[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
![]()
(2008年5月号)
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 30日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page015.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●田んぼの中の水鳥(A water bird in the rice field)
My mother often said to me, "I have raised up you", or "I have brought you into this
world". But one day I rejected it, shouting, "When did I ask you to bring me up here?"
+++++++++++++++++
信号待ちで車を止めたとき、
田んぼの中に、大きな水鳥が
いるのを知った。
私がそちらを見ると、水鳥も、
こちらを見ていた。
サギの一種だと思う。
細い首をこちらに向けたまま、
じっとそこに立っていた。
+++++++++++++++++
私の母は、ことあるごとに、私に
こう言った。
「産んでやった」「育ててやった」と。
大学へ入ると、「学費を出してやっている」
「お父ちゃんに感謝しろよ」「J(=兄)に感謝しろよ」と。
それこそ耳にタコができるほど、それを
言って聞かされた。
それで私が、高校1年か、2年生になった
ときのこと。
私は、ついにキレた。
ある日、私は、こう叫んだ。
「だれが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。
そう、だれが産んでくれと頼んだ?
たしかに私は生まれた。
が、だからといって、そのことで、
親に感謝しろと言われても困る。
親は親で、勝手に私を産んだだけではないのか。
……というようなことを、私は、水鳥を見ながら
思い出した。
水鳥は、そこにいる。
それほどよい環境に住んでいるとも思われない。
農薬の影響で、餌も、少なくなったにちがいない。
その水鳥のことは知らないが、
季節に応じて、極地方から東南アジアまで、
旅をするのも、いるそうだ。
水鳥にしてみれば、(生きること)イコール、
(苦労の連続)ということになる。
車が動き出したとき、私は、ワイフにこう言った。
私「あの水鳥たちは、何のために生きているのかねえ?」
ワ「そうねえ……」
私「生きていても、苦労の連続で、楽しみなんか、ほとんどないと思う」
ワ「空からの美しい景色を楽しむということは、ないのかしら?」
私「どうだろう? そんな余裕はないかもしれないよ」
ワ「だったら、自然の中で生かされているだけ?」
私「ぼくは、そう思う。ゆいいつの楽しみと言えば、交尾をして、
雛(ひな)を育てることかな?」
ワ「しかし、それだって、苦労のひとつよ」
私「そこなんだよな。本能の命ずるまま、交尾して、雛をかえしているだけ?」
ワ「でも、水鳥は水鳥で、それでハッピーなのかもしれないわよ」と。
この世に生まれたからといって、よいことなど、数えるほどもない。
一見華やかに見える恋愛にしても、それにつづく苦労のはじまりでしかない。
まさに生まれてから、死ぬまで、苦労の連続。
もっとはっきり言えば、私たち人間にしても、死ぬことができないから、
生きているだけ?
生かされているだけ?
水鳥と私たち人間は、どこがどうちがうというのか。
母は、「産んでやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。
「育ててやった、(だから私に感謝しろ)」と、私に言いたかったのだ。
戦後のあの混乱期ということもあった。
今になってみると、母の気持ちを理解できなくはない。
母は母なりに、苦労もあったのだろう。
しかしこと(私)について見れば、私は、望んでこの世に生まれたわけではない。
そもそも(私)という主体すら、なかった。
たまたま生まれてみたら、私が人間であったというに過ぎない。
はやし浩司という名前の、人間であったにすぎない。
言いかえると、その(私)が、水鳥であったとしても、何ら、おかしくない。
私と水鳥の間には、一見、越えがたい距離があるようで、その実、距離など、ない。
私「あの水鳥も、死ぬこともできず、ただ生かされているだけかもしれないね」
ワ「生まれた以上、生きていくしかないって、ことよね」
私「そう。とにかく、生きていくしかない。いつか、死ぬときがくるまで、ね」
ワ「子どもたちは、どうかしら? この世に生まれてきて、よかったと思っている
かしら?」
私「そういうふうに、思ってくれれば、うれしいけどね」と。
が、だからといって、生きることが無駄であるとか、生きていても、
虚(むな)しいだけとか、そんなことを言っているのではない。
大切なのは、生き方。
その生きざま。
私自身は、この世に生まれてきて、よかったと思っている。
とくにこれといって、よいことはあまりなかったが、しかし今日まで、
無事、こうして生きてこられただけでも、ありがたい。
ワ「結局は、あなたがいつも言っている、『私論』に行き着くのね」
私「そうなんだよな。あの水鳥は、自分では、『私は私』と思って
いるかもしれない。危険が迫れば、飛んで逃げる。しかしその実、
どこにも、『私』がない」
ワ「あの水鳥が、人間に向かって踊り始めたら、おもしろいわね」
私「そう。もしそんなことをすれば、全国のニュースになるよ」
ワ「そのとき、あの水鳥は、『私』をつかんだことになるのよね」と。
「私をつかんだ」というよりは、「私らしい生き方の第一歩を
踏み出した」というほうが、正しい。
ワ「でも、あなたのお母さんって、どうして、そういう言い方をしたのかしら?」
私「G県の人たちは、ほかの県の人たちと、少しちがうよ。Mという、親絶対教の発祥の
地にもなっている」
ワ「静岡県では、そんなことを口にする人は、少ないわよ」
私「ぼくも、聞いたことがない……。G県には、それだけ民族的な土着性が
残っているということかな。人の交流も少ないし……」と。
私も自分の息子たちに、同じような言葉を言いそうになったことはある。
息子たちが、私に生意気な態度を示したときだ。
しかし私は、言わなかった。
むしろ事実は逆で、私は息子たちに感謝している。
息子たちは、いつも私に生きる希望を与えてくれた。
生きる目標を作ってくれた。
私にとっては、生きがいそのものだった。
もし息子たちがいなければ、私は、こうまでがんばらなかったと思う。
がんばることもできなかった。
ついでに言えば、息子たちががんばっている姿を見ることで、
私は、自分の命を、つぎの世代にバトンタッチすることができる。
(死の恐怖)すら、それで和らげることができる。
そうそう私が、母にはじめて反発したとき、母は、狂った
ように泣き叫び、こう言った。
「バチ当たり! お前はだれのおかげで、ここまで
大きくなれたア! その恩を忘れるな!」と。
それは母の言葉というよりは、母自身も、そういう言葉を、
さんざん聞かされて育ったにちがいない。
そういう環境の中で生まれ、育った。
母にしてみれば、きわめて常識的な
言葉にすぎなかったということになる。
私「あの水鳥の親は、そんなバカなことは言わないね」
ワ「言わないわよ」
私「やるべきことをやって、雛たちを空へ放つ」
ワ「それが子育ての原点なのね」
私「ぼくは、そう思う。ハハハ」
ワ「ハハハ」と。
……それにしても、美しい水鳥だった。
++++++++++++++++
子育ての原点について
書いた原稿です。
(中日新聞経済済み)
++++++++++++++++
●家族の真の喜び
親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。
「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そ
んな親子がふえている。
いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生
きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか
願うようになる。
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。
が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくな
り、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言っ
たまま、口をつぐんでしまう。
法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。
今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉
で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに
苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、
じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。
子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。
親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、い
つもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手
記の中にこう書いている。
「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。
今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、こう書き残してい
る。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。
こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。
+++++++++++++++
ついでに一言。
親風、叔父風、年長風、そのどれも、
吹かせば吹かすほど、
人間関係は疎遠になる。
親子であれば、そこに
大きなキレツを入れる。
以下、4年前(04年)に
書いた原稿です。
+++++++++++++++
【親・絶対教】
++++++++++++++++++++++++
「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。
今夜は、それについて考えてみます。
まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。
6月27日
++++++++++++++++++++++++
●親が絶対!
あなたは、親に産んでもらったのです。
その恩は、忘れてはいけません。
親があったからこそ、今、あなたがいるのです。
産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
学校にも通わせてもらいました。
言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。
親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
その恩を決して忘れてはいけません。
親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。
……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。
●カルト
親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、
その人が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳
の奥深くに、しみこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけ
がちがう。
そもそも「基底」そのものものが、ちがう。
子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長
する。何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。
あるいはほんの少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。
が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親
は多い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何か
の姿で、親の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそ
ういうことはありえない。
少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれ
た」という概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、
親は子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。
それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うよう
になる。「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。
●親は、絶対!
親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もって
のほか。親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のた
めに犠牲になっている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子
(娘)」と、それを誇る。
いろいろな例がある。
父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、
神奈川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。
で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかった
ので、Kさんは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。
が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさ
んにこう言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病
院にとどまって、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。
この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しん
でいる。
もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘
は、親を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の
人たちに恥ずかしくて、外も歩けない」と。
そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカ
ルト的である。親・絶対教には、そういう側面がある。
●子が先か、親が先か
親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。
これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。
「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」
と。あくまでも「私」という視点を中心にして、親をみる。
親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。
たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやっ
た」「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、
人生を楽しく過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。
子育てそのものを、自分のためととらえる。
こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらに
もう少し言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともな
う?
たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもし
れない。好きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、
結婚した。
そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたと
きから、何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だ
った。子どもを好きになれなかった。
そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」
と言うようになった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」
という思いである。
しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は
思うが、ここで一つのカベにぶつかる。
親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関
係は、それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために
平気で犠牲になる子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。
問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人
が入ってくるばあいである。
●夫婦のキレツ
ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその
姉は、はやし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生
きていますが、父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言
う人は、たとえ弟でも許さない』とです」と。
兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。
よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くら
い)は、昔、こう言った。
「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、
こう言います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』
とです。妻の私より、母のほうが大切だというのですね」と。
今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家
政婦に近いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。
「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにす
ら、あごで使われました」と。
●親・絶対教の特徴
親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれが
そのまま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という
考え方が、積もりにつもって、「先祖崇拝」へと進む。
先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリ
カの土着民的?
しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。
自分という親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信
者たちは、先祖という言葉をよく使う。
ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今
の若いものたちは、先祖を粗末にする!」と。
その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自
分を大切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。
こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人
もいる、大都市でも、である。
中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当に
あった話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれない
が……)、こんなことがあった。
ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先
祖を粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演
活動をしているようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。
まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女も
また、親・絶対教の信者であった。
しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。
数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちの
こう言った。
「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。そ
の寺では、「供養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に
金を出せ」とは言えない。だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きか
えて、そう言う。
親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってや
るからな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。
実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその
息子が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。
「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。
世の中には、そういう親もいる。
●親・絶対教信者との戦い
「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の
信者との戦いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、
戦うといっても容易ではない。
それこそ、10年単位の戦いということになる。
先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向
って、「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。
人、それぞれ。
それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしま
う。「あなたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらね
ばならない。ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。
しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけ
の学習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。
だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たち
の役目ということになる。
たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方がで
きない……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そう
いう世界で、私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私の
ほうがはじき飛ばされてしまう。
まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。
つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。
で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)
たちが、親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う
「10年単位の戦い」というのは、そういう意味である。
●自分の子どもに対して……
参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでや
った」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、とき
どき、子どもたちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。
しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。
「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がん
ばることができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみ
るよ」と言うことはある。しかし、そこまで。
子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になっ
ていた。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだこ
とか。
そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走って
きてくれた。飛びついてきてくれた。
それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。
寒い夜も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかなら
ない。
そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか?
私はむしろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえな
い。
今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼
となく、ダラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。
私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲
れたら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。
そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。
●対等の人間関係をめざして
親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。
親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れ
たら、親は親でなくなってしまう。
いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の
人間として、だ。
そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子
どもの前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。
結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親
は絶対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしま
う。自ら成長することを、避けてしまう。
昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。
「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう
一つは、子どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子
どもの横を歩く。子どもの友として」と。
親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。
友として、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多
くのばあい、よき親子関係をつくるのに、失敗する。
そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。
【追記】
親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。
子どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低
い人とみる。
たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そし
て不思議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせ
いにする。
こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。
子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考
えてよい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おと
なになったと考えられる。
そこでこう考えたらどうだろうか。
子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。
私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、
もっと大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。
「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。
私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射
精しただけである。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、
子どもを宿し、そして出産した。
そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛ん
でしまう。
たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもと
いえでも、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことでは
ないが、しかし心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なこと
ではないのか。
【補足】
だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではな
い。どうか、誤解しないでほしい。
私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあ
なたの勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。
重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこ
と。強要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)
+++++++++++++++++++++++
以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。
+++++++++++++++++++++++
●かわいい子、かわいがる
日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子
どもに楽をさせること」を意味する。
一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意
味する。反対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。
地方によっては、独立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらな
い。あえて言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿が
かわいい」という意味であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違
う。もっともこんなことは、調べるまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせ
よ、日本という風土の中で生まれた、日本独特の言葉と考えてよい。
ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、
内容を、まとめると、こうなる。
その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時
期までは、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音
が目立つようになった。きっかけは、結婚だったという。
その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報
告したのだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜
は泣き明かした」(男性の伯父の言葉)そうだ。
そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみ
しいものですわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。
それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン
性に気づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかく
も、そのときその男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。
結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、の
のしり始めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親
の悪口を言う息子とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしま
え」と、何度も電話がかかってきたという。
その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対
しては、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、
そういうふうにも使われる。
その男性は、こう言う。
「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、
そういう意味です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思
うのです。
たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、
ただの一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『お
ばあちゃん、おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。
たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えま
せん。だから母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対す
る母の態度を見ていると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よく
わかります」と。
さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思
い浮かべるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子
どもだろうか。それとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみ
るとよい。
(02-12-30)
●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司
●親風、親像、親意識
親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。
「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、
悪玉親意識である。
「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私
は親だから、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識
が強ければ強いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間
は、ギクシャクしてくる。
ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育
てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そうい
う意味では、子育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身
についた素養を、親像という。
この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるい
は「いい親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論とし
て、極端に甘い親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にし
て不幸な家庭に育った親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。
……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。
どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれ
がそれぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをし
ている。その「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言
う必要はない。
ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへ
ん失礼な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一
節がある。
『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こ
そ、愚者というべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚に
なれる親ほど、賢い親だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。
一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うこ
とにも、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りか
えす。
子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さ
えつけてしまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だ
から」「子どもだから」という、上下関係を意識している。
もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であ
れ、またどんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変
動期というか、混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケ
ースは、本当に少ない。
一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、
親だけというケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、
それを受け入れることができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きてい
る。
では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。
いつの時代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立し
たとき、旧世代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカ
な親のフリをしながら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。
親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言え
ば、「私は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であ
るべきか」とか、「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。
無論、親風を吹かしたり、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子
どもを受け入れ、あとは自然体で考えればよい。
なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●コジュケイ(Kojukei-bird)
山荘の朝は、コジュケイの鳴き声で始まる。
「チョット・コイ、チョット・コイ、チョット・コイ」と。
10年ほど前までは、キジがよく鳴いた。
しかし今は、コジュケイ。
大きさはウズラほどの鳥だという。
しかし私は、その姿を見たことがない。
いや、ときどきウズラのような鳥を見かけることはあるが、
それがコジュケイかどうかは、知らない。
このあたりには、野生のウズラも、住んでいる。
今は、4月の末。
もう少しすると、ホトトギスの鳴き声が聞こえるようになる。
里におりていたウグイスも、戻ってくるはず。
これから夏にかけて、山の住人たちは、めまぐるしく変わっていく。
・・・それにしても、静かな朝だ。
空はうす曇り。
その雲を通して、あわい光が、障子の窓をやさしく照らす。
風もない。
「あとで除草剤をまこう」と、ふと、今、そんなことを考える。
ところどこに雑草が生え、その背丈が、10センチほどになっている。
近く、息子夫婦と、それに孫たちがやってくる。
あとは・・・。
今朝は、頭の中も、どこかぼんやりとしている。
いつもならいろいろなことが、頭の中に浮かんでくるのだが、それもない。
けだるいというより、まだ眠い。
昨夜は、午前12時過ぎまで、起きていた。
が、今朝は、6時前に、目がさめた。
さめる直前、夢の中に、渥美清(映画俳優)が出てきた。
たった今、ワイフがコップにお茶を入れて、私のところに届けてくれた。
「家に帰ったら、昼寝をしよう」と声をかけると、「うん」と。
カラスが一羽、鳴きだした。
コジュケイの声は、もう聞こえない。
遠くの山々からは、白いモヤが、まっすぐ上に向かって、あがっていく。
のどかな、どこまでものどかな朝だ。
4月27日、日曜日。
みなさん、おはようございます。
+++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●デジタルカメラ(New Digital Camera)
今週の「週刊アスキー」誌によると、
デジタルカメラ部門での、売れ筋ランキングは、つぎのようになっている。(5/6日号)
1位・・・パナソニックの、LUMIX FX-35
2位・・・オリンパスの、u1020。
3位・・・富士フィルムの、Z100fd。
4位・・・カシオの、EX-S10
5位・・・富士フィルムの、F100fd。
オリンパスの、u1020というのは、正しくは「μ1020」。
しかしこの文字は、たぶん、BLOGにアプロードする際、拒否されるはず。
(やってみなければ、わからないが・・・。)
昨日買った、私のカメラは、第4位の、EX-S10。
たしか先週までは、第3位ではなかったか?
今まで、ずっとLUMIXを使ってきた。
「デジタルカメラはパナソニック」と決めていた。
パナソニック社のブレ防止機能には、捨てがたい魅力がある。
が、今回、カシオの、EX-S10を手にしたとき、その(薄さ)に
感動した。
「これなら名刺入れのように、ポケットに入れて、もち運べる」と。
とたん、いつもの物欲がムラムラと湧き起こった。
で、待つこと、約1か月。
「3万円以下になったら買おう」と心に決めていた。
今、そのカメラが手元にある。
指先でいじっているだけで、気持ちよい。
心が落ち着く。
おお・・・!
今、窓から明るい日差しが差し込んできた!
さあ、撮影タイム!
これから外の景色を、パチパチと撮ってくる。
(私のデジタルカメラは、すべて、パチパチという音が出るように
設定してあるのだ!)
++++++++++++++++++++++はやし浩司
●脳の老化(Brains that are getting rusted)
+++++++++++++++++
60歳のときは、だいじょうぶでも、
70歳になると、わからない。
70歳のときは、だいじょうぶでも、
80歳になると、わからない。
脳の老化というのは、そういうもの。
しかもある日突然、悪くなるというものでもない。
徐々に、ほんとうに徐々に、悪くなる。
『♪サウンド・オブ・サイレンス』の歌詞を
借りるなら、「がん細胞が成長するように」、
静かに、ほんとうに静かに、悪くなる。
だから、ほとんどの人は、自分の脳が
老化していることにさえ、気づかない。
「私はふつうだ」「まともだ」と思っているうちに、
どんどんと悪くなっていく。
さらにその(差)は、相対的なもの。
90歳の老人を見ながら、「ボケたなあ」と
思っている人でも、また別の人から見れば
「ボケたなあ」と思われているかもしれない。
が、これはけっして、他人の問題ではない。
私自身の問題でもある。
この先、私の脳が、今以上によくなるという
ことは、考えられない。
現状維持すら、むずかしい。
あるいは、どうすれば、現状維持ができるのか?
それにこんな問題もある。
頭のボケた人と、話していても、おもしろくない
ということ。
第一、会話にならない。
ときどきセンターにいる母を見舞うが、
会話らしい会話など、できない。
私ができることといえば、じっと、横に座って
いるだけ。
あとは時計を見ながら、そのまま帰ってくるだけ。
が、これも、けっして、他人の問題ではない。
私自身の問題でもある。
たとえばだれかが、私と話していて、「林と
話していても、つまらない」と思ったとする。
そういうとき、私は、それに気づくことが
できるのだろうか。
この先、そういうケースは、多くなる。
とくに若い人、さらには、子どもたち(生徒たち)
は、そう思うようになるかもしれない。
現に私の兄は、70歳を待たずして、ボケてしまった。
その下の姉も、このところ、少しおかしい?
順番からいけば、つぎは、この私ということになる。
あるいはすでにボケ始めているのかも?
が、まだつづく。
肉体の老化は、わかりやすい。
脳の老化も、それなりに、まだわかりやすい。
しかしわかりにくいのが、精神の老化。
たとえば気力や精神力が弱くなるにつれて、
判断能力や、現実検証能力、さらには問題の処理能力
が、並行して弱くなってくる。
正義感も弱くなる。問題意識も弱くなる。
しかし弱くなりながら、それに気づくということは、
まず、ない。
症状としては、めんどうに感ずるようになる?
先日も、今年70歳くらいになる元教師という人に
会った。
若いころは、教育の世界では、かなり活躍した人である。
しかしそんな人でも、今は、こう言う。
「そういうときもありましたねエ~」と。
それも、私自身の近未来像かもしれない。
では、どうすればよいのか。
(1)頭は使って使って、使いまくる。
(2)新しいことに興味をもちつづける。
(3)子どもたちを相手に、常に脳トレに心がける。
つまるところ、そういうことになる。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●君が為(た)め……(I have never regretted about my life, but now the life itself is
●getting shorter.)
++++++++++++++++++
最近、久しぶりに、百人一首を読んだ。
その中のひとつが、このところ、ずっと
気になっている。
どういうわけか、気になっている。
そのときは、それほど強く感じなかったが、
今は、ちがう。
日を追うごとに、私の心の中で、それが
勝手にどんどんとふくらんできた。
どうしてだろう?
もう一度、その短歌を読みなおしてみる。
+++++++++++++++++++
【藤原義孝(ふじわらのよしたか)】
君が為め
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
おもひけるかな
(百人一首より)
+++++++++++++++++++
あなたのためなら、捨てても惜しくないと
思っていた命だが、その命も、それほど
長くないと、このところ思うようになってきた。
++++++++++++++++++++
若いときはよい。
今日、失敗しても、明日がある。
その明日にがんばればよい。
それで取り返せる。
人生をノートにたとえるなら、
ノートは分厚く、余白も多い。
1枚や2枚、あるいは10枚や
20枚、書き損じても、「損じた」
という意識すら残らない。
しかし今は、ちがう。
いくら自分に「明日があるではないか」と
言い聞かせても、その言葉そのものが、
夏の日の陽炎(かげろう)のように、
そのままどこかへ消えてしまう。
たとえば若いころ、
私の母は、私の家に遊びに来ては、
そのつど、ごっそりとお金を
もって帰っていった。
当時は、そういう時代だったし、
私の母は、そういう人だった。
が、そのたびに私はこう思った。
「来月があるではないか。
来月、またがんばろう」と。
かえってそういう母の行為が、
私の生きるバネにもなった。
「10万円取られれば、20万円
取り返せばいい」
「100万円取られれば、200万円
取り返せばいい」と。
しかし歳を取ると、そういう気力
そのものが、弱くなる。
がんばりようにも、がんばりようがない。
体力もつづかない。
もちろん藤原義孝の短歌は、
そんな俗っぽいことを
歌ったものではない。
藤原義孝は、自分の命について、
もっと言えば、愛するだれかのために、
その短歌を歌った。
「長くもがなと おもひけるかな」と。
で、今日、自転車に乗りながら、
こんなことを考えた。
「こうして健康で、自転車に乗れる
だけでも、すばらしいことでは
ないか」
「青い空、心地よい風、白い雲……。
それを肌で感ずることができるだけでも、
すばらしいことではないか」と。
と、そのとき、藤原義孝の短歌が、
頭の中を横切った。
「長くもがなと おもいけるかな」と。
かなりペシミステックな(悲観的な)
……というより感傷的な思いかもしれないが、
そう思った。
「こうして健康でいられる時期も、
それほど長くはないかもしれない」と。
言うなれば、
「家族の為め
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
おもひけるかな」ということか。
……とまあ、このところ、
何かにつけて弱気になってきている。
視床下部あたりから出ている
シグナルが、弱くなっている。
そのため辺縁系にある帯状回あたり
の機能が弱くなっている?
私は勝手にそう解釈している。
が、うつ状態になると、さらにそれが
加速される?
そんなわけで、昨夜は、ワイフと
映画を見に行ってきた。
タイトルは、『フィクサー』。
よく見ていないと、意味がわからなくなる。
そんな映画だった。
が、ボケ防止には、よい。
結構、おもしろかった。
しかし映画館から出るとき、再び、あの短歌。
『長くもがなと おもひけるかな』と。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 28日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page014.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【マザーコンプレックス】
●依存と愛情(Mother Complex)
+++++++++++++++++
「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。
しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。
これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。
これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。
マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。
よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。
依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。
もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。
つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。
が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。
たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。
ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。
母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。
「お母さんが、オシッコを漏らしたア~!」と。
が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。
たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。
言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。
さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。
一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。
「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。
このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。
親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。
子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。
また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。
さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。
(ファザコンも同じように考えてよい。)
「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)
話をもどす。
人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。
また別の人間関係が見えてくるはず。
+++++++++++++++++++
以前書いた原稿を添付します。
+++++++++++++++++++
●マザコンの果てにあるもの
++++++++++++++++
マザコンについて、補記します。
++++++++++++++++
子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のす
き間を埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥
を補うために、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛
ともいう。
これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。
でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が
弱い。で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。この
タイプの親は、自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子と考えやすい。
そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。
こうしてたがいに、ベタベタの人間関係をつくる。
いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴
がある。
子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき
愛ぶりを、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。
つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロド
ロしている。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。あ
る母親は、私にこう言った。
「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手
の子どもをなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。
本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし
概して言えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいな
いかわからないといった、状態。
で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、
マザコンになるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子
がマザコンになるよりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。
ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親
といっしょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40
歳の娘であったりすると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏
見が、娘のマザコン性を見逃してしまう。
……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えて
みたい。
冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザ
コン性もまた、愛ではない。
子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心
のどこかで、その見返りを求める。
ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子
を取られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、
泣きながら、自分の胸の内を訴えた。
で、今度は、その反対。
親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性を
もつ。その依存性が、その子どもの自立をはばむ。
よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならな
い。マザコンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどう
かというのは、心の奥の内側の問題である。外からは、わからない。
一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの
人はいくらでもいる。
で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、
それに気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン
性を指摘したりすると、こう答えたりする。
「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサ
になれと教えてくれました」と。
つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を
絶対視しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマ
ザコン性を、正当化するために、そうする。
で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子ども
もまた、同じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。
本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親
は親で、子どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を
歩み始める。
が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままな
らなくなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけ
てしまう。
で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。
80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた
息子(50歳くらい)がいた。
マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、
本尊のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを
否定することに等しい。
だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。
マザコンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であっ
てはならないのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイ
プの人は、許すことができない。
そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。そ
れこそ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ~ん」と、泣き叫ぶよう
になる。
さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求
めるようになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。
ある男性(映画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。
「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というの
は、そういうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、
困るが……。)自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものであ
る。
子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、
よいことは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像
化)
【補記】
【マザコンの問題点】
(親側の問題)
(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかの
ように、それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を
奪った極悪人ということになる。
(息子側の問題)
(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生
活環境をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切な
のよ」と聞かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親
のめんどうをみる、家政婦のように考える傾向が強い。
(娘側の問題)
(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切
にする。
(4)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人
間(女性)と見ることができない。
(5)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で
重い。
(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 永遠のマドンナ 理想の女
性像)
【父性】
子どもがマザコン化する背景には、「父性」の欠落がある。
本来なら、子どもがある年齢に達したら、濃密な母子関係の間に、
父親が割り込み、母子関係を是正しなければならない。
そのとき父親の存在が希薄であったりすると、子どもはマザコン化しやすい。
「ファザコン」は、逆の立場で、同じように考えてよい。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●魔性と神性(God and Devil in Me)
私たちの心の中には、いつも、
魔性と神性が潜んでいる。
この2つが、たがいに、そのつど
戦っている。
神性はそれ自体、崇高なもの。
しかし問題は、魔性。
売られた喧嘩であるにせよ、
争いごとは、それに巻き込まれる
だけでも不愉快。
10数年前のことだが、私の生徒の
親たちから教材費を集め、そのまま
逃げてしまった業者がいた。
教材の販売の委託をしたのが、
まずかった。
電話をしても、逃げ回るだけ。
しかたないので、仮執行宣言付きの
支払い命令を裁判所で出してもらった。
しかしいくら私が元法科の学生とはいえ、
こうした行為をするということ自体、
気が滅入る。
内容証明付き郵便の手紙を書いているときでさえ、
体中が、カーッと熱くなったのを
覚えている。
で、今でも、ときどき、似たような
場面に出くわすことがある。
そういうとき、私は、こう考える。
「悪魔が喜ぶようなことはしない」
「悪魔がいやがるようなことをする」と。
「悪魔」といっても、宗教的な悪魔の
ことではない。
自分の中に潜む、邪悪な「私」という
意味である。
ここでは、「魔性」とした。
その悪魔は、私が困ったり、苦しんだり
するのを喜ぶ。
夫婦関係にせよ、親子関係にせよ、
親類関係にせよ、それが破壊されていくのを、
どこかで笑って見ている。
だったら、逆のことをする。
運命を受け入れる。
運命に逆らわない。
損をすることを、いとわない。
負けるが勝ちと決め込む。
あとは笑ってすます。
とたん、悪魔は、シッポを巻いて、
退散していく。
とくに私たち日本人は、(私だけか?)、
金権教に毒されているから、
(損得)の計算に、敏感に反応しやすい。
何かのことで損をしたときには、
それが気になる。
だまされたとなると、なおさらである。
しかしそういうとき、悶々と悩めば、
それこそ、悪魔の思うツボ。
あちこちに触手を伸ばし、人間関係を
つぎつぎと破壊していく。
アドレナリンの分泌が過多になり、
とたん、血圧があがる。
健康を害する。
つい先日も、似たようなことがあった。
そのとき私は、こう考えた。
「○○万円ほどだったら、1か月、
がんばれば、取り返せる。
だったら、1か月、健康でがんばろう」と。
……というわけで、その日は、2単位の
運動をこなした。
悶々とした、あの不快感は、それで消えた。
私たちの心の中には、いつも、
魔性と神性が潜んでいる。
この2つが、たがいに、そのつど
戦っている。
けっして、魔性の餌食(えじき)に
なってはいけない。
どうあがいたところで、私たちの人生には
限界がある。
だったら、1日でも長く、心豊かに、
ほがらかに生きること。
それこそ重要。
今朝は、起きたとき、そんなことを
考えた。
(08年4月26日)
●『千の風になって』と『天国の涙』
今日は土曜日。
起きるとすぐ、朝風呂に入った。
その風呂の中で、ワイフと、こんな会話をした。
秋川雅史の歌う『千の風になって』と、
エリク・クラプトンの歌う『天国の涙(Tears in Heaven)』について、
「これほどまでに、180度、視点が異なる歌が、
同時に東洋と西洋で、ヒットするのは、おもしろい現象だ」と。
『千の風になって』は、死んだ霊(スピリット)が、
あとに残されたものを、なぐさめるために歌う歌。
『天国の涙』は、先に死んでいった人に対して、
「ぼくは、元気でがんばるから(I must be strong)」と、
死者を、どこか思いやって歌う歌。
『千の風になって』は、死者が、「いつまでもあなたの
そばにいるから」と、やはりあとに残されたものをなぐさめる
ために歌う歌。
『天国の涙』は、「ぼくが(あとで)天国へ行ったとき、
君は、ぼくを覚えているだろうか」と、どこか、
そのさみしさを訴えて歌う歌。
歌い方もちがう。
どこか誇らしげに、堂々と歌う、秋川雅史。
さみしげにボソボソと歌う、エリック・クラプトン。
私「もともと『千の風になって』は、英語の詩だった。
だけどその歌が、日本でヒットしたのは、日本人の琴線に
触れたからだろうね」
ワ「それにしても、正反対ね。生きざまが、180度ちがうわ」
私「『千の風になって』は、日本のスピリチュアル・ブームにうまくのった。そう説く評論
家もいる」
ワ「生き方としては、『天国の涙』のほうが、たくましいわね」
私「そう、たくましいというより、人間的かな? 『千の風になって』は、幽霊の歌。現
実離れしている」と。
2つの曲は、YOU TUBEに収録されている。
興味ある人は、この2つの曲を、聞き比べてみたらよい。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【今日のこと】(4月26日)(April 26th 2008)
++++++++++++++++++++
今日、以前からほしかったデジタルカメラを
買った。
Y店で3万4000円弱だったが、K店では、
2万6800円。
1GBのメモリーとケース、それに三脚がついて、
2万6800円。
即、購入!
ワイン・レッドの光沢が美しい。
C社の、EX-S10。
日本で今、一番、薄いデジタルカメラ。
明日、あちこちを撮影してみよう。
楽しみだ。
++++++++++++++++++++
●会話(North Korea)
私が、「今日は、何も書かなかった」と言うと、ワイフは、
「K国のことでも書いたら・・・」と。
私「K国のこと・・・? どうせ、だれも関心なんか、もってくれないよ」
ワ「そんなことないわよ。読んでくれる人もいるわよ」
私「そう・・・?」と。
K国・・・。
あの金xxは、核兵器を放棄しない。
するわけがない。
理由は明白だ。
核兵器をもっているからこそ、K国は、K国。
世界に相手にしてもらえる。
恐怖政治の本尊にもなっている。
もし核兵器を手放したら、K国は、ただの貧乏国。
アメリカは、「核兵器を手放したら、援助する」と言っている。
しかしK国にとっては、それも困る。
世界から援助が、ドッと入ってきたら、K国は、どうなる?
もしK国の人たちが世界のことを知ったら、そのまま金xx体制は
崩壊する。
核兵器を放棄することもできない。
さりとて、門戸を開くこともできない。
が、ひとりノー天気というか、お人好しなのが、あのヒル氏。
アメリカ式の合理主義だけで、米朝問題を解決しようとしている。
わかりやすく言えば、(YES・NO)で成り立った、契約主義。
それだけで問題を解決しようとしている。
しかしそんなやり方は、K国には通用しない。
それにもうひとつ。
ヒル氏のような、育ちのよい政治家には、そうでない人たちの
ゆがんだ魂が理解できない。
ひとついじけるたびに、新しい人格が生まれる。
それが、もとからあった人格を、タマネギの皮のように包む。
金xxの魂は、今、そのタマネギの皮のようになっている。
二重、三重どころか、五重、六重になっている。
簡単には理解できない。
だからといって、金xxの肩をもつ気持ちは、毛頭ない。
加えて金xxは、まともではない。
そんな相手と、まともな交渉を重ねるほうが、おかしい。
たった一晩で、それまでの方針を、180度変えることも珍しくない。
私「今さら、引くに引けなくなってしまったんだろうね」
ワ「前のボルトン氏(前国連大使)と、同じことをしている」
私「そうだ。そしてやがて、気づく。自分が愚かだったとね」と。
ボルトン前国務長官がヒル氏を批判したとき、ヒル氏は、こう言い切った。
「すでに退職した人の意見など、意味がない」と。
結局、ヒル氏は、金xxに、時間稼ぎをさせただけ。
その間、金xxは、シリアで、核兵器工場の建設に手を貸していた。
ワ「どうして、ヒル氏は、こうまでがんばるのかしら?」
私「ノ大統領(韓国の前大統領)に、洗脳されたのだろう」
ワ「洗脳?」
私「そう・・・。ノ大統領は、こう考えていた。朝鮮が分断されたのは、
アメリカとソ連のせいだ。韓国も、K国も、その犠牲者にすぎないとね」
ワ「ヒル氏も、そう考えているの?」
私「基本的には、それに近い考え方をしている」と。
しかしそれも時間の問題。
やがてヒル氏は、自分のまちがいに気がつくだろう。
ヒル氏が相手にしているのは、社会主義者でも、共産主義者でもない。
ただの頭のおかしい、独裁者。
今の今も、その独裁者のもとで、何十万、何百万という人たちが餓死しよう
としている。
もちろんその中には、日本から拉致された被害者たちも含まれている。
今、すべきことは、K国を自己崩壊させること。
安楽死でもよい。
それがわからなければ、もう一度、自問してみたらよい。
「国民を餓死させてでも体制を守ろうという国が、まともか」と。
では、どうするか?
K国は、人権問題だけを先頭に、攻めて、攻めて、攻めまくる。
人権問題だけでよい。
核兵器も、核開発も、それにともなう制裁問題も、つぎのつぎ。
わかりやすく言えば、核兵器や核開発、それにともなう制裁問題という(悪魔)は、
相手にしない。
(善)だけを追求する。
(善)の力だけを信ずる。
そうすれば、K国は、かならず自己崩壊する。
・・・というのは、少し甘いかもしれないが、日本はもっと、
人権問題を先頭に立てて戦うべきではないのか。
アメリカのうしろに隠れて、コソコソとついて歩くだけが、日本のやり方ではない。
中には、「日本には暗い過去があるから、偉そうなことは言えない」と
思っている人もいるかもしれない。
しかしそれはまちがっている。
どうして日本は、いつまでも暗い過去を引きずらなければならないのか。
暗い過去にこだわって、静かにしていなければならないのか。
それがわからなければ、100年後、200年後に視点を置いて、
今の日本を見つめてみればよい。
そのとき、そこに何が残っているか。
それをほんの少しだけ想像してみたらよい。
たとえ今は、効果がなくても、それがそのときの未来を明るく照らし出す。
答は、おのずと出てくることと思う。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●世界のGDP(国内総生産)
【日本の経済力】(Economic Power of Japan)
Japan is ranked as No. 2 after USA, according to IMF report.
++++++++++++++++++++
GDP(国内総生産)を話題にする人は少ない。
しかし私が学生だったころには、そうでは
なかった。
連日……とまではいかなかったにせよ、
私たちは、よくその言葉を口にした。
GDPは、日本の(力)を測り知る、
重要な指数だった。
(当時は、GNP(国民総生産)という
言葉のほうが、よく使われたが……。)
私たちはその数字を知り、少なからず、
励まされた。
07年度のIMF版GDPが公表された。
それによると、
第1位 アメリカ……13兆8440億ドル
第2位 日本 …… 4兆3840億ドル
第3位 ドイツ …… 3兆3220億ドル
第4位 中国 …… 3兆2510億ドル
第5位 イギリス…… 2兆7730億ドル
……
第12位 インド ……1兆990億ドル
第13位 韓国 …… 9570億ドル、だそうだ。
(以上、IMF基準による。)
GDPの数値は、IBRD版(国際復興開発
銀行版)と、IMF版がある。為替レートを
どのように算定するかで、微妙なちがいが
出てくる。
こと07年について言えば、(あるいは07年まで
と書くべきか……)、日本は、よくがんばっている。
この順位は、そのまま、日本の経済力の強さを
表している。
……と言いたいが、日本の置かれている立場は、
実際には、年々、きびしくなっている。
「日本の国際収支は、原油価格の高騰や、
IT(情報技術)関連輸出の急減少がたたって、
貿易収支は、対前年度比で、マイナス32%にまで
落ちこんでいる」(02年・日経テレコン)。
今も基本的には、その状況はつづいている。
わかりやすく言えば、肝心の(貿易)が、弱体化
しているということ。
日本の町角から、町工場がどんどんと減っている
現状をみれば、それがわかる。
で、不気味なのは、中国とインド、それにブラジル。
中国が日本を追い抜くのは、すでに時間の問題と
されている。
インドやブラジルが、それにつづく。
韓国も、一時は、第11位につけたが、ロシアと
インドに敗れ、現在は、第13位。
GDPは、約1兆ドル。
日本の人口の3分の1程度ということを考慮に
入れるなら、韓国も、それなりにがんばっている
ということになる。
では、08年度は、どうなるか?
GDPの数値はもちろん、順位も、大きく変化
するはず。
原油高、ドル安、円高。
そこで直近の国際収支(経常収支)について調べてみる。
国際収支といっても、
(1)貿易収支(輸出入によるもの)
(2)サービス収支(輸送、旅行、通信、建設、金融、特許の使用料など)
(3)所得収支(国境を越えた雇用者報酬)
(4)経常移転収支(政府間の無償資金援助など)
(5)資本収支(資産、負債の受け取りなど)
(6)投資収支(国境を越えた直接投資など)
(7)その他の資本収支に、分けられる。
この中で重要なのは、(1)の貿易収支と、(5)の資本収支。
特筆すべきことは、日本が稼ぐ外貨の
約半分は、(5)の資本収支によるものということ。
わかりやすく言えば、日本は、モノの貿易で稼ぐよりも、
利息で稼いでいるということ。
つまり今、現在の日本は、世界の銀行、もしくはサラ金
国家として、成り立っているということ。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
「外貨準備高」という言葉がある。
よく「国の貯金」にたとえられる。
しかし外貨というのは、国の中央銀行が為替の
急激な変動に備えるもので、それが多いからと
いっても、あまり意味がない。
いうなれば、「目減りする一方のタンス預金」
のようなもの。
稼いだ外貨は、外国に再投資してこそ、はじめて
意味をもつ。
とくに戦略に使ってこそ、意味をもつ。
たとえば中国は、貿易で稼いだ外貨を、サブプライム
問題で弱体化したアメリカに向けて、猛烈に再投資
し始めている。
(今までは、おおまかに言えば、世界では、資金は
つぎのように流れていた。
EU→アメリカ
EU→日本
日本→アメリカ、であった。
今度は、そこに中国が加わってきた。
中国→アメリカ、と。)
つまり中国は、現在の混乱を利用して、
アメリカを乗っ取ろうとしている。
そういう動きが、現在、水面下で、活発に
行われている。
油断するな、日本!
負けるな、日本!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 26日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●学力調査テスト(School Test in Japan)
++++++++++++++++++
昨日、全国で、一斉に学力テストが
実施された(4月22日)。
産経新聞の記事をそのまま紹介させて
もらう。
+++++++++++++以下、産経新聞+++++++++++++++
「全然明るい」は正しい? 福沢諭吉の身長は? ……。小6と中3の児童生徒を対象
に22日に行われた全国学力テストでは、学力を実生活に活用する力を意識した出題傾向
が強まった。文部科学省は昨年と出題の領域や分量に大きな変更はないとしたが、基本的
な知識を問う「A問題」で、学校生活を題材にした出題が目立ち、PISA(OECDに
よる学習到達度調査)型の学力を求める姿勢が一層浮き彫りになった。
算数・数学では小6のA問題で、「約150平方センチ」の面積について(1)切手(2)
年賀はがき(3)教科書の表紙(4)教室の床-の選択肢から選ぶ四択問題を出題(正解
は(2))。センチメートルという単位について肌身で理解しているかを調べた。
中3のB問題(活用)では、「明治期の文豪、樋口一葉の身長が140センチ台であるこ
とが判明した」との新聞記事を引き合いに、慶応義塾創設者の福沢諭吉の身長を出題。上
腕骨の長さから身長を推定する数式を活用させつつ、数学が意外な(謎)を解いてくれる
一面をアピールした。
国語では、中3のB問題で、若者の間では肯定表現として使われることが多い「全然」
の使い方に関するリポートを出題。「全然明るい」という表現の賛否について、いずれかの
立場に立たせて理由を説明させる約100字の"ミニ小論文で言葉に対する感度をはかった。
一方、前回誤答が多かった問題の類題も。昨年の小6算数では「底辺×高さ」の公式で求
められる平行四辺形の面積について、斜辺の数値など不要な情報を加えつつ、別の長方形
の面積と比較させると、正答率が18%と低かった。今回は底辺、高さのほかに斜辺の数
値を示す単純な問題で、理解の正確さを調べた。
文科省によると、四十数年前の全国調査や近年の抽出調査と同一の問題が全教科で計2
5問出題されており、結果が注目されそうだ。
+++++++++++++以上、産経新聞+++++++++++++++
●もの知りから、考える子どもへ
教育全体の傾向としては、(もの知りな子ども)から、(考える子ども)と、
教育の目標そのものが、シフトしている。
しかしこれは(変化)ではなく、(欧米化)である。
もっと言えば、(世界に合わせた、標準化)ということ。
日本の教育は、あまりにもゆがんでいた。
今後、この傾向は加速されることはあっても、減速されることはない。
たいへんよいことだと歓迎する。
ところで「明治期の文豪、樋口一葉の身長が140センチ台であることが判明した」
(学力テスト)という。
低い?
「腕骨の長さから身長を推定する数式」ということだから、樋口一葉が、
死亡したときの身長ということになる。
しかしだれしも、老齢になると、身長が縮む。
見た感じ、3分の2程度になる人だって、いる。
そういう事実をさておいて、「では、福沢諭吉は……?」という計算をしても、
あまり意味はないのではないか。
もう一度、問題をよく読んでみよう。
++++++++++++++以下、問題より++++++++++++++
【中学3年B】
【問題1】
桃子さんは,樋口一葉ようのおよその身長が、 上
じょう腕わん骨こつ(肩とひじの間の骨)の長さから推定された
ことを新聞記事で知り、その内容を下のようにまとめました。
桃子さんのまとめ
一葉さんの身長は140cm 台
写真や絵から身長を算出できる
明治時代に活躍した作家・樋口一葉(1872 ?1896)
の身長は140 cm 台だったことを、解剖学と郷土史の
研究者が明らかにした。
この研究者らは,樋口一葉の写真を分析し、一葉が身につ
けていた和服から、一葉の上腕骨の長さを突き止めたそうだ。
そして、男女の身長と上腕骨の長さとの関係から求めた、
明治時代の頃の成人の身長を推定する式に当てはめて、
一葉の身長を推定した。
桃子さんは,明治時代の頃の成人の身長について調べたところ、上腕骨の
長さ(cm)から身長(cm)を推定する式があることが分かりました。そして、
その式をおよその数を使って、下のように表しました。
男性の身長= 2.8 ×(上腕骨の長さ)+ 73
女性の身長= 2.5 ×(上腕骨の長さ)+ 79
(問い)
前ページの式を使って,次の(1)から(3)までの各問いに答えなさい。
(1) 桃子さんは、一万円札の肖像になっている
福沢諭吉の身長を調べることにしました。
そこで、写真を分析して、 上腕骨の長さを
約36cm と求めました。
このとき, 前ページの式を使うと、
福沢諭吉の身長は約何cm と考えられますか。
下のアからオの中から1つ選びなさい。
ア 約164cm イ 約169cm
ウ 約174cm エ 約179cm
オ 約184cm
(2) 明治時代の成人の女性2人について、上腕骨の長さの差が4cm のとき、
この2人の身長の差は何cm と考えられますか。2人の身長の差を求めな
さい。
上腕骨の長さの差
上腕骨の
長さの差
(3) 明治時代の成人について、上腕骨の長さの差と身長の差の関係を考えます。
男性2人の上腕骨の長さの差と女性2人の上腕骨の長さの差が同じとき、
男性2人の身長の差と女性2人の身長の差では、どちらが大きいと考えら
れますか。下のア、イの中から1つ選びなさい。また,選んだ理由を説明
しなさい。
ア 男性2人の身長の差
イ 女性2人の身長の差
【問題2】
直樹さんは、2けたの自然数と、その数の十の位の数と一の位の数を
入れかえた数の和がどんな数になるかを考えています。
21 のとき 21+12 = 33
35 のとき 35+53 = 88
47 のとき 47+74 =121
82 のとき ( )
上で調べたことから,直樹さんは,次のことを予想しました。
直樹さんの予想
2けたの自然数と,その数の十の位の数と一の位の数を入れかえた数の和は,
11の倍数になる。
次の(1)から(3)までの各問いに答えなさい。
(1) 上の( ) に当てはまる式を書きなさい。
33 = 11 × 3
88 = 11 × 8
121 = 11 × 11
いつでも11 の倍数に
なるのかな。
+++++++++++++以上、当日の問題より+++++++++++++++
あまりほめてばかりいてはつまらない。
この【問題1】での最大の問題点は、「写真を分析して、 上腕骨の長さを
約36cm と求めました」という部分。
写真を分析すれば、上腕骨の長さがわかるのだろうか?
またどの写真を使ったのだろうか?
どうやって上腕骨の長さを知ったのだろうか?
話はそれるが、映画『ベン・ハー』の中の、チャールストン・ヘストン
は巨大な男性に見えた。
が、実際には、それほど大きな人ではなかったようだ。
映画の中では、ヘストンを撮影するときだけは、いつもカメラを下にして
写していたそうだ。
そういう技法は、映画の世界ではよく用いられる。
となると、ますますわからなくなる。
「36センチ」という数字は、いったいどこからどのようにして出てきたのだろう。
【問題2】については、3~4つの計算をして、それが11の倍数に
なったからといって、すべてがそうであると結論づけることはできない。
5つ目に、別の答が出てくるかもしれない。
5つ目も11の倍数になったからといって、6つ目はわからない……。
そこで文字式ということになるが、2けたの数字を、
(10xa+b)とおけば、簡単に証明できる。
問題そのものは、ごくありふれた問題である。
レベルとしては、(中学1年)程度。
++++++++++++++++++
こうして私は、今日もニュースを読んだ。
が、一言。
ニュースというのは、読むだけでは、
あまり意味がない。
読むだけだと、記憶に残らない。
そこで自分なりにコメントを書いてみると
よい。
そうすれば、脳みそに、ぐいと残る。
考える力も身につく。
++++++++++++++++++
(追記)
樋口一葉の上腕骨の長さは、
(140-79)÷2・5で、24・4センチということになる。
福沢諭吉は、男性だから、上腕骨の長さから、
男性の身長= 2.8 ×(上腕骨の長さ)+ 73
の計算式を使って、
36x2・8+73=173・8センチ、ということになる。
当時としては、かなり大きな人だったらしい。
またひとつ新しいことを学んだ!
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●春の夜
++++++++++++++++++++
このところ、楽しい話が、あまり思い浮かばない。
気分が晴れない。
で、そのかわり、ワイフとは、いつもバカ話ばかりしている。
が、その範囲。
バカ話は、バカ話。
さあて、どうしたものか。
どうしよう。
実は、今、10年以上も前に買った古いパソコンで、
この原稿を書いている。
キーが指になじんでいて、とても打ちやすい。
指がキーに触れているだけで、心地よい。
文字を打っていないときも、やさしく指先で、
キーをこする。
この感触が、たまらない。
子どもの(ものいじり)と同じ。
それとも(指しゃぶり)?
いじっているだけで、心が休まる。
私は子どものころから、いつも何かをいじっていた。
情緒が、不安定だったのかもしれない。
ものをいじることで、その刺激が脳のある部分に伝わり、
そこでモルヒネ様の物質が、放出される。
それが脳を、心地よい状態にする。
情緒を安定させる。
・・・たった今、ワイフと、脳梗塞の話をした。
「あなた、気をつけてよ」と、ワイフは言った。
「うん」と、私は答えた。
しばらく、しゃべったあと、今度は、認知症とうつ病の話になった。
認知症とうつ病は、ペアでやってくることが多いそうだ。
どっちが本病で、どっちが標病なのか、よくわからないことが多い。
「本病」「標病」というのは、東洋医学の言い方。
「本病」というのは、「本(もと)になる病気」、標病というのは、
「付属して起こる病気」という意味。
つまり認知症からうつ病になる人もいるし、
うつ病から認知症になる人もいる。
ワ「その人がそういう病気とわかっていればいいけど、わからないときが困るわ」
私「周囲の人たちが、それに振り回されるからね」
ワ「その人の言葉で、キズつくこともあるわ」
私「そうだね」と。
ところでワイフの知人に、このところ、共に、どこかおかしいという夫婦がいるという。
夫のほうは、認知症ぎみ?
妻のほうは、うつ病ぎみ?
夫婦ともどもだから、ちょっとたいへん?
近隣の人たちとのトラブルも、このところ絶えない。
ときどき奥さんの言葉を真に受けた夫が、近所の家の人のうちに、怒鳴り込んで
くることもあるという。
「お前は、うちの家内のサイフから、金を抜き取ったそうだな」とか。
こういうとき、近くに子どもでもいれば、まだよい。
しかし不幸なことに、その夫婦には、子どもがいない。
いつもその夫婦のことが話題になると、「どうするんだろ?」
「どうするのかねえ?」という会話で終わってしまう。
私「あのね、うつ状態になると、ささいなことがペタッと頭に張りついて
それが取れなくなる。悶々と、そのことばかり悩むようになる」
ワ「気分を変えることはできないの?」
私「それができれば、簡単なんだけどね。それができないからつらい。妄想というか、
被害妄想ばかり強くなるからね」
ワ「ところで、認知症からうつ病になった人と、うつ病から認知症になった人は、
どこでどう見分けるのかしら?」
私「いろいろ調べてみたけど、専門のドクターでも、むずかしいそうだ」
ワ「認知症とうつ病は、やはりペアでやってくるということかしら?」
私「病識(=自分が病気だという自覚)があれば、わかりやすいんだろうけどね・・・」
ワ「そうね・・・」と。
またまた暗い話になってしまった。
こういう文ばかり書くということは、私自身が、かなりうつ状態ということになる。
気をつけよう!
ところで今日の午後、新しいデジタルカメラを買いに行った。
ねらっているのは、C社のSxx。
値段は、3万4850円。
「3万円なら買う」と言ったが、店員は、「NO!」と言って、どこかへ消えてしまった。
買うのは、もう少し、先に延ばすことにした。
あとは、とくに書くことはなし。
もう少し原稿を書いて、静かに眠ることにする。
時刻は、午後10時40分。
アーカンソー州では、午前8時40分。
カルフォルニア州では、午前6時40分。
アメリカに住んでいる息子たちのことを、あれこれと思いやる。
「もう起きて、仕事に出かけただろうか」
「そろそろ起きるころだろうか」と。
それが今は、何よりも、楽しい。
++++++++++++++++++++++++++
●今週は、すでに5単位
今日は水曜日。
月曜日、火曜日、水曜日の3日間だけで、すでに5単位も、運動をした。
1単位は、40分間程度のサイクリングをいう。
おかげで太ももの付け根あたりに、鈍痛。
鈍痛といっても、心地よい。
明日からも、がんばろう。
とにかく、こうなったら、健康を維持するしかない。
「こうなったら・・・」というのは、つまり、「いろいろあるから」
という意味。
深い意味は、ない。
ところで昨日、小6の子どもたちと、百人一首の暗記競争をした。
みなに3首ずつ渡し、3首、早く暗記したほうが勝ちというゲームだった。
結果は、ダントツに私の勝ち。
10~15分ほど時間をかけて、みな、何とかソラで言えるようになった。
理由がある。
私は、学生のころ、古文が得意だった。
百人一首を、ときどき読んだ経験もある。
つぎに私は、和歌の内容を理解しながら、暗記する。
一方、子どもたちは、意味もわからず、(音)だけで暗記しようとする。
これでは勝負にならない。
昨日私が暗記したのは、つぎの3つ。
(1)春過ぎて、夏きにけらし、白妙の、衣ほすてふ、天の橋立
(2)君がため、惜しからざりし命でも、xxxx
(3)愛xxxxx
昨日は、スラスラと暗記できたが、1日たってみると、記憶しているのは、
この程度。(そのため、短歌の内容は、不正確。ごめん!)
この中の、とくに(2)の「君がためなら・・・」というのが、気にいった。
内容は、「君のためなら命も惜しくないと思っていたが、その命も、短くなってきた」
というもの。
繰りかえし読んでいるうちに、ジンときた。
(3)番目の「愛・・・」は、忘れてしまった。
つまり、私の脳みそは、まだまだ健康と判断してよいのでは・・・?
こういう競争で、子どもたちに負けるようになったら、おしまい。
今の仕事は、やめるしかない。
で、そのあと、今度は、算数の問題で、競争してみた。
何かの問題集をランダムに開き、「さあ、やってみよう!」と。
こんな問題だった。
【問い】(制限時間は10分)
10キロ離れたA町とB町から、同時に、A君がA町からB町に向かって、
またB君がB町からA町に向かって歩き始めた。
A君とB君は、25分後に、道で出会った。
で、A君は、B町に着くと、今度はA町に向かって歩き始めた。
B君は、A町に着くと、今度はB町に向かって歩き始めた。
A君とB君は、A町から2000メートルのところで出会った。
A君とB君の分速を求めなさい。
ただし方程式は使ってはいけません。
+++++++++++++++++++
今のところ、この程度の問題なら、スラスラと解ける。
解き方の説明もできる。
(ヒント:分速の比を求める。Aの速度と、Bの速度比は、
1000+8000:10000+2000=18:12=3:2。
それから求めて、A、Bの分速は、240メートル、160メートル。)
つまり私はこうして自分なりのやり方で、脳みそを鍛えている。
正直に告白すれば、仕事を利用しながら、脳トレをしている。
●畑仕事
庭先に、小さな畑がある。
全体で、10坪程度。
その中に、土を盛りあげて、畑を作っている。
そこで今、レタス、ナス、キュウリ、シシトウ、枝豆、ネギなどを育てている。
が、トウモロコシの生育が、あまりよくない。
発芽率も、20%以下?
そう言えば、枝豆の発芽率も、その程度。
これら2つの種は、あるところのある店で買ったもの。
多分、古い種だったのだろう。
ワイフは「古い種でも、ちゃんと発芽する」と言うが、私は、そうは思わない。
飲食物には、賞味期限というものが記載してある。
「種」にも、それと同じようなものを、表示したらよい。
今度からは、ちゃんと、裏側に記載されている数字をよく見てから種を買うことに
しよう。
●ディズニー・シー
今度、家族全員で、ディズニー・シーへ行くことにした。
息子と、息子夫婦、それに私とワイフ、プラス2人の孫たち。
計7人。
アメリカにいる三男がいないのが残念だが、私にとっては、生涯、最高にすばらしい
日になりそう。
で、その「ディズニー・シー」だが、かなり広い会場ということがわかった。
ネットで検索してみたら、「ディズニーランド」と同じくらいの広さがある。
旅行社の人が、「1日では、回れませんよ」と言ったが、納得。
息子は、「ディズニーランドは、子供向け。ディズニー・シーは、大人向け」と
言った。
孫たちには悪いが、ますますその日が楽しみになった。
ディズニーランドへ行くのは、15年ぶり?
ディズニー・シーへは、もちろん、今回がはじめて。
●認知症
先ほど書いた、「このところ、共にどこかおかしいという夫婦がいる」という
話だが、ワイフがこんなことを思い出した。
ワイフの友人が、何かの会費を、相手の妻に預けたという。
金額は、4~5万円だったという。
が、1週間たっても、会のほうへ、会費が未納のままになっていた。
そこでワイフの友人が、相手の妻のほうへ、「どうなっていますか?」と聞くと、
相手の妻は、「青い封筒に入れて、しまってあります。明日、会のほうへ
納入します」と。
が、さらに1週間ほどたったが、会費は納入されていないままだった。
そこでワイフの友人が、「どうなっていますか?」と電話を入れると、相手の
妻は、こう言ったという。
「私、そんなお金は、知りません!」と。
ワイフの友人は、驚いたというより、背筋にゾーッと、寒気のようなものを
感じたという。
私「で、その会費はどうしたの?」
ワ「たぶん、私の友人が負担したのじゃないかしら。そこまでは話を聞いていないから」
私「だんな(=相手の夫)は、どうなの?」
ワ「一見、まともそうに見えるらしいけど、こわいからだれも近寄らないそうよ」と。
●シャドウ論
親から子へと伝わるものは、多い。
その中でも、何がこわいかといって、シャドウ(ユング)ほど、こわいものはない。
親が心の隅に隠しもっている(邪悪な部分、つまりシャドウ)が、子どもにそっくり
そのまま伝わってしまう。
親子というのは、そういうもの。
こんな例がある。
例といっても、いくつかの話をまとめたものだが、こういうこと。
あるところに、小ずるい母親がいた。
やることなすこと、まさに小ずるく、小ずるさの塊(かたまり)のような人だった。
が、世間では、「仏様」と呼ばれていた。
その母親に、一人の娘がいた。
その娘は、そういう母親に反発した。
ときに猛烈な親子喧嘩もしたという。
で、母親は、15年ほど前に、他界。
今、その娘は、70歳前後になる。
が、周囲の人たちの評判を聞いて驚いた。
その娘が、母親そっくりの人間になっていた。
やることなすこと、まさに小ずるさの塊のようになっていた。
ワ「娘は、母親を反面教師としなかったのかしら?」
私「反面教師のこわいところは、そこにある」
ワ「どういうこと?」
私「反面教師を気にして、批判ばかりしていると、結局自分も、いつか、その
反面教師と同じ人間になってしまう・・・」
ワ「じゃあ、どうずればいいの?」
私「反面教師にするならするで、その相手以上のものを、自分の中で同時に作り
あげなければいけない。でないと、結局は、反面教師の毒気のようなものに、
自分が巻き込まれてしまう」と。
こういう例は多い。
あなたとあなたの親の関係にも、それかもしれない。
あるいは一歩退いて、あなたの親と、その親(祖父母)の関係が、そうかもしれない。
要するに、親は、仮面(ペルソナ)をかぶらないということ。
仮面をかぶることはあっても、脱ぐときはちゃんと、脱ぐ。
この操作を忘れると、「ペルソナ人間」になってしまう。
あなた自身は、それでよいとしても、子どもに与える影響は、甚大である。
ワ「ありのまま生きるということね」
私「同時に、自分をみがきながらね」
ワ「むずかしそう・・・」
私「それが簡単なんだよ。日ごろから、ウソをつかない。約束は守る。この2つだけを
守ればいい。日々の積み重ねが、その人の人格になる」と。
歳をとると、こうした現象が、あちこちで見られるようになる。
今、まだ若い人は、そのときを、楽しみ(?)にしておいたらよい。
●ストレス
精神的なストレスは、体によくない。
それが長くつづけば、つづくほど、精神がむしばまれる。
体調も、おかしくなる。
免疫細胞の能力が低下するから、病気にもかかりやすくなる。
しかしこの世の中で、ストレスと無縁のまま生きることは、むずかしい。
こちらにそのつもりはなくても、向こう側から、やってくることがある。
否応(いやおう)なしに、何かのトラブルに巻き込まれることもある。
そういう意味でも、生きることは、それ自体、何かとわずらわしい。
わずらわしいが、その(わずらわしさ)こそが、今、私はここにいて、
ここに生きているという証(あかし)。
「ストレスを楽しむ」というには、無理かもしれない。
が、ストレスとは、じょうずにつきあう。
うまくつきあえば、その分だけ、賢くなれる。
(悩む)こと自体、(考えること)に直結する。
それまで見えてこなかった部分まで、見えてくるようになる。
が、まずいのは堂々巡り。
堂々巡りに入ると、そのままうつ状態に落ち込んでしまう。
そして一度うつ状態になると、自分の殻(から)から、抜け出られなく
なってしまう。
あとはこの悪循環。
では、どうするか?
私のばあい、
(1)うつ状態になったら、「これはほんとうの私ではない」と、自分によく言って
聞かせる。
(2)重要な判断などは、控える。そのつどワイフにアドバイスを求める。
(3)ハーブ系の安定剤を服用する。カルシウム剤も、私には効果的。
(4)よく眠る。
(5)あとは教室の子どもたちと、ワイワイと騒ぐ。
たいていそれで、治る。
そうそう、ストレスの原因が、人間関係にあるときは、相手を、サルか犬、
あるいはイノシシと思うようにする。
(言葉はきついが、それくらいにまで思わないと、ストレスから解放される
ことはない。)
頭の中で、それを空想する。
「あいつは、サルだ」「あいつは、イノシシだ」と。
そしてその相手から、遠ざかる。つまり相手にしない。
反論したり、弁解したり、言い争うのは、タブー。
「負けるが勝ち」と念じて、あとは、時の流れに、身を任す。
『時は心のいやし薬』と考える。
『時は心のいやし人』でも、よい。
・・・そろそろ12時になってきた。
ここらで、書くのをやめる。
みなさん、おやすみなさい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【ニュースを読む】(K国の労働者の月給、学力調査)
●K国の労働者の月給(Monthly Salary of workers in North Korea)
+++++++++++++++++
ニュースを読む。
が、おもしろいことに気づいた。
同じようなニュースなのだが、
日によって、読みたい内容が変化する。
これは私だけの現象なのか。
それとも、みなに共通した現象なのか。
また内容についても、ときに、部分的な
ことが気になることがある。
たとえば今朝(4月23日)の毎日新聞は、
K国の窮状ぶりを伝えている。
何でも「大卒医師や教員が生活苦を理由に
退職して、商売に励んでいる」(毎日新聞)という
ことらしい。
が、その中の一文が気になった。
こうある。
「K国では、経済改革により価格統制を緩和した結果、
物価は急上昇し、1キロ0.08ウォン
(1ウォンは実質推定0.038円)だったコメは、
1200ウォンにも高騰。だが、一般労働者の月給は、
2000ウォン程度に引き上げられるにとどまり、
コメを2キロ買えばなくなる状態だ」(同)と。
たったの2キロ!
こういう数字を見ると、あれこれ計算してみたくなる。
私の悪いクセだ。
たとえば……。
一般労働者の月給が、2000ウォン。
米1キロの値段が1200ウォンということだから、1か月の
月給で、約1・7キロしか、米が買えないというと
いうことになる。
それはわかる。
しかし、そのあとが、よくわからない。
こうある。
「1キロ0.08ウォン(1ウォンは実質推定0.038円)
だったコメは、1200ウォンにも高騰」と。
これは、何かのまちがいではないか?
米1キロの値段が、0・08ウォンから、1200ウォンに
なったということは、単純に計算しても、値段が1万5000倍に
なったということになる。
1万5000倍だぞ!
つぎに「実質推定0・038円」という部分。
K国の1ウォンは、0・038円だという。
そこでもう一度、計算してみる。
日本では、米は、1キロあたり、平均して、500円前後。
つまり米、1・7キロということは、500x1・7=850円という
ことになる。
K国の労働者の月給は、米で見るかぎり、日本円で850円
ということになる。
しかし一方で、「1ウォンは、実質推定0・038円」という。
この数字で計算してみると、
2000x0・038=76(円)ということになる。
つまり米で計算してみると、K国の労働者の月給は、850円。
しかし実質レートで計算してみると、76円。
850円!
76円!
それほどちがわないが、しかしどうしてこういう(ちがい)が
生ずるのか?
「?????」。
どこか計算のし方が、まちがっているのだろうか?
まあ、それだけ米の価格だけが、高騰しているということらしい。
それにしても、すごい!
++++++++++++++++以下、毎日新聞++++++++++++++++
+
大卒の女性医師や教員も本業を捨て自営業へ……。経済危機が続くK国で、高学歴女性
が国から十分な給料をもらえず、職場放棄の末に露天商などの商売に走っている実態が
K国朝鮮労働党の内部資料で明らかになった。K国では経済改革実施(02年)以後、
物価が急上昇したのに給与の引き上げ幅が小さく、公務員らが自営業に流れる深刻な事
態が生まれている。
文書は党中央委が昨年10月に作成。それによると、K国各地で週6日、各種の日用品
を扱う市場が合法的に運営され、「物売り」を希望する住民が殺到している。市場周辺だ
けでなく、住宅地域にも露店が拡大して「社会秩序と規律をひどく乱している」という。
党指導部が強く懸念しているのは、商売人の大多数が就労適齢期の女性という点。「特に
胸が痛む」例として、大卒医師や教員が生活苦を理由に退職して商売に励んでいる実態
を紹介し、これらの行為を「本分を放棄して商売に走るのは初歩的な良心と義理を欠く
行為」と非難している。
K国では昨年後半、適齢期女性が市場で商売することを禁止する規定が出されたとされ
る。
K国の政権に近い関係者は「国家経営の音楽学校に勤めるより、自宅でこっそり音楽教
室を開いた方が何倍もの収入になるというのが実情だ。党指導部も深刻に受け止めてい
る」と解説する。
K国では経済改革により価格統制を緩和した結果、物価は急上昇し、1キロ0.08ウ
ォン(1ウォンは実質推定0.038円)だったコメは1200ウォンにも高騰。だが、
一般労働者の月給は2000ウォン程度に引き上げられるにとどまり、コメを2キロ買
えばなくなる状態だ。
文書はこのほか、金欲しさからの違法行為にも言及。「毒性物質を含む食料品を売る」「(韓
国製品を販売し)敵に対する幻想を広めている」などと批判しながら「不正腐敗行為が
度を越し、非常に厳しい段階に及んでいる」とも警告している。
++++++++++++++以上、毎日新聞 0804234+++++++++++
++++++++++++++以下、朝鮮N報 080424+++++++++++
北朝鮮の専門家や脱北者たちは、「大量の餓死者が出た1990年代中ごろの"苦難の行軍"
当時と同じような状況が現れつつある」と指摘している。また別の消息筋は、「昨年末に1100
ウォン(約115円)ほどだったコメ1キロの価格が、労働者一人当たりの月収である2500
ウォン(約261円)にまで上がった。1990年代の中ごろにもコメの価格が月給ほどにまで
上がり、配給も途絶えたことから餓死者が大量に発生した」と述べた。平壌市民へのコメ
の配給も今月からストップしているという(朝鮮N報より)。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●金権教(Money is All)
Territorial imperative is the origin of Moneyism, in which they say, "Money is all."
+++++++++++++++++++++
金権教の原点は、「縄張り意識」。
動物時代の名残が、そのまま金権教の原点となった。
「金が力(Money is Power)」。
そのことは、ウグイスの縄張り行動を観察している
とわかる。
その時期になると、ウグイスは、「♪ホーケキョ」と、
美しい声をかなでる。
しかしその美しい声の裏で、実は、ウグイスは、
自分の縄張りを主張している。
いろいろな説があるが、半径1~1・5キロ前後が、
その縄張りということらしい。
いろいろな鳴き方をする。
「♪ホーホケキョ」は、縄張り宣言(ウィキペディア百科事典)。
「♪ケキョケキョケキョ」は、縄張りに侵入した鳥への
威嚇であると言われている(同)。
ほかに地鳴きといって、「チャッチャッ」と鳴くことも
ある。
なお、縄張りというのは、ある動物が、特定の区域を占め
ることをいう。日本語のこの言葉自体は、日本人が古来土地の
所有権を示すために縄を張ったことに由来するという(同)。
「金(マネー)」が今ほど流通していない時代には、
縄張り……つまり自分の支配権の及ぶところが、「力」であった。
縄張りが広ければ広いほど、リッチということになる。
が、近代社会が発達するにつれて、物理的な(縄張り意識)は
消え、それが「マネー(金)」に置きかわった。
言うなれば「マネー(金)」は、観念的な縄張りということに
なる。
だから一般論として、金権教には、際限がない。
1億円もっている人は、10億ほしいと思う。
10億円もっている人は、100億ほしいと思う。
金額は大きければ大きいほど、よい。
その分だけ、安心できる。
だから金権教の信者たちは、こう言う。
「1億円でも足りません」「10億円でも足りません」と。
1人の人間が生きていこうと思えば、年間500万円も
あれば、じゅうぶん。
1億円あれば、20年間は、生きていかれる。
しかし金権教の信者たちは、そういうふうには考えない。
収入が減っただけで、パニック状態になる。
貯金の額が減っても、そうだ。
仮に10億円の貯金が1億円になったとしたら、さあ、たいへん。
それこそ自殺だって企てるかもしれない。
ふつうの人だったら、「1億円もあれば、すごい」と思うのだが……。
こうした原始的な心理が、そのまま国際情勢に反映される
ことがある。
現在の「チベット問題」も、そのひとつ。
あの中国は、自分の縄張りを広げようと懸命になっている。
こじつけにこじつけを重ねながら、「チベット共和国は、
昔から中国の領土だ」と主張している。
が、けっして他人ごとに思ってはいけない。
チベットのつぎは、台湾。
台湾のつぎは、沖縄。
30~40年後には、沖縄の領有権問題をもちだしてくるはず。
それを忘れてはいけない。
つまり中国は、それだけレベルの低い国、ということ。
原始時代の縄張り意識を、いまだに捨てきれずにいる。
さて本題。
金権教の人は、なぜ金権にこだわるのか。
ほとんどの人は、「私は私の意思で、行動している」と
思いこんでいる。
しかしその実、脳みその裏の裏にある、本能によって
動かされているだけ。
「縄張り意識」という本能である。
もちろん生きていくためには、ある程度の金権は、
必要である。
金権が、その人を幸福にするとはかぎらない。
しかし金権がないと、その人は、確実に、不幸になる。
社会のしくみそのものが、そうなっている。
が、金権に毒されると、自分の姿を見失う。
時間を無駄にする。
なぜなら理由は、簡単。
所詮、縄張りなどというものは、生きているときだけ
有効。
またその範囲だけで、有効。
死ねばおしまい。露(つゆ)となって、消える。
露にもならない。
だから金権は金権として、自分との間に、一線を引く。
「明けても暮れても、金権、金権……」という生き方は、
けっして賢い生き方ではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金権教の信者 縄
張り 縄張り意識)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 23日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page012.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●私と小便(Urine & I)
This is a short essay about me and urine.
++++++++++++++++++++++
●前立腺ガン
私と小便のつきあいは、長い。
(当然だが……。)
その小便が、このところ別の意味をもち始めた。
きっかけは、浜松医大のO教授。
前立腺ガンの権威である。
そのO教授が、チェック・シートをメールで届けてくれた。
「60歳になったら、一度、検査してみたほうがいい」と。
たまたま知人が、その前立腺ガンになったこともある。
数か月前、その手術をした。
さらに、山荘の近くに住むU氏が、前立腺肥大とかになった。おなじく、その手術をした。
それまでは、私は、前立腺というのが、どこにあるかも知らなかった。
どんな働きをするかも、知らなかった。
しかし今では,肺がんについで、罹患率が第2位とか。
今の今も、どんどんとふえているという。
が、その割には、「おとなしいガン」(O教授)とか。
じょうずにつきあえば、それほど恐れなくてもよいということらしい。
●閉所恐怖症
私の実家は、田舎だったが、その町のほぼ中心部にあった。
自転車屋を営んでいた。
そのため家には庭がなく、トイレは、家の奥の奥、一番角の隅にあった。
薄ぐらい部屋だった。
トイレには電気はなかった。
それにボットン便所。
私は子どものころから、そのトイレに入るのがこわくてならなかった。
薄ぐらい部屋で用を足していると、壁の黒いシミが動いているかのように見えたこともあ
る。
今から思うと、私の閉所恐怖症は、そうして生まれたのでないか。
今でも、閉ざされた、薄暗くて狭い部屋に入ると、言いようのない恐怖感を覚える。
記憶に残っているのは、大学生のとき、みなで伊豆にある土肥金山へ行ったときのこと。
みなは平気で中へ中へと入っていった。
が、私は入り口のところで足がすくんでしまい、中へは入れなかった。
(当時の土肥金山は、木わくで組んだだけの、粗末なものだった。念のため。)
●立小便
そういうこともあり、私は、いつしか、立小便をすることに、喜びを感ずるようになった。
……というのは、少し大げさだが、子どものころから、立小便することについてだけは、
罪悪感を覚えなかった。
野原でも、道端でも、山の中でも、尿意を覚えると、あたりかまわず、シャーッとした。
さらに……。
実家でも、小便は、ときどき二階の自分の部屋から外に向けてした。下が張り出しの屋根
になっていて、トタンでできた看板が、そこにあった。だから通りから見られる心配はな
かった。
が、こんなことがあった。
ある夜のこと。
いつものように窓を少しあけ、そこにあれを差し出し、トタンの裏側に向けて、シャーッ
と出した。
と、そのとき、通りから、女の子の声がした。
「あらっ、お母さん、……雨よ!」と。
私はあわてて、窓を静かに閉めた。
●多飲症?
いつごろからそうなったかは知らないが、私は、水をたくさん飲むようになった。
称して、「多飲症」?
現在の今でも、1日、冬場でも、2~3リットルは飲む。
夏場になると、4~5リットルは飲む。
具体的には、夏場には、日中だけでも、2リットル入りのペットボトルを、2本は飲む。
よく理由を聞かれるが、そういうとき私は、「血圧が低いから」と答えることにしている。
私は低血圧症で、いつも100~65前後をウロウロしている。
それと関係があるかどうかは知らないが、水分を補給していないと、頭がボーッとしてし
まう。
とくに朝が苦手。
だから起きると、たてつづけに水を飲む。お茶を飲むこともある。
しかし私のばあい、水のほうが、おいしい。
●チェック・シート
O教授が送ってくれた、チェック・シートの中に、こんなのがあった。
「2:この1か月の間に、尿をしてから2時間以内に、もう一度しなくてはならないこと
がありましたか」と。
この設問には、困った。
先ほども書いたように、私は、多飲症。
水をよく飲む。
だから、尿も、その分だけ、よく出る。
ばあいによっては、30分間隔で、トイレへ行くこともある。
「へたに丸をつけたら、前立腺ガンにまちがえられてしまう」と思った。
思ったから、O教授にメールを書いた。
「ときに満タンにして、排尿を楽しむことがあります。
しかし1~2リットル、水を飲んでいるときは、30~60分ほど、尿意を催すことはあ
りません。
が、そのあと一度、ドッとしたあと、今度は、20分間隔で、トイレに行きたくなります。
量はそれほどでもないのですが……」と。
それに答えてO教授が、こう教えてくれた。
「最初に満タンにしたとき、膀胱が刺激され、それ以後、少量でも、尿意を覚えるように
なります。正常な現象です」と。
それを読んだとき、率直にこう思った。
「この世界も、広いな」と。
●排尿快感
私には、密かな楽しみがある。
まず、水をたてつづけに飲む。
1~2リットルは、飲む。
するとやがて、尿意を覚える。
が、すぐにはトイレにはいかない。
がまんする。
その段階で、さらに水を飲む。
1リットルとか、それくらいは飲む。
で、さらにがまんする。
そしていよいよというとき、小便をする。
ドドッとする。
それが気持ちよい。
何というか、言いようのない解放感を覚える。
開放感でもよい。
気分が爽快になる。
さらに、そうした小便は、山荘にいるときは、丘の上から、塀の上に立ち、下をめがけて
する。
そのときが、最高!
あ~~~~あ、と。
一度、ワイフにこう聞いたことがある。
「こういう楽しみは、男だけのものだろうね」と。
それに答えて、ワイフは、こう言った。
「女は、そんなバカなことはしないわよ」と。
つまり女性には、立ち小便は無理?
●1リットル
教室で、「リットル」を教えるときには、決まって私は、子どもたちの前で、一気飲みをし
て見せる。
1リットルの「量」を、具体的に教えるためである。
しかし私には、1リットルなど、問題ではない。
子どもたちに、はやしたてられながら、1リットルをぐいぐいと飲んで見せる。
「一気!」「一気!」と。
私はわざと苦しそうにして、飲む。
子どもたちには、それが実に楽しいらしい。
で、ときには、2リットルに挑戦する。
が、2リットルは苦しい。
たいてい途中でやめる。
……ということで、子どもたちは、「リットル」という言葉を覚える。
1リットルの量を、具体的に知る。
●前立腺ガン
O教授の話によれば、「80歳以上で亡くなった人を解剖してみたら、50%の人に、前立
腺ガンが見つかった」とのこと。
だから実際には、75歳を過ぎたら人には、手術はしないそうだ。
してもあまり意味がない。
先にも書いたように、もともとおとなしいガンである。
(だからといって、油断してもいけないとのこと。)
「ガン」だからと聞いて、そんなにあわてることはない。
ゆっくりと様子を見て、つぎの手を考えればよいとのこと。
しかし私は、この種の検査が苦手。
心気症でもある。
「要精密検査」という通知をもらっただけで、パニック状態になってしまう。
そういう点では、気が小さい。
O教授によるチェック・シートによれば、「尿漏れ」が、ひとつのポイントらしい。
尿漏れがあれば、何かの病気を疑ってみたほうがよい。
が、私のばあい、幸いなことに、前立腺、つまり蛇口の働きはよいようだ。
満タン状態でも、めったに漏れることはない。
しかし失敗したこともある。
以前、こんな原稿を書いたことがある。
++++++++++++++++++++
●悲劇!
++++++++++++++++
寒い日だった。私は教室の
ストーブの前で、ガタガタ
震えていた。
しかし、それが悲劇の始ま
りだった。
++++++++++++++++
寒い日だった。天気の予報官は、「暖かくなる」と言った。が、ハズレ。雨がやむと、日
没ごろから、急に冷え始めた。身の置きどころのないような寒さだった。
このところ、肉らしい肉は、食べていない。菜食主義というわけでもないが、しかしそ
れに近い。生徒たちに、「君たちは、寒いか?」と聞くと、みな、「ううん」と。
風邪の前ぶれだろうか。悪寒かもしれない。そんな気配も、あるにはあった。
私「寒くない?」
子「寒くないよ」
私「ホント?」
子「先生は、寒いの?」
私「そう、ガス欠だよ」
子「ガス欠って、何?」
私「ほら、車でも、ガソリンがないと、走らないだろ。あれと同じだよ」
子「そう、ガズ欠ね」と。
私は、「ガス欠もしらないのか」と思ったが、黙って、ストーブの前に立った。が、寒い。
少し前から、温かいお茶をつづけて飲んでいたが、少しも、体が暖まらない。と、そのと
き、ワイフが、教室の中に入ってきた。「あなた、もってきたわ」と。
私「何?」
ワ「トレーナーよ。その薄着じゃ、寒いに決まっているわよ」
私「ありがたい。トレーナーかア」
ワ「これを、中に着て……」と。
その少し前、私はワイフに電話をかけた。寒さを訴えた。ワイフは、それを知って、店
で、安物だが、トレーナーを一着、買って、届けてくれた。それを、子どもたちに隠れて、
炊事室で着た。上着のシャツの下とズボンの下に……。
変わった生地でできているトレーナーだった。着たとたん、ほんわかとした温もりが、
肌に伝わってきた。
私「これならいけそうだ」
ワ「あら、そう。よかったわ」と。
残りのクラスは、2つだけ。小学校の高学年児クラスと、中学生のクラス。しかしズボ
ンの下に、トレーナーとは! 一度、そのかっこうで失敗したことがある。
もう10年になるだろうか。ワイフと街を歩いているとき、ワイフが突然、こう言った。
「あなた、ズボンの下に、何、着ているの?」と。見ると、ズボンの下から、パジャマの
すそが、外に顔を出していた。
あわてて家を出てきたため、パジャマを脱ぐのを忘れた。そのままズボンをはいた。…
…とまあ、そんな失敗である。
見ると、何となく、ズボンの下からトレーナーが見える感じ。私は座ったまま、立つこ
ともできなかった。と、そのとき、参観の親たちが、2、3人、ゾロゾロと入ってきた。
「まずい」と思った。女性は、こういうことに、目ざとい。
私は、足を反対側に向けると、ズボンの下のトレーナーを上に、まくってあげた。いく
ら何でも、そういう姿は、母親たちには見られたくない。しかし立ったとたん、トレーナ
ーが、下に落ちていくのがわかる。アアア……!
で、やっとのことで、そのレッスンを終えた。が、今度は、猛烈な尿意。寒いときの尿
意は、これまた強烈。「したい」と思ったとたん、膀胱がはち切れそうになった。したい…
…。したい……。
生徒や親たちとのあいさつもそこそこに、部屋を出ようとすると、1人の母親が、私に
話しかけてきた。
母「先生、あのう……」
私(やめてくれ……)
母「少し、相談したいことがあるのですが……」
私(あとにしてくれ……)
母「○子のことですが……」
私「はい……」
母「4月からのことですが……」
私(早くしてくれ……)と。
で、思い切って、言った。もう、もたなかった。「あのう、実は、トイレに行きたいので
す。ちょっとだけいいですか」と。そう言い終わらないうちに、廊下の右にある、トイレ
に駆けこんだ。便器の前に立った。
ところが、である。ズボンのチャックをあげたところまではよかったが、いくら両手で
かきわけても、中が開かない! まるで、大きな鉄の扉が閉まっているような感じ。数回、
かきわけたあと、気がついた。トレーナーだア!
私は、ズボンのベルトをはずした。そしてズボンを下にさげた。同時に、トレーナーと
パンツもさげた。瞬間、小便が、堰(せき)を切ったように、外へはじき飛んだ。とたん
うしろから子どもの声がした。
「先生って、そうやってオシッコをするんだア」と。見ると、その母親の娘の○子!
私「トイレから出て行け!」
子「ハハハ」
私「セクハラだア」
子「ハハハ」と。
小便が終わって、また教室へ。母親はそこに立って、私を待っていた。○子は、知らぬ
顔して、備えつけたマンガの本を読んでいた。
……そのあとのことは、ここに書いても意味がない。いつもの、よくある親の相談。そ
していつもの私の返事。
きっとあとで、○子は、私のことを話しただろう。いや、話さなかったかもしれない。
あの年齢になると、子どもでも、そういうことは親には話さない。あるいは、話したかも
しれない。「先生って、オシッコをするとき、お尻を出してするのよ。赤ちゃんみたい」と。
それにしても、いやな思い出を作ってしまった。どうやって弁解してよいのかわからな
い。それでありのままをここに書いた。○子よ、○子の母親よ、どうか、この文章を読ん
でくれ。口で説明したり、弁解したりするのは、私には、あまりにもつらい。
私は、お尻を出して、小便など、しないぞ!
++++++++++++++++
もうひとつ、こんな話。
オーストラリアの友人が話してくれた
ジョークである。
++++++++++++++++
●「どうしても、だめでした」
最近、オーストラリアの友人から、こんなジョークが送られてきた。おもしろいので紹介
する。日本人にもわかるジョークなので、安心して読んでほしい。
九〇歳の老人が病院へ行くと、ドクターがこう言った。
「精子の数を検査しますから、明日までに精子をとって、このビンの中に入れてきてく
ださい」と。
が、その翌日、その老人がカラのビンをもって病院へやってきた。
そこでそのドクターが「どうしたのですか?」と聞いた。
すると、その老人はこう言った。
「いえね、先生……
右手でやってもだめでした。
左手でやってもだめでした。
それでワイフのイーボンに頼んで
手伝ってもらったのですが、だめでした。
イーボンが右手でやってもだめでした。
左手でやってもだめでした。
そこでイーボンは、入れ歯を全部はずして
口でやってくれましたが、それでもだめでした。
しかたないので、隣のメアリーに頼んでやってもらいました」
ドクターは驚いて、「隣の家のメアリーに!」と聞いた。
するとその老人は、
「はい、そうです。メアリーも最初は右手でやってくれましたが、
だめでした。
左手でやってくれましたが、それでもだめでした。
メアリーも口でやってくれましたが、だめでした。
最後に、足の間にはさんでやってくれましたが、それでもだめでした」と。
ドクターが目を白黒させて驚いていると、老人はこう言った。
「でね、先生、どうやっても、このビンのフタをあけることができませんでした。
イーボンにも、メアリーにもやってもらいましたが、
フタをあけることができませんでした。
それで精子をとることができませんでした」と。
+++++++++++++++
今日は、ここまで。
当たり前のように小便が出るということだけでも、ありがたいことなのですね。
しみじみと、今、そう思っています。
O先生へ、
一度、山荘へおいでください。
手作りの料理を、ごちそうします!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 小便 前立腺 前立腺ガ
ン)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【4月21日】(月曜日)(April 21st, Monday)
+++++++++++++++++
昨日は、ほんとうにさわやかな一日
だった。
私とワイフは、近くの弁当屋で弁当を
買い、佐鳴湖の湖畔で、それを食べた。
その前に、浜名湖まで行こうとしたが、
大渋滞で、断念。
あちこちを回って、結局、佐鳴湖へ。
(佐鳴湖(さなるこ)というのは、
浜松市内の西にある、縦2キロ、幅
1キロの小さな湖。)
近くで、珍しくも琵琶(びわ)の
練習をしている人が2人いた。
BGMは、生演奏!、ということで、
さらに弁当がおいしかった。
+++++++++++++++++
●彼岸論(Heaven)
They say when we die, we will go to the heaven. But I think this world itself is the
heaven. This means we live in the heaven!
この世(此岸)と、あの世(彼岸)。
この世があるなら、かならず、あの世もある。
この世だけが、(大宇宙)と考える方が、おかしい。
そこでもう一度、考えてみる。
「この世があの世なのか。それとも、あの世がこの世なのか」と。
この世だって、あの世から見れば、「あの世」。
あの世へ行けば、今度は、この世が、「あの世」。
どちらでもよい。
つまり、この世は、あの世。
美しい景色を見ながら、私は、そんなことを考えた。
私「あのなア、どこかメタボリックな弁天様が、半分、オッパイ出して、琵琶を弾いてい
る……。そんなあの世へは、行きたくないよ。それに聞くところによると、あの世は、真
っ白けだそうだ。つまらない世界だね」
ワ「私も、どうせ住むなら、こちらの世界のほうがいいわ」
私「だろ……。黄緑色の若葉、それに水色の空……。この世のほうが、ずっと美しい。こ
の世のほうこそ、あの世かもしれないよ」
ワ「そうねえエ~」と。
私は最近、この世のほうが、実は、あの世ではないかと思い始めている。
あの世のほうが実は(現世)で、そこで死んだ人たちが、この世へやってくる。
たしかにこの世(此岸)は、未熟で不完全かもしれない。
が、その分だけ、楽しさにあふれている。
努力次第では、それこそ神のような人間にもなれる。
かりにあの世(彼岸)があるとしても、この世(此岸)よりすばらしいところとは、とて
も考えられない。
ワ「じゃあ、あの世って、どんなところ?」
私「きっと、生老病死がごちゃごちゃになった、恐ろしいところかもしれないよ」
ワ「そう……?」
私「きっとそうだよ。そこで行いのよかった人たちだけが、この世へやってくることがで
きる。つまりこの世こそが、あの世というわけ。この世こそが、実は、天国というわけ。
極楽でもいい」
ワ「フ~ン。……でもね、あの世では、永遠に生きられるということだそうよ」
私「ハハハ、そんなのは、相対的なものにすぎない。ぼくたち人間は、70~90歳まで
生きられる。しかし、宇宙の時間では、3100万年分かもしれない」
ワ「じゃあ、あの世の人たちは、寿命が短いということ?」
私「かもね。自分たちは、70~90歳まで生きているつもりかもしれない。しかし、宇
宙の時間では、ほんの数秒かもしれない」
ワ「わけのわからない話ね」と。
要するに、この世(此岸)こそが、天国であり、極楽であると思って生きるということ。
それが大切ということ。
あとは、個人の問題。
与えられた人生は同じでも、パチンコをしたり、野球中継を見ながら時間をつぶす人もい
る。
一方、真・善・美の追求に、命を燃やす人もいる。
愚かな人は、自分たちが天国にいることも知らず、時間を無駄にする。
賢い人は、自分たちが天国にいることを知って、時間を大切にして過ごす。
どちらがどうというのではない。
あくまでも個人の問題。
ワ「じゃあ、私たちは、死んだら、どうなるの?」
私「この世がゴールだから、あの世はもうないかもよ」
ワ「あの世のあの世は、ないってことね」
私「……わからない。まあ、ないという前提で生きる。死んだとき、あの世がさらにあれ
ば、もうけもの。死んでからのお楽しみ、というわけ」と。
大切なことは、この世(此岸)のあとに、あの世(彼岸)はないという前提で、この世を
懸命に生きるということ。
あの世があると思って、この世の人生を無駄にしてはいけない。
たとえば時間の使い方にしても、使い方の問題。使い方によっては、ふつうの人の何倍も
濃く生きることができる。
1日を、1年のようにして生きることができる。
反対に時間の使い方をまちがえると、1年を、1日のように生きてしまうかもしれない。
同じ「70~90年」といっても、人、それぞれということ。
どちらが損とか、得とかいうことになれば、もう結論は出ている。
あとは、懸命に生きればよい。
それだけ。
ほんとうに、それだけ。
さあ、今日一日、がんばろう!
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【今日・あれこれ】4月22日(April 22nd 2008)
Sage and Mae are coming to Japan soon!
++++++++++++++++
これから買い物。
誠司のために、鯉のぼりを買ってくる。
芽衣のために、人形を買ってくる。
ほかにもいろいろ。
それから、誠司を連れて、ディズニーランドへ
行く予定。
その予約を、これからしてくる。
先ほど、嫁のデニーズのほうから、了解の
メールが届いた。
Sage would love to go on a
trip with you and Akiko!
Thank you so much for thinking of that!
(誠司は、旅に行きたがります。
お考えくださってありがとう)と。
そうそう、もうひとつ。
息子がデジタルカメラを壊してしまったという。
「パパのがあれば、ひとつ、ほしい」と。
バンザーイ!
私は、これで新しいのを、ひとつ買える。
つまり今使っているのを、息子に払い下げる。
そのかわり、私は私のを、また別に買う。
その口実ができた。
ワイフも「OK」と言ってくれた。
今度は、C社のデジタルカメラにする。
あの金属感がたまらない!
先日、手で触れてみたが、それだけで、
ゾクゾクした!
(もっている株の株価も、少し、あがったぞ!)
++++++++++++++++
●N県のZ寺(Someone scribbled the wall of Zenko-ji Temple in Nagano)
Those who do stupid things are call "Stupid". Not the problem of the brain.
どこかのバカが、N県にあるZ寺に、落書きをした。
「バカなことをする人を、バカという」(「フォレスト・ガンプ」。
頭ではない。バカなことをする人を、バカという。
それについて、M君(小6)が、こう聞いた。
「先生は、どう思う?」と。
たぶん、学校の宿題か何かに、出たのだろう。
すかさず私は、こう答えた。
「世の中には、5%のバカがいる。頭ではない。
バカなことをする人を、バカという。
その5%のうち、さらに5%のバカは、大バカ。
さらにそのうちに5%は、超大バカ。
そういう超大バカが、Z寺に火をつけたんだよ」と。
(本当は、オリンピック聖火に反対しただれかが
落書きをした可能性もある。が、あえてそれについては
言わなかった。話が複雑になる。)
するとM君が、「じゃあ、どうすればいいの?」と。
私「あのね、そのために刑法という法律があるんだよ。
そういうバカは、逮捕されて、裁判にかけられて、
刑に服すればいい」
M「でも、刑務所では、カツ丼が食べられるんでしょ」
私「はあ~~?」
M「この前、テレビを見ていたら、刑事が、『白状しろ、
カツ丼食わせてやるから』と言っていたよ」
私「それは刑務所での話ではないよ。警察での取り調べの
ときの話だよ。刑務所というところは、裁判がすんで、
刑が確定した人が入るところだよ」と。
私は、(被疑者の取り調べ)→(検事調書の作成)→
(裁判)→(判決)→(刑務所)という、流れを説明して
やった。
私「取り調べのときは、まだ犯人と確定したわけでは
ない。だから、カツ丼を食べさせてもらえることもあるよ」
M、ほかの子どもたち、「カツ丼かあ。いいなあ。食べたいなあ」
私「バカなこと、言ってるんじゃない! ところでぼくは
刑務所へ入ったことがあるよ」
M「いつ?」
私「学生のとき、大学の授業でね。見学のため、中に
入ったことがある」
M「な~んだ」
私「いやなところだよ。狭くて、息苦しくて……」と。
●バカは相手にしない
ところで、そういうバカは、相手にしない。
これは人生をより豊かに生きる鉄則のようなもの。
相手にしたとたん、相手のペースに、巻き込まれて
しまう。
つまり自分も、そのバカになってしまう。
そういう点では、バカな人のもつ力には、ものすごいものがある。
「バカなことをする人を、バカという。(頭じゃない。)」と。
フォレスト・ガンプの母親が、フォレストに言った言葉で
ある。
では、そういうバカは、どうして生まれるか?
というより、その方向性は、幼児期に決まる。
つまりその子どもが、そういう人になるかどうかという
方向性は、幼児期に決まる。
反対に、幼児期の子どもをていねいに観察すれば、その
子どもが、将来、どんなおとなになるか、おおかたの
予想がつく。
幼児でも、(ここでいう)バカな子どもは、いくらでもいる。
そうでない子どもも、いる。
では、だれが、子どもをバカにするかだが、言うまでもなく
親である。
子どもは、親の、日ごろの何気ない行動を見ながら、
自分の行動規範を作りあげていく。
35年ほど前のことだが、こんな子ども(小3・男児)がいた。
「ぼくは、遊園地は、どこへでもただで入れる」と。
そこで私が「どうして?」と聞くと、その子どもは、
こう言った。
「おとなの背中のうしろに隠れて、おとなが
中へ入るとき、スーッといっしょに中に入る」と。
そこで私が、「そんなことをしたら、お父さんやお母さんに
叱られるよ」と言うと、その子どもは、臆面もなく、
こう言った。
「だって、ママが、そうしろって、言ってるもん」と。
その子どもは、その後、I市の若手経済人として活躍したが、
つい少し前、何かの偽ブランド品販売事件にからんで、警察に
逮捕されている。
警察の調べに対して、「知らなかった」と言っているそうだが、
私は、「あっ、あのときのあの子どもだ」と思っただけで、
それ以上、言葉が出てこなかった。
で、この言葉を、もう一度。
「バカなことをする人を、バカという」。
●「お金では、心は買えない」
だれかが言った。
「お金で買った忠誠心は、お金が切れたとき、消える」と。
つまり、「お金で、忠誠心は買えない」。
小銭を稼いで、得意になっている人ほど、要注意。
昔、(今でもいるそうだが……)、アジアの中の貧しい国へ行き、
小銭をばらまいて、得意になっていた日本がいた。
ある国には、日本人が橋の上から、コインをばらまくと、子どもたちが
水に潜って、それを取るという話もあった。
「お金をあげたから、相手は感謝しているはず」、あるいは
「自分は立派な人間と評価されたはず」と思いがち。
しかし事実は、逆。
当初は感謝されても、次からは、それが当たり前になり、
さらにその次からは、相手のほうから、それを要求してくるようになる。
なぜか?
貧しい人たちは、常に金持ちをうらんでいる。
日常的に、うらんでいる。あるいはねたんでいる。
だから金銭的な援助をしても、その(うらみ)で、好意を帳消しにしてしまう。
援助の額が大きければ大きいほど、また期間が長ければ長いほど、そうなる。
「お金で人の心は買えない」というのは、そういう意味である。
●しかしこれは私自身の問題
特別に訓練をした人、あるいは訓練をしている人は別として、
人もある年齢に達すると、思考がループ状態に入る。
早い人で、20歳くらいから。
遅い人でも、40歳くらいから。
10年どころか、20年、一律のものの考え方をするようになる。
こういう現象は、久しぶりに人と会ってみると、よくわかる。
中には、「この人は、30年前のまま」と思う人もいる。
が、これは何も、他人の問題ではない。
私自身の問題である。
日々に研鑽(けんさん)あるのみ。
しかしその一方で、知識や知恵は、どんどんと消えていく。
加齢とともに、それがさらに加速される。
少し前に、私ながらの方法で計算してみたが、6年で、そのときの
記憶や知識、経験の約80%が消えると思ってよい(満55歳前後)。
たとえば2002年に蓄(たくわ)えた記憶や知識、経験のうち、
2008年まで残っているのは、約20%前後ということ。
さらに6年もすると、そのうちの約20%しか、残らない。
0・2x0・2=0・04で、約4%ということになる。
(たったの4%だぞ! 今、あなたが蓄えている記憶や知識、
経験は、12年後には4%になってしまう!)
これに(年齢)というファクターが加わるから、0・02%以下に
なるといってもよい。
さらに脳の病気が加われば、……? ゾーッ! へたをすれば、ゼロ?
では、どうするか?
人は歳をとったら、なおさら、若い人たちよりも、もっと記憶や知識、
経験を補充していかねばならない。
「私は完成された人間」と思っている人がいたら、その人は、
ほんもののバカ(失礼!)と考えてよい。
そう思った瞬間から、その人の人格、人間性は、後退する。
これは健康論に似ている。
究極の健康法などというものはない。
同じように、究極の精神論などというものはない。
釈迦だって、「精進」という言葉を使って、それを説明している。
……と言いながら、私も、そのほんもののバカに向かって、
まっしぐら!
もともと素性が、それほど、よくない。
全身が化けの皮みたい?
歳を取ると、一枚ずつ、その化けの皮がはがれてくる。
だから、こわい。
だから、これは私自身の問題。
そういうことになる。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 21日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page011.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●お願い(親類の方へ)
+++++++++++++++++
読者の方……というより、親類の
方の中には、そのつど、私や家族の
動向をさぐるために、私のHPを
のぞいている方がいます。
そればかりか、「あの浩司がこんな
ことを書いている」「あんなことを
書いている」と、連絡を取りあって
いある方がいます。
先日も、「HPで知ったのですが、
○○さんは、~~ですってね」と、
知らせてきた人がいます。
私としては、そういう行為が、たいへん
不愉快です。
風呂に入っているところを、のぞかれた
ような気分です。
HPにせよ、BLOGにせよ、公開
していますが、それは私の意見を
必要とする人のためのものです。
みなさんに、動向を連絡するために
書いているのではありません。
また内容についても、こうした
HP、BLOGの性格上、内容を
かなり変えて書いています。
親類の話でないことを、親類の
話にしてみたり、家族の話でないことを、
家族の話にしてみたりするということは、
手法として、よくすることです。
個人を特定してものを書くということは、
この世界では、たいへん危険なことです。
ですから、そうしています。
そういう記事を誤解されますと、話が
とんでもない方向に飛んでいって
しまいます。
そこでお願いです。
親類、縁者の方で、私の動向をさぐる
ために、HPやBLOGをのぞいている
方は、私のHPやBLOGへのアクセスを
どうか、ご遠慮ください。
まだご存知ない方も多いかと思いますが、
みなさんからアクセスがあると、アドレス、
アクセス回数、時間帯など、こちらで
すべて把握できるようになっています。
G県のNさん、Hさん、どうか、今後、
アクセスをご遠慮ください。
マガジンの購読もなさっておられるよう
なら、それも、どうかご遠慮ください。
私どものことは気になさらず、どうか、
ご自身のことを第一に考えて、お進み
ください。
よろしくお願いします。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【生きることは考えること】(I think, therefore I am)
Why are we here? The answer is very simple. Because we think. In other words, if we
don't think, we are the same animals which live and die there in the nature.
+++++++++++++++++
生きるということは、どういう
ことなのか?
+++++++++++++++++
私たちは生きているというよりは、
生かされているだけ?
今朝、そんなことを考えた。
たとえば「見る」ということを考えてみる。
目の前には、コナラの木がある。
淡い黄緑色の葉をつけ始めた。
水色の空を背景に、春のそよ風の中で、
やさしく揺れている……。
で、「見る」ということは、コナラの木に
反射された「光」を、目が、感受している
からにほかならない。
そこで私は、ふと考える。
「どうして空気は見えないのか」と。
「窒素や酸素は、見えないのか」と。
物理学的に言えば、空気は、光をそのまま
通してしまうから、ということになる。
が、ほんとうに、そうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。
そこで見えるということを、
こう考えなおしてみたらどうだろうか。
「もし空気を見ることができたとしたら、
人間の目は、どうなっていただろうか」と。
紫色なら紫色でもよい。
青色なら青色でもよい。
もし私たちが空気の色を見ることができた
とするなら、空気以外のものは、見えない
ことになる。
そこは紫色だけの世界。
青色だけの世界。
たとえて言うなら、土の中に住むミミズの
ようなもの。
ミミズは、土の中で、土しか見ていない。
土しか、見ることができない。
しかも光のない世界だから、そこは暗闇の
世界。
となると、ミミズの目が退化してしまった
ように、人間の目も退化してしまっていたに
ちがいない。
見えるものが空気だけでは、目としての意味はない。
が、そのままでは、困る。
空気にじゃまされて、その向こうのものが
見えないとしたら、人間は、そのつど、
種々の物体と、衝突を繰りかえすことになる。
あっちでゴツン、こっちでゴツンと……。
崖があれば、そのまま、まっさかさまに、落ちていく……。
そこで、もし、人間が空気を見ることができたとするなら、
(あるいは空気が見えるものであったとするなら)、
人間は(目)に代わるものを、進化させていたに
ちがいない。
深海に住むイルカは、超音波で、物体をさぐる
ことができるという。
あるいは、暗い洞窟に住むコウモリのようでもよい。
人間も、そういった能力を進化させたにちがいない。
しかしそうなったとするなら、今度は、コナラの木も、
ずいぶんとちがったものに見えているはず。
そこは白黒の世界?
枝は黒い影、葉はうすい影……。
つまり「見る」ということをひとつ取りあげても、
人間にたいへんつごうよく、そのように、
できるようになったにすぎないということがわかる。
「見る」と言っても、そのように見させられて
いるだけ、ということ。
で、人間は、こう思う。
「気持ちいいな」
「やはり山の緑はいい」
「とくに春先の若葉の色がいい」
「水色の空も、美しい」と。
しかしこれについても、こう言える。
「そういうふうに思うのも、実はしくまれた
感動である」と。
というのも、太古の昔、人間は、猿に近い
動物であったという。
さらにその前は、魚に近い動物であったという。
緑が美しいと思うのは、私たちが猿であった時代の
名残かもしれない。
淡い水色の空を美しいと思うのは、私たちが
魚であった時代の名残かもしれない。
猿であった時代には、私たちは森の木々に
守られて生きた。
魚であった時代には、透明な水の中で、
餌をさがしながら生きた。
それがそのまま今、(感覚)として反映されている。
反対に、不毛の砂漠を見たり、大きな火を見たり
したとき、不安になることがある。
それも、進化の過程で、つくりあげられた(感覚)
ということになる。
つまりこうして考えていくと、(生きる)といっても、
私たちは、実は(生かされているだけ)という
ことがわかってくる。
中には、「私は生きている」「自分の力で生きている」と
思っている人もいるかもしれない。
が、実は(生かされているだけ)と。
そのことは、野原で遊ぶ小鳥たちを見ればわかる。
どの小鳥も、それぞれがてんでバラバラに、
好き勝手なことをしている。
しかし小鳥は小鳥。
その(ワク)の中でしか、生きていない。
つまり、そのワクの中で、生かされているだけ。
居心地がよいから、小鳥は、野原にいる。
餌があるから、そこで遊ぶ。
人間も、またしかり。
「私は私」と思っている人も多いが、実は、
内なる命令に、従っているだけ。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で、
生かされているだけ。
食欲や生存欲、性欲については、今さら
説明するまでもない。
私たちの生活のほとんどは、そのバリエーションの
上に成り立っていると言っても過言ではない。
そこにレストランがあるのも、仕事をするのも、
また結婚するのも、そうだ。
もとを正せば、その向こうに、食欲があり、
生存欲があり、性欲があるからにほかならない。
となると、改めて、(生きる)とは何か、
考えてしまう。
あるいは(生きる)ということは、どういうことなのか、
考えてしまう。
……といっても、私の結論は、いつも同じ。
こうした(ワク)の外にあるものは何かと
問われれば、それは(考えること)に
ほかならない。
この(考える)ということだけは、だれにも
じゃまされない。
この(考える)という部分だけは、
(ワク)の外にある。
言いかえると、私たち人間は、考えることによって、
(ワク)の外に出ることができる。
(生きる)ということを、私たち自身のものとする
ことができる。
もっと端的に言えば、私たちは考えるからこそ、
人間ということになる。
裏を返していうと、考えない人というのは、
人間ではない、つまりそこらの動物と同じ
ということになる。
……というのは、少し言い過ぎということは
わかっている。
しかしこの視点を踏み外すと、では私たちは
何のために生きているか、それがわからなく
なってしまう。
あるいは「生きている」と思いこんで、
生きているだけということになってしまう。
朝起きて、毎日、同じことを繰りかえす。
そして同じように一日を終えて、床につく。
しかしそれでは、冒頭に書いたように、
ただ生かされているだけということになる。
それを避けるためのゆいいつの手段といえば、
(考えること)ということになる。
以前、「生きることは考えること」という題で、
こんな原稿を書いたことがある。
書いてから、すでに6、7年になるが、
今でも、その思いに変わりはない。
++++++++++++++++++
●生きることは、考えること
毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。
今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。
しかし新聞にものを書くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなも
の。読者の顔が見えない。反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。
中には「こんなことを書いて!」と怒っている人だっているに違いない。
私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果
てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界
でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。
よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。
女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」というこ
とは、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をど
こまでも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴー
ルには行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に
残された時間は、あまりにも少ない。
私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。
「載ってる?」と。その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお
読みくださり、ありがとうございました。」
++++++++++++++++++++++
みなさんへ、
生きているって、すばらしいことですね。
これからも、そのすばらしさを、このマガジンを
とおして、追求していきたいと思います。
今回は、「おわび号」ということで、その
「生きる」について、書いてみました。
これからも、どうか、マガジンを、お読み
ください。
++++++++++++++++++
同じような内容の原稿ですが、もう一作
添付します。
++++++++++++++++++
●雑感
六月に静岡市で講演会をもつ。私はどうしてもその講演会を、成功させたい。「成功」と
いうのは、心残りなく、自分を出しきるということ。講演をしていて、一番、つらいのは、
終わったあと、「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔すること。どこか中
途半端なまま終わること。正直に告白するが、そういう意味では、私はいまだかって、一
度とて成功したためしがない。
それに「アメリカのある学者がこう言っています」などという、いいかげんな言い方は
したくない。言うとしても、きちんと、「マイアミ大学の、T・フィールド博士はこう言っ
ています」という言い方をしたい。そのためにも、下調べをしっかりとしておきたい。
ここで「静岡市」にこだわるのは、静岡県の静岡市、つまり県庁所在地だからである。
同じ静岡県の中でも、浜松市で講演するのと、静岡市で講演するのとでは、意味が違う。
それに私の講演では、東は大井川を越えると、とたんに集まりが悪くなる。さらにその東
にある静岡市となると、もっと悪くなる。恐らく予定の半分も集まらないだろう。だから
よけいに、成功させたい。
しかし私はときどき、こう思う。講演のため、数百人もの人を前にしたときだ。「どうし
てこの私がこんなところにいるのだろう?」と。それは実におかしな気分だ。「この人たち
は、何を求めて、ここに来ているのだろう」と思うこともある。だから私は、来てくれた
人には、思いっきり、役にたつ話をすることにしている。私利私欲という言葉があるが、
講演では、「私」そのものを捨てる。かっこよくみせようとか、飾ろうという気持ちも捨て
る。こういうとき政治家だったら、自分をより高く売りつけて、票に結びつけようとする
だろう。が、私には、そういった目的もない。
よく主催の方が本を売ってくれると申し出てくれることもあるが、ほとんどのばあい、
私のほうが、それを断っている。そういう場を利用して、本を売りつけるというのは、
私のやり方ではない。
ひとつ心配なことがある。それはこの数年、体力や気力が急速に衰えてきたこと。講演
の途中で、ふと自分でも何を話しているかわからなくなるときがある。あるいは頭の中が
ボーッとしてきて、話し方そのものがいいかげんになることもある。言葉が浮かんでこな
かったり、話そうと思っていたことを忘れてしまうこともある。こうした傾向は、これか
ら先、ますます強くなるのでは……?
生きている証(あかし)として、私は講演活動をつづける。私にとって生きることは考
えること。考えるということは、書くこと。その結果として、私の意見に耳を傾けてくれ
る人がいるなら、私は自分の経験と能力を、そういう人にささげる。本当のところ、「メリ
ット」を考えても、それは、あまりない。もちろん「仕事」にはならない。しかし以前の
ように、疑問をもつことは少なくなった。
三〇代のころは、「なぜ講演をするのか」「なぜしているのか」ということを、よく考え
た。が、今は、それはない。そういうことは、ほとんど考えない。今は、やるべきこと
のひとつとして、講演活動を考えている。
どうせやがて消えてなくなる体。心。そして命。死ねば、二度と見ることもないこの世
界だが、そこに生きたという証になれば、私はそれでよい。
++++++++++++++++
●このマガジンの読者の方で、静岡市周辺に住んでおられる方がいらっしゃれば、どうか、
講演会においでください。まだ私が元気なうちに、私の話を聞いてください。一生懸命、
みなさんの子育てで役立つ話をします!
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
主催 静岡市文化振興課 電話054-246-6136
(03-1-22)記
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●情報と思考
++++++++++++++++++++
情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。
たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。
++++++++++++++++++++
もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」
という言葉が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャ
レ」と考えればよい。いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズと
か、リドルも、それに含まれる。
かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉
を動かすようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといっ
て、頭がよいということには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、
頭がよくなるということでもない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと
言えば、論理性と分析力は、一応、ひらめき思考とは、区別して考える。
そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。
中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことな
すこと、まさに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを
出したりすると、その場でスイスイと解いてみせたりする。
が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレ
がうまい子どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をか
ね備えた子どももいるが……。)
むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっ
しりとしている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。
このタイプの子どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっ
と見つめる。
もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができ
る。が、その解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。
で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな
問題が出されていた(「IQサプリ」)。
四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合
格」は、どんな紙に、どう書けばよいか、と。
四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」
と。
この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいという
ことになる。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。
「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。
こうした問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、そ
の法則性は、どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。
もちろん実益もない。
たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるよう
にすれば、それが論理性ということになる。
三角と、(あ)で、「錯覚」
四角と、(い)で、「鹿」
五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)
つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こう
した意味のないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されている
ということ。そのために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をム
ダにする。言いかえると、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知
らせしめる必要があるのかということ。
ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギ
ャーギャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに
知性を感ずる番組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。
私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、こ
の種の番組は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした
番組のもつ限界ということになる。
【補足】
●情報と思考力
もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢
さは、必ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたか
らといって、その子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる
子ということにはならない。
しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。
受験勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けて
も暮れても暗記、暗記また暗記の連続だった。
さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはな
らない。もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物
ということにはならない。
しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる
子どもから選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりする
と、先生が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。
話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。
(もちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、
欠ける子どももいる。)
そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。
情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、
その情報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組み
あわせて、実生活に応用していく。それが思考である。
これをまとめると、つぎのようになる。
(1)情報量(情報そのものの量)
(2)情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3)情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4)情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5)情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)
(1)の情報量をベースとするなら、(2)~(5)が、思考力の分野ということになる。
言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止し
てしまっている。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、
しかしその繰りかえしだけでは、意味がない。
以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえ
れば、うれしい。
++++++++++++++++++++++
●知識と思考を区別せよ!
思考と情報を混同するとき
●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に
出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」
と。
この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラ
ペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはなら
ない。算数ができるということにはならない。
●考えることには苦痛がともなう
考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。
中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こ
んな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうで
すか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでお
られる。まちがいは、ない」と。
●人間は思考するから人間
人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。
ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の
中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、
その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカ
ルのいう「人間の偉大さ」なのである。
●知識と思考は別のもの
多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。
それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠
牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、
賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。
いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭
のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう
言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。
ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。
(付記)
●教育の欠陥
日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の
本山教育である。
つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的
な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくり
が基本になっている。
戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていな
い。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教
育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横
並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメにな
る」(「コウとうけん」・九八年・田丸先生指摘)と警告している。
●低俗化する夜の番組
夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。
一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が
痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのた
め考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考
えること自体を避けようとする。
ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。
私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私
は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書く
ということには、そういう意味も含まれる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi
Hayashi education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるとい
うことは、考えること なぜ人は生きるか)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●金で買った、ノーベル平和賞
Kim ex-president of South Korea won the Nobel Peace Prize but he rather bought it
with money which was over half billion US dollars, rather than given by good people.
●今回から2600号
+++++++++++++++
今日は、2008年4月18日。
今にも雨が降り出しそうな、曇り空。
さきほど、サイクリングから帰ってきたところ。
雨を心配しながらのサイクリングだった。
湿度が高かったせいか、けっこう、汗をかいた。
ああ、たった今(11:15pm)、
ザザッと、雨が降り出した。
遠くで、雷鳴?
また雷鳴?
たしかに雷鳴だった。
おかしな天気だ。
さあ、今日から2600号。
がんばるぞ!
+++++++++++++++
●マネーで買ったノーベル賞
韓国のあの、金大中という人は、さっぱりわけがわからない。
年を経るごとに、???。
今朝の中央N報(4・18)は、こんな記事を載せている。
++++++++++++++++++++++
元国家情報院(国情院)職員のキム・ギサム氏が米国に亡命を申請していたが、米政府が
同氏の要請を受け入れたもようだ。AP通信が16日に報じた。
AP通信によると、キム氏の弁護士トーマス氏は「米ペンシルバニア州フィラデルフィア
にある移民裁判所が、キム氏の政治的亡命の申請を受け入れた」と伝えた。キム氏は20
00年に国情院を辞めた後、▽01年から国情院が、5億ドル(約500億円)にのぼる
K国への違法送金を行なったこと、▽金大中(キム・デジュン)前大統領のノーベル平和
賞受賞に向け、組織的な支援が行なわれたこと、などを暴露したことがある。(中央N報、
08年4月18日)
++++++++++++++++++++++
わかりやすく説明すると、金大中は、あのノーベル平和賞を、約500億円という大金を
使って、買ったということ。そのお金で、南北の和平ムードを演出し、その功績により(?)、
ノーベル平和賞を受賞したということ(※1)。
その当時、一方の当事者であるK国の金xxが、「どうして私はもらえないのか」と騒いだ
のを、覚えている。
で、そのことを、キム氏が暴露した。(1)南北首脳会談を実現するために、500億円と
いう大金が、使われたこと。(2)金大中のノーベル平和賞受賞に向け、組織的な支援が行
われたことなど。
が、そのため命の危険を感じたのだろう。キム氏は、そのままアメリカへ逃亡。今度の亡
命申請となった。
ところで日本の佐藤栄作も、ノーベル平和賞を受賞している。1974年のことである。
佐藤栄作は、非核三原則、ならびにアジア平和への貢献を理由として、ノーベル平和賞を
受賞している。左派系のみならず、右派系の人たちでさえ、みな首をかしげる受賞であっ
た。あるいはノーベル平和賞というのは、その程度の「賞」のことをいうのか。
で、その金大中のあとを継いだ、N大統領も、これまたおかしい。「N前大統領(75)が、
実弟のノ・ジェウ氏と、財産をめぐって激しい争いを繰り広げている」(※2)(朝鮮N報)
というのだ。
しかも現在、「オリーブ橋小脳萎縮症という難病を患い、国軍ソウル地区病院に入院してい
るが、病状はかなり重い」(同)という。
「オリーブ橋小脳萎縮症」というのも聞き慣れない病名である。ウィキペディア百科事典
には、つぎのようにある。
「孤発性の脊髄小脳変性症の代表的な疾患です.脊髄小脳変性症とは,運動失調を主症状
とする神経変性疾患の総称です.ここには臨床症状や、病理所見、原因遺伝子の異なる数
多くの疾患が含まれています。原因からは,遺伝性のものと,孤発性(非遺伝性)のもの
に大きく分けられます.感染性の疾患ではありません」(以上、ウィキペディア百科事典よ
り)。
症状としては、つぎのようなものがあるとか。
(1)運動失調を主症状とする。立ったときふらつくなど。
(2)手の動作時の震え。思ったように字が書けないなど
(3)ろれつが回らない。音と音がつながってしまう。
(4)パーキンソン病に似た症状。
(5)排尿障害などの自律神経失調症など。
オリーブ橋小脳萎縮症にかかると、約8年で、ほとんどの人が、補助具なしでの歩行がで
きなくなるとか。さらに夜間の呼吸困難や感染症で、突然死することも多いとか(以上、
ウィキペディア百科事典)。
しかし大統領を退官して、まだ2、3か月もたっていない。本当に人の運命というのは、
わからないものだ。
+++++++++++++++参考+++++++++++++++++
(注※1)「雰囲気及びインフラ造成」の項目では、「金大中アピール及び、イメージメー
キング」、「南アフリカのマンデラ元大統領、フィリピンのアキノ元大統領、米国のカータ
ー元大統領、アウンサンスーチー氏など、世界の著名人との交流拡大」などを提案し、「業
績及び名分を作る」ため、「南北関係の画期的な改善、北朝鮮の子供を援助するためのチャ
リティーコンサート、ビルマやインドネシアなどでの民主化闘争を支援」などを提案した。
特に、「交渉及び攻略」の項目では、「ノーベル平和賞選定5人委員会、スウェーデン・
アカデミー、ノルウェー国会が主な攻略対象」とし、「5人の選定委員に対して、最少3人
ずつマンツーマン式の接近」と「韓国企業のノーベルスポンサーシップ資格の維持」、「(ス
ウェーデン)エリックソン社のアカデミーへの影響力を活用」などを提案した。
また、崔圭善・元副社長は『M-プロジェクト』をまとめる以前の1998年4月、国連のア
ナン事務総長と親しい関係の国際弁護士、アルマンソル氏とノーベル賞受賞のコンサルテ
ィング契約を締結し、「『国連人権賞』など、世界的な人権賞3~4コを事前に受賞すること」
という勧告を受けたとされる。
金大統領は1996年6月7日、ニューヨークで国連人権賞を受賞し、1999年6月15日には、
ソウルで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)子供を支援するためのマイケル・ジャクソンのコ
ンサートが開かれた。崔圭善・元副社長は金大統領のルーズベルト人権賞の受賞を推進す
る上で、1999年4月2日、朴智元(パク・チウォン)公報首席に推進過程を報告する書簡を
送っている。
また、アルマンソル博士が崔圭善・元副社長に送った手紙には、マンデラ元大統領との
交渉と関連し、「(金大中)大統領の息子が(米国の)南アフリカ共和国の領事館で詳細な内容を
伝達した」と書かれていたことが分った。ニュースウィーク誌は、この大統領の息子は金
弘傑(キム・ホンゴル)氏であると報じた。(以上、朝鮮N報・2002年10月9日付けよ
り。)
++++++++++++++++
(注※2)盧泰愚(ノ・テウ)元大統領(75)が、実弟のノ・ジェウ氏と、財産をめぐっ
て激しい争いを繰り広げている。
在職中に5000億ウォン(現在約519億500万円)台の裏金をプールしたとして、
1997年に2629億ウォン(約272億9200万円)の追徴金を科された盧元大統
領は、「弟に預けた裏金を返してもらい、まだ納めていない追徴金(約343億ウォン=約
35億6100万円)を納める」と主張している。
だが、盧元大統領が追徴金を全額納めていないからといって、親族が代わりに納めてい
るわけでもないにもかかわらず、盧元大統領が実弟を相手取って裁判まで起こしているの
は、何か別の理由があるからではないかという見方も出ている。盧元大統領は現在、難病
を患って寝たきりの状態にあり、とても裁判を起こせるような状態ではないからだ。
盧元大統領は現在、「オリーブ橋小脳萎縮症」という難病を患い、国軍ソウル地区病院に
入院しているが、病状はかなり重いという。オリーブ橋小脳萎縮症は小脳が次第に小さく
なる病気で、言語障害、手足の運動障害、目まいなどを伴う。(以上、朝鮮N報・4月18
日付けより)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 19日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
【謹告】まぐまぐプレミアの購読料は、06年10月から、月額300円になります。
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page010.html
★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【母子分離不安について】
++++++++++++++++++
O市のGさん(30歳・母親)から、満1歳4か月に
なる子ども(男児)の、分離不安についての相談が
あった。
掲載許可をもらえたので、まず、それをそのまま
紹介させてもらう。
++++++++++++++++++
【Gさんより、はやし浩司へ】
突然のご相談で失礼いたします。(メルマガ等は一切購読しない方針のため、申し訳ござい
ません。ホームページは普段よりよく拝見し、子育てに際し何より参考にさせていただい
ております。)
私共の長男(1歳4ヶ月)の分離不安のことで悩んでおります。
我が家は長男が誕生して以来、私が在宅勤務という形態での、一応の共働き家庭です。こ
の4月からは出勤を視野に入れ、長男を保育園に預けることとなりました。それまでは実
は私の仕事の都合上、私の実家で母子が生活し、主人は週に何度か通ってくる生活が1年
以上続いていました。ですので、長男にとっては現在の自宅は何度か訪れたことのある家
に引越しをしたような状況です。そこへ加え、初めての集団保育ということになりました。
先週(4月第2週)から、午前のみの慣らし保育がはじまりました。案の定、本人の受け
たショックは相当なものだったようです。毎朝泣くのはもちろんですが、まもなく、家の
中でもちょっと私の姿が見えないと、たとえ私が声をかけながらでも、火がついたように
泣き出すようになりました。
それくらいなら致し方ないかとも思うのですが、しだいに寝てもさめても常に情緒不安定
のような状態が続き、よく寝る子だったのに近頃は昼夜を問わず睡眠中も突然泣き出して
収まらないことが増えました。
つい先々週までは天真爛漫でやんちゃだけがとりえのような子供だったのに、人への警戒
心が顕著になり、笑顔が減り、すぐに私に抱きついてくるようになりました。私に対して
も、これまでは何かできると得意げに笑顔でアピールしてきたのに、それも明らかに減っ
てしまいました。
実は風邪をもらってきてしまったこともあり、今週頭から保育園は欠席し、母子密着して
いました。すると多少は元気を取り戻した気もするのですが、やはり以前の彼とは違って
しまっています。主人は「それは一過性。誰しも経験することで、それがたとえ半年先で
も同じこと。慣れるもの。だったら今、ほかの子と足並みそろえさせてやるのが一番。欠
席させたら彼がかわいそう」と考えているようですが、私にはこのまま彼の何か大事な部
分が失われてしまうようで悲しく、不安がつのります。
はやし先生の「子どもを考える」等、いくつか分離不安について触れた記事を拝読し、ま
すます悩んでいます。ことの次第によっては、私の仕事を見直して保育園は見合わせもい
いと思っていますが、取り越し苦労でしょうか。またそうしたところで天真爛漫で無邪気
だった彼が取り戻せるのか、アドバイスいただけませんでしょうか。よろしくお願い申し
上げます。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【はやし浩司より、Gさんへ】
まず、いくつかの参考となる資料を添付します。
+++++++++++++
【参考(1)】
●子どもが分離不安になるとき
●親子のきずなに感動した!?
ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られた
コラムニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(3歳)をはじめて幼稚園へ連れてい
ったときのこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、
親子の絆の深さに感動した」と。
そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動した
と言うのだ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさし
く分離不安の症状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。
●分離不安は不安発作
分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。
大声をあげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオド
するタイプ(マイナス型)に分けて考える。
似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、
それはともかくも、分離不安の子どもは多い。4~6歳児についていうなら、15~2
0人に1人くらいの割合で経験する。
親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、親の姿が見えな
くなったとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりす
る。
●過去に何らかの事件
原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そ
のきっかけとなった事件が、過去にあるのがわかる。
はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で入院したことや、置き去り、迷子を
経験して、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、
下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。
子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考
えるとわかりやすい。無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。
表面的な症状だけを見て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考え
る人もいるが、無理をすればかえって症状をこじらせてしまう。
いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくするとやがて静かに
収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」のである。一
度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰
り返し症状が表れる。
●鉄則は無理をしない
こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくてい
ねいに説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、
そういう親子を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、
怒ったりしているのがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。
こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想を
もつようになる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。
分離不安は4~5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いた
ように、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫
の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形
を変えて、おとなになってからも症状が表れることがある。
(付記)
●分離不安は小児うつ病?
子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つ
ながりを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期
に始まる。そしてさらに3歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、
この時期に、母子の間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安
を起こすと考えられている(クラウスほか)。
小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発熱、情緒不安
症状、さらには神経症による諸症状を示すこともある。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【参考資料(2)】
子どもの心が不安定になるとき
●情緒が不安定な子ども
子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育
の発達度、それに(4)運動能力。
このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断す
る。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無
口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)が
なければ、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」
とは言わない。「眠い」と言う。
子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れに
たいへん弱い。それこそ日中、五~一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れて
しまう。
●情緒不安とは……?
外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二~四歳
の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。
その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を
許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。そ
の緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校
を起こしたり(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりす
る(プラス型)。
表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもい
る。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノの
レッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長
女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴
えることもある。
●原因の多くは異常な体験
原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親
自身の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家
庭騒動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、
祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向(人と心が通い合わない状態)を示すよう
になった。また別の子ども(三歳男児)は、母親が入院している間、祖母に預けられたこ
とが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態になる)になってしまった。
ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体
の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指し
ゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、
強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜
尿症、頻尿症など。
●原因は、家庭に!
子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。し
かしまず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過
関心(子どもの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、
愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内
でなされているなら、子どもにはそれほど大きな影響を与えない。が、そのワクを越える
と、大きな影響を与える。子どもは愛情の変化には、とくに敏感に反応する。
子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でな
ければならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七~六二)も、『ビロードのクッショ
ンの上より、カボチャの頭』と書いている。人というのは、高価なビロードのクッション
の上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが気が休まるという意味だが、多くの
母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。
学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉
強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だったの」「こ
んなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。
●子どもの情緒を安定させるために
子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大
切にする。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法
は、子どもがひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもて
るようにすること。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。
ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然
の精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠
剤で与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言
うまでもない。
なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。
親があせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。ま
た一度不安定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしない
ことだけを考えながら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。
(参考)
●子どもの神経症について
心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子ど
もの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。
(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫
症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理
由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言
ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすること
もある。
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、
便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般
的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での
神経症を黄信号ととらえて警戒する。
(2)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、
無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こ
るようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【参考資料(3)】
子どもの情緒不安
●原因は家庭に ●神経症の原因になることが多い
子どもの情緒の安定度は、子どもが体力的に疲れていると思われるときをみると、わか
る。たとえば運動会や遠足のあとなど。そういうときでも、不安定症状(ぐずり、ふさ
ぎ、イライラなどの精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもとみる。あるいは
子どもは寝起きをみる。不機嫌なら不機嫌でも構わないが、毎朝様子が同じというので
あれば、やはり情緒が安定した子どもとみる。
子どもは二~四歳の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に動揺しやすいことがわか
っている。経験的には、乳幼児から少年少女期への移行期にあたる満四~五歳、および小
学二~四年生にかけて不安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人
もいる。
情緒が不安定な子どもは、心がいつも緊張状態にある。外見にだまされてはいけない。
柔和な表情を浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、よくある。
このタイプの子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。
そういう状態の中に、不安や心配ごとが入り込むと、それらを解消しようと、一挙に緊張
感が高まり、情緒が不安定になる。
症状としては、(1)攻撃的、暴力的になるプラス型と、(2)周囲に溶け込めず、ひき
こもったり、怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型にわけて考える。プラス型は、
ささいなことで激怒したり、さらに症状が進むと集団的な非行行動をとったりする。マ
イナス型は慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多い。
原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や
家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。
子どもが情緒不安症状を示すと、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原
因の第一は、家庭にあると考えて反省する。過干渉、過関心、過負担、過剰期待など。心
を束縛しているものがあれば、解きほぐす。一番よいのは、子どもの側から見て、親の存
在を感じさせないほどまでに、子どもが一人になれる時間と場所を用意すること。あれこ
れ気をつかうのは、かえって逆効果。あとはスキンシップを多くして、温かい家庭作りに
努める。
なお一般的には、情緒不安は神経症の原因となることが多い。強迫傾向、潔癖症、嫌悪
症、緩慢行動、恐怖症、虚言癖、収集癖、夜尿症など。症状は千差万別で定型はない。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【参考資料(4)】
●子どもの情緒
【SSさんより、はやし浩司へ】
「先生、ご無沙汰しております。
以前、四歳の息子のかん黙について相談させていただきました岐阜のSSです。
現在は五歳六か月になりました。
その後、保母に「言ってごらん」等の声かけをやめてもらったところ、たった三日で彼に
笑顔が戻り、保育園へ行かないというのも治りました。
しかし、慣れるとまたしゃべらそうとしたりの繰り返しで、なかなかうまくいきません。
一度ぽつりとしゃべったのを聞いたパートの先生がうれしくて、「もっと聞かせてよ」とい
う具合に朝夕のあいさつを強要し、おかげでまた、登園拒否になってしまいました。
先月、口唇裂の修正手術のために二週間入院したのですが、そのことを保母が、ほかの子
どもたちに伝えたところ、「しゃべれるようになる?」と聞かれ、「そうかもよ」と言い、
子どもたちは「手術をしたらしゃべれる」という認識となったようです。
本人もです。「手術したらしゃべれるようになるよね!」と張り切っていました。
構造的なことと精神的なものは関係ありません。もともと発語について構造的な問題はあ
りません。本人が「しゃべれる」という気持ちになって、本当に他の人としゃべれたら本
当にうれしいことです。
でも、逆のことを考えたら・・・。
術後、「まだしゃべられないよ」、しばらくして「テープが取れたらしゃべれるよ」と。
抜糸も終わった今はもう、このことにはふれません。
でも、保育園へ行くと私も子どもたちに「しゃべれるようになった?」と聞かれるので、
本人もきっと聞かれているのだろうと思います。
三歳までの間に一〇回以上の入院(完全看護)を経験しているので、母子分離不安が強く、
風邪、入院、冬休みと続き、「保育所へ行かない!」と、かなりの抵抗をするようになりま
した。
毎朝、布団から出ない、服を着せる→脱ぐ、カバンの中身を出して投げる→入れるの繰り
かえしを、一時間から二時間ほど、母子で行います。もちろん食事なんて取れません。
やってるうちに私も悲しくなり泣いたり、怒ったり。
だんだん手を上げるまでの時間も短くなってきています。
ここまでして保育園に連れて行く理由を探しても見つからないのですが、保育園に行って、
私の姿が見えなくなると朝の準備もできるし、保育園での生活も楽しんでいるそうです。
今日は服も首を通しただけの状態で、裸足で連れて行きました。
見えなければ見えないで楽しくできるのならば、一度休ませたらクセになる・・・と思っ
て、何とかやっていますが、毎朝保育所から一人で帰宅すると、ものすごい疲労感と脱力
感に教われます。
いつまでつづくのか、これで本当にいいのだろうか?
以上のことを保母と懇談などで話をしても「過保護な親」のレッテルを貼られていますの
で、言えば言うほど悪い方へ向いているようです。
子どもがどうこうよりも、見えない障害を解ってもらえない、障害をもっているお子さん
をお持ちの母親どうしでも、「親としゃべれるだけ、いいじゃない」と相談も聞いてもらえ
ない。
自分自身の心の余裕の問題のような気がします。
「待つ」ことができなくなってきました。
保育園が悪いわけではなく、私と離れるのが保育園だけなので、母子分離不安だと思いま
す。
ほか、通院や母子通園などは、自分から起きてきて、着替えもちゃんとできます。
公立の保育園をやめ、最初からやり直した方がいいのでしょうか?
強制的に分離されていたあの頃の時間に立ち戻って、徐々に手を離していく。
それも必要なのかと思ったりします。
「生きてるだけでいいじゃない」と思っていたあの頃。
病院を出て、健常者の社会で生きていくためにはそれだけではいけないようです。
精神面が置き去りのまま、就学まであと一年という中で頑張っています。
「お母さんがいなくても、全然平気でしたよ」と、保母さんは言います。
本当に平気なのだろうか。見えなくなって気持ちの切り替えがちゃんとできているのなら、
保育園をやめないほうがいいし、無理にでも連れて行けばいい。
どっちつかずの態度が一番悪いと知りつつも、迷ってばかりの毎日です。
何かアドバイスを頂けたらと思い、メールしました。
どうぞよろしくご指導ください。」
(岐阜市SSより)
++++++++++++++++++++++++++++
【はやし浩司より、SSさんへ】
メール、ありがとうございました。
以前いただいたメールはさておき、ここではかん黙症と分離不安を中心に考えていきま
す。少しSSさんの相談の件とは離れますが、お許しください。
かん黙も含めて、「ふつうでない(何も、どこかにふつうがあるわけではないのですが…
…)症状」を子どもが見せても、まず第一に、子どもには、その自覚はないということで
す。自分を客観的に見ることができないからです。だから「しゃべりなさい」「どうしてし
ゃべらないの」「ほかの子は、みんなしゃべっているでしょ」式の言い方をしても、無意味
だということです。
しかしもうすぐ、子どもに自意識が育ってきます。自分の姿を、客観的に見ることがで
きる能力と言ってもよいでしょう。だいたい小学三、四年生ごろだと思ってください。そ
のころになると、自分と他人の違いを、自分で判断できるようになります。「ぼくは、ほか
の子と違うぞ」「こんなことをしていると、損をするぞ」とです。
そういう自意識が育ってくると、自分で自分をコントロールするようになります。そう
なると、この種の心の問題は、急速に改善します。ほとんどのかん黙症の子どもが、この
時期を境に、症状が消えるのは、そのためです。ただ、情緒不安症状(心の緊張感が取れ
ない、取りにくい、緊張しやすい)は、そのまま残ります。しかしこれは多かれ少なかれ、
だれにでもあることで、しかたのないことですね。
問題は、今、そういう症状があることではなく、この時期、あれこれ無理をして、症状
をこじらせてしまうことです。かん黙児(こう診断名をつけることは許されませんが、一
般論として)のばあい、自信喪失になったり、かん黙とは別の失語症になったりすること
もあります。ですから今は、こじらせないことだけを考えて、気楽に構えてください。こ
こに書きましたように、時期がくればなおります。そしてその時期まで、あと三、四年で
す。
そんなわけで、今、「あなたはおかしい」式のラベルを張らないこと。子どもに、わから
せないことです。残念ながら、保育園では、ほかの子どもたちが、「しゃべれるようになる?」
とか、勝手に騒いでいるようですが、これは、少しまずいですね。保育園でも話題にしな
いよう、つまり無視してくれるよう、保母さんに話してみられてはいかがでしょうか。
育児は、そうでなくても、たいへんな重労働です。「ものすごい疲労感と脱力感に教われ
ます」というのは、何もSSさんだけのことではありません。いろいろな調査によっても、
約七〇%強の母親たちが、そう感じています。つまり育児というのは、もともとそういう
ものだという前提でつきあうしかないようです。
で、かん黙にせよ、分離不安にせよ、ポイントは、いかにして子どもの心の緊張感をと
るかということです。それには、まず子どもを絶対的な安心感、全幅的な愛情で包むこと
です。「絶対的」というのは、子どもの側からみて、「不安や疑いをいだかない」という意
味です。最近の研究では、こうした子どもの情緒の問題は、生後まもなくから乳児期の、
親の接し方のどこかに問題があったからということがわかってきました(イギリス、ボウ
ルビー、ケンネルほか)。しかし過去をとやかく言っても、はじまりません。
今もそうで、子どもに示す愛情の質、とくにスキンシップの質を高めます。濃厚なスキ
ンシップが効果的なことは言うまでもありません。多少の抱きグセがつくかもしれません
が、子どもが望む間は、手をつなぐ、抱っこしてあげる、添い寝をしてあげるなど、その
つどスキンシップを農耕にしてください。
中に「依存心がつくからダメだ」という人もいますが、スキンシップと依存心は関係あ
りません。むしろスキンシップを繰りかえすことにより、ストレスが多いと出るホルモ
ンが、抑制されることがわかっています(マイアミ大学、T・フィールド博士ら)。さら
にサイレントベビーの名づけ親である、柳沢さとし氏は、こう述べています。
「母親たちは、添い寝やおんぶをしなくなった。抱きグセがつくからよくないという誤
解も根強い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読
売新聞)と。
概してみても、日本人は、スキンシップの少ない民族です。ですからSSさんが、思い
切ってスキンシップを多くしても、国際標準からは、まだほど遠いほど少ないとみてよい
のです。遠慮せず、お子さんを抱きなさい。今しかないですよ。子どもの肌のぬくもりを
感ずることができるのは!
「健常者」という言葉は、いやですね。日本人がアメリカ人を見て、「ガイジン」という
のに似ています。
私の長男は、今、知的な障害者のある人たちが集まって運営する会社で、指導者として
の仕事をしています。彼が自ら選んだ仕事ですが、「みんな、まじめな人たちばかりだ。一
日だって、休む人はいない」と言っています。まじめにまさる美徳はありませんね。長男
は、障害のある人たちに、むしろいろいろなことを教えられているようです。
つまりですね、今日があり、明日があるように、一〇年後にも、二〇年後にも、「今日」
はあります。まったく今と同じような「今日」があります。ですから、恐れないで、必
要以上に心配しないで、前に進んでください。世間の人たちは、決して冷たい人ばかり
ではないですよ。このマガジンを読んでいる読者の方々みな、(多分)、SSさんの味方
ですよ。みんなが、あなたのお子さんを守ります。またそういう社会を作ります。みん
なで、めざそうではありませんか! 心豊かな、弱者に温かい社会を、です!
今日は今日で、やるべきことをやりましょう。懸命に、です。虚脱感や脱力感を覚えた
ら、「よくやった」と自分で自分をほめてあげましょう。それでいいのです。「これでいい
のか?」と迷ったら、すかさず、「やるべきことはやった」と自分をなぐさめます。私はい
つもそうしています。だって、先のことを悩んでも、しかたないですよね。どうせ生きて
いかなければならないのですから……。
あまりよい回答になっていないかもしれませんが、もしまだマガジンをお読みでないよ
うでしたら、ぜひ、ご購読ください。無料です。申し込みは、「はやし浩司のホームページ」
から、「マガジンコーナー」へ。どうぞおいでください。
なお、勝手にメールを転載させていただくことにしましたが、どうかご了解ください。
一月二六日号に掲載させていただく予定です。つごうの悪いところがあれば、至急、お知
らせください。改めます。
(03-1-18)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【参考資料(5)】
【Q4】私(母親)が、家計を支えるため、仕事に出ることになりました。子どもがまだ
2歳と1歳なので、このまま家をあけるようになって、よいものかどうか悩んでいます。
子どもと接する時間が少なくなりますが、とくに注意したらよいことはどんなことでしょ
うか。私が仕事をしている間、私の父と母が、子どものめんどうをみてくれることになっ
ています。
【A、はやし浩司より】
親子のふれあいは、量ではなく、質の問題です。量が多いからよいということにもなり
ません。また少ないから、心配ということにもなりません。以前書いた、二つの原稿を、
どうか参考にしてください。
+++++++++++++++++++++++
●愛情は、量ではなく、質
スキンシップについて、どの程度が適量なのかという具体的な調査はない。ないが、全
体としてみると、日本人は欧米の人とくらべても、極端に少ない。親子のみならず、夫婦、
友人の間でも少ない。日本人は肌を合わせるということについて、独特の文化をもってい
て、それがこうした違いを生みだしたとも言える。
ただこういうことは言える。スキンシップは量ではなく、質の問題である、と。こんな
ことがあった。その子ども(年長男児)の家庭は、母親の言葉を借りるなら、「擬似母子家
庭」。父親は仕事が忙しく、子どもと接する時間がほとんどなかった。が、その子どもには、
母子家庭の子どもに見られるような心のゆがみがほとんどなかった。で、ある日、私は母
親にその秘訣を聞いてみた。すると母親はこう教えてくれた。「夫は日曜日になると、子ど
もをいつも抱いています。またたまに朝や夜、顔をあわせるときがあると、夫は子どもを
腕に寄せ、力いっぱい抱いています」と。
もちろんベタベタのスキンシップがよいわけではない。ときどき一日中ペットの犬を胸
に抱いている人を見かける。あのタイプの人は犬をかわいがっているというより、自分自
身の情緒的欠陥を「抱く」という行為で補っているに過ぎない。こういうのを代償的行為
というが、子どもの爪かみ、指しゃぶりと同じに考えてよい。もっとも相手が犬というペ
ットなら、それほど弊害はないが、子どもだと、その弊害は子どもに表れる。精神や情緒
の発育そのものが遅れることもある。
子どもをどの程度抱けばよいかという質問はよくある。しかしここにも書いたように、
スキンシップは質の問題。抱く側が、「愛していますよ」「安心していいのよ」という明確
な意思をもって抱くようにすればよい。またそういう意思を表示するためのスキンシップ
であれば、回数は多くてもかまわない。
なおこのスキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。「人知を超えた」というの
も、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、私はその不思議な力に驚かされることがし
ばしばある。そんなことも考えながら、子どもへのスキンシップを考えるとよい。
+++++++++++++++++++++++
●ある母親の相談
今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかな
くて、困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが
寝てから、仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。
しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少な
いからだと、この母親は言う。これが誤解の第一。
ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。
その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「う
ちは疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子ど
もには、心のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞
くと、こう話してくれた。
「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。
そして休みの日などは、いつもベタベタしています」と。
要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的
な安心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだか
ないという意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。
で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。
「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ
体を起こして逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを
見せて、抱っこしようとするのですが、それでも、うまくいきません」と。
●心を開く
ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かも
しれないが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の
関係を思い浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開
きあっているときは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないと
きは、男の側からみると、何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたい
へん悪い。
子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベ
ッタリと親に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓
の鼓動のリズムまで同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感
に包まれていると考えてよい。もちろん情緒も安定している。
が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていく
というのであれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、
子どもが心を開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのでは
ない。父親のほうにある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。
もっとはっきり言えば、父親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだ
け。
●原因は父親の幼児期に
このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。
しかし一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、
父親自身が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。
そういう意味で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケ
ースは、その親の親が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。
A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にま
でなった人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が
一番、ついで父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口
答えするなどということは、考えられなかったという。
そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということな
どということは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」
という意味すら理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なも
のの考え方にどっぷりとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要で
ではないでしょうか」などと、私に言ったりした。
たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」
を考えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。
だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権
威を認めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は
家事はもちろんのこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子ども
の運動会や遊戯会、さらには父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏
の体にしみこんだ「質」のようなものだった。「父親がそんなことするものではない」とい
う意識があったのかもしれない。いや、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の
中になかった。
●親像がない?
これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親
とみてよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の
親たちは、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てな
どかまっているヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、
親像がないため、どうしても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形
で親像が入っている親は、これまた自然な形で子育てができる。)
こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自
身が、子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここ
に書いたように、心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かっ
て」とか、「私は親だ」という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざし
てしまう。
……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもっ
ている土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では
明日から、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。
私もその母親と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろう
な」と思った。ただ最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話を
してください」と。
+++++++++++++++++++++++++
お子さんは2歳のお子さんについては、人見知りの時期も過ぎているので、心配はない
と思います。しかし、1歳のお子さんについては、私はまだ、母親の温もりが重要な時期
だと思いますので、働きに行くにしても、慎重にしたらよいかと思います。WHOも認め
ているように、満2歳までは、親が、親の手で子どもを育てるのが望ましいことは、言う
までもありません。
そこでどうしても働きに行くということであれば、子どもの側からみて、絶対的な安心
感を覚えられるような環境づくりを大切にします。「絶対的」というのは、「疑いを抱かな
い」という意味です。安定した、穏やかな家庭環境を何よりも大切にします。あなたの夫
や、両親の理解が、不可欠なことは言うまでもありません。コツは、「母親が急にいなくな
った」というような不安感を、子どもに与えないようにすることです。
子どもが不安にならなければよいのですが、無理をすれば、母子分離不安になったり、
それが原因で、将来にわたって、「基底不安」を、子どもが覚えるようになるかもしれませ
ん。そういう心配はあります。
(基底不安の状態になると、生きザマのあらゆる部分で、不安を覚えるようになります。
何をしても、何をしていても、不安、という状態です。それこそ、せっかくの休日に、
旅行に行っても、その旅行先で、休み明けの仕事のことを、不安に思ったりする、など。
そういう人は、多いですよ。)
これ以上のことは私には言えませんので、ご家族の方と、よく話しあってみてください。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【参考資料(6)】
【YKさんの相談より】
今年から、幼稚園へ通うようになりました。現在、三歳です。毎日のように、幼稚園へ
行きたくないと、ぐずります。「ママといっしょにいたい」と言います。以前は、泣きなが
ら幼稚園へ行きましたが、今は、やっと泣かなくなりました。外の世界では、思ったこと
も、言えなく、がまんしてしまうので、それではないかと思います。見ていると、それな
りに友だちと、遊んではいますが……。どのように接したらよいのか、私自身もわからな
くなりました。
【はやし浩司より、KYさんへ】
こういう相談では、最悪のケースから考えていきます。それはドクターの診断に似てい
ます。「この病気か? でないとするなら、この病気か?」とです。
KYさんのケースでは、いくつか、疑われます。思いついたままですが、たとえば、(1)
母子分離不安、(2)対人(集団)恐怖症、(3)強迫症など。下にお子さんがいるなら、(4)
赤ちゃんがえりによる、情緒不安や、神経症なども疑ってみます。
いただいた文面だけでは、何とも判断しかねますが、よい方向に向っているのは事実の
ようですから、(1)無理をしない、(2)質の高い愛情表現、(3)食生活の改善、(4)
暖かい無視を組み合わせて、対処します。
「無理をしない」というのは、お子さんの心を大切に、という意味です。心理学(カウ
ンセリング)の世界でも、(1)自己一致、(2)肯定的尊重、(3)共感を大切にします。
しかしこれは同時に、子育ての世界でも、そのまま応用できます。
自己一致……要するに、お子さんをだますためのウソは言わないということ。「幼稚園へ
行かないと、先生に怒られる」式のおどしがよくないことは、言うまでもありません。
肯定的尊重……よき聞き役になれということです。そしてお子さんが何を言っても、「そ
うね」「ママもそう思うわ」と、お子さんの心をくみあげてやります。
共感……お子さんの立場で、考えてあげるということです。「幼稚園へ行きなさい!」と
突き放すのではなく、「毎日、たいへんね」と、ねぎらってあげます。
つぎに「質の高い愛情表現」ですが、お子さんが求めてきたときには、濃密なスキンシ
ップでこたえてあげます。ぐいと力強く抱くなどが、効果的です。お子さんに、安心感を
覚えさせるようにするのが、コツです。
「食生活の改善」は、お子さんの心がどこか不安定になったら、CA、MGの多い食生
活にこころがけます。海産物、魚類がよいことは、言うまでもありません。同時に、甘い
食品を一掃します。
最後に「暖かい無視」ですが、幼稚園から帰ってきたら、こまごまとしたことは言わな
いで、お子さんの側から見て、くつろげる家庭環境を用意します。とくに神経疲れを起こ
しているようなら、家の中では、ゆるめます。多少生活態度がぞんざいになっても、「ああ、
うちの子は、外の世界でがんばっている」と思いなおすようにします。
ここに「神経症のチェックシート」を同封しておきますので、一度、家庭で、自己診断
してみてください。得点が平均点より、高いようでしたら、ここに書いたことを参考にし
てみてください。しかし平均点より下ということであれば、今のところ、心の問題はない
ものと思われますから、お子さんを暖かく見守る程度で、よいかと思います。
いくつか参考にしていただけそうな原稿を、ここにはりつけておきます。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【参考資料(7)】
【掲示板の投稿より】
息子が、小学校に入学してからそろそろ2ヶ月になりますが、ひとりで(友達がいても)、
私が玄関まで送っていかないと、学校へ行けません。
玄関で私の手を握ってなかなか離れないこともあります。しばらくは仕方ない事と思って
続けてきましたが、まわりの子供たち(同級生)が、羨(うらや)ましがっています。
今朝、玄関で同じクラスの子が、「ウチのお母さんは来ないもん」と言って、玄関の戸を
押さえ、私を外へ出さないようにしていました。
もう一人の子がそれをやめさせようとして、その子とケンカになりそうになったんです。
長女は「ママ早く来て」と泣きそうな顔で見ていました。このまま私が付いていけば、友
達とも仲良くできなくなるのでは?と。でもいっしょに行かなければ学校へは行けないし、
どうすればいいのか困っています(Yより)。
+++++++++++++++++++++++++
【はやし浩司より】
軽い母子分離不安かと思われます。無理をしてもいけないので、自然体で、対処するし
かないようです。
ただ相談の内容とは別に、私には、ほほえましい光景が浮かんできます。「うちの息子た
ちもそうだったなあ」と、です。
「ああいう楽しいときは、どこへ消えてしまったのだろう?」と思うときさえあります。
そのときは、何かと問題があるように思われ、あれこれ四苦八苦したものですが、子育て
も終わってみると、そういう光景が、たまらなく、いとおしく思われてきます。
母親として、負担が大きいようであれば、少しずつ手を抜いていくという方法もありま
すし、まあ、あまりおおげさに考えないほうが、よいのではないかと思います。
子どもが学校へ入学すると、親も、何かにつけ神経質になります。今のあなたが、そう
かもしれませんが、少し、子どもから目をそらすということも考えてみてください。あま
り深く意味を考えないで、それが儀式になっているなら、そのままつづけても、さほど、
問題はありません。
私も職場に行くときは、必ず、ワイフが玄関先まで出てきます。夫妻分離不安?……と
いうより習慣的な儀式になっています。今では、ほとんど意味はありません。たまにワイ
フが玄関先まで出てこないときもありますが、そういうときは、多少、気分が落ちつかな
いということはあります。
しかし外へ出て数分もしれば、忘れます。
今は、そういう楽しい思い出をたくさん充電しておいてください。ついでに写真でもと
ってあげたらいいですよ。やがて、生意気な子どもになりますから、そのとき、「あなたね、
偉そうなことを言うけど、1年生のとき、ママのそばから離れなかったのよ」とか何とか、
言って、そのとき、からかってあげなさい。
私の書いた原稿を、1作、添付します。
++++++++++++++++++++++++++
●子どもが巣立つとき
階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。
男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。
そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体
力がないため、落とされそうだから」と。
その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子ど
もというよりは、対等の人間として見るようになった。
その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。
そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。
その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。
うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落
ちた。
何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。
そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。その「何
でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「い
いなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声を
かけたくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなく
なった。「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。
問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、
その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労し
ているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。
++++++++++++++++++++++
あなたも、今をもっと、楽しんでください。子育ては、すばらしいですよ!!
では!
++++++++++++++++++++++
【参考資料(8)】
【子どもを愛せない親たち】
その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。
なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。
一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。
乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5~7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。
ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。
子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。
「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。
で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。
そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。
子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。
では、どうするか?
子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。
問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。
しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。
この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。
【この時期の乳児への対処のし方】
母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。
(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。
とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【はやし浩司より、O市のGさんへ】
以上、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選んでみました。どうか、参考にしてく
ださい。
この中にも書いたように、母子分離不安を、(1)小児うつ病の一様態ととらえる学者も
います。ですから、けっして、安易に考えないこと。「集団に慣れさせること」で、「治る」
というような問題ではありません。
無理に集団生活の中に放り込めば、表面的には、症状は消えたかのように見えますが、「消
えた」のではなく、「潜った」とみます。また場面が変われば再発しますし、とても残念な
ことですが、「根」は、生涯にわたって残ります。
さらに対処のし方が悪いと、一義的には、神経症などの諸症状、かんしゃく発作、さら
には情緒不安、情緒障害の引き金を引くこともあります。くりかえしますが、決して、安
易に考えてはいけません。満1歳4か月という年齢は、そういう年齢です。
(一般的には、満1歳半~2歳までが、とくに重要な時期と言われています。「後追い、
人見知り」についても、生後半年前後から、満1歳半前後までつづくことが知られていま
す。この時期、乳幼児は、濃密な母子関係を通して、基本的信頼関係の基礎をつくります。)
では、どうするか?
(1)「求めてきたときが与えどき」と考えます。
子どもの方から、スキンシップを求めるなど、何かのアクションがあったら、すかさず、
(間髪を入れず)、抱いてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」という言葉は、タ
ブーです。
抱いてあげると、ほんの短い時間で満足しますので、子どものほうが体を放すしぐさを
見せたら、そっと放してあげます。(たいてい数秒ですみます。)
(2)「治す」「直す」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを大切に
この問題は、「時期がくれば治る」という問題ではありません。先ほども書いたように、
「潜る」だけです。
最近の研究によれば、おとなになってから(うつ病)になるケースのほとんどは、この
時期の親の対処のし方のまずさにあることがわかってきました。(今年(08年)になって
から、そういう記事を見かけました。どこかに記録したはずですが、見つかりません。ま
たさがしておきます。)
ですから、「直そう」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを第一に考えて、対処し
ます。この時期は、同じような状況を作らないことに心がけます。こじらせればこじらせ
るほど、あとあと、心のキズ(=トラウマ)が深くなります。
(3)「今よりも悪くしないことだけを考えながら、半年単位で、様子をみる」です。
年齢からして、あせって集団生活の中に、子どもを放り込むような乱暴なことをすれば、
かえって症状は重くなります。
子どもの心は、ある意味ではタフですが、こと、愛情問題がからむと、きわめてデリケ
ートな反応を示します。たった1~2日、母親から離されたことが原因で、母子分離不安
になってしまった子ども(1歳・男児)もいます。
仕事の問題は、私には何とも言えません。お子さんの様子の程度にもよります。濃密な
愛情を注ぎ、お子さんが、安心感を覚えれば、それでよし。そうでなければ、この時期は、
「無理をしない」を大鉄則に、考えられた方がよいかと思います。仕事の問題は、お子さ
んの症状に見ながら、Gさんのご主人とよく相談して、決めてください。
その時期は、先にも書きましたが、遅くとも満2歳までです。その前後に、子どもは、
乳児期から幼児期への脱皮をはかります。このころ、少しずつ、親のほうが、子どもの親
離れを誘導していきます。
(4)Gさんのお子さんだけではない、みな、そうです。
といっても、母子分離不安そのものは、たいへん多く、程度の差もありますが、大部分
の子どもが何らかの形で、経験します。「うちの子だけが……」と、深刻に悩まないこと。
またそれだけをもって、「子育てに失敗した」とか、そんなふうに、おおげさに考えては
いけません。どんな親も、こうした問題をかかえ、それを克服しながら、成長しいきます。
大切なことは、これを機会に、子どもの心を真正面からとらえるようにすることです。そ
れは同時に、あなた自身の心を知る手がかりにもなります。
また分離不安になったからといって、お子さんの天真爛漫な様子が消えるということは
ありません。Gさんとの愛情に、安心感を覚えているときは、(=疑っていないときは)、
天真爛漫な様子を、いつでも見せてくれます。ご安心ください。
つまりこの程度の問題は、みな、共通してかかえる問題だということです。「うちの子も、
母子分離不安になりました……」というふうに考えて、どうか前向きに対処してください。
どんな子どもも、こうした問題を、1つや2つ、あるいは3つや4つはかかえながら、成
長していきます。(同時に、母親も成長していきます。)
以上、どこか荒削りの原稿ですが、詳しくは、私のマガジンの5月16日号前後で取り
あげさせていただきます。あくまでも参考資料として、ご利用ください。
相談、ありがとうございました。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 分離不安 母子分離不安
後追い、人見知り あと追い 小児うつ)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 16日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page009.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●恐怖症(Phobia)
昨日は、一日中、気分が重かった。
理由がある。
おとといの夜、交差点のところで急カーブをしてきた車があった。
「あやうく」というほどのものではなかったが、あぶなかった。
とたん、いつものあの発作。
恐怖症の発作が起きた。
そこから家まで、数百メートルの距離だったが、私は自転車をおり、歩いて帰った。
私が恐怖症になったのは、29歳のとき。
飛行機事故に遭遇してからである。
それ以前、つまり子どものころから、高所恐怖症や閉所恐怖症などの症状はあった。
それが転じて、飛行機恐怖症、さらには、事故恐怖症になってしまった。
こうした恐怖症は、そのつどターゲットを変えて、連続性をもちやすい。
ひとつのことで恐怖症になると、つぎつぎと、別のことでも恐怖症になる。
私が、そのよい例である。
で、ワイフなどに言わせると、「気のせい」ということになるが、そんな簡単なものではな
い。
脳みそそのものが、勝手に反応してしまう。
気分そのものが、ガクンと落ちこんでしまう。ペタッと、脳みそ全体に、湿布薬か何かが、
張りついたような状態になる。
意思の力で、コントロールできるような問題ではない。
で、そういうときは、原稿書きは、なし。
書いても、どうせよいものは、書けない。
何を書いても、どこか、憂うつぽいものになってしまう。
(今も、少しどこか、憂うつぽいのは、そのため。)
どうせ生きるなら、明るく、楽しく、生きたい。
+++++++++++++++++
子どもも、この恐怖症になりやすい。
学校恐怖症が、不登校の原因となることも多い。
けっして、安易に考えてはいけない。
+++++++++++++++++
●子どもが恐怖症になるとき
●九死に一生
先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、
こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙
な現象が現れた。
夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるよ
うに感じた。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。
こわかった……。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやす
い。
たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ
行きたくない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがっ
たことがある。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」
という子どもが続出した。
これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。そ
れが恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、
ふつう、次の三つに分けて考える。
(1)対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、
ある程度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎ
みの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着
で、はじめて行ったような場所でも、わがもの顔で騒いだりする。
が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失
語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる
(学校恐怖症)などの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会
えない、人と話せないなどの症状が表れることもある。
(1)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベータ
ーに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。
これはある子ども(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメ
ソメソし始めるという。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ
行くとちゅうにある、トンネルらしいということがわかった。その子どもは閉所恐怖症
だった。
実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができなかった。それと関係があ
るかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするよ
うな恐怖感を覚える。
(2)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわ
がる、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶ
って見せただけで、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、15人に1人は
いる(年中児)。
ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもな
かなか原因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前
後に出ることが多い。
これも私のことだが、私は30歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そ
のためそれ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることは
できるが、いつも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」とい
う不安が不眠症の原因になる。
また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表
れる。高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パ
ターン)ができるためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖
症が飛行機恐怖症になり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。
●忘れるのが一番
子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱
っても意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立場
で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無
理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば
心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、
神経症と区別がつきにくい。
私のときも、その事故から数日間は、車の速度が50キロ前後を超えると、目が回るよ
うな状態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手のひ
らがびっしょりと汗をかいていた。が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自
分に、「こわくない」と言いきかせることで、克服することができた。いや、今でもとき
どき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状態になってしまう。
恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう
前提で、子どもの恐怖症には対処する。
(付記)
●不登校と怠学(School Refusal)
不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症と
は区別する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと
考える学者もいる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因とな
ると考えるとわかりやすい。
(付記)
●人獣共通感染症(ズーノーシス)
「人獣共通感染症」というのがある。何もH5N1
(=鳥インフルエンザ)だけが
人獣共通感染症というわけではない。
ざっと並べてみる。
ニパウィルス
ハンタウィルス
SARSコロナウィルス
西ナイル熱
ラッサ熱
エボラ・マールブルグ・出血熱
出血性大腸菌症
肺ペスト
レプトスピラ病、ほか。
現在1709種類の感染症が確認されているが、
そのうちの約半数が、人獣共通感染症と言われている。
もともとは自然宿主である、特定の獣とだけに共存していた
ウィルスが、地球温暖化や環境の変化により、変異して、
人間を襲うようになったと考えるとわかりやすい。
SARSコロナウィルスもそのひとつだが、今ではあの
ときの騒動を覚えている人は、少ない。
しかしこれで驚いてはいけない。
この自然界には、「生きていて代謝機能を維持しているが、
培養できない状態の菌」(藤田紘一郎・日本の論点08)が、
まだ「いっぱい、いる」という。
「これらの中には、よく知られた病原性大腸菌O157や
コレラ菌」がある、と。
こうした菌が、ひとたび人類を襲い始めたら、人類は
どうなるか。「まさに絶滅の危機に迎えるという」(同氏)。
地球温暖化は、何も、環境だけの問題ではすまないと
いうことらしい。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●極楽浄土(Heaven)
We live in the world which is heaven.
++++++++++++++++
死んだあと、極楽世界に生まれ変わる
ことを、「極楽往生」という。
「浄土往生」ともいう。
その極楽往生という言葉は、「浄土信仰」
とともに生まれた言葉である。
「浄土」というのは、もともと仏や菩薩
が住んでいる、理想郷をいう。
で、その理想郷は、どこにあるのか。
仏教によれば、十方それぞれに、諸仏の
理想郷があるとされる。
が、この日本では、阿弥陀仏の住む西方こそに、
その浄土があると教える。
私も子どものころ、「天竺(てんじく)」と
いう言葉を、よく聞いた。
天竺というのは、インドをさす。
国語大辞典にも、「日本・中国で、インドを
さす古語」とある。
母の母、つまり祖母も、よくこう言っていた。
「死んだら、天竺へ行く」と。
しかし少なくとも今という現在、インドが
理想郷などとは、だれも思わない?
マザーテレサの生きていた時代を思い浮かべて
みればよい。
つまり浄土といっても、観念的なもので、
実在の場所をいうのではない。
(当たり前のことだが……。)
では、実在(?)しないのかというと、
どうもそうではないようだ。
が、このところ、ものの考え方が、少し
変わってきた。
私自身のものの考え方が、である。
「ひょっとしたら、あの世は、あるかも
しれない」と考えるようになってきた。
まず、この宇宙を見渡してみてほしい。
夜の星空が、わかりやすい。
しかし天空にまばたく星の多くは、
1個の星とはかぎらない。
その1個が、無数の星のかたまり、
つまり銀河であることが多い。
そういう銀河が無数に集まり、この
大宇宙を形成している。
よく私は、子どもたちに、「宇宙の星の
数は、中田島砂丘(浜松市にある、日本の三大砂丘
のひとつ)にある砂の数よりも多い」と
教える。
(ただし地球は、惑星であって、ここでいう
星には含まれない。)
しかし実際には、それよりも、はるかに多い。
「数」で考えることができないほど、多い。
そんな大宇宙でも、最初は、小さな点、もしくは線、
さらにもしくは(無)から、生まれたという。
「ビッグ・バン」と呼ばれる、大爆発によって、
生まれたという。
しかも、こうしたビッグバンが、私たちの
知らないところで、常に、無数に起きている
という。
もちろん私たち人間は、私たちが住む、この
大宇宙しか知らない。
この大宇宙しか、見ることができない。
そのため、この大宇宙だけが、大宇宙だと思っている。
が、「そこに見えないから」という理由だけで、
ほかの大宇宙を否定してはいけない。
私たちが今もっている、時間や空間の概念ほど、
これまたアテにならないものはない。
私たちがいう1秒にしても、別の天体では、
数万年かもしれない。
私たちがいう数万年にしても、別の天体では、
ほんの1秒かもしれない。
空間にしてもそうだ。
この大宇宙で、「遠い」「近い」という言葉を
使うこと自体、ナンセンス。
また「光の速度以上の速度は不可能」という。
しかしこの大宇宙の果てには、その光の速度以上の
速さで、この地球から遠ざかっている星がある。
もしそうだとするなら、その星から見れば、
私たちの住むこの地球が、光の速度以上の速さで
遠ざかっていることになる。
私たちの常識を基準にして、この大宇宙を考えては
いけない。
別の大宇宙については、さらに、そうだ。
そうした大宇宙は、ホーキング博士によれば、
ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
けっして、荒唐無稽な話をしているのではない。
私たちが住んでいるこの大宇宙そのものが、
荒唐無稽な世界といえば、これほど荒唐無稽な
世界とうこと。
荒唐無稽というより、「不可思議」?
それがわからなければ、宇宙の(果て)に、
思いをはせてみたらよい。
この大宇宙には、(果て)がないという。
(果て)がないこと自体、不可思議なこと
ではないか?
つまり私は果てのない宇宙に住んでいる。
そのこと自体が、荒唐無稽な話ではないか?
話がそれたが、しかし現実に、私たちはここに
いて、ここで生活をしている。
わかりやすく言えば、(ありえない世界)で、
こうして生きている。
アインシュタインの言葉を借りるまでもない。
「この世界すべてが、奇跡」ということになる。
つまり私たちがいう、(あの世)は、今の
今も、つぎからつぎへと生まれている。
(同時に、消滅もしているが……。)
となると、私たちが住んでいる(この世)が、
(あの世)であっても、何もおかしくない。
同時に、何も(あの世)が理想郷である必要は
ない。
私たちが住んでいる(この世)こそが、理想郷
であっても、何もおかしくない。
この世こそが、「浄土」といってもよい。
つまり(この世)自体に、阿弥陀仏が住んでいる!
もっと言えば、私たちは、極楽往生して、(この世)
にやってきた!
……とまあ、荒唐無稽(?)なことを考える。
あとは、私たちが与えられたこの(奇跡)を、
どう使うとかということ。
私たちは死んで、極楽浄土へ行くのではない。
この世が極楽浄土なのだ!
この世を、極楽浄土にするのだ!
極楽浄土という言葉にかこつけて、「生きる」ということが
どうあるべきかを、もう一度、考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 浄土 浄土論 極楽 極楽
浄土)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【4月16日】(April 16th, 2008)
I purchased a large size of speakers for my computer. I can produced heavy low sound
which makes my room like a theater.
●大型スピーカー
昨日、近くのパソコンショップへ行って、大型のスピーカーを買ってきた。
ドスンドスンと、重低音が響く。
このところYOU TUBEを使って、音楽を聴くことが多くなった。
私につられて、ワイフも自分のパソコンで、よく聴いている。
それで私のスピーカーをワイフに払い下げて、私のは私ので、別のを買うことにした。
結果……。
ワイフの言葉を借りるなら、「部屋中が映画館みたい」とのこと。
今、そのドスンドスンという音を聴きながら、この原稿を書いている。
●鳥インフルエンザ(H5N1)
気になるニュース。
とうとうというか、ついに、鳥インフルエンザが、人から人へと感染するようになった。
世界各地で、その感染例が報告されるようになった。
で、厚生労働省も、1000万人分のワクチンを用意することにしたという(08年4月
16日)。
近く、海外との窓口に立つ職業の人たちから順に、接種を開始するという。
何か恐ろしいことが起きそうな気配。
それがジワジワと、この日本にも迫ってきている。
これに対して、「日本は清潔な国だから、だいじょうぶ」という意見もある。
しかし清潔であるがゆえに、かえって、あぶないという意見もある。
つまりその分だけ、未知のウィルスに対して、抵抗力が弱い?
ともかくも、みなさん、注意しましょう!
外出時は、マスクをかけましょう!
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●ふつうの基準(ケアセンターで)What is "normal"?
What is "normal"? And what is not "normal"? It is often hard to tell which is which. But
when we see a person who is apparently not "normal", we will know what sort man is
"normal". Here is a short story what I thought when I was seeing a man in a Care
Center.
+++++++++++++++++
認知症の症状には、いろいろある。
その中のひとつに、連続性の喪失というのも
あるのでは?
あるケアーセンターで、こんな老人(80歳
前後・男性)を見かけた。
その老人を、M氏としておく。
M氏は、みなといっしょに、粘土を使って、
何かを作っていた。
そのときのこと。
M氏が突然、立って、茶碗をもったまま、
うしろにやってきた。
「何をするのかな?」と思って見ていると、
M氏は、それにポットからお茶を注いだ。
「お茶をくみにきたのだ」と思った。
M氏は、茶碗にお茶を注いだ。
が、そのとき別の何かが、M氏の注意を
ひいたらしい。
M氏は、茶碗をもったまま、別のテーブルに
向かって歩き出した。
コセコセとした、落ち着きのない歩き方だった。
「?」と思って見ていると、M氏は、その
茶碗を、そのテーブルに置き、目の前にある
水槽の魚を、じっと見つめ始めた。
「魚を見ているんだ」と、私は思った。
が、その時間は長くはなかった。
ほんの5~6秒?
M氏は突然、思い立ったかのように、
またセカセカと歩き出した。
自分のテーブルに戻っていった。
茶碗は、水槽の前に置いたままだった。
M氏は、自分のテーブルの上にあった作りかけの
粘土を、両手でつぶすと、また別のものを作り始めた。
++++++++++++++++++
M氏の行動には、連続性がなかった。
茶碗をもって、お茶をくみに行った。
しかしつぎの瞬間には、水槽の魚を
ながめていた。
その時点で、お茶のことは、すっかり
忘れてしまったらしい。
そして最後は、自分の席に戻っていった。
+++++++++++++++++++
「ふつう」とは何か。
「ふつうの子ども」とは何か。
そのひとつのヒントとして、ここで「行動の連続性」
について、考えてみたい。
たとえば……。
「行動の連続性」とは何かと聞かれると、
それがよくわからない。
しかし連続性のない人を見ると、「行動の
連続性」というのが、どういうものか
わかる。
ここに書いたM氏の行動には、明らかに、
その行動の連続性がなかった。
よく似た問題に、「正常」という言葉がある。
何をもって「正常」といい、何をもって、
「そうでない」というのか。
それがよくわからない。
しかし「正常でない人」を見ると、「正常な人」
というのが、どういうものか、よくわかる。
「正常でない人」を見ていると、そうでない
状態の人を、「正常な人」というということがわかる。
(最近の心理学によれば、「正常」の定義は
ないことになっている。念のため。)
さらに同じような問題に、「ふつうの
子ども」という言葉がある。
どういう子どもを、ふつうの子どもというのか。
またどういう子どもを、そうでないというのか。
実は、これもよくわからない。
しかし「ふつうでない子ども」を見ていると、
そうでない状態の子どもを、「ふつうの子ども」
という、ということがわかる。
そこで教育の世界では、消去法によって、
子どもの問題点をさぐっていく。
たとえば落ち着きのない子どもがいたとする。
明らかに、ふつうでなかったとする。
そういうときは、まず、AD・HD児を
疑ってみる。
しかしAD・HD児でなければ、つぎに
活発型の自閉症児を疑ってみる。
さらに過剰行動児や破滅型行動児なども
疑ってみる。
が、どれでもない……ということであれば、
最後に家庭環境や、食べ物を疑ってみる。
これは医師の診断法に似ている。
重篤(じゅうとく)なケースから順に、
軽いケースへと、診断目的を移動していく。
教育の世界では、診断名を口にすることは
許されない。
しかし親(保護者)からの質問に答えて、
「AD・HD児ではないと思います」
と言うことは、許される。
話がそれたが、その子どもが、ふつうか
どうかは、結局は、「経験」ということになる。
できるだけ多くの子どもに接し、経験を積む。
その結果として、(ふつうの子ども)と、
(そうでない子ども)を、区別することが
できるようになる。
そのばあい、できるだけ、(ふつうでない子ども)に
接してみることが大切。
その結果として、(ふつうの子ども)が、浮かび
あがってくる。
そういう意味では、教育の世界では、経験がすべて。
経験に始まって、経験に終わる。
教科書どおりの子どもなど、ぜったいに、いない。
ケアー・センターのうしろに座って、老人たちを
ながめているとき、私は、そんなことを考えていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 14日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page008.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●今日・あれこれ(4月15日)(April 15th, 2008)
We, the Japanese, say "Yes", when we want to say "No". We are the people of far east,
where we have fostered a very unique culture. One of them is "Hon-ne" and "Tate-mae".
+++++++++++++++
小ずるい人と接していると、
気分が悪くなる。
その小ずるさが、手に取るように
よくわかる。
私も、子どものころは、その小ずるい
人間だった。
だから、よけいに、よくわかる。
+++++++++++++++
私の周辺にも、何とか、私をごまかしてすまそうとする人たちが、何人かいる。
そうでない人には、信じられないような話だが、以前、こんなことがあった。
話の内容は、少し、変える。
レストランでいっしょに食事をして、さあ、帰ろうというときになったときのこと。
相手の男性が、こう言った。
「林君、悪いが、ビール代だけは、私に払わせてほしい」と。
つまり、「ほかの費用は、君が払え」と。
……ということを、以前、書いたら、それを読んだ人が、こんなメールを送ってくれた。
「私の姉なんか、もっと、ずるいですよ」と。
父親の葬儀が終わって一息していると、そこへその人の姉がやってきて、こう言ったとい
う。
「悪いけど、花輪代だけは、私に払わせてね」と。
こういうことを平気で言える人は、相当の「ワル」と考えてよい。
小ずるく、猿知恵ばかりが働く。
さらに上には、上がいる。
ある男性が、実家を新築してやったときのこと。
総額で2000万円弱もかかったという。
で、いよいよ完成というときに、その男性の姉がやってきて、こう言ったという。
「悪いけど、クーラーだけは、私につけさせてね」と。
クーラーといっても、5万円にもならない。
つまり「クーラーだけはつけさせてね」と言いながら、他方で、「私は1円も払わない」と。
実は、先にも書いたように、私も、もともとは、そのタイプの小ずるい人間だった。
口がうまく、ペラペラと口先だけで、その場をごまかすということを、平気でしていた。
たぶん、私も子どものころは、ここに書いたようなことを、平気で言っていたにちがいな
い。
そういう自分は、今でも、私の中にいる。
けっして、消えたわけではない。
だから余計に、小ずるい人間が、どういう人間か、よくわかる。
私を口先だけでごまかそうとする人に出会ったりすると、まるで自分の過去を見せつけら
れたかのように思う。
だから不愉快になる。
ついでに、気分も悪くなる。
一方、白人というのは、ほんとうにストレート。
日本人のように、本音と建て前を使い分けるということをしない。
とくに、二男の嫁が、そうだ。
わかりやすいと言えば、わかりやすい。
言ったまま。
すべてが言ったまま。
日本人のように、(おじょうず)を言わない。
私にへつらったり、遠慮したりもしない。
だからといって、日本人が悪くて、白人がよいというのではない。
それぞれに一長一短がある。
しかし両者の生きざまを比べてみたばあい、白人のほうが、つきあいやすい。
日本人しか知らない人には、それがわからないかもしれない。
ひょっとしたら、「世界中、みな、同じ」とさえ、思っているかもしれない。
しかし、ちがう。
明らかに、ちがう。
日本人は、白人とは、明らかにちがう。
だから……。
白人とつきあうときは、いいかげんなことは言ってはいけない。
また彼らも、いいかげんなことは言わないから、言ったことは、そのまま信じてよい。
たとえば「遊びにおいで」と相手が言ったら、本気で誘ってくれていると思ってよい。
一方、「遊びにおいで」とあなたが言ったら、相手は、それを本気でとらえる。「ただのあ
いさつでした」では、すまない。
そういう(ちがい)をテーマにしながら、今朝、ワイフとこんな会話をした。
私「デニーズは、ほんとうにわかりやすいね」
ワ「そうね。ウラがないから……。それに私、あんな正直な人を知らないわ」
私「ぼくも、知らない。……あれで、よく生きていかれるね」
ワ「全体が、そういう世界だからよ」
私「でもね、つきあうようになって、もう6年になるけど、今、いちばん信頼できる人と
いえば、デニーズかもしれない」
ワ「私も、そう」と。
「日本は極東の島国だ」と言うと、反発する人は多い。
しかし島国は、島国。
まちがいなく、極東の島国。
その極東という(へき地)で、日本は、特異な文化を発展させた。
そのひとつが、これ。
本音と建て前。
アメリカ人とくらべてみると、それがたいへん、よくわかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 本音と建て前)
+++++++++++++++
本音と建て前について書いた原稿を
4作、集めてみます。
どれも5年ほど前に書いたものです。
+++++++++++++++
【自分をさらけ出して生きる】
●ある母親からの相談より
++++++++++++++++++
子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。
++++++++++++++++++
【Fさんより、はやし浩司へ(1)】
掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。
私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。
感情にまかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。
ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。
学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の
部分しか見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にし
て、悪態ばかりつきます。
学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞
き出していたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、
無理難題を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。
あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異
常なのは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子に
してしまった私。
息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならな
いように、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてない
でいます。本当の自分もよくわかりません。
【Fさんより、はやし浩司へ(2)】
掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご
助言を胸に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不
安です。
まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、
行かない、と言っています。
遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまく
いきません。
お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。
その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物
はしたようですが……。)
怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時です
が、ダダこねがひどい。
たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強
く言い出すようになりました。
以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことは
ありません。ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。
今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝
かしつけました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探る
ような雰囲気になってしまいます。
私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。
子どもがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫
にも「すべてをさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。
うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がっ
たりします。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。
ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。
【はやし浩司より、Fさんへ】
Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」
「いい家庭を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦
しめてしまっています。
息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これ
また強すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。
前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありませ
ん。一応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげ
さに考えないこと!
おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言
うことに、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」
と聞き役に回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでい
ます。
子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。
そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに
恐れているのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌わ
れるのですから……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思
います。子育てをしながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回
り回って、今の育児姿勢になっていると考えられます。
ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに
嫌われても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということに
なります。
ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないで
いる……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、
一貫性がありません。
そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。
子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさ
ず、(ここが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして
力いっぱい、抱いてあげてください。
たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水
の中に魚を逃がす要領で、子どもの体を放します。
決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そ
うします。
子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたとき
も、そうです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。
ぐいと抱いてあげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はあ
りません。
ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!
私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気が
つきました。クソ食らえ!、と。
それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるように
なりました。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それが
できるようになりますよ。
ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どう
でしょうか。いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしい
と言えばよいのです。
「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、
ショックでしたか?)
ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、
あなたが心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょう
か?
お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、
肝に銘じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまご
まとしたことは、あまり気にしないで、子どもに任せなさい。
原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自
身の幼児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意
識の強い家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。
さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったこと
も考えられます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。
一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自
分の過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみ
ます。勇気を出して、自分の過去と対峙してみてください。
もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしない
こと。過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきら
めなさい! この世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考え
た格言ですが、あきらめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはず
です。
「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!
そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さん
は、すでに親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親
はさみしい思いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。
あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にし
ます。それでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談
なさるとよいでしょう。今では、すぐれた薬があります。
あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つ
ぎからつぎへと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」こ
とだけを実ながら、あとは、前向きに生きていきます。
では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
育児の悩み 育児ノイローゼ 子供の問題 育児問題)
【補記】
●自分をさらけ出して生きる
++++++++++++++++++++
自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。
そのことは、子どもの世界を見ればわかる。
子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。
いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。
このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。
だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。
そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。
心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。
しかし本当の問題は、母親にある。
母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。
が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。
もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。
だから……。
もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。
心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。
方法は、簡単。
まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。
したかったら、YES!
したくなかったら、NO!
自分をすなおに表現してみよう。
自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。
心を解き放てば、体は、あとからついてくる。
++++++++++++++++++++
以前、書いた原稿を添付します。
++++++++++++++++++++
【世間体】
●世間体で生きる人たち
世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間
が……」という。
子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束
縛から離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。
世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは
個人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。
心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく
言えば、自分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。この
コア・アイデンティティをいかに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。
個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。
その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われてい
るかを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるか
を気にする。
子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、
このタイプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。
少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイ
フが落ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。そ
の中学生は、臆面もなく、こう言った。
「交番へ届けます!」と。
そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。
「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思
ったのか」と。
そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイ
フをほしいと思わないのか」と。
するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困り
ます」と。
私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかっ
たら、ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。
その上で、そのサイフをどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」
と。
(仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論
が始まるということ。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらっ
てしまえ」と言っているのではない。誤解のないように!)
こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目
を気にした生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化
が遅れる。「私は私」という生き方が、できなくなる。
いろいろな母親がいた。
「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりませ
ん」
「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘
には、国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。
しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。
●他人の視線
だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。
大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニ
ール袋など)を拾って、袋に入れる。
そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽ト
ラックだ。
そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的反応が起きるのがわかる。
「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、
いい印象をもつにちがいない」と、まず、そう考える。
しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえ
ってわざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴ
ミを集めているのに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。
そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふ
うに考えて、自分を納得させる。
こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。
Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、
その周囲の人たちから聞いて、知っていた。
が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の
虐待らしい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親
が座っていた。
私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。
そればかりか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせた
り、骨折していない別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。
息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のま
まだった。
Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度
は、他人の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、
自分であって自分でない行動を、する。
それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するというこ
とは、よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってし
まってはいけない。
私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にし
ていたように思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするよ
うにしている。他人の視線が、わずらわしいからだ。
たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめて
しまう。他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。
……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を
気にしている人間ということがわかる。
●世間体を気にする人たち
世間体を気にする人には、一定の特徴がある。
その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。
このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となり
の人より悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。
そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜
んでみせたりする。
20年ほど前だが、こんなことがあった。
Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそ
うですね。本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、
万引きをして、補導されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」
と。
Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情し
たフリをしながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!
GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。
「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうです
から。Gさんは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。
●作られる世間体
こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件
にこういうことがあった。
ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言っ
た。(今まで、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大
学」「H大学」と、伏せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)
S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。
「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。
私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。
まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!
私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』とい
うのは、ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。
このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響
が大きいのではないかと思う。
親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり
世間体を気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体
を否定するようになるかもしれないが……。)
生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引
き継がれる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。
(このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに
成人になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をし
ているか知らない。
しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのこと
を思い出してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれ
ない。「交番へ届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」
と言うべきだった。それで終わるべきだった。
多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるが
ままの(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになっ
てしまう。私は私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが
仮面であるとわかっていても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。
それでよいのかもしれない。
ただこれだけは、書いておきたい。
自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、
自由という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
仮面 コアアイデンティティ 人格の核 さらけ出し すなおな人間 はやし浩司 世間
体 見栄 体裁 虚栄)
Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
●虚栄
「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」
という(日本語大辞典)。
英語では、「vanity」という。
しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、
感じ方が、ちがう。なぜだろう?
ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、
人間がもつ原罪のひとつとして、それを強く戒めている。
小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。
Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく
自慢する、(4)無価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。
だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英
語で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちが
いを犯したかのようにさえ思うこともある。
そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。
「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネック
レスを買い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。
しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うの
は、虚栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれ
ば、詐欺(さぎ)ということになる。
が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、
なくなる。「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。
もっと言えば、「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少
なくない。
Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフ
の中に、札をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。そ
の間に、1000円札を詰めていくという。
そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、
お金を払うという。
それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そう
いう女性です。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。
そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ~?」と思ってしまう。
あわれというより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするよう
になる。しかも80歳を過ぎても、それをつづける。
自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」というこ
とは、その時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、
生きていることには、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に
毒されると、生きているという実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ご
すことになる。
あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そうい
う生き方を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリス
ト教のことは、よくわからないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」
と言うのではないか。
一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
虚栄 vanity)
+++++++++++++++++
本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。
+++++++++++++++++
●本音と建て前
「すなおな考え方」とは何か。5、6年も前のことだが、小学1年生の生活科のテスト
に、こんなのがあった。
あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの
絵の中から、答を選んでください。
(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。
この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子
どもは、(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、
ひとりの母親がこう言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のま
わりでウロウロされると、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽で
す」と。つまり建て前では、(2)が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。
そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を
出した。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテス
トでは、本音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。
●正解のない世界
……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などとい
うものは、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解
を求めようとする。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。
が、それで終わるわけではない。
ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答
のない問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「こ
の世界のできごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解に
こだわるのか」と笑っていた。
そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学
だが、T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしま
った。この状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。
こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分
離方法を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参
考書もちこみOKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にすると
いうもくろみがある。
当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話
してくれた。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさが
ってくる。大切なのは、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」
と。
私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだ
ろうか。そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもた
ちにかぎらず、私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろ
うか。私は子どもたちの前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につなが
るものの考え方の、大きなヒントが隠されているような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
本音と建て前 子供の本音)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●疲れる子どもたち
本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この
二つを使い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子ど
もほど、「学校」という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、
そうでない。
もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。
ないが、A君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがま
ない。しかしB君のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心
がゆがむこともある。
自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむず
かしいことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性
は、たえまない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それがで
きるわけがない。私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番
へ届ける!」と言ったら、私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人
の目」を感じているから、そう言うにすぎない。
……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。た
とえばある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言
ったとする。しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方
と、どこも違わない。
が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC
君は、何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよ
い。親は、こう言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。
かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言
われ、他方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ
届けろ」と言われ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。
「同じ」とは言わないが、「似ている」。
こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。
が、そうでない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく…
…。しかしそれはきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐
えかねて、非行に走ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そ
こまで進まなくても、自分の中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。
それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よ
い子ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子
ぶっている子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということに
なる。
●本音で生きる
子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかる
ときがある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんど
の人は、その子ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身
は、どうだったか。さらには、あなた自身はどうかということになる。
「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが
妻なら、夫や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここ
でいうような「いい子」ぶってはいないだろうか。
が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、
あなたは、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみ
るとよい。あなたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫
や、子どもまでも疲れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾る
ことはない。気負うことはない。ごまかすこはない。ありのままでよい。
一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイ
フだけを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。
そしてそのサイフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、
わかりやすい人生を送ることを意味する。
そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、
先生、お金がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B
君には、まだ自分を取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後
に、B君にこう言った。
「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし
今は、そういうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交
番に届けるようにしている。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よ
いことをしているとか、悪いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要す
るに気負わないこと。
しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一
度、拾ったお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。
その気持ちのよさは、お金では買えないよ」と。
(030319)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●心のバランス感覚
駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から
二人の女子高校生が割りこんできた。
前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。
それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。
するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。
私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていまし
たが……」
女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ~」と。
私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。
で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、
10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。
事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変
化に気づいた。
まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意
見を戦わせた。
「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」とい
う私。この二人の私が、対立した。
つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれな
い。だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と
怒っている私、。この二人の私が、対立した。
そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだ
な。学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)
な分だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。
つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言っ
た。そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行
動を決めた。
こういう現象は、私だけのものなのか。
もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例
としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、う
まく使い分ける。
私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こ
うした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、そ
れだけで二重人格を疑われるかもしれない。
そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。
私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のような
ものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、
「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスを
とっていたことになる。
もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけて
いたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたか
もしれない。
もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、
正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職
業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできな
かった。
こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに
対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思
う。
もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経
(抑制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくな
い。
そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心
の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断す
る感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた
人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。
キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て
はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)
Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
【虚栄について、B君からの返事】
In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being
rather silly.
オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは
思わない。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。
Being 2 faced is another matter. That can get you despised.
2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。
However there different levels of being 2 faced.
しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。
For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty,
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be
despised by people who see this.
たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、そ
の裏で、その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。
On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people
who see this will understand and see it as not causing unnecessary
social friction.
一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとし
ても、それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解
し、不要な社会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。
So maybe Australia is not that much different to Japan.
そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。
Cheers,
バイ
Bより
+++++++++++++++
ついでに1作……
これは4年前に書いた原稿です。
+++++++++++++++
●正直
京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大
量のニワトリが、死んだ。
その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかか
わらず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二
週間後には、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2
日朝刊※)。
当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死ん
でいったので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えてい
る。
しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の
地元の小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っ
ていたニワトリが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわん
や、養鶏場のプロが、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない
話なのである。
……という話を、書くのがここでの目的ではない。
人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフ
と、それについて話しあった。
私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思った
ときだ」
ワ「むずかしいところね」と。
新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。
そして農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。
さらに京都府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし
(補償するのは)考えざるをえない」と述べている。
「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?
はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリ
カの親などは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく
言う。しかしこの日本では、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり
抜けたほうが勝ち」というような教え方をする。そのさえたるものが、受験競争である。
それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々
とまかりとおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウ
ソも許される」と。どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当にな
る」などと言っている。
これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そ
うはいない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。
つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそうい
う本音と建て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオースト
ラリア人と接したりすると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートな
のだろう」と思う。
つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。
誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに
政治の世界には、この種のウソが多い。
本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」な
のだが、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに
国民をだます。
が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原
点は、「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」
が、集合して、金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれ
ないが、大きくみれば、そういうことになる。)
というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人の
ほうが、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、ま
だ温もりを感じた。
私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それ
がない。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだ
ます。
つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。
いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワト
リが何千羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかと
いう疑いはある。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うま
く売り逃げれば、損失をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろう
か。
正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。
こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ
動き出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交
差点で、信号を、しっかりと守っているというのだろうか。
もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したか
もしれない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。
しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは1
00%、行政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。
つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。
日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人
格となる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。
その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。
私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな
正直な人間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないよ
うにしている」と。
おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくま
でも、……らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。
拾うことにより、そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむ
ことかもしれない。が、それもめんどうなことだ。
だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。
だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、
さも善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「か
わいそうに……」と、同情するのが、精一杯。
それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)
※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、2
6日には生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大
につながり、強い批判を浴びていた」(中日新聞)
「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養
鶏場から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きた
ニワトリが兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとん
どは返品されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食
店などに、卸されていました」(TBS inews)と。
●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)
【追記】
正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも
子ど
もに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。
しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけ
しなさ
い」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。
これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a "man", so-called "das Mann". But
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do
toward the of the lives. Then how can we find it?
●生きているだけもありがたい
若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。
20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの
人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。
もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。
さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。
が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。
●老後の人間性
よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳
をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。
その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。
が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。
●老化する脳
そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて
行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなっ
たことすらわからない。
先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったと
きのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。
このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。
が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。
生きがいの喪失である。
●統合性と生きがい
この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。
では、どうあるべきか?
老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。
この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつ
なぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。
つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。
●統合性の内容
統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。
程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の
次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。
「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれ
ば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。
「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。
しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?
真理の探求を例にあげてみる。
●感動のある人生
こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほ
ど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。
しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。
「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。
さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。
肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命を
たどることになる。
繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」
と呼んだ。
「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
. =∞= // (奇数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 12日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page007.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●入学金未納で、入学式に出られず(Two students couldn't attend its entrance ceremony,
since the payment is not finished. But why?)
++++++++++++++++
C県の、ある県立高校で、こんな
事件が起きた。
その高校で、入学金が未納だった
2人の男女の学生が、入学式に
出られなかったというのだ。
TBS―iニュースは、つぎのように
伝える。
『この高校はC県立Y高校です。この高校では、
新入生に対し、今月8日の入学式に入学金や
教材費など9万円を持ってくるように伝えて
いましたが、男女2人の生徒が、経済的な理由などで
当日お金を持ってきませんでした。
このため高校では、2人の入学手続きが済んで
いないとして式に出席させず、別の部屋で待機
させました』(TBS-i・ニュース、4月
13日)と。
学校側は、「入学金を納入された時点で入学を
許可するという規則に従って、やむを得ず
こういう措置をとらせて頂きました」(Y高校
S教頭)と説明している(同・ニュース)。
また県の教育委員会も、「生徒と保護者には
つらい思いをさせてしまったが、やむを得ない
判断だった」(同)と。
++++++++++++++++++
ここに書いてある以上のことは、私にはわからない。
わからないが、入学室の当日、その2人の学生は、高校へ来ていたわけだから、その2人
の学生は、当然、入学許可がおりたものと思っていたらしい。
またその旨の通知も、学校側からあったということになる。
しかし学校へ出かけてみると、「君たちは、入学金を払っていないから、入学式には出られ
ません」と。
学校側は規則を盾にとって、「やむを得ず」という言葉を使っている。
それに呼応して、教育委員会のほうも、「やむを得ない判断だった」と。
しかし……。
その2人の学生に与えたショックは、いかばかりのものであったか?
入学式にも出られず、別室で小さくなっている2人の姿を、想像してみればよい。
さぞかし、つらい思いをしたことだろう。
それにどういう事情があったかは知らないが、「入学金が払えなかった学生」という汚名は、
しばらくは消えない。
もっとも、今、こうした事件とは反対に、授業料を払わない学生も、急増している。
授業料を6か月以上滞納した学生については、出席停止処分にしている県もある(北海道
など)。
貧困が理由だけではない。
中には、授業料を払えるにもかかわらず、払わない親もいるという。
T県の(給食費未納問題)に関するデータだが、「経済的な理由での未納者は、未納者のう
ちの、33・6%。保護者の責任感や規範意識の問題と思われるのが、何と60・3%。
まさに保護者としての責任放棄と言っても過言ではありません」(T県、県議会報告書より)
と。
何と60%の親たちは、払えるにもかかわらず、払っていないというのだ。
もちろん先の2人の学生の親たちが、そうであったと言っているのではない。
しかし学校側からすると、経済的な理由によるものなのか、親の責任放棄によるものなの
か、その時点では、区別できない。
(報道によれな、「経済的な理由」とはなっているが……。)
「やむを得ない判断だった」という言葉は、そういうところから生まれたのだろう。
が、現実は、さらにきびしい。
「受けていた奨学金も家の生活費に回され、高校に行きたくても授業料が払えないからや
めざるを得ないという高校生」(同、県議会報告書)も多いとか。
つまりこの問題は、それぞれの家庭の事情と、学校側の事情が複雑にからみあっている。
ニュースの記事だけを読んで、どちらがどうのと、安易に判断をくだすことはできない。
できないが、これだけは言える。
仮に貧困が理由であったとするなら、(だからといって、その2人の学生がそうであったと
言っているのではない。念のため)、貧困であることは、その学生たちの責任ではない。
ひょっとしたら、親の責任でもない。
この世の中には、働いても働いても、どうにもならない人というのは、ゴマンといる。
ザルから水がこぼれるように、お金のほうが逃げていく人は、ゴマンといる。
不運と不幸が、さらに追い打ちをかけることもある。
「入学金が未納だから、入学式には出られません」ではなく、そのあたりの事情を、もう
少していねいに、学校側は、調べるべきだった。
電話一本ですむ話ではなかったか?
学生たちに与えるショックの大きさを考慮するなら、それくらいの配慮はあってもよかっ
たのではないかと思う。
さらにつけ加えるなら、この事件は、県立高校で起きたという点である。
私立高校ならまだしも、こうした入学金や授業料が未納になったからといって、校長以下、
教職員の給料に影響が出るというわけではない。
だったらなおさら、(だからといって、親たちがそれに甘えてもいけないが)、もう少しお
おらかに構えればよかった。
ちなみに私の教室では、両親のうち、どちらか一方が、病気や事故で亡くなったばあい、
高校3年生まで、無料で教えることにしている。
(しかし実際には、無料にするというと、生徒のほうがそれを負担に感ずるようなので、
半額にするというケースが多い。)
今までもそうしてきたし、これからもそうする。
公的な援助を1円も受けていない私だって、そうしている。
いわんや「県立」高校をや!
それくらいの(やさしさ)は、みな、もってほしい。
言うまでもなく、その国のレベルは、弱者にいかにやさしいかで決まる。
教育のレベルも、また同じ。
(付記)
成功者も、そうでない人も、ちがいは、(紙一重)。
今、成功者と思っている人でも、明日のことはわからない。
事故や病気にしても、確率の問題。
「学校の教師」という、きわめて恵まれた職場環境にいる人にはわからないかもしれない
が、世の中は、もっと別の基準で動いている。
「規則だから……」という理由だけで、世の中は、動いているのではない。
規則のない世界で生きている人のほうが、はるかに多い。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●親が子育てできなくなるとき
●親像のない親たち
「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。
「子どもがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴え
た父親もいた。
あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがな
い母親すらいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、
不幸にして不幸な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。
つまりいわゆる「親像」のない人とみる。
●チンパンジーのアイ
ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん
頭のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、ス
イッチを押しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠し
たことがある。が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたして
アイに、子育てができるかどうか」(新聞報道)だった。
人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭
のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわ
んや、人間をや。
●子育ては学習によってできる
子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」とい
う体験があってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、
何らかの理由で十分でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。……と
言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。
先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけ
でその翌日、一〇本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭
の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」など。「離婚
家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家
庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それ
にともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを
主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実とし
て、冷静に見なければならない。
●原因に気づくだけでよい
これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決した
とみるからである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分
は解決したとみる。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全で
あっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある
人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくっ
た。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像
をつくった。
●幸福な家庭を築くために
……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。
もしあなたが、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っている
なら、あなたは今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せて
おかねばならない。いや、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。
そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育
てができるようになる。
と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、
なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と
考えてほしい。
(付記)
●なぜアイは子育てができるか
一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」
そのものが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そ
のアイが再び妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。こ
れについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデ
オを見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をした
からだと説明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。
アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によ
って、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、
子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当
の理由ではないのか。
(参考)
●虐待について
社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有
効回答五〇〇人・二〇〇〇年)。
また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどき
ある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。そ
の結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐
待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは
虐待に近い行為をしているのがわかる。
一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。
●ふえる虐待
なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年ま
での八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七
七二五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)
虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実
母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二
五三七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・
三%となっている。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
仕事で家族が犠牲になるとき
●ルービン報道官の退任
二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務
省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけ
に、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。
一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪わ
れた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京
から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざま
な苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。
●家族がバラバラにされて、何が仕事か!
日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのた
めにゆがめられた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」
と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授
が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が
「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。
さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような
判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えてい
ない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何
をか言わんや、である。
ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言
った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに
答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。
●落第を喜ぶ親たち
日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、ア
メリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜ん
で」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに
積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本
が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
親が子どもをだますとき
●世間体を気にする人
夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を病院か
ら連れ出してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかし
い」と言って、小さな雑貨店をがんばり続けた女性(八五歳)もいた。
気持はわからないわけではないが、しかし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動
をするようになる。S氏(八一歳)もそうだ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけて
きた。そこで隣人がかけつけてみると、S氏は受話器をもったまま玄関先で倒れていた。
隣人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけると、S氏はこう言ったという。「近所に
恥ずかしいから、どうかそれだけはやめてくれ!」と。
●日本の文化は、恥の文化?
恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日本人は、世
間体をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして世間体を気にする人
には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざますら、いつ
も他人と比較しながら決める。そしてその結果、周囲の人よりよい生活であれば安心し、
そうでなければ不安になる。それだけではない。
こういう尺度をもつ人は、自分よりよい生活をしている人をねたみ、そうでない人をさ
げすむ。が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめることになる。先
の雑貨点を営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言っ
てきた。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏
も、自分より先に死んでいった人たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑
っていた。
●息子の土地を無断で転売
こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気に
したものになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間
体を飾る道具に利用されることも多い。たとえばYさん(七〇歳女性)がそうだ。
Yさんは言葉巧みに息子(四二歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま
息子に無断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、
「先祖を守るために親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を
守るのは子どもの義務だ」とも。Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。も
ちろんそれで親子の縁は切れた。
息子はこう言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行
動は、おかしい。おかしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、こ
れだけは言える。
恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっか
くの、それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、
それも皮肉なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●今朝・あれこれ(4月13日)
●「無」の世界(The World of "Nothing")
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so,
our exisitance stands on this "Nothing". Then we ask ourselves, what we are. Some
people say, there is another world beyond this world. But from that another world, this
world where we live is another world itself. Is there another world beyond this world?
+++++++++++++++++
昨夜、こんなことを書いた。
「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。
私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。
理由がある。
私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。
しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。
この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。
これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?
何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。
逆に、こんなふうに考えてみてもよい。
よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。
そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。
そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。
人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。
(3100・万・年だぞ!)
空間にいたっては、さらにアテにならない。
私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。
「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。
が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。
(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)
が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?
どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。
日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。
もう少しわかりやすく言えば、こうだ。
日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。
しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。
しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。
……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。
もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。
私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。
が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。
(ゾーッ!)
つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。
もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。
ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。
さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。
「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。
私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。
するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。
あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。
今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?
????????????????
わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。
アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。
私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。
この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。
+++++++++++
※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。
それについて書いた原稿です。
+++++++++++
●フェムト秒
ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……
「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日
独のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズ
を受けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。
今は固体表面に吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応
を起こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でそ
の挙動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。
このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フ
ェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚い
た。
ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、
その研究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト
秒単位の観察」というのには驚いた。
わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍し
て、やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒というこ
とになる。さらにかみくだいて言えば、1000兆秒というのは、この地球上の310
0万年分に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒とい
うのは、そういう時間をいう。
こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間
が観察できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という
問題を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生
きることができたら、そのたった1秒で、3100万年分の人生を生きることになる!
ギョッ!
昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だっ
た。
ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中
がガチガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけで
も、地球の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から
数百万年もかかる。
しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちが
ゆっくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ご
く自然に動いていると思っている。
ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとして
も、あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間
に、地球上の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅している
かもしれない!
……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私
は今、カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短
い時間だが、もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチま
での間に、3100万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチ
までを一秒と、だれが、いつ、どのようにして決めたか。
アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在するこ
とがわかっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次
元、そしてそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できな
い。)ここでいう時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。
たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、
(反対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たと
えばロケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。
しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケ
ットに乗っている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますま
すめまぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数
百回も世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでた
っても、ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、
宇宙の果てにはたどりつけないということになる。
こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者から
メールを受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。
私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。
これを人間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数
年分過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。
反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、
不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人
の三〇年分、四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと
三〇年。あと三〇年は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日
分にしか生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういうものらし
い。
いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万
年分の人生を送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1
秒を長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることが
できたとしたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60
年、生きることができることになる。
……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。
幼児が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人
がもつ時間の単位とはちがうということ。
当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感
ずる1秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、
たった1日でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。ある
いはもっとかもしれない。
つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよ
く理解するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02-9-17)※
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●人間主義vs自然主義(Humanism vs Naturalism)
Human-beings are not the superior to other animals. Human-beings are also a part of
nature and therefore human-beings can not exisit apart from the nature. Now is the
time when it is very important for the Japanese to take Naturalism instead of
Humanism.
++++++++++++++++++
人間は、万能?
万物の霊長?
人間だけが、最高の生物?
とんでもない!
そういう発想が支配的になったのは、
イギリスでの産業革命以降のこと。
その代表格となったのが、フランシス・
ベーコン。
1561~1626年の人物である。
フランシス・ベーコンは、「自然征服論」
を書き、「知識と科学で、自然を支配、
征服することができる」と唱えた。
『知は力なり』という有名な言葉も、
残している。
その流れは、やがてアメリカに伝わり、
戦後、日本にそのまま移植された。
その象徴となったのが、田中角栄の
「列島改造論」。
その結果、小さな小川ですら、コンク
リートで埋め尽くされた。
私たち日本人がもっている自然観は、今でも、
おおかた、その(流れ)の中にある。
だからこの日本では、「近代化」といえば、
立ち並ぶビルや、その間を縫うように
して走る、高速道路のことをいう。
が、こうした常識は、けっして世界の
常識ではない。
たとえば、ミシェル・フーコがいる。
1926~1984年の人物である。
彼はいわゆる「人間主義」に疑問を
いだき、その人間主義からの訣別を
唱えた。
ミシェル・フーコが自然主義の代表格というわけ
ではないが、こうして人間主義と自然
主義が、今、するどく対立している。
が、一度、作られた意識というのは、
そうは簡単に、変えられない。
5、6年も前のことになるが、1人の
オーストラリア人が、私にこう聞いた。
「ヒロシ、どうして日本では、山を
コンクリートで覆うのか」と。
日本人には見慣れた景色でも、オースト
ラリア人にとっては、そうでない。
それにそのオーストラリア人は、驚いた。
そこでミシェル・フーコは、こう説いた。
「人間は、それほどまでに完全な動物
なのか」と。
答は、「NO!」。
むしろ、知恵が働く分だけ、人間は
ほかの動物たちより、邪悪な生物かも
しれない。
さらに優劣ということになると、何を
もって、「優」といい、何をもって、
「劣」というか、その基準がよくわからない。
人間が優秀なのは、人間に対してだけ。
そういう意味では、つまり人間という
動物を総合してみると、人間ほど、
自己中心的な生物はいないということに
なる。
よい例が、捕鯨問題である。
「クジラがふえれば、水産資源が減る」と
説く日本政府。
「だからクジラは殺してもいい」と説く
日本政府。
そうした発想は、山を切り刻み、谷を埋め
尽くし、高速道路ばかりを作る、あの列島
改造論の延長線上にある。
そうそう、その人間主義で思い出したが、
ほとんどの幼稚園児は、人間は、他の動物たち
とはちがうと考えている。
「人間も、動物の仲間だよ」と教えても、
「ちがう」と言う。
「人間は、動物ではない」と。
人間も、動物の仲間である。
それ故に、人間も自然の一部である。
人間は、自然を離れて、人間では、ありえない。
で、冒頭に書いたことに話がもどるが、
人間は、万能ではない。
万物の霊長でもない。
人間だけが、最高の生物というのは、
明らかに、まちがっている。
だから山の中に、一本の道路を通すに
しても、私たち人間がまずすべきことは、
そこに住む動物たちに許可を求める
ことである。
もちろん動物たちは何も言わない。
しかしそうであるならなおさら、私たちは
動物たちに謙虚でなければならない。
捕鯨問題にしても、「クジラがふえれば、
水産資源が影響を受ける」というのは、
あまりにも短絡的。
身勝手。
自己中心的。
タイトルに、「人間主義vs自然主義」と
書いたが、現在深刻な問題となりつつある
地球温暖化(火星化)の問題にしても、
結局は、人間主義がもたらした弊害と
いうことになる。
人間主義に洗脳されてしまった私たち
日本人。
その日本人の私たちには、むずかしいこと
かもしれないが、今こそ、自然主義に立ち返る
べきときに、来ている。
最後に、一言。
あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、
容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。
今一度、長岡半太郎の言葉を、ここで読み返して
みようではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人間主義 自然主義 長岡
ベーコン ミシェル フーコ)
+++++++++++++++
少し前にも取りあげましたが、
原稿を一作、掲載します。
私が9年ほど前に書いた原稿
です。
+++++++++++++++
●ゆがんだ自然観
もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。
「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシ
ンのよう」と。
この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。
が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。
日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。
が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や
農地が失われている。
自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにし
ても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そう
いう謙虚さをもつことである。
少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切に
しましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 9日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page006.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●制限設定(J・マスター)(My Personal Law)
To limit my own life is often very important for us to habe a better life, for example, not
tell a lie, not to break even a smallest rule or pay back all debt in less than a week.
++++++++++++++++
自分の行動に、制限をもうける。
これは何かにつけて、大切なことである。
とくに、「私は人間関係の調整がへただ」
「だれとでも、結局は、仲たがいしてしまう」などと、
対人関係で悩んでいる人には有効である。
少し前、子育てをしていて不安でならないと
訴えてきた母親がいた。
そのとき書いた原稿の一部が、つぎのものである。
【不安なあなたへ……】
……もしあなたが、ここでいうような不安な親なら、自分の行動に、制限をつけるとよ
い。すべきことと、してはいけないことを分け、そのしてはいけないことについては、夫
なり、妻なりに任す。
たとえば子どもを叱るのは、夫(妻)に任す。説教するのは、夫(妻)に任す。大切な
判断をするのは、夫(妻)に任す。子どもの勉強をみるのは、夫(妻)に任す、など。ふ
つう子どもと接してイライラするようなことなら、それから遠ざかるようにするとよい。
こうした制限をもうける接し方は、「制限設定」という名で、心理学の分野でも、治療法
の一つとして確立されている(J・マスターほか)。
要するに、苦手なことはしないこと。だれにも、得意、不得意がある。親だから万能で
なければならないと、そういうふうに、自分を追いこんではいけない。自分を改めよう
と、思ってはいけない。無理をしてはいけない。
+++++++++++++++++
私も私自身に、いくつかの制限設定をしている。
(1)落ち込んだときは、重要な判断はしない。
(2)近所の人や身内とは、言い争わない。喧嘩をしない。(無視はするが……。)
(3)他人の家庭問題に、口を出さない。干渉しない。
(4)生徒(OB)たちの進学先などを、詮索しない。
(5)支払いなどは、支払いを1週間以上、延ばさない、などなど。
そのつど制限設定をしているので、数えたら、キリがない。
子育てについてもそうで、「これは親として、する」「これは子どもの友として、する」「し
かし~~はしない」と、そのつど、自分の行動に制限をつけるとよい。
一方、「これだけは、ぜったい、守る」というのもある。
とくに私のように、もともとどこか、いいかげんな人間には、大切なことである。
生まれも育ちも、あまりよくない。
たとえば、
(1)金銭的な約束は、かならず、守る。
(2)借金はしない。支払いは、1週間以内に、どんなことがあってもすます。
(3)安易な約束は、しない。したら、かならず、守る。
(4)信号など、社会のルールは、守る。
(5)ウソはつかない。ウソをつきたいときは、黙っている。
(6)おじょうずを言わない。お世辞を言わない。世間体を気にしない、などなど。
これも数えたら、キリがない。
言うなれば、これは自分自身の「法」のようなもの。
自分で制定して、自分で守る。
称して、『自分法』。
++++++++++++++++++++++++++
【自分法】(Personal Law)
第1条(生活規範)
(1)ウソはつかない。言い訳はしない。弁解はしない。
(2)約束は守る。安易な約束はしない。いいかげんなことは言わない。
(3)どんなささいなことでも、ルールは守る。
(4)人に迷惑をかけない。ゴミは捨てない。
第2条(健康規範)
(1)週5単位(40分x5)以上の運動をする。
(2)毎日、文章を書いて脳を鍛える。週3回のマガジン発行を、守る。
(3)不健康なものは、口に入れない。食べ物は注意して選ぶ。
(4)適正体重を守る。過食、運動不足は、いつもコントロールする。
第3条(行動規範)
(1)ありのままを、いつもさらけ出して生きる。
(2)嘘はつかない。いいかげんなことは言わない。
(3)グチ、悪口は、言わない。言ったら、その人とは、つきあわない。
(4)愚劣な人たちとは、交際しない。時間を無駄にしない。
第4条(家族規範)
(1)どんなことがあっても、妻や子どもは守る。
(2)妻や子どもには、常に誠実を心がける。
(3)妻や子どもには、心配をかけない。不安にさせない。
(4)家事は平等に分担する。山荘では、家事はすべて私がする。
第5条(仕事規範)
(1)いつも全力を出す。手抜きをしない。
(2)いつも仕事の前には、「今日が最後」「今が最後」と自分に言って聞かせる。
(3)同じことを繰りかえさない。
(4)いつも前だけを見て、進む。振り返って、クヨクヨしない。
++++++++++++++++++++++
こうした制限設定、つまり行動制限をもうけることによって、自分の近辺を整理すること
ができる。
もちろん(絶対法)ではないから、そのつど、臨機応変に考える。
あくまでもそのときの状況を見ながら、判断する。
なにごとも、がんこになり過ぎるのは、よくない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 行動制定 はやし浩司 制
限設定 行動制限 J・マスター 行動規範 はやし浩司 自分法)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【私の中の私】("Me" in me)
There are two "Me" in me. One is "Me", which is not myself. Another "Me" is me which is
myself. Sadly 99.99% of "Me" is me which is not myself, or controlled by the brain deep
inside myself. Then how can we seek and seize "Me", which is myself.
●スズメはスズメ
(私)の中には、(私であって、私でない部分)と、(私であって、私である部分)がある。
そのことは、庭に遊ぶ、スズメを見ればわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれのスズメを見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているよう
に見える。
が、どのスズメも、スズメという(ワク)の中でしか、生きていない。
あるいは江戸時代のスズメも、現在のスズメも、スズメはスズメ。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代のスズメも、スズメという(ワク)の中で、生きてきただけ。
もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。
●遅れている?
15年近くも前のこと。
子ども(生徒)たちと、こんな会話をした。
1人の子ども(中1、女子)が、私にこう聞いた。
「先生、TOKIOって、知っている?」「SMAPって、知っている?」と。
こういう質問を受けたときには、私は、知っていても、「知らない」と答えるようにしてい
る。
とくに理由は、ない。
そういう質問に答えるのが、面倒だからだ。
すると子どもたちは、こう言った。
「先生って、遅れているウ~」と。
そこで私は子どもたちに、こう言った。
「ぼくたちの時代にも、西郷輝彦とか舟木一夫とかいうのがいたよ」と。
子「そんな人、知らな~イ」
私「だろ……。でもね、10年後か、20年後か、いつかはわからないが、君たちも、自
分の子どもと、同じような会話をするかもしれないよ」
子「私たちは、遅れていないわよねエ~」
私「いいや、そうじゃない。君たちの子どもが、こう言う。『ママ、UPJOP(ユプジョ
ップ)って知っている?』と。そのとき君が、「そんなの知らない」と答えたら、きっと君
たちの子どもも、こう言うよ。『ママって、遅れてるウ~』とね」
子「何?、先生、そのユプジョップって?」
私「『TOKIO』のアルファベットを、1文字ずつ、つぎの文字に置き換えたものだよ。
Tのつぎは、Uだろ。Oのつぎは、Pだろ……」
子「そんなグループは、ないわよ」
私「ううん、ひょっとしたら、いつかそういうグループができるかもしれない」と。
私たちの世代が、西郷輝彦や舟木一夫に夢中になったのも、そのときの子どもたちが、T
OKIOやSMAPに夢中になったのも、一歩退いて見れば、同じ。
同じ(ワク)の中で、そのつど、同じように動かされていただけ。
●化粧を始めた女性
もう一つ、例をあげてみよう。
先日も電車に乗るやいなや、座席に座って、化粧を始めた若い女性がいた。
バッグから鏡と小物入れを取り出し、せわしそうに、顔をいじり始めた。
そのときもし、私がその女性にこう聞いたら、きっと、その女性は、こう答えるにちがい
ない。
私「あなたは、自分の意思で、化粧をしているのですか?」
女「はい、もちろん、そうです」と。
しかし実のところ、その女性は、もっと内なる力によって、動かされているにすぎない。
自分では意識しない、もっと内なる力によって、だ。
澤口俊之氏(「したたかな脳」日本文芸社)によれば、「私の意思」と思っているその意思
ですらも、実は、そのつど、前もって、脳の中で、先に作られているそうだ。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとしたとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、
あなたは、その命令に従って、自分の意思を決めているにすぎない、と。
つまり意思を決める前に、すでに脳は、前もって、その意思を決めるための活動を始めて
いるということになる。
今では、脳の中を走り回る、かすかな電気信号や化学物質の変化などもは、機能MRIや、
PETなどによって、外から、計数的にとらえることができる。
つまり(私の意思)と思っている(意思)ですらも、繰りかえすが、実は、それ以前に、
脳の中で先に作られているということ。
先の若い女性の例で言うなら、その女性は、自分の意思で電車の中で化粧を始めたつもり
でいるかもしれないが、実は、それ以前に作られた命令によって動かされているだけとい
うことになる。
その意思を前もってつくる部分、それがここでいう(私であって、私でない部分)という
ことになる。
●99・99%
こうして考えてみると、(私)の中のほとんどの部分は、(私であって私でない部分)とい
うことになる。
計数的に表現するのは正しくないかもしれないが、99・99%は、(私であって私でない
部分)と考えてよい。
私やあなたしても、その(ワク)の中で、生きているだけ。
生かされているだけ。
北海道の人も、沖縄の人も、人間は人間。
それぞれの人を見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているように見
える。
が、どの人も、人間という(ワク)の中でしか、生きていない。
あるいは江戸時代の人も、現在の人も、人間は人間。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代の人も、人間という(ワク)の中で、生きてきただけ。
●私自身のこと
たまたま今日の午後、古いビデオを見た。
アメリカ映画だったが、猛烈社員をテーマにした映画だった。
その猛烈社員は、寸陰を惜しんで、仕事をする。
恋人とデートをする時間もない。
どこへ行くにも、携帯電話とパソコンをもって歩く。
そのビデオを見ていたとき、ふと、私は横にいたワイフに、こう漏らした。
「若いころのぼくに、そっくり」と。
するとワイフが、すかさず、「そうね。あなたみたいね」と。
そう、あのころの私は、いつも何かに追い立てられるように、仕事ばかりしていた。
1か月で、休みが、1日だけという月も、何年も、つづいた。
もちろんそれがムダだったとは思わない。
私は私なりに懸命に生きた。
が、不思議なことに、それほどまでに懸命に生きたはずなのに、今、思い出してみると、
何も残っていない。
部分的に、(事実)が、記憶としては、残っている。
アルバムに張られた写真のように、事実としての思い出は、残っている。
が、それだけ。
それ以外に何もない。
そこで私はワイフにこう言った。
「この男性も、いつか、自分のしていることの空(むな)しさに気づくだろうか」と。
●では、(私)はどこに?
私「どうしてだろ?」
ワ「どうしてって?」
私「いいか、ぼくはみなより、何倍も、濃い人生を生きたと思う。でもね、何も残ってい
ない。どうしてだろ?」
ワ「あなたがいつも言っているように、あなた自身が、操られていただけだからよ」
私「……そう、そう思う。このビデオを見ながら、それに気がついた。この男性にしても、
自分の意思で、仕事をしていると思っているかもしれない。しかし実際には、(私であって、
私でない部分)に、操られているだけ」
ワ「もっと大きな力によって?」
私「大きな力というより、もっと内に潜む力によって、だ」と。
さらに最近の研究によれば、たとえば私たちが感ずる食欲にしても、脳のある部分が、コ
ントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マ
トラス・フライヤー)。
脳のある部分というのは、視床下部のことだが、その視床下部が、血中のグルコースやイ
ンスリン、コレシストキニン(CCK)、さらには消化器系由来のホルモンなどを監視しな
がら、そのつど、脳のほかの部分に向かって、シグナルを出す。
そのシグナルに応じて、脳が(意思)を決め、それをさらにつぎの段階へと、シグナルを
送る。
私たちが、「おなかがすいた」「何かを食べたい」と意識するのは、そのあと、ということ
になる。
これは食欲のメカニズムだが、こうしたシグナルは、何も食欲にかぎらない。
もちろん性欲も、その中に含まれる。
●性的エネルギー
あのジークムント・フロイトは、人間の生きる源泉に、性的エネルギーがあると説いた。
言いかえると、性的エネルギーこそが、人間の生きる源泉である、と。
これに対して、フロイトの弟子の、ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使い、この
見解の相違が、2人の間を決定的に遠ざける結果となった。
それはともかくも、生存欲が人間の生きる原点であるとするなら、フロイトの学説は、ま
さにその要点をついたことになる。
(生存欲)イコール、(性的エネルギー)ということになる。
そして私たちの日常的な行動のほとんどは、この(性的エネルギー)によって支配されて
いる。
若い女性が化粧をするのも、若い男性が、スポーツで励むのも、そこにいつも異性を意識
するからにほかならない。「意識する」というよりは、「性的エネルギーに操られて意識す
る」と言いかえたほうが、正確かもしれない。
で、この性的エネルギーには、ものすごいパワーがある。
大脳には前頭前野という部分があって、この部分に、理性の中枢があるとされている。
が、理性などでコントロールされるような代物ではない。
たとえば若い男性が、美しい女性の裸体を見たとする。
そのとき若い男性の脳の中では、ドーパミンというホルモンが大量に分泌される。
それが脳の線状体という部分を、刺激する。
線状体というのは、(報酬と行動欲求に関係する部分)、つまり条件反射を司る部分と考え
るとわかりやすい。
その反応がいかにパワフルなものであるかは、たとえばタバコ中毒になった人や、アルコ
ール中毒になった人を見ればわかる。
もし理性だけの力で、タバコをやめたり、酒をやめたりすることができるようなら、この
世の中には、タバコ中毒の人も、アルコール中毒の人も、いないということになる。
若い男性が、美しい女性の裸体を見たときも、脳の中では、まったく同じ反応が起きる。
空腹なとき、食物を見たときも同じ(同、ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マ
トラス・フライヤー)。
だから、知性や理性もじゅうぶんあるような大学の教授ですらも、セクハラ事件を起こし
たりする。
手鏡で、若い女性のスカートの中を、のぞいたりする。
●では「私」はどこに?
となると、たとえ0・01%ではあるにせよ、(私であって私である部分)は、どこにある
かということになる。
それを説明するために、もう一度、スズメに登場してもらう。
今一度、庭で遊ぶスズメを、よく見てほしい。
それぞれのスズメには、たしかに個性がある。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしている。
キーウィの枝の間を飛び回るスズメ。
畑の脇をチョンチョンと跳ねながら、餌をさがすスズメ、などなど。
しかしスズメは、スズメ。
が、もしそのとき1羽のスズメが、スズメであるという(ワク)を超えて、たとえば水瓶
の中に潜って、水遊び始めたとしたら、どうだろうか。
あるいは、花の花びらを一枚ちぎり、それで身を飾ったとしたら、どうだろうか。
そのスズメは、(ワク)を超えて、自分らしさを追求し始めたということになる。
が、それだけでは足りない。
水瓶に潜るにしても、花の花びらを一枚ちぎり、身を飾るにしても、スズメの中の(性的
エネルギー)によって、操られただけかもしれない。
そこでそのスズメがつぎに、こうしたとする。
餌をついばみ、その餌を、近くにいる年老いたスズメのところへもっていったする。
そしてその餌を、その年老いたスズメの前に、置いたとする。
そのときそのスズメは、あえて(私であって、私でない部分)に逆らったことになる。
(私であって、私でない部分)は、いつも、自分勝手でわがまま。
もともと生存欲、つまり性的エネルギーといったものは、そういうもの。
それがわからなければ、子どもの受験勉強で狂奔している親たちを見ればよい。
彼らとて、また、性的エネルギーの奴隷に過ぎない。
「うちの子さえよければ、それでいい」
「他人をけ落としてでも構わない」と。
……ということで、答は、もうおわかりのことと思う。
つまり(私であって、私である部分)というのは、(私であって、私でない部分)に逆らっ
た部分にあるということ。
もっと言えば、(私であって、私でない部分)が、「したい」と思うことを、否定する。そ
の否定するところから、(私であって、私である部分)が、生まれる。
●「私」を知る実益
こう書くと、では何のために、(私であって、私である部分)を知るのかという疑問をもつ
人がいるかもしれない。
実は、ワイフも私にそう聞いた。
「それがわかったからといって、それでどうなるの?」と。
実は、この問題は、「どうなるの?」程度では、すまない。
生きることの根幹に関わる問題が隠されていると言っても、過言ではない。
もし私やあなたが、いつも(私であって、私でない部分)に操られるまま生きているとす
るなら、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデガー)ということになる。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で生きているだけ。
生かされているだけ。
江戸時代のほとんどの人が、そうであったように、明治時代のほとんどの人が、そうであ
ったように、私やあなたは、「ただの人」。
自分ではそう思っていないかもしれないが、あるいは自分では、「私だけはちがう」と思っ
ているかもしれないが、そう思っているのは、私やあなただけ。
それがわからなければ、あなたが死んだあとのことを、ほんの少しだけ頭の中で、想像し
てみればよい。
死んだあとの、10年後とか、20年後でも、よい。
あるいは反対に、10年前、20年前に死んだ、あなたの知人や友人を思い浮かべてみれ
ばよい。
「ただの人」というのは、そういう人をいう。
つまり(私であって、私である部分)を知ることによって、その「ただの人」であるとい
う(ワク)を超えることができる。が、それだけではない。
●2つの実益
もう少し具体的に言えば、(私であって、私である部分)を知ることには、2つの実益があ
る。
ひとつは、自分らしく生きることができるということ。
「私は私」として生きることができる。
いつか「私は私の人生を生きた」という実感を、自分のものとすることができる。
この価値は大きい。
それを説明する前に、もう一度、私の若い時代の話を思い出してほしい。
私は、ビデオの中の男性のように、猛烈に働いた。
一時は、まさに餓鬼のかたまりのような人間だった。
しかし今、振り返ってみると、そこには、何も残っていない。
先ほども書いたように、(事実=記憶の1コマ)としての思い出はある。
たとえば少し前も、私が、TOYOTAのビッツ(もっとも安い車)に乗っていることを
知って、1人の子ども(小5男児)が、こう言った。
「ビッツ~ウ?」と。
明らかに、私をバカにした言い方だった。
そこで私はこう言ってやった。
「ぼくはね、君たちは信じないかもしれないが、30歳のころは、リンカーン・コンチネ
ンタルという車に乗っていたよ。運転手つきだったよ。どんな車か、知っているか? 当
時は、バスほどもある長い車だったよ」と。
私はその車で、東京と浜松の間を、週に1、2度は往復した。
そういう思い出は、(事実)として残っている。
が、しかしそれだけ。
何も残っていない。
恐ろしいほど、何も、残っていない。
●私が私であったとき
ただそのとき、(私であって、私である部分)が、ひとつだけあった。
「これは私だ」と言える部分である。
それはワイフが指摘してくれた。
ワイフがこう言った。
「あなたが社会の流れに背を向けて生き始めたときが、そうね」と。
結果としてみると、それがよかったのか悪かったのかはわからない。
しかし私はあるとき、こう心に決めた。
「私ひとりくらい、社会に背を向けて生きる人間がいてもよいのではないか」と。
今でこそ、フリーターという言葉がある。
しかし当時の日本で、あえて(流れ)に逆らって生きる人間は、ほとんどいなかった。
私が三井物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったときも、私を知っている人たち
は、みな、こう言った。
「あの林は、頭がおかしくなった」と。
当時は、そういう時代だった。
そういう時代の中で、私は、あえて心に誓った。
「生涯、肩書きや地位とは無縁の世界を生きてやろう」と。
ワイフは、それを指摘した。
「そのときのあなたは、(私であって、私である部分)をつかんだのかもしれないわ」と。
●生きがい
そして、もうひとつの実益。
もし「ただの人(das Mann)」で生きるなら、それでは生きたことにはならない。
仮に20年を生きたとしても、30年を生きたとしても、20年とか、30年を、1日に
して生きたにすぎない。
しかし「私であって、私である部分」で生きた人は、たった1日でも、その1日を、20
年として、あるいは30年として生きることができる。
けっして、大げさなことを言っているのではない。
(生きる)ということは、(死を乗り越えて生きる)ことをいう。
死ぬことを恐れてビクビクして生きるというのであれば、すでにその人は死んでいること
になる。
私がそう言うのではない。
あのキング牧師が、そう言っている。
「死ぬための何かを発見できなかった人は、生きる価値はない(If a man hasn't discovered
something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.)」
と。
もう少しわかりやすい訳をつけると、こうなる。
「命がけでできることを発見できない人は、生きていてもしかたない」と。
この言葉を逆に読むと、こうなる。
「そのために死ぬことができる、何かを発見した人こそが、本当に生きていることになる」
と。
さらに「命がけでできることを発見した人は、死すらも克服できる」とも読める。
わかりやすく言えば、私たちは死ぬことを恐れる必要はない。
恐れなければならないことは、死ぬことではなく、死ぬまでにどう生きるか、それがわか
らないこと。
命がけでできることを、発見できないこと。
それこそ、まさに恐怖。
生き地獄!
(私であって、私である部分)を知ることによって、ひょっとしたら、私やあなたは、(死
の恐怖)すらも、乗り越えることができる。
●愛、慈悲、そして仁
99・99%の人は、99・99%の生活の中で、(私であって、私でない部分)に振り回
されているだけ。
振り回されていると気づくこともなく、振り回されているだけ。
その(ワク)の中で、生かされているだけ。
そういう意味では、私たち人間も、庭に遊ぶスズメと、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。
そこでもう一度、(私であって、私でない部分)を考えてみる。
考えてみるが、輪郭(りんかく)が、なかなか見えてこない。
それもそのはず。
(私)を知るということは、それほどまでにむずかしい。
そう簡単にはできない。
ソクラテスもそう言っているし、ギリシアのターレスもそう言っている。
『汝自身を、知れ』と。
私を知ることは、哲学の世界でも、究極の目標にもなっている。
しかし、その反対側にあるものなら、わかる。
(私であって、私でない部分)の反対側にあるもの、である。
そのためには、まず、(私)から(私)を取り去ってみる。
徹底的に、取り去ってみる。
その結果残るのが、「無私の世界」。
この無私の世界から、もう一度、私をながめてみる。
(私であって、私でない部分)をすべて取り去り、その上で、あえて、(私であって、私で
ない部分)が求めることと、反対のことをしてみる。
わかりやすく言えば、(私であって、私でない部分)がしたがること、つまり人間が本来的
にもつ(どん欲さ)に対して、あえて、反対のことをしてみる。
(どん欲)さの反対側にあるものを、「自己犠牲」というのなら、自己犠牲でもよい。
その自己犠牲の中でも、究極の自己犠牲が、キリスト教でいう、「愛」であり、仏教でいう、
「慈悲」ということになる。儒教でいう、「仁」にも通ずる。
●終わりに……
ここに書いたことにしても、私個人にとっては、いわば努力目標のようなもの。
だからといって、私は、生きがいを手にしたことにはならない。
死を克服したことにもならない。
キリスト教でいう「愛」がわかったわけでも、仏教でいう「慈悲」がわかったわけでもな
い。
もちろんそれらを実践しているわけでもない。
道のりは、まだまだ遠い。
やっと山のふもとの、その入り口にたどりついたようもの。
しかし、ここに書いたことは、おおかたの点では、まちがっていないと思う。
あのサルトルにしても、意識から、自我(=私)を取り除こうとし、死を克服する手段と
して、最終的に、「無の概念」に到達する(『存在と無』1943)。
そのために、いかにして「無私」の状態をつくるかということ。
それが(私であって、私である部分)を知るための、第一歩ということになる。
そこにほんの少しでも打算が混入すれば、その時点で、「無私」は、霧散する。
(私であって、私でない部分)に操られた奴隷に、なりさがる。
ともかくも残り少ない人生。
私の人生も、秒読みの段階に入った。
今のままでは、この先、20年とか30年を、1日にして生きることになってしまうかも
しれない。
何としても、そういう無様(ぶざま)な人生を送ることだけは、避けなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 無私 愛 慈悲 仁 私で
あって私でない部分 私論 はやし浩司)
(付記)
今日(4月12日)、ワイフとドライブをしながら、こんなことも話した。
ワイフが、「あの世ってあるの?」と聞いた。
それに対して、私は、「不治の病か何かになって、生きる可能性が、1000に一つもない
と言われたら、ぼくは、あの世が、1000に一つあるという可能性に、自分の希望をつ
なぐよ」と。
ひょっとしたら、あの世はあるのかもしれない。
この世そのものが、大宇宙という、(ありえない世界)であるとするなら、あの世のほうが、
ずっと現実味のある世界ということになる。
その可能性は、1000にひとつどころか、もっと高い。
反対にこの世のほうが、幻覚(?)ということも考えられる。
私たちは光と分子の織りなす、幻覚の世界で、生きている(?)。
「謎は、死んだときにわかるかもね」
「それまでのお楽しみね」と。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【4月12日・土曜日】(April 12, Saturday)
●二男が、やってくる!(My son with their families will come back to Japan)
My son with their families will come to Japan during the days of Hamamatsu Festival.
Akiko's sister agrees to provide them with whole sets of clothes to wear for the festival.
Nowadays only registered people in the district can participate the festival. They are
very lucky! Akiko's sister is in charge of the festival of the district.
二男が、孫たちを連れてやってくる。
ちょうど連休中なので、浜松祭りを見せてやることができる。
二男も、いつか、そう言っていた。
「家族に浜松の祭りを見せてやりたい」と。
で、何とか、祭りの法被(はっぴ)を、息子夫婦に着させてやりたい……ということにな
った。
私の町内にも、屋台はあるが、浜松の中心部までは行かない。
……ということで、義兄たちに相談する。
が、今では、それが簡単ではない。
いわゆるモグリの参加は、できないしくみになっている。
つまり祭りの参加者は、登録制。
しかも前年度までに、登録しておかねばならない。
年々、浜松祭りは、盛大になる一方。
見物人だけでも、50~100万人。
その分だけ、管理がきびしくなった。
服装にしても、提灯から足袋(たび)まで、既定のものでなければならない。
義兄も、あちこちへ相談してくれた。
が、ダメだった……!
……とあきらめていたら、ワイフの妹が、その町内の祭りの世話役を、長年、していると
のこと。
つまり「親分」。
ワイフが相談すると、イチもニもなく、「いつでも、どうぞ」「法被は、ぜんぶ、そろえて
あげるから」と。
バンザーイ!
二男夫婦は、祭りに参加できることになった!
その浜松祭り。
「凧(たこ)祭り」とも言う。
毎年5月3日、4日、5日に行われる。
とくに、4日、5日の夜の練り(ねり)が、おもしろい。
おもしろいが、浜松祭りは、見る祭りではない。
参加して楽しむ祭り。
参加しなければ、ただの野次馬(失礼!)。
さっそくデニーズに連絡すると、デニーズも喜んでくれた
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●ヒル氏の「2、3週間」(Another 2 or 3 weeks?)
Mr. Hill says, in another 2 or 3 weeks, there will be a possible movement of North
Korea, regarding the 6-nation conference of Nuclear weapons of North Korea.
He repeats the same words again and again, saying, "in another two weeks".
He seems to like these words. But nothing has been changed. Nothing
has been different.
++++++++++++++++
ことあるごとに、ヒル氏は、こう言う。
「2、3週間のうちに、動きはある」と。
07年の11月ごろから、同じような
発言を繰りかえしている。
しかし何も、起こらなかった。
何も変わらなかった。
今回(4月11日)も、こう言った。
【ワシントン10日聯合】
「北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議で、米国の首席代表を務めるヒル国務次官補は、10
日、シンガポールでの米朝協議が、6カ国協議合意2段階措置の履行に大きな助けになった
とし、早ければ、向こう2~3週間以内に、2段階措置を完了するための方策がまとまる可
能性があることを示唆した」と。
……もう、うんざり!
希望的予想のオンパレード。
……というより、アジア人的思考性が、
まったく理解できていない。
アングローサクソン的な(YES・NO)は、
このアジアでは、通用しない。
とくにあのK国では、通用しない。
今日は4月11日だから、2、3週間後
というと、4月25日~5月2日という
ことになる。
もしそれまでにK国が動かなければ、
(動くはずはないが……)、ヒル氏よ、
今度こそ、責任を取ってほしい。
交渉のための交渉は、もううんざり!
5月2日になったら、このつづきを、
書いてみたい。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●不可解な米朝会議(Un-understandable US-N.Korea Conference)
What is going on with the US-N. Korea Conference? Here is an answer. President Kim
is under very bad condition of health.
+++++++++++++++
アメリカのヒル氏は、K国の金氏と、
いったい、何をどう話しあったのか?
たがいに「満足した」「前進した」と
言いあっている。
が、その一方で、南北関係は、悪化の
一途。
そんな中、アメリカのワシントン・ポスト
紙は、米朝は「あいまい決着」をめざした
と報じた。
が、それでもわからない。
理解できない。
どうしてか?
あいまいにすること自体、K国の思うつぼ。
どうしてアメリカは、こうまでK国に
気をつかい、妥協に妥協を重ねるのか。
しかも同盟国(?)の日本や韓国を
裏切ってまで……?
実は、その答は、金xxの健康問題に
あった。
毎日新聞は、こう伝える。
「高額なドイツ製の心臓治療機器が、
K国に運ばれている」と。
なるほど、そうだったのか。
そういうことだったのか!
++++++++++++++++++
まず南北関係の悪化について、朝鮮N報は、
つぎのように伝えている(4月12日)。
++++++++++
(朝鮮N報)K国は10日午後、金剛山の離散家族面会所工事現場に勤務していた韓国の
調達庁職員一人を追放した。K国は先月27日に開城工業団地の韓国側当局者11人を追
放して以降、「韓国側当局者の軍事境界線通過を許可しない」という立場を表明してきた。
++++++++++
一方で、わけのわからない米朝会議。
両国は、いったい、何を話しあっているのか。
時事通信は、つぎのように伝える。
++++++++++
(時事通信)11日付の米紙ワシントン・ポストは、K国の核計画申告をめぐり、米朝両
国がプルトニウム問題を最優先課題とし、K国によるウラン濃縮やシリアへの核協力疑惑
については、あいまいさを残した形で決着を図る方向で大筋合意したと報じた。
++++++++++
大前提として、金xxは、核兵器、および
核兵器開発を放棄しない。
金xxにとっての核兵器は、K国という巨大
カルト教団の本尊。本尊そのもの。
力の象徴。力の根源。
もっと言えば、恐怖政治の根幹。
金xxから核兵器を奪ったら、金xxは、ただの
カラス。
K国にしても、ただの最貧国。
国力にしても、日本の山陰地方の1県ほどもない。
だれにも相手にされない。
金xxも、それをよく知っている。
その核兵器、核兵器開発を放棄しろと迫る5か国。
金xxが、「うん」と言うはずがない。
ないが、「うん」と言い始めた。
(あいまいな言い方)かもしれないが、「うん」と
言い始めた。
なぜか?
実は、金xxの健康状態は、きわめて悪化している。
毎日新聞は、つぎのように伝える。
++++++++++
(毎日新聞)K国の平壌に先月下旬から今月初旬までの間、高額なドイツ製心臓治療機器
や心臓病関連の研究書などが集中して搬入されていたことが11日、わかった。北京の複
数の外交関係者が明らかにした。金xx総書記(66)を含む最高幹部の治療に使われる
のではないかとの観測が出ている。
++++++++++
それにもう一つ。
++++++++++
(毎日新聞)故金日成(キムイルソン)国家主席の誕生日(15日)にあわせて毎年、平
壌で開かれてきた国家的行事、「4月の春 親善芸術祭典」が突如、隔年開催となり、この
春は見送られた。
++++++++++
つまり金xxにしてみれば、6か国協議どころでは、
ないということになる。
「4月の春」など、とても開催できない。
別の報道によると、金xxは、すでに執務能力を
失いつつあるという。
とすると、米朝の一連の不可解な行動が、論理的に
理解できる。
それは、こうだ。
すでにK国側の金氏(米朝会議の当事者)は、ポスト
金xxをにらみながら、協議に臨んでいる。
↓
アメリカもその情報を得ている。
↓
アメリカは、金xx亡き後は、金氏(米朝会議の当事者)を
後押しして、K国での実権を握ろうとしている。
ならば、なぜその一方で、南北関係が悪化しているか、
ということになる。
理由は簡単。
金xxを側近で支える軍部と、金氏(米朝会議の当事者)、
つまり外交部との間に、キレツが入っている。
つまり主導権争いが激化している。
そこで金(米朝会議の当事者)は、国内向けに、その
(成果)を、ことさら誇張して伝える必要がでてきた。
軍部をなだめるために、である。
つまり金氏(米朝会議の当事者)は、軍部をなだめながら、
金xx亡き後のK国の実権を握ろうとしている。
だからアメリカにしても、「ここはあわてず……」と
なる。
(あいまい決着)でも、何でも構わない。
様子を見る。
時間を稼ぐ。
今ごろ、ヒル氏は、ライス国務長官にこんな話を
しているにちがいない。
ヒ「金xxの命も、時間の問題です」
ラ「そのようですね」
ヒ「だから、ここはあわてず、ひとまず金氏(米朝会議の当事者)の顔を立てておくこと
にしましょう」
ラ「そうね。今、金氏をつぶしてしまったら、アメリカは、K国とのパイプを失うことに
なるわね」
ヒ「そこなんですよ、国務長官。今は、そのパイプを大切にする」
ラ「でも、金xxは、核兵器を放棄するかしら?」
ヒ「もちろん、今は無理です。ですから、そこはあいまいにしたまま、金xxの死を待つ
しかありません」
ラ「そうね……。でも金xxが死んだあと、金氏は、核兵器開発をどうするつもりかしら」
ヒ「多額の補償金と交換に、金氏は、核兵器と核兵器開発を放棄するはずです」
ラ「だれが、そのお金を出すの?」
ヒ「もちろん、日本です。4兆円は、もくろんでいます」
ラ「4兆円ねえ。それなら軍部も黙るわね」
ヒ「そうですよ、ライス国務長官。そのあと、アメリカは、金氏について、K国に介入し
ていけばいい」と。
金xx亡き後、K国内では権力後継問題が、起きる。
しかし金氏をのぞいて、みな、中国派とみてよい。
アメリカとしては、そのために、何としても、金氏を自分の手中に収めておきたい。
……という構図で、現在の動きをながめると、それなりに説明がつく。
すでに世界は、ポスト金xxのK国を念頭に、動き始めている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 7日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page005.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●感動(Strong Emotion)
To be deeply moved in one thing is an essential part of our life. If not, our life itself
becomes miserable and rather meaningless. Those who are deeply moved are also
moved in other parts of their lives. Therefore it is very important for us to listen
beautiful music and see beautiful flowers. These sorts of emotion will broaden you mind
and your world in which we live.
+++++++++++++++++
美しい音楽を聴いて、感動する。
それはそれ。
しかし同じように、美しい花を見ると、
同じような感動が、よみがえってくる。
音楽を聴いて、感動する。
美しい花を見て、感動する。
一見、別々の反応のように見えるが、実は、中身は同じ。
人間の脳は、それほど器用にはできていない。
たぶん、そのつど脳の中で、モルヒネ系の
ホルモンが分泌されるためではないか。
エンドロフィン系とか、エンケファリン系の
ホルモンである。
ほかにもある。
美しい景色を見たり、内容のある本を読んだり
するときも、そうだ。
やさしい人や、心の温かい人に出会ったときも
そうだ。
そのつど、感動する。
つまり感動する手段はさまざまであっても、
脳が示す反応は、同じということ。
このことは、ひとつの重要な教訓を含む。
つまり感動というのは、レベルの問題、ということ。
ひとつのことに感動する人は、同じように、
ほかの分野でも感動する。
ひとつのことに、たいへん感動する人は、
同じように、ほかの分野でも、たいへん感動する。
反対に、ものごとにあまり感動しない人は、
ほかの分野でも、あまり感動しない。
だから子どもでも、あるひとつのことに、
大きく感動させるということは、とても重要である。
音楽でも、絵画でも、本でも、何でもよい。
それから受ける感動が、連続性をもって、
ほかの分野でも、子どもは感動するようになる。
言いかえると、その感動の度合いが、その人の
心の深さを示す、バロメーターということになる。
たとえば同じような景色を見ても、たいへん
感動する人もいれば、そうでない人もいる。
たいへん感動する人は、それだけ心が深い
ということになる。
このタイプの人は、音楽を聴いても、絵画を見ても、
本を読んでも、人と会っても、そのつど、たいへん
感動する。
そうでない人は、そうでない。
中には、音楽など、聴いたことがないという人がいる。
本すら、読んだことがないという人がいる。
驚くべきことに、この時代にあって、映画はもちろん、
DVDすら見たことがないという人がいる。
「何を見ているのですか?」と聞くと、
「テレビかな……? 野球中継はかならず見る」と。
心の深さというのは、相対的なもの。
心の深い人からは、浅い人が、よくわかる。
しかし浅い人からは、深い人がわからない。
さらに、心の浅い人には、深い人が、バカか、お人好しの
ように見えるのかもしれない。
あのマザーテレサについて、「あんな何も得にならない
ようなことを、よくできるな」と言った、高校生がいた。
しかしひとたび、心が広くなると、それまでの
世界が一変する。
人生観も一変する。
生きている世界が、その分だけ、広くなる。
広くなった分だけ、人より、何倍も豊かな人生を
送ることができる。
だから……。
すばらしい音楽を聴こう!
すばらしい景色を見よう!
すばらしい本を読もう!
すばらしい人に出会おう!
くだらない音楽は、遠ざけよう!
くだらないテレビ番組は、遠ざけよう!
くだらない雑誌は、遠ざけよう!
くだらない人たちとは、遠ざかろう!
わかりやすく言えば、いつも本物だけを
相手にする。
小さな心がけかもしれないが、その心がけが、
私やあなたの人生を、何倍も、何倍も、
豊かなものにする。
そう、その分だけ、私やあなたは、長く生きる
ことができる。
……これが今日の、私の努力目標ということに
なる。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ギャグ化する子ども世界(Those children who make everything gags)
Less and less children think things serious, or make them all gags. For example when I
give them a subject in which I ask them what sort of movie they wish to make, if they
are the producer of the film. They give me back funny and strange stories which have no
serious stories. Is this the phenomenon which occurs only in Japan?
++++++++++++++++++
ますます子どもの世界が、ギャク化している。
恐ろしいほど、ギャグ化している。
作文などを書かせても、まじめに考えよう
とすらしない。
ギャーギャーと騒いでいるだけ。
そしてその勢いで、突飛もないことばかり書く。
先日も、こんなテーマで作文を書かせてみた。
「あなたが映画の監督なら、どんな映画を
作りますか。あらすじを書いてください」と。
それに対して、「悪魔が、人間の骨を食べる」
「バカがバカの頭をたたいて、脳みそをつぶす」
「ゴジラが海で、スイミングする」とかなど。
思考性に連続性もなければ、統合性もない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、音声に
しているだけ。
こうした現象が起きる原因を、すべてテレビの
ギャク番組のせいにすることはできない。
しかし「そうでない」とは、もっと、言えない。
あるいは、相乗効果なのかもしれない。
さらに言えば、日本人全体がギャク化しているため、
テレビでもその種の番組が、もてはやされるのかも
しれない。
どうであるにせよ、こうした現象を、いったい、
どれだけの人たちが知っているだろうか。
文科省の役人にしても、このことにどれだけ、気づいて
いるだろうか。
最近の子どもたちは、ますますものごとを、まじめに
考えなくなってきている。
反対に、まじめに考える人を、バカにし始めている。
そんな現象すら見られる。
まさに、一億、総ギャグ化!
右を見ても、ギャグ、左を見ても、ギャグ。
こんなことで、いいのか、日本!
++++++++++++++++++
●破壊的行動障害
その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序
ある環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動
性をともなう(DSM―IVの診断基準を参考)。
ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破
壊的行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の
問題もあるが、私の経験でも、二〇~三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)
という子どもがそうだった。
U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができな
いばかりか、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは
鋭いため、学習面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子ど
もたちを巻きこんで、騒いでばかりいた。
私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。
このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。
つぎに教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭で
きびしいしつけを受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。
そのため親にその認識がないことなどがある。
原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部
分に原因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいる
が、じゅうぶん疑ってみる価値はある。
このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができ
ないことがある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自ら
をコントロールするようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、こ
のタイプの子どもには、それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった
印象を受ける。
本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのき
びしいしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むし
ろ明るく、活発な子どもと誤解するケースが多い。)またこうした行動障害は、集団教育の
場で現れることが多く、そのため、家庭では、ほとんど目立たない。しかし家庭でのしつ
けがきびしければきびしいほど、その反動として、外の世界で、強く、その症状が現れる。
対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいし
つけを、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでも
ない。このタイプの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけているこ
とが多い。つまりそういう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子ど
もは、ふつうの叱り方では、効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということ
になるが、それは集団教育の場では、できるだけ避けなければならない。
いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、
マンツーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようにな
った。これからの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●やるせない虚脱感
少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダ
から落として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教
育者のみならず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。
こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しか
しつぎの瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言
ったらよいかもしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。
怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。
もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、
講師のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もう
と思って、席に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見
つめているではないか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。
で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそうい
うことには無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言っ
た。
「先生、へんな味はしなかった?」と。
とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう
一人の中学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとな
って、こう叫んだ。
「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する
能力もないのか。出て行け!」と。
あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾さ
せてほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。
で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかっ
た。そういうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人
間を、「バカ」という)を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手に
しなければならない虚しさ。教えなければならない虚しさ。そういうものが、どっと私
を襲った。
恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を
否定されたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいる
が、そんなものではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさで
ある。
で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最
近でも起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明
らかに変化している。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさ
ぎを二階のベランダから落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考
えることを、今の子どもたちは、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹を
たてていたら、仕事そのものが成りたたない。
で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、
道理がわかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチ
ャメチャなことをしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できない
にも、関係ない。
えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者
と考える。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。
デタラメ。はっきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進
学高校ほど、陰湿ないじめが多いというのは、そういう理由による。
最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、
その知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、お
かしな子どもを、どんどんと生産している。
で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふく
らんでいる。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザ
ーで、踏み荒らされるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなるこ
ともある。私一人の力では、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年
金が入るなら、明日にでも足を洗うかもしれない。
こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。
一日、一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。
そのためには、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあ
とは、自分で行動させ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊か
な子どもにする。
そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)
【ギャグ化現象】
日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ご
まかす」などという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くこと
をいう。
●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかける
と、「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐら
かす。「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちて
くると、地球はこなごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」
「からし明太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、
その場をごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャ
ジャ~ン」と答えるなど。
こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、そ
れだけで軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オースト
ラリアの友人に、このことを話すと、その友人は、こう言った。
「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わ
ない。その分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさ
げて、考えてみたい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●多弁児
昔も、よくしゃべる子どもというのは、たしかにいた。しかしここ一〇~二〇年、少し
様子が変わってきた。意味のないおしゃべりを、絶え間なくつづける子どもがふえてきた。
一〇人のうち、二~三人に、その傾向が見られる。
「ヒント、ほしいな」「ははは、これだ、これだ」「S君、やってくれ」「計算の神様、ど
うか、お助けを」「無限だ」「答は、無限だ」「チャンスはいっぱい」「ははは」「おれは、お
客だ」「一か月のお客だ」「それならいい」「できた、できない、多分、まちがっている」「孫
はときどき、天才になる」「おいらは、アホだ」「合っていれば、丸々」「丸々ちゃん」と。
これは実際、ある子ども(小四男児)のひとり言を、そのまま収録したものである。
原因としては、テレビゲームが、まず疑われる。
小学三、四年生についてみると、かなり大雑把(ざっぱ)な調査だが、こうした多弁性
が強い子どもは、一方で、ほとんどがテレビゲーム漬けになっているのがわかる。とくに
多弁性が強い子どもは、まちがいなく、そうである。このタイプの子どもは、脳に飛来す
る情報を、そのまま口にする。思考力や判断力、とくに抑制力が、ほとんど働かない。ま
さに脳が乱舞したような状態になる。その状態で、しゃべりつづける。
いわゆるADHD児でも、同じような傾向が見られるが、いわゆる多動性は、あまり目
立たない。
こうしたひとり言を放置すると、授業そのものが崩壊してしまう。うるさいというより、
騒々しい。まともに耳を傾けていると、気がヘンになる。そこでさらに強く注意して、そ
れを制止しようとする。が、効果は一時的なものでしかない。
さらにきつく注意すると、今度は、まわりの子どもたちが、神経質になってしまう。だ
から、それもできない。本人も、騒々しい割には、神経質で、気が小さい。あまり強く叱
ると、先生をおびえるようになることがある。そんなわけで、指導にも、限界がある。
こうした多弁性のある子どもを、私は勝手に「多弁児」と呼んでいる。「支離滅裂型多弁
児」というのが、正確かもしれない。もしあなたの子どもに、以下のような傾向がみられ
たら、少なくとも、テレビゲームは避ける。
●意味のないひとり言を、間断なく話す。
●制止しても、その場の効果しかない。
●ひとり言を言っている間、視線が目まぐるしく動く。
●始終、落ちつかない様子を見せる。小刻みな動きがみられる。
●突発的に、思いついた行動に走ることが多い。
静かに人の話を聞く。……それは教育の基本でもある。しかしそれができないとなると、
教育そのものが、成りたたなくなる。そんなわけで、今、現場の教育は、危機的な状況に
あるといってもよい。一クラス、一人、二人ならまだしも、このタイプの子どもが、三人、
四人もいると、もう静かな授業などできない。たがいにしゃべりあうなどの、相乗効果が
起きてしまう。それにその周囲の子どもが、巻きこまれる。そのため授業は、崩壊する。
(030923)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●内気、依存的な子ども
内気、依存的な子どもについて、それは「性格」だとか、「性質」だとかと、誤解してい
る人は多い。しかし誤解は、誤解。
人間の心的エネルギー(リピドー)は、みな、共通である。その心的エネルギーを、前
向きに出すか、あるいは反対にブレーキをかけるかで、積極的な子どもと、消極的な子ど
もに分かれる。
もう少しわかりやすい例で考えよう。
ここに100CCのバイクがある。良質な燃料をつんで、それなりの道で走れば、軽く
150キロ・時のスピードが出る。しかしそのバイクでも、もし車輪にヒモやロープがか
らんでいると、車輪は回らない。回らない分だけ、スピードは遅くなる。ばあいによって
は、止まってしまう。
この車輪にからむヒモやロープが、子どもを、内気にしたり、依存的にしたりする。思
いついたままで恐縮だが、そのヒモやロープになるものを、ざっと書いてみる。
●過干渉……子どもの意思的な活動を阻害する。強度の過干渉は、子どものやる気を奪う
のみならず、自我を軟弱にする。
●設計図……「こうあるべき」という親の設計図が、子どもの自我をつぶす。子どもは、
自信のない、ハキのない子どもになる。
●過保護、溺愛……子どもから社会性をうばう。社会を生きるために必要な問題解決の技
法を、身につけられなくなる。
●威圧、暴力……親への恐怖心は、子どもの住む世界を、かぎりなく小さくする。とくに
親の情緒不安ほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。
●過関心……子どもの心を射抜くような視線、過関心は、子どもからハツラツとした「子
どもらしさ」を奪う。
●マイナスのストローク……「あなたはやはりダメな子」式の暗示がかかってしまうと、
子どもはその暗示の呪縛から抜け出られなくなる。
もちろん子ども自身の問題もある。いろいろな恐怖症、強迫観念など。同じ過干渉でも、
それを受け取る側の子どもによっては、過干渉になったり、しないこともある。たとえ
ばデリケートな子ども(例、過敏児、敏感児など)ほど、同じ刺激でも、より大きく反
応する。
ほとんどの親は、「どうしてうちの子は、内気なのでしょう。もっとハキハキさせる方法
はないのでしょうか」という。しかしその原因のほとんどは、家庭教育の失敗(失礼!)
である。だから子どもだけをみて、子どもをなおそうとしても意味がないばかりか、かえ
って症状を悪化させてしまう。
改めるべきは、親の育児姿勢、育児態度、それに家庭環境である。……こう言い切るの
は危険なことだが、しかしそれくらいの覚悟を、今の若い母親たちはもってほしい。
(030724)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ギャグ ギャグ化する子ど
もの世界 子どもとギャグ まじめに考えない子ども 破滅的行動障害 破滅行動 破滅
構造障害 破滅行動障害児 行動障害児 破滅的行動障害児 はやし浩司)
(参考)
●アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)として、
つぎ
のものをあげている。
Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症)
Mood disorders(気分障害)
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)
●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)に
つい
ては、つぎのようなものをあげている(同)。
Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害)
Other disorders(他の障害)
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse
Other
The evaluation should include interviews with the family and individual interviews with the
child
and parents. Assessment should include a complete medical history and physical
examination,
history of the onset and development of school refusal symptoms, associated stressors,
school
history, peer relationships, family functioning, psychiatric history, substance abuse history,
and a mental status examination. Identification of specific factors responsible for school
avoidance
behaviors is important. Collaboration with school staff in regards to assessment and
treatment is
necessary for successful management (Table 5) .
School personnel can provide additional information to aid in assessment, including review
of attendance records, report cards, and psychoeducational evaluations.
The School Refusal Assessment Scale includes a child, parent, and teacher form and is
reported
to have a high reliability and validity.
学校拒否症の診断基準は、高い信頼性と、有効性が報告されています。
Several psychologic assessment tools (e.g., teacher and parent rating scales,
self-report measures, clinician rating scales) have been developed to provide additional
information about the child's general functioning at home and at school. These tools may be
used
by a physician, but because of time constraints, a school psychologist or mental health
counselor should administer these scales whenever possible. Generalized scales (e.g., Child
Behavior Checklist, 21 Teacher's Report Form 22 ) identify areas of difficulties. Specific
rating
scales assess for symptoms and severity of psychiatric problems, including anxiety and
depression.
Although these scales are used frequently in children with school refusal, their clinical
usefulness in developing effective treatment strategies has not been demonstrated.
More specific assessment scales to measure symptoms of school refusal have been
developed recently. They provide functional and symptomatic assessment of refusal
behaviors and therefore provide more valuable information. The School Refusal Assessment
Scale
(Table 6, online) 23 includes a child, parent, and teacher form and examines school refusal in
correlation to negative and positive reinforcers. This scale has been reported to have high
reliability and validity. 23,24
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●A Home in the meadow(牧場のホーム)
やっと見つけた!
とうとう見つけた!
涙が出た!
うれしくて、涙が出た!
デビー・レイノルズの歌う、「A Home in the Meadow」!
映画『西部開拓史』の中で、目的地の
カルフォルニアを前にして、馬車の中でみなが歌う。
あのシーンが、今でも脳裏に、しっかりと焼きついている。
YOU TUBEさん、ありがとう!
ほんとうに、ありがとう!
やっと、ほんとうに、やっと、私は、
この歌にたどりつくことができた!
Away away come away with me
Where the grass grows wild
Where the wind blows free
Away away come away with me
And I will view a home in the meadow….
メロディーは「グリーンスリーブズ」だが、
歌詞は、ここに書いたとおり。
「♪さあ、行こう、私といっしょに
草が生い茂り、風が吹く地へ。
さあ、行こう、私といっしょに
そして牧場に、私たちの家を見るでしょう……」
この歌が見つからなくて、あきらめること、45年~。
1962年の作品ということだから、私が、15歳のとき。
私は、いつしかその代用として、「Green sleeves」ばかりを、
聞いていた。
今でも「グリーンスリーブズ」は好きだが、
しかし私がほんとうに聴きたかったのは、
この曲、この歌詞、そしてデビー・レイノルズの
この声。
ありがとう!
ほんとうにありがとう!
(080408)
(付記)
反対に、私が制作したYOU TUBEに感謝の言葉が
書き込まれることがある。
「交換学生として浜松に住んだことがあります」とか、
「このあたりをよく散歩しました」とか。
外国の人は、日本を見る。
何でもない画像が、彼らを喜ばせる。
そのやりとり……というか、たがいのコミュニケーションが
すばらしい。
「A home in the meadow」をポストしてくれた人には、
さっそく、礼の書き込みをしておいた。
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
【10月11日、08年】(April 11th, 2008)
+++++++++++++++++
おとといは、どしゃ降り。
昨日は、快晴。
そして今朝は、またまた雨。
私の気分も、それに応じて、変わる。
+++++++++++++++++
●京都・嵐山(Arashi-yama, Kyoto)
4月9日、ワイフと嵐山へ行ってきた。
よかった。
すばらしかった。
感動した。
水色の空を背景に、
風のそよぐ若葉。
桜も満開。
「夢のよう……」と、何度も独り言。
(当日撮った写真は、「音楽と私」→「その他」で
お楽しみいただけます。どうぞ!)
●米朝会議(Mr. C. Hill has betrayed Japan many times in the past and again this time
too. Then what is the 6-nation conference?)
「成果があった」と、はしゃぐK国。
「進展はったが、時間が必要」と、がんばるアメリカ。
ワーワー騒いで、ものごとを既成事実化しようとするK国。
失敗を、なかなか認めないアメリカ。
そんな中、K国の食糧事情が悪化している。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。
「K国の全域で食糧難が悪化する中、
比較的食糧事情が良好とされるP市でも、
今月から6か月間にわたり配給が中断されるなど、
5月以降に大量の餓死者が発生するとの懸念が出ている。
K国の人権状況をウォッチする人権団体の
「良き友人」がニュースレターで明らかにした。
平壌市の一部幹部は、1990年代後半に最悪の経済難に
見舞われた「苦難の行軍」の時期でさえ、これほど
長期の配給中断はなかったとコメントしている」と。
当時、つまり1990年代の終わり、日本の政府は、
120万トンという、めちゃめちゃな食糧をK国に
提供している。
K外務大臣(当時)は、こう言い切った。
「これでK国が動かなければ、責任を取る」と。
しかしK国は、何も動かなかった。
K外務大臣も、何も責任を取らなかった。
そして今、同じような状況が、生まれつつある。
聯合ニュースも、「1990年代よりも、ひどい」と。
さて、米朝会議。
「何としても成果を出したい」とあせるヒル、そしてライス。
気持ちはわかるが、そもそも相手を読みまちがっている。
金xxは、もともとまともな人間ではない。
そんな人間を相手に、まともな交渉ができると思うほうが、
おかしい。
K国側の代表の金xxにしても、たぶん、上にあげるのは、
ウソの報告ばかり?
あるいは取り巻きも、こわくて、金xxに事実を
伝えられないのではないか?
アメリカとK国だけで、こうして会議を重ねること自体、
日本に対して、たいへんな背信行為。
日本は、事前の連絡と、事後の報告だけをもらうだけ。
当のアメリカは、とっくの昔に、日本を切り捨てている。
韓国も、切り捨てている。
日本にとって、K国の既存核兵器は、最大の脅威。
おまけに拉致問題もある。
この2つをさておいて、米朝だけで、勝手に話が
どんどんと進んでしまう。
あのね、K国の最大の目的は、米朝相互平和条約、もしくは
相互不可侵条約なの。
わかる?
これさえ結べば、もうアメリカなどこわくない。
その時点で、日米安保条約、米韓軍事同盟は、死文化する。
自由に日本や韓国を、攻撃できる。
今のところ、それはありえないとしても、核兵器は、
そのためのもの。
ヒル氏ががんばったくらいで、金xxは、核兵器を、
簡単には手放さない。
金xxにとっては、核兵器は、パワーの象徴。
カルト教団の本尊のようなもの。
韓国や中国はいやがるとしても、この際、日本が取るべき
方法は、ただ一つ。
K国を自己崩壊させる。
あとの管理は、韓国や中国にやらせればよい。
日本の知ったことではない。
今まで、さんざん脅かされたのだから、その責任は、韓国や
中国に取ってもらえばよい。
核開発問題も、拉致問題も、それで解決する。
K国の民衆も、それで解放される。
今が、そのチャンスの時ではないのか。
ノラリクラリと6か国協議をかわしながら、
時間を稼げばよい。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 5日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page004.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference
between men who has language ability and the apes which do not have language ability.
It means to improve the language ability is an essential part of education, especially
when the boys or girls are at the proper age for the education.
++++++++++++++++
ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
++++++++++++++++
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
私も、そう思う。
つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。
が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。
先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。
「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。
これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。
つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。
その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。
それを「適齢期」という。
私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。
この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。
で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成
されるの
ではないか。
この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。
澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●子どもの脳が乱舞するとき
+++++++++++++++++
話し方に統合性がなく、支離滅裂。
ADHD児や、自閉症児特有の症状は、
ほかにない。
今、そんな子どもがふえている。
+++++++++++++++++
「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ…
…、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、
話がポンポンと飛ぶ。
頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。
動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思う
と、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲ
ラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。
まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。
多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をす
る。
三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。
小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプ
の子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑
えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。
「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れ
から、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上
いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」
子どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。
ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへ
の攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。
●「荒れ」から「新しい荒れ」
昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を
使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行
為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからな
くなった」とこぼす。
日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の
差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導
が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)
と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「か
なり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。
こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、
昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこ
そこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同
じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。
実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的に
テレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見てい
るときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動
きが速い。速すぎる。
こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられ
なくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居な
どを、静かに聞くことができない。
浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。
一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつか
さどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テ
レビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがな
い新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。
その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。
学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 思考が乱舞する子ども 会
話に統合性がない子ども 乱舞 乱舞する子供)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
子どものやる気
●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。
+++++++++++++++
……2才の娘がいます。
「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要である
と思います。
今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされており
ましたが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良い
のでしょうか?
つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人に
なるまでにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?
個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失
いがちなので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあ
ります。
金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対
価として得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教
えるのは大変難しいと思いました。
お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対して
は難しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。
「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今
これを買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない
様にしたら(親がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)
などとも考えてしまいました。
(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)
以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。
++++++++++++++++
こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足
りなかった」「説明不足だった」という思いである。
講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。
いつも、結論だけを話し、それで終わってしまう。
しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするよう
に、ごく気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、(1)
子どものやる気と、(2)金銭感覚について、考えてみたい。
++++++++++++++++
●子どものやる気
子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、
決定されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。
この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求め
て満足させられること」。この二つで、決まる。
たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、そ
の空腹感を満足させる。……子どもは、それで満足する。
これが主体性のはじまりである。
この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。
たとえばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、
基底的な不安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その
人の心のあり方に、大きな影響を与えると言われている。
この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことがで
きる。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。
つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによっ
て、自分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。
たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から
差しこむ日光によって、明るくキラキラと輝いている。
そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、
泣いて乳を求める行為である。
そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変
化を楽しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、そ
れを手放す。これが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。
このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能
力が引き出される。
こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てるこ
とができる。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。
これをチャート化すると、こうなる。
(主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)
→……、と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、
自ら引き出していく。
どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描い
て増大するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとな
にしても、やる気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決ま
るということになる。
言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可
能とは言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。
私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといっ
て、子どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまり
そこに「教育」が介在する余地があるということになる。
それについては、また機会があれば、説明したい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どものやる気 やる気の
ある子供 コンピテンス)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【私論】
●意思(Will…"Me", which is not "Me" myself)
What part of myself is "Me" myself and what part is not. 99.9% of ourselves are "Me",
which is not "Me" myself. We are controlled and moved by "Me" which is deep inside of
the brain. Then where is "Me", which is myself? The answer is here:
++++++++++++++++
少し前、「意思」について書いた。
それをもう一度、読みなおしてみる。
++++++++++++++++
最近の研究によれば、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだという
ことがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのば
し、それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作ら
れ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、というのだ。
詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では
別の活動が始まっているという。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる
前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだ
されるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうこと
になる。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、すごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的に
とらえてしまう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かと
いうことになってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。
私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の台所へおりていく。そのとき私は、こう
思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、台所へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事
をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従って
いるだけということになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」
に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対
の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我
がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分というこ
とか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放され
るといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よ
くわかるようになる。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包ん
でいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにち
がいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるため
に、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男
性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、
それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコン
トロールされている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思
で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏
の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている、と。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……?
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何
かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしま
う。
あああ!
+++++++++++++++
●「私」論
そこで改めて、「私論」。
私の中には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)がある。
たいはんは、……というより、99・9%は、(私であって私でない部分)ということにな
る。99・99%でもよい。
そういう点では、人間は、動物そのもの。
動物とちがうと考えるほうが、おかしい。
言いかえると、私たち人間も、フロイトの言葉を借りるなら、「性的エネルギー」の奴隷に
過ぎない。
「私は私の意思で動いている」と思っている人でも、実は、その奧から発せられるシグナ
ルによって、「私であって私でない部分」によって、動かされているにすぎない。
そのことがわからなければ、庭で遊ぶスズメたちを見ればよい。
北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ。
その範囲を超えて、スズメが、別のスズメになることはない。
どのスズメも自分の意思で行動していると思っているかもしれないが、そんなスズメにし
ても、(私であって私でない部分)に動かされているだけ。
だから、北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ、ということにな
る。
そこで私とは何か……ということになるが、それについては、先週、私は、こう書いた。
(私であって私でない部分)と闘う部分が、「私」と。
たとえば腹が減ったとする。
目の前に食物があったとする。
もしそのとき、その食物を手に取り、食べたとするなら、あなたは(私であって私でない
部分)に動かされただけということになる。
が、もしそのとき、その食物を袋か何かに入れて、冬空に震えるホームレスの人かだれか
に届けたとするなら、それが「私」ということになる。
さらに言えば、究極の「私」、つまり(私であって私である部分)は何かと問われれば、そ
れが、キリスト教でいう「愛」であり、仏教でいう「慈悲」であり、また儒教でいう「仁」
であるということになる。
さらにつきつめて言うなら、視床下部あたりから発せられるシグナルを、大脳の前頭前野
でコントロールするところに、「私」があるということになる。
けっして、シグナルの奴隷になってはいけない。言いなりになってはいけない。
奴隷になったとたん、私は(私であって私でない部分)に、動かされてしまう。
そして結果として、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)になってしまう。
もう少し、この話をかみくだいて説明してみよう。
先ほど、私はスズメの話を書いた。
そのスズメが、もし、こんな行為をしたらどうだろうか。
一羽のスズメが、食べている餌を、「それを食べたい」という意思を押し殺しながら、さら
に細かくかみ砕き、年老いて元気のないスズメに分けてやったとしたら……。
とたん、そのスズメは、スズメであるという(ワク)を超えたことになる。
ただのスズメではない。
(私であって私でない部分)から、脱したスズメということになる。
しかし現実のスズメは、自分の餌を食べることで、精一杯。
それ以上のことは考えない。しない。
だから繰りかえすが、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメということに
なる。
またその(ワク)から一歩も、外に出ることはない。
が、悲しいかな、先ほども書いたように、私たち人間も、その(ワク)の中で生きている
に過ぎない。
その(ワク)の中で生きているだけなのに、「私は私」と思いこんでいる。
(ワク)の中で生かされていること自体に、気がつかない。
しかも、だ。
私たちが自分の意思と思いこんでいる「意思」にしても、澤口俊之氏によれば、実は、脳
の中で、前もって作られるものだという(「したたかな脳」日本文芸社)。
わかりやすく言えば、(まず脳の中で、何らかのシグナルが発せられる)。しかしその脳の
中の動きを、外から知ることはない。
自分で知ることもない。
こうした操作は、無意識下でなされる。
そのシグナルに応じて、(自分の意思が作られる)、と。
たとえば庭を見ながら、食事をしていたとする。
庭の木々は、昨夜の雨で、しっとりとその葉先を濡らしている。
そのとき私は、ふと、テーブルの上にある、大学イモを箸でつかむ。
そのとき私は「私の意思で、大学イモを箸でつかんだ」と思うかもしれない。
が、その意思にしても、すでに、私がぼんやりと庭を見ているときに発せられたシグナル
によって作られたものにすぎないということ。
別の脳は、そこに大学イモがあることを、すでに認識していたはず。
私はテーブルについたとき、その大学イモを目で見ている。
においも嗅いでいる。
そこで無意識下において、脳の中で、さまざまな反応が起きる。
「食べたい」という意識が起きるのは、そのあとのこと、……とういうことになる。
つまりこうして常に、私たちの内部では、(私であって私でない部分)が作られていく。
「自分の意思ですらも、実は、脳の中で、作られるも」(澤口)というのは、そういう意味
である。
で、そしてこうした一連の心理操作は、人間もスズメも、同じということになる。
ちがうと考えるほうが、おかしい。
が、ここでまた別の新たな問題にぶつかる。
(私であって私でない部分)がわかり、(私であって私である部分)が、それから分離でき
たとして、「それがどうした」という問題である。
しかしその答も、庭で遊ぶスズメの中にある。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
スズメがそれでよいと思っているなら、それもよいだろう。
もしあなたも、そう考えているなら、私とて、もう何も言う必要はない。
俗世間に埋もれ、俗人として生きるのがよい。
99・99%の人間は、みな、今まで、そうして生きてきたし、今も、そうして生きてい
る。これからも、そうして生きていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私であって私論 私論 意
思論 作られる意思 操作される意思 はやし浩司 私とは)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●今日・あれこれ(08年4月8日)
We have no CHOICE but to follow the US foreign diplomacy whatever it is. This is the
"Real" on which Japan stands. US and North Korea would be coming to an agreement
about North Korean's nuclear weapons, but only for their own profits.
++++++++++++++++++++
この数日間、いろいろあった。
いろいろあって、ほとんど原稿を書いていない。
気になっていることは、いくつかある。
その中のひとつ。
昨日、『BEN HUR』を演じた、チャールトン・
ヘストン氏が死んだ。
映画でだけでしか知らなかった人だが、さみしい。
どうしてだろう?
ひとつの時代が、また去っていった?
今は、そんな感じがする。
で、今度、久しぶりに、『BEN HUR』を
一度、見てみよう。
それに今日は、シンガポールで、米朝会議が
開かれることになっている。
6か国協議とは言いながら、日本や韓国は、
完全にカヤの外。
アメリカは、自国の国益だけを最優先に、
協議を進めている。
日本にその力があれば……。
日本にそれだけの外交能力があれば……。
今こそ、6か国協議をボイコットすべきとき。
しかし日本には、その力はない。
結局は、アメリカの言いなり。
K国の言いなり。
日本は、それでもアメリカに頭をさげて、
アメリカに追従していくしかない。
裏切られても、裏切られても、追従して
いくしかない。
こうした現実に、いったい、どれだけの
日本人が気がついているのか。
……ともあれ、今日も始まった。
みなさん、おはようございます。
+++++++++++++++++++
●自転車は、健康にいいぞ!(Bicycles)
Riding bicycles is very good for your health, which has been proved by some researchers
who work at Shimano co., Japan
+++++++++++++++++
自転車通勤をするようになって、35年
以上!
自転車が、健康によいことは、自転車に
乗っている人だけにわかる。
私には、わかる!
どうしてか?
自転車にしばらく乗らないでいると、体の
あちこちが変調してくる。
だから健康によい。
このほど、自転車部品の大手メーカーである、
シマノという会社が、興味深い検証実験を
した。
まず、それをそのまま紹介させてもらう。
++++++++++以下、産経新聞、4月8日付より、抜粋++++++++
自転車部品の大手メーカー「シマノ」(堺市堺区)が、社員を対象にメタボリックシンドロ
ーム(内臓脂肪症候群)対策に、自転車通勤が役立つかどうかの検証実験を行ったところ、
効果があったことがわかり、9月に大分県別府市で開かれる「第63回日本体力医学会」
で発表することになった。
同社は「企業イメージの向上のほか、健康面、さらには自動車通勤を減らし、地球環境改
善にも役立つ」と"一石三鳥"の効果を強調。今月から始まった厚生労働省の特定健診・特定
保健指導制度など、企業にとってのメタボ予防の先進事例となりそうだ。
(中略)
実験に参加したのは、30歳から56歳までの社員約50人。昨年8月から3カ月間、胸
に心拍数の測れる装置を付け、1日30分以上、週3回以上は通勤などで自転車に乗って
もらった。対象者の最長通勤距離は新大阪駅周辺からで片道27キロ、最短は3キロだっ
た。
実験では体重、血圧、体脂肪率なども測定。参加社員の体重は平均1・7キロ、体脂肪
率は1・6%減っていた。特に医師から糖尿病と血圧の薬を処方されていた52歳男性は
体重が94・1キロから89・2キロに、体脂肪率は27・8%から26・5%に減少し
た。
実験をアドバイスした名古屋市立大学大学院の高石鉄雄准教授は、「自転車は過体重の人で
も、ひざ、腰への衝撃が少ない。比較的強い運動が継続できたため、測定項目の改善にプ
ラスしたようだ」と分析する。
新大阪からの出勤者は、地球環境面にも配慮し、自動車通勤の場合の排ガスを換算しなが
ら走ったそうだ。同社では「健康面の好影響だけでなく、環境意識も強く芽生えた。デス
クワークで腰痛に苦しんだ人も治ったと聞きます」とアピールした。
+++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++
どうだい、わかったか!、と私は言いたい。
自転車のよいところは、高石教授も言っているように、「ひざ、腰への衝撃が少ない」こと。
それに自転車は、足だけの運動と思っている人もいるかもしれないが、けっして、足だけ
の運動ではない。
坂道などでは、両腕に力を入れて、ちょうどボートを漕ぐようにして、走る。
つまり上半身の運動にもなる。
私など、そのためか、今でも筋肉マンのように、胸の筋肉を、ピクピクと動かすことがで
きる。
さらに道路にだれもいないようなときには、大きく体を左右にくねらせて走るようにして
いる。
(おかしな走り方になるので、人がいるようなところでは、避けるようにしている。)
そういう走り方をすると、腹→腸の運動にもなる。
自転車は、体によい。
環境にもよい。
……ということで、もっともっと、みなさんにも自転車に乗ってほしい。
そうすれば、自転車の専用道も、もっとふえると思う。
自転車の走りやすい道も、もっとふえると思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自転車 自転車通勤 自転
車と健康 メタボ予防)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●6か国協議
アメリカの国益……核拡散と、プルトニウムの生産。
この2つだけを押さえれば、それでよし。
核兵器?
そんなものは、アメリカにとっては、どうでもよい。
それがわからなければ、ワシントンに視点を置いて、
考えてみることだ。
アメリカにとって(核兵器)というのは、中国の
核兵器をいう。
その中国はすでに、数百発以上ものICBMを完成
させている。
K国の核兵器など、ものの数ではない。
こわいのは、K国の核兵器が、たとえばアルカイダのような
テロ組織に渡ること。
核兵器を手にしたアルカイダは、どんな方法を使ってでも、
ワシントンで、それを爆発させるだろう。
プルトニウムについても、同じ。
そのまま(汚い爆弾)として、核兵器と同じように使える。
で、一連の米朝会議で、アメリカ側は、既存の核兵器
については、不問にするという姿勢を見せている。
しかしそれこそが、日本に対する最大の裏切り。
「日本の安全など、もうどうでもいい」ということか?
運搬方法などは、いくらでもある。
飛行機に載せて、東京につっこむという方法。
漁船に載せて、東京湾につっこむという方法。
何もミサイルだけが、運搬方法ではない。
この先、日本や韓国は、K国の核兵器の影に
おびえながら、K国と対峙していくしかない。
むしろ今ごろヒル氏は、こう言ってK国を説得しているに
ちがいない。
「アメリカの言うことを聞きなさいよ。
日本から、がっぽり、賠償金を取ってあげるから」と。
拉致問題を議題にしたとは言うが、そんなのは、
日本に対するリップ・サービスにすぎない。
その証拠に、K国側からの反応は、ゼロ。
まったくのゼロ!
ああああ……。
●ドバト
私の家の庭に、ドバトが住みつくようになって、
かれこれ20年以上になる。
毎年、庭の木の上に巣をつくる。
いつも私の庭へやってきて、休んでいる。
「きっとここが、ドバトにとっては、故郷なんだね」と
ワイフに言うと、ワイフも同意してくれた。
ときどき庭に餌をまいてやる。
それをドバトは、遠巻きにして、見ている。
フェンスに止まったまま、逃げようともしない。
今では、すっかり、私たち家族の一員になった。
そうそう昨日は、そのドバトが、子連れで
私の庭にやってきた。
ちょうど昼食時で、私たちは食事を取るのも
忘れて、ドバトの子どもを見ていた。
●息子たち
昨日、息子のEが、アメリカに向かって旅立った。
これから半年、サンフランシスコ郊外のNAPA
というところで、飛行訓練を受けることになっている。
電話があった。
「無茶、するなよ」と言うと、Eは、「パパ、ビジネス
クラスに座れるよ」と。
列車で言えば、グリーン車。
私「どうしてお前が、ビジネスクラスだ?」
E「一応、出張扱いだから……」と。
私だって、ビジネスクラスには座ったことがない。
「お前のような若造が」と思ったが、それは言わなかった。
かわりに、「豪勢だな」と言った。
息子は、それを聞いて、勝ち誇ったかのように、カラカラと
笑った。
で、そのあと、折り返し、もう1人の息子のSから
電話があった。
「連休に、日本へ帰るかもしれない」と。
とたん、ポーッと、心の中に灯がともるのを感じた。
息子夫婦というより、孫たちに会いたい。
電話が終わって、ワイフに、「今度こそ、ディズニー
ランドへ連れていってやろう」と言うと、ワイフも
うれしそうに笑った。
誠司、芽衣、楽しみにしていろよ!
じいちゃん、ばあちゃんが、日本中を連れていって
やるからな!
●挿入モード
先ほど、ふとした拍子に、ワードが、挿入モードから
置換モードに切り替わってしまった。
以前のバージョンだったら、ツールから元に
戻せたが、今、使っているのは、ワード2007。
あちこちいじってみたが、元に戻せない!
で、こうなると、お手あげ。
「どうしたらいいのだ!」……ということで、書庫から
マニュアルを取り出す。
……が、マニュアルを読みながら、画面の下をふと見ると、
そこの(置換モード)と!
試しにクリックしてみると、簡単に、挿入モードに
変わった。
「ナ~ンだ」と思ったとこころで、この話は、おしまい。
いや、ついでによく見ると、その横に、「nero Search」と
いうのが、あった。
検索窓らしい……。
試しに、文字を打ち込んでみた。
とたんその文字を含むファイルが、ズラズラと表示された。
すごい!
知らなかった!
ワード2007を使うようになって、もう1年以上になると
いうのに、いまだに新発見の連続。
「何かに使えそう」と思ったところで、この話は、本当に、
おしまい。
たった今、ワイフが、お茶を届けてくれた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
【BW生・募集中!】
(案内書の請求)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html
(教室の案内)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 5月 2日 1038号
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
*
http://bwhayashi2.fc2web.com/page003.html
★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749
11月1日現在、マガジンは第799号になりました。1000号まで、あと201号!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●Albert Einsteinの言葉
Here are some words, written or spoken by Albert Einstein, which teaches us a lot.
+++++++++++++++++
Einstein(アインシュタイン)の
言葉を集めてみた。
どれもよく知られた言葉である。
(出典:YOU TUBE)
+++++++++++++++++
●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.
方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺき
さを求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないま
ま、方法論ばかり説いているから、問題なのだ。)
●A person who never made a mistake never tried anything new.
まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、
まちがいを犯すことを恐れるな。)
●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.
すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであっては
いけない。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)
●I have no special talent. I am only passionately curious.
私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のこと
を天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)
●Imagination is more important than knowledge.
空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)
●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.
異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人
だ。(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)
●It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.
それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほ
かならない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつ
の問題に取り組んでいるだけだ。)
●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.
種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、
すべて育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際に
は、みな、育つ。)
●Love is a better teacher than duty.
愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛
をもってせよ。)(「~~しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほ
うが、重要である。)
●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を
解こうとするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)
●Once we accept our limits, we go beyond them.
限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)
●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure
about the former.
無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無
限につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、
宇宙については、私はよくわからない。)
●The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)
●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if
everything is a miracle.
2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべ
てのものが奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生
き方がある。すべてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)
●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.
成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値
のある人間になることを考えろ。)
+++++++++++++++++++++
先にも書いたが、どれも、よく知られた言葉である。
私のHPでも、何度か、とりあげたことがある。
●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.
方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺき
さを求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないま
ま、方法論ばかり説いているから、問題なのだ。)
科学者がよく陥るジレンマ。
それがこれである。
「何を研究しているかわからないまま、方法論ばかりを議論する」。
こんなことがあった。
文科省に、理科予算を決定する部課がある。
毎年、数百億円の研究助成金は、そこから配分される。
研究機関などからの申告をもとに、どの分野のどの研究者に、どれだけの予算をつけるか
を、決定する。
が、実際に決定するのは、文科省から委託を受けた、評議員たちである。
評議員たちが、研究目的や意義などを検討して、助成金の金額を決める。
が、実際には、おおざっぱに言えば、東大が、全体の2分の1。
残りの2分の1を、京大(=全体の4分の1)。
残りの4分の1を、全国の大学で、分けあっている。
その評議員の1人が、こんな話をしてくれた。
「中には、こんな研究をして何になるのかと、首をかしげるようなものも、ありますよ」
と。
その評議員は、一例として、『南中国における民族打楽器の研究』(改変)というのをあげ
た。
つまり「それがわかったところで、それがどうなの?」と。
アインシュタインがそういうことを考えながら、この言葉を書いたのかどうかは知らない。
しかし、「研究」にも、いろいろある。
人類全体に役立つ研究もあれば、そうでない研究もある。
一般論として、最近の研究者たちは、細部の、そのまた細部をほじくり返すことによって、
その道の専門家になろうとする。
ほかにライバルがいない状態をつくりながら、専門家としての地位を守ろうとする。
しかしこれでは、(目的)を見失う。
つまりそういう研究には、意味がない。
まず遠大な目的をもつ。
その目的に向かって進む。
方法論などというものは、あとからついてくる。
それが真の研究ということになる。
アインシュタインは、たぶん、それが言いたかったのではないかと思う。
++++++++++++++++++++
●A person who never made a mistake never tried anything new.
まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、
まちがいを犯すことを恐れるな。)
小さな世界に閉じこもって、無難な人生を送ることほど、楽なことはない。
何かをしているようで、結局は、何もしていない。
そんな人生である。
先日も、こんなことを言う人に出会った。
私にこう言った。
「林君、老後になったらね、生活をコンパクトにすることだよ」と。
しかし、どうして?
どうしてコンパクトにしなければならないのか?
その人が言うには、蓄(たくわ)えと、年金だけで生活できる態勢をつくり、こぢんまり
とした生活を旨(むね)とすべき、と。
そのときがくれば、そのとき。
しかしそれまでは、年齢など忘れて生きていきたい。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私は、そう考えた。
++++++++++++++++++++++++++
●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.
すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであっては
いけない。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)
「シンプル」という言葉を使って、アインシュタインが何を言おうとしたのか、私にはよ
くわからない。
ふつう「simple(シンプル)」というときは、「単純、明快、簡素な」という意味で
ある。
アインシュタインは、「made(作られる)」という言葉を使ったが、(モノ)にこだわる
必要はない。
たとえば、あの有名な(E=mc2)という公式にしても、シンプルすぎるほど、シンプル。
この公式、つまり4元運動量の公式が、世界の物理学を変えてしまった!
アインシュタインがいう、「シンプル」というのは、そういう意味か?
+++++++++++++++++++++++
●I have no special talent. I am only passionately curious.
私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のこと
を天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)
アインシュタインについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
「非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、
灰皿に食事を盛りつけるという行動もあったといわれている。
最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスは、カリフォルニア大
学バークレー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは、医学生時
代に統合失調症を発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資
料では、ミレーバとの破局は、アインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気
を患った息子に対しても、非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。
ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後
に本当に受賞し賞金をあげたとされている」と。
こうした人物像を読むかぎり、アインシュタインが、特別の人であったという雰囲気はな
い。
アインシュタイン自身も、自分は、ごくふつうの人間と考えていたようである。
++++++++++++++++++++
●Imagination is more important than knowledge.
空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)
自分のもっている知識だけを、絶対と思ってはいけない。
ときとして、自分の知識は、自分自身をしばってしまう。
自分をして、そのワクの中でしか、考えられなくしてしまう。
だから何らかの方法で、その(ワク)から、飛び出してみる必要がある。
アインシュタインは、そのひとつとして、(空想)をあげた。
別のところで、アインシュタインは、「常識ほどアテにならないものはない」というような
ことを言っている。
つねに私たちがもつ常識を疑ってみる。
とくに私たち日本人は、「型」にこだわりやすい。
「形」でもよい。
その代表的な例が、冠婚葬祭ということになるが、これについては、たびたび書いて
きたので、ここでは省略する。
つまり私たちがもっている常識ほど、私たちの進歩の障害となるものはない。
+++++++++++++++++
●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.
異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人
だ。(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)
これを読んで、「今の私がそうかもしれない」と思った。
毎日、私は、「この先にきっと何かがあるだろう」と思って、同じことを繰りかえしている。
しかしその日が終わると、いつもこう思う。
「今日も、何もなかった……」と。
あとは、この繰りかえし。
私は、「異常な人(Insanity)」なのかもしれない?
++++++++++++++++++++
●It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.
それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほ
かならない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつ
の問題に取り組んでいるだけだ。)
日本でも、『継続は力なり』という。
継続するところに、意味がある。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.
種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、
すべて育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際に
は、みな、育つ。)
「種を蒔く」ということと関係があるのかないのかは知らないが、無私、無欲で、他人の
ために何かをしてやることの尊さを、このところ、よく実感する。
あのマザーテレサもこう書いている。
I have found the paradox that if I love until it hurts, then there is no hurt, but only more
love.(私はこんなパラドックスを発見した。それが心を痛めるまで(人を)愛すると、痛
みは消え、さらなる愛を感ずる)」と。
「痛めつけられても、痛めつけられても、人を愛しつづけていると、その痛みは消え、さ
らなる愛を手にすることができる」と。
アインシュタインの言葉と、少し本旨がズレているように思うが、「種を蒔く」ことの重要
さを疑う人は、いない。
++++++++++++++++++++
●Love is a better teacher than duty.
愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛
をもってせよ。)(「~~しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほ
うが、重要である。)
アインシュタインという人は、子ども時代、かなり(ひどい?)教育を受けたのではない
かと思う。
ほかにも、それを思わせるような言葉を、いくつか残している。
それはともかくも、アインシュタインは、心のどこかで、いつも既存の教育に反発してい
たのかもしれない。
一説によれば、アインシュタインは、アスペルガー、もしくは学習障害児であったかもし
れないという(ウィキペディア百科事典)。
当時は、そうした子どもに対する理解も知識もない時代だったから、その分だけ、アイン
シュタインは、つらい子ども時代を送ったのかもしれない。
+++++++++++++++++++
●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を
解こうとするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)
私は、よく、「利口な人からは、バカな人がよくわかる。しかしバカな人からは、利口な人
がわからない」と書く。
あるいは、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわか
らない」でもよい。
だからといって、私が利口だとか、賢いと言っているのではない。
利口とバカ、賢さと愚かさは、あくまでも相対的なものにすぎない。
そのため、つねに私たちは、より利口になり、より賢くならねばならない。
立ち止まるのも、よくない。
立ち止まったとたん、その人は、後退する。
後退するのみならず、相手のレベルにまで、落ちてしまう。
きっとあるとき、アインシュタインも、ある人から、何かの問題を提起されたのだろう。
そのときアインシュタインも、こんなふうに考えたにちがいない。
「その問題を解くためには、その人の意識のレベルを超えなければならない」と。
つまりその人と、同じレベルでは、その人がその問題を解けないように、私も、解けない、
と。
ところで最近、私の身近でも、こんな事件が起きた。
ある女性(70歳くらい)が、私に、長々と説教をした。
「年上」というだけで、偉そうな顔をする人は、この日本には、ゴマンといる。
低俗な論理に、低俗な人生観。
まさに低俗のかたまりのような内容だった。
もっと言えば、演歌の歌詞を集めたような説教だった。
そこで私は、こう言った。
「私は、あなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と。
するとその女性は、突然、声を荒げてこう叫んだ。
「私だって、バカではない!」と。
本物のバカというのは、そういう人のことを言う。(失礼!)
++++++++++++++++++++++++
●Once we accept our limits, we go beyond them.
限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)
限界を認めることの恐ろしさ……。
それを私も、このところ毎日のように実感している。
敗北感などという生やさしいものではない。
限界を認めるということは、多くのばあい、自己否定につながる。
「今までの私は何だったのか?」と思うことほど、恐ろしいものは、ない。
そこで人は、2つのうち、どちらかを選択するように迫られる。
そのまま最後の最後まで、「私は私」と、つき進むか。
それとも限界を認めて、とことん自己否定を繰りかえして、その向こうに出るか。
前者は、むしろ楽な道ということになる。
それまでの自分を、そのまま踏襲すればよい。
しかし後者は、並大抵の人間では、できない。
ほとんどの人は、その前で、震えあがってしまう。
+++++++++++++++++++++
●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure
about the former.
無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無
限につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、
宇宙については、私はよくわからない。)
大きなニュースサイトでも、このところBLOGへの書き込みが自由にできるようになっ
ている。
昨日も、Y・ニュースの下の方に、こんな書き込みがあった。
米朝会談についての書き込みだが、いくつかを拾ってみる(要約)。
「どうしてアメ公が、極東アジアで、のさばっているのか。アジアの問題に、アメ公が、
口を出すな」
「K国など、日本の航空戦力だけで、こなごなに粉砕できる。さっさとやってしまえ」
「ただちに海上封鎖して、K国を兵粮攻めにしろ」と。
ほかにもいくつかあった。
が、このレベル!
愚かさと闘うための、ゆいいつの方法は、(思考する)こと。
しかし思考することには、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのような苦痛である。
しかしその苦痛を乗り越えないかぎり、自分の愚かさと闘うことはできない。
言いかえると、愚かな人というのは、いつも安易な道を選んで歩いている人ということに
なる。
で、アインシュタインの言葉。
この先、永遠に、愚かな人は、なくならないだろう。
+++++++++++++++++++++++
●The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)
アインシュタインの言葉の中でも、とくによく知られた言葉である。
「問いつづけること」と。
生きるための究極の目標は、真・善・美の追求に、集約される。
もちろんほかにもあるだろうが、わかりやすく言えば、この3つ。
真実の追求、絶対的善の追求、そして究極の美の追求ということになる。
学者や研究者は、真を追求し、哲学者や宗教家は、善と追求し、芸術家は、美を追求する。
が、生涯において、どの分野においてもそれができない、あるいはそれができなかったと
いうのであれば、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)、あるいは「た
だの人だった」ということになる。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、「ただの人」という言葉を使った。
では、どうするか?
「ただの人」にならないためには、どうするか?
答は、アインシュタインが教えてくれた。
つまり「問いつづけること」と。
+++++++++++++++++++++++
●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if
everything is a miracle.
2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべ
てのものが奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生
き方がある。すべてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)
ものが見える。
音が聞こえる。
歩ける。
話せる。
仕事ができる。
そこに妻がいて、家族がいる。
健康だ。
食事がおいしい……。
すべてが奇跡である。
アインシュタインは2つの生き方を対比させながら、当然、「すべてのものが奇跡である」
という生き方を選択している。
私も、まったく、同感である。
+++++++++++++++++++++
●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.
成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値
のある人間になることを考えろ。)
日本では、子どもに向かって、「偉い人になれ」と教える親は、今でも、少なくない。
日本では、地位や肩書きのある人、さらには金持ちの人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは、あまり言わない。
こういうとき英語国では、「respected man(尊敬される人)」という言葉を使う。
「尊敬される人」という意味である。
親たちは、子どもにこう言う。
「尊敬される人になりなさい」と。
「尊敬される人」というときには、地位や肩書きは関係ない。
金持ちであるかどうかも、関係ない。
ということで、「偉い人」というのと、「尊敬される人」というのでは、その間には、天地
ほどの開きがある。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私の頭の中では、そんなことが思い浮かんだ。
+++++++++++++++++++++
●アインシュタインの人物像について(ウィキペディア百科事典より転載)(参考資料)
アインシュタインの人物像について、
ウィキペディア百科事典には、かなり詳しく
載っている。
その一部を転載させてもらう。
この中で、いくつか気になる点がある。
そのひとつ。
世界的な玩具販売チェーン店に、「TOYZARUS」(トイザラス)
というのがある。
お気づきの方も多いと思うが、その店の名前の「R」の部分は、
鏡文字になっている。
私は長い間、「どうしてRが鏡文字なのか?」と思っていた。
が、この記事を読んで、その謎が解けた。(たぶん?)
直接、アインシュタインと関係あるかどうかはわからないが、
アインシュタインは、「R」を、いつも鏡文字で書いて
いた。
「TOYZARUS」は、どこかでアインシュタインを意識して、
そういうふうに書くようにしたのかもしれない。
これはあくまでも私の、個人的な推測によるものだが……。
++++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載+++
非常に臆病で、生真面目でありながらも気さくな性格であった。
彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思
っていなかったという。
ヴァイオリンの演奏を好んだ。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナー
ベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルか
ら「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。
靴下を履かない。当時の靴下は脆く、すぐに破れてしまうため嫌いだった。そのた
め、常に靴を素足のまま履いていたという。
睡眠時間は1日10時間と言われている。
非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、
灰皿に食事を盛り付けると云う行動もあったといわれている。
最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学
バークレー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは医学生時代に
統合失調症を発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料で
は、ミレーバとの破局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患っ
た息子に対しても非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。
ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後
に本当に受賞し賞金をあげたとされている。
笑わない。しかし、自身が舌を出している最も有名な写真は、1951年3月14日、
アインシュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サ
スの「笑ってください」というリクエストに応えてした表情を撮ったものである。
さらにその写真はアインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほ
どである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞
した。また、切手にもなった。
ノーベル賞受賞後、ニューヨークで、ある少女に数学を教えていたことがあった。
少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れた
が、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているの
だから、礼には及びません」と返答した。
Oren J. Turnerによる写真1947年
小学生のようにスペルを間違えることがままあったという。また、「R」の大文字を
生涯鏡字で書き続けた。
簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビュ
ーの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書い
てあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」と、やりかえしたと
いう。
幼年時の学習状況、成人してからの振る舞いなどから、アインシュタインには何ら
かの障害(アスペルガー症候群、学習障害)と共通していることが指摘されている
が、医学的な検証はなされていない。
彼は手紙好きであり、有名になってからも一万通以上も手紙をやり取りしていたら
しい。
+++++++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++
アインシュタインの言葉や映像については、
私のHPより、(音楽と私)→(命について考える)で、
楽しんでいただけるようにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Einstein アインシュタイ
ン アインシュタインの言葉)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●介護難民(Refugee from Hospitals)
Old men and women are to be exiled from hospitals to care centers where no medical
doctors are. But here in Japan the number of care centers itself is not sufficient. Then
where will these old men and women go when they are exiled from hospitals? The
national government has announced that they will reduce beds for old men and women
from 350 thousands beds to 150 beds in hospitals.
++++++++++++++++
この問題は、けっして他人ごとではない。
近未来に起きる、あなた自身の問題である。
その問題とは……!
今、介護施設に入ることもできず、さりとて、
その一方で、家族からも適切な介護を受けられ
ないでいる老人が、たくさんいる。
厚労省の発表した数字などを参考に推計してみると、
そうした老人が、現在、10~20万人程度は
いるということになる。
が、ここにきて、さらに厚労省は、現在ある
35万床の「療養病床」を、ゆくゆくは、
15万床にまで、減らすつもりという。
わかりやすく言えば、病院から、老人たちを
閉めだすということ。
結果、そういう老人たちは、介護療養型老人
保健施設へということになるが、今の今でも、
数そのものが足りない。
入居待ちが、半年、1年というのは、常識。
よくて1年半。
健康の状態にもよるが、中には、2年たっても
入居できないという老人もいる。
そこで在宅治療ということになるが、実際には、
問題も多い。不可能とさえ言える。
そういう家庭も多い。
私も介護度4(当時)の母を介護した経験が
あるが、「あやうく!」という事故を、半年の
間に、3回も経験している。
それでも、私の母は、楽なほうだった。
一度、「介護とは、便との闘いである」と
書いたことがあるが、その程度。
中には、毎晩、大声で泣き叫んだり、
怒鳴り散らしたり、さらには徘徊する老人も
いる。
広い家でならまだしも、マンションのような
集合住宅であったら、介護の苦労は倍加する。
周囲の家族が受ける心苦労には、相当なものがある。
親の介護をめぐって、息子や娘たちが、大げんかを
するという例も、少なくない。
が、さらにこんなことも……。
母は現在、介護療養型老人保健施設、つまり
ケア・センターに入居しているが、何かあるたびに、
救急車で病院へ運ばれている。
費用も1回ごとに、2~4万円はかかる。
(入院費、検査費、個室代、帰りの寝台つき
タクシー代など。)
しかし最近、その病院のドクターに、こう
宣言された。
「これからは、(救急車で連れてこられても)、
延命処置はしません」「治療もしません」と。
「天命」とか「寿命」という言葉も出てきた。
「もう天命ですから…(あきらめてください)」と。
私は、「そういうものかあ」とか、「そういう
ものだろうなあ」と思ったりした。
また最近では、母を風呂へ入れるたびに、
ケア・センターのほうから、「万が一のことがあっても、
よろしいですか」というような内容の電話がかかってくる。
風呂へ入れたとたん、命を落とす老人もいるとか……。
が、この問題は、冒頭にも書いたように、
私たち自身の問題でもある。
10年後、20年後、さらには、30年後の
私たち自身の問題でもある。
だからそういう電話がかかってきたとしても、
「わかりました。どうせ老人ですから、死んでも
構いません」などとは、言えない。
もしそんなことを言えば、将来、逆に私たちが
同じ立場に立たされたとき、だれかに
そう言われることになる。
あるいはだれかがあなたのベッドの横で、こんな
会話をしたとしたら、あなたは、それに耐える
ことができるだろうか。
「この人は、死んでもしかたないですね」
「そうですね」と。
そのためにも、母にはできるだけ長生きをしてほしい。
それはとりもなおさず、「今」という時間を、
私自身が、できるだけ長く生きることを意味する。
つまり母が生きている間は、私は、少なくとも、
そのときまでは、生きていられることになる。
何かとたいへんはたいへんだが、今の私には、
母が生きているだけでも、ありがたい。
++++++++++++++++++
(参考資料)
●ヤフー・ニュース(4月6日より)(08年)
厚生労働省は、慢性病の高齢者などが長期入院する「療養病床」を再編し、平成24年度
末までに現在の35万床(リハビリ用を除く)を約15万床にまで減らす計画だが、都道
府県ごとに策定した削減計画の総計で、必要なベッド数が約22万床あることが産経新聞
社の調べで分かった。厚労省の計画通りに削減を進めれば、多くの"介護難民"が生じること
になりかねず、計画の見直しを求める声が強まりそうだ。
……
【用語解説】療養病床削減計画
約35万床(平成18年10月現在)あった療養病床を、介護保険適用の介護型約12
万床は23年度末までに全廃、医療保険適用の医療型約23万床は24年度末までに約1
5万床に削減する。代わりに、医師の配置数が少なく、低コストの介護療養型老人保健施
設などへの入所や在宅治療に移行させる。厚生労働省は、療養病床入院患者の半分近くは
治療の必要性が低いにもかかわらず、長期入院する「社会的入院」とみている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 06年 6月 30日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもの中の子ども】
++++++++++++++++++++
子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。
++++++++++++++++++++
●乳幼児の記憶
+++++++++++++
子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。
+++++++++++++
「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィ
ーク誌・2000年12月)。
「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えら
れていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられてい
る」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。
これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達
なため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長
期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかし
メルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけ
ということになる。
現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行っ
た場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよく
ある。これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起き
る現象と考えるとわかりやすい。
++++++++++++++++
わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。
やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。
では、「私の意思」とは何か?
それについて書いた原稿が
つぎのもの。
++++++++++++++++
●意思
最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということ
がわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手
をのばし、それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作ら
れ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」
の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているとい
うのだ。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる
前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだ
されるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうこと
になる。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな
電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数
的にとらえてしまう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かと
いうことになってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。
私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう
思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事
をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従って
いるだけということになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」
に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対
の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我
がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分というこ
とか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放され
るといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よ
くわかるようになる。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包ん
でいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにち
がいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるため
に、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男
性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、
それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコン
トロールされている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思
で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏
の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何
かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしま
う。
++++++++++++++++
そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。
子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。
少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。
++++++++++++++++
●子どものやる気
+++++++++++++
子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?
そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!
++++++++++++++
人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の
中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。
この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが
自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モル
ヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。
たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに
包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけでは
ないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。
サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除
してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。
つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているとい
うわけである。
そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなも
のを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝
手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、
そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。
そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。
最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反
応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教
室を訪れたとしよう。
そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をも
つようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印
象をもつようになる。
あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子
どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、
ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。
心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」と
いう言葉もある。
つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしてい
く。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってし
まい、努力の割には、効果があがらないということになる。
このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。
何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみ
よう。
このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があ
るという。
ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミン
にも、同じような作用があるという。
「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアド
レナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P5
9)とのこと。
わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まる
ということ。
そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚
えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(ど
れだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。
これはたいへん重要なことである。
というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁
桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると
考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。
実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、
その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、そ
の向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。
たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしてい
る。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせ
る。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が
芽生えていくのを、静かに待つ。
(このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすること
がある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児
教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)
しかしカテコールアミンとは何か?
それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせて
いるその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)
【補記】
一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずな
い。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育
のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)
それにはいくつか、理由がある。
勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。
借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。
あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる
気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、
子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものが
ない。
本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。
しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、
たいていの親は、パニック状態になってしまう。
かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)
【補記】
子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早
い時期に、それに気づき、対処するのがよい。
私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉
強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、
その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。
しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少し
でも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。
大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわない
ということ。
++++++++++++++++++++
では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。
++++++++++++++++++++
●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of
the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is
not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.
++++++++++++++++++++
おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)
脳の奥深くに視床下部というところがある。
視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。
たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。
たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。
ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。
が、それだけではない。
コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)
フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)
こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。
しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)
性欲を例にあげて考えてみよう。
女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)
その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。
もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。
で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。
それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。
しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。
「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。
しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。
つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。
さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)
(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。
地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。
つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。
もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)
ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。
スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。
ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。
話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。
(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)
こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。
が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。
たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。
たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。
そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。
しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。
そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。
ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。
「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。
つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。
もちろん性欲についても同じ。
……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。
まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。
それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。
以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる
気)
++++++++++++++++
では、いよいよ核心?
「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。
私は、ひとつの仮説を考えた。
++++++++++++++++
●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains.
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other
brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the
frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of
words )
+++++++++++++++++
電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。
私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。
「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。
私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。
「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。
しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?
ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。
+++++++++++++++
昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。
仮説(1)
人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。
仮説(2)
その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。
これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。
仮説(3)
この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。
やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。
つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。
仮説(4)
この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。
以上が、私の仮説である。
具体的に考えてみよう。
たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。
具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。
そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)
「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。
その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。
「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。
そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。
これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。
こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。
その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。
たとえば性欲で考えてみよう。
男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。
たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。
つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。
では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。
私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。
こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。
たとえばここに1人の女性がいる。
朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1~2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。
こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。
もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。
しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。
++++++++++++++++++
こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。
たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。
しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。
さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。
この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。
しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない
部分 視床下部 大脳前頭前野)
++++++++++++++++
教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。
教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。
あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。
それが教育の原点ということになる。
++++++++++++++++
【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I
have found in these ten years.
●いよいよ核心?
++++++++++++++++++
「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。
大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。
食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。
では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。
実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。
こんな例で考えてみよう。
毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。
そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。
つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)
雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。
が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。
もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。
私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。
が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。
「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。
つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。
結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。
わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。
では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。
ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。
2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。
で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。
もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。
基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。
が、2人の人は、こう話しあった。
「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。
もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。
もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。
さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。
その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!
「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。
「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。
たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。
が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。
そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!
「私」とは何か?
つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。
もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。
しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。
繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!
さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。
言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!
+++++++++++++++++
【補記】
ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!
ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)
先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。
で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ~~~~~ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。
この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲
愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●言語能力
ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
私も、そう思う。
つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。
が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。
先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。
「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。
これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。
つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。
その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。
それを「適齢期」という。
私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。
この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。
で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成
されるのではないか。
この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。
澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児
育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education
essayist writer Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部
辺縁系 扁桃核 扁桃体 カテコールアミン はやし浩司)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= /
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 27日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page027.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●おばあちゃんのリボン
++++++++++++++++
今週は、「家族」というテーマで、
レッスンを進めた。
年長児になると、「お父さんのお父さんが、
祖父」というところまで、理解できる
ようになる。
さらに進むと、「お母さんのお姉さんが、
おばさん」というとことまで、理解できる
ようになる。
人間関係を、頭の中で整理することができる。
で、そのレッスンの中でのこと。
家族の一覧図を見せた。
「祖父母、両親、兄、姉、(私)、弟、妹」の
図である。
以前、祖父と祖母が、どちらがどちらかわからない
と言った子どもがいたので、私は、(おばあちゃんの
顔)に、リボンをつけた。
それがまずかった。
Yさん(年長児)が、こう言った。
「おばあちゃんは、リボンをつけない!」と。
私「おばあちゃんだって、リボンをつけるよ」
Y「つけないよ! おねえさんが、つけるよ」
私「そんなことないよ。今は、そういう時代じゃ、ないよ。
おばあちゃんだって、リボンをつけるよ」
Yさんと、そのほかの子どもたちも、「つけない」「つけない」の
大合唱!
しかたないので、レッスンの途中で、私はリボンを消した。
私「じゃあ、どうやって、おじいちゃんとおばあちゃんを
見分けるの?」
子「知らない・・・」
私「おばあちゃんは、どうすればいいのか?」と。
そこで私は妙案を思いついた。
おばあさんの額に、赤い丸を描いた。
子「何、それ?」
私「うめぼし」
子「どうして、うめぼし?」
私「昔のおばあちゃんは、みな、額に梅干をつけたの」
子「・・・」
私「トクホンでもいい・・・」と。
参観に来ていた母親たちが、それを見て、腹を
かかえて笑っていた。
子どもたちは、そういう母親を見ながら、
けげんそうな顔をしていた。
ついでながら・・・。
「お父さん」は、「おと・う・さん」
「お母さん」は、「おか・あ・さん」
「お兄さん」は、「おに・い・さん」
「お姉さん」は、「おね・え・さん」
「弟」は、「おと・う・と」
「妹」は、「いも・う・と」と、それぞれ表記する。
手をパンパンとたたきながら、指導するとよい。
さらについでに、カタカナでは、それぞれ
長音を、「―」で表記する。
「お父さん」は、「オトーサン」ほか。
今週のレッスンでは、ここまで指導した。
(08年5月)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●子どもをもつ家庭を、もっと保護すべし!(More Security to Families who have
Children)
The apanese government pays much less money to those families who have children at
home. According to the statistics done by OECD, the money paid to those families is abt
only 0.6% of GDP. On the contrary most of the social security fee has been paid to
ex-public workers, medical organizations and aged people.
++++++++++++++++++
たとえば……。
子ども1人につき、月額8万円の補助を!
月額4万円でもよい。
子どもが満6歳から18歳まで、親の所得に
関係なく、一律、支給する。
が、現実は、かなりちがう。
この日本では、子育て世帯への所得再配分は、
アメリカと並んで、ほとんどゼロに等しい。
(世界の社会政策の動向・OECD版)
「毎年88兆円(05年)もの社会保障費の
約80%は、年金、医療、介護など、高齢者
に向けられている。子ども向けは、4兆円に
すぎない」(東洋経済・5/17、08)そうだ。
とくに年金への支出が、す・ご・い!
その日になると、郵便局の窓口には、
ズラリと老人たちが並び、100万円
の札束を、わしづかみにして受け取っている。
(年金は、3か月分ずつ支給される。)
1人ひとりの元公務員の人に責任があるわけでは
ないが、そういう姿を見て、カッと体が熱くなるのは
私だけではあるまい。
で、この数字を見て、怒らない人は、いない。
つまり社会保障費、88兆円(これだけでも
国家税収の約2倍)のうち、子ども向けは、
たったの4兆円!
言いかえると、その分、親への負担が大きい
ということ。
日本では『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた格言だが、子ども2人が大学へ通う
ようになると、それだけで大半の家庭の経済は
パンクする!
こうした(矛盾)は、大学生を見ればわかる。
欧米などでは、親のスネをかじって大学へ
通う大学生など、皆無に等しい。
奨学金を得るか、自ら借金をして、大学へ
通う。
そういう制度が、すでに確立している。
もっともアメリカなどでは、落第は当たり前。
アメリカの高校生の卒業率は、51%(07)
だそうだ(同誌)。
こうした(きびしさ)を、どう判断するか。
それについては、別のところで考えるとして
こんなバカげた福祉国家はそうはない。
東洋経済誌は、「日本は、中福祉国家」と評している。
ちなみに、デンマーク、スウェーデン、フランス
では、対GDP比で、約3~4%もの社会保障費
を、子育て世帯に分配している。
が、この日本では、たったの0・6%前後(00年)。
冒頭で、月額8万円と書いたが、満6歳から18歳まで、
約1200万人の子どもに、月に8万円ずつ
支給したとしても、その額は、年間……
8万円x1200万人x12か月=11・52兆円
にすぎない。
4万円なら、約6兆円ですむ。
さらにその半分の2万円なら、たったの3兆円ですむ。
「補償費をどう使うか」という問題もあるが、
そんなことは、親に任せればよい。
親が、国にかわって、未来の日本人を育てている。
親が自分のために使ったところで、それはそれで
しかたのないこと。
また「一律」にするのは、その分だけ、行政を
簡素化するため。
所得に余裕がある人も、またない人も、一律。
担当する公務員の数も、最低限ですむ。
現に欧米では、そうしている。
……以上、やや暴論的に書いたが、とにかく、
現在の制度は、おかしい。
まちがっている。
それだけは確か!
ほとんどの親たちは、こうこぼしている。
「こんなに子育てに、お金がかかるとは思っても
みなかった!」と。
こうした声に耳を傾けないようであれば、日本の
未来に、希望はない。
少子化はますます、進む!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 日本の社会保障費 教育費
子育て支援 少子化)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●生活の貧困化
++++++++++++++++++++
認知症(アルツハイマー病を含む)になると、
「生活が貧困化する」(「アルツハイマー病にならない」
井原康夫著)
という。
たいへん興味をひく言葉である。
「貧困化」といっても、金銭的に貧しくなったり、
ケチになることではない。
生活の豊かさが、消えるということ。
つまり認知症になると、四季を楽しんだり、
芸術をたしなんだり、おしゃれをしたりするということが、
減るということ。
言いかえると、生活の豊かさというのは何かという
ことになれば、その逆ということになる。
私たちは日常の生活を通して、つねに、その豊かさを
求める。
その豊かさが、私たちをより幅の広い人間にする。
さらに言いかえると、豊かにすることが、認知症を
予防するということにもなるのではないか?
そういうことも考えながら、私たちは、努めて、
日々の生活を豊かにしなければならない。
「努めて」というのは、「多少、無理をしてでも」という
意味である。
++++++++++++++++++++++++
ワイフの知人に、ひとり、たいへん心配な人がいる。
年齢を聞くと、今年、まだ63歳だという。
女性である。
数年前に夫を病気で亡くしてからというもの、
それまでの趣味を、ほとんど、やめてしまった。
近くの公民館で、週2回、バドミントンもしていたが、
それもやめてしまった。
さらに、ワイフの話では、「歌も歌わなくなってしまった」
という。
私「歌を歌わない、ってどういうこと?」
ワ「どんな歌が好き?、と声をかけても、
歌えないとか言って、話に乗ってこないのよ」と。
こう書くと、静かで穏やかな女性を想像するかも
しれないが、そうではない。
ワイフが何かのまちがいを指摘したりすると、ヒステリック
な声をあげて、反論してくるという。
先日も、こんなことがあった。
電話で話をしているとき、その女性が、「F市にある、
バラ園のバラはきれいだそうよ」と言ったそうだ。
ワイフは、それを電話機の横にあるメモ帳に書きとめた。
で、しばらく話をしたあと、ワイフが、「じゃあ、今度、
いっしょにF市のバラ園に行きませんか」と言うと、
その女性は、突然、パニック状態になってしまったという。
女「私は、F市だなんて、言っていません。S市です!」
ワ「でも、先ほど、F市と、おっしゃったではないですか?」
女「言っていません。S市は、私の母の実家のある町です。
私がまちがえるはずはありません」
ワ「どちらでもいいですが、じゃあ、S市ですね?」
女「私はF市だなんて、言っていません!!」と。
その女性は、電話口の向こうで、ギャーギャーと泣きわめく
ように、大声で叫んでいたという。
先の本によれば、アルツハイマー病でも、似たような
症状が現れるという。
「ささいなミスを指摘されたりする、激怒する」と。
(だからといって、その女性が、アルツハイマー病
ということではないが・・・。)
しかし心の豊かさがないことだけは、事実。
ふつうなら、こうした会話では、「あら、そう。ごめん。
まちがえたかも・・・」で終わる。
が、その豊かさなくなると、ささいなことにこだわり、
それを針小棒大にして、騒ぐ。
心を豊かにするということには、「おおらかに生きる」という
意味も含まれる。
では、どうするか?
(1)人との接触を欠かさない。
(2)音楽や絵画を楽しむ。
(3)外出、旅行をふやす。
が、何よりも大切なのは、いつも新鮮な刺激を用意する
ということ。
その努力を怠ってはいけない。
日々の生活の中に、つねに変化を求めていく。
これは私自身の努力目標でもある。
がんばります!
がんばりましょう!
(付記)渡辺謙の『明日への記憶』を見てから、アルツハイマー病
という病気が、気になるようになった。
ワイフの話を聞いたあと、今夜、2度目を見た。
いろいろ考えさせられた。
生きることにまつわる悲哀感を、ひしひしと感じた。
はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
●孫
HPやマガジンのほうでは、孫の誠司の写真を
たくさん紹介している。
それについて、かえって、目障(ざわ)りに
思っている人が、いるかもしれない。
私「だれだって、自分の孫はかわいく見えるのものだよ」
ワ「そうよ」
私「誠司は、ぼくたちには、かわいい孫だが、他人が
見たら、おかしな顔に見えるかもしれない」
ワ「・・・そうかしら?」
私「そんなものだよ」と。
HPにせよ、マガジンにせよ、孫の誠司が生まれたころ、
創刊した。
そのときから、誠司の写真を、載せるようにした。
今では、私のHP全体が、誠司のアルバム集のようになっている。
だから今さら、誠司の写真を取りはずすわけにはいかない。
私「どうしようか?」
ワ「そうねエ~。少しずつ、減らしたら・・・」
私「そうだなア~」と。
いつか誠司がおとなになったとき、私のHPを見るかもしれない。
そのとき、私のHPを見ながら、自分のアルバムを見るように
思ってくれればよい。
これは私から誠司への、時空を超えた、プレゼントと
いうことになる。
To: Sage Hayashi
Please come here and enjoy your photos when you grow up.
When you see them, Akiko & I may not be in this world anymore.
But you are here and our hearts are here, too.
林誠司へ
いつかお前がおとなになったら、ここへ来て、写真を
楽しんでください。お前がそれを見るとき、晃子と
私は、この世界には、いないかもしれない。しかしお前は
ここにいて、私たちの心も、ここにあるよ。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●宗教を信じていない人、72%(72% of the Japanese do not have any religion)
According to the result of a research done by Yomiuri Newspaper, 72% of the Japanese
do not have any religion. But on the other hand 54% of us believe that we eill be reborn
in another world after the death.
読売新聞社が、このほど、こんな興味ある調査結果を
公表した(08年5月30日)。
そのまま紹介させてもらう。
+++++++++++以下、読売新聞より転載+++++++++++++
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じて
いる人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人
は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れ
た。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超
えた何かを感じることがある」という人も、56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する
敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。
死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」2
4%、「消滅する」18%がこれに続いた。
++++++++++++以上、読売新聞++++++++++++++++
もう一度、数字を整理しておく。
何かの宗教を信じている人……26%
信じていない人 ……72%
先祖を敬う気持ちをもっている人……94%
自然の中に神秘的な力を感ずる人……56%
死んだら生まれ変わると信じている人 ……30%
死んだら別の世界へ行くと信じている人……24%
消滅すると思っている人 ……18%
これらの数字を見て、いろいろ考える。
中には、私のように、「自分が納得できる宗教があれば、
信じたい」と思っている人も多いはず。
そういう人たちの数が、今回の調査の中では、把握されて
いない。
つぎに、「死んだら……」についてだが、やはり私のように、
「わからない」と思っている人も、多いはず。
私はいつもこう考えている。
「あの世があるかどうかは、私にはわからない。
だから今は、あの世はないという前提で生きている。
それは宝くじのようなもの。
当たるか当たらないかわからないものをアテにして、
車を買ったり、家を買ったりする人はいない。
当たれば、もうけもの。
同じように、死んだあと、あの世があれば、もうけもの」と。
ただ「先祖を敬う気持ちをもっている人」が、94%も
いることには、驚いた。
こういう調査結果で注意しなければならないのは、
「先祖を敬う気持ちがあるか」「ないか」と択一的に質問されれば、
「ない」と答える人はいないだろう。(……少ない。)
だから「ある」のほうに、答えてしまうだろうということ。
さらに言えば、「先祖」の意味が、よくわからない。
個人的な先祖なのか、民族的な先祖なのか?
面接方式で調査したということだが、そのあたりの説明をきちんと
したのだろうか?
また「宗教を信じている」にしても、程度の問題がある。
バリバリの活動員となって、信者獲得のために狂奔している人も
いれば、ときどき墓参りする程度の人もいる。
日本では、どこかの宗教団体に属している人のことを、「宗教を
信じている人」と考える傾向が強い。
「死後の世界」についても、最近のスピリチュアル・ブームにのって、
「死後の世界はある」と考える人がふえているのも事実。
「スピリチュアル」というのは、「霊」のこと。
「死んだら生まれ変わる」「死んだら別の世界へ行く」を足すと、
30%+24%で、54%になる。
これらの数字を並べてみると、日本人の大半は、
宗教は信じていないが、死後の世界は信じている」ということになる。
「死後の世界を信ずる」というのは、立派な宗教だと私は
思うのだが……。
それにしても、ブームの力は、すごい!
●調子が悪い(I ate too much a few days ago and since then….)
++++++++++++++++++
数日前、市内のレストランで、
腹いっぱいの料理を食べた。
いつもの2倍近い、量だった。
その直後、ほんの数分だが、吐き気を
催した。
ズボンをゆるめたら、吐き気は収まったが、
はじめての経験だった。
が、それから今日まで、どうも胃の調子が
おかしい。
食欲はあるのだが、少し食べると、すぐ
胸焼けをしてしまう。
(実際には、どういう症状を「胸焼け」という
のか、私は知らないが・・・。
胃液が食道あたりまで逆流している感じ。
何となく、そのあたりが焼けるような
感じがする。)
で、今日は、朝食のみ。
あとは市販の胃薬を飲む。
それについても、いつもなら、「S」という
漢方製剤の胃薬を、1本飲めば治るのだが、
今日は、そうでない。
「???」
要するに、腹をしめつけるのは、よくないということか?
プラス、食べすぎは、禁物。
『腹、八分』と昔から言うが、私の年代になると、
『腹、六、七分』がよい。
(追記)
幸い、今朝起きてみると、不快感は、消えていた。
ワイフが「どう?」と聞いたので、「軽い風邪だった
かもしれない」と答えた。(5月31日)
++++++++++++++++++++++
●ワイフのジーパン(My wife's Jeans)
まちがえて、ワイフのジーパンをはいてしまった。
途中で気がついたが、「ままよ」と思って、はいてしまった。
が、はけた!
見ると、プチプチ。
パンパン。
「ハハハ、はけたよ」と笑って見せると、ワイフが、
「延びてしまうから、やめてよ!」と。
が、そのままワイフのジーパンをはくことにした。
が、すぐ、問題が起きた。
女性用のジーパンはそうできているのだろう。
チャックが、上のほうについている。
そのため小便のとき、アレが、すなおに出てこない。
無理に引き出すと、首をつったような状態になる。
しかたないので、小便のときは、子どもがするように、
ズボンを一度、さげてする。
「やはり、お前のジーパンは、いらない」と言うと、
ワイフは、「それ、見ろ!」と言わんばかりに、
私をにらんだ。
だから私は、こう言ってやった。
「お前のジーパンのチャックに、ぼくのチンチンを
通してやった。今日は開通式だ。ハハハ」と。
+++++++++++++++++++++
●アルツハイマー病(Alzheimer's disease)
One of my readers sent me an E-mail, saying about her elder sister about the disease.
先週、アルツハイマー病についての原稿を
いくつか書いた。
それについて、読者の方から、メールが届いた。
転載許可はまだもらっていないので、おおまかな内容だけを
紹介する。
何でもその方の姉(今年66歳)の様子も、このところ
少しおかしいという。
数日前のことを、すっかりというより、「スッポリ」と
忘れてしまうということがあるらしい。
昨晩の夕食に何を食べたかを忘れるというのは、
よくあること。
それがアルツハイマー病になると、夕食を食べたこと自体、
つまり「エピソード」そのものを、忘れてしまう。
それについて、その方が姉に指摘すると、姉は
烈火のごとく怒り出すという。
で、その方が言うには、こうだ。
「自分では、かなり知的な人間と思っているようです。
アルツハイマー病にも詳しいようです。
そのため、自分がその病気であると疑われるのを、極度に
警戒しているようです。
だから何かあると、すぐ、つじつま合わせをしようとします。
こうした(つじつま合わせ)は、アルツハイマー病の
特徴のひとつと、何かの本で読んだことがあります。
姉のことが心配です」と。
知的な人は、アルツハイマー病になると、自分の異変が、
自分でもわかるそうだ。
そのためそのつど、混乱状態になる。
はげしい自己嫌悪と恐怖から、激怒したり、自己嫌悪に
陥ったりする。
そのため他人に対しては、それを悟られないように警戒する。
つじつま合わせというのは、そのためのものらしい。
たとえばその方の姉が、電話で、だれかの名前を忘れて
しまったとする。
が、そのとき、その姉は、「忘れた」ということを悟られない
ように、あれこれ口実を並べたり、別の話題に切り替えたり
するという。
私も少しは、この病気について、詳しくなったようだ。
(追記)
井原康夫氏の『アルツハイマー病にならない』の中にも、
つぎのようにある。
『病気が始まったばかりの段階では、患者さんは、たとえば
答を思い出せなくても、とっさに話を作ったり、うまくその
場を取りつくろい、その場をしのいだりするので、(これを、
「取りつくろいじょうず」「場合せ反応」などと、呼んでいます)、
家族から、あらかじめ、正解を聞いておく必要があります』(P56)
と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist アルツハイマー病
取り繕い上手 場合せ反応 取りつくろい上手 場あわせ反応 取りつくろい上手 エピ
ソード記憶 エピソード記憶障害)
(補記)
アルツハイマー病になると、学習能力が著しく劣ってくるようになるそうだ(同書)。
わかりやすく言うと、新しいことを学んだり、それを身につけることができなくなる?
だったら、新しいことを積極的に学んだり、身につけたりするよう努力すれば、
アルツハイマー病を防げるかというと、どうも、そうでもないらしい。
アルツハイマー病というのは、脳が器質的に変化する病気。
コンピュータにたとえるなら、部品が欠落していくようなものだから、
本人の努力では、どうにもならない。
つまりここが、この病気の恐ろしいところということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●妙なこと?(A strange thing is happening)
++++++++++++++++++
HPを公開していて、妙なことに気がついた。
こういうことだ。
HPには、いろいろなページがある。
それらのページについて、たとえば、
(Bページ)(Cページ)へ進むには、
かならず、(Aページ)を通過しなければ
ならないところがある。
(Aページ)から分岐して、(Bページ)
(Cページ)へと進む。
そのようにリンクしてある。
ところが、である。
それぞれのページにアクセスカウンターを
設置してあるのだが、その数字が、合わない。
たとえば日によって、(Aページ)……300人、
(Bページ)……400人、
(Cページ)……500人となったりする。
この世界には、「ユニーク・アクセス」とか
「トータル・アクセス」とかいう言葉がある。
ユニーク・アクセスというのは、重複集計しない
アクセス数のこと。
トータル・アクセスというのは、重複集計した
アクセス数のこと。
だから1人の人が、1日に、10回私のHPを
訪問してくれたとすると、
ユニーク・アクセスは、「1」とカウントされる。
トータル・アクセスは、「10」とカウントされる。
それはわかる。
しかしそれにしても、数字が合わない。
どうしてだろう?
遊園地にたとえるなら、入場者が300人しか
いないのに、コースターに乗った人が、400人、
お化け屋敷に入った人が、500人、ということになる。
考えられるのは、(Aページ)を飛び越して、
(Bページ)や(Cページ)に、ハイパー・
ジャンプしてくるケース。
が、それにしても、数字が合わない?
今朝は、そんなことを、いちばんに考えた。
まったく、どうでもよいことだが……。
●コンビニで野菜?(They have started selling vegetables at convenient stores)
このところ、コンビニで野菜を売っているのを、見かける。
設置場所はまだ小さいが、一応、一通り、品数はそろっている。
その野菜を見ながら、「やったね!」と、私は感心している。
つまりそれを実行したのが、友人のMK君だからである。
UNESCOの交換学生で、いっしょに韓国に渡った仲間である。
そのM君が、その構想を、数年前から練っていた。
ときどき私の家に遊びに来て、「コンビニで野菜を売ってみたい」
「東京都で実験的に販売を開始した」「全国に広げたい」と。
で、今は、この浜松市でも、コンビニで野菜が売られるようになった。
MK君は、現在、東京のT青果KKに勤めている。
みなさんも、もしコンビニで野菜を見かけたら、こう思ってほしい。
あのはやし浩司の友人が、それを実行した、と。
MK君、おめでとうございます!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 25日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page026.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●S・ホーキング博士著『ホーキング・未来を語る』を読む
+++++++++++++++++
S・ホーキング博士は、人間と宇宙人が
遭遇する確率は、ほとんどないと、
断言している(「ホーキング・未来を語る」
ソフトバンク刊)。
人類の歴史は、たかだか、200万年。
ビッグ・バンから現在までは、150億年。
宇宙に知的生命体がいるとしても、人類
の歴史は、星のまばたき程度の長さでしか
ない。
その瞬間に、宇宙人が人間と遭遇するということは、
「ありえない」ということらしい。
が、もし、視点を変えて、宇宙人が人間を
知的生物に改良したと考えたら、どうだろう。
とたん、S・ホーキング博士のこの意見は、
それこそブラック・ホールの片隅に
吹き飛んでしまう。
その可能性は、ないわけではない。
S・ホーキング博士自身も、こう書いている。
「いずれヒトの遺伝子工学は始まるだろう」
(P222)と。
望むとか、望まないとか、そういうことに関係なく、
だれかが始めてしまうだろう、と。
わかりやすく言えば、人間自身が、遺伝子工学を
使って、人間そのものを、作り変えてしまう
だろう、と。
さらに「脳神経系に電子デバイスを移植する
ことによって、全言語やこの本の内容と
いった完全な情報パッケージや、増強型
メモリーを人は得ることができるだろう」
(P223)とも。
こうなると、「教育」も必要なくなってしまうのでは?
情報を詰めこんだチップを、脳の中に直接
移植すればよい。
それでその子ども(人)は、百科事典、数万冊分の
知識を、自分のものとすることができる。
で、人間が今のままの人間である間は、人間は
宇宙へ飛び出すことはできないそうだ。
そのためにも人間を改良する必要があると
いうことらしい。
ただしここでいう人間は、現在の人間とは
「ほとんど類似性をもたない」人間になる
という。
「類似性をもたない」ということは、昆虫や
魚ほどもちがった人間になるということらしい。
となると、そういう人間を、はたして「人間」と
呼んでよいものかどうか、という問題も起きる。
それはともかくも、私たち人間自身が、どこかの
宇宙人によって改良されたと考えるのは、
けっして、荒唐無稽な話でもないようだ。
●理性と知性
S・ホーキング博士の意見に、もう少し耳を
傾けてみよう。
S・ホーキング博士は、こう書いている。
「人間の脳の大きさは、女性の産道の大きさに
よって決まる」(要約)と。
つまり女性の産道以上に、直径の大きな頭を
もつ子どもは、生まれないということ。
そこで頭の大きな子どもを作るために、
「赤ん坊を、体外で、生み育てる」(P226)
という方法があるそうだ。
しかもそれは「100年以内に可能になる」と。
が、ここでまたまた問題が生ずる。
脳を大きくすればするほど、人間はより理性的に
なるが、しかし脳の中の信号を伝える伝達物質の
速度には、変わらない。
つまり頭が大きくなればなるほど、頭の回転が
遅くなる。
そこで人間は、択一を迫られる。
脳を大きくして、理性的な人間にするか、
あるいは小さくして、頭の回転の速い人間に
するか。
S・ホーキング博士は、「同時に、ふたつをもった
人間にはなれません」(P226)と書いている。
●人間の改良
「遺伝子工学」という言葉が聞かれるようになったのは、
今から、40年ほど前のことである。
当時はまだ、どこかSF的な感じすらした。
それが今では、その遺伝子工学を使って、新種の農作物を
作るところまできている。
驚くべき進歩と言ってもよい。
S・ホーキング博士がいうように、100年を待たずして、
人間の改良が、始まるかもしれない。
寿命を延ばす。
知的能力を伸ばす。
病気に強い肉体に作り変える。
気候の変動に強い人間に改良する、などなど。
理想的な(?)容姿をもった子どもが、
つぎつぎと生まれるかもしれない。
が、ここでも新たな問題が生まれる。
「心」はどうするか、という問題である。
S・ホーキング博士は、どんなすぐれた
コンピュータでも、(今のところ)、ミミズの
脳みそ程度の能力しかないと書いている。
「コンピュータが知的活動ができるように
なるのは、ずっと先」(要約)ということ
らしい。
で、それはわかるが、(心)はどうするか。
たとえば(私)という個人をながめて
みても、無数の(過去)をひきずりながら、
その上に、(私)がいることがわかる。
恐怖症、多重人格性、回避性障害、パニック
障害などなど。
かろうじて一定のワクの内に「私」という自分を収めて
いるが、無数のドラマも、そこから生まれる。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、悩んだり……。
さらにつけ足せば、(心)というのは、濃密な
親子関係の中で、はぐくまれる。
もし体外で、人間が生み、育てられるように
なったら、その人間は、温室で、水耕栽培される
野菜のようになってしまうのでは(?)。
仮に誕生してからも、人工的に育てられるとなると、
そうして育てられた人間は、画一的で、(心)の
ない人間になってしまう可能性がある。
もしそうなら、そんな人間が、仮に宇宙へ飛び出した
としても、それがどういう意味をもつというのか
ということになる。
だったら、はじめから、ボイジャーのように、
金属でできた、機械的な宇宙船を宇宙へ送ったほうが
マシということになる。
●進化?
S・ホーキング博士は、「進化」を前提として、人間
の未来を考えている。
過去から現在まで、人間は絶え間なく進化してきた。
だから、これからも進化しつづける、と。
しかし本当にそうだろうか?
そう考えて、よいのだろうか?
たとえば1995年に、シシリー宣言※というのが
出されている。
その中で、人間が排出する、内分泌かく乱物質、
つまり通称「環境ホルモン」が、人間の体に深刻な
影響をおよぼし始めていることが問題となった。
生殖器への影響もさることながら、脳にも、である。
「微細障害説」という言葉も生まれた。
つまり外からは把握できないが、こうした物質が、
脳に微細な障害を与え始めているという。
つまりDNAが、仮に1年に、1ビットの
割合で進化した(S・ホーキング博士)としても、
その数万倍、あるいは数十万倍の速さで、DNAが、
破壊されていくということも考えられる。
もちろん生殖器に与える影響も、深刻である。
それについては、たびたび問題になっているので、
ここでは省略するが、そのうち人間も、生殖能力を
失ってしまうかもしれない。
●自滅プログラム
S・ホーキング博士は、人類と宇宙人が遭遇できないのは、
確率的にありえないからだというようなことを書いている。
150億年という宇宙の歴史からすると、200万年という
人類の歴史は、瞬間にすぎない。
そこで200万年を150億年で割ってみる。
すると人類の歴史は、宇宙の歴史の中でも、1万5000分
の2に過ぎないということになる。
宇宙人が、1万5000回、地球を訪れたとしても、
人類を見るのは、そのうちのたった1回にすぎないという
ことになる。
(この計算は、単純すぎるが……。)
さらに人間が人間らしくなったのは、ここ数万年のこと。
歴史を残すようになったのは、ここ1万年のこと。
S・ホーキング博士が言うように、たしかに確率的には
ありえない。
しかしこうは考えられないだろうか?
どんな知的動物であっても、その進化の過程で、「無知
プログラム」が働き、自滅する、と。
よい例が、火星である。
最近の調査結果によると、火星にもかつては、海があり、
陸もあったそうだ。
ひょっとしたら、そこには、知的生物もいたそうだ。
その可能性は、きわめて高い。
が、その知的生物が、現在の人間と同じように、化石燃料
のようなものを燃やし、温暖化を招いてしまった。
結果、火星は、不毛の惑星へと化してしまった。
火星は地球よりも小さいから、温暖化は、はるかに
早く進んでしまった。
つまり、理性、つまり思考的知的能力が、
知識、つまり情報的知的能力に、
追いつくことができなかった。
仮に宇宙人がいるとしても、知的に(?)なったとたん、
自滅プログラムが働き始める。
その寿命は、短い。
数万年、あるいは数十万年にまたがって生き延びる
知的な宇宙人は、(いない)ということになる。
●思考的知的能力vs情報的知的能力
S・ホーキング博士は、脳が大きくなればなるほど、
人間は知的(理性的)にはなるが、その分、頭の回転は
遅くなると、説く。
一方、脳が小さくなればなるほど、頭の回転は速く
なるが、その分、より知的(理性的)ではなくなると説く。
『ホーキング・未来を語る』は、翻訳本なので、原書では
どんな英語を使っていたのかは、わからない。
しかしこのままでは、誤解が生ずる。
S・ホーキング博士が言う、「知的」というのは、
「理性」のことなのか、「頭の回転」のことなのか。
たとえば英語で、「smart」と言えば、「頭が切れる」を
意味する。
「wise」と言えば、「賢い」を意味する。
おそらくS・ホーキング博士は、「脳が小さくなれば、
smartになり、大きくなれば、wiseになる」と
言いたかったのでは?
日本語のほうでは、頭の切れる人も、賢い人も、区別なく、
「知的な人」という。
しかし問題は、その先である。
少し話がわかりにくくなってきたので、わかりやすく
説明しよう。
たとえば、子どもがピストルをもったとしよう。
本物のピストルである。
子どもでも、ほんの少し使い方を教えれば、ピストルを
使うことができるようになる。
その使い方を覚える能力が、「情報的知的能力」ということになる。
一方、ピストルは、たいへん危険な凶器である。
当然、使い方を考えないとたいへんなことになる。
その考える力、つまりコントロールする力が、
「思考的知的能力」ということになる。
つまり「進化」というときは、これら両者が、同時進行
の形で進化しなければならない。
そうでないと、子どもは、ピストルをバンバンと撃ち、
多くの人を殺してしまう、ということになりかねない。
が、現実はどうかというと、「情報的知的能力」が、
「思考的知的能力」に先行している。
原子爆弾にしても、先端技術にしても、そうだ。
現在、深刻な問題になりつつある、地球温暖化(火星化)
の問題にしても、そうだ。
身近な例では、「携帯電話」がある。
昨今、子どもに携帯電話をもたせてもよいかどうかという
ことが、国をあげて、問題になっている。
携帯電話という文明の利器を手にしながら、それを
正しく使う能力をもちあわせていない。
これらすべての問題は、結局は、(思考的知的能力)が、
(情報的知的能力)に追いついていないことが原因で
起こっている。
つまり私たち人間が、子どもがピストルをもつようなことを、
平気でしている。
つまり、それがここでいう、「自滅プログラム」を引き起こす。
わかりやすく言えば、人類が宇宙人と遭遇できないのは、
S・ホーキング博士が言うように、確率的にありえない
からではなく、進化する生物が共通してもつ、この
自滅プログラムによるものではないかということ。
人間どうしが起こすであろう核戦争を、例にあげるまでもない。
●宇宙人
そんなわけで、仮に宇宙人がいるとするなら、その
宇宙人は、つぎのような条件を兼ね備えているはずである。
(1)思考的知的能力が、常に情報的知的能力より、すぐれている。
わかりやすく言えば、理性のほうが、知性よりすぐれている
ということ。
さらにわかりやすく言えば、欲望を、つねにコントロールする
能力をもっているということ。
さらにさらにわかりやすく言えば、きわめて温厚で、穏やかな
性質をもっているということ。
(注:S・ホーキング博士は、本の中では、「理性ある人間」
という意味で、「知的生物」という言葉を使っている。)
しかしそれでは(進化)と矛盾する。
進化は、闘争の中で、はぐくまれる。
「便利なものがほしい」という欲望が、情報的知的能力を
刺激し、それが新しい製品を生み出す。
が、もし、そういう欲望がないとするなら、その時点で、
情報知的能力の進化は、停止する。
言いかえると、S・ホーキング博士が説くところの「進化」には、
すでに「自滅プログラム」が組み込まれていることになる。
進化イコール、自滅への道と考えてもよい。
地球温暖化(火星化)によって、自滅するかもしれない。
あるいは超高度な兵器(核兵器)によって、自滅するかもしれない。
そう、私たち人間は、子どもがピストルをもつようなことを
平気でしながら、それを理性的にコントロールする能力を、
じゅうぶんにもちあわせていない。
●人間が宇宙人になるとき
S・ホーキング博士は、人間が宇宙へ飛び出すためには、
人間を遺伝子工学によって、改良しなければならないと説く。
「それがよいか悪いかということではなく、だれかが
(改良を)始めてしまうだろう」(要約)と。
しかし(改良)には、つねに、2つの側面がある。
S・ホーキング博士のような、性善説に立てば、人間は
よりよい方向に向かって、進化していくことになる。
しかし(改良)は、つねに(改悪)をともなう。
たとえばサイボーグのような、凶悪な兵士型人間が
生まれたら、どうなるのか?
またそういう兵士が、欲望に任せて、地球征服をもくろんだら、
どうなるのか?
そこで重要なのは、やはり「思考的知的能力」という
ことになる。
わかりやすく言えば、「理性」ということになる。
その理性を、どうすれば、発達させることができるか。
つまり、その理性なくして、人間は、宇宙へ飛び出すことは
できない。
また飛び出すことも、ないだろう。
●爆発的な人間の進化
「進化」といっても、ここ1万年ほどの間に人類が
見せた進化には、驚くべきものがある。
それこそこの1万年の間に、それまでサルと区別
ができなかったヒトが、現在のような人間になって
しまった。
S・ホーキング博士は、「ヒトDNAが、生物的進化
によって更新される現在の割合は、1年で1ビットです」
「ヒトDNAがもっている情報量は、30巻におよぶ
百科事典に相当します」(P221)と書いている。
ただしヒトとサルのちがいは、「ロマンス小説のペーパー
ブック1冊分のちがいでしかない」とも。
ともかくも、ここ1万年の進化(進歩と書くべきか)には、
すさまじいものがある。
「1年で1ビット」(S・ホーキング博士)という進化では、
とても説明できない。
もっともS・ホーキング博士自身も、「ここ8000年の
変化は、DNAの増加によるものではなく、文字の発明に
より、情報の伝達が進んだから」(要約)と説いている。
どちらにせよ、ここ1万年の人類の変化は、「爆発的」という
に等しい。
このことは、反対の立場で考えてみればよい。
あなたはこれから先、1万年のうちに、チンパンジーを教育して、
そのチンパンジーを、現在の人間と同じレベルまで、その
知的能力(S・ホーキング)を、高めることができるだろうか。
答は、「NO!」のはず。
●人間が生き残るために
S・ホーキング博士の『ホーキング・未来を語る』を読んで、
私は、別のことを考えていた。
S・ホーキング博士は、先にも書いたように、性善説にもとづき、
かつ自身の恵まれた過去を基礎に、バラ色の未来像について
語っている。
しかし私は、「どうすれば、人類は未来に渡って、生き残る
ことができるか」、それについて考えていた。
もし今のように、情報的知的能力を、思考的知的能力に
優先させるような状況がつづけば、(ほぼまちがいなく、
つづくだろうが……)、人類には未来は、ない。
最先端技術を、惜しげもなく武器に応用し、その武器を
用いて、戦争を繰りかえす。
その結果は、もうここに書くまでもない。
地球温暖化(火星化)にしても、そうだ。
ひとつの問題を解決するよりも先に、つぎつぎと新しい
問題が生まれている。
化石燃料の消費を減らそうにも、それを減らすことさえ、
ままならない。
が、生き残るためには、何よりもまず、思考的知的能力を、
進化させなければならない。
もちろんここでいう進化というのは、DNAによる進化ではない。
私たち自身が、自ら思考力を高め、情報的知的能力を、
コントロールできるようにする。
そういう「進化」である。
「進化」という言葉に語弊があるなら、「進歩」でもよい。
それをしないで、欲望だけを野放しにすれば、人類は、確実に
滅亡する。
人類のみならず、地球上のありとあらゆる生物は、滅亡する。
●結論
私は、個人的には、宇宙人は、私たちのきわめて
近いところにいると信じている。
私とワイフは、とても人間の乗り物と思えないような
巨大なUFOを目撃している。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは
省略する。
省略するが、こういう話になると、どうしても、あの夜の
話にもどってしまう。
「私たちが見たものは、何だったのか?」と。
……あるいは、ひょっとしたら、私たち地球人は、
火星人の子孫かもしれない。
ただのSF的空想だが、その可能性がまったくないとも
言い切れない。
その本を読みながら、そんなことも考えた。
『ホーキング・未来を語る』は、すぐれた本である。
一読を、お勧めする。
(注※)シシリー宣言
●シシリー宣言
1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。
その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。いわく、「これ
ら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、行動的、お
よ
び身体的異常、さらには精神にも及ぶ。
これは、知的能力および社会的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあ
らわ
れる可能性がある」と。つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。
が、
これで驚いていてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。
「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引
き
起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間
に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう
「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪の
ことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。
この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●介護について(About the Care of Old Parents)
++++++++++++++++
親を含めて、肉親の介護には、
いろいろと問題がある。
実際、その介護をしてみて、,私が
感じたことを、ここに、記録として
残しておく。
++++++++++++++++
●介護は、重労働
当初から親と同居しているケースは別として、介護を必要とするようになってから、その
親と同居するということは、不可能と考えてよい。またそういう前提で、介護の問題を考
える。
現に欧米では、そういうケース、つまり介護を必要とするようになってから、その親と同
居するというケースは、きわめて、稀(まれ)。
私も実際、母の介護をしてみて、それがわかった。母との間には、それまで、いろいろと
確執はあるにはあったが、相手は、90歳の老人。介護を始めたとたん、「こんな老人を相
手にしてもしかない」と思ったとたん、それまでのわだかまりは、ウソのように消えた。
母には、私たちの寝室を、与えた。風呂にもトイレにも近い。庭が見渡せるし、間取りも
広い。その部屋に、ベッドとソファ類を置き、歩きやすいようにと、部屋中にパイプを設
置した。そんな私でも、やがて「不可能」と感じるようになったのは、いくつか、事故が
重なったからである。
「あわや!」と思われるような事故も、3回、つづいた。たまたま発見が早かったからよ
かったようなもの、もし発見が遅れていたら、母は確実に死んでいた。
が、私の家は、まだよいほう。母の部屋にしても、2方に広い窓(南側は、2間幅の履き
だし窓)になっていた。木造だから、改変も自由にできた。
が、マンションのような鉄筋づくりだと、そうは、いかない。
●介護は、便との闘い
私はいつしか、「介護は、便との闘い」と思うようになった。
独特の加齢臭は、ファンを設置したりして、何とか軽減することができたが、問題は、や
はり便だった。
日に何度か、パットを交換するのだが、日によって、母は、パットがぬれたりすると、紙
おむつそのものまではずしてしまった。で、その状態で、ふとんの中で寝るから、毛布も、
ふとんも、便で汚れてしまうということもあった。
それに予期せぬできごとも、つづいた。
たとえば私の家には、ハナという猟犬がいる。母とそのハナは、どういうわけか、相性が
合わなかった。ハナは、母の姿を見るたびに、ワンワンと、けたたましく、吠えた。
母は、朝、4~5時ごろ、カーテンを開ける。それを見て、ハナが吠える。私たちも目を
覚ます……。そこで私たちは、母の部屋を一日中、電気をつけっぱなしにし、夜、昼の区
別が母にできないようにした、などなど。
……というのは、まだマイナーな問題かもしれない。
母に、無線の呼び出しベルをもたせたこともある。首にネックレスのようにして、それを
かけさせた。が、母は、真夜中でも、それを押して、私たちを呼んだ。「水がほしい」「足
が痛い」と。私たちが睡眠不足になってしまった。
が、これもまだ、マイナーな問題と考えてよい。
●老人にもいろいろ
介護老人といっても、私の母などは、まだよいほう。ふだんは、静かで、おとなしい。し
かし老人の中には、一晩中、大声を出して暴れる老人もいる。ものを投げつけたり、暴力
を振るう老人もいる。
足がじょうぶな老人だと、徘徊という問題もある。N氏は、そのとき90歳くらいだった
が、裏の塀を乗り越えて、毎晩、出歩いていたそうだ。塀といっても、2メートルもある
ような高い塀である。
こうなると、介護する側の疲れは、倍加する。そこへアルツハイマー病、ピック病、さら
には血栓性の脳障害が加わると、さらにたいへん。介護疲れから、半年で、5~10キロ
も体重を減らしてしまった人もいる。
そうした事情も知らない人、あるいは介護の経験がない人は、安易に、『ダカラ論』をぶつ
けてくる。「何といっても、親だからねえ」とか、「何といっても、あなたは子だからねえ」
と。
私も何度か、そう言われた。が、こうした『ダカラ論』ほど、その渦中にある人を苦しめ
る言葉はない。
繰り返すが、老人にも、いろいろある。さらにそれまで良好な親子関係であったのなら、
まだ救われる。そうでない親子も、多い。そういう子は、それまでの(わだかまり)や(こ
だわり)とも闘わねばならない。
●ケア・センター
介護度が4とか5になったからといって、ケア・センターに入居できるというわけではな
い。浜松市のこのあたりでも、半年~1年の順番待ちというのが、実情である。が、順番
がきたから、入れるというものでもないらしい。
ケア・センターのほうでは、直接、そういうことは公言しないが、ある程度の人選はして
いるようだ。わかりやすく言えば、(扱いやすい老人)を、優先的に入居させている(?)。
暴れたり、暴力を振るう老人は、当然のことながら、敬遠される。持病をもっている老人
についても、そうだ。「うちには、医療設備はありませんので……」とか何とか言って、や
んわりと断られる。
言い換えると、慢性的な病気をもっている老人は、それだけ入居しにくいということ。も
ちろん医療機関を併設しているケア・センターもあるが、数は、まだ少ない。
もちろんケア・センターでは、それなりの費用がかかる。
下は、月額6~7万円から、上は、20万円前後まで。その老人の所得や財産に応じて、
額が決まる。年金がじゅうぶんある老人は、まだよい。が、私の母のように、月額2万5
000円前後の老齢年金しかない老人のばあい、差額は、すべて、家族の負担となる。
くわえて治療費。
救急車で病院へ運ばれるまでは無料だが、たいていそのまま個室に入院ということになる。
そうなると費用は、1~2泊しただけで、帰りの寝台付タクシー代も含めて、3~7万円
もかかる。
幸い、私たちは浜松市という大都市に住んでいるからよいようなものの、少し離れた郊外
の町や村に住んでいる人は、さらにたいへん。たとえば寝台付タクシーのばあい、通常の
タクシー代の約5倍の料金がかかる。
●治療拒否
私の母も、それまではたびたび、救急車で病院へ運ばれた。しかし最後のときには、担当
のドクターに、こう言われた。「この先、救急車でおいでになっても、延命処置はもうしま
せん。天寿と思ってください」と。
私はそのとき、「そういうものかなあ?」「そういうものだろうなあ?」と、自分で自分を
納得させるしかなかった。
人の命は、地球よりも重いとか何とか言うが、こと介護老人について言えば、鳥の羽より
も軽い(?)。私の知人などは、病院のドクターにこう言われたという。
「うちの病院では、治る見込みのある人は治療しますが、そうでない人は、治療しません」
と。
が、この問題は、何も介護老人の問題ではない。私たち自身の問題でもある。私たちも、
やがて確実に、老人になる。介護老人になる。そのときもし、あなたがドクターに、「もう
延命処置はしません」と言われたら、あなたはどう感ずるだろうか。
●運命は受け入れる
親の介護で苦労している人も多い。さらに兄弟姉妹の介護で苦労している人も多い。そこ
へ、親の財産問題、金銭問題がからんでくるというケースもある。あるいは介護費用の分
担をめぐって、兄弟、姉妹が、怒鳴りあいの喧嘩をするというケースも、珍しくない。
叔父や叔母が介入してきて、問題がさらに複雑化するというケースもある。
こうなると、それまでの親子関係など、どこかへ吹っ飛んでしまう。(親の存在)そのもの
が、騒動の(種)となる。が、問題は、まだつづく。
いわゆる老・老介護の問題である。
平均寿命が延びたことは、よいことかもしれない。が、90歳の老人を、70歳を過ぎた
息子や娘が面倒をみるというケースも少なくない。子のほうが、先に認知症になるという
ケースもある。もちろん双方ともに、収入は、ゼロ。責任能力も、ゼロ。
「親の介護」といっても、内容はさまざま。事情も、それぞれの家庭に応じて、複雑。そ
れを無視して、あれこれ論じても意味はない。ないが、ひとつだけ言えることがある。そ
れは、『運命は、受け入れる』ということ。
そこにある(現実)をすなおに受け入れていく。あるがままを認めて、受け入れていく。
それを「運命」と呼ぶなら、運命でもよい。それぞれの人には、無数の糸がからんでいる。
からみあって、その人の進むべき方向を決めていく。
あとは、その運命に従えばよい。
その運命に逆らうと、運命は、キバをむいて、私たちに襲いかかってくる。しかしひとた
び運命を受け入れてしまえば、運命は、向こうからシッポを巻いて逃げていく。
●現状
私たちは、現在、ケア・センターの人たちに、たいへん感謝している。というのも、母が
ケア・センターに入居してからというもの、再びというか、それ以前よりも、気が楽にな
った。
自由な時間も、もどってきた。生活のリズムも、以前のそれにもどった。今は、ときどき
ケア・センターを見舞う程度ですむ。政治家の中には、「(こうした)施設が、姨捨(おば
すて)の場になっている」と非難する人もいるが、それはどうかと思う。
もしそれが「姨捨」なら、欧米の国々では、ほとんどすべての人が、姨捨をしていること
になる。むしろ現状は逆。
介護制度の貧困さを、こういう言葉でごまかそうとしているのではないか。今のような豪
華な施設でなくともよいから、こうした施設を、もっともっとふやすべきと私は考える。
「子に老後のめんどうをみてもらいたい」と願っている人もいるかもしれないが、「子には
迷惑をかけたくない」と願っている人は、もっと、多いはず。私たち夫婦もそうで、老後
は、どこかの施設に入ることを、すでに検討し始めている。
つまり「捨てられる立場」になるわけだが、捨てられたところで、一向に構わない。ただ
し、それには条件がある。
●ムダに生きるか?
ケア・センターの中で生活する老人たちを見ていると、大半の人たちは、ただ生きている
だけといった感じがする。毎日、うつろな目つきで、空を見つめているだけ。私の母にし
ても、食事のとき以外は、ひたすら眠っているだけ。
話しかけても、返事もない。あるいは、いつも「元気?」「元気?」という程度の会話しか
できない。
そういう老人たちのために、国は、1人あたり、月額にして、30~40万円の税金を投
入している。今は、まだよい。しかし私たち団塊の世代が、後期高齢者(75歳以上)に
なるころには、3人に1人が、こうした老人になる。
そのとき、私たちが、現在のような手厚い介護を受けられるかどうかということになると、
答は、NO! 不可能!
そうしたことも考えると、ムダに長生きするなら、早めに死んだほうがよいということに
なる。いや、これは私の母のことを言っているのではない。私自身のことを言っている。
何でも東京都では、そうなると火葬場まで不足してくるという。だから火葬設備のある船、
つまり火葬船を用意する計画まで、取りざたされている。
何ともさみしい話だが、これが現実である。そこに待っている現実である。
しかも恐ろしいことに、私たちにしても、いつか突然、ケア・センターの中にいるような
老人になるわけではない。10年とか、20年とか、長い時間をかけて、少しずつ、ああ
なっていく。
つまりすでに今、私たちがその過程にいるということ。50歳とか、60歳からではない。
40歳から、あるいは30歳から、その過程にいるということ。
介護の問題は、けっして、老人だけの問題ではない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 23日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page025.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●『ランボー・最後の戦場』
+++++++++++++++++
昨夜、仕事が終わったあと、ワイフと
『ランボー・最後の戦場』を見てきた。
シルベスター・スタローンの最新作である。
星は3つの、★★★というところか?
戦闘シーンには、迫力があった。
トム・ハンクスの『プライベート・ライアン』
にも、勝るとも劣らない迫力だった。
飛び散る肉体、吹っ飛ぶ頭、ちぎれて飛んでくる足、など。
しかし全体に、設定が甘い?
だから星は、3つ。
『ランボー』
『ランボー・怒りの脱出』
『ランボー3・怒りのアフガン』につづく、第4作と
いうことだが、「やや、あきられたかな?」という
印象をもった。
脳みその刺激にはなったが、後味は、あまり
よくなかった。
戦争は、やはり、いやだね。
++++++++++++++++
●5月28日(水曜日)
Mr. C. Hill, remember that we, the Japanese are being angry about the process you have
done between US and North Korea. We know you have betrayed Japan many times in
the recent past and again this time too. Do you need Japan money so much to be friends
with North Korea? Then the answer of ours is only one. We say, "No!". I feel more and
more Japanese have been doubtful about what you have been doing now. Remember
also that what you have been assisting is a country of the worst tyrant Kim.
昨夜見た、深夜映画のせいか、今朝は頭の
活動が、ニ・ブ・イ。
頭の中は、ザワザワしているが、(思考)
として、それがまとまらない。
書きたい……というより、吐き出したいことは、
いくつか、ある。
今、いちばん、頭にきていることは、
K国による拉致問題。
ヒル氏と金Kの米朝会談の結果、K国は、
「数名程度の拉致被害者を日本へ返してくる」
とのこと(08年5月26日)。
官房長官は、そうした報道内容を否定して
いるが、もしこれが事実とするなら、
これほど、日本を、そして拉致被害者の
みなさんを、バカにした話もない。
ヒル氏は、日本のため……というよりは、
自国の利益と、己の名聞名利のため、
日本からマネーを出させたい。
そのための米朝会談ということらしい。
わかりやすく言えば、ヒルは、日本を売った!
「6か国協議」とは、名ばかり。
米朝会議を飾るための、追認会議でしかない。
今ごろ、ヒル氏は、金Kにこう言っているに
ちがいない。
「日本から、ちゃんと金を取ってあげるから、
ここは、私の言うことを聞きなさいよ」と。
しかし……。
既存の核兵器を不問にしたまま、現在の
K国に、ジャパン・マネーを渡すのは、
たいへんまず。
まずいというより、危険。
アメリカはそれでよいとしても、日本は、
それこそまさに、K国の思うつぼ。
いくら拉致問題が解決しても、既存核兵器を
不問にしたままなら、1円たりとも、ジャパン・
マネーをK国に渡してはならない。
どうして拉致被害国である日本が、K国に
頭をさげて、拉致被害者を返してもらわねば
ならないのか?
しかも礼金まで添えて……!
悪化の一途をたどる、日米関係。
その責任は、すべて、ヒル氏、あなたにある!
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
【無知の無知】
+++++++++++++++++
子育てに、無知はつきもの。
しかしその無知ほど、こわいものはない。
それについて書いてみた。
なお、各2行目の英文(?)は、
翻訳ソフトを使って、自動翻訳したもの。
おかしな、おかしな英語?
あくまでも、参考に!
+++++++++++++++++
子育てにおいて、無知ほど、こわいものはない。
It is not in the tough thing as much as ignorance in the child care.
「子どものことは、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、あぶない。
It is as dangerous as the parents who boast "I know a child best."
聞く耳をもっていない。
It doesn't have an ear to listen.
そのため独善の世界に陥りやすい。
It falls into the world of Germany good easily.
明らかに、チック症状を示す子ども(5歳男児)がいた。
There was a child (five years old boy) whom obviously showed tic-shaped.
ときおり、フーッ、フーッと、長いため息をもらす。
Time おり, フーッ and フーッ and a long sigh, too, らす.
たてつづけに2、3回、もらすこともある。
It has らす thing of 2, three times 【 も 】 【 it keeps putting it up 】, too.
ふつうのため息とちがうところは、喉をかすかに鳴らすこと。
Sound a throat faintly in the usually different place from the sigh.
習慣性(周期的に繰りかえす)と、定型性(まったく同じようなため息を繰りかえす)が
あった。
It has a habit (It is reeled periodically and hatched.), and it has fixed form-ization (The
sigh which is really the same is reeled and hatched.)
チックである。
It is tic.
で、母親に、「よくため息をしますね」と、声をかけると、
When it goes and "It often has a sigh." and a voice are given to mother.
その母親は、すかさず、こう言った。
That mother didn't get hungry, and said like this.
「花粉症の後遺症による、喘息です」と。
"It is asthma by the sequela of the pollinosis."
私はドクターではないから、こういうばあい、「ああ、そうですか」と言って、引きさがる
しかない。
I am correct, and say "Is it so like that?", and there is no favor さ in る if I こういう
because I am not a doctor.
しかしチックは、チック。
But, tic is tic.
チックも見抜けないで、幼児教育など、できるか!
Can't you see through tic, either, and can it do the infant education?
・・・というようなケースは、多い。
・・・ There are many cases.
が、その男児は、さらに明らかに糖分の取りすぎによる、
低血糖児特有の症状も示していた。
But, to that boy, more
小刻みな運動に加えて、時折、キーッという金切り声をあげた。
母親は、「自閉症児ではないか?」と聞いたが、自閉症児ではない。
簡単な見分け方としては、抱いてみるというのがある。
自閉症児は相手に心を許さないから、
Because an autism baby doesn't trust a partner to this.
抱いても、あたかも丸太を抱いたような感じになる。
Even if it is held, it becomes a feeling which a log is just held in.
ぎこちなく、体をこわばらせたりする。
A body is sometimes made to get stiff awkwardly.
その子どもは、私が抱いてみると、うれしそうな表情を
The expression which is glad at that child when I try to hold it
してみせたあと、自分の体から力を抜いた。
After it did and it was shown, the power was removed from its body.
しかし近くに立っていた父親は、私の言うことには、半信半疑と
But, as for that father, it is suspicious of what I say
いったふうだった。
It was ふう that it said.
どこかで別の情報を聞きかじっていたにちがいない。
It listens to another information in something, and it must be bitten.
・・・ということで、この世界には、(無知)はつきもの。
This world has (ignorance) with a thing of ・・・.
無知であることを責めているのではない。
It isn't blamed for being ignorant.
だれしも親は、こと子育てについて言えば、無知を前提として、
If it gets tired but parents say about the thing child care, based on the ignorance
子育てを始める。
Child care is begun.
そこで重要なことは、どうすれば、自分の無知を、知ることが
So, if it does what, it is important, the ignorance is known
できるかということ。
The thing of whether it can be done.
子どもの問題は、結局は、ここへ行き着く。
A child's problem goes here after all and reaches.
家に帰って、そのことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
It came back to the house, and it was said like this that that was told to ワイフ about
ワイフ.
「あの父親は、あなたより自分のほうが偉いと思っている
「 That father thinks himself greater than you.
から、だめね。
It is no good.
あなたを、ただの教師としかみていないのよ」と。
With 」 watching you only with the mere teacher.
ついでながらつけ加えると、私には30歳のはじめごろから、
When a chance is added, to me, from about a thirty-year-old beginning
自閉症児にしても、かん黙児にしても、何10例という
Several examples are said even if an autism baby is taken or かん黙 baby is taken.
子どもを、長期にわたって指導してきたという経験がある。
A child has been guided for a long time.
そういう経験が基本になっている。
Such an experience is a basis.
ADHD児やアスペルガー児にしても、そうだ。そういう言葉がまだ
Even if an ADHD baby and アスペルガー baby are taken, such a word, still
知られていないうちから、指導してきた。
It was guided from the inside where it didn't know.
当時は、ADHD児は、多動児とか、活発型自閉症児と呼ばれていた。
An ADHD baby was being called a hyperkinetic child and 活発 pattern autism baby.
アスペルガー児は、「がんこな子ども」と呼ばれ、一般的な自閉症児
アスペルガー baby is called "a cancer こな child", and he is a general autism baby.
とは区別して考えられていた。
It thought that it was distinguished.
だからもう一度、繰りかえす。
Therefore, it is reeled again and hatched.
自閉症児も見抜けないで、幼児教育など、できるか!
Can't you see through an autism baby, either, and can he do the infant education?
……と、まあ、少し頭を熱くしたところで、今日もはじまり、はじまり!
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●アルツハイマー病(Alzheimer's Disease)
+++++++++++++++++++
昨日、書店で、『アルツハイマー病にならない!』
という本を買ってきた。
井原康夫・荒井啓行著、朝日新聞社刊、定価1100円
+税、という本である。
仕事の合間に、一気に読んだ。
読んで、いろいろ考えさせられた。
そのひとつ。
「アルツハイマー病も、生活習慣病のひとつと考えて
よいのではないか」ということ。
つまり日々の生活の過ごし方で、ある程度、予防できる
ということ。
もう少し正確には、仮にアルツハイマー病になったと
しても、発症、進行を、遅らせることができるという
こと。
本書の中では、「アルツハイマー病にならない生活」として、
つぎのようなことをあげている。
そのまま箇条書きにさせてもらう。
(1)多量の飲酒は、脳萎縮を起こす。(アルツハイマー病につながるということではな
い。)
(2)魚を食べると、アルツハイマー病になりにくい。
(3)抗酸化物質を多く含む食事に心がける。
(4)抗酸化ビタミンを含むサプリメントを摂取する。(ビタミンC、Eなど。)
(5)ビタミン12と葉酸の欠乏を防ぐ。
(6)地中海料理がよい。
(7)カレーを食べるとよい?
(8)緑茶は、アルツハイマー病を予防する?
(9)教育歴は高い方がよい。
(10)社会的なつながりをもつ。
(11)有酸素運動が望ましい。
(12)昼寝をする。
(13)ストレスを減らす。
++++++++++++++++++++
本書の中では、いくつかの症例が紹介されている。
それを読みながら、「あの人もそうだった」
「あの人の現在の様子に似ている」と思った。
つまり、それくらい、読んでいて切実感があった。
私もそろそろ危険年齢。
本書によれば、加齢とともに、Aβ42(老人斑)が
でき始め、やがて神経原繊維変化が起こり、神経細胞の
脱落が始まるそうだ。
そのあと、軽度認知障害が始まり、アルツハイマー病へと
つながっていく。
「80歳で臨床的に認知症になるとすると、50歳くらいから、
老人斑ができ始めている考えられる」(P23)とある。
アルツハイマー病というのは、ある日突然なるという病気ではない。
20~30年という長い時間をかけて、徐々に、そうなっていく。
つまり生活習慣病のひとつと考えてよいということらしい。
なお本書によって、いくつか誤解していたこともわかった。
(1)喫煙とアルツハイマー病
喫煙が、パーキンソン病の抗危険因子(つまり、タバコを吸うと、
パーキンソン病になりにくい)ということはよく知られている。
が、アルツハイマー病については、危険因子だ、そうだ。
(つまり、タバコを吸うと、アルツハイマー病になりやすいということ。)
(2)アルミニウムは危険因子ではない?
以前、「アルミニウムはアルツハイマー病の危険因子である」という
説が、巷(ちまた)に流布したことがあった。
私もそのとき、その説を信じ、アルミニウム製の調理器具を処分してしまった。
しかしアルミニウムとアルツハイマー病とは、直接的には関係が
ないということらしい。
だからといってアルミニウムが安全というのではない。
ウサギの脳に、塩化アルミニウムを接種した学者がいた。
で、そのあとウサギの脳を調べてみたら、「とぐろを巻いた
繊維構造がいっぱいつまっていた」(同書)という。
そこでその学者は、「神経原繊維変化」の原因物質をつきとめた
と思ってしまったらしい。
それが「アルツハイマー病、アルミニウム原因説」へとつながっていった。
が、やがてこの現象は、アルツハイマー病による神経原繊維変化とは
別のものとわかったそうだ。
で、現在、アルミニウムによるこの現象は、「アルミニウム脳症」
と呼ばれ、アルツハイマー病とは区別されているという。
なお、本書の巻末には、アルツハイマー病の診断テストがついていた。
MMSEテスト法というのが、それだが、「今日の曜日が言えるか」
とか、「季節がわかるか」といった程度のもの。
で、そのあと、私は、子どもたちと、こんなゲームをした。
称して、「逆唱ゲーム」。
MMSEテスト法の応用というか、もう少しレベルをあげたもの。
(テスト1)
ランダムに、5つの数字を言い、相手に、それを逆唱させる。
たとえば「3・8・6・3・9」を、「9・3・6・8・3」と。
(テスト2)
5文字程度の言葉、たとえば「ゆ・き・だ・る・ま」と言い、相手に、
「ま・る・だ・き・ゆ」と、それを逆唱させる。
これがスラスラとできるようなら、問題はないということらしい。
【症例】
私の知っている人に、こんな人がいた。
当時、年齢は55歳。
女性である。
なおアルツハイマー病では、女性患者のほうが、男性患者より多いそうだ。
で、ある日、突然、その女性から、電話がかかってきた。
話を聞くと、孫(当時6歳)が、ゲーム機器に買ってあげたという。
で、「どんなゲーム(ソフト)を買い与えたらいいか?」と。
私はゲームには、詳しくなかった。
「あとで調べて報告します」ということで、その電話は切った。
私はその足で、近くにあるソフト専門店に足を運んだ。
数日後、その女性に教室で会ったので、「何か、買いましたか?」と
聞くと、「ハア~?」と。
私「ゲームは、どんなものにしましたか」
女「孫が、ほしいと言ったものにしました」
私「どんなゲームですか?」
女「知りません。孫が勝手に決めましたから」と。
が、私が驚いたのは、その1、2週間あとのこと。
私が再び、その女性に、「先日、電話をいただいたあと、どんなゲームが
いいか、それをレポートに、まとめてみました」と話しかけると、その女性は、
こう言った。
「私、先生に、いつ、電話をしましたか。電話などした覚えはありません!」と。
かなりきつい言い方だった。
似たような症例が、「アルツハイマー病にならない!」(前述)の中にもある。
『……(その女性は)本が好きで、毎晩、寝る前に本を読んでいた。
しかし「おかしい」と気づいたのは、65歳のとき。
寝る前に読んでいた本だったが、どこまで読んだか、忘れてしまった。
前の晩まで読んだ本の内容を忘れてしまった。
また息子の妻から、税金の申告に必要な書類を渡され、つぎの日に、
「書類はすみましたか」と聞かれたが、何のことかわからず、
書類を渡されたこと、その書類をどこにしまったかということ、
何を書き込んだかということを忘れてしまった……」(同書より、要約)と。
アルツハイマー病による(もの忘れ)は、ふつうの(もの忘れ)とは、
中身がちがうようだ。
(忘れる)というよりは、(記憶の断片そのものが、欠落する)と
いった感じになる。
で、先の女性の話にもどる。
その女性は、周期的に、私に電話をかけてきた。
「孫の相談で……」ということだったが、内容は、夫や、息子、息子の嫁
にまで及んだ。
が、そのつど、一方的に話すだけ。
アルツハイマー病の患者は、話し方が、かったるくなるというが、
その女性は、早口だった。
相談といっても、綿々とつづく、グチ、またグチ。
私が何かアドバイス的な意見を口にすると、ときに、それに激怒する。
「先生は、私の話を何も聞いていないのですね!」「ちゃんと、人の話は
聞いてください!」「この前、ちゃんと、説明したでしょ!」と。
が、次回の電話では、前回の電話の内容を、まったく覚えていない。
私が「あの件は、どうなりましたか?」と聞いても、「ああ、あれね。
解決しました」で、終わってしまう。
話の内容に、連続性がないばかりか、一貫性がない。
で、事件が起きた。
その女性の孫が通っている幼稚園で、何かの会費を預かったのだが、その会費を
紛失してしまったというのだ。
で、息子の嫁がそれを問いただすと、「私は、受け取っていない」の
一点張り。
そこで家族そろって、病院へ……ということになったという。
「アルツハイマー病にならない!」の中の女性についても、こうある。
『……夫からは、「最近、考えることや行動が貧困化している。以前は通院の
帰りにデパートで買い物などしていたが、今は、それがない」と。
また息子の嫁からは、「もの忘れが進んでいる。それを指摘すると、
顔色を変えて、怒り出す。食事の支度を頼んでも、味噌汁をつくってくれる
くらい」と……』(同書より、要約)と。
(1)連続性の欠落(話の内容が飛躍し、つながりをもたない)
(2)一貫性のなさ(「OK」と言っていたことが、突然「NO」になる)にあわせて、
(3)生活態度の貧困化
(4)突然の激怒、混乱も、アルツハイマー病の特徴に加えてもよいのでは?
こうした様子が、その人に見られたら、まず専門医に相談、ということになる。
それにしても、私は、この本を、ハラハラ、ドキドキしながら読んだ。
「明日は、我が身」という内容の本だった。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今日・あれこれ】(5月26日)
May 26th: I woke up at 5 o'clock in the morning and spent abt one hour with some
routine works. Now is 6 o'clock and until around 9 o'clock, it is completely my private
time, writing what I want to write. By the way an Irish song, called "Salley Gardens"
teaches us to live easy, like this: "She bid me take love easy, as the leaves grow on the
tree". I would agree if I were much younger than I am now.
++++++++++++++++
今日も、始まった!
時刻は、午前6時。
書斎へ入ったのが、5時。
1時間ほど、雑用をしたことになる。
これから9時ごろまで、私の時間。
私だけの時間。
そのころ、ワイフが
階下から声をかけてくる。
「朝ご飯、食べるウ~?」と。
この習慣は、この20年近く、
ほとんど変わっていない。
++++++++++++++++
●キトラ古墳
昨日、久しぶりに、キトラ古墳について書いた。
そのキトラ古墳と同じころ作られた古墳に、
高松塚古墳がある。
7世紀終わりから、8世紀初めにかけて
作られた古墳だという(東京文化財研究所)。
その古墳の中に、「飛鳥美人」と呼ばれる、
女子群像の絵がある。
かなり傷みがひどいらしい。
今度は、「直径6~7センチの陥没が、
3、4か所見つかった」(報道・08・05)という。
その飛鳥美人だが、あの絵を見て、
「昔の日本人」と思う人は、まずいない。
日本の着物ともちがう。
どこからどう見ても、百済、もしくは高句麗の
女性である。
さらにキトラ古墳、高松塚古墳の近くに、
カヅマヤマ古墳というのも、見つかっている。
「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った
石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇の客人
だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、
渡来人の人物がふさわしいのでは」(前園奈良芸術短大教授)
とのこと。
カヅマヤマとキトラは、距離にして、1・5キロしか
離れていない。
7世紀後半といえば、天武天皇の時代だが、
どうして天武天皇という人は、こうまで、朝鮮様式
の墳墓にこだわったのか。
(天智天皇もそうだが……。)
今度、ワイフと、これらの古墳群が並ぶ、
明日香村の西南部へ行ってみよう。
全体でも幅3キロ前後というから、歩いて
散策できる。
++++++++++++++++++
●音楽
今、ワイフは、アイルランドの民謡の、「Sally Gardens」
の歌詞を、懸命に暗記しようとしている。
「1週間で暗記してみせる」と言っているが、どうかな?
Down by the salley gardens my love and I did meet;
She passed the salley gardens with little snow-white feet.
She bid me take love easy, as the leaves grow on the tree;
But I, being young and foolish, with her would not agree.
In a field by the river my love and I did stand,
And on my leaning shoulder she laid her snow-white hand.
She bid me take life easy, as the grass grows on the weirs;
But I was young and foolish, and now am full of tears.
柳の庭を下ったところで愛する人と逢ったんだ
彼女は白雪のような足で柳の庭を抜けて行った
彼女は僕に言った
恋は木の葉が茂るみたいに気楽に
でも若くて愚かだった僕は肯けなかった
川のほとりの原っぱに愛する人と立っていて
彼女は白雪のような手を僕の肩に掛けた
彼女は僕に言った
人生は堰に草の茂るみたいに気楽に
でも若くて愚かだった僕は今涙で一杯だ
(訳、ウィキペディア百科事典より)
音楽そのものは、YOU TUBEで
聴くことができる。
私のHPのトップページから、(音楽と私)
に進んでもらってもよい。
どこか淡く、切なく、美しい曲である。
●Salley Gardens
YOU TUBEを楽しむようになってから、
私の音楽の世界が、ぐんと広がった。
それまでは、限られた範囲の、限られた
曲しか聴いていなかった。
「Sally Gardens」も、YOU TUBE
を通して知った曲である。
いろいろな歌手が、それぞれの歌い方をしている。
それを知って、「有名な曲だたんだア」と驚いた。
言いかえると、私たちは、加齢とともに、
自分の住む世界を、どんどんと小さくしていく。
小さくしながら、それにすら気づかない。
考えてみれば、これほど恐ろしいことはない。
音楽にしても、「好きな曲は?」と聞かれたとき、
頭に思い浮かぶのは、数曲だけ……というのでは、
困る。
「困る」というより、その人の脳みそは、
かなり退化している(=ボケている)と考えてよい。
中には、「音楽など、聴いたことがない」と
いう人さえいる。
つまり脳みその退化と闘うためには、自分の住む
世界を、広くしていくしかない。
常に新しいことに興味をもち、それに向かって
挑戦していく。
その努力を怠ったとたん、脳みそは退化していく。
ところでその「Salley Gardens」だが、
こう歌う。
「人生は堰に草の茂るみたいに気楽に」と。
つまりあれこれ難しいことは考えないで、人生は気楽に
過ごしたらよい、と。
たしかに、そうかもしれない。
しかし、そうでないかもしれない。
考えるから、気楽でないということにはならない。
考えないから、気楽ということにもならない。
私も、書斎を離れたら、ワイフとはバカ話ばかり
している。
ヒワイな話も、よくする。
さらに子どもたちに接したとたん、心まで、子どもたちの
レベルにまで戻ってしまう。
6歳児と接するときは、6歳児に。
10歳児と接するときは、10歳児に。
それに若いときは、気楽に生きればよい。
時間はたっぷりとある。
1度や2度の失敗など、平気で取り返せる。
しかし今は、ちがう。
「あと20年」と言われたりすると、「今までの
20年のように、あっという間に過ぎて
しまうだろうな」と思ってしまう。
「たったの20年!」と思うこともある。
たとえば「死」についても、若いときは、
それは(個人)の死でしかなかった。
が、しかし、今は、ちがう。
私という(個人)よりも、この宇宙全体が、
「死」とともに、永遠に消えることを意味する。
「死」の重み、そのものが、ちがう。
さて再び、「Salley Gardens」。
私はこの歌は、失恋の歌だと思う。
どこにもそうは書いてないが、その(切なさ)が、
この歌を歌っていると、ジンと伝わってくる。
「♪あのときあの恋人が言ったように、静かに
人生の流れにの中に身を置いていたら、
私はあのまま、あの恋人と、幸福な人生を
送っていただろう。私は若くて、バカだった」と。
ついでに……。
先の「私は音楽など、聴いたことがない」と言った
人だが、今年、70歳くらいになる女性である。
私の印象では、どこか小ずるく、どこか薄汚い。
ペラペラとよくしゃべるが、中身がまったくない。
音楽を聴かない人というのは、ああなるのか?
それとも認知症の初期症状?
どうであるにせよ、音楽を聴くことは、大切なこと。
それによって生まれる感動は、生活のあらゆる部分に
影響を与える。
絵を見て感動する。
映画を見て感動する。
人と会って感動する。
そういうふうに、つながっていく。
そうでない人は、そうでない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
★
★
★
★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪…… このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ 方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ まぐまぐ社より、配信しています。
. /~~~\ ⌒ ⌒ 購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、 o o β 会社の解除方法にしたがってください。
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
. =∞= // (偶数月用). mQQQm
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 20日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page024.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●山荘にて・・・
++++++++++++++++
今夜は、山荘にやってきた。
もっと早い時刻に来るつもりだった。
しかし午後になって、ワイフが、
『ロング・エンゲイジメント』と
いうDVDを見始めた。
フランス映画だった。
すばらしい映画だった。
星は、文句なしの、5つ星。
私も、つられて見てしまった。
それで山荘に来るのが、遅くなってしまった。
今、時刻は、午後10時、少し前。
外は、小雨が降っている。
谷の下のほうから、カエルの鳴く声が
聞こえてくる。
あとは・・・、かすかにパソコンのファンの
回る音。
+++++++++++++++++
●山荘を売る
山荘へ来る途中、その山荘を売る話をした。
あと5~10年もすれば、車の運転もままならなくなる。
判断力も、決断力も、鈍る。
そうなってからでは、遅い。
「5~6年もしたら、売ろうか?」と声をかけると、
「そうね・・・」と、ワイフ。
私「あとは、値段の問題だけだよ」
ワ「安くてもいいわ」と。
●老後の棲家(すみか)
ついでに居住地を、市の中心部に移すという話も
今、出ている。
「ショッピング・センターも病院も、歩いて行ける
ようなところがいい」と。
現在は、浜松市と浜名湖の、ちょうど中間あたりに
住んでいる。
JR浜松駅まで、車で、約20~25分。
浜名湖へも、同じくらい。
バス停も医院も、近くに、あるにはある。
しかしどこか不便。
銀行や郵便局となると、歩いては行けない。
ショッピング・センターは、さらに遠い。
それで「居住地を移す」という話が出てきた。
ときどき近くの不動産屋へ足を運んでいる。
●生きがい
「生きる」といっても、ただ生きるだけでは、意味がない。
そこで登場するのが、「統合性の問題」。
まず、ありのままの自分を受け入れる。
その上で、「何をすべきか」を考える。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、である。
その(すべきこと)と、(現実にしていること)を一致させる。
それを「統合性の一致」という。
この統合性の確立に失敗すると、老後は、みじめで
あわれなものになる。
現に、そういう老人は、多い。
死ぬこともできず、ただ生きているだけといった老人たちである。
繰りかえす。
ここでいう(すべきこと)というのは、(したいこと)では、
ない。
(すべきこと)には、ほとんどのばあい、ある種の苦痛が
ともなう。
そのため、だれしも、できるなら避けたいと願う。
しかしその苦痛を厭(いと)おっていたら、統合性の確立など、
望むべくもない。
庭いじりに、孫の世話。
旅行三昧(ざんまい)に、趣味三昧。
この日本では、そういうことをするのが、理想の老後と考える。
しかしそんなことを繰り返しても、心のスキマを埋める
ことはできない。
かえって、空しくなるだけ。
●墓の問題
ついでながら、私の家でも、「墓」の問題が、起きつつある。
「死んだら、墓をどうするか」と。
友人の中には、早々と墓地を手に入れた人もいる。
しかし私のばあいは、もう少し、複雑。
私の実家の、実質上の後継ぎは、この「私」ということになる。
(兄には子どもはいない。姉は、嫁いで、外に出ている。)
で、実家の墓は、G県の田舎にある。
私は、そのG県に戻る気持ちは、さらさら、ない。
となると、墓地を、この浜松へ移さねばならない。
(永代供養という形で、実家のほうに墓地を残すという
方法もあるそうだが・・・。)
しかし私自身は、墓地には、ほとんどといってよいほど、
こだわっていない。
なくても、かまわない。
ワイフも、同じような意見をもっている。
どうしたらよいのか?
まあ、この種の問題は、その時期がくれば、自然と
解決していくもの。
水が低いところも求めて流れていくように、やがて解決していく。
今、あれこれ考えても、しかたない。
どうせ、あれこれ考えても、どうにもならないし・・・。
●新しいパソコン
6月に、H社というアメリカの会社が、小型パソコンを
発売する。
大きさは、B5ノートより、一回り、小さいという。
値段は、6万円弱。
カタログを見たとたん、グググーッと、物欲が、私の
心に充満した。
現在、T社のダイナブックを2台、S社のメビウスを
1台。
それにこのP社の、レッツ・ノートを1台、使っている。
しかしこのレッツ・ノートを除いて、ほかのは、この
ところ故障つづき。
どうやら寿命らしい。
が、ほんとうにほしいのは、超高性能のデスクトップ。
RAID機能(電源を入れたまま、ハードディスクを
入れ差しできる)がついているのが、よい。
・・・とまあ、いろいろ考えている。
「誕生日まで、がまんする」と私が言うと、ワイフは、
こう言った。
「だれの・・・?」と。
もちろん私の誕生日である。
が、すかさず、私は、こう言った。
「もちろん、お前の誕生日だよ。
お前だって、ダンナの喜ぶ顔が見たいだろ」と。
ワイフの誕生日は、来月の6月。
つまらない話ばかりでは、申し訳ないので、こんな話も
書き残しておきたい。
まず基礎知識として……
天智天皇のつぎが、天武天皇。
その間に、つまり天智天皇のあとに、天智天皇の子の
大友皇子が皇位につき、「弘文天皇」と名乗ったという
説もあるが、これについては現在では否定的な見解が優勢。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【謎のキトラ古墳】
●百済(くだら)王子
今朝の新聞によると、例のキトラ古墳の内部は、
もぬけのカラだったという(08年5月24日)。
わずかな人骨が、散乱していたにすぎなかったという。
新聞記事によれば、「盗掘によってそうなった」と。
しかし、どこのだれが、人骨など、盗掘するだろうか?
これについては、こんな説がある。
その前に、当時の歴史について、説明しておかねば
ならない。
みなさんも、「壬申(じんしん)の乱」という言葉を、
学校の社会科の授業で、聞いたことがあると思う。
当時としては、たいへんな大事件であったらしい。
日本書紀も、この事件について詳しく書いている。
で、その壬申の乱というのは、天智天皇(てんじてんのう)の子
である、大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟である、大海人皇子
(おおあまのみこ)の間で起きた、皇位争奪戦のことをいう。
つまり天智天皇なきあと、天智天皇の子と、天智天皇の
弟が、皇位を争って、「乱」を起こした。
結果、天智天皇の弟の大海人皇子が、皇位を継承する。
名を「天武天皇」と改める。
そこでもう一度、キトラ古墳が発掘された当時(02年)に
私が書いた原稿を、ここに再掲載してみる。
この中で、とくに注意してほしいことは、キトラ
古墳の内部が、百済王室の模様で、飾られていた
ということ。
だからキトラ古墳が発掘された当時、新聞記事の
見出しは、こうなっていた。
「天智天皇の子の大友皇子か、それとも百済皇子の
墓か」と。
++++++++++++++++++++++
●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。こ
れは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2
002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という
言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同
じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香
村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったという
のだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、
弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われ
る『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。こ
これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百
済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と
解釈したらどうなるか。
弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大
見出しを載せた。
++++++++++++++++++++++
先に書いた壬申の乱の前に、朝鮮半島で、「白村江
(はくそんこう)の戦い」というのが起きている。
西暦663年のことである。
この白村江の戦いというのは、わかりやすく言えば、
滅びつつあった百済が、百済再興をかけて、唐と
新羅(しらぎ)に、最後の一線を挑んだ戦いということになる。
その白村江の戦いに、天皇家は、百済にたいして、
援軍を送っている。
その中心的人物が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
と言われているが、確かではない。
それはそれとして日本の天皇家と、百済は、きわめて近い関係に
あった。
が、ご存知のように、白村江の戦いでは、百済が敗退。
同時に日本の天皇家は、手痛い打撃を受ける。
ここから先は、関裕二氏の書いた「古代史の秘密を握る
人たち」(PHP)を引用させてもらう。
関裕二氏の書いた本の中には、こうある。
「(日本書紀によれば)、中臣鎌足が出現する直前、
百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が、人質として、
来日している」(同、P83)と。
以下、同書には、つぎのようにある。
「豊璋は、西暦631年に来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の機
運の高まりの中で、百済の名将、鬼室福信に呼び戻され、擁立される。しかし(豊璋は)、
鬼室福信の手腕と名声をねたみ、これを殺し、首を塩漬けにして、自ら王朝の衰弱を招い
てしまう。白村江の戦いで百済王朝は、永遠にこの世から姿を消し、豊璋は行方をくらま
したままだった」と。
年代を整理してみよう。
631年・・・豊璋、来日
660年・・・百済滅亡
663年・・・白村江の戦い(百済、永遠に滅亡)
672年・・・壬申の乱が起きる。
673年・・・天武天皇(大海人皇子)即位
キトラ古墳は、こうした歴史を背景として、作られた。
ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。
「壁画などにみられる唐の文化的影響が、高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐
使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳である
と見られている」(ウィキペディア百科事典)と。
つまり西暦600年の末から、西暦700年のはじめである、と。
この時期は、白村江の戦い~壬申の乱と、ピタリと重なる。
さらにつけ加えるなら、壬申の乱は、天智天皇の子と、
天智天皇の弟との間の皇位争奪戦だったということに
なっているが、関裕二氏の見解は、少しちがう。
それまでの百済派だった大友皇子(天智天皇の子)と、
新羅派になりつつあった大海人皇子(天智天皇の弟、
のちの天武天皇)との間の戦いだった、と。
わかりやすく言えば、百済派の天智天皇の子と、
新羅派の天武天皇の戦いだった、と。
これを裏づける資料としては、つぎのような
ものがある。
「天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から
新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への
遣新羅使も頻繁に派遣されており、
その数は天武治世だけで14回に上る」(ウィキペディア百科事典)と。
が、最大の謎は、なぜ天智天皇は、それほどまでに百済に
肩入れをしたのかということ。
天智天皇は、ウィキペディア百科事典によれば、3派に分けて、
計4万人という兵力を送っている。
事実、白村江の戦いで百済は滅亡し、そのあと天皇家も滅亡の
危機を迎える。
が、こうした事実と、キトラ古墳を重ね合わせてみると、
答は自然と出てくるのでは?
壬申の乱で政権を継承した大海人皇子(天武天皇)は、新羅への
忠誠をたてる必要性からも、キトラ古墳をつぶさなければ
ならなかった(?)。
その結果が、今朝の新聞ということになる。
なお、こうした歴史観というのは、日本の外では常識で、
「そうではない」「まちがっている」と、かたくなに、
「日本史」にこだわっているのは、日本の歴史家たち
だけと考えてよい。
日本史も、実は、東洋史の一部でしかない。
またそういう視点で、日本の歴史をながめて、はじめて、
日本人は、日本のルーツを正しく知ることができる。
これは余計なことかも知れないが・・・。
なおさらにつけ加えるなら、ここに出てくる、「豊璋」
という人物は、中臣鎌足ではなかったかという説も
ある(前述、関裕二氏)。
+++++++++++++++++++++++
ここまで書いて、あの「ニセ石器事件」を
思い出した。
日本人の私たちにしてみれば、思い出したくもない
不愉快な事件かもしれない。
が、なぜ、日本の考古学者たちが、
あのニセの石器に飛びついたか。
その心理的背景を知るのには、たいへん象徴的な事件
ということになる。
+++++++++++++++++++++++
●日本史にこだわる日本人
【ニセ石器事件】
●藤木Sの捏造事件
一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼
が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。
しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしま
ったというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1
999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業
の社長や国会議員をしている。
その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国
人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当
時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、
日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。
+++++++++++++++++++
その韓国で、私は、交換学生だった当時、
金素雲氏という人から、こんな話を、直接
聞いた。
当時の韓国を代表する、文学者兼歴史学者
であった。
+++++++++++++++++++
【民族の誇りとは……】
++++++++++++++++++++
2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。
今、改めて、それを読みなおしている。
++++++++++++++++++++
●私はユネスコの交換学生だった
1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡っ
た。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎え
られた。が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面
に立たされた。
私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学
者である。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、し
かしすべてを教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話
してくれた。
●奈良は韓国人が建てた?
「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈
落の果てにある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。
昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国
語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。
もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先
に言えば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、
あるいはアジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観
点から日本史を見る必要があるのではないのか。
ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオース
トラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本は
その一部でしかない。
●藤木新一の捏造事件(先にあげた原稿と重複します)
一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。
彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。
しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしま
った人たちがいるというから、これまたすごい。
たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1
999年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業
の社長や国会議員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に
寄り、こう話してくれた。
「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」
と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんば
かりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いて
いた。
●常識と非常識
私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話
と、この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信
じたくもない風説に過ぎない。
いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の
墓の中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やは
り風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じ
たい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。
事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えて
みると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話して
くれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用し
ない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく
態度も、基本的には同じとみてよい。
●お前は日本人のくせに!
……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。
事実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。
しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれ
れば、私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本
という国土、文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。
このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意
識は、ゆがんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのも
のをゆがめる。これは危険な思想といってもよい。
仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくと
も中国の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代か
ら5500年の歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中
国からきたものだ。
その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人
を「下」に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義と
いうのは、もともとそのレベルのものでしかない。
●驚天動地の発見!
さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。こ
れは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2
002年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という
言葉を使った。
これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同
じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香
村でなされた。
明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったという
のだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王
族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。
京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われ
る『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうや
らふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓
削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらど
うなるか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」
という大見出しを載せた。
●人間を原点に
話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚
かない。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛
知万博の会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見た
ら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1
月16日、東京)と。
これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じこと
が言える。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、
笑いものになるだけだ。
いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものに
なるだけ。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考える
ほうがおかしい。私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア
人であるからということではなく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが
「パンセ」の中で書いたように、「考える」ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、
「知的生命体」(同会議)であることによる。
●非常識と常識
いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いているこ
とが正しいと証明されるだろう。
そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の
捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背
を向けたのか」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で
深く結びついている。(以上、2002年1月記)
++++++++++++++++++
今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、
石積み石室古墳が見つかったという。
中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。「時期は
7世紀後半、40~50代の男性埋蔵か」と。
「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語ってい
る。
「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武
天皇の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふ
さわしいのでは。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの
終末期古墳と一致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特
殊な石室をもつ点が特徴だ」と。
奈良県の明日香村の西南部には、7~8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇
家に関係があるとされる。
中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そ
こから南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説
が有力(同、新聞)。
この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、
1・5キロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……と
いうより、百済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。
日本人の墓とするには、あまりにも無理があるからである。
日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事
実ひとつだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして
日本の聖域の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。ま
た天皇陵の様式にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。
この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出
す。
「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨
大な謎が隠されているらしい。
(はやし浩司 カヅマヤマ古墳、キトラ古墳 百済 高句麗 弓削王子 金素雲 (はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist キトラ古墳 豊璋 天
智天皇 天武天皇 百済 新羅 天皇家のルーツ はやし浩司 壬申の乱)
(あとがき)
朝鮮半島と日本は、古来より、密接に関係しあっていた。
朝鮮語と日本語は、発音こそちがうが、同じ言語である。
日本語が朝鮮半島に伝わったということは、ありえない。
朝鮮語が、日本に伝わったと考えるのが、自然である。
私はこのことを、佐賀県の唐津へ講演で行ったときに知った。
あのあたりまで行くと、会話の抑揚そのものが、韓国語に
そっくり。
そこでそのことを話題にすると、付き添ってくれた佐賀県の
教育委員会の方が、こう説明してくれた。
「天気のいい日には、近くの山に登ると、朝鮮半島が見えますよ」と。
日本から朝鮮半島が見えるということは、向こうからも日本が見える
ということ。
朝鮮半島に生まれた強大な国家が、日本制服をもくろんだとしても、
何もおかしくない。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【ニュースを読む】(2008年5月24日)(From News of the Day, May 24th)
++++++++++++++++++
夕食後、うたた寝したのが悪かった。
1時間半ほど、眠ってしまった。
おかげで、そのあと頭が冴(さ)えてしまった。
時刻は今、午前0時30分!
書斎に入って、パソコンに電源を入れる。
あちこちのニュース・サイトに目を通す。
++++++++++++++++++
●原油価格(Crude Oil Price)
++++++++++
23日のニューヨーク商業取引所(NYMEX)の原油先物相場は、押し目買いが優勢となっ
て、また値をあげたという(ヤフー・ニュース)。
++++++++++
現在、7月物は、前日終値比2・54ドル高の、1バレル=133・35ドル。
「押し目買い」とは、何か?
国語大辞典には、つぎのようにある。
「あがっていた株価が、少しさがって安くなること」(経済)と。
このばあいは、「安くなって、値ごろ感が出て、買いが入った」ということらしい。
それにしても、133ドルとは!
言うまでもなく、アメリカ経済の最大の強みは、ドル紙幣を印刷する、(ドル印刷機)をも
っていること。
だれに遠慮することもなく、まただれに相談することもなる、アメリカ政府の一存で、必
要となれば、いくらでもドル紙幣を印刷できる。
こうして印刷されたドルが、原油に向かった。
ほんの半年前には、1バレルが30ドル前後だったから、4倍以上になったことになる。
つまり、単純に計算すれば、ドルの価値が、こと原油価格についてみるかぎり、4分の1
になったことになる。
つまりそれだけのドルを、世界にバラまいた!
わかりやすく言えば、アメリカは、なりふり構わず、自国の経済防衛に打って出たことに
なる。
「自国が滅ぶなら、世界もろとも……」ということらしい。
しかしそれこそ、世界にとっては、えらい、迷惑。
日本など、先進国には、それほど大きな影響は出ないが、発展途上にある国々にとっては、
そうではない。
シワ寄せは、そうした貧しい国々に集まる。
つまりその分だけ、世界は、不安定化する。
●汚職問題(Corruption of a Politician)
+++++++++++
民主、共産、社民、国民新の野党4党は23日、国会内で幹事長・書記局長会談を開き、
防衛装備品の調達を巡る汚職事件に関連し、自民党の久間A元防衛相と、社団法人「日米
平和・文化交流協会」の専務理事だった、秋山N氏に対する証人喚問要求することで一致
したという(ヤフー・ニュース)。
+++++++++++
「社団法人」といえば、基本的には、営利を目的としない法人をいう。
税法上の恩恵も多いが、その分だけ、設立に関しては、審査もきびしい。
そういう法人の理事長が、YD貿易会社の元専務から、何かの名目で1億円も受け取って
いたという(同)。
つまり(YD貿易会社の元専務)→(社団法人の秋山N)→(久間A元防衛相)の3者が、
こうしてつながった。
単純に推理すれば、久間A元防衛相は、社団法人を隠れ蓑にして、YD貿易会社から、ワ
イロを受け取っていたということになる。
その疑いは、濃厚ということになる。
そこで、野党4党は、「秋山N氏に対する証人喚問要求することで一致した」(同)という。
秋山N氏が、どこまで真実を話すか。
また話さないか。
久間A元防衛相の命運は、それで決まる。
●生きたまま、祖父に火!(An Old Couple, that were burnt to Death)
+++++++++++++
島根県T町で22日、AKさん(81)と妻Tさん(76)夫妻が自宅で殺害された事件
で、殺人容疑で逮捕された孫の無職NK容疑者(23)は、AKさんが生きていた際、火
をつけていたことが23日、T署捜査本部の調べで分かった(ヤフー・ニュース)。
+++++++++++++
23歳の孫が、祖父母を殺害した!?
報道によれば、AKさんは上半身が黒こげ状態で、背中に包丁が2本刺さり、1本が近く
に落ちていたという。
約3メートル離れた所で倒れていた妻Tさんは首を切られ、いずれも死亡していたという。
何があったのか?
近所の人の話では、AKさん夫婦は、孫のNK容疑者を、ことのほか、かわいがっていた
という。
またNK容疑者は、おとなしく、静かな男性だったという(報道)。
家族の問題は、その家族にしかわからない。
私のような外部の第三者が、あれこれとコメントするほうが、まちがっている。
が、それにしても……?
(家族)というのは、良好な人間関係で結ばれている間は、すばらしい(力)を発揮する。
しかしひとたび、その人間関係が崩れると、その分だけ、たがいに憎しみあうようになる。
ふつうの(憎しみあい)ではない。
仏教の世界にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
四苦八苦のひとつになっている。
それこそ殺しあうところまで、憎しみあう。
今回の事件も、その一例?
よい家族でなくても、悪い家族でなければ、ほどほどのところで、満足する。
それが家族円満の秘訣ということか。
●四川大地震(Shi-Sen Earthquake)
+++++++++++++++++
香港紙・明報(電子版)は、23日、つぎのような記事を載せている。
『大地震の被災地・四川省羅江県で21日、地元当局による救援物資の横流しを疑う住民
数1000人が、警官隊と衝突したと報じた。地元公安局の副局長らが負傷した。12日
の地震発生以降、被災地で大きな抗議行動が起きたのは初めてという』と。
+++++++++++++++++
四川大地震は、いろいろな方面に、まったく予想外の波紋を広げつつある。
このニュースもそのひとつ。
「地元当局の救援物質の横流しを疑う住民らが、警官隊と衝突した」と。
事実か、事実でないか、私にはわからないが、もし事実だとするなら、「あきれて、ものも、
言えない」ということになる。
が、これだけではない。
四川省では、一部の放射性物質が未発見のままだという。
さらにその周辺では、致死性の感染症が、住民を襲い始めているという。
「放射性物質」とは何か?
「致死性の感染症」とは何か?
ひょっとしたら、放射性物質というのは、核兵器の一部のことではないのか。
また致死性の感染症というのは、細菌兵器の一部ではないのか。
つまりこれらの物質や最近が、今回の地震で、外に漏れ出た?
その可能性はないとは言えない。
現に、化学薬品工場などが倒壊し、化学薬品が漏れ出るという事故が多発している。
日を追うごとに、四川大地震が、(大地震)だけですまなくなってきている。
だいじょうぶか、中国!
●日本は、サラ金国家(Japan is a country of Cosumer Finance)
+++++++++++++++
額賀福志郎財務相は23日の閣議に、07年末の対外資産負債残高を報告した。日本の政
府や企業、個人が海外に保有する資産から、外国人投資家の対日投資など負債を差し引い
た 額賀福志郎財務相は23日の閣議に、07年末の対外資産負債残高を報告した。日本
の政府や企業、個人が海外に保有する資産から、外国人投資家の対日投資など負債を差し
引いた対外純資産残高は、前年末比16.3%増の250兆2210億円となり、2年連
続で過去最高を更新した。(毎日新聞) (以上、毎日新聞)。
+++++++++++++++
日本は、戦後、稼いだお金を、一度ドルにかえつづけた。
わかりやすく言えば、紙くずになりつつあったドルを、懸命に買い支えた。
月によっては、3兆円もアメリカの国債を買い支えたこともある(2006年度)。
で、たまる一方の外貨。
そこで日本は、その外貨を、外国に投資した。
その結果が、今。
毎日新聞によれば、「……対外純資産残高は、前年末比16.3%増の、250兆2210
億円となり、2年連続で過去最高を更新した」(毎日新聞)とある。
つまり日本は、世界のサラ金国家として、さらにその地位を不動のものとしたということ。
が、それにしても、スゴイ!
250兆円とえいば、人口の1億2000万人で割ると、1人あたり、208万円というこ
とになる。
私の家族は5人だから、約1000万円の対外資産ということになる。
が、喜ぶのは、早い!
もっともこれらの資産は、大半が、銀行や証券会社、それに企業のもの。
私たち個人による外国証券購入も、それに含まれるが、まだまだ一部。
ついでながら、「対外純資産」とは何か。
東奧日報のHPには、つぎのようにある。
「国全体として海外で保有する資産と、外国からの国内投資(負債)の差を表す。対外資
産は銀行の対外融資、日本企業の対外直接投資のほか、外貨準備や政府開発援助などが
含
まれ、最近は個人の外国証券購入も増加している。対外負債は外国人の対日証券投資や邦
銀による外貨資金の借り入れなど。財務相が毎年末の実績を閣議に報告することが法律で
定められている」と。
さらに言えば、こういうことにもなる。
本来なら、日本が稼いだお金は、日本国内で投資するのが、正道。
それをしないで、日本の金融機関は、外国ばかりに投資している。
言いかえると、日本のマーケットは、それだけ魅力がないということになる。
わかりやすく説明してみよう。
あなたはたいへんな勤勉家である。
毎日、朝から晩まで、汗水をたらして仕事をしている。
が、稼いだお金は、自分では使わず、せっこらせっこらと貯金に回す。
狭い家に住み、食べるものも食べず、貯金に回す。
通帳の数字を見ながら、「ふえた、ふえた」と喜んでいるだけ。
しかしそんな生活が、本当に、豊かな生活と言えるのだろうか。
●6か国協議(6-Nation Conference)
++++++++++++++++
ロイター通信は22日、外交筋の話として、K国の核問題をめぐる6か国協議の米首席代
表クリストファー・ヒル国務次官補が、来週、K国首席代表の金桂寛(キムケグァン)外務次
官と、北京で会談する見通しだと報じた。
++++++++++++++++
裏に何があるのか?
それとも、ないのか?
私には知るよしもないが、金xxの健康問題がからんでいる?
あるいは金xxは、すでに統治能力を失っている?
ブッシュ大統領は、なぜに、こうまで方向転換をしてしまったのか?
今では、あのアメリカが、金xxという独裁者の延命に、手を貸している?
「日本より、K国のほうが、信頼できる」と言わんばかり。
ヒル国務次官補の一連の行動を見ていると、どこかカルト的?
まるで金xxの毒気に、洗脳されてしまったよう。
「ジャンク(ガラクタ)化したヨンビョンの核開発関連施設を爆破してみせる」とまで、
言い出した。
わかるかな?
ヨンビョンの核開発関連施設を視察したアメリカの専門家ですら、「1940年代で時計が
止まったままの、ジャンク(ガラクタ)」と評している。
そんな施設を、爆破してみせる、と?
ヒル国務次官補は、それによって自分の成果(?)を、世界にアピールしたいのだろう。
一方、K国側は、それで核開発問題は、終わったことにしたいのだろう。
が、そんなショーにだまされてはいけない。
既存の核兵器はどうする?
ウラン抽出問題は、どうする?
拉致問題は、どうする?
ヒル国務次官補をうしろで操る、ライス国務長官。
そのライス国務長官の顔が、日本では、まったくといってよいほど見えてこない。
あの方は、よほど、日本という国が、嫌いらしい?
このままでは、日米関係は、さらに悪化する。
日米関係そのものに、大きなキレツが入る。
つぎの6か国協議は、その起爆剤になりそう?
(08年5月24日記)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 18日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page023.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。つぎの特集記事を、どうか、お読みください。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●言葉が乱れる子ども
+++++++++++++++++++++
言葉が乱れる子どもというのは、少なくない。
言っていることは、わかるのだが、全体として、
文章になっていない……?
それを書く前に、こんなことは、よくある。
これは日本語の特徴なのかもしれないが、
たとえば、子どもたちは、こう言う。
「明日は、プールがない」と。
そこで私がすかさず、「プールがないって、
どういうこと?」と聞きかえす。
子「プールがないよ」
私「プールが、現れたり、消えたりするの?」
子「ううん、プールはあるけど、プールで、
泳がない」
私「泳げばいいでしょ。どうして泳がないの?」
子「だからア~、体育の授業で、水泳をしないって
いうこと」
私「ああ、そう。だったら、はじめっから、そう
言えばいいのに……」と。
が、P君(小2男児)のケースは、ややちがう。
(Pさん、P君のことを書いて、ごめんなさい。
立ち話のつづきを書いてみます。)
P君は、こう言った。
「ぼく、携帯電話ない。かぎは、もってる。
お母さん、仕事で、ぼく、先に、中に入る……」と。
P君が言おうとしていることは、よくわかる。
こういうことらしい。
「ぼくは携帯電話はもっていない。しかし家のかぎは、
もっている。お母さんが仕事で帰りが遅くなったときは、
そのかぎを使って、ぼくは、先に、家の中に入る」と。
こういうケースでまず疑ってみるべきは、その
子どもの会話能力。
会話能力が貧弱だと、作文能力に、そのまま
大きな影響を与える。
作文能力が劣ると、あらゆる科目に影響がおよぶ。
その子どもの会話能力を決めるのは、母親である。
母親は、そのため、子どもには、正しい日本語で
話しかけなければならない。
たとえば、「ほら、カバン、カバン、ハンカチは?」
ではなく、
「あなたはカバンをもちましたか?」「ハンカチは
もっていますか?」と。
それについて書いた原稿は、このあとに添付して
おく。
が、P君のケースは、それともややちがう。
お母さんは知的な人で、かつP君には、愛情豊かに
接している。
もちろん言葉の使い方も、正しい。
似たようなケースは、バイリンガルの子どもにも
ときどき観察される。
たとえば父親が日本人で、母親が中国人であるような
ケースである。
0歳~2歳期の、言語形成期にバイリンガルで育てる
と、子どもの言語能力は、大きく乱れることは、
よく知られている。
私の孫も、2歳半くらいのとき日本へ来たとき、
英語とも日本語ともわけのわからない英語を
話していた。
たとえば「私は家へ帰りたくない」というときも、
「No go home, bye, bye」と。
問題は、なぜP君の言語能力が、乱れているか、である。
P君の両親は、日本人である。
脳の言語中枢の問題など、いろいろ考えられるが、
教育の世界では、(原因)よりも、「この先、どうするか?」
を、優先して考える。
私「乱れた日本語は、そのつど、言いなおさせるしかありませんね」
母「私も、気になっていましたが……」
私「まだじゅうぶん間にあいますから、今日からでも、正しい
日本語で会話することに心がけてみてください」
母「わかりました」と。
++++++++++++++++
子どもの会話能力について書いた
原稿を、いくつか添付します。
++++++++++++++++
子どもの国語力が決まるとき
●幼児期に、どう指導したらいいの?
以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣ってい
ると思われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこ
がどう違うかを調べたことがある。結果、次の3つの特徴があるのがわかった。
(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校
ジャン」というような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」
となる。
たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だっ
た?」と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……
戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映
画の内容は、まったくわからなかった。
(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウ
ン」だけで会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校
はどうだったの?」、娘「まあまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」
と。
(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみた
が、どの子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日
本語を習う外国人のようにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、
言ってごらん」、子「山ア……、上にイ~、白い……へへへへ」と。
原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそ
のことを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホン
トにモウ、ダメネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!
●国語能力は幼児期に決まる
子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。
毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し
方をしていて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。
こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持って
いますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まっ
てこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。
言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞い
ているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それ
こそ立て板に水のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を
音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。
なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、そ
の音を自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文
字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも
使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をす
るとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。
●幼児教育は大学教育より奥が深い
今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわか
ってもらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だ
と思っている人は多い。
私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(54歳)はこう言った。
「そんなの誰にだってできるでしょう」と。
しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そ
ういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかって
ほしかった。
+++++++++++++++++++++
もう1作、携帯電話について書いた原稿です。
(最近、携帯電話が話題になることが、多く
なりましたので……。)
日付はわかりませんが、2000年ごろに
書いたものです。
+++++++++++++++++++++
●子どもの携帯電話を考える法
携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえてい
るので、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。そ
れらを並べると……
(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、
自分の情報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あ
るいは他人の意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情
報が一方通行化する。
(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、
相手を自分の世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを
受けつけないか、無視する。
(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方と
いう考え方をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくな
る。
(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無
味、体温の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の
上でコントロールしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。
(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば
相手が「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗
談」の部分はわからない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには
憤慨したり、怒ったりする。
(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携
帯電話に固執する。
(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会
話をしようとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。
(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。
無能化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。
(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるの
に、いざその人と直接対面すると、何も話せない。
(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透
している。
(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考
回路も軽くなる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。
(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマン
ガ化、ムダ話がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。
通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。
誰もが黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっ
ている子どもに遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?
今では中学生の約60%、高校生の約80%が携帯電話をもっている(2000年、
筆者調査)。すでに「持ち物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必
需品にすらなりつつある。
「携帯電話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生す
らいる。もちろんそれが子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナン
パ・援助交際を問題にするほうがおかしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの
世界に降り注ぐ。知識や行動だけではない。この携帯電話が子どもたちの心まで蝕み
始めている。
++++++++++++++++
P君のケースとは関係ありませんが、
たとえばアスペルガー児のばあい、
言語能力が乱れることは、よく
知られています。
つぎの原稿は、6~7年前に書いた
原稿です。
++++++++++++++++
●心にキズをもった子ども
【大阪府T市在住の母親より】
幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添っ
て登校しています。
最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何
をやってもうまくできない」と、毎日言います。
幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいこと
を言ってしまったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ
-症候群だといわれました。
子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?
毎日 楽しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言
われ 私も いらいらしてしまいます。
(大阪府T市、CFより)
+++++++++++++++++
アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけ
しておく。
自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、
アスペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発
達障害をともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られ
ない。むしろ、数学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。
正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。そ
の中でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、ア
スペルガー障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。
しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもという
だけで、それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場で
は、そういう方向で、指導をしている。
++++++++++++++++
この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と
考えてよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけでは
ない。ただ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつ
きやすいということ。
で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいこと
を言ってしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。
恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、
態度をとおして、していたのかもしれない。
そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、
デリケートな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学
年児であるなら、この言葉は、痛々しい。
【CFさんへ……】
CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変
わっているということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口に
してしまった。
この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、
一度、切り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失
敗は、いまさら、悔やんでもしかたのないこと。
問題は、これから先、どうするか、ですね。
幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分や
あなたの子どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世
の中には、そういう子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱り
つづける親も多いからです。
ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもを
なおそう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。
実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知り
ませんでした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状がある
ことを知りました。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。
(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足
かもしれません。
対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれ
かにまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。
で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、
また別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子ど
もにひどいことを言った」あなたを、責めることができません。
で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。
ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものば
あい、ときとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあるこ
とということです。
「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にし
てもいけません。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶ
のは、あくまでも、何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり
痛々しい言葉ですね。本来なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。
こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなこと
があっても、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何か
のスキンシップや愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答え
てあげるということです。
あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないこ
とです。うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな
言葉です。うまく、応用してみてください。
ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れるこ
とはできますが、消えません。
しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、
成長し、生きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもってい
るとしても、それはそれとして、前向きに生きていくしかありません。
コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。
なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。
ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……き
ました。
たとえば、こうです。
「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。
最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、
私のほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切
りかえるのです。
その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、い
い趣味しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。
あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、
走るのは速かったんだろ?」と。
つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、
たいへん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。
なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しく
ださい。不都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願い
ですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供
キズ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩
司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どもの言語能力 言
葉の乱れる子ども 会話能力 言語能力)
++++++++++++++++++
原稿をさがしてみたら、6年前(02年)
にも、同じようなことを書いていたのが
わかった。
++++++++++++++++++
●子どもの言葉(乱れる言葉)
+++++++++++++++++
昨日、生徒たちと、こんな会話をした。
だれかが、「先生、トイレ!」と言ったときのこと。
私は、「もう少し、言葉を、ていねいに話そう」と
指導した。そしていろいろな例をあげて、
日本語のおかしさを、指摘した。
つぎの原稿は、そうした視点から書いたもの。
+++++++++++++++++
ある夏の暑い日、1人の女の子(小2)がこう言った。「私、今日、プール、ない!」と。
ほかの子どもが、「今日、私、プール、あった」と言った言葉に対してそう言った。私は
そのときふと、「こういうとき、IBMの翻訳ソフトなら、こういう会話をどう翻訳する
だろうか」と考えた。ちなみに、私がもっているソフトで、実際、翻訳してみた。つぎ
のがそれである。
「私、今日、プール、ない!」……"Pool and there is nothing me and today." (プール、
私と今日、何もない)
「今日、私、プール、あった」……"today and me -- a pool -- "(今日と私……プール)
仮にもう少し原文に忠実に翻訳して、たとえばアメリカ人に、「Me, today, pool, no!」
「Today me, pool, yes」と言っても、多分その意味は通じないだろう。
そこで私はその女の子に、つぎのように質問しながら、正しい言葉で言いなおさせた。
私「あなたはプールをもっていないの?」
女「私が、もってるんじゃ、ない」
私「プールがどうしたの?」
女「プールがなかった」
私「どこになかったの?」
女「そうじゃなくて、プールはあるけど、プールのレッスンはなかったということ」
私「プールがレッスンするの?」
女「あのねえ、私がプールへ行かなかったということ」
私「どうして?」
女「だからさあ、プールがなかったの」
私「プールがなくなってしまったの?」
女「そうじゃなくてエ~、今日は水泳のレッスンはなかったということ」
私「だったら、最初から、そう言ってね」と。
こういうとき英語では、「私は今日、スイミングのレッスンには行かなかった」というよ
うな言い方をする。IBMの翻訳ソフトで、翻訳させると、今度はちゃんと、「"I did not go
to the lesson of swimming today."」と翻訳できた。
今、書店へ行くと、日本語についての本がたくさん並んでいる。その理由が、少しは理
解できたような気がした。
(02-7-25)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ボケの過程(Under the process of Senile)
++++++++++++++++
昨夜、久しぶりに、野球の実況中継を見た。
けっこう、おもしろかった。
が、それを見ているとき、少し前、兄が
口にした言葉を思い出した。
現在、兄は、重度の認知症になり、私たちの
顔さえも認識できなくなっている。
兄は、こう言った。
「野球は、いつ見ても、同じ」と。
念のためつけ加えると、同じ認知症でも、
うつ病から認知症になる人もいるという。
兄のケースは、重度のうつ病が高じて
認知症になった。
私はそう判断している。
当初、認知症特有の、痴呆性は、ほとんど
見られなかった。
感情もきめこやかだった。
ほんの数年前には、私の顔を見ると、
ポロポロと涙を出しながら、泣いた。
それはそれとして、「いつ見ても、同じ」とは!
鋭いというか、核心を、ズバリ、言い当てている。
少なくとも、選手にとってはそうではないかも
しれないが、観客の立場でいえば、そうなる。
いつ見ても、同じ!
……という人生には、じゅうぶん、気をつけた
ほうがよい。
ともすれば、私たちは、そういう人生を
繰りかえしてしまう。
繰りかえしながら、それにすら気がつかない。
気がつかないまま、どんどんと退行していく。
わかりやすく言えば、ボケていく。
+++++++++++++++++
おととい、仕事から帰ったのが、午後9時。
居間でお茶を飲みながら、ワイフに、こう言った。
「なあ、これから映画を見に行かないか?」と。
ワイフは、「これから……?」と言ったが、
つづけて、「いいわよ」と。
さっそくインターネットで検索してみる。
トムハンクス主演の『チャーリー・ウィルソンズ・
ウォー』というのがあった。
午後9時45分からだという。
最初の10分間ほどは、コマーシャルとか、そういうのが
入るから、じゅうぶん、まにあう。
私たちは、そそくさとあと片づけをすますと、
出かける準備に取りかかった。
私たちは若いころから、こういう生き方をしてきた。
自由奔放というか、私たちには、時刻表というのは、ない。
……なかった。
それがいつの間にか、時刻表ができてしまった。
私は、(ワイフも)、そういう時刻表と、いつもどこかで
闘ってきたように思う。
だから「行かないか?」「いいわよ」となった。
で、映画は、星2つの、★★。
「ウォー(WAR)」というほど、大げさなものではない。
何となく流れに乗った1人の下院議員が、それなりの成果を
あげただけ……という内容の映画だった。
(日本にも似たような政治家がいたが……?)
それはともかくも、こうして脳みそを刺激していくということは、
とても重要なこと。
肉体の健康は、運動をすることで維持できる。
脳みその健康は、刺激を与えることで維持できる。
それを怠ると、介護老人の世界にまっしぐら!
が、それだけではない。
刺激を与えても、その刺激に対する感受性そのものが、
弱くなる。
さらに情報を吸収しても、それ以上の情報が、脳みその
底から漏れ出ていく。
ときに先週見たばかりの映画の題名はもちろん、内容すら
思い出せないことがある。
(たまたま先週は、「MIST」という、これまたひどい
映画を見た。あれほどまでにひどい映画はなかった。
そういう意味では、かえって印象に残ったが……。)
そこでボケと闘うためには、2つのことに心がけなければ
ならない。
(1)時刻表的生活を避ける。
(2)感受性を豊かにする。
(3)刺激を与えつづける。
(4)漏れ出る以上の情報を吸収しつづける。
時刻表的生活と、規則正しい生活とは、中身がちがう。
「時刻表的生活」というのは、(時刻)に対する(こだわり)をいう。
「規則正しい生活」には、その(こだわり)がない。
そのつどフレキシブルに変化する。
感受性を豊かにするためには、音楽を聴いたり、美しいものを
見たりするのが、よい。
「感動」には一貫性がある。
よい音楽を聴いて感動する人は、美しいものを見ても感動する。
もちろん人間関係においても、そうである。
また刺激を与えるためには、たとえば映画鑑賞がよい。
できればいろいろな映画を見る。
ときにSF、ときにファンタジー、ときに戦争もの……と。
が、何よりも大切なのは、「漏れ出る以上の情報を、吸収しつづける」
ということ。
10の情報が漏れ出たら、20の情報を吸収していく。
20の情報が漏れ出たら、100の情報を吸収していく。
話せば長くなるが、私の計算によれば、6年間で、約80%の
情報は、どこかへ消えてなくなる。
たとえばあなたの今日一日をみても、今日というこの日の
中で、明日まで残る情報というのは、半分もないのでは……?
とくに思考の分野では、そうである。
たいはんの人は、新しい情報を吸収することもなく、
(思考のループ状態)へと入っていく。
あるいは過去へ、過去へとさかのぼっていく。
しかし一度、こうなったら、「進歩」など、望むべくもない。
一方的に退化していくだけ。
ボケていくだけ。
そのことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
そこにいる老人たちにしても、一晩でああなったわけではない。
長い時間をかけて、徐々に、ああなっていった。
10年とか、20年とかいう、長い時間をかけて、である。
私やあなたが今、その過程にいないと、だれが断言することが
できるだろうか。
むしろこの世界では、「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、
あぶない。
先日もある女性(70歳くらい)と話していたときのこと。
その女性は、明らかにその過程にいた。
あれこれと、レベルの低い話を、私にした。
そこで私が、「あのオ~、私は、そんなバカではないと思いますが……」と、
その女性の言葉をさえぎると、その女性は突然、ヒステリックな声で、
こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。
私は、つぎの言葉を失った。
で、野球の話にもどる。
野球の実況中継の好きな人は、専門紙を読みながら、それを楽しむ。
試合のチケットが手に入れば、仕事の疲れをものともせず、
それを見に行く。
私の周囲にも、そういう人が何人かいる。
しかしそれはここでいう「情報の補充」になるのか。
その結論は、あの兄の言葉に集約されている。
つまり、「いつ見ても、同じ」イコール、「ならない」。
わかりやすく言えば、漏れた情報と同じだけのものを、
補充しているだけ。
風呂の湯で考えてみれば、それがわかる。
排水口から流れていくお湯の量と同じ量を、上から補充しても、
風呂の湯は、たまらない。
たまらないばかりか、脳みそそのものの活動も鈍くなって
いくから、感受性も弱くなっていく。
全体としてみれば、長い時間をかけて、ボケていく。
……と書きながら、実は、この問題は、私自身の問題でもある。
私自身も、その過程にある。
たとえば映画にしても、先週見た、DVDの「SKYBOYS」
くらいなら、まだよく覚えている。(星は4つ。★★★★。)
しかしその前の週に劇場で見た、「スパイダー何とか」という
映画については、内容は覚えているが、題名が思い出せない。
妖精の映画だった。(星は2つ。★★。)
さらに最近では、もっと恐ろしいことが起きつつある。
DVDショップで、以前借りたことがあるのと同じDVDを
借りてきてしまう。
家で、モニターに映してみて、はじめてそれを知ったりする。
映画のばあいは、まだこういう方法で、自分がボケていく
過程を知ることができる。
しかし野球の実況中継では、どうか?
兄が言ったように、「いつ見ても、同じ」というような
状況になる。
もちろんだからといって、そういうものを見るのが無駄とか、
そんな失礼なことを言っているのではない。
生活の一部として楽しむには、それなりによい刺激になる。
しかしこんな男性(70歳くらい)がいることも、忘れては
いけない。
その男性は、今では、認知症か何かになってしまって、繊細な会話
そのものができない。
何か話しかけても、「アウ~」とか、「ハハハ」とか大声で笑って、
それをごまかす。
その男性は、50歳くらいのとき、いつもこう言っていた。
「林君、ぼくはね、野球の実況中継を見るのが、何よりも
楽しみ。実況中継がない日はね、パチンコをしているよ」と。
大切なのは、その(見方)ということになる。
もっと言えば、(生き方)ということになる。
ついでに一言。
深夜劇場で映画を見るのは、できたら、やめたほうがよい。
おととい、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を
見て、家に帰ってきたのが、午前0時前後。
頭が興奮状態になってしまい、そのあとなかなか寝つかれなかった。
で、翌日は、午前中は、何となくぼんやりとした状態。
疲れも残ってしまった。
若いころは、ブルース・リーの深夜劇場を見ても、そういうことは
なかったのだが……。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●転載された私の原稿
+++++++++++++++++
今年(02年)の1月、私は、
羽田空港の国際化についての
原稿を書いた。
「日本人よ、もっと怒れ!」という
タイトルの原稿だった。
しかしこの原稿が、思わぬところで
反響を呼んだ。
息子が、「パパの原稿が、空港問題
サイトに転載されているよ」と。
で、調べてみると、あちこちに
転載されているのがわかった。
文章の一部を、検索してみれば、
それを知ることができる。
息子が言ったサイトにも、それがあった。
……こう書くからといって、転載された
ことを不愉快に思っているのではない。
(本来なら、一言、連絡してほしかったが……。)
私の意見が、それなりの影響力をもった
ことがうれしかった。
先日(08年5月)、羽田空港の国際化が
本格的に決定された(注※)。
少しは私の意見が役に立ったということか?
そのとき書いた原稿を、ここに再掲載します。
+++++++++++++++++
●日本人よ、もっと怒れ!
(Abt. 40 years ago, a most stupid decision was made by the government, to construct our
international airport in Narita, which is so far away from Tokyo. It takes about 1 hour
and half by express train. How come did they construct the airport in such a remoted
area? Then internationalization of Tokyo has been far behind. Now at Haneda airport a
new international terminal building is being under construction, but why now? Too late.
+++++++++++++++
羽田空港では、現在、国際線ターミナルの建設が始まっている。
(一部の国際線は、すでに離発着しているが……。)
しかし今ごろ、国際線? 国際線ターミナル?
日本の経済力がまだあるころならまだしも、ここまで弱体化した今、なぜ?
おかしな政治的エゴのために、国際線が、それまでの羽田空港から
現在の成田空港に移された。
日本の運輸行政で、もっともバカげた決断だった。
おかげで、日本の国際化は、10年は遅れた。20年は遅れた。
遅れるのみならず、羽田空港のハブ化は、ツユと消えた。
現在、韓国、香港、シンガポールなどに、
その(力)が分散してしまった。
もしあのとき、羽田空港を拡張することによって国際線化を
推し進めていたら、今ごろ羽田空港(=東京)は、
押しも押されぬ、一大、国際ハブ空港になっていただろう。
無理に無理を重ねるから、成田の地元では、住民たちの
猛反発まで買っている。
そのため成田空港の国際化まで、遅れてしまった。
あのね、あんな不便なところに空港を作って、どうするの?
開港当初は、外国からやってきた乗り継ぎの旅行客たちは、成田で
一度飛行機をおりて、わざわざ数時間もかけて、羽田まで
来なければならなかった。
その時間的ロスは、たいへんなもの!
今でも、千葉県側は、国際空港を、成田から羽田へ移すことに
反対しているという。
もう、やめよう!
こんなバカげた反対のための反対は!
日本全体の利益を考えて、もっとものごとは、合理的に考えよう。
そして、日本人よ、もっと声をあげて、怒ろう!
だれだ、あんなバカげたところに、国際空港を作ったのは!
東京から、特急で、1時間半もかかる、ヘンピなところに!
新幹線だってそうだ。
岐阜県の当時の有力政治家が、新幹線の線路を、大きく、岐阜寄りに曲げてしまった。
ウソだと思うなら、一度でよいから、新幹線の線路を見てみることだ。
名古屋を出たあと、新幹線は、不自然なまでに、大きく岐阜よりに迂回している。
もし名古屋から京都(あるいは米原)へ直行するルートを選んでいたら、
東京→大阪間は、今より、10~15分は、短縮されたはず。
田舎の、田んぼの中の駅を通るために、以後、40年以上、
無駄な電力を日本は使いつづけている。
利用客は、ムダな料金を払いつづけている。
ヒマな人は、一度、そのロス計算をしてみたらよい。
みなが怒れば、これから先、こういうバカげたことは少なくなる。
怒らないから、そのまま放置される。
そして同じバカげたことが、繰りかえされる。
今度、羽田空港の国際線ターミナル建設を見ながら、
私は、そんなことを考えた!
(1月29日、記)
+++++++++++++
(注※)「Fresh Eye」記事より(08年5月22日)
冬柴鐡三・国土交通相が羽田空港の国際線を増やす方針を正式に表明した。2010年の空港
再拡張(第4滑走路の完成)に伴って、羽田空港発着の国際線(現在はソウルと上海への
チャーター便のみ就航)を現在の年間約9000回から約6万回へ大幅増。国際線「定期便」
は北京や台北、香港にまで拡大し、深夜・早朝には欧米各都市にも運航するという画期的
なものだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 16日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page022.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●「私は私」(Me is Me.)
+++++++++++++++++
この日本では、「私は私」という生き方が、
たいへんしにくい。
社会の構造そのものが、そうなっている。
よい例が、日本の学歴社会。
学校しか道がなく、学校を離れて道はない。
中には、「学歴なんて、関係ない」と
思っている人もいるかもしれない。
しかしこんな事実も、ある。
10年ほど前、大学の同窓会に出た。
そこでのこと。
年齢的には、みな、50~52歳ということになる。
民間企業に入社した仲間は、例外なく全員、
リストラされ、出向、あるいは転職をしていた。
(それでもまだ、恵まれたほうだが……。)
一方、役人になった仲間は、例外なく全員、
60歳まで、その役所に勤めた。
最近では、65歳まで雇用期間が延ばされ、
「あと5年ある」と言っている仲間もいる。
(現在、私は、満60歳。もうすぐ61歳になる。)
だからといって、民間企業に勤めた仲間が損をしたとか、
役人になった仲間が得をしたとか、そんなことを
言っているのではない。
この(歴然とした差)こそが、学歴社会を
象徴しているということ。
その(差)は、60歳になってみると、よくわかる。
つまり日本の社会というのは、(組織)で成り立っている。
「私は私」などと思って生きていると、そのまま
社会の構造そのものから、はじき飛ばされてしまう。
今でこそ、多少、社会の構造もゆるんできたが、
私が若いころは、そうではなかった。
ざっとみても、当時、私のような生き方をしている
人たちが、周辺に10人ほどいた。
しかしそれから10~15年。私のような生き方を
貫くことができたのは、私、1人しかいない。
残りの9人は、そのあと、どうかなってしまった。
30歳の若さで、この世を去った人もいる。
多額の借金をつくって、夜逃げした人もいる。
あるいはサラリーマンに逆戻りした人もいる。
この日本では、「私は私」という生き方そのものを、
許さない。
そんな雰囲気さえある。
卑近な例では、冠婚葬祭がある。
とくに葬儀。
葬儀そのものが、迷信のかたまりのようになっている。
しかし「迷信」という言葉を口にしただけで、
親類、縁者から、袋だたきにされる。
先日も私がある人(女性、60歳くらい)に、こう言ったときのこと。
「日本の盆供養にしても、釈迦は、それについては一言も言っていない」と。
日本の盆供養、つまり盂蘭盆会(うらぼんえ)は、アフガニスタンの
「ウラバン」に由来する。
それにそれまであった中国の「中元」という習慣が、重なった。
つまり日本でいう「盆供養」、盂蘭盆会は、仏教が日本へ伝来する
過程で、こうして生まれた。
釈迦が知るはずもないことである。
それについてその女性は、猛反発。
「あんたは先祖を無視するのか」
「先祖あっての、あなたではないか」
「バチがあたって、あなたは地獄へ落ちる」と。
さらに「葬儀は、質素でいい」などと言おうものなら、さあ、たいへん!
しかし実際には、親の葬儀にしても、それまでの介護費用など、
財産の多くを食いつぶしてしまっている家庭も多い。
「葬儀費用はできるだけ抑えたい」と考えても、おかしくない。
東京在住のS氏は、以前、こう話してくれた。
「親をあの世へ送るのが、こんなに難儀なことだとは、
思ってもいませんでした」と。
兄弟、姉妹、親類、縁者との、壮絶なまでの確執があったらしい。
「結局、残ったのは、多額の借金だけです」とも。
一方、こんな動きも見られるようになった。
結婚式についても、6~7万円でできるようになった。
本当に祝ってくれる人たちだけが集まって、式をする。
そんなサービスを提供してくれる式場が、現在、全国にふえている。
また葬儀についても、「直葬」といって、亡くなった
病院や施設から、直接火葬場で、遺骨にしてもらうケースも
ふえている。
首都圏だけでも、約30%の家族が、そういう方式を
選んでいるという(中日新聞)。
こと冠婚葬祭について言えば、見栄を張って、派手に
やればよいというものでもない。
またそういうバカげた風習は、私たちの世代だけでたくさん。
大切なのは、中身。
今。
そして生きている、私たち。
話が脱線したが、「自由とは何か?」と問われれば、
こうした社会的呪縛感からの解放をいう。
「この日本では、私は私という生き方はむずかしい」と
いうのであれば、まだそれだけ、この日本は、後進国。
自由はないということになる。
++++++++++++++++
「直葬」について……。
++++++++++++++++
●直葬(ちょくそう)
++++++++++++++++++
病院から、直接、火葬場へ。
そしてそのまま、家族だけの
静かな密葬。
それを直葬(ちょくそう)という。
今、その直葬が、ふえているという。
都市圏では、約30%が、その直葬だと
いう(06年3月・中日新聞)。
+++++++++++++++++
葬儀費用もさることながら、それまでの介護費用、病気治療費が、以前とは比較になら
ないほど、高額になってきている。だからほとんどの家庭では、その家の老齢者が死ぬこ
ろには、大半の貯金を使い切ってしまうことになるという。「とても、葬儀費用なんて、出
せない」というのが、本音?
今、首都圏を中心に、直葬という葬儀のし方がふえているという。「じきそう」と、私は、
読んだ。しかし正しくは、「ちょくそう」と読むのだそうだ。つまり病院で死亡すると、そ
のまま火葬場へ。そして家族だけの静かな密葬を行う。
新聞報道(中日新聞)によると、人も80歳をすぎると、友人も少なくなり、葬儀とい
っても、家族だけの集まりになるという。従来の日本の儒教的感覚からすれば、派手な葬
儀を行うのが、親の死であれば、子の務めということになっている。が、そうした感覚そ
のものが、今、大きく、音をたてて崩れ始めている。
つまり、無駄な葬儀に、どれほどの意味があるのか、と。
数日前、私は、ワイフにこんな会話をした。ワイフは、「葬儀など、してくれなくてもい
い」と。そこで私が、「お前が死んだら、一晩、お前を抱いて寝てやるよ」と言うと、「ど
うして?」と。
で、私はこう答えた。「もし、ぼくが先に死んだら、多分、お前は、ぼくにそうしてくれ
るから」と。ワイフは、それを聞いて、うれしそうに笑った。
ずっと先かもしれない。あるいは、すぐ先かもしれない。しかし私は、ワイフが死んだ
ら、もうこの世の中で生きていく自信は、ない。そんな私が、ワイフの葬儀など、できる
わけがない。したくもない。ワイフが死んだら、その夜は、そしてそのつぎの夜も、その
つぎの夜も、静かに2人だけで過ごしたい。だれにも、その静かな時をじゃまされたくは
ない。
それを葬儀というのなら、それが私にとっての葬儀ということになる。型や儀式など、
クソ食らえ! そんなことをしたからといって、どうして自分の心が癒されるのか!
話をもとに戻す。
私はたくさんの葬儀を見てきた。しかしこのところ、葬儀に出るのが、おっくうになっ
た。はっきり言えば、出たくない。できるだけ、あれこれ理由をつけて、出ないようにし
ている。そういう私を非難している人もいるようだが、非難したい人には、させておけば
よい。そういう人は、自分で考えて私を非難しているのではなく、型にはまったものの考
え方から抜け出せず、その中で、私を非難しているだけだ。
だから、私はあえて言う。私が、死んでも、だれも来なくてよい。つまりその覚悟がで
きているからこそ、「出たくない」と、言う。私の葬儀に来ない人をうらんだり、非難した
りはしない。
……と少し力んでしまったが、大切なことは、どう死ぬかではなく、どうそのときまで、
生きるか、だ。その結果として、葬儀があるとするなら、それはそれ。あとは残された遺
族の問題ということになる。死んだ本人の問題ではない。
だから私は、ワイフや息子たちにこう言っている。「無駄なお金は使うな。直葬ですれば、
費用も30万円程度ですむ」と。私は私の家族には、できるだけ迷惑をかけたくない。だ
からそういう(やり方)であっても、何ら、思い残すところはない。
ただこういうことは言える。今、日本人のもつ意識は、大きく変わりつつあるというこ
と。戦前までの儒教的文化圏から抜け出て、アメリカ型の西欧型文化圏へと、その変革期
にあると言ってもよい。日本人にとっては、ルネサンスとも言えるべき、意識革命が、深
く、静かに、しかし確実に進行しつつある。
そのひとつが、葬儀のし方ということか。が、「直葬」という言葉に、少なからず抵抗を
覚える人もいるかもしれない。地方の田舎へ行けばいくほど、そうだろう。しかしその葬
儀も、「型」から抜け出て、「人間」を見る方式に変わってきている。もっとわかりやすく
言えば、自然体ということか。自然な形で、自然にする。
だからといって、もちろん、人の死を軽く考えてよいというのではない。しかし派手な
葬儀をしたからといって、人の死を重くとらえたということにはならない。あくまでもそ
れは心の問題。そういう視点で、ものごとを考えればよい。
私のワイフが死んだ夜、親類や、近所のうるさい連中がワイワイとやってきたら、私は、
こう言うだろう。「出ていけ!」「2人だけにしてくれ!」と。そういう私を、他人がどう
思おうが、私の知ったことではない。
これから先、長生きをすればするほど、私を知る人は少なくなり、私の死を悲しむ人も
少なくなる。人も80歳を過ぎると、ほとんどが、そうなるという。新聞記事にも、そう
書いてあった。派手な葬儀など、もとから望むべくもないが、あえてしてほしいとも思わ
ない。これはあくまでも、私の個人的な希望だが、私は、静かに、だれにも知られず、死
んでいきたい。ずっとあとになって、「あの林が死んでいた?」と思われるような、そんな
死に方をしたい。
死ぬということは、その人にとって、人生最大の醜態をさらけ出すようなもの。少なく
とも、私にとっては、そうだ。おおげさ騒いでほしくない。直葬、大いに、結構!
(付記)
それぞれの遺族は、それぞれの思いをもって、故人と別れを告げる。その遺族が、それ
ぞれの考えをもって、葬儀をする。それは、その遺族の勝手。まわりのものたちが、とや
かく言ってはいけない。
しかし中には、世間体を優先させ、派手な葬儀をする人たちもいる。反対に、親類のだ
れかが質素な葬儀をしたりすると、「世間体が悪い」と、あれこれ不満を口にする人もいる。
どちらにせよ、つまるところ、それだけその人の精神構造が、未熟ということ。そう判断
して、まちがいない。
派手な葬儀にせよ、質素な葬儀にせよ、大切なのは、「心」。いくら派手でも、その心が
なければ、ただの祭。しかしいくら質素でも、その心があれば、葬儀は葬儀。他人の目な
ど、気にするほうがおかしい。
もし型があるとするなら、それはあとからついてくるもの。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 直葬 葬儀論 ちょくそ
う)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【日本人の依存性】
●孫から学んだこと(What I learnt from my G-son)
孫の誠司と接して、学んだことは多い。
たとえば、誠司は、こう言う。
(のどが渇いたとき)……「何か、飲み物をもっているか?」
(風呂に入るとき)……「足がやけどする」
(おなかがすいたとき)……「グレープフルーツを食べたい」と。
同じような場面のとき、日本の子どもなら、(だから、何とかしてくれ言葉)を使う。
たとえば、
(のどが渇いたとき)……「のどがかわいたア! (だから何とかしてくれ)」
(風呂に入るとき)……「熱い! (だから何とかしてくれ)」
(おなかがすいたとき)……「腹、減ったア! (だから何とかしてくれ)」と。
こうした日本人独特の依存性は、おとなになってからも、消えない。
私の叔母のひとりは、50代のころから、いつもこう言っていた。
電話で、話を始めるたびに、
「おばちゃん(=叔母自身)も、歳を取ったからねエ~。(だから、何とかしてくれ)」と。
何も叔母を責めているのではない。
その地方では、そういう言い方が、ごくふつうの言い方となっている。
が、ときとして、イヤミに聞こえることもある。
たとえばしばらく実家に帰っていないでいたりすると、
「浩司君の家の横に、ゴミがたまっていたぞ。(だから何とかせよ)」、
「J君(=私の実兄)が、猛スピードで、坂を、自転車で走っていたぞ。(だから何とかせ
よ)」と。
「浩司君の夢を見たから」とか何とか、おかしな理由をつけて、電話をかけてくる。
一方、私が住んでいるこの浜松では、そうした言い方は、あまりしない。
とくにワイフの家族は、しない。
みな、独立心が旺盛で、それぞれが高次元な立場で、尊敬しあっている。
そんな私でも、誠司の言葉には、そのつど、驚く。
誠司は、日本語をほとんど話せない。
日本人というよりは、アメリカ人である。
いつもYES・NOをはっきりと言う。
会話は、そこから始まる。
だから何かほしいものがあったりすると、直接、「~~がほしい」などと言う。
わずか10日間ほどのつきあいだったが、そのつど、私は、こう思った。
「こんな5歳の子どもでも、日本人とは、ちがうなア~」と。
その日本人の依存性については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、5年前(03年)に書いた原稿である。
++++++++++++++
●拉致(らち)問題
昨日の記者会見で、官房長官のF氏は、さかんにこう言っていた。「日本の立場は、アメ
リカも韓国も、よくわかっていてくれるはずです」「日本の立場は、じゅうぶん説明してあ
るので、わかってくれているはずです」と。
まさに日本という国家そのものが、依存国家とみてよい。こういう会話は、依存性の強
い人ほど、好む。
少し前だが、こんな子ども(小五女児)がいた。「明日の遠足を休む」と言うので、「担
任の先生に連絡したのか?」と聞くと、「先生は、わかっていてくれるはず」と。
「どうして?」と私。
「だって、今日、おなかが痛いと、言ったから」と、子ども。
「しかし休むなら休むで、しっかりと先生に言ったほうがいいのでは?」
「いいの。先生は、わかっていてくれるはずだから」と。
日本語には、「だから、何とかしてくれ言葉」というのがある。たとえばのどがかわいて
も、「水がほしい」とは言わない。「のどがかわいたア~」と言う。子どもだけではない。
ある女性(五〇歳)は、子どもや親類に電話をかけるたびに、「私も年をとったからネー」
を口ぐせにしていた。つまり、「だから、何とか、せよ」と。
しかし国の「長」ともあろうF氏まで、そういう言い方をするとは! 「ハズ論」で動
かないのが、国際社会。少なくともアメリカ人には、通用しない。そう言えば、五、六年
前、ときの外務大臣のK氏が、あの北朝鮮に、百数十万トンもの米を援助したことがある。
そのときも、K氏は、そう言っていた。「日本も、これだけのことをしてあげたのだから、
北朝鮮も、何か答えてくれるはず」と。
が、結果は、ゼロ。K氏は、「これで北朝鮮が何もしてくれないなら、私は責任をとる」
とまで言い切ったが、その責任をとった形跡は、どこにもない。
こうした依存性は、親子の間にもある。
「これだけのことをしてあげたのだから、うちの子どもは、私に感謝しているはず」「親
子の絆(パイプ)は、太くなったはず」と。つまり日本の親たちは、まず子どもに、いい
思いをさせる。ついで親としての優越性を、子どもに見せつける。「私に従えば、いいこと
がある」「私には、これだけの力がある」と。
つまり外堀を埋めるような形で、子どもの周辺を、少しずつ、しばりあげていく。そし
て結果として、子どもに依存心をもたせ、ついで、自分も、子どもに依存していく。
ついでに拉致問題について。
本来なら、日本の軍隊が突入し、被害者を救出しても、おかしくない事件である。しか
しこの日本には、おかしな平和主義がはびこっている。「ことなかれ主義」を、平和主義と
誤解している人もいる。平和主義もよいが、相手が、日本を攻めてきたときには、どうす
るのか? あるいはそんなときでも、日本は、「アメリカが何とかしてくれるはず」「世界
が黙っていないはず」とでも、主張するつもりなのだろうか。
日本政府の考え方は、甘い。本当に、甘い。「大国」としての誇りも、自覚もない。現に
今、北朝鮮のあの金XXは、核兵器の開発をしている。もちろんターゲットは、日本。韓
国やアメリカではない。この日本。本来なら、アメリカや韓国の先に立って、この問題を
解決しなければならない。しかし「ハズ論」だけで、みなのうしろをついていく?
しかしそれにしても、北朝鮮の小さいこと、小さいこと。小細工ばかりしている。先週
も、拉致被害者の子どもたちに、手紙まで書かせている。そんな些細なことにまで、気を
配っている。あきれるより先に、ゾッとする。
私が金XXなら、拉致被害者の子どもたちを、すぐ日本へ返す。恥ずかしいか、恥ずか
しくないかということになれば、つぎからつぎへと脱北者が出ることのほうが、よほど、
恥ずかしい。金XXよ、恥を知れ!
で、近く、六か国協議が始まる。しかしそれを望むわけではないが、この協議は、失敗
する。理由は簡単。北朝鮮は、核査察など、絶対にさせない。そんなことをすれば、金X
Xの悪行の数々が、白日のもとにさらされてしまう。一説によると、あの金XXは、すで
に数十万人以上の人を、殺害しているという。
つぎにアメリカにしても、(安保理決議)→(経済制裁)→(金XX体制の崩壊)という
図式を、すでに描いている。中国やロシアを参加させるのは、「やれるだけのことはやって
みなさい。どうせダメだから」ということを、証明するためのものでしかない。
日本にしても、あの金XX体制を経済援助するということは、隣の暴力団に、資金を手
渡すようなもの。そう簡単には、できない。してはならない。
問題は中国とロシアだが、彼らにしても、日本のマネーがほしいだけ。日本に金を出さ
せ、その金で、中国やロシアのものを買わせる。あるいは今までの借金を、返済させる。
ただこの力が強ければ、皮肉なことに、六か国協議は、成功する可能性はある。しかしそ
のときは、日本は、屋台骨を数本、抜くぐらいの覚悟はしなければならない。「東京で、核
兵器が爆発するよりは、いいだろう」と。
さらに中国人や韓国人の、反日感情には、ものすごいものがある。仲よくなりかけると、
アホな政治家が、S国神社を参拝したり、「南京虐殺はウソ」などと言っては、相手を怒ら
せている。S国神社を参拝するのに反対しているのではない。「何も、こういう時期に、あ
えてしなくてもいい」ということだ。
どちらにせよ、今度の六か国協議は、日本にとっては、戦後、最大の山場になる。決裂
すれば、この秋には、米朝戦争が始まるかもしれない。もしそうなれば、日本も未曾有の
大惨事に巻き込まれる。日本だけが無事ということは、絶対にありえない。
六か国協議で日本がどのような主張をするか。また世界は、どのような反応を示すか。
拉致問題もあって、目が離せない。
(030805)
+++++++++++++++++++
もう1作、同じような内容の原稿です。
これは4年前(04年)に書いたものです。
+++++++++++++++++++
●「年だから……」という言い方
7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。
今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレ
ビが、ニュースとして伝えている。
その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。
何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。
「私ら、年ですから……」
「年ですからね……」
「私も、この年ですから……」と。
つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。
実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイ
フに向って、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」
とか。
つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えよ
うとしている。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思って
しまう。
もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事
ならまだしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと
横になって、体を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。
だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解で
きる。しかし……。
この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?
よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」
と言う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っ
ている。
同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何と
かしてほしい」と言っている? 私にはそう聞こえる。
昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だ
からねエ……」と。
今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の
年齢より、若い。
そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、
と。自信はないが、そう心に決めた。
このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音
は、弱音。「もう、使わないぞ」と。
年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当
然のことではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふ
りまわされて、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。
なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。
……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかず
るい、どこか甘えた言い方を、消す。
そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。
あとで、その理由を聞いてみよう。
【ワイフの言葉】
「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、
明快。
今でも、20歳の娘のようなつもりでいる。……らしい。おもしろい心理だと思う。
「それにもう一つは、だれかに何かしてほしいとか、してもらいたいとか、そういう気
持ちにはならない。自分のことは自分で何とかしようと、いつも、それしか考えていない
から」と。
ナルホド!
「お前はいいダンナをもったな」と私が言うと、ワイフはヘラヘラと笑った。
「そうじゃないか。オレが、苦労を全部、引き受けているからな」と私。
ああ、これも依存性の変形か? ともかくも、私は、「年だから……」という言葉を使わ
ないことを、心に決めた。自信はないが……。
【追記】
山荘の近くに、Kさんという男性がいる。いわゆる老人である。老人と書くのは、失礼
な言い方だが、年齢からすれば、老人ということになる。そのKさん。今年は、78歳に
なるが、今でも、現役で、山の中で仕事をしている。
畑もあちこちにもっている。会うたびに、ヒョイヒョイと、体を動かして、農作業をし
ている。
一方、50歳になったばかりというのに、太った体をもてあまし、ハーハーと、息も苦
しそうに歩いている人もいる。Sさんという男性である。聞くと、毎日、1、2本のビー
ルを飲み、ヒマさえあれば、ソファの上で、ゴロ寝をしているという。
趣味は、テレビでプロ野球をみることだそうだ。
この二人を頭の中で、単純に比較しても、やはり人間には、年はないということ。たし
かにKさんは、この10年の間に、かなりの畑を減らした。ミカン栽培もやめた。しかし
いつも、できる範囲で、仕事をしているといった感じ。決して、「年だから……」という弱
音を吐かない。
一方、Sさんは、いつも、「年には勝てないよ」とか、「オレも、年をとってしまったよ」
と言っている。どこか生きザマが、うしろ向き。しかしそういうSさんにしたのは、Sさ
ん自身ではないのか……と、考えて、この話はここまで。
しばらくこのテーマについて、考えてみたい。
(040723)
+++++++++++++++++++++
こうした日本人の依存性を鋭く追及したのが、
土居健郎「甘えの構造」である。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いた。
+++++++++++++++++++++
●依存心
依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」と
は言わない。「おなかが、すいたア~」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に
要求する。
おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話
をするたびに、「私も、年をとったからネエ~」を口グセにしている。このばあいも、言外
に、(だから何とかしろ)と、相手に要求していることになる。
依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。
そういう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つ
い先日も、ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言っ
た。「そのときになったら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。
自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間ど
うしが、助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。
一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっ
ているだけ。
総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、そ
の依存性が結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわく
ない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」な
ど。こうした世界では、好んで使われる言葉である。
こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。
●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。
あるいは相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あ
るいは同情を買ったりする。「~~してあげたから、~~してくれるハズ」「~~してあ
げたから、感謝しているハズ」と、「ハズ論」で行動することが多い。
●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何か
をしてくれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。
それ以外の世界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。
ものごとを、ナーナーですまそうとする。
●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、
どうしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい
子イコール、できのよい子と位置づける。
●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠
牲的であればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそ
れに気づくことは、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反
発したりする。
依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しか
し今、日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人とし
て確立していない。
あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の
全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界
からみて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたって
も、日本人が国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03-1-2)
●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラル
である日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」
の一節)
+++++著作権BYはやし浩司++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
●日本人の依存性
日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人が
それに気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・
リーブズが主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。
その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら
気づかない……。
子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おな
かがすいたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、
もう50歳代のときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とか
してくれ)」と言っていた。
こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会
も国民も、それぞれが相互に依存しあっている。
こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海
外へ移住した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで
生まれた子ども(二世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼ん
でいる。依存性が強い分だけ、新しい社会に同化できない。
もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわ
いい子とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。
反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って
嫌う。そしてそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててや
った」と依存し、子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。
こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のと
ころで話すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。
イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日
本人は、大きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。
年配の人が多い。もう一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者
が多い」と。
今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期に
あるとみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさ
わしいほどの転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎ
にやってくるのかは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時
代であることも事実のようだ。
あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかして
くれ言葉 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存性 日本人
の依存性 土居 甘えの構造 だから何とかしてくれ言葉 何とかしてくれ言葉 なんと
かしてくれ言葉 はやし浩司)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【雑感・あれこれ】(5月21日、夜)
●あの世vsこの世(This World itself is the Heaven of the Heaven)
もし(あの世)があるなら……という前提での話だが、私は、こう考える。
(あの世)は、ずいぶんとつまらない世界ではないか、と。
会う人は、みな、聖人ばかり。
一点の非もない。
そこにあるのは、善ばかり。
悪いことを考える人は、いない。
悪いことをする人もいない。
病気もなければ、事故もない。
争いもなければ、喧嘩もない。
みな、穏やかそうに、ニコニコと笑っているだけ。
食物は、豊富にある。
いや、(あの世)の人たちは、ものを食べる必要もない。
当然、働く必要もない。
毎日、ぜいたく三昧、遊び三昧。
そんな生活をくりかえしている。
が、私なら、そんな世界など、数日で、あきてしまうかもしれない。
そこは想像を絶するほど、退屈な世界?
そこで(あの世)の人たちは、こう考える。
「一度、あの世へ行って、生老病死なるものを、経験してみようか?」と。
(あの世)の人たちがいうところの(あの世)というのは、つまり、私たちがいう、(この
世)ということになる。
わかりやすく言えば、(この世)が、(あの世)の(あの世)ということ。
……わかりにくい?
もう少し、かみくだいて説明してみよう。
私たちがいう(この世)というのは、この現実の世界のことをいう。
そして多くの人たちは、(この世)で死ねば、(あの世)へ行くと、信じている。
ほとんどの宗教は、そういう前提で、(この世)の人間を指導している。
しかし(あの世)は(霊)の世界(?)。
たとえば和式仏教の教えによれば、死ねばみな、(仏)になって、(あの世)へ行くという。
地獄、極楽論もあるにはあるが、基本的には、(仏)になって、(あの世)へ行くという。
そこで、では、(あの世)とは、どんな世界なのか、それを考えてみる。
(霊の世界)と置きかえてもよい。
(神の世界)でも、(仏の世界)でもよい。
それが冒頭に書いたような世界ということになる。
「会う人は、みな、聖人ばかり……」という世界である。
ただ私自身は、(あの世)があると、信じているわけではない。
「死んだら、あの世へ行くことができる」と考えるのは、それ自体、甘美な響きをもつ。
死ぬことにまつわる不安が、それで解消できる。
しかし私には、わからない。
本当に(あの世)があるのか、ないのか?
今の私は、一応、「ない」という前提で生きている。
「死んでからのお楽しみ」というわけでもないが、「ない」という前提で、生きている。
で、もし「ある」とする。
(あの世)があるとする。
すると、その世界は、たいへんつまらないものではないか。
はっきり言えば、夢も希望もない。
みな完成された人たち(?)だから、生きる目的もない。
毎日、音楽を聴いて、絵を描いて、遊んでいるだけ(?)。
そういう(あの世)では、人にせよ、はたまた(霊)にせよ、「私は生きている」という実
感は、たいへんもちにくい。
そこで(あの世)の人たちは、こんな会話を始める。
霊A「生老病死……ねえ」
霊B「あの世へ行けば、生老病死を経験できるそうですよ」
霊A「おもしろそうですねエ……」
霊B「あの世ではね、努力によって、悪人にも、また善人にもなれるそうです」
霊A「努力によって、ですかア……?」
霊B「そう。それに恋をし、結婚をし、子どもをつくることもできるそうですよ」
霊A「恋? 結婚? 子どもをつくる……? いったい、それはどういうことですか?」
霊B「あの世へ行った人だけが、わかるそうです」と。
そこで霊Bは、(あの世)の相談所へ行き、(あの世)の(あの世)、つまり(この世)への
渡航チケットのようなものを手に入れる。
……どこか宗教ぽく、それでいて、SF的な話だが、もし(あの世)があるとするなら、
けっして、ありえない話ではない。
つまり私が言いたいのは、今、私たちが住んでいる(この世)こそが、実は、(あの世)の
(あの世)ではないかということ。
もともと人間というのは、自己中心性の強い生物である。
私たちが住んでいる(この世)を中心にものを考える傾向が、強い。
しかし(あの世)の(あの世)が、実は、(この世)であると考えると、ものの考え方が、
一変する。
私たちは、もともとは、(あの世)の住人だった。
(霊でもよいが……)。
その住人が、私たちがいう、(この世)へやってきた。
そして「生きる」ということを、生身の肉体を使って、体験している……?
たしかに(この世)は、不完全で、未熟。
どれひとつをとっても、完全なものはない。
が、その(不完全さ)こそが、(この世)の魅力ということになる。
無数のドラマも、そこから生まれる。
私たちがなぜ(この世)に生きているかといえば、そのドラマを生み出すためと考えてよ
い。
そのドラマが、人間の世界を、うるおい豊かなものにする。
生きる意味や、価値も、そこから生まれる。
それこそ努力によっては、神や仏のような人間になることもできる。
それが「希望」ということになる。
が、そうでなければ、もちろん、そうでない。
もし(あの世)があるなら……という前提での話だが、私は、こう考える。
実は、(この世)こそが、(あの世)の(あの世)である、と。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 13日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page021.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●社会に適応でいない子ども(Those Children who can not adapt themselves to the
Society)
Each family has its own domestic problems and there are none that have no problems.
++++++++++++++++
NEET、引きこもり、対人恐怖症、
回避性障害など、子どもが、社会に
適応できなくなる例は、多い。
学校恐怖症、不登校なども、それに
含まれる。
こうしたケースには、かならず、そこに
到る、プロセスというものがある。
やむにやまれぬプロセスというものがある。
過去というより、その一世代前の過去を
背負った人も多い。
結果だけを見て、親の責任や子どもの
責任を追及してはいけない。
どの親も、それぞれの立場で、懸命に
生きてきた。
生きている。
その中で、子育てをしている。
懸命にしていても、そうなるときは、
そうなる。
多少の無知、無理解はあったかもしれ
ない。
が、だからといって、そんな親を責めても
意味はない。
子育てには、無知、無理解は、つきもの。
多かれ少なかれ、だれにだって、ある。
が、どこかでほんの少しだけ、歯車が
狂う。
狂ったまま、まさにどうしようもない
状態で、そのままつづいてしまう。
夫婦の問題、経済の問題。
事故や病気は、向こうからやってくる。
軽い失敗が、悪循環と重なることも
ある。
もがけばもがくほど、予期せぬほうへと、
ものごとが進んでしまうこともある。
その結果として、(今の状態)が生まれる。
つまりその結果だけを見て、「私の
子育てが失敗だった」とか、そんな
ふうに考えてはいけない。
大切なことは、(今を原点)として、
そこから前に向かって進むこと。
過去は過去。
今は今。
未来は未来として、(今を原点)として、
そこから前に向かって進むこと。
外から見ると、どこの家庭も、そして
どこの親子関係も、うまくいっている
ように見える。
しかしそんな家庭は、10に1つもない。
100に1つもない。
(ぜったいに、ないぞ!)
みな、同じような問題を抱えて、それぞれが、
それぞれの家庭で、苦しんでいる。
悩んでいる。
C県にお住まいの、T氏(父親)から、
息子(18歳)の引きこもりについての
相談があった。
高校に入学してからも、ほとんど学校には行かなかった。
そのため高校1年の終わりに、中退。
現在は、大検にも合格し、進学先をさがして
いるという状況だそうだ。
T氏としては、進学など、どうでもよいと
考えている。
しかし息子自身が、「進学しなければ」と
あせっているという。
そういう姿を見て、ときどき息子のほうから、
「つらい」「助けて」というメッセージが送られて
くるという。
そんな息子を見ながら、T氏も苦しんでいる。
だから「どうしたらよいか?」と。
私はT氏と、電話で40分ほど、話した。
そのやり取りの中で、何よりも救いを感じたのは、
T氏と息子の間に、良好なコミュニケーション
が取れているということ。
親子の会話も多く、T氏、つまり父親自身が、
息子の相談相手になっているということ。
こういうケースでは、たとえ(今の状態)が、
そうであっても、未来はきわめて明るい。
私の経験では、子どもが20歳を待たずして、
(今の状態)は、やがて親子の笑い話に
なるだろうということ。
「お前にもいろいろなことがあったなあ」
「ハハハ、おやじには苦労をかけてしまった」と。
たとえば同じ引きこもりでも、家族との会話
が途絶えると、その分だけ、(今の状況)は、
長引く。
さらにそこに家庭内暴力が加われば、
ことは、深刻になる。
私「親子の会話がしっかりしているだけでも、
感謝しなければいけませんよ」
T「そうですね」
私「私の知っている例では、もう10年以上、
親子で、会話らしい会話もしないケースもあります」
T「……10年も、ですか……?」
私「ときどきささいなことで、突発的に
暴れるため、その家庭では、家中のガラスと
いうガラスを取り外してしまったそうです」
T「ああ、私の知っている人にも、そういう
人がいます。25歳の息子だそうですが、酒を飲んで
暴れるのだそうです。包丁を振り回して、ね」
私「それはたいへんですね」
T「そういう人とくらべたら、……くらべるのも
失礼かもしれませんが、うちの息子など、
軽いものです」
私「そうですよ。私の息子の話では、アメリカ
では、麻薬の常習者になって、家人を、
ショットガンで追いかけまわす子どもも
いるそうです」
T「はあ~?」
大切なことは、「どうして自分だけが……」と
思わないこと。
先にも書いたように、みな、似たような
問題を抱えている。
抱えながら、懸命に生きている。
子育てをしている。
私「ようし、十字架の1本や2本、背負って
やると、前向きに考えることですよ」
T「そうですよね」
私「何ごともなく過ぎていくのも、子育て
かもしれません。しかしそんな子育てからは、
何もドラマは生まれません。私たちがなぜ
生きているかと言えば、そのドラマの中に、
生きる価値を見出すからです」
T「先生の話を聞いて、気分が軽くなりました」
私「そうですよ。Tさんが今抱えている程度の
問題など、何でもありません。問題というような
問題ではないように思います」
T「……そうですね」
私「で、ひとつだけ条件があるとするなら、
子どもの進学はあきらめること。
つぎに親子のパイプだけは、切らないように
すること、です」
T「私は進学にはまったく、こだわって
いません。息子のほうが苦しんでいます。
『大学へ行かなければ』とです」
私「それについては、そっとしておいて
あげるしかないですね。息子さんのほうから
相談があったとき、あなたの考えを伝えれば
いいでしょう」と。
私も、T氏と電話で話すうち、気分が
楽になった。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●テレビ局よ、自浄努力はどうなっている?(TV Stations should raise themselves)
TV Stations should not forget the efforts to raise themselves to higher levels of culture,
or the culture of itself will fall down. Stupid TV programs make the Japanese more
stupid.
+++++++++++++++++
日本PTA全国協議会が15日公表した、
親が子どもに見せたくないテレビ番組は、
バラエティー「ロンドンハーツ」(11%、
テレビ朝日系)で、5年連続ワースト1と
なった。
(産経新聞・08年5月16日)
+++++++++++++++++
5年連続で、ワーストワンになったら、
まともな人間なら、「やめよう」と考える。
考えて、ふつう。
テレビ朝日と言えば、昔のNET。
昔、川崎敬三司会の、『アフターヌーン・ショー』という
昼の番組があった。
私はその番組の企画を書かせてもらっていた。
あのころのNETには、まだアカデミックな
雰囲気があった。
企画会議の席でも、NET自体の「品(ひん)」を、
みなが大切にしていた。
(「NET」というのは、確か、「日本教育テレビ」の
略ではなかったか?)
が、その精神は、今、どこへ……?
日本PTA全国協議会が15日公表した、
親が子どもに見せたくないテレビ番組は、
バラエティー「ロンドンハーツ」(11%、
テレビ朝日系)だったという。
5年連続の、ワースト1!
ただ同じ調査だが、
「めちゃ×2イケてるッ!」(8%、フジテレビ系)、
「クレヨンしんちゃん」(8%、テレ朝系)がつづいた
という。
ただし、「クレヨンしんちゃん」には、誤解がある。
臼井氏が描いたコミックのうち、VOL1~VOL11
前後までは、生活感にあふれている。
読んでいても、楽しい。
おそしろいし、参考になる。
幼児の心理のみならず、子育てに奮闘する、
母親、みさえの心理を、実にたくみに表現している。
問題になっているのは、テレビ番組のほうである。
どこかのプロダクションが入り込み、「クレヨン
しんちゃん」を好き勝手に(多分?)、料理し
始めた。
とたん、内容が、薄汚くなった(失礼!)。
結果、「親が子どもに見せたくない番組」の、
ワースト3!
私として、とても、残念に思っている。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ディズニー・シー(Disney Sea in Tokyo)
+++++++++++++++
孫の誠司と、ディズニー・シーへ
行くのが、ここ数年の夢だった。
その夢はかなった。
が、しかし……。
+++++++++++++++
●計7人!
もうすぐ孫の誠司が、満6歳になる。
正確には、2008年の8月に、
満6歳になる。
私とワイフは、いつもこう言いあっていた。
「誠司が来たら、ディズニー・シーへ
連れていってやろう」と。
その日は、やってきた。
5月の連休をはさんで、日本へ来るという。
その日にあわせて、私たちは予定を組んだ。
最初は、私とワイフ、それに誠司の3人だけで
行く予定だった。
が、それに長男が加わった。
「誠司が行くなら、ぼくも行く」と。
それで計4人になった。
私たちは、そのつど旅行社に足を運んだ。
で、そのことを二男に電話で連絡すると、
二男夫婦、それにもうひとりの孫の芽衣も、
いっしょに行く、と。
計7人になった。
私にとって、人生で最良の日になる予定だった。
しかし現実は、甘くなかった。
●予定変更
二男が来日したあと、数度、予定が変更になった。
最初から、夜行バスで行くつもりだった。
が、それについて、満2歳の芽衣には、無理だろうということになった。
二男がそう言い出した。
「バスの中で、おとなしくしているだろうか?」と。
芽衣が行かないということになれば、だれかが、浜松に残らねばならない。
……ということで、二男夫婦と芽衣が、浜松に残ることになった。
旅行をキャンセルした。
またまたもとの計4人になった。
が、そのたびに、旅行者へ足を運び、頭をさげ、
キャンセル料を支払わねばならない。
いや、実際には、二男が来日したあと、一度は、「誠司も
行かない」ということになり、旅行すべてをキャンセルした。
こうして(申し込み)→(キャンセル)を、3度、繰りかえした。
(3度だぞ!)
計7人で、10万円ほどの旅行だったが、支払った
キャンセル料だけでも、5~6万円になった。
で、最終的には、私とワイフ、誠司と長男の、計4人で
行くことになった。
●マイナス10度
当日は、小雨模様だった。
前線が、北からおりてきていた。
その2日前、私とワイフは、富士山に登っている。
5合目までバスで言ったが、気温は、そこで22度。
暑さを感ずるほどだった。
……ということで、ディズニー・シーへは、夏場のような薄着ででかけた。
しかしこれがまちがいだった。
ディズニー・シーへ言ってみると、気温は、10数度。
あとでタクシーの運転手に聞くと、「昨日より、今日は、10度ほど低いです」と。
おまけに小雨。
ディズニー・シーの正面の門をくぐったときから、
私たちは、ブルブルと震えだした。
が、そこで長男が、ダウン。
数日前から、風邪気味だった。
それが、ディズニー・シーへ来て、とたんにひどくなった。
長男は、そのまま救護室へ。
結局、誠司を間にはさんでの、私とワイフの3人の行楽となった。
●寒い!
私たちは、それぞれ1~2枚の上着をもってきた。
しかしそれほどまでの寒さになるとは、思ってもみなかった。
上着は、バスの中に置いてきてしまった。
「寒いね」
「上着をもってくればよかった」と。
ワイフとたがいに、そんな会話を繰りかえした。
見ると、誠司が、鼻水を出しているではないか!
これには仰天。
私たちは、誠司に、合羽(かっぱ)を2枚、重ねて着させた。
が、こうなると、旅行どころではない。
昼を過ぎるころには、「電車で帰ろうか」という話まで、出た。
その点、当然だが、バス旅行は、融通がきかない。
バスが出発するのは、午後10時30分。
「開園から閉園まで、まるまる1日、ディズニー・シー・コース」という
あの歌い文句が、うらめしく思えた。
「10時まで、こんなところにいたら、みんな風邪をひいてしまうよ」と。
●ホテルへ
私たちは、近くのホテルに入ることにした。
案内の人に言われるまま、入ったホテルが、ディズニーランド直営(?)の、
Rホテル。
フロントで、午後10時まで過ごさせてほしいと言うと、1人、4万円です、と。
「午後3時を過ぎますと、一泊料金です」「今日は土曜日料金です」と。
時計を見ると、針は、午後3時10分を示していた。
4、5時間、部屋で過ごすだけで、計12万円!
私は別のホテルをさがすことにした。
幸い、誠司の鼻水は治まっていたが、油断はできない。
自分の子ならまだしも、孫となると、責任は重大。
雨の中、私は傘をさして、通りへ出た。
10分ほど歩いたところに、ビジネスホテルが一軒あった。
しかしそこでも、同じようなことを言われた。
料金は、1人、1万8000円。
しかしそんなところで、午後10時まで、何をして過ごすのか?
……というようなことを相談すると、フロントの男が、近くに、
温泉ホテルがあることを教えてくれた。
「あそこなら、ゆっくりとくつろげます」と。
私はその温泉まで歩いた。
●温泉ホテル
行ってみると、大きな温泉ホテルだった。
3階が、フロントと休憩室。
4階が、風呂場。
5階が、休憩室で、6階にレストラン。
料金は、1人、2500円。
「これならだいじょうぶ」と、私はそのままタクシーを呼び、Rホテルへ。
ワイフと誠司、それに長男は、そこで待っていた。
……といっても、そういう日だから、タクシーが来るまでに、
15分ほどの時間がかかった。
あとで計算してみると、私は、40分以上、雨の中をさまよい歩いたことになる。
靴は、雨でズブズブに濡れていた。
私たちは折りかえし、そのタクシーで、温泉ホテルにもどった。
●誠司
誠司はワイフに渡した。
そのまま私と長男は、「男湯」に。
しかし入ってしばらくすると、館内アナウンス。
「はやし浩司さんは、すぐフロントへ」と。
私は、誠司が事故でも起こしたのでは……?
あわてて半裸のままフロントへ。
そこにワイフと誠司が立っていた。
「裸の女の人を見たら、びっくりしたみたい」と。
私が誠司のめんどうをみることにした。
風呂の中で暖まれば、鼻水も消えるだろう。
そう考えた。
が、誠司が温泉に入るのは、そのときが、生まれてはじめて!
つまり、初体験。
まず、裸にするのが、たいへんだった。
ああでもない、こうでもないと、服をぬぐのを、いやがった。
つぎに湯船に入れるのが、たいへんだった。
足に湯をかけただけで、「I am burnt!(やけどする)」」と泣いた。
私は誠司をしっかりと抱きながら、「だいじょうぶ」「ぼくを信頼しな」と。
湯船はいくつかに分かれていた。
その中でも一番右手奥にある湯船の湯が、ぬるいのがわかった。
私はそこへ誠司を入れようとした。
そこでも誠司は、「NO」を繰りかえした。
が、そこに小学2、3年生の女の子がやってきた。
とたん、誠司は、風呂の中に。
どこかのプールと勘違いしたらしい。
●ハラハラ、ドキドキ
が、そこは子ども。
ひとたび遊び始めると、夢中になって遊び始めた。
しかし風呂には、あちこちに段差がある。
足をすべらせてはたいへん。
私は常に誠司の脇の下に手をかける。
が、誠司は、それをいやがった。
「ぼくは立てる」「ぼくはだいじょうぶ」と。
大きなボタンを押すと、泡がボコボコと出る装置があった。
先の女の子に、5歳くらいの男の子が加わった。
誠司たちは、その装置を使って、遊び始めた。
こうなると私にとっては、温泉どころではない。
ハラハラ、ドキドキ。
その連続。
「もう、風呂から出よう」「NO」と。
2人で、押し問答を何度も繰りかえした。
あとで時計を見たら、私たちは1時間以上も、風呂の中にいたことがわかった。
「入るのに、一苦労、出るのに、一苦労」と、私がワイフに話すと、
ワイフは、楽しそうに笑った。
●食事
6階がレストランになっていた。
そこで4人で、食事。
風呂から出て、長男も、気分がよくなったらしい。
私は、いくら丼、ワイフは、……?、(忘れた!)、長男はカツ丼、そして誠司は、
子ども定食を食べた。
見ると、前の席に、風呂で会った女の子が座っていた。
風呂の中では、私はメガネをはずしていた。
顔はよく見えなかった。
しかし誠司は、その女の子をよく覚えていた。
親しげに、たがいに笑いあっていた。
私たちは、食事に夢中になった。
ほっと、一息。また、一息。
時計を見ると、午後8時を回っていた。
●帰る
ディズニー・シーは、私たち夫婦にとっては、やや期待はずれだった。(ゴメン!)
誠司が楽しめばと思ったが、誠司には、まだ早すぎた。
長男は、救護室で横になっていただけ。
それに加えて、あの寒さと、雨。
何がよかったのか、悪かったのか?
はっきりとわからないまま、9時少し過ぎ、温泉ホテルを出た。
タクシーで、バスの駐車場へと向かった。
バスには、私たちが一番乗りだった。
乗って、私たちは、そのまま眠りの支度(したく)を始めた。
「人生、最良の日になるはずだったのに……」と私。
「残念だったね」とワイフ。
結局その日は、ほどほどの日になってしまった。
期待が大きすぎた分だけ、落胆も大きかった。
内心では、コリゴリと思った。
しかしそれは言わなかった。
ワイフも同じ気持ちではなかったか……?
私はそのまま目を閉じ、眠ってしまった。
バスが駐車場を出たのさえ、気がつかなかった。
目をさますと、どこかのサービスエリアへ、バスが入るところだった。
誠司は、ワイフのひざで、安らかに眠っていた。
それを見て、私は、また目を閉じた。
……以上、人生最良の日を記録するために……。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●四川大地震(The Big Earthquake in Shi-sen, China)
NIKKEIニュースは、つぎのように伝える。
『中国・四川大地震で国営の新華社は13日、四川省の震源に近い地区で2万3000人
を超える住民が、生き埋めになったと報じた。被災死者数は計1万2000人を超え、負
傷者の数は2万6206人』(5月14日)と。
「1万」とか「2万」とか……!
数字だけが、勝手にひとり歩きしているようで、恐ろしい。
つい先日は、ミャンマーをサイクロンが襲い、約3万4000人の人たちが、亡くなって
いる※。(「3万人」だぞ!)
新聞記事だけを読み流していると、自分の感覚がマヒしていくのが、よくわかる。
恐ろしい。ほんとうに恐ろしい。
そのうち「10万」とか、「100万」とか聞いても、驚かなくなるかもしれない。
しかしそれにしても、いったい、どんな地震だったのか?
インターネットで配信されてくる写真は、ほんの一部。
何10枚と写真をあちこちで見たが、まるで小さな鍵穴から、外の世界をのぞいているよ
う。
地震の実感は、まったくといってよいほど、伝わってこない。
しかし毎日新聞のつぎの記事を読んで、涙を流さない人はいないと思う。
++++++++++以下、毎日新聞より転載+++++++++++++
大地震で倒壊した中国四川省綿竹市の幼稚園で、教諭が背中にセメント板を受けて倒れ
ながら、抱えた園児の命を守ったことが明らかになった。新華社通信が13日、報じた。
園児が無事に救い出された時、教諭はすでに息絶えており、園長は「子供の命を救った
先生は、永遠に我々の元を去ってしまった」と涙した。
幼稚園には地震発生当時、園児80人余りと教諭5人がおり、園児は昼寝の最中だった。
園舎が倒壊した後、がれきの中から助けを求める園児らの声が聞こえたが、やがてか細
くなり、親たちが周囲から懸命に子供たちの名前を呼び続けた。その後、救助隊によっ
て、園児約50人と教諭3人の死亡が確認された。
++++++++++以上、毎日新聞より転載+++++++++++++
で、あえて自分をその世界に置いてみる。
私は今、暗い瓦礫(がれき)に下に閉じこめられている。
あるいはあなたの子どもが、暗い瓦礫の下に閉じこめられている。
想像するだけで、ゾーッと冷たいものが背筋を走る。
思わず、想像するのを、やめてしまう。
……これ以上、言葉がつづかない。
やはり感覚が、マヒしてしまったのか?
「1万人の人が死んだんだぞ」
「2万人の人が生き埋めになっているんだぞ」と、
自分に向かって叫ぶ。
もしここで私が、「2万人……」と他人ごとのように思ってしまったら、私は、この先、ど
うやって生きていけばよいのか。
いくらものを考えても、また書いても、それ自体、無意味になってしまう。
それこそほんとうに、恐ろしい。
(注※)……先月ミャンマーを襲ったサイクロンによる死者が、5月13日、3万400
0人を超えた。被災者の健康状態の悪化が心配されている(TBS i-news)。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●ムダに生きるか?(live for Nothing or die for Something)
Rambo, the last Battle Field
+++++++++++++++++++++
昨日、ワイフと、「MIxx」という、まあ、
どうしようもないほど、ひどいダ作映画を
劇場で見てきた。
ギャーギャーと騒ぎまくる、狂信的な女性だけが、
やたらと目立った。
それだけ。
近年には珍しい、ダ作中のダ作。
途中で「帰ろうか?」と、何度もワイフに声を
かけたほど。
舞台は、小さなスーパーマーケットの中。
そこでのシーンが、90%以上。
あとは白い霧(煙、あるいはフィルター)を
かけた外の景色だけ。
スーパーマーケットの外は、5~6メートル先は、
何も見えない。
この何も見えないところが、ミソ。
つまり白い霧(MIST)で隠しているから、
セットなど、何も必要なし。
恐らく制作費は、最低限の、そのまた
最低限ですんだはず。
「金、返せ!」と、叫びたくなるような映画
だった。(ホント!)
星など、つけようもない。あえて言うなら、
星は、マイナス5個!
むしろ、その映画に先立って紹介された予告編のほうが、
印象に残った。
『ランボー、最後の戦場』である。
近く、その『ランボー、最後の戦場』が、封切られる。
その予告編の中で、ランボーが、こうつぶやく。
「live for Nothing,
or die for Something!」と。
「生きるためのものを、何ももたないか、
それとも、死ぬためのものを、何かもつか」と。
私はこの言葉を聞いたとき、心底、ドキッとした。
もう少しかみくだいて解釈すると、こうなる。
「何も目的や目標をもたず生きても、そんな人生には、
意味はない。命がけでする何かをもつことこそ、重要」と。
しかしそれでももの足りない。
「ただ無益に生きるか、それとも、命をかけて、
何かのために生きるか」では、どうか?
TSUTAYAの映画紹介の中の字幕では、
つぎのようになっている。
「ムダに生きるか、何かのために死ぬか」と。
あえて言うなら、私なら、この部分のセリフを
こうする。
「Nothing to live or
Something to die」と。
そのほうが、すっきりとして、わかりやすい。
なお「@ピア」のHPには、つぎのようにある。
『孤独な戦いに身を置いてきたランボーの最後の戦いは、そのままスタローンへと帰って
いく。自身のヒット作の誹謗中傷にも負けず、なお果敢に挑み続ける姿には、年齢に関係
なく挑戦することの大切さを教えてくれる。『ロッキー』同様ヒットとなるか、スタローン
のチャレンジに団塊世代を始めとする、世のお父さんたちも見守ることだろう』(同、HP)
と。
がんばれ、シルベスター・スタローン!
あなたこそ、我々、団塊の世代の星だ!
『ロッキー・ザ・ファイナル』は、すばらしかった。
文句なしの、星5つ。★★★★★。
かならず、私とワイフは、劇場まで、足を運ぶぞ!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 11日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
************************
http://bwhayashi2.fc2web.com/page020.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●日本の子育て(Our way of raising children)
My son with his wife and two sons came to my house and went back home yesterday. I
have learnt a lot from them, especially about the difference between American way of
raising children and Japanese one.
+++++++++++++++++
二男夫婦が、嵐のようにやってきて、
嵐のように去っていった。
「嵐」というのも、大げさだが、私には、
そんな感じがする。
それまで無風地帯だった我が家が、
嵐のように騒々しくなった。
だからやはり「嵐」と思う。
その二男から学んだものは、多い。
二男が残していったものも、多い。
それを今のうちに、忘れず、ここに
書きとめる。
+++++++++++++++++
●アメリカ流、合理主義
二男が日本を去ったのは、二男が、高校を卒業したとき。
現在、満29歳だから、アメリカで生活するようになって、11年ということになる。
「たった11年」と思う人もいるかもしれないが、青年期の11年は、長い。重い。
二男は、日本人というより、すっかりアメリカ人になった。……なってしまった。
もし今、二男に、日本の生活をしろと言っても、二男には、できないだろう。
理由がある。
「アメリカ的である」ということは、「アメリカ的なスタンダードを身につけてしまった」
ということ。
日本を見る目そのものが、アメリカ的である。
つまり、ものごとをアメリカを基準にして見ている。
……といっても、二男が、直接、そう言ったわけではない。
この10日間、いっしょに生活してみて、私がそう感じた。
「アメリカはこうだから、日本も、こうあるべきだ」というようなことを、ときどき、口
にした。
あるいは「アメリカ人はこうしているから、日本人も、こうすべきだ」と。
そんなアメリカ人をとらえながら、よくオーストラリアの友人は、こう言う。
「アメリカ人は、傲慢だ(arrogant)」と。
私も、二男の中に、それを感じた。
●複雑な感情
二男にとってのアメリカというのは、そういうものかもしれない。
しかし私にとってのアメリカは、やや意味がちがう。
古くは学生時代から……。
私は大学生のとき、ガイドのアルバイトをしていた。
金沢の駅前にある「Mホテル」の専属のガイドである。
相手は、もっぱら、アメリカ人。
当時のアメリカ人は、超の上に、超がつく、金持ち、だった。
それもそのはず。
当時の日本の大卒の初任給が、3~4万円。
羽田~ニューヨーク間の、片道航空運賃が、17万円。
往復、34万円。
私は、この値段をよく覚えている。
私は、その17万円をためて、アメリカへ渡るつもりだった。
つまり日本人が、1年間働いて、やっとアメリカまでの航空運賃を手にすることができた。
一方、当時、アメリカでは、大卒の初任給が、17~8万円だった。
私はこれらの数字を見比べながら、こう驚いた。
「アメリカ人というのは、初任給だけで、日本へ来ることができる!」と。
そのアメリカ人は、例外なく、みな、私を、奴隷のように扱った。
女性観光客の靴を、はかせられたこともある。
地面にはいつくばって、地図の説明をさせられたこともある。
私にとってのアメリカというのは、そういう国だった。
アメリカ人というのは、そういう人たちだった。
●時代が変わった?
二男は、すっかりアメリカ人になったつもりでいる。
時代も変わった。
アメリカ人も、変わった。
アジア人だからといって、小さくなっている時代は、終わった。
そのことは、オーストラリアを見ても、わかる。
私が学生時代のころは、オーストラリアは、「白豪主義(White Australian Policy)」の国
と呼ばれていた。
しかし今では、大都市部では、そのうちの3~4割がアジア系人種で占められるようにな
った。
どこへ行っても、アジア人が、大きな顔をして歩いている。
それはわかるが、「心」というのは、そんなに簡単には、変えられるものではない。
「時代が変わりました。だからあなたがもっているアメリカ人像は、まちがっています」
と言われても、困る。
私にとってのアメリカ人像は、あのころのアメリカ人像が基本になっている。
つまり学生時代のアメリカ人像である。
もう少し年配の人たちにとっては、ひょっとしたら、戦時中のアメリカ人かもしれない。
私の父は、台湾でアメリカ兵と交戦し、2発の貫通銃創を受けている。
少なくとも、現在の二男がもっているアメリカ人像とは、ちがう。
●ひもじさとの戦い
二男は、日本が豊かになりきったあと、アメリカに渡った。
つまりそれまでの日本、つまり1950~80年にかけての日本を知らない。
さらに言えば、戦後の日本を知らない。
戦後の日本が、どういう国だったかも、知らない。
あのころの私たちは、懸命に生きた。
生きてきた。
これは二男にかぎらないが、最近の若い人たちは、「お金(マネー)は、天から降ってくる
もの」と思っている?
ときどき、そんな雰囲気も感じた。
一方、私たちの世代は、子どものころから、(ひもじさ)との戦いだった。
しかし二男にかぎらず、今の若い人たちは、(ひもじい)という言葉の意味さえ知らない。
へたにそれを口にすると、「そんなのは、パパたちの責任」と言われそう。
つまり「親が苦労したとしても、ぼくたちには関係ない」と。
わかりやすく言えば、「親が学費を出すのは当然」という前提で、ものを考える。
その学費を稼ぐために、親である私たちがいかに苦労したかなどという話は、今の若い人
たちには、通じない。
しても、ムダ。
しかしこれも、考えてみれば、私たちの責任かもしれない。
●独立精神
悪い面ばかりではない。
アメリカ流子育てを見ていて、いくつか気がついたことがある。
孫の誠司を連れて、いくつかの観光地へ行ってきたが、どこへ行っても、孫の誠司は、何
もほしがらない。
みやげもの屋の中を歩いても、ただ手に取って見るだけ。
「ほしい」とか、「買って」とか、言わない。
「日本の子どもとはちがうなア」と思った。
あるいは育て方の基本が、ちがう?
孫の誠司にしても、YES・NOを、明確に表現する。
まだ6歳になっていないのに、自分の意思をしっかりと表現する。
だからそのつど、私の方が、孫の誠司に意思を確かめなければならない。
「~~へ行くが、いっしょに行くか?」
「~~を食べるが、食べたいか?」と。
日本では、こういうとき、あらかじめ親の方針を立てて、子どもに押しつける。
子どもの意思をいちいち確かめていたら、行動そのものが、できなくなってしまう。
……という考え方を、二男夫婦は、しない。
二男夫婦は、孫たちに、そのつど意思を確かめながら行動していた。
そういう姿を見て、私は、「親も、たいへんだなア」と思った。
「そこまで気をつかうのか?」と。
あるいは「そこまで気をつかう必要があるのか」とも思った。
あああ、やはり、私は日本人だア!
●嵐が去った
これは私の職業のせいかもしれない。
別れ強いというか、(別れ)に対して、かなりの免疫力がある。
ふつうなら、(多分?)、孫たちと別れるジイ様、バア様は、涙をこぼして……となる。
しかし私には、それがない。
昨日、二男夫婦は、孫たちを連れてアメリカへ帰っていった。
それを見送ったあと、午後から、年長児の指導をした。
今の私は、自分の息子たちに対してよりも、自分の生徒たちのほうに、強い愛情を感ずる。
居心地がよい。
孫についても、同じ。
ちょうど同じ年齢の子どもたちを指導しながら、心のどこかでふと、こう思った。
「この子たちにも、祖父母がいるんだな」と。
だから昨日は、私のほうがハイになり、乗りにのりまくって、楽しいレッスンを展開した。
子どもたちも、笑いっぱなしだった。
楽しかった。
おもしろかった。
……ということで、「嵐」は、去っていった。
と、同時に、「親子って、いったい、何なのか?」とも、考えた。
親は、自分の子どもを、いつまでも、「私の子」と思うかもしれない。
しかし子どものほうは、「親の子」とは思わない。
いや、これとて、実に日本的な発想かもしれない。
アメリカでは、親は、自分の子どもでも、「私の子」とは思わない。
いわんや子どものほうも、「親の子」などとは、ぜったいに思わない。
いつだったか、だれかが、「アメリカでは、自分の子でも、(神の子)と考えるようだ」と
話してくれたことがある。
それについては、まだよくわからない。
が、しかし、日本の親子と、アメリカの親子とでは、絆(きずな)の質、意味、内容その
ものがちがう。
それは確かなようだ。
今回、それを強く感じた。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●5月13日(火曜日)
●読書(Reading Books)
I have purchased several books in this week and now I have been reading a book, the
title of which is "The Universe in a Nutshell" written by Stephen Hawking.
この1週間、ヒマさえあれば、本ばかり読んでいた。
買ってきた本は、4冊。プラス、雑誌、2冊。
今は、(昨夜から)、「ホーキング・未来を語る」(ソフトバンク社刊)を読んでいる。
3分の1ほどを読み終えたところ。
今日は、これを読破したい。
……ということで、この数日、原稿はほとんど書いていない。
BLOGの更新もしていない。
プラス、現在、おかしな(?)ニヒリズムが、心の中を充満している。
こんなことがあった。
私は、相談があったばあい、ほぼ100%、返事を書いている。
しかし中には、そんな私を、どこかの公的機関の職員のように考えている人もいるようだ。
返事が遅れたり、あるいは、少し説教がましいことを書いたりすると、抗議のメールが届
く。
返事を書いても、礼のメールが届くのは、3回のうち、1回程度。
また私のほうとしては、「転載、引用は不許可」という相談は、どうしても、後回しになる。
返事を書くとしても、1~2時間は、かかる。
そんなとき、「コンビニのアルバイトにしても、時給、1000円なのに……」と思う。
……そんなわけで、現在、「こんなことしていて、何になるのか?」と考えている。
自分のしていることが、バカ臭く思える。
ときどき、こういう精神状態になる。
いや、これはニヒリズムというより、グチなのか?
で、こういうときは、本を買いこんできて、読書にふける。
ただし読書といっても、育児書だけは、ぜったいに買わない。
その著者の影響を受けるのもいやだが、半年ほど前には、明らかに私の原稿をパクって書
いたような本を見つけた。
あのときは、数日間、怒りで体がほてった。
そういう自分になるのがいやだ。
だから他人の書いた育児書は、買わない。
読まない。
参考にしない。
(付記)
昨日も、相談のメールをくださった方が、3人ほどいらっしゃいました。
しかし今は、とても返事を書く気になれません。
申し訳ないとは思いますが、どうか、今、しばらくお待ちください。
+当方の勝手を、どうかお許しください。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2614)
●なぜ、性犯罪はなくならないか?(Sexual Crime by Teachers)
つい数日前、わいせつ行為容疑で、51歳の中学教師が、逮捕された。
その教師は、ニセの卒業旅行通知を親に出し、親を安心させた上、
女子生徒を連れ出し、ホテルに宿泊していたという。
が、それに驚いていたら、今日も、また!
毎日新聞は、つぎのように伝える。
今までは、実名を伏せて記事を書いてきたが、
これからは実名をそのまま、出させてもらう。
+++++++++++++以下、毎日新聞 5月13日++++++++++++++
スキー合宿の宿泊先で小学6年の女子児童(11)にわいせつな行為をしたとして千葉
県警SK署は12日、千葉県船橋市、NPO法人「さくら子どもスポーツネットワーク」
元理事長、宮下桂治容疑者(72)を強制わいせつ容疑で逮捕した。宮下容疑者は「寝て
いた女の子の体を触った」と容疑を認めているといい、同署で余罪を追及している。
調べでは、宮下容疑者は3月27日午前1時ごろ、NPOのスキー合宿で訪れた長野県
上田市内のホテルで、参加した千葉県内の女子児童の下半身に触るなどした疑い。宮下容
疑者は翌日、理事長を退任。4月上旬、児童の母親が同署に被害届を提出した。
NPOは子供のためのスポーツクラブとして、順天堂元大学教授の宮下容疑者が中心と
なって、03年2月に発足し、現在約60人の会員が在籍。運動の楽しさを教える乳幼児
向けの教室や、ツーリングなどの課外活動を実施している。
NPO側は「被害児童への謝罪は済ませている。コメントを控えたい」とした。
++++++++++++以上、毎日新聞 5月13日+++++++++++++++
この記事の中で、とくに注目すべき点が、2点、ある。
1点は、「余罪」という言葉。
もう1点は、宮下桂治容疑者(72)が、順天堂大学元教授であったという点。
性犯罪者は、脳の中に特殊な受容体が形成されるという。
何らかの刺激が加わると、ドーパミンというホルモンが分泌される。
そのドーパミンが、線条体を刺激する。
結果、「条件付け反応」が起こり、それが猛烈な性衝動を引き起こし、性犯罪へとつながっ
ていく。
メカニズムは、アルコール依存症の患者や、喫煙者のそれと同じと考えてよい。
つまりアルコール依存症の患者や、喫煙者が、酒やタバコを、簡単には断つことができな
いのと同じように、性犯罪者は、性犯罪を繰りかえすという特殊性がある。
今回、宮下桂治容疑者は、11歳の女子児童にわいせつな行為をしたという。
事件の性質上、当然のことながら、余罪があるとみるべき。
「たまたまこの1件だけ」ということは、こうした種類の性犯罪の性質上、ありえない。
さらにつけ加えるなら、宮下桂治容疑者が、順天堂大学の元教授であったということ。
さらに、人格の円熟期も過ぎた、72歳という年齢であったということ。
このことは、つまり線条体で起こる反応は、それほどまでに強力であるということを示す。
「大学の元教授だから……」「72歳の男性だから……」という『ダカラ論』は、こと性犯
罪については、当てはまらない。
先に書いた、性衝動なるものは、理性や知性で、コントロールできるようなものではない
……ということになる。
では、どうするか?
2つの方法がある。
1つは、厳罰主義で臨む。
学校の教師によるハレンチ事件についても、たいていは、「すでに社会的制裁を受けている」
などという理由にもならない理由をつけられ、執行猶予になるケースが多い。
(社会的制裁を受けるのは、当然のことではないか。もしこんなバカげた論理がまかりと
おるなら、失業者の人たちは、どうなのか? 彼らは社会的制裁とやらを、受けていると
いうことになるのか!)
アメリカのように、18歳未満の子どもに手を出したら、問答無用に、即、2年間程度の、
刑務所送りにする。
あるいは欧米のように、周辺の者にも、報告義務を課し、そうした行為を見聞きしながら、
報告義務を怠った者についても、同罪を適応する。
さらにアメリカのように、性犯罪者については、(先にも書いたように、反復性が強いので)、
氏名と住所を、インターネットで公開するという方法も考えられる。
2つは、システムそのものを、変える。
カナダでは、教師の住所、電話番号などは、いっさい、親や子どもには伝えない。
日本でいう、医療制度に似たシステムが、すでに完成している。
つまり教師は、自分の教室内での行為については、全責任を取るが、生徒が一歩、教室の
外に出たら、すべての責任から解放される。
具体的には、学校の外での、教師と生徒、教師と親との、1対1の接触を禁止する。
ほかにもいろいろ考えられるが、こうしたシステムを少しずつ、積みあげていく。
日本は、この分野では、かなりの後進国と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師による性犯罪 性犯罪
ハレンチ行為 ハレンチ事件)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
8年前に書いた原稿を、紹介します。
最近では、学校ごとに、ここに書いたようなクラブ制度を
充実させているところもあります。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●学校神話(School Myth)
Most of the Japanese parents have strong myth toward schools, that children have no
choice but should go to schools. But is this a common sense of the world? The answer is
"No!".
常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、た
いていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。
しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のとき
にもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑っ
てみる。たとえば……。
●日本の常識は世界の非常識
(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度があ
る。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度であ
る。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の
割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。それを指導
しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭で
こそできる」という理念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運
動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明し
ている(LIFレポートより)。
(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、
クラブへ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出
る。ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども
自身が決めることができる。
そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習ク
ラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二
〇〇一年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二
三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助
金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学
校外教育に対する世間の評価はまだ低い。
ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号
すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」
と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう
教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待ってい
ると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私
立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそ
れを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあっ
たからだ。
別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオ
ーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこ
で私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれ
た。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。
木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」
と。
なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出す
と同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。
さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。
学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあな
たにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学
校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に
住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回さ
れている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。
※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義
国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているでは
ないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れて
はならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という
意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の
犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考える
のは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察シ
ステムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと
別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中
学生では、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇
〇人多い。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今日・あれこれ】(5月14日・水曜日)
(May 14th, Wednesday)
【悪化する日本人の対米感情】(More and more Japanese dislike Americans)
How come are American so arrogant toward the world? They should realize that they
are more disliked by us. According to Yomiuri News Paper, 32% of the Japanese think
that the relationship between two nations have been getting worse.
●オーストラリアの友人(Talking with an Australian Friend of mine)
昨夜、オーストラリアの友人と、しばらく電話で話す。
その中で、アメリカ人について話す。
友人(59歳、男性)は、こう言った。
「LAST SAMURAI(私が送ってやったDVD)は例外だが、ぼくは、アメリカ映画が嫌
いだ」と。
実際には、アメリカ映画を、ほとんど見ないという。
私が「アメリカ人は、自分たちのスタンダードを、他国に押しつけすぎる」と言うと、す
なおに、「そうだ。そのとおりだ」と。
私「日本でも、東京人という言葉がある。東京人というのは、東京に住んでいるだけで、
自分たちは特別な人間と思っている」
友「オーストラリアには、そういうのはない。もともと州ごとに独立した国だった」
私「都会と田舎では、どうか?」
友「田舎に住んでいても、歳をとって働けなくなると、都会へ出てくる。ぼく自身は、カ
ントリー・ボーイが好きだ」
私「どうしてオーストラリア人は、アメリカ人を嫌うのか?」
友「オーストラリアだけではない。世界中の人たちが、アメリカ人を嫌っている。アメリ
カ人が好きだという国は、日本だけではないのか」と。
数か月前、ブラッド・ピット主演の『バベル』という映画を見た。
あの映画ほど、アメリカ人の傲慢さを表している映画はない。
ああいう映画が、堂々と制作され、かつ堂々とハリウッド映画として、世界に配給される
おかしさ。
それにアメリカ人自身が、気がついていない。
そのとき書いたエッセーが、つぎのもの。
++++++++++++++++++
昨夜、ブラッド・ピット主演の
『バベル』を見た。
短い作品かな……?、と思って
見始めたが、終わってみると、
3時間!
そんなわけで床に入ったのが、
午前0時半過ぎ。
起きたのが、少し前。午前8時。
今日は、仕事も休み。肌寒さを
感ずる冬の冷気が、心地よい。
おはようございます。
++++++++++++++
●DVD『バベル』
ブラッド・ピット主演の『バベル』。過去→現在→過去と、話が飛ぶから、見るときは、
注意が必要。最初は、モロッコ、東京、サンディアゴの3か所で、同時進行の形で、交互
にカメラが回る。サンディアゴ、メキシコのプエルトリコには、20代のころ、行ったこ
とがある。
「?」と思っていると、だんだんとストーリーがつながっていく。あまり詳しくは書け
ないので、内容は、ここまで。
星は、2つの★★。少しきびしいかな? 東京という都市が、退廃的な都市として、描
かれていた。「すべてのものがありながら、何もない空間」。そんな印象をもった。私はこ
のDVDを見ながら、学生時代に、金沢で、ガイドのアルバイトをしていた自分を思い出
していた。
当時のアメリカ人は、傲慢(ごうまん)だった。『バベル』の中のブラッド・ピットも、
そのタイプの男性として描かれている。気になったシーンをいくつか、あげてみる。
(1)村にひとつしかない電話をかけながら、相手が自分の意にかなわない返事をしたと
き、その受話器を、壁にたたきつけていた。
(2)妻が、尿意をもよおしたとき、ガイド役の男性に、「鍋はないか?」と聞き、その鍋
をもってこさせた。妻に、鍋の中に、小便をさせていた。
ほかにもあるが、電話機にしても、鍋にしても、モロッコの人たちにとっては、たいへ
んな貴重品。「アメリカ人なら、何をしてもよい」という傲慢さが、ガイドをしていた自分
の記憶と重なった。
前にも書いたことがあるが、ガイドといっても、実際には、奴隷のようなもの。もちろ
ん中には、親切なアメリカ人もいた。反対に、あれこれ教えてくれた人もいた。が、そう
いうアメリカ人は、少なかった。記憶をたどってみる。
(1)小松空港へ迎えに行き、そこからタクシーで、金沢まで同行したときのこと。「タク
シー代は、予定外だ。私は了解していない。お前が払え」と言われた。
(2)そのアメリカ人は、金沢の町の中で、「ここはどこだ?」と、地図を地面に広げた。
私は、地面にはいつくばって、そのときの現在位置を教えた。そのアメリカ人は、
上から私を見おろしていた。
(3)夜遅く、郊外の温泉宿まで案内した。しかし帰りのバスも、タクシー代もなく、私
は徹夜で、金沢の町まで、歩いて帰った。
(4)忍者寺へ行ったときのこと。その男性と妻の靴を、脱がせたり、履かせたりさせら
れた、などなど。
当時の日本は、まだそのレベルだった。アメリカ人もまた、そういうレベルで、日本や
日本人を見ていた。印象に残っているのは、カナダから来た家族だった。高校生ぐらいの
女の子が、タンクトップを身につけていた。日本人の私には、あまりにも刺激的だった。
私はそれを見て、何度も、歩けなくなってしまったのを覚えている。当時の日本で、タ
ンクトップを身につけている女性はいなかった。(これは余談。)
残念ながら、私は『バベル』を見ながら、当時の、あのタチの悪いアメリカ人を、思い
出していた。ブラッド・ピットも、小さな部落で、ワーワーとわめき散らしていた。「外国
にいる」という謙虚さが、まるで感じられなかった。それで星は、2つ。時間に余裕のあ
る人は、見たらよい。
もう一言。
東京という都市が、退廃的な都市として描かれていたということは、先にも書いた。か
なり誇張されていた。それはそれとして、このDVDを見ていて、「豊かさとは何か」、そ
れを改めて考えさせられた。
見終わったあと、「モロッコのほうが、人間的ね」と、ワイフは言った。私も、まったく
同感だった。
……しかし東京というと、どうしていつも、ああまで薄汚い街として、描かれるのか?
私も東京は好きではないが、しかしあそこまでひどいとは、思わない。東京の人たち
よ、もっと、怒れ!
++++++++++++++++++++
『バベル』の中では、ここにも書いたように、たった一台しかない電話機を、ブラッド・
ピットは、意に添わないからと言って、壁にたたきつけていた。
あるいは鍋の中に、妻の小便をさせていた、などなど。
おまけにモロッコの人たちが、まるで家畜か、動物のように描かれていた!
ほかにもあるが、まるで世界の中で、自分たちだけが文明人であるかのように、振る舞っ
ていたのも気になる。
(自分の妻、1人だけが助かれば、それで世界中がどうなってもよいというのか?)
札束で、相手の頬を叩きながら、好き勝手なことをする。
あの傲慢さこそが、アメリカ人が、なぜ世界で嫌われているか、その理由と考えてよい。
オーストラリアの友人に、『バベル』の話をしようとしたが、彼は、こう言った。
「ぼくは見ていない」と。
「興味があったら、見てみるといい」と私がつけ加えると、「ヒロシの話だけで、イナフ(た
くさん)だ」とも。
このところアメリカを見る私の目が、急速に変わりつつある。
これも、あのC・ヒル(国務次官補)が悪い。
なぜアメリカが、今のアメリカなのか?
ロクに働きもせず、それなりによい生活ができるのは、(今までできたのは)、日本のおか
げではないのか。
紙くずのようになったドル紙幣を、せっこらせっこらと、買い支えてきたのは、ほかなら
ぬ、この日本である。
その恩を忘れて、今まさに、この日本を切り捨てようとしている。
拉致問題は、棚上げだって?
K国の既存核兵器については、不問にするだって?
おまけに米朝和平交渉を進めるだって?
ならば日本政府は、こう宣言すればよい。
「ドル資産を、5%(たったの5%だぞ)、ユーロに交換します」と。
それだけでアメリカは、真っ青。ドルは、大暴落。ついでにアメリカの経済は、そのまま
奈落の底へ!
……というような意見は、過激すぎると、私も思う。
思うが、「この怒り、だれに向かうべきなのか」(尾崎豊「卒業」)。
このところどんな統計調査を見ても、日本人の対米感情は悪化しているのがわかる※。
ごく自然な流れと考えてよい。
(注※)2007年11月中旬に実施された読売新聞社と米ギャラップ社の「日米共同世
論調査」によれば、現在の日米関係を悪いと思う人は、日本で計32%(2006年は計
23%)、アメリカで計10%(同計7%)だったという。現在の日米関係を良いと思う人
は、日本で計39%(2006年は計53%)、アメリカで計46%(2006年は計61%)
だった。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●いやな事件
+++++++++++++++++++++++
K府で、女子高校生が殺害された。
全国ニュースでも、大きく、取りあげられている。
殺害されたあと、ヤブの中に、死体が放置されたという。
「顔に殴られた跡があり、首に木の枝やツルが巻きつけられていた
ことがわかった」(ヤフー)とも。
が、実は、この地元でも、同じような事件が、同じころ、
起きている。
隣のA県で起きた事件だが、A県といっても、
この静岡県と県境にある村。
浜松市から車で、1時間~1時間半前後の距離。
私たちも、ドライブで、そのあたりへは、よく行く。
新聞記事を読みながら、「あのへんだ」「あのへんよ」と
ワイフと話しあった。
新聞記事によると、類似した未遂事件が、2件ほど、
その前に起きていたという。
こうした推理は不謹慎かもしれないが、こちらで
起きた事件については、犯人が逮捕されるのは、時間の問題。
目撃者もいる。
しかしこんなことで自分の子どもが殺されようとは!
親の気持ちを察しようにも、察しようがない。
「無念」とか、「悔しい」とか、そういう言葉で表現できる
ような問題ではない。
どう表現したらよいのか?
いろいろ考えるが、適切な表現が、思い浮かばない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 9日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
http://bwhayashi2.fc2web.com/page019.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
今日・あれこれ】(5月10日、May 10th)
+++++++++++++++++
今日は、曇天。
天気予報によれば、今夜から明日にかけて、天気は下り坂。
明日は、全国的に、雨になりそうだという。
こんな話は、どうでもよい。
私の原稿を読んでくれる人に、申し訳ない。
ところで、無知ほど、恐ろしいものはない。
先日もあるショッピングセンターで、こんな光景を見かけた。
1人の幼児(5歳くらい)が、ソフトクリームを食べていた。
見たところ、その子どもの体重は、10キロ前後である。
そばに、両親と妹がいた。
「どうするのかな?」と思ってみていると、その幼児は、その
ソフトクリームをひとりで食べてしまった!
これには驚いた。
体重で換算すると、私は65キロだから、私が、6・5個分の
ソフトクリームを食べた量に等しい。
6・5個だぞ!
いくら甘党でも、6・5個は、食べられない。
食べたら、食欲どころが、気がヘンになる。
白砂糖が、いかに危険な食物であるかは、今さら、説明するまでもない。
昔から「白い麻薬」という。
これはネズミの実験だが、白砂糖を過剰に摂取すると、
過剰行動性にあわせて、もろもろの情緒障害、さらには脳水腫まで引き起こすことが
わかっている。
そうでなくとも、こういうものを日常的に与えておいて、
「うちの子は、小食です」はない。
「どうして落ち着きがないのでしょう」もない。
そういう意味で、無知ほど、恐ろしいものは、ない。
無知は罪悪である。
子どもの世界では、とくにそうである。
世の親たちよ、もう少し、賢くなろう!
●視線を合わせない?
自閉症児の症状のひとつに、「視線を合わせない」というのがある。
それは知っている。
しかし「視線を合わせないから、自閉症児」ということにはならない。
たとえて言うなら、風邪の症状に、「発熱」がある。
だからといって、「発熱があるから、風邪」ということにはならない。
ところで、ある子ども(4歳男児)が、ある専門機関で、「アスペルガー
(自閉症児)」と診断されたという。
理由をたずねると、「視線を合わせないから」ということらしい。
しかし私が見たところ、(この数年、4~5例のアスペルガー児の指導を
していることもあり)、アスペルガーではない。
(「アスペルガー」という言葉が、ポピュラーになったのは、2002年以後の
ことである。念のため。)
たぶんその専門機関では、何かの診断基準をもとに、そう診断したのだろう。
しかしそれにしても、????????。
私の世界では、「この子はアスペルガーです」というように診断名をくだすことは、
許されない。
しかし「この子はアスペルガーではないと思います」と言うのは、かまわない。
で、私はその親にこう言った。
「私が見たところ、アスペルガーではないと思います」と。
が、その子どもに問題がないわけではない。
それなりに問題があるから、親は、専門機関(?)に相談した。
私には、その子どもの診断名から、指導法、対処法まで、わかっている。
なぜそういう症状を示すかも、わかっている。
しかしそれを口にすることはできない。
親のほうから相談でもあれば、話は別だが、そうでないかぎり、
こちらから話題にすることもできない。
親だって、私に、そこまでは期待していない。
こういうケースのばあい、だまってその場を、やり過ごすしかない。
「どうぞ、ご勝手に!」とまでは思わないが、それに近いニヒリズムを
もたないと、この世界では、やっていかれない。
ついでにアスペルガーについて書いた記事を、いくつか添付します。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【アスペルガー障害】
++++++++++++++++++++
症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。
++++++++++++++++++++
【はやし浩司より、GN先生へ】
GN先生へ
拝復
お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)として
おきます。
私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からす
ると、T君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタ
イプと考えてよいのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導
で、症状がこじれてしまっている。私は、そう判断しました。
以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。
+++++++++++++
●文献より
【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】
自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」
と呼ぶ。
対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。
高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。
圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れ
なかったり、不器用であるため、孤立しやすくなる。
計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独
創性を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱され
たりすることに対して、著しく、攻撃的になる。
原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝
の要素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には
最新の注意が必要。
最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、
行動療法などの治療法がある。
【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】
アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持してい
るといわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特
定のものに対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。
また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。
特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こ
だわり、興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。
【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】
……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。
(1)社会性の問題
自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をす
れば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした
他人の感情を推し量るのが、非常に苦手。)
(2)コミュニケーションの問題
言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イン
トネーションの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)
(3)想像力の遅れ
1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。
これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー
症候群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しに
くいことをいう。
すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生
まれつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。
【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】
アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6~7歳に顕著になる。ほとんど
男児のみにみられる障害である。
言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や
容貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが
多い。
特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以
上と推定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。ま
た、多くの全体的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。
青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断
基準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。
治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶ
ん社会に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療に
おいても、社会福祉的な領域が重要になる。
……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、
それぞれの診断は困難である。
症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)
++++++++++++++++
●親自身の問題
こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているか
どうかということです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切
な対処法で、子どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話し
ません。
無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。
T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母
親が、かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、
じゅうぶん、考えられます。
T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところか
ら発生したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察
記録といった感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、
「うちの子は、生まれつきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容で
すね。
で、私の経験を話します。
●私の経験より
【U君(小3児)のケース】
U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知ら
れていないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児
科医のアスペルガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始め
たのは、90年代に
入ってからです。)
最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられません
でした。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。
(1)ほかの子どもと仲間になれない
そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、
結局は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、
軽い回避性障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからで
す。
(2)ずば抜けた算数の力
計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平
均児より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、
メチャメチャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通していま
す。こまかい作業が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になるこ
ともあります。
(3)極端な自己閉鎖性
U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありまし
た。(軽いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題
などで、まちがいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。
(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、
それを塗りつぶしてあったりしました。)
こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、
自己閉鎖性があったことになります。
幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。
ですからそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、
当時は、「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。
●治療は考えない
こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関
することは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。
「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半
年、あるいは1年単位で、様子をみる」です。
で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」と
か、「直そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよ
くなれば、すぐ無理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あ
とは、その繰りかえし。そんな感じがします。
U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という
言葉がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子ども
を指導してきました。
(最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)
その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいという
ことです。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、
それを利用し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせると
いうことはできます。
子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。
しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気
な態度のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを
指摘しただけで、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざ
いな態度で、「ウルセー」と、言い返してきたこともあります。
そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その
態度は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味
です。
先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が
書いてありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読む
と、担任の教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、
ここにあります。
子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつう
の態度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。
●親側の問題
で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりませ
ん。親というのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そうい
う母親がよく使う言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。
「うちの子は、生まれつき、こうです」と。
子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、
親を責めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているか
らです。懸命にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校
児です。
子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親は
パニック状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。
この無理が、症状を悪化させてしまいます。
たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。
で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪
ければ、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど
長期化しなくてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験し
てきました。
●年単位の観察を
先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちす
ぎるのではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単
位で、症状の推移をみていかなければなりません。
「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単
位、月単位の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したと
ころで、これまた意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があり
ます。
簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに
納得し、(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、
給食におおきなわだかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしま
うのです。
それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状
態にしてしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。
……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれ
てしまっていると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親が
それに納得し、指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった
記録がありません。
ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。し
かし、これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだ
してもらい、そうであると親自身が納得しなければなりません。
で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私
が指導してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知
らぬフリ」をして、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診
断名をくだすということは、絶対に、ありえません。またしてはなりません。
が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別で
す。そのときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しか
しそれまでは、知らぬフリ、です。
ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと
心配してきた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうこ
とは、しばしばあります。
●親の無知
で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。し
かしこれも、むずかしいですね。
最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞い
てみたのですが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知
り、がく然としたことがあります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。
つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガ
ー障害であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになっ
たのは、ここ5、6年のことですから……。
以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、
考えられます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会が
あれば、そっと遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。
あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の
微細障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」
な子どもがふえているのは、そのためだ、と。
あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。
では、今日は、これで失礼します。
長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。
ありが
とうございました。
敬具
はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●アスペルガー障害
【YKさんからのメールより】アスペルガー児について(補足)
++++++++++++++++++
アスペルガー児をおもちのNさんより、
YKさんに、意見が届いています。
あくまでも参考、ということで、ここに
掲載させていただきます。
もしASの心配があるなら、専門の診療
機関で、専門医による診断を受けてください。
++++++++++++++++++
【Nさんより、はやし浩司へ】
こんにちは。
私はこのYKさんの記事を読んで、ちょっとこのお子さんは発達障害の可能性があるので
はないかなと思いました。
もちろん確信はなく、発達障害の子どもを育てたことがある方だと、「ちょっと可能性があ
るかな」と思うくらいの程度でしかわかりません。2歳という年齢ですから、まだ判断す
るのは難しいのです。
でもよくアスペルガー症候群や、高機能自閉症の親のサイトでは、「外で癇癪が始まると激
しく騒いで、周りから白い目で見られたり親の躾(しつけ)がなっていないと怒鳴られた」
というような記事が出ていたりします。
発達障害を診断する医師は、このような、赤ちゃんから今までの様子なしでは診断できな
いと言われているくらい、発達過程での様子は大事なのです。
うちの息子も1歳くらいから、暑さ、寒さ、不快さ、などの理由で大泣きし寝転がって両
手両足を激しく動かして抱く事もできないような癇癪から始まり、2歳くらいでは、YK
さんのような理由での激しい癇癪が多かったです。電車の中でも、自分が思った通りでな
い事が起こると癇癪になったりしました。その当時はASなどの知識はなかったので、失
敗したなと思います。以下は私の感想です。
【YKさんからのメールより】生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあ
るほど、まとめて寝ない子で、起きている時間は抱っこして歩きまわらないと、グズって
ばかりの娘でした。
家の子の場合も、寝かせるのが本当に大変でした。眠いし、寝たいのに無理に目を開けて
いるのです。放っておくと午前1時でも寝ません。しかし、これはBed time storyの定着
でかなり解消されました。Ritualが好きで、それを一通り済ませる事で安心して寝られた
ようです。
【YKさんからのメールより】2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済
みません。着替えも、ちょっと手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れ
そうなほど引っ張って全部脱いでしまいます。
これは私は、OCとかOCDと言われるものが強い、つまりこだわりが強いからだと思い
ます。誰でも多少は持っています。しかし病的に近いものであると、手を洗うのがやめら
れない、この通りの順番でないと駄目、と社会生活に支障をきたしてきます。
OCである子どもの性格を変える事は出来ませんが、緩和する事は出来ます。それはその
習慣の連続性をたまに断ち切るのです。無理強いではなく、あくまで偶然という感じでで
す。
例えば石鹸を使わないと手を洗った気がせず、いつも石鹸で長い時間洗い続けている場合、
石鹸を求めてきたらそこにあればあげてもいいのですが、たまには石鹸を隠しておいて、
「そういえば買い忘れたからないわ。今度買っておくね、今日は水だけで洗おうね」とい
う感じでです。
一度か2度習慣を断ち切るうちに、その習慣性から抜け出す事が訓練されるようになりま
す。無理強いは駄目ですが、あくまでさりげなくです。服に関しては自分で着るのは良い
事で、やらせておいてもいいように思います。急いでいても親があせって着せてあげる必
要はないかもしれません。
いつも私は自分に言い聞かせているのは「5分待ってあげたら癇癪にならなかった。5分
待てなかったから癇癪になって半日潰れた。焦ったら駄目」という言葉です。
【YKさんからのメールより】三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、
購入して1週間で自分でこげるようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言っ
て横断歩道の真ん中でも足を踏ん張って動かなくなってしまいます。
多分、この子はお母さんが後ろを押すのが嫌なのではなくて、断りもなしに押されるのが
嫌なのだと思います。発達障害の子は、次に何が来るのか状況から判断するのが非常に苦
手なので、突然その出来事が降りかかったように思って驚いてしまうのです。だからお母
さんが一言、「押してあげようか?」と聞いたり、他の子を押している場面とか楽しい場面
を見せて「こうやって欲しい?」と聞いてあげれば、やりたいと言ったかもしれません。
【YKさんからのメールより】公園などでは順番や物の貸し借りのルールをすごく理解し
ています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どうぞ」と貸してあげ
られたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられないほど
暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。
社会規範、学校校則など、決まりごとはきちんと守るべきと捉え、その枠から少しも外れ
る事ができないのは息子も同じです。言葉を文字通りにしか受け取れないからです。
学校で「教室で私語をしてはいけません」と先生が言ったら、休み時間でも私語をしませ
ん。人とのルールも決まった通りにのみ動くと思っていて、そうでない人を軽蔑していま
す。しかし人間ですから、そうでない場合もあり、プレイセラピーなどを通して学んでい
くのが課題です。
【YKさんからのメールより】お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が
狂ったように泣き出しました。
さっきのと重複しますが、これも突然だったからではないでしょうか。「これこれしたらバ
イバイするけどいいかな?」と聞いて、本人が納得してからバイバイさせるとなんともな
くバイバイしたりします。出かける時も、例えば家族で食事の時、今日は映画見に行こう
か、なんて話していても、本人に「今日は何時に何の映画見に行くけどいいかな?」と確
認を取っておかないと、出かける時に「言われてない」と癇癪になったりしました。何で
も疑問形で聞くので母とかは「子どもの顔色伺ってる」と批判してきました。
【YKさんからのメールより】ここまで激しいと私まで泣きたくなります。
私もその気持ち、とてもよくわかります。何度も泣きました。
【YKさんからのメールより】相手が泣いていたりすると自分が悪いと思ってしまい、何
度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。
人間関係の相手の感情とか全く読めないので、目に見えるもの、涙とか怒った言葉の口調
などで自分が責められたと思う場合が多いみたいです。また聴覚過敏だと、声のトーンが
上がっただけで平手ビンタをくらって気持ちになるそうです。
【YKさんからのメールより】こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかっ
たように、いつもの太陽みたいな笑顔を見せてくれます。
そうです。まるでスイッチがオンになったり、オフになったりしたみたいです。
普通、気分悪かった事、恨みに思ったり、嫌な感情は、その事が過ぎてもなかなか忘れま
せん。忘れないからこそ、学習したり、次から気をつけたり、同じ事を同じ人にしないよ
うにします。でも発達障害の子の癇癪の場合、その間の記憶があまりはっきり残っていな
かったりする事もあります。
そして癇癪発作が治まると、まるで何事もなかったように、スイッチがオフになったよう
に普通の子に戻ります。もう少し年齢が進むと、フラッシュバックで再度癇癪発作になら
なければ、その理由を話させたり、聞き出す事も出来るようになります。
大切なのは学び続ける事だと思います。
自分の子どもがこういう個性を持って生まれてきて、さて、どうやったら社会で生きてい
かれるのか、レッテルを貼る事が必ずしもいいとも限りません。でも親だけはその子の特
性を十分理解してあげて、それに沿った援助をしてあげて欲しいと思います。
【はやし浩司よりNさんへ】
現在(07年2月)、私も、2人のアスペルガー児を、指導させていただいています。と
もに症状は軽いほうですが、診断基準通りの症状を示しています。
(1)他人と良好な人間関係が結べない。
(2)不器用。(文字、数字が、乱雑すぎて、読めないなど。)
(3)ともに、数の分野で、特異な才能を見せている。
(4)まちがいを指摘されると、パニック状態になる。
(5)キレた状態になると、突発的にかんしゃく発作的な症状を示す、など。
しかし私の今までの経験では、小学3、4年生ごろになると、症状が急速に収まってき
ます。ときに自己意識(=自分を客観的に判断して、自分で自分をコントロールする力)
が育ってくると、見た目には、わからなくなります。
私のように幼児期からその子どもを見ている者にはわかりますが、たとえば小学校の先
生などには、判断できないのではないかと思います。実際、学校の先生に、いつも「字が
汚い」と、叱られている子ども(小学高学年児)もいます。(叱ったところで、どうにかな
る問題ではないのですが……。)
もちろん、親の前で、「アスペルガー」という診断名を口にすることは、タブー中のタブ
ーです。しかしその子どもから、ときどき、そういうケアセンター(名称は、いろいろで
す)で、指導を受けているという話を聞き、そのように診断されているということを、私
は知ります。
(親のほうから、診断名を言うということは、めったにありませんので……。私のばあ
いは、知っていても、知らぬフリをして、指導しています。)
発達障害児の問題は、その子ども自身に問題があるというよりは、親自身にその知識と
理解がなく、強引な指導などにより、症状をこじらせてしまうところにあります。ADH
D児についても、同じです。
早期に、それと知り、適切な指導で、症状をこじらせないことこそ、重要です。あとは、
ここにも書きましたように、(時)を待ちます。根気のいる作業ですが、終わってみると、
「何だ、こんなことだったのか」という状態になります。
ただ小学3、4年生になったから、症状が消えるということではありません。中学生、
高校生になっても、症状は残ります。(ADHD児も同じです。)が、「注意してみれば、わ
かる」といった程度まで、症状は、わかりにくくなります。またそうなるよう、指導をつ
づけます。
現在指導している、A君(小学高学年児)にしても、そういう子どもであるという前提
で、指導しています。いろいろ問題点はありますが、A君自身でもどうにもならないこと
だとあきらめ、私のほうが、先に手を引くようにしています。たとえばまちがいを指摘し
ない、字が乱暴なのを責めないなど。
こまごまと、追いつめないのが、指導のコツです。
ともかくも、私は、実のところ、乳幼児期(0~3、4歳児)については、ほとんどと
いってよいほど、知識も、また指導の経験もありません。貴重なご意見、たいへんありが
とうございました。
++++++++++++++++
YKさんからの相談(掲示板への
書き込み)を、再度、ここに転載
させていただきます。
++++++++++++++++
【YKさんより、はやし浩司へ】
生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝
る環境作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩
きまわらないと、グズってばかりの娘でした。
寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、
至って健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。
好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、
怒ると手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかります
が、幼い頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。
でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいい
か分からなくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反
抗期+何でも自分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長
に接していました。
赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシ
ップはたっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わが
まま」と「頑固」の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのか
なぁと思い、相談させていただこうと思いました。
2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと
手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱い
でしまいます。
もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合
ってあげて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だ
からどうがんばっても無理なこともいっぱいあります・・・。
三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげる
ようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏
ん張って動かなくなってしまいます。
また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し
借りのルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもち
ゃを「どうぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重な
ると、手がつけられないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。
以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃく
を起こしたときの激しさが、ほんとにすごいんです。
今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分の
おもちゃは貸さない!と言って、すぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり
眠
たそうで機嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が
狂ったように泣き出しました。
「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとする
から、阻止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激
しく暴れるので何度も道路や壁に頭を打って大変でした。
パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまい
ます。室内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせて
あげて、落ち着き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれ
て、笑顔を見せてくれるます。
が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつ
までたっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘し
なきゃいけないことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るとい
うのを通り越して、どこか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配
されたりします。
1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる
子だったので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激し
いと私まで泣きたくなります。
「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪い
と思ってしまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いの
で、自分が今遊びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないもの
をきっちり選んで貸してあげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。
こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたい
な笑顔を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き~」と言ってく
れます。「イヤイヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、
反抗期が激しいのはいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばし
てあげるにはどう接していけばいいのでしょうか?
うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろ
しくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
アスペルガー 発達障害)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 6日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
http://bwhayashi2.fc2web.com/page018.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【雑感集】
●愛国心(Exaggerated Nationalism)
●今朝・あれこれ(5月2日)
+++++++++++++++++
朝、起きる。
パソコンの電源を入れる。
Eメールをのぞいたあと、
いくつかのニュース・サイトをのぞく。
5月1日から、またまたガソリンの
暫定税率が復活した。
「暫定」というのは、「一時的」という意味。
これから先、政府(=官僚)が、「暫定」という
言葉を使っても、私はもう信用しないぞ。
そのこともあって、福田内閣の支持率は、
急落。
日経世論調査によれば、「21%」にまで、
さがったという(5月2日)。
問題は、利権にからんで、官僚の手先と
なって動く、族議員たち。
ああいう連中が、金(マネー)の力に
もの言わせて、日本の進むべき道を
狂わせてしまう。
この無力感。
この脱力感。
また、中国では、反フランス運動が、
燃えさかっているという。
ああいうのを日本から見ていると、
愛国心とは何か、改めて考えさせられる。
アインシュタインは、「誇張された民族主義
(exaggerated nationalism)こそ、危険」と
書いている(TK先生への私信)。
狂ったように騒ぐだけで、そこにある事実を
見ようともしない。
チベットは中国の領土だと叫び、ついで、
その中国を批判するフランスに抗議を
繰りかえす。
みなでワーワーと叫んで、自分たちの
都合のよいように、事実をゆがめてしまう。
これをファシズムと呼ばずして、何という?
++++++++++++++++
●糖尿病
現在、糖尿病患者、もしくはその予備軍の人が、1000万人
近くもいるという。
私の年代、つまり60歳以上になると、約30%の人が、
糖尿病患者、もしくはその予備軍だそうだ(5月1日、昼のニュース番組より)。
(ここにあげた数字は、聞き覚えなので、正確ではない。)
たいへん静かな病気で、それ故に、軽くみられがちだが、
糖尿病は、けっして、軽い病気ではない。
徐々に、体がむしばまれていく。
足の先が壊死したり、失明したりすることもあるそうだ。
私は、そのニュースを見たとき、ゾーッとした。
壊死した人の足の写真が、脳裏にペタリと張りついてしまった。
で、そのあと、そのままサイクリングに出かけた。
気分を変えるには、サイクリングがいちばんよい。
おかげで今は、気分爽快。
少し眠気が残っているが、それもどこか、心地よい。
……ということで、今日は、何かと忙しかった。
明日、二男夫婦が、アメリカから帰ってくる。
その準備に追われた。
ほっと一息ついたのが、昼ごろ。
それから仕事の準備。
プリントを印刷して、教材の整理。
で、今は、こうして教室のパソコンの前で、この原稿を書いている。
あと10~20分もすれば、子どもたちの声が聞こえるはず。
今日も、がんばろう!
●66歳の死
近所の、N氏(男性)という方が、数日前に亡くなった。
66歳だった。
「つい先日まで元気だったのに……」と、ワイフは言った。
「66歳じゃあ、若すぎるよ」と私。
そう、若すぎる。
若い人たちは、「50歳」と聞くと、
ジジイと思うかもしれない。
「60歳」と聞いたら、なおさらだ。
しかし自分が、その60歳になってみると、
ジジイという感覚は、ない。
まったく、ない。
バリバリの現役というわけでもないが、
現役は、現役。
以前、Nペイントという会社で、会計監査役をしていた
T氏という人が、こう言った。
「私がいちばん仕事ができたのは、60代の
ときでした」「林さん、あなたは、まだ若い」「これからですよ」と。
そのときT氏は、75歳くらい、私は、55歳くらいだった。
だから「若すぎる」と、私は思う。
が、N氏との思い出は、あまりない。
しかしワイフは、N氏のことをよく覚えている。
ワイフは、町内の仕事を、いっしょにしたことがある。
だから余計にショックだったのだろう。
通夜にいったときも、今日、出棺で見送ったあとも、
ずっとN氏の話ばかりをしていた。
つぎは私かも……と考えて、この話はおしまい。
死んだ人の話は、いつも気が滅入る。
●「K」という宗教団体
街の中心部に、8階建てのビルがある。
その7階に、「K」という宗教団体の、浜松支部が、入居している。
知らなかった。
で、先日、その「K」という宗教団体の部屋へ、迷い込んでしまった。
同じフロアで、事務所を構えている友人に会うつもりだった。
一見して、「K」とわかった。
(あの人)の肖像画が、中央に、大きく飾られていた。
が、入ってみて、驚いた。
実に、みな、なごやかで、楽しそうだった。
7~8人の男女が、輪をつくって、何やら袋づめの作業をしていた。
その向こうでは、別の数人が、印刷物の整理をしていた。
「あのうXという事務所をさがしているのですが……」と声をかけると、
即座に数人がたちあがり、「こっちです」「こっちです」と。
言い忘れたが、その部屋の表札には、どこにも「K」という名前はなかった。
「~~ビジネス・グル~プ」(仮称)とかいうような表札がかかっていた。
それでまちがえた。
で、私が、「ここは、あのK、ですか……?」と声をかけると、
何ら躊躇(ちゅうちょ)する様子もなく、みなが「そうです」と言って、笑った。
明るい声だった。
プラス、私のような珍客(?)が、よほどうれしかったのだろう。
部屋を出ようとしたところで、ひとりが、こう言った。
「よかったら、お茶でもどうですか? これも縁ですから」と。
私は断ったが、しかし、彼らがもつ温もりというか、なごやかさに、
たまらないほどの(なつかしさ)を感じた。
(温もり)というか、(やさしさ)を感じた。
一時は、その「K」も強引な勧誘方法が問題になったことがある。
しかし私が見たところでは、そういう様子は、まったくなかった。
で、こうした宗教団体の魅力はといえば、その(親近感)にある。
入信したとたん、信者どうしが、家族以上の家族になる。
孤独感が、そのままどこかへ消えてしまう。
それがこうした宗教団体のもつ、魅力ということになる。
が、だからといって、「K」が、すばらしい団体と言っているのではない。
私が言いたいのは、どんな宗教団体にせよ、それを求める
信者がいるから、そこに存在するということ。
宗教団体があるから、信者がいるのではない。
信者が求めるから、そこに宗教団体が存在する。
だから宗教団体を、たとえばその反社会的行為を理由に、
叩いても意味はない。
よい例が、あの「O真理教」である。
仮に解散させたところで、信者たちは、また別の教団を求めて、
さまよい歩くだけ。
もっと言えば、ハシゴをはずすことくらいなら、だれにだってできる。
ハシゴをはずしたら、それに代わるものを用意してやらなければならない。
それをしないで、ハシゴだけをはずせば、困るのは信者、ということになる。
たまたま今日、再びそのビルに足を踏み入れた。
1階にあるレストランに行ったついでに、友人の事務所を訪ねてみた。
で、「K」という宗教団体のことを思い出した。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●5月3日(土曜日)
Mr. C. Hill has betrayed Japan many times and now he is going to betray us again. The
only one choice that Japan should take is that we retreat from the 6 Nation Coference
but very sadly we do not have such a diplomatic ablility and power. We can do nothing
but to follow the US foreign policy.
++++++++++++++++
「何でも、先取り!」
……それが今の私たち夫婦の、合い言葉。
したいこと、できること、それがあれば、
何でも、先手、先手で、していく。
けっして、あと回しにしない。
……ということで、今日も、忙しかった。
(今は、夕刻に近い、午後3時45分。)
これから夜にかけて、2つほど、
しなければならないことがある。
++++++++++++++++
●ヒル国務次官補の裏切り
「既存の核爆弾(核弾頭)については、不問」、
「拉致問題は、棚上げにした上、テロ国家指定を解除」。
これがライス→ヒルの出した、6か国協議の筋道。
ブッシュ大統領については、どう考えているのか、イマイチ、よくわからない。
それだけの思考力、判断力は、もう、ないのでは?
こんなバカげた6か国協議なら、日本は、今すぐ6か国協議から脱退したらよい。
出席を保留したらよい。
しかし悲しいかな、今の日本には、それだけの度胸も外交力もない。
これから先、日本は、K国の核兵器の影におびえながら、
ビクビクして生きていくしかない。
裏切られても、裏切られても、アメリカに追従するしかない。
ライス→ヒルは、韓国のノ前大統領の包容政策とやらに、
まんまと乗せられてしまった。
今さら、引くに引けない状態になってしまった。
それを受けて、金大中元大統領は、先月(08年4月)、アメリカで、
「韓国は、太陽政策を維持することになる」と発言。
では、日本は、どうすべきなのか?
原点に立ち返って、もう一度、考えてみよう。
K国のねらいは、ズバリ、「米朝平和条約」。
あるいはそれに準ずる、2か国条約。
これさえ結べば、日本など、もうこわくはない。
アメリカ本土さえ攻撃しなければ、K国は、日本に対して好き勝手なことができる。
核爆弾で、日本を脅しながら、補償金を、いくらでも手に入れることができる。
現に、K国は、中国を介して、その補償金額を打診してきている。
その金額にくらべたら、アメリカや韓国が用意している援助額など、
小遣いにもならない。
今ごろ日本の外務省は、「核爆弾を不問にするなどとは、もってのほか!」と、
アメリカに、内部で、抗議をしつづけているはず。
しかしその「力」は弱い。
「声」は届かない。
アメリカにしてみれば、「どうして日本を守らなければならないのか」となる。
アメリカ軍の基地が移動するたびに、「反米」「反米」の大合唱。
アメリカ兵が犯罪を犯すたびに、「基地撤退」の大合唱。
おまけに、歴代防衛大臣、外務大臣の失言につづく、失言。
韓国についても、同じ。
今年、K国は、10年ぶりという、大飢饉に見舞われている。
日本にとって最善のシナリオは、K国が、自己崩壊すること。
それがまた、K国の人たちにとっても最善である。
この際、日本は、もうアメリカに遠慮することはない。
6か国協議をノラリクラリとかわしながら、時間稼ぎをすればよい。
静かにその「時」がくるのを、待てばよい。
●介護、現在の「おば捨て山」?
We do not abandon caring old parents but we do not have any choide but send them to
care centers where they are cared by professionals.
老人介護施設を、「現在のおば捨て山」(民主党)と批評した人がいた。
称して、「おば捨て山」論。
たしかにそういう側面はあるが、そう言い切るのは、ちょっと待ってほしい。
私も母を自宅で6か月間、介護したが、いつも事故と、隣りあわせだった。
「あわや!」と思われるような事故も、3度あった。
しかしいくら事故でも、自宅で、それは起きてほしくはない。
後味の悪い思いは、一生、残る。
で、実際、表にはあまり出てこないが、実際、事故で親をなくした人も、多いはず。
「朝起きたら、死んでいました」
「縁側で、眠るように死んでいました」
「農作業をしていて、そこで倒れて死にました」とか、など。
介護といっても、素人には、無理。
介護度が、「4」とか「5」になれば、なおさらである。
現在、私の母は、寝たきりで、寝返りもうつことができない。
そうなったとき、家族は、どうやって、親の介護をつづければよいのか?
できるのか?
やはりプロ集団で構成される、養護施設の世話になるしかない。
費用だって、かなりの額になる。
それを「捨てた」と言われると、少なからず、反発心を覚える。
むしろ事実は逆。
今ほど、豪華で、きめこまかい介護制度は必要ないとしても、
老人たちが、最期のときを迎える施設を、もっと拡充すべきではないのか。
「おば捨て山」とは言うものの、その「山」に入居させられなくて困っている
家族は、ゴマンといる。
入居させられるだけでも、御の字。
これは介護老人をかかえる家族の問題というよりは、私たち自身の問題でもある。
あなた自身も、やがてすぐ、その介護老人になる。
もし今、あなたが、「私の老後はだいじょうぶ」「息子や娘たちが、めんどうを
みてくれるはず」「年金も財産もたっぷりとあるから、心配ない」と
思っているとしたら、それは幻想以外の何ものでもない。
そういう視点で、今、一度、「おば捨て山」論を、考えなおしてみてほしい。
●失敗した大統領
All congressmen including the Prime minister and Minsiters should receive brain-exam
and they should announce the result officially.
韓国の中央N報は、N前大統領について、たいへん興味深い、記事を載せている。
以下、中央N報(08年5月3日)の記事より、抜粋。
++++++++++++++以下、中央N報より++++++++++++++
「盧武鉉(ノ・ムヒョン)は世の中は変えようとしながらも、自分自身は変えようとしな
かった。 結局、コンプレックスの頚木から脱することができなかったのだ。 これが人間、
盧武鉉の限界だった」--。
(中略)
大統領のリーダーシップの特性を個人的コンプレックス(劣等感・強迫観念)に基づいて
分析した金教授は、「貧しい農家の息子として生まれたという盧武鉉のコンプレックスは、
彼を成就欲と権力意志に燃える極めて特別な人間に作り、結局、最高権力を握るようにな
った」と評価した。
しかし金教授は「一人で熾烈な大統領選の戦いに勝ったという、勝負師的な優越感が、盧
武鉉を傲慢と独善の罠に陥れ、特に弾劾の屈辱を受けたことで、癒しがたい心理的な内傷
を負ってしまった」と述べた。
金教授は弾劾コンプレックスの症状で、「統治権をじゅうりんされたという、屈辱感に勝
てず、すぐに自制力を失って興奮するようになった」と指摘した。
金教授の分析によると、大統領のコンプレックスが激しければ、人事が感性的排他性を帯
び、政権自体が集団コンプレックス症候群を表すという。 さらに道徳的優越意識と理念的
偏狭性が加われば、国政運営が一方向に向かう。
金教授は盧武鉉政権の▽不動産政策▽過去史真相究明▽記者室閉鎖--などを、代表的
事
例に挙げた。
+++++++++++++以上、中央N報の記事++++++++++++++++
N前大統領については、こうした意見は、その当初からよく聞かれた。
N前大統領の父親は、労働組合の幹部だった。
N前大統領は、その労働組合の顧問弁護士をしていた。
N前大統領が生まれ育った環境は、「自分たちが苦しい生活をしているのは、
日本のせいだ。アメリカのせいだ」と考えても、何らおかしくない世界だった。
金教授の意見に沿って、もう一度、N前大統領の特徴を整理してみる。
(1)世の中は変えようとしながらも、自分自身は変えようとしなかった。
(2)結局、コンプレックスの頚木から脱することができなかった
(3)そのコンプレックスは、彼を成就欲と権力意志に燃える極めて特別な人間に作った。
(4)一人で熾烈な大統領選の戦いに勝ったという、勝負師的な優越感をもった。
(5)それがN前大統領を傲慢と独善の罠に陥れた。
(6)特に弾劾の屈辱を受けたことで、癒しがたい心理的な内傷を負った。
(7)その屈辱感に勝てず、すぐに自制力を失って興奮するようになった。
(8)人事が感性的排他性を帯びるようになった。
(9)すぐに自制力を失って興奮するようになった。
その結果、
(1)人事が排他性を帯び、政権自体が集団コンプレックス症候群を表すことになった。
(2)それに道徳的優越意識と理念的偏狭性が加わり、国政運営が一方向に向かった、と。
が、私は、もうひとつ、これにN前大統領の、(脳の病気)をつけ加えたい。
退任してからわかったことだが、現在、N大統領は、「オリーブ橋小脳萎縮症」
という難病を患っている。
そのため「国軍ソウル地区病院に入院しているが、病状はかなり重い」(中央N報)
とのこと。
退任してまだ4か月にもならない。
韓国の人ならずとも、この事実には、ゾッとしたにちがいない。
「オリーブ橋小脳萎縮症」の人が、どうこう言うのではない。
そういう人が、大統領という要職についていたことに、だ。
(それとも退任したとたん、その病気を患ったということか?)
現職のときから、N前大統領の言動は、どこか不自然だった。
「過去の真相究明」と称して、戦前に日本軍に協力した子孫から、財産を
没収したのも、その一つ。
不動産政策にしては、常識では考えられないほど、メチャメチャ。
それに使う言葉にしても、日本に対して、「いい気になるな」とか、何とか。
ヤクザ言葉の連発。
また中央N報は、「一人で熾烈な大統領選の戦いに勝った」と書いているが、
N前大統領が大統領選に勝ったのは、まさにハプニング。
女子学生が、アメリカ軍に車両にひき逃げされるという事件が、味方した。
そうした事実も、N前大統領は、理解できなかったようだ。
最後に、金教授は、こう述べている。
「成長期の体験で始まったコンプレックスが、成就欲と権力意志を芽生えさせるが、最高
権力者になった後にもコンプレックスにとらわれる人は、失敗する指導者になる」(中央N
報)と。
そこで提案。
少なくとも国会議員以上の要職にある人は、(あるいはそれにつく人は)、
脳の検査を、徹底的にし、かつそれを公表すべきである。
総理大臣職や大臣職については、言うにおよばず。
ぜひ、実行してもらいたい……というようなことを、この中央N報の記事を
読みながら、考えた。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●円高? 円安?
+++++++++++++++++
外国債券は、当然のことながら、
為替変動の影響を、モロに受ける。
円高に向かえば、外国債券は、損失を生む。
円安に向かえば、外国債券は、利益を生む。
今日、5月3日、1ドルは、105円70銭
まで、円安になっている。
一時は、95円近くまで、円高になった。
私もいくらか外国債券を購入している。
が、95円近くにまでなったときは、さすがの私も(?)、
少なからず、肝を冷やした。
「どこまで円高になるのか?」
「早めに債権を手放すべきなのか?」
「塩漬けにすべきなのか?」と。
そういうときは、私のばあい、こうしている。
日本へやてくる外人に、
「日本の物価をどう思いますか?」と聞く。
そのとき、「日本の物価は高い」とみなが言えば、
円は、円安に向かう。
「日本の物価は安い」とみなが言えば、
円は、円高に向かう。
で、2、3週間ほど前、フランスから一時帰国した
Sさんにも、そう聞いた。
Sさんは、こう言った。
「日本の物価は、高いです。とくに食料品が
高いです」と。
私は驚いた。
「フランスでは、パリでも、電車の初乗り(一区間)
が、1000円」という話を聞いていたからだ。
日本では、250円程度。
つまりこれだけでも、日本の円は、フランスの4分の1
の価値しかない……つまり、円高に向かうのは確実!
それについても、Sさんは、こう言った。
「それはウソです。ブルターニュからパリまで、4時間半
ほどかかります。弾丸列車で行っても、8000円前後
です」と。
もしこの日本で新幹線に、4時間半も乗れば、東京から
広島(4時間11分)あたりまで行くことができる。
料金は、東京→広島間で、1万8750円。
Sさんは、「フランスの交通費は安いです」と言うが、
それでも、日本は、フランスの約2倍。
つまり近い将来、日本は、確実に円安に進む。
……ということで、そのときは、「今、しばらく塩漬け」という
のを選択した。
連休明けにはどうなるか?
それは私にもわからない。
が、今日、105円70銭にまで円安になったということは、
私の判断はまちがっていなかったことになる。
つまり、円高、円安については、日本へやってくる外国人に
直接聞くのが、いちばん、よい。
(これは私という、1人のド素人の為替判断なので、
どうか、あまり参考にしないでほしい。)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●一人前のジイ様
私もやっと一人前のジイ様になった。
孫の手を引いて、祭の人混みの中を歩いているとき、ふと、そう感じた。
「いやだなあ……」と思った。
が、つぎの瞬間、遠い昔、祖父の手に引かれて、祭の人混みの中を歩いたのを思い出した。
その(温もり)が、反対に、孫の手から私の手へと伝わっているのを感じた。
「そういうものかなあ……」と思った。
『子どもは父になり、そして祖父になる。
最後に、祖父は、孫に還(かえ)る』(スーパーマン・リターンズの中のセリフより改変)
●アカハラ
またまた新しい言葉。
「アカハラ」。
「アカデミック・ハラスメント」を略して、「アカハラ」という。
大学など、知的学習環境の場でのハラスメントを総称して、「アカハラ」という。
セクシュアル・ハラスメント、教官による暴力行為なども、その中に含まれる。
しかしこうした「ハラスメント」などというものは、どこにでもある。
学校……「スクール・ハラスメント」、略して、「スクハラ」。
仕事……「ビジネス・ハラスメント」、略して、「ビジハラ」。
家庭……「ホーム・ハラスメント」、略して、「ホムハラ」など。
最近は、こうした言葉の氾らんについていくだけで、精一杯。
新しい言葉が出るたびに、あちこちのサイトを調べる。
頭にたたき込む。
●自殺(Suiside)
++++++++++++++++++++
自殺をする人というのは、
考えながらする、……というよりは、
かなり衝動的にするのではないか。
もちろん中には、絶望感や孤独感が引き金となって、
自殺に走る人もいる。
事業の失敗や、健康問題、人間関係の行き詰まりなども、それに含まれる。
しかしこういうケースをのぞけば、
つまり多くの若い人たちの自殺について言えば、
その多くは、衝動的な自殺と考えてよい。
考えている間は、自殺など、できない。
わかりやすく言えば、悶々としていたところへ、何かの刺激が
加わり、カッとなって、そのまま自殺に突っ走ってしまう。
そのとき、頭の中は、真っ白。
見えるのは、その先の安穏の世界(?)だけ。
「死ねば楽になる」というよりは、
生きていることそのものを、精算したくなる。
あるいは自殺を美化することもある。
若い人にとっては、自殺そのものが、自己主張のひとつで
あると言われるのは、そんなところに理由がある。
そのことは、残された遺書を見ればわかる。
「贖罪(しょくざい)のため」と説く学者もいる。
しかし実際には、それほどむずかしい意味はない。
簡単に言えば、自分自身をヒーロー化し、死そのものを
ドラマ化する。
そういう若い人たちの自殺は別として、自殺を試みる人は、
それによって、体中に巻きついた無数の糸から、
自分を解放しようとする。
理由など、ほとんど、ない。
あっても、正常な人(?)から見れば、
何でもない理由であることが多い。
だからたいていの人は、こう言う。
「どうして?」
「自殺する必要などなかったのに……」と。
しかしだからといって、自殺する人を
責めてはいけない。
その人はその人なりに、苦しみ、もがく。
その結果として、「死」を選択する。
では、どうすれば、その人の自殺を防ぐことが
できるか。
私の印象では、(あくまでも印象だが)、
だれかと一本でも、糸、それがどんなに細い糸でも
かまわないが、その糸でつながっていれば、自殺するのを、
最後の最後のところで、思いとどまることができる。
その糸が切れたとき、その人に残された
道は、ただひとつということになる。
ただ先ほど、「若い人の……」と書いたが、
実際には、50代、60代の自殺がふえている。
私の年代である。
私自身も、その予備軍の1人かもしれない。
この年代になると、暗い曇天が、行く手をおおう。
言いようのない不安感。
言いようのない焦燥感。
そのためちょっとした悩みが、そのまま絶望感へと
結びつきやすい。
若いときは、「明日がある」と思うことで、希望を、
その明日につなげることができる。
しかしこの年代になると、その明日が、ない!
その切迫感が、その人の視野を狭めてしまう。
袋小路へと、追いつめてしまう。
うつ病がそれに加われば、なおさらである。
数は知らないが、この時期、初老性のうつ病になる人は、多い。
転職、退職、配偶者との離別、家族の病気などなど。
それらがきっかけで、落ちこんでしまう。
しかし結論から先に言えば、「自殺をしたい」と思うこと自体、
心の病気と考える。
自殺を考えたり、自殺を試みる動物はいない。
同じように、人間も、本来の人間であれば、自殺を考えたり、
試みたりすることはない。
……という前提で、ものを考える。
「死にたい」と考えたら、「これは病気」と思いなおして、
心療内科の門を、気軽にくぐったらよい。
むずかしく考えることはない。
子どもが「死」を口にしたときも、また同じ。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●誠司に、Japanese Englishを教える。
+++++++++++++++++
孫の誠司に、今日、車の中で、
Japanese Englishを
教えた。
「ジス・イズ・ア・トラック」と。
すると誠司は、わかったのかどうか、知らないが、
「※PHTX※〃???、トラック」と言った。
私「そうだ、それでいい。日本では、Japanese English
を話す」
誠「ト・ラツ・ク……」
私「いいか、アメリカ英語は、英語ではない。いいな?」
誠「ハハ~ン?」と。
アメリカ英語をペラペラと話す子どもに、Japanese English
を、わざわざ教える教師はいない。
しかし私は、その教師。
さっそく、動画に撮り、ビデオ編集をしてみる。
興味のある方は、(はやし浩司のHP)より、(朗読でごあいさつ)へ、どうぞ!
●富士山に登る
二男夫婦のために、バス旅行を用意した。
しかし「行けない」というので、私たち夫婦が、代わりに、行ってきた。
「2歳の芽衣を連れていくのは、無理」と言った。
富士山は、五合目まで登った。
雪が、積もっているというほどでもないが、たっぷりと残っていた。
温度計を見ると、22度。
寒くもなく、暑くもなく、ちょうどよかった。
目の前に、富士山。
ちょうど台湾か、中国本土からの旅行客といっしょになった。
北京語だと思う。
マンドリン(広東語)ではない。
だから、そう思った。
陽気な人たちで、たがいに写真を取りあいながら、キャッキャッとはしゃいでいた。
台湾から来た人……どこか人なつっこく、やさしい。
中国本土から人……どこか服装が独特。足がスラリと伸びている。
あと、周辺の観光地を、いくつか回った。
今の状態……疲れた!
その一言。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 4日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
*******************************1000号
今回をもちまして、マガジンが、1000号を達成しました!
みなさんの今までの暖かい、励まし、応援に心から感謝しています。
ありがとうございました!
1000号********************************
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
http://bwhayashi2.fc2web.com/page017.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)
++++++++++++++++++++
今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。
+++++++++++++++++++++
●庭のスズメ
たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。
で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。
その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3~4秒もかからないのでは
ないか?
そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。
そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。
つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3~4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3~4秒である。
が、これで驚いてはいけない。
●ハエは、音速の3倍以上!
ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7~8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。
そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ~ンと飛べば、7~8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。
その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!
この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。
前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。
●マウスは、人間の100倍!
・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。
同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。
だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。
●幼児の世界でも
実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。
で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3~4分に相当する。
おとなが3~4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。
「アウ~、それでエ~、エ~ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。
反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。
そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。
長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。
つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!
この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。
余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。
●脳みそのクロック数
ついでに……。
宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。
あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。
そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。
・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。
脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。
たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。
が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。
情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。
俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。
仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。
全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。
だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。
ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。
(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。
そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。
恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。
東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。
先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。
●最後に・・・
脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。
しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。
言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。
そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。
今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。
知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。
だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。
それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。
(付記)
実は、昨日(4月30日)、私は携帯電話を、W社の携帯端末機から、
E社携帯端末機に変更した。
この世界では、「スマートフォン」と呼ぶ。
携帯電話にパソコン機能がついた機種である。
で、そのとき、言いようのない不安感が私を襲った。
「私に使いこなせるだろうか」という不安感である。
この3~4年の間に、スマートフォンの世界も、格段に進化した。
今度のは、無線LAN、BLUETOOTH、さらにGPS付き!
どこか分厚い説明書を手にしたとき、多量のアドレナリンが、
脳内で分泌されるのを感じた。
が、そのとき、こうも思った。
「同じ人間が作ったもの。私にできないはずはない」と。
それから家に帰って、悪戦苦闘すること、1、2時間。
が、そのうちEメールの送受信まで、何とかできるようになった。
で、そのとき、こんなことに気づいた。
精神状態が、きわめて不安定になっていた。
これは、おそらくそれまで使ったことのない脳みそを使ったために起きた
現象ではないか。
脳みその神経細胞から、新しいシナプスが伸びるときに起きる現象とも
考えられる。
子どもでも、まったく新しい分野の問題を与えたとき、
同じような反応を示す子どもがいる。
問題を解くとき、イライラした様子をして見せる。
中にはピリピリして、一触即発のような状態になる子どももいる。
私も、同じような状態になった。
と、同時に、こうも思った。
「こういうのも、ボケ防止にはよいのでは」と。
E社のスマートフォンは、この3月に新発売になったばかりのもの。
少し高い出費になったが、ボケ防止のためと思えば、安い(?)。
そう思って、自分を納得させた。
プラス、楽しかった。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●他人の不幸を酒の肴(さかな)にする人(Those who enjoy other men's unhappiness)
++++++++++++++++++++++
H県のKさん(女性)から、メールが届いた。
この数年、ときどき、メールをもらう。
そのKさんが、こんなことを書いている。
前回もらったメールと合わせて、要約させてもらう。
『G県の人たちの親絶対教も、すごいようですが、
ここH県も、すごいです。
親どころか、叔父、叔母、伯父、伯母、みなそうです。
いとこでも、たった1、2歳年長というだけで、
年長風を吹かします。
そんな中、いとこの一人が、ときどき私の実家をのぞいては、
電話をしてきます。
(Kさんの母親は、5年前に他界。現在、Kさんの父親と、
Kさんの兄の2人が、実家に住んでいる。
その長男のほうに、このところ認知症の症状が出てきたという。
父親は、今年、満85歳。)
たいていは、「あなたの夢を見たから」とか、
「こんど用事で、そちらへ行くことになったから」と、
理由にもならない理由を並べて、電話をかけてきます。
そしてあれこれ、私に説教をします。
「いくら家を出た娘でも、子は子なのだから、親の
めんどうをみる義務がある」とか、何とか。
つい先日も、「おじちゃん(=私の父親)が、骨折して
入院したぞ」と、さも、イヤミたっぷりに電話をかけてきました。
そこで私が、「3日前に病院へ見舞いに行ってきましたから
知っています」と答えると、「エッ、そう? ハハハ、
そう?」と、とぼけていました。
そのいとこは、私や実家のことを心配して、電話して
くるのではないのですね。
いやな性格の人で、私たちの苦労や、不幸が楽しくて
ならないといったふうです。
恐らくどこか別のところでは、私たちの話を、酒の肴(さかな)にして、
楽しんでいるのでしょう。
が、親類は親類ということで、関係を切ることができません。
年賀状を出すときも、そのいとこのは、最後の最後に書きます。
宛名を書くだけでも、手が固まるほど、不愉快です。
先生(=私のこと)は、年賀状の停止宣言をしたと聞いていますが、私も
来年からは、そうします。
今年の年賀状の末尾に、「来年からは、年賀状は遠慮させていただきます」と
書きました。
末尾ながら、どうして日本人は、こうまで「血」にこだわる
民族なのでしょうか。
どうか、こうしたおかしな民族性と、もっと闘ってください。
よろしくお願いします』と。
++++++++++++++++++++
私にも似たような経験がある。
「浩司君、今朝、君の夢を見たよ。元気か?」などと言って、
電話をかけてくる。
たまたまそのときは、書斎にこもって、仕事をしていた。
あわてて電話機のある居間までおりていくと、そう言った。
で、そのときは、思わず、こう言ってしまった。
「そんなことで、いちいち電話なんか、しないでほしい」と。
それほど親しくない、いとこである。
(相手は、親しいと思っているかもしれないが……。
ジコチューな人には、それがわからない。)
私には、こんな鉄則がある。
それがどんな問題であるにせよ、相手のほうから相談してくる
まで、家庭問題には、干渉しない。
それぞれの家庭には、それぞれの問題がある。
外からはぜったいにわからない、問題がある。
一方の当事者の話だけを聞いて、安易な判断をすることは、
たいへん危険なことでもある。
加えて、こんな鉄則も。
『口を出すなら、金を出せ』と。
これは私の祖父がよく言っていた言葉である。
つまり「金を出すくらいの覚悟があるなら、口を出せ」と。
あるいはこういうふうにも、解釈できる。
「口を出すくらいのことなら、だれにでもできる」と。
が、年長風を吹かす人には、それがわからない。
Kさんの親類のように、たった1~2歳、年上というだけで、
(偉そうなこと)を言う。
で、そういうときのもうひとつの鉄則は、これ。
『相手にしない』。
こうした権威主義は、その人にとっては、カルトのようにも
なっている。
争ったり、説得しても、無駄。
その人は、その人として認めた上で、相手にしない。
大切なことは、こうした日本人独特の悪しき風習は、
つぎの世代には、伝えないこと。
私たちの代で、止めること。
欧米には、こうした権威主義そのものが存在しない。
親子でも、兄弟姉妹でも、名前で呼びあっている。
またそのほうが、人間関係が、スムーズにいく。
反対に権威主義の親ほど、子どもたちから孤立することも
わかっている。
夫婦関係も、おかしくなる。
今どき、「男だから……」「親だから……」「夫だから……」と、
安易な『ダカラ論』を振りかざしているのは、世界広しと
いえども、この日本くらいなもの。
まず日本人の私たちが、それに気づくべき。
Kさんがいう「血」についても、同じ。
それについては、福沢諭吉が、100年前に、こんなことを
書いている。
国際留学協会(IFSA)のHPには、つぎのような一文が
掲載されている。
『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。
諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。
ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。
高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないの
だ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み
出すことになる』(国際留学協会(IFSA))と。
それについて書いたのが、つぎの原稿である。
++++++++++++++++++++++
●論語(Why now is Rongo?)
++++++++++++++++
今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。
しかし、今、なぜ、論語なのか?
++++++++++++++++
論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応
神天皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百
科事典)。
その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言え
ば、官僚たちの教科書だった。
その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論
語なのか? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わ
ない。またそれまでは、私も否定しない。
が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、ど
うしても、それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和の
ために戦った人たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本であ
る。
たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。
それには抵抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。
フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。
+++++++++++++++++
1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に
基づくのでなければ、存在することはできない。
2条
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保
全である。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。
3条
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明
示的に発せられていない権限を行使することはできない。
4条
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各
人の自然権の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保す
ること以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに
過ぎない。
(以下、つづく)
+++++++++++++++++
アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可
侵、不可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。
この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまで
もない。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。
『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テ
ス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモ
ス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政
府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣
旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツ
ヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西
洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディア百科事典より抜粋)
この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
という言葉が、生まれた。
で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、ア
メリカ型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たさ
れている。
どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、し
かしその(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手に
つくることは、許されない。
しかし、どうして今、論語なのか?
【付記】
日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、そ
れを自信をもっていえる人は少ない。
天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにく
い。どこか口ごもってしまう。
が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
と書いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま
読めば、天皇制の否定とも解釈できる。
そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭
吉のような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。
「人の上の人とは、だれのことか」と。
で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。
「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」と
いう解釈など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈など
が生まれた。詳しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は
人の」で検索してみればよい。
しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じてい
た。
その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つ
ぎのような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。
『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。
諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。
ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。
高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならない
のだ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造
らず、人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言
葉を生み出すことになる』と。
++++++++++++++++++
もう一作、武士道について。
++++++++++++++++++
●明治の偉勲たち(Great People in Meiji Era)
明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847~1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。
その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。
そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。
明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。
で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、
(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。
しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。
こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。
武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。
その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。
で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。
はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。
しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?
理由は簡単である。
そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。
いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。
100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。
日本全体の問題として、というよりは、私たち個人々々の問題として、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 福沢諭吉 天は
天の上に 明六社 明治の偉勲 ワシントン)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ボケ防止(To prevent the Senility)
It is our custom to see films almost every week to prevent the senility. My wife and I
went to a theater to see "Next" yesterday.
+++++++++++++++++
昨日、ワイフと、ニコラス・ケイジ
主演の『NEXT』を見てきた。
少しだが、ピーター・フォークが、
脇役で顔を出した。
歩くのもおぼつかない……といった
ふうだった。
演技だったのか、それともほんとうに
そうなのかは、わからない。
『刑事コロンボ』の時代から、私は
彼のファン。
ピーター・フォークの姿を見て、
年月の流れを、強く感じた。
+++++++++++++++++
『NEXT』の星は、3つの★★★。
先週は、『FIXER』を見た。
こちらは、よく見ていないと、内容が
よく理解できないということで、
星は、2つの★★。
『FIXER』のほうは、日本語字幕
(翻訳)が、まずいのでは?
主語の省略が多く、映画を見ながら、
そのつど、「だれが?」ということを
考えなければならなかった。
しかしどちらも、ボケ防止には、よい。
頭の回転を速くしないと、理解できない。
あえて言うと、
『NEXT』……理解の難易度は、3。
『FIXER』……理解の難易度は、4。
映画館から出るとき、ワイフとこんな
会話をした。
「週に1度は、映画を見て、脳みそを
鍛えよう」
「そうね」と。
ついでに最近見た映画の、私の評価。
『NO COUNTRY』……★
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』……星、ゼロ。
ともに理解の難易度は、1。
話をもとにもどす。
肉体の健康を維持するために、スポーツジムに
通う人は多い。
そこで同じように、脳みその健康を維持する
ために、映画鑑賞というのは、どうだろう?
家庭で鑑賞するという方法もあるが、
やはり映画は、劇場で見る方がよい。
迫力がある分だけ、脳みそがより強く
刺激される。
そのためには、難易度の高い映画ほどよい。
へたくそな翻訳なら、なおよい(?)。
今度から映画館も、こんなコマーシャルを
流したらどうか。
「ボケ防止のために、映画館で、映画を!」と。
しかしその前に、ほんとうに効果があるか、
それを、何らかの形で証明しなければならない。
もしよかったら、私たち夫婦が、その実験台に
なってもよい。
毎週、映画のただ券をくれたら、喜んで
協力する。
「週に1回程度映画を見ている人は、認知症に
なる確率が、そうでない人より、20%低い」とか、
何とか。
そんな数字が具体的に出てきたら、みな、こぞって
映画館に足を運ぶようになるだろう。
東宝シネマさん、どうか、ご一考を!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 0年 6月 2日(No 1051)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★HTML版・カラー・写真版★★★
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
************************
電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●言葉を反復する子ども(子どものひとり言)
+++++++++++++++
こちらの言ったことが、即座には
理解できず、いちいちそれを反復
する子どもがいる。
たとえば、
「りんごが3個ありました。
また4個、買ってきました。
あわせていくつですか?」と
質問すると、
「りんごが3個……。また4個
……」と。
そしてこちらの言った言葉を、あたかも
頭の中で反芻(はんすう)するかの
ように、少し考えた様子を見せた
あと、
「……3足す4で、7だあ」と
言ったりする。
様子を観察してみると、言葉そのものが、
即座には、大脳で処理されていかない
といったふう。
算数の問題にかぎらない。
何かの指示を与えても、同じように
反復する。
私「机の上の分度器を片づけて、
それを箱に入れてください」
子「分度器……、箱……」と。
高学年になるからといって、症状が
消えるわけではない。
私「1・5分というのは、何分と何秒の
ことかな」
子「1・5分……だからあ、ええと、……」と。
脳のどの部分に、どのような問題(失礼!)
があるのかは、私にはわからない。
しかし(音声で得た情報を処理する段階)で、
何か問題があるということは、推察される。
そのため、学習能力に影響が出る。
全体に反応が鈍く、その分だけ、時間が
かかる。
似たような症状に、何でも、ものごとを
音声化する子どもがいる。
それについては、以前に書いた原稿が
あるので、そのまま、紹介する。
++++++++++++++++++
●子どものひとり言(内言)
「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたら
いいですか」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。
子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。
(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。
たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」
というのが、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言とい
うことになる。
こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、
それを音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、
6歳で内言は、無声化すると言われている。
が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。
そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考
えようね」と、指導する。
この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身が
その言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっ
こい、のんびりとした、ものの考え方をするようになる。
もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」
と、指導してみてほしい。
「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)
ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。
他人の反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。
しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心
性の表れとは、私は思わない。
Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導す
べきころかもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたよう
に、思考力そのものが、影響を受けることがある。
ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。
(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人
2役、3役のひとり言を言うこともある。
(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝
(3)手に、かつ一方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。
(4)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言
う。グズグズ言うこともある。
(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言
集団内独語 ピアジェ ピアジエ はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論
幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese
essayist 反復 反復児)
++++++++++++++++++
言葉を反復する子どもは、内言という
幼児期のクセが、そのまま残ったとも
考えられる。
相手の言ったことを反復しながら、
自分の考えを、まとめようとする。
しかしさらによく観察してみると、
ひとり言をやめさせてしまうと、問題の
意味そのものが、理解できなくなって
しまう。
私「りんごが5個あって、2個食べました。
残りは、いくつかな?」
子「りんごがア……」
私「口を閉じて考えようね」
子「……? 5個でしょ……?」
私「口を閉じて、考えようね」
子「……? ……?」と。
全体としてみると、10人に1人前後の
割合で、見られる。
年齢には関係なく、小学生でも、中学生でも、
ほぼ同じ割合で、見られる。
で、指導法ということになるが、脳の
機能そのものに問題があるように推察される
ため、注意したり、叱ったりしても意味はない。
またそれで(なおる)という問題ではないように思う。
その子どもは、そういう子どもであると
認めた上で、つまりそういう前提で、指導
する。
軽く注意はしても、あとは子どものリズム
に任せるしかない。
その言葉が適切であるかどうかは知らないが、
私は、このタイプの子どもを、「反復児」
と呼んでいる。
同じような内容だが、以前書いた
記録を、そのまま掲載する。
++++++++++++++++++
●言葉を反復する子ども
++++++++++++++
いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。
反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。
原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。
教えていると、そんな印象をもつ。
++++++++++++++
そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わ
ない。たとえば先生との間では、こんな会話をする。
私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」
子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。
もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。
私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。
このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。
特徴としては、つぎのような点が観察される。
(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。
私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを
理解するため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音
声として入った情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消
えてしまうかのように見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと
考えられる。
このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。
またその症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問
題がからんでいると考えるのが正しい。
ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。
私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。
このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根
気よく指導するしかほかに、方法がないように思われる。
(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子
ども 言葉の反復、反復児 内言 幼児の独り言 ひとり言 言葉を反復 はやし浩司)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●今日・あれこれ(4月28日)(April 28th, French Friends came to my office)
We have to be careful about the exaggerated nationalism, which is now often seen
among Chinese people. The exaggerated nationalism often causes a heavy war.
(誇張された民族主義に警戒しよう!)
フランスの友人が、息子さんを2人連れて、
私の教室へ、遊びに来てくれた。
フランスのブルターニュというところから
やってきた。
観光用のパンフレットを見せてもらったが、
どのページも、夢の中の世界のよう。
「いいところですね」の連発。
で、2週間ほど前から、フランス語の
特訓を始めたが、覚えても、覚えても、
そのまま忘れてしまう。
別れるとき、やっと、「オーフォア」と言える
ようになった。
それも、息子さんたちに教えられて……。
フランス語は、発音がむずかしい。
とくに「r」の発音がむずかしい。
鼻から息を抜きながら、「フ」と発音する。
「ブルターニュ」にしても、
「BRETAGNE」と書いて、「ブルターニュ」と
発音する。
再開を約束して、昼過ぎに別れる。
+++++++++++++++
Sさん、またおいでください!
今度は、たまたま二男夫婦たちが日本へ
来るため、ゆっくり話をする機会を
つくれませんでした。
どうか、お許しください。
+++++++++++++++
●フランス語
今、どこの国の言語を学びたいかと聞かれたら、
私は、「フランス語」と答えるだろう。
ドイツ語も中国語も、学生時代にかじったが、
身につかなかった。
そこで「フランス語を」と考えたが、そこで
時間切れ。
以来、そのままになってしまった。
で、今回、先にも書いたように、自分なりに
時間を見つけて、せめて簡単な会話くらいはと
思ったが、やはりだめだった。
その国の言葉というのは、その国で、その
状況の中で学んで、はじめて身につく。
本の中のカタカナを読んだくらいで、
身につくはずもない。
プラス、脳みその働きも、かなり悪くなっている。
今回、改めて、それを実感した。
●国際結婚
国際結婚がどんどんとふえている。
ふえているというより、当たり前になりつつある。
すばらしいことだと思う。
私の従兄弟(いとこ)の娘さんも、アメリカ人と
結婚した。
30年来の友人も、中国の女性と結婚した。
5、6年前に、フィリッピンの女性と結婚した
友人もいる。
年齢は、30歳くらい離れていた。
今では、そんな結婚も、珍しくない。
ないが、そのときは、少なからず、嫉妬した。
奥さんが、まるでモデルのように、顔立ちの
整った、美しい人だった。
で、みんな、うまくやっている。
が、それを迎える親のほうはどうかというと、
心境は、やや複雑。
私の二男にしても、会えるのは、1、2年に一度。
今は、インターネットもある。
スカイプ(テレビ電話)もある。
が、どこか、さみしい。
だから「やや複雑」。
「複雑」というのには、「心配」という意味も
含まれる?
まあ、その分、身近にいる外国の人たちに、親切にする。
回りまわって、そういう(やさしさ)が、二男の
ところに伝わる。
そんな気がする。
今どき、「日本人だ」「外国人だ」と言っているほうが、
おかしい。
●人種差別
40年前には、国際結婚というのは、
ほとんど考えられなかった。
オーストラリアにしても、当時は白豪主義。
「ホワイト・ポリシー」というのがあった。
白人以外は、みな、第2級人種ということに
なっていた。
「セコンド・クラス・ピープル」という。
白人以外の人と結婚した白人も、第2級人種
ということになった。
第2級人種になると、いろいろな差別を
受けた。
だから、アジア人と結婚する白人は少なかった。
当人たちはともかくも、親たちが、反対した。
が、そのうち、アジア人の女性と結婚する
オーストラリア人男性が急増した。
そういう人たちが、ホワイト・ポリシーに反発した。
それだけではないが、やがてこのホワイト・ポリシーは
廃棄された。
そういうこともあって、私がオーストラリアに
いたころは、アジア人の私は、まったくと言ってよいほど、
女性にもてなかった。
背も低かった。
顔立ちも悪く、見栄えもよくなかった。
あの人口300万人(当時)のメルボルン市ですら、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
後見人と呼ばれる、それなりの身元保証人がないと、
正規の留学すらできなかった。
珍しいというより、奇異な目で見られた。
それが今では、日本人の男性が、オーストラリア人の
女性を連れ立って、堂々と街中を歩くようになった。
「時代が変わった」というだけでは説明できない。
あまりにも、大きな変化である。
「友人」とうときと、「恋愛、結婚」というときには、
その間には、越えがたいほど、大きな壁がある。
その「壁」が、たいへん低くなった。
私の二男にしても、アメリカ人の女性と結婚すると
言ったとき、「よく、相手の両親が許してくれたな」と、
むしろ、私は、そちらのほうに驚いた。
いくら人種差別がなくなったとはいえ、二男が住んで
いるのは、アメリカの南部。
州庁舎の前には、いまだに南軍の旗がひらめいている。
あのあたりでは、黄色人種は、黒人より、下に見られている。
が、ともかくも、結婚してしまった。
●血の交流
日本人は、たいへん不幸なことに、長い間、他民族との
血の交流をしてこなかった。
そのため骨相学的には、日本民族は、特異な(?)
骨相をもつようになってしまった。
が、それだけではない。
思想そのものまで、ゆがんでしまった。
称して、「極東アジアの島国根性」。
いまどき、世界で、「男だから……」「長男だから……」と、
安っぽい『ダカラ論』をふりかざしているのは、
世界広しといえども、この日本くらいなもの。
中には、そういう『ダカラ論』をふりかざして、「これが
日本が誇るべき民族意識」とか、「国の品格である」
とか説いている人さえいる。
今でも、この日本を見ながら、「奇異」という言葉を
使う欧米人は、多い。
それがわからなければ、欧米の映画に出てくる日本人を
見てみることだ。
どこか、へん?
どこか、おかしい?
欧米の人たちは、そういう目で、日本を見ている。
世界的に見れば、フィリッピンの人たちのほうが、
よっぽど国際性に富んでいる。
1970年代の当時ですら、マナーも、社交のし方も、
日本人の私たちより、ずっと洗練されていた。
こうした民族性を打破するためには、他民族と
血の交流をするしかない。
……といっても、もちろん簡単なことではない。
たとえば現在、この浜松市には、約3万人の外国人が
住んでいる。
住人の20人に約1人が、外国人ということになる。
しかし、たがいの間には、厚い壁がある。
言葉の壁、習慣の壁、文化、風習の壁などなど。
ときどき、日本人との間で、トラブルが起きることもある。
「南米の人たちと、もっと仲良くなりましょう」と
言ったところで、簡単なことではない。
日本人と南米の人たちとの恋愛や結婚の話が話題になるように
なるのは、まだまだ先の話。
10年とか20年の年月が必要かもしれない。
●EUはなぜ統合できたか
フランスの友人は、こう言った。
「ブルターニュ地方は、避暑地としてもよく知られている。
ドイツ人やイギリス人の別荘が、あちこちにある」と。
つまり、ドイツ人やイギリス人が、自由にやってきて、
ブルターニュというフランスに住んでいる、と。
このアジアでは、まだそこまでは考えられない。
同じような例が、ないわけではないが、
「自由」とまではいかない。
しかしもしそういうことが、この日本でも
自由になされるようになったら、「国」に対する
考え方も、大きく変わるのではないか。
今どき、「薩摩出身だ」「長州出身だ」と言っている人はいない。
同じように、近い将来、「日本出身だ」「中国出身だ」と
言う人はいなくなる。
そうなれば、このアジアも、大連合できるかもしれない。
そのためにも、つまりそういう未来像を描きながら、
今、私たちがすべきことがあるとするなら、
それは偏狭な民族主義と戦うこと。
「国の品格」を問題にするなら、その国家を
超えたところで、日本を考える。
「日本だから……」とか、「日本人だから……」と
気負うことはない。
日本も中国もない。韓国も、ない。
私たちはみな、同じ、アジア人。
そういう視点で、日本の未来を考える。
フランスの友人が帰ったあと、私は、そんなことを考えた。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●脳トレ問題(2)(Brain Working)
From A village which locates at the upper river, to B village which locates at the down
river, it takes 6 hours by boat. From B village to A village, it takes 8 hours. Then how
many hours will it take a raft from A village to B village?
+++++++++++++++++++++
【問】
川上にあるA村から、川下にあるB村まで、
船で6時間、かかる。
川下にあるB村から、川上にあるA村まで、
同じ船で、8時間、かかる。
いかだで、A村からB村まで下るとすると、
何時間、かかるか。
(いかだは、流れのまま、進むものとする。)
+++++++++++++++++++++
これは入試問題ではないが、最近の傾向としては、
この種の問題がふえてきた。
(できる・できない)というよりも、その子どもが
どのように、どの程度考えたかを、見る。
そのため、消しゴムを使うのを禁止する学校も、
ふえてきた。
メモを残させるために、である。
とてもよいことだと思う。
+++++++++++++++++++++
方程式を使えば、簡単にできる。
A村からB村までの距離を、(k)とする。
船の速さを、(x)、川の流れの速さを、(a)とする。
……こうして解いて、答は、48時間。
しかし残念ながら、この問題は、小6用。
方程式は使えない。
中に、6x8=48で、48時間と答える人も
いるかもしれないが、数学的な理由づけがないから、
いくら答が正しくても、まちがい。
さて、どうやって解いたらよいのか?
脳トレの開始!
(1)静水では、その船は、同じ距離を、7時間で行けることになる。
(2)川の流れに乗れば、マイナス1時間。川の流れにさからえば、プラス1時間。
(3)……ウム……?
(4)やはり、A村からB村までの距離を、(k)とするしかない。
(5)k÷(x+a)=6 k÷(x―a)=8
(6)どうしても、方程式になってしまう!
(7)となると、この問題は、方程式でしか解けないということを証明しなければ
ならない。
(8)さあ、どうするか?
これからサイクリングにでかける。
佐鳴湖を一周する。
その間に考えよう。
では、みなさん、おはようございます!
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●サブプライム問題(農林中金のばあい)(Norinchuikin Bank)
++++++++++++++++++
農林中央金庫のサブプライム問題関連の
損失が、当初の予想の400億円を超え、
1000億円前後にまでふくらむ見通し
という。
読売新聞、4月30日号は、つぎのよう
に伝える。
++++++++++++++++++
(読売新聞、4月30日)
『農林中央金庫が2008年3月期決算でサブプライムローン関連損失が1000億円
前後に拡大する見通しであることが29日、明らかになった。
農林中金は農業関連の融資が伸び悩んだため、積極的な海外投資を進め、2007年9
月末時点で、サブプライム関連商品の残高が5000億円に達し、関連損失として約40
0億円を計上していた。
昨秋以降も国際金融市場の混乱が続き、証券化商品がさらに値下がりしたため、サブプ
ライム関連損失は半年間で2倍強に膨らむ見通しだ。サブプライム問題の影響による株式
市況の悪化を受け、保有株の大幅な減損処理も避けられないと見られる』と。
+++++++++++++++++
この記事を読んで、最初に、「?」と思ったのが、
どうして農林中央金庫なのか、ということ。
資本金は、1兆5000億円程度。
農林中金のHPには、つぎのようにある。
「※出資は、すべて民間(会員および優先出資者)から受け入れて
おり、政府出資や公的資金の注入は受けていません」と。
そして会員として、つぎのような団体をあげている。
「農業協同組合(JA)、漁業協同組合(JF)、森林組合(森組)、およびそれらの連合会、
その他の農林水産業者の協同組織等のうち、農林中央金庫に出資している団体。(平成19
年3月31日現在 4445団体)」と。
わかりやすく言えば、農林中金というのは、
日本の農業、林業、漁業の、総元締め的な銀行ということになる。
しかしどうしてそういう銀行が、海外へ投資をつづけ、
(日本国内にではなく、海外へ、だぞ!)、
今回、サブプライム問題で、1000億円前後の損失を
出すことになったのか?
「農業関連の融資が伸び悩んだため」、海外へ積極的に
投資をつづけたと、新聞記事にはある(読売新聞)。
さらに読売新聞によると、「5000億円程度」を出資し、
損失が、「1000億円前後」という。
しかし……?
アメリカなどでは、サブプライム関連商品(証券類)は、
その価値が10分の1以下になっているという。
はたして1000億円程度の損失で、ほんとうに
すむのか? 資本金の約3分の1の、5000億円も
投資していたというのも、メチャメチャ。
さらに言えば、「政府出資や公的資金の注入は
受けていません」とあるが、会員の中には、
農業協同組合(JA)、漁業協同組合(JF)、森林組合(森組)などが、
ズラリと名前を連ねている。
どれも政府出資や公的資金の注入を、ジャブジャブに
受けている団体である。
そういう団体の総元締め的な銀行が、「受けていません」と!
なんだかよくわからない。
以前から、どこか「?」と思っていた農林中金だが、
これでますます、わけがわからなくなってきた。
この先は、もう少し経済雑誌でも読んでから、
書いてみたい。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************
このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm 発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 08年 6月 23日【臨時連絡号】
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
【Eマガ・読者のみなさんへ】(メルマガ登録のお願い)
こんにちは!
現在、Eマガが、原因はわかりませんが、配信状態が
たいへん不安定になっています。
以前にもたびたびこういうことがありました。
で、Eマガ社のほうへ問い合わせてはみたのですが、
返事をいただけませんでした。
++++++++++++++++++++++++
これからも安定的にマガジンをおとどけするために、
メルマガ(無料版)の登録を、お願いします。
++++++++++++++++++++++++
(Eマガ社とメルマガ社は、まったく別のマガジン社です。)
メルマガの配信登録は、以下のアドレスをクリックして、
ボックスの中に、あなた様の、メールアドレスを書き込んで
くだされば、それで完了します。
みなさんへの負担は、いっさい、ありません。
まったく無料です。
ぜひ、よろしくお願いします。
**********メルマガ登録***********
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
(↑)ボックスに、あなた様のメールアドレスをご記入ください。
こちらのマガジンもまったく、無料です。
**********メルマガ登録***********
以上ですが、これからも末永く、ご購読くださいますよう、
ご協力を、お願いします。
浜松市
はやし浩司
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
. *※※
.※※ ***※
.*※※…※}※**
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
![]() |