎとしてくれる」
ワ「私も、それを感じているわ」
私「だろ……。ぼくは中学生のころには、パイロットにあこがれた」
ワ「どうしてパイロットを目指さなかったの?」
私「メガネをかけている人は、パイロットになれないと聞かされて、あきらめた」

ワ「若い人は、みな、パイロットという職業に、あこがれるわよ」
私「かもしれない……。でもね、今度デニーズが弁護士になると聞いて、ほんとうに
うれしかった」
ワ「それも、そうね。どこかであなたの(命)が、子どもたちに伝わっているみたい」
私「そうなんだよ。そこが不思議なところなんだよ」
ワ「子どもたちは、いつの間にか、あなたの影響を受けていたのね」

私「うん……。E(三男)も、外国に住みたいと言い出したしね」
ワ「それも、あなたができなかったことよね」
私「……できなかった。勇気がなかったのかな……?」と。

そのとき私は、ふと、私の(命)が、息子たちに伝わっているのを感じた。
肉体は別々だが、私自身が、もっと大きな(命の流れ)というか、
そういうものの中にいるように感じた。

何も、私という(肉体)にこだわることはない。
所詮、この世界は、光と分子の織りなす世界。
実体があるようで、その実、それはどこにもない。

もちろんだからといって、息子たちの人生イコール、私の人生というわけではない。
私は、どこまでいっても、私。
息子たちの人生は、息子たちのもの。

私「ぼくのもつ価値観というのは、あまりにも金銭的な欲得に、毒されすぎている」
ワ「カルトのようなものよ。戦後生まれの人たちは、徹底的にそう洗脳されているから」
私「そう。その人の金銭感覚は、年長児から小学1、2年生ごろには完成する」
ワ「それを、ずっと引きずっているわけね」
私「その価値観を、どうやって、打ち崩したらいいんだろう?」

ワ「へたに崩せば、かえって混乱してしまうわね」
私「そう、仏教はいやだから、今度からキリスト教にしますというわけには、いかない」
ワ「カルト教団から抜け出た人を知っているけど、かえって精神不安になってしまったわ」
私「ハハハ、今のぼくがそうかもしれないよ」
ワ「それも困るわ」と。

……とまあ、今しばらく、この混乱は、つづきそう。
私自身も、この先、どうなるか、よくわからない。
「混乱の最中」とまではいかないにしても、混迷している。
ただもし今、「何をすべきか?」と聞かれたら、私は、こう答えるだろう。

「ともかくも懸命に生きてみる。そこに何があるかわからないが、何かがあると
信じて、懸命に生きてみる。今でもそうしてきたし、これからも、そうする」と。

きっと、その先で、何か答が見つかるだろう。今は、それを信ずるしかない。

……しばらくしてからワイフに声をかけてみたが、返事はなかった。
私もそのまま眠気に、心を任せた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. 
But it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call 
it "Money-ism", or "Money Cult".

++++++++++++++++++++++

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべ
きことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよん
だら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、
それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという
番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作
品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござ
れ! が、私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だっ
た。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもない
が、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるよう
になった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、
カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。
このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラ
フ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって
決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、
ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、
この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、
うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」と
か、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、
ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心
というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、
値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段
が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお
金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということ
は、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。
もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重
ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるよ
うになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかし
そのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お
金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってし
まっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまっ
た。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、
ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてそ
の幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小
さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするよ
うになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。
反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ
幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわ
けではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組と
なる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組
によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうし
て日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はど
うなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレ
ビ番組が嫌いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言
われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、その
ときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして
何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになっ
てしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒され
ると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そ
して本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるもの
と思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にす
る。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこ
の世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カル
ト)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●よき日、3月22日(土曜日)(Spring has come!)

++++++++++++++++

今日は、三男とワイフと3人で、
ペンダント作りに挑戦してみた。
舘山寺の温泉街の一角に、それを
体験させてくれる店がある。

そこへ行った。

三男が作るのを見ながら、私は、
ワイフのために、1個作った。

午後からは、家に帰り、長男と、
ビデオ談義。
長男の制作したビデオを見ながら、
ああでもない、こうでもない、と。

夕食は、お好み焼き。それに三男が
料理した、スパゲッティ。
みんなで食べた。

おいしかった。
楽しかった。
久々に、家族の温もりを感じた。

ところで二男夫婦が、今度、
インディアナ州のインディアナポリスへ
引っ越すことになった。

スーパーマンの本拠地は、
インディアナポリス(市)。
関係ないかな?
それとも関係あるのかな?

あとで調べてみる。

インディアナ州へ引っ越すのは、
嫁のデニーズのインディアナ大学への
入学が決まったため。

二男は、しばらく(主夫業)をする
かもしれないという。
妻は大学通い。夫は、子育て。
だから主夫業!

私はそれに賛成した。
「お金は(=生活費は)?」と聞くと、
貯金で何とか、まかなえるとのこと。

ここはLAW SCHOOLへの入学が
決まった、デニーズの勉学が最優先。

とにかくすごいことを、デニーズは、
してくれた!

いつか二男は、デニーズの法律事務所で、
事務員として働くようになるかもしれない。
仕事は、夫婦で力を合わせてするのが、
一番よい。

ふと頭のどこかで、そんなことを考えた。

息子たちよ、嫁と、そして孫たちよ、
いつも私とワイフに、夢をくれてありがとう。
励ましてくれて、ありがとう。

(このところ、何かと落ちこむことが多くて、ね。)

二男は、明日、一度、成田に戻り、
4月7日に、カルフォニア州のNAPAに
転勤することになっている。

しばらく会えないが、しかたない。

……どこか私まで、心がウキウキしてくる。
ああ、もうすぐ春ですねエ〜〜。

もう春かな?

(追記)

インディアナポリス市(Indianapolis)について、市のHPには、
つぎのようにある。

「アメリカのどの州よりもハイウェーが集中して交差していることから、
『アメリカの十字路(Crossroads of America)』と呼ばれている。
インディアナ州の州都が、インディアナポリス。
世界的に有名なスピード・イベント、『インディー500』で
よく知られているこの街は、プロ&アマチュアスポーツキャピタルと
言っても過言ではないほど。バスケットボール(NBA)のペイサーズや
アメリカンフットボール(NFL)のコルツ等、手に汗にぎるスポーツ
観戦を満喫できます。また、近代的な都市インディアナポリスから
少々車を走らせると、そこはもう別世界。コーン畑や大豆畑が一面に
広がります」と。

やはりスーパーマンの本拠地だった!

こんど「スーパーマン」の映画を、もう一度、見てみよう。


++++++++++++++++++

●Deniseからのメール

●Supermanについて

 From this article, it seems that in the comic book series, Smallville, 
USA was originally not listed as being in any state, but the Superman 
movies and television shows place it in Kansas. I think Indiana and 
Kansas are very similar, so one show or movie might have placed it in 
Indiana.

この原稿(ウィキペディア百科事典)によると、(スーパーマンの故郷の)
Smallvilleは、どの州にもないようです。
しかしスーパーマンの映画やテレビの中では、それがカンザス州にあることに
なっています。インディアナもカンザスもたいへんよく似ています。それで
映画の中では、その町を、インディアナ州に置いたのではないでしょうか。

+++++++++++++++++

●そして日曜日(3月23日)(Sunday, March 23rd)
Eiichi has gone back to Narita and he is to leave Japan for Napa, Calif. This coming 
April to have intense training of flight. We saw him off at the near-by station.

三男が、中部国際空港から、成田へ帰った。
ワイフと2人で、近くの駅で見送った。
少し、さみしかった。
つぎに会えるのは、今年の終わり。

「サンフランシスコへ来たら、飛行機に乗せて
あげるよ」と言ってくれた。

三男は、事業者用航空免許をもっている。
アメリカでも、そのまま使えるという。

一度、家に帰ってから、センターの母を見舞う。
今は、個室で、小康状態を保っている。

私たちは、その足で、そのまま山荘へ。

春の匂いが、若葉の上を漂っていた。
「モクレンの匂いだ」と言うと、
ワイフが花の中に、顔を入れた。
「いい匂いね」
「いい匂いだね」と。

昼ご飯を食べて、音楽を聴く。
レモンとキンカンを収穫する。
椅子に寝そべる。また音楽を聴く。

ちょうどそのとき、薄曇りの空を、一機の大型飛行機が、
通過した。
まっすぐな飛行機雲を、うしろに、たなびかせていた。
飛行機雲は、ほぼ真西から真東に延びていた。
その先端に、白い機影。

時計を見ると、午後2時15分。
三男は、午後2時発の飛行機に乗ったはず。

「あの飛行機、Eが乗っているよ」
「そうね」と。

私は窓際に立って、手を振った。
「Eよ、元気でナ……」と言いかけたが、
最後のところで、のどがつまって、声にならなかった。

しばらく私は、空を見あげていた。

ワイフが、「今日はパソコンショップへ寄らないの?」と。
「今日は、いい」と、私は答えた。

ところで、二男の転居先が決まった。

今度は、ブルーミングトンという町らしい。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「Bloomington is a city in south central Indiana. 
Located about 50 miles southwest of Indianapolis, 
it is the seat of Monroe County.」
(ブルーミングトンは、インディアナ中央南部の町。
インディアナポリスから。南西に50マイルに位置する。
それはモンロー郡の行政所在地である。)

日本にいる私から見ると、アーカンソー州も、インディアナ州も、
隣り町のようなもの。

インディアナポリスから50マイル(約80キロ)といっても、
向こうの人たちにとっては、ショッピング範囲。

それはわかるが、デニーズは、毎日、その距離を、
大学まで通うことになる。
「だいじょうぶかな?」と、今ふと、そう思った。



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族】(Spellbinding of Family)
Family works as a home base for each man, but also it works as a burden for each man 
in case its relationship is collapsed.
 
●家族がもつ二面性

常に「家族」には、二面性がともなう。
「家族のためにがんばる」というのが、正の自我群。
「家族であるがゆえに、追いつめられる」というのが、負の自我群。
発達心理学的に言えば、正の自我群というのは、その人を前向きに
引っ張る。
そういう意味で、強化の自我群と表現できる。

一方、負の自我群というのは、それ自体が大きなストレスとなって、
その人を後ろ向きに引っ張る。
そういう意味で、弱化の自我群と表現できる。

「正の自我群」「負の自我群」「強化の自我群」「弱化の自我群」という名称は
私が考えた。どこかで同じ文句を見られた人は、はやし浩司からのパクリと
思ってほしい。(ついでに連絡もしてほしい。)

ところで、どうして「群」という文字をつけるのか?
つまりそれだけ親子の関係が、複雑であることによる。
もろもろの要素が複雑にかみあって、「群」を形成する。
その群、つまりかたまりが、その人の心に影響を与える。
けっして、単純ではない。

同じ自我群でも、正になったり、負になったりする。
そのポイントは、つまるところ、人間関係によって決まる。
良好な人間関係が成立していれば、同じ自我群でも、「正の自我群」となる。
家族の犠牲になりながらも、むしろそれを楽しむことができる。

反対に、ひとたびその人間関係が崩れると、
同じ自我群でも、「負の自我群」となる。
ささいなことでも、大きなストレスとなって、その人を苦しめる。

夫婦関係、親子関係、兄弟関係、親戚関係、すべてについて、そうである。

●ある騒動

正の自我群はともかくも、負の自我群については、どうするか?

私のばあい、「時間」という視点から、こう考えるようにしている。
つまり楽しく過ごすのも、人生。
いやな思いをして過ごすのも、人生。
その人生には、時間という限りがある。
言うなれば、時間というのは、金の砂時計のようなもの。
お金に換算するのは正しくないかもしれないが、へたな遺産より、
はるかに価値がある。それに尊い。

どうせ過ごすなら、楽しく過ごしたほうがよい。
もっと言えば、お金の問題ではない。
いや、負の自我群というのは、たいていのばあい、何らかの形で、その底流で、
金銭問題がからんでいる。物欲がからんでいる。
私の知人の中には、親の遺産問題で、兄弟姉妹で、三つ巴(どもえ)、四つ巴の喧嘩を
くり返した人がいる。
「近所中に聞こえるほどの怒号が、毎晩のように聞こえた」という。
そういった状態が1年近くも、つづいた。

で、その結果だが、うち2人の人は、それから2年足らずの間に、
がんと、脳卒中で他界している。
もう1人は、現在、心臓の動脈硬化症で手術を受けている。

ワイフはその話をしながら、こう言った。
「きっとそのときのストレスが原因で、そうなったのよ」と。

言い忘れたが、その知人の「家族」では、長女が実家と土地を引き継ぎ、
長男と二女、三女が、金銭を受け取った。
受け取った金額は、1人あたり、7000万円だったという。

私「しかしね、7000万円受け取っても、そのあと死んでしまったのでは
意味ないね」
ワ「そうね」と。
私「でもさ、その人たち、7000万円も、どう使ったんだろうね」
ワ「そうね。1人は、家を新築したそうよ」と。

7000万円といえば、はんぱな額ではない。
しかしたとえ小銭でも、騒動の原因となることもある。
汲々(きゅうきゅう)としている人はいくらでもいる。
それが自我群の問題とからむと、とたんに負の自我群に変身する。
人間関係そのものを破壊することも珍しくない。

先の知人にしても、遺産分けがすんだあと、たがいの行き来は、
まったくなくなってしまったという。

兄弟姉妹でも、一度リズムが狂うと、兄弟姉妹であるが故に、憎しみあう。
他人以上の他人になる。そういう例は、ゴマンとある。

●割り切る

では、どうするか?

親子や兄弟はともかくも、親類については、はなから他人と思えばよい。
私の親類にしても、口を出してくる人は多いが、いまだかって
金銭的な援助をしてくれた人は、ひとりもいない。
そういう人たちは、最初から、自我群の(外)置けばよい。
つまり相手にしない。
相手が何を言っても、「ああ、そうですか」と、ヘラヘラと笑っていればよい。

ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、
そうでもしないと、この自我群による幻惑(=呪縛感)から解放されることはない。
言いかえると、自我群による幻惑は、それほどまでに強力であるということ。
本能に近い部分にまで、情報がインプットされているから、
少しぐらい抵抗したところで、ビクともしない。

ともかくも、よき人間関係は、それ自体が、すばらしい財産である。
それを維持するには、コツがある。
(失敗ばかりしている私が、こういうことを言うのも、おかしなことだが……。)

(1)家庭問題には、干渉しない。
(2)金銭問題については、いつも明確にしておく。
(3)グチ、悪口は、タブー中のタブー。

なおこれは余談だが、加えて、加齢とともに、脳みそそのものが硬直する。
硬直した頭で、ぶつかりあうから、たがいに譲らない。
結果として、大騒動に発展する。……発展しやすい。

私も似たようなケースに遭遇しているが、ときどき、その相手との間に、
どうしようもないほど、遠い距離感を覚えることがある。
「この人に説明して、わからせるためには、数年かかるかもしれないな」とか、
「不可能に近いだろうな」とか。

とくに冠婚葬祭の問題がからんでくると、そうである。
「それは迷信だと思います」とでも言おうものなら、
狂ったように、反発してくる。

「お前は、ご先祖様を、どう考えているのかア!」と。

価値観というより、人生観。人生観というより、哲学そのものがちがう。
いや、そういう人には、もとから哲学など、ない。
過去を踏襲しているだけ。

だから私のばあい、適当に合わせて、それですますようにしている。
この世の中、角を立てれば、何かと、やりにくい。住みにくい。

●子育ての中で……

仲がよく見える兄弟・姉妹でも、そこに利害関係がからむと、とたんに様子が一変する。
それが兄弟・姉妹と考えてよい。

一般論から言うと、名前で呼びあう兄弟、姉妹は、仲がよい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」ではなく、「太郎くん」「花子さん」と呼びあう。
上下関係をつくらない、あるいは上下意識をもたせない。

たとえばアメリカやオーストラリアなどでは、こうした上下関係は、いっさい、ない。
親子でも、ない。夫婦でも、ない。先生と生徒、社長と社員にしても、
学校や会社を一歩離れたら、(対等)となる。

しかしこの日本では、そうはいかない。
とくに権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
「ぼくは長男だから」「あなたは男だから」と。
安易な『ダカラ論』をもちだして、自分の立場を正当化しようとする。

このダカラ論が、その関係をより複雑にする。
「私は二男なのに、両親のめんどうをみた」
「私は、嫁で出た身分なので、関係ない」とか、など。

話がそれたが、子どもが複数いるときは、「常に平等」を心がける。
ただ農村地域については、(農業を、後継者に伝えていく)という立場から、
何もかも平等というわけにはいかないかもしれない。
そのため昔ながらの長子存続という習慣も、残っている。
が、その一方で、その習慣にしばられ、もがき苦しんでいる人が多いのも事実。

親類、縁者の目。
近所のつきあい。
年老いていく両親の問題、などなど。
そうした自我群の中で、がんじがらめになっている。
自我群の中で犠牲になった人の苦悩も、これまた大きい。

が、親としては、こうした苦しみを子どもに残すことは、最小限にしたい。
その準備というか、努力は、怠ってはいけない。
とくに今、(財産)と言えるものをもっている人ほど、そうではないか。
「子育て」というと、えてして、(親子関係)を中心に考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(兄弟関係)ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 家族 家族論 家族という
自我群 正の自我 正の自我群 幻惑)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●熟年(定年)離婚(The Retirement age divorce)
More and more wives are to state divorce upon her husband's meet the retirement at 
age limit in Japan.

++++++++++++++++

熟年(定年)離婚がふえている。
ふえているというより、多い。

一般的には、妻の方が、それまで
ためこんできた欲求不満を、そこで
爆発させる。そのために、離婚に至るケース
が多いと説明される。

しかしどうもそれだけでも、ないように
思う。
私自身が、その年齢になって、わかった
ことがある。

その第一は、夫側の情緒がたいへん
不安定になるということ。
(仕事)を失った夫というのは、
いわば糸の切れた凧のような状態になる。

その状態で、精神的な安定を保てと
言われても、そうは簡単にできない。
そのままうつ病になる人だって、いる。

そういう夫と四六時中、顔をつきあわせる。
日経新聞にこんな記事が載っていた(05年
12月4日付)。

++++++++++++++

いわく、「定年退職した男性の8割は、『何もしない人』に
なってしまう。いつも家にいる引きこもりの夫が、
妻の最大の不満原因になる」という。企業戦士だった夫が
くたびれ果て、家庭に戻ってきた時から、妻の日常は激変する。
夫が定年を迎える時、妻の平均年齢は54、5歳だ。
老いはまだ遠く、エネルギーに満ちあふれている。

仕事をもっていたり、地域や福祉・文化活動で忙しい。
夫の方は妻の進化を知らず「めし」「風呂」「寝る」しかいわない、
「三語族」になる。「妻が外出する日は、何時に帰るのか、
とくに食事がどうなるのか心配でたまらない。
そのため妻の外出を禁止する夫もいる」(西田氏)と。

++++++++++++++

そして「引き続いて、夫が家にいることのストレスが、
妻の病気を引き起こすこともあるという」(心療内科医、
黒川順夫氏、「主人在宅ストレス症候群」)と。

++++++++++++++(以上、日経新聞)

「主人在宅ストレス症候群」ねエ……?

で、その結果、夫婦の間のキレツも深くなる。
衝突もする。
その結果として、妻の、それまでの
欲求不満に火がつく。

「仕事、仕事って、あなたの頭の中には、
仕事しかないの!」と。

残念ながら、この段階で、夫の精神状態の
変化に、寛大な妻というのは、そうはいない。
「夫は、うつ病だから……」と、一歩、退いて
夫を客観的に見ることができる妻となると、
さらに少ない?

その場だけの夫を見て、自分の将来の
あり方を、考えてしまう。
「こんな夫と、これから先、いっしょに
生活することは、できない。だから離婚!」と。

つまり私が言いたいのは、熟年(定年)離婚と
いうのは、妻側の欲求不満だけが、原因では
ないということ。

定年で生ずる夫側の混乱が、離婚の引き金を引く。
そういうケースも多いのではないか?
わかりやすく言えば、夫たるもの、安易に、
うつ病にもなれないということ。

寅さんではないが、「男もつらいよ」となる。
ホント!

ちなみに、厚生労働省の人口動態統計03年版によれば、
離婚件数は28万9838組で、前年の28万5911組より、
3927組増加し、離婚率(人口千対)は2・30、
前年の2・27を上回り、離婚件数とともに、明治32年以降、
最高となった。結婚が42秒に1組なのに対して、1分49秒に
1組が離婚していることになるという(All about セカンドライフHPより)。

また、02年は、結婚20年以上の熟年世代、約45500組が離婚。
熟年離婚は、この27年で約3倍にふえたという(同HP)。

(付記)

よくわからないが、私のワイフも、私の知らないところで、
懸命に離婚を模索している(?)。
最近、そんな感じがする。
まあ、もともと私と、好きで結婚した人ではないから、
それもしかたない。

私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に
離婚していただろう。
それがよくわかるから、私も、強く言うことはできない。
今まで、私のような夫に、よく堪え忍んでくれたと思う。ホント!

まだワイフの気持ちを確かめたわけではないが、
もうそろそろ、ワイフを自由にしてあげるのも、
私の努めかもしれない。

と、同時に、私も、心の準備をしておかねばならない。
何も離婚は悪と、決めつける必要はない。

この先、離婚問題について、いろいろ書いてみたい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●地上オゾンの恐怖(Photochemical Oxidant)
Photochemical Oxidant is to affect the growth of plants and vegetables on earth. 
According to the recent research done by Agricultural Environment Technical Center of 
Japan, in China the production of cereals would be dropped abt . 40%~60% by the year 
of 2020.

+++++++++++++++

TK先生から、地上オゾンの話を
聞いてから、もう7、8年になる。

中国から流れてきた排気ガスが、
光化学オキシダントとなって、植物の
光合成に影響を与えるというのだ。

TK先生は、当時、すでに沖縄などでは、
20%近く収穫量が落ちているという
ような話をしてくれた。
(聞き覚えなので、この数字は不正確。)

しかしそれがますます現実味を帯びてきた。

読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞++++++++++

 中国大陸からの大気によって、光化学オキシダントの濃度が上昇する
「越境汚染」問題で、日本海沿岸部のある地点のコメの収量を調べたところ、
内陸部との比較で、約1割少なくなっているとする研究結果を、
農業環境技術研究所(茨城県つくば市)が、20日、山口県で
開かれた日本農業気象学会で発表した。

 光化学オキシダントは近年、日本海の離島などで、高濃度で観測され、
昨年は新潟、大分県で注意報が発令された。
農作物の収量減少は実験から推測されてはいたが、部分的とはいえ、
実際に濃度と収量の関連が裏付けられたのは初めて。

 研究は、長谷川利拡主任研究員によるもの。品種と肥料水準は、
同一の日本海沿岸部の1地点と約30キロ内陸に入った1地点を選び、
1980年からの収量データを比較した。両地点の近くで測定された
光化学オキシダントの5〜9月の平均濃度は、2001〜05年の
平均では沿岸地点が0・045ppmで、内陸地点の0・031ppm
より高かった。

 濃度は沿岸、内陸ともに上昇していたが、沿岸では96〜05年にかけて、
毎年、内陸部の2倍にあたる0・001ppm高くなっていた。

 両地点の玄米の1平方メートル当たりの収量は、
沿岸は80〜96年は平均588グラムだったのが、
97〜05年は560グラムに減った。逆に内陸では、
577グラムから609グラムに増えた。
80年代は沿岸の方が内陸よりも多かった収量が、
90年代半ばから逆転し始め、2000年以降は内陸が沿岸を常に上回った。

 沿岸では、内陸と異なり、夜になっても光化学オキシダント濃度が下がらなかった。
夜間に海からオゾンが流れ込み、昼間の高濃度を保ったとみられる。

 小林和彦東大教授(農学)によると、収量が減るのは、
光化学オキシダントの主成分であるオゾンが植物の葉の中に入り、
光合成作用を妨げるため。農作物への影響について、
中国では研究者らが「2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少する」と推定している。

+++++++++以上、読売新聞(3月20日)+++++++++++++

とくに気になるのは、最後の部分。そこには、こうある。

「中国では研究者らが、2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少すると推定している」と。

わかりやすく言えば、光化学オキシダント濃度(地上オゾン)がふえるため、
中国では、2020年には、大豆、トウモロコシ、小麦の収穫量が、半減する
というのだ。

しかしこれは何も、中国だけの話ではない。

読売新聞によると、すでに新潟県、大分県では、「注意報」まで発令
される状態になっているという。

今では酸性雨による木々の立ち枯れなど、珍しくも何ともない。
この日本でも、ごくふつうの景色になってしまった。

そこへ今度は、光化学オキシダント!

さらにそれに加えて隣の韓国では、中国からの黄砂による健康被害まで
報告されるようになっている。
黄砂は、大気汚染とは、直接には関係ない。
しかし(大気汚染)→(温暖化)→(砂漠化)→(黄砂の大量発生)と
つなげてみると、元凶は、やはり大気汚染ということがわかる。

不測の事態が、また別の不測の事態を生み出す。
このドミノ倒しによって、地球環境は、爆発的に悪化する。
ほんの7、8年前には、科学者の間では、ほんのうわさ話にしか過ぎなかった。
「地上オゾン」という名前すら、世間ではほとんど知られていなかった。

私が5年前に書いた原稿を載せる。日付は、03年の4月になっている。

+++++++++++++++++

●異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。
で、そういう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度
という、観測史上はじまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5
月末に、30度を超えたと思う。そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたよ
うな気がする。(あいまいな記憶で、申し訳ありません。)それが今年は、去年より、約4
0日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。
それがふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳
ぐのが許された。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10〜15日
過ぎのことだった。しかし今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉は
ない。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし3
0年ごとに5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今
年の気温は平年並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進
行している。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感
は、とてもそんなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせ
て、ウソを言っているのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実
感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000〜02年度においてさえ、この浜松市での最
高気温は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウ
ソ。昨年は、わりと涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、
あった。「今日の最高気温は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見な
がら、「どこの気温のことを言っているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のよう
になると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこま
でいかなくても、あと10年もすれば、2〜3月期に、30度を超えるようになるかもし
れない。そうなれば日本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく
見えてくるから不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何と
かなる。が、地球温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。

だから、地球温暖化を考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静か
に滅亡するか」という問題になってしまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわな
い。問題は、それまでのプロセス。人間は、決して静かには滅亡しないだろう。恐らく
(というより、確実に)、まさに地獄を経験するに違いない。秩序やモラルは崩壊し、殺
人や暴力が、日常的に横行するようになる。略奪や殺人が、日常的に横行するようにな
るかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」は、悲惨(ひさん)なものになる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び
出すという方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世
に残すという方法。地球の周辺に、何かのガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるとい
う方法。あるいは太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」
をあけるという方法などがある。

どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。いざ
となれば、方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業
自得としての結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちで
ある。これから先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うの
と同時に、考えれば考えるほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問
題だけは、もうくるべきところまできたような感じがする。単純な問題ではないだけに、
どこから手をつけてよいのかさえわからない。たとえばこんなこともある。

 ところで「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々
の排気ガスや煙が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一
つだが、その地上オゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこで
あの北朝鮮だが、近年、農業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、
地上オゾンではないかと言われている。

もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。日本
も、沖縄あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受け
る。そしてその結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわ
けではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が
根拠になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を
出すことができません。)

(注)ここでいうTK先生というのは、光合成、触媒の世界ではよく知られた、田丸謙二
先生をいいます。

+++++++++++++++++

最後に、昨日、こんなニュースが新聞に載っていた。
何でもあの火星から、塩のかたまりが、見つかったという。
しかもその塩のかたまりが、何百か所から見つかったという。

つまりかつては、火星にも海があったということ。

このことが何を意味するか?
一説によれば、火星にも人間のような知的生物がいたという。
その知的生物たちが、現在の地球人と同じように、発展とともの(?)、
火星温暖化を招いてしまったという。

もちろんこれはSF的な話でしかない。

……とまあ、いろいろ考えられるが、そこでどうだろう。
このあたりで、名前を変えてみたら……?

「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」と。
そうすれば、もう少し、ことの深刻さを、より多くの人にわかって
もらえるようになるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地球温暖化 地球火星化
 光化学オキシダント 地上オゾン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【3月21日】

●離婚問題(Divorce for My Case)

+++++++++++++++++

恐る恐る、聞いた。
とうとう、聞いた。

「お前なあ、ぼくと別れたいなら、別れてやってもいいよ。
いろいろ苦労もかけたし……。
ぼくのほうが、この家を出ていっても、いいんだよ」と。

するとワイフは、こう言った。

「何、言っているのよ。
私は、そんなこと、ゼンゼン、考えてないわよ」と。

私「ゼンゼンって?」
ワ「あなた、どうかしてるんじゃない、ない? そういうふうに考えるのは、
うつ病だからじゃ、ない?」
私「でも、お前って、そういう雰囲気をもっているよ」
ワ「ないわよ……」
私「だってさあ、結婚なんて、こりごりとか、そういうふうに言うじゃない」
ワ「そりゃあ、そういうふうに言うこともあるけど、そのときは、そのときよ」と。

ホ〜〜〜ッ! クビがつながった?

熟年離婚というのは、私の年代の男たちにとっては、深刻な問題。
ほとんどのばあい、夫である男たちが気がつかないところで、
妻である女のほうが、先に心の準備を始めてしまう。

で、ある日、突然、妻の方から、別れ話を切り出される。
夫のほうが、狼狽(ろうばい)する。うろたえる。

まあ、夫のほうがビクビクしながら生きるのも、よいのではないか。
つまりワイフの前では、夫たるもの、それくらい謙虚に生きた方がよい。

私「ぼくね、お前に離婚されたら、ひとりぼっちになってしまうよ」
ワ「わかっているわよ。あなたって、かわいそうな人ね」
私「うん」と。

今しばらくは、私の家庭も、安泰なようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●新製品(iPod Touch)

+++++++++++++++++

S社のW−マンを買って、数か月になる。
で、たまたまパソコンショップへ足を運んでみると、
そこにA社の、iPod Touchというのが目にとまった。

何となくすごいとは思っていたが、これほど、すごいものだとは、
思っていなかった。

三男がたまたま帰省していたので、「買ってあげようか?」と
声をかけると、英語式に、「Thank you」と。

それでそれを買ってやった。
メモリーは、(8GB)のでよいと言ったので、それにした。

+++++++++++++++++

いったい、この世界は、どこまで進歩するのだ!

こんどのiPod Touch は、YOU TUBEをそのまま
ダンロードできる。インターネットの端末機としても、
もちろんそのまま使える。

驚いたことに、世界の地図が、まるごと、そのまま入っている。
1時間ほど、さわらせてもらったが、驚きの連続。

フ〜〜ン、ヘ〜〜エ、と。

大きな画面で、タッチ操作できるところも、すばらしい。
軽くトントンと2度たたくと、画面が拡大されたり、
あるいは2本の指で、画面をはさむようにこすると、
縮小したりする。

S社には悪いが、これでは勝ち目はない。
デザインも、劣る。
改めて、自分のW―マンをながめる。
そしてこう思った。

「かつての日本は、こういうヒット作を、つぎつぎと売り出し、
現在の地位を確立した。その元気は、どこへ消えたのか」と。

タッチパネルにしても、もとはといえば、日本の技術者の
発明である。

「ぼくもほしいなあ」と思ったところで、おしまい。
今しばらくは、W−マンを使うしかない。

心のどこかで引け目を感じながら……。


●若い人たちのBLOG

このところよく若い人たちのBLOGを読む。
参考になる。おもしろい。

「そういうものでもないんだがなあ」と思う半面、
同時に、「私も若いころは、そうだったなあ」と思う。

若い人たちは若い人たちなりに、懸命に模索している。
そこにある何かをつかもうと、がんばっている。

一方、私について書いているBLOGも、ある。
数年前までは、そういうのを読むのが、こわかった。
できるだけ読まないようにしていた。

が、最近は、一歩退いて、醒(さ)めた目で読むことが
できるようになった。

もちろん中には、私のことをボロクサに書いているのもある。
「まだ、あのオッサン、がんばっているようだな」とか、何とか。
私が書いた「ポケモン・カルト」が、よほど気にくわなかったらしい。

しかしそれも、一面。
そういう一面が無数に集まって、今の私がある。
そこは謙虚に反省しよう。

ところでその「ポケモン・カルト」だが、あの本は、ポケモンという
ゲームを通して、人間がもつカルト性を問題にしたもの。
ポケモンそのものは、コミック雑誌の主人公にすぎない。

その本の冒頭の部分を紹介しよう。

+++++++++++++++++++++

●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中
心に、3〜4名の若者があと追い自殺をした。家族によって闇から闇へと隠された自殺者
は、もっと多い。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうする
のだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あ
なたの子どもだとしたら……。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件が
アメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船
とランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠
牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒
による集団自殺事件がある。

この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌まわしい事件
が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計で
ある。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それで
ある。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)
が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あ
のたまごっちを供養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのでは
ない。本気だ。本気で供養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもい
た(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の
範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどう
なるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、21世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、
それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現
の自由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、そ
の延長線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカ
ルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをな
くしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそうだったが、
最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカル
ト教団がある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球
が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、こ
の日本ではまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本
当に安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者
になってからでは遅い。このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくり
とながめてみてほしい。

++++++++++++++

これだけ読んでもらっても、「ポケモン・カルト」の本旨というか、
書いた目的がわかってもらえるはず。

が、その読解力もない(?)。

この種の読者は、(ポケモンを批判された)ことを、そのまま(自分が
否定された)と勘違いしてしまうらしい。
あるいはタイトルしか、読んでいない?
もう少し中身までじっくりと読んで、その上で、批評してほしかった。

ともかくも、先ほども、いくつかのBLOGをのぞいてみた。
おもしろかったのは、ある女性の書いている料理レシピのBLOG。

「なかなかおいしそうだな」と感心して、そのBLOGを閉じようとして、
そのとき気づいた。

表題に、「ワンちゃんのレシピ」と書いてあった。
何と、ペットの犬の料理法について書いたBLOGだった!

「みんな、一生懸命なんだなあ」と思って、今度はほんとうにそのまま
そのBLOGを閉じた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月xx日
Today is the worst day even for me. I had a small meeting with young mothers about my 
class. Several mothers came to the meeting, where one of mothers asked my principle of 
education. Another mother asked me if there is an elevator service or not. When I 
showed some medical books which I wrote, a mother asked me if I have a license of a 
medical doctor or not. I said there is no problem to write a medical book for doctors even 
though I am not a medical doctor. There are some prejudice and misunderstandings. I 
felt so bad with a headache on the way. So I say today was the worst day of my life, or I 
felt rather despair.  
 
今日は、私の生涯において、最悪の日だった。
「絶望」という言葉があるが、それに近いものを感じた。

教室の説明会をした。
何人かの母親たちが集まってくれた。

その席でのこと。
1人の母親が、こう質問した。
「このビルには、緊急避難階段はないのですか?」と。

私の教室は、ビルの3階にある。
「ありません」と答えるのが、精一杯だった。

「あなたの教育方針を示してほしい」
「あなたはどういう子ども観をもっていますか」とも。

また私が書いた東洋医学の本を見せたときも、
こんな質問が出た。

「あなたは医師の免許をもっているのですかア?」と。
どこか、「そんな本は、書くべきではない」というような
言い方だった。

それについても、「医師の免許をもっていなくても、
医学の本を書くのは、自由です」と。

ほかにもいろいろあった。
自分の気力の限界を感じた。
「年齢」という壁も感じた。

で、帰り際、何人かの母親たちは、こう言った。
「うちへ帰って、(入会するかどうか)、子どもと
よく相談してから決めます」と。

4歳の幼児と相談する?
いや、だからといって、親たちを批判しているのではない。
私のようなジジイ教師は、お呼びではない。
どこかモウロクしている?
私も若いころは、50歳以上の人は、みな、ジジイに見えた。

所詮(しょせん)、私のしている仕事というのは、
その程度のもの。
この世界では、誠意や実力など、何の意味もない。
避難階段も駐車場もないから、月謝を、安くしている。
またこの私ほど、最前線で幼児を見てきた教師もいない。

私は、投げ出しそうになる気持ちを懸命に抑えて、
一応、最後まで、説明会をこなした。
途中からは、偏頭痛との戦いだった。

結果、何人かの人が、入会してくれることになった。
うれしかった。
「いい子にしますよ」と約束した。

わかってくれる人は、わかってくれる。
が、そうでない人は、そうでない。
私は、その何人かの人のために、がんばる。
あとの人は、こちらから入会を断る。
たとえ申し込みがあっても……。

昔から、こう言うではないか。
『一寸の虫にも、五分の魂』と。

教育の自動販売機論が言われるようになって、もう
20年になる。
「教育は、お金さえ出せば、だれでも買えるもの」と。
今の母親たちは、そういう世界で、育った人たちで
ある。

私のような小さな教室でも、「入会はお断りします」などと
言うと、たいていの母親は、販売拒否にでもあった
かのように、怒り出す。

実際、「どうしてうちの子が、入れないのですかア!」と、
電話口の向こうで、怒鳴り散らした母親もいた。

で、家へ帰るとき、こう考えた。

「私がこの36年間、してきたことは、何だったのか」と。

そのとき、ふと、冒頭に書いた絶望感を味わった。
重い煙が、心をおしつぶした。
ため息も出なかった。

ついでにニヒリズムも……!
「もう、こんな仕事、やめてしまおうか」とか、
「無料マガジンの発行なんか、やめてしまおうか」とも。

しかし……私は、めげないぞ!
こういう日本にしてしまったのは、ほかでもない、この私たちだ。
私たちに、その責任がある。
「若者は、また、歩き始める」(♪「若者たち」)だ。

ハハハ!

学生のころは、いつもこの歌で救われた。
またまた今日も、この歌を歌うことで、救われた。
ザ・ブロードサイド・フォーのみなさん、ありがとう! 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき子どもの心
There was a child treated by mother cruelly….

母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に
保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」
とか、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、
「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、い
つもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることは
できない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者た
ち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「も
う、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来な
さい」と。しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私は
きっとこう言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに
戻りたい」と。それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた
生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人も
いる。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会という
ワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家
に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW君という友人がいた。10年ほど前、くも膜下出血で死んだ
が、円空(えんくう・17世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その
彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬ
んだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。
死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし
今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にい
ないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がど
うあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生き
てみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して
希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだ
けかもしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と
思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うと
き、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌っ
たとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02−11−20)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【善も悪も、紙一重論】(Good Man & Bad Man)
There is not much difference between good men and bad me. Good men become good 
men because he is in good world. Bad men become bad men because he is in bad world. 
There is not much difference.)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っ
ただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、
大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよ
い子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観な
ど、すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見
た「よい子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。

またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。たとえば息子が同性愛者にな
ったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思
えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)そ
れだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もあ
る。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ
呼び出された。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談
があったので、私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあう
ことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、
あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭
もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろ
うから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室に
いると、いつもより30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君
はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言え
ば、子ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師
の問題ではない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようと
することだ。そしてその像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教
師にもない。

大切なことは子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな
方向性をもっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。た
いへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同
じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在
しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを
考えても、意味はない。まったくない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう
意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚
園で講師になったとき、すべてをなくした。

母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は毎晩、自分のアパー
トへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。ただ
私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をす
るようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正
直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命では
ない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しか
しその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身
で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう
言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今も
その運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていた
ことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事
に悪事を重ねているに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命
を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、
本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分
で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かさ
れるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考え
てみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断
すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。
つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きなが
ら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。
みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人
ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたも
その悪人になっているかもしれない。

そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにくい話
をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別
のところで考えてみることにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●すばらしい人たち、二人の知人

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、
K氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、
もっともすばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この
二人ほどすばらしい人を、私は知らない。

この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。
またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさること
ながら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。
その人たちの言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを
楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉
で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのま
まさらけ出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たい
ていの人は、心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんど
は、他人には知られたくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだま
しながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本
の四タヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱
税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で
議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。

四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわし
い。昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、
多分、毎日、いかにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違い
ない。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手
にしなくなる。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほう
がよいかもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりす
る。自分という人間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで
考えることにして、そんなわけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。と
きどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。

が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識し
たとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居
なおって生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えて
いく道。いや、一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道
なのかもしれない。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでも
ある。疲れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスは
ない。あるいは反対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放される
ことになる。人はなぜ、ときとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分
と、ニセの自分が遊離するからだ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私は
ヘトヘトに疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言し
たことも何度かある。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。
しかしそれ以上に、私を疲れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツ
ンとした緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分で
なくなってしまう。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。と
きどき講演をしながら、その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさ
えあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかし
それは言葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出
したら、それだけで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がい
つもつきまとった。そのときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、
恥ずかしくないような自分になろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り
口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が
悪人になるとしたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決ま
る。つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、
やがてその人の人格をつくる。

日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもそ
の人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれ
て身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする
人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あ
くまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが
鳴れば玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソ
コンに向かって、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人
間は、もともと善良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠く
なる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去ってい
たはずである。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越
えてきたということは、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証
拠にほかならない。私たちはまずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。
水の中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無
理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、
決して深追いをしない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあっ
たからこそ、こうした生き物は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて
例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……
 
で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言
っても、それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。い
や、今でも油断をすると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすること
がある。これは人間が本能としてもつ本性のようなものだから、それから決別すること
は簡単ではない(※1)。

それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまで
が自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼ
れてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもで
きる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、
生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またならねば
ならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるが
ままに生きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。
そういうときはどうすればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、
ひょっとしたら、みんな去っていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接し
たら、その誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そう
いう力がある。そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。

たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から
消えていくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、
S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした
二人の知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへ
ん失礼な言い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっ
ただろう。

しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく
似ているのに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「な
ぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、
その共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を
伴走する。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間
が歩く程度では、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなと
きでも、だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえ
たりすると、私の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、
私が見ても、「ああ、かっこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそ
れがわかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。
しかし自尊心はもっている? 

もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力を
する。私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度
が超えると、いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをした
り、虚勢を張ったり、自分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本
能で、どこからが自分の意思なのか、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこ
かからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわ
からない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++++

以上、善人論、悪人論について書いた原稿を
掲載してみた。

理由は、実は、つぎの2つの記事を読んで
ほしかったからである。

2つも、ヤフー・ニュース(3月20日)に
載っていた記事である。

++++++++++++++++++++

●ヤフーの記事より転載(要約)

まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。そうわかって
はいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある。

 18日、東京地裁の初公判。女性の顔面を殴るなどして手提げバッグを奪ったとして、
強盗致傷の罪に問われた男性被告(35)もその1人だった。

 起訴状によると、被告は今年1月8日、東京都足立区の路上を歩いていた女性=当時(5
0)=を路上に押し倒し、ガードパイプに女性の後頭部をたたきつけるなどした上で、
現金約6万5000円やキャッシュカードなどが入った手提げバックを奪った。女性の
頭部などに全治10日のケガを負わせた。罪状認否で被告は起訴事実を認めた。

 被告は、郷里の家族とは音信不通の状態だったという。
 弁護人「家族は父母と兄、妹がいる?」
 被告「母は中学3年のときに死にました」
 弁護人「父親とは18年間、会っていない?」
 被告「はい」

 父親との折り合いが悪かった被告は、中学校を卒業すると、東京の寿司屋で働き始めた。
それ以降、職を転々としながら働き続けた。犯行前に勤務していたのは警備会社だった。

 弁護人「12月28日にもらった給料はどうした?」
 被告「その日は家賃と弁護士費用を払った」
 弁護人「いくらですか?」
 被告「家賃は3万8000円、任意整理の弁護士費用が1万5000円」

 被告はその後、パチスロでさらに2、3万円を浪費した。次の勤務日、被告は出社しな
かった。
 被告は消費者金融に約210万円の借金があったほか、上司にも2、3万円の借金があ
った。

 弁護人「なぜ(上司への)2、3万円の借金で行くのをやめた?」
 被告「何度も怒られて、注意されて、もう無理かなと思って」

 年末年始はゲームセンターでのゲームや、パチスロをして過ごした。自宅に帰るのも面
倒だったので、新宿の漫画喫茶に寝泊まりした。

 弁護人「そのうち金がなくなるのは目に見えている。どんなことを考えていたの?」
 被告「どうなってもいいや」
 弁護人「どうなると思った?」
 被告「死ぬか、犯罪を起こすか」

 なぜ被告は犯罪の引き金を引いたのだろうか。

 弁護人「なぜ決意した?」
 被告「おなかがすいたし、自殺する勇気がない」
 弁護人「頭を下げて仕事に戻るという選択肢は?」
 被告「その時点ではどうなってもいいやと」
 被告は犯行を「後悔している」と述べ、弁護人からの問いに泣きじゃくった。
 弁護人「時計の針を戻せたら、どこでどうすればよかった?」
 被告「生まれてこなければよかった。どこでって、生まれたこと自体がもう…」

 検察側の求刑は懲役7年だった。客観的な犯行事実を見れば、「金がほしい」という犯行
の動機は短絡的で、ガードパイプに頭部をたたきつけるという犯行の態様も危険極まり
なく、求刑が重いのも理解できる。金がなくなった経緯も自業自得だ。だが、心の中で
そう単純に切り捨てられなかった。

 中学校を卒業したらすぐ故郷を離れて上京し、家族の愛情も知らず、ただ働いて生きて
いくだけだった被告の「生まれてこなければよかった」という言葉が心に引っかかった。
罪滅ぼしが済んだ後は、これからの人生で「生まれてきてよかった」と思える瞬間を自
分の力で見いだしてほしい。

 判決は3月28日に言い渡される。(末崎光喜)

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同じく、3月19日に、こんな記事も載っていた。

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●でも思うようにもうからず…

 東京地裁の被告人席に座った熟年夫婦。サラリーマンとして勤め上げて定年退職した夫
(63)と、その妻(57)の第二の人生は、夫唱婦随の乱交パーティー主催だった。

 夫婦が問われたのは売春防止法違反罪。起訴状によると、夫婦は平成19年11月15
日、東京都品川区五反田のホテルにいた4人の男性に3人の女性を派遣して、売春を斡旋
(あっせん)。罪状認否で夫婦は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、夫婦は昭和52年に結婚。夫は広告代理店を定年まで
勤め上げた。妻は専業主婦だった。

 夫婦には月20万円の年金収入があったが、夫は16年4月ごろ売春斡旋業をスタート。
一人で続けるのは難しくなり、約1年後に妻を引き入れた。妻は嫌がったものの、結局は
夫の求めに応じた。インターネットで客を募集し、月に2回ほど乱交パーティーを主催し
ていた。

 男性被告が代理店に勤務している間は、どこにでもある普通の家庭だった。それがなぜ
売春斡旋のような裏の仕事に手を染めるようになったのか。

 弁護人「どうして売春斡旋を始めたのか」
 夫「売春クラブをやっている女性の友人から誘われて」
 弁護人「その女性とはどうやって知り合ったのか」
 夫「会社時代に飲み屋で知り合った」
 裁判官「よりによってなぜこんな仕事を」
 夫「友人ができるなら自分にもできると思った」

 乱交パーティーの売り上げは20万円。このうち、ホテル代、食事代、避妊具代などに
2万円。派遣する女性への支払いが3人で12万円。純利益は6万円にしかならなかった
という。

 「思ったほどもうからなかった」。夫は法廷でうなだれた。

 弁護人は妻に一緒にやり始めた理由を聞いた。

 弁護人「嫌だと思っていたのになぜ一緒に始めたのか」
 妻「家が古いから立て替える資金ができるといわれて。そんなに怖いと思っていなかっ
た」

 生活費と家の建て替え資金。この2つの理由で飛び込めるほど気軽な稼業ではない気が
したが、それ以上の理由は、被告人の口からは語られなかった。

 弁護側証人として、夫婦と同居していた二男が出廷。「こんなことをしていたなんて、ま
ったく知らなかった」と絶句した。

 妻は「両親がこんなことをして、裁判所に来てもらうことは、何とも言いようがない」
と述べ、おえつを漏らした。

 最後に裁判官は妻を諭した。「夫を止めるべきだった。二度とないように、あなたがしっ
かりしないといけない」。

 検察側は夫婦いずれにも懲役2年、罰金30万円を求刑した。判決は29日に言い渡さ
れる。(末崎光喜)

++++++++++++++++++

以上が、ヤフー・ニュースに載っていた2つの
記事である。

あなたは、これら2つの記事を読んで、どう感じたで
あろうか。

もちろん犯罪にもいろいろある。同じ犯罪でも、
被害者や遺族の立場で見ると、まるでちがって
見えるということもある。

冒頭で、記事を書いた末崎氏が述べているように、
「まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。
そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある」というのは、
まさに正論である。

善人と呼ばれる人でも、そのうちの何割かは、「悪」である。
一方、悪人と呼ばれている人でも、そのうちの何割かは、「善」である。

要は、バランスの問題。
ときに善が崩れて人(=子ども)は、悪人になり、
悪が暴走して人(=子ども)は、悪人になる。
根っからの善人など、いない。
根っからの悪人など、いない。
むしろ善人ぶっている人のほうが、不気味。
仮面をかぶりながら、かぶっていること自体に、気がついていない。

……話が脱線しそうなので、ここまで。
子どもを見るときの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 善人論 悪人論 善悪 子
どもの善悪)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●形だけの人間関係(Formal relationship between people)

+++++++++++++++++

形だけの人間関係がどういうものか、それを知りたかったら、
老人ホーム(=特別養護老人ホーム)をのぞいてみるとよい。
そこにあるのは、すべて「形」だけ。

形だけの言葉。
形だけの世話。
形だけの心配。
形だけのやさしさ。
形だけの人間関係。

老人ホームのスタッフの人たちを責めているのではない。
むしろ、その逆。

老人ホームにいる老人たちと、心を交わすのは、不可能。
とくに要介護度4とか5の老人については、そうである。
まともな会話すら、できない。
そういう老人たちと、(形だけではない人間関係)を
築くのは、もとから、不可能。

それにそこにいる老人たちは、先が短い。
「もうすぐ死ぬ」という前提で、スタッフの人たちは、世話をする。
心の準備をする。

そうでもしなければ、つまりへたに心を入れてしまえば、
みな、ズタズタにされてしまう。
ひとりの老人が亡くなるたびに、みなが大泣きをするという
わけにはいかない。

教育の世界には、「10%のニヒリズム」という言葉がある。
どんなに教育に没頭しても、最後の10%は、自分のために
とっておく。
それがないと、教師たるもの、やはり身も心も、ズタズタに
されてしまう。

しかし老人ホームでは、「99%のニヒリズム」ということになる。
またそれがないと、あの仕事は、できない。

で、私は、この数日、ふと気がついた。
実は、この私自身が、形だけの人間関係にあるのではないか、と。

数日前、風邪で(?)、少し、寝込んだ。
そのときのこと。
ワイフがときどきやってきて、「どう?」と聞く。
そのとき、ふと、こう思った。思ったというよりは、知った。

「形だけだな……」と。

本気で心配しているというよりは、うるさい旦那だから、
適当に様子を見にくるといった感じ。
それが私にも、よくわかった。

私は、そういう夫である。
それを認めるのはつらいことだが、事実は、事実。

つまり恐らくワイフは、私との夫婦生活をつづけながらも、
30〜60%のニヒリズムをすでに用意しているのかもしれない。
ワイフの口癖は、ただひとつ。
「結婚は、こりごり」
「来世では、別の男性と結婚する」と。

そういう視点で、ワイフを観察してみると、老人ホームで働く
女性たちと、様子がよく似ているのがわかる。

やるべきことはやります。しかしその範囲。
ひょっとしたら、私はともかくも、ワイフのほうは、私への
愛情は、とっくの昔に冷え切っているのかもしれない。
たとえばワイフは、毎週、2つのクラブに通っている。
定期的に、みなと、食事会などを楽しんでいる。
しかしそういうところへ、私を誘ってくれたことは、一度もない。
メンバーの中には、夫婦で来ている人も多い。
そんなわけで、話をしても、うわべの話だけ。
あるいは、あまり話をしたがらない。

私は、それに気がつかなかっただけ。
おめでたいといえば、これほど、おめでたい話はない。

しかしこれも夫婦。
いろいろな夫婦を見てきたが、夫婦に定型はない。
だから私たち夫婦は、だめだとか、そういうことではない。
要するに夫婦といっても、共同体なのだから、共同できる部分では共同し、
それ以外の部分では、おたがいに割り切って生活する。

「私たちは私たち」と、納得することこそ、重要。
もちろん離婚の可能性もないわけではない。
しかしどうせどちらか一方が先に死ねば、結果的に
離婚したのと同じ状況になる。

ここは逆に、60%のニヒリズムを利用して、淡々と生きるしかない。
80%でも、90%でもよい。
まあ、私も、そのうち、離婚の話がワイフのほうから、
切り出されるかもしれない。

その覚悟だけは、いつでもしている。ホント!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 11日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●テレビと子ども(TV's & Children)
According to the recent survey done by South Korea Broadcasting Institute, the more a 
family get rich, the more the hours that children watch TV get short. Those children 
who lives in a bigger house watch TV for a shorter time.

++++++++++++++++

韓国の、法曹映像産業振興院が、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。
「両親の経済、教育水準が高いほど、
子どもの視聴時間が短くなる」という。
(朝鮮N報)

++++++++++++++++

韓国の放送映像産業振興院(KBI)は、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。

両親の経済および教育水準が高いほど、子どものテレビ視聴時間が短くなるという。
(08年3月17日)

「青少年のテレビ視聴行動および利用者の特性分析」と題する報告書によると、

(1)66平方メートル未満の住宅に住む青少年は、1日平均で67分間、
地上波テレビを視聴しているのに対し、
(2)264平方メートル以上の住宅に住む青少年は、5分の1水準の
わずか13分にとどまっていることが分かったという。

 また、

(1)借家で暮らす青少年は1日平均69分間、地上波テレビを視聴しているが、
(2)実家で暮らす青少年の視聴時間は平均52分と、親の経済水準と子どもの
テレビ視聴時間との間には、少なからず関係があることが分かった。

さらに、

(1)最終学歴が、中卒の世帯主の元で育つ青少年の地上波テレビの
平均視聴率(全番組に対する青少年の1年間の平均視聴率)が6・45%だった
のに対し、
(2)大卒以上の世帯主の元で育つ青少年のテレビ視聴率は3・02%と
実に半分にとどまった。同調査は昨年(07年)、1年間にわたって
ソウル地域、1550世帯を対象に実施された。

今回の研究を進めたKBIのパク・ウンジン研究員は「経済および教育水準の高い両親は、
子どものテレビ視聴を慎むよう指導しているためと分析される」と話した。

一方、テレビを消すと、新聞や本に接する時間が長くなるという実験を、
EBSテレビが行った。

EBSの「リアル実験プロジェクトX」という番組が、13世帯32人の住民が
暮らす全羅南道莞島郡タラン島で40日間にわたって「テレビを消す実験」を
行ったところ、

(1)実験前に「新聞を全く見ない」と答えた人の割合(92・8%)が、
実験後には57・1%にまで減ったほか、
(2)「週に1、2回見る」と答えた人の割合(7・1%)は、35・7%にまで増えた。
(3)また「週3日」と答えた人は、実験前には一人もいなかったが、実験後には
実に7・1%にまで増えた。

(以上、朝鮮N報・3月17日版より転載。私のほうで、箇条書きに修正)

++++++++++++++++

わかりやすくいえば、収入が少なく、家が小さい家庭では、子どものテレビ
視聴時間が長くなる。
反対に、収入が多く、家が大きい家庭では、子どものテレビし長時間が、短く
なる、ということ。

(高学歴)→(収入が多い)→(大きな家に住む)→(?)→(テレビ視聴時間
が短くなる)
……というように関連しているということらしい。

問題は、この(?)の部分である。

(大きな家に住む)→(ほかに娯楽も多い)
(大きな家に住む)→(開放感がある)
(大きな家に住む)→(相対的にテレビのある部屋が小さくなる)など。

いろいろ考えられる。

また興味のあるのは、EBSが行った調査。
(しかしこの種の番組には、「ヤラセ」が多いので、そのまま信用するわけには
いかないが……。日本にも似たような番組があった?)

「13世帯32人の住民が行った実験」。
なんと、「40日間、テレビを消す実験」をしてみたという。

その結果、新聞を読む人がふえ、回数もふえたという。
当然といえば当然の結果だが、その前に、「新聞をまったく見ない」という
人が、92・8%もいたのには、驚いた。

「92・8%」といえば、ほぼ100%とみてよい。
最近、この日本でも、「本どころか、新聞さえも読まない若者たち」が、
問題になっている。
しかし、それは若者たちの話。
今回の調査とは別に、「韓国の人は、新聞を読んでいない」ということを改めて、
知った。プラス、驚いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist テレビと子ども テレビ視
聴時間)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●高額教材を違法販売(中日新聞)(A Swindle Business…10 million yen =1 million US 
dollars, for one-year course of lesson!)
Shizuoka Prefectural Government has disposed one "learning center" company in 
Shizuoka to stop working for three months.

+++++++++++++++++++++++

静岡県は、(3月)18日、高額な学習教材を不適切な
方法で販売したとして、特定商取引法に基づき、
「家庭教師のF」を名乗って営業している家庭教師
派遣業・学習教材販売の「W」をに対し、19日から
3か月の業務停止にすると発表した。

…(中略)…

家庭教師と高額な学習教材をセットにする業者をめぐる
トラブルは、全国各地で相次いでいる。

中には家庭教師が辞めても、解約に応じなかったり、
高額な解約料を求めたり、つぎつぎと学習指導と称する
教材購入をもちかけられ、中には、1000万円以上に
金額がふくらんだケースもある
(以上、中日新聞、3月19日、朝刊より)

+++++++++++++++++++++++

あのね、こういうトラブルは、もう15〜20年前から、あったの。
私が直接、見聞きしたのは、こういうケース。
このケースとて、20年近くも、前の話。

浜松市内に、K・スタディ(仮称)という教材販売会社があった。
(現在も、どこかにあるかもしれない。)
家庭教師と教材を、セット販売するという会社だった。

契約料は、年間120万円弱(当時)。
「月4回、家庭教師を派遣して、子どもを指導する」というものだった。

が、その教材たるものが、スゴイ!
ダンボール箱、一箱分もあった。

それを見ただけで、その子ども(小6男子)は、おじけづいてしまった。
そこで解約、ということになったが、そのとき、その子どもの母親が
私に相談してきた。「解約できないが、どうしたらいいか?」と。

K・スタディは、こう説明したという。

「教材は、一度、封を開けられたら、商品価値がなくなる。
家庭教師は、あくまでも、教材の指導員として、会社のほうから
無料で、派遣するもの。だから解約はできない」と。

たまたま同じころ、別の親から、そのK・スタディについて相談があった。
やはり「解約したいが、解約に応じてくれない」と。
その親を、Bさんとしておく。

話を聞くと、こうだ。

「2、3か月、家庭教師に来てもらったが、子ども(中1男子)との相性が悪かった。
そこで家庭教師をかえてもらった。が、それでもうまくいかなかった。
で、解約しようと、K・スタディに行ったが、解約に応じてもらえなかった」と。

私は、そのK・スタディに電話を入れた。

担当者は、私に、こう説明した。

「私の方では、1年契約で、家庭教師と雇用契約を結んでいます。子どもとの
相性が悪いときには、教師をかえていますが、中途で解約はできません。

Bさんの件では、うちの家庭教師に問題があったというよりは、お子さん自身の
ほうに問題があるように思います。

当然、1年分の家庭教師料金は、払ってもらいます」と。

また教材については、こう言った。

「うちは家庭教師の派遣が、主な仕事です。教材は、あくまでも、そのための
ものです。費用の大半は、家庭教師代と考えてください」と。

つまり教材をつつけば、家庭教師を理由にして、解約に応じない。
家庭教師をつつけば、教材を理由にして、解約に応じない。

彼らの常套手段である。

そののち、K・スタディは、事務所を別のところに移した。
最近は名前を耳にしていない。恐らく、名前を変えて、どこかで営業
しているのだろう。

で、今朝の新聞。

今回営業停止処分をくだされたのは、静岡市に本社(?)を置く、
「W」だったという。
中日新聞の報道記事によれば、「2003年以降に保護者から、
県民生活センターに寄せられた苦情が、計135件に達した」
「それで処分に踏み切った」と。

しかしこんなことをしても、モグラ叩きのモグラのようになるだけ。
彼らは、所在地を変え、名前を変えるだけ。
教材にしても、表紙の1枚を取り替えるだけで、すむ。
(中規模クラスの進学塾では、どこでもやっていることだが……。)

要するに、親のほうが賢くならないと、この問題は、解決しないということ。

そうそう先の、K・スタディの件のときは、私は、親たちからの相談を
受けながら、こう思ったのを覚えている。

「月額8000円の月謝で教えている私は、バカみたい」と。

しかも私のばあい、今でも、毎月、月割りの月謝として、親たちから、直接、
手渡しで受け取っている。

(毎月だぞ! こんな良心的な教室が、ほかにどこにある?
どこの教室でも、3〜6か月分の前納式が常識。教材費、テスト代、講習費は
銀行からの自動引き落とし。途中で退会しても、そうした費用は、いっさい、
返してくれない!)

最近になって、私の教室でも、やっと、「退会届は、前月の3週目まで」
という規約を作ったが、当時は、月末の最後の週になって、
「今日でやめます」式の、やめ方をする親も珍しくなかった。

それを、前納で、120万円も払うとは!
私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。

親の気持ちもわからなくもないが、こうした教材会社には、じゅうぶん注意した
ほうがよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●命(Life)
We often say "life" is important. But what does this actually mean? I take up three 
elements in "Life" itself. They are "Time", "health" and "reason to live".

「命を大切に」とは、よく言われる。
子どもにそう言うときもある。
しかし「命」とは、何か。

私は、つぎの3つをあげる。

「時間」「健康」、それに「生きがい」と。
この3つを、重ねあわせて、「命」という。

まず(1)時間。

時間には限りがある。
その時間を、どう使うか。
年数ではない。
使い方。
20年を短いと言う人もいる。
1年を長いと言う人もいる。
生き方によっては、20年も一瞬で終わる。
1年を、100年にすることもできる。

さらに最近では、健康寿命という言葉もある。
平均寿命から、10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。
晩年の10年間は、病気との闘いということになる。
さらに50歳を過ぎると、健康な人でも、体力、気力がぐんと落ちてくる。
30代の人にしても、残された時間は、ほどんどない。
40代の人にすれば、なおさらだ。

つぎに(2)健康。

健康には、2つの意味がある。
肉体の健康。それに精神の健康。
東洋医学では、これら2つを、同じものと考える。
西洋でも、「健康な肉体に、健康な精神が宿る」という。
その反対でもよい。

その健康は「作る」ものではない。
「守る」もの。
今日、健康なら、その健康を明日につなげる。
が、大切なのは、運動。
さらに言えば、運動するという習慣。
その習慣が、その人を健康にする。

さいごに(3)生きがい。

人は、何もなくても、夢や希望があれば生きていかれる。
夢や希望がないと、ほかでどんなに満たされていても、生活は空虚。
よい例が、老人たちが住む、ケア・センター。

豪華な設備の整った一室で、3食、昼寝つきの生活をしている。
先日も、ボランティアの人たちが、そこで歌を歌っていた。
が、それを聞きながら、かろうじて反応している老人は、ひとりだけ。
残りの老人たちは、うつろな目つきで、空をながめていた。

生きているというよりは、生かされているだけ。
だれかが、「死の待合室」と呼んだが、健康な人なら、みな、そう思うだろう。
私の母にしても、先週、医師に、(とうとう)、こう言われた。
「今後は、治療しない」「延命処置もしない」と。
「とうとう」というのは、救急車で、運ばれることがつづいたことによる。

夢も希望もない。
それがあの待合室にいる老人たちである。
しかし夢や希望があれば、その先に目標が生まれる。
目標が生まれれば、生きがいも、生まれる。
「生きがい」、つまり「私は生きている」という実感、それが大切。

以上、「命を大切にする」ということは、
時間、健康、そして生きがいを大切にすることをいう。
「命を大切にする」といっても、ばくぜんとしていて、わかりにくい。
だからこうして、その中身を分析してみた。


●記憶(memory)
We are losing memories so easily especially when we stand at the doorway of old men.

今朝、ぞっとすることがあった。
けっして大げさなことを言っているのではない。
本当にぞっとした。
こんなことだ。

今朝、パソコンの中で写真をさがしていた。
息子の結婚式のときの写真が、どこかへいってしまった。
そのときのこと。

少し前に教えた子どもたちの写真が、何枚か出てきた。
日付を見ると、2002年となっていた。
たった6年前である。

そこには、5人の幼児の顔が写っていた。
私が教えた子どもに、ちがいない。
が、うち4人には、まったく見覚えがなかった。
「こんな子、いたっけ?」と思ってしまった。
それで、ぞっとした。

教えたということは、少なくとも1年間はつきあったはず。
にもかかわらず、名前どころか、教えたという記憶すら残っていない。

いや、どこかで見た顔だな……という程度には、覚えている。
しかし、そこまで。

記憶というのは、そういうものか。
子どものころに出会った人は、今でもよく覚えている。
しかしこの年齢になると、たった6年前の子どもたちのことですら、
(よほど何かのことで印象に残らないかぎり)、
そのまま忘れてしまう。

加えて、ぞっとしたのには、もうひとつ理由がある。

もし記憶というのが、そういうものであるとするなら、では、私は
この6年間、何をしてきたのかということになる。
6年前の「私」でもよい。

無駄に過ごしていたとは思わないが、言うなれば、穴のあいたバケツに、
水を汲んでいただけ。
汲んで入れた分だけ、穴から、水がこぼれ出て行った。

私が教えたはずの子どもたちでさえそうなのだから、ほかの記憶、
たとえば読んだ本とか、見た映画、旅行、会話、それに私が書いた文章とか、
そういうものも、そうであるにちがいない。

何もかも、ポッカリと記憶の中から消えてしまっている。
その可能性は、ないとは言わない。

認知症のはじまりなのか。
それとも私の年代の人たちは、みな、そうなのか。
ただ、「中には覚えている子どももいる」という点で、認知症ではないと
信じたい。
もし認知症のはじまりなら、全員、忘れてしまっているはず。

ともかくも、私は、ぞっとした。
この先、こういうことは、もっと多くなるにちがいない。
今、教えている子どもにしても、5、6年後には、きれいに忘れてしまう。
もしそうなら、「今」という時間は、いったい、何なのか。
言い方を変えるなら、「今」という時間そのものが、無駄になってしまう。

では、それを防ぐためには、どうしたらよいのか。

ひとつの方法は、常に、自分の記憶を刺激するというのがある。
アルバムだけではなく、その子どもの様子や特徴を、そのつど思い出す。
文章にして残して、あとで読みなおしてもよい。
思い出しながら、記憶を新しくしていく。

けっしてぼんやりとしたまま、その日、その日を、送ってはいけない。
自分では、「私は私」と思っていても、5、6年後には、その私が
消えてしまう。
半分とか、さらに10分の1になってしまう。

私のばあい、5人のうち、4人まで忘れてしまっていたから、80%の
記憶が消えたことになる。

言いかえると、2002年のあの時代の、80%を失ったことになる。

だからぞっとした。

そう言えば、私の母にしても、結婚してからの記憶がほとんどないことがわかる。
夫、つまり私の父のことすら、覚えていない。
ときどき口にするのは、母が子どもだったときのこと。
つまり子どものときから、今の時代まで、その間の記憶がどこかへ消えてしまっている。

が、もし母が、その過程で、つねに自分の記憶を刺激していたら、
そういうことはなかったかもしれない。
母は、忘れるまま、忘れてしまった。
私には、そんな感じがする。

「今」を生きるということは、今というこの「時」を、しっかりと脳みそに
刻みながら生きることをいう。
その努力を怠ると、あとは認知症の世界に、まっしぐら!
肉体の健康と同じように、脳みその健康も、維持しなければならない。

しかしそれは可能なのか……?

さあ、新しい本を読もう。新しい音楽を聴こう。
今という時間を、文という形で、しっかりと残しておこう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月17日】(March 17th)
I have been enjoying writing very much. Only when I am writing, I feel alive! To live 
means as for me, to write and think. Thinking is one of the most important part of my 
life.

+++++++++++++++

昨日は、午後から偏頭痛。
夜になって、薬をのみ、そのまま就寝。

今朝は、午前4時起き。

マガジンの配信を確かめる。
読者は、4人、ふえた。

そのほとんどは、近くのW医院のみなさんに
よるものだと思う。

その医院では、受付に、私のマガジンの申し込み用紙を
置いてくださっている。

ありがとうございます!

++++++++++++++

ところで私の知人に、パソコンは使わないという人がいる。
公認会計士をしている人だが、失明の危険があるからだという。
「きっと、ストレスからだと思います」と言うと、「そうだ」と。
その知人は、右目の視力を、ほとんど失った。
そのため現在は、公認会計士の仕事は、休業中。

パソコンを使っているから、失明するということではない。
原因は、やはりストレス。
私も30歳のはじめごろ、過労で(?)、片側の耳の聴力を、完全に
失っている。

「神経が焼き切れた」と、私は、自分ではそう思っている。

が、これだけ毎日パソコンに向かっていて、なぜ私は、だいじょうぶなのか?
ふつうなら、その知人のように、視力を失っていたとしても、おかしくない。

答は簡単。

ストレスをためないからである。
最初から、無私、無欲。
パソコンに向かうのを、楽しんでいる。
損得を考えていたら、マガジンなど、発行できない。
損得を考えていたら、ストレスばかりたまり、気がへんになってしまうだろう。

こうして文章を打ちながらも、その先のことは、何も考えていない。
だれかのために書くのではない。
あえて言うなら、自分のため、ワイフのため。
さらに言うなら、頭のジョギングのようなもの。
毎日、こうして文章を打つことで、私は、頭の健康を維持している。

だからこうして毎日、文章を打つことができる。

そんな私だが、ゆういつの励みは、こうして読者の方がふえること。
1人でも2人でも、うれしい。
4人というのは、ほんとうに、うれしい。

3月17日に、読者登録してくれた4人のみなさん、
ほんとうにありがとうございます。
おかげで、今朝は、頭痛も消え、たいへん気持ちよく、こうして文章を
打つことができます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●バッハのCanon+言語学(Canon de Pachelbel and Linguistics)

++++++++++++++++

ワイフが、すてきな演奏を見つけた。
ヨハン・セバスチアン・バッハのCanonを演奏したものだった。
さっそく、「音楽と私」のワイフのコーナーに、
それを収録した。

それはそれとして、その下のコメント欄に、
こんな書き込みがあった。

演奏の崇高さもさることながら、その内容の
深さに驚いた。
どこかのだれかと、どこかのだれかが、ギリシア語に
ついて、書き込んだものである。

そのまま紹介させてもらう。

【K】Really. If you aren't too retard to search by internet, you'd discover all greek 
culture and religion are based on India's one. You'd discover that antique greek 
language is derived from sanskrit.

もしあなたが、インターネットで遅れていないなら、すべてのギリシア文化と宗教は、イ
ンドに基づいていることを知るでしょう。古代ギリシア語は、サンスクリットから分岐し
たものです。

【I】But you're a retard, and won't see this at all.
Greek doesn't derive from sanskrit. Sanskrit and Old-Greek derive from the old 
indo-european language, the mother of all languages of europe (except finnish, 
ungarian, 
estonian and bascian), persia and northern India. Greek, Sanskrit, Old persian, Old 
german, Latin, the celtic and slawic languages are brothers, the roman, german, 
slawian and iranian languages their childs. We are all cousins. No one is superior or 
older. So, excuse me, but first you have to inform you, than you can go on to post

しかしあなたのほうが遅れている。そんなことはない。
ギリシア語は、サンスクリットから分岐していない。サンスクリットと古いギリシア語は、
古いインドーヨロピアン言語、つまり(finnish, ungarian,Estonian,bascianをのぞく)す
べてのヨーロッパ言語、ペルシア語、北インド語の母体、から派生したもの。
ギリシア語、サンスクリット語、古代ペルシア語、古代ドイツ語、ラテン語、ケルト語、
それにSlawic語は、兄弟です。ローマ語、ドイツ語、イラン語は、その子どもです。私た
ちはみな、いとこというわけです。
どれが優性で、古いということはありません。
ですから失礼ながら、(こうした書き込みをする前に)、あなたはまず自分で勉強なさるこ
とです。

【K】Not at all, Indo-european is a colletion of dialects and antique languages, not a 
language by itself.

ちがいます。インドーヨーロピーアン言語は、方言と古典言語の集まりで、言語そのもの
ではありません。

【I】No. I talk about the theoretical Indogerman/Indo-European language. So please, 
first study the material of the proto-language, if you want, the mother of all languages. 
This faculty was founded by the Study of F. Sassetti. He swa, that latin and sanskrit are 
similar. Out of this studys, derives the field of Indo-European studies, founded in the 
19th century. If you went to university, and talk with the professors, you will hear, that 
Sanskrit, Latin and Old Greek are equal.

いえ、私は、理論的なindogerman/indo―ヨーロピーアン言語について書いているのです。
それでまず最初に、もしお望みなら、すべての言語の母体である試作言語の資料を勉強し
てください。
この学部は、F.Sassettiによって、創立されました。彼は、ラテン語とサンスクリット語は、
類似していると言いました。これらの研究から、19世紀に始まったインドーヨーロピー
アン語の研究が派生しました。大学へ行き、教授たちと話をするなら、サンスクリット語、
ラテン語、それに古代ギリシア語は、平等であるということを耳にするでしょう。

++++++++++++++++++

ここに出てくる、【K】さんは、英語国の人だと思う。
【I】さんは、英語からみて、英語国の人ではないと思う。

しかし、たかが(失礼!)、YOU TUBEの1ページで、
こういう論争をするところがすばらしい!

で、この書き込み(POST)を読んでいて、昔、カレッジにいた、
講師のことを思い出した。

名前は、ジョン・ダナムと言った。彼も言語学者だった。
で、ある日、こんなことを教えてくれた。

言語を分類するとき、(あくまでも彼の理論によるものだが)、「ない」という
否定語を見るとよい、と。

たとえば、日本語で、「私はリンゴが好きではないことはない」と、「ない」を
2度重ねると、肯定の意味になる。

(マイナス)x(マイナス)=(プラス)というわけである。

しかし英語で、(NOT)を重ねると、強調になる。
たとえば「I don't don't like you.」と言えば、大嫌いという意味になる。

ジョン・ダナムは、大学構内のどこかの芝生の上に座りながら、そんな話をしてくれた。
そのときの様子を思い出した。

ところで、John Danum(?)は、今ごろ、どうしているのだろう。
「ダナム」には、「h」という文字があったように、思う。
「Danhum」だったかもしれない。あるいは「Dunham」だったかもしれない。

さっそく、インターネットで調べてみた。

結果……かなりありふれた名前ということもあって、ジョン・ダナムには、
たどりつけなかった。
生きていれば、今ごろは、70歳くらいになっているはず。
大の日本びいきで、私にたいへん親切にしてくれた。

いつかジョン・ダナムが、私のことを検索したとき、この原稿が
すぐ目にとまるようにしておこう。

Hiroshi Hayashi Melbourne Uni. Australian John Dunham a linguist International 
house 1970 Please contact me if you see this Dear John Dunham, how are you going? Do 
you remember me? I am Hiroshi Hayashi, a college student of I.H. 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●私が残りの人生で、すべきこと(What I should do in the rest of my life)
What I should do in the rest of my life is to make my wife happy and not to let her worry 
about. I shall keep working until the day comes when I can't work anymore. 

+++++++++++++++

私がすべきこと。
第一に、仕事。
これは死ぬまでやる。
やるしかない。

ワイフや家族に、心配をかけたくない。
だから最後の最後まで、元気でがんばる。
苦しくても、つらくても、がんばる。

そう、ワイフには、もう、これ以上、心配をかけたくない。
だからカラ元気でも何でもよい。
ワイフの前では、バカ話をして、
楽しく過ごす。

ジジ臭い話は、やめた。
精神的にガタガタするのも、やめた。

ワイフの前では、いつも新鮮な夫(?)でありたい。

そのときがきたら、そのとき。
そのときまで、元気でがんばる。

これが今朝の誓い。
いつまでつづくかな?

+++++++++++++++++++

●インディアナ大学(Univ. of Indiana)
My daughter-in-law passed the exam to enter Law School and she will attend classes at 
Indiana University in Indiana from this summer, with full scholarship. Sage and Mae, 
you have a great mother! 

嫁のデニーズの大学が決まった。
インディアナ州にある、インディアナ大学だという。
アメリカ東部では、名門校。
そこで法曹になるための訓練を受ける。

当初、LAW SCHOOLに合格したと聞いたとき、
私は、我が耳を疑った。

ふつうLAW SCHOOLへ入学するためには、
4年生の大学で法学部を修了し、その試験に合格
しなければならない。
日本でいう、司法修習制度にあたる。

しかも学費は、全額、奨学金でまかなうという。

誠司と芽衣という2人の子どももいる。

今朝(3月18日)、その連絡が、二男からあった。

……とたん、私の中にも、闘志がムラムラとわき起こってきた。
「負けてはいられない!」と。

あのデニーズが、私ですらできなかったことを、した!
なしとげた!

浜松の田舎で、グズグズしていて、どうする?
どうなる?

まだまだ私の人生は、長い。
できることは、山のようにある。
しなければならないことも、山のようにある。

私には、これといった財産はない。
しかし息子たちが、財産だ。
私が落ちこんでいると、いつもかならずといってよいほど、
こうして息子たちに励まされる。

がんばれデニーズ、宗市!

誠司、芽衣、お前たちは、すばらしいママをもっているよ!

<a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818012"><img 
src="http://art3.photozou.jp/pub/641/3641/photo/7818012.jpg" alt="P1060676" 
width="144" height="108" style="border:0" /></a><br /><a 
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<a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818013"><img 
src="http://art4.photozou.jp/pub/641/3641/photo/7818013.jpg" alt="P1060675" 
width="450" height="338" style="border:0" /></a><br /><a 
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href="http://photozou.jp/mypage/top/3641">(C)BWのはやし</a>
(インディアナ大学)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●マガジン・4月11日号

このマガジンは、4月11日号ということになる。
(これを書いているのは、3月19日。マガジンは
1か月前に、配信予約を入れることになっているので、
約1週間遅れということになる。)

いろいろあった。

昨日は、朝方、はげしい悪寒。
私は子どものころから、扁桃腺炎になりやすい。
悪寒は、その前兆。
昨日のも、たぶん、それだった。

「インフルエンザか?」と、かなり心配したが、
症状は昼前には、治まった。ホッ!

いろいろある。あるが、ともかくも、今日もこうして
元気でいられることに感謝、感謝、また感謝!

ここまで読んでくださった、読者のみなさん、
ありがとうございます!


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
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.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        いつも購読、ありがとうございます!
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   4月 9日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page055.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●モノで釣る(Tempted by a Thing)
It is a kind of taboo to tempt children by a thing, which he or she wants to get, while we 
are teaching. But it is sometimes very efficient to make them calm or to educe his or her 
self-control ability.

++++++++++++++++

ADHD児と呼ばれる子どもは、
たとえばカルタ取りのようなゲームが苦手。
集中力そのものが、つづかない。

一方、こんなこともある。

同じように騒がしい子どもでも、
時と場合によって、静かに落ち着くという
のであれば、ADHD児ではない。

ADHD児は、定例的に騒ぐ。
強く制止しても、その瞬間だけの効果しかない。

簡単な見分け方としては、(モノで釣る)
という方法がある。

この方法は、教育の世界では、邪道という
ことになっている。

私もそれを認める。
しかし子どもによっては、自己管理能力を
引き出すには、たいへん効果的な方法で
あることも事実。

この方法によって、子どもの自己管理能力を
引き出すことができる。

こんなことがあった。

T君(小2)という騒々しい子どもがいた。
父親はADHD児ではないかと、悩んでいた。
しかしADHD児ではなかった。

私たちの世界では、「あなたの子どもはADHD児です」
と、診断するのは、タブー。

しかし「ADHD児ではないと思います」と
言うのは、自由。

私はT君の父親に、こう言った。
「ADHD児ではないと思います」と。
それには、理由がある。

ある日のこと。
T君が、テーブルの上にあるミニカーを目ざとく見つけて、
こう言った。「ほしい!」と。

T君は、ミニカーを集めていた。

しかしこういうとき、子どものほしがるものを、
すぐに与えてはいけない。
しばらく、子どもをじらす。じらしながら、こう
言う。

「じゃあ、今日のレッスンで、一度も注意されなければ、
このミニカーをあげる。どうだ?」と。

T君は、その取り引きに応じた。

いつもならワイワイと騒ぐ。ときに教室中を、
ひっくり返してしまうこともある。

が、その日は、別人のようにまじめに(?)、
私の指示に従った。

つまりADHD児なら、こういうことはありえない。
ADHD児は、先にも書いたように、
自己管理能力を超えたところで、暴れたり、騒いだりする。

だからT君の父親には、こう言った。
「T君は、ADHD児ではないと思います」と。

子どもをモノで釣るのはよくない。
しかし時と場合によっては、効果的である。
さらに言えば、小学2〜3年にかけて、
自己管理能力が、急速に発達してくる。

現実検証能力というか、自己認識能力というか、
自分を客観的にながめ、判断する能力が、
急速に発達してくる。

この時期をうまくとらえると、ADHD児であっても、
急速に落ち着いてくる。

その力を引き出すためにも、(モノで釣る)という
方法は、時と場合によっては、有効である。

その一例として、T君のことを記録しておく。

(付記)

この指導には、こんな余談がある。
レッスンのあと、T君にミニカーを渡すと、
ほかの子どもたちが騒いだ。
「どうしてT君にだけ、ミニカーをあげるのか」と。

実は、その数だけ、私はミニカーをほかに用意しておいた。
私は引き出しからミニカーを取り出すと、
それをほしいと言う子ども全員に、ミニカーをあげた。

こういう配慮も、必要である。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●好きな子、嫌いな子(Those whom we like, those whom we don't like)
Here I introduce an easy way to know its each relationship between children, developed 
by Morea. Just advice children to write the names, with whom he or she wants to sit 
next or with whom he or she doesn't want to sit next. Then we can know who is suitable 
as a leader of the class or who is supposed to be bullied in the future. Then we can apply 
this for preventing of bullying among children.)

+++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
この原稿が、思わぬところで、
反響を呼んでいる。

「反響」といっても、
たいしたものではないが、
まず一読してほしい。

++++++++++++++++

【あなたは過関心ママ?】

●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだ
が、しかしそれが度を超すと、過関心になる。こ
んなことがあった。

ある日一人の母親が私のところへやってきて、
こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好
きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うち
の子(小二男児)のように友だちがいない子ど
もはどうすればいいのか。そういう子どもに対
する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議
に行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。
さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでな
くても、神経質になる親はいくらでもいる。「進学
塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッ
と血がのぼる」と言った母親もいたし、「子どもの
テスト週間になると、お粥しかのどを通らない」
と言った母親もいた。しかし過関心は子どもの心
をつぶす。が、それだけではすまない。母親の心
をも狂わす。

●育児ノイローゼ

 子どものことでこまかいことが気になり始めた
ら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、ささ
いなことで極度の不安状態になったり、あるいは
激怒しやすくなるのほか、つぎのようなものがあ
る。(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡り
する、(2)ものごとを悲観的に考え、日常生活が
つまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、(3)
不眠を訴えたり、注意力が散漫になったりする、
(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、(5)
他人との接触を避けたりするようになる、など。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも
珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子
どもが犠牲になることも多い。

●汝(なんじ)自身を知れ

 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自
身がそれに気づくことは、まずない。気づけば気
づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。そ
ういう意味でも、自分のことを知るのは本当にむ
ずかしい。『汝自身を知れ』と言ったのはキロン(ス
パルタの七賢人の一人)だが、哲学の世界でも、「自
分を知ること」が究極の目的になっている。

で、このタイプの親は明けても暮れても、考え
るのは子どものことばかり。子育てそのものに
すべての人生をかけてしまう。たまに子どもの
できがよかったりすると、さらにそれに拍車が
かかる。いや、その親はそれでよいのかもしれ
ないが、そのためまわりの人たちまでその緊張
感に巻き込まれ、ピリピリしてしまう。学校の
先生にしても、一番かかわりたくないのが、こ
のタイプの親かもしれない。

●生きがいを別に

 子育ては人生の「大事」だが、しかし目標では
ない。そこでこう考える。『子育ては子離れ』と。
子育てを考えたら、一方で手を抜くことを考える。
手を抜くことを恐れてはいけない。子どもという
のは不思議なもので、手を抜けば抜くほど、たく
ましく自立する。

要するに「程度を超えない」ということだが、
それがまた親子のきずなを深める。あのバート
ランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベ
ル文学賞受賞者)もこう言っている。『子どもに
尊敬されると同時に子どもを尊敬し、必要な訓
練はほどこすけれども、決して程度を超えない
親のみが、家族の真の喜びを与えられる』と。

●一人の人間として

 あなたが母親なら、母親ではなく、妻でもなく、
女性でもなく、一人の人間として、生きがいを子
育て以外に求める。ある母親は、娘が小学校へ入
学すると同時に手芸の店を開いた。また別の母親
は、医療事務の講師をするようになった。地域の
会に積極的に参加するようになった人もいるし、
何かのボランティア活動をするようになった人も
いる。

そういう形で、つまり子育て以外のところで、
自分を燃焼させる場をつくり、その結果として
子育てから遠ざかる。

+++++++++++++++++++++

●ソフト開発

この中で、私は、「好きな子どうし並ばせてみる」ということについて、書いた。
ここに書いた母親は、それを問題にした。

しかしこの方法、つまり「好きな子どうし並ばせてみる」というのは、
心理学的に、子どもどうしの人間関係を知るひとつの方法として、
たいへん有効である。子どもの深層心理を知り、さらには、(いじめの問題)
を解くカギになる。

もっと言えば、この方法は、モレノという学者が考えた、「ソシオメトリー」
として、心理学の世界では、確立された方法のひとつである。

具体的に方法を説明しよう。

私の教室に、7人の子どもがいる。全員、小4である。
その子どもたちに、一枚の紙を渡す。

「あなたはだれと並んで座りたいですか。名前を1人書きなさい」
「またあなたは、だれと並んで座りたくないですか。名前を1人書きなさい」と。

「秘密は守ります」「だれにも見せない」ということを、何度も念を押す。
この方法を応用するためには、何よりも、教師と生徒の間の信頼関係が大切。
その信頼関係がなければ、この方法を、応用することはできない。

で、7人の子どもがこう書いたとする。

A:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……F

B:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……C

C:いっしょに座りたい人……A
  いっしょに座りたくない人……F

D:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……G

E:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……G

F:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……E

G:いっしょに座りたい人……E
  いっしょに座りたくない人……F

そこでこれらの関係を図表化してみる。
A、B、C、D、E、F、Gの7人を、それぞれ線でつないでみる。

すると、Cに、人気が集まり、一方、Fが人気がないのがわかる。
Cとライバル関係にあるBは、Dに好意を寄せている。
Gも孤立しているが、Bの仲間に入れることは可能である……などなど。
そういうこともわかる。

つまりこの方法によって、そのクラスが、どういう人間関係で構成されているか、
おおまかに知ることができる。
同時に、人気のある子どもや、そうでない子どもを知ることによって、どの子どもを
リーダーにすると、クラスがまとまり、またどの子どもが、仲間はずれにされているかが、
わかる。

仲間はずれにされている子どもは、当然、将来、いじめの対象になることも考えられる。
またその相関図がわかれば、どうすれば、いじめを防ぐことができるかもわかる。

ここでは7人の子どもを例にあげたが、簡単なプログラミングで、
50人単位、100人単位の人間関係を知るソフトも可能である。

(二男に頼めば、すぐソフトを開発してくれると思うが……。
BASIC言語でもよければ、私にもできる。EXCELでは無理だと思う。
どなたかスポンサーになってくれる人は、いないか?)

プリグラミングの条件として……。

(1)「座りたい人」を(+1)にする。
(2)「座りたくない人」を(−1)にする。
(3)(+)の得点の多い人を、青い円で表示する。
   得点に応じて、円の大きさを変える。
   たとえば(+3)の人は、円の半径を30ドットにする。
   (+5)の人は、円の半径を50ドットにする。
   (−)の得点の多い人を、赤い円で表示する。
(1)それぞれの相関関係を、図表化する。
たとえば、いっしょに座りたい人に向かっては、青線表示。
座りたくない人に向かっては、赤線表示。
(2)その相関関係を、シャッフルしながら、まとめていく。
(方法としては、赤線、青線の長さが最短になるように表示する。)
(3)こうして人気のある人、人気のない人が一目でわかるようにする。
ライバル関係(派閥の長関係)にある人は、黄色の線でつなぐ。
その人を救済する立場にある人を、緑の線でつなぐ。

教育関係(学校)では、この方法で、教師は、いじめの対象となりやすい子どもを
事前に知ることができる。
またどうすれば、その子どもを、ワクの中に取り込めるかもわかる。

時間があれば、ソフトの開発をぜひやってみたい。

(私はこう見えても、20代の終わりごろから、30代のはじめ、自分で
ソフトを開発して遊んでいた。一度だけだが、私が開発した、「宇宙空間移動
ゲーム」は、地元のパソコンソフト会社が、買いあげてくれた。)
(これは自慢話!)

ともかくも、そういうこともあるから、学校の先生が、「好きな子どうし並んでみなさい」
と言っても、親は、過剰に反応しないこと。
子どもの人間関係を、それによって、簡単に知ることができる。
ひょっとしたら、その先生も、この方法を試してみたのかもしれない。

……ということで、以前書いた原稿を、ここで再度、とりあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist モレア ソシオメトリー 
人間相関図 いじめの問題 いじめの予防策 いじめ予防法)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月15日の終わりに……】

+++++++++++++++++

今日も、終わった。
時刻は、午後10時20分。
静かな夜だ。

で、今日の反省。

運動は1単位(40分)のみ。
ワイフと長男と3人で、佐鳴湖を
一周した。プラス、ハナ(犬)も。

そのあと山荘で昼寝。
パソコンショップに寄って、
それから夕食の買い物。

夜になって、ビデオ編集。
今夜は、「嵐の夜に」をYOU TUBE
にアップロードした。

息子の音楽に、孫たちの写真を載せた。

夕方三男から電話。
アメリカでの訓練を受ける前に、
浜松へ来るという。

1週間もいるという。

「そんなに長くいるのか?」と聞くと、
「うん」と。

この先、1年以上、また会えない。

今度は、カルフォルニアのNAPA
というところに行くという。
ワインの産地として知られている。

考えてみれば、私も若いときは、
毎週のように世界を飛び回っていた。

そういう時期も、あっという間に過ぎた。

私がした経験や、知恵を、できるだけ、
三男に伝えたい。

1週間で足りるかな?

アメリカには二男もいる。
子どものときから仲のよい兄弟だった。
すでに連絡を取りあっていると思う。

二男は喜んでいるはず。

末永く、仲よく暮らしてほしい。

3人とも、みな、いつまでも元気でいてほしい。

ところでハナ(犬)の様子が少しおかしい。
このところ日に日に、体力が落ちていくのがわかる。

今朝も佐鳴湖をいっしょに一周したが、
最後の4分の1は、自転車のカゴに乗せて走った。

どこかぐあいでも悪いのか?
見た目には元気そうなのだが……。
一度、病院へ連れていってみよう。

+++++++++++++++++

(追記)

眠る前に、ワイフと、私のHPを見る。
「音楽と私」を見る。
YOU TUBEで、音楽を聴く。
ときどきいっしょに歌うこともある。
このところは、毎晩のように、そうしている。

それで……というわけでもないが、
床に入ったのが、12時ごろ。
おかげで今朝は、7時、起き。
今日は日曜日。
いろいろやることがある。

母の見舞いと、畑の種まき。
時間があったら、HPのトップページの
写真を替えてみたい。

みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●一事不再理(Double Jeopardy)
Double jeopardy is the most important principle in its criminal prosecution laws. 
Otherwise law system itself would be collapsed. But how about the criminal act 
committed outside Japan, and by a Japanese? The victim was also a Japanese. Mr. MK 
was arrested in Japan for suspicion of murder in USA. He was innocent in the judgment 
in Japan. 

産経新聞は、つぎのように伝える。

「アメリカ・ロサンゼルスで、1981年に起きた銃撃事件で、日本での無罪確定後にサ
イパンで逮捕された元会社社長、MK容疑者(60)のロサンゼルスでの弁護人、マーク・
ゲラゴス氏は14日、逮捕は、『一事不再理』の原則を定めた米憲法修正第5条に反すると
して、逮捕状の無効確認を求める申し立てをロス地裁に行った」と。

「一事不再理」というのは、それぞれの国内においては、もっとも重要な大原則のひとつ。
もしこの原則を崩してしまうと、法秩序そのものが、崩壊する。
それはわかる。

しかしこんな例で考えてみよう。これは極端なケースということになるが、
たとえば、どこかの国のバカが、この日本へやってきて、日本人を拉致したとする。
日本側の捜査の結果、その拉致実行犯たちが特定できたとする。
隣のK国なら、K国でもよい。拉致実行犯たちは、K国で生活していた。

そこでK国政府は、日本からの報告に基づき、その拉致実行犯たちを逮捕し、
裁判にかけたとする。(もちろん形だけの裁判だが……。)
が、結果は、無罪。

さて、ここからが問題。

その拉致実行犯たちが、のこのこと、この日本へやってきたら、どうなるか?
日本の警察は、どうするか?
当然、日本の警察は、拉致実行犯たちを逮捕するだろう。
逮捕したあと、当然、日本の刑法に従って裁判にかけようとするだろう。
が、そのとき、拉致実行犯たちは、こう叫ぶ。
「一事不再理だア!」と。

A国人が犯した犯罪は、世界のどこで犯したとしても、A国国内で処罰する。
これを属人主義という。
B国国内で起きた犯罪は、どこの国の人間であろうとも、B国国内で処罰する。
これを属地主義という。

K国は、属人主義なのか、属地主義なのかは知らない。

日本の刑法は、原則として、属地主義を採用している(刑法第1条第1項)。

「日本国内で犯された犯罪については、何人に対しても刑法の適用される」と。

だからK国の拉致実行犯たちが、のこのこと日本へやってくれば、
K国内での裁判結果はともかくも、日本の警察は、彼らを逮捕することになる。

問題は、日本人がアメリカで犯した犯罪である。
今回のMK事件が、それに当たる。

本来なら、この事件は、アメリカ国内で起きた事件だから、(同時に、
日本国内で起きた事件ではないのだから)、同じく属地主義をとるアメリカに
裁判権がある。当初から、アメリカ側に裁判を任せればよかった。

何も、被疑者であるMKという男を、本来なら、日本で裁く必要はなかった。

が、これについては、日本の法律は、属地主義を採用ながらも、重大犯については、
属人主義を採用するという、二段構えの考え方を採用している。
ほかに保護主義、あるいは世界主義という考え方をするときもある。

MK事件では、被害者も、日本人だった。
それで属人主義が、すんなりと(?)、通ってしまった。

たとえばあのMK事件で、被害者がアメリカ人であったら、どうであっただろう。
アメリカ側は、属地主義を前面に出して、MKという男をアメリカに引き渡すよう、
強く要求していたであろう。
当然、MKという男は、アメリカ国内で、裁判を受けた。

で、日本での裁判結果は、無罪。
かぎりなくクロに近いが、日本では、状況証拠には、原則として、
証拠能力はないということになっている。
さらに2人(以上?)いたであろう人物のうち、どちらが実行犯なのか、
特定できなかったこともある。
それで無罪になった。

さて問題は、カルフォルニア州へ護送されるMKという男は、一事不再理を理由に、
無罪放免になるかどうか、である。

(1)アメリカで起きた犯罪は、アメリカ側に裁判権がある。
(2)外国で受けた裁判は、一事不再理に当たらない。

この2点だけをとれば、MKという男は、再度、アメリカで裁判を受けることについては、
何ら問題ないということになる。

が、ひとつ大きな問題がある。
恐らくこのあたりを、MK側の弁護士がついてくると思われるが、
ならば、なぜアメリカ側は、MKなる男を、アメリカ側に引き渡すよう
要求しなかったのかということになる。

(要求しなかった)ということは、(裁判権を放棄した)、あるいは、(MKという
男がしたであろう犯罪行為については、不問に処す)という意思表示をしたことに
なる。

そのあたりの書類がどうなっているか? つまりMKという男を日本側に引き渡す
ためにやりとりしたであろう書類が、どうなっているか?

今ごろMKという男の弁護士は、血眼(ちまなこ)になって、その書類を
探し回っているにちがいない。
仮に両国間でやりとりされたであろう、MKという男の引き渡しに関する約文が
一枚でも出てくれば、一事不再理の原則にのっとって、
MKという男が、無罪放免になる可能性は、きわめて高くなる。
日本側の最大の盲点は、この一点に集約される。

(日本側は、そうした書類を開示することはないと思われるが……。
しかし裁判の成り行きによっては、わからない。)

注視!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●悪化する韓国経済(その後)(3月15日版、2008)
(South Korean Economy which is getting worse and worse.)

++++++++++++++++++++

「日韓経済戦争」を書くようになって、
もう5、6年になる。

彼らの「反日」には、「嫌韓」で応えるしか
なかった。

N前大統領は、公式の場で、「日本よ、いい気に
なるな」と言った。

それに応えて、日本のK首相(当時)は、
「後悔するのは、韓国のほうだ」と。

その前後から、日本は、台湾への猛烈な投資を開始した。
韓国と台湾は、経済構造がよく似ている。
多くの産業で、競合部分も多い。

韓国をたたくには、台湾に代理戦争をしてもらうしかない。

で、その結果。つい先ごろ(3月はじめ)、IC関連
の売上高で、台湾は、韓国を抜いた。

この流れは、大統領がかわっても、止まらない。
韓国経済は、ますます悪化の一途をたどっている。

「親日」とまではいかないにしても、「反日でもない」
現在の大統領だが、「助け」を出すのは、ここは
慎重になったほうがよい。

東亜N報は、つぎのように伝える(3月15日)。

(1)雇用情勢が悪化し、全国の売れ残りの分譲マンションが、通貨危機以来最多の水準
に増えた。
(2)韓国経済の現状が悪化し続けている。国際原油価格の最高値更新が続く中、ウォン
安が進み、物価上昇の勢いもしばらく続くものと見られる。株価も下がった。 
(3)13日、統計庁によると、非経済活動人口のうち「休職」に当たる人は、今年2月
現在162万8000人で、初めて160万人を超え、関連統計を取り始めた03
年以来、月別基準では史上最高値を記録した。 
(4)また、企業への入社や公務員試験などを準備する「就職準備者」も、2月現在60
万7000人となり初めて60万人を突破した。 
(5)2月現在、81万9000人の失業者に休職や就職準備者を合わせた「事実上の就
職浪人」は305万4000人に上る。これは昨年2月の297万1000人に比
べて、8万3000人(2.8%)増加したものだ。 
(6)売れ残りのマンションが増え、資金力の弱い中小建設会社の相次ぐ倒産への懸念も
高まっている。 
(7)13日、国土海洋部によれば、今年1月末現在、全国の売れ残りのマンションは1
2万3371戸で、過去最多だった11万6433戸(1998年7月の通貨危機
当時)を上回っている。 

規模こそ小さいが、アメリカのサブプライム問題と、
韓国のマンション問題は、構造が、たいへんよく似ている。

さらに不気味なのが、失業者問題。
数字だけを見ると、合計で、たったの305万人ではないか
ということになる。総人口比でみるかぎり、6・2%。
(韓国の人口を4900万人、外務省、'07で、計算。)
が、統計の取り方そのものが、日本とは、ちがう。

韓国では、1か月のうち、たった1時間でも働いたら、
失業者(休職者)とみなされない。

ちなみに、日本と韓国では、失業者の定義は、つぎのように
なっている(労務安全情報センター)。

日本……労働力調査。調査週において仕事がなく、かつ求職活動を行い、就業可能であっ
た15歳以上の者。過去の求職活動の結果を待っている者を含む。

韓国……労働力調査。仕事がなく、就職の意志があり、求職活動を行っている15歳以上
の者。悪天候あるいは一時的な病気のために求職活動ができなかった者や、新しい仕事を
始めるために待機中の者を含む。

中小の建設業者の倒産がはじまったときが、最後。
韓国経済は、ドミノ倒しのようになって、崩壊する※。

ドル安で、世界の通貨は、その反動として、高騰している。
日本の円も、昨年(07)の120円台から、100円台にまで
上昇した。

しかし韓国のウォンだけは、1ドル=905ウォン前後から、
何と、1000ウォン近くにまで、さがっている!

アメリカのドル以上に、ウォンが猛烈な勢いで、売られて
いることを示す。

(注※)
民間の投資家たちは、(マンションを購入)→(そのマンションを担保に、銀行からお金を
借り入れる)→(そのお金で、またマンションを購入)→(そのマンションを担保に、ま
た銀行からお金を借りる)→……ということをつづけている。これを「レバレッジ」とい
う。

マンションの価格が上昇しつづければ、投資家たちは、利益を享受することができる。し
かしマンション価格が低下し始めたとたん、こんどはドミノ倒しのように、巨額の負債を
抱え込むことになる。

アメリカのサブプライム・ローン問題も、こうして起きた。アメリカでは、住宅が対象で
あったのに対して、韓国では、マンションが対象になっている。上記(6)と(7)に、
とくに注目してほしい。「マンションが売れ残りはじめた」という。つまり「マンション価
格が、さがり始めた」ということになる。ゾーッ!

(注※)(韓国S経済研究所発表報告書より・08年3月)

「報告書によると、1997〜2006年世界IT企業3351社の国家別経営成果を分
析したところ、台湾企業の売上は12.6倍、純利益は5.5倍増となり、世界の平均(売
り上げ2.0倍、純利益2.7倍)を大きく上回った。 

また、同期間の年平均売上げの伸び率も32.5%と、韓国(22.5%)と中国(31.
5%)を抜いていることがわかった。 

これを受け、世界IT企業の売上げに占める割合も台湾は10.5%で、米国(31.5%)
と日本(30.0%)に次いで3位に上がり、韓国(6.5%)を追い越している。売上
高の世界IT企業トップ100のうち、台湾企業は13社で、韓国(5社)より多い」(以
上、報告書より)。 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行わ
れた。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定
するなど米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・
太平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもや
っていないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K
国は拡散とウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったこ
とを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したこと
を明らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、
具体的には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会う
つもりはない」としている。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「がんばれ!」の意味("Ganbare" and "Take it easy")
We say in Japan, "Ganbare!", in case they would say "Take it easy", but these does not 
mean the same. I found it while I was running with my dog, Hana this morning.

言葉というのは、おもしろい。
たとえば日本語で、「おはよう」は、英語で、「GOOD MORNING
(よい朝)」という。

しかし実際には、その意味まで考えて、あいさつする人はいない。
つまり意味はちがっても、目的、内容は、同じ。言う人の気持ちは、同じ。

いくら遅く起きても、「おはよう」は、「おはよう」。
いくら悪い天気でも、「GOOD MORNING」は、「GOOD
MORNING」。「よい朝」は、「よい朝」。

……というふうに、考えていたのだが、こんな場面に出くわした。

いつものようにハナ(=犬)と散歩に出かけたときのこと。
ハナは、人間にたとえると、もう80歳を過ぎている。
このところ、毎月のように体力が落ちていくのが、わかる。

私は自転車で走る。
ハナはその横を走る。

近くに佐鳴湖という、周囲が、7〜8キロの湖がある。
その湖を一周するのだが、最後の4分の1くらいになると、私のほうが
ハナを引っ張って走るようになる。

ハナはハーハーと、苦しそうに、あえぎながら走る。

そんなとき、私は、思わず、こう言ってしまう。
「ハナ、がんばれ!」と。

と、そのときのこと。「こういうとき英語では、『TAKE IT EASY!』
と言う」と思った。

「がんばれ」も、「TAKE IT EASY」も同じような意味だとばかり
思っていた。いや、意味はちがっても、使う場所、それを言う人の気持ちは、
同じと思っていた。

が、である。

「ハナ、がんばれ!」と言ったときは、私のほうが、ペダルに力を入れる。
「ハナ、TAKE IT EASY」と言ったときは、私のほうが、ペダルから、
力を抜く。

内心、ふと、おもしろい現象だなと思った。

「TAKE IT EASY」というのは、「気を楽にしろ」という意味である。
言っている私は、同じ私なのに、ペダルに力を入れたり、抜いたりする。
繰りかえすが、「TAKE IT EASY」と言いながら、私はペダルに力を
入れることはできない。

で、子育ての話になるが、日本人が、日本語で、「がんばれ」というときは、
そこに「力」入れる。
子どもに向かっては、「もっと、力を入れなさい」となる。

一方、英語国で、「TAKE IT EASY」というときは、そこから「力」を
抜く。
子どもに向かっては、「もっと力を抜きなさい」となる。

このちがいは、大きい。……というより、では英語で、「がんばれ」は、何と
言うのか。子どもに、もっと力を入れてほしいときには、何と言うのか。
改めて考えなおしてみたが、私の貧弱な英語力では、それがわからない。

日本語の「おはよう」は、「GOOD MORNING」なのだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Take it easy TAKE IT 
EASY がんばれ がんばれ論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●ある選択(A Final Choice)
G-san's husband is going to a city in Saitama-pref for his new job, and asked for my 
advice whether it is better for her to go with her husband or let her husband go alone. 
She has one daughter and one son. They are elementary school pupils. Which do you 
think it is better for her? The school teacher said to her, "It is better for your husband to 
go alone and leave your daughter and son here in Hamamatsu for their studies".

Gさんが、こう相談してきた。

「夫が、今度、埼玉県に転勤することになりました。
ついて、私や子どもも同行すべきかどうかで、悩んでいます」と。

Gさんが悩むには、それなりの理由がある。

現在、娘(小6)と、息子(小2)が通っている学校が、子どもたちに
たいへん適した学校であるということ。「環境がすばらしい」と、Gさんは言った。

埼玉県は、受験競争がはげしく、のんびり屋の娘と息子には向かないのでは
ないかと心配している。
よい学校や、よい先生にめぐり会えるかどうか、それも心配している、と。

そこで学校の先生に相談すると、担任(小6の娘)の先生は、こう言ったという。
「お父さんだけが、単身で赴任をしたほうがいいのでは……」と。

学校の先生は、「転校したからといって、今より、よい学校に入れるとはかぎらない」
という意味で、そう言ったらしい。

わかりやすく言えば、Gさんは、(1)子どもの教育を中心にものを考えるか、
(2)家族のつながりを大切にしてものを考えるか、その選択に迫られている
ということになる。

夫が埼玉県へ単身で赴任すれば、その時点で、家族はバラバラになってしまう。
Gさんは、「だからどうしたら、いいか?」と。

で、私は、こう言った。
「夫婦の問題だから、夫婦のきずなを最優先にして考えたらいいのでは?」と。
というのも、こうした相談そのものが、たいへん日本的である。

もしアメリカあたりで、夫が単身でどこかへ赴任すると言いだしたら、妻のほうから
離婚を申し出るだろう。いわんや子どもの学校のために、夫婦がバラバラに暮らすと
言ったら、笑い話にもならない。

もし、それでも……ということになれば、子どもだけを、現地の寄宿舎学校に
残すという方法を選択するかもしれない。
さらに言えば、こうしたケースでは、子どもの意思も尊重しなければならない。
子どもは、どう望んでいるのか?

しかしこの日本では、そうはいかない。
「現実」がそこにある。
学校を離れて道はない。
学校に背を向けたら最後、コースの外にはじき飛ばされてしまう。
Gさんも、それをよく知っている。

そこで究極の選択。あなたならどうする?

子どもの教育を考えて、夫には、単身で赴任してもうか?
それとも、家族、とくに夫婦のきずなを優先させるか?


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●沈黙の価値
The value of Silence
In western world they say, "Don't speak out unless you know the value of silence".
In Japan we also say that "Silence is Gold" or "The mouth is the beginning of a trouble".
These proverbs mean that we had better not speak out unsure things in the public, or it 
often hurts other people's minds unexpectedly. But I have found another meaning in the 
proverb while I am talking with a care-manager of old men. This is an article I write 
about the another meaning of it.

『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』という格言がある。
どこかで読んだ、西洋の格言である。
同じような格言だが、日本では、『沈黙は、金なり』という。
『口は災いのもと』というのもある。

要するに、つまらないこと、くだらないことは、しゃべるなという意味である。
が、最近、『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』には、もっと
別の意味があることを学んだ。

結論を先に言えば、ものごとは、考えてから、しゃべれということ。
さらに、知ったかぶりをするな。わかったフリをするな。
へたな同情をするな。だれかの不幸を、酒の肴(さかな)にするな。

さらに『沈黙の価値』がわかるようになると、相手の本心まで見ぬけるようになる。
相手がよく考えてしゃべっているか。本当にそのことを知っていてしゃべっているか。
本当にこちらの苦労が、わかっているか。本当に私に同情しているか。
本当に私の秘密を守ってくれるか。

ケアセンターでケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人が、こんな話を
してくれた。

その女性(60歳)は、その地域でも、すばらしい女性と評価されていた。
ヒマを見つけては、ひとり住まいの老人宅を訪れて、そういった老人の世話を
していた。
ときには、一日がかりで、1人の老人のために、車を走らせることもあったという。

が、その女性の父親(当時、80歳くらい)が、認知症になってしまった。
その女性の介護を必要とするようになった。
とたん、その女性の様子が変わった。

あれほどにまで、こまめに他人のめんどうをみていた女性だったが、
ことそれが自分の親となったとき、今度は、虐待に近い行為をするようになったという。
たまたまそのケアマネの人が、訪れたときも、朝食も、昼ご飯も、
ご飯とみそ汁だけだったという。夕飯も、それに近いものだったという。

つまりその女性は、自分をよく見せるために、善人のフリをしていた。
もっと言えば、老人を、自分の(飾り)に使っていた。

だから会う人ごとに、それとなく自分の行為を吹聴していた。
方法は、こうだ。

まず、さもある老人に同情しているかのようなフリをする。
そして「かわいそうだ。あの人は、本当にかわいそうだ」と言う。
「ひとり住まいで、家族にも見捨てられている」と言う。
ときに、涙声になることもあったという。
そして相手が、自分の話術の中に入ってきたのを見届けると、おもむろに、自分の
自慢話をその中に混ぜる。

「私ね、見るに見かねて、書類を作ってあげたのよ。書類といっても、
隣町に住む息子さんのところまで、行かねばなりませんでしたよ」とか。

ケアマネの人は、こう言った。
「そのときはわかりませんでした。あの女性が、そういう人だったとはね」と。

こういう例は、多い。ウソで塗りかためたような善人である。

……ということで、つまりそういう話を聞いたあと、実は、私自身も、他人に対して、
その女性と同じようなことをしているのに気がついた。
ここでいう「へたな同情」というのが、それに当たる。

それほど悲しくもないのに、悲しんでいるようなフリをする。
それほどつらくもないのに、つらがっているようなフリをする。

そういうときの自分は、思い出しても、ぞっとする。
自分の醜さを、見せつけられるようで、ぞっとする。

一方、こんなこともある。

二男の嫁のことだが、生粋の南部生まれ。南部育ちのアメリカ人である。
その嫁のことを見ていると、「よくまあ、ここまで真正直に生きられるものだ」と、
感心することが多い。

日本的な、(おじょうず)や(体裁)を、まったく言わない。
言わないものは、言わないのであって、まったく言わない。
白人の世界のことはよく知っているつもりだったが、そんな私でも、
最初は、嫁の姿勢に面食らった。とまどった。

日本的に言えば、裏表がない。見たまま、言ったままが、嫁ということになる。
が、つきあうようになって、6年。

今では、もっとも信頼できる友人(?)の1人になっている。
ウソや隠しごとが、まったくない。
一度、「あなたにも恋人がいただろうに、どうして(アジア人の)息子なんかと
結婚したの?」と聞いたことがある。
すると嫁は、過去につきあった男性のことを、ことこまかく、まるでレポートの
ように書いて、私にメールで送ってきた。

これには私も驚いた。ワイフも驚いた。「別に、そこまで聞くつまりはなかったの
に……」と。

つまり嫁にすれば、何でも、ウソや隠しごとなく相手に伝えることが、親密さの
表れと取ったようだ。
またそれが嫁の住む世界では、常識だったのかもしれない。

やがて私たち夫婦も、自分たちのことを、ウソや隠しごとなく、話すようになって
いた。

で、その結果だが、私も、嫁に対してだけは、ウソをつかない。
どんな約束でも、きちんと守る。
嫁は嫁で、私が頼んだことについては、きちんとこたえてくれる。
どんなささいなことでも、だ。

そういう嫁を見ながら、ワイフはいつもこう言う。
「アメリカ人って、本当にわかりやすくていいわね」と。
と、同時に、私たちの周囲の人たちが、あまりにもわかりにくいので、驚く。
とくに郷里のG県のM町の周辺の人たちは、そうである。
(みなが、みな、そうというわけではないが……。)
ときに、何が本当で、ウソかまったくわからなくなるときがある。
いつもキツネとタヌキの化かしあい。そんな印象すらもっている(失礼!)。

表ではニコニコ笑いながら近づいてきて、話を聞く。裏では、こっそりとそれを
酒の肴にしたり、私の悪口を言ったりする。
「油断もスキもあったものではない」というのは、ああいう地方で、使う言葉
なのかもしれない。

だからあえて言う。『沈黙の価値のわからぬものは、しゃべるな』と。
それは同時に、私とあの郷里の決別を意味する格言でもある。

(あ〜あ、これで私はますます郷里へ帰りにくくなるぞ!)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●自転車通勤(Eco-cycling)
In Japan we have too many road which do not have even sidewalks for walkers. Then 
cyclists on bikes have no choice but to run on the sidewalks together with walkers, 
which causes accidents more often as the number of bicycles is increasing. Then a new 
road traffic act is planning to restrict cyclists from the sidewalks. But this is completely 
against the flow of the age. To prepare suitable circumstances for cyclists would be 
better for the Global Warming problem.

++++++++++++++++

自転車に対する風当たりが、このところ、急に
強くなってきた。

自転車は、現在、指定歩道、通称「自歩道」
のみ、通行を許可されている(道路交通法
63条4項)。

もとはと言えば、自転車対自動車の事故が
急増したことが、理由である。

が、原則として、自転車は、軽車両。走行空間は
一般車道ということになっている。

こうした一般論をふまえて、「自転車は
車道を走れ!」と。

言うまでもなく、歩道を歩く歩行者を保護
するために、である。

しかしいきなり「車道を走れ!」は、ない。

その第一。

この浜松市について言えば、そもそも、
歩道すらない道が、多い。

たとえば浜松市の西に、N高校がある。
その横が私の通勤路になっているが、
そこにも歩道はない。

あるとすれば、道路脇に引かれた一本の
白い線だけ。

幅は、50センチ、あるかないかというところ。
しかも片側だけ。

N高校の先には、N中学がある。
小学校も、いくつかある。
その道路は、約1・5キロにわたって、文教地区と
いうことになっている。

その歩道(?)にしても、ところどころ電柱や、
道路標識で、さえぎられている。

あえて「車道を走れ」と言われるまでもなく、
車道を走るしかない。

そういう現状を一方で放置しておきながら、
歩道のあるところで、「車道を走れ」と
言われても、どうもすっきりしない。

それまでは、命がけで走ってくる。(ホント!)
歩道のある道路に出て、やっとほっとする。

さらに言えば、新しくできたバイパスには、
歩道がある。が、こんどは極端すぎるほど、
極端に立派な、歩道。
歩道の幅は、4メートル以上もある。
しかも両側に!

そういう歩道が、歩行者のためだけというのは、
どう考えてもおかしい。

オーストラリアなどのように、歩道を2つに
分けて、「歩行者用の歩道」と、「自転車用の
走行道(lane)」にするということは、できないのか。

それがだめなら、つまり歩道もないような狭い路地は、
思い切って、一方通行にし、その分、歩道や自転車用
の走行道にしたらよい。

たとえば長野県の飯田市などは、市内については、
一方通行道路をふやし、歩道を整備している。
やろうと思えば、この浜松市だって、それが
できないはずはない。

自転車は、環境にもやさしい。
地球温暖化が叫ばれている現在なら、なおさらである。
つまり自転車が走行しやすい道路を用意することは、
これからの地球を守るためにも、必要、かつ不可欠!

自転車を「悪」とするのではなく、自転車は「善」
であるという前提で、ものを考える。

たとえばフランスなどでは、すでに「自転車シャアリング」を
実施しているとこともあるという。
パリ市のばあい、カード1枚で、市内750か所の
サイクルポートで、自由に自転車を乗り降りすることが
できるという。

「発足して1か月で、利用者数が165万人に達し、
通勤、通学の足を自転車にかえる人もふえたという」
(「日本の論点」2008、P741)と。

その上で、歩行者の安全をどう守るかを考える。

そこで私からの提案。

(4)歩道のない道路は、原則として一方通行化する。
(5)一方通行化し、片側を、歩行者用の歩道と、自転車用の車道に分ける。
(6)現在ある歩道についても、歩行者用と自転車用に分ける。

さらに言えば、自転車に乗ることは、健康にもよい。
もし日本人の約30%が、自転車通勤を始めたら、
いったい、どれくらいの医療費が助かることか。

たとえば、1週間に2000kcal以上の運動をする人は、
500kcal以下の人に比べて、

冠動脈疾患は 25・7→ 16・4人
脳卒中は    6・5 → 2・4人
呼吸器疾患は  6・0 → 1・5人
がん     25・7 → 19・0人へと、死亡者数が、
減るということがわかっている。
(ハーバード大学卒卒業生、16939人の、16年間にわたる
追跡調査結果。1万人あたりの死亡者数)

歩行のばあい、20〜30分で、100kcal、
自転車のばあい、17〜40分で、100kcalの
エネルギーを消費するという(参考:「コアラ通信」)。

毎日、1時間前後、自転車に乗って、軽く汗をかくだけで、
いわゆる成人病と言われている疾患が、約3分の1から2分の
1にまで、減るということになる。

つまりその分、おおざっぱに計算すれば、国による医療費負担も、
3分の1から2分の1に減るということになる。

「自転車は歩行者にとって危険だから、歩道から締めだそう」と
考えるのではなく、「どうすれば自転車に乗る人たちが
より安全で便利になるか」という視点で、もう一度、この
問題を考えなおしてみてほしい。

地球の環境を守るため。
個人がより健康になるため。
そして日本の医療費負担を軽減するため。

ちなみに私は、この40年近く、自転車通勤をしている。
おかげで、成人病とは、まったく、無縁。
いつも同年齢の人たちより、10歳は若く見られている。

自転車通勤は、健康にもいいですよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自転車 自転車通勤 歩道 
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Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」というインチキ(Spiritual Boom in Japan)
More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They 
believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? 
Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in 
having sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is 
very dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely 
connected with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about 
them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
インチキもインチキ、どうしてそういったインチキが、こうまで
堂々と、この世の中で、大手を振って歩くのか。歩くことができ
るのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性
はゼロ。ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30〜
40年前に、この日本に現れた。何かのオカルト・ブームがきっかけ
だった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人
は多い。「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、
あなたは、知っているか?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、
はては、「あなたの先祖は、人を殺している。そのタタリ」だのと、
とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきでは
ないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中に
クイを一本打つ程度の効果しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行
部数で、700万部を超えているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、
先月、月間ベースで、やっと10万件を超えた。が、それでも、70分の1! 
テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、インチキをインチキとも気がつかず、テレビという
巨大マスメディアに、言いように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんなインチキを野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんな
ことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。思考力を失った人間が
どうなるか? あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。さらに言えば、
思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、
親類縁者の人たちから、「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と
言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、
「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、
「ショウ入れをしないと、位牌をまつっても意味がない」とか、
さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、
世界の音楽なり、民族舞踊なりを見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、
どこのバカがそんなことを口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、
若い人たちに、ソッポを向かれる。「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される
理由も、そこにある。結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。難解な数学の問題を
前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、
あなたはどう感ずるだろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚える
かもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという
不安があるなら、なおさらだ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、
200年、300年後には、人類はもちろん、あらゆる生物が、この
地球上から消える。このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを
口にする、おかしさ。そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、
隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、インチキだよ」と。その一声が、私たちの良識となって
若者たちや、子どもたちの未来を明るくする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist スピリチュアル スピリチ
ュアル・ブーム 精霊 聖霊 霊 カルト 迷信 オーラ論 オーラ)

(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。
(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は
京都大学理学部のほうには、残っているはず。)
京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせて
くれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したという
ことだった。
私は、地元の医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学
まで出かけていった。
(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の
人が、声をかけてくれたように記憶している。)
そのときの実験は、こういうものだった。
(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)
たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わる
というものだった。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。しかし肝臓が悪く
なったりすると、その色がxx色に変化する、と。
(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)
体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的
につくり、それを暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察する
というものではなかったか。
もちろん、そのあと、それは手品に近い、インチキと証明された。
人間にオーラなど、ない。あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司     08年 4月 4日
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page053.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

HTML版のほうで紹介しています。

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page053.html

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often 
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the 
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, 
where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and 
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(3月10日)

●雷鳴

今朝は、雷鳴で、目が覚めた。本当は、その少し前から
目を覚ましていたが、雷鳴で、床から起きあがってしまった。

一度、遠くで鳴ったあと、つぎに近くで、ゴロゴロ、ドシャン!、と。

あわてて書斎へ飛び込み、パソコンの電源を抜いた。が、そこまで。
そのあとは、そのまま静かになった。

温暖前線が北上したのだろう。そのあと、生暖かい風を感じた。
私は書斎に、どっかりと座った。
今日も始まった。

3月10日、月曜日! おはようございます。


●鼻歌検索

鼻歌で歌を歌うと、それが何の曲かを検索してくれるサービスがある。
「MIDOMI」というサービスである。

さっそく試してみた。

(1)マイクに向かって、鼻歌で歌を歌う。
(2)それをアップロードする。
(3)しばらくすると、いくつか、似ているとされる曲が、リストとなって画面に現れる。
(4)その中のどれかをクリックする。
(5)どこかのだれかが歌っている曲が、流れてくる。

私の評価は、イマイチ。

(1)かなり有名な曲でないと、検索できない。
(2)検索されて出てきた曲も、鼻歌程度。(音楽ではなく、鼻歌、あるいは独唱。)

これから先、さらに充実することを願いながら、そこまで。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●今日こそは……!

++++++++++++++++

毎朝、起きては、同じことを考える。
「今日こそは!」と。

「今日こそは、充実した1日を送るぞ!」と。

健康だ。食事もおいしい。
体の調子もよい。
が、何よりもすばらしいのは、死の恐怖と無縁でいられること。

まずワイフにあいさつをする。
お茶を飲む。
新聞を読む。

そしておもむろにパソコンに電源を入れ、
画面を開く。

ニュースに目を通す。
音楽を聴く。
その音楽を聴きながら、雑誌を読む。

そして頭の中で、おおまかな計画を立てる。
返事を書かねばならない手紙も、数通、ある。
原稿も書きたい。
やりたいことは、山のようにある。

あああ、時間が足りない。
時間がほしい。

今の私には、無駄にできる時間など、一瞬、一秒もない。

そこに真実があるのに、手が届かない。
どうしても、手が届かない。
このもどかしさ。この歯がゆさ。

とりあえず、過去に出した本を、HPにアップロードしよう。
昨日、第2章まで載せたから、今日は、第3章だ。
うまくいけば、1時間ほどで、作業は終了するはず。

+++++++++++++++++

●不安神経症(Panic Disorder)

ワイフの友人に、不安神経症の人がいる。
いつもあれこれ悩んでは、取り越し苦労ばかりしている。
そこでワイフが、その人にこう言った。

「運命は、あきらめて、受け入れればいいのよ」と。

これは私の言葉である。

しかしそれでその人の不安神経症が収まるわけではない。
年齢は、今年、55歳になるという。
女性である。

その人のばあい、人前に出ただけで、体が緊張するという。
全身に汗をかき、手が震えることもあるという。
病院で薬をもらっているらしいが、しばらくのみつづけていると、
効かなくなるという。

不安神経症。ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。

以前は、急性不安神経症、もしくは全般性不安障害と呼ばれていたが、
1980年にアメリカの精神医学会は、「パニック障害」(DSM−III)という
呼称に統一した、と。

「パニック障害は、強い不安感を症状とする、精神疾患のひとつ」
(ウィキペディア百科事典)ということらしい。

定型的なパニック障害の症状としては、

(1)突然生ずる、パニック発作。
(2)つづいてその発作が起きるのではないかと恐れる「予期不安」。
(3)さらに長期化すると、症状から逃れられない恐怖感から、
生活範囲を限定することなどだそうだ(同)。

パニック発作時には、(1)突然、動悸などの自律神経症状と強い不安感に
襲われる。(2)自律神経症状には、めまい、動悸、手足のしびれ、吐き気、
息苦しさなどがある。

また(3)不安感には、ばくぜんとした不安と、死ぬのではないか、
気が狂うのではないかという恐怖感もある。
しかし(4)これらの症状は、とくべつな処置がなくても、1時間以内、
長くとも数時間のうちに回復するという(同)。

こうした症状を、ワイフに読んで聞かせると、「あの人も、そのとおりの
ことを言っていたワ」と。

表には出てこないが、パニック障害の人も、多いようだ。
そう言えば、私も、似たような症状を経験することがある。
言いようのない不安感に襲われ、その不安感が、頭の中にペッタリと
張りついてしまうような感じになる。

しかしそれほど長つづきしない。たいてい2、3日のうちに、
消える。軽い動悸はあると思うが、それ以外の症状は、あまりない。

私「みんな、不安なんだね」
ワ「そうみたいね」と。

ところでYOU TUBEには、すばらしい音楽も収録されている。
私のHPの「音楽と私」のところからも楽しんでもらえるようにしてある。
とくにお勧めなのが、「いやし系音楽」。

心が疲れている人は、どうか一度、のぞいてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●見栄や体裁(Vanity often makes us blind in our lives)
Some people insists on vanity even after he becomes 50, 60 or 70 years old. For those 
who do not, these sorts of people looks stupid, but he himself can't see himself.)

見栄や体裁を気にする人というのは、50歳になっても、60歳になっても、
はたまた70歳になっても、気にするものらしい。

「自分はすばらしい人間」と思うのは、その人の勝手。しかしこのタイプの人は、
他人も、そういう目で自分を見ていると思いこんでいる。錯覚している。
そこで他人の目に応えようと、見栄や体裁を気にする。

そうでない人から見れば、バカげた、実にバカげた行為なのだが、自分では
それがわからない。わざと大物に見せるために、気をつかう。苦労する。

「先日、名古屋市の助役(そんな人はいたかな?)と会食をしたとき、
市の道路行政について、一言、苦情を言っておいたよ」とか、何とか。

私たちは、その人を判断するとき、その人の中身を見る。
少なくとも、私は、そうしている。
地位や肩書きではない。そんなものは、カラスの羽をかざる、ゴミにもならない。
経歴にしても、大切なのは、「何をしたきたか?」だ。

個人の欲得の追求など、いくら重ねても、他人である私には意味はない。
前にも書いたが、昔、こんな人がいた。

当時、私の家は、斜陽につづく斜陽で、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
そんな私の家にやってきては、金儲けの自慢話ばかりしていた。

「昨日は、株で、10万円、儲けたよ」、
「税務署と交渉して、50万円、税金を安くさせたよ」とか。

こんなことも言った。この話は、今も強く私の印象に残っている。

「私が、このあたり(=町内)で、所得税の支払額では、一番なんだよ」と。

私が中学生くらいのときのことではなかったか。私の母は、ああいう女性だから、
表では、にこやかにそういう話を聞きながら、その裏で、「あのXXめ!」と、
その人が帰るたびに、玄関に塩をまいていた。

で、ある日、私は、母にこう言った。

「そんなに不愉快な相手なら、つきあわなければいいのに」と。

しかしその人は、定期的にやってきては、自慢話をした。
きっとその人にしてみれば、そういう話をするのが、楽しかったのだろう。
とくに、私の家のような、サビれかかった家では、そうだ。
自分の優越感を、この上なく、満足させられる。

こういうバカ(「バカ」と呼んでもさしつかえないと思うが……)は、
どこにでもいる。

価値観、人生観そのものが、幼稚で未熟。

が、50歳も過ぎたら、できるだけ早く、こうした亡霊とは決別したほうがよい。
見栄、体裁という亡霊である。
でないと、私であって、私でない部分に毒されて、自分の人生そのものを見失う。

たとえば私が子どものころには、まだこんなことを自慢している人がいた。

「私の叔父は、海軍の中佐だった」とか、何とか。

さらに言えば、こうした価値観、人生観は、国によって、みなちがう。
たとえばあのオーストラリアでは、外交官といっても、外国に駐在する
公務員程度の意味しかなかった。
日本では、「外交官」というだけで、周囲の人たちは、大騒ぎしたが……。

銀行員にしても、オーストラリアでは、高卒の人たちが就く仕事ということに
なっていた。当時の日本では、大卒のエリートが就く仕事ということに
なっていたが……(1970年当時)。

反対に、ユンボやブルドーザーなどを操作して土木工事をする人は、
「工事技術者」と呼ばれ、大卒工学部卒業程度の資格がないと、それを
することができなかった、などなど。

このあたりのことは、「世にも不思議な留学記」に書いておいたから、
興味のある人は、ぜひ、呼んでみてほしい。HPのトップページから
読んでもらえるようにしてある。

要するに、最後に残るものは、「私」でしかない。
私たちは、裸で生まれ、そして裸で死ぬ。
目の前にある、モノや財産にしても、「私」を支える力にはならない。
それこそ、爪楊枝(つまようじ)にも、ならない。

私の母にしても、あれほどまでに小銭に執着した人だったが、今は、
財産といえば、お茶を飲むコップや、身のまわりの衣服くらいなもの。

元気なときは、テーブルの前に座った女性と、テイッシュ・ペーパーを
投げあって、喧嘩ばかりしている。

大切なことは、できるだけ早い時期に、「私」を知り、その私を
追求すること。
その時期を逸すると、繰りかえすが、結局は貴重な時間を無駄にし、ついで
自分の人生を無駄にすることになる。

そういう人を、私は、すでに、何人も見てきた。

方法は簡単。つまりそうならないための方法は、簡単。
いつも「だから、それがどうしたの?」と、自分に問いかけながら
行動するとよい。

もちろん人の話を聞くときも、そうだ。
「だから、それがどうしたの?」と。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●近代性と幸福の追求
(Modernization and its pursuit of Happiness -2-)

大切なことは、近代性の追求は、必ずしも
幸福にはつながらないということ。
つまり人間生活が近代化するからといって、
我々、人間が、幸福になるというわけではない。

人間生活の近代化と、幸福の追求は別のものである。
そういう前提で、近代性を考える。

近代性に、過剰な期待を寄せるのは、正しく
ない。

幸福感の確立は、もっと別のところにある。
そこで重要なことは、幸福感は幸福感として別のところで
確立しながら、近代性をその中に取り込んでいくということ。

この操作を誤ると、何のための進歩かということになる。
ばあいによっては、私たちが近代的社会と呼ぶところのものは、
かえって退廃する。


●本を読む老人たち
(Old men who enjoy reading books)

今日、あるところへ行った。その一室に、20人ほどの
老人たちがいた。年齢は、70〜80歳くらいか。

驚いたことに、その中の2人が、単行本を手にし、
それを読んでいた!

1人は男性で、推定年齢、75歳くらい。
もう1人は女性で、推定年齢、70歳くらい。

男性のほうは、どこかたどたどしい読み方をしていた。
女性のほうは、私たちが本を読むのと変わらない様子で、
読んでいた。

近寄って、どんな本を読んでいるか確かめたかったが、それはできなかった。
ただ男性の読んでいた本は、挿し絵からして、軍記ものだということがわかった。

すばらしい!

2人は、ほかの老人たちとは、明らかに、様子がちがっていた。

ともに頭脳明晰(めいせき)という感じがした。
頭脳が明晰だから本を読むのか、それとも、
本を読んでいるから明晰なのか、それは私にもわからない。
わからないが、その年齢で、本を読んでいる人は珍しい。
すばらしい。
そのすばらしさを、改めて痛感した。

が、ふとこうも思った。

せっかく本を読むのだから、それを消化して、(昇華でもよいが)、モノを書けばよい。
小型のパソコンか何かをもっていれば、さらによい、と。

いろいろな老人を見てきたが、単行本を読む老人は、少ない。
ざっと思い出しても、私の祖父母も、両親も、叔父、叔母たちも、
「読書」とは、まったく無縁の世界に住んでいた。

姉夫婦にしても、本を読んでいるという姿は、見たことがない。
ビデオすら見たことがない。

「それではいけない」とは思うが、だからといって、どうしようもない。
姉夫婦は姉夫婦。つまり人は人。それぞれ。

そこで私は、こう決めた。

これからはどこへ行くにも、小型のパソコンをもって歩こう、と。
今、この文章を書いているのは、ToshibaのダイナブックSS・3010。
買った当時は、25万円ほどした。
小型ノートパソコンのハシリで、買った当初から、故障の連続。
今も、夏の暑い日には、暴走を繰りかえす。
しかしその(人間ぽさ)が、楽しい。
裏面に1998年、購入とある。
もう10年も使っていることになる。
古いパソコンだが、いまだに手放せない。


●読書
(Reading Books)

再び、読書の話。

「読書をまったくしない」という人は、珍しくない。
しかしそういう人は、どこか底が浅い。
それもそのはず。
人は、読書を通してのみ、他人の深い思想に触れることができる。
そのことは、自分で文章を書いてみると、わかる。

文章を書いているときというのは、そのつど、考える。
ときにつぎつぎと、新しい発見をすることもある。
こうした現象は、ふつうの会話では経験できない。
いわんやそのレベルの人と、いくら会話をかわしても、意味はない。
思想が深くなるということは、ありえない。
ばあいによっては、ループ状態にはいる。
10年前、20年前に考えたのと同じことを、口にしたりする。

だから読書をする。
読書をすることによって、ループ状態から、抜け出ることができる。

たとえば私はたった今、「内部目標、外部目標」について書いた本を読んだ。
「大脳というのは、生きがい感としての内部目標を、最上位の目標としてすえ、
それに基づき、外部の状況と時間変化に対応する」とある。
「そこでは、脳の外部世界の状況に対応するため、外部目標を必要とする」と。

「ナルホド」と同意できる部分もあるが、「?」と思う部分もある。

この文章の筆者は、ひとつの例として、たとえばエベレスト登頂をあげている。
「エベレスト登頂」を内部目標とするなら、そのための準備をしなければならない。

体を鍛えたり、費用を捻出したりする。それが外部目標ということになる。

内容はともかくも、つまりこうして私自身も、脳みそを使う。考える。
こうした一連の脳みその活動こそが、重要である。
そうした刺激というのは、人は、読書のみによって得られる。

反対に、読書をしない人は、どうなるか?
言うまでもなく、通俗的になるだけ。
通俗が悪いというわけではないが、通俗性は、多くのばあい、凡人性につながる。
ハイデッガーが定義した、「ただの人(Das Mann)」というのは、そういう人を指す。

つまり「ただの人」になるか、ならないかは、
読書が、重要な役割をなす。
もちろん作文や、それにつづく思索でもよい。
ほかにも方法はあると思うが、読書が、もっとも手っ取り早い。

アメリカでも、「読書(Reading)」を、教育の「柱」にしている。
日本でも、ここ5年ほど、読書の重要性が、再認識されつつある。
とてもよいことだと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、
正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 2日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page052.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page052.html
のほうで、「幼児を伸ばす、100の箴言」を公開しています。
どうか、そちらをお読みください。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●捕鯨をやめよう!(I am against Whaling and we should stop whaling right now! We, 
the Japanese has been doing whaling under the name of "Research", about which all of 
us know it is a fake. One of my boys whom I have been teaching said, he has eaten a 
whale in somewhere in a very expensive restaurant. Then I asked him where he ate, but 
he said, "My dad told me it is a secret between us and Dad told me not to tell anyone 
about it." We have been killing whales for food. Australian people are angry, very angry 
about the Japanese whaling. Stop whaling right now or you should see the film "Earth", 
produced by BBC in England. You will know it is really a matter of stupidity after 
seeing the film. They are highly intelligent creatures like us, human-beings. How come 
are we so stupid?

++++++++++++++++++

オーストラリアから来た友人に、こう聞いた。
日本へ来て、何に驚いたか、と。
彼にしてみれば、15年ぶりの来日である。
その彼(56歳)が、こう言った。

オーストラリアでは、毎日、日本の捕鯨問題が
新聞のトップ記事になっている。
日本では、それがほとんどといってよいほど、
報道されていない。それに驚いた、と(08年2月)。

捕鯨問題は、現在進行形で、日豪関係に、
暗い影を落としつつある。たいへん暗い
影である。

「調査捕鯨」というバカげた名前の捕鯨は、
やめよう。「調査」だと?

結局は、食用のためではないか。

こんな話もある。

私は封切り日に、「EARTH(アース)」という
映画を見てきた。
それについて、子どもたちに、「クジラを食べるの
はもうやめよう」と言うと、1人の子ども(小学生)
がこう言った。

子「ぼく、クジラを食べたことがある」
私「どこで?」
子「だめだよ。パパが、内緒だって、言ってた」
私「浜松で食べたの?」
子「だから、言えないの。パパに怒られる」と。

雰囲気からすると、どこかの高級料亭で、料理として
出されたらしい。

日本人にとって、クジラというのは、そういうもの
である。

+++++++++++++++++++

(3月8日、ヤフーニュースより)

水産庁に入った連絡によると、7日午後1時すぎ(日本時間午後0時半すぎ)、南極海を航
行中だった調査捕鯨母船「日新丸」に、米国の反捕鯨団体「シー・シェパード」の「ステ
ィーブ・アーウィン」号が接近し、約1時間10分にわたって計4回、薬品入りの瓶6〜
7個と白い粉の入った袋約10個を投げつけた。無線で警告したがやめなかったことから、
日新丸に乗船している海上保安官が警告弾を7発投げた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●捕鯨に反対!(I oppose to whaling under the name of "research".)

I am strongly to oppose to the Japanese whaling and protest against the government. 
Mr. Nakagawa, a high-official of Japanese government said that we should sink the 
boats with military weapons, if they continue to disturb our whaling on the public 
ocean. How come could he say such a stupid and brain-less opinion? As a matter of fact, 
who are eating whales in Japan? Only very limited rich people can eat them, not people 
like me. Whales are being served as food at very expensive restaurants. We should not 
be stubborn about this matter, since the relationship between Japan and Australia is 
now under very critical situation. We don't need any more "Research". Why should we 
kill whales for the "Research"? We, the Japanese, are taught we have been whaling for 
the research. But we know this is a fake. Nikkei Newspaper also says, "whaling is our 
culture". This is also a fake or a lie. Whaling is not our culture. Stop whaling right now. 
They are not fish, but creatures with very high intelligent wisdom and brains.

+++++++++++++++

自民党の中川昭一元政調会長は
こう言った(NIKKEI NET・3月9日)。

南極海で調査捕鯨中の母船が、アメリカ
環境保護団体「シー・シェパード」から、
薬品入りの瓶などを投げつけられた事件に関して、
「海賊行為だ。日本人も負傷している」と。

「海賊行為」?

そしてその上で、
「調査捕鯨妨害については、武器で威嚇か撃沈を」
(3月9日、フジテレビ番組の中で)と。

とうとうでてきた、とんでもない意見!

こうした流れを受けて、日経新聞は、つぎの
ような社説を掲げている。

(1)反捕鯨団体の活動は、海賊行為である。
(2)シー・シェパードは、崇高な行為であると錯覚している。
(3)反捕鯨を理由に、豊富な資金を集めている。
(4)(日本は)、持続可能な海洋生態系の保存と利用を目的としている。
(5)したがって無法な挑発には、毅然と立ち向かうべきである、と※。

 日経新聞の社説は、「異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は、
必ず衰退する」と結んでいる。

 つまり日本が捕鯨をするのは、「文化」である。
その文化を理解しない反捕鯨国は、「必ず衰退する」と。

 ここまで言い切ってよいものか。また言い切れるものか。

 世界中の人たちが、捕鯨に反対している。捕鯨国と呼ばれる国は、
数えるほどしかない。

 そこで日本が考えた苦肉の策は、「調査捕鯨」という名前の捕鯨。
「調査」という名前を、堂々とつけるところが、恐ろしい!
しかし中身は、食用を目的とした、捕鯨。しかも現在、クジラの肉は、
超高級食材として、そういうレベルの人たちだけが、そういう割烹
でしか、口にすることはできない。

 前にも書いたが、オーストラリアでは、連日、日本の
捕鯨船の記事が、新聞のトップページを飾っているという。
つまりこのままでは、日豪関係に、取り返しのつかないキレツを
入れることにもなりかねない。

 仮に今、中川氏が言っているように、「撃沈」ということまで
すれば、そのまま戦争になってしまうかもしれない。オーストラリア
海軍だって、だまってはいないだろう。つまり今、それくらい
オーストラリア人たちのテンションン(緊張感)は高まっている。

 私たちが子どものころは、クジラは、ただのサカナだった。
学校の給食にさえ、クジラの肉が並んだ。しかし今は、ちがう。
クジラは、おそろしく知的な動物であることがわかってきた。
数千キロ離れたところでも、言葉による会話もできるという。

 クジラの生態がわかればわかるほど、クジラというのは、殺しては
ならない生き物だということがわかってくる。この問題は、
「世界中の海に鯨があふれても……」(産経新聞・社説)という
視点だけで考えてはいけない。あるいはクジラがふえたことで、
人間は、どのような迷惑を受けているというのか。

 さらに「シー・シェパードは自らの不法行為を、
崇高な使命を帯びた英雄的な行動のごとく見せ、
資金を集めている。その術中にはまってはなるまい」(日経新聞)とあるが、
たとえそうであるにせよ、相手は、比較にならないほど、
小さな団体。捕鯨船の大きさと、彼らが乗っているボートを
比べただけでも、それがわかる。

 そういう相手に向かって、海上保安庁の船まで出して、
「撃沈せよ」とは! つまり日本はそうまでして、捕鯨を
守らなければならない理由は、どこにあるのか? 
またそうまでしなければならない理由は、どこにあるのか?

 冷静になるべきは、我々、日本人のほうではないのか?
改めて、日本の捕鯨、つまり殺鯨に反対する。

+++++++++++++++++

(注※)日経新聞・社説(CNBC)を転載

 今回の一連の事件は、明らかな国際法違反であり、今後さらに重大な被害が発生するの
を防ぐ意味でも、常習的な海賊行為として、徹底的に捜査・究明すべきである。団体の本
部がある米国、活動拠点のオーストラリア、船籍があるオランダ、それぞれに捜査協力と
再発防止を求めるのが、日本政府の課題だろう。

 三国とも政府は反捕鯨を掲げているが、船舶襲撃の刑事事件として、冷徹な処理を求め
ればいい。シー・シェパードは自らの不法行為を、崇高な使命を帯びた英雄的な行動のご
とく見せ、資金を集めている。その術中にはまってはなるまい。

(中略)

 捕鯨問題について私たちは、持続可能な海洋生態系の保存と利用をめざし、思い込みや
非難・中傷ではなく、あくまで科学を論拠にすべきだと主張してきた。国際捕鯨委員会(I
WC)では、これまで議論を積み重ね、新しい商業捕鯨の仕組みを科学委員会がまとめ上
げている。

 改訂管理方式と改訂管理制度からなる新しい仕組みは、合理的な監視システムの下で、
個別の生物種も海洋生態系全体も保全される形で商業捕鯨を行うのがねらい。反捕鯨国の
科学者も納得したこの制度を、総会では反捕鯨国が導入に反対して、事態は止まったまま
だ。いまだ商業捕鯨再開のメドは立っていない。

 「世界中の海に鯨があふれても、商業捕鯨では1頭もとらせない」と宣言する反捕鯨国
もあって、まともな議論が通じにくい状況なのは確かだ。しかし、ここが正念場である。
鯨の個体数をしっかり調べたことで、世界的な環境保護団体が、海洋生態系の保全という
観点から、合理的な捕鯨制度に関心を示している。

 無法な挑発は毅然(きぜん)と退け、理不尽に対しては、共生の科学と寛容の哲学で辛
抱強く説得するしかない。異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は必ず衰退する。

+++++++++++++++++

●調査捕鯨?(Research Whaling?)
The Japanese government explains that whales eat too much fish and mollusk and it is
 damaging Japanese fishing in the oceans. But is this true?

 日本政府というより、日本側の言い分は、こうだ。

 「クジラは、食物連鎖の頂点にいる。そのクジラがふえすぎると、海洋生物全般に影響
を与える。日本は、その調査のために、捕鯨をしている」と。おおまかに言えば、そうい
うことらしい。

 しかしクジラが食物連鎖の頂点にいるというのは、まっかなウソ。クジラが食用として
いるのは、マグロでもカジキでもない。クジラにもいろいろな種類がいるが、南極に住む
クジラが主食としているのは、ナンキョクオキアミ。マッコウクジラは肉食もするが、深
海の軟体動物。まず、内閣広報室の言い分をそのまま紹介する。

+++++++++++++++

●クジラの餌の生態についての周知度

 クジラの餌の生態について、知っているものを聞いたところ、「クジラはオキアミなどの
プランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サケなどを主要な餌として食べている」
を挙げた者の割合が、52%と最も高く、以下、「漁業者が漁獲する前に、はえ縄にかかっ
たマグロをクジラが食べてしまうなど、クジラにより漁業が妨げられる事例がある」(1
2・9%)、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量
の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」(10・4%)などの順となっている。
なお、「わからない」と答えた者の割合が41・4%となっている。

+++++++++++++++

 つまり内閣府の言い分は、こうだ。イルカやクジラが食べる魚の量には、たいへんなも
のがある。推定で、2・8〜5億トン。これは「世界中の人間が食べる、魚の消費量の9
000万トンの、3〜5倍の量」(日本鯨類研究所)。だから捕鯨することによって、クジ
ラの数を制限する必要がある、と。

 (イルカやクジラと、「イルカ」も、含めていることに注意してほしい。)

 しかしこれは、ウソ。南極でエサをとるクジラは、ナンキョクオキアミを主食としてい
る。マッコウクジラは、肉食もしているが、深海の軟体動物を主に食用としている。財団
法人「日本鯨類研究所」ですら、「人間の漁業と直接は競合していない部分の方が、遙かに
大きい」(同、HP)と述べている。

 なおナンキョクオキアミにしても、年間数千万トンもの余剰資源があるとされる(同、
HP)。

 もちろんイカなどを食べる、「歯クジラ」もいる。しかし数は少ない。こうしたクジラ、
さらにはイルカまで、いっしょくたにして、「クジラは……」と論ずるところが、恐ろしい。

 さらに言えば、内閣府は日本の漁業を心配しているようにも見えるが、実際には、日本
の港に入ってくる魚の大半は、外国の漁業船団がもちこんでくる魚である。海上で、外国
の漁業船団と交渉して、日本の漁船が魚を買い受けるというケースも少なくない。人件費
という面からも、日本の漁業船団は、少なくとも現在は、外国の漁業船団には、太刀打ち
できない。開店休業状態にある。

 本音の本音を言えば、捕鯨をすることで利益を得る、ほんの一部の漁業関係者を保護す
るために、調査捕鯨をしている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(参考資料)(内閣広報室の資料より転載)

 都市規模別に見ると、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面
漁業生産量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は大都
市で高くなっている。

 性別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、
サケなどを主要な餌として食べている」、「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグ
ロをクジラが食べてしまうなどクジラにより漁業が妨げられる事例がある」、「イルカやク
ジラが餌として食べている魚介類の量は,世界の海面漁業生産量の3倍から5倍にのぼる
量であると推定されている」を挙げた者の割合は男性で高くなっている。

 性・年齢別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、
タラ、サケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は、男性の40歳代から
70歳以上で、「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグロをクジラが食べてしまう
など、クジラにより漁業が妨げられる事例がある」を挙げた者の割合は、男性の30歳代、
40歳代で、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量
の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は、男性の40歳
代から60歳代で,それぞれ高くなっている。

 職業別に見ると,「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タ
ラ、サケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は自営業主、管理・専門技
術・事務職で、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産
量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は、管理・専門
技術・事務職で、それぞれ高くなっている。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


 絶滅の危機に瀕している生物は、多い。もちろんその原因は、私たち人間にある。そう
いう巨大な問題をさておいて、「クジラがふえすぎている」は、ない。食料としての魚も必
要かもしれないが、海の生物くらい、そっとしておいてやってもよいのではないか?

 クジラにしても、ふえすぎれば自然淘汰されるだろう。大切なことは、自然との共存で
ある。人間があえて、その自然に手を入れる必要はない。日本人がもつ(自然観)は、け
っして、世界の常識ではない。

 それについて、以前、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシン
のよう」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには1740年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や
農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにし
ても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そう
いう謙虚さをもつことである。

少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切に
しましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
 age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●老人力(Young Old Man)

+++++++++++++++++++++

母の介護をするようになって学んだものは多い。
それはそれ。
しかしその半面、私は老人になることに、恐怖感を
抱くようになってしまった。

それがわからなければ、半日でもよいから、
あのケア・センターに身を置いて、あそこにいる
老人たちを観察してみることだ。

みな、それぞれ、それなりの過去をもった人たちである。

中には、東京のあのK大学を卒業したあと、
ヨーロッパのある大学に留学した経験のある人まで
いる。

そういう老人たちが、人間であることをやめてしまって
いる。

あの世界では、「私だけはだいじょうぶ」と思って
いる人ほど、あぶない。……そうだ。
今の私もそうかもしれないが、健康であっても、
(あるいは健康で長生きをすればするほど)、
みな、例外なく、ああなる。

しかしものごとは、暗いほうばかりを見て
いてはいけない。考えてはいけない。

「老人力」(瀬川原平)という言葉もある。
老人になること、結構。
バカになって、アホになること、これまた結構、と。

老人になることを恐れるのではなく、
老人であることを前向きに受け入れていく。

それが老人力。

我々は、ヤング・オールド・マンなのだア!

しかし、一方でこの恐怖感と、どう戦えばよいのか。
ワイフに相談すると、ワイフはこう言った。

「まだ30年も先の話でしょ。そんなこと、今から
心配しても、しかたないでしょ」と。

どうして私のワイフは、いつも、ああまで
楽天的なのか?
楽天的でいられるのか?

うらやましい!

+++++++++++++++++

(参考)

2015年には、老人性痴呆症、つまりボケ老人と言われる人は、
200万人に達するだろうと言われている。
(現在は、160万人と言われている。ウィキペディア百科事典)

老人性痴呆症は、血栓性の痴呆症と、アルツハイマー型痴呆症に
大別される。

血栓性の痴呆症というのは、脳の血管が詰まって起こる痴呆症をいう。
脳欠陥障害型痴呆症とも言われる。脳梗塞や脳内出血が原因となると
言われているが、脳梗塞による多発性痴呆が、そのほとんどをしめる。

症状としては、
(1)がんこになる。
(2)自己中心的になる。
(3)抑うつ感が強くなる。
(4)睡眠障害が起こる。(以上、初期症状)
(5)健忘障害
(6)道に迷う
(7)高度の知的障害が起こるようになる。(以上、「心理学用語」かんき出版)

さらにウィキペディア百科事典のほうでは、「軽度認知障害の症状」として、つぎのものを
あげる。

「加齢関連認知低下とは、6か月以上にわたる緩徐な認知機能の低下が、本人や家族など
から報告され、客観的にも認知評価に異常を認めるが、認知症には至っていない状態であ
る。

認知機能低下は、

(1)記憶・学習
(2)注意・集中
(3)思考(例えば、問題解決能力)
(4)言語(例えば、理解、単語検索)
(5)視空間認知、のいずれかの面に該当する」と。

+++++++++++++++

こうした初期症状が、自分自身に現れたとき、それを自分で認識できるかどうか。
理屈で考えれば、「できない」ということになる。
脳のCPU(中央演算装置)が、おかしくなるわけだから、自分がおかしいということす
ら判断できなくなる。

よい例がADHD児である。

小学3年生前後以下の子どもに、「あなたが騒ぐと、みなが迷惑するんだよ」と説明しても
意味はない。
「騒いでいる」という認識すらない。
「迷惑をかけている」という認識は、さらにない。

が、小学3年生以後、このタイプの子どもは、急速に落ち着きを取り戻してくる。
自己認識力が育ち、自分自身を客観的に見ることができるようになるからである。

「自分が騒げば、みなが迷惑する」ということが、自分でもわかるようになる。
とたん、自分で自分をコントロールするようになる。

では、老人性痴呆症のばあいは、どうか。

私の周辺にも、「?」と思われる人は、何人かいる。
このところ急速にがんこになり、自己中心的になってきた。
自分でもうつ病を自認し、薬も服用している。

しかしそういう人でも、「おかしい?」と思うのは、周囲の人たちであって、本人ではない。
むしろ本人は、「私は、ふつう」と思いこんでいる。
何かのことで、それを指摘すると、逆に、「あなたのほうがおかしい」とやり返される。

こと老人性痴呆症に関しては、「病識」をもつことはないようだ。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、自分の姿を自分で、客観的にとらえることができるようになるのか。

前にも書いたが、私のばあいは、自分の書いた文章を比較することで、ある程度、その変
化を客観的に知ることができる。

5年前に書いた文章、10年前に書いた文章を読み返してみる。
そのとき、「最近書いた文章は、つまらない」と思うようであれば、痴呆症が進んでいると
いうことになる。
反対に、「以前は、鋭い文章を書いていたな」と思うようであっても、痴呆症が進んでいる
ということになる。

……ということで、実は、私は最近書いている文章が、以前の文章より、かったるくなっ
ているのを感ずる。
体裁を変えたこともある。

以前は、学校で教える作文形式の体裁で、文章を書いていた。
今は、インターネット上で読みやすくするため、このように文章を、一文ずつ、一行で表
現するようにしている。

それもあるが、このところつっこみが甘くなったように感ずる。
言うなれば、駄文につづく駄文。

たしかに私の脳みそも老化しているようだ。
ゾーッ!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●エリクソンの心理社会的発達

+++++++++++++++++

渋谷昌三氏が書いた「心理学用語」の中に、
興味ある表が載っていた。

そのまま転載させてもらう(P175)。
(「心理学用語」・渋谷昌三・かんき出版)

*********************
エリクソンの心理社会的発達
*********************

段階        心理社会的危機

―――――――――――――――――――――

乳児期        信頼 対 不信
乳児前期      自律性 対 恥、疑い
乳児後期      自主性 対 罪悪感
児童期       勤勉性 対 劣等感
青年期     自我同一性 対 同一性拡散
成人前期      親密性 対 孤独
成人後期      世代性 対 停滞
老年期     自我の統合 対 絶望

*********************

 この中でとくにわかりやすいのは、(あくまでも現在の私の立場での話だが……)、老年
期である。

 エリクソンは、老年期は、「自我の統合」を構築すべき時期だとする。いろいろに解釈で
きるが、要するに、老齢期を前向きにとらえて、その中で、(自分のすべきこと)と、(現
実にしていること)を統合させていく。

 それが「自我の統合」、もしくは、「自我の統合性」ということになる。

 が、その構築に失敗すると、その先で待っているのは、「絶望」ということになる。

 そこでもう少し、過去にさかのぼってみる。エリクソンは、成人前期には、「親密性」の
構築をしなければならないと説く。わかりやすい例では、恋愛、さらにそれにつづく結婚
がある。その親密性の構築に失敗すれば、「孤独」になる。もちろん親密性の追求は、何も、
恋愛や結婚だけにかぎらない。友との友情でもよい。近親者とのつながりでもよい。

 さらに進んで、成人後期には、「世代性」の構築をしなければならないと説く。

 世代性というのは、「私」というワクを超えて、私がもつ価値観、経験、知識を、つぎの
世代に伝えようとすることをいう。

 たとえば私にしても、ある時期から、「私の子ども」「他人の子ども」という垣根が消え
たように思う。年齢的には、45歳前後ではなかったか。それまでの私は、「私の子どもは、
私の子ども」「他人の子どもは、他人の子ども」というような考え方をしていた。

 が、この世代性の構築に失敗すると、悶々たる日々を過ごすことになる。それをエリク
ソンが「停滞」と言ったかどうかは知らないが、「明日も今日と同じ」「来年も今年と同じ」
という日々がつづくことになる。

 そして老年期。

 これについては冒頭に書いたとおりだが、この時期、「絶望」は、まさに「地獄」。私の
祖父はいつも口ぐせのように、こう言っていた。「地獄も極楽も、この世にある」と。絶望
は、この世の地獄ということになる。

 その先に、ほんのわずかでも希望があれば、人間は生きていくことができる。しかしそ
の希望をなくしたら……。

 生きているといっても、生かされているだけ。死ぬこともできず、さりとて、殺してく
れる人もいない。死の待合室で、死に神が来るのを、ただじっと待っているだけ……。

 では、どうすればよいのか?

 実は心理学では、「どうすればよいのか」という部分については、教えない。エリクソン
にしても、「自我の統合性こそ重要」と説くが、ではどうすれば、私たちは、絶望から逃れ
ることができるのかというところまでは、説かない。

 ここから先は、哲学、宗教の関する世界ということになる。わかりやすく言えば、私た
ち1人ひとりの(生きざま)の問題ということになる。というのも、大半の人は、そこま
で考えない。

 考えても、孫の世話と庭いじり。それが老後のあるべき姿と考える。もちろんそれを否
定しているのではない。しかしそれはあくまでも一部であって、すべてではない。またそ
れができる人は、今の世の中では、幸福なほうの人かもしれない。

 孫といっても、親子がそのものが断絶しているケースも少なくない。庭といっても、庭
すらない家庭も多い。

 さらに一歩進んで、「大人旅」(=数か月から数年をかけてする大旅行をいう)とか、「楽
農生活」(=趣味で農業を営みながら、自然を楽しみながら生きることをいう)とかいう言
葉も、ある。

 もちろん宗教に走る人もいる。布教活動に専念する人もいる。が、それでも「絶望」か
ら救われない人も多い。 

 「自我の統合性」の問題は、それほどまでに大きな問題であるということ。何度も繰り
かえすが、一朝一夕にできるものではない。

 エリクソンの「心理社会的発達」の表を見ながら、改めて、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エリクソン 心理社会的発
達 統合性 自我の統合性 自我の統合 自己同一性)


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