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2008年 9月号 2008年 10月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●

(2008−9月号)






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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 29日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だっ
たのに対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」
の33%を大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方が
よい」は、5年前の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が
急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」と
いう結婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いという
こと。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女
観 結婚観 サイレント革命)

+++++++++++++

7年前に書いた原稿を
紹介します。

+++++++++++++

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメ
リカでは、「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われ
たら、彼らは喜んで家から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、
ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、
仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)
が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人
里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつ
ながっている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツと
なる。一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼ら
にしてみればバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの
冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分
が変わるべきとき』と。つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』と
も言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはず
れるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴
史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民
らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な
活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。
しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感
じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。
年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れて
いる。日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志
望が、12%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も
変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりた
い」など。30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんど
いない(※)。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のよう
な派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろ
うか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだ
ろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒
は、全体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由
としては、
 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。
●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利であ
る」ことを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校
の校長すらいる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個
人の責任ではない。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるので
はないだろうか。いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変
わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まとも
な仕事論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【8月26日】(火曜日)

++++++++++++++++++

●勝てば官軍(When you win, you are the justice)

『勝てば官軍』という。
しかし『負ければ賊軍』(?)。
「ホシノ・JAPAN」の、無様(ぶざま)な結果に、日本中ががっかり。
もともと野球というのは、スポーツというより、興行。
「力」というより、「運」に左右されやすい。
しかしここまで叩かれると、星野氏も、かわいそう……。

「北京では、選手村ではなく、最高級ホテルに宿泊。
ロクな練習もしなかった」(某ニュースサイト・解説)とか。
これに対して、当の星野氏は、「午前10時半からの試合は経験なかった」とか、
「審判もプロを出すべき」とか言って、弁解しているという(同)。
「ナイターか、空調設備のついたドームの中でしか試合をしたことがない
日本選手には、北京はきつかった」(同)ということか。

ところでオリンピックという、個人を超えた世界の大会に、「ホシノ」という個人名を
つけること自体、おかしい。
発想そのものが、権威主義的。
バカげている。
真剣みが足りない。
当の星野氏は、ベンチで立っていただけではないか。

個人名をつけるならつけるで、たとえば「イチロー・JAPAN」
「マツイ・JAPAN」と、せめて3チームぐらいはつくり、
リーグ戦をし、優勝したところを、オリンピックに出したらよい。

へたに「ホシノ」という名前をつけたものだから、裏目に出てしまった。
星野氏だけが、袋叩き……。
やっぱり、かわいそう……。


●正直な人(Honest People)

++++++++++++++++++H.Hayashi

正直な人と出会うと、気持ちがよい。
胸が、スカッとする。

少し前だが、こんな会話をしたことがある。
その人の父親が、特別養護老人センターに入居していた。
父親の年齢は、90歳だった。
その父親について、私が、「見舞いに行っていますか」と聞くと、
「もう、3か月、行ってないかなあ。いや、4か月かなあ……?」と。

見舞いに行っていないことはともかくも、そういうことを正直に言える人は、
うらやましい。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言葉を使うのは
適切ではないかもしれないが)、少なくとも、世間体を多少なりとも気にする人は、
そういう言い方はしない。

「ええ、しばらく行っていません」とか、「ときどき行っています」とか言って、
その場をごまかす。
中には、「毎週(毎日)、行っています」などと、ウソをつく人もいる。
私は、その男性の、私にはない(?)正直さに驚いた。
驚いたというより、胸がスカッとした。

で、昨日もこんなことがあった。

その女性の実父が、アルツハイマー病になってしまったという。
年齢を聞くと、69歳という。
6年前に発病したという。

そういう話を聞くと、ツンとした緊張感が走る。
他人ごととはとても、思えない。

私「私もあぶないです」
女「先生は、だいじょうぶですよ」
私「そうですかねえ……。ときどき男と女の区別ができなくなるときがあります」
女「あら、私もそうですよ」
私「エッ、あなたもそうですか?」
女「そうなんですよ」
私「じゃあ、いっしょに風呂にはいってもだいじょうぶですね」
女「いいですね、先生。いっしょに入りましょうか」と。

もちろんたがいに冗談を言ったまで。
しかし自分の心の内を、そのままケラケラと話せる人は、すばらしい。
父親の病気は病気として、つまり病気なのだから、どうしようもない。
今では、その女性(=実の娘)の顔もわからないという。
それについては、何度も、「切ないです」と言っていたが、病気が病気だから、
あきらめるしかない。
「治療法もないそうでね」と、その女性も言っていた。。

正直に生きる。
ありのままの自分をさらけ出しながら生きる。
それは心の風通しをよくするための鉄則でもある。
もちろん何もかも、さらけ出すというのではない。
言わなくてもよいことは言わない。
しかし人は、一度、見栄、メンツ、世間体に毒されると、自分の姿を見失ってしまう。
とたん、心がよどむ。
腐る。
生き様そのものが、見苦しくなる。

さて冒頭に書いた男性だが、実はつきあうようになって、もう20年になる。
で、数日前も、こんなことがあった。

「元気?」と声をかけると、「やあ、それがね、胆石になりましてね」と。

私「胆石?」
男「痛かったですよ。本当に!」
私「そりゃあ、たいへんでしたね」
男「で、3日間、E病院で寝てましたよ」
私「E病院? どうして弟さんの病院へ行かなかったのですか?」
男「あいつは、ヤブですよ。ヤブ。あんなやつの病院へ入ったら、殺されますよ」と。

その男性の弟氏は、内科医師である。
浜松市の郊外で、医院を経営している。

私「ハハハ」
男「ハハハ」と。

正直に生きるということは、私のばあい、正直に書くということにつながる。
あとから読み直しても、自分を飾った文章ほど、不愉快なものはない。
日記にもならない。

しかし正直に書いた文章というのは、それだけで時を超えて自分の心にひびく。
ただし一言。

文に残すということは、危険なことでもある。
その人とわかるような内容は、極力、避けなければならない。
そのため2つの話を1つにまとめたり、あるいは他人の話を、自分の身内の
話にしたりというようなことは、よかある。
名前や場所、その人の職業についても、そうである。

しかしそれは(ウソ)ということではない。
どうか、誤解のないように!


++++++++++++++++++H.Hayashi

●生きる美学(how to live, as to my own case)

++++++++++++++++++

1か月分の収入に当たる損をしたら、
1か月、さらに健康で働けることを考えればよい。
半年分の収入に当たる損をしたら、
半年、さらに健康で働けることを考えればよい。

……というのが、私の人生哲学だった。

同じようなことだが、1万円の損をしたら、
2万円、どこかで取り返す。
10万円の損をしたら、20万円、どこかで取り返す。
そんなふうに考えたこともある。

若いときは、そんなわけで、がむしゃらに働いた。
いつだったか、ワイフが、「あなたはお金の亡者みたい」
と言ったことがある。
ワイフには、そう見えたかもしれない。

その私も、今では60歳。
この年齢になっても、損をすることはあっても、得をすることは
ほとんどない。
(「得」といっても、宝くじか何かに当たったような得をいうが……。)

だから今は、とにかく健康で、できるだけ今の仕事をつづけたいと
願っている。
いや、本当のところ、こうして健康でいられるだけで、御の字。
それ以上、何を望むのか?

考えてみれば、健康にまさる「得」はない。
そんなわけで今、いちばんこわいのは、病気。
順にあげてみる。

(1)脳梗塞
(2)がん
(3)認知症

成成人病も含めて、これらはみな、生活習慣病と言われている。
つまりその気になれば、防げる。
その鍵を握るのが、運動ということになる。
だから最近は、私はこう思う。

1日、しっかり運動をすれば、少なくとも明日1日は、健康でいられる、と。
1週間、しっかりと運動すれば、少なくとも来週1週間は、健康でいられる、と。
運動をしながらも、そんなわけで心のどこかに悲壮感が漂うになった。

富山県のT市に住むS君は、こう言った。
S君は、すでに5年近く、がんと闘っている。
「林君、転移が見つかったら、切ればいいんだよ。切ったときから、5年は生きられんだ
よ」と。

別の人は、手記の中で、こう書いている。
「どうせ死ぬなら、がんで死にたい。がんなら、すぐ死ぬということはないから、身のま
わりの整理をすることができる」と。

私も最近、この考え方に同調するようになってきた。
「脳梗塞よりは、がんのほうがいいかな」と。

だから今は、こう考える。
「今日、脳梗塞やがんにならなかった。だから明日も、たぶん、脳梗塞やがんにはならな
いだろう」と。
今日の健康を、恐る恐る、明日に延ばしながら生きていく……。
いつだったか、『健康というのは、ゴムひものようなもの』と書いたことがある。
が、それはそういった思いをゴムひもにたとえたもの。

で、あとは、その健康を、どう使うかということ。
明日が今日の繰り返しだったら、意味はない。
来年が今年の繰り返しだったら、意味はない。
体力にせよ、知力にせよ、不可逆的に悪くなる。
今よりよくなるなどということは、ありえない。
だったら、今日できることは、今日、する。
今できることは、今、する。

たいていの人は、(私もそうだが)、「明日は何かいいことがあるだろう」
「来月は何かいいことがあるだろう」と考える。
しかし実際には、(いいこと)よりも、(悪いこと)が起きる確率のほうが高い。
だれしも長生きをしたいと思っているが、長生きすればそれでよいというものでもない。

大切なのは、「今を、どう生きるか」である。
1日は、この言葉に始まって、この言葉に終わる。
結果は気にしない。
今日1日を懸命に生きれば、明日はかならず、やってくる。
(そのとき)がきても、ジタバタしない。
(ジタバタしないという自信はないが。そのとき、できるだけ後悔しないよう、つまりや
り残した思いをもたないよう、今というときを、燃焼させる。)

もし「生きる美学」というものがあるとするなら、それが私にとっての美学ということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
生きる美学 林流生きる美学)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●故郷(My Home Town, M-city, Gifu-pref.)

++++++++++++++++++H.Hayashi

私の故郷については、たびたび書いてきた。
悪口ばかり書いてきた。
が、だからといって、それは私の個人的な意見。
どこまでも個人的な意見。

いつだったからある週刊誌で、日本でいちばん住みやすい町として、
私の故郷が選ばれたことがある。

そのときは「そんなバカな!」と思ったが、冷静になって見つめなおしてみると、
そうかもしれない。
よい町かもしれない。
ほとんどの人は、M町は、すばらしい町と思っている。
それはそれとして、尊重しなければならない。
私のもっている意見のほうが、おかしい(?)。

私には、そうではなかったというだけ。
たとえば私は、いつもあの町には、息苦しさを覚えていた。
低いが四方を山に囲まれ、小さな家々が軒を並べていた。
古い因習や文化も色濃く残っていた。

そこに住む人たちは、明らかに進歩的というよりも保守的、
新しいものよりも、古いものを大切にしていた。
が、何よりも私にとって不愉快だったのは、M町の人たちが、
自分たちこそが、世界の中心にいるような考え方をしていたこと。

外の世界から異文化が入ってくるのを、何よりも嫌った(?)。

こんなことがあった。

歌手に野口五郎という人がいる。
本名を佐藤Y氏という。
野口五郎の実家は、私の家からも歩いて5分足らず。
伯父の家からは、目と鼻の先。
歩いて数十メートルというところであった。

その野口五郎が、一躍、日本の大歌手になったとき、私はそれを
たいへん喜んだ。
彼の兄とは、中学時代、いっしょにコーラス部で歌を歌っていたこともある。

その当時のこと。
ときどきM町へ帰ると、町の様子は一変していた。
町中が若い女性たちで、ごったがえしていた。
野口五郎の町や生家を一目見ようという、ファンの人たちだった。

が、驚いたことに、いちばん反応を示さなかったのが、実はM町の
人たちだった。
私が市長なら、イのいちばんに野口五郎に、町興しのために働いてもらっただろう。
しかしM町の人たちは、不思議なほど冷静だった。
むしろ反対に、野口五郎に対して、「出て行った人間」というレッテルを張っている人も
いた。
あのM町では、昔から、「出て行った人間」を、半ば軽蔑する。
何しろここにも書いたように、M町は世界の中心!
私はM町のもつ、閉鎖性、独善性、うぬぼれ意識に驚いた。
(今でも野口五郎にまつわる銅像はおろか、その記録さえ、
町の中には、まったく残っていない!)

さらにしばらくすると、今度は海部(かいふ)という名前の首相が誕生した。
海部首相の妻は、私の実家の近くの、薬局の娘だった。
その弟とは、子どものころ、よくいっしょに遊んだ。
そのときも、同じような経験をした。
そして同じように思った。

「M町の人たちは、世界を見ようともしない」
「小さな井戸の中だけで生きている」と。

……またまたM町の悪口を書いてしまったが、
死んだ兄のことで、あれこれと事務手続きが必要になった。
それで今日、故郷のM町へ行ってきた。

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の貯金通帳に、○○円の残があった。
葬儀費用として引き出すためには、1か月以内に、
手続きをすまさねばならない。
それでM町へ行ってきた。

今、この原稿は、帰りの電車の中で書いている。
名鉄電車、新岐阜発、豊橋行き。
ワイフは先ほどから、頭痛がするといって、目を閉じている。

そのM町。
いつ来ても、いやな町だ(ごめん!)。
一応観光地ということになっているが、町全体が、
暗く沈んでいる(ごめん!)。
帰りに少し時間があったので、町中のレストランで、
xx定食なるものを食べた。

しかし、まずかった(ごめん!)。
とくにx肉が、生(なま)調理ぽかった。
値段も高い。……というより、一人前。
やる気なさそうな年配の女性が、ずっと鼻先の脂汗を指で
こすっていた。
テーブルも、手垢で汚れていた。
きざんだキャベツの横に、ひとつかみのマカロニが置いてあったが、
一口食べただけで、ゲーッ!

「今どき、こういうレストランがあるんだね」と、小声でワイフが言った。
しかしそのM町では、何もかもがそう。
40年前から、時計は止まったまま。
町はそれでよいとしても、そこに住む人たちの意識は、どうなのか。
それを想像したとき、正直言って、ゾーッとした(ごめん!)。

もし私が、あのままM町に住んでいたら、私は、今ごろは、
あの町の人たちと同じになっていただろう。
今の私とはまったくちがった生き方をしていただろう。
考え方にしても、そうだ。
ゾーッとしたのは、そこに今とはまったく別の自分を想像したからにほかならない。

それこそあの年配の女性のように、客の前で、鼻先の脂汗を指で
こすりながら、それを何とも思わないような人生を送っているに
ちがいない(ごめん!)。

「食」を売るというのなら、それなりのプロ根性をもたねばならない。
スーパーで買ってきたようなxxを、電子レンジで温めただけ。
あるいは作り置きしていたxxを、サッと、調理しなおしただけ。
私には、そんな感じがした。

だいたい、こうしたxx定食屋で、xxを店の奥の、客の見えないところで
調理するというところが、おかしい。
M町の人たちは、それでだませるとしても、私をだますことはできない。

「古い町」と言えば聞こえはまだよいが、中身は、未成熟なまま。
進歩をそこで止めてしまっている。
世界を知らない人というのは、そういう人たちをいう。

もちろんM町には、M町としての、よい面もある。
それは知っている。
のんびりと余生を過ごすには、よい町かもしれない。
しかし私はまだまだ前向きに生きていきたい。
だからワイフには、先ほど、こう言った。

「ぼくは死んでも、この町にはもどりたくない」と。

……とまあ、ひどいことを書いてしまったが、M町がこれから
発展するためには、どうしたらよいか、それを考えてみたい。

●M町のために

観光地として生き残りたいのなら、一度、滋賀県の長浜の町を見てきたらよい。
長浜の町では、若い人たちが、率先して町興しに取り組んでいる。
が、M町には、それがない。
若い人たちの「力」を感じないばかりか、反対に長老たちの「古臭さ」ばかりが目立つ。
「古い町」イコール、「老人の町」であってはいけない。

それに問題なのは、交通アクセスの問題。

長浜のばあいは、JR長浜駅のすぐそば。
若い人たちが、大阪や京都から電車で、ゾロゾロとやってくる。
そして一通り遊んだあとは、またゾロゾロと帰っていく。
同じような光景を、京都の嵐山でも見た。

が、M町のばあいは、岐阜からでも、車で30〜40分はかかってしまう。
奥に、郡上八幡、さらにその奥に白川郷がある。
ひるがの高原もある。
隣には、「刃物の町」と知られる、関市がひかえている。
しかし郡上八幡と比較しても、観光地としては、見劣りがする。
つまり中途半端。

おまけに人を集めるための「目玉」がない。
同じ和紙の町で人を集めている山口県の萩市は、森鴎外の故郷としても、知られている。
森鴎外の生家がそのまま残っている。

この中途半端さをなくすためには、徹底した差別化をしなければならない。
が、そのためには、アイデアが必要。
町の人たちに江戸時代や明治時代の衣装を着てもらうとか、ちょんまげを結ってもらうと
か。
刀をさして酒を飲む武士の姿があってもよい。
そうした衣装を、町は希望者に、無料で貸し出す……。

それにM町は「和紙の町」ということになっているが、何も和紙にこだわる必要はない。
長浜のばあい、町の中心部にあるのは、ガラス工芸館である。
ひょうたんだけを売っている店もある。
和紙だけで、人を集めるのは、魅力不足というより、不可能。
若い人たちは、和紙にたいして、ほとんどなじみがない。

惜しまれるのは、「チンチン電車」と呼ばれる、あの路面電車を廃止したこと。
今、もしあのチンチン電車が、旧M駅から、市内に向かって、数百メートルだけでも走っ
ていたら、今ごろは、全国から観光客が押し寄せているかもしれない。
岐阜市ですら、チンチン電車を廃止してしまったのだから……。

さらに言えば、やっとやってきた観光客にしても、お金を使う場所がない。
つまり町の中に、お金を落としていかない。
先ほども書いたように、「和紙」だけでは、若い人は集まらない。

古い町並みも結構だが、そこに若い人たちの息吹がなければ、ただの古い町で終わってし
まう。

今日もM町の中を、歩いてみた。
どの店も、客もなく、静まりかえっていた。
通りに、人影さえ見られなかった。
もちろん町を見て歩く観光客は、私たち2人をのぞけば、ゼロ。
ほとんどの商店は、シャッターをおろしたまま。
観光地としての「やる気」を、まったく感じなかった。

「どうして野口五郎の歌碑がないのだ!」と叫んだところで、M町の話はおしまい。
野口五郎とは比較にならないが、私自身も、「町を出た人間」。
私などのような者の意見に耳を傾けるような人は、M町にはいない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●邪馬台国(Yamatai-Koku, the root of the Japanese)

++++++++++++++++++

まぼろしの邪馬台国は、どこにあったのか?
その結論が出そうな、ビッグ・ニュースが、今日(8月27日)、
報道された。

++++++++++++++++++

奈良県桜井市の近くにある、「箸墓古墳(はしはか・こふん)」が、ひょっとしたら、ひょ
っとして、その卑弥呼の墓ではないかというのだ。

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、邪馬台国は、奈良県にあったことになる。
まだ調査中なので、何とも結論は出せないが、

(1)3世紀半ばの古墳である。
(2)全長280メートル、幅60〜70メートルの巨大な墓である。
(3)内濠と外濠のある豪華な墓である、ということから、かなり有力視されている。

しかし「箸墓古墳は宮内庁の陵墓指定のため、立ち入りできない」(中日新聞)とのこと。
どうして?

3世紀半ばの古墳であるなら、少なくとも現在の天皇家とは関係ないはず。
どうしてそんな墓まで、「宮内庁の陵墓指定」になっているのか?
その前に、宮内庁って、いったい、何?
どうしてそうまで、秘密主義なのか?
何か、発見されたらまずいものでも、隠されているというのか?
何を恐れているのか?
何を守ろうとしているのか?

箸墓古墳についての記事を読みながら、別の心で、私はそんなことを考えた。

(付記)

仮に邪馬台国、近畿説が有力になってくると、もう一つ、無視できない謎が浮かびあがっ
てくる。

「金印、贋作説」である。

金印というのは、『漢の倭の奴の国の王』と書かれた、あの金印である。
社会科の教科書にも広く紹介されている。
美術の教科書にも紹介されている。
国宝にも指定されている。

だいたいにおいて、あの金印の出所があやしい(?)。

江戸時代に記録された口上書によれば、金印を発見したのは、志賀島(しかのしま)の百
姓、甚兵衛ということになっている。
「田の溝を掘り返しているとき、小さな岩の間だから発見された」(「日本古代史の謎とミ
ステリー」リイド社)という。

百姓の甚兵衛が、小さな岩の間だから発見したというのだ!
しかも「甚兵衛の素性が、よくわからない」(同)という。

また志賀島というのは、正確には、現在の福岡市東区志賀島叶崎をいう。
そして金印の実物は、福岡博物館に、常設展示室で展示されているという。

で、この金印贋作説に対して、本家の中国で、何と、その姉妹とも言うべき、もう1個の
金印が発見された。
昭和56年(1981年)のことである。
金印本物説を唱える人たちは、この発見で、一気に勢いづいた。

「金印は本物である」
「邪馬台国は、北九州にあった」と。

しかし、である。
中国で見つかったこの金印について、「千葉大学の三浦S氏が、贋作である」(同)と主張
した。
そして「(日本で発見された)金印は、金印を鑑定した儒学者、亀井南冥こそが金印の贋作
者だと推定し、贋作された背景には、当時の古印ブームがあったと推測」(同書)と。

だいたい後漢の光武帝が、日本からの使者に与えたのは、「印綬」(「後漢書・正史」)。
どこにも「金印」とは書いてない。

一方卑弥呼が受けとったのは、金印(魏の記録)。

今回の箸墓古墳が卑弥呼ゆかりの墓であるとするなら、もし金印が残っているとするなら、
近畿地方ということになる。
あるいは箸墓古墳の中に、それはあるかもしれない。

興味のある人は、「志賀島 金印」で検索してみるとよい。
いくつかのサイトをヒットすることができる。
で、私の印象としては、金印は、やはり偽物である。
もちろん中国で発見されたという金印も、偽物である。

が、最大の謎は、どうして金印のような最重要印鑑が、志賀島のようなへんぴな、小さな
島で見つかったかということ。
その島では、金印以外の重要歴史物は、何も見つかっていないという。

どうであるにせよ、箸墓古墳には、この謎を解く鍵が隠されているかもしれない。
興味津々と言ったところか。
箸墓古墳の発掘を、是非、やってほしい。

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Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●有酸素運動

++++++++++++++++

運動にも2種類ある。
有酸素運動と、無酸素運動である。
有酸素運動というのは、運動しているとき、
呼吸が荒くなるような運動をいう。

ランニングやジョギング、散歩や
サイクリングなど。

無酸素運動というのは、瞬発的に動いて、
それで終わるような運動をいう。
たとえば、ウェイトリフティングなどが
その例として、よくあげられる。

+++++++++++++++

「健康のためには、有酸素運動がよい」と、よく言われる。
運動しながら、呼吸によって体内へ取り入れた酸素で、
脂肪を燃焼させるような運動をいう。
わかりやすく言えば、最低でも30〜40分程度、
体をいつもよりはげしく動かす運動がよい。
そういう運動をしていると、ジンワリと汗をかく。

では、無酸素運動では、どうしてだめなのか。
だめというより、どうして健康につながらないのか。

……これについては、私はまったくの門外漢なので、話はここまで。
しかしそんな私でも、有酸素運動が大切なことは、よく知っている。
数日も有酸素運動をしないでいると、体中がだるくなるのが、自分でもよくわかる。
思考力も減退する。

が、だからといって、運動が好きというわけではない。
できるなら、しないですませたい。
私はもともと怠け者。
寒い朝や、暑い昼などは、とくにそうである。
しかしそういう自分を押し切って、外に出る。
自転車にまたがる。
とたん、いつもの私に戻る。

おかしなもので、サイクリングを30年以上もつづけていると、
体のほうがいくら疲れていても、脚だけは、しっかりと動く。
ありがたいことだと思う。

で、30〜40分も走っていると、真冬の手足が凍るような
夜でも、体中が、燃えるように熱くなる。
これが有酸素運動ということになる。

さらに最近の研究によれば、運動をすることによって、
筋肉自体が、ある種のホルモンを分泌するのだそうだ。
簡単に言えば、「若返りのホルモン」だそうだ。

持続的に運動を長い間つづけている人は、どこか若々しい。
そういった(ちがい)となって、外に現われる。

漢方(東洋医学)でも、『流水は腐らず』と教える。
サラサラと流れる水は、腐らないという意味である。

有酸素運動というのは、要するに体を腐らせないための
運動と考えればよい。


はやし浩司+++++++++Aug 2008++++++++++Hiroshi Hayashi

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城S伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がり、複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄な人だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、年齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と
答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【9月号は、今日でおしまい】

●グチ

7〜8月は、マガジン読者は、1人しかふえなかった。
たったの1人!(ごめん!)

「この世界では、読者が減らないだけでも、ありがたく思いなさい」と言う
人もいる。

しかし書いても書いても、読者が減りつづけるようになったら、マガジンは廃刊にする。
その覚悟は、できている。

今日は8月29日、金曜日。

明日からは、10月号の原稿を書く。

ここまで私のグチを読んでくれた読者のみなさん、ありがとう!


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 26日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●鯖街道(Saba Road)

++++++++++++++++++H.Hayashi

8月24日、鯖街道、熊川宿へ向かう。
今日はここで、8キロの道のりを歩く。
8キロというのは、かなりきつい。

1万歩で、約7キロ(私の計算)。
ついでに人間というのは、おにぎり1個で、1万歩、歩けるそうだ。
(カロリー計算をしてみると、そうなる。)

歩いてみるしかない。
これも運動のため。
健康のため

++++++++++++++++++H.Hayashi

鯖街道、熊川宿へ。
バスは今、鯖街道、熊川宿へと向かっている。
「くまがわじゅく」と読む。
その昔、日本海側にある若狭(わかさ)から、京へ、鯖(さば)を届けた街道という。
名前がよい。
「鯖街道」。
その鯖街道の中継地として栄えた町が、熊川宿。
鯖街道というからには、鯖料理がおいしいにちがいない。
鯖寿司もあるというから、楽しみ。
今朝は軽くお茶漬けだけにして、腹をそれに備えた。

このところ何かにつけて、こちらの方面へ来ることが多くなった。
窓の外は見慣れた景色だが、どういうわけか、こちらへ来るといつもほっとする。
緑が美しい。
それに深い。

たった今、北陸自動車道から敦賀(つるが)で一般国道に出たところ。
雨上がりの霧が、山々から天に向けていっせいに、白い帯をなびかせている。
やや黄みのかかった田んぼの稲が美しい。

……ここから見ると、浜松市は遠い地の果てという感じがする。
(少しおおげさかな?)
つまり旅のよいところは、ここにある。
地元を離れるだけで、視野が広がる。
農家の家々にしても、浜松の農家とは、どこか雰囲気がちがう。
よく見ると、田んぼの様子もちがう。
たとえば瓦(かわら)にしても、このあたりでは、「若狭瓦(わかさがわら)」というのを
使っているという。
上薬をかけないで焼くため、全体がどこかくすんだ色になっている、などなど。
こうした刺激が、頭の中の固定観念をつぎつぎと破壊してくれる。
ときにバチバチと火花を飛ばすこともある。

といっても、ここは日本。
もしこれが外国だったら、どうだろうか?
息子の1人は、もうすぐJ社のパイロットとして、世界中を飛び回ることになる。
そういう生活をつづけていたら、日本を見る目も変わるにちがいない。
あるいは身近にいる、バスの運転手さんはどうだろうか?

こうして毎日のように、日本中をあちこち回っている。
私とはいろいろな面で、人生観がちがうはず。
私の知らない世界を、たくさん見ている。

またもう1人の息子は、アメリカに住むようになって、もう12年になる。
世界を知っているというよりは、日本のことなど忘れてしまったにちがいない。
今では、私も「日本人の私の息子」というよりは、「アメリカ人の友人」という見方をして
いる。

前回も日本へ来るとき、私やワイフへのみやげは、何も買ってこなかった。
それについて、「どうして買ってこなかったのか?」と聞くと、それが原因で大げんかにな
ってしまった。

「何かほしいものがあったら、きちんと言ってくれ。そうすれば、ちゃんと買ってくるか
ら」と。

ナルホド!

しかしこれは日本人の発想ではない。
日本では親子でも、実家へ帰るときは、何かしらのみやげをもっていく。
どうやらアメリカでは、そうではないらしい。
つまりそういうことで、たがいに気をつかわないのが、親子?
考えてみれば、アメリカ流のほうが、気が楽。

むしろ私たちが注意しなければならないことは、自分の常識をもって、それを世界の標準
と思ってはいけないということ。
つねに自分がもつ常識を疑う。
旅行は、そういう場として、最適である。

……ここでバスは、三浜町に入った。
右側に鉛色の日本海が見えてきた。
福井県という表示が見えた。
ここはまだ福井県らしい。
学生時代の1年先輩が、現在、福井県の副知事をしている。
10年ほど前までは年賀状を交換していた。

で、日本海側のこのあたりは、1年のうち3分の1は、曇り空という。
先ほどバスのガイドさんが、そう言っていた。
とたん、私は学生時代を思い出した。
私は石川県の金沢市で、4年間を過ごした。
が、こと天候に関しては、ゆううつな毎日だった。
「曇り空」どころか、1年の3分の1は、「長靴」で過ごした。

こうした天候が、そこに住む人の気質に影響を与えることは、じゅうぶん考えられる。
天候が暗いから、性格まで暗くなるということではない。
その分だけ、晴れわたった日の美しさが鮮明にわかるようになる。
そしてその分だけ、曇天の日は、じっと何かに耐える。
「北陸の人は、がまん強い」とよく言われるが、その理由は、こんなところにあるのかも」
しれない。

しかし天候のせいもあるのか、田んぼの間に点在する農家は、湿った空気の中で、静かに
眠っているよう。
動きもない。
もちろんにぎやかさもない。

バスは一路、熊川宿へ……。

熊川宿……観光地としては、星2つの★★。
ここだけを目的に来るというような観光地ではない。
旅の途中とか、どこかへ行く途中ということであれば、いいかも。
なお名物の「鯖寿司」は、道の駅レストランで食べるよりも、宿場町の中に
ある寿司屋で食べたほうがよい。
値段も安いし、サービスもよい。
(道の駅のほうは、セルフサービス。
鯖寿司4巻と吸い物で、1500円だった。)

(補記)
鯖街道を歩いているとき、「昔の人はこうして歩いて通ったのだな」と、何度も思った。
大八車ができたのは、江戸時代の中ごろとされる。
「大八」という名前の穂人が発明したのが、はじまりと言われている。

そういう車でもあれば鯖を運ぶのも楽だっただろう。
しかしそれには道路事情もある。
今と違って、石でゴロゴロした道であったにちがいない。
やはり背中に負って運ぶのがいちばん楽だったかもしれない。
ガイドさんの話によると、若狭から京まで、約70〜80キロの道を、当時の人たちは1
日半で歩いたという。

75÷1・5で、50キロ!
荷物をかついで、1日50キロ!

ヘ〜〜〜〜エ、と驚くこと、しばし。

9月は、富士山麓を10キロ歩くことになっている。
「上級コース」とか。
がんばるぞ!

(補記)2
熊川宿の端に、「番所」と呼ばれる小さな関所があった。
小さな関所で、間口が、3間ほどではなかったか。
「こんな関所ならかんたんに破れる」と、私は持った。
弓矢と槍、それに火縄銃が4丁、飾られていた。

「昔の人は、こんな関所でも、恐れたのか」と思った。
つまりそれだけ人間が小さかったというか、従順だったというか。
今なら、たとえば暴走族の若い人なら、数人で、こんな関所を粉々に破壊してしまうかも
しれない。
言い換えると、日本も小さな国だった。

あちこちの関所を見るたびに、そう思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【8月24日】(日曜日)

++++++++++++++++

今朝は、遠くの雷鳴で、目が覚めた。
天気予報によれば、局地的な豪雨が
あるという。

前線の向こう側にあるのは何か?
再び、猛暑か?

++++++++++++++++

●軽快に生きるために

軽快に生きるためには、いくつかのコツがある。

(1)まず敵を作らないということ。

敵というのは、あとあと、わずらわしい関係になるような問題を作らないということ。
たとえば近隣の人たちや、親類の人たちとのトラブルは、極力避ける。
「避ける」というより、タブー。

(2)生活は常に余裕をもつこと。

1万円の収入があったら、5〜6000円どまりの生活に心がける。
無理をしない。
ぜいたくをしない。
ほどほどの生活をして、その範囲ですます。

(3)運動を欠かさないこと。

運動の重要さは、運動をしているものでないとわからない。
長い休みがつづいて、運動不足になったりすると、日に日に、体がナマっていくのがわか
る。
水にたとえるなら、体全体が、よどんだ水のようになる。
さらに運動不足になると、腐った水のようになる。
それが実感として、よくわかる。
が、運動をした翌朝は、体中の細胞がプチプチとはじけるような感じがする。

(4)人と会うこと。

人と会うだけで、心の中のモヤモヤが晴れることはよくある。
悶々と悩んだら、人と会って、話をする。
子どもたちのもつ、あの純粋さに触れることも大切だが、最近、私は参観にやってくる父
母と、できるだけ会話をするようにしている。
けっして小さな殻(から)の中に閉じこもってはいけない。

今日も、それを目標にして、がんばる!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●6か国協議(An Incompetent Diplomat & his Betrayal Act) 
What C. Hill has done is just to give North Korea, money, oil, food, music as well as 
time, 
without receiving anything except the explosion show of Yon-byon. Moreover he has 
destroyed the relationship between Japan and USA. In the meantime more and more 
Japanese have become to dislike USA. Why should we assist Iraq War? Does Mr. G.
 Bush know this fact?
Mr. C. Hill, you are cheated again but we don't have to sympathize with him at all.

++++++++++++++++++

テロ支援国家指定解除は、延期された。
当然である。
が、ここにきて、北朝鮮は、韓国内での
核査察をさせろと逆提案。
またまた例によって例の、難グセである。

……ということで、6か国協議は行き詰まって
しまった。
にっちもさっちも、いかなくなってしまった。
しかしこうなることは、最初からわかって
いた。

で、結果としてみると、6か国協議は、
北朝鮮というより、C・ヒルに、よいように
もてあそばれただけ。
C・ヒルは、「外交官というよりは、政治家」
(朝鮮N報)。
マスコミをフルに利用して、自分の知名度を
あげることに執心しただけ(同紙)。

結果、今は、C・ヒルの辞任説まで出てきた
(同紙・8月24日)。
これまた当然である。

++++++++++++++++++

C・ヒルは、最初から、異例の外交官だった。
公僕意識など、もとからない。
まるで政治家かスター。
「午前0時にホテルに帰ってきても、マスコミの
取材には、きちんと応じていた」(朝鮮N報)という。
そしていつの間にか、6か国協議を、米朝会議に
すりかえてしまった。

もちろん日本など、最初から、カヤの外!
最近に至るまで、拉致問題を取りあげた形跡は
まったく、なし。
ないばかりか、C.ヒルは、「テロ国家支援解除」をにおわせながら、
つまり日本を脅しながら、拉致問題を棚上げした上、
北朝鮮への援助に加わるよう、日本に圧力を加えた。

しかもだ、こうした事実を、C・ヒルは、上司である
C・ライスに報告していなかった事実も浮上している。

先の洞爺湖サミットで、日本のT外務大臣が、C・ライス
と直談判したとき、C・ライスはそれを聞いて驚いた様子
だったという報道も伝えられている。

日本人のアメリカに対する好感度は、急速に低下して
いる。
インド洋上における補給活動にしても、政府高官は
「昨年とは、国内の雰囲気が変わりつつ」と言い出した。
つまり「これからはもう、アメリカの言いなりには
ならないぞ」と。
今、そこまで日米関係は悪化している。

結局は、世界は、C.ヒルの根拠のない楽観論に
振り回されただけ。

G・ブッシュ大統領は、こうした事実を、どこまで
知っているのか?
(08年8月26日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●聖書を読む

++++++++++++++++++

私も含めてだが、ほとんどの人は、
小銭の奴隷となり、小銭の奴隷のままで死ぬ。

それでよいとはだれも思っていないが、
しかしほかに道を示してくれる人もいない。

そこで久しぶりに、聖書を開く。
Ryrie版「Study Bible」。
友人のJimがくれたもの。

+++++++++++++++++

●Matthew(マタイ)

聖書によれば、マタイ(姓はLevi)は、税官吏(tax collector)だっ
たという。そのため同じユダヤ人たちからは嫌われていたという。が、イエスの呼びかけ
にすぐ応じ、イエスの弟子となる。12使徒の1人ではあったが、そのため立場は特殊だ
ったらしい。しかしイエスの再臨後、マタイは、パレスチナ(Palestine)で、
12年間、布教活動をする。そのあと他の地に移ったと言われているが、確かではない(同
書、p1455)。

●マリアの処女懐胎

マタイ伝(1:15)には、こう記述されている。

(1)生誕告知

これがイエス・キリストが生まれたいきさつである。
マリアはヨセフとの結婚が約束されていた。
しかし2人がいっしょになる前に、マリアが聖霊(Holy Spirit)によって、
身ごもっていることがわかる。
ヨセフは誠実な人であったから、マリアを辱めないよう、そのことを公にしなかった。
マリアとは静かに離婚するつもりでいた。
が、そう決心したとき、主の天使が現われて、夢の中でヨセフにこう言った。
「ダビドの息子のヨセフよ、マリアを妻として家に連れて帰ることを恐れてはいけない。
なぜならマリアが身ごもっているのは、聖霊の子であるから。
あなたはその子どもを産みなさい。
名前をイエス(JESUS)としなさい。
なぜならその子は、人々を罪(SIN)から救うからです」と。

これはすべて「処女が身ごもり、子どもを産むだろう。
みなは、その子を、"Immanuel"、つまり"神とともの子(God with u
s)"と呼ぶだろう」という、予言そのものであった。

ヨセフは目覚めたあと、主の天使の命令どおりにした。
そしてマリアを妻として、家に連れて帰った。
しかし子どもが生まれるまで、マリアと関係(union)をもたなかった。
生まれた子どもを、「イエス」と名づけた。

++++++++++++

ここで誤解が一つ、解けた。
ヨセフは、天使から、夢の中で、「生まれてくる子どもは神の子である」という告知を受け
ていたことになる。

++++++++++++

(2)赤子の崇拝

イエスがJudeaのベツレヘムで生まれたあと、当時はヘロド王の時代であったが、東
方から、マギ(Magi)が、エルサレムへやってきて、「ユダヤの王として生まれた赤子
はどこにいるか? 私たちは東に彼の星を見た。その赤子を崇拝するためにやってきた」
と言った。

注……「Magi」、東方の博士。キリスト降臨のとき、東方から贈り物を携えてやってきた3
人の博士(小学館・ランダムハウス辞典)。

+++++++++++++++++

聖書を疑うことはよくないことだが、この話には、小さな矛盾がある。
マギは、東方(東洋)から、東に、彼の星を見たから、イエスのところへ来たという。
もしそうなら、マギは、西方に彼の星を見て、東方から来たというのが正しいのではない
か。

また聖書では、「the east」(東方)となっている。
今まで私は、「東洋の聖人」と理解していた。
これは私の誤解だった。

+++++++++++++++++++

ヘロド王は、このことを知り、すべてのJerusalemが、(イエスとともに)いるこ
とに、心を乱された。
ヘロド王は、主だった僧や教師を呼び集めたとき、どこでその赤子が生まれたかをたずね
た。
彼らは「Judiaのベツレヘム」と答えた。
なぜならそのように予言書に書かれていたからである。

『Judahの土地は、あなたがけっして統治するものではない。
(=...by no means least among the rulers o
f Judah...)なぜならあなたがたの中から、統治者が現われ、イスラエルの人々の
羊飼いとなるであろうから』と。

++++++++++++++++++

イエスの誕生の前には、いくつかの予言があったようだ。
その予言に従って……というより、予言のとおりに、イエスは生まれた。

++++++++++++++++++

ヘロド王はひそかにマギを呼びつけ、星が現われた正確な時間を知った。
ヘロド王は部下たちをベツレヘムに送り、「その赤子を注意深くさがせ。見つけ次第、私に
報告しろ。私もその赤子を崇拝するため、ベツレヘムへ行くだろう」と言った。

王の言葉を聞いたあと、部下たちは途中で、東に見たその星が、彼らの行く手前方にあり、
その赤子のいるところで止まっているのを知った。
その星を見たとき、彼らは歓喜した。
家に着くやいなや、彼らは聖母マリアとともにいる赤子を見た。
彼らはひざまづき、その赤子を崇拝した。
それから宝箱を開け、金と香料とmyrrh(芳香性の樹脂、香料)の贈り物を与えた。
そして夢の中で警告を受けていたように、彼らはヘロド王のところへは戻らず、別の道を
通って、彼らの国へと帰っていった。

++++++++++++++++

またまた疑問が解けた。
3人の聖人は、ヘロド王の命令によって、ベツレヘムへ行き、そこでイエスを見たという。
贈り物を与えたあと、ヘロド王のところへは戻らず、別の道を通って、それぞれの国へ帰
ったという。

先ほど、「小さな矛盾」と書いたが、これで謎(?)が解けた。

マギは東からやってきた人物である。
そのときマギは、ヘロデ王のもとにいた。
で、ヘロデ王の命令を受けて、イエスをさがしに行く。
そのとき東の空に、星を見る。
その星についていくと、イエスのところにたどりついた。

これなら矛盾はない。

+++++++++++以上、1461Pまで+++++++++++

なお、某HPには、つぎのようにある。

「キリストがベツレヘムの商隊の旅篭(はたご)で生まれて間もなく、東の国、そうアラブや
ペルシャ辺りでしょうか。その東の国で見慣れない星が、西の空に輝いたの見た。今で言
う占い博士達が見ました」(「星の神殿」)と。

この中では、「西の空に輝いた」と書いてある。

「?」。

ともかくも、重箱の底をほじくりかえすような議論は、あまりよくない。
しかしキリスト教のことで何かわからないことがあったら、聖書にもどるのがいちばんよ
い。

このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
これから朝食。
それがすんだら、母を見舞いに行かねばならない。
昨日、担当のドクターから、「ターミナル・ケア(末期治療)」について話し合いたい」とい
う連絡が入った。
何かの書類に、印鑑を押すように言われている。

「とうとうそのときが来たか」という、ツンとした緊張感を覚える。

●小銭の奴隷

冒頭で小銭の奴隷について書いた。
わかりやすく言えば、ケチで、小ずるい。
ささいなことに振り回され、大局的なものの見方ができない。
目先の損得勘定はできるが、その先ができない。
つまり思考力が浅い。

小銭の奴隷になると、視野がどんどんと狭くなる。
狭くなりながら、それに気がつかない。
気がつかないまま、自分を基準にしてものを考えるようになる。

とくに私たちの世代、つまり戦後の高度成長期を生きてきた人は、小銭の奴隷になりやす
い。
「お金がすべて」「お金だけが信じられる」と。
さらにそれが進むと、「お金がないと不安」とか言い出す。
人やものの価値も、金銭的な基準で判断する。
「金持ちほど、偉い」とか、「この絵は○○万円だから、価値がある」とか、など。

こうなると立派なカルトなのだが、もちろん本人には、その自覚はない。
小銭の奴隷には、じゅうぶん、注意したほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●老人観察

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

40歳を過ぎたら、老人観察を始めたらよい。
どんな人が、どんな老人になっていくかを観察する。
生き方は人さまざまだが、老人のなり方も、これまたさまざま。
当然のことながら、老人になればなるほど、その人の生き様が集約されてくる。

認知症とか、脳血栓症の病気は別にして、老人にもいろいろある。
大きく大別すると、(1)好かれる老人と、(2)嫌われる老人がいる。
どんな老人が好かれ、どんな老人が嫌われるか、それを観察する。
つぎにそれがわかったら、ではどうすれば好かれる老人になり、
またどうすれば嫌われない老人になるかを、知る。

「好かれようが、嫌われようが、そんなことは気にしない」と言う人も
いるかもしれないが、こと老人に関しては、これは深刻な問題と考えてよい。

嫌われるということは、即、周囲の人たちに迷惑をかけることを意味する。
老人のケア・センターにしても、そうした基準を公表してはいないが、
ある程度は面接をした上で、入居を認めたり、認めなかったりしている(?)。

大声で泣き叫んだり、暴力を振るうような老人は、嫌われる。
入居を敬遠される。
しかしそうした老人にしても、1年とか2年でそうなるわけではない。
10年とか20年をかけてそうなる。
だからこそ、老人観察が必要ということになる。

で、昔から『老いては子に従え』という。
つまりくだらない権威主義はできるだけ早い時期に、捨てたほうがよい。
「私は親だ」「親は偉い」「子は親に従うべき」などと考えていると、嫌われるのは、
親のほうということになる。

つぎに重要なことは、エリクソンも説いているように、『自我(自己)の統合性』。
「老後になったら、孫の相手と庭いじり」というのは、けっしてあるべき老後の姿
ではない。
老後になったら、(すべきこと)を(する)。
その(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
(やりたいこと)ではない。
むしろ(やりたいこと)をしていると、むなしさを覚えることが多い。
が、それでは自分の老後はない。

また(金儲け)と、(すべきこと)は、どこかで区別したほうがよい。
多くの人は「死ぬまで仕事」と考えている。
それはそれとして必要なことかもしれないが、どこかで一線を引く。
というのも、(すべきこと)は、常に(無)でなければならない。

損得を考えたとたん、「自我の統合性」は、霧散する。

「教育」というと、私たちは(子どもの教育)を考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(おとなの教育)。
しかも(自分自身の教育)ということになる。

それを怠ったとたん、(嫌われる老人)に向かってまっしぐら。
その先で待っているのは、みじめで暗い世界。

そこで再び、老人観察ということになるが、あなたの周辺で、どんな人が
どんな老人になっていくかを観察する。
その時期は、40歳ごろから始めても、早すぎるということはない。

(補記)1

前にも書いたが、母が入居しているセンターの1階は、デイ・ケア・センターに
なっている。日帰りの老人たちが集まる部屋である。

そこに1人、たいへん威張った老人がいる。
年齢は70歳くらいではないか。
昔の武士を思わせるような人で、とにかく威張っている。
介護師の人が機嫌をとろうとして話しかけても、「うるさい!」「いらぬ!」と。
自分は座っていても、介護師の人を上から見おろすような言い方をする。

話を聞くと、東京の某有名私大を出たあと、イギリスへの留学経験もある人という。
現役のときには、会社の中でもかなりの地位にいた人らしい。
しかし今は、だれにも相手にされない。
家族にも嫌われているのだろう。
いつも部屋の隅でポツンと孤立している。

また母がいる同じフロアには、若いころはさぞかし美人だっただろうなと
思わせる老人がいる。
背も高く、スラリとしている。
年齢は80歳くらいか。
そういう老人が、ときおりフロア中に聞こえるような大声で叫ぶ。
「飯(めし)は、まだかア!」「わっちゃア(=私は)、何も食べておらんゾ!」と。
その老人のばあい、認知症にかかっているということだが、こうした老人たちを見て、
だれが笑うことができるだろうか。

(補記)2

老人になればなるほど、遺伝的要素が前に出てくるようになるという。
わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、自分の親に似てくるということ。
自分はそれでよいとしても、自分の子どもが自分に似るのは、不幸なこと(?)
かもしれない。
そのためにも、つまり子どもに老後の見本を見せるという意味においても、
老後になればなるほど、生き様を確立しなければならない。

これはひとつの例だが、たとえば(健康)という問題にしても、私は若いころから
小雨の日でも、自転車通勤をつづけている。
そういう姿を、息子たちはどこかで見ていたのだろう。
気がつくと息子たちもまた、同じようなことをしている。
つまりこうして親の生き様というのは、とくに教えなくても、(また教えるという
意識がなくても)、子どもに伝わっていく。

あなたの子どももいつか、あなたが歩んだのと同じ道を歩む。
歩んで老人になる。
そういうときのために、私たちはその(見本)を見せておかねばならない。
が、もし今、あなたが小銭の奴隷なら、あなたの子どもたちもまた、その小銭の
奴隷になる。
そういう例は、あなたのまわりにも、いくらでもあるはず。

(補記)3

ここまで書いて思い出した人がいる。
私が子どものころのことだが、近所に、金の亡者のような人がいた。
当時としては、かなりの成功者だった。
毎日、私の家にやってきては、「今日はいくら儲けた」「先週は株で
いくら儲けた」と、そんな話ばかりをしていた。

が、それから50年。
最近、その息子氏に会うことがあった。
近所でも評判のケチということは、前から知っていたが、顔つきやしぐさは
もちろんのこと、50年前のあの人そっくりになっていたのには、驚いた。
時代も変わったから、露骨に金(マネー)の話をするということはなかったが、
何かにつけて、自分の自慢話ばかりしていた。
またそれをいろいろな言い方で、誇示していた。

「税金が高くて困るよ。このあたりでも、私がいちばんの高額納税者でね」
「毎週、つき合いでコースを回っているよ」と。

さらに驚いたのは、私がその人の父親について、批判めいたことを口にしたときのこと。
私は「あなたの父親は、いつも私の家で、金儲けの自慢をしていましたよ」と。
とたんその人は血相を変えてこう言い切った。

「林君、いくら君でも、親父(おやじ)の悪口を言うやつは許さん!」と。

かなりのファザコンとみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

つまり国家公務員の給料は、無休の国家公務員をふやすこと(=分母を大きくすること)
で、ごまかされている?

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いし
ょく)されたボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当
たっています」(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家
公務員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかるか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを
正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計
算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給
料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費
の総額は、4兆6571億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)
そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギ
ョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料(人件費)を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総
人件費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということ
になる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もい
る。この無給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、
当然のことながら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つま
りもし保護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家
公務員の給料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という
数字そのものが、あやしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人
いるのか? 無給ではなくても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公
務員という人もいるだろう。そういう人たちは、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家という
ことになっているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめ
な気持ちで保護司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、
保護司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円だそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※
(国家公務員)          ……1403万円

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件
費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)にな
って予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだ
が、省庁側の抵抗は激しさを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 24日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心のトゲ】(1)
●三男からのハガキ  夏も終わるころ、富士山頂からハガキが届
いた。見ると三男からのものだった。登頂し
た日付と時刻に続いて、こう書いてあった。
「13年ぶりに雪辱を果たしました。今、ど
うしてあのとき泣き続けたか、その理由がわ
かりました」と。  13年前、私たち家族は富士登山を試みた。
私と女房、13歳の長男、10歳の二男、そ
れに7歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、
九・五合目まで来たところで、そこから見あ
げると、山頂が絶壁の向こうに見えた。そこ
で私は、多分そのとき三男にこう言ったと思
う。「お前には無理だから、ここに残っていろ」
と。
女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂
上をめざした。つまりその間中、三男はよほ
ど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けて
いたという。

●三男はずっと泣いていた!  三男はそのあと、高校時代には山岳部に入
り、部長を務め、全国大会にまで出場してい
る。今の彼にしてみれば富士山など、そこら
の山を登るくらい簡単なことらしい。その日
も、大学の教授たちとグループを作って登山
しているということだった。
女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君は
ご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私
はその三男のハガキを見て、胸がしめつけら
れた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめ
なかった。私たちが登山していく姿を見なが
ら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振
り返ったとき、三男が女房のズボンに顔をう
ずめて泣いていたのは覚えている。しかしそ
のまま泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ  「後悔」という言葉がある。それは心に刺
さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲ
にも、刺さっていることに気づかないトゲも
ある。私はこの13年間、三男がそんな気持
ちでいたことを知る由もなかった。何という
不覚! 私はどうして三男にもっと耳を傾け
てやらなかったのか。何でもないようなトゲ
だが、子育ても終わってみると、そんなトゲ
が心を突き刺す。
私はやはりあのとき、時間はかかっても、
そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべ
きだった。重苦しい気持ちが、私の心をふさ
いだ。で、女房にそれを伝えると、女房はこ
う言って笑った。「だって、あれは、E君が足
が痛いと言ったからでしょ」と。「Eが、痛い
と言ったのか?」「そう、E君が痛いから歩け
ないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」
「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけ
ではないのか?」「そうよ。九合目くらいから、
足が痛いから歩けないと、泣きべそをかいていたのよ」と。
とたん、心の中をスーッと風が通り抜ける
のを感じた。軽い風だった。さっそくそのあ
と、三男にメールを出した。「登頂、おめでと
う。よかったね」と。




【許して、忘れる】(2)
●崩れた息子
 「パパ、もうダメだ!」と、息子のHが、
電話をかけてきた。それまでに聞いたことが
ない、悲痛な声だった。私は異常さを感じ、
すかさず、こう言った。「帰って来い!」と。
 が、驚いたのは、その翌日の夜のこと。見
ると、Hが、玄関先に立っていた。まさか、
その翌日に帰ってくるとは、思ってもみなか
った。
 H……「日本へは二度と帰ってこない」と
いう捨てゼリフを残して、友人のI君と2人
で、オーストラリアへと旅立っていった。し
かしHには、何もかも、合わなかったらしい。
食事も水も、生活も……。2年間の留学生活
を終え、これから専門の勉強に入るという矢
先、精神的に、崩れてしまった。まだインタ
ーネットもない時代である。私たちはHの心
の変化に気づかなかった。

●息子の引きこもり
 で、日本へ帰ってきてからのHは、自分の
部屋に引きこもるようになってしまった。夜
と昼が逆転。訪れてくる友人は、ただ1人。
小学時代からの友人、Z君だけだった。
 挫折感がよほど大きかったのか、私たち夫
婦と口をきくことも、ほとんどなかった。が、
ゆいいつの救いは、私はこのタイプの子ども
への対処法を、熟知していたことだった。
『ほどよい親』『暖かい無視』『求めてきた
ときが与えどき』。この3つの原則を貫いた。
 が、苦しまなかったといえば、ウソになる。
泣きたいときは、ワイフと車で、山の中まで
行き、そこで涙を流した。そんなとき、いつ
か、オーストラリアの友人が教えてくれた言
葉が、私を救ってくれた。その友人は私が悩
んだり、苦しんでいると、いつもこう言った。
「ヒロシ、許して、忘れろ!」と。

●『許して、忘れる』
英語では、「FOR・GIVE & FOR・GET」
という。この単語をよく見ればわかるように、
「FOR・GIVE(許す)」は、「与えるため」
とも訳せる。同じように「FOR・GET(忘れ
る)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何
を与えるためなのか。何を得るためなのか。
が、そのときわかった。
『許して、忘れる』は、「子どもに愛を与え
るために許し、子どもから愛を得るために忘
れる」ということになる。その度量の大きさ
によって、親の真の愛の深さが決まる。
 Hの闘病生活は、それから丸3年近くもつ
づいた。何種類かの薬を処方してもらったこ
ともあるが、どれも副作用が強く、Hには合
わなかった。が、そんなある日、Hが、突然、
「仕事に行く」と言い出した。それはそれで
うれしかったが、「どんな仕事だ?」と聞くと、
「工事現場での旗振りの仕事」と。
 たまたま夏の暑い日がつづいていた。私は
こう言った。「何もいきなり、そんなきびしい
仕事をしなくても……」と。それに答えてH
はこう言った。「そういう仕事で、自分を試し
てみたい」と。
で、私たちがしたことは、日焼け止めクリ
ームを、Hの部屋の前にそっと置いておくこ
とでしかなかった。
 そうそう一度だけだが、Hがどんな仕事し
ているか、それを見に行こうとしたことがあ
る。しかし途中まで行ったところで、ワイフ
が「やめよう」と言った。見るとワイフの頬
を、幾筋もの涙が、流れているのがわかった。




【父のうしろ姿】(3)
●ズタズタになったプライド
 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、
私が中学生になるころには、斜陽の一途。私
の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲
むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒
屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、
ものを投げつけた。そんなわけで私には、つ
らい毎日だった。プライドはズタズタにされ
た。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、
家が近づくと、あれこれと口実を作っては、
その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラ
フラと通りを歩いていた。それを友人に見せ
ることは、私にはできなかった。

●「どうやって隠せばいいのだ」
 その私も52歳。1人、2人と息子を送り
出し、今は三男が、高校3年生になった。の
んきな子どもだ。受験も押し迫っているとい
うのに、友だちを20人も呼んで、パーティ
を開くという。「がんばろう会だ」という。土
曜日の午後で、私と女房は、三男のために台
所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこ
う聞いた。
 「お前は、このうちに友だちを呼んでも、
恥ずかしくないか」と。すると三男は、「どう
して?」と聞いた。理由など言っても、三男
には理解できないだろう。私には私なりのわ
だかまりがある。私は高校生のとき、そうい
うことをしたくても、できなかった。友だち
の家に行っても、いつも肩身の狭い思いをし
ていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言
われたら、私は何と答えればよいのだ。父が
壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうや
って隠せばよいのだ。

●私は父をうらんだ
 私は父をうらんだ。父は私が30歳になる
少し前に死んだが、涙は出なかった。母です
ら、どこか生き生きとして見えた。が、その
思いは、私の年齢とともに変わってきた。4
0歳を過ぎるころになると、その当時の父の
悲しみや苦しみが、理解できるようになった。
商売べたの父。いや、父だって必死だった。
近くに大型スーパーができたときも、父は「J
ストアよりも安いものもあります」と、どこ
か的はずれな広告を、店先のガラス戸に張り
つけていた。しかもそのJストアに自転車を
並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父
だった。叔父は父とは違って、商売がうまか
った。父は口にこそ出さなかったが、よほど
くやしかったのだろう。戦争の後遺症もあっ
た。父はますます酒に溺れていった。

●孤独の耐え方を教えてくれた父
 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。
前を向いて走ることだけを求められる。だか
らうしろが見えない。見えないから、子ども
たちの心がわからない。ある日気がついてみ
たら、うしろには誰もいない。そんなことも
多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っ
ている。父がそれを教えてくれた。客がいな
い日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、
暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台
に向かって、黙々と何かを書いていた。その
ときの父の気持ちを思いやると、今、私が感
じている孤独など、何でもない。
 私と女房は、その夜は家を離れることにし
た。私たちがいないほうが、三男も気が楽だ
ろう。いそいそと身じたくを整えていると、
三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、
ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死
んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。
(2002年記)




【子どもの巣立ち】 (4)
●対等の人間として
 階段でふとよろけたとき、三男がうしろか
ら私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうと
っくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみ
しさの入り交じった気持ちになる。
 男親というのは、息子たちがいつ、自分を
超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子
が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。そうそう二男
のときは、こんなことがあった。
二男が高校に入ったときのことだ。二男が
毎晩、ランニングに行くようになった。しば
らくしてから女房に話を聞くと、こう教えて
くれた。「友だちのために伴走しているのよ。
同じワンゲル部に入る予定の友だちが、体力
がないため、落とされそうだから」と。その
話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知
った。いや、それ以後は二男を、子どもとい
うよりは、対等の人間として見るようになっ
た。

●光り輝く人生
 その時々は、遅々として進まない子育て。
イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。
「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそば
にいてやればよかった」とか、「もっと息子た
ちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔
やむこともある。そう、時の流れは風のよう。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへ
と去っていく。そしていつの間にか子どもた
ちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。
 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。
私と女房が二男の部屋を掃除していたときの
こと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出て
きた。私は最初、それが誰の写真かわからな
かった。が、しばらく見ていると、目がうる
んで、その写真が見えなくなった。うしろか
ら女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同
時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

●子育ての価値
 何でもない子育て。朝起きると、子どもた
ちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタ
ツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の
真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からから
かう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。そのときはわからなかった。その
「何でもない」ことの中に、これほどまでの
価値があろうとは! 
街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いい
なあ」と思ってしまう。そしてそう思った次
の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけ
たくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子
どもを見ても、最近は、気にならなくなった。
「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。
 問題のない子どもというのは、いない。だ
から楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育て
をしている。しかしそれも終わってみると、
その時代が人生の中で、光り輝いているのを
知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労し
ているなら、やがてくる未来に視点を置いて
みたらよい。心がずっと軽くなるはず。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【B・ツアーと、民主主義】

●ビデオと多数決

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少し前まで、B・ツアーといえば、帰りの
バスの中でのビデオが、定番だった。

しかし最近は、「見るか、見ないか」で多数決を
採ってくれるようになった。

しかし……?

++++++++++++++++++++

●B・ツアー

地元のバス会社が運営するバス・ツアーに、B・ツアーというのがある。
値段も安く、良心的。
安心して旅行できるという点で、私たち夫婦は、月に2〜3回は、利用させてもらってい
る。

が、そのB・ツアー、30〜40年ほど前には、タバコの煙とカラオケに悩まされた。
最近は、帰りのバスの中でのビデオに悩まされた。

ビデオといっても、『寅さん』ものか、『釣りバカ日誌』もの。
定番になっていることもあり、同じビデオを何回も見せられることもある。
しかし同じビデオを3回、4回……と見せられると、うんざりというよりは、拷問に近く
なる。
そのため私とワイフは、B・ツアーを利用するときは、それぞれ、騒音軽減装置付きのウ
ォークマンをかならず持参する。

●多数決

ところが最近、そのB・ツアーが急速に洗練されつつある。
多数決を採るようになった。

「ビデオを見たい人と、見たくない人で、多数決を採ります」と。

実は今日も、帰りのバスの中で、それがあった。

ガイド「ビデオを見たい人」……4人
ガイド「ビデオを見たくない人」……7〜8人。

私は最後部の座席にいたので、その数を知ることができた。

しかしこの採決は、基本的な部分で、おかしい。
まちがっている。

●弱者の立場

こんな例で考えてみよう。
今でこそ、観光バスの中で、カラオケを歌う人はいない。
歌う人にとってはそうでなくても、聴くほうにしてみれば、騒音。
騒音以外の何ものでもない。

そのカラオケについて、もしガイドが、つぎのような採決を採ったとする。

ガイド「カラオケを歌いたい人」……10人
ガイド「カラオケを歌いたくない人」……5人
ガイド「では、カラオケをみなで、歌うことにします」と。

この採決のばあい、それで迷惑を受ける人の立場を、まったく無視している。

こういうときは、つぎのように採決を採るのがよい。

ガイド「カラオケを楽しみたい人」……10人
ガイド「カラオケで迷惑する人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、カラオケを歌うことにします」と。

しかしそれでも、おかしい。
こういうケースのばあい、それによって迷惑を受ける人がいるなら、カラオケは中止すべ
きである。
なぜなら、理由は、明白。
カラオケなど、しなければならないものではないからである。
バス旅行に必要なものであれば、こうした採決を採ることにも意味がある。
しかしカラオケがなければ、バスが止まるというものでもない。
観光が台なしになるということでもない。

●ビデオのばあい

では、ビデオはどうか?

ビデオのばあいも、やはり同じように採決を採る。

ガイド「ビデオを楽しみたい人」……10人
ガイド「ビデオで迷惑を受ける人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、ビデオを見ます」と。

が、このばあいも、ビデオの騒音によって迷惑を受ける人の立場はどうなるのか。
旅行の帰りともなれば、疲れて静かに休みたい人もいるはず。
50歳以上の人ともなれば、なおさらである。
数は少なくても、5人の人が迷惑するというのであれば、5人の人を優先すべきである。

が、それでもわからないという人がいたら、こんな例で考えてみよう。

●喫煙

先にも書いたように、以前は、観光バスの中でも、喫煙は自由にできた。
冬場などは、バスの中は、もうもうたる煙が充満した。
である日、私はB・ツアー会社に手紙を書いた。

前部と後部で、喫煙者と非喫煙者を分けてほしい、と。
しかしこの提案は完全に無視された。
と、同時に、私たちは10年近く、B・ツアーから遠ざかった。

その喫煙について、ガイドがこんな採決を採ったとする。

ガイド「タバコを吸いたい人」……10人
ガイド「タバコの煙で、迷惑を受ける人」……5人
ガイド「タバコを吸いたいという人が多いので、タバコを吸ってもいいということにしま
す」と。

●弱者の世界

弱者は、多くのばあい、少数派である。
もし多数決だけで、ものごとが決まっていったら、それこそ、この世界は闇。
闇というより、民主主義そのものが、崩壊する。

そこで民主主義の世界では、いかに弱者にやさしいかで、その完成度を計る。
当然のことながら、弱者にやさしい世界を、より完成された世界という。
そうでない世界を、そうでないという。

ビデオに話をもどす。

なぜ、帰りのバスの中で、ビデオを流すか?
ビデオというのは、見なければならないものなのか?

ビデオのかわりに、音楽ではだめなのか?
音楽のかわりに、無音の写真集ではだめなのか?
たとえばガイドがデジタルカメラで撮った写真を、スライド方式で流すという方法もある。
今では、それが2〜3万円のデジタルカメラでできる。

何もビデオにこだわる必要はない。
が、さらに問題はつづく。

●ビデオの選択

ご存知のように国際便の飛行機の中では、10〜20の番組の中から、好きなビデオを選
んで見ることができる。
個人の好みは、みなちがう。
それならまだ話もわかる。
そういうとき、(今回もそうだったが)、2種類だけのビデオを取り出し、「見ますか、見ま
せんか?」は、ない。

今日は、『寅さん』ものだったが、国民的映画だから、みなが喜ぶはずと考えるのは、おか
しい。
『寅さん』もののようなビデオともなると、同じものを以前にも見たという人が多いはず。
2度目ならまだしも、3度目、4度目となると、いくら寅さんのファンでも、うんざりす
るだろう。

繰り返すが、ビデオというのは、見なければならないものなのか?

●日本人と騒音

介護を必要とする老人専用のケア・センターでは、どの部屋でも、しかもいつも、大型の
テレビがかけっぱなしになっている。

いろいろ理由があるらしい。

老人に刺激を与えるためとか、老人を退屈させないためとか。
そういう表立った理由のほか、昼間は老人たちを、できるだけ起こしておくという目的も
ある。

夜間は、介護をする人の人数が、ぐんと減る。
そのため昼間はできるだけ起こしておき、夜間は、できるだけ眠ってもらう。
それはともかくも、ケア・センターでは、ほとんど意味もなく、テレビをかけっぱなしに
している。
実際、テレビを見ている老人は、ほとんどいない。

……と同じようなことを、地元のバス会社も考えているとしたら、これはまちがい。
「ビデオを流しておけば、老人は退屈しないだろう」
「その間、ガイドは、休息を取ることができる」と。

しかし騒音は、騒音。
日本人は、その騒音に、たいへん鈍感な民族と考えてよい。

で、私なりの結論。
観光バスに、ビデオは不要。
もしそれでも……という人がいたら、各自、ポータブルDVD鑑賞機を、もちこんだらよ
い。
これからはそういう時代である。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●小銭の奴隷たち

欲望は行動の原動力。
「〜〜したい」「〜〜がほしい」という思いが、行動につながっていく。
それはそのとおりだが、
しかし元来、欲望というのは、その先で目的とつながっている。
「おなかがすいた……だから食事を食べたい」とか、など。

「お金がほしい」という思いとは、異質のもの。

こんな例で考えてみよう。
これは私が実際、経験したことである。

以前、中学生たちに、「おとなになったら、何がしたいか?」と聞いたことがある。
手をあげて答える子どもがいなかった。
そこで私が強く促すと、1人の中学生(男子)が、こう答えた。

「1億円がほしい」と。
そこで私が「その1億円でどうするの?」と聞くと、「机の上に飾っておく。毎日、ながめ
て過ごす」と。

つまりお金というのは、常に手段でしかない。
たとえば「パソコンがほしい」という思いが、「お金がほしい」という思いにつながってい
く。
が、その目的もなく、欲望を満足するための手段としてのお金がほしいというのであれば、
その人は、すでにお金の奴隷になっていることを示す。

すると中には、こう反論する人もいるかもしれない。
「お金というのは、あればあるほどいい」「いつか何かのときに役立つから」と。

しかし本当にそうだろうか。
つまり、それでその人の欲望は、それで満足するのだろうか。

このことは前にも書いたが、こんなことがあった。

ある日、郵便局へ行くと、老人たちがズラリと並んでいた。
見ると、それぞれが100万円の札束を手づかみでつかんで、もって帰っていくではない
か!
驚いてあとで、郵便局長に聞くと、こう教えてくれた。
「みんな年金ですよ。年金は3か月ごとに支給されますから」と。
このあたりには、旧国鉄村と呼ばれるほど、旧国鉄の職員たちがたくさん住んでいる。
旧国鉄の職員たちの年金額は、旧三公社五現業の中でもとくに、高い。

私は何も年金族が悪いというのではない。
しかし社会保障費と呼ばれる国家支出の約80%が、こうした年金などにあてられていう
のは、どう考えてもおかしい。

たとえば05年度にしても、88兆円もの社会保障費の約80%は、年金、医療、介護な
ど、高齢者に向けられている。
一方、子ども向けは、4兆円にすぎない(東洋経済・5・17、08)。
とくに年金への支出が、すごいことに注目!

どうしてそういうお金を、子どもをもつ親たちに振り分けないのか?

生活費とはいうが、老人たちはそんな高額の年金を、何に使うのか。
私の家の近所には、今年80〜90歳になる人たちがたくさん住んでいる。
が、満55歳で役所や国鉄を退職したあと、ただの一度も働いたことがない人は多い。

そういう人たちを見ていると、何のための年金制度かということになる。

……少し頭が熱くなったが、欲望というのは、そういうもの。
子どもでも、「ピアノをうまく弾けるようになりたい」というのは、私にも理解できる。
「そのために、すばらしいピアノがほしい」というのであれば、それも理解できる。
しかしただ「お金がほしい」というのは、欲望の中身に具体性がないという点で、私には
理解できない。
つまりその時点で、お金の奴隷、つまりここでいう「小銭の奴隷」になっていることを示
す。

お金の奴隷というのは、アルコール中毒、ニコチン中毒と並んで、脳の中に特殊な受容体
が形成されるため、一度、その奴隷になると、それから自らを解放するのは、容易なこと
ではない。

このタイプの人は、つぎのような言い方をするので、そうであると知ることができる。

(1)お金の計算が、こまかい。ケチ。ずるい。
(2)何かの支払いの話となると、決まって、「ぼくにはお金がないから」を口ぐせにする。
(3)自己中心的で、お金の使い方が自己愛的。家族の治療費ですら、ケチる。

そうでない人には、信じられないような話だが、実際、そういう人は少なくない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●John 8:34

+++++++++++++++

この世は偽善のかたまり。
以前、アメリカに住む息子が、そう言った。

しかし偽善こそ、人間がもっとも卑しむべき
行為。

日ごろは、美しい着物に身を包み、バラエティ
番組でケラケラと笑っている女性が、別のところで
は、作業服を着て、アフリカの難民運動の
指導者になる。

これを「偽善」と言わずして、何という?

+++++++++++++++

●偽善
聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラ
リアの友人に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒
でないと、理解できないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして
自分が邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思
想の奴隷になる。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そう
なる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすること
になる。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りも
どすことは、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道
からはずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自ら
を解放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほ
しいし、若くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、
a slave of sin)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。
失意と悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならな
い。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじ
めだし、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも
家族には、誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自
分が、こわいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてら
れるのがいやだから、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私
に何かの哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りる
のがいやだからにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んで
いるだけで、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解
放されなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんという
ような顔をしてみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないとい
うこと。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボ
ケるだろう。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 偽善)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

今朝・あれこれ】(8月23日)

+++++++++++++++

「涼しい!」
どうしたことだ?
気象庁によると、10月中旬の気候という。

+++++++++++++++

韓国の国家破綻は時間の問題だが、しかしこの日本とて、あぶない(?)。
私が6年前に書いた原稿だと思うが、こんな原稿が出てきた。

+++++++++++++++

●国家破綻・これからの子育ては?

浜松市には、南米出身者を中心として、約2万4000人の外国人労働者たちが働いて
いる(01年度)。あちこちに、小さな街ができるほどである。ある一角へ行くと、「こ
こは日本?」と思うようなところさえある。

 そういう外国人労働者を見ると、私たち日本人は、心のどこかで、「彼らは外国人」と思
ってしまう。しかし、本当に、そうか。そう言いきってよいのか。つまり彼らは、本当に、
外国人労働者なのか。ひょっとしたら、その姿は、近い未来の、日本人の姿ではないのか。

++++++++++++++

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろ
うとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ド
ルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。
総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、
失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の
日本円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN
銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1
兆円!)

 なおかつ、韓国は、その国家破綻をうまく利用して、韓国の経済を牛耳っていた、財閥
を、解体してしまった。つまり、韓国は、ゼロからやりなおすことで、生きかえり、若が
えった。

 そしてその後の韓国の発展は、これまたご存知のように、めざましい!

 で、そういう韓国だが、教育という面でとらえると、どうなのか。

 たとえば今、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、
48歳ではない。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んでき
た。しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会
へと激変した。復活した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬま
で安泰といいう社会を、自ら破棄したわけである。

 こうした競争主義は、冷徹な論理にもとづくものだが、しかし、この国際社会で生き残
るためには、必然である。能力と、実力と、やる気のあるものだけが、社会をひっぱる原
動力となって働く。

 もちろんその結果、多くの社会的ひずみが生まれたことも、否定できない。が、今、韓
国は、そうした問題をも、着々と解決しつつある。

 しかし、一方、この日本は、どうなのか?

 以前にも書いたが、あるテレビのレポーターが、当時の大蔵省の役人幹部に、こう聞い
たことがある。「あなたがたが、天下りをどう思いますか?」と。

 それに答えて、その役人幹部は、平然とこう言ってのけた。「私ら、今の仕事につくのに、
それ相当の苦労をしたのだから、当然です」と。

 彼らがいう「苦労」というには、受験競争をいう。今もそうだが、その受験競争という
のは、ペーパーテストをいう。

 で、この傾向は改まったかといえば、そうでもない。

 おととし(03)も、こんなシーンを、テレビで見た。「天下りをどう思うか?」という
質問に対して、ある財務省の役人幹部は、こう答えていた。「私ら、仕事が忙しいから、退
職後の就職先さがしができないのです。(だからしかたない)」と。

 私はウソを書いているのではない。ちゃんと、この耳で聞いた。

 こうした役人独特のエリート意識というのは、総じて、役人と言われる人たちは、みな、
もっている。「役人が上で、庶民が下」と。だからその給料にしても、総じてみれば、役人
の給料は、民間の労働者の約2倍。

 平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのよ
うになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。つまり民間企業の中でも、恵まれた労働者。小企業、弱小企業、
個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 ここでいう「公務員」には、官公庁のトップ役人から、清掃に従事する自治体の職員ま
で含まれる。平均が1018万円ということは、1500万円の給料の人もいれば、50
0万円の人もいるということ。

 こうした人たちが、たがいに仕事を回しあい、外部からの参入を、ぜったいに認めない。
ためしに、あなたの近くにある公営の図書館や公民館の人たちが、どういう人事異動で、
今の職場にいるか、聞いてみるとよい。

 能力ではない。実力ではない。経験でも知識でもない。この日本では、一度、受験競争
という関門を通ってしまえば、あとは、すべてトコロテン方式で、死ぬまで安泰。

 それはそういう世界にどっぷりとつかっている人には、きわめて居心地のよい世界かも
しれないが、同時に、それは、日本の社会構造そのものを、硬直化させる元凶となってい
る。

 が、もし韓国のように、定年を38歳にして、実力主義にしたらどうだろうか。当然の
ことながら、役人たちの世界から、猛反対が起きるにちがいない。何といっても、日本は、
奈良時代の昔から、世界に名だたる、官僚主義国家。そうは簡単には、動かない。

 それはわかるが、国家破綻してからでは、遅い。言うなれば、日本中が、廃墟となって
からでは遅い。

 あの先の戦争にしても、最後の最後まで、官僚たちが、へたにがんばるから、その最後
の最後で、原爆まで落とされた。今の日本は、当時の状況にたいへんよく似ている。ある
いはそうにでもならないと、日本人は気がつかないのか。

 結局は、この重いツケは、子どもたちの時代にのしかかる。というより、これからの子
育ては、そういう時代を見越して、していかなければならない。

 国家破綻ということになれば、今の韓国のように、若者たちが、こぞって、外国に移住
するようになる。出稼ぎというのではなく、移住である。韓国では、ここ数年、毎年、1
万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住している。海外定住をめざした
留学生も、02年末までに、34万人を越えた。もちろん日本の学歴など、外国では通用
しない。学歴ではない、中身だ。

 「あなたは何ができるか」という視点で、今度は、外国の人が日本人を見るようになる。
そういう中、臨機応変に環境に対応し、モビリィティ(機動性)のある子どもだけが、生
き残ることができる。

そういう時代がやってくることを見越して、自分の子どもを育てる。

 最後に、一言。「じゃあ、せめてうちの子だけでも、公務員に……」と、もし、あなたが
考えているなら、それは甘い。

仮にIMFが、日本に介入してくるような事態になれば、イの一番に、その公務員たち
がリストラされる。仮に公務員として残ることができても、もちろん給料は、最低限に
おさえられる。

 そういうことも考えて、子どもの教育を組みたてたらよい。

++++++++++++++

 今日も、近くの公営アパートの前を通ると、南米からやってきた労働者たちが、家族ら
しき人たちと集まって、何やら大声で騒いでいた。陽気な人たちだ。これから春になると、
さらににぎやかになる。

 その明るさだけが、ふと、私の重い心を軽くする。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 22日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●掲示板への投稿より

++++++++++++++++++++++

久しぶりに私の掲示板をのぞいたら、
こんな書き込みがありました。

私の書いた返事が少しは役にたったようです。
うれしかったです。

そのまま転載させてもらいます。

++++++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

7月18日の投稿に対し回答を頂き、心から感謝いたします。
はやし先生の原稿も読ませていただきました。
心の整理がつくまで時間がかかりましたが、何故でしょう、今は心静かに投稿させていた
だいています。

「不安」の原因は0〜2才前後と言うご指摘に震えました。私の母は2才の時に母親(私か
らすると祖母)と死に別れていたからです。
私の中にも私の母の中にも母親像が無かった・・・。
幼い頃の私の記憶では、酒に酔った父と母はしょっちゅう包丁を持ち出して夫婦喧嘩をし
ていて、母は、私が小学校に上がると同時に家でしていた内職の仕事を辞め、外に働きに
出るようになり、夜遅くならないと帰って来ませんでした。
私は自分の食事を自分で作って食べ、お弁当も自分で詰めていました。
そんな家庭が当たり前と思っていた部分が今日までありました。

はやし先生のおっしゃるとおり私の心の中には母親像が無かったのです。
そう気がついた今、両親を恨んでも自分の運命を嘆いても仕方が無い。運命を受け入れよ
うと心に決めました。
私が日本人であるように、女に生まれたように、この性格は自分の運命。受け入れるしか
ない。覚悟しました。

はやし先生が「治そう」とか「直そう」と思う必要はない、うまく付き合え、と言ってく
ださったので何だか心が楽になりました。

娘の事も"元気で生きていてくれればそれで十分"と思うようにし、「求めてきたときが、
与えどき」と気楽に考えるようにしてゆきます。

何だか気負いが嘘のように抜けてゆきました。訳も無く涙があふれてたまりません。気持
ちがすごく楽になりました。

はやし先生、本当にありがとうございました。
(08年7月23日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

以下、そのときの掲示板への相談を、
そのまま添付します。

+++++++++++++++

掲示板のほうへ、
こんな相談がありました。
毎日子育てをしながら、
不安でならない……。
そんな内容の投稿です。

+++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

小学一年生(6歳)の娘と、私自身のことで毎日、戸惑っています。

私自身も自分の心に問題、(わがまま、恩着せがましい依存性など、幼児的願望が強い)を
抱えていることを自覚しています。まだ、それを克服することができず心の中で、のた打
ち回っているのが現状です。

そのこともあり、娘には三歳まで私の母や姉、主人の手を借りて何とか一切怒ることはも
ちろん、叱ることもせず過ごしました。(娘を出産した病院の院長先生に、三歳までは何が
あっても怒ってはいけないと忠告されたためです。)

けれど、娘が四歳を過ぎてからそれまでのがまんが限界にきたのか、自分でもどうしよう
もなくヒステリックに娘に怒ることが多くなり、このままでは娘が壊れてしまうような危
機感を感じていたところ、はやし先生のこのリンクに出会い、近ごろは娘と距離を置くよ
うにしています。

ただ、そうすればそうするほど娘が私に、絡んでくるのです。例えば、ひらがなの『や』
が、「これは『か』に見えるから直しなさい。」と言うと、「やだ、これでいい。」とか、「お
母さんがこんな風に教えた」とか、そこから始まり、その後の食事もお風呂もそれ以後ず
っと機嫌が悪くなり、手がつけられなくなるのです。

また、娘がふてくされていたり、つまらなそうな顔をしていても、その心をうまく汲み取
れず、いつもどおりに「帽子もちゃんと片付けなさい」など言ってしまい、それでもぐず
ぐずしている娘に、「はやくしなさい」などと、追い討ちをかけてしまうのです。そうなる
と、その日はそれでもう何もかも動かなくなるのです。

今朝娘が、「今日もお父さんは夜遅いから嫌だな、怒りんぼ母さんと一緒は嫌だ」と涙をた
めて言う姿を見ると、私は私自身を蹴飛ばしてやりたい気持ちで一杯になりました。何故
でしょうか。気負いが強すぎるのでしょうか。

『1日1回、娘をゲラゲラ笑わせてやる』という私自身の目標も、全然実現しないし、本当
に私は娘に優しくないんです。いつも何かに追いかけられているような気がして、(ゆっく
り)ができないのです。

夕方娘と庭に水をまき、ゆっくり娘が育てているアサガを見ながら、冗談でも言ってゲラ
ゲラ笑いたいのに、「さ、早く手と足を洗って部屋に入ろう」などと言ってしまうのです。
何か、いつも自分がガツガツ急き立てられていて、心にゆとりがもてない。こんなことし
ていたら娘もそうなる。だから「急き立てたり、『早くしなさい』を言わずにいよう」と、
そう毎日心で唱えていても、極端な話、口が勝手に言ってしまう感じで・・・その後、自
己嫌悪で胸が苦しくなります。その繰り返しです。

娘に優しくゆったり接することができない私と、一度こじれたら修復できない娘のぐずぐ
ず・・・。『こんな母親死んでしまえ』と心で自分に怒鳴りつけているのですが、どうして
いいのかわかりません。

林先生がおっしゃる「一貫性」は本当に難しい、と言うより苦しいです。毎日、朝と学校
から帰ってきたら、娘を抱きしめています。けれど、娘にしていることはそれだけです。
私の心のどこをどう整理をしたら、優しい母親、娘に優しく接することができる母親にな
るのか、私自身がわがままで、甘えているのは重々わっているのですが、何か一筋のくも
の糸でもかまいません。何か助言がありましたらどうか教えて下さい。お願いします。

【はやし浩司より、Uさんへ】

あなたを、Uさんとしておきます。
Uさん自身も、不幸にして不幸な家庭環境で、育っているとみてください。
「不安」の原因は何かわかりませんが、恐らくUさんが0〜2歳前後ごろ、その(種)が
できたものと思われます。

Uさんからみて、安心して、のんびりと過ごせる家庭環境になかった。
とくに母子関係(Uさんと、Uさんの母親の関係)を疑ってみてください。
Uさんの母親もいつも不安で、その不安を、Uさんにぶつけていたと思います。
それが今の、Uさんのパニック障害(少し前まで、「不安神経症」と呼ばれていました)に
つながっていると考えられます。

(心の緊張感が取れないことを、以前は、不安神経症と呼んでいました。
いつも心は緊張状態にあって、その状態のところへ何らかの不安や心配が重なると、一気
に、緊張状態が加速され、そこでパニック状態になるというわけです。)

ショッキングなことを書きましたが、まずUさん自身の過去と、真正面から向き合うこと
が大切です。
Uさん自身の心の奥深くを、自分でのぞいてみることです。
この問題は、そういった問題があるということではなく、Uさん自身が、自分の過去に気
づくことなく、その過去に振り回されるところに問題があります。

Uさんは、心豊かで、愛情に満ちた乳幼児期を過ごしましたか?
全幅の(さらけ出し)をしながら、幼児期を過ごしましたか?
恐らく、そうではなかったと思います。
Uさんは、親の前で、いつも(いい子)でいた(?)。

もっとはっきり言えば、あなた自身の中に、(母親像)が育っていないということです。
あるいはUさんは、いつも母親を拒絶してきたというケースも考えられます。
その結果が、「今」ということです。

この問題は、子どもの問題ではありません。
Uさん自身の中の、(不安)の問題です。
この(不安)がなくならないかぎり、Uさんは、つきからつぎへと自分で問題をつくり、
それに振り回されることになります。
取り越し苦労とぬか喜びの繰りかえし……というわけです。

で、さらに問題をほりさげると、何が、今、Uさんを不安にさせているかということにな
ります。
もちろん子育てについての不安もあるでしょう。
家庭問題? 夫婦問題? 経済問題? 家族の問題?

こういうケースでは、夫の協力が不可欠です。
しかしUさんは、その協力をじゅうぶん、得られず、それ故にさらに悶々と悩んでしまっ
ています。
袋小路に入ってしまっているのかもしれません。

実のところ私にも似たようなところがありますので、Uさんの精神状態がよく理解できま
す。
で、私のばあい、できるだけ食生活で、自分の心を安定させるようにしています。
海産物中心の献立にするなど。
Ca、Mg、Kが効果的です。
私の友人は、精神が不安定になると、いつもポケットからカルシウム剤を取り出して、ボ
リボリと口の中で、それをかんでいます。

あとは薬局で売っているハーブ系の安定剤を、よく口にします。
内科でも、副作用の少ない安定剤を処方してくれますので、一度、そういうところで相談
なさってみられたらどうでしょうか。
薬名はここでは書けませんが、私はときどき、それを2つに割って、口の中で溶かしなが
ら、服用することもあります。
(本当は1錠なのだそうですが、こうした精神薬は、いつも半分にして、口の中で溶かし
て服用することにしています。
このあたりのことは、医師とよく相談して決めてください。)

Uさんにはつらいでしょうが、この問題は、これから先、一生つづきます。
たまたま今は、それが小1の子どもに向かっているだけ、ということです。
ではどうするか?

あとはそういう自分とうまくつきあうだけです。
「治そう」とか、「直そう」と思う必要はありません。
うまくつきあうのです。
みんな、どんな人でも、その程度のキズというか、トラウマというか、そういうものをも
っています。
Uさんだけが特別というわけではありません。
Uさんが言っておられるように、Uさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをしていま
す。
ちゃんとした(母親像)が入っていないため、どうしても気負いが強くなります。
「いい母親でいよう」という思いが強すぎるため、かえってそれが重荷になってしまうと
いうわけです。
それが今のような、どこかギクシャクとした子育てにつながっている。

そういうときは、肩の力を抜くことです。
(本当は、Uさんが子育てから離れて、自分の好きなことをし、その結果として、子育て
から離れられるようにするのが、よいですが……。)

「ほどよい親」「暖かい無視」を繰りかえしながら、あなたはあなたで、好きなことをすれ
ばよいのです。
仮に子どもを愛せないなら、愛せないでも構わないのです。
実際、約10%の母親たちは、(10%ですよ!)、子どもを愛せないということも、わか
っています。
万事、自然体で、子育てをすればよいのです。
頭の中で、「こうでなくてはいけない」とか、「そうであってはいけない」とか、思う必要
はないのです。
「子どもを愛せないから、私は失格人間」と思う必要もありません。

あなたはあなた。
子どもは子ども。

毎日、学校から帰ってきた子どもを抱く……それだけでじゅうぶん、Uさんは、すばらし
い母親です。
私など、一度も、そういうことはありませんでした。
あとは「求めてきたときが、与えどき」と心得てください。
Uさんの子どもが何かを求めてきたら、すかさず、与える。
それでよいのです。

それから投稿にありました、子どもの反抗ですが、この時期の子どもに、ごくふつうに見
られる反抗ですから、気にしてはいけません。
いわゆる(口答え)です。
(幼児期から、少年少女期への移行期に見られる、ふつうの口答えです。)
いちいち本気にするから、おおげさになってしまいます。
(このあたりにも、あなた自身の母親像のなさが、見受けられます。)

私の書いた原稿で参考になるようなものとしては、(好意の返報性)(親像)(育児ノイロー
ゼ)(悪玉親意識)(気負い先行型)などがあります。
ヤフーなどの検索エンジンを使って、「はやし浩司 好意の返報性」というように検索して
みてください。記事をいくつかヒットできるはずです。

Uさん、あなたはすばらしい母親ですよ。
これほどまでに、自分をみつめ、真剣に悩む母親は、そうはいない。
まず、そういうあなた自身に自信をもってください。
その自信が、あなたの子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、安心感をあたなに
もつようになるでしょう。

どのみち、あと2、3年で、あなたの子どもは、親離れを始めます。
今はがまんのとき。
じょうずに子どもが親離れできるように、子どもをし向けます。

繰りかえしますが、Uさんが今経験しているような、親子騒動(?)は、珍しくも何とも
ありません。
ごくふつうの、一般の親たちが経験する、何でもない問題です。
(みんな、外から見ると、うまくやっているように見えますが、そう見えるだけです。)
できれば小学2、3年の子どもをもつ親に相談してみることです。
「うちもそうですよ」というようなアドバイスをもらって、たいていそれで解決するはず
です。

そしてここが大切ですが、Uさんも子どもが親離れするのに合わせて、自分のしたいこと
を追求します。
あなたにはあなたの人生があります。
子どものために犠牲になるのは、美徳でも何でもありません。
そういう姿を見て、あなたの子どももまた、たくましく成長していきます。

子どもの機嫌など、取らないこと。
嫌われてもいいじゃないですか。
中学生でも、約60%の子どもは、「親のようになりたくない」「尊敬できない」と答えて
いますよ。

それでよいのです。
子育てに幻想をいだかないこと。
子どもに尊敬されようとか、好きになってもらおうとか、思わないこと。
それともあなたは、自分の母親や父親を尊敬していますか。
好きですか。
文面を読むかぎり、答は「ノー」のはずです。

ついでに「はやし浩司 レット・イット・ビー」という原稿も読んでみてください。
参考になると思います。
(たった今、自分で検索してみたら、18件、ヒットしました。)

「レット・イット・ビー」というのは、「あるがままに……」という意味です。
では、また……。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++

掲示板へは、(はやし浩司のHPのトップページ)より、(メール)→(掲示板)へと、お
いでください。)

++++++++++++++

Uさんへ

読むのが遅くなり、失礼しました。
今日は8月22日です。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●熟年離婚

+++++++++++++++++++

「林先生は、熟年離婚というと、妻側からの
一方的な申し立てだけによるものとお考えのようですが、
それはちがいます。
夫の側からも、離婚を申し立てることもあります。
私たち夫婦のばあいが、そうです。

妻と結婚して35年になりましたが、昨年、
その妻と離婚しました。

親類、兄弟に、理由を話したことはありません。
話しても、どうせ理解してもらえないでしょう。
だから林先生にだけ、こうして話すことにします。

直接の原因は、ちょうど1年前、暑い日がつづいて
いたときのことです。
軽い熱射病になり、発熱と吐き気が、その朝、ありました。
体温計で計りませんでしたが、体温は、37、8度近く
あったと思います。

そんな私を妻は、形だけの看病をしながら、こう言いました。
「自業自得よ」と。
その前日、運動不足を感じ、事務所までの5キロを歩いた
ことについて、そう言いました。
で、私が、「今日、また5キロ歩いたら、死んでしまうかも
しれないね」と言うと、やはり、「自業自得よ」と。

私には、「死んでもしかたない」というふうに聞こえました。
同時に、これが30年以上もいっしょに暮らしてきた妻の
言葉かと、驚き、自分がなさけなくなりました。

妻は、子どものころ、何かの障害児だったようです。
いつもポツンと、ひとりで遊んでいたようなことを言います。
私は妻以外の女性を知りませんでしたから、女性というのは
そういうものとばかり思っていました。

結婚して10年目くらいまで、私といっしょに床に入るのを
いやがりました。
妻の体に夜中に触れただけで、「変態!」とか、「異常者!」とか言われ、
その手を払いのけられたこともあります。

がんこで、いつもぜったい、自分が正しいと思いこんでいました。
30年以上暮らしましたが、自分のほうから、「ごめん」と言ったことは
一度もありません。

ほんとうに、一度もありません。
自分でお茶をこぼしても、「こんなところに茶碗を置く人が悪いのよ」
と言い返します。
そういう女性です。

そのため夫婦喧嘩は絶えませんでした。
が、私も60歳を迎え、決心しました。
「自業自得」という言葉が、日ましに耳の中で大きく響くようになりました。
ふつうなら、妻というのは、こういうときたぶん、「体に気をつけてね」とか、
「無理をしてはだめよ」とか言いますよね。
しかし私の妻は、「自業自得よ」と。

その言葉の中に、ぞっとするほど、冷たいものを感じました。
30年以上、妻の心は閉じたままでした。
妻のほうから、明るく笑いかけてきたり、話しかけてきたりということは、
めったにありませんでした。
性生活においては、もちろん、そうです。
そのつど私のほうが、「触っていいか?」と、妻の気持ちを確かめなければなり
ませんでした。

で、離婚を決意しました。

が、外面は、そういう女性ではありません。
どこか控えめで、いつもニンマリと笑っているようなタイプの女性です。
かえって人間性豊かな女性に思われています。
だからこんな話をしても、だれも信じてくれないでしょう。

しかしね、林先生、一度離婚と決めてしまうと、その流れは、もうだれにも
止められませんね。
息子や娘たちのこと、親類や世間体のこと、すべて、どこかへ吹き飛んで
しまいます。

(それまでは、息子たちのこともあるから・・・とか言って、がまんしましたが。)

で、最後の最後まで、妻は、つっぱったままでした。
話し合いの席でも、「すべてあなたが悪い」というようなことばかり、言いました。
いつも「私は最高の人間」と思っていましたから・・・。
離婚の話をしてから、離婚まで数か月かかりましたが、その間、一食も
食事の用意をしてくれませんでした。
もちろん寝室も分けましたが、一度も妻のほうから話し合いにきたこともありません。

若いころから、気が強い女性でしたから。
離婚によって、妻は、自分のプライドが傷つけられたように感じたのでしょう。
以後、話し合いは、すべて、妻の兄を通してしました。

(S県U市にお住まいの、DE氏より)

++++++++++++++++++++

●心を開く

結婚生活に疲れを感ずる妻は多い。
同じように、疲れを感ずる夫も多い。
ポイントは、DE氏が書いているように、「心を開いているかどうか」ではないか。

教師と生徒の関係でも、(心を開けない生徒)を教えるのは、たいへん。
神経を使う分だけ、疲労感も大きい。
相手が友人でも、親子でも同じ。
夫婦となれば、なおさらだろう。

心を開く・・・。
思ったことを言い、それをすなおに表情で表わす。
それが自然にできる人は、自然にできる。
そうでない人は、そうでない。
さらに言えば、心が開いた人からは、閉じた人がよくわかる。
しかし閉じた人からは、開いた人がわからない。
自分の心が閉じていることにすら、気がつかない。
自分では、それがふつうだと思っている。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●8月19日(火曜日)

朝から食欲なし。
睡眠時間は、8時間近くとった。
熟睡できなかったらしい。
まだ眠い。

●兄の歯

先日私の兄が死んで、火葬されたときのこと。
私は兄の下あごの骨が、どういうわけか、気になった。
遺骨をつぼにみなが詰めるときも、私は、下あごだけを、じっと見つめていた。
それは雪のように美しかった。
紙のように薄かったが、形はしっかりと整っていた。
が、その美しさが、かえって不思議だった。

兄は子どものころから歯が弱く、年中、虫歯に悩まされていた。
夜中じゅう、「歯が痛い」と泣いていたのも、よく覚えている。
そんなこともあってか、最後の10〜15年間は、すべての歯は抜け、
総入れ歯をしていた。
下あごには、そのためか、一本も、歯は残っていなかった。
総入れ歯にしたと聞いたとき、私は、「それでよかった」と思った。
兄は、少なくともそれで、虫歯の痛みからは解放された。

で、今朝、歯科医院へ行ってきた。
歯にも定期検診というのがある。
今日は、その日だった。
で、歯垢を取り除いてもらっているとき、兄のあの下あごの骨を思い出していた。
「私も死んだら、ああなるのか」と。
そういう気持ちを察したのか(?)、いや、そんなことはありえないが、
歯科医師のK先生は、こう言った。

「1本でも歯が残っていれば、その歯が役にたちますよ」と。

どういう意味でK先生がそう言ったのかは知らない。
その1本をたよりに、ほかの入れ歯が入れやすいということか。
あるいは総入れ歯は、よくないということか。

兄は死んだが、この先、10年や20年など、あっという間に過ぎてしまうだろう。
つぎの瞬間、私の体が、兄のようになったところで、何ら、おかしくない。
だれかが私の遺骨を拾いながら、私が思ったように、「美しい」と思うかもしれない。
兄のあの下あごが、私のものだったと考えても、何ら、おかしくない。
現に今、私は満60歳になってしまった。
若いころは、自分が60歳になるとは、とても信じられなかった。

やがて私も、この世から消える。
いつかだれか、私の遺骨を見ながら、同じように思うかもしれない。

生きているとき、兄は、私にとっては、小さな存在でしかなかった。
しかし死んでからの兄は、日増しに大きくなりつつある。
……というより、毎日、兄のことを考えている。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2808)

●雑誌『ニューズ・ウィーク』を読む

+++++++++++++++++

名古屋へ行く途中、キオスクで、
『ニューズ・ウィーク』誌を買う。

「五輪後の中国」という表紙の見出しが
気になった。

+++++++++++++++++

小さな記事だが、こうある。

「ユーロ経済が先に転落?
……ロンドンの調査会社、
キャピタルエコノミクスによると、
景気後退に入る時期は、アメリカ
よりユーロ圏のほうが、早そうだ」と。

「この第3四半期、イタリアと
スペインの成長率が急減速するのを
皮切りに、ユーロ圏が景気後退に
入ると予想される時期」と。

今までこの日本をかろうじて支えて
きたのは、中国。
中国特需。
が、ここにきて、アメリカ経済が
おかしくなった。
中国の株価(上海B株)も、一時の半値
程度にさがった。
が、それ以上にあぶないのが、ユーロ
圏とか?

日本に嵐が、同時に3つもやってきたような感じ。
残るはインドということになるが、
ニューズ・ウィークは、つぎのように
伝える。

「死者数は世界4位。テロ再燃の
きざし」(P9)と。

「昨年インドで起きたテロによる
死者の数は、1093人。イラク、
アフガニスタン、パキスタンについで、
世界4番目に多い数字だ。
しかも目的がはっきりしない攻撃が
増加している」と。

簡単に言えば、インド国内で、カシミール
問題に端を発した、イスラム教徒との
対立が深まっているということらしい。

シリアもおかしい。
イランもおかしい。
つづいて今度は、グルジア。

みんな暑い国。
これも地球温暖化による影響によるものなのか?
暑くなると、前頭前野の活動がおかしくなる?
おかしくなって、理性的な判断ができなくなる?

+++++++++++++++++

●グルジア

グルジアの歴史について、勉強してみよう。

ニューズ・ウィーク誌の記事をまとめてみる。
その前に、地理的な位置関係について、整理。

□       □……北オセチア共和国(現在、ロシア領内)
――――――■――     ■……南オセチア自治州(現在、グルジア領内)
|        |     ――――内……グルジア
|グルジア    |
―――――――――

グルジアを四角で表現すると、南オセチア自治州は、上部中央に位置する。
その南オセチア自治州は、ロシア領の北オセチア共和国と接している。

13世紀……現在の北オセチア周辺のオセット人が、現在の南オセチア地域に移住を開始。
18世紀〜……南オセチアが帝政ロシアの支配下に入ると、グルジアもロシア帝国に併合。
1922年……グルジアがソビエト連邦に加盟し、南オセチアも、グルジアに編入される。
1990年……グルジア語の強制的な公用語教育に反発した南オセチア自治州が、北オセ
チア共和国への編入を求める、主権宣言を採択。
1991年……グルジアが独立宣言。同時に南オセチアとグルジアの武力紛争が激化する
が、翌年、ロシアとグルジアの首脳会談により、和平合意が調印される。
2004〜……国家統合をめざす、新欧米派のサーカシビリ大統領のもと、再び緊張関係
へ。

今回のグルジア紛争は、グルジア軍が南オセチア自治州に軍を進めたことで始まった。
それに反発したロシア側が、グルジア国内に侵略。
紛争が一気に、グルジア全土に拡大した。

これに対してアメリカ側は、強硬姿勢に打って出た。
黒海に駆逐艦を含む、イージス艦を派遣。
米ロ対決の緊張が高まっている。

サーカシビリ大統領は、ニューズ・ウィークの記者に対して、つぎのように答えている。

「ロシアの本当の目的は、グルジア征服だ。
彼らはグルジアがほしい。
中央アジアとカスピ海からのエネルギー輸送路を掌握したい。
そもそも彼らは、私たちを始末したいのだ。
この地域からあらゆる民主的な動きを排除したい。
それだけだ」と。

……しかし、こんなところ、つまりグルジアにも、戦争の火種がくすぶりつづけていたと
は!
いったい、この世界は、どうなっているのか?

アメリカが本格的にグルジア問題に介入してくれば、その隣には、NATOに加盟してい
るトルコがひかえている。
ロシアが、このまま「わかりました。グルジアから手を引きます」と言うとは、とても思
われない。
へたをすれば、先にも書いたように、米ロが直接軍事対決する場面も起るかもしれない。

これに対して、世界は、敏感に反応し始めている。
さがりつづけていた原油価格が、再び上昇に転じた。
おそらく今日(22日)あたりから、貴金属、金属価格も上昇に転ずるにちがいない。

グルジア問題は、今、ロシアがどこまで自制するかで、決まる。
さあ、ロシアは、どう出るか?

で、本題。

「五輪後の中国」は、どうなるか?

ニューズ・ウィーク誌の結論は、こうだ。
全体で、7ページもの大特集を一言でまとめてみる。

「国内の政情は不安定化する。
しかし経済は、1970年代の日本と同じような道を歩む」と。

ところで政情不安について、こんな記事が載っていた。
たいへん気になった。

「……北京を走る7万台のタクシーには、乗客の会話を録音し、基地に送信するためのマ
イクが装備されている。
運転手は、乗客の行動に不審を感じたら、ハンドル近くの目立たないボタンを押して、盗
聴器を作動させるよう指導されている。
盗聴器は、タクシーの位置を特定できるGPS(衛星利用測位システム)に接続されてい
る」と。

そのほかに、北京市内だけでも、40万台にもおよぶ監視カメラが設置されているという。

フ〜〜ン、そこまでやるか、中国!
五輪でのニセ花火。
口パク。

北京では、安心して会話をすることもできない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【私の母】

●息子を嫁に取られた!
 下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、母は、こう言った。「お前にこんなことを
してもらうようになるとは、思わなかった」と。「そうだなア」私。その瞬間、それまでの
母との確執が、霧が晴れるように消えた。
 私の母は、外面はともかくも、私たち子どもに対しては、過酷なほどきびしい母親だっ
た。私の長男が生まれたときも、私の家にやってきて、貯金を全額おろさせ、それを実家
へもって帰っていった。「私の家」といっても、6畳と4畳だけの狭いアパートだった。私
はそれ以前からも、またそのときも、収入の約半分は、実家へ仕送りしていた。母は、明
らかに私を恨んでいた。
 私が今の妻と結婚して、浜松市に移り住んだことについても、「息子を浜松の嫁に取られ
た」と、あちこちに電話をして泣きわめいていたという。私は母がそんな気持ちだったこ
とは、そのときは知らなかった。ずっとあとになってから、いとこの1人から、その話を
聞いた。

●いつ産んでくれと頼んだア!
 私は母にとっては、自慢の息子だった。私は私で、母の期待に応えることで、自分の立
場を守った。私が中学生になるころには、稼業の自転車屋は、斜陽の一途をたどっていた
が、参考書や問題集だけは、いくらでも買ってもらえた。が、やがて高校受験が近づくと、
母の様子は一変した。
 私が郷里のM町を離れて、岐阜市にあるG高校に進学したいと言い出したときのこと。
母は担任の教師まで説得して、それに反対した。母は私が母のもとを離れるのを、何より
も恐れた。そしてことあるごとに私に、こう言った。「産んでやった」「育ててやった」「親
の恩を忘れるな」と。
 私は地元の高校に進学し、悶々とした日々を過ごすようになった。母は口癖のように、
こうも言った。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」「大学行くなら、国立でなければだめ」
と。当時、国立大学は、どこも10〜20倍前後の倍率だった。が、ある日私はキレた。
高校1年の終わりごろだったと思う。私は母を突き飛ばして、こう叫んだ。
 「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
 
●社会的な重圧感
 重圧感はそれからもつづいた。金銭的な重圧感というよりは、社会的な重圧感だった。
親子の関係も、それが良好なうちは、たがいに居心地のよい世界となる。が、ひとたび崩
れると、(家族自我群)となって、その人を苦しめる。ふつうの苦しみではない。心理学で
も(幻惑)というが、それは(悶絶)と言うにふさわしい。が、こんなことがあった。
 私が母に預けておいた土地の権利書を、母は、勝手に転売してしまった。私がそれに泣
いて抗議をすると、母はこう言った。「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪
い!」と。そのとき私と母の関係は、切れた。私が47歳のときのことだった。

●母は母で懸命に生きた
 …だからといって、私は母を責めているのではない。当時は、まだそういう時代だった。
子どもといっても、親の(モノ)。そういうモノ意識も色濃く残っていた。世間体、見栄、
メンツが、母の生きざまの柱にもなっていた。当然(家意識)も、残っていた。母は母で、
あの時代を懸命に生きただけ。
 が、その母も今年、90歳。歩くこともままならない状態で、私以外は、区別もつかな
い。私が「お前なア、ウンチがしたくなったら、ウンチと言えよ」と言うと、「すまん、す
まん」と。が、そこにいるのは、ただの老人。よぼよぼで、どうしようもないほど、小さ
な老人。「こんな母を本気で相手にしてきたのか」と思ったとたん、それまでの確執が、ウ
ソのように消えた。と、同時に、そこにいたのは、私が子どものころの、あの慈愛に満ち
た、やさしい母だった。
 「お前が死ぬまで、ぼくがちゃんとめんどうをみるから」と言うと、再び母は、こう言
った。「すま、すまん」と。07年の正月のしめ飾りが、まだ玄関先にぶらさがっていると
きのことだった。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争】(8月23日)Japan vs Korea, Economic War!

●97年の愚

「97年の愚」というのは、1997年、韓国がデフォルト(=債務不履行=国家破綻)
に陥ったとき、日本政府が、韓国政府から頼まれもしないうちから、IMF、世界銀行、
アジア開発銀行などを総動員して、総額で500〜600億ドルかき集めて、韓国を救済
したことをいう※。しかもアメリカの反対を押し切ってまで! 同じころ、日本政府は、
120万トンという穀物援助(主に米)を、北朝鮮に対してしている。時のK外務大臣は、
「これで(朝鮮半島が)動かなければ、責任と取る」と明言したが、結局、何も動かなか
った。動かなかったばかりか、かえって反日運動が激化した。竹島問題を例にあげるまで
もない。もちろんそのあと、K外務大臣が責任を取ったという話もない。さらに最近に至
っては、「借金は返しから、問題はない」(=日本に頭をさげる必要はない)と、韓国政府
は居直っている。

※……ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終
わろうとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ド
ルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。
総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、
失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の
日本円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。

(日本のばあい、あのN銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C
総連系列のC銀には、1兆円!)

++++++++++++++++

8月20日に、1ドル=1053ウォンだった、韓国ウォンは、さらに下落。
今朝、8月23日朝は、1ドル=1063ウォンにまで、下落!

++++++++++++++++

韓国銀行の「猛烈な」ドル売り、ウォン買いにもかかわらず、
とうとう1ドル=1050ウォンを突破!
(08年7月だけでも、そのため、107億ドルも、外貨を減らしている。)
今朝(8月20日)は、1ドル=1053ウォン前後で、相場が始まった。

「猛烈な」勢いで、外資が韓国から逃げ始めている。
簡単に言えば、そういうことになる。

で、昨年の終わりごろには、900ウォン前後だったから、900ウォン→1050ウォ
ンへと、約17%もウォン安になったことになる。
(この間、日本は、1ドル=120円→110円と、円高方向に推移している。世界的に
ドル安傾向がつづいているから、これは自然な流れとみてよい。)

で、時はからずも、数日前、キューバが、デフォルト(債務不履行)を宣言した。
手持ちの外貨が不足して、輸出代金が決済できなくなってしまった。
では、韓国はどうか?

先月から今月にかけての「猛烈な」ドル売り、ウォン買いで、手持ち外貨は、そろそろ底
をついているはず。
(すでに韓国の手持ちの外貨が、底をついている可能性も高い。)

今週のはじめには、1ドル=1040ウォンが、ひとつの壁になっていたが、それをあっ
さりと割り込んでしまった。
原油価格がさがったとはいえ、今年度末までに返済しなければならない短期外債(=借金)
は、膨らむ一方。

このままウォン安を放置すれば、韓国内の物価は上昇。
輸出代金を決済できなくなれば、韓国は、第二回目のデフォルトを経験することになる。

そこで韓国政府は、公定金利(日本の公定歩合)を、先週、5・0%から、5・25%へ
とあげた(08年8月)。
苦渋の選択だった。
金利をあげれば、国内企業に打撃を与える。
しかしそれ以上に、外貨の流出がこわい……。

が、こうしてがんばればがんばるほど、つまり無理を重ねれば重ねるほど、そのあとにや
ってくる「谷」は深い。
1ドルが何ウォンになったら危機……ということは、今の段階では言えない。
すでにその危機ラインを突破している。
1ドル=1050ウォンというのは、そういう数字である。

つまり「今、いくら?」ではなく、「短期間に、いくら変動するか?」をみる。
韓国のばあい、今週に入って、すでに12ウォンもウォン安が進んでいる。
これが今週末から来週にかけて、さらに10〜20ウォンもウォン安が進むようなことに
でもなれば、韓国経済は、おしまい。
お陀仏!

日本の輸出業者も、今からそのときを覚悟し、準備しておいたほうがよい。

【日本政府へ】

相手が頭をさげて日本に頼みにくるまで、けっして、こちらから救いの手を出してはいけ
ない。
97年に日本がした「97年の愚」※を、繰りかえしてはいけない。


+++++++++++++++

(補記)(先月、7月20日に書いた記事より)

現在の韓国の外貨準備高は、2581億ドル。(=貯金)
今年中に返済しなければならない対外債務は、2156億ドル。(=借金)
原油の高騰で、昨年よりも、500億ドルも、輸入コストの増加が見込まれる。(=負担)
その上、経常収支は、今年(08年)、100億ドルの赤字。(=収入源)
加えてこの7月だけでも、ドル売り、ウォン買いで、107億ドルも外貨を減らしている。

これだけの数字を並べただけでも、現在、韓国がどういう状況にあるか、わかるはず。

加えて現在、外資が猛烈な勢いで、韓国から逃避し始めている。
韓国の株式市場でも、今年に入ってから、すでに20兆ウォン(約2兆円)も、売り越さ
れている。

そこへもってきて、政情不安。
「ローソク・デモ」に見られるように、あの国は、何かが、おかしい。

かんたんに説明すると、こうだ。

あなたには、260万円の貯金がある。
しかし今年中に、220万円の借金を返済しなければならない。
しかし子どもの教育費で、今年は、さらに50万円の負担増。
7月だけでも、11万円近い、臨時出費が重なった。
加えて夫の給料だけでは、赤字。
仕事も減ってきた。
夫婦関係も、おかしい?

あとは、どうなるか?
みなさん、ご想像のとおり!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●頭の体操(数学の問題)

+++++++++++++++++

地球上では北半球の5分の2が陸地であって、
海の7分の4は南半球にあるといわれている。
すると、北半球の陸地は南半球の陸地の
何倍あることになるか(関西学院中学部入試問題より)。

Two fifth of the North Hemisphere is land.
Four seventh of the sea is in South Hemisphere.
Then how large is the land of the North Hemisphere when compared
with the land of the South Hemisphere?

+++++++++++++++++

中学の入試問題である。
最近の傾向としては、こうした教科書にはぜったいに出てこないような
問題が出されることが多い。

制限時間は5〜10分として、あなたも一度、チャレンジしてみてほしい。
なお大切なのは、答ではなく、考え方。
つまり(式)をしっかりと残すこと。

答の正誤よりも、(もちろん正解であればさらによいが)、大切なのは、
考え方。
そのためにも、式をしっかりと残すこと。

(解答)

地球全体を、「1」とすると、北半球の(5分の2)が陸地だから、
(5分の2)x(2分の1)(=北半球は、地球の半分)で、(5分の1)。
つまり北半球の陸地は、全体の(5分の1)。

つまり北半球の海は、(2分の1)−(5分の1)=(10分の3)。
つまり北半球の(10分の3)。

北半球の海は、1−(7分の4)=(7分の3)ということだから、
北半球の(10分の3)が、地球全体の(7分の3)ということだから、
地球全体の中で、海が占める割合は、
(10分の3)÷(7分の3)=(10分の7)。

だから地球全体の陸地は、
1−(10分の7)=(10分の3)。

よって南半球の陸地は、(10分の3)−(5分の1)=(10分の1)。

北半球と南半球の陸地は、

(5分の1):(10分の1)=2:1

だから答は、2倍!
(以上、参考、「数学パズルと算数思考」・中宮寺薫・インデックス・コミュニケージョン)

+++++++++++++++

この問題を、中学2年生の生徒と競争で、解いてみた。
結果は、私の負け。

しかも私は、「1・5倍」という答を出してしまった。
暑さのせいで、このところ脳みそが暴走しやすくなっている。

(補記)

ついでにこんな問題を出してみた。
これは私のオリジナル。

++++++++++++++++

満40歳で、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を示す
人は、全体の5%(20人に1人)いるといわれている。

では、夫婦ともども、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を
示す割合は、全体の何分の1か。

++++++++++++++++

これはかなり深刻な問題である。
もし夫婦ともどもアルツハイマー病になってしまったら、
だれがどうやって介護すればよいのかということになる。

それはさておき、この問題は、こう考える。

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(●)印が、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を示している人。

夫婦の組み合わせは、20x20=400(組)できる。
その中で、(●)どうしが夫婦になる割合は、1組。
つまり単純に考えると、(400分の1)ということになる。

解答を説明すると、中学生たちが騒いだ。
「そんな少ないはずがない!」
「いや、もっと少ないはずだ!」と。

「10組に1組は、どちらかが初期症状を示しているはず。(10組で、20人になるから。)
そういう組が、20倍もあれば、両方とも初期症状を示す組があるはず。だから答は、2
00組に1組」と。

「いや、先生は、

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
とう図を描いたが、実際には、

(夫)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
というケースもあるはず。
もしそうなら、男同士は結婚できないから、両方が初期症状を示す割合は、ゼロのはず」
と。

何が何だか、わけがわからなくなってきた。
これも暑さのせいか?

要するに、10組に1組は、どちらかが初期症状を示していることになる。
これはまちがいない。

では、この先は、どう考えたらよいのか。

20人に1人が初期症状を示すとして、夫婦の組み合わせは、つぎの3種類ある。

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(夫)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(夫)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○

全体では、400x3=1200組。
その中で、夫婦ともども初期症状を示すのは、1組のみ?
だから1200分の1?

?????

思わず、子どものトリックにひかかるところだった!

問題の内容を変えよう。

「ここに、40個の石がある。うち2個は黒、残りの38個は白。
2個選ぶことにして、2個とも黒を取る確率は、何分の1か?」と。

これは単純な確率の問題である。

石に1〜40の番号をつけると、(黒石は、1と2)、最初に黒石を取る確率は、
20分の1。
残りは39個。
その39個の中から、黒石を取る確率は、39分の1。
かけ算をすると、20x39=780、つまり780分の1ということになる。

しかしこの計算は、まちがっている。男女の区別を計算に入れていない。

そこで石に(1)〜(40)までの番号をつける。
すると(1、2)(1、3)(1、4)……(38、39)(38、40)(39、40)
というように、組み合わせは、39+38+…2+1=40x19+20=780(組)。
その中で、(1、2)の組み合わせは、1組だから、答は、780分の1。
これは先の計算結果と同じ。

ところが夫婦のばあい、(1)と(2)が、男女別々である確率は、2分の1。
(男、男)(男、女)(女、女)(女、男)と考えればよい。
だから2分の1。
だから780x2=1560、つまり1560分の1となる。

これで本当によいのだろうか?
本当にそんなに少ないのだろうか?
どうも、実感とは、かけ離れているような気がする。

そこで問題は、振り出しに……。

こう考えてみよう。

夫もしくは妻が、初期症状を示している割合は、10組に1組。
つまり10分の1。
そういう組が、20組あれば、配偶者が初期症状を示す確率は、20分の1。
だから10x20=200、つまり200分の1。

「同じ問題でも、夫婦がからんでくると、むずかしいね。これは来週までの宿題だ」と
今日は逃げた。

で今は、思考力、ゼロ。
夏の炎天下、今日は1時間も、汗をかきながら歩いた。
疲れた。
ハハハ!

「あの林は、こんな簡単な問題も解けないのか」とは、どうか思わないでほしい。
(そう思ってもらっても、かまわないが……。今日の私の脳みそは、このレベル!)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●世界を欺いている日本(?)

+++++++++++++++++

日本は近代国家なのか?
日本は民主主義国家なのか?

一応、世界では、そう通っている。

しかし本当に日本は、近代国家なのか?
本当に日本は、民主主義国家なのか?

いまだに封建時代をそのまま引きずったような
土着性は、いたるところに残っている。
権威主義、身分意識、家制度、古典的な夫婦観、
「女・子ども」意識、上下意識などなど。
どれをとっても、封建時代、そのまま。

さらに日本が民主主義国家と思っているのは、
日本人だけ。
日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
君主(=天皇)官僚主義国家と言う人もいる。
政治そのものが、官僚たちによって、牛耳られて
いる。

部屋の中に、電子製品がゴロゴロと散らかっている
から、近代国家と言うのではない。
高層ビルが立ち並び、性能のよい車が走り回るから、
近代国家と言うのではない。

もしこんな論理がまかり通るなら、金持ちほど、
近代化が進んでいることになってしまう。

近代国家というのは、あくまでも「意識」の問題。
意識が集合されて、「近代性」が決まる。

先日も、G県の山間部に住む知人が、こう言った。
「田舎へ移住してくるのはいいが、田舎には田舎の
しきたりというものがある。そのしきたりには従って
ほしい」と。

「しきたりに従わない者は、追い出される」とも。

知人は知人としての、常識を言ったまで。
その知人が、特殊というわけではない。
特別な考え方をしているというわけでもない。

21世紀にもなり、戦後60年以上にもなると
いうのに、こういう言葉が、堂々と口から出て
くるところが恐ろしい。

しきたり?

残念ながら、いとこには、その(恐ろしさ)が、
まるでわかっていない。

つまり私たちがいう、(選挙)にしても、その
延長線上にある。
私たちがいう、(民主主義)にしても、その
延長線上にある。

どうしてこういう国を、近代国家と言うのか。
言えるのか。

私たちは子どものころから、「日本は近代国家であり、
民主主義国家である」と教えられてきた。
日本人の私たちが、そうだまされたところで、
それはそれで、しかたない。

しかしいまだに、日本は、世界をだましつづけている。

あの北朝鮮は、自分たちの国は、民主主義国家であると、
世界をだましている。
北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。
そういう北朝鮮を見ながら、「私たちの国、日本はちがう」と
思っている人は多い。

が、世界から見れば、同じ……とまではいかないが、
似たようなもの。
いつになったら、日本人は、それに気づくのか・

+++++++++++++++++

朝鮮N報に、たいへん気になる記事が載っていた(8月17日)。
それをそのまま転載させてもらう。

*****以下、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

 西洋人は日本を、西洋流に想定した「東洋」あるいは「日本」のイメージで考える場合
が多い。『日本の再構成』は、西洋人が日本を見る際のこうした枠組みに対し、反旗を翻す。

著者のパトリック・スミスは、1987年から91年まで「インターナショナル・ヘラルド・
トリビューン」紙の東京支局長を務めたのをはじめ、20年以上アジアで活動してきた米国
人。これまで西洋に日本を知らせてきた学者としてはエドウィン・ライシャワー、エズラ・
ボーゲルなどが挙げられるが、これらの研究者は実際には日本を歪曲(わいきょく)して
きた、とパトリック・スミスは毒舌を浴びせかける。 

 パトリック・スミスは、西洋人は日本に見いだす日本的な伝統の強みというものを認め
ない。逆に彼は、日本は十分な近代性を備えていない国で、これは米国の責任によるとこ
ろが大きい、という趣旨の主張を展開している。

 パトリック・スミスの主張は、敗戦以後の日本は国民の選択を通じ自ら進むべき方向を
決定すべきだったが、冷戦構造下で共産主義を防ぐという名目を掲げた米国が、第2次世
界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した、というものだ。

著者は「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」「米国
は、日本が民主主義国家だと信じるよう世の中をあざむいた」と語る。

パトリック・スミスは、ライシャワー教授の著書『日本の今日』を、「事実無根の話ばかり
で、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と批判し、安倍晋三前首相の母方の
祖父・岸信介元首相を「戦犯にしてならず者」と容赦なく表現した。

*****以上、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

私自身は、まだ『日本の再構成』を読んでいない。
パトリック・スミスという人物についても、まったく知らない。
本の名前も、著者の名前も、はじめて聞いた。

また内容的には、韓国の人たちが飛びつきそうな本である。
韓国の人たちは、日本の悪口(?)を書いた本には、すぐ飛びつく。

それはそれとして、つまりそういう偏見は別として、パトリック・スミスは、
かなり鋭いことを言っている。
たとえば「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」
という部分。

実際、そのとおりだから、反論のしようがない。

たとえば戦後、60数年、日本はかろうじて平和を守ることができた。
が、これは何も、日本人が平和を愛する国民だったからではない。
日本が平和を守ったからでもない。
たまたまアメリカ軍という、最強の軍隊が、日本に駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本はそのつど、世界中から
袋叩きにあっていたかもしれない。

スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・朝鮮などなど。
フィリッピンのマルコスだって、だまっていなかっただろう。
今の今でも、北朝鮮は、日本攻撃の夢を捨てきったわけではない。

「米国の軍事保護国」というのは、そういう意味である。

また「第2次世界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した」と
いう部分も、気になる。

事実、戦時中から戦後にかけて、軍部はともかく、ほかの行政機関で、クビになった
官僚は、皆無に等しい。
先頭に立って、日本の軍国主義を推し進めていたのが、当時の文部省。
私が調べたところでも、その文部省で、戦後になってクビになった官僚は、ひとりもいな
い!

日本は、変わるべきときに、何も変えないまま、それを戦後の今に、引きずってしまった。
(だからといって、左翼思想を支持しているわけではない。誤解のないように!)

4年間、ヘラルド・トリビューン紙の支局長をしてきたという。
20年以上アジアにいて、この日本をながめてきたという。

パトリック・スミスの手厳しい批判は、つづく。

ライシャワー教授が書いた、『日本の今日』(日本語訳、「ライシャワーの日本史」のこと?
※)について、「事実無根の話ばかりで、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」
と。

たしかに私たちはライシャワー氏の本を読んで、当時、日本を再認識した。
日本が古来よりもつ、伝統と文化のすばらしさ(?)を、それで知った。
「日本もまんざら捨てたものではない」ということを、知った。

それを「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と。

ウ〜〜〜ム!

たとえば私自身も、織田信長や豊臣秀吉などの人物が、日本を代表する
すぐれた人物であったかどうかということについては、大きな疑問をもっている。
徳川家康についても、そうである。
私たちは、「上」から教えられるまま、そう信じ込まされているだけかもしれない。
言いかえると、あの封建時代にしても、私たちはそれ以後、一度とて精算したという事実
すらない。
先の戦争にしても、そうだ。
「亡き英霊」という言葉にしても、その「亡き英霊」たちが、外国で、(日本国内で、では
ない。外国で、だ)、どんなことをしたかについて、ほとんど語られることはない。

そういった事実を総合して、パトリック・スミスは、「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあ
ふれた本だ」と言ったのかもしれない。
私もこの年齢になって、はじめて、彼が言うところの「仮面」の意味がわかるようになっ
た。

たとえばこの静岡県では、徳川家康の悪口を書くことは、タブーに近い。
とくに静岡市においては、そうである。
徳川家康は、すばらしい政治家として、神格化されている。
それもそのはず。

あの300年という長い年月を経て、徳川家康は徹底的に美化された。
その一方で、徳川家康について都合の悪い事実は、繰りかえし抹消されてきた。
その結果が、今である。
「仮面」といえば、「仮面」ということになる。

日本人の私たちにとっては、ザワザワと、耳障りの悪い内容の本である。
しかしそういう声にも、謙虚に耳を傾けてみる必要がある。
でないと、日本は、いつまでたっても、極東の島国で終わってしまう。

なお、今日、同時にこんなニュースも伝えられている(産経新聞・8月17日)。

『韓国各紙が建国60周年を機に、成人1000人を対象に実施した世論調査で、「最も脅
威になる国」は日本と答えた人が最多となり、「韓国の国益のために親しくすべき国」は日
本よりも、北朝鮮と回答した人が多かったことがわかった』と。

こうした意識のズレは、どこから生まれるのか。
そのヒントが、パトリック・スミスの『日本の再構成』にあるように思う。

一度、読んでみたい。

(注※)ライシャワーの著作より

"Ennin's Travels in T'ang China (Ronald Press Company, 1955/『世界史上の円
"仁―唐代中国への旅』, 実業之日本社, 1963年/講談社学術文庫, 1999年) 
"Wanted: an Asian policy(Knopf, 1955/『転機にたつアジア政策』, 一橋書房, 1957
"年) 
"The United States and Japan(Viking Press, 1965, 3rd ed./『ライシャワーの見た
"日本』, 徳間書店, 1967年) 
"Beyond Vietnam: the United States and Asia(Vintage Books, 1967/『ベトナムを
"越えて』, 新潮社, 1968年) 
"The Japanese(Belknap Press, 1977/『ザ・ジャパニーズ』, 文藝春秋, 1979年) 
"『日本への自叙伝』(NHK取材班構成, 日本放送出版協会, 1982年) 
"Japan The Story of a Nation(C.E. Tuttle, 1978, 3rd ed./『ライシャワーの日本史』, 
"文藝春秋, 1986年/講談社学術文庫, 2001年) 
"My Life Between Japan and America (Harper&Row, 1986/『ライシャワー自伝』, 
"文藝春秋, 1987年) 
(以上、ウィキペディア百科事典より)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月18日(月曜日)(2008年)

今朝は、近くを走る救急車のサイレンで目が覚めた。
猛暑がつづくせいか、このところ救急車のサイレンの数が、ふえたように思う。
暑いから体調を崩すというよりは、(冷房のある部屋)→(冷房のない部屋)を
行き来しているうちに、体調を崩す。
そのため私のばあいは、できるだけ冷房を使わないようにしている。
自宅では、使っていない。

が、今朝は、いつもになく涼しい。
空は厚い曇天。
扇風機の風だけで、さわやかさを覚えるほど。

さあ、今日もはじまった……と言いたいが、どうも調子が悪い。
精神状態がよくない。
心も、空と同じように、どんよりと沈んだまま。
まだ眠い?
このところ睡眠不足がつづいている?

朝食がすんだら、しばらく寝なおしてみよう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●高校野球の決勝戦

今日、高校野球の決勝戦が行われる。
昼の1時からだという。
地元、静岡県代表の、常葉菊川高校が出場する。
応援しないという手はない。
久々の決勝戦。
しかも夏の甲子園。
さっそくワンセグ付きのウォークマンに充電を開始する。

私の予想では、常葉菊川高校が、3−1で優勝。
相手方チームは、大阪代表というだけで、名前は忘れた!


●躁状態の多弁性

躁病(そうびょう)とうつ病は、ペアで、交互に起ることがあるという。
同時にその両方を、発症する人もいるという。
その躁病の第一の特徴は、「一方的な多弁性」だそうだ。
あちこちの専門BLOGにも、そう書いてある。

一方的に話すだけで、人の話を聞こうとしない。
自分勝手……というより、「自分がぜったい正しい」という前提で
話すから、やっかい。

「そのため周囲の人たちと、衝突しやすい」と書いてあるBLOGもあった。

が、何よりもやっかいなのは、本人に病識がないこと。
病識があれば、まだ対処できる。
しかし本人は、自分では、正常と思いこんでいる。

さらにやっかいなことに、それに気づいた周囲の人が指摘すると、激怒したり、
パニック状態になったりする。
ギャーギャーと泣きわめいたり、騒いだりする。

その多弁性だが、よく観察してみると、脳に飛来した情報を、ペラペラと
口にしているだけ。
ことこまかく、微細なところまで、説明したりする。
思考力は、ほとんどない。

そういう点で、つまり(思考力がない)という点で、認知症の初期症状に考える学者も
多い。
実際、うつ病のばあい、認知症に似た症状をともなうことが多いそうだ。
だからケースによっては、うつ病から認知症になったのか、認知症からうつ病になった
のか、わからないばあいが、多いとのこと。
(あるいは同時に発症することもあるのか?)

相手が躁状態であるにせよ、ないにせよ、(思考力のない人)と話すのは、たいへん。
こちらの話を静かに聞かない。
ふつうなら、「そうだなあ……、私ならこう思うのだがなあ……」というような会話を
するところでも、それがない。
人の話を半分(あるいはそれ以下)も聞かないうちから、「これはこうで、あれはああで」
と。間断なくしゃべる。

私は専門家ではないので、これ以上のことはわからない。
ネットの検索エンジンを使うと、いくつかのHPをヒットするので、心配な人は、そちら
を見たらよい。


●3時間半の人生

+++++++++++++++++++++

1冊の単行本(約230ページ)を、HPに
収録するのに、約3時間半かかる。

まず1ページごと、スキャナーでパソコンに
取り込む。
これに約2時間。

つぎにそれらをまとめて、無料の画像登録
サービス(Frickr)に、UPLOADする。
これに約20〜30分。

UPLOADしたページのHTMLタグを、
1ページずつHPに張りつける。
これに約1時間。
休みなく作業を繰り返して、計、約3時間半。

「たった3時間半」とも言える。
「3時間半も」とも言える。
作業をしているときは、その時間が、
うんざりするほど、長く感ずる。

が、その3時間半で、1冊の本が、これで丸々
HPに収録できる。

昨日は、10年前に出した『ドラえもん・
野比家の子育て論』(創芸社)を、こうして
HP上に、公開した。

その作業をしながら、いろいろなことを
考えた。

この本にしても、当時は、出してもらうために、
出版社へ何度も足を運ばねばならなかった。
出版が決まってからも、推敲や校正などの
作業がつづいた。

原稿を渡してから、実際本が書店に
並ぶまで、約3〜5か月。

つまり1冊の本といいながら、そこには私の
3〜5か月分の人生が凝縮されている。
が、それが今では、3時間半!
(たったの3時間半だぞ!)

この本のばあい、初版の3000部を売りつくすのに、
約2年もかかった。
1か月につき、約120部。

が、HPのほうでは、翌日の今日、すでに、40〜50件のアクセス。
本とインターネットは、いろいろな面で、「同じでは
ない」が、この計算でいくと、1か月で、1200件。
2か月で、2400件……!

とたん、すでに墓に入った本が、ゾンビのように
生き返った?
私はそう感じた。

もちろん収入は、ゼロ。
しかしもとから収入など、あてにしていない。
当時の私は、(そして今も)、自分の考えを
人に伝えられれば、それでよいと思っていた。

賛同してくれる人がいれば、それでよし。
いなければ、それも、よし。

その3時間半の間、当時の思い出が、あれこれと
よみがえってくる。
3時間半で、半年分の人生。
そんな感じもした。

で、発刊日を見ると、1998年となっている。
ちょうど10年前ということになる。
が、それについても、「たったの10年!」と思った。
私には、遠い昔のことのように思える。
具体的に年数は浮かんでこないが、20年前とか
30年前とか……。
そんな感じがする。

ワイフに「あの野比家の子育て論を出して、まだ、
たったの10年だってエ?」と声をかけると、
ワイフも、「そう〜?」と。

私にとっては、長(ナガ)〜〜イ、10年だった。
つまりそれだけこの10年は、充実していたということか?
自分のHPをながめながら、そう思った。

(補記)「ドラえもん、野比家の子育て論」は、私のHPのトップページから、(立ち読み
コーナー)を経て、おいでください。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ドラえもん野比家の子育て論 ドラえもん 子育て論 育児論 野比家の育児論)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●盗み見

++++++++++++++++++

私のHPを見ると、その人のIP番号が
記録されるようになっている。

番号だから、どこのだれかは、わからない。
しかしこちらに登録されているアドレスの
IP番号と照合すると、名前がわかる。
(こちらに登録されていないと、わからないが……。)
この方法で、その人が、いつ、何時ごろ、何回、私のHPを
訪問してきたかがわかる。

で、先日、ある知人に会うと、その知人がこう言った。
「林君のHPは、もう1年近くも見てないんだけど……」と。

??????

その人は、週に1、2度、多いときは、2、3度、いつも
午後11時前後に、私のHPをのぞいている。
仕事が終わるのが、その時刻なのだろう。

私はIP番号までの説明はしなかったが、「ぼくのHPには、
そういうソフトが組み込んであって、いつだれが訪れたか
わかるようになっているんですよ。あなたのアドレスは、
たしか、axxxx ネットでしたね」と。

その知人は、それでムッと黙ってしまったが、しかし
どうしてそういうウソをつくのだろう。
ウソをつかねばならないことでもあるのだろうか。

見ているなら、「見ている」と言えばよいと思うのだが……。
何か、別の目的をもってのぞいているのだろう。
私はそう感じたが、あとのことはわからない。
そんなことをいちいち気にしていたら、HPなど、公開
できない。


●キジバト

庭にキジバト(このあたりでは、「ドバト」と呼ぶ)が、住みつくようになって久しい。
今は、「白(しろ)」という名前の雄のハト。
首の下が白いので、そう呼んでいる。
「青(あお)」という名前の雄のハト。
それにつがいでくる、2羽のハト。
私たちは「夫婦(ふうふ)」と呼んでいる。
その4羽が、かわるがわる、庭へ来る。

朝、私の姿をどこかで見かけると、シロが、ホッホ〜、ホッホ〜と鳴く。
餌の催促である。
で、庭に餌をまくと、その10秒後には、そこへ下りてきて、餌を食べる。

いちばん威張っているのが、シロ。
あとの3羽は、シロのご機嫌をうかがいながら、餌を食べている。
ときどきシロに追い払われることもある。

10年ほど前には、銀バトというハトを、小屋で飼っていた。
一時は、10羽以上になったが、ある日、猫に襲われて全滅!
さらにその10年ほど前には、文鳥を飼っていた。
が、これもヘビに襲われて、やはり全滅。

以来、こうして庭に餌をまいて、野生の鳥を楽しむようになった。
(本当は、こういうことをしてはいけないそうだが……。)
しかし私は、鳥が好き。
飛ぶものなら、何でも好き。
ついでに飛行機も。

私は今度生まれ変わることができるなら、鳥になりたい。
チベット密教によれば、(日本の仏教のルーツだが)、人間に
生まれ変わるのを最上の「徳」とするなら、鳥に生まれ変わるのは、「最悪」
ということになっている。

しかしどうして鳥が、最悪なのだろう?
日本的に言うなら、「畜生」ということになるのかもしれない(?)

が、私はチベット密教など、気にしない。
ついでに日本の仏教など、気にしない。
こんなことがあった。

私の実家の墓地の入り口に、親鸞の像がある。
その像の台座に、「四法印」が刻んである。
仏教の教えの根幹を4つの言葉で、表したものである。
「法印」というのは、布教のときにかかげる「旗印」を意味する。
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の四つをいう。
一切皆苦を除いて、三法印(さんぼういん)と呼ぶこともある。

その四法印について、ほとんど毎月のように墓参りしている
人に、たずねてみると、その人は、こう言った。

「シ、ホ〜、イン? そんなもの、知りませんよ」と。

日本の仏教が、儀式仏教と呼ばれる理由は、そんなところにもある。
「形」ばかりにこだわって、中身がない。
毎月のように墓参りしながら、四法印を知らない?
しかしそんなのを、信仰と言ってよいのか。
信仰と言えるのか。

……とまあ、他人の批判はともかくも、私は鳥に生まれ変わりたい。
鳥になって、一度でよいから、大空を自由に飛びまわってみたい。

人間……?
「万物の霊長」などとは言うが、私は、そうは思わない。
人間の前頭連合野の発達には、ものすごいものがある。
が、そのほかの部分を除けば、人間が他の動物より
すぐれていると考えるのは、まちがい。
思いあがりも、はなはだしい。

……ということで、今日も、キジバトに餌を与えている。
我が家のペットというよりは、「友」である。


●34%の人が、「低下している」!

生活水準が「低下している」と感じている人が、34・1%もいるという。
第1次石油危機以来の高水準だという。

内閣府が8月16日発表した国民生活に関する世論調査によると、
生活水準が去年と比べて「低下している」と感じる人が、34・1%と、
昨年7月の前回調査より、9・6ポイント増えたという。

つまり第1次石油危機の影響を受けた1974年(34・6%)に次ぐ、
高水準となったという。
物価対策と景気対策を望む声も急増。
景気停滞と物価高が生活を圧迫している現状が、浮き彫りになったという。

また生活が去年と比べ「同じようなもの」と答えた人は、61・3%と、
昨年比、9ポイント減少したという。
「向上している」は4・4%と、同0・4ポイント下がったという。
今後の生活の見通しでは「悪くなっていく」が、同7・8ポイント増の
36・9%だったという。(以上、ヤフー・ニュースより)

++++++++++++++++++H.Hayashi

景気というよりも、不安感が増大している。
それは事実だろう。
私自身も、そうだ。
未来に安心感を覚えない。
それが「生活水準が低下している」という実感につながっているのではないか。

とくに老後に対する不安感が増大している。
私たちの世代はもちろん、40代、50代の人にとっても、そうだ。
「私たちは、この先、どうなるのだろう」と、それを考えただけで、不安になる。

たいていの人は、こう調査結果を知ると、「それはお金の問題」とか、「仕事の問題」、
さらには、「健康の問題」と説明する。
しかし本当に、そうだろうか。
それだけが、不安の原因になっているのだろうか。

私は、不安の原因は、もっとほかのところにある。

たとえば、いわゆる「統合性の確立」が、できていないこと。
ほとんどの人は、(私も含めてだが)、「何をすべきか」ということがわからないまま、その
日、その日を、何となく過ごしている。
あるいは「何をすべきか」はわかっていても、現実の生活をそれに一致させる
ことができない。
言うなれば、目的地もわからず、森の中をさまよい歩いているようなもの。

目的地がわかれば、たとえお金がなくても、仕事がなくても、あるいは不治の
大病を宣告されても、不安になることはない。
『朝に知れば、夕べに死すとも可なり』というのは、そういう意味である。

言いかえると、生き様を支える価値観が、混乱している。
それが不安の原因になっている。
もっとわかりやすく言えば、「お金こそすべて」と生きてきた人たちが、
心の拠り所を失いつつある。
言うなれば、はしごを使って二階屋根にはのぼってはみたが、
そのはしごをはずされてしまった。
今は、そういう状態なのかもしれない。

こういうとき、オーストラリア人の生き様は、参考になる。

ずいぶんと昔だが、1人当たりの実質収入額で、オーストラリアがシンガポールに
抜かれたときのこと。
友人のK君に、「君たちは、こういう事実をどう思う?」と聞いたら、
そのK君は、こう言った。
「ヒロシ、それがどうした?」と。
つまり「生活の豊かさは、収入の額では決まらない」と。

日本人に欠けている部分と問われれば、すべてこの一点に凝縮される。
「私は私、あなたはあなた」という生き方ができない。
収入が減れば、生活の質を落とせばよい。
こうした問題は、本来、心の豊かさとは、関係ない。
現に、この日本より貧しい国は、いくらでもある。
EUを見ても、日本より金銭的に豊かな国は、ドイツぐらいしかない。
このアジアを見ても、日本人は、平均的なアジア人よりも、
5〜10倍もの収入を得ている。

が、相対的に、それが少し減ったというだけで、不安になる。

実のところ、かく言う私も、不安感を覚えている。
不安感と必死に闘っている。
しかし世の中、なるようにしかならない。
(そのとき)がきたら、そのとき。
そのうち生活ができなくなれば、家や土地を売ればよい。
大切なことは、生活の質は落とさないこと。
「質」といっても、穏やかに、心豊かに生きることをいう。

この世の中、何をするにも、お金がかかる。
が、その一方で、お金を使わなくても、じゅうぶん楽しめる。
そういう方法は、いくらでもある。

あまりクヨクヨしないこと。
今、あなたが健康で元気なら、それに感謝して、あとは前向きに生きていけばよい。
……とまあ、半ば、自分を慰めながら、そう言い聞かせながら、生きている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
朝に知れば夕べに死すとも可也 朝に知れば、夕べに死すとも可なり 朝に知れば夕べに
死すとも可なり)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●三浦K事件

【ロサンゼルス15日時事】ロス疑惑銃撃事件で、米自治領サイパン島で逮捕、拘置中の元
会社社長三浦K容疑者(61)=日本で無罪確定=が申し立てた逮捕状無効確認請求の第3
回審理が、15日午後(日本時間16日午前)、ロサンゼルス郡地裁(バンシックレン裁判官)
で開かれた。検察側証人として、ミシガン大ロースクールのマーク・ウエスト教授が出廷。
逮捕容疑の共謀罪は日本の法制度にないと陳述し、終了した。(以上、時事通信)

++++++++++++++++++++++++

こんな事件があったとする。

2人の女性がバイクに乗っていた。
2人は、一卵性双生児で、指紋はもちろん、姿、形はまったく同じだった。

その2人の女性のうち、1人が、うしろの座席から、ピストルでX氏という男性を射殺し
た。
殺人事件である。

で、2人の女性は逮捕された。
目撃者もいた。
が、たがいにその2人は、「私が撃ったのではない。もう一人の姉(妹)が撃った」と
主張した。

こういうケースのばあい、日本の刑法では、2人とも無罪になる可能性が高い。
実行犯が特定できないからである。

一方、アメリカには、「共謀罪」というのがある。
実行犯が特定できなくても、2人の間に共謀性が認定されれば、有罪にもちこむことがで
きる。
「2人が1組となって実行犯」とみなされるわけである。

三浦K事件が、日本の裁判で無罪になったのは、こうした理由による。
三浦Kの妻はたしかに殺害された。
しかし現場には、三浦Kと、被害者である三浦Kの妻のほかに、もう1人の人物がいた。
つまりどちらが三浦Kの妻を殺害したか、実行犯の特定ができなかった。
しかもなおかつ、もう1人の人物がだれか、それも特定できなかった。
ひょっとしたら、その瞬間、三浦Kは、気を失ったかなにかで、何も覚えていなかったの
かもしれない。

が、アメリカの刑法によると、そうはいかない。
「共謀罪」というのがある。
仮にもう1人の人物が特定できなくても、またどちらが実行犯と特定できなくても、
事実として、そこで(殺人事件)が起きたということから、そこにいた人物、つまり三浦
Kを、第一級殺人罪として、有罪にもっていくことができる。

今回、アメリカで、検察側証人として、ミシガン大ロースクールのマーク・ウエスト教授
が出廷し、逮捕容疑の共謀罪は日本の法制度にないと陳述した理由は、そこにある。
三浦Kは、無実だから無罪が確定したのではなく、法律のちがいにより、無罪になっただ
け、と。

あとの判断は、アメリカの司法当局がすることになる。
現段階では、三浦Kは、被疑者でしかない。
有罪が確定するまでは、「無罪」と推定される。
が、もしアメリカ側で裁判ということになれば、有罪となる確率は、きわめて高い。
私はあえてそれを望む者ではないが、この事件だけは、もう一度、白黒をはっきりつける
べきと思う。

三浦K自身の名誉にかけても、三浦Kは、アメリカの裁判所で、堂々と無罪を主張してみ
たらよい。
私たちも、今度こそ、それで納得する。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2806)

●魔性との闘い(怨憎会苦)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。
が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを
消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。

A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、
「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、
言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、
「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、
「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という
話になってしまいました。で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、
あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、
そういう道理すら、通じませんでした」と。

娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、
オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと
言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

まさに怨憎会苦。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように
感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を
貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、
ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースと
なると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、
貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと
言われている。

今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

では、どうするか?

釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。
つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。
そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分の過去を知って、子どもをみる大切さ】

●Y県F町にお住まいの、GTさん(母親、40歳)から、
こんなメールが届いています。

ほんぼのとした奮闘ぶりが伝わってくる、楽しい(?)メールです。
転載許可がいただけましたので、紹介させていただきます。

【GTさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。毎日暑いですね。
先生の講義を聴いて(子どもが年中・5才)から、マガジンの読者となり、今、子どもは
4年生ですから、5年もの間お世話になっていることになります。本当にありがとうござ
います。

メールマガジンも全部とはいかなくなってしまいましたが、時間をみつけては読んでいま
す。いつもハッと我に返ることや、反省ばかりですが、ありがたく参考にさせてもらって
います。

なかなか、自分にできることがないのですが、今回これは!、と思うところがあり、お伝
えしようと思いましてメールしました。

夏休みといえば、宿題。4年生になって、読書感想文、絵、計算マラソン、夏休み学習帳
に科学作品など、子どもだけではなかなかできない課題も多く、どこの母親も手を焼いて
いると思います。私も本当に大変でうんざりしています。(苦笑)

暑さと子どものやる気のなさと、いい加減さで、もうイライラは絶頂でした。「どうしてこ
んなにできないんだろう? 私の子どものころはもっとちゃんとやっていた!」と常々思
っていました。

ぎゃんぎゃんわんわん、囃したて、監視までして、(子どもが嘘つくので……)、宿題をや
らせてきました。どうしたらやってくれるのだろう?、と悩んでいました。
でも、今日たった今、あきらめることができました。

たまたま、仕事の都合で私一人実家から帰り、ひとりなので、大掃除をしたとき、昔の古
いダンボールを開けて中身をみたら、その中に、私の日記や卒業文集がありました。

パラパラと読んでがく然。あ然。燃やしてしまいたいほど恥ずかしい文章でした。内容も。
今の私がマシかと言えば、?ですが(苦笑)

でも小学校・中学校、どちらも文章も稚拙で浅はかで、さすがに参ってしましました。
日記も下手な絵と好きな人のことばかり。ハートマークばかり、ショックでした。。。
そう、子どものことは、言えないですヨ、私は・・・。

小学校の文集「趣味は?」の欄にはなんと、「寝ること」と書かれてました。冗談でしょ?
と思いましたが、これは事実。
自分の文集を読みながら、「こんなの恥ずかしくて子どもに見せられない!」と。
・・・しばらく落ち込んだ後に、そう、私は子どもに求めてはいけないと、深く反省しま
した。

私が本を読むようになったのは20才ごろからです。
それまでは読書感想文の本さえも、マトモに読んでいませんでした。(あらすじ)を参考に
書いていたこともあったような・・・。そう、カエルの子はカエルの子なんだなぁとしみ
じみ思ってしまったわけです。

無理やり押しつけるのは駄目なんですよね。
子どもの欠点はよく見つけられる(他人ですし)のですが、自分の欠点はなかなか見えな
いものです。

でも、この事実。この卒業文集を目の当たりにして、自分のことがよく見えた気がします。
もう、「お母さんはもっとちゃんと書いていたし、字もきれいだった」と言えません。とん
でもないです。

子どもと同じ目線で、考える。
自分は、それを実行している方だと思っていましたが、勘違いだったのですね。
無理なことばっかり言っていたような気がします。

いつのまにか、子どもの心と離れていた気がします。
今回の出来事はとってもいい機会(反省の)だったので、こうして報告することにしまし
た。
なかなか謙虚になれないお母さんは、(私のような)、多いと思います。もしそうなら、ぜ
ひ、自分の子どものころの作文や文集・日記を開いてみてはいかがでしょうか?

それで、しばらくは子どもに対して怒ったりできなくなると思います。(でも中には優秀な
お子さんもいらっしゃるので、返って怒りたくなる方もいらっしゃるのかな?)

なかなか反省できない私ですが、今回ばかりは言いわけできない事実を突きつけられ、た
だただ反省しているという次第です。

先生のお話はありがたく読ませてもらっいますが、実行できない私にとって、良い薬にな
ったできごとです。

参考になったら幸いです。
稚拙な文章で伝わったかどうか心配ですがいつもお世話になっている感謝の気持ちも込め
てメールしました。最後まで読んでくださってありがとうございました。

今年も残暑が厳しそうです。ご自愛ください。

【はやし浩司より、GTさんへ】

メール、ありがとうございました。
私は最近、反対に、若いお母さんと、女子高校生の区別ができなくなってきました。年齢
の差が開けば開くほど、そうなのかもしれません。そのうち、若いお母さんと、女子中学
生の区別ができなくなるかもしれません。

つまり私から見ると、年齢差が30歳ある若いお母さんも、40歳ある女子高校生も、「同
じ」ということです。「30」と「40」のちがいなど、誤差のようなものです。

だからときどき、「ああ、女子高校生のようなお母さんが、子育てをしている!」と、驚く
ことがあります。(だからといって、お母さんのレベルがどうのこうのと言っているのでは
ありません。誤解のないように!)
「みんな、若いのに、よくがんばっているなア」と思うわけです。

……こうして私は、ますますジジ臭くなっていくわけです。ハハハ。

また楽しいメールを送ってください。
楽しみにしています。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【トーク番組・趣旨】(RF YOKOHAMA)

●母について語る

Q:「林さんにとって、(親)というのは、どういう存在なのでしょうか。何か、エピソー
ドのようなものを話していただければ、うれしいです。」

A:いきなり汚い話で、恐縮なのですが、下痢で汚れた母の尻をふいてやったとき、それ
までのわだかまりや、こだわりが、ウソのように消えました。
いよいよ自分では思うように歩けなくなって、私の家にやってきたのですが、それまでは、
いくら説得しても、がんとして郷里の実家を離れようとしませんでした。
で、私の母ですが、他人にはともかくも、子どもの私たちには、過酷なほどまでにきびし
い親でした。私の長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、家といっても、6畳
と4畳だけの小さなアパートでしたが、私に貯金を全額おろさせ、それをすべてもって帰
っていきました。それまでも、そしてそれ以後も、私は収入の約半分を、毎月母に送金し
ていました。父は私が大学を卒業するとまもなく、心筋梗塞で他界してしまいましたから
……。
が、それでも足りなかったのでしょうか。預けておいた私の土地の権利書を、母が勝手に
転売してしまったこともあります。世の中には、親をだます子どもはゴマンといますが、
子をだます親は、少ないと思います。私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、
逆に私を叱りました。「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。私
が47歳のときのことでした。

「親のめんどうは、子がみろ」といいますね。しかしその言葉から受ける、社会的重圧感
には、相当なものがあります。そうした重圧感を、心理学の世界でも、「幻惑」と呼んでい
ます。「家族自我群から生まれる幻惑」と、です。親子であるが故に、その関係は特殊なも
のです。それがうまく機能しているときは、家庭というのは、それなりに居心地のよい世
界です。が、ひとたびどこかで歯車が狂うと、今度はそれが恐ろしいほどの重圧感を伴っ
て、その人を襲います。それは想像を絶する重圧感です。
さらに郷里の地方では、「子が親の悪口を言うとはなにごとか」とか、「どんな親でも親は
親だ」「産んでもらったではないか」「育ててもらったではないか」「言葉を教えてもらった
ではないか」とか言います。そういう言葉を耳にするたびに、私は首どころか、全身を真
綿で締め付けられるような思いをしたものです。

Q:「林さんは、お母さんを恨みましたか」

A:もちろんそうです。恨みました。憎みました。毎晩寝る前になると、体中が怒りでほ
てり、なかなか寝つかれませんでした。土地の権利書を転売されたときのことです。毎晩、
ワイフが介抱してくれました。そういう期間が、10か月もつづきました。最後に「お前
を、親だろうが何だろうが、訴えてやる」という手紙を書いたとき、母は、それにおびえ
て、あわててお金を返してきました。

Q:「それで親への恨みは消えたのですか?」

まさに底なしの消耗戦でした。親というのは、何があっても信じられる存在なはずでしょ
う。それが信じられないというのです。そうなると、もうだれも信じられなくなってしま
います。私のワイフですら、信じられなくなってしまいます。が、事情を知らないノー天
気な親類たちは、実家へ帰らないという理由だけで、私を責めました。「親捨て」というレ
ッテルを貼られたこともあります。

Q:「どうしてそういうお母さんを、引き取ることになったのですか」

話せば長くなりますが、実家の近くで母のめんどうをみていた、姉や兄が健康を害したこ
とが理由です。それでいよいよ……ということになって、私がめんどうをみることにしま
した。が、簡単なことではありませでした。「いやだ」とか、「したくない」とかいうよう
な、生易しい感情ではありませでした。私は悶絶しました。悶絶です。私は現在60歳で
すが、そこにはそれまでの58年に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていました。
父は私がもの心つくころから酒を飲んで暴れ、私は家庭の(暖かさ)というものを、ほと
んど知らないで育ちました。かろうじて私が私でいられたのは、祖父母が同居していたか
らにほかありません。私にとって、祖父が、父親でした。もし祖父母が近くにいなかった
ら、私は今ごろどうなっていたかわかりません。
が、母が私の家に来て、初日のことでした。母は体調を崩し、1週間ほど、下痢を繰りか
えしました。便の始末は私がすると心に決めていましたから、私がしました。
そのときのことです。しわくちゃになった母の尻をふいているとき、それまでのわだかま
りや、こだわりが、乾いた風のように、スーッと自分の心の中から消えていくのを感じま
した。「ぼくは、こんな人間を、今まで、本気で恨んだり、憎んだりしていたのか」とです。
そこにいたのは、無力で、孤独で、どうしようもないほど、小さく、あわれな人間でした。
とたん、そしてそこに残ったのは、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母
でした。私が、「あのなあ、この先、お前が死ぬまで、ぼくがお前のめんどうをみるよ」と
言うと、母は、こう言いました。「おまえにこんなことを、(つまり便の始末のことですが)、
してもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

Q:「林さんは、憎しみを乗り越えたということですか」

A:結果的にそうなったというだけです。人を恨んだり、憎んだりするのには、ものすご
いエネルギーが必要です。相手が母親なら、なおさらです。だから人を恨みたかったら、
とことん恨んだらいい。憎みたかったら、とことん憎んだらいい。いい子ぶることはない。
しかしそのうち疲れて、それができなくなる。できなくなったとき、その前に、実におお
らかな世界が見えてきます。
それともうひとつ大切なことは、『運命は、受け入れる』です。
だれにでも無数の糸がからんでいます。家族の糸、親類の糸、社会の糸、生い立ちの糸な
どなど。過去という糸もあります。
そういうものが、その人の体をがんじがらめにして、その人の進むべき道を勝手に決めて
しまうことがあります。それを「運命」というなら、運命というのは、たしかにあります。
で、その運命を感じたら、運命は、静かに受け入れる、です。
運命というのは、それに逆らえば、悪魔となって、私たちにキバを?いて襲いかかってき
ます。しかし運命というのは、それを受け入れてしまえば、相手のほうからシッポを巻い
て逃げていきます。悪魔というのは、あくまでも観念的な悪魔ですが、気が小さく、臆病
です。何も恐れる必要はありません。
受け入れて、そこを原点として、前向きに生きていけばいいのです。

Q:「私は、親になれるだろうかと悩んでいる若い人たちがいると思います。そういう人た
ちには、どうアドバイスしてくれますか」

A:何も気負うことはないのです。「あなたは、あなた。私は、私」と居直ることです。ど
んな家庭にも、またどんな家族にも問題はあります。問題のない家庭など、ない。問題の
ない家族も、ない。みんなそれぞれ、それぞれの問題をかかえて、懸命に生きている。そ
の懸命に生きている姿こそ、尊いのです。無数のドラマもそこから生まれます。そのドラ
マに価値があるのです。
が、それでも袋小路に入ってしまったら……。私は、『許して、忘れる』という言葉を思い
出してほしいと思います。英語では、「For/give &For/get」と言います。この単語をよく見
ると、「フォ・ギブ」つまり、「与えるため」とも訳せます。「フォ・ゲッツ」は、「得るた
め」とも訳せます。つまり「許して忘れる」というのは、「相手に愛を与えるために許し、
相手から愛を得るために忘れる」という意味になります。相手が親であろうが、子どもで
あろうが、この言葉は、有効です。

Q:「最後に何か、同じような悩みを抱えて苦しんでいる人たちに、役立つ話をお願いしま
す」

A:昔、Tという名前の大作家がいました。その名前を出したら、知らない人がないとい
うほどよく知られた、大作家です。
そのT先生が病気で倒れたとき、私は、T先生を見舞ったことがあります。そのときのこ
とです。T先生がこう言いました。「林君、ぼくは若いころから、無精子症なんだよ」と。
つまり精子が先天的にない体質だったのですね。
それを聞いて、私は思わずこう言ってしまいました。「だって、先生には、息子さんが……」
と。
するとそのT先生は、ベッドの上で体をこちらに向け、笑いながら、こう言いました。「ま
あ、いいじゃねえか、いいじゃねえか」と。
「許して忘れる」を一言で言えば、「まあ、いいじゃねえか」となるのですね。
もちろんそうした心境にいたる過程で、そのT先生は悩み苦しんだと思います。相当な苦
しみだったと思います。だからこそ、今に名を残す大作家となったわけです。
母は、現在、92歳です。今は、ケア・センターに入っています。私以外の人は、ほとん
ど区別できませんが、私も似たような心境です。母を見舞うたびに、「まあ、いいじゃねえ
か」という言葉が、自然と口から出てきます。

最後に一言。
私の母についてですが、母は母で、あの戦後という時代の中で、懸命に生きた。けっして
自慢できるような親でありませんでしたが、あの戦争の被害者だったということも言えま
す。父が酒に溺れるようになったのは、今で言う「PTSD」、つまり心的外傷後ストレス
症候群が原因ではなかったのではないでしょうか。父は、戦地の台湾で貫通銃創といって、
腹に2発、アメリカ軍の銃弾を受けています。
母は母で、当時の価値観に従って、懸命に「家」を守ろうとしていたのです。郷里のあの
地方では、いまだに、江戸時代そのままの、「家制度」が残っています。母はそういう過去
の亡霊を引きずり、それに翻弄されただけかもしれません。世間体、見栄、メンツにこだ
わったのも、そのためです。
そのときはそれがわかりませんでしたが、今になってみると、それがよくわかります。こ
の世の中には、絶対的な善人などいません。同じように、絶対的な悪人というのもいませ
ん。
要はバランスの問題です。みんなそのバランスを必死に保ちながら生きているのです。
話が脱線しましたが、何かのことで行き詰まったら、「許して、忘れる」。T先生が言った、
「まあ、いいじゃねえか」でもよいかもしれません。その言葉を思い出してみてください。
そこは実に、おおらかで穏やかな世界です。みなさんも恐れないで、そういう世界に向か
って進んでみてください。

Q:「ありがとうございました」
A:「こちらこそ、ありがとうございました」

(収録・横浜、ラジオ日本にて)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪人は、自ら墓穴を掘る

+++++++++++++++++

いくら恨んでも、いくら憎んでも、
あなたは手を出してはいけない。

その人をのろったり、その人の不幸を
願ってもいけない。

悪人は、かならず自ら墓穴を掘る。
あなたが罰しなくても、かならず自ら
自らを罰し、それにふさわしい墓穴に
入っていく。

あなたは、そういう悪人を、憐れんで
やればよい。
それができなければ、そういう人の
ことは忘れて、あなたはあなたの道を
進めばよい。

悪人のことで、心を煩わせたら、それこそ
悪人の思うつぼ。
時間の無駄。
人生の無駄。

+++++++++++++++++

あなたの身のまわりにも、悪人とまではいかなくても、小ずるく、口のうまい人は、いる
はず。
私のまわりにも、いる。
そして以前にも、いた。

そうした人たちを総じてみると、結果としてみな、彼らにふさわしい墓穴を掘っているの
がわかる。
ただ時間は、かかる。
5年とか、10年とか……。
しかし30年を超えることはない。

また誤解してはいけないのは、財産や名誉、地位があるからといって、その人は成功者と
は言えないということ。
ないからといって、失敗者とは言えないということ。
同じように、財産や名誉、地位があるからといって、その人が善人とはかぎらない。
ないからといって、悪人とはかぎらない。

その人が善人であるかどうかは、そうした俗物を超えた、その向こうで判断される。
大切なことは、毎日を心豊かに、楽しく、愉快に生きること。
それができる人を、成功者といい、そうでない人を、そうでないという。
財産や名誉、地位などといったものは、言うなれば軍人が胸につけるバッジのようなもの。
それ以上の意味はない。

病気にしても、そうだ。

私のまわりにも、今の今、大病をかかえて闘病生活をしている人が、何人かいる。

先日、紹介した大学の同級生のS君などは、電話で話していても、実に明るい。
生きざまが前向き。
「林君、50歳を過ぎたら、そのあとの人生は儲けものだよ」と。
いつも何枚かのチケットをもっているという。
「ぼくの趣味は、コンサートに行くことなんだよ」とも。

一方、そうでない人もいる。
見るからに、暗く、ジメジメした印象を受ける。
いまだに年長風を吹かし、過去の名誉にぶらさがっている。
生きざまが後ろ向き。
「自分さがし」と称して、墓参りばかりしている。

話がそれたが、大病を患ったからといって、失敗者ということではない。
今、健康だからといって、成功者ということでもない。
大切なのは、生き方、生きざま。

財産や名誉、地位がなくても、心豊かに、楽しく、愉快に生きることはいくらでもできる。
大病を患っても、心豊かに、楽しく、愉快に生きることはいくらでもできる。

……ということで、悪人についての話にもどる。

人間に与えられる最大の罰(ばつ)は、「孤独」である。
だれにも愛されない。
だれにも求められない。
だれにも心を開くことができない。
毎日、(すべきこと)もわからず、悶々としたまま過ごす。

私がいう「墓穴」というのは、そういう状態をいう。
だからあなたが手をくだす必要はない。
悪人は、悪人として、自ら墓穴を掘っていく。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●8月16日(土曜日)

昨夜は夜遅くまで、北京オリンピックの試合を見ていた。
水泳のメドレーの予備選、柔道決勝、それに女子サッカーなどなど。
女子の1万メートルの決勝を見始めたところで、眠気に負けて、そのまま床へ。

ところで、女子サッカーチームのことを、どうして「なでしこ・JAPAN」と呼ぶのだろう。
私の感覚がズレているのか?
「なでしこ」という言葉に、どうも違和感を覚えてしまう。
ワイフは、「ほら、大和なでしこって、言うでしょ」と説明してくれたが、私は、「なでし
こ」聞くと、そこにどこか男尊女卑的な色彩を感じてしまう。

(あるいは、「日本美人」という意味に近いかも?
もしそうなら、ますます違和感を覚えてしまう。
いや、何もサッカー選手たちが美人でないというのではない。
ほかの国の人たちが、「日本美人」と言うのなら、構わない。
自国の人が、自国の女性をさして、「日本美人」などと言うだろうか?)

「なでしこ」というと、夫(男)に従順で、家庭に静かに収まっている女性を連想する。
サッカー選手から受ける印象とは、大違い!
女性の人たちは、どう感じているのだろうか。

なでしこ……「秋の七草のひとつ。ナデシコ科の多年草」(「日本語大辞典」)とある。
大和なでしこ……「日本女性の美称」(同)とある。


●東京で、気温37・5度!

昨日(15日)、東京で気温37・5度を記録した。
浜松市でも同じような気温だったと思うが、日中はともかくも、改めて「緑」のもつあり
がたさを実感する。

昨夜は、山荘に泊まった。
眠る前に扇風機をかけたが、かえって寒さを感ずるほど。
朝方もそうで、私とワイフは、ふとんをかぶって眠った。

そう言えば、インドネシアから来ていた観光客が、テレビのレポーターに向かってこう言
っていた。
「(東京は)ジャカルタより暑いです」と。
ジャカルタには、緑が多い。
私はそのせいだと思った。

そのうち「40度」と聞いても、だれも驚かなくなるだろう。

ところでその山荘へ、パソコンはもってきたが、電源コードをもってくるのを忘れてしま
った。
ワイフに「今夜は、ノー・パソコン・デーだ」というと、「あら、残念ね」と。

たまには、のんびりと過ごすのもよいだろうということで、ひとり、パソコン雑誌に読み
ふけった。


●北京オリンピック

16日の午後、女子ソフトの予選リーグ戦が行われていた。
6回の裏で、日本が中国に、3−0で勝っていた。
こういう試合は、見ていても楽しい。
解説者の声も、明るい。
映画にたとえるなら、ハッピーエンドで終わる映画を見ているようなもの。
多少ハラハラするが、それがあるから、また楽しい。

が、ひとつ気になったこと。

ユニフォームの肩のラインが、太い赤線。その外を白線と、その2倍ほども太い、濃い紺
色の線。
とくに腕に巻いたハンド・ベルト。
北朝鮮の国旗、そのもの(?)。
「北朝鮮のユニフォーム」とだれかが言っても、おかしくない。
偶然の一致?
どうしてあんな色合わせにしたのだろう?

昔から「坊主憎ければ……」とかいう。
こういうのを心理学でも、「転移」という。
人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。
AさんならAさんを嫌いと思っていると、Aさんが乗っているのと同じ車を見ただけで、
ぞっとすることがある。
言うなれば、脳みその混信のようなもの。

赤、白、紺色の組み合わせをみると、どうも落ち着かない。


●高校野球

北京オリンピックと同時に、別のチャンネルで、和歌山県のT高校と、地元静岡県のT高
校の試合を見る。

2−0で負けていたが、6回裏で大逆転。
今は、2−9!
さらにたった今は、満塁フォアボールで、押し出しの1点。
2−10!
さらに今、2−12!
さらに今、2−13!

つまり6回裏だけで、11点!

ここまで差がつくと、野球も、おもしろくない(失礼!)。
チャンネルを、また北京オリンピックに戻した。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●夢

++++++++++++++++++

「パイロットといっても、ただの運転手。昔のように
ちやほやされる仕事ではない」と、言った知人がいた。

自分の息子のことは伏せて、パイロットの話をした
ときのことだった。

その言葉を聞いて、私は、「息子がパイロットをしている」
とは、言えなくなってしまった。

しかしその知人は、基本的なことを忘れている!

++++++++++++++++++

大切なのは、「夢」。
その夢に向かって、真正面からぶつかっていくこと。
それがどんな仕事であれ、その人がそこに夢を感じているなら、他人がとやかく言っては
ならない。

私たちの世代(あるいは私たちの世代以上〜)の悪いところは、職業を、「格」で判断する
こと。
大企業で、役職があるような仕事を、「よい仕事」と考える。
そうでない職業を、「下」とみる。
軽蔑する。
江戸時代の士農工商制度の亡霊を、そのまま引きずっている?

ただの運転手でもよい。
そんな評価は、気にすることはない。
また気にしてはいけない。

私も幼稚園の講師になったとき、まわりの人たちから、さんざん、ひどいことを言われた。
が、今になってみると、どちらが正しかったのか、それがわからない。

私は私の道を歩いた。
歩くことができた。
一片の肩書きもなければ、地位もない。
公的な保護は、いっさい、ない。
退職金も天下り先もない。
ないが、「自由」だけは、じゅうぶん、満喫することができた。
この先、死ぬまで、この自由が奪われることはない。

いつか(そのとき)が来ても、私は、悔いなく、(そのとき)を
迎えられるだろう。

息子について言うなら、息子は空が好き。
それだけ。
その夢だけを追求している。

だいたい、「ただの運転手」とは、何だ?
考えてみれば、こんな失礼な言葉はない。
運転手だって、すばらしい職業。
事務所で、パソコンとにらめっこしている仕事よりは、はるかに楽しい。
(その知人が、そうだが……。)

今の私なら、いくら肩書きをもらっても、事務職はごめん。
運転手のほうが、ずっと楽しそう。

こうした職業意識が残っている間は、日本は、まだまだ精神的後進国。
職業に上下はない。
大切なことは、その職業に夢をもち、楽しく仕事をすること。

もう1人の知人は、65歳にもなろうというのに、いまだに昔の学歴にしがみついて生き
ている。
「私は偉い」と言いたいのだろうが、そういう権威主義は、とっくの昔に崩壊した。
それに気がついていないのは、その知人だけ。

大切なのは、中身。
何をしてきたかという、中身。
今、何をしているかという、中身。

相手を判断するとしても、その中身を見て、判断する。
今は、もうそういう時代である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 15日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師の心理検査法(チェック・テスト)(はやし浩司方式)

+++++++++++++++++++

TBS・News−iは、つぎのように
伝える。

『ホームページに事故で死亡した子どもの写真を無断で載せ、有罪判決を受けた元小学校
教師の男が、……執行猶予中に今度は盗撮目的で学校に侵入、これについて渡部被告は
「立
ち入り自体が禁止されているとは思わなかった」と弁解し、無罪を主張しました』(8月1
5日)と。

この種の事件は、後を絶たないが、では、そういう
教師は、どうすれば事前にチェックすることが
できるかということ。

ひとつの方法として、心理テスト法がある。
が、最大の問題は、チェックを受ける教師が、ウソを
回答したら、意味がないということ。

たとえば、

【チェック・テスト】(1)

(Yesのときは(  )に○、Noのときは( )に×をつけてください。)

(  )あなたは子どもの裸体に興味がありますか。
(  )あなたは子どもに性欲を覚えたことがありますか。
(  )あなたは子どものスカートの下をのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは子どものトイレをのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは小児性愛者ですか。

しかしこんなテストで、(○)をつける教師はいない。
その傾向のある教師なら、なおさらである。

そこで質問の内容を微妙に変えてみる。

【チェック・テスト】(2)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、平気で始末できますか。
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずること
がありますか。

しかしこのテストでも、それを受ける教師が「テストされている」と感じたとたん、意味
がなくなる。
当然、ウソの回答をする。

そこでこのテストをさらに強固にするため、間に、1問ずつ、ダミーの質問項目を入れて
みる。
つぎのテストで、※印をつけたのが、ダミーの質問項目である。

++++++++++++++++

【チェック・テスト】(3)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは結婚生活において、性生活は重要と考えますか。※
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )しばらく性交渉がなかったようなとき、性的に欲求不満を感ずることがありますか、※
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )性的嗜好には、さまざまな形があり、標準とか平均的という言葉は当てはまらな
いと思ったことがありますか。※
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、下着などを平気で交換できますか。
(  )あなたは自慰は、健康な男女ならだれでもする、自然な行為と思いますか。※
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずること
がありますか。
(  )あなたは男女の性交渉の目的は、種族を存続させるためのものと考えたことがあ
りますか。※

++++++++++++

以上の質問項目の中で、(※)印のついたダミーの質問は、すべて(○)のはず。
(※)印のついた質問項目の中で、(×)が目立つようであれば、その教師は、全体として
ウソの回答していると判断してよい。

つまりこうしてチェック・テストの信頼性を確保すると同時に、あやしい(?)教師を選
び出すことができる。
(さらに信頼性を確保するために、食べ物やスポーツなどの分野の質問を、やはりダミー
として混ぜるという方法もある。)

あなたが家庭の妻なら、一度、このテストを、夫に対してしてみたらよい。
(ただし※印は消しておくこと。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師のチェック チェック
テスト 教師の性的嗜好テスト 性的志向性テスト 教師の心理テスト はやし浩司 教
師の性的チェックテスト チェック・テスト 教師によるハレンチ事件 ハレンチ事件防
止 ダミー ダミーの質問項目)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運動不足+ラジオ番組

++++++++++++++++

夏休みになって、とたんに運動量が減った。
いつもの3分の1以下。
おととい、長野県の入笠山湿原を歩いたが、あの程度では、「運動した」とは言わない。
おかげで、どうも体の調子が、よくない。
だらけたというか、だるいというか……。

そんなわけで、先ほど、庭の草を、草刈り機で刈った。
一汗かいた。
が、そのあと心地よい眠気。
その眠気を抑えながら、パソコンに向かう。
3時から、温水器の修理をしなければならない。
それまで45分。
今は、HP2133に、外付けキーボードを取り付け、この文章を書いている。
すぐ横には、もっと大画面の、NECのLAVIがあるというのに……。

このあたりが、ふつうの人には理解してもらえないところかもしれない。
私は、どのパソコンも、平等に使うようにしている。
それぞれのパソコンに、女性名をつけている。
このパソコンには、「ヒューちゃん」。
使いにくいからといって、放り出すようなことはしない。
そんな冷たいことはしない。

それにしても運動不足。
体がスタスタと動かないのは、いやだ。

そうそう、来週、どこかのプロダクションが、横浜のスタジオで、私のラジオ番組を制作
してくれるという。
その模様を、DVD化して、全国で5万人の人たちに配布してくれるという(予定)。
おもしろそうな企画なので、やってみることにした。
そのためにも、運動をしておかねばならない。
ぼんやりした頭では、話はできない。

今夜あたりから、サイクリング、開始!

++++++++++++++++

身近な人で、体の調子を悪くしていく人の話を聞くのは、つらい。
若いころは、「私には関係ない」と、一歩離れたところで、そういう話を聞くことができた。
が、今は、ちがう。
どんな話を聞いても、「明日は、我が身」と思う。

たてばワイフの姉のKさんが、このところ兄弟たちの集まりにも出てこない。
「どうしたの?」と聞いたら、「あまりよくない」とのこと。
「血糖値が高すぎて、ときどき目まいがする」とのこと。

もうひとりの姉さんのEさんも、ひざを痛めて、久しい。
義兄のひとりも、前立腺がんで、春に手術をした。
で、話を聞くと、ほかの人たちも、みな、それぞれ何らかの持病をかかえている。
闘っている。
健康な人のほうが、少ない(?)。
見た感じは、どの人も、元気そうなのだが……。

健康というのは、維持するもの。
その健康が下り坂になったら、運動量をふやす。
それしかない。
この努力を怠ったとたん、あとはゴロゴロと、下り坂をくだっていく。


●「まあ、いいじゃねえか」

昔、Kという、たいへん著名な作家がいた。
そのKが病気になり、私が見舞いに行くと、こう話してくれた。

「オレは、若いころ(18、9歳のとき)から、無精子症でな」と。

驚いて私が、「だって、先生には、息子さんが……」と言いかけると、私の言葉をさえぎり
ながら、Kは、「まあ、いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。

「愛」にも三種類ある。
本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。
「代償的愛」というのは、自分勝手で一方的な愛をいう。
子どもの受験競争に狂奔しているような母親を見れば、それがわかる。
「子どものため……」と言いながら、その実、子どもを利用しているだけ。
自分の感ずる不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

が、その一方で、「真の愛」ほど、実感しにくい感情もない。
事故とか、大きな病気になったようなとき、姿を現わす。
ふだんの生活の中では、もろもろの茶飯事の中に埋もれてしまい、そこにそれがあること
さえ、わからない。

しかし真の愛は、そうした日々の生活の中で、熟成される。
多くの親は、あるときは希望に喜び、またあるときは絶望に苦しむ。
そうした無数の山を越え、谷を越えながら、やがて真の愛にたどりつく。

作家のKは、「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。
無論、そうした心境に至る過程の中で、Kは、もがき、苦しんだにちがいない。
しかし最終的には、Kは、彼の妻を、許し、忘れた。
真の愛にたどりついた。
だからこそ今に名を残す、大作家になった。……なることができた。

あなたも子育てをしていて、何か大きな問題にぶつかったら、こうつぶやいてみるとよい。
『許して、忘れる』と。
その先に、あのKの言葉が待っている。
「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と。

そこは実におおらかで、心地よい世界である。


●母

母の下痢で汚れた尻をふいてやったとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、ウソの
ように消えた。
私の母は、他人にはともかくも、子どもの私には、過酷なまでにきびしい親だった。
長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、私に貯金を全額おろさせ、それをすべ
てもって帰っていった。
母に預けておいた土地の権利書を、勝手に転売してしまったこともある。
私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、逆に私を叱った。
「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。

「親のめんどうは、子がみろ」という。
しかしその言葉から受ける、社会的重圧感には、相当なものがある。
私はある時期、毎晩寝る前になると、体中が怒りでほてり、なかなか寝つかれなかった。
毎晩、ワイフが介抱してくれた。

うらんだ。
憎んだ。

それでも事情を知らないノー天気な親類は、実家へ帰らないという理由だけで、私を責め
た。
「親捨て」というレッテルを貼られたこともある。

で、母を私の家に引き取ることについても、私は悶絶した。
「いやだ」というような、生易しい感情ではない。
そこには58年に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていた。

が、その思いは一瞬にして消えた。
最初の1日で消えた。
私の家に住むようになって1週間、母は、体調を崩し、下痢を繰り返した。
その始末をしている最中、私は、ふと、こう思った。
「私は、今まで、こんな人を、本気で相手にしていたのか……」と。
そこにいるのは、無力で、孤独で、どうしようもないほど、小さな人間だった。
とたん、あのうらみや、憎しみが、乾いた風のように消えた。
そしてそこに残ったのは、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母だった。

「あのなあ、この先、お前が死ぬまでめんどうをみるよ」と言うと、母は、こう言った。
「おまえにこんなこと(=便の始末)をしてもらうようになるとは、思ってもみなかった」
と。

母は、私の家にちょうど6か月、いた。
その間、便の世話だけは、私がした。
が、いくつか事故が重なったこともあり、そのあと、センターに入居。
今月で、浜松へ来てから、1年9か月になる。
今は寝たきりに近い状態だが、センターの人たちは。こう言っている。
「林さんは、100歳まで生きそうですね」と。

今の私は、それを笑いながら、聞くことができる。


●どこからが「私」なのか

ワイフが車の中で、こう言った。

「山の緑がきれいね」と。

それもそのはず。
人間は、山の緑がきれいに見えるようにできている。
進化の過程で、人間は、一度、森の中に住んでいる。
そのとき、そういう感覚を取得した(?)。

海の水色がきれいに見えるのも、同じように考えてよい。
人間は、さらに太古の昔、魚のような動物だった。

私「ウンチが臭いのも、同じ理由だよ」
ワ「どうして?」
私「もしウンチが臭くなかったらね、人間は、餌とまちがえて、それを食べたかもしれな
い」
ワ「そうね。もしそうだったら、人間はその時点で絶滅していたはずよね」
私「そうさ。ウンチというのは、病原菌のかたまりのようものだからね。だから臭いウン
チをする動物だけが、生き残ることができた」と。

進化というのは、同時に、無数の選択肢の中から、つねに自分にとってつごうのよいもの
を選んでいくことをいう。
中には、臭くないウンチをする動物もいたかもしれない。
しかしそういう動物は、その後、まもなく、絶滅した……。

私「子どもたちが、ピカチューがかわいいというのと、同じ理由だよ」
ワ「どういうこと?」
私「最初から、かわいく思うように、できている。何百枚もの原画を描いて、その中から、
いちばんかわいいものを選んだ。多分ね……。だからかわいい」と。

ともかくも、私たちは、山の緑を見て美しいと思い、海の青を見て美しいと思う。
脳みそがそう反応するようにできている。

こうした現象は、生活のあらゆる場面で、観察される。
ほどよい気温についても、そうだ。
私にとっては、22〜3度くらいの気温が、もっとも快適である。
おそらく太古の昔、人間は、それくらいの気温のところに住んでいたにちがいない。

食べ物にしても、そうだ。

魚や果物は、いくら食べても、腹がいっぱいにならないかぎり、食べ飽きるということは
ない。
同じように、太古の昔、人間は、そういうものを食べていたのだろう。

では、性格は、どうか。
性質でもよい。

どういう精神状態のとき、人間は、もっとも心地よく感ずるか。
つまりここで性善説、性悪説が生まれる。

人間はもともと穏やかで、平和を好む、静かな生き物であった。
あるいは闘争的で、攻撃的な生き物であった。

どちらであるにせよ、人間はストレスにさらされたとき、それほど長い時間、それに耐え
ることはできない。
そういう点から考えると、人間は、もともとストレスのない精神状態を好んでいたことが
わかる。
基本的な性質はともかくも、私たちは、常に、穏やかで、平和で、静かに生きることを好
む生物と考えてよい。

話が脱線したが、私たち人間も、「私」である前に、(私であって私でない部分)に、大き
く左右されているということ。
そこでこうして「私」の中から、(私であって私でない部分)を取り除いていく。
その作業を繰り返しながら、最後の残った部分が、「私」ということになる。

私たちは、山々の木々を見ながら、「美しい」と思う。
あるいは山々の木々を見ながら、ほっとする。
しかしそれが「私」かというと、そうではないということ。
(だからといって、それがまちがっているということではない。誤解のないように!)

まずいのは、こうした進化の過程で生まれた(私であって、私でない部分)のほかに、さ
らに自ら、(私であって、私でない部分)をつくりあげてしまうこと。
たとえば(マネー)。

前にも書いたが、昔、『おしん』という、テレビ番組があった。
視聴率が50〜60%もあったというから、恐ろしい。
あのおしんは、あるときまでは、「生きるために働いた」。
しかしあるときを過ぎると、「働くために生きるようになった」。

その時点から、悪く言えば、「マネーの奴隷」になった。
(私であって私でない部分)に、大きく左右されるようになった。

仮にこうした形で、(私であって私でないもの)を、つぎつぎとつくり出してしまったら、
それこそ雪だるまのように体がふくらんでしまい、そのうち、どれが本当の私か、わから
なくなってしまう。

地位や名誉にぶらさがって生きる人。
過去の経歴やキャリアにぶらさがって生きる人。
家柄や財産にぶらさがって生きる人。

そういう人たちは、ますます「私」がわからなくなる。
それこそ山の緑を見て「美しい」と思うように、札束を見て「美しい」と思うようになる
かもしれない。

私「みなね、『自分さがし』という言葉を安易に使うけど、自分を知るということは、本当
はむずかしいことなんだよ」
ワ「自分のことがわかっていると思っているだけなのね」
私「そうさ。自分を知るということは、哲学の最終目標にもなっている」
ワ「たいへんなことなのね」
私「そうさ。一生かかっても、できないかもしれない。それくらいむずかしいことかもし
れない」と。

あなたも一度、美しい山を見たら、「どうして美しいのか」「美しく見えるのか」、それを一
度考えてみたらおもしろい。

そこにひょっとしたら、「私」が見えてくるかもしれない。


●人間関係

人間関係に苦しんだら、相手を乗り越える。
相手を乗り越えて、自分をより高いステージに置く。

たとえば幼児に、「バカ!」と言われて怒る人はいない。
(中には、いるかもしれないが……。)

同じように、相手が、幼児か、さらに言えば、イヌかサル(失礼!)に見えるほどまで、
自分を高める。
そのためには、同時に、相手のレベルを知ることも大切。
自分を高めていくと、自分の中に、地層のように「層」ができてくる。
同時に、自分が相手を超え始めると、相手が、自分の中の、どの層にいるかがわかるよう
になってくる。

「この人は、私の20年前のレベルだな……」
「この人は、私の5年前のレベルの亜流にいる人だな……」とか。
(もちろん、その反対のこともあるが……。)

私も、人間関係で悩んだようなとき、いつもこの手法で、相手を(呑む)ようにしている。
先日も、どこかのオバチャンが、私に説教をしようとした。
どこかで一方的な情報だけを聞き、私の親不孝ぶり(?)を、批判しようとした。
「祖父の33回忌をしなさい」と言ったことに対して、「33回忌ねえ……?」とつぶやい
たときのことだった。
レベルの低い人だった。

が、私には、その女性が、山の中のサル(失礼!)のように見えた。
だからすかさず、「トイレへ行きたくなりました」と言って、その場を離れた。
不快感はなかった。
怒りの気持ちは、さらになかった。

相手が子どものばあいも、同じように考えてよい。
どうせ相手は、子ども。
あなたの子どもであれば、30年前のレベル。
けっして、本気で相手にしてはいけない。

(補記)

相手を呑んでしまうと、そこにおおらかな世界が見えてくる。
すると不思議なことに、『魚心あれば水心』というか、相手も、やがてこちら側の心に反応
して、おおらかになってくるのがわかる。
(こちらがカリカリすると、相手もカリカリしてくるが……。)

大切なことは、たがいに、気持ちよく時間を共有すること。
すべては、そこを原点として考える。


●緑内障

左目だけで、キーボードの「T」を見ていると、「E」の文字が消える。
右目だけで、「T」を見ていると、「U」の文字が見えなくなる。

これは正常な現象である。
目には、「盲点」と呼ばれる部分がある。

しかし両目で「T」を見ていて、「E」が消えたら、緑内障と考えてよいのでは……?
これは私の素人判断だが、理屈の上で、両目で見ていて、ひとつの文字が消えるということは
ありえない。
どちらかの目が、もう一方の目の盲点をカバーする。

ところが最近、私は、「T」を見ていて、「E」の文字が消えるのを発見した。
もう少し正確には、「E」の文字の下にある、「い」の文字が消える。

ぎょっ!

ひょっとしたら、緑内障かもしれない。
一度、眼科で検査してもらう必要がありそう。
緑内障というのは、一度なったら、治らないそうだが、目薬などで、進行を止めることは
できるそうである。

つまりこうして私も、一歩ずつ、しかし確実に「死」に近づいていく。

(補記)そういう意味では、「死」はある日突然、やってくるものではない。
事故は別として、人間の体は、不可逆的に、日々に死に向かって、破壊されていく。
早ければ40代から。
しかし60代になると、それは確実に、そうなる。
大病を患えば、さらに、加速される。

かなり悲観的な見方かもしれないが、60代になると、それとの闘いが始まる。
「それ」というのは、「不可逆的な進行」をいう。

が、私はこう考える。

60歳で、耳が半分聞こえれば、御の字。
目が半分見えれば、御の字。
歩いたり、走ったりすることができるだけでも、御の字。
元気で仕事ができるだけでも、御の字。
食事がおいしければ、これまた御の字。
それ以上、何を望むことができるのか、と。

けっして強がりを言っているのではない。
要するに、「感謝」を原点として生きる。
今まで、こうして健康で生きてこられたことだけでも、まさに御の字。

この先のことはわからない。
わからないが、今、昔、私の祖父が、こんなことを言ったのを思い出した。

祖父が、あるとき、祖父の無二の親友と言われる人と、こんな約束をしたという。
「どちらかが先にあの世へ行ったら、本当にあの世があったら、その日のうちにたがいに
知らせる」と。

で、その無二の親友という人が、先に死んだそうだ。
祖父は、その親友からの連絡を待った。
しかし何もなかった。
だから祖父は、私にこう言った。

「浩司、あの世はないよ。あの男が、ワシとの約束を破るはずがないから」と。

しかし私は、みなさんに約束する。
「あの世」のことはわからないが、この先、老後を迎えて、どのように精神状態を変化し
ていくか、それをできるだけ書き残していく。

つまり60代の世界が、どんな世界か。
70代の世界が、どんな世界か。
もし運がよければ、80代の世界がどんな世界か。

もしあの世へ行って、あの世から、みなさんにあの世のことを伝えることができれば、こ
んな楽しいことはない。
そんなことをすれば地獄へ落ちると説く人もいるが、そんなルールがあることのほうが、
おかしい。
どうしてそうまで、あの世を秘密にしておかねばならないのか。
私は、そのルールを破ってやる。
そんなことで地獄へ落ちるというのなら、そのルールのほうがまちがっている。
どうせ、みな、逝(ゆ)くのだから……。


●「DARK KNIGHT」

夕食を終えたところで、ワイフが、「映画に行こう」と言った。
さっそくネットで調べると、午後8時からの『ダーク・ナイト』があった。
ちょうど間に合いそう。

ということで、「ダーク・ナイト」を見てきた。
感想は、星4つの、★★★★。
かなり見ごたえのある映画だった。

「ダーク・ナイト」というのは、旧作「バット・マン」の別名。
善と悪の戦いが、メイン・テーマになっていた。
どこか哲学的なところが、映画に深みをつけていた。

が、それに先立って、邦画の予告編が2本紹介されたが、見るに耐えないというか、
なさけないほど、チャチ!

少し前、ドイツ映画の『4分間のピアニスト』を見たが、星は4つの★★★★プラス。
迫力ある演技に圧倒された。
どうして日本では、ああいう映画ができないのだろう。

役者の演技も、演技、演技していて、つまらない。

つぎに見たい映画は……

(1)WALL・E(ロボットのロマンス映画)
(2)EAGLE EYE(?????)
(3)WANTED(「覚醒せよ、新次元へ」とパンフには書いてある。)
(4)アイアン・マン(「誕生する、世界最強のCEO」とのこと。)
(5)クローン・ウォーズ(スター・ウォーズの続編)
(6)センター・オブ・ジ・アース(地底、冒険映画)、ほか。

夏から秋にかけて、楽しい映画が、ズラリとつづく。
「EAGLE EYE」は、スティーブン・スピルバーグの作品だという。
「全人類67億人のうち、選ばれたのは、たった2人」というキャッチが、興味をそそる。

「この映画はぜったいに、見るぞ!」と誓って、映画の話はおしまい。
「EAGLE EYE」は、10月18日、全国ロードショーとのこと。
楽しみ。


●盆供養

このあたりでも、8月の旧盆に盆供養するところが多い。
昨日と今日、かけもちで、あちこちを回った。

終わりに、夜、遅く、同じ班のK氏宅の盆供養に行った。

で、これはI村(浜名湖にある小さな村)での話だが、27世帯のうち、今年初盆をする家
が、18軒もあるという。
しかしそのうち、7軒は、何もしないとのこと。
盆供養といっても、その村では、葬儀の約半額程度の費用がかかるという。
みな、異口同音に、こう言う。
「盆供養のほうが、たいへん。葬式のほうが、よっぽど楽」と。

盆供養も、しないところが、ふえてきた。

一方、盆供養に行く私たちの立場で言うなら、まさに、儀式、儀礼。
使者を悼むというよりは、ただの義理。
義理で行くだけ。
私には、盆供養の意味そのものが、よくわからない。
しかし、行く。
行くしかない。

「簡素化しろ」とは言わないが、もっと中身を追求した儀式にしてもよいのではないか。
葬儀も形骸化しているが、盆供養は、さらに形骸化している。
もともと迷信のかたまりなのだから、意味づけなど、できるはずもない。
さらに言えば、「ウラバン」というのは、もともとはアフガニスタンでの宗教儀式。
その「ウラバン」が、中国へ入り、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、それに「会(え)」がつ
いて、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。
仏教が、インド→アフガニスタン→チベット→中国へと伝わる過程で、仏教の中に困窮し
た。
釈迦仏教とは、まったく関係のない儀式である。

だったらなぜ今、それを声に出して言う人がいないのか。
仏教教団がないのか。
ただひたすら盲目的に、過去を踏襲しているだけ。

これこそまさに、死者に対する冒涜ではないのか?
私たちは仏教といいながら、アフガニスタンの土着宗教を信じている?

考えてみれば、宗教の世界ほど、権威主義的なものの考え方をする世界はない。
「何でも過去が正しい」と。
だったら、なぜ、一度、釈迦仏教の時代にまで、時間を巻き戻してみないのか。
奈良時代や平安時代とちがって、今は、情報も、自由に手に入れることができる。
新しい仏教が生まれても、何ら、おかしくない。

……とは言いつつ、暑い中、ワイフと2人で、黒い喪服に身を包み、あちこちを回った。
それらしく、しおらしい顔をして……。
疲れた!


●夏休みも終わり

長かった(?)夏休みも終わり、脳みそは、仕事モード。
が、ふと、こう思う。
「いつまで、こんなことをつづけているのだろう」と。

いつか(その日)がやってくる。
その日がやってくるまで、恐る恐る、仕事をつづける。
来年はだいじょうぶだとしても、5年後のことはわからない。
10年後のことは、さらにわからない。

仕事といっても、今までの繰りかえし。
あとは、何年、それを繰り返せるかということ。
だから「このままでいい」とは、けっして思っていない。
仕事は仕事として、私は何か、別のことをしなければならない。

……ということで、今日も、始まった!
今日は8月15日、金曜日、終戦記念日。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●演奏家への道

+++++++++++++

遠い親類の1人が、演奏家への
道を歩んでいる。

ときどき、各地でコンサートを
開いているという。

しかし話を聞いていると、この
世界、想像以上に、きびしいらしい。

つまり演奏家として生きていくのは、
たいへんむずかしい。

+++++++++++++

芸術にも、いろいろある。
その中でも、絵画と音楽(=演奏)は、よく対比される。
が、私の印象では、(あくまでも印象だが……)、
絵画は、地方に住んでいても、それなりに
道を達成することができる。

しかし音楽のばあい、東京という中央にいないと、
第一、仕事そのものが、回ってこない。

作曲となると、なおさらである。
地方に住んでいて、音楽家として身を立てるのは、
ほぼ、不可能と考えてよい。

あとは個人的な教室を開いて、それなりの収入を
得るとか、ミニコンサートを開いて、その地域の
人たちを喜ばせるとか……。

才能を伸ばし、才能を認めてもらうには、やはり
それなりのチャンスがなければならない。
逆に言うと、とくに音楽の世界では、中央に住む
人たちが、それを独占している。
地方に住む人たちのところまで、仕事(=チャンス)
が回ってくるということは、まず、ない。

では、どうするか……?

コンサートの案内書を読みながら、「この人が
才能を伸ばすには、どうしたらいいか」を考えた。

が、頭の中で、同じ考えが堂々巡りするだけで、
その先が見えてこない。

やはりコンクールか何かに出て、賞を取るしかないのか。
その賞を並べて、中央に向かって名乗り出るしかないのか。

が、私の印象では、(あくまでも印象だが……)、
音楽の才能というのは、20歳までが勝負ではないのか。
そのころまでに芽が出なければ、音楽家として
身を立てることは、無理(?)。
あきらめたほうがよい(?)。

というのも、コンクールにしても、「将来の可能性」を
みるためのもの。
10代の子どもの演奏を見ながら、その子どもの30代、
40代の演奏ぶりを想像する。
審査員は、それを評価する。

が、30代のおとなの演奏ぶりを見ながら、50代、60代の
演奏ぶりを想像する人はいない。

さらに言えば、作曲は別として、演奏といっても、結局は
楽譜を見ながらの演奏ということになる。
楽譜という天井がそこにあって、その天井を越えることはできない。

それに絵画や作曲のように、「円熟」という評価が、しにくい。
絵画や作曲は、経験を積むことによって、円熟味が出てくる。
それが評価される。

もうひとつの方法は、東京という中央を超えて、外国で
先に有名になるという方法もある。
ちょうど浜松の人が、「東京からきた」というだけで、
何でもありがたがるように、東京の人たちもまた、
「外国からきた」というだけで、ありがたがる。

そういう民族的な土着性を利用する。

さらにもうひとつの方法があるとするなら、インターネット
を利用するという方法もある。
今は、まだ無理かもしれないが、そのうち、自分の演奏を、
高音質で、世界に向けて発信できるようになるかもしれない。
インターネットを通して、オーケストラを組むことも可能に
なるだろう。

アメリカに住むAさんが、バイオリン、
スイスに住むBさんが、ビオラ、
中国に住むCさんが、フルートというように。

それを聴きたい人は、チケットを買って、聴く。

どうであるにせよ、遠い親戚の人の演奏会だから、
一度、ワイフと2人で、聴きに行くつもり。
この夏に、A会館で、演奏会を開くという。

がんばれ、Mさん!
応援します!

(チケットが2800円というのは、少し高い
かな……。ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●C・ヒルの「数日中」
(C.Hill said "In a few days, the problem would be settled down", according to Chosun 
Online Newspaper in South Korea. But nothing has happened since then. Today is Aug 
15th. "A few days" have already passed a few days ago! It is a sad thing for USA that 
USA has only this kind of amateur diplomat.)

+++++++++++++++

8月11日に予定されていた、テロ支援国家指定解除は、延期された。
それについても、C・ヒル氏は、こう述べていた。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能にな
るだろう」(8月12日、韓国・中央日報)と。

+++++++++++++++

8月12日の韓国、中央N報は、北朝鮮のテロ支援国家指定解除について、C・ヒル氏の
発言として、こう伝えた。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能にな
るだろう」と。

この中で、とくに「数日中」という文言に注してほしい。
C・ヒルは、同じような言葉を、過去、何十回となく使ってきた。

先月(08年7月)は、中朝会談を前にしても、C・ヒルは同じようなことを言っていた。
「北朝鮮側から、核廃棄に向けて具体的な案が示されるはず」と。

しかし何もなかった。
今回も、何もなかった。

今日は8月15日。
C・ヒルが言った、「数日中」から、すでに、5日も過ぎている!

希望的観測というか、希望的予測だけで、ものを言う。
何を根拠にしているか、私にはわからないが、どうしてあのようなド素人外交官が、6か
国協議を取り仕切っているのか、私には、理解できない。

そこで北朝鮮は、今度はこの日本に照準を合わせ始めた。
10月に、6か国協議の合意による原油支援は、終了する。
食糧支援もそのあたりで、終了する。
そこで「今度は、日本から……」と。

毎日新聞は、今回の日朝会議は、「アメリカ側の働きかけがあったから」(8月14日)と
報道しているが、事実は逆ではないのか。
つまりC・ヒルは、この日本に責任をかぶせて、自分の失敗をごまかそうとしている。
「核廃棄プログラムが北朝鮮から提出されないのは、日本のせい」と。

今までさんざん、この日本を裏切っておきながら、今さら、「働きかけ」とは?

++++++++++++++以下、毎日新聞より++++++++++++++++

米国は「米朝、日朝、(朝鮮半島の)南北のそれぞれの関係が核廃棄プロセスで重要となる」
(米政府高官)との立場から、北朝鮮に日本人拉致問題の「進展」を促し続けてきた。北
朝鮮を再調査へ動かしたのも、米国の働きかけがあったためとみられる。

++++++++++++++以上、毎日新聞より++++++++++++++++

C・ヒルという外交官が現われたおかげで、拉致被害者たちは、ただただ無益に、4年も
過ごしてしまった。
この間に、亡くなった人もいるかもしれない。

そればかりか、ほとんど見返りらしい見返りもなく、アメリカは、北朝鮮に原油と食糧、
時間と音楽を与えてしまった。
日本の制裁措置を骨抜きにしてしまった。
この4年間で、北朝鮮の核開発は、どこまで進んでしまったことやら?
今のC・ヒルを見ていると、韓国の前ノ大統領の亡霊を見ているようで、ぞっとする。

昔からこう言う。

「悪魔の行動を予測するのは、簡単なこと。悪魔の目的を知ればいい」(西洋の諺)と。

悪魔の目的とは、ずばり、ジャパン・マネー。
それを手に入れること。
そのためには、北朝鮮としては、何としても核兵器を温存し(=日本を脅迫する道具に使
うため)、アメリカとの間では、友好条約を結びたい(=アメリカを抑えておくため)。

私のようなド素人でも、この程度は、読めるのだが……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 12日
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●認知的不協和

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HP2133を買って、1か月あまりが過ぎた。
で、今のところ、何となく使っているが、どうも使いにくい。

英語式キーボードというのは、あくまでも英文を
打つ人用にできている。
たとえば日本語式キーボードでよく使う、「Enter」
キーが、小さい。

それにワードで作業するばあい、キー上の記号と、打ち出される
記号が一致しない。

文字をカタカナになおすには、「F7」キーを押せばよい……
というようなことにしても、説明書には、どこにも、
書いてない、などなど。

「やっぱりU100にすればよかった……」とか、
「K社のミニ・パソコンにすればよかった……」とか、など考える。

こういう心理状態を、「認知的不協和」という。

++++++++++++++++++++++++++

認知的不協和……「個人のもつ認知に、矛盾やアンバランスが生ずること」(「心理学」・
ナツメ社、P172)とある。

で、その解決方法には、4つあるそうだ。

(1)使いこなせば、そのうち、慣れてくるだろうと慰める。
(2)買い換えるのは無理なので、がまんして使う。
(3)できるだけほかのパソコンを使って、緊急のばあいのみ使うようにする。
(4)HP2133について、評判のよい記事を読みあさる(以上、同書、応用)。

もっとも、相手がパソコンだから、それほど深刻に考える必要はない。
私のばあい、すでに次期デスクトップパソコンの選定に入っている。
気に入らなかったら、つぎのを買えばよい。

が、これが結婚だったら、どうなるのか?

相思相愛で、すべてメデタシ、メデタシという結婚であれば、問題はない。
が、しばらく生活をつづけるうちに、認知的不協和が起きたとしたら……?

(1)共同生活をしていれば、そのうち、慣れてくるだろうと慰める。
(2)離婚するのは無理なので、がまんしてつきあう。
(3)適当に浮気でもして、ストレスを解消する。
(4)自分の配偶者のよいところを懸命にさがして、それを信ずる(以上、同書、応用)。

私たち夫婦も、常に、認知的不協和と闘ってきたような気がする。
もともと他人なのだから、しかたない。
生まれも、育ちもちがう。
おまけに岐阜県人(私)と静岡県人(ワイフ)とでは、何かと考え方もちがう。

今から思うと、それほど相思相愛でなかったのが、かえって幸いしたのかもしれない。
たがいに、ほどほどのところで満足し、ほどほどのところで納得した。
どんな大恋愛をしても、それを司る脳内ホルモン(フェニルエチルアミン)は、
3〜4年で寿命が尽きる。
(私の経験では、2年程度。他人の話では、長くても、4年程度。)
つまり遅かれ早かれ、どんな夫婦でも、私たちのようになる。

が、それを(終わり)と考える必要はない。
そこを(出発点)として考えればよい。

さて、再び、パソコンの話。

言うなれば、私たち夫婦は、巨大な「認知的不協和」にさらされていることになる。
だからというわけでもないが、パソコン程度の「認知的不協和」など、何でもない。
むしろ、それを楽しむことさえできる。

……ということで、この話は、おしまい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 認知的不協和 はやし浩
司)

+++++++++++++++++

ついでに恋愛の寿命について

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●6か国協議(Wake up, Mr C.Hill!)
(How come is Mr C. Hill so stupid? When does he wake up to see the real world in
Asia? We do not need Kim Jon-HILL anymore. He has already destroyed the Japan-
USA relationship so badly enough. But even now he is trying to protect North Korea 
for his own fame.)

++++++++++++++++++++++++

C・ヒル国務次官補は、この場に及んでもまだ、
「11日は指定解除の最終的な時限ではない」と、北朝鮮を
かばっている。

++++++++++++++++++++++++

●流れた、制裁解除

テロ支援国家指定解除について、C・ヒル国務次官補は、そのつど、「2か月後には……」
「今月末には……」「2週間後には……」を繰りかえしてきた。

しかし北朝鮮側の動きは、そのつど、いっさい、なし。
(ジャンク・ヤードと化した、ヨンビョンの冷却塔を、アメリカ側の費用負担で、爆破
しただけ。)

で、8月11日に予定されていた、テロ支援国家指定解除は、延期された。
それについても、C・ヒル氏は、こう述べている。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能にな
るだろう」(8月12日、韓国・中央日報)と。

C・ヒル氏は、どこまでオメデタイ人なのだろう。
単細胞というか、はっきり言えば、ノーブレイン。
今さら、「今までの交渉が無駄でした」とは、言えない。
その気持ちは、ヨ〜クわかる。
しかし他人(日本など)の意見には、耳を傾けず、独善と独断、「話せばわかる」式の
手法で突っ走ってしまった。

その結果が、今。

しかも最近になって、C・ヒル氏の言う、「立ち入り検査」が、原文の英語では、「vis
it」(訪問)になっていたことも判明(エコノミスト誌、重村氏指摘)。

強制力もなく、サンプル採取もない。
相手方が「NO」と言えば、何もできない。
「訪問」というのは、そういう意味である。

が、こんなバカげた合意がどこにある。

今ごろも北朝鮮は、手にした原油とマネーで、せっこらせっこらと核兵器を増産している。
だからこそ余計に、アメリカが主張するような査察など、させない。
させるわけがない。

こんなことは、小学生でもわかること。
つまりC・ヒル氏は、それもわからない、BAKA!

私はいろいろな外交官を見てきたが、これほどまでにド素人の外交官を知らない。
自分の名聞名利達成のためだけに、6か国協議を利用しているだけ。
しかもさらに北朝鮮をかばって、「11日は指定解除の最終的な時限ではない」とは!

もし「数日中に」何も起らなければ、C・ヒル氏よ、今度こそ、自分の言葉に責任を
取れ!
あなたが言う、「〜〜日中に……」は、もう聞き飽きた!

日本の制裁を骨抜きにしたあと、逆に、拉致問題を棚上げにし、北朝鮮への援助に加わる
よう日本に圧力をかけてきた。
しかも「指定解除をする」という、脅しのおまけつき!

アジア人の心が、まったくわかっていない。
日本人の心が、まったくわかっていない。
だから単細胞!

「アメリカから提供された、原油50万トンと、食糧50万トンで、とりあえず、今年は
だいじょうぶ」と、北朝鮮は考えているらしい(某・雑誌)。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【8月12日】

●不安(兄の死に際して)

++++++++++++++++++

私は子どものころ、毎日、不安でならなかった。
どういうわけか、不安でならなかった。
本来なら、家庭や家族が、心のより所であったはずのなのだが、
私には、その居場所すらなかった。

まず、家の間取りが悪かった。
たとえば学校などから帰ってきたようなときでも、自分の体を
ドカッと置いて、休めるような場所さえなかった。
居間の横が、土間になっていて、それが店と、台所を
つなぐ通路になっていた。

つぎに私の父と母は、結婚当初から、心がバラバラだった。
数日おきに父は酒を飲んで暴れ、私たちは、それがこわくて、
ときには親類の家に逃げていったりした。

そんな私が、かろうじて(私)でいられたのは、祖父母が
同居していたからに、ほかならない。
祖父が、私の父代わりになってくれた。
実際、祖父は私を、孫というよりは、実子のようにかわいがってくれた。

家の中では、父に遠慮してそういうことはしなかったが、祭などに
出ると、祖父は、片時去らず、私の手を握っていた。
小学校の高学年になっても、寒い夜などは、祖父母のふとんの中に
もぐって眠ったこともある。

心理学的には、私は基底不安タイプの人間ということになる。
私は母子関係の間で、基本的信頼関係の構築をすることができなかった。
わかりやすく言えば、私は、そのまま心の開けない人間になってしまった。

+++++++++++++++++++++

フロイトは不安を、(1)現実不安、(2)神経症的不安、(3)道徳的不安の3つに分けて
考えた(「心理学」・ナツメ社)。

心理的不安というのは、「勉強しないと試験に落ちるというような不安」(同書)、
神経症的不安というのは、「だれかに魔法をかけられているというような、了解不能な不安」
(同書)、
道徳的不安というのは、「自分が何か、悪いことででもするのではないかという
ような不安」(同書)を、それぞれいうのだそうだ。

この不安学説を読んでいて、まず思い起こされるのが、先日他界した、兄のことである。
兄は、始終、何かしらの不安を訴えていた。
病気、仕事、将来、家庭、家族などなど。
たまに鼻歌を歌いながら、パチンコに行くことはあったが、そういう兄の姿は、例外的な
ものだった。

その兄は、フロイトの説によれば、(というのも、不安学説というのは、無数にあって、定
型がないので)、これら3つの不安を、同時にかかえていたことになる。
すべき仕事がないと、「仕事がない」と言っては不安になり、反対に、いくつか仕事が重な
ったりすると、「仕事ができない」と言っては、不安になったりした(現実不安)。

また何かのことで落ちこんだりすると、かならず仏壇の前で手を合わせていた。今から思
うと、それが神経症的不安だったのかもしれない。

が、最大の不安は、何をしていても、あるいは何もしていなくても、心の安らぎを得られ
なかったということ。
ちょっとした失敗をだれかに指摘されただけで、すかさず「ごめんなさい」とか、「母ちゃ
んに叱られる」とか、言った。
私はかろうじて祖父母に救われたが、兄のばあい、私にとっての祖父母に当たる人がいな
かった。

孤独だった。
本当に兄は、孤独だった。

その孤独感が、そばにいる私にも、ひしひしとよくわかった。

そこで兄が選んだ道は、レコード集めだった。
兄にとっては、レコードがすべて。
命だった。

兄はレコードを集め、それに耳を傾けることで、自分をなぐさめ、孤独をいやした。
私は子どもながらに、「兄のレコードだけには、手を触れてはいけない」ということを、
学んだ。

手を触れることは、タブー中のタブー。
ほんの少しでもレコードの位置がずれていたりすると、それだけで兄は、よくパニック状
態になった。

……かく言う、私も、つねに不安との闘いだった。
いつも心のどこかに、何かしらの不安をかかえていた。

たとえば生活するのに、20万円にお金が必要だったとする。
しかし同額の20万円の収入では、私は、安心感を覚えられなかった。
倍の40万円、あるいはそれ以上にないと、落ちつかなかった。

フロイトが説くところの、現実不安という不安である。
ほかにも、原因のわからない不安感に襲われたこともある。
が、これについては、前に何度も書いてきたので、ここでは省略する。

一方、道徳的不安というのは、ほとんどなかった。
私はどちらかというと、自己愛者。
若いころは、とくにそうだった。
自分勝手で、わがまま。
自己中心性が、人一倍、強かった。
だから「何か悪いことでもするのではないか」とか、「自分のしていることがまちがって
いるのではないか」ということは、ほとんど考えたことがない。

私は、常に正しかった(?)。

むしろ、40歳を過ぎるころから、他人に対して謙虚になった分だけ、自信をなくした。
今の今でさえ、私の知らない世界が、あまりにもあるということについて、恐れをなす
ことが多い。

が、ここで異変が起きた。
それは自分でもはっきりと自覚できるほどの異変である。

兄の本葬をしている最中のことだった。
私は自分の心がどんどんと軽くなっていくのを覚えた。
不思議な感覚だった。

だからといって、兄の死を喜んでいたわけではない。
むしろその逆。

私の家庭環境を振り返ってみると、私が兄で、兄が私であっても、何らおかしくない。
一時は、父や母に、家業を継ぐように強要されたこともある。

だからあるときから、痛いほど、兄の気持ちが理解できるようになった。
兄が不安がるのを見ながら、その不安が、私が感じているのと同じであることを知った。

兄と私は、どこもちがわない。

ゆいいつのちがいといえば、兄は、その不安に押しつぶされてしまったということ。
私は、その不安を押しのけながら、生きてきたということ。
生命力のちがいというよりは、ほんのわずかな運命のちがいでしかなかった。

兄は、そうした不安を、私から抜き取り、それをあの世へいっしょにもっていってくれた。
それが実感として、私には、よくわかった。
だからおかしなことだが、兄の死を悲しむというよりは、私は、兄の心が解放されたのを
喜び、同時に、私の不安をぬぐい去ってくれた、兄に感謝の念を覚えた。

今の私は、おだやかで、とても安らいでいる。
兄の死後、ワイフも驚くほど、睡眠時間が長くなった。
早朝に目を覚ますということもない。
ワイフも、「あなたは別人のように穏やかになった」と言う。

今、やっと私は、家族自我群による幻惑から解放された!

葬儀の席で、「準ちゃん(=兄の名)、ありがとう」と言ったのは、そういうところから出
た言葉だと思う。

準ちゃん、ありがとう。
安らかに眠れ。
しばらくしたら、ぼくも、そちらへ行くから……。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●自分さがし

++++++++++++++++++++

私は何のために生まれたのか。
何のために生きているのか。
私はこの先、どう生きていくべきなのか。

それを「自分さがし」と、いう。

しかし一朝一夕に、できるものではない。
またそれがわかったとしても、現実の
自分をそれに一致させていくことは、
並たいていの努力ではできない。

エリクソンという学者は、40歳を、
「人生の正午」と呼んだ。
そのころ「自分さがし」を始めたとしても、
遅いかもしれない。
できれば30代……。
そのころから始める。

++++++++++++++++++++

(自分がすべきこと)を発見し、(現実にそれをする)。
それを「自我の統合性」という。
が、(自分がすべきこと)を知るのは、容易なことではない。
それこそ10年単位の努力と積み重ねが必要。
「定年退職になりました。明日から、ゴビの砂漠で、柳の木を
植えてきます」というわけには、いかない。

いわんや死の宣告をされてから、自分さがしをしても、遅い。
大切なことは、今日1日を、常に最後と思い、真剣に生きる。
あとは、ない。
明日も、ない。
そういう真剣さの中から、やがて私という人間の輪郭(りんかく)が見えてくる。
(何をすべきか)、それが見えてくる。

は、たいていのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
できれば、避けたいと思う。
それに(すべきこと)は、常に「無」でなければならない。
損得を考えたとたん、(すべきこと)は、煙のように消える。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●男尊社会(Shoubnists)

兄の葬儀でのこと。
そのつど、大きな会食を3回、した。
が、驚いたことに、男たちは、テーブルの前に、デンと座って、
何もしようとしない。
何もしない。

何という男尊社会!

お茶を作ったり、味噌汁を椀にそそいでいる男は、この私だけ!
そういう私を見て、ほかの女の人たちは、「浩司さんは、いいから
あっちで座っていて」と。

しかし私は、弁当を並べ、お茶を出し、味噌汁を並べた。

改めて、岐阜の田舎の後進性を見せつけられた。

一方、都会地域では、家事を分担する男たちが、ふえている。
若い夫婦はとくにそうで、半々という家庭も多い。
9年ほど前に私がした調査では、約30%の夫婦がそうしている(2000年)。

で、私の家でも、料理はワイフがすることが多いが、洗いものなどは、
私もしている。
山荘やレストランでは、私が、ワイフにサービスをすることにしている。
そういう姿を、岐阜の人たちが見たら、どう感ずるだろうか。
私が葬儀で受けたショックと同じショックを、反対の立場で覚えるに
ちがいない。

しかしそれにしても、遅れている!

今どき、こういう世界があること自体、信じられない。
……という思いで、兄の葬儀をながめていた。

男たちよ、いいかげんに『ダカラ論』を捨てろ!
「男ダカラ……」「女ダカラ……」と言っていると、そのうち、自分の
子どもにさえ、相手にされなくなるぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●深夜のデート(非時刻表的生活)

退屈そうな顔をして、ワイフが私の書斎へ
入ってきた。

「どこかへ行こうか?」と声をかけると、
うれしそうに「うん」と答えた。

「買い物がいい」とワイフは言ったが、
私は、夕食の食べなおしを望んでいる。

今夜食べた、信州麺なる麺は、最悪。
まずかった。
長男も、半分食べたところで、ギブアップ。

少し前食べた、北朝鮮製の冷麺ほど、ひどくは
なかったが、それに近かった。

……ということで、これから外出。

世の中には、時刻表的生活をしている人がいる。
分単位で、正確な生活を繰りかえしている。
しかし私たちの生活は、結婚当初から、
非時刻表的生活。

時間に束縛されるのが、何よりもいや。
たとえばよく、夫や妻の朝寝坊が問題に
なる。
が、私は結婚して以来、ワイフの
朝寝坊を問題にしたことはない。

ワイフも、何も言わない。

起きたいときに起きる。
寝たいときに寝る。

それが私たちの生活の基本になっている。
これからも、その基本だけは、しっかりと(?)、
守りたい。

(補記)
イタリヤとかポルトガルへ行くと、(アルゼンチンも、ブラジルもそうだが)、
私たちと似たような生活を、みな、している。
たとえば深夜を過ぎても、街角から、子どもたちの声が聞こえてくる。
コンサートにしても、夜10時〜からというのも、多い。
夕食の時間も、遅い。
午後9時とか、10時から……。

(世界には、日の出とともに起き、日没とともに眠るという民族もいるそうだ。
私は直接的には、知らないが……。)

日本人だけが、どこか、へん。
おかしい。
日本だけに住んでいると、それがわからない。
けっして日本の生活が、世界のスタンダードと思ってはいけない。

では、これから出かけてきます!
時刻は、午後9時半!

ビバ、ママ・ライフ!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「オレオレ詐欺」(なりすまし詐欺)

+++++++++++++++

いまだにオレオレ詐欺の被害者が、
後を絶たないという。
それについて、こんなことに気づいた。

私のところにも、2、3か月に一度
ほどの割合で、「?」な電話がかかって
くる。

たいてい若い女性の声で、「○○さん
(=息子の名前)は、いますか?」と。

そういうとき私たち夫婦は、きっぱりと、
「どちらさんですか?」
「何の用件ですか?」と聞きかえすように
している。

私のばあい、「こちらから電話をかけなおさせ
ますから、電話番号をどうぞ」と言う。

つまりこうした言い方が、大切では
ないか、と。
つまりこの段階で、相手の詐欺師たちは、
私たちの応答のし方をみながら、
だませる相手かどうかを、即座に判断する。

だからそういう電話を受けたとき、
間の抜けたような言い方で、
「アウ〜、息子ですかア〜。息子ねエ〜」
などと言おうものなら、そのまま詐欺師の
仲間に、電話を引き継がれるかもしれない。

「実は、お宅の息子さんの○○さんがですね、
会社の金を使い込みましてね……。
今、うちの会社に捜査員が来ているところです」
とか、何とか……。

で、私たちのばあい、きっぱりと言い返すと、
向こうの方から、「じゃあ、いいです」(ガチャン)とか
何とか言って、電話を切ってしまう。

しかしこれから先のことはわからない。
いくらがんばっても、脳みその働きは鈍くなっていく。

やがてすぐ私たちも、「アウ〜……」という
話し方をするようになるかもしれない。

では、どうするか?

電話番号を変えて、非公開にするしかない。
あるいはナンバー表示付きの電話にする。
常時留守番方式にするのも、ひとつの方法かも
しれない。

……というようなことを、今朝、考えた。
つい先ほども、そういう「?」な電話が
かかってきたので……。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●小銭の奴隷たち

私の実家は、昔からの自転車屋だった。
祖父の話では、岐阜県でも、1、2番目に古い自転車屋だった……とか。
(祖父の自慢話は、あまりアテにならない……。)

明治時代には、岐阜県のM町から名古屋まで、歩いて自転車を買いに行ったという。
帰りは、その自転車を、肩にかついでもって帰ったという。

私は子どものときから、そういう環境の中で、商売というのがどういうものか、
それを見ながら育ってきた。
つまりこの世界では、ウソが当たり前。
ウソが当たり前だから、何もかもが、ウソとなる。
「ウソ」という言葉に語弊があるなら、「駆け引き」と言いかえてもよい。
しかし「駆け引き」というのは、基本的には、「だましあい」をいう。

とくに自転車というのは、定価がわからない。
パソコンやカメラなら、カタログを見比べることによって、ある程度の
売値がわかる。
が、自転車には、それがない。

で、そういう点でも、人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
商売のうまい人というのは、口がうまい。
相手に取り入るのが、うまい。
そしてそのつど、相手をだます。
客だけではなく、家族、親類まで。
ついでに友人まで。

それができないと、この世界では、生きていくことができない。
私の父が、そうだった。

私の父は、実直な人で、学者肌の人だった。
まともな教育を受けていたら、まちがいなく学者になっていただろう。
晩年の父は、暇さえあれば、今の私のように、いつもノートに
何かを書いていた。

だから商売は、へただった。
私が高校生になるころには、家計はあってないようなものだった。
そういう父を、当時の私は半ば軽蔑していた。
が、今になってみると、かえってそういう父のほうが、
心の中で光り輝いているから、不思議である。

で、その商人で、いちばん警戒しなければならないこと。
それが「小銭の奴隷」になることである。
みながみな、そうなるわけではないが、商売をしていると、
小銭の奴隷になりやすい。
明けても暮れても、考えることと言えば、小銭を稼ぐことだけ。
小銭を稼ぐことだけに、汲々(きゅうきゅう)としている。
「頼れるのは、マネーだけ」と。
こうなってくると、人間性にまで、影響を与えるようになる。

ケチで計算高く、小ずるい。

が、それだけではすまない。
人生そのものを、棒に振る。

キリスト教でも、「奴隷」という言葉を使って、そうした生き方を、強く戒める。
つまり何かの奴隷になればなるほど、真理(自由、叡智)から遠ざかる、と。
人間は、努力しだいでは、神のような人間にもなれる。
しかしその努力を怠ると、畜生以下の人間になってしまう。

では、どうするか……、という問題よりも、今、全国の街角から、
その商店が姿を消しつつある。
中小都市の駅前の商店街などといったものは、今は、どこも、見る影もない。
この世界ほど、弱肉強食の論理が、露骨に現われる世界はない。

たとえば自転車屋にしても、今どき、20〜30台の自転車を並べて
いたのでは、商売にならない。
最低でも、50〜60台……と、少し前まで言われていたが、それが今では100台
単位になっている。

で、浜松市程度(人口82万人)の大都市ともなると、200〜300台も
並べる自転車屋が、いくつかある。
しかしその自転車屋も、さらに大型のショッピングセンターには、かなわない。
内情はわからないが、客の出入りを見るかぎり、経営はきびしいのではないか?

つまり近代ビジネスというのは、「ウソ」を排除したところから始まる。
「ウソ」が残るところには、近代ビジネスは、その居場所すら、ない。

話がそれたが、こまかいウソを重ねていると、いつの間にか、「小銭の奴隷」になる。
いくら商売をしていても、それだけには、警戒したほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●北京オリンピック、口パク騒動

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今月8日夜に行われた北京五輪開幕式。華やかな開幕公演に続いて、照明が落とされたメ
ーンスタジアムに髪の毛を束ねた少女が登場した。少女は透き通った声で「五星紅旗(中
国国旗)がたなびけば勝利の歌声響きたり」という歌詞で始まる、愛国歌曲『歌唱祖国』
を披露した。(以上、朝鮮N報)

しかしこれは、「口パク」だった。
実際、歌ったのは、「歌声の主は妙可ちゃんより2歳年下の楊沛宜ちゃん(7)だった」(同
紙)とのこと(2008年8月13日)。

++++++++++++++++++++

この記事を読んだ人は、だれしも、「やっぱり……」とか、
「中国らしい……」と思うにちがいない。
BLOGなどへの書き込みを見ると、鬼の首でも取ったかのように、
中国を非難している人もいる。

しかしこんなことは、少し前の日本でも、常識だった。

私が29歳のときに出版した、「東洋医学・基礎篇」(G研)は、
前書きと、本文の中の1ページをのぞいて、すべて私が書いたものだった。

しかし編集者が、「君の名前では本は売れない」と言い、当時の
著名な医家を2人、その本の著者にした。

そのあと1度、G研に対して、「名誉を回復してほしい」と手紙で
頼んだことがあるが、担当者からは、いっさい、返事はもらえなかった。

これと、今度の北京オリンピックでの「口パク」と、どこがどうちがう
というのか。
どこも、ちがわない。
言いかえると、中国は、かつて日本が歩んだ道を、そのまま歩いて
いるだけ。

それを知っている私たち世代が生きている間は、日本よ、日本人よ、
偉そうなことを言うな!

つまり当の中国人たちには、罪の意識はない。
ちょうど、30年前に、出版社の編集者たちが、何ら罪の意識を感じなかった
ように、だ。

しかしこんなバカげたことは、今回の「口パク」を他山の石としながら、もうやめよう!
日本人も、中国人も!

そこに生きているのは、私という個人。
あなたという個人。
その個人を、もっと大切にする世界を、めざそう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 東洋医学基礎篇 東洋医学
基礎編 はやし浩司 東洋医学・基礎篇 東洋医学・基礎編)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●金価格の暴落

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この1か月で、金価格(グラム・売り渡し価格)が、
3500円あまりから、3000円弱まで
暴落している。

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この1か月で、金価格(グラム・売り渡し価格)が、
3500円あまりから、3000円弱まで
暴落している。

500円あまりの暴落ということになる。
北京オリンピックまで、あがりつづけるというデマは、
あえなくツユと消えた。

今ごろ中国では、絶望的な悲鳴をあげている人が、
ゴマンどころか、ゴジューマンはいるにちがいない。

で、今が買い時かというと、そうでもない。
こうときは、ほかの金属の価格変動を見る。

「メタル・エコ・ネット」HPによると、ニッケル、
アルミ、銅も、同時にさげている。
(もちろんプラチナも……。)

とくに銅の暴落が、ひどい。
……ということは、金価格も、まだしばらくさがりつづける
ということ。

原因はいろいろある。

(1)中国経済が失速した。
(2)原油価格がさがった。
(3)アメリカのドルが一時的ではあるにせよ、強含みに展開している。

つまり金への投資資金が、ほかに回り始めたということ。
金だけの価格変動を見て、金を売買していると、やけどする。

……とまあ、偉そうなことを書いたが、こんなことは、この世界では
常識。

……ワイフがクラブから帰ってきたので、今朝の原稿書きは
ここまで。

これから母を見舞ったあと、ワイフの叔父の盆供養に行ってくる。
(以上、平成20年8月13日(水)記)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 10日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ヘリコプター・ママ(Helicopter Mothers in South Korea)

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韓国には、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれる
母親たちがいるそうだ。

「ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、
あれこれ世話をする母親」(朝鮮N報)という意味だ
そうだ。

++++++++++++++++++

朝鮮N報、8月10日付け(2008)に、こんな興味深い記事が載っていた。
少し日本語を読みやすくして、紹介する。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

ある名門大学の経営学科に通うキム某君(19)は、夏休みを利用してソウル・鐘路にあ
る有名な公認会計士試験予備校に通っている。母親が「次の学期の"会計原理"の授業
で良い成績を取らなければならないから、夏休みに予備校へ通っておく必要がある」と
いう話を周囲の人たちから聞き、どの予備校が良いか調べた上で、登録までした。

キム君の母親は、息子が次の学期に履修する科目をすべて決めていた。「公認会計士試験
に向け、徹底的に準備するためには、会計分野の専門教育科目が重要だから、この科目
は英語ではなく国語の授業として臨めばよい。○○教授の講義は上手いというから、必
ず取らなければならない」といった形だ。

 大学1年のチェ某君(19)は、ある金融機関でインターンとして働いている。まず大学
の就職情報センターや学科のホームページで情報を集めた後、「ここ(金融機関)で働いた
経歴は、就職の際に一番プラスになるだろうから、ここへ行きなさい」という母親のアド
バイスを聞き、その通りにしている。チェ君の母親は、息子に代わって自動車教習所の登
録もしている。

 キム君やチェ君の母親のような人が最近増え、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれている。
ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、あれこれ世話をする母親という意味
だ。自分の子どものことを何でもしてあげることで、子どもを「マザコン」に仕立て上げ
ているともいえる。

 ソウル大宗教学科のユ・ヨハン教授は「成績を出した後、教授に直接会って"うちのこ
の成績が良くないと、専攻を決める際に人気のない学科に行かされるかもしれないから、
成績を上げてくれ"と懇願する母親もいた」と話す。

 釜山に住む主婦のユン某さん(49)は、大学1年の息子が「ほかの人よりも早く司法試
験の準備をしたい」と言ったため、その願いを叶えるために東奔西走した。息子の軍隊へ
の入隊や大学の休学の時期をすべて調整し、さらに自らソウルへ行って、司法試験の合格
者を多く出しているという冠岳区新林洞一帯の予備校を探し歩いた。

 京畿道に住む主婦キム某さん(54)は、31歳になる会社員の息子の「金融アドバイザー」
だ。銀行や不動産鑑定士に依頼して綿密な分析をし、利回りが良いファンドや株式投資、
積立口座などを選んで、息子に代わって加入するとともに、毎月の収益実績をチェックし
て資金の運用までしている。息子の月給の管理も母親の役目だ。息子が女性と会えば、条
件や趣向などを把握し、引き続き会ってもよいかどうかを息子に言い聞かせてもいる。

 問題はこうした「ヘリコプター・ママ」の下で過保護に育てられた子どもたちが、困難
な状況に直面したとき、自らの力で問題を解決していく経験が絶対的に不足しているとい
うことだ。その子どもたちもまた、「マザコン」になってしまうのではないかという不安を
感じているという。

 高麗大社会学科の玄宅洙(ヒョン・テクス)教授は「就職難が続き、"ニート"が増える
中、子どもが大学を卒業した後の進路を決めることも、親(特に母親)の役目になってい
る。母親の"行き過ぎた親心"が、成人した子どもの親への依存度を高め、"一人では何も
できない"大人に仕立て上げている」と苦言を呈した。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

日本でいう「モンスター・ママ」に似ている。
少し前は、「教育ママ」と読んだ。
要するに、過干渉、過関心、過保護、それに溺愛を複合した母親ということになる。
本来なら、社会や自分自身に向けるべき生きがいまで、すべて子どもに向けてしまう。
その結果、朝鮮N報にもあるように、子どもは、マザコン化する。
50代、60代になっても、母親のうしろを、いそいそとついて歩いたりする。

が、もちろん、本人自身に、その自覚はない。

自分では、「親孝行の、すばらしい息子」と思っている。
あるいは「自分の親は、自分がそうするに足る、すばらしい親」と思いこんでいる。

問題は、なぜ、こういう母親が生まれるかということ。
それには、社会の不備があげられる。

女性は結婚し、家庭に入ると、その時点から、子どもを産み、子どもを育てる(道具)と
しか見られなくなってしまう。
いくら才能やキャリアがあっても、家庭の中では、それを生かすこともできない。
またその途中で、自分を磨くこともできない。
勉強といっても、せいぜい資格試験のため。
その先がない。

約30%の女性は、それでよいと考えている(某、調査)。
しかし大半の女性は、不完全燃焼症候群の中で、悶々とした日々を過ごす。
それから生まれるストレスは相当なもので、「家庭は、女性にとっては監獄である」と説い
たイギリスの評論家さえいた。

つまりそうしたエネルギーを、すべて子どもに向けてしまう。

モンスター・ママにせよ、ヘリコプター・ママにせよ、ゆがんだ男女差別観が生んだ、犠
牲者にすぎない。

韓国も日本も、この点では、よく似ている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ヘリコプターママ ヘリコ
プター・ママ モンスター・ママ モンスターママ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪魔論

+++++++++++++++++

あるものの本によれば、悪魔というのは、
情け容赦なく、相手を苦しめるという。

たとえば悪魔が、A氏ならA氏を苦しめよう
としたとする。

そういうとき、悪魔は、A氏には直接、
手をくだすようなことはしない。
(最終的には、A氏にも、手をくだすが……。)

まずA氏にとって、最愛の人、たとえば妻や
子どもに手をかける。
が、そのとき、情け容赦しない。
妻を殺したり、子を自殺に追い込んだりする。

A氏を生きたまま、苦しめる。
つまり悪魔というのは、相手を精神的に
追いつめるのを目的とする。

で、そのとき、A氏が自分の境涯をのろい、
ついで自ら破滅の道を選ぶなら、それこそ
悪魔の思うつぼ。
悪魔はますますキバをむいて、その人に
襲いかかってくる。

ここで重要なことは、悪魔は、A氏を苦しめる
にあたって、直接的な理由は、問題としない。
理由がなくても、(遠因はあるのだろうが)、
悪魔はA氏ならA氏を、苦しめにかかる。

では、その悪魔からの攻撃をさけるには、
どうしたらよいのか。

ものの本によれば、まず悪魔の正体を知る
ことだそうだ。
そして運命を受け入れ、自分の周辺を「愛」で
満たすことだそうだ。

そうすれば、悪魔は、向こうのほうから、
シッポを巻いて逃げていく。

+++++++++++++++++

善悪論の果てにあるもの。
それが「悪魔論」である。
悪魔といっても、映画に出てくるような実体のある存在ではない。
もし悪魔の存在が認識できるとすれば、あくまでも、それは結果。
「結果的にみて、そうだった」とわかるに過ぎない。

……というようなことが、あるものの本に書いてあった。

しかしまったくの空想かというと、そうでもないような気がする。
私たちの心の中には、いつも善と悪が同居している。
善人、悪人といっても、バランスの問題でしかない。
善の割合の大きい人を、善人という。
悪の割合の大きい人を、悪人という。

しかしその「悪」が、その人の思いも知らないところで膨張し、「悪魔」となって、
その人を襲うことがある。

たとえば世の中には、常識では考えられないような不幸な人がいる。
家族がいる。
家系がある。

ただ誤解してはいけないのは、そのものの本によれば、悪魔というのは、
その人の財産や名誉や地位には、目もくれないそうだ。
あくまでもその人に、精神的なダメージを与えるのを、目的とする。

たとえば私たちが最大の敵とする(孤独)についても、財産や名誉や地位などと
いったものは、まったくの無力でしかない。
悪魔も、それを熟知している。
だから目もくれない。

そこで「愛」ということになるのだそうだが、しかし人間には、もうひとつ、
重要な武器が用意されている。
悪魔と戦うための武器である。

それが「英知(Wisdom)」ということになる。
たとえばここに、常識では考えられないような不幸な家系があったとする。
兄弟姉妹の家族に、例外なく、若くして自殺したり、不慮の災難で死んだ人がいる。
しかしこういうケースでも、心理学的な立場で分析していくと、ある共通した
事実が浮かび上がってくることがある。

結果(果)には、かならず原因(因)がある。
それをていねいにほぐしていくと、その先に、「では、どうすればよいか」ということが
見えてくる。
それが(英知)である。

ここでいう(ものの本)というのは、かなり宗教的な色彩の濃い本である。
ときどきその類の映画の中に、登場することがある。

言いかえると、そうした(ものの本)というのは、人間にじゅうぶんな英知が備わって
いないときに書かれたものと考えられなくもない。
が、今は、ちがう。
私たちは、自ら考えることによって、自分の足で立ち上がることを覚えた。
学んだ。

悪魔論の中身まで、読み取ることができるようになった。
……ということで、悪魔論の話はここまで。

もし今、あなたや、あなたの家族や兄弟姉妹が、得体の知れない不幸に見舞われて
いるとするなら、ここに書いたことを参考にしてみてほしい。

運命は、暖かく、愛情をもって受け入れる。
それだけで、悪魔は、向こうからシッポを巻いて、逃げていく!
つまり悪魔は、恐ろしいこともするが、そのくせ、小心で、気が小さく、臆病。
何ら、恐れることはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 悪魔 悪魔論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【We are angry, Ms. C. Rice and Mr. C. Hill】

●またまた、だまされた! ヤーイ、ザマーミロ!
You are cheated again, Mrs. C. Rice and Mr.C. Hill!
ライス氏よ、ヒル氏よ、またまただまされた!
日本を脅し、日本を裏切って、その結果がこれ!
Be ashame will you? What both of you done is just to give them money, oil, food, time 
and music!
I used to be a pro-USA member but now I am surely an anti-USA member. C. Rice and 
C. 
Hill has destroyed the relationship between Japan and USA. How many times do they 
need to betray us before they realize that North Korea is not such a country as they can 
handle with. 

++++++++++++++++++++

時事通信は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++++

【北京8月9日時事】ブッシュ米大統領に随行して訪中しているホワイトハウス当局者は9
日、米政府が11日に北朝鮮のテロ支援国指定を解除する可能性について、「実現しそうも
ない」との見通しを明らかにした。
 北朝鮮が提出した核計画の申告書に対する検証手順に関して合意が得られないためで、
見返り措置となる指定解除の正式決定を先送りする。 

+++++++++++++++++++++

(裏切り行為1)……6か国協議を、事実上、米朝の2か国協議にしてしまった。つまり
日本を、完全に、カヤの外に置いた。(USA has always ignored Japan in the 6-nation 
conference.)

(裏切り行為2)……日本に拉致問題を棚上げし、北朝鮮への援助に加わるよう圧力を加
えた。(USA has forced us to assit North Korea.)

(裏切り行為3)……既存の核兵器を黙認したまま、核開発の廃棄と、核拡散の停止だけ
を、議題にした。(We can admit the exisitence of nuclesr weapons in NO way.) 

(裏切り行為4)……日本に、「アメリカの言うことを聞かなければ、テロ支援国家指定を
解除する」と、脅しをかけてきた。(C.Hill has threatened us to dissolve the Terrorist-list
 unless Japan will follow USA.)

(裏切り行為5)……日本の制裁行為を、骨抜きにしてしまった。原油50万トン、食糧
50万トンの援助を、勝手に始めてしまった。(USA has started assisting North Korea 
against Japan.)

(裏切り行為6)……竹島を、韓国領と認めてしまった。(The President, Mr. Bush 
admitted that Take-shima belongs to South Korea.)

(裏切り行為7)……以上の流れの中で、C・ヒル氏は、交渉の過程の中で、北朝鮮にこう
約束したと推察される。「アメリカの言うことを聞きなさい。日本からがっぽりと、お金を
取ってあげるから」と。

(裏切り行為8)……拉致問題について話しあった形跡、なし。もちろん成果、ゼロ。

C・ヒル氏というより、C・ライス氏は、よほど日本が、嫌いとみえる。
毛嫌いしているといった感じ。
日本にも非ががないわけではないが、しかしこうまで露骨に裏切られつづけると、何が6
か国協議かということになる。

さらにC・ヒル氏は、あろうことか、北朝鮮と、「友好条約」を結ぶことまで画策している。
その上今度は北朝鮮のオーケストラを、ワシントンに招く話まで、裏で進めている。

そこで日本の立場だが、今、この状況で、北朝鮮に現金を渡したら、この日本はどうなる?
『敵に塩を送る』どころか、『敵にミサイルを送る』ことになる。
さらに既存の核兵器を黙認するなどということは、日本としては、ぜったいに容認できな
い。
アメリカにとっては何でもなくても、この日本にとっては、死活問題である。

北朝鮮のような国を、まともに相手にするほうが、おかしい。
結局、C・ヒル氏がしたことは、北朝鮮に、原油と食糧、時間と音楽を与えただけ。
加えて私のように親米派であった人間でさえも、反米派にしてしまった。
そのことからもわかるように、日米関係は、戦後最大の危機を迎えつつある。

私たち、日本人は、今、怒っている!
(We are angry with C. Rice and C. Hill.)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●8月10日、日曜日(雑感)

+++++++++++++++++

昨夜は、ワイフと、『ハムナプトラ3』を
見てきた。
娯楽映画としては、最高!
文句なしの星5つ。★★★★★。
よくもまあ、あれほどまでに奇想天外な
映画が、できるものだ。
動きもよかった。
おもしろかった。
『インディアナ・ジョーンズ』がかすんで
しまうほど、楽しかった。

帰りに、浜松でもいちばんおいしいと
言われる、「某ギョーザ店」に寄った。

が、こちらは値段ばかり高くて、味は、
イマイチ!
というより、ごくふつうのギョーザ。

小ぶりのギョーザ10個で、780円!
このあたりの相場の、3倍!

有名になったことをよいことに、値段を
あげたらしい。
客は、ガラガラ。

雰囲気も悪かった。
チンピラ風(ごめん!)の若い女性が、
ウェートレスをしていた。
「水は、冷蔵庫にあるから、(勝手に)どうぞ!」と。

某テレビ局に紹介されたのがきっかけらしい。
一時は、毎日行列ができるほどの盛況ぶりだった。
が、今は、閑古鳥が鳴いている。

「二度と来ないぞ」と宣言して、店を出る。
私たち夫婦に嫌われた飲食店は、先は短い。
どの店も、そうなる。

+++++++++++++++++

●拉致問題

++++++++++++++++

雑誌『エコノミスト』(8・19)は、こう伝える。

「……結局、日朝実務者協議は、日本の世論と米議会向けに、拉致問題が進展しているか
のように見せて、テロ国家指定解除を進展するための、"仕掛け"でしかなかった。それも
見破れず、米朝の作戦に乗せられたのは、完全に日本の『外交敗北』だった」(重村智計氏、
P74)と。

つまり日本は、C・ライス氏、C・ヒル氏に、まんまとだまされた。
わかりやすく言えば、そうなる。

が、ここで忘れてならないのは、「テロ国家指定」うんぬんは、北朝鮮独特の難グセのひと
つにすぎないということ。
それが「解除」されたところで、北朝鮮を取り巻く経済的環境は、何も変わらない。
北朝鮮は、それを百も承知の上で、時間稼ぎのために、「テロ国家指定」を、問題にしてい
るにすぎない。
アメリカにしてもそうだ。
「テロ国家指定」というのは、ただの紙切れにすぎない。
つまり茶番劇。

現に「中国は、テロ国家指定が解除されれば、石油開発などの大型案件の送金を認めると
約束していたが、最近になって反古(ほご)にしたという」(同誌)と。
「テロ国家指定が解除されても、送金停止を含む金融制裁が解除されなければ、北朝鮮に
外貨は入ってこない」(同誌)。

仮に金融制裁が解除されても、それに応ずる金融機関は、皆無とみてよい。
中国銀行ですら、北朝鮮関連資金の取り引きを停止している。
そこで今、日本が取るべき道は、ただひとつ。

「ヒルさん、私たちはもう、あなたの言いなりには動きませんよ」と、明確に意思表示す
ることである。
具体的には、「制裁の一部解除をやめる」(同誌)ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●日本経済沈没(エコノミスト)

++++++++++++++

「日本経済沈没」?
雑誌「エコノミスト」は、表紙にこんな
大見出しをかかげている。

いわく、
(1)個人消費の低迷
(2)設備投資は、昨年(07)でピークアウト。
(3)住宅投資は冷え込んだまま。
(4)外需の息切れ
(5)アメリカの信用収縮と所得減少
(6)中国、インドの急成長に陰りが見える、と。
(以上、同誌を要約)

++++++++++++++

バブル経済崩壊以後、この日本が何とかもちこたえたのは、
中国特需があったからにほかならない。
そういう意味では、まさに「中国様・様」。
こうしたチャンスがあったにもかかわらず、日本は、それをよいことに、
構造改革のペースをゆるめてしまった。
本来なら、「今」というときを見据えながら、構造改革を、さらに推進すべきだった。
が、何も変わらなかった。
何も変えなかった。
公務員の人件費が、総額で40兆円。
これは国家税収(約45兆円前後)の、90%!
こんなメチャメチャな国が、ほかにどこにある?

超低金利政策と言えば、聞こえはよいが、中身は、国民からの搾取。
その搾取したお金で、官僚たちは、まさにやりたい放題。

小さな政府、小さな行政機関、効率のよい行政事務……。
その分、税金を安くして、民需を活性化させるべきだった。
が、今となっては、すべてが後手後手。
中国、インドの成長に陰りが見えたとたん、このザマ。

この数か月、経済雑誌の記事は、どれも悲観的。
「エコノミスト」も、「……以上のようにみてくると、日本経済が
来年にかけて景気後退局面に突入するリスクは、かなり高いと
言わざるをえない」(白川浩道氏)と結んでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●グルジア問題

+++++++++++++++

グルジアとロシアが、現在、戦争状態に
あるという。

さっそく、グルジアについて調べてみる。

+++++++++++++++

グルジアは、トルコとロシアの両国境に挟まれた、日本の面積の約5分の1ほどの国(外
務省HP)。

人口は440万人(07年)。

グルジア人(70・1%)、アルメニア人(8・1%)、ロシア人(6・3%)、アゼル人(5・
7%)他(2005年CIS統計委員会)ということらしい。

以下、外務省の資料をそのまま転載させてもらう。

++++++++++++++以下、外務省の資料より++++++++++++++


●ガムサフルディア初代大統領は、反政府勢力との武力衝突等により、1992年1
月に失脚、3月新しい最高権力機関として国家評議会(約60%で構成、メンバーの
大半は反共活動家)が創設。同評議会議長にシェヴァルナッゼ元ソ連外相が就任。
10月には最高会議議長に選出された。 

●テロ行為などが繰り返されてしばらく情勢は不安定であったが、1995年11月、
新憲法のもとで大統領選と議会選挙が同時に行われ、シェヴァルナッゼが圧倒的支
持を得て大統領に当選(2000年4月再選)、議会選挙でも同大統領派「グルジア市
民同盟」が第一党となった。 

●しかし、経済の低迷と政府の腐敗を背景として国民の不満が蓄積、2003年11月
には議会選の結果を不服とする野党勢力が議会及び大統領府を占拠、結果としてシ
ェヴァルナッゼ大統領が辞任に追い込まれた(バラ革命)。2004年1月に実施され
た大統領選挙では、政変の中心人物であるサーカシヴィリ氏が圧倒的支持を得て当
選した。同年3月には議会比例区の再選挙で与党ブロック「国民運動・民主党」が
圧勝。サーカシヴィリ大統領は汚職根絶など改革を積極的に推進。 

●2007年11月、大統領と議会の選挙実施時期を巡って政府と野党側が対立し、野
党側デモ隊と治安当局が衝突して多数の負傷者が出た。これを受け政府は非常事態
令を発出したが、サーカシヴィリ大統領が、2008年1月5日に大統領選挙を繰り
上げ実施し、議会選挙実施時期は国民投票にかける等の方針を発表して事態を収拾
し、鎮静化した。 

●2008年1月、大統領選が実施され、サーカシヴィリ大統領が野党候補を破り、当
選した。また2008年5月、議会選挙が実施され、与党統一国民運動が、150議席
中119議席を獲得した。 

●アブハジア(アブハズ人はイスラム教徒)、南オセチア(オセット人はイラン系民
族、キリスト教徒)の民族紛争を抱え、両地域には中央政府の実効支配が及んでい
ない。 

++++++++++++++以上、外務省の資料より++++++++++++++


ロシアとしても、グルジアを手放すわけにはいかないのかもしれない。
その向こうは、NATO軍事同盟の一員である、トルコがひかえている。
そこで反ロシア勢力を抑えるため、空爆を含む、軍事行動に出た。
……と私は考えた。

が、外務省の資料を読むと、内情は、かなり複雑なようである。
「アブハジア(アブハズ人はイスラム教徒)、南オセチア(オセット人はイラン系民族、キ
リスト教徒)の民族紛争を抱え、両地域には中央政府の実効支配が及んでいない」とある。
単純な独立戦争というのでも、なさそうである。

今朝の読売新聞によれば、「グルジアからの分離独立を求める親ロシアの南オセチア自治州
に進攻したグルジア軍と、同州で平和維持活動を行うロシア軍の戦闘は9日、グルジア領
内各地に拡大した」とのこと。

その一方で、フランスが停戦に向けた動きに出てきた。
時事通信は、つぎのように伝える。

「欧州連合(EU)議長国のフランスは9日、グルジアとロシアの停戦を呼びかけるため、
クシュネル外相が至急両国を訪問すると発表した。また事態打開を目指し、EU外相理事会
を週明けにパリで開くことを明らかにした。

 フランスは同日発表した声明で、ロシアに対してグルジアの主権と領土保全を尊重する
よう訴えるとともに、同国への軍事行動はEUとロシアの関係に影響を与えると指摘した」
と。

以上の流れからすると、グルジア政府のほうが、親ロシア勢力である南オセチアを抑えこ
むために、軍を進攻させたことになる。
その進攻に対して、現地で、平和維持活動をしていたロシア軍が反発した。
それでその戦闘が、一気に全土に及んでしまった。
……ということらしい。

人口440万人ということだから、この静岡県(379万人)より、10%ほど多いだけ。
それほどちがわない。
そんな小さな国に、ロシアという大国が、強大な軍隊を送り込んだ!
常識で考えれば、この戦争では、グルジアには勝ち目はない。
が、ロシアにも勝ち目はない。
民族紛争、さらには宗教戦争がからんでいるから、そうは簡単には解決しない。
延々とつづく泥沼戦争になる可能性が高い。

日本から見れば、グルジア人、アルメニア人、ロシア人、アゼル人は、みな、同じ。
区別すらできない。
(向こうの人たちから見れば、日本人、韓国人、北朝鮮人、中国人は、みな、同じ。区別
すらできないだろう。)
が、たがいにいがみあっている。

つまりここに人間が本来的にもつ(愚かさ)の原点がある。

日本だって、周辺の国々との摩擦を解決できないでいる。
その日本の日本人である私が、どうして彼らの平和を願うことができるだろうか。

……というようなことを、グルジアについて調べながら、別の心でふと考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●気温、6・4度上昇で、人類は滅亡?

+++++++++++++++++

2007年2月、イギリスの「インディペンデント」紙は
こう伝えた。

『このまま(地球温暖化に対して)手をこまねいていたばあい、
今後100年間で、地球の温度は最大6・4度上昇し、人類滅亡は
避けられない』(「アメリカの陰謀2」より)と。

20度とか、10度ではない。
たったの6・4度!

それにしても、「滅亡」……とは、恐ろしい!

が、滅亡するのはしかたないとしても、そこに至る過程で、人類は
まさに地獄を経験する。
地獄絵図そのままの世界!
餓鬼が人肉をむさぼり、群れをなした暴徒は、たがいに殺し合う……。
私は、それを心配する。

+++++++++++++++++++

不測の事態が、別の不測の事態を引き起こす。
こういう悪循環を繰り返しながら、人類は、底なしで、泥沼の世界へと、突入していく。

たとえば気温と脳みその関係を考えてみよう。
(今のところ、これに関する文献は、見当たらない。)
つまり気温が高くなればなるほど、脳みその活動は鈍る。
鈍るだけならまだしも、どこかで自滅プログラムのようなものが作動
するようになるかもしれない。

行動が破滅的になる。
凶暴化する。
自暴自棄になる。
前頭前野の活動が低下し、理性を喪失する、などなど。
その結果、人間は、たとえば集団自殺を試みるようになるかも
しれない。

「頭だけクーラーで冷やせばいい」と考える人もいるかもしれない。
しかし現在使っているクーラーなる冷房機は、気温が45度以上に
なると、効力がなくなるそうだ。
室内で吸収した熱を、室外で放出できなくなるためである。
かえって室外で吸収した熱を、室内へ逆流するようになるかもしれない。

いや、その前に、人間は、何度までの気温になら耐えられるのだろうか?

砂漠地方では、今年も、45度〜を超える気温がつづいているという(中国)。
「45度」と聞いてもピンとこない。
しかし風呂でも、42〜43度が限度。
45度の湯では、足を入れることもできない。

で、今年の1月、あの気候が温暖な都市として知られていた、オーストラリアの
メルボルン市でも、気温40度を超える日がつづいた。
友人に、「そういうときはどうしていたか?」と聞くと、その友人は、
「部屋の中で寝ていた」と。

フ〜〜ン、これは深刻な問題である。

が、さらに深刻な問題は、先に書いたように、滅亡に至る過程の中で、人類は、
まさに地獄を経験するということ。

第一に、社会秩序が崩壊する。
食糧危機、水不足は当然。
そうなったとき、人は、自らを律することができるだろうか。
ひとつの例だが、あの北朝鮮では、90年代末の食糧危機のとき、
子どもを誘拐して、殺し、その肉を売っている露天商まであったという。
「日本人はそこまでしない」と考えるのは、早計である。

人は絶望的な精神状態の中で、殺戮に殺戮を重ね、最後には、
核兵器をあちこちで暴発させるかもしれない。

問題点を、ざっと洗いだしてみる。

(1)社会秩序の崩壊(行政、教育、警察システムの崩壊)
(2)食糧危機、水不足問題(飢餓、飢饉の続発)
(3)道徳、倫理の崩壊(モラル、人間性の崩壊)
(4)気温が脳活動に与える影響(まだ不確実だが、攻撃的、自暴的になるなど)
(5)狂信的なカルト集団の続発(すでに活動を始めている団体がある)
(6)偶発的な戦争の拡大(大量殺戮兵器の無分別な使用)
(7)人間の集団自殺(哺乳動物が本能的にもつ自滅プログラム)

これらの問題を総合的に解決するためには、宗教的倫理観の確立、もしくは、
哲学観の確立しかない。
人類が滅亡するとしても、それが自業自得であるなら、しかたのないこと。
大切なことは、それまで、いかに心安らかに、かつ心豊かに生きるかということ。
(マズローの死の受容段階論※)を、人類全体にあてはめて考える。

つまり「人類の滅亡」を、私たちはすなおに受け入れる。
そのうえで、なすべきことをし、残すべきものは、残す。

地下奥深くに居住地を作って、一部の人をそこへ退避させる、
『第三の選択』よろしく、宇宙基地へ退避させるなどという方法もないわけではない。
(すでに秘密裡に、実行に移されている可能性も高いが……。)
しかしそういう方法で生き残れる確率は、数十万分の1とか、数百万分の1でしか
ない。
この浜松市でいえば、人口が82万人だから、浜松市民で生き残れるのは、
せいぜい1〜10人ということになる。

考えれば考えるほど憂うつになる。
しかしつぎのような方法も、ないわけではない。

人間といっても、(主体)は、脳みそである。
だったら、その(脳みそ)をそっくりそのままコピーしてしまえばよい。
今は不可能だが、現在の速度で電子工学が進歩すれば、あと数十年で、それも
可能になるだろう。
そうなったとき、(本体である私たちの肉体)は滅びるが、「私」そのものは、
後世に残すことができる。
どこかSF的な発想だが、「私」は、小さなマイクロチップになり、それこそ
月の地面下で、永遠に生き残ることもできる。
もちろんマイクロチップとマイクロチップは、光ファイバーのようなもので
つながれる。
たがいに会話をすることもできる。
たがいの姿を確認しあうこともできる。

つまりこの時点で、人類は、つぎのステップの新人類へと進化する。
そういうことも視野に入れながら、人類の未来を考える。
滅亡イコール、絶望と考える必要はまったく、ない。

なお現在の予測では、かりに温暖化防止策がうまく進んだとしても、地球の気温は、
2100年までに、4〜5度も上昇するそうだ。
6・4度とは、それほど、ちがわないと思うのだが……。

(注※マズローの死の受容段階論……人は死を宣告されると、いくつかの段階を経て、や
がて死を受容するようになるという説。)

(補記)自分の脳みそをコピーしたからといって、そのコピーは、もちろん(あなた
自身)ではない。他人から見れば、(あなた)だが、しかし(あなた自身)ではない。
つまりどのみち、あなた自身の(死)は、避けられない。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●謎の「かぐや」

++++++++++++++++++

日本が打ち上げた、月周回衛星(かぐや)は、
なぜか当初の予定の、1000万画素カメラから、
200万画素カメラに、変更されてしまったという。
その変更は、「アメリカの意向だった」(宇宙航空
研究開発機構―JAXA、元関係者)とか。

「何か、月には見られたくないものがあったのか」
(同氏、「アメリカの陰謀2」)と。

この事実は、確認してみる必要がある。

++++++++++++++++++++

簡単に言えば、1000万画素から200万画素へと、より低位のカメラに
付け替えさせられたということ。
「市販のカメラでも、今では1000万画素が常識」(同誌)という、この時代に
あってである。

(あるいは、実際には、その双方を積載していて、一般向けには、200万画素の
ほうで撮った写真を送ってきた可能性もある。)

月には、あまりにも謎が多い。
秘密も多い。

NASAにしても、数十万枚〜以上もの写真を撮っているはずなのに、現在
公開されている写真は、数%以下とも言われている。
しかもその大半は、修正されたものだという。
もし何もやましいことがなければ、すべてを公開すればよいのだが……。
公開して、損になることは、なにもないはず。
(かぐや)についても、同じ。

JAXAにしても、一部の写真や映像をNHKテレビなどで公開したが、
そのあと、すべて非公開。
写真集でも出てば購入するつもりでいたが、その気配すらない。
(これは私の情報不足かもしれないが……。)
一説によれば、「資源獲得競争」のために(?)、こうした写真は公開できないとのこと。
どこにどんな資源があるかは、国益のためにも、極秘事項というわけである。

なぜか?
どうして?
臭いぞ!
匂うぞ!

さらに今回も、(かぐや)によって、アポロ15号のエンジン噴射によってできた
「噴射跡」(ハドレー谷)が紹介されたが、なぜ15号なのか。
なぜ11号のそれではなかったのか。

(現在、アポロ11号については、実際には、月へは行っていなかったというのが、
定説になりつつある。)

何かしら私たち庶民だけが、私たちの知らない力によって、もてあそばれているだけ……
そんな感じさえする。
(かぐや)については、もっと別の方向から、これからも調べてみたい。

(注)「がぐや 月 写真集」で検索してみたところ、JAXAの公式サイトをヒット。
しかし「打ち上げ写真集」のコーナーはあったが、肝心の「月面写真」の紹介はなかった。
考えてみれば、これもおかしなことではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

【8月11日】(月曜日)
Aug 11th Monday 2008
My wife and I have been to "Nyu-kasa-yama" mountain.

●リカルド

++++++++++++++++++

メルボルン大学のIH カレッジにいたとき、しばらくすると、隣の部屋に
「リカルド」という名前の学生が入居してきた。
「ベネズエラの石油王の息子」というような、紹介を受けた。
背の高い、いかにもスペイン系の男という感じだった。
(ついでに、アルジェリアから来ていた、レミという名前の男もいた。
彼もまた、石油王の息子と呼ばれていた。)

当時、私をのぞいて、オーストラリアあたりまで私費で留学してくる
学生というのは、そのレベルの、超の上に超がつく、金持ちばかりだった。

で、最近、ベネズエラの歴史に興味をもつようになった。
リカルドのこともあった。
で、当時の名簿で、本名を調べてみると、リカルド・ビエテ(Viete)
 ということがわかった。
住所は、カラカス Axxxxx 10xxとなっていた。

今ごろはどうしているのか。
ベネズエラは、1970年以来、政変につづく政変で、当時からの糸は、ズタズタに
切れた。
だから今は、どうなっているかわからない。

今、よく覚えているのは、私が日本へ帰ると告げた日のこと。
リカルドは、あの大きな体で、私を包んだ。
何度も握手を繰り返した。
今、生きていれば、私と同じ、60歳くらいになっているはず。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●バスの中で……

++++++++++++++++++H.Hayashi

今、この原稿は、バスの中で書いている。
「入笠湿原」というところに向かっている。
諏訪湖(すわこ)を回るということだから、長野県の
どこかでだろう。
目的は、湿原散策。
2時間ほど、歩く。
つまり健康増進のため。
体力維持のため。
プラス、景色がすばらしければ、なおよい。

ところで「入笠」は、どう読むのか?
「いるかさ?」「にゅうかさ?」。
そのうちわかるだろう。

++++++++++++++++++H.Hayashi

私はもともと怠け者だから、何か必然性を感じないと、体を動かさない。
2,3度、スポーツジムとかスイミングクラブに通ったりしたこともあるが、
結局は、長続きしなかった。
散歩にしてもそうで、目的もなく、そのあたりを歩けと言われても、私にはできない。
だから、こういう旅行は、ありがたい。
……というより、旅行はワイフの趣味。

私のワイフは、若いときから、活動的。
「旅行が大好き」と、公言してはばからない。
一方、私は、旅行は、あまり好きではない。
仕事であちこちへ行くのは、それなりに楽しい。
が、今は、ワイフに主導されて、月に2、3度は、あちこちを旅行している。
で、今日は、入笠湿原。
ゴンドラに乗るのも、楽しみ。

その旅行だが、ここ10年ほどは、ほとんど国内旅行。
飛行機恐怖症の私には、海外旅行は、つらい。
息子がJ社でパイロットをしているおかげで、航空券がただで自由に手に入る。
にもかかわらず、旅行は、国内だけ。
バスか電車だけ。

言うまでもなく、気分転換には、旅行がいちばんよい。
が、それだけではない。
そのつど、サビつき始めた脳みそが、活性化する。
視野も広くなる。
ところどころにかいま見る家を見ながら、「ああいう家にも、さまざまなドラマがあるの
だろうな」とか思う。
そう思うだけで、自分の家のドラマが、よりしっかりとした輪郭をもって見えるように
なる。

そう、流行というのは、風景を楽しむためにするのではない。
その風景にとけ込んでいる人々を見るためにする。
そこにとけ込んでいるドラマを知るためにする。
また、それが楽しい。

(付記)
「入笠山」とは、「にゅうかさ・やま」と読むのだそうだ。
標高1955メートル前後の山だという。
「清里の反対側」と、ガイドさんは言った。
「南アルプスをはさんで、反対側」という意味か?
すいぶんと遠いところへ行くらしい。

……スヤスヤ……

この間、約1時間半ほど、私は眠った。


++++++++++++++++++H.Hayashi

●HP2133

今、バスの中で使っているパソコンは、HP2133。
バッテリーが2本ついて、計7時間前後の作業ができる。

今までいろいろなパソコンを使ったが、どれも半年を待たないで、
バッテリーが使えなくなってしまった。
いつもパソコンに装着して使っていたのが、まずかった。
正しくは、「使う直前になって装着するのがよい」そうだ。
知らなかった。

が、今は、7時間も使える!
CDも、30〜40枚分、収録した。
ゲームも、いくつか入れた。
ひまなときは、それで楽しめる。


●ガイドさん

今日のガイドさん(あえて、〜さん付けで呼ばせてもらう)は、最高だった。
8月11日(月曜日)、「入笠山コース」のガイドさんである。
名前を杉本さんと言った。

Bツアーにも、すばらしいガイドさんが、いる。

そこで私のガイド論。

(1)中にはハイオクターブで、キャンキャンしゃべるガイドがいる。
うるさいのなんのといったら、ない。居眠りさえできない。

(2)中には同じ話を何度も、繰り返すガイドがいる。
脳に飛来する情報を、口にしているだけ。
しかも情報の内容が安っぽい。
「日本のみやげもの、ナンバー・ワンは、〜〜」
「ほら、交通事故です」
「バイキングって、時間が決まっているんですよね」とか、など。

(3)ひどいのになると、マイクを使って、最前列付近の客と個人的な
会話をするのがいる。「携帯電話は遠慮してくれ」と言いながら、自分では
携帯電話以上の騒音をがなりたてている。

(4)ガイドの中には、定番以下の安っぽい話しかしないのがいる。
たとえば滋賀県が近づくと、必ずといってよいほど、「養老の滝」の話をするとか、など。
私などは、その話を、もう何十回も聞いた。

が、今日のガイドさんは、話し方も落ち着いていて、内容も専門的。
ときどき私は話を聞きながら、居眠りもしたが(失礼!)、それがかえって気持ちよかった。
まさに「おとなのガイドさん」だった。

見ると、今日の客の中には、外国人もいた。
専門書を読んでいる人もいた。
目を閉じてイヤホンで、音楽を聴いている人もいた。
田舎のおばちゃんたちがいなかったのも幸いした。
いつもだったら、かならずといってよいほど、そういうおばちゃんたちがいて、
ワイワイ、ギャーギャー、ゲラゲラと騒ぐ。

Bツアーを、今年も、すでに10数回以上利用させて
もらっている。
このあたりでは「遠鉄Bツアー」という。
その中でも、今日のガイドさんは、最高。
星は5つ。★★★★★。

【Bツアーの方へ】

先日、担当者の方といろいろ話させていただきましたが、
私の意見が、即、実行されたのは、たいへんうれしかったです。

(1)ガイドさんが、マイクでガンガンとしゃべるのではなく、
各席を回りながら、小さな声で、それぞれの客の意向を確かめてくれた。
この気配りが、うれしかった!

(2)お茶の配膳が、従来の2回から、4〜5回にふえた。

(3)余計なガイドがほとんどなく、ノートなどを見ながら、専門的なことを
話してくれた。安心して話が、聞けた。

(4)ガイドさんの言い方が、始終、ていねいで、敬語の使い方が正しかった。
(中には、やたらと「お」「ご」をつけるガイドさんがいるが……。)

(5)2〜3人、客の中に、大きな声でしゃべる人がいたようだが、今回は、ガイド
さんが、じょうずに注意してくれたよう。(いつもは、私が注意していた。)

(6)帰りのバスの中で、定番の「釣りバカ日誌」を見せられなかったのには、ほっと
した。(ガイドさんの口から、「釣りバカ日誌」の名前が出たときには、ドキッとし
たが……。「今日は『釣りバカ日誌』はやめます。静かにお休みください」と言った。

(7)私の聴力は悪い(左耳が難聴)が、それでも、スピーカーの音が、抑え気味
だったのは、うれしかった。いつもだったら、キャンキャンと若い女性の声が、
耳障りだった。しかもボリュームは、最大!

が、今回は、こうした問題をすべてクリア。
客たちは、みな、静かな様子で、旅の疲れをほぐしていたようだ。
(帰りのバスの中では、東名に入るまで、60〜70%の人たちが眠っていた。
東名へ入ってからは、目を覚ました人が多かったが……。)

ガイドさんは、そのつど必要なことを言ってくれたが、低音で、居眠りを妨げる
といったこともなかった。

あえて言うなら、いきなりマイクの音が飛び出すのではなく、飛行機の中でのように、
軽い低音のチャイム音を先に流してからにしてくれるとよい。
「ポン……○○サービス・エリアにやってきました」とか、など。(これはぜいたくか?)

ともかくも、Bツアーを利用するになって40年近く。
はじめて、おとなの、静かな旅を経験することができた。

ガイドさんは、さかんに「何も説明しなくすみません」と謝っていたが、「沈黙の
価値」は、「おしゃべりの情報」とは比較にならないほど、尊い。

杉本さん、ありがとう!
あなたは今までで、最高のガイドさんです。


●長野県

長野県に住んでいる人は、そうは思っていないかもしれない。
私の友人の1人は、会うたびに、「長野から(ほかの県へ)出たい」と言う。
そう言う人もいるが、しかし私は、長野県は、すばらしい県だと思う。
一時は、長野県で、温泉旅館を開くことを夢見たことさえある。
実際、地元の不動産屋に、手ごろな物件をさがしてもらったことがある。

同じ山岳地方でも、岐阜県というと、どこか暗い(失礼!)。
低い山々に囲まれて、どこへ行っても、息苦しい。
が、長野県というと、全体が高原のようになっている。
山々がなだらかに開け、明るい。
その向こうに、美しい山脈が連なっている。
奥行きが深く、スケール感そのものが、ちがう。

私は岐阜県人だが、どちらに住むかと聞かれれば、私なら迷わず、長野県を選ぶ。

そういうことも関係しているのか、長野県ではいろいろな工業が発展した。
一方、岐阜県のほうは、これといって目立った産業は、ほとんどない。
先日も兄の葬儀のとき、岐阜の山奥に住むいとこたちが集まってくれた。
しかしたがいの会話を横で聞いていて、少なからず、驚いた。

長老がどうの、村のしきたりがどうのと、まるでアメリカ・インディアンの
話を聞いているような錯覚にとらわれた。
「今どき、こういう世界が現実にあるのか?」と。

内容は、ダム工事にからんで、補償金の分配で、村の人たちがもめているという。
それについて、1人のいとこが、「昔なら、村の長老が一喝して、それで話が
すんだ」と。

(いまどき、「長老」という言葉が飛び出すところが、おそろしい!)

しかしこれでは岐阜県の、とくに岐阜県の山間部の発展は、望みようもない。
岐阜県のその地域が発展するためには、「よそ者」意識を捨て、都会と同化すること。
地域エゴにしがみついているかぎり、未来はない。

私はその会話を聞きながら、体中がしめつけられるような圧迫感を覚えた。

長野県も、内部では同じような問題をかかえているかもしれない。
しかし見た感じでは、岐阜県よりも、ずっと開けている。
観光地のセンスも、都会的。
若者たちの活動的な姿も、目立つ。

今回訪れた、富士見高原にしても、冬場はスキー場、夏の今は、マウンテンバイク
に乗った若者たちや、パラグライダーで遊ぶ若者たちで、にぎわっていた。
ゴンドラも、楽しかった。

どうして岐阜県のほうでは、それができないのか。

ひとつには岐阜県のほうは人の出入りが少ないということ。
その分だけ、保守的ということ。
こんな話がある。

その人は40歳前後で、岐阜県のS村に移り住んできた。
そこで酒屋を始めた。
仕事が軌道に乗ったら、都会(名古屋市)に住む家族を呼び寄せるつもりだった。
が、店を始めて1年になっても、客はゼロ。
値段も都会のスーパー並にしたが、それでもゼロ。
理由はすぐわかった。

村には、もう一軒、昔からの酒屋があった。
その酒屋の主人が、その村の「長老」だった。
村の人たちは、その長老に遠慮して、その人の酒屋で酒を買うことができなかった。

結局、その男性は、2年で酒屋を閉め、そのあとしばらく地元の建築会社で
再就職したあと、また都会にもどってしまった。
彼の家族はその村に移り住むことはなかった。

「田舎に住むのはむずかしい」というのは、そういうことをいう。
とくに岐阜県の山間部では、むずかしい。

(教訓)「田舎暮らし」という言葉にあこがれて、安易に田舎に引っ越すと、
やけどをするぞ!
田舎の人たちは、私たちが考えているほど、甘くない!


●田舎暮らし

「定年後は、田舎で暮らす」が、一時、マスコミの話題をさらったことがある。
村おこし、あるいは村の再生、過疎化対策として、脚光を浴びたこともある。
しかし現実は、どうか?

都会の人たちは、田舎へ行けば、自分たちは歓迎されると思っている。
都会人独特の優越感もある。
しかし現実は、甘くない。
いくら村役場あたりが、甘い言葉を並べても、現実に移住者が接するのは、その村の
住人たち。
役所の役人たちではない。
その村の人たちの意識が変わらないかぎり、移住しても、村の人たちとの同化はむずかし
い。
たいていのばあい、そのままはじき飛ばされてしまう。

では、どうするか?

私たちのばあいもそうだったが、「同化しよう」などとは、思わないこと。
よそ者はよそ者として、その範囲で、居直ること。
またそれだけの覚悟をもつこと。
いろいろな面で、のけ者扱いを受けるが、気にしないこと。

いつだったか、こう教えてくれた人がいた。

田舎暮らしができる人は、(1)医者、(2)校長、それに(3)芸
術家(=変わり者)だそうだ。
そういう人たちは、村でも一目置かれるらしい(?)。

要するに日本も近代化されたとはいえ、中身は、極東の島国。
そこに住む私たちは、大和原住民。
まだまだ道は遠い。


●再び冠婚葬祭

日本の悪口ばかり書いたが、それがもっとも顕著に現れるのが、冠婚葬祭ということに
なる。
とくに田舎では、葬儀といっても、親族、縁者が集合する重要な儀式のひとつとなってい
る。
私の母についても、静かな密葬を望んでいるが、親族、縁者が、それを許してくれるかど
うか。
先日他界した兄の葬儀にしても、私は家族だけの静かな葬儀を望んでいた。
しかし実際には、会館を借り切っての派手な葬儀となってしまった。
しかし、参列者は、通夜、本葬を合わせても、40人前後。

 
ガラガラの広い会場が、かえってうらめしく思われた。

いや、それ以上に心苦しかったのは、この不景気。
「みんな、たいへんなのに……」と思った。
香典を受けとるたびに、申し訳ない気持ちにかられた。

しかしどうして田舎の人たちは、こうまで冠婚葬祭に神経質になるのだろう。
気をつかうのだろう。
みなの動きを見ていると、人生の最重要事といった感じすらする。
死者を送るということは厳粛なことかもしれないが、もっと(心)を大切に
したい。

……こういう私の意見に賛成の人は、私がここに書いたようなことを、近くの他人に
話してみてほしい。
そういう(語りかけ)が、この日本を変える、大きな原動力となっていく。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●死

死ぬと宣告されてから、あわてて生きるか。
死ぬと宣告される前に、あわてて生きるか。

賢い人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。
愚かな人は、そのものの価値を、なくしてから気づく。

「命」もそうで、賢い人は、その価値をなくす前に気づく。
愚かな人は、その価値をなくしてから気づく。

方法は簡単。
「今日が最後」「今が最後」と思って生きる。
明日はない。
そう自分に言い聞かせながら、生きる。

そのためにも、まず、何が大切で、何が大切でないかを、知る。
「形」ではない。
「中身」だ。

ある男性は、死の宣告をされる直前まで、過去の経歴をひけらかして生きていた。
が、死の宣告を受けたとたん、おそらく、自分には何もないことを知ったのだろう。
狼狽し、あわてふためいた。
で、その男性がしたことは、(自分さがし)。

しかし75歳を過ぎた男性に、(自分さがし)は、きつい。
「私はいったい、何をしてきたのだろう」という思いの中で、日々に悔恨と絶望の
繰りかえし。

……というような例は、多い。
ほとんどの人がみなそうではないかと思えるほど、多い。
賢い人は少ないし、賢くなることは、さらにむずかしい。

だからこそ、まだ健康なうちから、つまり死の恐怖とは無縁のうちから、
「命」の価値をしっかりと自覚しながら、生きる。
私たちには、一瞬、一秒たりとも、無駄にする時間はない。

とりあえずは、まず、それを自覚すること。
それがここでいう「賢い人」になる、第一歩である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 8日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」 

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル
市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に
反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国
社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3〜5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人
たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は
食い違っている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立て
こもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子ども
たちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背
後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、
平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……とい
うより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たま
たま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2
月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解
できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそうい
うふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、
戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思って
いるに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なこと
に、戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げ
まわっている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来
的にもつ性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。
日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカと
いう強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓
国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまってい
なかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そ
ういうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。
中には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を
容認するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというの
は、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、も
ろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和
であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いてい
る。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦
う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じく
らい、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみ
ればよい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁
止宣言でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせ
てはいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」
などと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわか
るが、そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用しては
いけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見
ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オースト
ラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあると
でもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国
というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎ
のように話している。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべった
りできなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよ
かったと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそうい
う生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、
私たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ
攻撃をしかけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向か
ってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、
子どもを使うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみる
ことだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供による平和宣言 子ど
もの平和宣言)

(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前
に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言
させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで
平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」
とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国
から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学
生による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しか
しその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっ
ていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言
いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとな
ったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」
と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもな
い。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領さ
れ、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、
感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変
わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜
ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて
平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が
戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間
に、5〜6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験
もするかもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。
そうなれば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、
生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私
の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分た
ちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの
人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿ま
わしのサルのように利用してはいけない。
(030628)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月9日(土曜日)

【家族葬】

葬式……かくも偽善と欺瞞に満ちた儀式が、ほかにあるだろうか。
心の中では、「バンザ〜イ」と叫びながら、みなの前では大泣きしてみせる。
悲しみにくれた遺族を演じてみせる。
しかし涙は、出ない。
出るはずもない。
葬儀そのものが、エセ。
インチキ。
ウソ。

夫を殺害しておきながら、葬儀の場では、おいおいと泣いて見せた女性がいた。
自分の実の娘を殺しておきながら、「娘を返して」と泣き叫んだ女性もいた。
これらは極端な例かもしれないが、似たような話は、どこにでもある。

ある女性(嫁、50歳くらい)は、裏では義父を虐待しながら、表では、献身的な嫁を演
じていた。
心理学の世界にも、「代理ミュンヒハウゼン症候群※」というのがある。
言うなれば、「逆・代理ミュンヒハウゼン症候群」と言うべきか。
見舞いの訪問客が来たりすると、義父の背中を、ことさらていねいに、さすって見せたり
していたという。

一方、こんな思いで、死者を送る人もいる。
私の友人は、昨年、妻を亡くした。
それについて私が、「悲しかったか?」と聞くと、その友人は、こう言った。
「うれしかった」と。
驚いた表情をしてみせると、その友人は、こう言った。
「2年間も、痛みで苦しんだ。それから妻が解放された。だからうれしかった」と。

で、今年、その友人が娘に連れられて日本へやってきた。
そんなある日、その友人に「学生のときのように、歌をいっしょに歌おう」と言うと、
その友人は、こう言った。
「ヒロシ、ぼくはもう5年以上、歌など歌ったことがない」と。

妻ががんを宣告されて以来、歌を歌ったことがない、と。

愛する人を失うということは、そういうことをいう。
儀式ではない。
形ではない。
心だ。

私も、ワイフが死んでも、葬式などしない。
僧侶の読経も、断わる。
そんなもので、自分の心をごまかしたくない。
ごまかされたくもない。
私は、一晩でも二晩でも、事情が許すかぎり、ワイフのそばで寝る。
遺骨になったら、私が死ぬまで、私の手元で、私が預かる。
だれにも渡さない。
寺にも渡さない。

ただ、私が死んだあとのことは、知らない。
息子たちに、処分を任す。
海へ捨てたければ、捨てればよい。
だからといって、私はだれも、うらまない。
それによって息子たちに、バチが当たるとか、成仏できないとか、
そういうアホなことを言う人がいたら、私があの世で笑ってやる。
息子たちよ、堂々と、遺骨は、海へ捨てなさい。
だれにも遠慮する必要はない。
私はお前たちの手によって、海へ捨ててもらうことを、誇りに思う。
またそれによって私が成仏できないというのなら、私はあの世へ行ったら、
まっさきに、釈迦だろうが、閻魔大王だろうが、彼らに抗議する。

何なら、みなで力を合わせて、『家族葬の会』というのを、つくってもよい。

形式はない。
その人の愛情の度合いに応じて、それぞれの人が、それぞれの葬儀の仕方を考えればよい。
私がここに書いたような送り方でもよいだろうし、直葬でもよい。
僧侶も戒名も、不要。
みなで心を開いて、それぞれの思いをこめて、死者に別れの言葉を告げればよい。

「バカ野郎!」と叫びたかったら、そう叫べばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
詩を朗読したかったら、詩を朗読すればよい。
もちろん従来どおりの葬儀がよいというのなら、それはそれでよい。
お別れ会をして、翌日あたり、火葬すればよい。
あとはみなで、おいしいものでも食べて、おしまい。

で、そのあと火葬ということになるのだろうが、遺骨の保管の仕方は、それぞれの遺族が
考えればよい。
墓に入れるのもよし、寺に預けるのもよし。
家に仏壇を置いて、その中に安置するのもよし。
小さな容器に入れて、保管するのもよし。
さらに散骨もよし。

そのためには、それぞれの人が、自分の意思を、遺書という形で、しっかりと残しておく
必要がある。

この世界には、かならず、あれこれと文句を言う人がいる。
過去をそのまま踏襲しながら、それが正しいことと信じて疑わない人たちがいる。
彼らの化石のように、こりかたまった思考回路を変えるのは不可能と考えてよい。
だからこそ、故人のかたい意思が大切ということになる。

【私の遺書】

(1)葬儀という形だけの儀式は、いっさい、するな。
(2)お別れ会をして、みな、一言ずつ、言葉で自分の気持ちを語ってくれればよい。
(3)僧侶の読経は、不要。かわりに音楽をかけてほしい。
(4)戒名も、不要。私は「はやし浩司」のまま死ぬ。
(5)遺骨は、私が先に死んだら、始末はワイフに任す。
(6)ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨は、息子たちに任す。
(7)墓は不要。思い出の地に、散骨してほしい。
(8)遺骨の一部は、メルボルンのアルバート公園の一角に。
残りは、中田島の砂丘から海にまいてほしい。

(補)ワイフが先に死んだら、私が死ぬまで、遺骨は、私のそばに置く。
   毎日、さみしくなったら、その遺骨に向かって、話しかける。

【息子たちへ】

以上のような葬儀の仕方(?)をして、それについて、「おかしい」とか、何とか
言う連中がいても、相手にするな。
そのときは、この私の遺書を、前にかかげよ。
私の葬儀にも、ワイフの葬儀にも、いっさい、無駄なお金を使うな。
集まってくれた人から、霊前とか仏前とか、そういうわけのわからない金を受け取るな。
花輪も不要。
いっさい断われ。

以上が、私が説く、家族葬ということになる。

●成仏

日々に精進に精進を重ね、法を悟った人を「仏」という。
その「仏」が、「島」となって、さらに法を広める。
それが釈迦の教えということになる。

一方、この日本では、「死ねば、みな、仏」と教える。
結構な教えだが、この安易な「仏思想」が、日本の仏教を堕落させた。

で、私は一度、ある寺の住職に、こう聞いたことがある。
「戒名はどうして必要なのですか?」と。
するとその住職は、こう答えた。

「俗名にまつわるしがらみを捨て、清廉潔白な身分で、浄土へ行くためです」と。

この考え方によれば、この人間社会そのものが、汚れた世界ということになる。
もし汚れた世界というのなら、仏教は、生きることそのものを否定しているという
ことになる。
が、そんなことはありえない。

私たちは懸命に生きてきた。
今も懸命に生きている。
これからも懸命に生きていく。

その(懸命さ)の中に、生きる価値がある。
無数のドラマもそこから生まれる。
その(ドラマ)そのものが、私たちなのだ。

それを「俗」とは!
何をぬかすか!
自分たちこそ、俗のしがらみ、そのものではないのか。

私たちは私たちの名前で死ねばよい。
生きるのも私たちなら、死ぬのも、私たち。
それがだめだというのなら、浄土思想そのもののほうが、まちがっている。

私たちの親兄弟はともかくも、私たち自身は、勇気をもって、「家族葬」を
唱えよう。
私たちの前の世代はともかくも、こんなバカげた風習は、私たちの世代で
終わりにしよう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
家族葬)

++++++++++++++++

(注※:代理ミュンヒハウゼン症候群)

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッ
シャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというの
は、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばか
りしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で
病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミ
ュンヒハウゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン
症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)
に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい
嫁)を、演じていた人がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたっ
た一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長
女(当時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当
然のことながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる
女性(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、
子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見
せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面と
いうより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そう
でないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子ど
ものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、
だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判する
ことさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●迷信

私が学生のころ、迷信のかたまりのような女性(当時50歳くらい)がいた。
「何でも信じればいい」と、常時、3、4つの教団に顔を出していた。
天R教、Mジー、創K学会、などなど。
実際、そういうふうに教える教団もある。
つまり神と仏を、いっしょにしたような教団である。

たいへん説教が好きな女性で、会う人ごとにあれこれ説教していた。
私も何度か、説教されたことがある。
印象に残っているのは、「先祖を大切にしなさい」「親を粗末にすると、バチが当たる」
という言葉だった。

一度、何冊か、私に本を送り届けてきたことがある。
これには驚いた。
私のようなもの書きに、本を送り届けるという行為そのものが、非常識。
どこかの料理店のおやじに、料理を送り届けるようなもの。
読むに耐えないというか、何も参考にならなかった。

で、こうした思い込みのはげしい女性というのは、たしかにいる。
「これが正しい」と信じたら、それしか見えなくなってしまう。
自分の視野そのものが狭くなってしまう。
それはそれで結構なことだが、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と切りかかって
くるから、やっかい。
が、晩年は恵まれなかった。
先日、兄の葬儀に出て、その女性の消息をたずねた。
すでに10年ほど前に他界したとのこと。
最後の10年は、寝たきり状態になり、病気との闘いだったとも聞いた。

だからといって、つまり寝たきりになったからといって、その人の人生観がまちがってい
たと言っているのではない。
病気と事故は、運と確率の問題。
人知を超えたところで、その人を左右する。
「死」については、どんな善人であっても、それを避けることはできない。

ただその女性は、体をこわしてからというもの、毎日、毎晩、世間をうらみ、信仰をうら
み、泣きわめいていたという。
人づてに聞いたところによると、家族の人たちでさえ、手がつけられなかったとのこと。
何度か施設に入れようとしたが、そのつど、「そんなところへ入るなら、死ぬ」と、首をつ
るしぐさをしてみせたという。

(こういうのを「狂言自殺」といって、それで自殺する人は、ぜったいにいない。)

しかたないので、結局、最後の1年ほどをのぞいて、家族が、その女性の介護をしたとい
う。
最後の1年は、病院で過ごした。
まだ介護制度の整っていなかった時代で、何かとたいへんだったようだ。

で、私はその女性の話を聞きながら、「迷信というのは、そういうものだろうな」と思った。
迷信では、人は救われない。
人を救うこともできない。
自分を救うことすら、むずかしい。
いくら説教を重ねても、相手に感動を与えることもない。

私たちがなぜ信仰するかといえば、そこに(真理)を求めるからである。
しかし真理などというものは、向こうからやってくるものではない。
信仰したからといって、手に入るものではない。
それは画家が(美)を求める姿に似ている。

美術学校で絵画の描き方を習うことはできても、絵を描くのは、あくまでもその人自身と
いうこと。

私の母も、体が不自由になる前は、ちぎり絵を描いていた。
相当の腕前だった。
しかし模写が専門で、それゆえに美術的価値は、ほとんどない。
きれいはきれいだが、そこまで。
絵を見ても、こちら側に伝わってくるものは、何もない。

信仰もそれと同じ。
どこかの教団に属して、そこで教えを受けたとしても、それを自分の中で消化し、さらに
昇華してはじめて、信仰としての意味をもつ。
思想を注入されたまま、それをもって、(思想)と、けっして思い込んではいけない。
大切なのは、自分で考えること。
画家にたとえるなら、自分で絵を描いてみること。

さらに端的に言えば、いくら信仰しても、神や仏に依存してはいけない。
このことは逆の立場で考えてみれば、わかる。

もしあなたが神や仏であったとしよう。
学校の教師でもよい。

そういうあなたのところへきて、だれかが、「○○大学へ合格させてください」「病気を治
してください」「お金を儲けさせてください」と言ったら、あなたはどうするだろうか。

たぶんあなたはこう答えるだろう。

「私は勉強の仕方を教えます」「病気の治し方を教えます」「経済についての話はします」「し
かしそれをどう生かしていくかは、あなた自身の問題です」と。

勉強もロクにせず、運動もロクにせず、仕事もロクにせず、信仰だけでそれを成し遂げよ
うとすること自体、ムシのよい話ではないか。

冒頭に書いた女性には悪いが、その女性は迷信を信じただけ。
その迷信の虜(とりこ)になっただけ。
だから今、その女性を振り返っても、私たちに残したものは何もない。
いや、ひとつだけあるとするなら、その女性は、私にこう教えてくれた。

「迷信というのは、こういうものです」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●平均葬儀費用、313万円!

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平均葬儀費用は、313万円だそうだ。
「フ〜ン」と思ってみたり、「そんなものかな?」と
思ってみたり……。

死ぬのもたいへん。結構、お金がかかる?

+++++++++++++++++

 平均葬儀費用は、313万円。財団法人の日本消費者協会が、関東地方で調べたところ、
そういう数字が出てきたそうだ(2003年)。

 しかしこれはあくまでも平均的な額。葬儀には、ご存知のように、ピンからキリまであ
る。その気にさえなれば、葬儀も、最低は、10万円から、できるそうである(「世の中の
裏事情」PHP)。もちろん上限はない。仏式で葬儀をするばあい、戒名に必要な(お布施)
にしても、これまたピンからキリまである。戒名が3文字ふえただけで、ふつう、30〜
50万円が上乗せされる。

 たとえば戒名は、ふつうは、6文字か9文字。6文字だと、10万円前後。しかし9文
字になると、50万円前後。

 さらに「院」とか、「大」の文字がつけてもらうと、戒名も12文字になって、(お布施)
だけ、軽く、100万円を超える。

 火葬にしても、公共施設ですれば安くすませることができる。無料のところも多い。が、
私営の火葬場だと、そうはいかない。いくつかのクラスに分かれているところが多い。こ
れにも、また、上限がない。

 しかし、問題は、なぜ、人は、こうまで「葬儀」にこだわるのかということ。本人自身
がこだわることも多い。いつも口ぐせのように、「私が死んだら、葬式にだけには来てくだ
さいよ」と、会う人ごとに、頼んでいた知人(当時、80歳くらい)もいた。

 一方、通俗的な世間体にしばられて、(世間体ほど通俗的なものはないが……)、派手な
葬儀をする人もいる。傍(はた)からみていると、「何もそこまでしなくても……」と思う
のだが、その人には、その人の事情というものがある。とくこの葬儀には、その人の死生
観、人生観、哲学、さらには、人格そのものが、からんでいる。

 簡単に割り切ることができない。

 そこで私たち……というより、私は、どうあるべきかということを考える。実は、昨夜
も、夕食のあと、ワイフとそれについて、話した。私が、「葬式は、どうする?」と聞くと、
ワイフは、「そんなものは、しないわ」と。

私「しかしお前の兄弟たちが、許さないかもね」
ワ「いいじゃない、私が、それでいいと言っているのだから……」
私「だけど、ぼくが冷たい目で見られる」
ワ「遺書にはっきりと、そう書いておくからいいわよ」

私「ぼくも、葬式は、いらない」
ワ「だったら、あなたも、遺書にはっきりと、そう書いておいてよ。私も、あなたの親戚
に、冷たい目で見られるのは、いやだから」
私「ぼくたちだって、結構、世間体を気にしているのだね」
ワ「世間体じゃあなくて、私は、うるさいことを言われたくないのよ。わずらわしいでし
ょ」と。

 それなりの死生観、人生観、哲学のある人から、文句を言われるのは、しかたない。し
かし、そうでない人に、あれこれ言われるのは、不愉快。バカげている。この日本、「私は
私」と思って生きるのは、結構、たいへん。それを貫くのは、もっとたいへん。

 で、私が死んだあと、(順番でいけば、私のほうが先)、家の中で、ひっそりと葬式をし
たら、みんな何と言うだろうか。どう思うだろうか。まあ、どう言われようが、どう思わ
れようが、私の知ったことではないが……。

 もちろん、僧侶も呼ばないし、墓もつくらない。遺灰のあつかい方については、息子た
ちに任す。いつか、海にまいてくれてもいいし、一部は、山荘の周辺とオーストラリアの
アルバート・パークにまいてくれてもいい。決して「葬儀代を、安くあげよう」と考えて
いるわけではない。

 私は、裸で生まれ、裸で生きてきた。だから死ぬときも、裸で死にたい。これが私の生
き方だといえるような、そんな生き方を最後まで貫きたい。だから葬式にしても、本当に
悲しんでくれる人だけに集まってもらい、その人たちが静かに慰めあうようなものにして
ほしい。

 墓については、私の書いた文章が、墓だと思ってほしい。私は、いつも、そういう思い
をこめて、自分の文章を書いている。だから、もし私のことを思い出してくれる人がいた
ら、いつでも気が向いたとき、どのページでもよいから、私の書いた文章を読んでほしい。

 簡単にすませば、10万円ですますことができる葬儀。そんな葬儀に、313万円もか
けることはない。もしそんなお金があるなら、今、生きている人たちが、有効に使えばよ
い。できれば、食料もなく、飢えて苦しんでいる人に、あげればよい。

 ……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、だからこそ、「今」というこのときを、
一日、一日、大切にして生きる。そして毎晩、床に入って目を閉じるときが、私の葬式。
そのまま眠りにつくのも、そのまま死ぬのも、原理的には、同じ。翌朝、生きていたら、
生きているということになる。翌朝、死んでいたら、死んでいるということになる。

本当に死んだときだけ、313万円もかけて、なぜ、大騒ぎしなければならないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 葬儀代 密葬 家族
葬)

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2年(06)前の6月に書いた
原稿を添付します。

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【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

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過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

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 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社
会科の勉強で使ったような歴史の年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未
来へと、ちょうど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像
する人もいるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。
あるいは上書きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、
未来はそのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業
を、何千回も繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となって
いく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出
された映像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思
うだけの話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまで
いっても、研(と)ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インド
では、それがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、や
がて過去とつながり、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の
輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。
現代に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)
というものが、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、
100年一律のごとく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人
と同じような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きも
ない。話す言葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかも
グルグルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくして
その家に行ってみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫た
ちが、以前と同じような生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、み
なが、生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリは
いる。しかしそのアリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえして
いる。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という
概念が生まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪
廻思想へと、発展した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会で
は、古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、
数年単位で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れ
が、グルグルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化して
いく。流れていく。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒
頭に書いたように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年
表である。しかしここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在
をとらえ、そして未来を考えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないとい
うこと。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私あたちは、過去、現在、未来のとらえ
かたを、見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想とな
った。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身
は、一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』
(釈迦生誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自
身は、それについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を
経てから、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称(仏の生まれ変わりたち)によ
って、書かれた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。

 (それについて書いた原稿は、このあとに添付しておく。)
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知
れぬ真理が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見
することができるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えてい
るか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。いわく「妻が、新
興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。長い手紙
だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫
してしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ば
れていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やし
ている。布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判
しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさま
して」と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。たいていは夫が知らないうちに妻
がどこかの教団に入信するというケース。最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるとき
を超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。そして最悪のばあい、夫婦は、「も
う一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバ
ラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。す
でにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。それに気がつかなか
ったのは、夫だけということになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるか
ら、宗教がある。とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、
結果として、自分の勢力を伸ばす。しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み
嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の
経典)の中で、つぎのように述べている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島
とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。
宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴ
ータマ・ブッダのやり方ではない。ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、
その法をおしみなく与えた。死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知
ってたもって、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続す
るように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、
多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・
幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした
法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの
書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。そして
それぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、
唯一絶対である」と主張している。それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、ど
れがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つま
り歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えにもっとも近いものということ
になるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは
常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読む」の中で、「原
典批判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書い
ている。で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ
(法句)』である。中国で、法句経として訳されたものがそれである。この一節は、その
法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっ
さい使っていない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教え
ている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。(だから
といって、仏の心に甘えてはいけないが……。)そういう仏が、自分が批判されたとか、あ
るいは自分から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、
気にしない。大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と
言われて、怒るだろうか。バチなど与えるだろうか。ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心
のドアを閉ざす。「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」とい
う視点で、夫婦のあり方をもう一度、反省してみる。時間はかかるが、夫の妻に対する愛
情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカー
ヤ」第一巻三二頁)と言っている。友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教え
あい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。夫婦で宗教戦争をすると
いうこと自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。そういう人でも、つぎの鉄則だけ
は守ってほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んで
からにしてほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02−7−24)

【注】
 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。話し言葉
のままと言ってもよい。もともと吟詠する目的で書かれた文章である。それが法句経の特
徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だと
いう(中村元氏)。しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。寺の僧侶が読む経典にしても、ほ
とんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。肝心の中国人が聞いてもわから
ないのだからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとん
どいない。そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇
の前で、僧侶がうやうやしく読みあげる。そしてそれを聞いた人は、意味もなくありが
たがる……。日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年か
らそれ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。中村元氏は、生前、何かの本で、「大
乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた仏教ではない)
を唱えていたが、それが世界の常識。こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、
この日本ということになる。

たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いて
あるが、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。むしろ法句経の中には、
釈迦が来世を否定しているようなところさえある。法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。そう
いう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。「チ
ベット密教そのもの」と主張する学者もいる。

チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治した
りする。護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇で
バチバチと護摩をたいているところを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズ
ー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を
否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって、完全な清浄を得
たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。バラモンよ、われは木片を
焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第
一巻一六九ページ)と。

仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではない
だろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
過去論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●子どもに励まされる親

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まだ暑さがどかっと残る夕刻、息子が
汗で顔を光らせながら、仕事先から帰ってきた。

たまたま私は夏休みで、そのときぼんやりと
雑誌を読んでいた。
が、息子のそういう顔を見たとたん、
申し訳ない気持ちにかられた。

私たちの年代というのは、そういうふうに
感ずる人が多いのでは?
犠牲心が強く、ぼんやりと時間を過ごしているだけで、
心のどこかで罪の意識を覚える。

(これはたぶんに、私自身の強迫観念によるものか?
私たちの世代は、いつも何かに追い立てられるようにして
生きてきた。)

しかし息子たちががんばっている姿を見て、励まされない
親はいない。
私もそういう息子の姿を見て、そのまま書斎に入った。
今の私には、1秒たりとも、無駄にできる時間はない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【8月9日】
●ボーイング777

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久しぶりに、書斎に座った。
6日ぶりではないか?
兄の死、葬儀、あと始末などなど、
いろいろあった。

で、6日ぶりに書斎に座ってみて、
自分の手が重いのには、驚いた。

たった6日なのに、勘が鈍ったというか、
こまかいところで、手先がうまく動かない。
幸いにも、作業を始めて半時間ほどで、
また以前の状態に戻った。
が、しかしたった6日で、こうなるのか?

文章というのは、毎日、書いてこそ、
書けるもの?

その思いを新たにした。

++++++++++++++++

●我が家の、超ビッグ・ニュース!!

息子の搭乗機が決まった。
今朝、早く、息子から連絡があった。

ナント、ボーイング・777(トリプル・セブン)!
J社の中でも、最新鋭の大型旅客機である!

飛行機の操縦許可証というのは、機種ごとに、みなちがう。

「やったね、おめでとう!」と言うと、あの息子が、声を震わせて、
「うん」とだけ言った。

横浜国大→フリンダース大学→航空大学→JAL入社→NAPAでの訓練。
ここまで7年間。
さらにこれから1年間の訓練が待っている。

よかった。
うれしかった。

さっそく、ネットで、777を見る。
コックピットはすべて電子化されている。

どこまでも空が好きな男。
「飛んでいるときだけが幸せ」と言う男。
息子は息子で、夢を果たそうとしている。
頂点を極めようよしている。

さっそく、インディアナ州立大学にいる息子夫婦に連絡する。
息子は、インディアナ州立大学でコンピュータ技師、嫁は同じ大学のロー・スクールに。

あれやこれやと、このところ、我が家にはビッグ・ニュースがつづく。

親は、こうして息子たちに励まされながら、生きるものか?

さあ、私もがんばるぞ!
息子たちに、負けてなるものか!


+++++++++++++++++++


●ボーイング・777(トリプル・セブン)

息子の操縦訓練機が決まった。
ボーイング・777である。
「トリプル・セブン」の愛称で親しまれている。

ライン航空機の世界では、飛行機の機種ごとに、操縦免許が必要。
しかもその操縦免許をもっている間は、ほかの飛行機を操縦することはできない。
だからたとえばトリプル・セブンの操縦免許をもっていても、767やエアバスなどの操
縦はできない。

そこで一般的な操縦訓練が終わるころ、つぎにどの機種の操縦訓練をするか、会社のほう
から指定される。
「君は、767」「君は、トリプル・セブン」と。

先週、息子は、チェック・テストで不合格になった。
航空大学以来、はじめての不合格である。
それですっかり自信をなくしていたらしい。
電話で話すと、「ぼくはXXXXになるかもしれない……」と漏らした。
XXXXというのは、リア・エンジンの古い機種である。

私は「いいじゃないか、どんな飛行機でも。空を飛べるのだから」と。
が、結果は、トリプル・セブン。
J社にとっても、最新鋭機である。
今年も、新たに3機、新規に購入することになっているという。

「よかったね」と言うと、「うん……」と、声をつまらせた。
よほどうれしかったとみえる。

トリプル・セブン……ジャンボ・ジェット(747)よりは、胴体の長さは6メートルほ
ど短いが、胴体の幅は同じ。
超大型のエンジンを2基搭載している。
国内でも使用されているが、主に長距離の国際線用。

……ということで、昨日も書店で、その種の雑誌に読みふける。
読みふけりながら、自分が空を飛んでいるような気分になった。
私も、ある時期、パイロットにあこがれた。
空を飛びたかった。
そういう過去が、グググッと、胸の中に充満してきた。

航空大学に入学が決まったとき、私は息子にこう言った。

「お前は、事故のとき、最後の最後まで、飛行機の中にとどまって、乗客を助ける覚悟は
できているか」と。
すると息子は、迷わず、「できている」と断言した。
私はそういう息子が、むしろいじらしかった。
本心を言えば、「批判されてもかまわないから、真っ先に逃げろ」と言いたかった。
しかし私が機長なら、やはり最後の最後まで、飛行機の中にとどまって、乗客の救出をす
るだろう。

パイロットといっても、10年で、身も心もボロボロになるという。
「太平洋を飛ぶときは、音楽でも聴きながら飛ぶのか?」と聞くと、息子は、こう言った。
「とんでもない。常に無線を聞いていないと、事故につながる」と。

航空大学での訓練もきびしかったようだが、J社における訓練にも、想像を絶するものが
ある。
だからあえて私は、言う。

みなさん、飛行機に乗るなら、JALにしなさい!
命が大切だと思うなら、JALにしなさい!
少しぐらい運賃が高くても、JALにしなさい!
息子自身も、いつもそう言っている。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●夏休み

++++++++++++++++

今日から、1週間、夏休み。
……ということで、本屋で、雑誌や本を
どっさりと買ってきた。
(ついでにDVDも、2本!)

心理学書、1冊
プレジデント誌、YOMIURI―PC誌、東洋経済誌、エコノミスト誌、4冊、
オーパーツの本などなど。
心理学書が高価だったので、しめて1万円弱。
さっそく、寝床で横になって読み始めた。

どういうわけか、今は、経済関連雑誌と、超古代ミステリーに興味がある。
オーパーツの本というのは、「オーパーツ、超古代ミステリー」(双葉社)
という題の本。
寝床で読むには、よい本である。

冒頭に、映画『インディアナ・ジョーンズ』(最新作)にも出てきた
水晶ドクロの写真が載っていた。

世の中には、常識だけでは理解できない、不思議なことがたくさんある。
オーパーツという物証があるだけに、おもしろい。

+++++++++++++++++

●水晶ドクロ

1927年に発見された水晶ドクロは、通称「ヘッジス・スカル」と呼ばれているという。
紀元前300〜800年ごろ作られたという。きわめて精巧に作られているという(同書)。

水晶の細工は、むずかしいらしい。
が、謎は、それだけではない。つぎのようにある。

「……ドクロの下から光を当てると、頭が発光する現象が起こる。……光を受けると神秘
的な虹色に包まれるプリズム効果まで、施されている。さらにドクロの下に紙を敷くと、
紙の文字が曇ることなく見える。それも頭頂部から見ると、拡大鏡のように紙の文字が大
きくなるように成形されているという」(同書)と。

フ〜〜ン!

●日本経済

わかりやすく言えば、今まで、日本経済は中国経済に支えられてきた。
中国特需のおかげで、何とか、生き延びてきた。
が、ここにきて、中国経済がおかしくなってきた。
とたん、日本経済もおかしくなってきた。

本来ならこういうチャンスを生かして、日本は構造改革、つまり行政改革、さらに言えば、
官僚制度の是正を急ぐべきだった。
が、成果は、ほとんど、ゼロ!

ひとつの例として、空港問題がある。
エコノミスト誌は、「日本ほど、外国人からみて、不便な国はない」というようなことを書
いている。
「(日本では)ほとんどの空港は、夜8時前後には、閉じられてしまう」と。

いまや空港の24時間営業は、世界の常識。
その常識にひとり背を向けて、小さな世界に閉じこもっているのが、この日本ということ
になる。
おかげで世界の飛行機は、日本を通り越して、韓国、香港、シンガポールへ向かっている。
こういう現実を、日本人は、もっと知るべきではないのか。

●YOMIURI―PC

「夏休み3日間で、リカバリー大作戦」という見出しが気に入った。
実は、私のサブ・パソコン(XP)が、どうも調子が悪い。
SP3を導入してから、ときどき、まったく予想外のところでフリーズしてしまう。

今はだましだまし使っているが、リカバリーも視野に入れつつある。
と、同時に、新しいパソコンの購入も考え始めている。

で、この夏休みに、サブ・パソコンのほうを、一度、リカバリーしてみようと思う。
かなりの作業になりそうだが、この際、しかたない。


●調子

夕方になって、やっと調子が戻ってきた。
サクサクと指が動く。
気持ちよい。
楽しい。
頭の働きも、少しよくなってきたようだ。

……で、そういう私自身を振り返りながら、こう考える。

私はこうして毎日、ものを書きながら、頭を使っている。
だから、それなりにものが書けるのは当然。

しかし、書いていない人は、どうなるのか。
こんな私でも、もし3か月とか、半年も、ものを書かないでいたら、恐らく、文章そのも
のが書けなくなってしまうだろう。
つまり頭がサビついてしまう?

ということは、日ごろ、ものを書いていない人は、どうやって自分の頭をみがいているの
かということになる。

中には、「私は毎日新聞を読んでいるからいい」と言う人がいる。
しかし読むだけでは、足りない。
読んだら、自分なりに情報を整理して、処理しなければいけない。
そのためには、文章を書いてみる。
書くことによってはじめて、自分の(考え)をもつことができる。

テレビを見たり、映画を見たりするのも、同じ。
もし文章を書くのがいやだということであれば、だれかと話しあうのもよい。
「ああでもない、こうでもない」と、批評しあうだけでも、脳みその刺激になる。

……ということで、ここまで一気に書いた。
すっきりした。
楽しかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2745)

●日本語(若い人の日本語)

 若い人が発行している電子マガジンを、いくつか購入している。これが結構おもしろい。
内容もさることながら、日本語がおもしろい。少し、まねてみる。これからは、こういう
日本語になるのかもしれない。

++++++++++++++++++

 これから、洗濯機の掃除、つうか、清掃。
 オーストラリアの友人夫妻が、長期滞在すんので、
 山荘のほうに、一台、置いとこって、感じ。
 で、自宅にも一台、ほし〜ぃ。
 て、言ったのは、ワイフさま。で、もう一台、
 近くのスーパーで、買ってきた。
 値段は、二万八〇〇〇円。
 五キロで、この安さ。
 信じられな〜ぃ。
 もう少し安いのもあったけど、韓国製。
 韓国、がんばってのね。
 しかし、どこか心配。
 やっぱ、電気製品は、日本製にかぎるよね、ホント。

 で、問題は、どうやって、山荘まで、運ぶかっていうこと。きぃい!
 軽のバンがあるから、それで行こ。
 しかし今朝の天気、ホントにさわやか。
 気持い〜ぃ。
 しかしどこかフラフラすんの。
 三半規管が、どこか不調?
 よく寝たのに、まだ眠い?
 あくびばかり、出んの。
 朝ごはんを食べて、お茶飲んで、
 それから一休みして、行動開始。

+++++++++++++++++++++

 しかしこの日本語、おかしいと思う前に、正直言って、楽しい。この日本語で、一つ、
子育てエッセーを書いてみることにする。どんなエッセーになることやら……? つぎの
エッセーが、それ。

+++++++++++++++++++++

●父親の役割

そもそも、父親像のない父親に、父親らしくしろって、言っても、ムリなんの。
あまりムリすると、父親だって、自己否定になるわさ。
だって、そうだろ。みんながよってたかって、「あんたは、父親らしくないわさ」なん
て言われてさ、気持いいはずねえもんね。

役割形成っていう言葉を、知ってるか? 人間っていうのはさ、長〜〜〜〜〜ぃ時間か
けてさ、自分らしい自分をつくっていくというわけ。わかりやすい例で言うとさ、男が
男らしくなるのは、この役割形成という作用によるもの。わかる?
女だって、そう。ほとんどは、見ようみまねで、男は、男に、女は、女に、なるってい
うわけ。つうか、そういうふうに、仕立てられていくって、いうわけ。
こういうのを、観察学習っていうわけ。知ってた?

わかりやすく言うとさ、自分が、その父親に授業参観してもらったことがない父親に、
「参観日に出てきなさい」と言ってもさ、ストレスがたまるだけ、っていうこと。炊事
や洗濯をしたことがない父親に、「家事を手伝え」と言っても、ストレスがたまるだけ。
わかる、この気持?

しかしさ、その程度では、すまないの。「あんたはダメ」と、あんまり父親を責めると、
父親だって、自己否定の世界に陥ってしまうよ。こういうのを、役割混乱と、いうわけ。
これがこわいよ。きぃい!

わかりやすく言うとね、トラックの運転手に、リカちゃんの洋服を着せるようなもの。
「あんたの服装、ダサいから、今度、この洋服にしな」と言われても、困るでしょ。役
割混乱を起こすと、人間っていうのは、情緒がたいへん不安定になるの。もちろん自信
喪失にもなるけどさ。

だからあんま、父親に、あれこれ言わないほうが、いいよ。やめときな。どうせ、ムリ
だもんね。そういうもの。人間って、いうのはさ。

そのかわり、各論のほうから、少しずつ、攻めるのがいいよ。たとえば、さ、何か、子
育てらしきことをしたらさ、「パパ、なかなか、やるじゃん」とか、何とか言って、お
だててさ、そういうこと。

あんたの夫は、夫。どうせ、簡単にはなおらね〜〜〜〜〜よ。だったらさ、あきらめな。
あきらめて、つぎの世代に、望みを託しな。そのほぉが、いいよ。わかりやすいし、さ。

ほほほ。ケツロンを言えば、そういうこと。わかった?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 役割形成)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 5日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自立と自律】(分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしてい
ます。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えて
はいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがち
だが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依
存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、マ
マ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い
物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってく
ださい」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければなら
ない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はな
い。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、
親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜
文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもな
いようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由
のひとつになっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、
セルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつ
の大切なバロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわ
かってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができな
くなると言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

6年前に、それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、
私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらって
きた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か
月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、
そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言
ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤
解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ
以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、
親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を
許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、
B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子ど
もをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られてい
る。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりな
どのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合
わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快
活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい
人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われる
が、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶよう
に、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほう
から離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだ
ったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もな
い時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析し
ていくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私にな
ったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を
考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家
庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが
問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかな
いことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回さ
れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたか
ら、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世
代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、
ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールするこ
とができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をして
いるぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考
える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおも
しろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、
自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるとい
うことではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されること
である。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いという
ことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●7月31日、木曜日(July 31st, 2008)

●金魚の糞(ふん)

++++++++++++++++++

昨日は、いろいろあって、合計で10キロ
前後、歩いた。
今日も、いろいろあって、合計で、5キロ
前後、歩いた。
歩いていると、頭の中のモヤモヤが消えるから
不思議である。

ワイフは、「そんなことをしていると、倒れる
わよ」と言う。
私はそれに答えて、こう言う。
「一度、ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と。
しかし夏の炎天下を歩くのは、危険である。
靴の底が焼けるように熱くなる。
汗も枯れて、意識がぼんやりとしてくる。

そんなわけで、私は徘徊する老人の気持ちが
よくわかる。
私の兄も、グループホームへ入る前、たびたび
自転車に乗って、あちこちを徘徊した。

++++++++++++++++++

●徘徊

痴呆老人の中には、徘徊する人が多い。
M氏もそうだった。
当時、85歳くらいだった。
家の高い塀を乗り越えて、外へ出て行ってしまったりした。

M氏のばあい、その数年前、脳梗塞を起こしている。
そのため方向感覚がなくなり、自宅へ帰る道を忘れてしまったという。
徘徊が始まったのは、そのころだという。
M氏の妻が、「どこへ行きたいの?」と聞いたことがあるという。
M氏は、「群馬の実家に帰りたい」と答えたという。

いくら何でも、浜松市から群馬県のO市までは、歩いては行けない。
行けないが、認知症が始まると、そういう判断もできなくなるらしい。

で、徘徊だが、私も、痴呆老人になれば、まちがいなく徘徊をするようになるだろう。
(歩くことの快感)を知っている。
歩いていると、悲しみやさみしさを、忘れることができる。
身のまわりのわずらわしさから、解放される。
さらに歩いていると、たぶん、脳の中にモルヒネ系のホルモンが分泌されるのだろう。
甘い陶酔感を覚えることもある。

●K氏のケース

たまたま昨日、群馬県に住んでいる、K氏という人から、相談のメールが届いた。
年齢は、私と同じ、60歳だという。
私は最近、ときどき離婚問題について書く。
それについて、「同感です」と。

K氏も(?)、見た目には、仲のよい夫婦で通っているという。
56歳でリストラされ、それ以後は、近くの公的な娯楽施設で、窓口業務をしている。
勤務時間は楽で、午前10時ごろ出勤。
いつも午後5時前には、帰宅している。
(それまでは、セブン・イレブン・・・つまり午前7時出勤、午後11時帰宅。)
つまり妻と過ごす時間が、それまでの「2倍以上」(K氏談)になった。

が、そのころから妻との関係が、おかしくなり始めたという。

「ふだんは、やさしい女性だと思うのですが、何かあると、すかさず私を否定します。
私がすることは、何もかも、気に食わないみたいです。
私がタンスから赤いシャツを取り出すと、『それはダメ!』とか、
あるいは風呂に入ろうとすると、『まだ早いでしょ』とか。

そのときの目つきというか、表情は、私を完全に軽蔑しきっているのですね。
瞬間のことですが、それが私の脳裏にピタリと張りついてしまうのです。
息子の前で、『パパは、金魚の糞よ』と言われたことがあります。
妻が『金魚』で、私は、妻の『糞』というわけです」と。

で、現在、K氏は離婚の準備をしているが、それすらも、妻に見透かされてしまっている
という。
「どうせ、あんたなんかに、離婚できないわよ」と。

「先日もそこまで言うなら、アパートを借りて、出て行くと言ってやったのですが、妻は、
平然と、『借りらア・・・』と答えました」と。
(以上、M氏からのメールを要約。)

●たがいの欲求不満

妻は結婚と同時に、それまでのキャリアを失う。
それから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
一方、夫は、結婚と同時に、家族の犠牲になる。
犠牲になっていると気づかないまま、犠牲になる。

が、子育てが終わり、ほっとしたところへ、突然、(老後)がやってくる。
そのとき、良好な夫婦関係、親子関係ができあがっていればよし。
が、そうでないとき、「犠牲」という言葉が、重く、自分にのしかかってくる。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう?」と。

実は、この私とて、ワイフとの関係を支え、家族を維持するのに、精一杯。
たとえて言うなら、波打ち際に作った、砂上の楼閣のようなもの。
繰りかえしやってくる波で、楼閣が削られるたびに、懸命にそれを修復する。
手を抜いたとたん、楼閣は、根底から崩れさっていく。
あとはその繰りかえし。
その恐怖との闘い。
「家族」「家庭」と言いながら、心の休まる日は、ほとんどない。

だから私は、歩く?
歩きながら、わずらわしいことを忘れる?

恐らく徘徊する老人も、自分を追いかけてくる何かから逃れるため、歩きつづける?
その証拠に、徘徊する老人は、そのあたりをぐるぐる回るというよりは、前へ前へと、歩
きつづける。

幼児にも似たような現象が見られることがある。
同じ「家出」でも、目的が感じられる家出は、それほど心配しなくてもよい。
しかし一方向に、どんどんと歩いていく家出は、警戒したほうがよい。
かばんの中に、ありとあらゆるものを、手当たり次第、詰めて、家出する。
(これに対して、目的のある家出は、その目的に合わせたものをかばんに詰めて、家出す
る。)
こうした家出を繰りかえす子どもは、家庭のあり方を猛省する。

私はワイフに、どこか冗談ぽく、「ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と言うが、それは本心か
もしれない。
「死んでもかまわない」という思いが、そこにある。
徘徊する老人がそこまで考えているかどうかはわからない。
しかし動物の中には、どんどんと歩きつづけて、最後には海の中へ集団で入っていくのも
いる。
人間にも、そういう原始的な習性があるのかもしれない。
認知症になると、管理能力が極端に低下する。
それで原始的な習性が、表に出てくる(?)。

つまりそこまで理解できるようになったということは、私も、その(仲間)に入りつつあ
るということか。

なお離婚について言えば、何も民法に書き並べてある離婚事由だけが、離婚理由ではない。
K氏のようなケースもある。
ただK氏のことはメール以上のことについては、わからないが、私の印象では、K氏は、
離婚しないと思う。

(離婚したい)という思いと、(実際に離婚する)ということの間には、大きな距離がある。
ものすごいエネルギーが必要である。
そのエネルギーがまだ足りない。
K氏が言っている程度では、離婚できない。
だから離婚しない。

K氏へ、

また何かあれば、メールをください。
書くことで、自分の胸のうちがスッキリすることもあります。
私はいつもそうしています。

●付記

家庭内別居をするようになったら、あぶない?
心が通い合わなくなる。
とたん夫婦関係は冷却化する。
顔を合わせても、あいさつだけ。

口論もなければ、喧嘩もない。
一見、平和な家庭になる。

しかし人はこういう状態に、それほど長くは耐えられない。
そのうち相手の息をかぐだけでも、不愉快になる。
そばにいると思うだけで、わずらわしくなる。

本来なら、そうなる前に、たがいに修復すればよい。
しかしそこに至るまで、たがいに、つっぱってしまう。
意地を張る。
がんこになる。
「私はあやまらない」
「ぼくは悪くない」と。

で、一気に、家庭内別居となる。

が、この段階で、「それでもいい」と、同居をつづける夫婦も少なくない。
たがいに、それを割り切る。
中には、「子どもが大学を卒業するまで」とか何とか、何かの目標を
作って、がんばっている人もいる。
しかし人間関係は、目標どおりには、いかない。
何かのきっかけで、夫婦関係は、そのまま崩壊する。

……あとは、お決まりのコースをたどって、離婚。

夫婦といっても、所詮、他人と他人。
その(他人)を感じたら、夫婦も、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●今日から8月、8月1日(金曜日)

●日韓経済戦争

+++++++++++++++

朝起きて、ニュースをいくつか、読む。
相変わらず韓国は、ウォン防衛に必死のようだ。
今のところ、死守ラインを、1ドル、1010ウォンに
置いているようだ。

ウォンを売りまくる、外資。
ドル売りを買いまくる、韓国銀行。

今朝(午前7:00現在)は、1ドル=1012ウォン。

昨日、タクシーに乗ったが、タクシーの運転手が、こう言った。
「最近は、韓国の女性も強くなったね」と。

ときどき韓国の女性をタクシーに乗せることがあるのだそうだが、
乗るといきなり、「○○マンション」とだけ言うのだそうだ。

そこで運転手が、「それはどこですか?」と聞くと、すかさず、
「あんた、○○マンションも、知らないの!」と。

現在の日韓関係を象徴しているような話である。
で、ついで話は、竹島問題になった。

韓国国内の反日感情もさることながら、日本人の怒りにも相当なものがある。
タクシーの運転手は、こうも言った。

「個人タクシーでないから、それもできませんが、『韓国人の客、お断り』の
張り紙を張りたいくらいです」と。

わかる、わかる、その気持ち……ということで、日韓経済戦争。

ウォン安になればなるほど、ウォン資産をもっている外資は、
ウォンを売って、韓国から待避しようとする。
もっていればいるほど、目減りする。

が、ウォン安になればなるほど、輸出には有利だが、その分だけ、輸入物価が
上昇する。
これは経済のイロハだが、そのため現在、韓国の貿易収支は赤字に転落。

そこで日本に残された選択肢は、2つ。

(1)朝鮮半島の不安定化を覚悟で、韓国経済を転落させるか。
(2)朝鮮半島の不安定化を避けるため、ウォン安防衛に手を貸すか。

私の印象では、日本の世論は、(1)のほうに傾きつつあるように感ずる。
もちろん日本とて、無傷というわけにはいかない。
それなりの覚悟と準備が必要である。
とくに韓国向けの輸出業者は、手痛い被害をこうむることになる。

しかしこれは戦争なのだ。
「経済戦争」という戦争なのだ。

イ大統領は、今週、竹島で、おおがかりな軍事演習をしてみせた。
が、これほどまでに強烈な挑発行為が、ほかにあるだろうか。

日本は(軍事力)を使うわけにはいかない。
だったら、(経済)という武器を使って、韓国と対峙するしかない。
恐らくそういう指示が、日本政府あたりからも出ているのだろう。

現在、ウォンを売りまくっている国というのは、韓国最大の債権国、
そう、この日本である。

負けるな、日本!
がんばれ、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【雑学】

●謎のアポロ11号

+++++++++++++++++

1969年、7月20日、
アポロ11号計画で、アメリカの
月着陸船イーグルは、月面に着陸
したことになっている。

着陸船の詳しい着陸の模様は、
ウィキペディア百科事典などにも
紹介されているので、興味の
ある人は、そちらを見たらよい。

で、このアポロ11号による月
着陸については、現在、「本当は
着陸していなかったのではないか」
という疑惑がもちあがっている。

同じく、ウィキペディア百科事典には、
つぎのようにある(要約)。

++++++++++++++++

(1)月着陸はでっちあげだった?

(2)飛行士たちは、月面での活動中、何者かによって監視されていた?、と。

ウィキペディア百科事典によれば、(アポロ11号による月着陸は存在したという前提に立
っているので)、これらの疑惑がもちあがった背景として、つぎのように説明している。

(1)「月着陸はでっちあげだった?」については、「火星着陸のでっちあげを試みる姿を
描いた映画、『カプリコーン』の公開以来、それを信ずる人がいる」と。

(2)「飛行士たちは、月面での活動中、何者かによって監視されていた?」についても、
「これは……都市伝説によるもので、この説を紹介した『Someone else is on our Moon』
※という本が出てから、この説を信ずるものもいる」と。

つまりアポロ11号の月着陸を疑う人たちは、1本の映画や、1冊の本による影響を受け
たものだという。

しかし本当にそうか?

映画『カプリコーン』については、私も見たことがあるが、見るに耐えないというか、三
流映画。
また『Someone else is on our Moon』については、その種の数多くの本の中の、1冊に過
ぎない。
そんな映画や本の影響を受けて、あれほどの大事業を疑う人が現われると考えることに、
無理がある。

「アポロ11号計画」につて、ウィキペディア百科事典は、つぎのように書いている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

●アポロ11号を巡っては主に二つの陰謀論がある。アポロ計画陰謀論も参照のこと。 

(1)一つは月着陸がでっち上げだったとする説である。この説は一般的
には無視されているが、NASAが火星着陸のでっち上げを試みる姿
を描いた映画『カプリコン1』(1978年)の公開以来、テレビやネ
ットなどでも取り上げられるようにもなり、この説を信じる人々も
いる。 

(2)第二は、飛行士達は月面での活動中何者かに監視されており、また
月面で異星人を目撃した、という都市伝説である。この説を紹介し
た Someone else is on our Moon という本が出版されてから、この
説も信じるものもいる。 

(3)また、「1980年代にモロッコで行なわれた調査で、多くの人々が人
類が月に行ったとは考えていないという結果が出た。これは陰謀論
を信じているためではなく、単に月着陸のことを聞いたことがなか
ったからだ」― という伝説もある。 

(4)月着陸船の離陸の際、アポロ11号は月面に立てた星条旗を噴射によ
って吹き飛ばしたという説がある。 

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

アポロ11号による月面着陸が疑われている理由には、いくつかある。

(1)月面の宇宙飛行士らの影が、多方向に流れている。
月面では、影はすべて一方向のはず。

(2)月面に立てられた星条旗が、風にゆれてはためいていた。
月には空気がないから、旗ははためかない。

(3)重力が6分の1であるなら、宇宙飛行士たちがジャンプしたとき、もっと体が高く
あがるはず。

(4)当時の技術では、地球と月の間にある、バンアレン帯(強力な放射能帯)を、通過
できなかったはず。人間は放射能で真っ黒焦げになっていたはず。

(5)当時の技術では、ロケットを逆噴射しながらの着陸は無理だった、などなど。

(6)さらにアポロ11号で撮られた写真の背景が、別の写真とまったく同じであったと
いうことも指摘されている。

アポロ11号による月面着陸には、「?」な点がほかにもある。
映画『カプリコーン』や、『Someone else is on our Moon』という本によって、疑問がわき
起こったというわけではない。

(注※:『Someone else is on our Moon』というのは、1978年に、George H. Leonard
という人によって書かれた本をいう。イギリスで発刊された、ペーパーバック版である。
が、この本は、何も、アポロ11号の月面着陸について書かれた本ではない。題名を訳す
と、「月には、ほかにだれかがいる」となる。)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●壮大な思いこみと迷信

++++++++++++++++++H.Hayashi

日本の仏教を、一言で言えば、壮大な思いこみと迷信。
その(かたまり)といってもよい。
もちろん(教え)は、(教え)として、ある。
しかし本当に(教え)を求め、(教え)に従っている
人は、いったいどれだけいるだろうか。

++++++++++++++++++H.Hayashi

これは信者の側の問題かもしれない。
が、(儀式)を仏教の教えと誤解している人も多い。

私の母にしても、寺では、たいへん熱心な信者として
知られていた。
ある時期は、家にいる時間よりも、寺にいる時間の
ほうが長かった。

そんな母でも、今は、信仰の「し」の字もしていない。
私の家に来たときも、そうだった。
まだ自分で何とか歩けるような状態だったが、
仏壇には、目もくれなくなった。
私は昔の母をよく知っていたので、そのときは、
そういう母を見て、本当に驚いた。

その母のばあい、信仰といっても、実にささいなことにこだわった。
仏壇にかかげる戒名札のかけ方が、少しでもおかしいとか、そういうことだった。
位置が少しでもずれていたりすると、文句をつけた。

で、今度は僧侶側の問題だが、宗派によっては、小僧の段階から
修行に修行を重ね、僧職につく僧侶もいる。
しかしそうでない僧侶のほうが、実は多い。

たいはんの僧侶は親の職業を受け継ぎ、それほど修行らしい
修行を、ほとんどしないまま、僧職に就く。
親が僧職にあるという理由だけで、だ。
こういうばあい、「会費」(?)なるものを毎年、本山へ納めれば、
僧籍を失うことはない。

私の友人(当時45歳)は、こう言った。
「俺は、失業したら、寺の坊主にでもなるよ。僧籍だけは残してあるからな」と。
驚いて私が、「おまえが坊主をするのか?」と聞くと、その友人はこう言った。
「おやじが、会費だけは払っていてくれるから」と。

宗教があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教がある。
だから、現実がそうであるかといって、日本の仏教を
批判しても意味はない。

端的に言えば、僧侶に読経してもらわなければ、成仏できないと、
ほとんどの人は、そう思いこんでいる。
が、これなどは、まさに迷信のきわまり。
そんなことは、釈迦は、一言も言っていない。

だいたい「成仏」とは何か。
この日本では、「死んだ人は、すべて仏になる」と教える。
つまり釈迦という「仏」と、同格になるという。
大乗仏教の教えによれば、そうだ。

……と書いたところで、私は何も日本の仏教を否定しているのではない。
(批判はしているが……。)
「死」は、その人の理性や知性を乗り越えたところで、私たちを襲ってくる。
道理や合理だけで、「死」を処理できる人は少ない。
病気にしてもそうだ。
「あなたはがんです」と宣告されて、平静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろ
うか。
(私も、がんを宣告されたら、かなり狼狽すると思う。)

同じように、肉親や家族、兄弟の死であれば、なおさらだ。

で、私も数日前、実の兄を亡くした。
享年、70歳(数え年)だった。
いろいろ考えるところもあった。
言いたいこともあった。
しかし私は、すべて、その地域のしきたりに、そのまま従った。
具体的には、義兄と姉の指示にすなおに従った。
(おかげでかなり派手な葬儀になってしまったが……。)

私はこう考えた。

あれこれ抵抗して波風たてるくらいなら、静かにしていたほうがよい、と。
ついでに言うなら、「どうせ意味のない儀式なのだから」と。
あのアインシュタイン博士も、そう書き残している。
「宗教というのは、100%の迷信である」(ある人物への私信)と。
しかしそれで遺族の悲しみや苦しみが、多少なりとも癒されるなら、それはそれでよいこ
とではないか。

ただ私の兄のばあい、子どものころからいっしょに遊んだという記憶が、ほとんどない。
年齢も離れていた。
さらに晩年は、病気との闘い。
寝たきりの状態で、半年以上も過ごした。
僧侶による読経の最中、私は、こう感じた。
「兄は、孤独やさみしさ、すべてを背負って逝ってくれた」と。

だとするなら、葬儀のしかたにも、もっと別の方法があってもよいのではないのか。
大切なのは、「形」ではなく、「中身」。
が、現在の葬儀には、大きな疑問が残る。
率直に言えば、僧侶にお金を儲けさせるためだけのもの。
私の家の宗派は、たいへん良心的な宗派で、姉たちの言葉を借りるなら、
「安い」。
が、それでも、戒名に応じて、30〜80万円。
寺の格式(?)に応じて、上限はない。

もちろん葬儀社への支払いもある。
その額が、100〜120万円。
これとてミニマムな価格だそうだ。
少し派手な葬儀ともなると、300〜500万円が相場とか。

一方、香典などによる収入は、おおむね3分の1から2分の1。
残りは、遺族個人の負担ということになる。
ただ私は、こう考えた。

「兄は生涯、健康にも恵まれず、家族や家庭にも恵まれなかった。
葬式くらい、一人前に出してやろう」と。

そのとたん、心が晴れた。
気が楽になった。

が、それにしても……。
現在、都会地域では、約30%の家族が、「直葬(ちょくそう)」という方式で、葬儀を行
っているという。
「直葬」というのは、死亡した病院や施設などから、直接火葬場へ運ばれ、そこで火葬に
付されることをいう。
そのあと、葬儀は個人の家で行う。
僧侶を呼ぶケースもあるそうだが、呼ばないケースもふえているという。
家族だけで、静かな(お別れ会)をして、それでおしまい。

で、遺骨は、どうするか?
今では、散骨という方法を選ぶ人も、ふえてきた。
故人の思い出の地に、遺骨をまく。

そうでなくても、それまでの介護で疲れ切っている人も多い。
介護費用もかさみ、葬式費用などどこにもないという人も多い。
中には、「親の葬式は、借金をしてでもやれ」と説く人もいる。
しかし私もその「親」だが、そんなことを息子たちには、させたくない。
私の葬式など、どうでもよい。
だから散骨でも、よい。
が、「それでは成仏できない」とは!
しかも戒名の「号」によって、差がつくだと!

もしこれが事実とするなら、日本の仏教は、根底からインチキと断言してよい。
だいたいすべてが、釈迦仏教の精神に反する!

が、(伝統)を踏襲する人たちは、まさにノーブレイン(=思考力ゼロ)。
「あの家は、こうした」
「あの宗派は、ああした」と。
それだけを金科玉条のごとくにふりかざして、それに従わない人を否定する。
攻撃する。

あとは見栄、メンツ、世間体。

つまりこういう人たちが、何も考えることなく、そのまま過去を踏襲していく。
が、これでは何も変わらない。
変わらないばかえりか、ますます仏教を儀式化してしまう。
形骸化してしまう。

どうしてみんな、もっと自分の頭で、考えないのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●兄の死

++++++++++++++++++H.Hayashi

8月2日、日曜日の早朝、私の兄が死んだ。
享年70歳(数え年)だった。
若いといえば、若い。
しかし兄は、生まれたときから体が弱かった。
とくに亡くなる前は、グールプ・ホームに3年、そのあと、病院に、1年あまりもいた。
最後は意識もほとんどなく、寝たきりの状態だった。

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄弟といっても、いろいろある。
家族によってもちがう。
年齢差も影響する。
しかし私にとっての兄は、私の負担でしかなかった。

私が高校生のとき、私の実家はすでに火の車。
大学を卒業すると同時に、実家を支えるのは、私の役目ということになった。
兄は思考力も弱く、生活力も、ほとんどなかった。

こうして40年近く。
晩年になればなるほど、私への負担はふえていった。
経済的負担というよりは、社会的負担。
その重圧感には、ものすごいものがあった。

が、だからといって、私は、兄を恨んでいたわけではない。
むしろ逆で、いつも私は、「兄は私の代わりに犠牲になった」と
考えていた。
もし私が兄で、兄が私なら、立場は逆転していただろう。
兄がああした兄になったのは、遺伝子によるものというよりは、
環境によるものだった。
詳しくは書けないが、事実は事実。

私は、葬儀の席の(礼の言葉)で、こう述べた。
「今にしてみると、こうして私が人並みの幸福な家庭を築くことができたのは、
兄のおかげです。
家庭にも恵まれず、家族にも恵まれず、兄は私たちの犠牲になってくれました。
この場所に立ってみると、それがよくわかります」と。
この私の言葉には、一片の偽りはない。

ともかくも、兄は死んだ。
正直に言えば、兄が死んで、私はほっとしている。
前回、見舞ったときも、あまりにも痛々しそうな様子に、身が震えた。
食事は口からとれないため、腸に穴をあけ、そこから栄養分を注入していた。
話しかけても、うつろな目をかすかに動かすだけ。
兄は生きているというよりは、生かされているだけ。
その苦痛から、兄は、やっと解放された。
だから、ほっとした。

兄は「家」の犠牲になった。
兄は「父」や「母」の犠牲になった。
とくに母は、兄を監視し、兄が家から離れるのを許さなかった。
だから同じ(礼の言葉)の中で、私はこう言った。

「今ごろ兄は、足元も軽やかに、心も軽やかに、鼻歌でも歌いながら、金の橋を渡ってい
ることと思います」と。

が、ともかくも、兄は死んだ。
何も残さず。
何も語らず。
静かに、どこまでも静かに、
「無」の境涯というのは、そういう境涯をいうのか。
そういう兄だからこそ、極楽へ入って当然。
何も、思い残すことはなかっただろう。

さようなら、準ちゃん!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●8月6日

++++++++++++++++++H.Hayashi

コンビニで、「アメリカの陰謀」とかいうような本を買った。
コミック本で、信頼性はほとんどない。
が、おもしろかった。

たとえばアポロ11号は、やらせだった。
ケネディ大統領暗殺は、政治的陰謀だった。
ロズウェルUFO墜落事件は、真実だった。
9・11、ニューヨーク・貿易センタービルテロは、ブッシュ大統領の陰謀だった。
……などなど。

どのひとつをとっても、もしそれが事実であるとするなら、大事件というか、歴史そのも
のがひっくり返るようなものばかり。
人間がもつ魔性をそのままえぐりだすようなものばかり。

日本がうちあげた月探査衛星の「かぐや」にしても、アメリカの横槍で、計画の1000
万画素のカメラから、200万画素のカメラに取り替えられてしまったという。

なぜか、なぜなのか。
その前に、それは事実なのか。

本の中には、ブッシュ大統領とC・ライス長官が、対日戦略を練るシーンもある。
「北朝鮮のテロ指定国家を解除すると、日本を脅してやれ」「そうすれば、日本は(アメリ
カの)言うことを、(あわてて)聞きますよ」とか何とか。

きわめて反米色の濃いコミック本だが、内容を10分の1にして読んでも、興味深い。
あのゴア前副大統領にしても、環境問題(地球温暖化)を利用して、莫大な利益をあげた
とか……?

何を信じてよいのか?
読んでいるうちに、何がなんだか、わけがわからなくなってしまった。
たとえば先に書いた、9・11事件のときには、1機の飛行機が
ペンタゴンにつっこんでいる。
この事件については、その直後から「?」と思われていた。
窓のない飛行機だったとか、両翼がビルにぶつかった形跡がなかったとか、など。
遺体がひとつも見つかっていないのも、おかしいと言えば、おかしい。
が、その一方で、3メートルの厚さもある壁が損傷を受けたとか……?

まさに陰謀。
恐るべき、陰謀。

今回の一連の6か国協議の流れを見ていると、「ありえない話でもない」と思えてくる。
「アメリカという国をまともに信じていると、たいへんなことになるぞ」と。

ところで8月11日が近づいてきた。
その日までに、北朝鮮は、核査察の立ち入り検査の計画書を出すことになっている。
しかし今のところ(8月6日)、北朝鮮には、その気配はまったくない。
ないばかりか、日本では、「立ち入り検査」と訳されているが、原文では、「VISIT」と
なっているという(某・経済誌)。
「VISIT 」だぞ!
わかるか?
強制力のない、「訪問」だぞ!

こんな人をバカにしたというか、日本をバカにした話がどこにある?

今、急速に日米関係は悪化の一途をたどっている。
それもそのはず。
アメリカは、日本を繰り返し、裏切っている。
直近では、韓国に遠慮して、「竹島は韓国領土である」とまで発言している。

もし8月11日に、北朝鮮が何も行動を起こさなかったら、私は、C・ライスと、C・ヒル
にこう言ってやる。

「ヤ〜イ、ざま〜見ろ! バカやろう!」と。

話を戻す。
先のコミック本によれば、あの9・11事件のとき、アメリカは、「純粋水爆」という爆弾
が使ったという。

水爆は、今までは、起爆剤に原爆をもちいていた。
しかし純粋水爆なら、原爆を用いないから、放射能の心配は、まったくないという。
その純粋水爆で、ニューヨークの貿易センタービルは、破壊された?

最初は「?」と思って読んでみたが、あちこちの記事を数回読みかえすうちに、「ありえな
くはないな」と思うようになった。
アメリカは、まさに陰謀の国?
今も昔も、陰謀の国?
もしそうなら、アメリカのやることをまともに信じていると、たいへんなことになるぞ…
…というのが、私の読後感。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●世界同時株安

++++++++++++++++++H.Hayashi

中国、インドの株安が止まらない。
年初来(2008)の株価指数下落率をみると、
中国は45弱%、インドは25%強も、株価を
下げている(「東洋経済」・8月9日号)。

日本の株価も下がったが、下がったといっても
10%強。

++++++++++++++++++H.Hayashi

オリンピック直近になって、中国を取り巻く経済環境が
急速に悪化している。
オリンピック特需どころか、オリンピック後も、株価は
下がり続けるだろうと言われている。
つまりそれだけの底力はなかった?

かわってブラジルが台頭してきた。
もっか世界の投資団は、猛烈な勢いでブラジルに向かっている。
やはり資源国は強い。
株価の下落率も8%前後に押さえている。

ところで数日前、証券会社に立ち寄ったら、店頭の女子店員にブラジル投資を勧められた。
年率10%の利息がつくという。
しかしレアル(ブラジル通貨)は、現在、高止まり。
(だからこそ、こういうときを選んで、ブラジル政府は、債権を発行するのだが……。
外国政府が債権を発行するときというのは、たいていその国の通貨が強いとき。
反対に満期が近づくと、意図的に通貨の価値をさげる。
ときにはこの方法で、利息分を帳消しにする。)

そんなわけで、為替差損を考えるなら、今は、慎重になったほうがよい。
……というのが、今の私の結論。


●日韓経済戦争

日本のみなさん、韓国から目を離すな!
目下、韓国はウォン防衛のため、猛烈なドル売り、ウォン買いをつづけている。
外貨準備高では、台湾についで、世界で6位となっているが、それもあぶない。
この7月だけで、107億ドルも、外貨を減らしている。
(全体では、2473億ドル。)

(しかし外貨準備高が大きいからといって、国力があるということにはならない。
外貨というのは、外国に再投資ししてこそ、意味をもつ。
そうでない外貨は、ただのタンス貯金。
もともと外貨というのは、為替決済のために蓄えるもの。
必要以上にためこんでも、意味はない。)

それはともかくも、その外貨そのものが減っている。
直近の貿易収支は、赤字。
「原油高が原因」とさかんに宣伝しているが、韓国の貿易赤字は、もっと構造的なもの。
その証拠に、火事場のネズミよろしく、外貨がどんどんと逃げを決め込んでいる。

日本の経済にも赤信号がともったという(8月8日、NHK定時ニュース)。
勝つか負けるか、この試合に共存はない。


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 9月 3日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
2008年9月3日……マガジン、第1090号になりました!

★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
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11月1日現在、マガジンは第799号になりました。1000号まで、あと201号!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●賢い子ども

A君(小6)とB君(小6)が、夏休みの宿題をもって、私の教室へ来た。
算数の宿題で、全体で、30ページほどのもの。
2ページごとに、(1)(2)(3)……と、(15)まで、番号がつけられていた。

A君は、すでに(8)まで家ですましてきた。
だからA君は、(9)からスタート。
B君は、まったくやっていなかった。
だからB君は、(1)からスタート。

が、最初からB君は、やる気満々といった感じだった。
「1時間で、すませてやる!」と、宣言した。

私「わかった、じゃあ、1時間ですませてみろ。
君が1時間ですませたら、みんなに、来週は、アイスクリームをご馳走しよう」
B「ようし、やってやる!」
私(A君に向かって……)「だけどB君、君も、1時間ですませてしまいなよ。途中でB君
に追い抜かれたら、君のアイスクリームは、なしだよ」
A「ゲーッ!」と。

ということで、A君とB君は、猛烈な勢いで、宿題に取り組み始めた。
が、算数の力では、A君はB君にかなわない。
B君は、学校でもトップクラスを走っている。

やがて差が縮まってきた。

A君……(11)、(12)……
B君……(10)(11)……と。

あと少しでB君がA君を追い抜くかなと思ったそのとき、B君が、機転をきかした。
(12)になる一歩手前で、いきなり、B君は、(15)の最後からやり始めた。
その宿題の最後のページである。

そして(15)(14)……と、進み始めた。

ほかの子どもたちも、自分たちのアイスクリームがかかっているから、ハラハラしながら、
B君を見つめている。
が、やがて、(13)あたりで、A君とB君が、交差した。

ナルホド!

こうすれば、B君は、A君を追い抜いたことにはならない。
しかもA君は、宣言どおり、宿題をすべてすますことができる。

あと1、2分でレッスンがおしまいというところで、B君が叫んだ。
「終わったア!」と。
ほかの子どもたちも、「やったア!」と。
A君だけは、どこか心配そうに、「ぼくも、アイス、もらえる?」と。

私「もらえるよ。だって、B君は、君を追い抜いてはいないからね」
A「そうだね」
私「B君はね、うしろからやって、君と出会ったことになる。
追い抜いたのじゃ、ない。
出会ったんだ」と。

改めて私はB君の賢さに、驚いた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『マンデラの名もなき看守』

昨夜、仕事からの帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
見たのは、『マンデラの名もなき看守』。
あのネルソン・マンデラの獄中生活を描いた作品である。
(ネルソン・マンデラ……南アフリカ初の、全体選挙で選ばれた黒人大統領。)

星は、3つの、★★★。

どこかN・マンデラに遠慮したような映画だった。
娯楽映画というよりは、どこかプロパガンダ的?
そのため星は、3つ。

私はあの映画を見ながら、昔、M物産という会社にいたときのことを思い出していた。
私は、南アフリカとオーストラリアが担当地域だった。

その南アフリカから出張で帰ってきた上司が、私にこう言った。
「日本人は、(オナラブル・白人)と呼ばれていてね、日本人だけは、白人と同等の扱いだ
った」と。
「オナラブル」というのは、「名誉(=例外)」という意味である。
しかしバスに乗っても、レストランへ入っても、落ち着かなかったという。
そこでその上司は、JALからもらったカバンを、いつも胸の前にぶらさげて歩いていた
という。

(当時は、JALに乗ると、赤い日の丸が描かれた、バッグがもらえた。)

アパルトヘイト(人種差別政策)の不快感は、それを経験したものでないとわからない。
今でこそ、若い人たちは、我が物顔で、世界中をかっ歩しているが、私たちの時代は、そ
うではなかった。
白人の国へ行くと、どこでも、その(偏見=プレジュディス)を感じた。
相手の国の人から見れば、日本人もアジア人も、同じ。
区別のしようがない。

N・マンデラのすごいところは、そのつど、おいしい妥協策を示されたにもかかわらず、
いっさい、それに応じなかったところ。
最後の最後まで、妥協しなかった。
そして最後は、南アフリカの大統領にまでなった!


●ボケのはじまり

++++++++++++++

ボケのはじまりには、視野が狭くなる(?)。
いろいろな人を見ていると、そんな感じがする。
そのことにハマると、それしか見えなくなる。
融通性が消える。
思考の柔軟性が消える。
そのため、初期のころには、家族との衝突が
ひんぱんに起こるようになる?

++++++++++++++

私も、私のワイフも、どこか、あぶない?
ともにこのところ、融通性を失ってきたように感ずる。
がんこになった。
機転がきかなくなった。
臨機応変にものごとに対処することができなくなった。

つまり脳みそ全体が、硬くなってきたように感ずる。
(こういうばあいは、「固く」と書くのか?)

一般的に言えば、家庭に閉じ込められた主婦というのは、欲求不満のかたまりとみてよい。
ほとんどの女性は、結婚することによって、それまでのキャリアを放棄する。
「したいこともせず」「やりたいこともできず」という状態で、やがて子育てという重労働
を課せられる。

最近の若い妻たちは、自分なりに生活を楽しむことができるようになった。
しかし私たちの時代には、そうではなかった。
問答無用式にというか、否応なしに、家庭に閉じ込められた。
家庭といっても、実際には、狭いアパート。

つまり私たちの年代の女性たちは、多かれ少なかれ、不完全燃焼症候群のかたまりとみて
よい。
子育てが終わった女性なら。なおさらである。

で、私のワイフもそうで、何かあると、その(憎しみ)を真正面から、私にぶつけてくる。
私が何をしても、また何を言っても、それに対して拒絶反応を示すことがある。
ときどき、「この人は、本当に私を憎んでいるのだなあ」と思うときがある。

が、それに最近、加齢的な問題が加わってきたように思う(?)。
それが冒頭に書いた、ボケの問題である。
視野が狭くなってきた(?)。

ささいな、どうでもよいような問題についても、ときどき、私にからんでくるときがある。
が、本人には、その自覚がない。
私が何かのことでワイフに注意すると、ワイフは、すかさず。「あなただって……!」とや
り返してくる。
ほかに、たとえば昨夜も、私が戸棚からパンを取り出して、それを食べようとしたときの
こと。
横からワイフが、すかさず、「それはH(=息子)のよ!」と言った。
言い方にもいろいろあるのだろうが、ワイフのそれは、いつもストレート!
ほかにもパンはあったので、私はそちらを食べたが、ワイフはワイフで、そのパンを、息
子のものと決めていたようである。

こうした頭の硬さは、私の世代の人間には、だれにでも見られるものなのか。
それともボケの始まりなのか。
私にはよくわからないが、ここしばらくは、要観察といったところか?

ときどきやりにくく感ずることがある。
ホント!


●日韓関係

日韓関係が、予想以上に今、悪化している。
日本側はともかくも、韓国側の反日感情のもりあがりには、ものすごいものがある。
原因は竹島問題だが、ここにきてアメリカ側が、「竹島は無人の島(だからどの国のもので
もない)」と言い出したから、さあ、たいへん。
アメリカに攻撃の矛先を向けるかと思っていたら、「日本がそういうふうにアメリカに言わ
せるよう、工作をした」と。

韓国という国は、(そして北朝鮮も)、不完全燃焼症候群、被害妄想、それに欲求不満のか
たまりとみてよい。

「自分たちの手で独立を成し遂げることができなかった」というのが、不完全燃焼症候群
につながっている。
「日本ごときの国に、植民地にされた」というのが、被害妄想につながっている。
そして「何をしても、日本に負ける」というのが、欲求不満につながっている。

日本は日本で反省すべき点は多い。
しかしそれはそれ。
それにも、限度というものがある。
つまりだからといって、韓国が(北朝鮮が)、日本に対して、何をしても許されると考える
のは、正しくない。

今回の反日感情の盛り上がりにしても、そうだ。
自分たちは、さんざん、やりたい放題のことをしておきながら、日本が、教科書に、「竹島
は日本の領土である」と書いただけで、大騒ぎ!
あろうことか、今度は、「対馬は韓国の領土である」とまで、言い出した。

(「対馬」を、「ツ・シマ」と読むのは、日本語なのか、それとも韓国語なのか?)

ともあれ、こうした動きをしっかりと日本は、胸に留めておくべき。
とくに、日本のS社よ、よく覚えておくべき。
つぎつぎと日本の先端技術を韓国に売り飛ばし、最後は、日本の企業連合の反対を押し切
って、有機液晶技術まで、売り飛ばしてしまった。

この日本には、韓国の産業スパイたちが、全国津々浦々、村レベルにまで入り込んでいる
ことを忘れてはいけない。

が、同時に、韓国経済は、火の車。
つい先週も、多額債務者のために、日本でいう「徳政令」のような政策を発表した(08
年7月)。
一世帯あたり、平均、約600万円(日本円)を上回る負債をかかえている。
そういう人たちが、年率約50%(法定)の利息を払っている。
(闇金融では、100〜200%と言われている。)

仮に50%としても、利息だけで。毎年、300万円!
そのこともあって、毎年、1万数千社の個人企業が姿を消している。
つまり現在の韓国にとって、反日運動は、損になることはあっても、得になることは何も
ない。

いざというとき、泣きつくことができるのは、この日本だけ。
日本をおいて、ほかにない。
ないが、日本よ、日本人よ、今度は、バカなことをしてはいけない。

97年に韓国がデフォルト(債務不履行)したとき、頼まれもしないうちから、日本は、
韓国に援助の手を差しのべた。
アメリカの反対を押し切ってまで、だ。
その額、400〜500億ドルとも言われている。
が、韓国は、それに対して、感謝の「か」の字もしていない。

彼らの論理によれば、「韓国をデフォルトに追い込んだのは、日本」ということになる。
(こういうのを被害妄想というが……。)

最近にいたっては、「日本には全額、借金は返した」と、ふんぞり返っている。

本来なら、日本の銀行各社が、韓国の銀行の支配権(経営権)を握ってもおかしくはなか
ったのだが、韓国政府は、それを嫌った。
そのため韓国の銀行のほとんどは、現在、アメリカの銀行の支配下にある。

というわけで、日韓経済戦争は、水面下で、今の今も、熾烈な戦いを繰り広げている。
勝つか、負けるか。

韓国政府は昨年(07年)、アジアでも最大級の揚陸艦を建造した。
その名もズバリ、「独島」。
ワーワー騒いで、ものごとをなし崩し的に既成事実化していく。
自分たちは、そうとは思っていないだろうが、外から見ていると、韓国も北朝鮮も、精神
構造は同じ。

どうしてあの2つの国は、こうまで(思い込み)がはげしいのだろう?
……ということで、今日の日韓経済戦争の話は、おしまい。

がんばれ、日本!
負けるな、日本!

(付記)そんな中、韓国軍は、7月末、大規模な軍事演習にうって出た。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。

「訓練には海軍の3000トン級駆逐艦など艦艇6隻、海上哨戒機、対潜ヘリと空軍のF
15K戦闘機2機、海洋警察の警備艇2隻が参加。日本海側から竹島に接近する国籍不明
船をキャッチし、海空両面作戦で追い返すというシナリオで実施された」と。


●究極の採決

仮に、あなたが宇宙人だったとする。
月の内部に住んでいる、宇宙人だったとする。
高度な理性と知性を、兼ね備えた宇宙人だったとする。

過去、20万年近く、あなたの祖先たちは、その月の内部で、静かに生活してきた。
今もあなたは、その月の内部で静かに暮らしている。

もちろん娯楽がないわけではない。
最大の娯楽は、地球人の目を通して、地球人の生活を楽しむこと。
地球人になりきって、地球人とともに、地球人の生活を楽しむこと。
もちろんその気になれば、火星や金星など、ほかの惑星への観光旅行もできる。
少したいへんだが、太陽系の外に飛び出すこともできる。

が、このところその地球の様子が、おかしくなってきた。
「地球温暖化」という問題である。
このまま放っておけば、地球も、やがて火星のようになってしまうかもしれない。
となると、ひとつ深刻な問題が生まれてくる。

あなたは食糧の多くを、その地球に頼っている。
地球の海から採取するコンブ系の食物は、あなたの主要食物のひとつになっている。
ほかにも代替食物がないわけではないが、月を現在の月の位置に(置いた)のも、もとは
といえば、その食糧確保が目的だった。

そこであなたは会議に召集された。
で、今日の議題は、「地球人たちを、存続させるべきか、否か」である。
その席で、その採決が行われる。

もちろんその中間的な方法もないわけではない。
一部の地球人を、選択的に存続させる。
地球人を再改良する。
が、全体として、「どうするか?」と。

もしあなたがその宇宙人なら、どういう採決をくだすであろうか。

「地球のことは、地球人に任せて、最後の最後まで、静かに見守る」か、
それとも「地球を地球人の手から奪うため、地球人たちを抹殺する」か。

もしあなたがその宇宙人なら、どういう採決をくだすであろうか。

……というのは、あくまでもSF(サイエンス・フィクション)の世界の話。
ハリー・ポッターの世界の話と同じ。
しかしこの問題は、人間世界のすばらしさ、愚かさを同時に考えるには、すばらしいテー
マである。

「私たち人間は、どうすれば存続するに値する生き物になれるか」
「私たち人間が、原罪的にもっている愚かさとは何か」と。

もし今夜も、月を空に見ることができたら、私もその月を見ながら、この問題を考えてみ
たい。
地球人の運命は、清き、あなたの一票にかかっている!


●身辺整理

どこかの旧家のように、代々、子孫がその家を引き継ぐということであれば、私が今、考
えているような問題は、起きない。
(だからといって、それがうらやましいわけではないが……。誤解のないように!)

しかし私の家のばあい、私の代で、すべてが終わる。
息子たちは息子たちで、勝手に生きていけばよい。
私は私で、それまで勝手に生きる。

となると、現在住んでいる家や、財産は、どうなるのか?
どうしたらよいのか?
(処理の仕方をまちがえると、息子たちの関係がバラバラになってしまうし……。)

先日、私の知人が他界した。
彼は巨億の遺産とともに、6畳間いっぱいの書籍を残した。
自費出版だが、その知人が書き残した本も、10冊近く、ある。
原稿となると、その数十倍以上は、ある。

土地や建物、証券や現金などの遺産はともかくも、私は、「あの本や原稿はどうなったのだ
ろう?」とときどき、考える。
(とくに諸橋先生が書いた、大辞典はどうなったのだろう?)
それにその知人は、晩年になってからは、世界中を旅していた。
あちこちで買い集めたみやげものが、棚に、無数に並んでいた。
(その知人は、細工のこまかい、小物を買い集めるのが趣味のようだった。)
「あのみやげ類も、どうなったのだろう?」と。

先日、盆供養に行ってきたが、奥さんとは、そんな話はしなかった。
しなかったが、気になった。

というのも、この問題は、「では、私はどうすればいいか」という問題と重なる。
数ではその知人には及ばないが、私にも、無数の書籍がある。
過去の思い出とつながる品々も多い。
土地も家も、自分名義のものがある。
書いた原稿は、この10年間だけでも、2万枚を楽に超える。
「そういうものは、どうなるのだろう?」と。

……というわけでもないが、このところ、どこへ行っても、みやげと言えば、食べ物ばか
り。
知人の趣味をよく知っていたので、何かの小物を買うということは、まず、ない。
「ああいうものは、買っても、結局は無駄になるだけ」と。
問題は、原稿である。

私は、「私の墓は、原稿」と思っている。
野原の石に、私の魂は、ない。
またそんなところに、私の魂を置いても、意味はない。
少し前まで、「私の墓は、私の本」と思っていたが、そのあとインターネットという、とん
でもない怪物が現れた。
「やがて第二の産業革命と呼ばれるようになるだろう」と言われているが、私は100%、
その意見に同意する。

書いたものは、インターネット上に、どんどんと公開していく。
読んでくれる人がいても、いなくても、私には関係ない。
読んでくれる人がいればうれしいが、読んでくれなくても、かまわない。
で、「私の魂とは何か」と聞かれれば、それは(私の思い)ということになる。
骨や灰などに、自分の思いをこめることはできない。

……ということで、このところ自分の身辺整理を考えることが、多くなった。
「まだ先のことではないか」と思う人もいるかもしれないが、身辺整理といっても、まだ
10年や20年はかかるかもしれない。
そのうち頭のほうが、ボケてしまうかもしれない。
そうなれば、そこで身辺整理は、おしまい。
だから時間との勝負。

手始めに、子どもたち(生徒たち)に、自分が集めた小物類を、渡している。
(先日、タイで買ってきた、純金の仏像を渡しそうになったこともあるが、これは直前で
やめた。これは余談!)

あとは、息子たちや孫たちに、いろいろな機会を通して、そのつど渡そうと考えているが、
それはもう少し先になりそう。

そうそう、そのうち、「ネット墓地」というサービスも始まるかもしれない。
生前に、その人の記録や業績、作品などを、すべて「墓地」として収録しておく。
遺族たちは、そのつどその墓地を訪れて、故人を偲ぶ。

しかしこういうサービスは、半永久的なものが望ましいという点で、公的な機関が管理す
るのがよい。
どこかの寺や教会がしてもよい。
もしそういうサービスが始まれば、私はまっさきに加入うるだろう。

これも余談。

(補記)
もうひとつ真剣に考えていることが、ある。
いつか自分が死ぬとき、(死ぬ前でもよいが)、私は自分の生涯のすべてを、たとえば、U
SBメモリーのようなものに残し、それをほしい人に、渡したい。
今は、USBメモリーにしても、2GBのもので、2000〜3000円はするが、その
うち、10GBのもので、500円以下になるかもしれない。

10年後には、100GB〜1TBのものもできるようになるかもしれない。
そうなれば、原稿はもちろん、過去の写真すべてを収録することができる。
が、大きさは、神社でもらうお守り程度。
あるいはもっと小さくなるだろう。
「何かあったら、このUSBメモリーを開いて見てください」と。
つまりそれが私の遺品ということになる。
位牌でもよい。

想像するだけでも、楽しい!


●HP 2133

ヒューレッド・パッカード社の、ミニ・パソコンを買って、ちょうど1か月になる。
今のところ、まだ気に入っている。
が、使い勝手はあまりよくない。
英語式キーボードのため、日本語ワードが、たいへん使いにくい。
記号の位置と、キーの表示が一致しない。
「enter」キーが小さく、やや下方にあるため、打ち(打鍵)ミスが多い。
さらにキーがすべすべしていて、しかもピッチが浅く、ソフト。
バンバンとキーを叩くことに慣れている私には、まるでかゆいところを、羽か何かにさわ
られているような感じ。
つまり、「歯がゆい」。

もう少し、クリック感を強くしてくれないと、キーとキーがくっついている分だけ、叩き
ミスが多い。

そこで家の中で使うときは、USB接続の外付けキーボードを接続して、使用している。
これは日本語式キーボードだから、通常のデスクトップと同じようにして使える。

が、何と言っても、画面が小さい。
8・5インチしかない。
そこでこのHP2133専用の老眼鏡を用意し、それを使っている。

まあ、近く、このミニ・パソコンは、息子に払い下げるつもり。
そこで今、新しく狙っているのは、MSI社のU100。
白モデルが、M社から8月に発売になる。
ただ残念なのは、バッテリーのもちが、2時間弱程度とか。
実際には、カタログ値の70%ということだから、1時間40分程度しかもたない。

バッテリーを使っている人ならみな知っていると思うが、バッテリーが、残りの10%と
か、20分以下になってくると、落ち着いて作業ができなくなる。
実際、HP2133のばあい、10%以下になると、警告文が出て、そのまま自動終了
してしまう。

そんなわけで、U100については、買うとしても、予備のバッテリーを同時に購入する
しかない。
(その点、HP2133には、2本のバッテリーが付属していた。
合計で、7時間あまり、連続使用ができる。)

さあ、どうしようか?
目下、あれこれと迷っている。


●バッテリー

そのバッテリーだが、このところどんなカタログにも、「バッテリーは消耗品です」と書い
てある。
つまり使えば使うほど、性能が落ちてくるということ。
そこで雑誌などを読むと、こうある。

「バッテリーを長くもたせるには、(1)満タン(=100%充電)にしないこと。(2)
長期に渡って使わないときは、10〜20%前後の充電にして保存すること。(3)自然放
電を防ぐため、サランラップなどでしっかりと密封しておくとよい、(4)使う直前になっ
て、90%前後まで充電するとよい」(某パソコン雑誌)と。

しかし10年前には、私は、それを知らなかった。
ノートパソコンにしても、バッテリーを装着したまま、いつも使っていた。
そのため、数か月もしないうちに、バッテリーとしての機能を果たさなくなってしまった。
無知だった。
で、新しいバッテリーを繰り返し購入したが、値段も、結構高かった。
1個2万円前後はしたかな?

そんなわけで、今は、しっかりとバッテリーを本体からはずして、使っている。
余計なことかもしれないが、ノート型パソコンを使っている人は、この原則を、しっかり
と守ったほうがよい。


●帰宅拒否

私は子どものころ、帰宅拒否児だった。
それに気づいたのは、自分が35歳も過ぎたころのことだったが、ともかくも、そうだっ
た。

が、今でもその亡霊が、私の中に残っている。
何か仕事でいやなことがあると、「逃げ出したい」というよりは、「家に帰りたくない」と
いう思いが、顔を出す。
家がいやというのではなく、仕事で何かいやなことがあったりすると、そうなる。

で、そういうときは、街道沿いのパソコンショップや、書店で、1〜3時間、過ごして帰
る。
義兄たちの家に、寄ることもある。
しかし実際には、そういうときというのは、あまり人にも会いたくない。

で、ワイフが心配するといけないから、一応電話をすることにしている。
ひどいときには、そのままどこかのホテルにでも泊まりたい気分。
が、ひとりで泊まるのも、さみしい。
で、「こういうとき、愛人でもいたらなあ」と思うときがある。
そばにいて、話し相手になってくれるだけでよい。
(そういう点では、私も、かなりマザコン的?
情緒が不安定になると、そうなりやすい?)
が、残念ながら、そういう便利な人はいない。

だからパソコンショップに寄ったり、書店に寄ったりする、となる。

で、数日前も、こんな男性の手記を、何かの本で読んだ。
その男性は、リストラか何かで、職を失ったのだが、そのことを家族には話さず、(=話せ
ず)、毎日、それまでどおり、会社に出勤するフリを繰り返していたという。
その間、公園で時間をつぶしたり、映画を見たりしていたという。


私には、その男性の気持ちがよくわかる。
たいへんよくわかる。
私も仕事をしていて、いやな気分になることは多い。
この仕事は、「教育」とはいうものの、その底流では、おとなたちのどす黒い欲望が渦を巻
いている。
そういう渦に、ときとして、こちらが望まなくても、巻き込まれてしまう。

そういうとき、家に帰りたくなくなる。
考えてみれば、これはおもしろい心理ではないか。
どうしてだろう?

単純に考えれば、仕事で不愉快なことがあれば、家に戻って、家族とともに、その疲れを
癒せばよいということになる。
が、実際には、それができない。

私自身に自閉傾向があるせいか?
悩みや苦しみがあると、それを内へ内へとためこんでしまう。
つまりその分だけ、自分の心を開放することができない?
だからそれが帰宅拒否へと、つながっていく(?)。

もちろん帰宅拒否をしたからといって、問題が解決するわけではない。
ときには、かえって落ち込んでしまうこともある。
最終的には、ワイフに、「あのなア……」と、話すことで、気分が楽になる。
が、そこまで自分をもっていくのが、たいへん。
何かしら負けを認めるようで、つらい。
自分の無能、無価値ぶりを、さらけ出すようなもの。
おそらく、会社へ行くフリをして家を出る男性も、同じような心理状態ではないか。
私ももし、同じような状況に立たされたら、同じようなことをするだろうと思う。

ワイフといっても、こと今の私がしている仕事については、まったくの部外者。
教育の経験も、ほとんどない。
「あなたの気持ち、よくわかる」とは言ってくれるが、本当のところ、何もわかっていな
い。
だから一方的に私がグチを言い、ワイフが聞き役に回るということになる。

……実は、昨日も、そういう状態になった。
いやな気分だったから、深夜劇場に足を運んだ。


●理解不能のコメント

数日前、Y・Blogに、こんなコメントが寄せられていた。

「バカめ。子どもの写真は、もらったぞ」(原文のまま)と。

「子どもの写真」というのは、「孫の誠司の写真」のことだと思う。

Y・Blogのプロフィール・コーナーには、私の写真の代わりに、誠司の写真を載せて
いる。

しかし「バカめ」とは何か。
「子どもの写真は、もらったぞ!」とは何か。

少なからず不気味なものを感じたが、そのコメントは、そのまま削除。
しかしいろいろ考えた。

現在、私は孫の写真などを、HP上などで公開している。
かなりの枚数になる。
たいした写真ではない。
すべてスナップ写真。

そういうことをするのに、何か、問題でもあるというのだろうか。
孫の誠司の身に、何か危険でも及ぶということでもあるというのだろうか。
それとも、ほかにまずいことでもあるというのだろうか。

いろいろ考えてみたが、やはり理解不能。

それよりも、こうしたコメントは、多い。
「今日のあなたの文章力、20点」(いらぬお世話!)とか、「あなたも人生観を豊かにし
たほうがいい」(ご馳走さま!)とか、「あなたの言っていること、意味不明」(自分の読解
力はどうなのか?)とか、など。
いちいち気にしていたら、モノなど、書けない。
HPやBlogなど、公開できない。

しかしY・Blogのばあい、相手も会員登録していないと、こうしたコメントは書き込
めないはず。
仮に脅迫めいたコメントであれば、そのまま警察に届けることもできる。

しかし「バカめ……」では、それもできない。
まあ、この種のコメントは、無視、即、削除。
言うなれば、言葉のゴミ。


●今回から、9月号

この原稿から、マガジンの9月号用ということになる。
数日前、8月号最後のマガジンの配信登録をすませたところ。

9月……どんな月になるだろうか?
今年も残暑きびしい9月になるだろうか。
それとも涼しい9月になるだろうか。

何でも昨日(7月29日)のニュースによると、中国では、今年は冷夏とか。
エアコンの売れ行きが、極端に悪くなっているという。
私は冷夏のせいもあるが、それ以上に中国経済が悪化しているためではないかと思ってい
る。

で、今、気になっているのは、8月11日までに、「北朝鮮のテロ支援国指定」が、解除に
なるかどうかということ。
(9月までには、結果が。はっきりしていると思うが……。)
アメリカがどこまで妥協するかによって決まるが、同じく昨日のニュースによれば、「第三
段階」どころか、北朝鮮は、「第七段階……」「第八段階……」まで念頭に置いているとか。
さらに最終的には、北朝鮮は、北朝鮮を核保有国として認めさせ、アメリカと平和友好条
約を締結するところまで目ろんでいるとか(中国筋)。

まさにとんでもない話だが、ここまで北朝鮮を、図に乗らせたのは、C・ライス氏であり、
C・ヒル氏ということになる。
もちろん拉致問題など、闇のかなたに吹っ飛んでしまった。

ほかに北京オリンピックがあるが、日本の成績はあまり期待できそうにもない。
まあ、それもしかたない。
スポーツというのは、本来、楽しみながらするもの。
中国選手たちのように、命がけでするものではない。
その分、日本のほうが、おとなということ。


●雑感

今朝(7月30日)は、あれこれ雑感をまとめてみた。
枚数を見ると、ここで19ページ目。
毎回マガジンには、20ページ以上を載せることにしているので、あと1ページ。
一気にここまで書いたが、私の集中力もそろそろ限界。
ジリジリとした暑さが、伝わってくる。
頭の中が、ぼんやりとしてきた。

一休みしてから、最後の1ページを書いてみたい。
では、みなさん、おはようございます。
+ああ、楽しかった!
+ここまで目を通してくださって、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●孤独(Loneliness)&孤独論(About Loneliness)

+++++++++++++++++

孤独の恐ろしさは、それを経験した者でないと
わからない。
仏教の世界では、「無間地獄」ともいう。
つまり、地獄のひとつ。
地獄そのもの。
私もそう思う。

The terror of Loneliness is the one which could be understood only by those people who 
have experienced. In Buddhism world the loneliness is defined as the most terrible hell, 
to which I agree.

+++++++++++++++++

だれにも愛されない。
だれにも求められない。
だれにも相手にされない。

心を開いて話す相手もいない。
相談にのってくれる人もいない。
信じられる人もいない。

そこにポツンとたたずむのは、自分ひとりだけ。
まわりを見ても、そこにいるのは、
他人、そしてまた、他人。

+++++++++++++++++

孤独は無間地獄。
それを疑う人はいない。
あのイエス・キリストだって、孤独と闘ったという。
マザーテレサだって、孤独の恐ろしさを語っている。

言うなれば、生きるということは、孤独の連続。
その孤独と闘うことが、生きるということになる。
言い換えると、孤独こそが、私たちの真の敵ということになるし、その孤独に敗れたとき、
私たちの人生も、そこで終わる。

が、中には、「私は孤独ではない」と言う人もいるかもしれない。
しかしそういう人でも、そのほとんどは、今、そこにある孤独に気づかないまま、その日、
その日を、ごまかしながら生きているだけ。
孤独の意味すらわかっていない。

たとえば家族といっしょに旅行をする。
友といっしょに酒を飲んで騒ぐ。
ベッドの上で、裸になって抱きあう。

しかしそんな方法で、孤独を癒すことはできない。
孤独を忘れることはできるかもしれないが、孤独と決別することはできない。
孤独は、いつも私たちのそばにいて、私たちの心の隙間を、虎視眈々とねらっている。
そしてひとたび、あなたがそのワナにかかると、容赦なく、あなたに襲いかかってくる。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、人は、この孤独から解放されるのか。
その方法として、儒教では「仁」を説く。
仏教では、「慈悲」を説く。
キリスト教では、「愛」を説く。
それが何であれ、これだけは、確かである。

人は、ひとり、つまり孤独なままでは、生きていかれないということ。
孤独の火に焼かれるくらいなら、だれだって望んで死を選ぶだろう。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、私たちは、孤独から解放されるのか。
どうすれば、私たちは、真の自由を手にすることができるのか。

しかしその道は、遠い。
キリスト教でも、「真理=自由」であり、「自由=真理」であると説く。
私のような凡人が、ここらで逆立ちをして見せたところで、そんな真理にたどりつけるわ
けがない。
 
しかしこういうことは言える。

孤独を知ってはじめて、私たちは生きる目的を知る。
意味を知る。
孤独が人生の終わりを告げるのではなく、孤独が人生の入り口を教える。
孤独なら孤独でよい。
その恐ろしさを知ったら、つぎにそういう状況になったときのことを考えて、準備する。
それがそのまま生きる意味につながる。

私にしても、無数の親たちと出会い、同じ数だけの子どもたちと出会ってきた。
しかし今に残っている親や、子どもは、ほとんどいない。
ゼロと言ってもよい。
友にしてもそうだし、家族にしてもそうだ。
孤独を乾いた砂漠にたとえるなら、今まで私がしてきたことは、コップいっぱいの水にも
ならない。
そんな水で、どうして砂漠のような孤独を癒すことができるというのか。

「仁」とは、何か。
「慈悲」とは、何か。
「愛」とは、何か。

たとえば私のワイフにしても、息子たちにしても、私という夫や、私という親がもってい
るだろう「呪縛」から、解放してやることこそが、仁であり、慈悲であり、愛ではないの
か。

ワイフにしても、(ワイフは、それを望んでいないとは言うが)、私が離婚してやれば、ど
んなにか、気が楽になることだろう。
息子たちにしても、ひょっとしたら、私という(存在)がないほうが、よいのかもしれな
い。
私は亭主関白だし、それに、悪玉親意識も強い。

で、その引き換えに、私自身は無間地獄の中をさまようことになるが、それこそ、まさに
自業自得というもの。
結果、「死」という選択肢を選んだとしても、それもまた、まさに自業自得というもの。
そういう意味では、私は敗残者。
失敗者。
負け犬。

私は孤独というものが、いつもそこにあることを知りつつ、その孤独と闘うことすらして
こなかった。
ちょうど酒飲みが酒を飲んで、自分をごまかしてきたように、私は私で、その日の刹那的
な楽しみで、自分をごまかしてきた。

もっとひどいことに、そこに孤独な人がいるときでさえ、見て見ぬフリをしてきた。
ときにそういう人を、人生の失敗者をあざ笑った。

が、今、そのツケが、自分のところに回りつつある。
今度は、私がその孤独という無間地獄の中で、もがき、苦しみ始めている。
生きる目的さえ、見失い始めている。

そうでないというなら、いつか、(かならずその日はやってくるだろうが)、
たとえばワイフが先に死に、友たちが先に死に、さらに息子たちが私の手の届かないとこ
ろにいってしまったようなとき、私は、その孤独に耐えられるだろうか。

その答は、「NO!」。
私にはその孤独には、耐えられないだろう。
その自信も、ない。
まったく、ない。

そんな弱い私を、ゆいいつ支えてくれるものがあるとするなら、それが宗教ということに
なる。
が、今さらそれを信じたところで、神や仏は、こう言うにちがいない。

「今まで、さんざん、勝手なことをしておきながら、何を今さら!」と。

私は神や仏にすら、見放されている。
私のような人間を相手にする神や仏など、いるはずもない。

……ということで、私は、今日もがんばるしかない。
健康だし、頭のほうも、まだ何とか動いている。
「今日こそは、何かをしてみよう」と。
いつか襲いくる、孤独と立ち向かうために!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
孤独 孤独論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新生児の謎】

●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する

+++++++++++++++++

進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

+++++++++++++++++

胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり
抜けることができない。

だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。

胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬか
のどちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、そ
れは言えない。

たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって
決まる。(その反対でもよいが……)。

が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?

●頭を大きくするために

人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、
人工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。

水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。

この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることがで
きる。いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。

「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもっ
てしても、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方
法は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50〜100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふ
つうのこととしてなされるようになるかもしれない。

●2つの問題

が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。

ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然
分娩による出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。

「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。

もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。

脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなさ
れる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみ
せる。

つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たと
えば運動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。

これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。

●豊かな感情は人間の財産

人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?

豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成さ
れる。

しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。

が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行っ
ていることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによっ
て、親の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられて
きた。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。

母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」
という。

が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、
無理がある。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成
長する。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるの
が、自然である。

となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、で
きないということになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!

仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そうい
う子どもに対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感
ずることができるかどうかという問題もある。

母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情
を自覚する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。

こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうか
ということになると、あ・や・し・い。

●人間の脳

ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。

ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かで
はない。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、あ
りえない。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。

もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段
階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなか
ったものの、今から1万数千年前に、絶滅している。

●未熟化する新生児

仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。

が、ほかに方法がないわけではない。

胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法
である。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育て
る。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10
年、年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。

つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわか
る。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむ
ずかしい。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむず
かしくなる。

ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産
する。子どもは、うまく産道をくぐり抜ける。

が、疑問は、残る。

なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自
分で生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。

●進化論への疑問

ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」
と説く人もいる。

突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。

が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説
明できない進化」と説く学者も少なくない。

進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそ
うだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に
見る人間になった。

たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、3
50万年前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NET
WORK・生物史」)そうだ。

「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よく
よく考えてみればおかしいということになる。

そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説
である。

この説を説く学者も少なくない。

『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論につい
てこう述べています。

「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形にお
いても人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』
(指摘:「宇宙GOGO」HPより)と。

「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問について
も、未熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくは
ない。

そのだれかとは、だれか?

このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。

この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在すると
いうこになれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けた
ことがあるのではないかと考えても、おかしくない。

とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを
考えるなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。

(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 産道 胎児の大きさ 胎児
の頭 人間の脳)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ、お詫びと、警告】(My Aologizes and a Warning to my Readers)
This is a Warning Message to my Readers regarding on the UFO problems.
Here I receive a message from a friend of mine who lives in Australia
about the website, from which I quoted some informations on UFO's.

++++++++++++++++++++

●読者のみなさんへ、

ここ数日、UFO問題についての原稿を書いて
います。
その中で、私は、あるウェブサイトに載っていた、
いくつかの資料を、参考として引用しました。

そのウェブサイトについて、オーストラリアの
友人のDK氏より、つぎのような警告文が届きました。

+++++++++++++

Hiroshi,

This website is produced by the Rxxxxx religion which is a dangerous 
group. The leader is a Frenchman. Be careful of them.

ヒロシへ、

(君が引用している)このウェブサイトは、Rxxxxx 宗教と呼ばれる、
危険な団体です。リーダーは、フランス人です。彼らには注意しなさい。

+++++++++++++

UFO研究団体の多くは、宗教団体を形成し、それらの中には「カルト」と呼ばれる、狂
信的な団体もあります。

UFO問題を考えるときは、読者のみなさんも、この種のサイトには、くれぐれもご注意
ください。

私もあちこちのサイトから安易に引用したりするのを、今後、慎むことにします。
ここにおわび申し上げます。
すみませんでした。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司


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マガジン2008−10




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   31日号
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休みます。

今月は、通常の月より、発行回数が
1回多いので、雑感集をそのまま
送ります。

はやし浩司

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●不愉快な手紙

++++++++++++++++++

兄の49日の法要も無事すみ、葬儀に
参列してくれた人たちに、一品を添えて、
あいさつの手紙を出した。
「香典返し」というのである。
それについて、Fさんという女性(85歳
くらいか?)から、手紙が届いた。

++++++++++++++++++

Fさんという女性は、母の親しい友人であったらしい。
名前だけは、ときどき耳にした。
1、2度、会った記憶はあるが、顔までは思い浮かばない。
その女性から、香典返しに対して、返事が届いた。
が、その手紙を読んで、言いようのない不快感に包まれた。

いわく、
「お母さんを大切にしてあげてください」
「毎日でも、見舞いに行ってやってください」
「甘いものが好きだったようなので、〜〜を買ってあげてください」
「私は見舞いに行けませんので、かわりに行ってあげてください」
「くれぐれもよろしくお伝えください」
「私も介護で苦労したので、経験がありますが、あなたの姉さんは
たいへん苦労されましたよ」などなど。

一読すると、母のことを心配して、そう書いてきたようにもみえる。
姉のことをほめたたえているようにもみえる。
しかしその一方で、あたかも私が何もしていないかのようにも読める。
Fさんという女性は、私が地元にいないというだけで、そう思っているのだろう。
それはわかるが、親しい人からならともかくも、私はFさんという人を、ほとんど
知らない。
こういうのを、私たちの世界では、「内政干渉」という。
もう少し端的に言えば、「いらぬ節介」。

岐阜のあの地方では、こうした権威主義がいまだにのさばっている。
たった1〜2歳年上というだけで、年長風を吹かす人は、いくらでもいる。
相手が年下というだけで、平気で説教をしてくる。
Fさんにしても、友人の息子というだけで、「子分」か何かのように思っているのだろう。
が、どうもそれだけではないようだ。
私はその手紙を読んで、「ベタベタの依存性」を感じた。
反対に言えば、独立心の旺盛な人は、こういう手紙を書かない。
たとえ親しくても、こういう内政干渉はしない。

というのも、(依存性)や(独立心)には、双方向性がある。

よくある例が、依存性の強い子ども。
親は、「甘えん坊で困ります」とこぼすが、そういう甘えん坊にしているのは、親自身。
さらに言えば、自分自身が(甘えん坊)だから、子どもの依存性に気がつかない。
子どもの依存性に、どうしても甘くなる。
甘えてくる子どもに対して、表面的には、「いやね」「困っています」と言いながら、
そういう子どもを「いい子」「かわいい子」と許してしまう。
だから子どもはますます依存性をもつようになる。

さてFさんという女性。
私なりの返事を書こうと思ったが、やめた。
そういう女性を相手にしたところで、得るものは何もない。
それに母の友人は友人。
いろいろ世話になったのかもしれない。

が、一方、独立心の旺盛な人は、相手を、同じように独立した人とみる。
相手の立場を、独立した人として、尊重する。
たとえばこういうケースでも、「それぞれの家庭には、それぞれの事情があるのだろう」
とか、「それぞれの家の人は、それぞれにがんばっているのだろう」と考えて、それで
すます。

相手から相談でもあれば話は別だが、内政干渉など、もってのほか!

そうそう先日、ある冠婚葬祭についての本を読んでいたら、こんなことが書いて
あった。
「冠婚葬祭には、横ヤリはつきもの。
あれこれうるさく言ってくる人が、かならず1人や2人はいる。
しかし金(マネー)を出さない人の意見は、無視すればいい」と。

まったく、同感である。

だれだって口を出すことくらいなら、できる。
しかし金(マネー)を出す人は少ない。
ほとんど、いない。
だから私たちの世界では、こう言う。
『口を出すなら、金を出せ』と。
独立心の旺盛な人ほど、そう言う。
言い換えると、『金を出さないなら、黙っていろ』となる。

で、私は母に万が一のことがあっても、葬儀は質素なものにするつもりでいる。
「質素」ということは、「質素」。
費用を安くすますという意味ではない。
無駄な見えや体裁は、とりつくろわないという意味。
が、そういう葬儀をすると、干渉してくる人たちがいるはず。
すでに「親の葬儀は、借金をしてでも、(派手に)やれ」と言ってきた人がいる。
しかし私は、私。
喪主になるのは、私。
私は私のやり方でやる。

僧侶による読経については、すでに郷里の寺の住職に、こちらへ来てしてもらうよう、
頼んである。
住職も、こころよく承諾してくれた。
が、それ以上に、葬儀に、何が必要なのか。

「形」だけの人間関係には、もう、うんざり。
「形」だけの葬儀にも、もう、うんざり。
形だけ整えて、それをすませば、それでよいというのか。
人間の命は、もっと厳粛なもの。
日本の葬儀には、その(厳粛さ)そのものが、欠けている。
よく誤解されるが、派手な葬儀であればあるほどよいと考えるのは、バカげている。

Fさんという女性がどんな人か、実際のところ、私は知らない。
郷里では、たいへんな哲学者なのかもしれない。
しかし一片でも良識のある人なら、見知らぬ相手に対して、こんな手紙は書かない。
書けない。

私はワイフにこう言って、手紙を手紙入れにしまった。
「まあ、いいほうに解釈しよう。Fさんという女性は、心のやさしい人と」と。

もしFさん、あなたが、このエッセーを読んで不愉快に思ったら、こう思ってほしい。
あなたが不愉快に思った以上に、はやし浩司は、不愉快に思った、と。

(今日のこのエッセーは、少しきびしいかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●10月1日

今日から10月1日。
しかし数日前から、急に寒くなった。
で、さっそく私は長袖のシャツにセーターを着た。
それを見て、一人の女子中学生がこう言った。
「先生、もう、冬服を着ているの?」と。

見ると当人は、半そでのシャツ一枚で、ガタガタと震えているではないか。

私「あのなあ、寒かったら、セーターを着ればいいの」
女「でも、冬になったら、どうするの?」
私「この上に、革ジャンでも着ればいい」と。

実は、私は寒いのが苦手。
(最近は、暑いのも苦手になったが……。)
気温に応じて、季節にかまわず、衣服で体温を調整している。
「夏だから夏服」「冬だから冬服」と決めてかかるほうが、おかしい。

とは言っても、今日から10月1日。
日本では、「衣替えの日」と呼んでいる。
堂々と冬服が着られるのがうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●大恐慌

今朝の新聞の一面に、「(世界的な)大恐慌」という文字が並んでいた(中日新聞)。
銀行の連鎖倒産が始まり、つづいて企業の連鎖倒産、縮小、失業者の増大が始まる
という。
すでに不動産業界は、どしゃ降りの不景気。
しかし「待ったア!」。

「日本はだいじょうぶ」とまでは書けないが、「日本は、波はかぶるかもしれないが、
ズブ濡れにはならない」。
20年前にバブル経済が崩壊したときから、日本は、賢くなった。
昨年までアメリカや中国がバブル経済に踊ったときでも、日本だけは、「ミニ・バブル」
の範囲で、それを収めた。
現に今、ヨーロッパやロシアでも、大銀行がつぎつぎと国有化される中、いまだ、日本の
銀行で国有化の話が出ているのは、一行もない。

日本の借金も高額だが、しかし日本は、外国からは、金を借りていない。
借金といっても、親が息子や娘に借りるような、いわば身内の借金。
しかも政府には、1000兆円近い国有財産がある。
国民も1000兆円近い、金融財産をもっている。

では、なぜ今、アメリカの経済が、ころんだのか?
むずかしい話はさておき、そんなことは、アメリカの家を見ればすぐわかる。

アメリカでは銀行の中堅サラリーマンですら、日本では考えられないような大豪邸に
住んでいる。
映画『ホーム・アローン』に出てくるような、大豪邸である。
私もアメリカでそれを見たとき、こう思った。

「アメリカ人がこんないい生活できるのは、日本のような国が、せっこらせっこらと、
アメリカのドルを買い支えているからだ」と。

すでに10年近くも前から、アメリカのドル札は、紙くず同然になりつつあった。

一方、産業はどうか?
基本的には、アメリカの産業構造は、ブラジルの産業構造と同じとみてよい。
そのことも、アメリカのホテルに泊まってみると、よくわかる。
由緒ある、一流ホテルでもよい。

広い部屋に、豪華な調度品。
しかしよく見ると、アメリカ製のものは、何もない。
テレビは台湾製、電気器具類は中国製、毛布、シーツも中国製などなど。
かろうじて家具だけはアメリカ製だが、裏から見て、びっくり!
クロゼットにしても、表には豪華な彫刻(?)などがほどこしてあるが、裏から見ると、
ベニヤ板をたたきつけたよう。

それを見て私は、ワイフにこう言った。
「こんな家具は、日本だったら、売れないね」と。

アメリカがアメリカなのは、軍需産業(=軍事力)と映画産業、それにコンピュータの
ソフト産業があるからである。
それをのぞけば、ただの農業国。
そういう国が、基軸通貨であることをよいことに、双子の赤字をものともせず、ドル
紙幣を世界中にバラまいてきた。
その結果が今である。

ドルの価値が半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
その分だけ、日本の海外資産も半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
が、恐慌には巻き込まれない。
というのも、日本の銀行には、不良債権は、ほとんど残っていない。
個人負債もほとんどない。
心配なのは、証券会社などを通して海外投資をしてきた個人投資家たちである。
こういった人たちは、今年末までに、数10兆円近い損失を出すかもしれない。
しかしそれとて、少し言葉はきついが、自業自得。

ではどうするか?

この世界には、「ふんばり勝ち」という言葉がある。
最後までふんばったほうが、勝ち。
とりあえず、韓国には、自由主義貿易圏から退散してもらう。
つづいて中国にも、退散してもらう。
日本は最後の最後まで、手持ちの金融資産をしっかりと握り、ふんばる。
あとの結果は、世界に任せればよい。

日本は今回の「大恐慌」をきっかけに、世界の金融王国として、躍り出ればよい。
日本があえて手を出さなくても、そうなる。
(この意見は、少し過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●人間vs山猿

今日、山荘へ来てみたら、テレビのアンテナが、またまた折られていた。
雨どいも一か所、途中で、大きく横へゆがんでいた。
それに電話の電線を伝って移動しているらしく、途中の釘を刺した
ビニールが、横に垂れていた。

猿のしわざである。

このところの雨で、猿の足跡というか、手跡がベタベタとあちこちに
ついていた。
それをたどってみると、猿の動きは、こうだ。

まず裏山の方向からやってくる。
土手に積んだブロックの上から、一本の雨どいに飛びつく。
その雨どいを伝って、一度、屋根に上る。
その屋根からアンテナに飛び降り、そこから栗の木に登る。

「猿は頭がいいから、釘のあるところを避けて歩いている」と私。
「どうしようもないわね」とワイフ。

来年になったら、栗の木は切るつもり。
梨の木も切るつもり。
ビワもあぶないが、季節がちがうから、どうか?
それにビワの木は、山荘から、離れている。

人間vs山猿の戦いは、今日もつづく。

++++++++++++++++++++++++++++++

【正直こそ、最善】

●小ずるい人たち

大きな悪さはできない。
ふつうは善人として、通用する。
しかし小ずるい人は、小ずるい。

私は息子たちには、いつもこう言ってきた。
「ウソはつくな。ウソをつきたいときは、黙っていればいい」と。
いつだったか、昔、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。

もう少し踏み込んで言えば、こうなる。
これもそのオーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。

「聞かれるまで、本当のことは言わなくていい。
聞かれても、自分に都合の悪いことは、だまっていればいい」と。

で、こんなことがあった。
何かのことで、その友人が、私にとってつごうの悪いことをした。
そこで私が、「どうして君は、そのことをぼくに話してくれなかったのだ?」と
聞くと、その友人は、こう言った。
「君が聞かなかったから」と。

"Because you didn't ask me that"(君がそれを聞かなかったから)という英語が、
今でも耳の中にしっかりと残っている。

欧米人というのは、「ウソ」に対して、たいへん敏感に反応する。
一度のウソが、そのまま人間関係に終止符を打つこともある。
しかしこの日本では、ウソに寛大というか、さらに『ウソも方便』という
言葉さえある。
ときと場合によっては、ウソも許される、と。

そういうウソを積み重ねていると、やがてウソをウソとも思わなくなる。
以前、こんな人(男性)がいた。
何でも車をバックさせているとき、カーブミラーに車をぶつけてしまったらしい。
そこでその男性は、急いで、その場を逃げたという。

「林君、警察に見つかると、120万円だよ、120万円!」と。

カーブミラーの修理代(=罰金)は、120万円いう。
その男性は、そういう話を、あたかも自分の手柄のようにして話してくれた。
もちろん「悪いことをした」という意識はない。

私自身も、子どものころは、小ずるい子どもだった。
自分でも、それをよく覚えている。
たとえば道に、お金や財布が落ちていたら、すかさず、自分のものにしていた。
一度だけだが、隣の家から、小さな金属製のライターを盗んだこともある。
私が小学5年生くらいのときのことではなかったか。
が、そのライターはすぐ母に見つかってしまい、母がそれを返しに行った。

しかしウソはあまりつかなかった。
まわりの人たちが、みなウソつきだったから、かえってウソについて、嫌悪感を
覚えていたせいかもしれない。
前後の混乱期ということもあった。
ただ私の父は、場違いなほど、実直な人で、今にして思うと、父には感謝している。
バカ正直というか、ウソがつけない分だけ、商売は下手だったが、正直さの大切さは、
私は父から学んだ。

で、結婚してからまもなくのこと。
ワイフ自身も、こう言ったことがある。
「あなたの町では、何が本当で、何がウソか、よくわからないわね」と。

小ずるい人のウソには、つぎのような特徴がある。

(1)小悪を告白して、大悪を隠す。
(2)とぼけて、その場をごまかす。
(3)忙しいフリをして、話題をそらす。
(4)すかさず作り話をする。
(5)他人のウソには、おおげさに怒ってみせる。
(6)口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す。
(7)ことさら「自分は善良な人間である」という演技をする。
(8)自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる。

「小悪を告白して、大悪を隠す」というのは、どうでもよいようなささいな失敗を
告白して、「自分は正直な人間である」ということを強調する。
たとえば大きな花瓶を割っておきながら、別のところで、「ごめんなさいね、不注意で、
テーブルのお茶をこぼしてしまいました」などと言う。

「とぼけて、その場をごまかす」というのは、小ずるい人間の常套手段。
年齢が高くなると、ボケたふりをすることもある。

「忙しいフリをして、話題をそらす」というのは、その話題になりかけると、
動物的な勘で、その場から逃げる。
「あっ、お湯をわかしたままにしておいた。ちょっとごめん!」とか、など。

「すかさず作り話をする」というのは、このタイプの人は、実にうまい。
長い時間をかけて訓練しているから、ふつうの人にはマネできない。
もちろん自分を正当化するために、である。

「他人のウソには、おおげさに怒ってみせる」というのは、『泥棒の家ほど、戸締り
が厳重』ということわざに、相通ずるところがある。
自分は平気でウソをつくくせに、(つまり、それだけ相手のウソを見抜く目が肥えて
いる)、相手がウソをつくと、大げさに、それを怒ってみせたりする。

「口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す」というのは、ウソつきというのは、
ウソだけを言うのではない。
適当にウソに本当の話を混ぜ、相手を自分のペースに引き込んでいく。
その仕方が、うまい。

「ことさら自分は善良な人間であるという演技をする」というのは、自分の正体を
見破られないため。
「先日も、あることから人助けをさせられましてね……」とか何とか。
そういう話を大げさに誇張してみせたりする。
あるいは1、2度しかしていないにもかかわらず、毎週のようにボランティア活動を
しているような話し方をする。

「自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる」というのも、やはり自分の正体を
見破られないため。
日ごろからその相手の悪口を、それとなく言いふらし、その相手を悪人に仕立てる。
あるいは「自分は善良な人間だが、その相手には、ひどいめにあっている」などと、
大げさに言いふらしたりする。

で、先にも書いたように、私も、もともとは小ずるい人間だった。
だからこそ、今、他人の小ずるさが、よくわかる。
子どもでも、いつもカンニングしている子どもほど、ほかの子どものカンニングに
敏感。
それを私に告げ口したりする。
だから私は、そういうときは、すかさず、こう言い返すことにしている。
「ぼくはね、告げ口は、もっと嫌いだよ」と。……これは余談。

こうした小ずるさは、一度身につくと、それを消すことは容易なことではない。
年齢とともに、ますます小ずるさに磨き(?)がかかってくる。
さらにある年齢以上になると、それがそのままその人の人格の基盤になってしまう。
若いときには、気力で自分の小ずるさを隠すことができるが、その気力が弱く
なると、中身がそのまま表に出てきてしまう。
そして小ずるいことをしながら、それが小ずるいこととさえ思わなくなってしまう。
これがこわい。

第一に、小ずるいことを重ねていると、周囲の人たちが去っていく。
第二に、人生観に一貫性がなくなり、自分の生き様を定められなくなってしまう。

日常的にウソをついていると、そのつど、相手に応じて、つじつま合わせをしなければ
ならなくなる。
『記憶力がよくなければ、ウソをつくな』ともいう。
ウソをつくたびに、その内容を記憶していかねばならない。
でないと、やがてこんな会話をすることになる。

私「あなた、先日、自分でこう言ったでしょ」
相手「……?」
私「自分で、そう言ったではないですか?」
相手「そんなこと言ったかなア」と。

わかりやすく生きるためには、『正直こそ、最善(Honesty is the best Policy.)』。
最近、この格言のもつ意味が、ますます深くわかるようになった。
   

Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●1680x1050

+++++++++++++++++

今日、パソコンのモニターを買い替えた。
22インチの、1680x1050ドット。

とたんパソコンの世界が、2倍は広くなった。
錯覚か?
そんな感じがした。
今までは、19インチのモニターだった。
何かと手狭だった。

が、今は、ホームページを2つ並べても、まだ余裕がある。
ワード画面をその下に並べても、まだ余裕がある。

8年ほど前、どこかのデザイン事務所で、
この22インチのモニターを見たときは、ほんとうに
驚いた。
それが、今、それが自分の手元にある。

しかも値段は、当時の10分の1以下。
この世界は、日進月歩。
すごいことだ!

+++++++++++++++++

問題は、このパソコンを使って、何をするか、だ。
遊びに使うには、もったいない。
大画面を利用して、何かもっと、役にたつことをしたい。
ということで、早速、古い本を一冊、HPに収めてみた。
『クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論』である。

たまたまC新聞に記事を書いているときに発売されたということもあり、
この地方では、よく売れた。
(全国的には、さっぱりだったが……。)

あたかも2台のパソコンを並べたかのようにして
作業ができる。
しばし、画面の広さを楽しむ。
途中でワイフがお茶をもってやってきた。
画面を見て、同じような印象をもったらしい。
「すごいわね」と。

作業が終わったのが、午後11時ごろ。
興味のある人は、HPのトップ・ページから、
(立ち読みコーナー)へ、どうぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●電話

夜遅く、高校時代の友人のM君から電話。
1時間ほど、話す。
電話というと、1時間が基準になってしまった。
このところ何かと長電話が多くなった。

話題はM町の活性化問題から、パソコンまで。
ついでに松茸の話もした。
こうして話すのは、10年ぶりではないか。
話し出したとたん、高校時代の自分に戻るから
不思議である。

郷里のM町が、元気がないのは、さみしい。
先週も歩いてみたが、大通りにも人影はなかった。
「観光地といっても、みな、見ていくだけ。
お金を落とさないから、活性化にはならない」と。

彼は、パソコンは、「していない」そうだ。
「今は、パソコンの時代だよ」と言うと、
「オレは乗り遅れたみたい」と。

それぞれの人生。
それぞれの生き方。
この年齢になっても、みな、それぞれの生き方を
模索している。
すばらしい!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

【心のゆがみ】

●ゆがんだ思想

+++++++++++++++++

ものを書いていて、いちばんこわいのは、
ふと「自分の考えがゆがんでいないか」と
思うこと。

+++++++++++++++++

このことは、反対に子どもの意識を観察
してみるとわかる。

子どもによっては、小さな殻(から)に
閉じこもってしまい、不合理な思いこみをする
ことがある。

たいていは人間関係から生ずるストレスが
原因で、そうなる。

が、一度、小さな殻に入りこむと、その時から、
ものの考え方が、どこかいびつになってくる。
「人口の半分は、核兵器か何かでみな、
死ねばいい」とか、「ぼくは、火星へ移住する」とか
言い出す。

そういうとき私は、そうした不合理さに対しては、
ていねいに質問責めにすることによって、対処
することにしている。

私「核兵器で、君だって死ぬ可能性があるんだよ」
子「ぼくは、いい。地下室へ逃げる」
私「みんなも、地下室へ逃げようとするよ」
子「ぼくは、自分だけの地下室をつくる」
私「食べ物はどうするの?」……と。

こうした(療法)を、心理学の世界でも、
「認知行動療法」と呼んでいる。
不合理な考え方を、自ら気づかせ、それを是正して
いく。

が、それは子どもの世界の話。
私のようなおとなになると、第三者にそれをして
もらわなければならない。
が、それもできなければ、どうしたらよいのか?

それについては、「論理療法」というのがある。

つまりは「自分で考える」ということ。
常に論理的にものを考えるクセを身につける。
しかしそれにも限界がある。
では、どうするか?

私のばあい、たいへんラッキーなことに、毎日、
子どもたちと接する機会がある。
とくに幼児と接するのは、よい。
彼らはたとえて言うなら、まさに「天使」。
心にゆがみがない。
そういう子どもと接していると、接した瞬間、
自分の心が洗われていくように感ずる。
ゆがんだ思想が、そのまま是正されていく。
言うまでもなく、幼児の世界では、ウソやインチキは
通用しない。
ごまかしもきかない。
プラス、母親たちの監視つき(失礼!)。

私はよく「職場がストレス解消の場です」と
言うが、それはけっして誇張ではない。
このところ、それを強く感ずる。
というのも、私の年齢になると、不合理な考えを、
それを不合理とも思っていないような人が多くなる。
つまり思想的に偏(かたよ)りができ、偏屈になる。
(思想らしきものをもっている人は、まだよいほう
かもしれないが……。)

中には、過去をそのまま踏襲することが、「善」と
考えている人もいる。
この時代にあって、「先祖様」とか、「武士道」とか
言っている人は、たいていこのタイプの人と
考えてよい。

こうした考えがいかに不合理なものであるかは、
幼児に当てはめて考えてみるとわかる。
「君たちは、どこから来たの?」と聞くと、
「ぼくたちは、ママのおなかから生まれた」と
答える。

「ぼくは生まれた」という言い方に注目してほしい。
「ぼくは産んでもらった」とは、けっして、言わない。
それがものの考え方の、原点である。

武士道についても、そうだ。
あの封建時代の「負の部分」に目をくれることもなく、
一方的にそれを礼賛するのも、どうかと思う。
江戸時代においても、武士は、人口の5〜7%。
残りの大半は、農民。
私たちの祖先は、その武士に虐げられた農民に
すぎなかった。

どうして今、武士道なのか?

少し脱線したが、ものを書いていて、
いちばんこわいのは、
ふと「自分の考えがゆがんでいないか」と
思うこと。

とたん、キーボードを叩く指が止まってしまう。
ゆがんだ考えなど、いくら書いても、社会の
害になることはあっても、役にたつことは
何もない。

それこそ時間の無駄。
人生の無駄。
だからものを書く。
書きながら、考える。
言うなれば、私は毎日、自分で自分を論理療法
していることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 認知療法 論理療法 認知
行動療法)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●適応障害

++++++++++++++++++

適応障害というと、何も、子どもの世界だけの
問題ではない。
おとなの世界にもある。

++++++++++++++++++

社会や環境にうまく適応できないと、そこで適応障害を起こす。
その前段階として、(1)欲求不満や葛藤を繰りかえす。
グチや取り越し苦労が多くなる。

ある女性は、認知症ぎみの実兄の世話を始めたとたん、適応障害を
起こしてしまった。
毎晩のようにあちこちに電話をかけ、ときにギャーギャーと
泣きわめきながら、自分の苦労(=グチ)を話しつづけた。
視野が極端に狭くなるのも、特徴のひとつ。
相手の都合など、まったく構わない。

こうした行動を総称して、「防衛機制」という。
自分の心の崩壊を防ぐための心的反応と考えるとわかりやすい。
たとえばそれらの中には、

(1)抑圧
(2)同一化
(3)代償
(4)補償
(5)合理化
(6)投射
(7)逃避
(8)退行
(9)昇華(「臨床心理学」・松原達哉著)がある。

相手かまわずグチをこぼすというのは、(攻撃的な防衛機制)ということになる。
その女性のばあいは、遠くに住む実弟を責めつづけた。
その実弟氏はこう言った。
「姉からの電話というだけで、手が震えるようになりました。
ギャーギャーと一方的に泣きわめくだけで、会話にはなりませんでした。
そういう電話が1〜2週間ごとにかかってきました」と。

この段階で対処のし方をまちがえると、そのまま何らかの精神障害を
負うことになる。
その女性にばあいは、やがてすぐ心療内科で、うつ病と診断された。

が、それも一巡すると、身体的な不調を訴えるようになる。
一連の神経症はこうして発症するが、神経症には定型がない。
「おかしな症状?」と感じたら、神経症を疑ってみるのがよい。

で、こうした問題が起きたら、原因となっている要因を排除するのが
よいのだが、それで問題が解決するとはかぎらない。

というのも、適応障害というのは、それ以前の段階で、心の病気と
深くからんでいることが多いからである。

たとえば不登校児を例にあげて考えてみる。
「A君がいじめるから、学校へ行きたくない」とある子どもが言ったとする。
親は、「不登校になった原因は、A君」と考える。
そして学校と相談して、クラスを替えをしてもらったり、A君を近くから排除
してもらったりする。
が、しばらくすると今度は、「B先生がこわい」とか、言い出す。

こうした現象を私は勝手に、『ターゲットの移動』と呼んでいる。
その子どもは自分の心を安定させるために、学校へ行きたくないのだ。
その口実に、A君の名前をあげたり、B先生の名前をあげたりする。
不登校という一見、不適応症状を示しながら、実は、学校へ行かないことで、
自分を社会に適応させようとしている。

つまり適応症状といっても、(1)継続性のものと、(2)非継続性の
ものがある。

継続性のものとなると、たとえその問題が解決したとしても、今度は別の
問題をもちだし、それについて悶々と悩んだり、苦しんだりする。
本来なら、つまり少しだけ視野を高くもてば何でもない問題はずなのに、
それを大げさに悩んだり、苦しんだりする。

ここにあげた女性のばあい、実兄が廊下で便をもらしただけで、パニック
状態になってしまったという。
そして即座に実兄に電話を入れ、「あんたがめんどうをみないから、こうなる」
と泣きわめいたという。

あとになってその実弟氏は、私にこう言った。
「ぼくの家では、家の中で2匹の犬を飼っている。いつも廊下でウンチを
するから、ぼくなら、それほど気にしないのに。
それでぼくが姉に、『犬のウンチと思えばいいのでは』と言ったら、姉は、
烈火のごとく怒りだしてしまった」と。

そこで費用は全額実弟氏もちということで、その女性は、実兄をグループホームへ
入れた。
が、今度は、そこでも……!

というようなことを繰りかえす。
つまり何らかの精神障害が基盤にあって、それから発生するもろもろの症状が、
あたかも泡のように表面にそのつど浮かんでくる。
継続性の適応障害というのは、そういうものをいう。

では、どうするか?

『文化性は、心の予防薬』と考えるのがよい。

ふだん、何ごともないようなときに、心を豊かにし、充実させていく。
音楽を聴くのもよし、美術館に足を運ぶのもよし。
本を読んだり、DVDを楽しむのよし。
こうして自分の文化性を高めていく。

だれしも、いつか、どこかで、いろいろな問題にぶつかる。
その問題にぶつかったとき、文化性の高い人は、そうした問題を、うまく処理できる。
心へのダメージを最小限に抑えることができる。
そうでない人は、そうでない。
自分の小さな殻(から)に閉じこもってしまい、そこから一歩も出られなくなってしまう。

とくに子育ても一段落したら、そうする。
そうでなくても、老後は、そうした問題が、あたかも打ち寄せる波のようにやってくる。
つぎつぎ、とだ。

だから『心の予防薬』が必要ということになる。

……ということで、今朝は、少し時間があるので、ワイフと佐鳴湖を一周してみる。
久しぶりに雨もあがり、気分は爽快!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 適応障害 防衛機制 不適
応 不登校)

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では、また11月号で
お会いしましょう!!!

バ〜〜〜イ!












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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   29日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●留学生斡旋会社倒産

どこかの留学生斡旋会社が倒産した。
かなりずさんな会社だったらしい。
が、その費用を見て、びっくり!
まさに「詐欺」!

自分でインターネットを使って申し込めば、
原則として、入学の申し込みは、ただでできる。
大学付属の語学校にしても、無試験が原則。
(もちろん渡航費、学費、滞在費は別だが……。)
それを手続き代と称して、100〜150万円程度もの費用を
取っていた!

入学許可がおりれば、下宿先などは、
たいてい大学のほうで、世話をしてくれる。
費用は実費。

どうしてみなさん、こんなインチキ会社に
ひかかるのだろう。

念のため、自分でできる方法をここに書いておく。

(1)大学の情報を集める。
語学校(Language Institute)の情報を集める。
インターネットを使って調べれば、瞬時にできる。

(2)入学申込書(願書)があるので、それに必要事項を書き込む。

(3)入学許可書が届いたら、大使館へ学生ビザを申請する。
(これも最近ではすべて、インターネットを介してできる。)

(4)その前後に、大学へ直接、学費の振り込みをする。

(5)入学許可書には、たいてい下宿の申込書、あるいは寮の申込書が
添付されているので、希望に応じて、それに申し込む。

(6)あとは航空チケットを購入。
オーストラリアやニュージーランドのばあいは、大学の係員が、空港まで
出迎えてくれる。もちろん無料!

こんな簡単な手続きのために、100〜150万円だと!
「詐欺」という意味が、これでわかってもらえた思う。

(注意)
よく高校前の電柱などに、「海外留学〜〜説明会」とかいう張り紙がしてあるのを
見かける。
しかしああいうのには、顔を出してはいけない。
たいてい会場は、フカフカのジュータンが敷き詰められた、高級ホテル。
会場へ入ると、甘いコーヒーの香りと、静かな音楽。

ピカピカのスーツを着た男女が、にこやかに立っている。

そういう雰囲気で説明会は始まるが、すでにそのとき、集まった人たちは、
催眠術でもかけられたような状態になっている。
あとはインチキ会社の思うがまま。
100〜150万円のインチキ契約に、サインをしてしまう。

自分で入学申込書も書けないような学生は、海外留学など考えないこと。
もとから「無理」。
留学しても、遊ぶだけ。
もしあなたの子どもが、「留学したい」とでも言ったら、あなたはこう言えばよい。
「手続きは、すべて自分でしなさい。それができなければ、留学はあきらめなさい」と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●息子が帰ってくる!

++++++++++++++++

10月のはじめ、三男がアメリカから
帰ってくる。
NAPAでの6か月の訓練を終えて、
帰ってくる。
「パパとママを旅行に連れていってやる」と
言ってくれた。
うれしかった。
「飛行機はだめだよ」と私が言うと、
「国内にするよ」と。

1か月半の休暇がもらえるという。
それがすむと、いよいよ大型機の
操縦訓練。
訓練機は、ボーイング777。
通称、「トリプル・セブン」と呼ばれている。
J社の中でも最新鋭機。

やることなすこと、都会的なのだが、
旅行だけは、純和風の温泉へ行きたがる。
おもしろい息子だ。

ところで、みなさん、飛行機だけは、
JALに乗ったほうがよい。
国によって、訓練のし方そのものが、ちがう。
国によっては、空軍のパイロットが、そのまま
民間航空会社のパイロットになったりする。

C国のように、計器飛行のライセンスをもっていない
パイロットが、堂々と、国際線の飛行機を操縦して
いるというケースもある。
(だから夜間飛行ができない。数年前、韓国の
釜山で着陸に失敗した飛行機が、その一例。)

が、JALは、ちがう!
訓練のきびしさが、ちがう!
息子もいつも、口癖のようにそう言っている。

「国内線はともかくも、国際線は、JALにかなう
国はない」と。
つまりそれくらいパイロットの訓練が、徹底している。

+++++++++++++++

●6か国協議

●おバカHILL、行状記(Be ashamed, Mr. C. Hill!)
C.Hill will come to North Korea soon, but what for? He has been cheated and ignored by 
the North Korean Government in these 4 years, only giving them money, oil, food, music 
and time. In the meanwhile North Korea might have developed nuclear weapons more 
and we are afraid some of our kidnapped Japanese might have already passed away. 
Why does he go to North Korea now? The reason is quite clear. He wants to sell himself 
as a negotiator to the next USA government, saying "I am the only one who can talk 
with the high-officials of North Korea". We know he knows nothing about Asia. Mr. 
Bush should know this. The next President of USA should know this.

+++++++++++++++

アメリカのC・Hill国務次官補が、
9月29日、K国に向かうことになった。
今までの言動に、何ら責任を取ることもなく……。

+++++++++++++++

拉致問題では、逆に日本を脅迫。
「拉致問題を一時棚上げにし、K国援助に加われ。
さもなければ、K国のテロ支援国家指定を解除する」と。

これに対して日本が「NO!」と答えると、
C・Hill国務次官補は、本気でテロ支援国家
指定解除に動いてしまった。

が、何といっても最大の裏切り行為は、6か国協議を、
米朝2か国協議にすり替えてしまったこと。
自らを、国際外交の大スターに仕立てるためか(?)。
が、すべてが裏目、また裏目。

先週、K国の国連代表はこう言い出した。
「6か国協議で決まったわけではないので、K国は
約束を守る義務はない」と。
(「6か国」と、たくみに、6か国協議を利用している
点に注目。)

インターネットに配信されているニュースなどを
読むと、K国は、ここ1、2週間のうちに、
N−ビョンの核開発関連施設を、再稼働させるつもり
らしい。
つまりすべてが、白紙に逆戻り!
6年前に、逆戻り!

結局、この4年間の間にC・Hillがしたことは、
K国に、金と原油と食糧と音楽、それに「時間」を
与えただけ。
この間に、拉致被害者の方の中には、亡くなった人も
いるかもしれない。
K国の核兵器開発は、さらに進んだはず。
CIAの元長官ですら、「K国は小型核の開発に
成功しているはず」(08年9月)と述べている。

いいかげんに目を覚ませ、C・Hill!
アジアの「ア」の字も知らない、ド素人外交官!
口にするのは、根拠のない希望的観測ばかり。

追いつめられたC・Hillのつぎの一手は、
K国への直談判。
NIKKEI−NETは、つぎのように、
伝える。

『(9月)29日に米国を出発。30日に韓国で同国首席代表の金塾(キム・スク)外交通商
省朝鮮半島平和交渉本部長と協議した後、訪朝する見通し。北朝鮮が北西部寧辺(ニョン
ビョン)の核施設の復旧に動くなか、米朝の直接交渉で事態打開を狙う』と。

今ごろ、K国へ行って、どうする?
何が変わる?

C・Hillの訪朝意図は見え見え。
自分のクビを次期政権につなげること。
「K国と交渉できるのは私だけ」と。
つまり次期政権への、自分の(売り込み)。

恥を知れ、C・Hill!

【アジア人の特性】

●物活論

幼児の世界には、「物活論」というよく知られた心理的現象がある。
物活論というのは、「ありとあらゆるものが生きている」と考える心理状態をいう。
たとえば風にそよぐカーテンを見ても、それを生きていると考える。
空に浮かぶ雲も、それを生きていると考える。

つまり「物」に、「心」を注入する。
そしてその「物」に、「命」があると考え、その「物」に自分の「命」を代用させる。

が、この物活論は、成長とともに修正される。
「物」と「命」を区別できるようになる。

が、悲しいかな、物活論がそのままおとなになっても、残ることがある。
たとえば日本の仏教には、その傾向が著しい。
仏像に「魂?」を吹きこみ、それを「仏そのもの」と思いこんでしまう、など。
極端なケースになると、『イワシの頭も信心から』となる。
(釈迦自身は、自分に似せて仏像を作って拝むなと強く戒めているのだが……法句経。)

この傾向は、西洋人よりはるかに強い。
つまりその分だけ、アジア人は、精神的に幼稚性が残っているということにもなるが、
それはさておき、仏教の世界でいう、「本尊」には、そういう意味がこめられている。
「物」でしかない「本尊」を、「生きている仏」と思いこむことで、自らの信仰性を支える。

現在のK国、なかんずく金xxにとっては、核兵器そのものが、本尊。
本尊あっての、金xx。
最初から戦略的に核兵器を放棄する意図など、金xxには、みじんもなかった。
最近の情報によれば、すでに金日成の時代から、K国は、地下工場で核兵器の開発を
進めていたとされる。

その本尊を、金xxが、そうは簡単に放棄するはずがない。
ないことは、アジア人の私には、それがわかる。
しかしC・Hillには、それがわからない。
だからド素人!

ついでに物活論について……。

●乳幼児の心理

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られ
た心理的特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きてい
ると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考
える心理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを
念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別が
できない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつ
くられたと考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月
を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工
論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されて
いく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには
青年期を迎えることがある。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●夜の散歩

+++++++++++++++++++++

このところ、やや運動不足。
風邪の症状も治まったので、ワイフと散歩に出かける。
コースは、一度バイパスに出て、コンビニに寄る。
そこから大通りに沿って佐鳴湖へ。

距離にして、5キロくらいか。
私はハナ(犬)のロープを左手に、懐中電灯を右手に。
ワイフは、バッグと傘。
出かけるとき、パラパラと小雨が降り出した。

++++++++++++++++++++

●楽しみ

「楽しみ」とは何かと問われれば、私は「生きているという実感」と答える。
もう少しシニカル(皮肉ぽく)な答え方をすれば、「死の恐怖のない自由」ということ
になる。
「生きている」という感覚は、「死の恐怖」の裏返しとして実感できる。
言い換えると、死の恐怖を感じないだけでも御の字。
感謝しなければならない。
喜ばなければならない。
あるいは、それ以上の「楽しみ」はあるのか。

もちろん健康であれば、さらによし。
足が動く。
息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。

あとはその「楽しみ」を、どう使うか。
というのも、この「楽しみ」には、限界がある。
時間という限界である。
今の状態が10年つづくという保証は、どこにもない。
が、30年は、ぜったいに、つづかない。
つまり「時(とき)」そのものが、貴重な財産。
刻一刻と、砂時計の砂が下へ落ちていくように、「時」は、減っていく。

「楽しむ」といっても、そういう「時」を無駄には使いたくない。
いや、無駄に使っても、そのあとに残るのは、空しさだけ。
ときに「しまった!」と思うことさえある。

が、今夜の散歩は、楽しかった。
あちこちの記念碑を見たり、通りの看板を読んだり……。
閉店して静まりかえった店の中も、のぞいた。
それぞれの場所で、それぞれの人たちの(思い)を感ずることができた。

家に着くころには、ワイフは、「足が痛い」と言い、私は「背中に汗をかいた」と
言った。
ひんやりとした湿った冷気が、気持ちよかった。
つまりその実感こそが、「楽しみ」ということになる。
「生きているという実感」ということになる。

そうそう、たった今、ハナが牛乳をせがんだので、それを少し分けてやった。


●母の生きがい

毎晩、7〜8時ごろ、センターから電話がかかってくる。
朝のときもある。
そのときどき、母を介護する看護士さんや、介護士さんから、母の状態を知らせて
くれる。
先ほどもあった。

母の状態は、一進一退というところか。
危篤と安定を、3〜4日ごとに繰り返している。
そのつど、センターへかけつけたり、ほっとしたりしている。

ほかにとくに病気らしい病気のない母だから、人によっては、「100歳まで
生きられそうですね」と言う人もいる。
しかし体重のほうは、毎月のように減っている。
今では小学生のよう。
小学生といっても、小学3〜4年生の子どものよう。

昨日も食事が喉を通らなかったということで、点滴で、それをすました。
そういう母の心を思いやる。
「どんな気持ちだろう?」と。

もし母に、自分の境涯を理解できる能力がじゅうぶんあったなら、母は、きっと
自分の境涯をのろうにちがいない。
毎日、毎晩が、孤独との闘い。
生きる目的も希望もなく、また動くこともできず、ベッドの上に横たわっているだけ。

ただ幸いなことに、(それを幸いと表現してよいものかどうかはわからないが)、母には
今の境涯を理解するだけの能力はないと思う。
認知症に合わせて、脳梗塞も起こしている。
面会に行っても、毎回、ほとんど眠ったままの状態。

私は率直に言えば、母というよりは、そういう母を介護してくれる介護士さんのほうに、
頭がさがる。
介護士さんが介護してくれるおかげで、私とワイフは、自由な時間を楽しむことができる。
いや、それとて、自分で母を介護してみて、わかったこと。
老人の介護というのは、ほんとうにたいへん。
母が家にいるときは、毎日、1時間とて、気が抜けることはなかった。
事故も重なった。

もしあのまま母が私の家にいたとしたら、母は、去年のうちに他界していただろう。
だからこそ、介護士さんには、よけいに頭がさがる。

私には今の母の心を読むことはできない。
ないが、今、生きているということが、母の強い意思だと思う。
思うから、生きている以上は、どこまでも生きていてほしい。

私と母の間には、いろいろあったが、今ではそのわだかまりも、消えた。
ベッドの上で横たわっている母は、どこまでも、そしてどこまでもやさしい、
あの慈愛に満ちた母でしかない。

明日は、午前中に、少し時間があいているので、見舞いに行くつもり。
母ちゃん、ありがとう。
そしてがんばれ!
これからも、いっしょに生きていこう!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●韓国・9月危機が現実に!(September Crisis in South Korea)

++++++++++++++

9月29日。

今朝は、雨。
小雨。
木々の小枝を揺らすこともなく、
静かな雨が降っている。

こういうときというのは、
何かと人恋しい。
そっと冷めたお茶を飲む。
天井を見上げる。

どこかでスズメが鳴いた。
その声で、ふと我に返る。
今日も始まった。
今週も始まった。

++++++++++++++

●70兆円!

アメリカ政府は、不良債権を買い取るために、
70兆円規模の公的資金を投入することにしたという。

その点、アメリカは強い。
だれに遠慮することもなく、ドル紙幣を印刷する
ことができる。
印刷機を自由に、回すことができる。

世界中が、ドル札でジャブジャブになったところで、
アメリカの知ったことではない。
もともとあの国は、自分勝手。
無責任。

が、この日本も動き出した。
今まで、日本は、ためこんだドルを、使うことも
できなかった。
アメリカのドルを買い支えるため、せっこらせっこら
とドルをためこんできた。

ずいぶんと前の話だが、橋本総理大臣の時代に、
橋本総理大臣が、「手持ちのドルを5%だけ、他の通貨に
替える」と言っただけで、アメリカ政府はそれに
対して大激怒。
結果的に、橋本総理大臣のクビは、それが原因で
吹っ飛んでしまった。

が、今は、そのドルを堂々と使うことができる。
使って、瀕死状態のアメリカの銀行や証券会社の
買収に乗り出した。
今度ばかりは、アメリカ政府も、文句は言えまい。

しかし70兆円で足りるのか?
日本政府は、日本のバブル経済が崩壊したとき、
数年にわたって、30兆円規模の公的資金を市場に
投入した。

皮肉なことに、公的資金の投入に、もっとも強硬に
反対したのが、アメリカ。
そのアメリカが日本にならって、日本がしたのと
同じことをしている。

今朝の株価は、にもかかわらず、あまりパッとしない?
プラス110円程度の上昇。
やはり70兆円程度では、力不足?

が、同じ為替でも、韓国の通貨があぶない。
選手末、1ドル=1160ウォン前後だった
ウォンが、今朝(9・29)は1172ウォン!
これが1200ウォン程度までにさがれば、
約70%の中小企業は倒産すると言われている。
『中小企業中央会は、ウォン相場が対ドルで、
10ウォン下落するごとに損失が1000億ウォン
(約91億円)膨らむと推定している』(中央N報)と。

ウォンを買い支える外資も、今月中、底をついたはず。

日本の知ったことではないが、目が離せない。

(注:午前9:00に、1ドル=1170ウォンだった
為替相場が、午前9:30には、1180ウォンにまで、
さらにさがった。「9月危機」が、いよいよ現実になってきた!)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●小型ヘリコプター

+++++++++++++++++++++

少し前から、おもちゃの小型ヘリコプター
に凝っている。
現在、7〜8機、もっている。
値段は、2000〜8000円前後。
今日も、1機、買った。
3チャンネル仕様のもので、結構、重量感がある。
「重量感がある」というのは、この種のおもちゃにしては、
重いということ。
値段は、12000円だった。

(3チャンネル仕様というのは、上昇・下降、
左右旋回、前進・後進の、3つの動きをコントロール
できるという意味。)

++++++++++++++++++

若いころは、ラジコンの飛行機やヘリコプターを
よく飛ばした。
しかし当時は、(今もそうだが)、値段も高く、
それに操作が難しかった。
たいてい3、4回も飛ばすと、墜落。
そのまましばらくどこかに飾ったあと、
ゴミになったりした。

が、昨年くらいから、手のひらに載るような
小さなヘリコプターが発売されるようになった。
とたん、私は、小型ヘリコプターにとりつかれて
しまった。

部屋の中で、気軽に飛ばせるのが、よい。
ふと気が向いたようなとき、飛ばせるのも、よい。
ただしラジコンといっても、きめのこまかい操作は
できない。
スイッチONで、突然、ビューンと舞いあがったりする。
OFFにしたとたん、そのまま墜落。
が、慣れてくると、ヘリコプターのもつクセを
うまく利用して、部屋の中を自由に旋回させるようなことが
できるようになる。

結構、この世界も、奥が深い。

もちろんきめのこまかい操作のできるのも、ある。
デジタル・プロポーショナルというプロポ(送受信機)
付きというのが、それである。

今日買ったのは、そのデジタル・プロポーショナル付き。
目下、充電中で、まだ飛ばしてないが、楽しみだ。

そう言えば、何かの雑誌に、「団塊の世代には、小型ヘリ
に凝っている人が多い」と書いてあった。
私もその1人。
なぜか?

ひとつには、私たちの世代は、ほかの世代とくらべて、
空へのあこがれが強いということがある。
小、中、高校時代、私たちはいつもどこかに、大きな
圧迫感を覚えていた。
といっても、それを自覚していたわけではない。
息苦しいのが当たり前で、その息苦しさそのものが、
よくわからなかった。
もがいていることも知らず、ただひたすら、その中で、
もがいていた。

「自由になりたい」というばく然とした思いが、
「空へのあこがれ」へと変化していったのではないか。

が、この状態は、社会へ出てからも変わらなかった。
「企業戦士」「猛烈社員」ともてはやされて、ただひたすら、かつ、
がむしゃらに、あの高度成長期という時代を生き抜いた。
それこそ、遊ぶ時間も惜しんで、仕事に励んだ。

いや、それとて今になってわかること。
当時の私たちは、「遊ぶ時間も惜しんで」という意識もないまま、
それを当たり前のこととし、家族を犠牲にし、自分の
時間を犠牲にして、働いた。

しかしその意識、つまり犠牲にしたという意識も、あまりなかった。
が、こんなことはあった。
欧米人が、たとえば1〜2か月も夏休み(バカンス)を
とると聞いたときのこと。
「あいつらバカじゃないか」と思ったことがある。
「1〜2か月も休んで、仕事はどうするのだ」と。

意識というのは相対的なもので、私がそう思ったという
ことは、同時に、私たちの意識が、欧米人の反対側にあった
ということになる。

しかし本当にバカだったのは、どちらだったのか?
今になってみると、ひょっとしたら私たちのほうが
バカだったかもしれない。

それを認めるのはつらいことだが、悪いことばかりでもなかった。
まだ私など、余裕のあるほうだった。
そのつどいろいろな趣味をもって、それを楽しむことができた。
先に書いたように、ラジコンの飛行機も飛ばしたし、
ヘリコプターも飛ばした。

で、今は、小型のヘリコプターを無心になって飛ばす。
ガチャンと墜落して、ひっくり返ったのを見て、
あわててかけつける。
傷んでないことをたしかめながら、またそっと、
空にそれを浮かす。。
それを見て、ほっとする。

私たちの世代に欠けていたものといえば、そういう
(バカを楽しむ心)ではなかったか。
今にしてみると、それがよくわかる。

小型のヘリコプターを飛ばしながら、別の心で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●欲もほどほどに

++++++++++++++++++

今月は、土地の売買について、大きな
動きが2つあった。

ひとつは、小さな土地を売ったこと。
もう一つは、30年ほど前に買った山林を、
売りに出したこと。

小さな土地については、坪5万円という、まあ今の
相場感覚からすれば信じられないほど安い値段で売った。
もちろん宅地である。

「売った」というより、「早く縁を切りたかった」。
それでその値段で売った。

もうひとつのほうの山林は、ある知人にだまされて
買った。
当時ですら、相場の10倍。
今売っても、当時の値段の、6分の1にもならない。
あるいはそれ以下。
一言、「(だまして)すまなかった」と言って
くれれば、私も救われるが、本人には
その意識はない(?)。

「山は値段ではない」とか、「オレを信じろ」とか、
勝手なことを言っている。

昔から山師というのは、そういうもの。
詐欺師の代名詞にもなっている。

よく調べもせず買った私が、バカだった。

が、この世界には、損得は、つきもの。
損得を通して、人は何かを失い、何かを得る。
ただ誤解してはいけないことは、損をしたからといって、
何かを失うということではない。
得をしたからといって、何かを得るということでもない。

坪5万円だったが、おかげで私は、その土地のもつ
呪縛感から解放された。
気が楽になった。
一方、私をだましたその知人は、そのあと定職にもつかず、
貧乏の底をはうような生活をつづけている。
一方、高い授業料だったが、私はそれで少しは賢くなった。

ワイフはこう言う。
「死ぬまでに、少しずつ、処分していきましょう」と。
どうせ死ねば、この宇宙もろとも、私は消える。
「財産」というものがあるなら、まだ元気なうちに、
有効にそれを使ったほうがよい。
損か、得かということになれば、健康で、楽しくすごせる
ことにまさる「得」はない。
言いかえると、損をするほどの財産があったというだけでも、
もうけもの。
何もない人は、もとから損など、しない。
損から、得るものもなければ、学ぶものもない。

さらに言えば、他人をだまして得をしたような人は、
所詮、その程度の人間。
その程度の人生で、終わる。
人に軽んじられ、だれからも相手にされない。

そのほうが、よほど損だと私は思うが、恐らく、そのタイプの
人間には、それすら気がつかないだろう。
どこまでもあわれで、かわいそうな人間である。

……そう、私の財産。
それは今の、幸福な家庭ということになる。
心底、私を理解してくれるワイフ。
授産施設で、指導員として生き生きと働く長男。
アメリカに移住し、大学のコンピュータ技師として働く二男。
空が好きで好きでたまらない三男。
それにすくすくと育っている2人の孫。

それにまさる財産が、ほかのどこにある。

……とまあ、そう言いきかせながら、自分を納得させる。

『欲多ければ身をそこなひ、財(たから)多ければ身をわづらはす』(老子・
「浮世物語」)という。

欲もほどほどに、財産もほどほどに、ということか?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●今朝のニュースから

●金融安定化法案否決

アメリカの下院は、7000億ドルの金融安定化法案、つまり
公的資金投入法案を否決した(9月29日)。
結果、アメリカのダウ工業株30種平均が、777ドルも
さがった。
ブッシュ大統領は、再採決をもくろんでいるが、再度否決
されたら、アメリカどころではない。
世界経済は、ほんとうに奈落の底に転落してしまう。

わかりやすく言えば、現在、「経済」の世界では、世界大戦
規模の「戦争」が起きているということ。
「私には関係ない」なんて思っていると、たいへんなことに
なる。
「経済」のこわいところは、「様子見」などと、のんびり
構えていると、あっという間に、動いてしまうこと。
日本でも取り付け騒ぎが起きるのは、時間の問題と考えてよい。

この際、現金化できる預金などは、できるだけ早く現金化して
おいたほうがよい。

とくに証券会社の窓口の女性の言葉は、ぜったいに信用しないこと。
「だいじょうぶです」と言ったら、「あぶない」という意味。
「安全です」と言ったら、「危険です」という意味。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●1ドル=1224ウォン!(9月30日、午前9:30現在)

7000億ドルの金融安定化法案が否決された。
その動きを受けて、アメリカドルは、世界的に全面安。
各国通貨は、値をあげた。

現在日本円は、1ドル=104円。

が、ひとり韓国の通貨だけは、ウォン安。
現在韓国ウォンは、1ドル=1224ウォン!

アメリカのドルも売られているが、それ以上の勢いで、韓国ウォンが、猛烈に
売られている。
「1224」という数字は、そういう数字である。

まだはっきりとした数字は出てこないが、韓国銀行の手持ち外貨は、すでに
底をついているはず。
これ以上、為替相場に介入したら、年末の借金が返せなくなってしまう。
なすすべもない。
指をくわえて、見ているだけ。

そのため危機ラインと言われていた、1200ウォンをあっさりと、超えて
しまった。

ゆいいつの救いは、日銀が、市中へのドル資産の大放出を決めたこと(9月29日)。
韓国経済救済のためというわけではないが、これによって、韓国経済は、
何とか生き延びられるはず。
(あるいは、それも無理かも? 9月危機の結果は、今夕までにわかる。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2838)

●鍋料理

+++++++++++++

私は若いころ、鍋料理が嫌いだった。
ああいうのは、老人食と思っていた。
が、ここ10年(あるいは20年かな?)、
鍋料理が好きになった。
とくに今夜のように肌寒い夜は、ありがたい。

ワイフと私が鍋をつつき始めていると、
息子が仕事から帰ってきて、そのまま合流。
3人で、ああでもない、こうでもないと言って、
鍋料理を楽しむ。

+++++++++++++

●三男が帰ってくる

10月x日に、三男がアメリカから帰ってくる。
訓練を終え、1か月半の休暇がもらえるという。
「いいなあ〜!」。
が、それが終わると、今度は実機(777)での訓練が
待っている。
その訓練にあと1年。
それが終わって、やっと副操縦士。
訓練だけで、すでに5年になる。
あと1年。
よくがんばったと思う。
航空大学校でもそうだったが、チェックテストで
不合格になると、そのつど、そのまま退学もしくは、
配置転換。
パイロットの世界には、再試験とか追試とかいうのは
ない。
そのまま、おしまい。

資格試験だけでも、無線士、気象予報士に始まって、
20〜30種類は受けなければならない。
今では毎年、英語の試験も受けなければならないという。
それに飛行機というのは、機種ごとに操縦免許が
必要。
777を操縦できるからといって、エアバスも操縦
できるというわけではない。
「たいへんだなあ」と思うと同時に、「私にはでき
なかった」と思う。
私も一時は、パイロットの道をめざした。

で、私とワイフの夢。
三男の操縦する飛行機に乗ること。
今までは「機長になったら乗ろう」と言いあっていたが、
「副機長でもいい」と。
機長になるのを待っていたら、あと何年かかるか、
わからない。
10年先では、飛行機には、もう乗れなくなるかも
しれない。

息子たちは、今、この日本や、地球を、外の世界から
ながめている。
私のとはちがった人生観をつくりあげているはず。
私にはそれがどんな人生観かわからないが、私は
「これでよかった」と思っている。

「どんな人生観だろう?」と想像しただけで、ワクワク
するではないか。

がんばれ、息子たち!
迷わず、まっすぐ、自分の道を進め!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親のシャドウ】

+++++++++++++++++

親を反面教師とする子どもは多い。
親そのものを、否定する子どもも多い。
「私の親は、インチキだ」
「私の親は、最悪だ」
「私の親は、親の資格はない」と。

そして最後には、決まって、こう言う。
「私は、私の親のような親にはならない」と。

しかし、そうはいかない。
親を反面教師とするのは、それはそれで結構なことだが、
反面教師とするならするで、それに代わる(親像)を、
自分の中に創りあげなければならない。
そうでないと、結局は、その子ども自身が、
いつか、親そっくりの(親)になる。
最悪の場合には、親のもつ陰湿な部分(シャドウ)を、
そっくりそのまま引き継いでしまう。

+++++++++++++++++

●高校時代のK教師

私は高校時代、英語の授業を受けながら、いつもこう思っていた。
「ぼくが英語の教師になっても、あんなK教師のような教師にはならないぞ」と。

K教師の授業は、古典的な暗記第一主義の教え方だった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

が、それから5年後。
私はアルバイトで、ある予備校で英語を教えることになった。
相手は中学生だった。
そのときのこと。
私の教え方は、あのK教師の教え方そのものだった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

それもそのはず。
私はいつもK教師を批判していたが、K教師以外の教師の教え方を知らなかった。
「あんなK教師のような教師にはならないぞ」とは思いつつも、それに代わる
(教師像)を自分の中に創る機会がなかった。
だからそうなった。

●親像

親子の関係も、これに似ている。
「私は、私の親のような親にはならない」と思うのは、その人の勝手だが、一方で、
それに代わる(親像)を創りあげなければならない。
(批判)しているだけは、代わりになる(親像)はできない。

が、それですむわけではない。

仮にあなたの親が、小ずるくて、世間体ばかり気にする人だったとしよう。
悪人ではないが、いつも人前では仮面をかぶり、善人ぶっていたとしよう。
あなたに対しては親風を吹かし、あなたの意思は無視。
頭ごなしに命令ばかりしている。

あなたはそういう親を見ながら、「あそこが悪い」「ここが悪い」と批判する。
そしてこう思う。
「私は親になっても、ああいう親にはならない」と。
「軽蔑」という言葉を使うこともあるかもしれない。
「私は、親を軽蔑している」と。

●Fさんの例

ワイフの知人にFさんという女性がいる。
高校時代からの知人である。
そのFさんは、学生時代、いつもワイフにこう言っていたという。

「私の母は、ずるい女性だ。頭の弱い叔母がいるが、その叔母をだまして、
高価な壺を、取りあげてしまった。代わりに安物の壺を叔母に与えた。
母は、それを手柄話のように、自慢にしている」と。

Fさんは、自分の母親を相当嫌っていたようだ。
高校を卒業すると家を出て、そのまま東京へ。
以来、帰郷するのは、数年に1度あるかないかという状態がつづいたという。

高校時代、ワイフはFさんの家に、毎週のように遊びに言っていた。
そして毎回のように、Fさんの母親の悪口を聞かされていた。

が、それから40年。
ちょうど1世代(=30年)が過ぎ、Fさん自身が、当時のFさんの
母親の年齢になった。

で、ワイフがFさんに久しぶりに会って驚いた。
そのFさん自身が、あの当時のFさんの母親そっくりの人になっていたという。
顔も似ていたが、しぐさ、様子、話し方まで、そっくりだったという。
「歳を取れば取るほど、遺伝子の影響が強く出るというけど、本当ね」と
ワイフは笑っていたが、これは遺伝子だけの問題ではない。

Fさんは、現在、親子関係に苦しんでいるという。
2人の息子と娘がいるが、2人も、高校を卒業すると同時に、家には寄りつかなく
なってしまったという。

●ちがい

それでもFさんは、ワイフにこう言っているという。
「私は、私の母とはちがう」と。
(Fさんの母親は、3年前に脳梗塞で他界。それを機に、Fさんは夫の転職もかねて
帰郷。現在は、同じ浜松市に住んでいる。)

が、ワイフから見ると、そっくり!

つまり(ちがい)というのは、どこまでも主観的なものでしかない。
FさんはFさんで、「私は母とは大きくちがう」と思っているかもしれない。
が、少し離れたところで、他人が客観的に見ると、「そっくり」ということになる。

言いかえると、その人が思っている(ちがい)ほど、いいかげんなものは、ない。

「私は、ほかの人とはちがう」と思っていても、ときには、その(ちがい)は、
わずかなものでしかない。
そのことは、たとえばアメリカなどの国際空港のロビーに座ってみると、よくわかる。

それぞれ個性的な服装をしている日本人にしても、そういうところでは、日本人はみな、
同じに見える。
少し離れたところからでも、すぐ日本人とわかる。

●シャドウの恐ろしさ

こうして子どもは親のシャドウを引き継ぐ。
こんなケースもある。

私はある時期、ある男性からその男性の父親についての相談をよく受けた。
名前をT氏(当時40歳くらい)としておく。

T氏は父親と、同居はしていたが、うまくいっていなかった。
よくあるケースである。

で、それから数年後。
別の機会に、私はT氏の弟氏と話しあう機会があった。
そのときそのこと、つまりT氏とT氏の父親との関係が話題になった。
が、T氏の弟氏がこう言ったのには、驚いた。

「あのね、林さん、兄貴だって親父そっくりなくせに、ね」と。

つまりT氏はよく父親を批判するが、弟氏から見ると、T氏とT氏の父親は
そっくりと言うのだ。
私はこれには驚いた。

T氏はT氏の父親を批判していたが、それはT氏の父親の一部でしかない。
その一部を、針小棒大に批判していた。
しかし大半の、そのほかの部分については、T氏は、T氏の父親を、そっくり
そのまま引き継いでしまっていた。

私もそのとき、うすうす、それを感じていたので、一度ならず、二度、三度、T氏に
こう忠告したことがある。
「気をつけなさいよ。でないと、あなたも、あなたの父親そっくりの人間に
なってしまいますよ」と。

が、結局、こうした忠告は、急流に竹竿を立てる程度の意味しかない。
T氏は現在、20〜30年前のT氏の父親そっくりの人間になりつつある。
20〜30年前のT氏の父親そのままと言ってもよい。

●妻の役割

こういうケースでは、妻の役割が、たいへん重要である。
(あるいは反対のケースもあるが……。)

妻はつねに夫の人間関係を、客観的に見なければならない。
またその努力を怠ってはいけない。
それを怠ると、妻自身も、その毒気というか、シャドウに、そのまま引き込まれてしまう。
こんなケースもある。

ある男性(60歳くらい)が、こう言った。

「うちの家内は駆け引きがうまくてね、露天などでも、いつも値段の半額以下でものを
買いますよ」と。

つまり口がうまく、小ずるい駆け引きが平気でできるということらしい。

が、本来なら、こういう駆け引きをたしなめるのは、夫の役目。
夫であるその男性が、それを制止しなければならない。
が、その男性は、むしろ自分の妻がそうであることを喜んでいるといったふうだった。
長くいっしょに住んでいると、そういう現象も現われる。

●関係の整理

親子、親類、師弟、友人関係などなど。
そのつど人間関係は、複雑に交錯する。
が、それが良質なものであればよし。
そうでないときは、避けるのがいちばんよい。

若いときは、いろいろな人とつきあって、そういう人たちからいろいろなものを
学ぶ。
『悪友もまた教師なり』と。

しかし50歳も過ぎると、今度は人生に天井が見えてくるようになる。
わかりやすく言えば、無駄にできる時間が、ぐんと少なくなる。
とたん、人間関係を整理し始める。
また整理しなければならない。
さらに言えば、愚劣な人たちとつきあっていると、自分まで愚劣になってしまう。
しかしそれこそ、時間の無駄。
人生の無駄。

よき友を求めて、その関係をより濃密にすることこそ、肝要。
これは私の言葉ではない。
古今東西、世の賢人たちは、みな、そう書き残している。
というのも、(シャドウ)には、ものすごいパワーがある。
仮にあなたが、邪悪な人と半年も交際すれば、(数週間でもよい)、
あなた自身も、そのシャドウを引き継いでしまう。
日本語的に言えば、「染まってしまう」。

これには、兄弟、親類も、ない。
「縁を切る」などと大げさに構えることはないにしても、たとえ相手が兄弟、
親類であっても、血縁にしばられて愚劣な人間関係を維持する必要はない。
適当に交際して、またその範囲ですます。
けっして深入りしない。
ここでいう「整理」には、そういう意味も含まれる。

●問題は、あなた自身

最後に、実は、これは、親である、あなた自身の問題であるということ。
つまり現在、あなたは親である。
そういうあなたという親は、どういうシャドウを、どこにもっているだろうか。
それをほんの少しだけ、自分に問いかけてみてほしい。

子どもの視点の中に自分を置いてみると、それがよくわかる。
つまり子どもの目から見た、あなたは、どういう親か。
一度、鏡に映すようにして、自分を見てみるとよい。

好かれているとか、嫌われているとか、そういうことは関係ない。
(嫌われていても、一向に構わない。)
1人の人間として、気高く、崇高なものを、あなたは子どもに残すための
努力をしているだろうか。
もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、結局はあなたの子どもも、あなたと同じレベルになってしまう。

私たちがなぜこの世界に生きているかといえば、たとえ数ミリでもよいから、
真・善・美に近づき、それをつぎの世代に伝えていくことである。
「数ミリ」というが、その数ミリがたいへん。
へたをすれば、つまりほんの少し油断すれば、後退することだって、ありえる。
が、もしそうなれば、それこそ、「何のために生きているのか」ということに
なってしまう。
そこらに住む動物と同じということになってしまう。
が、それこそ、人生の悲劇というもの。

(シャドウ)には、そういう問題も含まれる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●9月28日

++++++++++++++++++++

今朝は、どこか風邪気味?
のどが痛い。
頭痛も少しある。
手を当ててみると、額が、少し熱い。
加えて、悪寒。
「起きようか、それとも寝ていようか」と、迷う。
が、そのまま起床。
うがいをして、服を着る。

せっかくの日曜日。
やりたいことがたくさん、ある。

++++++++++++++++++++

●パソコンの修理

昨日は、パソコンを2台、修理した。
書斎のXPパソコンと、居間のノートパソコン。

書斎のXPパソコンは、メモリーの故障が原因だった。
長い間、調子が悪かった。
ときどき思わぬところで、フリーズしてしまう。
ハードディスクか?
OSか?

メーカーに問い合わせると、「マザーボードかも?」とのこと。

で、VISTAパソコンには、メモリー診断機能というのがついている。
そのVISTAパソコンにメモリーを差し替えて、検査。
するとあっさり、エラー表示。
ということで、原因は、メモリー。

もう1台は、居間のノートブック。
原因はわからないが、たぶん、おとといの雷のせいではないか(?)。
近くでジェット機でも墜落したかのような雷鳴が聞こえた。
で、そのあとOSが立ちあがらなくなってしまった。

しかたないので、リカバリー。
経験のある人ならわかると思うが、パソコンというのはリカバリーすれば、
それでめでたしめでたし……というわけにはいかない。

各種、再設定に始まって、ウィルス対策ソフトの再インストールなどなど。
全体で、4時間ほどかかった。

私はどんなパソコンでも、使うとか使わないとかにかかわらず、ベスト・
コンディションにしておかないと、気がすまない。
だから毎週のように、パソコンの修理を繰り返している。
これが結構、たのしい。

ところで数週間ほど前、ウィルス入りのメールを送ってきた人がいた。
どこか「?」と感じたので、別メールで問い合わせると、「ぼくは、
そんなメールを送っていない」とのこと。

おそらくボットか何かが、その人のパソコンに侵入したのだろう。
そのボットが、勝手にメールをばらまいている(?)。
この世界、油断もすきもあったものではない。
みなさんも、ご注意!


●『ラフマニノフ…ある愛の調べ』

数日前、映画『ラフマニノフ…ある愛の調べ』を見てきた。
ロシア映画だった。
星は、2つの★★。
ロシア映画は、いつも暗い。
どこかジメジメしている。
それで星は2つ。

またライラックの花が映画の伏線になっていたが、それがわかりにくかった。
音楽も、どれも中途半端。
もりあがりにも欠けた。
最初はピアノコンサートにでも行くつもりででかけたが、見終わって、やや
がっかり。

つぎは映画『アイアンマン』を見るつもり。


●三浦K事件

+++++++++++++++

現在、サイパン島の拘置所に拘留されている三浦Kが、今度、
共謀罪容疑で、犯行地であるCA州に移送されることになった。
一美さん殺しの殺人罪での起訴は、見送られることになった。
かわりに「共謀罪」で、三浦Kは起訴されることになった。
「殺人罪では不起訴。共謀罪で起訴」というのは、私も予想して
いなかった。
ナルホド!
検事たちが考えに考え抜いた、その結果の、苦肉の策ということになる。

+++++++++++++++

が、三浦Kへの殺人容疑がこれで消えるわけではない。
もう1人、三浦Kが何らかの形で、からんでいるのではないかと疑われている殺人事件に、
白石Cさん事件がある。
白石Cさんも三浦Kのすぐ近くにいて、やがて白骨死体で発見される。
三浦Kが、白石Cさんの貯金通帳から現金を引き出していることもわかっている。
当時三浦Kは、たしか「会社の金だった。(だから引き出すのは私の自由)」とか
言っていたように記憶している。
今朝の新聞報道によれば、アメリカの検察は、この白石Cさん事件での起訴も
視野に入れているとか(中日新聞)。

これに対して、三浦Kを日本側で弁護している弁護士や支援団体(?)の人たちが、
「不当判断」と騒いでいる(新聞報道、ほか)。
しかしどうして「不当」なのか?

私の常識がおかしいのか?
それとも彼らの常識がおかしいのか?
私にはわからないが、ただひとつ言えることは、いくら法的には無罪であっても、
それを許さない社会的正義が残っている以上、私たちにはそれを納得がいくまで
追求する権利がある。

もう少しかみくだいて言うと、こうなる。
つまりいくら裁判官が、「無罪だから、みなさんも無罪と思いなさい」と言っても、
そうは簡単にはいかない。
そう思うか思わないかは、最終的には私たち自身が決める。
刑を科することはできないが、だからといって(思い)をねじ曲げることはできない。

法というのは、あくまでも社会的正義追求のための手段でしかない。
もっと言えば、道具でしかない。
ふだんの生活の中では、どこに法があるかさえもわからない。
わからなくて、結構。
それでよい。
法というのは、そういうもの。
またそうでなければならない。

が、ひとたび社会的正義が破られたら、顔を出す。
私たちはそれを使って、その社会的正義を追求する。
それが「法」である。

が、まず法ありき……という社会は、(一応法治国家の建前にはなっているが)、
それ自体は、暗黒社会への入り口と考えてよい。
窮屈で、居心地の悪い世界になってしまう。
最近では、悪しきテレビ番組の影響なのだろう。
教室で子どもたちにカメラを向けただけで、子どもたちはこう叫ぶ。
「肖像権侵害!」「慰謝料請求!」と。

まちがった法意識ということになるが、それがわからなければ、
反対の立場で考えてみればよい。
それこそ「法に触れなければ、何をしてもよい」という社会になってしまう。
法の目をかいくぐって悪いことをし放題している人は、この世界には、ゴマンと
いる。
あるいは逆に、どこかの国の独裁者のように、自分につごうのよい法を作って、
善良な人たちをつぎつぎと処刑することもできる。

社会的正義と法は、どちらが先かと問われれば、社会的正義に決まっている。
社会的正義の上に、法がある。
社会的正義を守るために、法がある。
社会的正義が「主」で、法は、あくまでも「従」である。
こんなことは法がまだなかった、太古の昔から、常識である。

三浦Kを弁護するのも、支援するのも、その人たちの勝手だが、現に、
その周辺で2人の女性たちが殺されていることを考えるなら、弁護士が
弁護するのはともかくとして、三浦Kを支援するというのは、どうかと思う。
残念ながら私には、そうした人たちのもつ常識が、どうしても理解できない。

(注)報道などによれば、「支援団体」とあるが、その程度の人数による、
どの程度の規模のものかは、私は知らない。またどういう活動をしながら、
三浦Kを支えているのかも知らない。念のため。


●道徳の完成度

+++++++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)公平性と(2)視野の広さ
で判断する。
そのうちの公平性について、再度、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

少し前、こんなことがあった。
きわめて近い関係にある、Mさんという女性(70歳くらい)から、
電話がかかってきた。
内容は、こうだ。

「息子夫婦が離婚したのだが、嫁が、離れの家から出て行かない。
どうしたらいいか」と。

Mさんは、元嫁、つまり息子の元妻の悪口を、つぎつぎと言い並べた。
が、話を聞いているうちに、私は、Mさんの言っていることのほうが、
無理があるのではと思うようになった。

元妻には、中学生と小学生の、2人の子どもがいる。
子どもたちは母親と家を出るほうを選んだ。
Mさんは、「離れといっても、私の家」「その離れから出て行かないから困っている」
と。
Mさんの言い分も理解できる。
しかしこういう話というのは、一方的に聞いてはいけない。
ただ私と元嫁というその女性とは、何度か会ったことはあるが、あいさつ程度以上の
会話はしたことがない。
「それほど悪い人にも見えなかったが……」と思ったとたん、Mさんへの信頼感
がグラグラと揺れだした。

Mさんは「離れから追い出すにはどうしたらいいか?」と言うが、話の内容を
詳しく聞くと、どうやら、財産のことを心配していることがわかった。
はっきりとは言わなかったが、「どうすれば財産を分与しないですむか」
という内容の相談だった。

……という話は前にも書いたので、ここではその先を考えてみたい。

私の立場では、当然、Mさんの側に立ってものを考えなければならない。
Mさんの利益になるような話をしなければならない。
できるだけ財産分与を少なくし、元嫁を離れから追い出すための方法について
知っていることを、話さなければならない。

ここで公平性といっても、人間関係に大きく左右される。
相手が近い関係の人であれば、なおさらである。
これは極端なケースだが、たとえばあなたの息子がひき逃げをして、家に
帰ってきたとする。
そういうとき、あなたという親は、どのような判断をくだすだろうか。
あなたはあなたの息子を、そのまま警察へ突き出すだろうか。
それとも事故を隠すため、あれこれと工作を始めるだろうか。

いくら相手が近い関係の人であっても、公平性を貫くことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。
たとえ息子でも、悪いことは悪いとして、警察へ突き出すことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。

で、先の話にもどる。
実際問題として、近くの人から、そういった相談を受けたとすると、どうしても
その人の利益になるような回答をしてしまう。
が、それは同時に、元嫁にとっては、不利な話となってしまう。
まだ40歳前の女性が2人の子どもをかかえて離婚するというのは、生活費だけを
考えてもたいへんなことである。
ある程度の財産分与、さらには慰謝料、養育費の負担は、当然である。

(話を聞くと、その元嫁は、結婚してからずっと、近くの事務所で事務員として
働いていたという。そのとき得た収入は、Mさん一家全体の生活費の一部にもなっていた
という。)

私は家庭裁判所での調停を勧めた。
こういった話は、第三者に客観的に判断してもらうのがいちばんよい。
が、あとで聞いたら、それがMさんを不愉快にさせたらしい。
Mさんは、知り合いに、「あの林は冷たい」「まともに相談にものってくれなかった」
と言いふらしているのを知った。

しかし私は私なりに、公平性を貫いた。
では、なぜ今、私はこんなことを書くか?

先の三浦K事件に話を戻す。
新聞の報道によれば、日本で三浦Kを無罪にもちこんだ2人の弁護士たちが、
今回のロス地裁での判断に対して、「不当である」と。

私はこの記事を読んだとき、こう思った。

弁護士なのだから、事件のあらましを詳しく知る立場にあったはず。
その過程の中で、弁護士は、三浦Kに、疑問を抱かなかったのだろうか、と。
法廷で確認された事実によれば、一美さんが銃撃されたとき、そばに白いバン
が駐車してあった。(三浦Kは、このバンの存在そのものを否定。)
白いバンは、近くのビルで仕事をしていた人にも目撃されているし、三浦K自身が
撮った写真の中にも、その一部が写っていた。

結局日本の裁判所では、実行犯が特定できず、三浦Kは無罪になったが、疑問は
疑問のままとして、残る。
もしほんの少しでもその疑問を、弁護士も感じたとするなら、無罪であったとしても、
もう少し謙虚になってもおかしくない。
「逮捕は不当」「アメリカ本土への移送は不当」「殺人罪での起訴は不当」
「共謀罪での起訴は不当」と、何からなにまで、「不当」というほうが、おかしいのでは(?)。

つまりいくら近い立場にあったとしても、どこかで公平性というブレーキをかけないと、
弱い人の立場を守れなくなってしまう。
三浦K事件について言えば、だれに殺されたかはわからないが、その弱い立場の人と
いうのは、一美さんであり、白石Cさんということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●日本が嫌い?

++++++++++++++++

韓国での世論調査によれば、
「もっとも嫌いな国は、日本」だ、そうだ。

++++++++++++++++

このほど韓国における、対外国感情についての世論調査が、
公表された(中央N報が創刊43周年を迎えて実施した世論調査、08年)。

それによると、

『好きな国=昨年に続いて韓国国民が最も好きな国、経済的に最も協力すべき国は「米国」
だった。 最も嫌いな国、最も見習うべき国は「日本」だった』(原文)という。 

 『 米国に対する好感と日本に対する非好感は07年に比べて強まっている。 最も好きな
国に「米国」を選んだ回答は16%から18%に、経済的に最も協力すべき国に「米国」
を選んだ回答も35%から42%に高まった。 

  最も嫌いな国に「日本」を選んだ回答は38%から57%に高まり、最も見習うべき国を
「日本」とする回答は27%から24%に減った。 

  最も好きな国の2−3位は「オーストラリア」(14%)、「スイス」(9%)、最も嫌いな
国の2−3位は中国(13%)、北朝鮮(10%)、最も見習うべき国の2−3位は「米国」
(18%)、「ドイツ」(9%)、経済的に最も協力すべき国の2−3位は「中国」(38%)、
「日本」(6%)となった』(同)と。

●日本が嫌い

注目すべき点は、「最も嫌いな国に日本を選んだ回答は38%から57%に高まった」と
いう点。
韓国民の約6割、つまり大半が「日本は嫌い」と答えている。
おおむねそんなものだろうと、私も感じている。
しかしその一方で、韓国の人たちのもつ、精神的ダブル構造。

「嫌い」ながらも、日本への「あこがれ」は強い。
この精神的ダブル構造は、40年前の昔と、ほとんど変わらない。

こんな経験がある。

 1960年代の終わり、私は、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。日韓の
間にまだ国交のない時代で、私たちは、どこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日、大邸(テグ)大学での議論を終えたあと、私は、ひとり、大邸(テグ)
大学の屋上にのぼった。屋上からは、眼下に大邸の町並みが一望できた。

 そこでぼんやりとしていると、ひとりの学生が近づいてきた。私は、「こんなところでも、
また議論か……!」と身構えたが、その学生は、こう言った。つい先ほどまで、私たちを、
口汚く攻撃していた学生である。

 「ぼくは、日本へ留学したい。君は、何か、方法を知らないか」と。

 私は、その(落差)に驚いた。一方で、燃えるような反日感情をもちながら、その一方
で、「日本に留学したい」と(?)。

 つまり、こうした調査結果は、決して、数字だけで判断してはならないということ。現
に、台湾の人たちは、ことあるごとに、反日的な姿勢を示している。と、同時に、ではそ
の韓国が、反日的かというと、そうでもない。会って話をしてみると、個人的には、みな、
よい人たちばかりだ。

一方、ひとりこの日本に好意を寄せる国がある。
台湾である。

●もっとも、移民したい国は、日本!

 台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅
行したい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その
結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 ことあるごとに、日本のアラさがしをしては、悪口を書きたてる、韓国の報道機関。最
近でも、「日本の株式市場は、新興市場」(朝鮮N報)とか、「指導国家としての資質なし」
(N大統領)とか、書きたてている(06年)。

●しかし、自由主義陣営の中で、日本が敵?

韓国の人たちが日本を嫌うのは勝手だが、日本は韓国なしでも生きていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは生きていかれない。
その現実に、もっとすなおに目を向けるべきではないだろうか。

 が、何は、ともあれ、今回の「遠見」誌による調査結果には、ほっとした。「日本の近く
には、そういう国もあったのだ」と、改めて思い知らされた。と、同時に、日本は、台湾
のような国を大切にしなければならないと感じた。

 で、話は、ぐんと現実的になるが、パソコンの液晶モニターにしても、私は韓国製とい
うだけで、自分の選択肢からはずしている。買うなら、日本製。どうしても……というこ
となら、台湾製ということにしている。

 近く、液晶テレビを買うつもりだが、それもそうだ。性能のよい日本製にしようか、値
段の安い台湾製にしようか、今、迷っている。韓国製などは、もとから、眼中にない。ぜ
ったいに、韓国製だけは、買わない。

【付記】(06年7月1日)も、朝鮮N報の記事にはこんなのがあった。
1〜3番の記事は、どれも、日本がらみの記事ばかり。

(1)韓国の家は、実は日本の家より、狭い……。
(2)自負心調査では、日本、18位、韓国、31位……。
(3)韓国の殺人、性犯罪、日本の約2倍……と。

 「韓国の人たちよ、もう日本のことなどかまわず、自分たちの道を行きなさい」と、私
は言いたい。韓国の新聞に目を通すたびに、過関心ママに支配された子どものような心境
になる。
つまり、イヤ〜ナ気分!

●台湾へ向かう日本の投資

韓国か台湾か?

当然のことながら、日本の投資は今、韓国を避け、台湾に向かっている。
こういう現実に、韓国も、少しは気がつくべきではないのか。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●AS内閣(Ultra Right-wing Cabinet of Japan)
(Are we such a low-level people as has been seen in the brain-less statesments by 
Nakayama Minisniter?)

+++++++++++++++++

自民党右派の中でも、極右派と呼ばれる
人たちで固めた、AS内閣。
もちろんAS総理大臣自身も、極右派。

国会全体が、まるで極右団体の街宣車に
乗っ取られたよう。

で、内閣発足後、たった数日後には、
中山国交相の失言問題が発覚した。

+++++++++++++++++

●中山国交相の失言問題

(1)成田空港建設への反対闘争について
「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う」

(2)外国人観光客の誘致策に関連して、
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので、
内向きになりがち」

(1)大分県の教員汚職事件に関して、
「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。
日教組の子どもなんて、成績が悪くても先生になるんですよ。
だから大分県の学力は低いんだよ」と。

AS現総理大臣自身も、過去において、「日本は、一国家、一文明、一言語、一文化、
一民族」(九州国立博物館の開館記念式典の祝辞)と述べている(中日新聞指摘)。

ほかに中山氏には、文科省相時代に、「従軍慰安婦という言葉は当時はなかった」とか、
「(歴史教科書の記述を)自虐的」と述べたりしている(同紙、指摘)。

こうした一連の発言をふまえて、たとえばアイヌ民族の人たちから、「この程度の知識か」
という批判が相次いでいる。
いわく「このような発言をする人が閣僚をする資格はない」(アイヌ民族共有財産訴訟の
元原告団長の小川T氏)と。

AS総理大臣自身の過去の失言については、たびたび書いてきた。
「失言」というよりは、彼自身の「本音」なのだろうが、だからこそ、よけいに不気味。

情報だけをもって、「思想」と誤解し、その情報を加工する能力さえない。
そういう日本人が新しい総理大臣を選んだ。
その結果が、現在のAS内閣ということになる。

おととい、あの小泉元総理大臣が、政界から引退した。
AS内閣発足を見届けてからの引退である。
政治に幻滅したということでもないと思うが、小泉氏がそう思ったとしても、私は
それに納得する。

「この程度の知識」しかない、「この程度の内閣」。
日本という国は、この程度の国なのか?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●「日教組は日本のガン」?(Japanese Teachers' Union is a Cancer of Japan?)

++++++++++++++

中山国交相は、自分の失言問題に対して、さらにこう言い切った。

「(失言の)撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊す
ために火の玉になる」(時事通信)と。

************以下、時事通信記事より****************

……発言に対する野党や世論の反応については「わたしの失言というか、舌足らずという
か、言葉狩りに合わないように気をつけんといかん」と述べた。その上で、「日教組が強い
ところは学力が低い」との発言について「撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日
教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」と強調した。 

************以上、時事通信記事より****************

大分県の教員汚職事件に関して、中山国交相はつい先日、こう述べたとされる。

「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。日教組の子ど
もなんて、成績が悪くても先生になるんですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」(中日
新聞)と。

汚職事件はさておき、中山国交相が言うところの「成績」とは何か。「学力」とは何か。さ
らに「日教組が強い」というのは、どういう意味なのか。「日教組が強いところは、学力は
低い」というが、その根拠はどこにあるのか。「ぶっ壊すために火の玉になる」というのは、
どういう意味なのか。

中山国交相の発言は、「失言」の領域をはるかに超えている。中山国交相の思想を疑うとい
うよりは、私は脳みその中身そのものを疑う。あまりにも低次元すぎて、コメント(評論)
する気にもならない。何も私たちは、「言葉狩り」、つまり言葉尻をつかまえて、問題にし
ているわけではない。またそのレベルの話ではない。

日教組に属していても、いなくても、教職にかかわっている人なら、みな、同意見だろう。
あきれるよりも先に、笑ってしまう。しかし本当の問題は、このレベルの人間が、大臣を
しているという事実。そのおかしさというか、恐ろしさに、私たちはもっと目を向けなけ
ればならない。

(こんなレベルの人が、日本の政治を牛耳っているのだぞ!)

たとえば「学力」という問題ひとつ取りあげても、中山国交相は、テストの点数で示され
るような学力を念頭に置いているのだろう。もしそうなら時代錯誤もよいところ。40〜
50年前の昔ならいざ知らず、今どき、こういう発想をする人がいること自体、バカげて
いる。信じられない。

それになぜ国土交通省という畑にいる大臣が、まったく畑ちがいの教育問題で、「火の玉」
になるのか? 

さらに「日教組は日本のガン」と発言するに至っては、返す言葉は、ただひとつ。「アホか!」。
日教組とはまったく無縁の私にだって、そんな言葉しか、思いつかない。

AS総理大臣がどんな失言をやらかすかと、ハラハラしていた矢先の、この発言。あるい
はAS総理大臣なら、中山国交相の発言を擁護するかもしれない。失言では、AS総理大
臣のほうが、はるかに先輩。

しかしこんなことを繰りかえしていたら、日本は、ほんとうにメチャメチャになってしま
う。知性も理性もない国になってしまう。

「ガン」という言葉にしても、そうだ。今の今も、「ガン」という大病をかかえて苦しんで
いる人たちがいる。ガンと闘っている人たちもいる。中山国交相の発言は、そういう人た
ちへの配慮にも欠ける。あるいはもし自分がガンにでもなったら、そのとき自分のことを
どう思うというのだろうか。

世相について、そこにいくら問題があったとしても、病名でそれを表現するのはやめよう。
だれもその病気になりたくて、なるのではない。またなったとしても、それを「悪」にか
らめて考えてはいけない。だれだって病気のひとつやふたつ、かかえているではないか。

中山国交相の罷免もしくは辞任は、当然であるとしても、AS総理大臣にも、任命責任が
ある。自分自身の過去の失言問題をふりかえりながら、AS総理大臣は、どのような判断
をくだすのだろうか。どう責任を取るつもりなのだろうか。

なお「舌足らず」というのは、言葉による表現力に欠ける人がよく使う、弁解用語でしか
ない。そも大臣ともあろう一国のリーダーが、使う言葉ではない。

●AS総理大臣へ、

大臣の失言なら、たとえばその責任者である総理大臣が罷免することで、まだ問題を解決
することができる。しかし総理大臣の発言となると、それが対外的なものであれば、即、
戦争ということにもなりかねない。どうか、どうか、失言にはくれぐれも注意してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中山国交相 失言問題)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものやる気

+++++++++++++++++++

心というのは、それほど器用にはできていない。
ひとつのことで(やる気)を失うと、別のところでも、
(やる気)を失う。

もともと(やる気)には、脳の中でも、帯状回という
組織が関係しているそうだ。

しかしその帯状回は、(やる気)の中身まで、チェックする
ことはできない。
「この分野は、やる気を出してやろう」とか、
「あの分野は、やる気を出すのをやめよう」とか、
そういう器用なことはできない。

一事のことで(やる気)を失うと、ほかの部分でもやる気を
失う。

たとえばよくある例として、「受験期にさしかかったから、それまで
していたサッカーをやめさせよう」と考える親がいる。

親は、「サッカーに振り向けていた時間を、今度は勉強に
向けさせよう」と考えてそうするが、そういうやり方は、かえって
逆効果。

サッカーをやめさせられたことで(やる気)を失った子どもは、
そのままあらゆる面で、(やる気)を失う。

勉強など、するようになるわけがない。

++++++++++++++++++

兄が死んだあと、いろいろな事務手続きが重なった。
たとえば兄名義の貯金にしても、銀行のほうで、即、
出金停止ということになった。

引き出すことはもちろん、その通帳から支払われていた
電気代やガス代まで、自動引き落としができなくなって
しまった。

しかも兄の財産は、一度、母のものとなる。
が、その母は、現在、脳梗塞も重なって、ほとんど口を
きくこともできない。

さらに母の現住所は、この浜松市。
しかし本籍地は、岐阜県のM町……。
母のものとなった財産を、今度は、私が代理人となって、
引き出さなければならない。

その上、葬儀費用として使用するためには、葬儀社の
領収書を添えて、1か月以内に、それをすまさねば
ならない。

ということで、わずか数十万円の貯金の解約手続きのため、
浜松とM町の間を行ったり、来たり……。

私はこういうめんどうな手続きが、苦手。
大嫌い。

とたん、私は、それが苦になって、全面的に(やる気)を
失ってしまった。
いろいろ小さな仕事が重なったが、何かにつけて
(やる気)がわいてこない。
そしてそれがさらに積み重なって、何をするにも、おっくうに
なってしまった。
ワイフと旅行するのも、いやになってしまった。

が、これではいけない。
……ということで、一気にこの問題を片づけることにした。

まずあちこちに電話をかけ、必要書類を聞く。
必要書類をそろえる。
そろえたら、それでよいかどうか、あちこちに確認する。
「OK」が出たところで、当該銀行に足を運んで、一気に
事務手続き終了!

それが終わったとき、大仕事をしたような満足感はあった。
あったが、しかし私が何らかの利益を得たわけではない。
そうして引き出したお金は、葬儀費用の一部になっただけ。

……で、それから約1か月。
(やる気)が戻ってきたのは、その手続きがすんでから、
3、4日後のことだった。
脳というのは、そう簡単には、復元されないものらしい。

話を戻すが、子どものばあいでも、では、サッカーをまたやらせれば、
やる気が戻るかといえば、そうはいかない。
子どもどうしの人間関係も、からんでくる。
一度、退会すれば、レギュラーに戻ることも難しい。
ということで、たいていのばあい、子ども自身が、クラブに
戻ることをそのものを、拒否する。

こうして子どもは、ますます(やる気)を失っていく。
ご注意!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●金の奴隷

++++++++++++++++++H.Hayashi

金の奴隷にも2種類ある。
プラスの奴隷と、マイナスの奴隷。

プラスの奴隷というのは、金の力にものを言わせて、
得意になるタイプ。

マイナスの奴隷というのは、いわゆるケチ。
貧乏であることを売り物にして、(本当に貧しい人もいるが)、
始終、チマチマしている。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●プラスの奴隷

若いころ、こんな社長がいた。
日本全体がバブル経済に向けて、狂ったように走り出したころのこと。
会社の主だった社員はもちろんのこと、取り引き先の人や、何と近所の人たちまで招待
して、台湾や香港へ旅行していた。

私はそのときその旅行の世話と、通訳をしていたので、それがどんな旅行だったかを、
よく知っている。
その社長は、たとえば大きなレストランに入ったりすると、「チップ」と称して、
1000円札を、パパーッとあたりにバラまいたりしていた。
私はそれを見てあきれたが、社長は、得意満面だった。
そういう形で、その社長は、自分の力を誇示していた。

プラスの奴隷になると、金持ちであることを、自慢したくなるものらしい。
親戚や縁者を金銭的に援助したり、ものを買い与えたりする。

しかし誤解してはいけない。
だからといって、利益を得た人たちが、それでその人に
感謝しているかといえば、そういうことはない。
尊敬しているかといえば、そういうこともない。
金(マネー)の力は、ものを動かす力はあっても、心を動かす力は弱い。
恐ろしく、弱い。

前にも書いたが、こんな話を聞いた。

●金(マネー)の力は、弱い

長い友人に、K氏という人がいた。
昨年、脳梗塞で倒れ、そのまま他界してしまったが、その地域の開業医として、かなりの
収入を得ていた。
で、そのK氏のもとに、K氏の親類たちが集まってきた。
いつの間にか、K氏が、そうした親類たちの金銭的なめんどうをみるようになっていた。

K氏はいつも私にこう自慢していた。

「弟と妹に、4人の息子や娘たちがいるが、みんな私が大学を出してやった」と。
学費を援助したというのだ。
K氏には、そういう形で、甥や姪のめんどうをみるのが、生きがいだったようだ。

が、そのK氏が他界した。
突然の死だった。
私は通夜と本葬の両方に参列させてもらった。
しかし、である。
K氏の兄弟らしき人たちは来ていたが、K氏が学費を援助したと思われる若い人たちは、
来ていなかった。
そのことをK氏の妻に確かめたとき、「そんなものだろうな」と思った。

……こう書くからといって、K氏が「金の奴隷」だったというのではない。
私が書きたいのは、金(マネー)の力は、所詮、その程度のものということ。
よい例が、日本政府がしている国際援助。
国際援助してやって喜ぶのは、その時点の為政者(政治家)だけ。
国民のところまで、日本の(心)が届くことは、まずない。
むしろ為政者たちは、それを自分の手柄として、日本から援助があったことを、
国民から隠そうとする。
そういう例は、ゴマンとある。
というより、それが「ふつう」。

同じようにK氏が学費を援助した、先の息子や娘たちにしても、学費の出所さえ
知らなかったのではないか。
K氏の兄弟にしても、息子や娘たちには、それを黙っていた可能性が高い。

私はそういう葬儀を見ながら、ワイフとこんな会話をしたのを覚えている。
「Kさんが、こういう事実を知ったら、悲しむだろうね」と。

●ある社長の話

さて話をプラスの奴隷にもどす。

レストランで1000円札をバラまいた社長の会社は、バブル経済がはじけてまもなく、
不渡り手形を2度出し、そのまま倒産。
一時、小さな会社を再興したが、それも、半年足らずで、倒産。
そのあとは市内のマンションに移り、そこで生活をしていた。

私がその元社長に呼ばれて、再び会ったのは、それからちょうど1年目のことだった。
相変わらず、高拍子というか、親分風を吹かしていたのには、驚いた。
話を聞くと、台湾から梅干を輸入したいので、貿易を手伝ってほしいということだった。

私は私なりの方法で、すぐその可能性を調査した。
香港にも、台湾にも、私のパートナーがいた。
が、結果は、「やめたほうがいい」だった。
理由はいろいろあった。

それを元社長に伝えに行くと、私の話を半分も聞かないうちに、元社長はそばにあった
コップを床にたたきつけて、突然、私にこう怒鳴った。
「お前は、オレの恩を忘れたのか!」と。

「恩」というのは、私をあちこちの海外旅行に連れていったことをいった。
私はそそくさと、元社長のマンションをあとにしたが、それからも3、4回、怒りの
電話がかかってきた。

「金の奴隷」というのは、そういう人をいう。

●プラスの奴隷vsマイナスの奴隷

そこで、ではプラスの奴隷とマイナスの奴隷は、どこがどうちがのか。

話が少し外れるが、一般論として、大きく儲ける人は、その一方で、大きく損をする。
「儲け」と「損」は、つねに表裏一体となっている。
ここに書いたK氏にしても、たしかに「損」はしたが、もう少し若いころには、当時は
まだ珍しかった大型クルーザーを所有していた。
伊豆と那須に、別荘をもっていた。
市内にも、数か所、マンションを所有していた。

K氏にしてみれば、甥や姪の学費など、(小遣い)の範囲だったかもしれない。
ともかくも、「損」を気にしていたら、大きく儲けることはできない。
それに「損」が、つぎの「儲け」の原動力になることもある。
私も、似たような場面に出会ったことがある。

何かのことで損をしたりすると、「ちくしょう」と思って、さらに仕事に精を出し
たことがある。

では、マイナスの奴隷とは?

わかりやすく言えば、小さな世界に閉じこもり、チマチマ、ケチケチと生きている
人たちをいう。
損もしないが、さりとて大きく儲けることもない。
たいていは小銭の守銭奴となって、毎日貯金通帳を見ながら暮らす。
私もその仲間だから、偉そうなことは言えない。
だから私も含めて、このタイプの人は、大きな仕事ができない。

●金(マネー)に毒される人たち

どちらであるにせよ、金の奴隷たちは、金(マネー)の奴隷になりながら、奴隷に
なっていることにすら気がつかない。
たとえば前にも書いたが、テレビの人気番組に「お宝xx」というのがある。
視聴者がもちよった品物や絵画に、その道の鑑定家たちが値段をつけるという番組である。

あの番組による影響は、すさまじかった。
私自身もいつの間にか、影響を受けてしまった。
たとえば絵画にせよ、それがすばらしい絵画かどうかという判断をするよりも先に、
「値段はいくら?」「有名な画家の描いた絵か?」という視点で、見るように
なってしまった。

中身よりも、外見。
外見よりも、評判。
評判よりも、値段。
「この絵は、300万円だから、すばらしい」
「あの絵は、無価値だから、見る価値もない」と。

しかし テレビ番組を責めても、意味はない。
ああした番組が人気番組であるというのは、それをささえる視聴者がいるからに
ほかならない。
つまり金の奴隷が多いから、ああいう番組は、人気を博す。
しかしこれは人間にとって、悲しむべきことと言ってよい。
理由の第一。

●失うもの

金の奴隷になればなるほど、ものの本質が見えなくなる。
絵画を例にあげるなら、その絵画のもつすばらしさがわからなくなる。
あるいはすばらしい絵画、(絵画のよしあしは、あくまでも個人的嗜好によるもの
だが)、そのすばらしさを判断できなくなってしまう。

同じように、成功、失敗も、金銭的な尺度でしか、みなくなってしまう。
「あの人は金持ちだから、すばらしい」
「この人は、貧しいから、すばらしくない」と。

さらにそれが拡大してくると、自分自身の人生まで、金銭的な尺度でしか、みなくなって
しまう。
幸福の尺度さえ、相対的なものとなる。
「隣の人より、よい生活をしているから、私は幸福」
「隣の人より、小さな家に住んでいるから、私はみじめ」と。

そういう生活が基本になっていると、「生きる」ことそのものが何がなんだか、わからなく
なってしまう。

●日本全体が、金権主義国家?

が、それだけではない。
一度金(マネー)に毒され、金の奴隷になると、それから抜け出るのは、容易なことでは
ない。
価値観、さらには人生観、生きる哲学すらも、それに固定されてしまう。
政治だって、そうだ。

日本は一応、民主主義国家ということになっているが、実際には、金権主義国家。
たまたま今日、AS総理大臣率いる、AS内閣が発足する。
今朝の新聞を読むと、政治的イディオロギーなど、どこにもない。
「景気回復」「景気刺激策」などなど、すべて、金(マネー)、金(マネー)、金(マネー)。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
政治そのものが、金の奴隷たちの「マスター(主人)」として君臨している。

金の奴隷……プラスの奴隷と、マイナスの奴隷がいる。
今朝は、それについて考えてみた。
(080925)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私の情緒は不安定だった。
情緒が不安定というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
動揺しやすくなり、ささいなことで激怒したりする。
それがわかっているから、じっと静かにしているのがよい。
自分の心を見守るのいがよい。

こうした病気(?)は、「治そう」と思わないこと。
治るはずもない。
大切なことは、じょうずにつきあうこと。
自分の心の欠陥を認めること。

で、昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。
ものすごい眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1〜2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、気分が落ち込む」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそうその友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


●ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

が、よく知られた曲は、一曲も収録されていなかった。
どれも映画用の新曲ばかり(?)。

残念!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●体重が65キロ台!

少しがんばった。
1か月前には、68・5キロだった体重が、今朝は、65・5キロになっていた。
3キロの減量!
バンザーイ!

昨夜は鼻水が出るような状態だった。
が、サイクリングは欠かせない。
家に帰った直後、雨。
あやうくセーフ。
が、おかげで、風邪がひどくなってしまった。
朝起きて、うがい。
それに風邪薬。
今日は、そんなわけで、頭が重い。

しかし体が軽くなったのは、実感としてわかる。
やせればやせるほど、体は軽くなるのだろう。
が、筋肉がなえてしまったのでは、意味がない。

ワイフと卑猥(ひわい)な話をする。

私「あのなあ、チンxxをズボンの中にしまうとき、先を下に向けてはいけないんだよ」
ワ「あらそう? そんな話は、知らなかったは……」
私「ズボンの中にしまうときは、先を上に向けてしまうんだよ」
ワ「下に向けてしまったら、どうなるの?」
私「チンxxというのはね、そのつどいつも伸び縮みしているからね」

ワ「じゃあ、男も、ブラジャーのようなものをつければいいんじゃない?」
私「それも困る」
ワ「どうして?」
私「窮屈だ。小便をするときも、困る。それにモリモリといつもふくらんでいると、
変態に思われる。ところで、知っているか? チンxxというのは、別の意思を
もっているんだよ」

ワ「別の意思って?」
私「ほら、マムシでも、頭を切っても、体だけ、別に動くだろ。あれと同じ」
ワ「気持ち悪いわね」
私「そう、だから死んだ人がBOKKIするということもあるそうだ」
ワ「あら、そんなこと、知らなかったわ」

私「まだまだお前には話してない、秘密がたくさんある。中国では、死んだ人の
チンxxは、上に向けるのだそうだ」
ワ「ホント?」
私「あの世へ行っても、すぐ役にたつように、ね」
ワ「あの世でもSxxをするのかしら?」

私「どうも、そうらしい」
ワ「あなたが死んだら、チンxxを、上に向けてあげるから」
私「そうだな、頼むよ。あの世には、きれいな子がいるかもしれない」と。

朝食のときの、いつものバカ話。
ここに書いたことは、すべて、ジョーク。
(女性の読者の方へ……どうか信じないでほしい。詳しくは、旦那様に聞いてください。)
しかしこういう話だと、ワイフは、すべて信じてしまう。
そこがおもしろい。


●猿対策

このところ秋になったことあり、山荘が山猿に襲われることが多くなった。
雨どいのいくつかが、山猿に破壊されてしまった。
テレビのアンテナも折られてしまった。

今日、その修理に山荘へ行かねばならない。
が、ただではいかない。

山猿撃退用の装置をいくつか、つくった。

まず雨どいには、釘を四方八方につけたカバーをとりつける。
これは先日、別に買ってきた雨どいに、ドリルで穴をあけ、釘を刺して、私が作った。
同じように、電話線にも、釘を刺したカバーをとりつける。
電話線を伝ってやってくる山猿もいる。

それに裏山から、屋根に飛びついてやってくる山猿もいるようだ。
それについては、対策をこれから考えるところだが、こうしていろいろ考えるところに
山荘ライフのおもしろさがある。

相手は、(自然)。

山猿にしても、必死。
今度、山の向こうを、第二東名が走るようになった。
そこを追われた山猿が、山荘の近くにまで、出没するようになった。
もとはといえば、人間が悪い。

そうそう小屋の下を、何かの動物が、ねぐらにしているらしい。
いつも大きな穴があいている。
ワイフは、それを嫌う。
しかたないので、あたり一面、ガソリンをまいた。

ヘビや動物は、ガソリン(もしくは灯油)のにおいが、嫌いらしい。

……ということで、今年は、栗の収穫は、ゼロ。
みんな山猿に食べられてしまった。
しかしこういうことがあるから、山荘ライフは、楽しい。
おもしろい。

私と山猿との知恵比べは、しばらくは、つづきそう。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●犬のハロウィーン

++++++++++++++++

「あら、犬にもハロウィーンの衣装を
着せるんだって」と、ワイフが言った。

見るとペットショップのウィンドウに、
その類の服がズラリと並んでいた。

「楽しそうだね」と私。
「フ〜〜ン」とワイフ。

++++++++++++++++

人生の楽しみ方は、人、それぞれ。
犬がハロウィーンの衣装を身につけたところで、
(犬にとっては、ありがた迷惑かもしれないが)、
それは、その人の勝手。

言うなれば、人生のスパイスのようなもの。
ハハハと笑えば、それでよい。

私「外国では、妻の誕生日に、夫は、リボンをつけるそうだ」
ワ「どこに?」
私「どこにって、チンxxにだよ」
ワ「リボンをつけてどうするの?」
私「プレゼントのつもりだよ」

ワ「女性は、どうするの?」
私「女性は、腰に大きなリボンをつけるそうだ」
ワ「裸で?」
私「もちろん、そうだ」

ワ「でも、元気のないチンxxにリボンは似合わないわね」
私「下を向いていて、スルリとリボンが抜けたら意味がない」
ワ「かえってみじめになるだけだわ」
私「女性だってそうだ。くびれのない腰にリボンをつけても、
かえって見苦しい」
ワ「三段腹だったら、もっと見苦しいわね」
私「ハハハ」
ワ「ハハハ」と。

しかし、どうしてこの日本でハロウィーンなのだろう?
どうして犬に、ハロウィーンなのだろう?

こういう話は、むずかしく考えない。
考えても意味はない。

ハハハ+ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司


●猿害対策

昨日、山荘のほうで、猿害対策を、いろいろほどこした。

栗、びわ、柿、さくらんぼなどの木の実については、猿にくれてやろう。
しかし山荘の雨どいが割られたり、壊されるのは、許さない。
山猿は雨どいを利用して、屋根に登る。
電話線や電線を伝ってやってくるのもいる。
足跡や、手の跡がしっかりと残っているから、それがよくわかる。

そこで私は、こうした。

(2)雨どいについては、山猿は手をかけるところには、塩ビに、裏から
釘を刺したものを、貼り付けた。
こうすれば、山猿は雨どいに手をかけることができない。

(3)電線には、釘を刺したテープを巻いた。

(3)裏山から飛び乗ってくる山猿もいる。私はそのあたりにある木を、3、4本、
切った。
結構太い木で、これにはてこずった。
というのも、チェーンソーを忘れ、電動ノコで切ったため。

電動ノコで、だ!

あとはこわされた雨どいの修理。
「今度山猿に雨どいを壊されたら、雨どいをすべてはずしてしまおう」と。
というのも、こうした山の中では、秋になると、雨どいは落ち葉ですぐ詰まってしまう。
用をなさない。

今のところ瓦はだいじょうぶのよう。
山猿に割られるようになったら、それこそ、たいへん。
このあたりの山猿は、(復讐)というのを知っている。

いつだったか、近くの農家の人で、山猿の集団に向かって石を投げた人がいた。
その人の家は、翌朝、山猿の襲撃を受け、屋根瓦がつぎつぎと割られてしまったそうだ。
ウソのような話だが、これはホントの話!

このあたりの山猿は、頭がよい。
本当に頭がよい。
太古の昔には、「引佐(いなさ)原人」と呼ばれる民族が住んでいたそうだ。
そのころ分派したのが、今の山猿……ということはないだろうが、そう考えてもおかしく
ないほど、頭がよい。

たいへんな作業だったが、けっこう、楽しかった。
山荘ライフのおもしろさは、こんなところにある。
まさに山猿との知恵比べ。
つまりこういう作業が嫌いな人には、山荘ライフは向かない。

……一汗かいて、体重計に乗ったら、何と、64キロ台!
この一年間で、最低記録。

これからも山猿との戦いはつづきそう!


●岐阜の町

++++++++++++++++++H.Hayashi

JR岐阜駅でおりる。
そこから少し歩いて、岐阜乗り合いバスに乗る。
M町までの各駅停車。

空は青く澄み渡り、さわやかな風が吹いている。
最高の旅行日。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●欲得の世界

人間がもつ強欲さは、他人を傷つけ、自分を滅ぼす。
しかし一度、身についた強欲さを体から切り離すのは、容易なことではない。
そのつど顔を出し、自分を惑わす。
どうして人間は、こうまで強欲なのか。

強欲であることが悪いというのではない。
生きる原動力になる。
無数のドラマもそこから生まれる。
しかしものごとには、程度というものがある。

そこに食べきれないほどの食物があっても、満足できない。
そこに使い切れないほどのお金があっても、満足できない。
そこにあふれんばかりの幸福があっても、満足できない。

こうなると、ビョーキ。

「さらに……」「もっと……」と、自分をせきたてる。
が、それではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ人間は、死ぬまで、馬車馬の馬のように働く。
で、やっと楽になったと思ったら、そのままあの世行き。

そこで私たちは、あるとき、自分の限界を認め、その限界の
中で、満足する術(すべ)を学ぶ。
そうでもしなければ、自分の身を支えることすら、できない。
それこそ欲望の渦の中に足をとられて、そのまま奈落の底へ。

欲得といっても、その人個人の範囲にあるなら、問題はない。
しかしその欲得が、他人とからんだとき、問題となる。
「私の財産」「あなたの財産」となる。
そういう意味では、欲得の問題は、人間関係と深くからんでいる。
言いかえると、人間関係は、どこかで、何らかの欲得とからんでいる。
大切なことは、どんな人とつきあうにしても、欲得関係をつくらないこと。
つくるにしても、銀行とか、会社とか、その道のプロとつくる。

子どもの教育についても、そう。
「親類だから安くやってもらえるだろう」「ていねいにみてもらえるだろう」と、
親類の人に家庭教師などを頼んだりする人が」いる。

しかしこういうケースでうまくいくのは、10にひとつもない。
が、そのとき、親類だからという理由で、家庭教師を変えることもできない。
ズルズルと1〜2年も過ごすと、かえって成績がさがってしまう。
お金はかかっても、こういう(汚れ仕事)は、プロに任すのがよい。

さらにあえて言うなら、少しでも金銭関係がからんだら、よき人間関係など
期待しないこと。
昔から、『仕事関係では、人間関係は育たない』という。
「金の切れ目が縁の切れ目」?

私たちがどこかの会社の社員と交際するとしても、その社員というよりも、
その背後にある(会社)と交際する。

話がそれたが、欲得がからむと、親子、兄弟の関係すら、おかしくなる。
しかも相手が親子、兄弟だと、問題は、さらに複雑になる。

では、どうするか?

私にのばあい、欲得のからむ問題については、最初に、腹を決めることにしている。
「腹を決める」というのは、要するに、「欲を出さない」ということ。
最近の例では、兄の葬儀があった。
最初から、○○○万円と予算を決める。
割り切る。
全額、私が払うと、心に決める。
決めてから、喪主になる。

姉からの援助や、親類縁者たちからの香典も、アテにしなかった。
だから気が楽だった。

結果的に、大赤字だったが、それでも損をしたという思いは生まれなかった。

要するに欲得には、恐ろしい魔力がある。
つきあい方をまちがえると、とんでもない方向に、自分がころげ落ちてしまう。
が、ほんの少しだけ妥協できるところは妥協し、寛容になれるところは寛容に
なれば、欲得も、ただの風。
取るに足らない、ただの風。

所詮、欲得などというものは、その程度のもの。
「ここに私たちがいて、ここに生きている」という価値と比べたら、ひょっとしたら、
風にもならないかもしれない。

……しかし私たちは、どうしてこんなにも、欲得の世界にそのつど、巻き込まれるのか?
まだ人間が金(マネー)というものを知らなかった、遠い昔の、原始の世界が、
うらやましい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●ミニ・パソコン

私のところでは、2台のミニ・パソコンが、大活躍している。
HP社の2133と、ACER社のASPIRE−1。
ともに気に入っている。
どこでもメモ書き帳のように、文章が打てるのがよい。
電車やバスの中。
レストランや喫茶店で。

が、世の中の多くの人は、もっと別の目的でパソコンを使っているようだ。
そのため、ミニ・パソコンは、「あまり役に立たない」と。

ふ〜〜〜ん。


●C・HILL、おバカ外交官(A no brain diplomat of USA)
C.Hill, how come are you so stupid and incompetent in the diplomacy in the Far East?
We never hesitate to call you , Kim John-Hill of North Korea. From the earliest stage of 
the diplomacy, we knew that he was to repeat the same failure as former diplomats did. 
Have a listen to the words of Mr. Bolton or Mr. Kelly. Only what you have done is just to 
give them oil, food, money and music, without receiving nothing from them. We saw the 
childish Explosion Show in Yon-byon. But what was that for? Now what you have to do 
is just to admit the failure you have done and go back to the behind of the curtain. Also 
remember that you have destroyed the relationship between Japan and USA. Or are 
you a politician or a movie star? We hope not.

この場に及んでも、あのおバカ外交官は、K国をかばっている。
まあ、どうかばおうと、C・HILLの勝手だが、K国は、
最初から、核兵器製造をやめるつもりなどなかった。

最近になって、イランと共同で小型戦術核の製造をしていることも、
明らかになった。
専門用語を使うなら、「K国は戦略的に、核兵器を放棄する意思などなかった」
ということになる。

では、何のための「テロ支援国家解除」なのか?

もともと「テロ支援国家解除」など、K国にとっては、どうでもよかった。
ゴネるための口実に過ぎなかった。
解除されたところで、K国に利益がころがりこむわけではない。
解除されないからといって、とくに不利益もない。

つまりは時間稼ぎのために、K国は、「テロ支援国家解除」問題を利用しただけ。
が、あのおバカ外交官は、そんなこともわからず、手のひらの上で踊らされてしまった。

結局、C・HILLがしたことは、K国に、原油と食糧とお金と音楽を与えただけ。
見返り受け取ったものは、インチキ・爆破ショー。
それだけ。

ただの外交官(役人)が、あたかも政治家かスター気取りで、マスコミの
インタビューに答える。
まずもってこの異常さに気がつくべきである。
外交官というのは、大統領を代弁しながら、連絡を取りつぐのが仕事。
その本分を忘れて、独断、越権行為の連続。
あとは根拠のない希望的意見。

そこで現在、韓国、中国、アメリカは、K国への援助を停止しようという動きに
出てきた。
当然である。
が、これに対して、またまたあのおバカ外交官が、こう言った。
「まだ(核関連施設が稼動するまでに)、2、3か月かかるから、
それまで(援助停止を)待ってやろう」と。

おバカ!


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   22日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●シロが、嫁さんを連れてやってきた。

+++++++++++++++++

毎日、庭に、ハトの餌をまいている。
そこへ毎日、何羽かのドバト(野生のハト)が
やってくる。

+++++++++++++++++

春先からいつも一羽のドバトが、私の庭にやってきていた。
いつも一羽。
首の下に、白いえりまきのような輪があるから、私とワイフは、「シロ」と
呼んでいた。

たいへん意地の悪いドバトで、私の庭を独り占めにしていた。
ほかのドバトが入ってくると、すかさず、そのドバトを追い出したりしていた。

ところが今日、9月21日、そのシロが、嫁さんを連れて、私の庭にやってきた。
首筋がほっそりとした、なかなかの美人である。
首の下左右には、青と黒の、美しい縞模様がある。

私「シロが嫁さんを連れてきたよ」
ワ「あら、ほんとう。とうとう見つかったのね」
私「よかったね」と。

しかしどうも、仲がおかしい?

2羽とも、静か。
餌場の中に、じっとたたずんでいるだけ。
シロは嫁さんを、どこか遠慮がちに見守っているといった感じ。
ラブラブといったふうでもない。

私「まだ見合い中といったところかな?」
ワ「はじめてのデートで、戸惑っているみたい」
私「シロはまだ童貞みたいだ」
ワ「嫁さんのほうも、まだ処女みたい」
私「フ〜ン、ぼくが行って、指導してやろうか?」
ワ「どうやって指導するの?」
私「お前がうずくまって、ぼくが上から載って、ククー、ククーとやればいい」
ワ「バカバカしい……。ハハハ」と。

曇り空の暗い空。
その下でシロは、毛づくろいを始めた。
やはり嫁さんが気になるらしい。

いつもならほかのドバトをバタバタと追いかけ回してばかりいるシロ。
そのシロが、今日は、おとなしい。
満足げに、おっとりとしている。

よかった!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●持てる人の悩み

++++++++++++

もとからない人は、悩まない。
しかしへたに(失礼!)財産があると、
それなりに悩む。
そういう人は多い。

K氏の実家は、昔からの財産家。
その地域のあちこちに数か所、100坪単位の
土地をもっている。
K氏には、3人の姉妹がいる。
K氏は、その中でも末っ子だった。

父親が死んだとたん、遺産相続問題が起きた。

++++++++++++

この種の問題は、一度、こじれると、とことんこじれる。
こじれるだけならまだしも、当事者たちは、とことん神経をすり減らす。
たがいの微妙なかけひきが、火花を飛ばす。
それがストレスとなって、当事者たちを悩ます。
K氏は「問題が片づくまで、1年かかりました」と言った。
その1年の間に、K氏は、体重を6キロも減らした。

「平等に分けるつもりでいましたが、姉たちが、『あれは私の財産』
『これは私の財産』と言い出し、話がごちゃごちゃになってしまいました。
おまけに私に対して、『あなたは親のめんどうをしっかりと
みなかった』とか、『転勤で、この地に住んでいなかった』などと
言い出しました」と。

K氏のばあい、結局、土地を一度全部売り、現金にして、平等に分ける
ということで決着したそうだ。

もとから財産がない人には、こういう問題は起きる。
へたに(失礼!)財産があると、こういう問題が起きる。
額の多い、少ないは、関係ない。
遺産が数億〜もあればなおさらだが、わずか、数百万円の遺産を
奪い合ってけんかをしている人はいくらでもいる。

私がそんな(数百万程度の)問題で・・・と言いかけると、その人は
こう言った。

「姉は、こっそりと、その土地を駐車場に貸して金を取っていたのですね。
私にはウソばかりついていました。で、私には、『近所の人たちにただで
貸してやっている』と言っていました。それが許せないのです」と。

こうして兄弟関係、姉妹関係が破壊されていく。
K氏にしても、現在は、たがいにまったく音信ゼロ。
他人以上の他人になってしまったという。

では、こうした問題が起きないようにするには、どうしたらよいか。
答は簡単。
生きている私たちが、たとえわずかでも、金銭問題については、しっかりと
けじめをつけておくということ。
遺言書をしっかりと残しておくという方法もあるが、そのつど、息子や
娘たちには、自分の意思を伝えていく。

・・・と言っても、これも簡単ではない。
K氏のケースでも、K氏の父は、晩年は軽い脳梗塞をわずらい、判断力
がかなり鈍った。
さみしさも重なったのだろう。
娘たちが見舞いに来たりすると、それがうれしくて、「あの土地はお前に
やる」とか、「この土地はお前にやる」とか、そのつど一貫性のないことを
口にしていた。

それが遺産問題を、複雑にしてしまった。

しかし・・・命あっての財産。
大病を宣告されただけで、こうした問題は、闇のかなたへ吹っ飛んでしまう。
どうでもよくなってしまう。

それもそのはず。
宇宙は広い。
人間の魂も、それに劣らず、広い。
その宇宙の、ゴミのような地球上で、これまた点のような土地のことで
心をわずらわすこと自体、バカげている。
「死」に直面したとき、よほどのバカ(失礼!)でも、それに気づく。

遺産がもらえたと喜ぶ人。
遺産を取られたと悔やむ人。
どうであれ、そのときも、自分に、「だからそれがどうしたの?」と
問いかけてみればよい。

もちろん事務的にすます問題は、事務的にすます。
遺産相続問題は、純然たる事務問題。
大切なことは、それ以上に、心をわずらわせないこと。
その分だけ、命を縮める。
時間を無駄にする。
そのほうが、よほど「損」というもの。
あとは楽しく、笑ってすごせばよい。

(付記)
子育てが終わることになると、そこにドッとやってくるのは、老後。
年齢的には、あなたの息子や娘が、大学を卒業するころと考えてよい。
それまではみな、子育てに夢中になっているから、そこに老後があることにさえ
気づかない。

で、そのころになったら、10年後、20年後を考えて、自分の身辺の
財産(額の多少は関係ない)について、整理しておく。
まだ脳みその活動が、正常なうちに、そうしておく。
それはあなた自身のためというより、子どもたちのためと考える。

私の近辺でも、遺産相続問題がこじれて、ここに書いたK氏のように
なったケースは、多い。
ほとんどが、そうではないか。
遺産相続問題にかぎらない。
介護問題。
介護の費用問題。
さらには、親の見舞いに来たとか、来なかったとか、そういうことで
兄弟、姉妹関係がこじれることさえある。
また兄弟姉妹の範囲を超えて、叔父、叔母たちがからんでくるケースも
ある。
これは最近、ある司法書士の人から聞いた話だが、本来は遺産相続権の
ない甥や姪が、遺産相続問題に首をつっこんでくるケースもあるという。

この世が、いかに金に毒されているか、こうしたケースは、それをその
まま証明している。

そこでまた自問してみる。

「金(マネー)というのは、額ではない。使い方の問題である」と。
「金があれば安心」「なければ不安」というのであれば、すでにあなたは、
金(マネー)の奴隷になっているということ。

金(マネー)がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかし金(マネー)では、幸福は買えない。
これもまた事実。
ないよりはあったほうがよいが、金の奴隷となったとたん、それと
引き換えに、人は、孤独に包まれる。
その孤独ほど、恐ろしいものはない。

(付記2)

相手から相談でもあれば、話は別だが、この種の問題には、首をつっこまない
こと。
それが親類、縁者のものであっても、「私は関係ありません」を貫くのがよい。
この種の問題に首をつっこむと、あなた自身も、その騒動に巻き込まれ、人間関係
がめちゃめちゃになってしまう。

というのも、一方の当事者は、自分の落ち度やまずい点については、話さない。
一方的に相手を悪く言う。
そういう一方的な話だけを聞いて、全体を想像すると、誤解が誤解を生み、さらに
人間関係がおかしくなる。

私も少し前も、こんなことがあった。
近い人から、息子の離婚問題についての相談を受けた。
「息子夫婦が、離婚したのだが、元嫁が、離れの家から出て行かない。
どうすれば追い出せるか」と。
協議離婚はしたものの、元嫁が、別棟の家から出ていないので、困っている
という内容の相談だった。
息子夫婦には、当時、中学生と小学生の子どもが2人、いた。
2人の子どもは、元嫁のほうを親として選んだ。

で、話を聞いていると、要するに、「財産を分けたくない」という内容だった。
が、こういうケースのばあい、家を追い出される女性の立場のことも考え
なければならない。
2人の子どもをかかえて、「はい、さようなら」というわけにはいかない。
だからその元妻は、離れに住み、それに抵抗した。

が、その人は、何度も電話をかけてきて、元嫁の悪口を並べた。
自分の意見を正当化しようとした。
しかしいくら悪口を並べても、法律的には、ただの雑音。

「養育費、慰謝料、財産分与など、払わなければならないものは、払わなければ
なりません」と答えると、「そんな必要はない」「あんなひどい嫁に、お金を渡す
必要はない」の一点張り。
やがておかしな押し問答になってしまった。

あとで、つまり1年ほどしてから人伝えに聞いたところによると、その
人が、私の悪口を言いふらしているのを知った。

「あの林は、冷たい男だ」「私の相談にものってくれなかった」と。

だから最近は、いくら近い人でも、私はこの種の相談には、のらないように
している。
「弁護士さんに相談するのがいちばんいいですよ」と言って、逃げることに
している。

(付記)
M県で司法書士をしている友人のU君さえも、先日、電話で同じようなことを言っていた。
「不動産取り引きなどは、不動産屋に任せたほうがいいよ。
身内だからといって、安易に引き受けると、あとでめんどうなことになる」と。

そう言えば、家庭教育の世界でも、同じようなことが言える。
たとえば身内だからといって、その子どもの勉強の指導を引き受けたりするのは、
やめたほうがよい。
うまくいっても、(うまくいくケースは、10にひとつもないが)、当たり前。
失敗すれば、そのまま人間関係も、おしまい。
こと受験勉強に関しては、お金はかかっても、そこはプロに任せたほうがよい。
やめるときも、後腐れなく、やめることができる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今夜・あれこれ(9月20日)

++++++++++++++++++

今夜の思考力、ゼロ。
何を考えても、そのままそれがバラバラになってしまう。
つぎからつぎへと、考えていることが、飛躍してしまう。
……ということで、「バラバラ」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

話している最中から、話がどんどんと飛んでしまっていくタイプの人は少なくない。
たとえばこんな話し方をする。

A子(30歳、架空人物)「昔の人は、苦労話ばかりする。学生時代は、貧乏だったとか」
私「ぼくたちの時代には、家からの仕送りも、下宿代だけだった」
A「奨学金をもらえばいい」
私「奨学金といっても、小額だった」

A「アルバイトは楽しいでしょ」
私「アルバイトも、したよ」
A「スキーは楽しいわね」
私「スキー場でのアルバイトって、こと?」

A「神様はいるわよ」
私「神様って?」
A「神様は、白い着物を着ているって、ほんと?」
私「さあ、どうかな?」

A「キリスト教と仏教では、どちらが役にたつのかしら?」
私「神様の着物の話はどうなったの」
A「ああ、どっちでもいいけど、赤い服じゃ、おかしいわね」
私「スキー場の話って、何?」と。

A「スキー場もいいけど、私は夏の海で泳ぐのが好き」
私「海で?」
A「子どものころは、よく川でも泳いだけど・・・」
私「・・・?」と

話の焦点が定まらない。
会話をからませようとしても、そのつど、振り回されてしまう。
会話をつづけているうちに、私のほうが、自分でも何を話しているか、
わからなくなってしまう。

おとなのばあいは、まだそれでよいとしても、子どもとなると、話は別。
指導そのものが、できない。
脳そのものが、乱舞したような状態になる。
言動が、落ち着かない。
ソワソワ、キョロキョロしている。
静かな会話になじまない。
ときにひとりでキャーキャーと叫ぶ。
ささいな言葉尻をつかまえ、周囲を巻き込んで、ワーワーと騒ぐ。

「風が吹いた・・・でも、キリンさんは、元気・・・冷蔵庫の中には、ミカンが
いっぱい・・・時計が鳴った。・・・ママは、お買い物・・・」と。

こうした症状が、どんな原因によるものなのかは、私にはわからない。
ある種の脳の障害が関係しているのかもしれない。
たとえば脳の微細障害説など。
さらにはその原因として、環境ホルモン説なども疑われる。
もちろん学習面でも、大きな遅れとなって現れる。

左脳の特徴である、分析力、論理性などが、正常に機能していない。
そんな印象をもつ。

このタイプの子どもを、私は勝手に「乱舞児」と呼んでいる。
思考そのものが、乱舞したような状態になることから、そう呼んでいる。
小学1〜2年生児に多く見られる。
程度にもよるが、全体の20〜30%。
しかしその後、3〜4年生になると、急速に症状は落ち着いてくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるためである。
が、症状が、まったく消えるわけではない。
その残像のようなものは、おとなになってからも残る。

それが冒頭に書いた、A子さんということになる。

「バラバラ」というテーマで書き始めた原稿だが、結構、シリアスな内容に
なってしまった。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 乱舞児)

(補記)
話していても、そのつどパッパッと話題が飛躍したり、どこかへ飛んでいって
しまうというのは、あまり好ましい現象ではない。
私の知人のH氏(当時、42歳)もそうだった。
従業員30人ほどの電気修理会社を経営していたが、私と知り合ってから、
その会社はまもなく倒産。
そのショックもあって、(私はそう人から聞いていたが・・・)、H氏はそのまま
精神病院へ入院してしまった。

一方、思考力の深い人は、静かな語り口の中にも、きちんとした論理性がある。
ひとつずつ論理を組み立てながら、説得力のある話し方をする。
(思考力)という面からは、こうした人物のほうが好ましいことは言うまでもない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●過渡期の認知症

++++++++++++++++

認知症になるのは、私の勝手。
あなたの勝手。
しかしその過程で、多くの人たちに
迷惑をかける。
これが問題。

とくにその過渡期が、問題。
認知症とその人がはっきりとわかれば、それでよし。
対処の仕方も、それでわかる。
が、その一歩手前というか、認知症かな(?)と
思っても、それがはっきりしないときが、たいへん。

先月亡くなった私の兄についても、こんなことがあった。

+++++++++++++++++

その朝、高校の同窓会があった。
私は、シンガポールで買ってきた洋酒(ジョニ黒)を、恩師へのみやげに用意した。
で、出かけようと思ったそのとき、その洋酒の栓が抜かれているのを知った。
上から数センチ分、洋酒が減っているのもわかった。

私は兄がそうしたことが、すぐわかった。
兄を呼び、「どうしてこんなことをするのだ!」と怒った。
それに対して兄は、それほど悪びれた様子もなく、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

そのときは私は本気で、兄に怒りを覚えた。
が、そのときを境に、兄の奇行が目立つようになった。
つまりそのときが、過渡期だった。
今から15、6年も前のことだった。

で、それ以後は、同じようなことがあっても、兄を相手にしなくなった。
「私の兄は、そういうものだ」という前提で、つきあうようになった。
何か心配なときは、前もって、予防策を講じたりした。

……という場面に、このところ、よく出くわす。
知人、友人、親類の人たちなど。
年齢がその年齢に近づいてきたということもある。
認知症とは断言できないが、しかしその過渡期かなと思わせる人たちがいる。
こういうケースのばあい、こちらは本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしても、意味はない。
相手にすればするほど、相手のワナにはまってしまう。

中には、「母がこうなってしまった」「父がこうなってしまった!」と、
電話で泣きわめいてくる人がいる。
その人はその人で、過渡期の認知症がどういうものであるか、わかっていない。
だから混乱する。
ギャーギャーと大げさに、騒ぐ。

が、過渡期かなと思うことで、その人を理解することができる。
理解したとたん、その人との間に、距離を置くようになる。
怒りも、それで収まる。

ある年齢になり、「どこかおかしい?」と感じたら、その過渡期を疑ってみればよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●五感を刺激する

+++++++++++++++++++

映画は、ボケ防止には、たいへんよい(と思う)。
はっきりとした根拠があるわけではないが、
映画を見ることによって、五感が刺激される。

家庭でDVDを見るという方法もあるが、私はやはり
劇場で見るのがよいと思う。

迫力がちがう。
それに私のワイフのばあい、家庭でDVDを見ていると、
そのままよく眠ってしまう。
だから劇場で見るのがよい。

とくに私のように、ものを書く人間は、そうである。
書いてばかりいると、社会性そのものが、現実世界と
遊離してくる。
思想が偏(かたよ)ったり、極端になったりしやすい。
が、映画を見ることによって、さまざまな世界を
疑似体験できる。

泣いたり、笑ったり、怒ったり、ハラハラドキドキしたり……。

それに字幕を読みながら映画を見ることによって、
脳みそが、英語と日本語の両方で刺激される。

ということで、私とワイフは、週に2回は劇場まで足を運び、
映画を見ることにしている。
満50歳以上は、1回1000円。
6回見ると、7回目はタダ。

肉体的な健康維持のため、ジムに通う人は多い。
同じように、脳みその健康のため、映画館に通ってみてはどうか。
種類は、問わない。
というより、私のばあい、時間帯さえあえば、片っ端から見ている。
子ども向けの映画を見ることもある。
ただしどうせお金を出すなら、楽しいものを見たい。
見て、不愉快になるような映画は、いや。
ハッピーエンドで終わる映画なら、文句なしによい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●不安の原点

++++++++++++++++++

世界経済が、おかしい。
それについて、少し前、私は
「おかしな胸騒ぎがする」と書いた。

私は、ある種の不安感を覚えた
ことになる。
それはそれとして、つまり経済問題は
別として、この問題は、「不安」について
考えるには、たいへんよいテーマと思う。

「不安とは何か?」
「不安はどこから来るのか?」
「不安を解消するためには、どうすれば
よいのか?」

++++++++++++++++++

「不安」は、心理学の分野でも大きなテーマになっている。
大きく分けて、不安の原因として、(1)抑うつ説と、(2)恐怖説がある。
またその前後関係について、(1)不安感が先にあって、抑うつ的になったり、
恐怖感を覚えるようになる。(2)抑うつ的になったり、恐怖感を覚えたあと、
不安になるの、2説がある。

私の個人的な実感としては、「不安のメカニズム」は、「ストレス学説」と似ている
ように思う。
現象面だけを見ると、たいへんよく似ている。

たとえばこんなことがあった。

数年前、健康診断を受けた。
しばらくするとセ検査ンターから検査報告書が届き、私の胃について、「要精密検査」と、
そこには書いてあった。

私にとっては、生まれてはじめての経験だった。
私はその言葉を見て、かなり動揺した。
「どの程度の心配があるのか?」
「どのレベル以上を、要精密検査というのか?」
「要精密検査とは何か?」
そういった情報が、まるでなかった。
あるいは「すでにがんにかかっているので、もう一度検査しなおす」という意味にも
とれた。

私は自分の体を静かに観察してみた。

食事はおいしい。
このところ胃の不調を訴えることはない。
体の調子も悪くない。
体重が減ったということもない、など。
そのあと、私は自分にこう言って聞かせた。
「仮にがんであっても、今なら間に合うはず」と。

こうした一連の心理状態を並べてみると、こうなる。

(要精密検査の報告書をもらった)→(得体の知れない恐怖感を覚えた)→
(不安感を覚えた)→(気分が落ち込んだ)→(「私はだいじょうぶ」と自分に
言って聞かせた)と。

「ストレス学説」によれば、(得体の知れない恐怖感)がストレッサーとなり、それが
一時的にはアドレナリンの分泌を促し、それが一巡し、気分を落ち込ませたことに
なる。

そこで私はすぐ、検査センターに電話を入れ、「要精密検査とは何か」を聞いた。
するとあちこちへ電話を回され、最後はドクターと思わしき人が、こう教えてくれた。
「今回の検査では検査できなかった部分がありますから、その部分を再検査します」と。

が、それで私の不安感が去ったわけではない。

私は翌日、かかりつけの医院へ行き、個人的に検査を受けた。
そんな状態で、再検査までに2週間も過ごしたら、気が変になってしまう。
で、結果はシロ!
とたん胸の中のモヤモヤが、スーッと消えた。

そこで得た教訓は、(1)まず敵の正体を知る、である。

何かのことで不安感を覚えたら、まず敵の正体を知る。
それが何であるか、正確に知る。
あいまいなままだと、妄想だけが勝手にふくらんでしまう。
その妄想が、強烈なストレスとなって、心を万力のように押しつぶし始める。

が、それがシロであれ、クロであれ、正体がわかれば、つぎの対処方法がわかる。
一歩、前に出ることができる。

つぎに大切なことは、(2)周辺情報を集めて、整理する。

これは大病には当てはまらないかもしれないが、情報をできるだけ多く集めて、
外堀をしっかりと埋めておく。
「こうなったら、こうする」「それでもこうなったら、こうする」と。
そういう対処法を、幾重にも、自分の周囲に、砦(とりで)のように積み重ねていく。
私はこれを「理論武装」と読んでいる。
つまり、「武装」する。

が、そうしたところで、不安感はすぐ消えるわけではない。
脳みそというのは、そういう点では、不器用。
一度分泌されたサイトカイン(ストレスの原因となる脳内ホルモン)は、すぐには
消えない。
静かに脳内で起こる(フィードバック現象※)を待つか、それとも、精神安定剤のような
薬物の世話になるしかない。
(私のばあいは、ハーブ系の安定剤をよく服用する。効果は薄いが、副作用や習慣性が
生まれない分だけ、安心してのめる。)

そこで「不安」について。

無知、無学、情報不足、経験不足、知識不足が、不安の原因の第一と考えてよい。
冒頭にあげた経済問題についても、そうである。
あまりにも情報が多く、全体として、まるで巨大な雲をつかむよう。
どの分野を、どのように切り込んでいったらよいかさえ、わからない。
そこに何があるのかさえ、わからない。
だから、言いようのない不安感に襲われる。

もうひとつの例をあげて考えてみる。

山荘が完成し、その山荘で暮らすようになってすぐのこと。
夜中に、庭をだれかが歩く音がする!
庭には、砂利を敷きつめてある。
その砂利が、ジャリ、ジャリと音を出す。

私は生きた心地がしなかった。
「だれだア!」と声をあげても返事もしない。
が、突然、風呂場のほうで、何かがバタンと倒れる音。

私は起きあがって、家中の電気をつけた。
そして懐中電灯をもって、外に出た。
が、そこには何もいなかった。
風呂場も、そのままだった。

翌日から私は、おもちゃのモデルガンと、木刀を枕元に用意した。
戸締りもきちんとした。

が、やがて、その理由がわかった。

夜になるとそのあたりでは、ハクビシン、タヌキ、イノシシ、それに近所の
イヌやネコがかわるがわる徘徊する。
それがそういう足音をたてた。
また風呂場での音は、鏡が原因だった。
バスタブをかわかすため、窓を開けておいた。
そこから風が入り、鏡を倒した。

ということで、それ以後は、恐怖心は消えた。
さらにそのあたりでは、村の人たちがこう言っているのを知った。
「この村では、この400年、泥棒(空き巣)に入られた家は一軒もない」と。

……とは言いながらも、この世界、どこもかしこも、不安だらけ。
不安と無縁で生きるほうが、むずかしい。
それぞれの不安と闘う時間すら、ない。
それに不安というのは、一度心の内壁に張りつくと、なかなか取れない。
(これは私だけの現象かもしれないが……。)
だから不安になってから、その不安と闘うのではなく、そうでないときから、
いろいろな情報を吸収しておく。

たとえば私のばあい、病気などについては、近辺にその病気の人が出たりすると、
その病気について、徹底的に調べるようにしている。
アルツハイマー病の人が出たら、アルツハイマー病について。
心筋梗塞の人が出たら、心筋梗塞について、というように。

もちろん人間関係についても、そうである。
冠婚葬祭に始まって、遺産相続問題などなど。
とくに今は、インターネットというたいへん便利なサービスもある。
以前なら、図書館で1日かかった調べ物が、ものの数分ですんでしまう。
体験談もそのまま読むことができる。

しかし悪いことばかりではない。
こうして私がものを書きつづけることにしても、見方によっては、その原点に
不安があるからにほかならない。
もし私が天国のような世界に住んで、何一つ不自由なくのんびりと暮らしていたら、
たぶん、ものなど書かないだろう。
ものを考えることもないだろう。
つまりこれも「ストレス学説」と似ている。
適度な不安は、生きる原動力となる。

それが「命」にかかわる問題でなければ、何も恐れることはない。
不安を避けるのではなく、不安とは仲よくつきあう。
それが、私の不安解消法ということになる?

なお心理学の世界では、「不安」を、心理分析の中核に置いている。
さまざまな学者が、それぞれの意見を論議しあっている。

欲求不満説
葛藤論
自己概念に対する脅威論
不安因子論などなど。

俗な言い方をすれば、「なるようにしかならないものは、あきらめ、何とか
なるものについては、がんばる」。
それしかない。

(注※)「フィードバック現象」……脳の中である種の反応が起こると、今度は、
それを打ち消すための別の反応が、同時に起こる。これを「フィードバック現象」
という。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●歯磨き一考

++++++++++++++++

長い間、口臭に悩んだ。
ときどき生徒からも、「先生の口は臭い」と言われた。
そのつど私は、「これはな、女よけなんだ」と言うようにしていたが、
そのため、若い母親などは、私に近づいてこなかった。

+++++++++++++++

で、歯医者へ行くたびに、こう言われる。
「口臭は、歯の磨き方が原因です」と。
で、何度か、磨き方の講習を受けた。

「口臭の講習(コウシュウのコウシュウ)」……シャレにもならない。

しかし原因は、やはり磨き方だった。
磨き方が悪いから、歯ぐそが残り、歯肉炎を起こす。
それが口臭となる。
理屈は簡単。
しかしその磨き方が、けっこう、めんどう。

(1)ひげが短くて、硬い歯ブラシ。
この歯ブラシで、数ミリずつ左右に動かして、歯と歯ぐきの間の食べかすをていね
いに取り去る。(手先をこまかく動かすのがコツ。)

(2)ひげが長くて、硬い歯ブラシ
これを「ローリングブラシ」というが、これをローリングさせながら、歯と歯の間
の食べかすを取り去る。
(手首をクルクルとローリングさせるので、最初は、練習が必要。)

(3)ふつうの市販の歯ブラシ(やややわらかい)
最後に、この歯ブラシで、ざっと磨いて、終わる。
(ほかにときどき、歯間ブラシを使うようにと、指導されている。)

全体で20分ほどかかる。
そのため風呂の中ですることが多い。
で、一応、口臭はなおったように思う。
臭いときは、ワイフがそう言って指摘してくれる。
このところ、その指摘がぐんと減った。

●歯磨き粉(練りチューブ)は、不要!

こうした歯磨きをつづけていて、気がついたことがある。
それはチューブに入った、歯磨き粉は、不要ということ。
おそらく歯を磨いたあとの清涼感のために、ああしたものを使うのだろうが、かえって
弊害もある。

先に書いた(1)〜(3)の歯ブラシで歯をみがいていると、信じられないほど、汚れた
水が口から出てくる。
汚水に近い。

歯磨き粉を使っていると、清涼感は残るが、その汚れがわからない。
「歯がきれいになった」と錯覚してしまう。
水の汚れがわからないから、途中でやめてしまう。
これがかえって、歯の汚れを残してしまう。

しかし歯磨き粉を使っていないと、少しずつ歯がきれいになっていくのがわかる。
水の汚れを見ながら、「まだここは磨き方が足りないな」とか、わかったりする。

その前に、歯磨き粉をなぜつけるのか、その理由がよくわからない。
「フッ素配合」「白い歯に」とか何とか、それらしい歌い文句は書いてはあるが、効果が証
明されているわけではない。
私がいつも通っている歯科医院の医師は、こう言う。

「あんなものをつけても、無駄ですよ。どうしても、というなら、塩にしなさい」と。
ふつうの塩でよいのだそうだ。

このあたりの意見が、私は正解のように思う。

さて、歯磨き粉を使わなくなって、もう3、4か月になる。
今は、それが当たり前になっていて、練りチューブも、どこかへ消えた。
使わなくても、不都合なことはまったくない。
もし私の説を疑う人がいたら、しばらく歯磨き粉なしで、歯を磨いてみたらよい。
あなたもかならずや、私の意見に賛成するようになるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私はうつ状態だった。
うつ状態というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
不安定になり、激怒したりしやすい。
それがわかっているから、じっと静かに、自分の心を見守る。

昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1〜2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、憂うつになる」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそう友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


●ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

ただし、「カントリー・ロード」や「サンシャイン」など、ジョン・デンバー
の有名な曲は、出てこなかった。
残念!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●チン長

+++++++++++++++++

突然、A子さん(小6女子)が、遠くから、私にこう聞いた。
このところ、A子さんの身長は、ぐんぐんと伸びている。
それが気になっているらしい。
で、私はこう言った。

+++++++++++++++++

私「そんな恥ずかしいこと、言えないよ」
A「どうして?」
私「だってさア……。チン長だなんて……」
A「あのね、先生、だれもチン長だなんて言ってないわよ」
私「えっ、じゃあ、何と言ったの?」
A「し・ん・ちょう」と。

するとそれを横で聞いていたB君(小4男子)が、こう言った。

「ぼくのは、2・1センチ!」

私「何だ、その0・1センチ、というのは?」
B「だから、2・1センチ!」
私「やめろ、もうわかった!」
A「そうよ、そういう話は、セクハラよ」
私「セクハラ? どうしてセクハラって、知っているの?」
A「だって、いやらしい話でしょ」
私「ぜんぜん。ぼくは、1ミリの話をしているだけだよ。1ミリは、0・1センチ……」
A「ウソばっかり。エッチ!」と。

こういう会話が、私は好き。
楽しい。
陰湿感が、どこにもない。
つまり「性」にまつわる話は、いつでも明るい日向(ひなた)へ引き出してやるのがよい。
「性」に、うしろめたさを感じさせないようにするのが、コツ。

で、私自身のこと。
私も若いころは、いろいろな女性と遊んだ。
(もちろん結婚する前の話だが……。)
が、どの女性も、みな、こう言った。
「林さんとセックスしていると、スポーツをしているみたい」と。
いつだったか、私のワイフも、そう言った。
味もそっけもない。
だから、そう言うのだろう。

私にとって「性」というのは、そういうもの。
で、今日も、どこかの元塾教師が、女子高校生に頼んで、修学旅行での脱衣室の
様子を盗撮させていたという。
そんなニュースが、どこかのインターネットに載っていた。

私も若いころは結構スケベだったと思うが、そういうことをしたいと思ったことはない。
見たかったら、「見たい」と言えばよい。
見せてもらえばよい。
どうせただの肉体。
セックスは、小便と同じ、排泄。

私の感じ方が正しいとは思わないが、ジメジメ、ジクジクと考えるのだけは、やめたい。
大切なことは、子どもたちに、罪悪感をもたせないこと。
陰湿感をもたせないこと。
セックスという行為にしても、明るくさわやかな印象をもたせるのがよい。

どうせただの排泄……。
……というのは、少し言いすぎ?
わかっています、ハイ!

(補記)
結婚して間もなくのころのこと。
家族で横浜へ旅行して、驚いた。
アメリカ軍基地に住む若者たちだったが、彼らはあたりかまわず抱き合い、接吻を
繰り返していた。
「若者」というよりは、まだあどけなさの残る、中高校生たちだった。

私はそれを見てショックを受けたが、その一方で、そういうことが堂々とできる、
アメリカの若者たちを、うらやましく思った。

が、それから30〜年。
日本も、それに近づいてきた。
とくにこの浜松市には、何万人ものブラジル人たちが住んでいる。
彼らは、人前でも自由奔放な行動を繰り返している。
最初はとまどったが、今では、それも見慣れた。
ごく当たり前の光景。

で、気がついてみると、いつの間にか、私とワイフも、同じことをしているのに
気がついた。
人前で接吻とまではいかないが、今では平気で手をつないで街中を歩いている。

ありがとう、ブラジルのみなさん!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●血液型性格判定

+++++++++++++++++++

血液型による性格判定なるものが、いかに
非科学的で、かつ根拠のないものであるかは、
再三再四、書いてきた。
エセ科学そのもの。
こうしたエセ科学が堂々とまかり通っているのは、
この日本だけ。
ついでに隣の中国でも、日本の影響を受けて、
血液型による性格判定の本がつづけて発刊されて
いるという。
韓国や台湾でも、発刊されているという。
が、だからといって、血液型による
性格判定が公認されたわけではない。

血液型による性格判定がエセ科学であることは、
「心理学」(大村政男著・ナツメ社)に詳しく
書いてある。
興味のある人は、そちらを読んでみたらよい。

++++++++++++++++++

血液型の中でも、なぜA・B・O・AB型だけが問題になるかといえば、これらの
血液型は、輸血の際などに、不適合を起こすことがあるからである。
血液型といっても、ほかに100種類以上が確認されている。
よく知られたものに、Rh型というのもある。

だいたい「性格」とは何か、よくわかっていない。
つぎに血液が、型によってどのように脳に作用するのか、その科学的証明が、
まったくなされていない。
A型の血液は、ドーパミンの分泌を促すとか、B型の血液は、セロトニンの
分泌を促すとか、そういうことが具体的に証明されれば話は別だが、今のところ、
そういう話は、まったくない。
あるはずもない。
ないばかりか、その出所さえあやしい。

私たちが現在、「血液型による性格判定」を根拠にしているのは、「古川学説」と
呼ばれる、古川竹二(1891〜1940)がなした研究論文によるものである。
が、「昭和8年(1933)3月、岡山医科大学における日本法医学会第18次総会の
論争で古川学説は破れ、漸次衰微していくことになる」(同書、p220)と。

が、エセ科学は、ここで止まらない。

こうした流れの中で、今度は能見正比古なる人物が現れて、「血液型人間学」を
発表する(1994年)。
そして「政治家の中には、O型が有意に多いことを発見し、『O型には政治性がある』
とした」(p224)。

しかしそれはたまたまそのとき、そうであったにすぎない。

平成6年(1994)10月の調査、さらに著者である大村政男氏による調査では、
この「有意性」は、否定されている。

大村政男氏は、こう書いている。
「……古川はAB型は外見はB型だが、内省(内面)はA型だと書いているだけなのに、
能美は、AB型について詳しく記述しているのである。どこからそのデータをとってきた
のだろうか。沓(よう)としてわからない。
能美の血液型人間学は、10万を超えるデータに基づいているというが、どこにもきちん
とした数値が発表されていないのである」(p226)と。

これが血液型による性格判定の結論と考えてよい。

……とは言いつつ、血液型による性格判定を信じている人は多い。
子どもにもときどき、「先生、先生の血液型は何?」と聞かれることもある。
そういうとき私は、そのつど、デタラメな答を返すようにしている。
ウソをつくというよりは、あまりにもバカバカしいので、そうしている。

「ふ〜ん、A型だったかなア?」と。
すると子どもは、我が意をえたりというような顔して、こう言ったりする。
「だろうな。ぼくも先生がA型だと思っていた。どこか変態だから」と。

で、おもむろに私はこう言う。
「ハハハ、残念でした。ぼくはO型でした」と。

中には、「O型の人は、(「O」の文字が丸いので)、人間的に丸みのある
人」とか、「AB型の人は、A型とB型の両方の性格を合わせもっている」
などと説く人がいる。

バカバカしい。

で、大村政男氏は、「FBI効果」という言葉を使っている。

(1)FREE SIZE効果
(2)BRAND効果
(3)IMPRINTING効果の、3つの頭文字をとって、
「FBI効果」と。


(1)REE SIZE効果というのは、だれにでも当てはまるようなことを
特徴として並べることをいう。
(2)BRAND効果というのは、血液型を先に見て、そのブランドで相手を
判断してしまうことをいう。
(3)IMPRINTING効果というのは、少しでも当たっていたりすると、
「当たっている」と思い込んでしまうことをいう(同氏)。

こうして血液型による性格判定なるエセ科学が、この日本だけにはびこってしまった。

そういう意味では、日本というより、日本人は、まだまだ。
考える力どころか、批判力さえ、じゅうぶんに育っていない。
(だからこそ、この世界は、おもしろいが……。完成されてしまったら、書くことその
ものが、なくなってしまう。)

あなたの子どもが血液型による性格判定を口にしたら、すかさず、こう言ってやろう。
「性格は、あなた自身でつくるもの」と。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】

●3GB→4GBへ

書斎には2台のパソコンがある。
ほかにもう1台、予備が置いてあるが、これはほとんど使っていない。

2台のうち、左側が、VISTAマシン。
右側がXPマシン。

VISTAマシンのメモリーを、昨日3GBから4GBに増設した。
そしてそのVISTAマシンから、メモリーをそのまま抜いて、
XPマシンへと移動した。
XPマシンのメモリーは、2GBから3GBになった。

そのせいか、VISTAマシンが、心持ち軽快になった。
またあれほど不調つづきだったXPマシンが、うそのように快適になった。
原因は、どうやらメモリーにあったらしい。

こういうときは、気分がよい。
しばらくこのまま使ってみて、10月の誕生日が近づいたら、新しい機種の
購入を考えよう。


●ブラジルの人

ブラジルの人たちというのは、おもしろい。
雨の日でも傘をささないで、通りを歩いている。
(日本の学校へ通う子どもたちは、傘をさしているが……。)
昨日も小雨だったが、全身ビショビショになって歩いている人を、何人か見かけた。
暑い夏ならともかくも、昨日は、車の中でもヒーターをたかねばならないほど、
寒かった。

傘をさす……こんな簡単な習慣ですら、国によって、異なる。
ドライブをしながら、ワイフとそれについて話しあった。

私「傘をさすのは、イギリス人と日本人かな」
ワ「オーストラリア人は、どうなの?」
私「イギリス系のオーストラリア人は、傘をさしていた。最近はみな、傘をさすように
なったけど、ぼくが学生のころには、傘は、あまり見かけなかった」
ワ「ズブ濡れになって、風邪をひかないのかしら……?」

私「家に帰ったら、すぐ熱いシャワーを浴びて、服を着替えるよ」
ワ「よその家に行ったときは、どうなのかしら? その家が濡れてしまうわ」
私「上着を脱いで、タオルで体をふいて、おしまい。家の構造そのものがちがうから、
家が濡れても平気だよ」と。

東南アジアの人たちも、あまり傘をささない。
(傘そのものがないと思ってよい。)
そのかわり、合羽(かっぱ)を、よく身につける。
合羽といっても、薄くて安い、ビニール合羽である。

また傘というのは、トルコで生まれたのだそうだが、そのトルコでも、傘をさす人は
ほとんどいないという(日本洋傘振興協議会hpより)。

が、日本人は、体や服が雨に濡れるのを嫌う。
嫌うから、少しでも雨が降り始めると、「傘、傘!」と騒ぐ。

国民性のちがいといえば、それまでだが、「日本の常識は、けっして世界の標準ではない」。
これもその一例ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●『カラマーゾフの兄弟』

新聞の書評欄によれば、最近、ドストエフスキーの書いた
『カラマーゾフの兄弟』が、売れに売れているという(中日新聞)。
私も学生時代に一度読んだことがあるが、よくできた推理小説という
印象しかもっていない。
しかし実際には、カラマーゾフ家の人々の愛欲の葛藤を描きながら、
中身は、キリスト教を代表するゾシマ長老と、無神論のイワンとの
壮絶なまでの闘いがテーマになっている。

ドストエフスキーは、ほかに『罪と罰』という本も書き残している。
こちらも推理小説風の柱立てをしながら、有神論と無神論の闘いが、
大きなテーマになっている。

当時のロシアは、キリスト教国。その圧迫感が、国民1人ひとりの
上に、重くのしかかっていた。
それは想像を絶する圧迫感だったといってもよい。ドストエフスキーは、
そうした圧迫感と、文学を通して闘った。

これは私の勝手な解釈によるものだが、しかしそういう視点をもって
ドストエフスキーを読むと、より理解しやすいのではないだろうか。
残念ながら、学生時代の私には、そこまで理解する力がなかった。
『カラマーゾフの兄弟』にしても、だれが父親フョードルを殺したか、
その部分だけを、ハラハラしながら読んだ覚えがある。

また少し前は、小林多喜二の『蟹工船』がよく売れたという。そのため日本
共産党への入党者が、ふえているという。
こうして日本の流れを大きくながめてみると、AS総理大臣誕生に向けて
動く極右派と、その一方で、静かなブームとなっている極左派の二極化が
進んでいるということになる。

で、その中間層にあたる「常識派」は、ますます政治に無関心になりつつある。
しかしこれは日本にとって、あまり好ましくない傾向とみてよい。
つまりその分だけ、社会が不安定化する。
どこか世相が、1970年の、あの第二次安保闘争時代に、似てきたような
感じがする。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争】(9・18)

●9月14日に書いた記事のまちがい訂正と、お詫び

++++++++++++++++++

去る9月14日に、【日韓経済戦争】と題して、
韓国の「外平債」について書きました。
しかし「外平債」というのは、いわば外国向けの
国債のことで、韓国銀行が独自に発行する、
「通貨安定証券」とは別のものです。

この両者を混同し、まちがった記事を書いて
しまいましたので、ここにおわびし、記事を
訂正します。

まず9月14日に書いた原稿を、そのまま再掲載
します。

++++++++++++++++++

【日韓経済戦争・9・14】

●外平債って、何?

++++++++++++++

まず、朝鮮N報のつぎの記事を読んでほしい。
こうある(9月13日)。

++++++++++++++

『企画財政部は11日、10億ドル(約1070億円)規模の外国為替平衡基金債券(外
平債)の発行に向け、米ニューヨークで外国人投資家と交渉を進めたが、発行条件をめぐ
る要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した。アメリカ金融不安のあおりで、起債
計画に支障が生じた格好だ』(朝鮮N報より抜粋)と。

日韓経済戦争は、まだ終わっていない。
韓国の「9月危機説」も、まだ終わっていない。
その証拠が、この記事である。

まずこの2週間の韓国経済の流れを追ってみよう。
その第一、韓国政府は、手持ちの外貨を大量に使って、ウォン買い、ドル売りの大攻勢に
出た。
その額は今のところ不明だが、10月になればはっきりする。
つまり韓国政府は、一か八かの大勝負に出た。

このまま座視すれば、外資はどんどんと逃避し、ウォンの価値はさがる。
物価は上昇し、国内経済は混乱し、へたをすればそのまま奈落の底へ。

そこでなけなしの手持ちドルを使って、韓国政府は、ウォン買いの大攻勢に出た。
いわば貯金を使って、ウォン防衛に打って出たことになる。
しかしへたをすれば、やがて外貨不足になって、(すでに不足状態だが)、韓国はデフォル
ト(債務不履行)に陥りかねない。

結果、一時は、1ドル=1400ウォンまでさがっていたウォンが、現在(9月14日)
は、1100ウォン前後で落ちついている。

韓国の各紙は、政府談話を織り混ぜながら、「9月危機は去った」とはしゃいでいる。
しかし「待ったア!」。

ここに出てくる、「外国為替平衡基金債券」、略して「外平債」というのは、わかりやすく
言えば、韓国銀行(日本の日銀にあたる)がする、借金のことである。
わかるかな?
韓国政府の借金ではなく、韓国銀行の借金である。
こんなことは日本の常識では考えられない。
それともあなたは、日本の日銀が、いまだかって、外国に借金をしたというような話を聞
いたことがあるだろうか。
あるはずがない。
そもそも「外平債」というのが、世界の非常識。
どこの中央銀行が、外国に借金など、申し込むだろうか。

が、韓国銀行は、それをアメリカのニューヨークで行った。
いわく「発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した」と。
その理由として、「アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ」と。
たくみにアメリカ側のせいにしているところが恐ろしい。

理由は、アメリカの金融不安ではない。
「発効条件が折り合わなかった」からである。
朝鮮N報の同記事も、末尾のところでこう書いている。

「企画財政部のS・J国際業務管理官は、『交渉過程で外国人投資家が韓国経済に対する懸
念を抱いていないことを確認したが、アメリカ市場の状況が思わしくなく、高い金利を要
求された。あえて悪条件で発行する必要するはないため起債延期を決めた』と説明した」
と。

つまり外国人投資家は、韓国経済に対して、懸念はもっていないが、高い金利を要求した
ので、折り合わなかった、と。

現在、原油や金属市場から逃げ出した資本は、いっせいに株式、債権に向かい始めている。
「アメリカの市場が思わしくないので」という理由は、ウソと考えてよい。
本当の理由は、「韓国経済に不安をいだいた投資家たちが、高い金利を要求した」からであ
る。
朝鮮N報にも、そう書いてある。

「金は貸してもいいが、金利を高くしてくれなければ、いやだ」と。
だから折り合いがつかなかった!

つまりこの流れを裏から読むと、韓国銀行には、手持ちの外貨がなくなってしまった。
そこで韓国銀行は、ニューヨークで借金をしようとした。
しかし「金利を高くせよ」と迫られて、結果的に、それを断わられてしまった。

……ということで、「9月危機」は、去ったわけではない。
終わったわけでもない。
いまだ、現在進行中。

さあ、どうする、韓国。
つぎの一手は?

+++++++++++++++++

(ワイフのために……)

わかりやすく説明しよう。

各国の中央銀行(日本のばあい、日銀)は、金の管理をするのが仕事。
もっとわかりやすく言えば、輸出入で出入りする金の決済をするのが仕事。
ほかにも公定歩合などを調整する仕事もあるが、借金までして外貨を調達するというのは、
少なくとも世界の常識からは、完全にはずれている。

これに対して政府が借金するばあいは、ある。
日本の国債などは、その一例。

で、韓国のばあい、韓国銀行そのものに、ドルが不足してきた。
韓国の輸出入業者が、ウォンをドルに換えてほしいといってきたとき、手持ちのドルがじ
ゅうぶんあれば、問題はない。
しかしそのとき、「ドルがありません」と言えば、債務不履行の状態になる。
つまりデフォルト。
国家破綻。

それを防ぐために韓国銀行は、世界ではほとんど前例のない、「外平債」の発行をつづけて
いる。
その額、今回は、10億ドル。
私の推測では、韓国政府は、この7月に70億ドル程度の為替介入をしている。
それをベースに推測してみると、9月に入ってからは、おそらく100億ドル程度の為替
介入を繰りかえしたとみてよい。

韓国の経済規模からすると、これはたいへんな額である。
それと比べると、10億ドルというのは、そうたいした金額ではない。
つまりそんな金額ですら、「断わられた」。

韓国の9月危機は、終わったわけではないという理由は、ここにある。

【お詫び】

韓国銀行は独自に、外債を発行して外貨を調達していますが、それはここでいう「外平債」
ではなく、「通貨安定証券」のことでした。
韓国銀行は、国債ではない国債、つまり「通貨安定証券」を発行し、借金をしています。
その「通貨安定証券」と、「外平債」をまちがえました。
ここに深く、おわび申し上げます。

ただだからといって、韓国の経済危機が軽くなったというわけではありません。
見方によっては、「外平債」、つまり「外国向けの国債」ですら、アメリカではソッポを
向かれたということになります。かえってことは、より深刻になっているということ。
その事実は変わりません。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 カラマーゾフ
の兄弟 外平債 通貨安定証券 蟹工船)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2829)

【T林業高校での、成績改ざん事件】

『静岡県西部の県立高校で2006年、大学の推薦入試に有利になるよう生徒2人の調査
書が改ざんされた問題で、T竜署と県警は22日、このうち1人の調査書改ざんに対する虚
偽有印公文書作成・同行使の容疑で、元T林業高校長、北川Y容疑者(60)=浜松市浜
北区内野台=を逮捕した』(中日新聞記事より)と。

これに対して、北川Y容疑者(法律の世界では、被疑者)は、「担任には(入学できるよう)
頑張ろうとは言ったが、改ざんを指示されたと取られたら心外だ」などと否認していると
いう(同紙)。

もう少し、新聞記事の内容を詳しく読んでみよう。

『調べでは、北川容疑者は校長だった同年9月から同11月にかけて、同校で東京都内の
大学を志望する3年生の調査書の評定を改ざんするよう担任らに指示。3・1だった評定
を、推薦出願基準を満たす3・5にかさ上げさせた調査書を、大学に提出した疑い。

 県教委の調べでは、別の生徒1人の調査書改ざんも判明。2人とも推薦入試に合格し、
入学している。

 県教委などに同校関係者とみられる匿名の通報があり発覚した。北川容疑者や教員らを
名指しし、「地元有力者の身内である生徒の調査書が改ざんされている」といった内容。県
教委は7月、同容疑で刑事告発していた。県警は改ざんの指示に対し、生徒側からの働き
掛けや不正な金品の受け渡しがなかったか、北川容疑者を追及する。

 同日夜には北川容疑者の自宅と同校を家宅捜索。今後も含めて、周辺計9カ所を捜索す
るという。改ざんを指示されたとされる教諭4人についても任意で事情聴取を続け、裏付
けを進める。

 遠藤K静岡県教育長の話 警察に委ねており、捜査の状況を見守りたい』(同紙)と。

この記事の中での最大のポイントは、(1)改ざんの発端となった、動機の内容である。
それについて、同じく中日新聞は、つぎのように書いている。

○少子化、過疎化の問題を抱える中山間地の専門高校のトップに就き、生徒募集を有利に
進めるため学校の知名度アップにも熱心だった。

○森谷睦男・現校長は「改ざんは絶対に許されない」という認識を前提に「教諭4人は生
徒に希望の学校にいってもらいたかったという気持ちが強かったと思う」と話した。

○同校の大学進学率は10%前後。「希望の大学に入ってくれれば、学校の知名度も上がる」
と明かす。

○「指導熱心で前向きな先生」−。生徒2人の調査書の改ざんを教員に指示したとして逮
捕された地元の伝統校、天竜林業高校の元校長北川容疑者。
 
○生徒数は減少傾向にあり、現在は400余人。「二俣高校と合併する話もでているほどで、
学校は必死」と訴える。
 
さらに地元の「天竜・そま人の会」HPは、つぎのように北川容疑者を弁護する。

「この事件の要因として忘れてはいけないのは、林業全体が追いやられている危機的な状
況。各自がそれぞれの分析と判断をしていただければと思います」(天竜・そま人の会・HP)
と。

で、結果的に、北川容疑者は、地検浜松支部に起訴された。

『県立T林業高校での大学推薦入試調査書の改ざん事件で、地検浜松支部は11日、当時
の校長で無職、北川Y容疑者(60)を虚偽有印公文書作成罪で地裁浜松支部に起訴した。

 起訴状などによると、北川被告は06年9月中旬ごろ、同校の教員らに指示して当時高
校3年生だった生徒の評定平均を3・1から3・5に引き上げ、公印を押させて調査書を
改ざんした。北川被告は虚偽有印公文書作成・同行使容疑で先月22日に逮捕されたが、
地検浜松支部は「調査書の提出を最終的に決定するのは生徒側」とし、同作成罪でのみ起
訴した。

 北川被告は「やっていない」と否認を続けており、供述調書への署名、押印も拒否して
いるという』(毎日新聞)と。

で、この事件の最大のポイントは、動機。

報道によると、調査票を改ざんしてもらい、東京の大学に進学できたのが、「地元の有力
者」であったとうことから、有力者からの働きかけがあったかどうか。その際に、金銭の
授受があったかどうかという点についても、捜査しているという。

毎日JPもつぎのように報道している。

『北川容疑者は、「働きかけをした覚えはない。そんな風にとらえられたのは心外だ」と
容疑を否認しているが、県警では、生徒の親族である地元有力者から依頼や謝礼があった
かについても追及する方針』(毎日JP)と。

もし(地元の有力者からの働きかけがあり)→(金銭的利益の授受があった)ということ
であれば、これは単純な贈収賄罪ということになる。
たまたま教育の場でなされたというだけで、事件の構図は、談合事件などと同じ、ただ単
なる「汚職事件」ということになる。

「知名度をあげるためにした」「学校の存続をかけて必死だった」などという言葉は、ただ
の言い訳でしかない。

で、あくまでも金銭的利益の授受がなかったという前提で話をするなら、(仮にあったとし
ても、その双方が口を割ることはないだろうが)、今回の事件は、「生徒の将来を思わんば
かりにした、教育熱心な教師による善意の事件」ということになる。
教師の立場で考えてみよう。

(1)成績表の信頼性
(2)点数主義の弊害
(3)少子化による入試制度そのものの形骸化
(4)大学教育の不備、欠陥があげられる。

順に考えてみる。


(1)成績表の信頼性と(2)点数主義の弊害

成績表なるものが、いかにいいかげなもにであるかは、現場の教師なら、みな知っ
ている。
それがわからなければ、男たちが働いている職場での勤務評定を見ればよい。
評価のし方としては、相対評価、絶対評価があり、さらに点数主義、人物主義があ
る。
人物主義にしても、最近では、人格の完成度(EQ論)を応用する学校もふえてい
る。
「勉強しかできない」「勉強しかしない」「頭の中は偏差値でいっぱい」という学生
を排除しようとする傾向も強くなってきている。
さらに高校からあがってくる調査票を無視して、大学独自で、独特の選抜方法をと
る大学もふえてきている。

「AO方式」と呼ばれる入試選抜方法も、ふえている。

++++++++++++++++++

●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入
試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス
入試)です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、199
0年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2
001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の
一途をたどっています。

自己推薦制などに
似た入試形態です。 学力では測れない個
性豊かな人材を求
めることを目的と
していて、学力よ
りも目的意識や熱
意・意欲を重視し
ています。

入試までの一般的
な流れは、(1)エ
ントリーシートで
出願意志を表明し、
(2)入試事務局
とやりとりを行っ
てから正式に出願
するといったもの。

選考方法は面談が
最も多く、セミナ
ー受講、レポート
作成、研究発表と
いった個性豊かな
ものもあります。

出願・選抜方法、
合格発表時期は大
学によって様々で
、夏休みのオープ
ンキャンパスで事
前面談を行ったり
、講義に参加した
りする場合もあり
ます。「どうしても
この大学で学びた
い」受験生の熱意
が届いて、従来の
学力選抜では諦め
なければならなか
った大学に入学が
許可されたり、能
力や適性に合った
大学が選べるなど
、メリットはたく
さんあります。

ただし、「学力を問
わないから」とい
う安易な理由でこ
の方式を選んでし
まうと、大学の授
業についていけな
かったり、入学し
たものの学びたい
ことがなかったと
いったケースも考
えられますから、
将来まで見据えた
計画を立てて入試
に望むことが必要
です。

AO入試は、もと
もとアメリカで生
まれた入試方法で
、本来は選考の権
限を持つ「アドミ
ッションズ・オフ
ィス」という機関
が行う、経費削減
と効率性を目的と
した入試といわれ
ています。 AOと
は(Admissions
 Office)の頭文
字を取ったもので
す。

一方、日本では、実は現時点でAO入

試の明確な定義が
なく、各大学が独
自のやり方で行っ
ているというのが
実情です。

しかし、学校長か
らの推薦を必要と
せず、書類審査、
面接、小論文など
によって受験生の
能力・適性、目的
意識、入学後の学
習に対する意欲な
どを判定する、学
力試験にかたよら
ない新しい入試方
法として、AO入
試は注目すべき入
試だということが
できるでしょう」
(同サイトより)。


●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制など
に似た入試形態です。
 学力では測れない
個性豊かな人材を求
めることを目的としていて、学力よりも
目的意識や熱意・意
欲を重視しています。

(2)高校の学校長
の推薦が必要なく、
大学が示す出願条件
を満たせば、だれで
も応募できる「自己
推薦制・公募推薦制」
色の強い入試。選考
では面接や面談が重
視され、時間や日数
をかけてたっぷりと
、しかも綿密に行わ
れるものが多い。

(3)模擬授業グル
ープ・ディスカッシ
ョンといった独自の
選抜が行われるなど
、選抜方法に従来の
推薦入試にはない創意工夫がなされてい
る。

(4)受験生側だけでな
く、大学側からの積
極的な働きかけで行
われている

(5)なお、コミュニケー
ション入試、自己ア
ピール入試などとい
う名称の入試を行っ
ている大学がありま
すが、これらもAO
入試の一種と考えて
いいでしょう」(同サ
イトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタ
イプがあるとされ
る。選考は次のよ
うに行われている

が一般的のようで
ある。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を
課したり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面
接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学
力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビュー
行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登
録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、
志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出する
ことが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、
学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイ
プ……なお、コミュ
ニケーション入試、
自己アピール入試な
どという名称の入試
を行っている大学が
あるが、これらもA
O入試の一種と考え
ていいでしょう」(同
サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、
これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。
ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用
することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)

+++++++++++++++++

(3)少子化による入試制度そのものの形骸化

「大学へ入れてやりたい」と思う高校側。
しかし現実には、そこには「1人でも多くの学生を入れたい」という大学側の事情もある。

北川容疑者は、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で起訴されたが、「だからそれがどうな
の?」と、いちばん首をかしげているのが、ひょっとしたら、教育関係者自身ではないか。
私自身もそうである。

というのは、「教育」というのは、もっとファジー(あいまい)な部分で成り立っている。
自動車にたとえるなら、ハンドルの(遊び)のようなもの。
成績は、あくまでもその結果でしかないが、しかしたとえテストの点が悪くても、がんば
ったという姿勢が見られたら、成績表をあげる。
反対に、テストの点がよくても、態度が粗放で、その人間性に疑問をもてば、成績表をさ
げる。

こうした成績表の操作は、とくに小学校レベルでは、ひんぱんに行われている……という
おわさは、よく耳にする。
そもそも成績表を正確につけるなどということは、不可能。
さらに科目別に正確につけるなどということは、さらにさらに不可能。
そんなことは、現場の教師なら、みな知っている。
たいての教師は、その子どもの顔や様子を思い浮かべながら、(もちろんテストの点数を
参考にすることはあるが)、「適当に成績をつけている」(某小学校教師)。

むしろ以前のように、点数だけで人物を評価したり、進学先を決めることのほうが、異常
なのである。
その異常さに、みなが、気がつき始めている。

そういう中で、今回の事件は起きた。

そこで最後に

(4)大学教育の不備、欠陥があげられる。

これは欧米の大学との比較だが、現在、EUを中心として、欧米では、単位の共通化がさ
らに進んでいる。

どこの大学へ入ろうとも、そこで取得した単位は、たとえばEU全体で共通化されている。
が、その分だけ、「入学するのは楽でも、単位を取得するのはむずかしい」という現実が生
まれている。

日本のように「入学してしまえば、しめしめ」という現実そのものがない。

仮に成績をごまかして入学してきても、そのレベルに達しなければ、進級できないという
しくみが、大学内部で確立すれば、こうした問題は、すべて解決する。
つまりは、大学教育の不備、欠陥ということになる。

高校側だけを責めるのは、酷というもの。

実際、東京大学で、入試選抜委員を務めたことがある、ある教授は、こう教えてくれた。

「インチキをしても、今ではすぐ、コンピュータに入力し、次回(翌年)からの入試デー
タとして利用します」と。
「そういうデータを大学側は、しっかりもっていますよ」と。

つまり「あの高校の調査書はあてにならない」とわかれば、その翌年から、その高校の調
査書は信用されなくなるということ。
そういう現実があることを、一般の人たちもよく知っておくべきである。

……ということで、私の結論。

「虚偽有印公文書作成・同行使容疑」ということだが、教育の世界では、見方によっては、
成績表すべてが、「虚偽有印公文書」のようなもの。
どこかで歯止めをかけないと、メチャメチャになってしまうという点で、今回の告発は当
然だとしても、O県で起きた、たとえば教員の不正採用事件とは、本質的に異質のもので
ある。

もちろん、「地元有力者」と、北川容疑者との間で、金銭的な授受関係があったとしたら、
話は別だが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 天竜高校 成績表改ざ
ん事件 成績表改竄)




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●美しい声

先週、BW教室では「音感」のレッスンをした。
この時期、子どもの発声の仕方をていねいに見れば、音感障害があるかどうか、わかる。
音感障害(昔は「音痴」と言った)がある子どもは、ドレミ……の音階が、正確に発声
できない。
みなといっしょに歌を歌うときでも、音程がズレる。

もうひとつのタイプは、「音」そのものが、拾えない。
私が独特の抑揚をつけて、「♪こ〜ん〜に〜ち〜は〜」と言い、それを子どもたちに
復唱させてみる。
正確にできる子どももいれば、そうでない子どももいる。

だから理論的には、難解なピアノ曲をスラスラと演奏できる一方で、歌は、まったく
ダメという子どももいるということになる。
反対に歌はうまいが、楽器の演奏はまったくダメという子どももいるということになる。

こうした音感障害について、「ていねいな指導でなおる」と説明する先生もいるが、
どうその(ていねいな指導)をするのか。
そのエネルギーと子どもへの負担を考えるなら、「うちの子は音楽は苦手」というくらいに
考えて、その問題からは遠ざかったほうがよい。
(どうしても歌手にでもしたいと親が考えているなら、話は別だが……。)

というのも、この時期、音感にすぐれた才能を示す子どもは、驚くほど、すぐれている。
3つの音を同時にピアノなどで鳴らしても、正確にその音の音名を言い当てたりする。
その(差)を多少縮めたぐらいで、それがどうだというのか。
(少し、冷たいかな?)
つまり私が言いたいのは、子どもには、得意、不得意の分野がある。
子どもを伸ばすコツは、得意分野をのばし、不得意分野には、目をつぶる。
子どもをけっして、オールマイティにしようと考えないこと。
不得意分野を伸ばそうとすると、得意分野を伸ばすときの数倍、あるいは
それ以上のエネルギーを必要とする。
親もたいへんだが、子どもも、もっと、たいへん。

子どもというのは不思議なもので、得意分野がどんどんと伸び始めると、
つられて不得意分野も伸びてくる。
中学生でも、英語が伸びてくると、それほど勉強しなくても数学も伸びてくる。
そういう現象が、よく観察される。

だから音感障害と、構えて深刻に考えないこと。

さらに、ときどき美しい声をもった子どもに出会うことがある。
「少し練習すれば、すばらしい声になるだろうな」と思う。
思うが、そこまで。

一度は、幼児だけで合唱団を結成してみたい。
……私はそんな夢をずっと、もちつづけている。
しかし今の私にはその時間もないし、私の才能にも限界がある。
合唱団員を8年間してきたというだけ。
へたの物好きというか、私は合唱団の中では、いつもお荷物だった。
そんな思いが、こと合唱となると、つまり「弱化の原理」として働いてしまう。
(やる気)と(熱意)を奪ってしまう。

というわけで、音楽は好きだし、今の私には、音楽なしの生活は考えられない。
どのパソコンにも、数百曲以上の曲を入れている。
一時期は作曲に凝ったこともあるが、結局はものにならなかった。
で、今は、楽しむだけ。
もっぱら楽しむだけ。
今さら作曲家になりたいとは、思わない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●ユングの「シャドウ論」

++++++++++++++++++H.Hayashi

まじめで、かたぶつそうな父親。
世話好きで、一日中、こまめに動き回っている母親。
父親は現在、鉄道会社に勤めている。
父親の年齢は、45歳。
母親は、2〜3歳、年下だと思う。
その両親には、3人の子どもがいる。
長男(現在20歳)、長女(18歳)、それに二男(15歳)。

事の発端は高校1年生になったばかりの二男が、無免許運転で逮捕、補導
されたことによる。
同乗者に、全治1か月の怪我を負わせた。
それでそのまま高校を強制退学。

母親に頼まれて面接してみると、これがまた絵に描いたような、非行少年。
ふてぶてしい態度。
こちらがまじめに話しかければ話すほど、ニヤニヤ笑っているだけ。
態度も横柄で、ソファにでんと両手を伸ばして座っている。
初対面の大人と話すような態度ではない。

で、そこへ長男がやってきた。
「迎えに来た」ということだったが、長男を見て、私はまたまた驚いた。
20歳だというが、太った大柄な男だった。
眉に剃りを入れ、これがまた絵に描いたような、暴力団風の男。

私は、18歳になったという長女に会いたくなったが、母親の話では、どこかの
男と、駆け落ちして、今は、家にいないという。
16歳で妊娠、現在は1児の母親になっているという。
私はその話から、その長女が、現在どういう状態のか、容易に察しがついた。

が、問題は、3人の子どもたちが、みな、そうなったかということ。
「子どもは、家族の代表にすぎない」と、最近の発達心理学では考える。
しかし私が見たところ、両親は、ごくふつうの両親である。

で、私はこう考えた。
まず、長男が、自己の同一性の構築に失敗し、非行の道に入った。
その影響を、長女、二男が受けた。

しかしそれにしても、合点がいかない。
兄弟どうしの影響力は大きいが、下の子どもが、それを反面教師とするケースも
少なくない。

で、そうこうして、その数か月後のこと。
今度は父親が、二男を連れて私のところにやってきた。
どこかの高校に再入学したいが、その方法はあるか、と。

丸顔のどちらかというと、もの静かそうな男性だった。
鉄道会社では、保守の責任者をしているということだった。
がっしりとした体格をしていた。
が、やがて様子が変わってきた。

二男が父親の説教に対して、あいまいな返事を繰り返していると、突然、父親が
怒鳴り始めた。

「テメエ、このヤロー、ちゃんとオレの話を聞け、バカヤロー」と。

ドスのきいた、恐ろしい声だった。
私が仰天していると、さらに、「テメエナア、自分のしたことに責任を取れないって
いうのかヨ! つべこべ言わないで、オレの話を聞け!」と。

それは言葉というよりは、暴力団の叫び声そのものだった。
と、同時に、私の頭の中で、ジグソウパズルが、自動的にバタバタと組みあがった。

3人の子どもたちは、ユングが説くところの「シャドウ」を、そっくりそのまま
引き継いでしまっていたのだ。

シャドウ……これを発見したユングという学者は、ものすごい人だと思う。
こういうこと。

人はだれしも、その場、その場で、その場にふさわしい仮面をかぶる。
ショッピングセンターの店員も、鉄道会社の駅員も、教師も、医師も、弁護士も、
そして牧師も、みなかぶる。
私だって、かぶる。

大切なことは仮面をかぶるのは仕方ないとしても、どこかでその仮面を
脱ぐことを忘れてはならない。
脱いで、自分に戻らなければならない。
が、中には、その仮面を脱ぎ忘れてしまう人がいる。
そして自分の中に潜む(邪悪な自分自身)を、そこに閉じ込めてしまう。
その(閉じ込められた自分自身)を、「シャドウ」という。

外国でよく例としてあげられるのは、教会の牧師である。
中には、表では善良な牧師を務めながら、裏で、児童を性的に虐待している牧師がいる。
こういうケースのばあい、表の牧師の顔は、「仮面(ペルソナ)」ということになる。
それをかぶったまま、教会では、絶対的な善人として振る舞う。

が、この問題は、ここから始まる。
ここからが恐ろしい。
こうしてできあがった「シャドウ」は、そっくりそのまま子どもに引き継がれていく。
仮面を引き継ぎのではない。
シャドウを引き継ぐ。

だからよくあるのは、父親が牧師で、息子が凶悪犯というケースである。
教師の息子が、凶悪犯になることもある。
日本にも、過去において、信じがたいような凶悪事件を犯した子どもがいた。
たいていごくふつうの(?)、しかも高学歴の両親をもった子どもである。
そういう子どもが、世の中を震撼させるような大事件を引き起こす。

しかしこういうケースでも、ユングのシャドウ論を当てはめて考えてみると、
納得がいく。
あくまでも可能性として論ずるだけだが、可能性としては、どのケースにおいても、
それぞれの両親は、仮面をかぶったまま生活し、自分の中の邪悪な部分を、心の
片隅に押し殺してきた。
それをそっくりそのまま子どもが、引き継いでしまった。

で、最初の話に戻る。
「子どもは家族の代表にすぎない」。
子どもに何か問題を見つけたら、子どもを「直そう」と考えるのではなく、
家族のどこにどのような問題があるかを知る。
親は、自分の子どもの非行をはげしく叱っていたが、子どもは、親のシャドウを、
そのまま引き継いでいただけかもしれない。

私は一見善良そうに見える父親の横顔を見ながら、「これは子どもの問題では
ないのだがなあ」と思った。

さて、あなたはどうだろうか。
無理に善人ぶっているようなことはないだろうか。
仮面をはずすことを忘れてはいないだろうか。
邪悪な自分を、どこかで押し殺しているようなところは、ないだろうか。
もしそうなら、あなたの子どものために、それはやめたほうがよい。

あなたはあなたで、ありのままのあなたで生きたほうがよい。
自分をさらけ出しながら、生きたほうがよい。
そのほうが子どもも、すなおな子どもになる。

(補記)
ありのままに生きるとしても、ありのままに生きるだけに足りる(自分)が
なければならない。
自分をさらけ出したとたん、相手にあきられてしまうようでは困る。
だから……。
自分の子どもをすばらしい子どもにしようと考えたら、まず、自分の中から、邪悪な
自分を追い出す。
方法は簡単。

ウソをつかない。
ルールは守る。

これだけを金科玉条のごとく守る。
人が見ているとか、見ていないとかに関係なく、守る。
その積み重ねが、月、年となって、やがてその人の人格を形成する。
その人格を見て、子どもは、あなたという親を、親としてではなく、
ひとりの人間として評価する。
そのときそれに耐えうるような人間であれば、それでよし。
そうでなければ、結局は、悲しい思いをするのは、あなた自身ということになる。

子育てって、こわいね、ほんと!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●正常者と非正常者

+++++++++++++++++++

最近の心理学、なかんずく精神医学では、
「正常者はいない」という前提で考えるという。
そもそも「正常者とはどういう人をいうのか」、
その定義すらない。

多かれ少なかれ、程度の差こそあれ、どんな人でも、
心の問題をかかえている。
しかも内容は、千差万別。

ふだんは何ともなくても、ある特定のことがらに過敏に反応する
人となると、ゴマンといる。
心の傷(トラウマ)をもった人となると、もっと多い。

で、一定のワクを超えた人を、非正常者というのだろうが、
その「ワク」そのものが、明確ではない。
ワクに対する耐性も、人、それぞれ。

そこでキリストや釈迦はどうだったかということになるが、
キリストにせよ、釈迦にせよ、人間だったという前提で考えるなら、
「正常者だった」と言い切ることはできない。
現にキリストは、孤独に苦しんだ(マザーテレサ)。

この私だって、ある時期までは、自分の心の病気を隠そうとした。
しかしやがて、「心に病気をもっていない人はいない」ということに気づいた。
むしろこの世界では、「私は正常だ」と言い切る人のほうが、あぶない。
で、それ以後は、正直に自分の心の問題と向きあうようになった。
文にも書くようになった。

同じような問題に、「障害者」という言葉がある。
最近の精神医学では、これは西洋医学の宿命のようなものだが、まず診断名を
つけたがる。
診断名をつけないと、落ち着かないらしい。
その結果、「〜〜障害」「〜〜障害」という言葉が、氾濫するようになった。

しかしこの問題も、「どういう人を障害者といい、どういう人をそうでないと
いうのか」、その基準が明確ではない。
さらに人間の心は複雑。
いくつかの障害を、複合的にもっている人など、いくらでもいる。

先日もあるドクターから、こんな話を聞いた。

「ある統合失調症の患者だが、薬物療法で、症状が消えた人もいる」と。

それに対して、私が「最初の見立てがまちがっていたのではないですか?」と聞くと、
そのドクターは笑いながら、こう言った。
「実は、そういうケースも多いのです」と。

統合失調症(以前は、「精神分裂病」と呼ばれていた)のような、診断法が確立された
世界でも、そういうことがある。
(ただし統合失調症にも、いろいろなタイプがある。)

さらに言えば、人の心というのは、そのときどきにおいて、微妙に変化する。
環境が変わっても変化する。
それまで何ともなかった人でも、たとえば肉親の死に接したりすると、精神そのものが、
変調する。
「正常」といっても、いつもその内側には、「非正常」を内含している。

だからみな、こう居直ればよい。
「私は正常ではない」と。
そう思って生きるほうが、ずっと気が楽。
あとはそういう自分と、うまくつきあえばよい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

++++++++++++++++

●脳の切り替え

++++++++++++++++

最近気がついたが、年齢とともに、
脳の切り替え、つまり、気分の切り替えが、
むずかしくなってきたように思う。

たとえば朝起きて、ニュースを読む。
暗いニュースがつづく。
気分が重くなる。
ついで手持ちの債権の価格が、下がっていることを知る。
気分がさらに重くなる。

この状態で、何か、ものを書き始めると、
文章そのものが、暗くなる。
「それではいけない」と思いつつ、気分を切り替えようとするが、
それがうまくいかない。

(こだわり)が強くなったせいかもしれない。
このところ、ひとつのことにこだわると、そのことがずっと頭から
離れない。
ひどくなると、(うつ病)になる。

一見、複雑に見える脳みそだが、そういう意味では単純。
一方でひとつの反応が起きると、それが脳全体に広がる。
ホルモンや、脳間伝達物質のことを考えるなら、当然の現象ということ
になる。
一度分泌されると、ホルモンにせよ、脳間伝達物質にせよ、それらは、
否応なしに、脳全体に広がる。

が、それでは正常な社会生活は営めない。

そこで気分の切り替えをする。
何か楽しいことを考えて、いやな気分を払いのけようとする。
で、そういう自分を観察しながら、ふと、「若いときは、こうでは
なかったのだがなあ」と思う。
「若いときは、気分の切り替えが、すぐできた」と。
つまりその分だけ、脳の融通性がなくなってきた。
今、そんな感じがする。

・・・これから先、この傾向はますます強くなるのか?
それとも全体的に、脳の活動が鈍くなるから、ものごとを深く
考えないですむようになるのか?

そのあたりのことはよくわからないが、気分の切り替えがスタスタと
できる人は、それだけ脳の機能も、すぐれているということになる。

一方、何かあるとすぐ八つ当たりする人というのは、それだけ脳の
機能が劣っているということになる。
そこで登場するのが、前頭前野ということになる。
脳のいわば、集中コントロールセンターということになる。
こうした脳みその欠陥を補うのが、前頭前野ということになる。
脳みその方で、切り替えがうまくできないようであれば、前頭前野の
ほうで、理性的にそれをするしかない。

・・・ということで、今日も始まった。
ここは気分を自分で変えるしかない。
YOU TUBEを聴いて、雑誌に目を通して、新しいパソコンを
いじってみて・・・、と。

そうそうたった今、ワイフがお茶を届けてくれた。
軽い会話をかわす。
冗談を言って、ワイフを笑わす。

少し気分が軽くなったかな?

今日もがんばります!


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●通勤電車

運悪く、豊橋から名古屋まで、通勤電車に乗りあわせてしまった。
名鉄電車で、一部が指定席になっている。
しかしその指定席は、この時間帯には、空きはない。
通勤用の客たちに、ずいぶんと前から予約されてしまっているからである。
しかたないので、普通車のほうに立つことに。

通勤電車といっても、押しあい、へしあいといったふうでもなかったが、
それでも通路には、人が歩けないほど、人が立っていた。

そういう光景を見ながら、つまり何かにじっと耐えるように黙って立っている人たちを
見ながら、いろいろ考える。
毎日、こうして1時間の電車に乗るとすると、往復で2時間。
1週間で、10時間(月〜金)。
1年を300日とすると、600時間。
それを24時間(=1日)で割ると、25日。
つまり1年のうち、約1か月を、こうした人たちは、通勤のために使っていることになる。
通勤時間の分だけで、1か月分の休暇になる!

この数字を見ながら、いろいろ考える。

もしこういう時間を、もっと有効に使うことができないか、と。
日本の労働力人口は、それだけで、約8%ふえることになる。
「会社へ行かなければどうしてもできない仕事」というのもあるかもしれないが、
そうでなければ、インターネットなどをさらに活用して、自宅でできる仕事を
ふやしたらよい。
あるいは電車の中でも、何かの仕事ができるようにすればよい。
(その分の時間は、当然、労働時間として組み入れる。)

……といっても、やがてそういうことも可能になるだろう。
目下、通信革命、進行中!

それにもうひとつ。

世界にもっとも非人間的な乗り物があるとするなら、それは通勤列車ということになる。
現代版奴隷船といっても過言ではない。
「みんな、よくがんばっているなあ」と思うと同時に、「私には、もうできない」と
思ってしまう。

こういう電車に乗るときは、ただひたすら何も考えず、ボーッとっしているのがよい。
ただひたすら、時間が過ぎるのを待つのがよい。
(あるいは私なら、DVDでも見ながら、過ごすかも……?
しかしざっと見渡したところ、そういう過ごし方をしている人は、ゼロ。
携帯電話で、ワンセグを楽しんでいる人はいるようだが……。)


●時間を有効に使う

「時間を有効に使う」。
もし1時間を2時間分に使うことができたら、その人の人生は、2倍分、長くなることに
なる。
が、問題は、どう有効に使うかということ。

ときどき、こんな経験をする。

朝、5、6時ごろから何かの活動を始める。
いつもなら昼過ぎにたっぷりと時間をかけてする仕事を、朝食前にしあげたりする。
それからいくつかの場所を回り、昼前には帰ってくる。
料理をしたり、洗い物をしたり……。
それから山荘へ行き、草を刈る。
夕方は市内で夕食を取ったあと、映画を見る。
帰りに途中のレストランで、お茶を飲む……。

そういう一日を振り返って、「今日は長かったなあ」と。

もちろんその反対のこともある。

午前10時ごろまで床の中でぐずぐずしている。
朝ごはんと昼ごはんを、いっしょに食べる。
あとは雑誌を読んで、テレビを見る。
外出といっても、野暮用。
帰ってきて、また居間にゴロリと横になる。
あとは時計を見ながら、風呂に入って、寝るしたく……。

そういう一日を振り返って、「今日は短いかかったなあ」と。

しかしここで大きな問題にぶつかる。

では、前者のような過ごし方が、「有効」で、後者のような過ごし方が、
そうでないと、言い切ってよいかという問題である。
そもそも「有効」とは何か?

このことは、欧米人のバカンスの過ごし方を見ているとよくわかる。
彼らにしてみれば、静かにボーッと時間を過ごすことを、最高にぜいたくな過ごし方
ということになる。
本を読んだり、音楽を聴いたり、絵を描いたり、魚釣りを楽しんだり……。
基本的な部分で、時間の過ごし方がちがう?

一方私たち団塊の世代は、ボーッとして時間を過ごすことに、大きな抵抗感を
覚える。
時に罪の意識さえ覚える。
仕事第一主義と言うわけではないが、「もったいない」という意識は、どうしても
残る。
言い換えると、(金儲け)につなげるからといって、有効に使っていることにはならない。
さらに言えば、「仕事」イコール、「生きがい」ということでもない。
つまりいつも仕事をしているからといって、時間を有効に使っていることにはならない。

よい例が、私の祖父である。
明治生まれの人だったが、8歳で丁稚奉公に出て、朝は日の出とともに働き、夕は日没
とともに、仕事をやめたという。
休みも、盆と暮れのみ。
祖父は祖父なりに、適当に息抜きをしたのだろうが、その分だけ、現代の私たちより、
時間を有効に使っていたかどうかとなると、それは疑わしい。

つまりこうして突きつめていくと、時間を有効に使うということは、いかにしてその中で、
「私」を追求するかということになる。
それができる人を、「時間を有効に使っている」といい、そうでない人を、「そうでない」
という。
忙しいから、時間を有効に使っているということには、ならない。


●体重が戻った!

今朝、やっと65キロ台に戻った!
(体脂肪率も、23%!)
2、3週間ほど前には、68・5キロ。
そのときから比べると、ペットボトル(2リットル)、約1本分、軽くなったことになる。
少し体が軽くなったように感ずる。
それにズボンもはきやすくなった。

が、あいにくと今日は、小雨模様。
運動はできない。
あとは、何とかして、64キロ台をキープ。
これからの1キロが、苦しい。


●兄の49日

近く、兄の49日がある。
無事、納骨をすませば、一段落。
こういう儀式は、みなに合わせてするがよい。
ただひたすら、おとなしく、無言で、ハイハイと言ってすませばよい。

何度も書くが、カルトが悪いのではない。
それを求める信者がいるから、カルトは存在する。
だから信者であるその人を相手にしても、意味はない。
勝ち目もない。

妥協するときは妥協して、みんなと仲よくする。
とくに親戚関係の人たちとは、そうする。

どうせ意味のない儀式なのだから……。


●株価大暴落

アメリカの証券会社(リーマン・ブラザーズ)の破綻を受けて、今日の株価は
大暴落。
先ほど株価を見てみたが、700円近い下げとか。
今後は、日経平均株価は、10000〜12000円の範囲を行ったり来たりする
とか(某経済サイト)。

こうした予想は当たったためしがない。
というのも、株価というのは、いつも予想を裏切る形で、上がったり下がったりする。

株価大暴落を受けて、今ごろ、がっくりきている人も多いはず。
信用買い(証拠金取引)をしている人ほど、そうだろう。
儲かるときはドサッと儲かるが、損をするときは、その数倍、ドサッと損をする。
結果的に見ると、素人が株で儲けるなどということは、ほとんど、ない。

しかしこれから世界経済は、どうなるのだろう?
おかしな胸騒ぎがする。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●サブプライム問題

アメリカへ行くたびに、私はこう思った。
「どうしてみな、こんな立派な家に住めるのだろう?」と。

地方の州の田舎町に行っても、日本ではめったにお目にかかれないような大豪邸が、
ズラリと並んでいる。

(もちろん貧しそうな小さな家もあるが、それでも、広さから見ると、日本の平均的な
家の2〜3倍はある。)

「日本では耐震に金を使うから」とか、「日本では土地代に金を使うから」とかと、
説明する人がいる。
「だから、日本の家は貧弱なのだ」と。

が、それにしても、ケタはずれに、立派。
大きい。

あるときは、私は日本への借金も返さず、よくもまあ、こういうぜいたくな生活が
できるものだと、腹が立ったことさえある。
当時(今から5〜15年前)、ドルが紙くずになりそうになるたびに、そのドルを
せっこらせっこらと買い支えてきたのは、この日本にほかならない。

で、サブプライム問題で、アメリカがコケた。
そしてその余波は、証券会社、さらには銀行へと、あらゆる金融機関を巻き込み
始めている。

私はその話を聞くたびに、当時、アメリカで見た、友人の家を思い出す。

年収といっても、ごく平均的な銀行マン。
そんな彼でも、ゆったりとした曲がり階段のついた二階建ての家に住み、地下には
客間と筋トレ専用の部屋をもっていた。
(ちょうど小さな崖に寄り添うように建てられていたので、見方によっては、3階建て
ということになる。)
「近く、プールも作る」と、そのときは、そう言っていた。

が、そういう家そのものが、国際的な標準とは、かなりかけ離れている。
その調整がすまないかぎり、サブプライム問題は、片づかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●兄の49日

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の49日の法要のために、実家へ行ってきた。
僧侶と、私たち家族、計4人だけの、
静かな法要だった。

その「49日」については、こんな由来がある。

漢字の「七」は、もともとは、腹を横、縦に切って、内臓が
飛び出している様子を表したものだという(「本当は怖ろしい漢字」・
小林朝夫・彩図社)。
どこかこじつけ的な感じがしないでもないが、「七」という数字が、
中国ではあまり好まれていないのは、事実。

「十字切りの腹切りは、腹を横に一度切ってから、腹に刺さったその刃物をいったん
引き抜き、もう一度自分の腹の上部に差し込んで、今度は縦に引き下ろすというもの
だ。
その際に『十』の形に切った切り口の下のほうから、血まみれの腸が外へ飛び出して
しまう。
『十』という字に、飛び出た血だらけの腸の形を付け足したのが、『七』なのである」
(同書)と。

「七」という漢字は、怖ろしい漢字ということになる。

そこで中国では、「天に昇った死霊を弔う行事である七夕。亡くなった者を供養する
最初の日は、初七日。喪に服すのは七日の二乗である四十九日。
このように『七』には、常に『死』がつきまとう。
『七福神』というめでたいイメージもあるが、これは『七』がもつ不吉さを払いのける
ための存在なのだ」(同書)と。

英語では「ラッキー・セブン」と言って、「7」を、めでる傾向がある(同書)。
しかし中国では、その逆。
「七」は、不吉な数字だったらしい。

ということで、初七日が生まれ、49日の法要が生まれた。

……ところで、一週間は、7日。
兄のばあいは、7日ごと、ちょうど1週間ごとに、法要を繰り返した。
そして7回目の今日、49日の法要があった。

住職による読経のあと、墓まで行き、納骨をすませた。
静かな、静かな、どこまでも静かな法要だった。

ついでに申し添えるなら、初7日の法要にせよ、49日の法要にせよ、もともとは釈迦仏
教とは、縁もゆかりもない法要ということが、これでわかる。
「7」にこだわったのは、釈迦ではなく、中国人だった(?)。
あるいはインド(ネパール)では、どうだったのか。
一度、インドの友人(マヘシュワリ君)に聞いてみよう。


●葬儀

要するに、葬儀の仕方は、国、民族、宗教、さらにその宗派によって、みな異なる。
異なるということは、「形」はないということ。
言い換えると、それがどんな方法であれ、死者を悼む目的でなされるものであれば、
それでよいということ。

「形」にこだわるほうが、おかしい。

同じく「本当は怖ろしい漢字」の中に、昔の中国の葬儀の仕方が書いてある。
それをそのまま紹介させてもらう。

「中国古代の葬儀法を記したものに、周公旦(しゅうこうたん)の表した『儀礼』が
ある。
この書には、葬儀は死んだ瞬間から始まると記されている。
身内が死んだら、死体をすぐ裸にして湿らせた布で拭き清め、死後硬直によって膝が
曲がらないように両足を固定する。
つぎに遺族の1人が、死者の衣を肩に掛けて屋根にあがり、北の方角を向いて服を
振りながら故人の名前を叫び、一度家に帰る。
つづいて皆で、故人に別れを告げ、魂をあの世に送る。
無事に送るには全員が泣き叫びつつ、その場で足踏みをつづけなければならない。
さらに折を見て、死者に散髪を施し、体を井戸水で洗い、黒色の装束をまとわせる。
埋葬する前に死者の口の中を米と貝で満たし、そこにさじを挿す。
あの世に行き着くまでの長旅に備えるのである。
埋葬する土地と日時は、あらかじめ占い師によって決められている。
その場所と日時を守らなければ、死者はあの世へ行くことはできないのだ。
一連の儀式が終わると、遺族の顔には笑顔が戻る。
大切な者を手厚くあの世へ送る『葬』を成し遂げた、安堵の表情であるといえよう」
(同書、P71)と。

しかし……?

昔、長谷川一夫という、日本を代表する名優がいた。
彼は妻が死ぬと、その日から、妻の仏壇の前だけで、毎日をすごすようになったそうだ。
そして妻が死んでからちょうど1か月目に、自らも衰弱し、
そのまま死んでしまったという。
何かの本で読んだ話なので、細部については不正確かもしれない。
しかし長谷川一夫のこの話には、愛する人を亡くした人の、悲しみや苦しみが、
集約されている。

もし儀式があるとするなら、それは飾りのようなもの。
あるいは飾りにもならないかもしれない。

身近にいる愛する人が亡くなったら、どんな儀式をしたところで、その悲しみは
癒されない。

「形」ばかりにこだわる和式仏教を批判してみたくて、ここで葬儀について書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今夜は、夜遅く、山荘に来てみた。
着いたとたん、ガチャ、ガチャなく、くつわ虫の大合唱。
「うるさいわね」とワイフはこぼしたが、つづいて、「寒いくらいね」と。
森の湿った冷気が、気持ちよい。

あとはいつもの決まった作業。
雨戸をあけ、風を通し、食物を卓に並べる。
私はパソコンを広げ、ワイフは本を開く。

あとはただひたすら、雑談、また雑談。
こうして静かに夜がふける。

ところで今使っているパソコンは、HP社の2133。
バッテリーのもちが、格段によい。
省エネモードで使っているためか、まだ2時間近くももつ。
(全体では、7時間ほど。)
一方、ACERのASPIRE−1−は、画面が明るい分だけ、バッテリーの消耗が、
早い。
ASPIRE−1−のほうが、私には使いやすいのだが……。

ところで山荘に来る途中、パソコンショップに寄り、2GBメモリーを2枚、買ってきた。
計4GB!
特価品で、2枚で、8900円。
今使っているVISTAパソコンに付け替えてみるつもり。
店員は、「性能がアップしますよ」と言ってくれた。
楽しみだ。


●熟睡剤

睡眠薬には、いろいろある。
その中のひとつに、「熟睡剤」というのがある。
朝方早く、目がさめるのを防ぐための薬ということらしい。
私もいつも、バッグの中に、それをもっている。
「My Sxxxx」という名前の、実にそれらしい薬である。

が、これを1錠ものむと、効きすぎてしまう。
へたをすれば、10時間以上、眠ってしまう。
しかも眠っている間中、幻覚につづく幻覚。
現実と夢と、区別のつかない夢を見る。

そこで私は必要なときは、この薬を、6分の1から8分の1に
割ってのむ。
「今日は、これくらいでいいかな?」と。

そのとき、のみ方にコツがある。
胃袋のほうへすぐ入れてしまわないで、舌の下で溶かしながらのむ。
こうすると、脳みそに直接、薬が効く。
(これはあくまでも、私の素人判断だが・・・。)
しばらくすると、心地よい眠気が襲ってくる。

睡眠コントロール・・・若いときとちがって、歳をとればとるほど、
睡眠コントロールが、むずかしくなるという。
トイレが近くなる人も多い。
私もそろそろその年齢に近づいてきた。

そこで今、ひとつ心がけていることがある。
(1)就寝時刻は、きちんと守る。
(2)昼寝時間は、たとえ15〜30分でもよいから、きちんととる。

あとは自然体。
睡眠というのは、あまり神経質になりすぎてもよくない。
眠くなければ、起きていればよい。
眠くなったら、そのまま体を横にすればよい。

実は、昨日は兄の49日の法要とかで、かなり神経をつかった。
床につく前になっても、心のザワザワ感が消えなかった。
それでその薬をのんだ。
ワイフにも少し与えた。
それで今日は、たっぷり9時間も眠った。
(少し頭がボーッとしているので、量が少し多すぎたかな?)

ところで一言。
睡眠薬にかぎらず、脳みそに直接影響を与える薬を服用するときは、
脳の様子を静かに観察しながら、服用するのがよい。
こうした薬ほど、効き目に個人差があるものはない。
最初は、ほんの少しだけのんでみる。
それで効果がなければ、つぎに少しだけ量をふやしてみる。
やがて自分にとっての適量というものが、わかってくる。

・・・という話を、かかりつけのドクターに相談すると、そのドクターは
こう言った。

「そういう勝手な判断をしてもらっては困ります」と。

だから私のアドバイスは、みなさん、自己責任で応用してみてほしい。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●知性と理性

+++++++++++++

電車に乗ったときのこと。
相向かい席に、40歳くらいの女性が座った。
かなりの体重のある人だった。
その女性が座ったため、その席は、その1人で満席(?)。
おかげで私は、その少しあいたところに、自分の
荷物を置くことができた。

++++++++++++

日ごろ、いくらふざけた生活をしていても、そういう場で、そういう話が
きちんとできれば、それでよし。
このことは、幼児の世界でも、同じ。

子どもらしいあどけなさがあっても、たとえば先生が「名前は何というの
かな?」と聞いたようなとき、しっかりと受け答えができれば、それでよし。
しかしそういうことができない子どもがいる。
できないおとながいる。
状況判断が的確にできない。
ヘラヘラとわらっている。

私の前に座った女性が、そういう女性だった。
携帯電話を手の中でいじっていたが、そこへ電話がかかってきた。
とたん、あたりかまわず、大声で話し始めた。

「あのさア、今、電車の中なんだわさア、あと30分もするとさア、
そちらへ着くからさア、待っててやア」と。

こんな感じで、10分近くも話していた。
私とワイフは、あきれてその姿を見ていた。

が、私の忍耐も、そこまで。
私はおだやかに、心静かに、笑みをつくりながら、こう言った。
「あのね、奥さん、電車の中では、携帯電話での通話はいけないことになって
いますよ」と。

するとその女性は、体をななめにしたまま、そしてふてくされた様子で、
「いいじゃんかア、電話くらい。ウッセーなア。まわりのほうが、
ヨッポド、ウルセーやないかア」と。

電話の内容からして、高校生の息子もいるらしい。
つまり母親。
そういう母親が、そう言う。

やがてその女性は、電車からおりて行ったが、私とワイフは顔を見合わせて、
笑った。

「一片の知性も理性もない女性というのは、ああいう女性をいうね」と。
ワイフも、すなおに同意してくれた。
「まるで人種がちがうみたい」と。

私「そう、まるで動物園のサルみたい。きちんとした会話すらできない」
ワ「そんな感じね・・・。ケータイをもったサル?」
私「高校生の息子がいるらしいよ」
ワ「どんな子どもなのかしら?」
私「親を反面教師にすれば、いい子かもしれない。しかし同じような
タイプの子だろうね」と。

で、こうした方向性は、すでに幼児期に決まる。
幼児期の子どもをていねいに見れば、その子どもがその先、どういう
子どもになっていくかが、わかる。
言い換えると、それまでの教育が重要。
しかし子どもを教えるというよりは、これは環境の問題。

親自身が、知性と理性で子どもをくるんでやる。
その結果として、子どももまた知性と理性を身につける。
その価値を知る。

親が、とくに母親が、寝そべってせんべいをかじりながら、「おい、おめえ、
勉強しろや」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。
その女性を見ていて、そんなことを感じた。

(補記)
教育について、否定的な考え方をする人も多いですが、ああいう女性を
見ると、教育の重要さが、よくわかりますね。

でも、考えてみれば、そういう女性でも、子どものころ、きちんとした
教育を受けたはず。
そこで考えられるのは、

(1)家庭教育が不十分であった。
(2)学校教育そのものを、その女性が否定してしまっていた。つまり
つっぱってしまっていた、ということです。

しかし私は、やはり家庭教育に問題があったと思います。
というのも、今度はその母親の子どもですが、私の想像では、その子どもも
また母親と同じような子どもになっていくだろうと思います。

あとは類は友を呼ぶというか、そういう人たちはそういう人たちどうしで、
集まっていく。
つまりそういう人たちから見れば、きちんとした会話のできる人たちとは、
交際できないということになります。
そういう世界へ入っただけで、ストレスがたまってしまう。
あとは(逃げる)→(ますます知性や理性から遠ざかっていく)の悪循環。
その結果が、先の電車の中で、私が見た女性ということになります。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●父親似、母親似

++++++++++++

遺伝子学的に、そういうことが
実証されているのかどうかは
知らない。
が、こういうことは言える。

息子は、母親の遺伝子を強く受け継ぐ。
娘は、父親の遺伝子を強く受け継ぐ。

私の孫たちを見ていると、そう思う。

私の息子は日本人。
その嫁はアメリカ人。
孫が、男の子と女の子。

孫の男の子は、アメリカ人の母親似。
孫の女の子は、日本人の父親似。

つまり遺伝子というのは、父親→娘、母親→息子と、
クロスするものらしい。
男から女へ、女から男へとクロスするから、
私は勝手に、「クロス遺伝」と呼んでいる。
(もし同じような言葉がすでにあったら、ごめん!)

こういう例は多い。
たとえば肥満についても、それが言える。

++++++++++++++

肥満といってもいろいろなタイプがある。
その中でも、本態的な肥満というものもある。
食べ過ぎたから太ったとか、そういう肥満ではない。
生まれながらにして肥満というか、ある年齢以後、
肥満から解放されることがないというタイプの肥満である。

私の知っている人に、こんな例がある。

父親は、その本態的肥満タイプ。
母親は、子どものころから現在にいたるまで、やせ型タイプ。

で、その息子たちはみな、やせ型。
娘たちはみな、肥満型。
ふつうの太り方ではない。
どっさと、鏡餅を置いたような太り方をしている。

で、今度はその孫たちだが、ここでともに、妻や夫たちの
遺伝子が混在してくるので、一概には言えないが、こと肥満遺伝子に
ついては、たしかに孫たちに伝わっている。

やせ型の息子たちの娘たち(孫)は、やせ型。
肥満型の娘たちの息子たちは、肥満型。

簡単に言えば、息子は母親似になるということ。
娘は父親似になるということ。
しかしすべての遺伝子がそうというわけではないらしい。
ないらしいが、一方、きわめて濃厚に遺伝していく部分もある。

私の印象では、
(1)顔の容貌
(2)肥満、やせ型
(3)性格、体格などは、先に書いた「クロス遺伝」をしやすいのでは
と思っている。

(4)知的能力については、もう少し複雑な遺伝方法で遺伝する(?)。
たとえば、隔世遺伝とか、いろいろ。
(5)皮膚の色とか肌の色については、つねに優勢的な遺伝子が、遺伝して
いく(?)。

詳しくはまた自分で調べてみたい。
多分、この分野での研究は、かなり進んでいると思う。

で、あなた自身はどうか。
あなたの周囲の人たちはどうか。
一度、そういう目で、遺伝というものを考えてみたらよい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●記憶のメカニズム

+++++++++++++++++++

脳科学の進歩にはめざましいものがある。
それはそれとして、現象面からとらえた
脳の機能については、ほとんどといって
よいほど、研究が進んでいない。

+++++++++++++++++++

●こんな例で……

パソコンに向かって作業をする。
そのとき、ふと座右にある重要ファイルが気になった。
IDナンバー、パスワードなどが、そのファイルの中に入っている。
心のどこかで、「あとでしまわなくては……」と思う。
が、そのとき、小便がしたくなった。
下半身がムズムズしてきた。
そのこともあって、足で足元のコードをひっかけた。
とたん、スピーカーが床にゴロリと落ちた。
「トイレから帰ったら、もとに戻そう」と考える。

こうしてしばらく時間が過ぎる。

が、生理現象というのは、正直だ。
やがてがまんできなくなって、立ち上がる。
トイレに向かう。

で、書斎に帰る前に、居間で、水を飲む。
ワイフと話す。

……しばらくして書斎に帰り、パソコンの前に座る。
座ってから、ファイルとスピーカーのことを思い出す。
ファイルをしまうにも、スピーカーを戻すにも、一度立ち上がらなければ
ならない。
私の椅子は、宇宙船のコクピットのようになっている。
(少し大げさだが……。)
一度座ったら、なかなか立ち上がれない。
私は、そのとき、記憶について考える。

こういうケースでは、私は居間から帰ってきたとき、ファイルのことも、
スピーカーのことも忘れてしまっていたことになる。
覚えていたら、座る前にファイルを片づけ、スピーカーをもとの位置に
戻したにちがいない。

そこで自分の記憶の中をさぐってみる。
すると、こうして文章を打ちながらも、そのつど、瞬間、瞬間に、
まるで映画の中に別のコマが入ってくるように、いろいろな記憶が
飛び交っているのがわかる。
仮にこれを「コマ入れ」と呼ぶことにしよう。

昨夜見た映画のこと。
夕食の献立。
明日の過ごし方。
教室のこと。
……などなど。

つまり(思い)というのは、同時に2つ、あるいは3つ、4つと、
並行してもてないしくみになっている。
ひとつのことを考え始めたら、そのほかのことは頭の中から消える。
集中力のある人ほど、そうではないか。

ところでパソコンの世界には、「デュアル・コア」という言葉がある。
CPU(中央演算装置)が、脳みそを2つもっていると考えると
わかりやすい。
「デュアル」というのは、「2つの」という意味である。
さらに「クァッド・コア」というのもある。
脳みそを4つもっていると考えると、わかりやすい。

もし人間も、脳みそを2つとか、4つもっていれば、同時進行の形で、
複数の(思い)を処理できるかもしれない。
しかし悲しいことに(?)、ひとつしかない。

そこで脳みそは、瞬時、瞬時に、先ほども書いたように、ほかの記憶を
呼び起こす。

「ファイルは、どうした?」、「スピーカーは、どうした?」と。

その瞬間、それが重要なものであれば、脳の中で、拡大される。
「ファイルをしまわなくては」とか、「スピーカーをもとに戻さなくては」と。

そこでこういうことも言える。

もしその瞬間、瞬間の「コマ入れ」がなかったら、私は、ファイルのことも、
スピーカーのことも思い出すことはなかっただろう。
再び座右にファイルを見つけるまで、ファイルのことは忘れてしまっていたに
ちがいない。
スピーカーについても、そうである。
つまり「記憶」を現象面からとらえると、私は、たいへん記憶力が悪い人間
ということになる。

一方、その「コマ入れ」がはげしくても、困る(?)。
先ほども書いたように、集中力そのものが、分散してしまう。
だから適当に「コマ入れ」をし、そのつど、そのコマのことは忘れる。

これが現象面からとらえた、記憶のメカニズムということになる。
またこういう現象面でとらえた記憶のメカニズムについて、少なくとも
それを問題にした文献を、私は知らない。
ここに書いた「コマ入れ」という現象にしても、言葉にしても、私が
発見し、考えたものである。

さて、あなた自身は、どうか?

何かの作業をしながらも、そしてその作業に集中しながらも、瞬間、瞬間に、
いろいろなことが頭の中に飛来してくるのがわかるはず。
それが的確にできる人を、「記憶力のすぐれた人」という。
それができない人を、そうでない人という。

で、私のばあい、小便については、忘れることはなかった。
これは生理的な現象だから、いくら忘れようとしても、体のほうが
勝手に反応してしまう。

一方、ファイルやスピーカーのことは、椅子に座るまで思い出すことが
なかった。
だからその分だけ、「コマ入れ」が鈍かったということになる。
もし的確な「コマ入れ」がなされていたら、椅子に座る前に、ファイルや
スピーカーのことを思い出していたはず。

……ということで、今日は新しい発見を、ひとつゲット!

多分、このことは、まだだれも気がついていないはず。
そういうことを発見し、こうしてものの書くのは、ほんとうに楽しい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往
生浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。
また道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消
愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成
都府大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽
経であったとしても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏
典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点
が、「十王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵
十王経』の巻首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じら
れてきたという経緯がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づ
けをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。
また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておら
ず、はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経
ということ。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王
経」が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)、初江王
(十四日)、宋帝王(二十一日)、五官王(二十八日)、閻魔王(三十五日)、変成王(四十二
日)、泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生し
ていく事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審
判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」と
いう慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)、
都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道
のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓
鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が
積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすた
めの受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化し
ている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを
引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウ
ィキペディア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地
獄へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的で
すらある。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀
というその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ
落ちる」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっ
ている。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではな
いだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十
九日 法要 偽経)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●和式仏教の終焉(2)

+++++++++++++++++

日本の仏教は、何からなにまで、おかしい。
これについては、このところ毎日のように
考えている。

「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように
なってから久しいが、さらに最近では、
それが「ビジネス仏教」になっている。
金儲けの道具として、仏教が利用されている。
人の死が、利用されている。

+++++++++++++++++

「私はカルトを信じていない」と豪語する人でも、そのカルトを信じて
いる人は、いくらでもいる。

葬儀に始まって、盆供養にしても、〜回忌という法事にしても、カルトそのもの。
「葬儀には僧侶は、必要」
「僧侶の読経がなければ、死者は成仏できない」
「戒名がなければ、成仏できない」などということを信じているのは、
立派なカルト。

最近私も知って驚いたが、同じ宗派でも、別の寺で葬儀をしたら、ほかの寺では、
それを受け入れてくれないそうだ。
たとえば私の母は、現在、静岡県の浜松市にいる。
おそらく最期は、この浜松市で迎えることになるだろう。
で、私は葬儀はこの浜松市で、そして49日の法要は、郷里のG県のM市でと、
考えていた。

が、それができない、と。

どういうしくみになっているのか、私にはよくわからないが、こういうケースのばあい、
郷里の寺は、母の遺骨を受け取ってくれないという。
もちろん郷里にある墓の中へも、入ることができないという。
地元の葬儀社の責任者の人が、そう教えてくれた。

ヘ〜〜〜エ?

これひとつとっても、日本の宗教は、「型」のかたまりということがわかる。
「作法」「作法」「作法」……。
作法ばかり。

どうしてこういう馬鹿げた仏教になってしまったのか?

今朝私は、法要の原点となっている「地蔵十王経」が、鎌倉時代にできた、
偽経であるということについて書いた。
が、寺の住職で、それを教えてくれた人はだれもいない。
おそらくみな、偽経であることを百も承知の上で、過去700年以上にわたって、
信者をだましつづけている。

もちろん、金儲けのためである。
「地蔵十王経」は、寺の金儲けの方便としては、まことにもって、都合がよい。
死者を成仏させるためと言いながら、49日まで、1週間ごとに、信者から布施を
取ることができる。

もしこの日本に、誠意があって、勇気がある僧侶がいたら、こう言ってほしい。
「戒名などというものは、日本だけにある奇習です」
「葬儀に僧侶による読経がなければ、成仏できないというのは、嘘です」
「初七日だの、49日だの、そんなものは、鎌倉時代にできた偽経がもとになっている、
インチキです」
「盆の供養などというのは、アフガニスタンの奇習が伝わっただけです」と。

もしそんなことを言ったら、日本の仏教は、総崩れになってしまうだろう。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。
世界的に見れば、大乗仏教(北伝仏教)がかろうじて残っている国は、
この日本だけ。
アフガニスタンにもない。
中国ではごく一部。
韓国でも、キリスト教が主流。
もちろん本家のインドには、ほとんど何も残っていない。
(仏陀は、クリシュナの弟子というふうに、位置づけられている。)

しかも日本の仏教は、どこかオカルト的。
(教え)によるというよりは、儀式が中心。
が、これでは、日本の仏教に、未来はない。
それともこれから先も、ずっと、僧侶たちは、私たち日本人をだましつづけると
でもいうのだろうか。

今、多くの日本人が、日本の仏教のもつ(おかしさ)に気がつき始めている。
その(おかしさ)を、日本の僧侶たちも、謙虚に反省してほしい。
門構え、建築物だけをいくら立派にとりつくろっても、中身がなければ、
ソッポを向かれるだけ。
あるいは原点にもう一度立ち返って、仏教がどうあるべきか、再構築してほしい。
鎌倉時代の昔ならいざ知らず、現在の庶民は、あなたがたが考えているほど、
馬鹿ではない。
少なくとも、人の(死)を、もっともらしい嘘でくるみながら、もてあそぶことだけは、
もうやめてほしい。

(付記)
もし釈迦が生きていて、この日本の現状を見たら、釈迦だって怒るだろう。
戒名なるものがあるのはまだ許せるとしても、その戒名には値段があって、
その戒名に応じて、葬儀の仕方もちがう?

このひとつをとっても、釈迦が説いた仏法の精神と違背していることは、
明らか。

「葬儀に僧侶を呼ばなければ、成仏できませんよ」とか、「3代先まで、たたりがでますよ」
とか言って、信者を脅す。
その手法は、まさにカルト。
そこらのカルト教団がとっている手法と、どこもちがわない。

もしそこに地獄に落ちるような人を見かけたら、その人のために救済の手を
さしのべてやることこそが、仏道の本来の精神というものではないのか。

(妻へ、息子たちへ)

私が死んでも、ぜったいに僧侶を呼ぶな。
読経などあげさせるな。
みなで、お別れ会をすればよい。
もし晃子がさみしがっているようなら、どうか、晃子を支えてやってほしい。
話し相手になってやってほしい。

2008年9月14日、しかと記す。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司
【9月14日】(日曜日)

+++++++++++++++

昨夜は、眠い目をこすりながら、
深夜劇場へ。
見たのは、『WANTED』。

まあ、デタラメな娯楽映画。
星は、3つの、★★★。
ストレス解消には、よい。

どんな映画にも、多少なりとも、
それなりの哲学があるものだが、
この映画に関しては、なし。

とくに気になったのは、
列車内での撃ち合いが高じて、
列車全体が谷底に転落していく
シーン。

当の本人たちが殺し合うのは、
本人たちの勝手。
だが、その事故の巻き添えに
なった乗客の人たちは、どうなるのか?

多少の哲学があれば、こういう
シーンはできないはず。
とたん興ざめ。

狂ったピストルマニアによる、
狂った殺し合い。

ボケ防止には、役にたったかも?

つぎに見たいのは、『イーグル・アイ』。
どこか『MATRIX』ぽくて、
楽しみ。

++++++++++++++

●ミニ・パソコン

現在、ミニ・ノート型パソコンが、超人気とか。
私も、さっそく、HPの2133と、AcerのASPIRE−1を購入してみた。

ほかに、その先駆けとなったE−PCとか、いろいろある。
今度は、DELも、販売を開始した。

DELの新製品については知らないが、今のところ、AcerのASPIRE−1が、
いちばん気に入っている。
バッテリー時間が、2133(こちらはバッテリーが2本付属)とくらべて短いのが
欠点だが、10月には、6セルバッテリーが発売になるとか。
それまでがまん。

MCJでも、10インチ画面のミニ・パソコンを発売しているが、キータッチが、どうも
もの足りない。
それに作りが、どこか安っぽい(ごめん!)。
E−PCも、それに工人社のミニ・パソコンも、キーボードが私の指には小さすぎる。
実用として使うには、無理(ごめん!)。

その点HPの2133には、重厚感がある。
手でいじっていても、楽しい。

ところで、教訓。
いくらパソコンでも、ミニ・パソコンには、パスワードなど、重要情報は入れては
いけない。
いつ、どこで紛失するかわかったものではない。
ご注意!

(実は私も、いろいろあって、この1週間、IDナンバー、パスワードの変更など、
余儀なくさせられた。ハハハ。)

(補記)ミニ・パソコンに関しては、XP仕様のほうが、VISTA仕様よりも、
はるかに使い勝手がよい。2133に関しては、電源を入れてから、立ちあがるまでに、
数分以上もかかってしまう。ミニ・パソコンの持ち味を生かしたいと思っても、つまり
カバンから出してすぐ使いたいというとき、いつもイライラさせられる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今日、あれこれ】(9月15日)

+++++++++++++++++++

今日は、近くの富幕山(とんまくざん)に
登る予定だったが、朝からワイフが胃痛を
訴えて、あえなく断念。

急きょ、いろいろ予定を変更する。

+++++++++++++++++++

●立会い演説会

今日、近くの公園であった、立会演説会に出てみた。
今度立候補予定の、X氏の立会い演説会である。
前もって知らされていた時刻より、やや遅れて、X氏がやってきた。
私とワイフは、子ども用の鉄棒の上に座り、話を聞いた。

演説の途中で、「あとで質問を受けます」というようなことを言ったが、
結局、時間がないということで、そのまま終わってしまった。
X氏は、そそくさと、つぎの会場へと、行ってしまった。

その講演で、3〜4年ぶりに、大学の先輩に会った。
元気そうだった。
「どうしてここに?」と聞くと、「Xさんを応援しています」と。

で、この話はここで終わったが、昼寝をしているとき、そのつづきを見た(?)。
X氏だったかどうかは、よく覚えていないが、夢の中で、だれかが立会い演説をしていた。
どこか、見慣れない、美しい風景の丘の上だった。
遠くに、インディアンが住むような洞窟がいくつか見えた。
私は演説を聴きながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。

記憶力が悪くなったせいか、公園での立会演説会でも、また夢の中でも、X氏がどんな
話をしたか、よく覚えていない。
「まじめにやります」「日本を変えます」「現在の姨捨(おばすて)政策を改めます」とか、
そんなようなことを言っていたような気がする。

今まで、X氏に投票してきたが、今回は、そのX氏に投票するのは、やめた。
昼寝から覚めたとき、ワイフとそんな会話をした。

(選挙だけは、我が家はみな、自由投票ということにしている。
当然のことだが……。)


●金xxの重病説

今日の朝刊(中日新聞)によると、K国の金xxが、(拉致に対する抗議の念をこめて、
「xx」としている)、いくつかの病気に苦しんでいるという。

腎臓病に肝臓病。
糖尿病もあって、心臓も悪いらしい。
そして今回、脳内出血と脳梗塞を同時に起こしたという(韓国系新聞)。
が、驚いたことに認知症も起こしているという。
別の情報(韓国系新聞)によれば、アルツハイマー病だという。
それも去年の春ごろ発症したという。

道理で、おかしなことばかり。
「金xxはまともではない」とは思っていたが、認知症とは、知らなかった。

が、それについて、中日新聞は、「金xxも、やはりふつうの人間だった」と書いている。

ふつうの人間?
とんでもない!
中日新聞は、「金xxといえども、スーパーマンではなかった」と言いたいのだろうが、
残念ながら金xxは、ふつうの人間ではない。
ふつうの人間なら、20万人とも40万人とも言われる人を、処刑したり、強制
収容所などに、送らない。
罪もない女子中学生を日本から、拉致したりしない。
金xxは、「中国の裏門に立つ、狂った犬」(韓国・某大学教授弁、韓国紙報道)。
彼の悪政のもとで、数百万人が餓死している。

……ということで、K国は、今、崩壊の危機に立たされている。
全体の動きとしては、強硬派の軍部が実権を握りつつあるようだ。
日本にとっては、たいへん危険な状態になりつつあると言ってもよい。

だいじょうぶなのかなあ……?
何でも数日前、どこかの国の潜水艦が、堂々と日本の領海内と通り過ぎていったという。
こんなことで、日本の自衛隊は、本当に日本を守ることができるのだろうか。


●ミニ・パソコン

今、最近買った、ミニ・パソコンがたいへん気に入っている。
いつも持ち歩いている。
昼寝をするときも、しばらく胸の上に置いて、文字を打ってみた。
キーボードは小さいが、指がそれに慣れてきた。

いつもならデスクトップに向かって、原稿を書いている。
が、今はちがう。
もっぱら、ミニ・パソコン。

どうしてだろう?
どうして、こんな小さなパソコンに魅力を感ずるのだろう?
そのこともあって、10年ほど前に買った、TOSHIBAの
ダイナブック・3010も、最近使い始めた。

ほかの仕事はできないが、文章を打つことだけはできる。
ボロボロで、塗装もはげている。
ワイフは何度か、処分したらと言ったが、私にはできない。
私にとってパソコンというのは、私の心を映す鏡のようなもの。
画面の向こうには、無限の世界が広がっている。


●9月15日

今日は敬老の日。
祭日。
山登りを中止したため、これといってやることもなし。
ほかに予定もなし。

ワイフの買い物につきあったり、料理をしたりした。
あとは昼寝。
庭掃除。
夕食のあとは、ワイフとDVD。
『希望の翼・最後に帰る場所』。
ホームドラマ風の古い映画。

「老人は古い武器のようなもの。
しばらく野ざらしにすれば、やがて錆びついて、使い物にならなくなる」と。
主演の男優が、そんなセリフを言っていた。

同じような話だが、老人になると、たとえば2週間もベッドに横たわっていたりすると、
そのまま歩けなくなってしまうそうだ。
そこで最近の医師は、相手が老人のばあい、無理をしてでも、できるだけ早く、
退院させるそうだ。

では、脳みそは、どうか?
しばらく野ざらしにしたら、使い物にならなくなるのだろうか。

『希望の翼・最後に帰る場所』は、ざっと言えば、つぎのような映画だった。

戦場に行った息子が帰ってくる。
心に重い後遺症を背負って、帰ってくる。
一度は死んだと思っていた息子である。
が、帰ってきたその日、父親が倒れる。
つまりは家族の絆をテーマにした映画だったが、
その映画を見ていて、こんなことを感じた。

アメリカ人というのは、三世代同居生活というのを、考えないのかなあ、と。
はじめから、そういう発想そのものがない。
日本なら、こういうケースのばあい、両親と、いっしょに生活することを、
まず考える。
が、戦場から帰ってきた息子は、嫁と子どもを連れて、家を出る。

それはともかくも、倒れた父親は、こう言う。

「私は残された時間に、みなと仲直りして、死にたい。私自身とも……」と。

敬老の日に、よいDVDを見た。
「私は老人だ。もうダメだ」と思っている人は、この映画を見たらよい。
それぞれのセリフがすばらしい。
何か生きるヒントを、与えてくれるはず。

「人は皆、さまよえる魂を持ち、
傷つきながら旅をする。
そして冷たい闇の中で、家の灯火(あかり)を見つけていく。
人が学べることなど、限られている。
心が宿る我が家にとどまり、
守っていくことぐらいだろう」(最後のシーンで)と。

ほのぼのとしたホームドラマという点では、星は4つの★★★★。
私のような団塊の世代には、とくにお勧め。


●2012年

このところ書店へ行くと、「2012」という数字が、よく目につく。
2012年に、人類は滅亡の危機に立たされるという。
マヤ暦が、その根拠になっているらしい。
そのマヤ暦を解読していくと、「2012年12月22日前後に、第五の太陽の時代
が終わる」(「2012年地球崩壊の大予言」・日本文芸社)とか。

具体的には、「2012年の9〜12月に、巨大隕石が、地球に衝突する」というのも、
ひとつの可能性として、あげられている。

しかし心配は無用。
それらしき隕石(小惑星、「トーチタス」)はあるにはあるが、そのころその隕石は
地球をはるか離れたところを通過する。
それにもし地球に衝突する可能性があるなら、隕石に接近して、それを
爆破することもできる。
人間はすでにそうい技術を身につけた。
マヤ文明の栄えた時期とは、今は、時代がちがう。

マヤ文明……紀元前1300年ごろ栄えた文明と言われているが、研究が進むに
つれて、それよりはるか昔から栄えていた文明であることがわかってきた。
一説によると、紀元前3000年までさかのぼることができるという。
もしそうなら、マヤ文明は、メソポタミヤ文明や黄河文明と肩を並べることになる。


●おろかな奇習vsおろかな民族

ここ数日、日本の冠婚葬祭についての原稿を書いてきた。
それがもつ、原点的なおろかさについて、書いてきた。
しかし、だからといって、日本の冠婚葬祭を責めても意味はない。
それらが奇習であるとするなら、その奇習を支えている、私たち自身こそ、
責められるべきである。

たとえば結婚式にしても葬儀にしても、見栄と虚勢の張りあいのようなところがある。
盛大であればあるほど、また列席者や参列者に、それなりの大物(?)が
いればいるほど、それを喜ぶ人たちがいる。
もてはやす人たちがいる。
しかも最近の傾向としては、昔からの名家の人たちほど質素にすませ、その
下の中堅クラス程度の人たちが、派手にそれをする傾向がある。
中には、なけなしの財布をはたいて、冠婚葬祭だけには金を注ぐという人も珍しくない。
地方の、田舎の人たちの中に、このタイプの人は多い。

なぜか?

結局は、生き様(ざま)の問題ということになる。
冠婚葬祭を派手にする人というのは、それだけ生き様と言えるような
生き様をもっていないことを示す。
「私はこう生きる」「私はこう生きてきた」「だから私はこうする」という
生き様がない。
ないまま、世俗の慣習に流され、それを「絶対的な善」として、信じきって
しまっている。

さらに悪いことに、人もある年齢を超えると、思考そのものがループ状態に
入る。
毎日、毎月、毎年、同じようなことを考え、その考えの中で、グルグルと
回るようになる。
過去をそのまま踏襲するようになる。
一度、こういう状態になると、「進歩」など、求めようもない。
が、さらにそこへ、脳の退化が加わる。
認知症にでもなれば、さらに退化する。
そういう人たちが、「老害」となって、若い人たちの生き様をしばる。

つまりこうしておろかな奇習が、おろかな人たちによって、つぎの世代に
伝承されていく。
みな、心のどこかでは、「おかしい?」と思いつつも、それを変えることが
できない。

そのひとつが、「戒名」ということになる。

私は、仏教界の人たちがどう考えているか知らないが、日本の仏教は、
戒名を突破口にして崩壊すると確信している。
和式仏教の矛盾が、すべてこの戒名という制度に集約されている。
が、それに対してあるBLOGに、僧侶の言葉として、こんなことが書いてあった。

「一般の人たちは、死者が出たときだけ、寺に泣きついてくる。
寺としては、そういうときだけでも、布施(=収入)を得なければ、
寺を維持することすらできない。(高額であって、何が悪い!)」と。

この記事を裏から読むと、すでに日本の仏教は、死滅していることになる。
「死滅」という言葉がきついなら、「形骸化」と言い換えてもよい。
私たちが子どものころは、寺というのは、子どもの遊び場でもあった。
それぞれの季節には、寺が子どもたちを呼んで、何かを食べさせてくれたり、
映写会を開いたりしてくれた。
紙芝居も、好んで寺の境内へやってきた。
当時は、まだそういう(つながり)が寺との間にあった。

しかし今は、もうない。
消えた。
どこの寺も、立派になり、立派になったことをよいことに、寺によっては、
門のところに背丈を越える鉄格子がはめてあるところもある(浜松市内)。
どこかの寺が率先して、慈善事業をしているという話は、私の近くでは、ここ
30〜40年、耳にしたことがない。

だから「葬儀のときだけ……」ということになる。

しかしこの傾向は、今後加速することはあっても、もとに戻ることはない。
日本の仏教そのものが、葬式仏教から、ビジネス仏教へと変身してしまった。
そのためますます多くの日本人が、日本の「寺」を通してみる「仏教」に、疑問を
もち始めている。
嘘だと思うなら、あなたも近くのだれかに聞いてみればよい。
戒名の話をしてみればよい。
100人中、100人が、「おかしい」と答える。

私自身も葬儀の席などでは、一応しおらしい様子で接してはいるが、その一方で、
「こんなことをして何になるのか」と、自分の心を押し殺さなければならない。
そういう現実を、今の僧侶たちは、いったい、どこまで気づいているだろうか。

(補記)
あなた以外の人の死について、葬儀のあり方を変えることは不可能と考えてよい。
実の親の葬儀にしても、仮にあなた流のやり方を押し通すと、思わぬ波風が立つ。
が、あなた自身の葬儀については、あなた流のやり方を、押し通せばよい。
そのために今、あなたが生きているうちに、遺言という形でよいから、
その意思を明確にしていおく。
「私の葬儀は、こうしてください」と。
そういう一人ひとりの生き様が、積み重なって、この日本の奇習を打ち砕いていく。

僧侶は不要。
読経など、もっと不要。
葬儀は内々で、静かに、と。

もしそれでだれかが、「地獄へ落ちる」とか、「三代に渡ってたたる」などと
言ったとする。
「それでは成仏できない」と言う人も、いるかもしれない。
それに対して、あなたはこう言って笑ってやればよい。

「あなたも少しは仏教を勉強したら?」と。


●生きる

「生きる」ということは、もっと別のことのような気がする。
同時に、「死ぬ」ということも、もっと別のことのような気がする。

私たちは「裸」で生まれる。
脳みそは、無垢の状態。
その私が今度は、「裸」で生きる。
いろいろな雑念が、脳みそを満たすようになる。

が、私は私。
どこまでいっても、私は私。
名誉や地位、そういったものがあるとしても、それは
あとからついてくるもの。
結果など、あってもなくても、気にすることはない。
それがわからなければ、野に飛ぶ鳥や蝶を見ればよい。
野に遊ぶキツネやタヌキでもよい。
「生きる」原点は、そこにある。

だから死ぬのも、裸。
ありのまま死ねばよい。
死ねば、私やあなたは、この宇宙もろとも、消えてなくなる。
少なくとも私やあなたがもっている「意識」というのは、そういうもの。
そういう「意識」が、死を乗り越えて、あの世にいくはずはない。
もし「行く」と信じているのなら、それは「思い込み」でしかない。

こんなパラドックスがある。
「逆説」とも言う。
「張り紙を張るな」という張り紙を張る。
「静かにしろ」と、大声で怒鳴り散らす。
そういうのをパラドックスという。

同じようなパラドックスに、自分の葬儀のことを心配する人がいる。
会う人ごとに、「私の葬式には来てくださいな」と頼んだりする。
自分の子どもに、「みすぼらしい葬式はするな」と言い伝えたりする。
しかし死んだその人に、自分の葬式のことがわかるだろうか。
仮にわかったとしても、その人が向かう「あの世」は、広大無辺に広い。
刹那(せつな)のそのまた刹那の、一瞬を過ごした地球上でのできごとなど、
「あの世」を前にすれば、ただの幻(まぼろし)。
そんな幻の結末などを、気にするほうがおかしい。

……と書いても、だからといって、「この世」はつまらないとか、
そう言っているのではない。
私が書きたいのは、その逆。

だからこそ、この一瞬一秒を、無駄なく、生きる。
「あの世」など、ないという前提で生きる。
死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
なければないでもかまわない。

アインシュタインは、こう言っている。
「生きていること自体が、奇跡なのだ」と。

だったら今、生きていることを大切にする。
「あの世」へ行ってから、成仏するとか、しないとか、
そんなくだらないことは考えない。
考えても、意味はない。
もし本当に成仏するかしないかということになれば、それは「この世」での
生き様によって決まる。
悪いことをさんざんし放題しておきながら、成仏するもしないも、ない。
こんなことは、ほんの少し常識を働かせば、だれにだってわかること。

ちょこちょこと、そこらの僧侶が、読経したくらいで、その人のそれまでの
一生が、評価されると考えるほうが、おかしい。

もうやめよう、こんな愚劣な議論は。
書いている私だって、疲れてくる。

さあ、あなたも、ありのままをさらけ出して、ありのままに生きよう。
そして「そのとき」がきたら、ありのままに、死のう。
その日のために、今、思う存分、生きよう。
何が苦しいかといって、「この世」に、やり残したことを残すことぐらい、
苦しいものはない。
そういう思いをしないためにも、今、思う存分、生きよう。

そのあとのことは、そのとき、また考えればよい。


●失う

++++++++++++++++

私の近くに、もうすぐ70歳になろうと
いう人がいる。
評判のケチで、お金にせよ、モノにせよ、
何一つ、手放そうとしない。

しかしこのところ、体調を崩し、今現在は、
寝たきりに近い状態という。

「命」にくらべたら、ほかの、ありと
あらゆるものは、夏の日に昇る陽炎(かげろう)
のようなもの。

どうして自分の「命」には、ケチにならないのだろう。
あるいはその前に、どうして「健康」には、ケチに
ならないのだろう。

私には、そういう人たちの心理が、よくわからない。

++++++++++++++

失うことを恐れる人は多い。
そういう人に共通するのは、人生観が薄いということ。
中には、「音楽など聴いたことがない」「本など読んだことがない」
「映画など見たことがない」などと豪語(?)する人もいる。
「まだ若いのだから、本でも読んで、少しは勉強したら?」などと言うと、
「私はもうすんだ」と。

つまり「世の中を知り尽くしたから、勉強する必要など、ない」と。

そして私より年長であることを理由に、私にあれこれと説教したりする。
私は私で、相手が年長であることに遠慮して、だまって、それを聞く。

「生への執着」。
それを裏返して言い換えると、「喪失への恐怖」ということになる。
そこでもし、「喪失の恐怖」から、人が解放されたら、「生への執着」も消える
はず。

私たちがなぜ「死」をこわがるかといえば、「生への執着」があるからに
ほかならない。

よい例(?)が、K国の金xx。
使い切れないほどのお金と、乗り切れないほどの車と、住み切れないほどの家。
そういった財産に加えて、身近に何十人もの、若い女性たちをはべらせているという。
で、ここから先は私の勝手な想像によるものだが、そういう人ほど、喪失への恐怖感
が強いはず。
つまり生への執着心が強い。
俗な言い方をすれば、「死んでも死に切れない」。
今は、そういう状態ではないか。
が、年齢は、たったの66歳。
若い。
その年齢だったら、世界中を旅しながら、遊んでいる人はいくらでもいる。
ぜいたくな旅でなくてもよい。
木賃宿に泊まり、屋台で売るソーセージをほうばる……。
つまりそれも財産のひとつと考えるなら、金xxの財産は、あまりにもみじめ。
貧しい。

大切なことは、身の回りで、何が大切で、何がそうでないか、それを明確に見極めること。
その価値判断を誤ると、そのまま人生そのものを、見誤ってしまう。
どうせ私たちは、死によって、すべてを失う。
この宇宙、もろとも、だ。

だからといって、積極的に失えということではないが、名誉や地位、それに財産にせよ、
「命」と比べたら、何でもない。
もっとわかりやすく言えば、「今、ここに生きている」ということにまさる価値は、
ほかにない。
それさえ大切にすれば、仮に今、重病であっても、こわいものは、何もないはず。

(その日)はいつか、かならずやってくる。
どういう形でやってくるかは、わからないが、かならずやってくる。
その日のために、私たちは常日頃から、心を養っておく。

音楽を聴いて、本を読んで、映画を見て……。
自分の人生観を厚くしておく。

もし人がケチになることがあるとするなら、「時間」ということになる。

くだらないテレビ番組を見たり、くだらない人と会話をしたり、くだらないことをして
時間をつぶす。
それこそ、本当の「損」というもの。
真・善・美……どれでもよいから、その追求のために、一瞬、一秒を燃やし尽くす。
そうでなくても、それにたどりつくのは、むずかしい。
あるいはそれにたどりつけるという保証は、どこにもない。
が、あきらめてはいけない。
ともかくも、私たちは、前に向かって進む。

あなたのまわりにも、ケチと呼ばれる人は多いだろう。
守銭奴となって、こまかいお金にきゅうきゅうとしている。
そういう人がそういう人であるとわかるだけでも、あなたはその人とはちがった
人であることを示す。

あとは、そういう人を、あわれで、かわいそうな人と思えばよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●日本の危機

産経ニュース(インターネット)は、つぎのように伝える(9月13日)

『けいれん症の後遺症も伝えられる北XXの金xx総書記(66)だが、重要式典さえ参
加できないとなればもはや「生きながらに死んでいる」状態。これまでもアルツハイマー
で重要決定ができず、集団指導体制で政権を維持してきたとされるが、脳卒中発症後から
政権内の抗争が激化。テポドン発射準備や核交渉決裂からみると、軍強硬派に実権が移り
つつあり、日本の安全にとり重大な危機が迫る』と。

金xxが、アルツハイマー病にかかっていたということは、知らなかった。
道理で、表情がおかしかった(?)。
しかし……。

また「軍強硬派に実権が移りつつある」とはあるが、こんな情報も伝えられている。

朝鮮N報、9月13日付は、つぎのように伝えている。

『現在では軍内部に、「今年下半期に人民軍の食糧倉庫である"2号倉庫"の備蓄が底を尽
き、人民軍の部隊に大量の餓死者が出るかもしれない」という恐ろしい噂が広まり、軍内
部の動揺も大きくなっている』と。

同じような情報が、あちこちから出ているところからみると、K国の内部事情は、
かなり深刻らしい。
つまり現在、K国の軍隊は、ガタガタ。

……そこで日本、危機説。

追いつめられた軍強硬派は、それを打開するため、「戦争」に打って出るしかない。
戦争あっての「軍」である。
が、その相手となると、日本と韓国しかない。
口実は、何とでもつけられる。
韓国軍は、K国崩壊に備えて警戒レベルをあげたという情報も流れている。

では、この日本は、どうか?

幸いなことに、K国の空軍、海軍は、老朽化がはげしく、使いものにならないという。
私が調べたところ、2隻のフリゲート艦があるが、旧ソ連から払い下げられたもの。
写真で見ても、艦全体がサビついているようにも見える。
別の情報によれば、港に係留されたたまま、動いた気配はないという。

残るは、ミサイルと核兵器。
それに原子力発電所の破壊。

万が一にも、東京に核兵器がミサイルで撃ちこまれたら、日本の政治、経済、社会は、
一夜にして崩壊する。
日本海側にある原子力発電所が破壊されても、同じような結果になる。
チェリノブイリの事故を思い出すまでもない。

つまりK国は、そういった形で日本を脅しながら、超多額の戦争賠償金を日本に要求
してくるだろう。
すでに中国を介して打診してきた額は、100兆円とも言われている。
(100兆円だぞ!)

そこで日本にとって最善のシナリオは、K国が静かに自然崩壊すること。
隣の韓国や中国は、それでは困るというかもしれないが、日本は日本として、K国を
そういう方向にもっていくしかない。

そのあとK国は、当然のことながら、韓国、中国、アメリカの共同管理国になるのだ
ろうが、私は実質的には、中国の管理下に入ると思う。
そのとき日本の拉致問題も解決する。

ともかくも、今の日本がもっとも憂慮すべきは、K国の軍部の暴走。
それだけは何としても、食い止めなければならない。

なお産経新聞は、つぎのようにも伝える(9月14日)。

++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

9日に表面化した北朝鮮の金正日総書記の重病説を受けて、韓国、米国が「不測の事態」
を視野に走り出す中、日本政府は関係省庁による公式の情報分析・対策会議も開いていな
い。北朝鮮での異変の兆候は日本の安全保障に直結する重大問題なだけに、「日本政府は

まりに鈍感だ」(北朝鮮問題専門家)と対応を懸念する声も聞こえる。(北朝鮮問題取材班)

++++++++++以上、産経新聞より+++++++++++++

いいのか、日本!
このままで!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争・9・14】

●外平債って、何?

++++++++++++++

まず、朝鮮N報のつぎの記事を読んでほしい。
こうある(9月13日)。

++++++++++++++

『企画財政部は11日、10億ドル(約1070億円)規模の外国為替平衡基金債券(外
平債)の発行に向け、米ニューヨークで外国人投資家と交渉を進めたが、発行条件をめぐ
る要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した。アメリカ金融不安のあおりで、起債
計画に支障が生じた格好だ』(朝鮮N報より抜粋)と。

日韓経済戦争は、まだ終わっていない。
韓国の「9月危機説」も、まだ終わっていない。
その証拠が、この記事である。

まずこの2週間の韓国経済の流れを追ってみよう。
その第一、韓国政府は、手持ちの外貨を大量に使って、ウォン買い、ドル売りの大攻勢に
出た。
その額は今のところ不明だが、10月になればはっきりする。
つまり韓国政府は、一か八かの大勝負に出た。

このまま座視すれば、外資はどんどんと逃避し、ウォンの価値はさがる。
物価は上昇し、国内経済は混乱し、へたをすればそのまま奈落の底へ。

そこでなけなしの手持ちドルを使って、韓国政府は、ウォン買いの大攻勢に出た。
いわば貯金を使って、ウォン防衛に打って出たことになる。
しかしへたをすれば、やがて外貨不足になって、(すでに不足状態だが)、韓国はデフォル
ト(債務不履行)に陥りかねない。

結果、一時は、1ドル=1400ウォンまでさがっていたウォンが、現在(9月14日)
は、1100ウォン前後で落ちついている。

韓国の各紙は、政府談話を織り混ぜながら、「9月危機は去った」とはしゃいでいる。
しかし「待ったア!」。

ここに出てくる、「外国為替平衡基金債券」、略して「外平債」というのは、わかりやすく
言えば、韓国銀行(日本の日銀にあたる)がする、借金のことである。
わかるかな?
韓国政府の借金ではなく、韓国銀行の借金である。
こんなことは日本の常識では考えられない。
それともあなたは、日本の日銀が、いまだかって、外国に借金をしたというような話を聞
いたことがあるだろうか。
あるはずがない。
そもそも「外平債」というのが、世界の非常識。
どこの中央銀行が、外国に借金など、申し込むだろうか。

が、韓国銀行は、それをアメリカのニューヨークで行った。
いわく「発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した」と。
その理由として、「アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ」と。
たくみにアメリカ側のせいにしているところが恐ろしい。

理由は、アメリカの金融不安ではない。
「発効条件が折り合わなかった」からである。
朝鮮N報の同記事も、末尾のところでこう書いている。

「企画財政部のS・J国際業務管理官は、『交渉過程で外国人投資家が韓国経済に対する懸
念を抱いていないことを確認したが、アメリカ市場の状況が思わしくなく、高い金利を要
求された。あえて悪条件で発行する必要するはないため起債延期を決めた』と説明した」
と。

つまり外国人投資家は、韓国経済に対して、懸念はもっていないが、高い金利を要求した
ので、折り合わなかった、と。

現在、原油や金属市場から逃げ出した資本は、いっせいに株式、債権に向かい始めている。
「アメリカの市場が思わしくないので」という理由は、ウソと考えてよい。
本当の理由は、「韓国経済に不安をいだいた投資家たちが、高い金利を要求した」からであ
る。
朝鮮N報にも、そう書いてある。

「金は貸してもいいが、金利を高くしてくれなければ、いやだ」と。
だから折り合いがつかなかった!

つまりこの流れを裏から読むと、韓国銀行には、手持ちの外貨がなくなってしまった。
そこで韓国銀行は、ニューヨークで借金をしようとした。
しかし「金利を高くせよ」と迫られて、結果的に、それを断わられてしまった。

……ということで、「9月危機」は、去ったわけではない。
終わったわけでもない。
いまだ、現在進行中。

さあ、どうする、韓国。
つぎの一手は?

+++++++++++++++++

(ワイフのために……)

わかりやすく説明しよう。

各国の中央銀行(日本のばあい、日銀)は、金の管理をするのが仕事。
もっとわかりやすく言えば、輸出入で出入りする金の決済をするのが仕事。
ほかにも公定歩合などを調整する仕事もあるが、借金までして外貨を調達するというのは、
少なくとも世界の常識からは、完全にはずれている。

これに対して政府が借金するばあいは、ある。
日本の国債などは、その一例。

で、韓国のばあい、韓国銀行そのものに、ドルが不足してきた。
韓国の輸出入業者が、ウォンをドルに換えてほしいといってきたとき、手持ちのドルがじ
ゅうぶんあれば、問題はない。
しかしそのとき、「ドルがありません」と言えば、債務不履行の状態になる。
つまりデフォルト。
国家破綻。

それを防ぐために韓国銀行は、世界ではほとんど前例のない、「外平債」の発行をつづけて
いる。
その額、今回は、10億ドル。
私の推測では、韓国政府は、この7月に70億ドル程度の為替介入をしている。
それをベースに推測してみると、9月に入ってからは、おそらく100億ドル程度の為替
介入を繰りかえしたとみてよい。

韓国の経済規模からすると、これはたいへんな額である。
それと比べると、10億ドルというのは、そうたいした金額ではない。
つまりそんな金額ですら、「断わられた」。

韓国の9月危機は、終わったわけではないという理由は、ここにある。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●豊かな生活(?)

++++++++++++++++

貧困感を訴える人がふえている。
先日見た何かの調査結果によると、
日本人の約60%が、「貧しい」「生活が苦しい」と
訴えているという。
幸福度は、43位(アメリカ政府公認の研究組織
「ワールド・バリュー・サーベイ」調査・08年)
という報告もある。

不景気ということもあるが、どうもそれだけでは
ないようだ。

++++++++++++++++

バブル経済の最中、日本中が、マネー、マネーで、狂乱状態になった。
そのころのこと。こんな子ども(中2男子)がいた。
夏の暑い日だったが、片手で胸をかきむしりながら、ハーハーとあえいでいた。
「どうしたの?」と聞くと、「暑くて、苦しい」と。
「クーラーがない部屋では、勉強できない」とも。

またこんなことも。
1人の女の子(中3女子)が、突然、家に帰ると言い出した。
訳もわからず、私は言われるままタクシーを呼び、その女の子を家に帰した。
で、あとで母親に理由を聞くと、こう話してくれた。
「うちの子は、よその家のトイレが使えないのです」と。

ほかにもいろいろあったが、そのつど、私はこう思った。
「こんなことでいいのかなあ?」と。

つまり当時、子どもたちは、目いっぱい、ぜいたくな生活を送っていた。
そしてそうであることが、当たり前という感雰囲気だった。
私はそういう子どもたちを見ながら、こう思った。
「おとなになってからも、今のような生活が維持できればそれでいい。
しかし維持できなくなったとき、こういう子どもたちは、どうなるのだろう」と。

そこで今の若い人たちの生活をながめてみる。
たとえば車にしても、「あるのが当たり前」というふうに考えている。
車といっても、私たちの時代には、小型の車から乗り始めた。
私が乗っていたのは、本田のライフ(軽)。
つぎに買ったのが、シビック。
どれも中古車だった。

それが今では、いきなり4WDの高級車。

住居にしてもそうだ。
私たちの時代には、6畳とか8畳一間の間借りから、生活を始めた。
ワイフと知り合ったころも、8畳一間の間借りだった。

それが今では、マンション生活。

「収入に見合った生活」というよりは、「収入ギリギリの、あるいは
それ以上の、恵まれた生活」を基準にする。
洗濯機にしても、冷蔵庫にしても、電子レンジにしても、あらゆるものが、
あるのが当たり前という前提で、ものを考える。
つまりこれでは、余裕そのものが生まれない。
その余裕のなさが、貧困感につながっている(?)。

もっと言えば、収入が40万円だったら、それに見合ったというか、
その範囲の生活をすればよい。
20万円でも30万円でもよい。
その範囲で生活をすればよい。
もっと言えば、「ないのが当たり前」という前提で、生活をする。
今の若い人たちには、そんな感覚がないのではないか。

「結局は苦労するのは、子どもたち」と、日本中がバブル経済に
酔いしれていたころ、私は思った。
そう思ったことが、今、現実になっている。

(付記)世界の幸福度調査

(1位)……デンマーク
(2位)……プエルトリコ
(3位)……コロンビア
(4位)……アイスランド
……
(16位)……アメリカ
(21位)……イギリス
(43位)……日本
(54位)……中国
(62位)……韓国
……
(100位・最下位)……ジンバブエ

(アメリカ・ミシガン大学・「ワールド・バリュー・サーベイ」08年調査)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【戒名】(Buddah's Name given by Priests)
In Japan we have to pay at least around 300 thousands yen (abt 3000 US dollars) to 
priests who give us the Buddha's name when someone dies in your home. The price 
depends on the name given by them. Some people pay 1 million yen (or more), to one 
simple name. This is funny and strange!

●「戒名」って、何だ?

+++++++++++++++++

戒名…「僧が死者につける名前。真宗では
『法名(ほうみょう)』、日蓮宗では
『法号』という」(「日本語大辞典」)とある。

しかし、これはウソ!

+++++++++++++++++

●日本だけの奇習

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「戒名(かいみょう)は、仏教において、仏門に入った証し、戒律を守るしるしとして与
えられる名前。上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に
対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名
するため、その意味で法名と呼ぶ。
またそこから転じて、死後に浄土で出家して最終的には仏となる浄土思想にもとづき、死
者に戒名を与える風習が生れた。死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている」【ウ
ィキペディア百科事典】と。

つまりもともと「戒名」というのは、「出家修道者に対して受戒の師僧によってあたえられ
る名前」をいう。

話はそれるが、平安時代、鎌倉時代の昔には、「僧」というのは、今で言う、医師、教授を
かねた、たいへんな知識階級を構成していた。
最終的には、水戸、奈良(東大寺)、太宰府にあった、国立の三大戒壇の道場のどれかで、
認定を受けて、僧は晴れて一人前の僧になることができた。

したがって「当初は、出家・得度し、受戒(仏の定めた戒律を守ると誓うこと)を済ませ
て、仏道修行の途上にある人だけに与えられるのが戒名であった」(「葬式に坊主は不要と
釈迦は言った」・北川絋洋・はまの出版)というのが正しい。

しかもだ、「死者に戒名をつける」という風習、(これはもう「奇習」と呼んでさしつかえ
ないと思うが)、そういった風習があるのは、この日本だけだそうだ(同書)。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「事実、日本以外の仏教国、たとえばスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベト
ナム、中国、韓国では、戒名というのは存在しない」(同書、P32)とある。

ウィキペディア百科事典にも、つぎのようにある。

「戒名は仏教が中国に伝わった際、号の風習を取入れて生れたものであるといわれる。道
教の道号などと同様、号の一種として考えることができるだろう。戒律の規定では、初め
て沙弥戒(十戒)を受ける時に、師より戒名(法名)を授かり、それと同時に従前の俗名
を捨てるとされる。

現代の日本では、各宗派独自に、法要や儀式を受けたり、ある一定の講習に参加したりし
た人に対しても授けるようになっている。また、死者に対しても戒名を与える慣習がある
ため、生前の俗名に対する死者の名前であると誤解されている面もある」と。

わかりやすく言えば、出家者が、それまでの俗名を捨てて、そのかわりに師僧から受け取
る名前が、「戒名」ということになる。

ウィキペディア百科事典にもあるように、「生前の俗名に対する死者の名前」というのは、
「誤解」なのである。
誤解が誤解とも認識されず、そのまま日本の社会の中に定着してしまった。

●宗派によって異なる戒名

この戒名は、宗派によって、みな違う。

ウィキペディア百科事典を参考に、それをまとめてみると、つぎのようになる。

"浄土宗鎮西派では、男女の別なく「誉」号をつける。西山派では「空」号を用いる。
位号は用いない。 

"浄土真宗では、「戒名」ではなく「法名」を用いる。「釋」号を冠して2字の法名が
付く。位号は用いない。 

"時宗では、古くは「阿弥陀仏」号を付けた。観阿弥、世阿弥はその崩れである。現
在では男性にその略である「阿」号、女性には「弌」(いち)号をつけるのが原則で
ある。阿弥陀仏号は重源が「南無阿弥陀仏」と自称したことを起源とし、成仏した
ことを意味する。女性も当初は阿弥陀仏号であったが、一遍は「一房」号や「仏房」
号を与えた。「一仏乗」からとったという。弌号はその名残りである。 

"日蓮宗では、法華経信者は霊鷲山の浄土に生まれるとされるため、「戒名」ではなく
「法号」と呼ぶ。「日」号、「妙」号などが使われる。 
o日蓮正宗では、「戒名」。 

"律宗では、戒名の下に「菩薩」の2字が付く。 

(注:以上の特徴の説明は、地域・寺院などの慣習によって異なる場合がある。)

こうして並べただけでも、戒名というのが、いかにいいかげんなものかがわかる。
本当にそれだけ重要なものであるなら、宗派ごとに、こうまで考え方やつけ方が、異なる
はずがない。

もう少し広い視野で、ものを考えてみよう。
アジア大陸全体を、宇宙から見ている自分を想像してみればよい。

そのアジア大陸の中心に、インドやネパールがある。
釈迦仏教はそこで誕生した。

で、日本は、その右隅にある小さな島国。
その島国には、死者に戒名を授けるというおかしな風習が残っている。
しかも宗派によって、考え方もつけ方も異なる。

そういう視点で見ただけでも、戒名があるから成仏できるとか、ないからできないとか、
そんなふうに考えること自体、まちがっていることがわかる。
北川絋洋氏は、同書のどこかで、「霊感商法と同じ」というようなことを書いているが、ま
さに霊感商法。
無知で、無学な人たちにつけこんだ、霊感商法。

●実名で、なぜ悪い?

死者に戒名なるものが与えられるのが、日本だけにある奇習の一つであるとするなら、仮
にあなたが熱心な仏教徒であるとしても、戒名などなくても、恐れることは何もない。
あなたには、あなたの実名がある。
実名のまま、死ねばよい。
実名のまま、あの世へ行けばよい。
どうしてその実名ではいけないのか?

百歩譲って、「戒名がなければ成仏できない」というのなら、それを言うほうがおかしい。
まちがっている。
一度、市内にある、ある寺の住職に、私はこう聞いたことがある。
「どうして戒名が必要なのですか?」と。
それに対して、その住職はピンと背筋を伸ばして、こう言った。

「俗名には、世間のしがらみが、ごみのようにまとわりついています。
そのしがらみを断ち切り、清廉潔白な気持ちで、極楽浄土に行くために必要です」と。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「僧侶の中には、戒名についてきちんと説明してくれる人もいる。その場合も『仏の教え
に従って生きていこうとする人に与えられる名前』という内容がほとんどである」(同書、
P31)と。

だいたい、釈迦のもとに行くのに、「漢字の戒名」ということ自体、おかしい。
サンスクリット語、もしくはせめてヒンズー語でなければならない。
それを僧侶は、葬儀の席で、たとえばこう言って説明したりする。

「釋浩然信士……というのは、広く洋々たる海(=浩)のごとく(=然)、極楽浄土に向か
うことができるという意味です」とか?

嘘八百!
まさに言いたい放題!

それを聞いて、信者や遺族は、ハハ〜と、ありがたくも、頭をさげる。

●おかしいものは、おかしいと皆で、声をあげよう!

あなたが仏教徒であっても、またなくても、(たいていは名ばかりの仏教徒だが)、おかし
いものは、「おかしい」と、皆で、声をあげよう。

葬儀になると、葬儀社のほうから、勝手に遺族と僧侶を仲介しながら、「戒名はどうします
か」と聞いてくる。
もちろん戒名の内容によって、「布施」の額も変わってくる。
下は20〜30万円から、上は80〜100万円。
寺の格式(?)に応じて、上にはキリなし!
近くには、300万円も払った人がいる。

○○院
○○居士(こじ)
○○釈尼
○○信士
○○大姉
○○信女、ほか。

布施の額もちがえば、読経する僧侶の数も変わる。
読経の仕方も変わる。

そこで遺族が、「戒名は不要です」などと言おうものなら、僧侶のほうが、読経を断ってく
る。
葬儀社の担当者も、こう言う。
「戒名なしでは、僧侶は来てくれませんよ」と。
が、日本人は、「葬儀には僧侶による読経は絶対必要」と、骨のズイのズイまで、叩き込ま
れている。
(実際には、僧侶抜きの葬儀をする人もふえているが……。)
だから否応なしに、遺族は、戒名をつけざるをえないという状態に追い込まれる。
ゆっくりと考えて暇もない。

が、しかし、もしそうなら、僧侶なしの葬儀であっても、何ら、おかしくない。
「戒名なしで葬儀はできない」と言うのなら、僧侶に来てもらう必要はない。
こちらから願いさげればよい。

●葬式仏教からビジネス仏教へ

葬儀そのものが、葬儀社と僧侶によって、形骸化してしまっている。
もっとはっきり言えば、ビジネス化してしまっている。
が、その責任は、「私たち檀徒にもある」と、北川絋洋氏は説く。

私たち自身が、あまりにも無知、無学というわけである。
まったく同感である。

「……つまり、戒名(料)については、どうも一般の人たちの間に、値段が高いほうがい
い戒名、安いのは悪い戒名という認識があるようなのである。
どこのだれがそんな妄説(もうせつ)を唱えたのか定かではないが、日本人の心には最近
とみに、なんでもお金で解決できるという考え方が根づいてしまっているようなのだ。
それで喜ぶのは、どうやら寺と僧侶だけだということには、まったく気づいていないので
ある」(同書、P41)と。

しかしあえて一言。

寺の住職たちよ、こんなバカげた奇習を守りつづけて、好き勝手なことをしていると、日
本の仏教は、ほんとうに死滅するぞ!
一般庶民にしても、檀徒にしても、君たちが思っているほど、馬鹿ではないし、それに気
づき始めている。

すでに都会地域では、「直送(ちょくそう)」「自然葬」という言葉が、日常的な会話の中で
語られるようになってきている。
「直送」については、東京都だけでも、約30%の人が、それをしている。

葬儀にせよ、大切なのは、「心」。
日本の仏教は、その「心」を忘れてしまっている。

((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 戒名 戒名論 はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 戒名 
戒名論)
参考文献:北川絋洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」・はまの出版


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2823)

●和式仏教の終焉(しゅうえん)
(What is the Japanese Buddhism? Everything is funny and strange.)

+++++++++++++++++++

浜名湖に面して、小さな漁村がある。
「その昔は、漁村だった」というべきか。
その昔は、浜名湖に生える天然の海苔が、
主な収入源だったという。

全体で、30世帯ほど。
最近まで、半分ほどがミカン農家だったが、
営農者の高齢化とともに、減反につづく減反。
今は、農業を営む人も、ほとんどいない。

その村での法事に行ったときのこと。
ワイフの母の実家が、そこにある。

「今年は、13軒も初盆がありましてね」と、
ワイフの従兄弟にあたる、Kさんがそう言った。
「でもね、初盆をする家は、半分くらいです。
あとの半分は、しません」と。

都会地域でならまだしも、そんな村でも、
今、初盆さえしない家がふえている。
Kさん自身も、「できればうちも、やめたかった」と。

「このあたりでは、13、14、15、16日と、
4日間もするのです。たいへんです」とも。

今、日本の仏教は、大きな曲がり角に来ている。
転機と言うべきか、それとも、終わりの始まりと
言うべきか。
称して、「和式仏教の終焉(しゅうえん)」。
このままでは、日本の仏教は、ほんとうに死滅する。

+++++++++++++++++++

日本の仏教は、おかしい。
何からなにまで、おかしい。
戒名に例を見るまでもない。

「宗教心」と、「信仰心」は分けて考える。
「どこがどう違うのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし宗教心をもつということと、信仰心をもつということは、別。
もっとわかりやすく言えば、「宗教」と「信仰」とは、別。

宗教それ自体は、哲学と考えてよい。
「宗教哲学」という言葉もある。
「教え」に従い、その教えを日々の生活の中で生かすことで、より豊かな人生(=心)を
めざす。
しかし信仰というのは、「信ずること」。
『イワシの頭も信心から』ともいう。
哲学というところの「学」は、ない。
なくても、一向に構わない。

そこでこの日本。
信仰心のある人は多いが、宗教心のある人は少ない。
仏教徒と言いながら、仏教の勉強をしたことがある人は、ほとんどいない。
中に経典をスラスラと読む人もいるが、その意味まで把握している人となると、少ない。

それもそのはず。
日本の仏教は、釈迦が説いた仏教というよりは、チベット密教の流れをくむ中国仏教。
信仰によって病気を治したり、国を治めたりする。
「教え」らしきものはあるにはあるが、もととなる経典にしても、そのほとんどは、
釈迦滅後、500〜600年もたってからインドで作られたもの。
日本で偽作された経典すら、ある。
「初七日から四十九日の法要など十仏事」の根拠になっている『地蔵十王経』も、
そのひとつ。
「鎌倉初期に日本において偽造されたことが、証明されている」(北川高揚)。

だから日本の仏教では、ルーツをたどられること自体を、嫌う傾向が強い。
あるいは日蓮、親鸞などの説いた仏教を、その始点とする。
中には、「日蓮は釈迦の生まれ変わりだから、日蓮仏法のほうが本物」と説明する人もいる。

たとえば観音様が女性であっても、(もともとは男性)、かまわない?
日本の仏像が、古代インドの衣装ではなく、古代ギリシアの衣装を身につけていても、
かまわない?
アフガニスタンの「ウラバン」が、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、盂蘭盆会(え)に
なってもかまわない?

しかしいくら信仰をしても、盲目になってはいけない。
「おかしい」と思う心を失ってはいけない。
でないと、それこそイワシの頭を信じながら、それにすら気づかなくなる。
あるいはカルト教団の餌食となって、貴重な人生そのものを、棒に振ることになる。

では、宗教とは何か。

一言で言えば、「身の回りの不可思議さについての、哲学的体系」ということになる。
哲学の一部ということになるが、哲学とは視点が逆。

哲学は、実証された(事実)をもとに、思想を体系化していくが、宗教は逆に、
そこにある(不可思議さ)の中から、(事実)を引き出していく。
わかりやすい例で考えてみよう。

たとえば実存主義と呼ばれる哲学がある。
その実存主義では、(認識)を大切にする。
「私が生まれてみたら、そこに親がいた。社会があった。国があった」と。
この宇宙にしても、人間が認識するから、そこにあると考える。
そこで「神も仏も、人間がつくった」と考える。

一方、宗教では、(存在)の不可思議さに驚き、おののく。
「なぜ、山があり、海があるのか。人間がいるのか」と。
この宇宙にしても、まず不可思議な力によって、そこにつくられたと考える。
そこで「神が、人間をつくった」と考える。

さらにかみくだいて言えば、「生きている存在」として考えるのが哲学、
「生かされている存在」として考えるのが宗教ということになる。
つきつめて言えば、私たちは生きているのか、
それとも生かされているのか。
「私は生きている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが哲学。
「私は生かされている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが宗教。

どちらにせよ、こと(考える)という視点では、哲学も宗教も、方向性こそ逆でも、
中身は同じということになる。
ともに体系化されうるものだし、現に体系化されている。

が、信仰する人の多くは、(信仰)することだけをもって、それが「宗教」と
思いこんでしまっている。
さらに信仰的儀式を忠実に守ることだけをもって、それが「信仰」と思いこんで
しまっている。
はっきり言えば、ノー・ブレイン。
考える力どころか、批判力すら、喪失してしまっている。
それが集約されているのが、現在のこの日本に見る、葬儀ということになる。

もちろん中には、私たちが見えないところで仏道の修行に励んでいる行者も
いるかもしれない。
一歩退いて、どこの寺の住職でも、頼んだり質問したりすれば、それなりのことをしたり、
言ったりする。
しかしそういったものが、表に出てこない。
私たちに伝わってこない。

たとえば私の周辺でも、寺の住職が率先して、貧しい人や、苦しんでいる人を
救済したという話は、聞いたことがない。
耳に入ってくるのは、おどろおどろしい話ばかり。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
ある遺族が、「うちにはお金がない。戒名料を払うお金がない」と言うと、その
僧侶は、読経もせず、寺に帰ってしまったという。
さらに日本では、高額所得者というと、医師、弁護士ということになっている。
が、実際には、寺の住職たちは、それ以上の収入をあげている。
一度税務署は、そういう実態を公表してみては、どうか。

こんなことをつづけていたら、日本の仏教は、どうなるか?
改めて私が、ここに書くまでもない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●謎の小惑星、「シュテインス」

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欧州宇宙機関(ESA)が、10月6日(08)、
小惑星「シュテインス」の写真を公表した。

+++++++++++++++++

欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ロゼッタ」が、
小惑星「シュテインス」に接近、写真撮影に成功した。

シュテインスは、地球から3億6000万キロ離れており、
直径は、4・6キロ(この数字に注目!)。
ちょうどダイアモンドのような形をしている。

が、この小惑星にも、大きなクレーターがある。

新聞記事をそのまま紹介する。

「ダイアモンドの上面にあたる部分に、直径2キロ
の巨大なクレーターがあるほか、側面に7つの小さな
クレーターが一直線に並んでいるのが特徴だ」(中日新聞)と。

●直径2キロのクレーター

こうした小天体(もしくは小惑星)には、たいてい場違いなほどに大きい
クレーターがある。

クレーターといっても、崩れた形のものではない。
どれもほぼ真円に近い、きれいな円形をしている。
(もちろん惑星そのものが、いびつだから、周囲はでこぼこしているが……。)
今度、欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ロゼッタ」が、
写真撮影に成功した小惑星「シュテインス」も、その中のひとつ。

直径4・6キロの小惑星に、直径2キロのクレーター?

クレーターというのは、隕石どうしの衝突によって作られるもの。
それが常識(?)になっている。
もし直径4・6キロしかないような小惑星に、直径2キロものクレーターを
作るような隕石か何かが衝突したら、その小惑星は、クレーターを作る前に、
こなごなになってしまうはず。

そんなわけで、私は、こうしたクレーターは、自然にできたものではないと思う。

●宇宙船

宇宙を航行する、もっとも安全な宇宙船を、もっとも安価に建造するとしたら、
宇宙に漂う小天体か、小惑星を利用する方法がある。
こうした小天体か小惑星の内部をくりぬいて、その中を居住空間とする。

外壁を厚い岩盤でおおわれているから、危険な放射線や宇宙線をそれで防ぐ
ことができる。
宇宙を漂うゴミとの衝突による被害も、それで防ぐことができる。

重力はほとんどないから、作業も楽である。

が、問題は、推進装置。
どうすればその宇宙船を、目的の方向に向けて、動かすことができるか?
実は、方法は簡単である。

●推進装置

こうした小天体にせよ、小惑星にせよ、推進装置をつけるのは簡単である。
その上に、すり鉢状のクレーターを作ればよい。
その中で、何かを爆発させればよい。
半球形のクレーターであれば、爆発させる位置、爆発物の威力を調整する
ことによって、小天体、小惑星を自由に移動させることができる。

位置と威力の特定は、コンピュータを使えば、それほど難しいことではない。
探査機を操作するよりは、はるかに楽。
また爆発物には、放射能を出さない純粋水爆のようなものを使えばよい。
こまかくボン・ボン・ボン……と小刻みに爆発させれば、小天体、小惑星への
被害もないだろう。

●謎のシュテインス

ここにも書いたように、シュテインスにも、直径2キロのクレーターがある。
そればかりか、7個のクレーターが一直線に並んでいる。
写真でみるかぎり、大きさも、ほぼ同じ。

こうしたクレーターを、ここに書いた推進装置と理解することはできないだろうか。

大きなクレーターは推進装置。
小さなクレーターは、進行方向を微調整するためのもの。

もしそうであるとするなら、シュテインスはまさに、宇宙船ということになる。
外壁が、ノッペリとしているのも気になる。
何かの物質で、補強されているのかもしれない。
新聞の見出しにも、「小惑星、ダイヤの輝き」とある。
太陽の光をまぶしいほどまでに反射する物質と考えると、納得がいく。

その探査機「ロゼッタ」は、2014年に「彗星に接近、小型探査機を着陸
させる」という。
この記事だけでは、ロゼッタがシュテインスに着陸するのかどうかはわからない。
「彗星」とは、シュテインスのことなのか?

どうであるにせよ、ますますロマンが膨らんできた。

シュテインスは、宇宙船だゾ〜〜〜〜オ!


++++++++++++++

●UFO

+++++++++++++++++

若いころ、私が23、4歳のころだが、
当時日本テレビに在籍していた、矢追純一氏と、
交際させてもらったことがある。
当時は、矢追氏は、11PMという番組の、ディレクターを
していた。

浜松(がま産婦人科医院)でも数回、東京(ニューオータニ)
でも数回、個人的に会ったことがある。
恐らく矢追氏は、私のことなど忘れてしまっているだろう。
が、「手巻きタバコの林」もしくは、
「針麻酔の林」といえば、思い出してもらえることと
思う。

一度、UFOの写真集を、20〜30枚前後、
送り届けてもらったこともある。

その矢追氏が、今度、コミックだが、新しい
本を出した。
さっそく、コンビニで購入。

題して「UFO」(監修、矢追純一・竹書房)。
矢追氏自身の個人的な体験がふんだんに盛り込まれて
いて、おもしろかった。
「ああ、あのころ、矢追氏は、こんなことをしていた
のだ」と、それがよくわかった。
それに矢追氏が、UFO問題に傾注していく過程は、当時
直接矢追氏自身から聞いていたので、たいへん興味深かった。

もちろん、私の知らない事実もたくさん、この本の中に
あった。

火星にまつわる謎である。

それについては、別の機会に書くとして、たいへんおもしろかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2824)

●火星の人面岩

+++++++++++++++++++++

火星のシドニア地区に、あの有名な人面岩(人面像)がある。
大きさは、対角線にして、約2・6キロ。
その後、アメリカのNASAは、光のマジックで、そう見えるだけと説明した。
つまりたまたま光の角度によって、ふつうの岩山が、人面に見えただけ、と。
そしていろいろな角度から撮影した人面岩の写真を、公表した。

しかし本当に、光のマジックだったのか。
「人面」に見えたのは、光のマジックによるものだったのか。

++++++++++++++++++++

矢追純一氏は、こんな興味深い事実を指摘する(「UFO」・竹書房)。

その人面岩から少し離れたところに、いくつかのピラミッド状の
建造物らしきものが、群立している。
その中のひとつに、「D&Mピラミッド」と呼ばれる、きれいな五角形を
したピラミッドがある。
きれいな五角形といっても、正五角形ではない。
「ダビンチ五角形」とよばれる、辺がある比率で作られた五角形である(同書)。
自然にできた形とは、とても思えない。
何かの結晶でも、そこまできれいな形にはならない。
その五角形がピラミッドの頂点が、まっすぐ、先の人面岩をさしている。

私も線引きを使って確かめてみたが、誤差は、まったくない。
「まっすぐ」である。

ほかにもその本の中では、いくつかの事実をあげている。
が、このひとつだけ取りあげても、人面岩が、ふつうの岩でないことがわかる。
「光のマジック」というには、あまりにも無理がある。

……ということもあって、このところ宇宙へのロマンがますます、ふくらんでいる。

月には何かが、ある。
火星にも、ある。
小惑星にも、ある。

さらにその本の中には、いくつかのUFOの写真が載っているが、その
中に、私とワイフが見たのと同じ、「く」の字型のUFOもあった。

念のため申し添えるなら、私とワイフが見たのは、1975年前後。
当時、私もUFOに、それほど関心があったわけではない。
それにUFOといっても、アダムスキー型のものは知っていたが、
それほどまでに巨大なものがあるとは知らなかった。
私たちが見たのは、幅だけでも、数キロはあった。

さらに本に中には、UFOの現れ方についての描写もある。
UFOは、まわりの景色と溶け込むように、現れたり、消えたりするという。
つまり透明になることもできる。

私たちが見たUFOも、消えるときは、まるで空に溶けこむかのようにして、
東の空に消えていった。
遠ざかって消えたのではない。
スーッと、背景の星に溶けこむようにして、遠ざかっていった。
(このことは、私は、10数年も前にも書いた。
今回、この本を読んだから、そう書くのではない。念のため。)

また私は矢追純一氏という人を、若いときに知っているが、当時からもの静かで、
誠実な人だった。
信頼のおける人物である。
コミック本とはいえ、じゅうぶん、信用して読んでよい。
(むしろ最近では、インチキ本ほど、装丁を立派にして、人をだますことが
多いので注意!)

ただとても残念に思うことは、UFO問題が、霊とか超能力とか、そういったものと
ひとまとめになって、「超常現象」として片づけられていること。
UFO問題は、けっして根拠のない超常現象ではない。
そこにある(現実)であり、「科学」である。
そうとらえて、何ら遜色ない問題である。
つまり「信ずる」とか、「信じない」というレベルの問題ではない。
この宇宙に住んでいる知的生命体は私たち人間だけではないということ。
しかもその知的生命体は、私たちのごく近くにいて、私たちといっしょに
生活しているということ。
そういう前提で、UFO問題を考えてほしい。

●私とワイフが見たUFO

UFOは、飛行中、まったく音を出さない。
UFOは、急速にスピードをあげることができる。
UFOは、透明になったり、姿を現したりすることができる。
私とワイフが見たUFOは、幅が最低でも1キロ前後、「く」の字型の
巨大なものだった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●三浦K事件

++++++++++++++++++

おかしなことがつづく。

昔、三浦K事件というのがあった。
「ロス疑惑事件」ともいう。
三浦K氏の妻が、白昼、近寄ってきた白いバンの
中から、だれかによって銃撃され、その後死亡した。
三浦K氏は、その模様を一部始終、目撃する
位置にいた。
(白いバンの存在については、三浦K氏は否定しているが、
三浦K氏自身が撮った写真の一部に、それが写っている。)

その三浦K氏は、現在、S島にある拘置所に
拘留されている。
S島というのは、アメリカの自治領である。
で、今度、再審理審査のために、ロスに
移送されることになった(9月11日)。

その是非はともかくも、それについて、
三浦K氏の元弁護士や、支援団体が、
猛反発しているという。
私は、この部分に、(おかしさ)を覚えた。

日本での裁判では、三浦K氏は、無罪を
勝ち取った。
その時点で、弁護士としての仕事は、
終了しているはず。
どうしてその弁護士が、感情論むきだしで、
それに反発するのか。
さらに三浦K氏には、彼を支える支援団体
まであるという。

私にはこれ以上のことは書けない。
フ〜〜〜ンと思っただけで、つぎの言葉が
出てこない。

あえて言うなら、日本側の弁護士も、
また支援団体の人たちも、法律という
条文の向こうにある、法的正義とは何か、
それについて一度、心のどこかで考えて
みてほしい。

法律というのは、あくまでもその法的正義を
具現化するための手段でしかない。

「罪刑法定主義」とは言うが、何でも「法律が先」という
世の中になったら、それこそこの世は闇。
まず法的正義を先に置く。
そのために必要であれば、条文を拝借する。
それが本来の(法律)のあるべき姿ではないのか。

というのも、三浦K氏は、日本の裁判では無罪に
なったが、大多数の日本人は、それに納得していない。
私も納得していない。
三浦K氏が無罪になったのは、もう1人、そこにいたであろう
はずの人物の存在が証明できず、かつ実行犯が特定できな
かったからにほかならない。
まさに日本の刑法の盲点をついた、無罪判決という
ことになる。

その三浦K氏はアメリカでの裁判を、「一事不再理」を理由に、
拒んでいるという。
しかしほんとうに自らの身の潔白を証明したいのであれば、
また自らの無実と信じているなら、アメリカで再審理をして
もらえばよい。

今度こそ、それで私たち日本人も納得する。
三浦K氏も、晴れて、堂々と世界中を歩きまわることができる。

++++++++++++++++++++

●AS総理大臣の誕生(?)

++++++++++++++++

自民党次期総裁に、AS氏が選ばれる
可能性が大きくなってきた。
すでに自民党内で、約60%の支持者を
獲得したという(報道)。
とくに若い人たちの支持を広く集めて
いるという。

自民党次期総裁イコール、日本国総理大臣
である。

++++++++++++++++

私はAS氏の今までの、数々の問題発言を理由に、AS総理大臣誕生には、強く
反対する。
昨今も、AS氏は街頭演説で、自らを、「漫画オタク」と表現してみせた。
一国の、しかも世界第二の経済大国の首相が、使うような言葉だろうか?
私たちは、彼の、あのニンマリと笑った仮面の下に、何が隠されているか、
それを見極めなければならない。

もし総理大臣ということになれば、これからは問題発言は、問題発言という
レベルを超えて、へたをすれば国家間の紛争につながる危険性もある。
自民党内でも(極右派)というだけで、すでに中国や韓国など、日本の周辺の
国々は、緊張し始めている。
「日本がどんな首相を据えようが、日本の勝手」という論理は、このアジアでは
通用しない。
先の大戦で、約300万人もの日本人が死んだが、その日本人が、ほぼ同数の
約300万人の外国人を殺している。
日本は、いまだかって、その戦争責任を、公式に認めたことは一度もない。
責任問題をうんぬんすれば、その責任は、「天皇」まで行ってしまう。
天皇を頂点にいだく官僚主義国家としては、これはまことにもって、まずい。

AS氏は、天皇を元首とする憲法改正に、もっとも積極的な政治家のひとりである。
この21世紀の日本で、なぜ今、王政復古なのか?
そういうことも考えながら、AS氏の言動に、これからも注視していきたい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものページ(Pages for Children)

マガジンのほうで、子どもも楽しめるページを作ってほしいという要望があった。
8月に載せた、「子どもたちへ」という詩集が、好評だったようだ。
よい要望なので、さっそく今夜からでも、実行してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもたちへ】(08年9月)(To: Children)

●よい友だちを選ぼう

よい友だちを選ぼう。
よい友だちは、君を、よいほうに伸ばしてくれる。
そうでない友だちは、そうでない。

そのひとつの方法として、こんなことを知るといいよ。
君によいことを教えてくれるのが、よい友だち。
スポーツの楽しさや、音楽のすばらしさなどをね。
君がその人を見て、「ぼくもやってみよう」「私もがんばろう」と
思うなら、その友だちは、よい友だち。

が、君に悪いことを教えてくれるのが、悪い友だち。
タバコを吸ってみないかとか、夜、遊びに行かないかなどと、ね。
君を誘ったりするよ。
そういう友だちが、悪い友だち。

よい友だちを選ぶためには、ひとつ条件があるよ。
それは君自身が、YES/NOをはっきりと言わなければならない。
またそれができなければならない。

いやだったら、「いやだ」と言う。
それには勇気が必要だけど、もしその勇気がなければ、家で練習をするといいよ。
何かのことを頭の中で想像しながら、「いやだ!」と大声で言ってみる。
あるいは笑顔をつくりながら、言ってみる。

こう考えてみたら、どうかな。
あなたという人は、長い時間をかけて、友だちによってつくられる、と。


●道徳

「道徳」ってむずかしいことだと思っている人は多いね。
でも、そんなにむずかしいことではないよ。
道徳の完成度は、公平性と視野の広さでみるんだって。

「公平性」というのは、いつも、だれに対しても、同じように正しく
接することをいうよ。
視野の広さというのは、いつも高い視点でものを考えることをいうよ。
「人間とは……」とか、「地球は……」とかね。

道徳の完成度の低い人は、そのつどやることなすこと、いいかげん。
相手によって、コロコロと態度が変わったりする。
それにいつも、ささいで、小さな問題で、ザワザワと騒いでいる。
しばらく話していると、窮屈な感じがするから、それがわかるよ。

だから君は、いつも、だれに対しても同じでいようね。
そしていつも、できるだけ大きな問題について、考えよう。
そういうことが平気でできるようになったとき、
君のまわりには、すばらしい友だちが集まってくるよ。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●教育投資、日本、最下位

「経済協力開発機構(OECD)は、9日、加盟各国の国民総生産(GDP)に
占める教育への公財政支出割合について調査結果を発表。
日本は、前年よりも0・1ポイント減少し、3・4%で、データ比較が
可能な28か国中で、最下位だった(2005年度)」
(以上、中日新聞・08年9月10日)と。

こうした事実を、いったい、日本人のどれだけが知っているだろうか。
わかりやすく言えば、この日本では、教育費は、親の負担ということになっている。
大学生をみれば、それがわかる。

しかもこの日本には、奨学金制度がない。
アメリカでもオーストラリアでも、そしてほかの欧米諸国でも、親のスネを
かじって大学へ通っている学生など、ほとんどいない。
みな、民間企業などが提供する奨学金を得ているか、自分で借金をしながら、
通っている。
「意識」そのものが、ちがう。

だから自分の子どもが大学へ通うようになると、世の親たちは、爪に灯をともすよう
にして、学費を捻出する。
現実は、きびしい。
その数字が、3・4%。

ちなみに「調査結果によると、28か国の平均は、5・0%。

1位……アイスランド(7・2%)
2位……デンマーク(6・8%)
……
下位3か国は、日本のほか、スロバキアとギリシア」(同紙)と。

また「教育費全体に対する私費負担の割合は、日本は31・4%。
韓国、アメリカにつづき、3番目に多い」(同紙)とも。

昔は、『子、育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子、大学生、親、貧乏盛り』と言う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自然葬(Natural Funeral)

自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。

「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。

少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。

自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。

実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。

もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという。
この浜松市でも、140〜50万円が、その相場ということになっている。

しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)

葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万〜80万円。
上にはキリがないそうだ。

ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。

日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10〜20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円〜となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)

しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。

「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。

それに対して、その住職は、こう教えてくれた。

「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。

私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。

私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1〜2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。

故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。

今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。

で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。

(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)

僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。

いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。

……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。

私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。

ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。

なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。

「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!

Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++++はやし浩司

●2012年、ハルマゲドン説

+++++++++++++++++++

先日、電車に乗る前に、コンビニで、一冊の本を買った。
目当ての雑誌が、まだ発売になっていなかった。
それで、その本を買った。

『2012年、地球崩壊の驚愕大予言』(日本文芸社)という
本である。
一言で解説すれば、2012年の9月ごろ、巨大隕石が
地球に衝突する可能性があるという内容である。
その結果、人類の3分の2程度はそれで滅亡し、残りの3分の1も、
「生きながらえたことを後悔しながら、少しずつ死に絶えていく」と。

地球温暖化の問題にも触れ、ある予言者は、「地球の平均気温は
59度になる」と言っている、とか。

こうした本を読むとき注意しなければならないのは、(カルト教団の
説法と似通っているが)、事実とフィクションをたくみに混ぜていること。

地球温暖化は(事実)だが、その(事実)を取りあげながら、人々の
心を不安にする。
不安になると、正常な判断力が弱くなる。
その弱くなったところで、予言者なる人たちの言葉を使い、何かの目的のために、
人々の心を誘導していく。

ちょうど10年前には、「ノストラダムスの予言」が、話題をさらった。
しかしその「1999年の7月」には、何も起こらなかった。
で、今度は、2012年。
天文学に詳しかったとされる(?)、マヤ文明に残された古文書を根拠にしている。
「マヤの予言は史実だった」(p30)などと、ある。

そしてそれに別の(事実)を混ぜる。
たとえば、こうだ。

2012年12月8日〜28日の間に、地球に接近してくる小天体があるという。
名前は「トータチス」。
直径は約1キロメートル。
太陽のまわりを、約3・9年で一周するが、そのため、約4年に1度、地球の軌道と
クロスする。
ここまでは(事実)。
が、今のところ地球と衝突する可能性は、ほぼゼロに近いのだが、それでは本になら
ない。

で、こうある。

「きわめて(軌道の)変動のはげしいトータチスは、ほぼ4年に1度、長軌道から、
短軌道へと移動している。このとき、どうしても地球の軌道とクロスすることに
なる」(p43)と。

トータチスという小惑星があって、太陽のまわりを回っている。
しかしそんな小天体は、何百個もある。
そのうちの一個が、軌道を変えて、地球に衝突する可能性があるという。
つまりこの部分が、フィクション。

どこでどう軌道を変えるのか?
どうして軌道を変えるのか?

……いろいろ書きたいことはあるが、人間には(不安)を楽しむという心理も
ある。
映画にも、その種類のものが、たくさんある。
「ご勝手にどうぞ」と思ったところで、その本はそのまま、カバンの中へ。

【補記】

ついでに「予言」について。

どこかの科学者が、観測データに基づいて、「20xx年から前後、プラスマイナス、
20年以内に、東海沖地震が起きる」と説くのは、科学的根拠に基づいた可能性の
問題。
しかしどこかのオジチャンが、「20xx年に、東海沖地震が起きる」と説くのは、
そうした可能性をたくみに悪用した悪のり。

地球温暖化の問題にしても、そうだ。

すでに(事実)になりつつあることをたくみに利用しながら、それを(予言)に
つなげていくというのは、(インチキ)そのもの。
が、人間の脳みそはスキ間だらけ。

北海道に住む人と、九州に住む人が、携帯電話で話しても、だれも驚かない。
しかし数メートル離れたところにいる人どうしが、テレパシー(?)で、
簡単な絵や文字を伝達したら、それだけで大騒ぎ。

つまりは予言なるもの信じている人たちは、日常的に科学コンプレックスを
もっている。
それから生まれる欲求不満を、こうした形、つまり自分たちに優位性をもたせる
ことで、解消している。
「科学なんてあてにならない。自分たちのほうこそ、正しい」と。

少しでも科学の道に入っている人なら、こうした予言など信じない。
もとから相手にしない。


●隕石でできた鉄剣(A sword made of Star Dust)

トルコにある、世界最古の鉄剣が、「宇宙から飛来した金属を主成分
とする隕石(隕鉄)を材料にした可能性が高いことが」わかったという
(中日新聞9・6、夕刊)。

「この鉄剣は、1938年、アンカラの東、約200キロにあるアラジャホユック
遺跡の墳墓で出土した」(同紙)という。

が、そのあとの記述が気になる。

「鉄の精錬技術がまだなかった、約4300年前のもので、隕鉄を用いた
という説はあったが、直接の根拠はなかった」(同紙)と。

鉄の精錬技術のなかった時代に生まれた鉄剣であるということ。

分析したのは、「東京理科大などの研究チーム」(同紙)とか。

「(この)鉄剣の刀身部分を詳しく分析したところ、刀身の鉄には、隕鉄
に特徴的なニッケルが約7%含まれていることが判明。コバルトなどの微量
元素の組成も、隕鉄に極めて似ていることがわかった」(同紙)とも。

おもしろい!
たいへん、おもしろい!

新聞に載っている写真を見ると、刀の柄の部分は、金でできているらしい。
が、刀身のほうはボロボロにさびているといった感じ。
(日本刀のような輝きを期待してはいけない。)

しかし落ちてきた隕石で、どうやって刀を作るのだろうか。
あるいはもともと、この鉄剣は、宇宙のどこかで作られたものではないだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中でロマンがふくらむ。

メソポタミア文明や黄河文明は、今から約5500年前に始まった。
紀元前3500年ということになる。
問題の鉄剣が作られた時代は、約4300年前という。
トルコの右下がイラク。
トルコで、こうした鉄剣が見つかったとしても、なんら、おかしくない。


●三浦K事件(K. Miura Case)

三浦K事件について、アメリカで再審裁判が行われるかどうか、この9月
26日に決まるという。

私の予想では、検察側の再審請求は却下され、三浦K氏は、晴れて無罪放免。
これほどまで今までの審理が長引いたということが、その根拠(?)。
アメリカ側の立場で考えれば、こういうこと。
「こういう裁判は、めんどうだから、やめよう」と。

「法的正義」という言葉があるが、今のアメリカに法的正義を求めても、
あまり意味はない。
三浦K氏が有罪になろうが、無罪になろうが、アメリカにしてみれば、関係の
ないこと(?)。
無駄な裁判をつづけて、税金を無駄遣いしたくないという心理も働くかもしれない。
ただ検察側の再審裁判が始まれば、アメリカへの信頼感は、ぐんと高まる。
「やっぱり、アメリカって、民主主義の国だったんだア」と。

あとはアメリカ側の政治的判断ということになる。


●再び、金xx、健康悪化説(Kim Il Jong of North Korea)

今日のニュースによれば、少し前、ピョンヤン入りした中国の医師5人が、
まだ帰国していないという。
韓国の新聞社は、そういう事実をとらえて、金xx、健康悪化説を流し始めて
いる。

持病の糖尿病と肝臓病が、悪化しているらしい、と。
心臓病については、少し前、心臓のバイパス手術を受けたといううわさもある。
どうであるにせよ、何十万人も人を殺したと言われる独裁者でも、自分の命だけは
惜しいらしい。

が、問題は、金xx亡きあとの、K国である。
金xxが死亡したからといって、K国が簡単に変化するとは思われない。
後継者がだれになるかによっても決まるが、むしろ軍部が力を拡張し、
K国は不安定になるかもしれない。
となれば、K国はますます強硬路線を歩むことも考えられる。

反対に金xxの死去とともに、K国が崩壊すれば、そのあとK国は、
韓国ではなく、中国の管理下に入るはず。
そうなれば韓国は、竹島(独島)どころか、朝鮮半島の半分を失うことになる。

私たち日本人の知ったことではないが……。
(ちょっとこの意見は、冷たいかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●オバチャンたちの無駄話(Talkative Women)

電車で講演先に向かうとき、相向かって座った2人のオバチャンが、
さかんに会話を始めた。
年齢は2人も65歳前後。
ペチャペチャ、キャッキャッ、と。

目を閉じて、その会話を分析する。
で、いくつかのこと気づいた。

人は、とくにそのための訓練をした人は別として、静かに目を閉じてものを
考えることができない。
考えることはできるが、思考能力は浅く、内容も堂々巡りしやすい。

そこで人は、つぎの2つの方法のうち、どちらか一方を選択する。

(1)ものを書く。
(2)だれかと話をする。

しかし考えるといっても、情報の交換は、(思考)ではない。
思考には、常にある種の苦痛が伴う。
難解な数学の問題をだれかに解けと言われたときの状態を想像してみればよい。
それがその(苦痛)である。
で、だれしも、できるなら、解答を見て、簡単にすませたいと思う。
そういう心理も働く。

しかし私の前で話し込んでいる2人のオバチャンには、そういった様子は
まったく見られない。

「あら、白い花! あそこにも……。あれはソバの花かしら……」
「でも、ソバの花は、こんなところには咲かないわよ」
「花といえば、もうコスモスが咲き出したわ」
「コスモスはきれいね……」と。

やがて今度は、話題が旅行に移った。
「紅葉がきれいなのは、このあたりでは、XX峡ね」
「(JRの)H線に乗って、長野のほうへ行くのもいいわよ」
「私、去年は、○○へ行ってきたわ。今年も言ってみようかしら」と。


つまりそのつどテーマは変わるが、話している内容は、まったく同じ。
脳に飛来した情報を、たがいに、披露しあっているだけ。
思いついた情報を、たがいに交換しあっているだけ。

残念だが、こういうのは思考とは言わない。
言わないが、もうひとつ、気がついたことがある。

その2人のオバチャンは、間断なくしゃべりつづけていた。
その様子から、2人のオバチャンは、だまっていることができないことを知った。
つまり口の動きを止めたとたん、脳みその中がカラッポになる。
2人のオバチャンは、それに耐えられない。
だからしゃべる。……しゃべりつづける。

言いかえると、(考えるという習慣)そのものが、ない。
会話の途中で、相手の言葉を頭の中で反芻(はんすう)しながら、
「ウ〜ン」とか、「そうねエ〜」とかいう言葉が出てこない。
相手がポンポンとものを言えば、それにあわせてもう一方も、ポンポンと
ものを言う。

私は2人の会話を聞きながら、「この人たちの思考力はゼロ」と判断した。
言うまでもなく、思考力というのは、その「深度」で決まる。
その深度そのものが、なかった。

で、この状態がさらに進むと、養護センターの老人たちのようになる。
ある老人(85歳くらい、女性)は、会う人ごとに、「息子さんは元気ですか?」と、
声をかけている。
その息子のことを本気で心配しているから、そう言っているのではない。
口癖でしかない。

あるいは、介護師の人が何をしても、「ありがとう」を口にしている老人(80歳
くらい、女性)もいる。
本気でそう思っているから、そう言っているのではない。
やはり口癖でしかない。
自分でスプーンを落としても、「ありがとう」と言ったりする。

だからその2人のオバチャンのような会話は、たがいに言った先から、忘れて
いく。
聞いている私が忘れるのではなく、しゃべっている2人が忘れていく。
もともとどうでもよい話を、スズメのように、ピーチクパーチクと話して
いるだけ(失礼!)。
だから頭に残らない。
残らないから、先に向かって展開していかない。

……しかし、このタイプのオバチャンは、うるさい。
ほんとうに、うるさい。

「携帯電話はオフかマナーモードに」という車内アナウンスが聞き取れないほどの
大声で、しゃべりあっている。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●比較

+++++++++++++++++

私は他人に比較されるのが、大嫌い。
ときどきワイフも、その気はないとは思うのだが、
私をだれかと比較するときがある。
そういうとき私の心の中の古いトラウマが、爆発する。
「ぼくは、ぼくだア!」と。

+++++++++++++++++

比較……それが私の母の子育て方の「柱」になっていた。
「あのA君は、今度、○○賞を取ったそうや」
「あのB子さんは、算数のテストでは、いつも100点やそうや」とかなど。

さらに大きくなると、こう言った。

「あのC雄さんは、すごいものや。今度、両親を温泉へ連れていってやったそうや」
「Dさんは、親のために、離れを増築したそうや」とかなど。

これは母だけの「柱」というよりは、母方の兄弟は、みな同じような言い方をする。
だから母もまた、そういう環境の中で、自然とそういう「柱」を身につけたらしい。

で、私はその(比較)に、猛烈に反発するようになった。
……とは言っても、私の時代には、親に逆らうということ自体、タブー視されていた。
親自身も、自分の子に対して、そう思っていた。
だから私が何か反発したりすると、すかさず父にしても、母にしても、
「親に向かって、何だ!」と、怒鳴りかえされた。

そんなわけで、今でも(比較)が、私の心の中で、トラウマになっている。
ワイフが、「あら、この人(=昔の私の知人)が新刊書を出したわ」などと
言っただけで、ムカア〜〜〜ッと、不愉快な気分になる。

さらに「あら、おもしろそうな本ね」などと言ったりすると、さらに不愉快になる。
トラウマというのは、そういうもの。

私「うるさい!」
ワ「どうして怒るのよ」
私「そういう話は聞きたくない!」
ワ「私は、あの人が新しい本を出したと言っただけでしょ」
私「だから、そういう話は聞きたくない」
ワ「あなた、おかしいわよ」
私「おかしくても、おかしくなくても、聞きたくない!」と。

ワイフは、ワイフの考えだけで、ものを言う。
が、私には、どうしてもそれが(イヤミ)に聞こえてしまう。
その理由が、先に書いたトラウマである。

私はいつも心の中で、こう叫んでいた。

「ぼくは、ぼくだア!」と。

今も、そしてこれからも、そうでありたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●東海自然歩道(Walking through Tokai Nature-reserved Road)

++++++++++++++++++

昨日、富士吉田の浅間神社から、山名湖畔にある花の都
というところまで、約9キロを歩いた。
途中、ずっと東海自然歩道になっていた。
山や坂もあり、けっこうたいへんだった。

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このところ、1か月に1、2度の回数で、「歩け歩け会」に参加している。
距離に応じて、初級、中級、上級コースにわかれている。
昨日は、約9キロ。
上級コース。
実際には、クネクネとした曲がり道がつづいていたので、その1・5倍は
あったのでは……。
前半は、でこぼこ道プラス、けもの道……。

おまけに途中で、農家の人から、トウモロコシを買ってしまった。
1本100円で、11本。
重さは、6〜7キロはあったのでは……?
それを薄いビニール袋に入れて、手で持ち運んだ。
これが悪かった。
やがて手が、ちぎれんばかりに痛くなり始めた。

が、今回は、こんなよいことがあった。

いつもならゴールに用意されている、どこかの道の駅で食事をする。
ご存知の方も多いと思うが、道の駅の中のレストランは、どこもまずくて値段が高い。
サービスも悪く、ほとんどがセルフサービス。
半官半民のレストランというのは、そういうもの。

で、今度は、行程の途中にあるレストランで食事をすることにした。
地図とにらめっこしながら、道から数十メートル離れたところに、
民家風のレストランを見つけた。
「忍野(おしの)八海(はっかい)」という観光地と、山名湖へ向かう道の、
ちょうど分かれ道のところに、それがあった。
「ほうとう」という名前の店だった。
たまたま通りかかったトラックの運転手に、「あの店はおいしいですか」と聞くと、
「おいしいよ」と。

そこで私とワイフは、「ほうとう」という名前のレストランに入った。

ワイフは、とろろ飯(800円)、わたしは、ほうとう鍋(1000円)を
注文した。
レストランの看板にもなっていることからもわかるように、その店のほうとう鍋は、
絶品!
いろいろなほうとう鍋を食べてきたが、あれほどまでにおいしいほうとう鍋は、知らない。
さらに私を感動させたのは、シイタケと思って食べた食材が、何と、マツタケ!

私とワイフは、汁を最後の一滴まで、飲みほした。

今回の「歩け歩け会」は、そんなわけで大満足。

……ただしその翌日の今日は、足が痛くて、歩くのもままならない。
つらいが、あのほうとう鍋を思い出すたびに、「よかった」と思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++++++++はやし浩司

●歩く(Walkings)

++++++++++++++++

推定体重85キロ前後あった義兄が、半年あまりの間に、
推定体重70キロ前後にまで。体重を減らした。
年齢は66歳。

久しぶりに会って、そのスリムな体つきに、驚いた。
「どうやってダイエットしましたか?」と聞いたら、
「毎日1時間以上、歩いている」とのこと。

ヘ〜〜エ!

歩くのは、ダイエットによいらしい!
もちろんほかにも食事コントロールなども、したのだろう。

しかしそれにしても、85キロから70キロとは、すごい!

そこで私も歩くことにした。

昨日も、10キロ。
今日も、7キロ。

歩いている間、頭の中はカラッポになる。
いつもなら、しばらくものを書かないでいると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
だが、歩いているときは、それがない。

しかしダラダラと歩いていたのでは、運動にならない。
体をパッパッと動かして、リズミカルに歩く。
……というのは常識だが、夕方、体重計に乗ってみて、がっかり。
かえって体重が1キロもふえていた!

どうしてだろう?
歩きながら、水をたくさん飲んだせいかな?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】9月10日(水曜日)

●金xx、倒れる?(Kim Il Jong fell down!)

++++++++++++++++

パソコンに電源を入れる。
メールに目を通したあと、いくつかの
ニュース・サイトを開く。

!!!!!

K国の金xxが、脳梗塞で倒れた!
昨日の、(9・9節・軍事パレード)にも、
顔を見せなかったという。
(一部の報道では、「脳卒中」となって
いる。)

脳梗塞?
それとも脳内出血?

それぞれの専門家が、先月、中国や
フランスから呼び集められたという。

そのため軍事パレードも、正規軍に
よる行進は中止。
近くの飛行場で待機したまま、
夕方になって解散したという。

+++++++++++++++

イギリスのタイムズ紙は、つぎのように伝えたという(朝鮮N報)。

『英有力紙タイムズ電子版は5日、「最も退廃的な独裁者10人」を選定し、第1位に北
朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記を挙げた。

 タイムズ電子版は、金総書記を「1994年から北朝鮮の"親愛なる指導者"として政権の
座にあり、極めて金のかかる趣味を持っている」と紹介した。記事によると、金総書記は
17の宮殿、自動車を数百台、さらにビデオテープを2万本ほど持っているという。また、
若く美しい女性たちで構成された「喜び組」を抱え、高級酒のヘネシーVSOP(コニャック)
を購入するのに、毎年65万ドル(約7027万円)を費やしているとのことだ。

 さらに、国賓としてロシアを訪問した際には、自らの装甲列車に毎日生きた伊勢海老を
空輸させた、と同紙は報じた』(以上、朝鮮N報)。

これだけ読んでも、金xxが、ものすごい独裁者ということがわかる。
しかしもちろん、これだけではない。
金xxが、政治犯として粛清(=殺害、および収容所送り)した人民は、推定でも20万
人とも40万人とも言われている。

で、こういう記事を読むと、「日本人はだいじょうぶ」とか、「日本ではそういう独裁者は
生まれない」と思う人は多い。

しかし金xxを、「将軍様」と呼ぶことからもわかるように、この日本だって、たった12
0〜130年前には、現在のK国と変わらない政治体制を敷いていた。
K国より、ひどかったかもしれない。
「喜び組」にしても、日本のばあいは、「大奥3000人」!
ケタがちがう!

30歳の若い人にとっては、120〜130年前というと、遠い昔のことのように思うか
もしれない。
が、昨年、満60歳になった私にとっては、そうでない。
120÷60=2、つまり私の年齢のたった2倍の昔でしかない。

で、韓国の各紙は、すでに金xxの後継者はだれかという報道を始めている。
金正哲氏か、金正男氏か。

それについて朝鮮N報は、『次男の金正哲(キム・ジョンチョル、27)氏は1993〜9
8年にスイスのベルン国際学校に留学した後、北朝鮮に帰国した。金正哲有力説は「白頭
の革命血統」を強調する北朝鮮で、金正哲が事実上の適任者だというものだ』と、書いて
いる(08年9月9日)。

流れとしては、金正哲氏ということになるらしい。
しかし「白頭の革命血統」とは?

フ〜〜〜ン?

今どき「血統」ねエ〜〜?

今度の金xxの健康悪化説で、ほっと胸をなでおろしているのが、アメリカの国務次官補
のC・ヒル氏ではないのか。
今までの失策を、すべて、健康悪化説のせいにすることができる。
「私はずっと前から、金xxの健康悪化説を承知の上で、K国と交渉を重ねてきた」とか
なんとか。

事実、そのことで、C・ヒル氏は、先月末、中国要人と会談を重ねている。

それにしても、「17の宮殿、自動車を数百台、さらにビデオテープを2万本ほど持ってい
る」(タイムズ紙)というのは、すごい! プラス、バカげている!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●BLOGへのコメント(感情論)

私のBLOGに対して、このところ辛らつなコメントが、多くなった。
今日は、「あなたも、〜〜という本を一度は読んでから、ものを書いたほうが
よい」とか、「日本に対しての内政干渉は許さない。総理大臣がY神社を参拝
して、何が悪い」(G−Blog)とかなど。

こうした感情論には、どう反論したらよいのか?

私のほうは、実名を公表して書いている。
しかしコメントを寄せる人は、無記名。
どこのだれかが、まったく、わからない。
だから不気味(?)。

しかしこのところ、削除するのもめんどうになり、そのままにしてある。
「勝手にどうぞ」というレベルを超えて、最近では、まったく気にしない。
そんなことをいちいち気にしていたら、BLOGに記事など書けない。

(興味のある人は、私のBLOGをのぞいてみてほしい。)

さらに中には、何が気に食わないのか、執拗に攻撃してくる人もいる。
しかしそれもそのまま。
「そんなに気に食わなければ、読まなければいい」と私は、思うのだが……。

+++++++++++++++++++++

感情論といえば、こんなのがある。
少し前、毒入りギョーザ事件があった。
私は記事を書いた。
それについて、「やっぱり中国人は、信用できない。あいつらもともと
そういう人種なのだ」というようなコメントがつけられた。

しかし日本人だって、同じようなことをしている。
産地偽造などは、朝飯前。
ここ数日は汚染米が、問題になっている。
何でもその業者は、農薬で汚染された米を、キロ7円で仕入れて、
300円で売っていたという(タブロイド紙)。

こういう事実に対して、先のコメントを書いた人は、どう反論するのだろう。
「やっぱり日本人は、信用できない。俺らはもともとそういう人種なのだ」
とでも言うのだろうか。

つまり一貫性がない。
ないから、感情論ということになる。
言うまでもなく、道徳の完成論は、(1)公平性、(2)視野の広さで決まる(マズロー)。
感情論には、この2つとも欠ける。


●交通事故、ワースト・ワン

統計のとり方によってもちがうが、「人口10万人あたりの人身事故発生率では、
1159件と、この浜松市が政令都市の中では、2年連続で、ワースト・ワンに
なった」(中日新聞・9・10)と。

2位が静岡市。
3位が福岡市。
4位が北九州市とつづく。

私が見ても、ここ浜松では、運転の仕方が、めちゃめちゃ。
黄信号は、浜松では、注意信号ではない。
「アクセル踏め踏め信号」。
しかも、だ。
この浜松では、赤信号になっても、止まる人はいない。
隣の信号が青になるまで、走る。
隣の信号が青になっても、隣の車が走り出さないなら、まだ、走る。

さらに交差点などの停止線で、きちんと止まる人はいない。
たいてい数メートル以上手前か、あるいは、停止線を越えて、横断報道の上で
止まる。

オーストラリアの友人がこう言った。
「日本人は、どうしてこうまでロジカルでないのか?」と。
交通ルールを守らないことをさして、そう言った。

だからワースト・ワン!

そこで教訓。
この浜松市へ来たら、交通ルールなど、ないものと思ったらよい。
信号など、信用してはいけない。
たとえ青信号になっても、自分で左右の安全を確かめながら、走る。

さらにおかしな上下意識が強く、自転車や、100〜200万円程度の
小型車は、浜松では、「車」ではない。
安い車で、へたに信号や速度制限を守って走っていると、うしろからプープーと
クラクションを鳴らされる。
(ちなみに私の車は、TOYOTAのビッツ。大衆車。)

浜松中央署は、「浜松は外部から来る車が多いから、交通事故が多い」と説明している。
が、それはどうかな?
国道1号線が通っていることを理由にしたいのだろうが、国道1号線沿いでは、
人身事故はほとんど起きていない。

最近になって、つまりここ1、2年は、交差点に立つ警察官をときどき見かけるように
なった。
が、それ以前は、まったくなかった。
もっと早くから、それをしてほしかった。
それがワースト・ワンの理由。

少なくとも赤信号になってから突っ走る車くらいは、検挙してほしい。
自転車に乗っている私など、おそろしくてならない。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   8日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【廊下に落ちていたウンチ】

●妄想の種

A中学校に通う中学生(女子)が、こんな話をしてくれた。
何でも、廊下に、ウンチが落ちていたという。

ゾッ!

私「どんなウンチだったの?」
女「ポタポタと、ふつうのウンチだった」
私「で、そのウンチ、どうなったの?」
女「先生が、何かの道具をもってきて、きれいにしていた」と。

で、そのあと、だれがウンチをしたかが、話題になった。

私「きっと女の子だよ」
子「どうして?」
私「男だったら、そんなにうまく、落せないよ」
子「ハア〜……?」
私「スカートだったら、うまく落せる」
子「だって、パンツは……?」
私「勝手に想像したらいい」と。

この話をしたあと、ウンチのイメージが、私の頭に
強烈に焼きついてしまった。
実際にそれを見ていれば、そういうことはなかったと思うが、
頭の中で想像したのが、まずかった。
ウンチのイメージだけが、頭の中でどんどんとふくらんでしまった。
「どんなふうにして、したんだろう?」と考えたのも、まずかった。

で、それから今日にいたるまで、もう1年近くになる。
が、その学校の前を通るたびに、そしてそのあたりで
出入りしている女子中学生を見るたびに、頭の中に、
大きなウンチが思い浮かんでくる。

どの女子中学生を見ても、「あの子かもしれない」「この子かもしれない」と。

今日も、そうだった。

たまたまそのときワイフが横にいた。
車を運転していた。
見ると、1人の女子中学生たちが、その中学校の校門を出てくるところだった。

私「あんなかわいい子が、廊下にウンチを落すのかねエ?」
ワ「あの子とは、かぎらないでしょ」
私「そうじゃないよ。あの学校には、440人の中学生が通っている。
うち、女の子は、220人。だからあのウンチの220分の1は、
あの子のものだ」
ワ「それはおかしいわよ」
私「おかしくないよ。ぼくの頭の中では、そのウンチが、巨大な
ウンチになってしまった。教室いっぱいくらいの大きさだよ」
ワ「……?」
私「220分の1にしても、犬ほどの大きさになる」と。

こういう現象を、心理学の世界では、どう説明するのだろう。
似たような現象に、被害妄想がある。
注察妄想、追跡妄想、披毒妄想、血統妄想、神格妄想……、などなど。
もちろん誇大妄想というのもある。

●妄想

となると、私のは、誇大妄想ということか。

しかしこれには、私自身の個人的な過去が、影響している。
私は子どものころ、自分の家のトイレで用を足すのが、こわくてならなかった。
トイレは、家の中でも、一番奥まったところにあった。
薄ぐらい土間の横にあった。

いつだったか、だれかに理由を聞かれたことがある。
そのときはだれにも言わなかったが、トイレの壁のシミが、私には何かのお化けの
ように見えた。
それでこわくてならなかった。

もちろんボットン便所。

小便はともかくも、大便のときは、土間に新聞紙を敷いたりして、していた。
あるいは伯父の家が近かったので、そこでしたりした。
小学生や中学生のときは、できるだけ学校でした。

つまり私はウンチにたいして、特別な思いがある。
今でも、その思いは強い。

私「だからぼくは、ウンチは苦手なんだよね」
ワ「……」
私「若いころから、ウンチの臭いをかいだだけで、たとえば性欲など、どこかへ
吹き飛んでしまった」
ワ「若い女性のウンチを見て、興奮する男性もいるという話よ」
私「ぼくのばあい、ぜったいに、それはない。相手がどんな美人でも、ウンチ
の臭いがしたら、もうだめ」
ワ「……?」と。

だから……以来、私はA中学校の女子生徒を見るたびに、先に書いたように
なってしまう。
誇大妄想といえば、誇大妄想だが、「妄想」とは、少しちがう。
いや、やっぱり妄想か?

もしそうなら、妄想の心理的メカニズムが、これで説明できる。

つまりまず強い(こだわり)が生まれる。
私のばあい、子どものころの経験がそれにあたる。
これを(妄想の種)とする。
この(妄想の種)は、そのままでは(妄想)にはつながらない。
(妄想の種)が(妄想)になるためには、何かの刺激が必要である。
生徒から聞いた、「廊下のウンチ」が、それにあたる。
その刺激が、(妄想の種)を呼び起こし、(こだわり)を増幅させる。
それがどんどんと大きくふくらんで、(妄想)になる。

そうした(妄想)は、だれでももちやすいものだが、その妄想が原因で、
通常の生活に支障をきたすようになった状態を、「被害妄想」という。

だからたとえば、その話がウンチと関係ないものであれば、私は
笑い話として、それですませたかもしれない。
たとえば10万円が落ちていたとか、あるいは下着が落ちていたとか……。
が、私は「ウンチ」という言葉に、強い関心をもってしまった。
それが妄想につながってしまった。

私「おもしろい現象だね」
ワ「何もおもしろくないわ」
私「臭い話で、ごめん」と。

+++++++++++++

(付記)

この話を教室ですると、ある男子(小5)が、「ぼくの学校でも、
同じようなことがあった」と話してくれた。

その子のばあい、授業中に、突然立って、「トイレへ行ってくる」
と言って、教室を飛び出していったのだそうだ。
が、間に合わなかった。

教室を出たところで、もらしてしまった。

こういう話を聞くと、そのもらしてしまった子どもが気の毒で
ならない。
おそらく一生、そのことを心のキズとするにちがいない。
ほかの生徒たちも、忘れない。
最悪のばあい、それによって、何かのニックネームをつけられて
しまうかもしれない。

子どもにとって(ウンチ)というのは、そういうもの。

そういうときこそ、教師による細心の指導が必要。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●日常の中の思考(I think, therefore I am -2-)

++++++++++++++++

日常生活の中では、日々の思考は、
サラサラと流れていく。
いちいち深く考えて行動する人はいない。

バカ話、たわいもない冗談、うわさ話などなど。
脳の中でも、きわめて表層的な部分だけが
使用される。

あのアインシュタインにしても、ふだんの
アインシュタインは、いつもおどけた、
おもしろい人だったという。
あるときライフ社のカメラマンがカメラを
向けたときも、長い舌を出して、おどけてみせた。

しかしだからといって、その人の思考性が
浅いということにはならない。

むしろ、逆。

思考性の深い人ほど、日常生活の中では、
その反作用として、バカ話、たわいもない冗談、
うわさ話などを好むと考えてよい。
疲れた脳をいやすには、それがいちばんよい。

要するに、その人の思考性の深さというのは、
見た目ではわからないということ。

集中力についても、そうである。
私など、文を書いているとき以外は、集中力という
のは、ほとんど、ない。
とくにワイフと会話しているときは、頭の中は
バラバラ。
話があちらへ、こちらへと、奔放に飛び回る。
他人が見たら、「林は、頭がおかしい」と
思うにちがいない。
自分でも、そう思うことがある。

つまり私はそうして、文をかくことで疲れた
脳を休める。
(ワイフにとっては、迷惑なことかもしれないが……。)

++++++++++++++++

●統合失調症(Schizophrenia)

昨日、ある精神科のドクターと、立ち話だが、少し話をさせてもらった。
その中で、そのドクターがこう言った。
「100人もいれば、その中の1人は、統合失調症です」と。

発症率が1%という(!)。
この数字に、私は驚いた。
「そんなに多いのですか?」と聞きなおすと、「みな、表には出したがりませんから」と。

実際には、それよりやや少ない数字だそうだが、人口81万人(08)の浜松市にしても、
約8100人の患者がいることになる。

今では統合失調症といっても、薬でコントロールする時代らしい。
中には、短期間の薬の服用で、治ってしまう人もいるという。

それにしても、100人に1人とは!

私も今までに、4〜5人の子どもで、それを経験している。
「おかしいな?」※と思い始めるのは、小学の高学年くらいから。
しかしそれもあとになってわかることで、そのときはわからない。
何かのきっかけで発症することが多い。

ある子ども(男子)は、中学2年生前後から。
別の子ども(女子)は高校1年になってから。

発症するのは、時期的には、だいたいそのころから、ということになる。

本人にその自覚がないこともさることながら、
家族も、それを認めたがらないというところに、大きな問題がある。
精神科の門をくぐるのは、最後の最後ということらしい。

ともあれ、深刻な病気であることにはちがいない。

(付記)※

「おかしいな?」と思うのは、たとえば、(1)つかみどころがなくなってくる
ということがある。

何を考えているかわからないといった状態になる。
こちらの話を聞いているのか、聞いていないのかと思っていると、
話の内容が、突然、ポンとほかへ飛んだりする。

統合失調症といっても、いくつかのタイプがあるので、そういった状態を
前兆症状と言ってよいかどうかは、わからない。
しかし教える側の立場でいうと、ある種の不安感を覚えるのは事実。
指導しているとき、おかしな胸騒ぎを覚えることもある。

一方、精神的に安定している子どもは、安定感があり、教える側も安心して指導できる。
冗談を話しても、その冗談が、すなおに子どもに通じ、またすなおにその反応が
返ってくる。
つまりその(すなおさ)が消える。

で、そういうとき親にそれを告げるべきかどうかで、悩む。
統合失調症にかぎらない。
幼児でいえば、緘黙症、自閉症などがある。
不登校になる前の症状も、私のばあい、わかる。

しかしたいていは知らぬフリをしてすます。
親の方から相談でもあれば、話は別だが、こうした問題を、症状名をにおわせながら、
親に告げるのはタブー中のタブー。

が、ここでつぎの問題が起きる。

中学2〜3年生のころ統合失調症を発症した、M君にしても、当初は親(とくに父親)が、
それと気づかず、親がM君をはげしく叱ったりした。
それがかえって、症状をこじらせてしまった。
もし初期の段階で、精神科もしくは心療内科の門をくぐり、適切な治療を受けていたら、
症状もずっと軽くてすんだはず。
(正確には、M君のばあい、ほかの症状も併発してしまった。
少なくともそうした症状は、防げたかもしれない。)

ほかにもいくつかある。

(2)感情に一貫性がなくなる。感情が鈍麻する。
(3)神経質になったり、こだわりが強くなったりする、など。

そのドクターにしても、別れ際、こう話してくれた。

「親が勝手に病院から、子どもを連れ出してしまうケースもあります。
そういうとき、私たちとて、何もできません」と。

子どもの精神の問題というのは、そういうものかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●注察妄想(I am watched!)

+++++++++++++++++

「自分の生活は、他人にのぞかれているのではないか」という妄想を
もつことを、注察妄想という。

こんな話を近所の人から、聞いた。

+++++++++++++++++

その家には、70歳くらいの老夫婦が住んでいるが、妻のほうは認知症が
進んで、今は、センターと自宅を行ったり来たりしている。

で、その夫のほうが、様子がおかしいという。
高い塀をへだてて、隣に住んでいるAさん(女性、48歳)が、こう話して
くれた。

「私の家族が、その家をのぞいていると、その人は言うのね。
だからガラス窓は、すべてすりガラスにしたとか、カーテンを厚いものに
したとか、あるいは部屋の中の電気がつけられないとか。

たまにその家のほうを見ることはあるけど、のぞくなんてことはないわよ。
そして自分が庭に出ているときは、わざと大きな咳払いをしたり、
大きな音をたてたりして、『自分はここにいるぞ』というような行動を
してみせるのよ。

気味が悪いから、無視しているけど、それがかえってその人を怒らせている
みたい」と。

注察妄想……被害妄想のひとつで、小さな(こだわり)が、そのまま大きな
(こだわり)に増幅してしまう。
そして自分でもコントロールできなくなってしまう。

この注察妄想に似ているのに、自意識過剰がある、
「私はみなに注目されている」と思うのが、それ。
しかし自意識過剰だからといって、(若い人は、たいていそうだが)、
行為に反社会性が見られなければ、それでよい。

で、注察妄想と自意識過剰のちがいはといえば、注察妄想にかぎらず、
妄想をもつひとは、同時に他人に対して、同じ行為を繰り返す。
「いつものぞかれている」と言う人は、同時に、他人の家をのぞいている。
のぞいているから、自分ものぞかれていると思う。……思い込む。
昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』というが、注察妄想もその延長線上にある。

先の話をしてくれたAさんも、こう言った。

「そのくせ、自分ではよほど私の家が気になるらしく、いつも私の家のほうを
見ているのよ」と。

そこで新しい推論、ゲット!

被害妄想というのは、つねに(ミラー=鏡)になっている。
何かのことで被害妄想をもつ人は、その人自身も、反対の立場で、だれかに
同じような被害を与えているということ。
自分にそういう経験があるから、今度は、同じことを他人もしていると思うように
なる。
それが過剰にふくらんで、被害妄想となる。

こういう現象を、何と呼んだらよいのか。

『ミラー反応』というのは、どうか?

言いかえると、自分自身がした行為が、被害妄想の(こだわり)となるということ。
たとえば被毒妄想にしても、これはふつうの人の発想ではない。
ふつうの人なら、だれかの食べ物に毒をもるなどということは考えない。
そういう発想そのものがない。
だから被毒妄想をもつこともない。

だれかの食べ物に毒をもったことがある人、あるいはそういうことを考えたことが
ある人が、ミラー反応として、被毒妄想をもつ。……もちやすい。
「だれかに追跡されている」という追跡妄想も、同じように考えてよい。

妄想をもつのはその人の勝手だが、妄想をもたれるほうも、困る。
「病気」とはっきりと診断されれば、対処の仕方もあるが、そうでないときは、
まわりの人が、迷惑する。

中には、道をはさんだ隣人に、朝夕、石を投げられ、それが理由で、
引越しを余儀なくさせられた人もいる。
石を投げる人には、その人なりの理由があるのだろう。
何かの被害妄想が疑われるが、そうした分類に属さない被害妄想もある。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝、あれこれ】

+++++++++++++++++

ちょうど10年前に、TOSHIBAの
Dynabook・SS・3010を買った。
値段は、24万円くらいだったと思う。

今で言う「ミニ・パソコン」。
厚さも1〜1・5センチ前後しかない。

このパソコン、当初から、トラブルつづき。
画面上の位置を示すポインターが、勝手に
フラフラと動き回り、定まらない。

そこで修理に出すこと数回。
が、そのうち私のほうがあきらめてしまい、
ダマシ、ダマシ使うことに……。

小さいが、使いやすいパソコンだった。
で、今はボロボロ。
側面の塗装もはがれ、人間の年齢にたとえるなら、
60歳。

そのパソコンが、何と、生きがえった!

何の気なしに、光学マウスを接続してみた。
多分ドライバーが、光学マウス自体に組み込まれて
いたのだと思う。
確かなことはわからない。

しばらくドライバーを読み込んだあと、
あれほどトラブルつづきだった3010が、
何と、正常に作動し始めたではないか!

驚いた。
うれしかった。
古い友に再開したような気分だった。

原因は、マウス・ドライバーだった(?)。

……ということで、今日は、その3010で、
いろいろと書くことにした。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●論文丸写し(?)

産経新聞がこんな記事を書いている。

+++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

 平成18年度にブラジルを訪問したM主党東京都議の視察団が、都議会に提出した報告
書に日本貿易振興機構(JETRO)職員の論文を盗用していたことが4日、分かった。
論文のほぼ全文を引用し、視察団の「総括」としていた。視察団長だった大沢N都議(4
3)は同日の記者会見で「参考資料として載せるつもりだったが、結果的に『盗作』とい
われても仕方がない」と謝罪した。公金を使った海外視察のずさんな実態が露呈しただけ
に、都議の海外視察のあり方が改めて問われそうだ。

(中略)

 視察には、大沢氏のほか、岡Z幸夫氏(55)、大N智氏(47)、猪爪M氏(52)の
3都議が参加。18年10月に10日間の日程で、サンパウロ、クリチバ、イグアスの3
都市を回った。目的は公共交通政策の調査などで、1人当たり191万円(総額765万
円)が海外調査費として支出された。

+++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

論文の丸写しもさることながら、この記事の下の方に注目してほしい。
こうある。

「10日間の日程で、……1人当たり191万円(総額765万円)が海外調査費として
支出された」と。

10日間で、191万円だと!

驚くと言うよりも、議員の人たちは、こういう形で、無料大名旅行を楽しんでいるのか。
ちなみにJALの航空運賃表によれば、サンパウロまでの航空運賃は、
往復で、28万円弱(エコノミー)。

191−28=163万円!
それを10日で割っても、1日、16万円!
1人、16万円!

フ〜〜ン!

しかも彼らが書いた報告書は、盗作(?)だったという。

フ〜〜ン!

M主党議員も、ナカナカやるね!
J民党議員、顔負け!
これ以上書くと、これから食べる朝食がまずくなるので、ここまで!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月6日・土曜日)

●スズメバチ(Hornets)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

今朝は、あまり気分がよくない。
理由は、よくわからない。

ただ昨夜遅くまで、雨戸の戸袋の中に
巣を作った、スズメバチ退治をしていた。

スズメバチの中でも大型の、体長が、
4〜5センチもあるものだった。

まず逃げ道をふさいで、小さな穴から
殺虫剤の噴霧。
2本分以上、それに使った。

1〜2時間したあと、再度噴霧しながら、
雨戸を戸袋から引き出した。

見ると、下の方に、10〜12匹の
スズメバチが、丸くなって死んでいた。
(あとで見たら、戸袋の外でも、5〜6匹
死んでいた。)

で、再び雨戸を戸袋に入れようとして、
上のほうを見て、仰天!

6段ほどに階層を作った巣が、そこにぶらさがっていた。
巨大な巣だった。
外を包んでいたカバーは、粉々に割れて、
中の巣だけがそこにつりさがっていた。

細いノコギリで、根本を切断。

ワイフに「(幼虫を)食べようか?」と声をかけると、
「私は、いやよ」と。
あっさりと、断わられてしまった。

今まで退治したスズメバチの中でも、
最大級のものだった。
幼虫ですら、3センチ前後もあった。

しばらく巣を観察したあと、
巣は幼虫ごと、コンポートに捨てた。
上から三角鋤(すき)で、バンバンと押しつぶした。

こういう作業は、あまり気持ちのよいものではない。

ところでどこかの寺の住職が、スズメバチを
退治するために、「火」を使ったという。
それで巣を燃やそうとしたらしい。
が、その火が、寺に引火。
寺が全焼してしまったという。

スズメバチの巣は、薄いカバーで覆われている。
このカバーは、たいへん燃えやすい。
つまり火を使うのは、たいへん危険。
近くの農家の人も言っていたが、スズメバチを
退治するには、市販の殺虫剤が、いちばんよい。
外から見えるところにそれがあるなら、
夜中に作業をする。
(ぜったいに昼間にしてはいけない!)

別の所から、懐中電灯で巣を照らしながら、
他方の側から、巣の入り口に向けて
殺虫剤を噴霧する。
コツは、中から出てこようとするハチを、殺虫剤の力で、
中へ押し込む要領でする。
距離は、最初は30〜40センチくらいのところから。
すぐに巣の入り口に殺虫剤の口をつけて、中へ噴霧する。

スズメバチの巣のばあい、出入り口は1か所しかない。

噴霧は容赦なく、する。
中途半端なし方は、かえってあぶない。
1〜2分も噴霧したら、殺虫剤の口で、カバーに穴をあけ、
その穴からも中へ噴霧する。

戸袋の中のようなところに作った巣は、まずガムテープのようなもので、
逃げ道をふさぎ、別の小さな穴から、殺虫剤を噴霧する。

……というわけで、今朝は、あまり気分がよくない。

虫は虫だが、あのハチは、ほんとうに頭がよい。
信じられないほど、頭がよい。
殺すのがかわいそうと思えるほど、頭がよい。
毒針さえもっていなければ、人間と仲よくできる
ゆいいつの昆虫かもしれない。

しかし……知らないでいたら、たいへんなことに
なるところだった。

(補記)巣の見つけ方

ハチが何らためらわず、慣れた様子で、狭い場所に
スーッと入っていったら、巣があると思ってよい。

ときどき1〜2匹前後、出たり入ったりするという
ようであれば、すでに巣は、巨大なものになっている
と考えてよい。

先にも書いたように、殺虫剤は、容赦なくかけること。
両手に2本くらいもち、フルパワーで、数分以上、
かけること。

ところで先ほど、コンポートの中をのぞいてみたら、
ハチの巣は、幼虫ごと、きれいに消えていた。
コンポートの中の虫が、一晩で食べてしまったらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●『失意泰然』(to be stable in case of despair)

++++++++++++++++

近くのガス会社の玄関脇に、こんな言葉が
かかげられている。

『失意泰然』。

石柱に、その言葉が刻み込んである。

++++++++++++++++

『失意泰然』。

すばらしい言葉だ。
またこの言葉を選んだ、その会社の社長もすばらしい。
(たぶん、選んだのは社長だと思うが……。)

「どんな逆境に置かれても、泰然としている」という意味か?

しばしその言葉に見とれる。

……私たちはそのつど、何かの騒動に巻き込まれる。
こちらが望まなくても、向こうから、それがやってくる。
そういうとき、当然のことながら、心は動揺する。

そういうとき底の浅い人は、ガタガタする。
中には、ギャーギャーと泣きわめく人もいる。
しかしそうしたところで、何も問題は解決しない。
かえって問題が、こじれてしまう。

日本語にも、『腹を決める』という言い方がある。
そうであるならあるで、割り切って覚悟する。
とくに自分の力ではどうにもならない問題に直面したときほど、そうである。
それが「運命」というのなら、その運命を前向きに受け入れる。
とたん、心が軽くなる。

この『失意泰然』という言葉は、いろいろに応用できる。

『騒動泰然』でもよい。
『動乱泰然』でもよい。

つまりそういうときこそ、その人の人格の基盤が発揮される。
そういうときに、泰然としていられる人ほど、人格の完成度が高いということになる。
私はその石柱を見ながら、しばしその言葉を、肝に銘ずる。

「私はその場に及んでも、ガタガタしないぞ!」と。
(実際には、いつもガタガタしているが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち(Don't be afraid of losing in order to win)

++++++++++++++++

『負けるが勝ち』という言葉がある。
これについては今までに、何度も書いてきた。
しかし『負けるが勝ち』には、
さらにすばらしい意味が隠されている。

++++++++++++++++

何かのことで、悶々と悩んだり、苦しんだりしたら、
思い切って負けてしまう。
負けて、自ら、まな板の上に乗ってしまう。
「さあ、どうでも、好きなようにしろ」と。

とたん、心が軽くなる。

大切なことは、今、ここで私たちが生きているという(事実)。
それにまさる価値はない。
つまりその価値さえ確保できるなら、そのほかのことは、
どうでもよい。
取るに足りない、ささいなこと。

さらに言えば、今、あなたが健康で、自由に動くことができるなら、
それ以上、あなたは何を望むのか。

息ができる。
歩くことができる。
見える。
聞こえる。

だからこちらから負けてしまう。
どうせ相手は、小さな、小さな、どこまでも小さな人間。
あなたがまともに相手にしなければならないような人間ではない。
つまり『負けるが勝ち』とあなたが覚悟した瞬間、あなたは
相手を、呑み込むことができる。
数段、その相手より上に出ることができる。

が、もちろん、負けてはいけないケースもある。
どんなに攻撃されても譲ってはいけないものがある。
それが「正義」。
わかりやすく言えば、「生きるための名分」。
それは最後の最後まで、死守する。

しかしその正義というのは、国家、民族、宗教、人類、地球、さらには
宇宙に対してするものであって、個人に対してするものではない。
こと個人に対して正義など貫いても、意味はない。
相手がそれなりの人物ならともかくも、(そういう人物というのは、
めったにいないが……)、相手にしても、意味はない。

あなたがその人を相手にするというのであれば、あなたもまた、
その程度の人間ということになる。

こんなことがあった。

その村では、村の人たちが自分の土地を少しずつ供出して、道を
作ることになった。
で、その計画を村役場に提出すると、「村道」として昇格してくれる
ことになった。
土地を村が買いあげてくれる。
造成のための補助金も支給される。

その補助金の取り合いで、村の人たちの心が四分五裂。
それからすでに20年になるというが、いまだにその(しこり)が残っているという。

対処の仕方をまちがえると、自分自身が、とんでもないほど低位に落ちてしまう。
「20年もゴタゴタするなら、あきらめるものはあきらめて、サッサとつぎの
行動に移ればいい」と私は考えるが、同じ騒動でも、「お金(マネー)」がからむと、
そうはいかない。

人間関係も、ドロドロになる。

あるいはこんなことも。
私は以前、いろいろなカルト教団を攻撃する記事を書いた。
雑誌や月刊誌にも書いた。
書籍も5冊出した。
そのこともあって、いまだに、私の家をさがしあて、抗議してくる人がいる。
玄関先で、押し問答をする。
しかしそういう個人を相手にしても、意味はない。
その人がそれで幸せなら、それでよい。
とやかく言う必要はない。
だから私のほうが逃げる。
相手がこわいから逃げるのではない。
どうでもよいから、逃げる。

だから『負けるが勝ち』。

仮に今日負けたら、明日、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
今月負けたら、来月、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
そのために、明日、あるいは来月、楽しく仕事ができるように、
心と体を、今日、あるいは今月、鍛えればよい。

私は自分で負けを感じたときは、その日は、運動の量をふやすようにしている。
運動をすることによって、不愉快なことを忘れることもできる。

「今年がんばれば、来月、楽しく仕事ができるだろ」と。

つまらないことでは、負けて負けて、ボロボロになる。
ボロボロになったところで、失うものは何もない。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●庭のマムシ(A Poison Snake in my Garden)

++++++++++++++++

先月、なんと、私の庭で、マムシが出た。
小さなマムシ(日本マムシ、毒性はきわめて強い)だったが、
それでも体長は30〜40センチはあった。
このあたりでも、「かまれたら、1か月」という。
マムシにかまれたら、入院生活が1か月つづくという意味である。

++++++++++++++++

マムシの生態を知っている人なら知っていると思うが、マムシというのは、
こういう市街地の住宅団地には、出ない。
湿地帯に近い、草むらの中で生育する。
餌は生餌(いきえ)といって、生きたカエルやトカゲ。

その上、私の家の敷地は、全体的に、1〜1・5メートルほど、盛り土に
なっている。
まわりを40センチほどの高さのブロックで囲んでいる。

が、出た!

……ということで、夜など、自分の家の庭であっても、歩くのがこわくて
ならない。
懐中電灯は必携。
あれが子どものマムシとするなら、どこかに親がいるはず。
1匹だけということは、ことマムシに関しては、ありえないそうだ。

こうして私はまたあたらしい(こだわり)を作ってしまった。

……しかしどうして私の家の庭に、マムシ?

これも地球温暖化の影響か?


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ボーイフレンドが、ほしい!

 中学生のRさん(中3女子)が、ふと、こう言った。「先生、私、ボーイフレンドが、ほ
しいよオ」と。

 「あなたなら、男たちが、放っておかないでしょう」と言うと、「好きな子を、パクられ
てしまったア」と。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、しばらく、つぎの言葉が出てこなかった。

私「……ボーイフレンドと、何をしたいの?」
子「そりゃあ、いっしょに話をしたり、映画を見に行ったりとかさ、いろいろあるじゃん」
私「そうだな。そういうときが、一番、楽しいね」と。

 そのとき私は、自分の中学時代を思い浮かべていた。私には、そういう思い出が、まっ
たく、ない。

私「ぼくもね、好きな子がいたけど、電話で一度、話しただけだよ」
子「電話で?」
私「そう。相手の子が電話に出たとたん、何も話せなくなってしまったよ」
子「へえ〜エ。好きですとか何とか、言わなかったの?」
私「とても、言えなかったよ」と。

 そんなことを言いながら、ふと、Rさんを、見る。「そう言えば、そのときの彼女に似て
いるな」と思ったが、それは言わなかった。あまりにも見えすいた、何というか、女たら
しが、女性を口説くときに、よく使うセリフである。

子「でね、先生、そういうときは、何て、相手の男に、言えばいいの?」
私「あのね、男というのは、雰囲気で、相手が、真剣かどうか、わかるんだよ。真剣に何
かを言えばいいよ。その真剣さが、相手の心の窓を開くよ」
子「じゃあ、何と言うの?」
私「真剣にね、『今度、映画を見にいこう』とでも、言ってみてごらん。それで相手に、気
持が伝わるよ。『好きです』と、いきなり言うと、相手もビビるからね」と。

 私にとっては、40年以上も前の話。しかし、そんな感じが、まるでしない。タイムマ
シンか何かで、過去に、タイムトリップしたような雰囲気になってきた。今度は、私が質
問する番だ。

私「いきなり、男の子から電話がかかってきて、その相手が何も言わなかったら、どう思
う?」
子「へえ、先生、何とか、言葉をつなぐことができなかったの?」
私「できなかった。何も言えなかった」
子「そういうもんかなあ?」
私「そういうもんだよ。現実は、そうだった」と。

 あのとき、もしもう少しスマートに、愛を告白できていたら、どうなっていたか? う
まくデートできただろうか? あの子と、そのあと、どうなっていただろうか? いろい
ろ考える。

私「いろいろな子とつきあって、その子がどんな子か、知るといいよ。そうするとね、自
分がどんな人間かもわかるからね。フラれたら、どこに原因があるかを自分で調べるんだ
よ。そうして、どんどんと、自分をみがいていく。今は、そういう時期だから、いろいろ
な子とつきあうといいよ」と。

 少し偉そうなことを言ってしまった。あのころの私、つまり中学時代の私など、ボロボ
ロで、Rさんがそれを知ったら、確実にがっかりするにちがいない。ダサくて、田舎臭く
て、クソまじめで……。まったく、面白みのない男だった。

 私は、女性にモテるタイプではなかった。

私「いいか、ぼくの顔を見て、中学生のころのぼくを想像してみてほしい。想像するだけ
でいい」
子「うん、わかった。先生が、中学生だったころね」
私「そうだ。いいか、想像できたか?」
子「ハハハ、できる、できる」
私「じゃあ、そのぼくが、君に、『好きです』と告白したら、君は、どうする?」
子「気持、ワリ〜〜イ、サイテ〜」「気味、ワリ〜〜イ、サイアク〜ウ」
私「だろ……。なっ、わかってた」と。

 ますます自信をなくして、この話は、ここでおしまい。そのあと、私は、語気を強くし
て、こう言った。「さあ、勉強だ! お前ら、時間をムダにするなよ!」と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もう1人の自分

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するた
めに、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。

 これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。たとえば、
牧師や教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人がいる。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。信者や生徒
が、「セックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫んでみせた
りする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。しかしそん
な感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。しかしこ
れは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、その自覚は
ない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。老
人に多い。自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて
(ニセの自分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜
くことができない。何十年も近くで住んでいる親類ですら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。とき
にサービス過剰になったりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。あるいは体の
弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。

 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、ま
た別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。
(はやし浩司 反動形成)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。そのときのこと。私が子ど
もたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌
いだヨ〜」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」とい
う言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいこ
とと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえてお
おげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。が、中に、
正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小声
で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。しかし
そういう子どもは、例外と考えてよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人生の充実感】I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)

+++++++++++++++++++

自分の今までの10年間を振り返りながら、
(もちろん20年でも、30年でもよいが……)、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く人がいる。
反対に、「もう10年もたってしまったのか!」と驚く人もいる。

充実した人生を送っている人は、「まだ……」という言葉を
使って、自分の過去を振り返る。
そうでない人は、「もう……」と言って、自分の過去を振り返る。

++++++++++++++++++

●年齢は、ただの数字

懸命に何かに向かって生きている人は、それだけで美しい。
輝いている。
そうでない人は、そうでない。

大切なのは、「中身」。
「年齢」という数字ではない。
仮に90歳まで生きたとしても、長生きしたということにはならない。
仮に40歳で死ぬことになっても、若くして死ぬということにはならない。
あの

『無益に100年生きるよりは、一瞬のうちに自分を燃焼させる』。
それが(生きる)ということではないのか。

そのことは養護センターの老人たちを見ればわかる。
一日中、つけっぱなしにしてあるテレビの前で、何かをするでもなし、
何もしないでもなしという状態で、日々を過ごしている。
そういう人たちを見て、本当に生きていると言えるだろうか。

(もちろんそういう人生が、無駄だとか、そこにいる老人たちには、
価値がないと言っているのではない。
もし私たちが健康で元気なら、何もあわてて、そういう老人たちの
仲間入りをする必要はない。
けっしてそういう老人たちを手本としてはいけない。
たとえば日本では、老後というと、孫の世話と庭いじりと考える人は多い。
しかしその延長線上に、養護センターの老人たちがいる。
そういう意味で、「本当に生きていると言えるだろうか」と、私はここで
問いかけてみた。)

●密度

で、生きる価値は、その(密度)によって決まる。
密度の濃い人は、自分の人生を振り返りながら、「まだ……」と言う。
そうでない人は、「もう……」と言う。

が、その密度は、あくまでも相対的なもの。
「相対的」というのは、「他人と比較して……」ということになる。
が、実のところ、比較しても、意味はない。
この問題だけは、どこまでいっても、個人的なもの。
その人がそれでよいと思っているなら、それでよい。
他人の私たちが、とやかく言う必要はない。

たとえば仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。
たまの休みには、魚釣り。
雨の日にはパチンコ……という人も、いないわけではない。
が、その人がそれでよいとしているなら、それでよい。

しかし密度の濃い人生を送っている人からみると、そうでない人がよくわかる。
反対に密度の薄い人生を送っている人からは、密度の濃い人生を送っている人がわからな
い。
そのことも、養護センターの老人たちを見ればわかる。

●密度といっても、相対的なもの

先日もある女性(65歳くらい)と、こんな会話をした。
その女性は、どこか認知症的なところがある。
どうでもよい話を、長々と私に説明した。
そこで私が、「私は、(あなたが思っているような)バカではないと思うのですが……」と
言うと、その女性は突然、ヒステリックな声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

利口な人からは、バカな人がよくわかる。
しかしバカな人からは、利口な人がわからない。

で、「相対的」ということには、もうひとつの意味が含まれる。
たとえばある人は、20歳〜40歳まで、密度の薄い人生を送ってきたとする。
平凡な、これといって変化のない人生だった。
しかし満40歳になったとき、人生の転機が訪れ、何かの目標に向かって、
猛烈に突進し始めた。
朝起きるとすぐ(やるべきこと)を始め、寸陰を惜しんで、それに没頭した。

そして満50歳になったとき、それまでの10年間を振り返りながら、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く。
しかしそれとて、20歳〜40歳までの自分自身の人生と比較してはじめて、わかること。
もしその人が40歳を過ぎても、それまでと同じような人生を歩んでいたら、
密度の変化そのものに、気がつかないだろう。
「相対的」というのには、そういう意味も含まれる。

●密度の濃い人生

ただ加齢とともに、人生の密度は、相対的に薄くなる。
体力、知力が衰え、ついでに気力も衰える。
脳が、あたかも穴のあいたバケツのようになる。
せっかく得た知識や知恵にしても、どんどんと下へと、こぼれ落ちていく。

つまり放っておいたら、人生の密度は、どんどんと低下していく。
実際、「歳をとればとるほど、1年は早く過ぎる」と言う人は多い。
が、それを当然と思ってはいけない。
またそうであってはいけない。

バケツに穴があいた状態になったら、さらに多くの知識や知恵を詰め込めばよい。
いつも新しいことに興味をもち、それに向かって、前向きに進んでいけばよい。
(すべきこと)を発見して、それに向かって進むということであれば、年齢は関係ない。
年齢という「数字」にだまされてはいけない。
「数字」に、遠慮する必要もない。
1年が早く過ぎると感じたら、2年分、生きればよい。

こんなことがあった。
前回のワールドカップの代表選手に選ばれたTK氏と、こんな会話をしたことがある。
別れ際、「すばらしい人生を送っておられますね」と声をかけると、TK氏は、
少しはにかみながら、「私はサッカーしかできませんから」と。
その少し前、TK氏は、アジアカップ杯のすべてに出場し、日本を優勝に導いている。

TK氏のような人は例外としても、TK氏にとっての一瞬は、私たち凡人の10年分、
あるいは100年分より、密度が濃いはず。
そのときTK氏は、まだ30歳そこそこ。
60歳に近い私でさえ、TK氏の前では、タジタジになってしまった。

●空しさとの闘い

話を戻す。

人生は楽しむためにあるのではない。
(生きる)ためにある。

それがわからなければ、そのつど、自分にこう問いかけてみたらよい。
「だから、それがどうしたの?」と。

すばらしい車を買った……だから、それがどうしたの?
すばらしい家を買った……だから、それがどうしたの?
おいしいごちそうを食べた……だから、それがどうしたの、と。

若いときはそれがわからないかもしれないが、人生に天井が見えてくると、
そこに残るのは、(空しさ)だけ。
(楽しみ)のあとを、すぐ(空しさ)が追いかけてくる。
そんな状態になる。

そこで大切なことは、「今」というこの「時」を、いかに充実させるかということ。
そのひとつの方法として、私は(考えること)をあげる。

人間がなぜ人間かと言えば、考えるからである。
あのパスカルも、「パンセ」の中で、そう書いている。
『人間は考える葦(あし)である』という言葉も、そういうところから生まれた。
もし考えなかったら、人間もただの動物。
「生きた」というだけの人生で、終わってしまう。

それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(一部、中日新聞発表済み)。

++++++++++++++++++

●生きることは、考えること

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に
出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」
と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラ
ペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはなら
ない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こ
んな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうで
すか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでお
られる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の
中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、
その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカ
ルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠
牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、
賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭
のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう
言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。
ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の
本山教育である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的
な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくり
が基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていな
い。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教
育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横
並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメにな
る」(「コウとうけん」・九八年・田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が
痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのた
め考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考
えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私
は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書く
ということには、そういう意味も含まれる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はや
し浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi 
Hayashi education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるとい
うことは、考えること なぜ人は生きるか)

++++++++++++++++++

『I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)』
と言ったのは、あのデカルト(Descartes)だが、その言葉を、
もう一度、かみしめてみたい。
(ただし「think」を「思う」と訳したのは、誤訳と考えてよい。
「think」は、「考える」という意味に近い。
実際、日常では、そういう使い方をしている。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 08++++++++++はやし浩司

●「健康論」(2002年に書いた原稿です。)

 何か体の不調が表れると、私はまず第一に、「この症状は以前にもあったか?」と自問す
る。そして以前にもあった症状なら、それで安心し、そうでなければ不安になる。いや、
ときどき以前にもあったはずなのに、それを思い出せないときがある。

先日も昼になって鏡を見たら、目の眼白がまっかだった。理由はわからないが、結膜出血
である。とたん、言いようのない不安感が私を包む。遠い昔、同じような症状があったは
ずだが、どうも思い出せない。女房に聞くと、「ほら、前にもあったでしょ」と笑ったが、
私は笑えない。

 賢明な人は、健康の価値を、それをなくす前に気づく。愚かな人はその価値を、なくし
てから気づく。「健康は第一の富である」と言ったのは、あのエマーソンだが、たしかに健
康はすべての財産にまさる。

いや、中には金銭的な財産をなくして、自ら命を断つ人もいる。が、しかしこういうこと
は言える。「死を前にしたら、すべての財産が無価値になる」と。健康あっての財産である。
健康あっての生活であり、健康あっての仕事である。……というようなことは頭の中でも
わかっている。問題はこのことではなく、その先である。では、健康であればよいのかと
いうと、そうでもない。

健康というのは、何かの目的のために有意義に使ってはじめて価値がでる。極端な言い
方だが、ただ無益に生きても、意味はない。むしろ生きるということを考えるなら、死
の恐怖を目前に感じていたほうが、生きる意味が鮮明にわかる。もっとはっきり言えば、
健康と「生きる」ことは別物である。健康だから生きていることにはならないし、死が
近いから生きていないことにはならない。実はここが重要な点だ。

私の家の近くに、小さな空き地がある。そこは老人たちのかっこうの溜まり場になって
いる。うららかな春の日ともなると、いつも七〜八人の老人たちが、何かをするでもな
し、しないでもなし、一日中何やら話し込んでいる。のどかな光景だが、しかしそれが
あるべき老人の姿なのか。竹の子の季節になると、交替で見張り番をしている。昨年も
私が不用意にその竹やぶに入ったら、いきなり一人の老人が飛び出してきて、「お前は、
どこのばかだ!」と叫んだ。そうした老人たちが健康なのかどうかは、外からはわから
ないが、生きているかどうかという視点でみると、それは疑わしい。

生きるということは、日々の生活の中で前進することだ。もし今日が昨日と同じ。明日
は今日と同じということになったら、その人はもう「生きていない」ということになる。
健康であるとかないとかいうことは、関係ない。若いとか老人であるとかいうことも関
係ない。

言い方を換えるなら、若い人でも「生きていない」人はいくらでもいる。老人でも、あ
るいは重病人でも「生きている」人はいくらでもいる。もちろん健康であることにこし
たことはないが、しかし健康は「生きること」の前提ではない。いわば健康は、その人
が当然大切にすべきものであるのに対して、「生きること」は、その人の心の問題である。
わかりやすく言えば、健康はハード、生きることはソフトということになる。いくらす
ばらしいハードをもっていても、ソフトがなければ、パソコンにたとえて言うなら、た
だの「箱」。少なくとも私はそういう人生には耐えられない。

……と書いて、私のことだが、私はもう二〇代の後半から自転車通勤を欠かしたことが
ない。真冬の寒い夜でも、あるいは多少小雨がパラつくときも、自転車通勤を欠かした
ことがない。健康のためという意識はあまりなかったが、それを欠かすと、とたんに体
の調子が悪くなる。一方、同年齢と思われる男たちが、乗用車で私を追い越したりする
と、「いいのかなあ」と思ったりする。健康というのは、それがしっかりとある間から守
ってはじめて守れる。病気になってから健康を考えても遅い。老人に近づいてから健康
を考えても遅い。そういう意味で、「もっと運動をしなくてもいいのかなあ」と思った。

で、今、おかげでというか、多少の持病はあるにはあるが、しかし成人病とは無縁だし、
生涯において、病院のベッドで眠ったことは一度もない。しかしそれでも不安はある。
冒頭に書いたように、今までに経験したことがない症状が出たりすると、「ハッ」と思う。
とくに私は不安神経症のところがある。いちどそれが気になると、ずっとそれが気にな
る。「このまま失明したらどうしょう」とか、「もっと悪い病気で、眼球摘出ということ
にでもなったらどうしよう」とか。が、内心のどこかで、「そんなはずはない。お前は健
康には気を配ってきたではないか」と思いなおして、それを打ち消す。……打ち消すこ
とができる。そのために二六年間も自転車通勤を続けてきたのだ!

と、書いて、しかしそこにそれでは満足できない自分を知る。健康でない人には、たい
へんぜいたくな話かもしれないが、「だからどうなのか?」という問題に、そこでぶつか
ってしまう。たとえば今私は、最新型のパソコンをもっている。ペンチアム四の一・五
ギガヘルツのすごいパソコンだ。しかしワープロで使う程度なら、実のところこんなす
ごいパソコンはいらない。一昔前の中古パソコンでも、じゅうぶんだ。もちろん最新型
であることはすばらしいことだが、健康もそれに似ている。「だからどうなのか?」とい
う部分を煮詰めないと、健康論もただの健康論で終わってしまう。

話が繰り返しになってきたので、ここで私の健康論はやめる。ただ私にもわかっている。
今ある健康にしても、それは薄い氷の上に建つ城のようなものだということ、を。また
健康をなくせば、当然心も影響を受けて、まともに考えられなくなるということ、をも。

そういう意味で、私にとっては「健康である」ことと、「生きる」ことは競争のようなも
のだ。時間との勝負といってもよい。この「健康な」状態はいつまで続くかわからない。
五年か、一〇年か。それとも一年か。私はその間に生きなければならない。一歩でも二
歩でも、前に進まねばならない。まだまだ知りたいことは山のようにある。少なくとも
空き地にたむろして、竹の子の見張り番をするようなことだけはしたくない。そしてと
てもぜいたくな言い方に聞こえるかもしれないが、そのための健康であるとするなら、
私は健康なんかいらない。(02・2・14)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【9月3日】(水曜日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

福田総理大臣が、自民党総裁を辞任すると言った。
とたん、次期総理大臣として、AS幹事長が浮上してきた。

しかし、「待ったア!」。

AS幹事長の海外での評判は、数々の問題発言もさることながら、
たいへん悪い。
一度、アメリカの新聞(ニューヨーク・タイムズ紙)で、酷評されたこともある。
「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうかがえない政治家」と。

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、
日本のA外務大臣の発言に対して、

「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうか
がえない」と、批判した。

当然である。

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、2月13日、日中関係や靖国神社参拝などを
めぐるAS外相の最近の歴史認識発言を取りあげ、「扇動的な発言からは誠実さも賢明さ
もうかがえない」と批判する社説を掲載した。

 社説は「日本の攻撃的な外相」と題し、外相が「天皇陛下の(靖国神社)参拝が一番だ」
と述べたことや、日本の植民地支配下の台湾で教育水準があがったことを指摘した発言
を取りあげ、「一連のがくぜんとする発言により、アジアの人々の反感を買った」と批判。
(以上、毎日新聞)

+++++++++++++

で、今日あたりの新聞(夕刊)を読むと、さっそく中国と韓国が
動揺し始めている。

私は、AS幹事長に対して、日本語すら、まともに話せない人という
印象をもっている。
話している言葉にしても、単語を並べているだけで、文になっていない。
愛読書が、「ゴルゴ13」(コミック本)というから、その程度の人なのだろう。

自民党の中でも、右派中の右派。
極右派ということになっている。
靖国神社問題にしても、「天皇に参拝してもらうのが、いちばんいい」
などと発言している。

こんな人が(失礼!)、総理大臣になったら、日本はとんでもないことになる。

……ということで、AS幹事長に対して、自民党内部で、対抗馬を出す
動きが活発になってきた。

前回の総裁選挙の繰り返しである。

で、今のところ、中川元幹事長、小池元防衛相らが、AS幹事長に対抗して、
自民党総裁選挙に出馬するかもしれないという。
AS幹事長を支持する人もいるかもしれないが、「ASだけは、だめだ」と
考えている人も多いはず。

自民党の良識を信じたい。
日本人の良識を信じたい。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●老人たちよ、立ち上がろう!

++++++++++++++++++H.Hayashi

老人たちよ、若い人たちのために、立ち上がろう!
私たちがものを言わずして、だれが言う!

おかしいものは、おかしいと言う。
たったそれだけのこと。

戦争について、平和について、国政について……。
私たちが良識をぶつければ、この日本は変わる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●出世主義

AS幹事長のような政治家を見ていると、餓鬼のような醜さを感ずることはあっても、
「民の代表」というような清潔さを感じないのは、なぜか?
やることなすこと、どこかに薄汚ささえ覚える。

その理由として、AS幹事長は、政治というものを、我利、我欲の追求の場と
しか考えていない(?)。
「みなから選ばれる」というよりは、旧態依然の金権を利用した派閥政治だけで、
自分の地位を得ようとしている(?)。

前回の総裁選挙で、福田総裁が選ばれたことについても、福田氏が選ばれたという
よりは、「ASでは、だめだ」という勢力が、福田氏支持に回った。
ふつうの神経の持ち主なら、ここで自分に恥じて、それで静かになるはず。
しかしAS幹事長には、そういう神経はない。
で、またまたその繰り返し(?)。

今回の内閣改造でも、その下地づくり、つまり今度の総裁選挙準備のため、
自分の息のかかった大臣を何人も送り込んだという(報道)。
もしこれが事実とするなら、AS幹事長にとっては、政治の世界そのものが、
国取り物語の舞台になっている(?)。
織田信長や豊臣秀吉の時代ならまだしも、どうしてこの21世紀の今、こういう
政治家が生まれるのか?
いまだにこの日本には、おかしな出世主義が、はびこっている(?)。

……とまあ、「?」マークの連続だが、私は心底、日本の将来を心配する。

今日の夕刊によれば、AS幹事長は、政治公約を近く発表するという。
どんな公約になることやら?
私は、見たくもない。
聞きたくもない。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●A外務大臣(2006年1月に書いた原稿です。)

++++++++++++++++++

A外務大臣が、靖国神社参拝問題に関連し、
「天皇陛下による参拝が一番だ」と述べた
という。

「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば
言うだけ、行かざるを得なくなる。

『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、
吸いたくなるのと同じ。

黙っているのが、一番』と、も。
(中日新聞・1・29)

++++++++++++++++++

 A外務大臣は、こう述べたという。

 「(靖国神社に)まつられている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と
言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです。だったら、天皇陛下の参拝、そ
れが一番」「天皇陛下による参拝が一番だ」と。

 この発言には、いくつかの重大な問題が隠されている。それらを順に考えてみたい。

(1)天皇は、外務大臣のあやつり人形なのか?

 この発言を聞いて、一番驚いているのが、天皇自身ではないのか。A外務大臣が、天皇
の意思や意向を聞いた上で、こうした発言をしたのなら、まだわかる。しかしそういった
プロセスを、何も経ないで、いきなり「天皇陛下による参拝が一番だ」とは!

 もしあなたが天皇なら、何と答えるだろうか。どう考えるだろうか。あるいはもっと卑
近な例で考えてみよう。もしだれかがあなたに、「子育ての最中にあるのだから、あなたに、
菅原道真(すがわらのみちざね)の神社を参拝してもらいます。それが一番だ」と言った
ら、あなたは、どう答えるだろうか。

 天皇の内心のことは、私にもわからない。しかし天皇のほうから、そういった希望でも
出されているのなら、まだしも、そういった希望を確認しないまま、外務大臣(ごとき)
が、そういう発言をすることは、許されない。少なくともそういった天皇自身の希望は、
外の世界の私たちには、届いていない。

(2)天皇の戦争責任を追及した言葉にならないのか?

「天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです」
という発言は、そのまま、天皇に対する戦争責任を追及した言葉になってしまう。自民
党政権としては、絶対に容認できない発言のはず。わかっていても、それを口にしたら、
おしまい……というのが、この発言である。それを、A外務大臣は、公(おおやけ)の
場で、堂々と口にしてしまった。

 A外務大臣のみならず、K首相は、この発言に対して、どう責任を取るつもりなのだろ
う? 軽率といえば、軽率。

 私が知るかぎり、戦場の日本兵たちは、多くは、最後は、「お母さん!」とか、「お父さ
ん!」とか言って死んでいったという。「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった兵
隊は、少なかったという。

 が、それでも「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった、日本兵がいなかったわ
けではないだろうと思う。が、そのことには、歴代の戦後政権は、あえて触れないで、今
までやってきた。もしそれが事実と認めてしまうと、その戦争責任は、まっすぐ、天皇に
向かってしまう。

(3)『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ、とは?

 人格の完成度は、自己管理能力などによって決まる。自己管理能力のある人を、人格の
完成度の高い人という。

 が、A外務大臣は、「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば言うだけ、行かざるを得なく
なる。『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ」(中日新聞)と。

 新聞記事なので、不正確かもしれない。しかし「『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、
吸いたくなるのと同じ」という日本語は、正しくない。正しくは、「『たばこを吸うな、吸
うな』と言われると、かえって吸いたくなるのと同じ」である。

 それはともかくも、この自己管理能力のなさこそが、問題である。私やあなたのような
凡人ではない。外務大臣という、日本を代表する人物である。そういう人物が、自己管理
能力のなさを、やはり堂々と自ら公表している。このおかしさ。この奇怪さ。

 しかも、中国や韓国に対して、「黙っているのが、一番!」とは! わかりやすく言えば、
A外務大臣は、中国や韓国に対して、「ごちゃごちゃ言わずに、黙っていろ」と発言したに
等しい。このごう慢さ。この高慢さ。

 おかげでこれから先、しばらく、日中関係、日韓関係は、ますます冷えこむことになる
だろう。私の知ったことではないが、しかし、外務大臣ともあろう大臣が、率先して、近
隣諸国との関係を悪化させるとは! 私も、ここまで日本の政治家たちの知的レベルが低
いとは、思ってもみなかった。

(3)靖国神社参拝問題

 「英霊」「英霊」と言うくらいなら、今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲ
リラ戦でも、何でも、しかけたらよい。それが「英霊」の意思を尊重する、もっともわか
りやすい方法である。先の戦争では、300万人以上もの日本人が死んでいる。しかもそ
の大半は、アメリカ軍を中心とする連合軍によって殺されている。

 しかしA外務大臣ですら、ひょっとしたら、英霊意識など、どこにもないのではないか。
「英霊」ということにしておかないと、まずいから、そう言っているだけではないのか。
もっとわかりやすく言えば、あの戦争は、勝ち目のない、愚かな戦争だった。

 あの戦争では、多くの日本人がだまされ、(だまされたのだぞ!)、戦場に駆り出され、
そしてその犠牲者となっていった。つまり「英霊」という言葉は、当時の軍部たちが、自
分たちの責任を覆い隠すために使った言葉にすぎない。「英霊」と祭りあげることによって、
「戦争を起こしたのは、国民であって、政府ではない」という形をつくった。つまり責任
を国民に、押しつけた!

 それを今になってもち出して、あの戦争を肯定することは、許されない。中には、「あの
とき戦争をしなかったら、日本は、欧米諸国の植民地になっていた」と説く人もいる。「ソ
連の進攻を食い止めるために、日本軍は中国で戦った」と説く人もいる。

 なら、百歩譲って、もしそうなら、戦後の今の日本は、何かということになる。GHQ
によって、完全に占領され、アメリカの植民地以上の植民地になってしまった。だから私
はまた同じことを言う。

 「今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、何でも、しかけたら
よいのではないか」と。A外務大臣、あなたがまず、その見本を見せてほしい。

 ……と、どうも、この問題を考えていくと、頭の中が混乱してくる。わけがわからなく
なってくる。みなが、何かをごまかすために、あるいは何かを隠すために、ものごとを遠
巻きに議論している。そんな感じさえする。

 あえて言うなら、今の皇太子妃の例を見てもわかるように、「天皇」「天皇」と、何もか
も、その負担を、天皇家に押しつけないことこそ大切ではないのか。「天皇だってふつうの
人間」という部分をねじまげて、あれこれと議論するから、話がおかしくなる。これ以上、
天皇や天皇家の人々を苦しめて、どうする。今度のA外務大臣の発言の底流には、そんな
問題も隠されている。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一夫一妻

+++++++++++++

一夫一妻であるかどうかも、
遺伝子の命令によるところが大きいそうだ。
今度、そんな研究結果が、公表された。

ナルホド!

動物をみても、一夫一妻をきちんと守っている
のもいるし、そうでないのもいる。

そうしたちがいは、遺伝子のちがいによるもの
だそうだ。

もちろん、この人間とて、例外ではない。

+++++++++++++

時事通信が、こんな記事を配信している(9月3日)。

+++++++++++以下、時事通信より(080903)++++++++

●遺伝子の個人差で離婚危機2倍=スウェーデン男性900人調査


 草原などに生息するハタネズミ類で固定した夫婦関係(一夫一婦制)を好むかどうかを
左右する遺伝子がヒトにもあり、男性ではこの遺伝子が特定のタイプの場合、そうでない
場合に比べ、結婚より同居を選んでいたり、離婚や別離の危機を経験したりする確率が2
倍高いことが分かった。

スウェーデンのカロリンスカ研究所や米エール大などの研究チームが2日までに調査した。
論文は米科学アカデミー紀要の電子版に掲載される。

 この遺伝子「AVPR1A」は、脳神経で神経伝達物質のアルギニン・バソプレシン(AVP)
を受け取るたんぱく質(受容体)を生み出す機能がある。

ハタネズミ類ではAVPが多かったり、受容体がよく働くタイプだったりすると、社会性が
高く、一夫一婦を好むようになることが実験で確認されており、ヒトでは自閉症の発症リ
スクに影響する可能性が指摘されてきた。

 研究チームは、パートナーがいるスウェーデン人男性約900人を対象に、2本がペアにな
っている12番染色体にあるこの遺伝子の一部DNA塩基配列が特定のタイプかどうかを調
査。その結果、2本とも特定タイプの男性が結婚ではなく同居している割合は32%、過去1
年に離婚や別離の危機を経験した割合は34%と、2本ともそうでない場合の17%、15%の
約2倍だった。 

+++++++++++以上、時事通信より(080903)++++++++

わかりやすく言うと、遺伝子(12番染色体にある遺伝子の一部)のタイプにより、
一夫一妻意識に、ちがいが出てくるという。

つまりその遺伝子が特定タイプの男性ばあい、結婚ではなく、同居している割合は、32%、
過去1年間に離婚や別離の危機を経験した割合は、34%もあったという。

そうでない遺伝子をもっている人の、17%、16%と比較すると、約2倍の数値だった
という。

へ〜〜エ!

よく「私は独身主義だ」とか何とか言っている男性がいる。
本人は、自分の意思と思想で、そう言っていると思っているかもしれない。
しかしそう言っている男性にしても、結局は、遺伝子に操られているだけ……
というふうにも、解釈できる。

となると、自分の意思とは何か、思想とは何か、ますますそれがわからなくなる。
というのも、(思想)にしても、自分にとって耳障りのよい(考え)の集合体でしかない。
「私は結婚したくない(あるいはその意思が弱い)」という、自分の意思を補強するために、
あちこちから独身主義にとって都合のよい(考え)を集めてくる。

そしてそれを(思想)という形にしたあと、「私は独身主義だ」と言う。

しかし、これで謎が解けた!

私の庭にやってくる野鳥にしても、ドバトは一夫一妻をきちんと守っている。
ヒヨドリも守っている。
スズメも、子育ての時期には、それを守っている。
いつも一羽でやってくるのは、モズ。

が、あのメジロはどうなのか。
いつも春先には、5〜10羽の集団でやってくる。
こうしたちがいは、それぞれの鳥が、それなりの思想をもっているからではなく、
その奥深くで、遺伝子によって生ずる。

さらに言えば、この私はどうなのか。
周期的に、離婚騒動を繰りかえしている。
(夫婦げんかをすると、私は、「お前なんかと離婚してやる」と言う。)
が、一応、この40年近く、一夫一妻を、きちんと(?)守っている。

もっとも、今回の研究では、「100%」という言葉はない。
つまり遺伝子のタイプが、(別居・離婚タイプ)であっても、別居・離婚をしないで
いる人も多いということ。
反対に(一夫一妻タイプ)であっても、別居・離婚をする人も多いということ。

このファジー(あいまい)な部分が、人間生活を豊かでおもしろいものにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 離婚 別居 一夫一妻 一
夫一妻制 遺伝子)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●病識(現実検討力)

+++++++++++++++++

「私の脳みそは、おかしい」とわかる人は、
まだ症状も軽いそうだ。
しかし「私は正常」「脳みそは、おかしくない」と
がんばる人ほど、症状は重いそうだ。

「私は病気」とわかることを、「病識」という。
精神病の多くでは、この病識の有無が、
たいへん重要という。

+++++++++++++++++

統合失調症という病気がある。
近年の治療の進歩には、ものすごいものがある。
以前は重篤な病気と考えられていたが、深刻であることには
ちがいないが、その深刻さが薄れてきたように感ずる。

そんな病気にかかっても、病識のない人が、60%も
いるという。
病識があれば、本人自身が、治療に向かって歩み始める
ことができる。
そうでなければ、そうでない。
こうした病気の第一歩は、その人にいかに病識をもって
もらうかだ、そうだ。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++++++

自分が統合失調症であるという診断を認めない(いわゆる「病識」がない)、あるいは医師
に対する不信感などから病識が不足している患者が多い。
アメリカでの400人以上の精神障害者を対象にした調査では統合失調症患者の60%、統合
失調情動障害患者の約25%に病識がなかった。
つまり、「本当は病気で無いけれど強制されて治療を受けている」、「本当はどこも悪くない」、
といった症状が見られるということである(ウィキペディア百科事典より)。

+++++++++++++

しかしこれは何も、統合失調症の患者だけの問題ではない。
私たち自身も、つねにこの問題、つまり病識のある・なしの問題を
かかえている。

簡単な例で言えば、「私はバカかどうか」という問題がある。
先日も、どこか認知症ぽい女性(65歳くらい)と話をしたときのこと。
相手は、自分のレベルを基準にして、ものを話す。
で、私がふと、「私は、(あなたが思っているほど)、そんなバカでは
ないと思います」と言うと、その女性は、突然、こう叫んだ。

「私もバカではありません!」と。

この事件以来、私はつねに、自分の脳みそを疑ってみるようになった。
私から見ると、その女性には、病識がないことになる。
しかしこうしたレベルの問題は、相対的なものにすぎない。

より知的レベルの高い人から見れば、私はバカということになる。
つまり私には、その病識がないということになる。

さらに最近では、子ども(幼児)たちの能力や、中高校生の能力と
比較してみることがある。

たとえばカードめくりのような短期記憶では、私はもう、子どもたちには
かなわない。
一方、難解な数学の問題では、中高校生に負けることはないが、このところ
簡単な計算(足し引き算)でのミスが多くなった。
私の脳みそは、かなり、老化している。

これも病識といえば、病識ということになる。

……こうして、つねに自分の脳みその状態を知る。
というのも、脳みその問題は、CPU(中央演算装置)の問題だから、
原理的には、それがおかしくても、おかしいと気づくことはない。
とくに脳の活動が鈍ったようなときである。
全体が鈍くなってくるから、「鈍くなった」と気づくことはない。

統合失調症についても、つぎのような症例がある(ウィキペディア百科事典より転載)。

+++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++

*被害妄想(他人が自分を害しようとしていると考える。「近所の住民に嫌がらせをされ
る」)

*関係妄想(周囲の出来事を全て自分に関係付けて考える。「○○は悪意の仄めかしだ」)

*注察妄想(常に誰かに見張られていると感じる。「近隣住民が常に自分を見張っている」)

*追跡妄想(誰かに追われていると感じる。「ストーカーの集団に追われている」)

*心気妄想(重い体の病気にかかっていると思い込む)

*誇大妄想(患者の実際の状態よりも、遥かに偉大、金持ちだ等と思い込む)

*宗教妄想(自分は神だ、などと思い込む)

*嫉妬妄想(配偶者や恋人が不貞を行っている等と思い込む)

*被毒妄想(飲食物に毒が入っていると思い込む)

*血統妄想(自分は天皇の隠し子だ、などと思い込む)

*家族否認妄想(自分の家族は本当の家族ではないと思い込む)

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++

要するにここに書いたようなことを思ったり、考えたりしたら、
まず自分の脳みそを疑えということ。
またここに書いたようなことを口に出して言っている人がいたら、
まずその人の脳みそを疑えということ。

とくに注意したいのが、「宗教妄想」。
私の近辺にも、「私は神だ」とか、「私は悟りを開いた仏だ」と言っている
人がいる。
けっこうそれらしいカリスマ性を備えているため、それを信じている
人もいるようだが、このタイプの人は、ほぼ100%、疑ってみたほうがよい。

話がそれたが、「病識」について考えてみた。

「まず自分の脳みそを疑う」……それが自分を知る第一歩ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 病識 統合失調症 宗教妄
想 私は神 私は悟りを開いた 現実検討力)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●回顧性と展望性

++++++++++++++++++

回顧性(過去を懐かしむ)と、展望性(未来に向かって生きる)は、
満55歳前後を境として、入れ替わるのだそうだ。
この年齢を超えると、回顧性が展望性より強くなる。
さらに60歳、70歳となると、展望性はますます弱くなり、
回顧性が強くなる。

人によっては、ルーツさがしと称して、自分の先祖をさがし求める人も
いる。

これについては、すでに何度も書いてきたので、ここではその先に
ついて書いてみたい。

私がこの「回顧性と展望性」という言葉を知ったのは、50歳くらいの
ときである。
そういう意味で、私はラッキーだった。
50歳くらいのとき、心の未来を知ることができた。
その準備をした。

やがて55歳くらいになったとき、まわりの同年齢の人たちが、急速に
回顧性が強くなっていくのが、よくわかった。
たとえば同窓会の回数が、急にふえたのもそのひとつ。
(だからといって、同窓会に意味がないというのではない。誤解のないように!)
が、私はそのつど、展望性を失わないように気をつけた。
同時に、回顧性を強くしないように、心がけた。

現在、満60歳だが、そんなわけで、平均的な人たちよりは、展望性をもっている
と思う。
とくにジジ臭い人たちとくらべてみると、それがよくわかる。

中には「60歳になったから、四国八十八か所巡りをする」と言っている人もいる。
「家系図を作って、それを子どもたちに残す」とがんばっている人もいる。
さらに先にも書いたように、「自分のルーツさがし」と称して、先祖の足跡をたどってみた
り、早々と、墓地を購入したりする人もいる。

だからといってそういう人たちが、どうこうというのではない。
それぞれの人たちは、それぞれの思いの中で、そうする。
しかし心理学的には、(ごく平均的なこと)をしているにほかならない。
形はそれぞれでも、(みな、そうするだろう)というようなことをしているにほかならない。
アメリカ人もヨーロッパ人も、みな、そうである。
(死)という(天井)が見えてくると、とたん、目が過去へと向き始める。

それはわかるが、大切なのは、回顧性ではなく、展望性。
回顧性に陥ったとたん、そこで時計は止まる。
つまりその先の人生が、無駄になってしまう。

私にしても、残りの時間は、まだ10年はあると思う。
運がよければ、20年はあると思う。
過去を回顧するにしても、最後の最後でよい。

私は今まで生きてきたし、
生きているし、
これからも生きていく。

もちろん「生きる」ということは、「前向きに生きる」ことをいう。
(自信はないが……。)

10年もあれば、かなりのことができる。
20年もあれば、さらにいろいろなことができる。

年齢的には、満20歳から40歳までの期間と同じ。
あのビル・ゲーツは、20歳くらいのときに起業し、40歳のときには、
自分の会社を、世界一のコンピュータのソフト会社にまでした。

つまり毎日、仏壇の金具を磨いて過ごすようになったら、その人もおしまい。
そういうのを「生きている」とは、言わない。

だからもし、この文章を読んでいるあなたが、40代とか、50代のはじめの
人だったら、この言葉を覚えておくとよい。
「回顧性と展望性」という言葉である。

この言葉を知っているだけでも、老後の過ごし方が大きく変わると思う。

(補記)

一度回顧性に陥ってしまうと、それから抜け出るのは容易なことではない。
その人の人生観として、定着してしまうからである。
さらに回顧性に陥ると、考え方そのものが、どんどんと後ろ向きになっていく。
最終的には、自分の葬儀の心配ばかりをするようになる。

このことは、あなた自身の父親や母親、あるいは親類の人たちを観察してみると
よくわかる。
あなたの周囲にも、そういう人が、1人や2人は、たいてい、いる。
おおいにそういう人たちを参考にしたらよい。
(この言い方は、ちょっと、残酷かな?)



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝、あれこれ(今日から9月、9月1日)

+++++++++++++++++

あちこちのニュース・サイトをのぞく。
興味をひいたのは、

(1)二日酔いには、蜂蜜がよいという。
アメリカの某、信頼のおける研究団体が、
そういう研究結果を報告した。
二日酔いの予防にもなるという。
蜂蜜を紅茶に溶かして飲むというのも、
ひとつの方法だとか……。

(2)共産党に入党する若者がふえているという。
小林多喜二の書いた、『蟹工船』という本が、
今、静かなブームになっている。
その影響ということらしい。
別の識者は、自民党でもない、民主党でもない、
第三の政党を、若者たちが求め始めていると
述べている。
ほんとうに、そうかな?

(3)「月刊現代」が、休刊になるという。
   発行部数の減少と、読者の高齢化が理由という。
   インターネットの普及とともに、オピニオン
   媒体としての、この種の雑誌が売れなくなったと
   書いてあるサイトもあった。
   「月刊現代」を、不定期にではあるが、愛読して
   いた私としては、さみしい。
   ところで現在、「月刊現代」は、毎月8万部強の
   発行部数しかないという。
   この数字には、驚いた。
   「たったの8万部?」と。
   私は、もっとあると思っていた。
   私のサイトやBLOGへのアクセス数にしても、
   この2月、10万件(月間ベース)を超えた。
   9月の今は、さらにふえている。
   今、時代が、大きく変わりつつある。

(1)北朝鮮が、テポドン2号を発射するという。
あの国は、どこまでいじけたら、気が済むのだろう。
だれにも相手にされなくなると、(=まわりが静かになると)、
すぐこういう脅しをかけてくる。

(2)ハリケーンが、巨大化しているという。
現在、フロリダ州、テキサス州から、100万人近い
人たちが、強制的に避難させられているという。
この先、台風が巨大化することも予想されている。
これは、けっして遠いアメリカだけの問題ではない。
地球は確実に、しかし静かに破局に向かって進みつつある(?)。

(3)韓国経済があぶない?
韓国の朝鮮N報、中央N報、東A日報各紙が、この数日、
韓国経済について悲観的な記事を載せている。
東A日報は、こと経済に関しては、率直な記事を書いてきたが、
朝鮮N報や中央N報まで、そういうことを書き始めたことに驚く。
かなり深刻らしい。
現在、猛烈な勢いで、韓国から外資が逃げ始めている。
ちなみに今朝の為替レートは、1ドル=1089ウォン。
先週はじめより、さらに30ウォンも、ウォンがさがっている。
危険水域は、とっくの昔に、越えた。
なお韓国では、「国家破綻」のことを、「通貨危機」と呼んでいる。
「デフォルト」というのは、もともとは「債務不履行」を意味するが、
中身は「国家破綻」。

++++++++++++++++++++

●日韓経済戦争(最終段階)(South Korea under Crisis)

+++++++++++++++++++++++

とうとう出てきた!
韓国与党代表の口から、「(韓国経済)、9月危機説」!

+++++++++++++++++++++++

すべての指標が下向き。
年末までに100億ドルの経済収支赤字とはいうが、その程度ですむはずがない。
この数日間だけでも、土日をはさんで20ウォンも、ウォンが下落している。
(現在、1ドル=1104ウォン。9月1日)

「後悔するのは、韓国のほうだ」と言い切った小泉元総理。
それが今、現実のものとなりつつある。

ソウル、聯合発のニュースをそのまま紹介する。

+++++++++++++++以下、聯合ニュースより++++++++++++++

【ソウル1日聯合】ハンナラ党の朴ヒ太(パク・ヒテ)代表は1日の政府・与党協議会で、
「わたしは9月危機説は信じないが、最大の注意を払うべき」と強調した。

 国際収支は今や完全に赤字基調が定着したようで、年末までに100億ドルの経常収支赤
字が予想されるのは、誰もが認める趨勢だと述べた。資本収支も悪化し、純債務国転落が
迫るなど、通貨危機から10年ぶりだと全員が口をそろえているうえに、現在と将来的な景
気指標もいずれもマイナスだと指摘した。

+++++++++++++++以上、聯合ニュースより++++++++++++++

敵意をあおるわけではないが、竹島問題に見る韓国の反日感情には、常軌を
逸したものがある。
つい先日は、陸海空軍をあげた「独島(竹島)奪回訓練」を実施している。

そういう国が、現在、窮地に立たされている。
韓国経済が、デフォルト(債務不履行=2回目の国家破綻)を宣言するのは、
まさに時間の問題。

一家にたとえていうなら、自己破産。

前回97年のときには、日本は頼まれもしないうちから、即、韓国救済に走った。
それに「待った!」をかけたのは、ほかならぬアメリカだった。
しかも総額500億ドル!

その結果がどうだったかは、すでに私たちみなが、知っている。

現在、外資が猛烈な勢いで韓国から逃避し始めている。
ウォンを買い支える資金も、底をついた。
ゆいいつの頼みの綱は、この日本ということになる。
おそらく現在、水面下で、韓国政府は、日本政府に対して、ウォンの買い支えを
要請しているにちがいない。
これは憶測ではない。
ここまでくると、それしか選択肢はない。

しかし日本よ、日本人よ、「97年の愚」を繰り返してはいけない。
今度こそ、韓国に頭をさげさせよう!
さげても、すぐ援助の手をさしのべる必要はない。
この10年間、韓国が日本に対してしたことを思い起こすなら、なおさらである。

が、韓国人の論理は、日本人の意識とは、かなりちがう。
「韓国がデフォルトしたのは、日本のせい」とか、「借金は全額返したから、文句は
ないはず」と、居直っている。

日本の市町村の村レベルまで、全国津々浦々に産業スパイを送り込み、この日本から
盗めるものはすべて盗んでおきながら、「独島(竹島)を、日本が盗もうとしている」は
ない。

現在のイ大統領は別として、ノ前大統領は、戦前(戦前だぞ!)、日本軍に協力した
という理由だけで、その子孫から財産を没収するようなことまでした。
また日本が国連の常任理事国入りをめざしたときには、韓国政府は、各国に特使まで
派遣して、(特使だぞ!)、それに反対した。

さあ、日本よ、日本人よ、覚悟しよう!
機械産業を中心として、韓国がデフォルトすれば、日本もかなり手痛い打撃をこうむる
ことになる。
日本とて無傷ですむわけではない。
しかし日本は、日本。
まだまだ底力がある。

今こそ韓国から、液晶産業、電子産業、自動車産業、造船技術、鉄鋼技術を
取り戻すチャンスである。
が、もし私の言っていることが、過激であると思う人がいたら、こんな事実を
忘れてはいけない。

金大中が大統領のときのこと。
日本はバブル経済の後遺症に苦しんでいた。
そのとき金大中は、毎朝(毎朝だぞ!)、
日本追い落としのための閣議を開いていた。
日本の繁栄を、そっくりそのまま韓国のものにしようと画策していた。

この試合は、サッカーの試合とはわけがちがう。
野球の試合ともちがう。
勝つか、負けるか。
日本が負けたら、この日本に明日はない。
私たち日本人にはともかくも、韓国人には、「共存、共栄」という言葉は通用しない。

【日本政府へ】

「97年の愚」を、ぜったいに繰り返してはいけない!
ときの河野外務大臣は、おまけに120万トンという米(米だぞ!)を、北朝鮮に
援助した。
「これで朝鮮半島が動かなければ、(私が)責任をとる」とまで言い放った。
しかし朝鮮半島は、何も動かなかった。
河野外務大臣も、何も責任を取らなかった。

【韓国への輸出業者のみなさんへ】

日本政府は、100億ドルの援助を約束している。
しかし97年当時と今とでは、韓国経済の規模そのものがちがう。
100億ドル程度の援助ですむはずがない。
輸出保険をしっかりとかけておくことは言うまでもないことだが、
こうした事実をしっかりと頭にたたきこんだ上で、韓国の輸入業者と
取り引きをしたらよい。

「韓国危機説」が、韓国政府の要人の口からとうとう、出てきた。
この事実を、私たちは重くみなければならない。

ちなみに週明けの今日(9月1日、午前)、韓国の株価は3%以上も暴落している。
(9月1日、正午記)

(注)さらに今朝、(9月2日)、1ドル=1116ウォンにまで、下落している。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●夫婦円満のコツ

+++++++++++++++++

夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(4)妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(5)合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(6)受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司
●認知症(Senility)

+++++++++++++++++

認知症にも、いろいろあるようだ。
「最低限知っておきたい、認知症の種類」と題して、
こんな記事が、週刊B春(9月4日号)に載っていた。

+++++++++++++++++++++++++++++++

(1)脳血管性
(ビンスワンガー病など)

(2)神経変性
*アルツハイマー病
*非アルツハイマー型
      (前頭側頭型認知症=ピック症候群、レビー小体型認知症など)

(3)正常圧水頭症

++++(以上、武田病院神経脳血管センター・秋口一郎氏++++

今まで、それぞれが別々に頭の中に入っていたが、この表でスッキリした。
で、この中で、私自身もとくに注目しているのが、
「神経変性認知症の中の、非アルツハイマー型認知症」。

アルツハイマー病は、脳の中でも主に、側頭葉、頭頂葉(記憶を司る)が萎縮する
のに対して、前頭側頭型では、前頭葉や側頭葉が、萎縮するという(同誌)。

「問題の前頭側頭型認知症は、認知症を連想させる記憶障害(物忘れ)はほとんど
なく、性格変化や社交性の消失、周囲への無関心や、ワンパターン行動が目立ち
ます。
抑制も欠如し、万引きなど軽犯罪を犯すことも。
また話したいのに言葉が出にくく、口数が減ったり、口数が減ったりなどの言語異常
も出ます。
感情面は鈍化して、共感や感情移入ができず、多幸感が強まり、やたら趣味を広げたり
することもあります」(同誌)と。

「傍若無人(ぶじん)としか映らないが、原因は認知症。……なぜ異常な行動や
行為が生ずるかを理解すれば、家族の苦痛も軽減できる。
認知症に関心をもとう」(同誌)と。

雑誌には、Aさん(男性、55歳)の例が載っていたが、若くして発症することが
多いという。

で、この中に出てくる、「多幸感」という言葉だが、「数多い幸福に恵まれていると
いう実感」(「国語大辞典」)という意味である。

こうした認知症でこわいのは、本人自身の問題もさることながら、周囲の人たちに
大きな迷惑をかけることがあるということ。
周囲の人たちが、その病気の内容を理解し、その人がその病気であると理解していれば、
それでよい。
が、実際には、そうではない。
近隣の人たちとの、大きなトラブルに発展することも珍しくない。

ある男性(65歳くらい)は、パチンコを使って、近所の家々に石を撃ちつづけていた。
別の男性(60歳くらい)は、マジックで自動車のナンバーに落書きをしていた。
また別の男性(70歳くらい)は、自転車置き場に置いてあった自転車のタイヤに、
穴をあけ、つぎつぎとパンクさせていた、などなど。

共通しているのは、上記、秋口氏も指摘しているように、「ワンパターン行動」。
時刻表的生活が基本になり、またそれをしないと気が済まなくなる。

夕方5時には、カーテンをすべて閉める。
午後6時には、夕食。
午後9時には、就寝……というように。

毎日の生活が、数分の狂いもなく繰りかえされる。
そのため当然のことながら、いつも時計を身につけているか、見えるところに
大きな時計が置いてある。

で、私もよく理解できないのは、「多幸感」。
認知症患者の人が多幸感をもつという話は、よく聞く。
しかし若い人が感ずるような、(ルンルン気分)とは、内容がちがうようだ。
自分の殻(から)に閉じこもったまま、多幸感をもつ。
そのため独特の雰囲気をもつようになる(?)。

どうであるにせよ、「認知症に関心をもとう」(同誌)という意見には、賛成である。
何でも「85歳以上では、4人に1人が、認知症になる」とか。
確率は25%。
けっして他人ごとではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ピック症候群 ピック病 
前頭側頭型認知症 認知症 ビンスワンガー病)

(補記)

●ビンスワンガー病

「脳血管性痴呆は脳卒中の後、あるいはこれに伴って出た症状と考えて良いでしょう。大
部分は脳梗塞に伴うものです。しかし、痴呆が出る前にはっきりした発作があるとは限り
ません。脳の虚血性病変がじわじわ進んだり、それと判らぬ小さな発作を繰り返して痴呆
が目立ってくることがあります。どういうタイプの病変が痴呆を起こしやすいのでしょう
か。一番多いのは、大脳白質が広くやられるもの(ビンスワンガー病)、小さな梗塞が多発し
ているもの(多発梗塞性痴呆)です。このタイプは高血圧と強く関係していますが、大きな脳
梗塞や脳出血のあと、多発性の皮質梗塞、そして知能、記憶に関係する特殊な場所の病変
でも痴呆になります」(東京都老人総合研究所HPより抜粋)。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●無線LANの「ただ乗り」

++++++++++++++++

ある調査によると、54%の人が
無線LANにただ乗りしたことが
あるという。

今、無線LANのただ乗りが、
大きな問題になりつつある。

++++++++++++++++

新しいパソコンに、無線LANの(ON・OFF)スイッチがついていた。
何気なく私は、そのスイッチを(ON)にしてみた。
とたん、接続可能な無線LANの一覧表が出てきた。

ギョッ!

無線LANを使用している人は多い。
大半の人は、設置時にパスワードを設定し、セキュリティを確保している。
しかしそうした設定をしないまま、そのまま無線LANを設置している人も、多い。
私のパソコンが、そういう人たちの電波を拾った。

「まさか……?」と思って、その中のひとつをクリックしてみると、
数秒おいて、「インターネット、接続可能」と表示された。

またまた、ギョッ!

無線LANのただ乗りの話は耳にはしていたが、こんなにも簡単にただ乗りできるとは、
知らなかった。
無防備も、よいところ!

そこで警告。

現在、無線LANでインターネットを楽しんでいる人は多いと思う。
しかしパスワードなどの設定なしで、そのまま使ってはいけない。
(ただ乗り)を悪用して、あなたのパソコンが、犯罪に使われることもある。

たとえば先ごろ、どこかの掲示板に殺人予告をして逮捕された高校生がいた。
その高校生も、自分の身元がバレないように、他人の無線LANにただ乗りして、
つまり他人のパソコンを経由して、掲示板にそれを書き込んでいたという。
(結果的に、身元を追跡され、逮捕されたが……。)

こういうケースのばあい、ただ乗りされたその利用者が、掲示板に殺人予告を
したと疑われる。

フ〜〜ン……。

以前、私も無線LANを使っていたが、動作が不安定だったため、有線LANに
切り替えた。
(私の家のばあい、電子レンジが約1メートルのところにあって、どうやらその
電子レンジから出る電波が、無線LANに干渉していたらしい。)

実際、当初、パスワードの設定など、何かとめんどうなことが多い。
しかしそれは、きちんとしておいたほうがよい。

今のところただ乗りした人が、何かの被害を受けたという話は聞いていないが、
しかしこの世界、何があってもおかしくない。

「ただだから」と、ただ乗りしていると、逆に、それが利用され、あなたの個人情報
が盗まれるというケースも、考えられなくはない。

ただ乗りされるほうも、ただ乗りするほうも、注意。

(ワイフのために……)

わかるか?
もう少し詳しく説明すると、こういうこと。

だれかが無線で、モデム・ルーター(=電話機の横に設置してある機器)と、
パソコンをつないでいたとする。
(我が家のばあいは、有線でつないでいる。
その有線の部分が、無線になっていると考えればよい。)

しかしその電波はかなり強力で、半径200メートル前後は届いてしまうらしい。

そこでふつうは、他人が、その電波を使えないように、無線ルーターとパソコンを、
パスワードを使って暗号化する。
そうすれば、他人がその電波を利用するということは、できなくなる。
しかしそれをしないまま、無線LANを使っている人も多い。

そういう他人の電波をただで使って、インターネットに接続することを、「ただ乗り」と
いう。

わかったか?

++++++++++++++++++++

(付記)

インターネットの世界は、毎日のように進化(?)している。
それについていくだけでも、たいへん!

で、先日も、義兄(70歳)くらいが、こう言った。
「ぼくも、そろそろインターネットをしてみるかな」と。

それを聞いて、私は、即座にこう思った。
「無理だろうな」と。

しかしそれは言わなかった。

あちこちのHPを閲覧したり、メールのやりとりくらいなら、
それほどむずかしくない。
しかしそれでも、ふと油断したようなとき、いろいろなトラブルに
巻きこまれる。
そういうとき自力で解決する能力を身につけるには、相当な経験が必要である。
またその能力がないと、インターネットを楽しむことはできない。

……で、そのうち小学校でも、国語、算数、理科、社会に並んで、
「パソコン」という科目が生まれるかもしれない。
近年、その必要性は、ぐんぐんと高まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●天皇のルーツ

++++++++++++++++++++

現在、天皇のルーツについて、大きく分けて
つぎの3つの説がある。

(1)朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族説
(2)邪馬台国、もしくはそれ以後、勢力をたくわえた豪族説
(3)九州地方から近畿にやってきた豪族説

++++++++++++++++++++

これらの説について、それぞれの学者が、きわめて専門的な立場で議論しあっている。
私のような門外漢が入り込む余地は、どこにもない。
しかし今回話題となった箸墓古墳(はしはか・こふん)は、卑弥呼の
墓ではないかと言われている。
卑弥呼の没年とちょうど重なるからである。

が、この古墳もまた宮内庁管轄陵墓ということで、これ以上の調査はできない。
(そもそも、どうして箸墓古墳が、宮内庁によってそのように指定
されているか、その理由がわからない。
一説によると明治時代になってから、たいした根拠もないまま、一方的に
指定されたという。)

それはともかく、もし箸墓古墳が邪馬台国の卑弥呼のものであるとするなら、
天皇のルーツについて、上記(2)の説が、がぜん有力になってくる。
卑弥呼と天皇を直接結びつけることはできないにしても、その地域には
天皇誕生前後に、強大な国があったことになる。

(私は今まで、(1)の朝鮮半島から渡ってきた、騎馬民族説を支持してきた。)

で、先日、私は、福岡県の小さな島でみつかった、あの『金印』について書いた。
言い伝えによれば、一人の農民が溝の中の、岩の間から見つけたという。
(私は学生時代、だれかが砂浜で見つけたと習ったが……。)

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、卑弥呼に与えられたとする
金印が、福岡県で見つかるはずがない。
つまり「金印・贋作説」が、逆に、がぜん有力になってくる。

もっとも常識で考えても、金印だけが、(そこ)から見つかったというのも、
おかしな話ではないか。
その周辺を広く発掘してみたが、ほかに何も見つからなかったという。
また発見したという農民についても、「?」がつけられている。
どこのだれかが、定かではない。
さらに卑弥呼は、「印綬」を受け取ったという記録は残っているが、「金印」だったとは、
どこにも書いてない。
「印綬」というのは、「紐のついた印章」という意味である。
一説によると、金印は、発見された江戸時代当時、それを鑑定したとされる学者による
ねつ造と言われている。

今ではインターネットを使って簡単に調べられるから、興味のある人は、
そちらを見てみたらよい。

ということは、私たちは、子どものころ、ウソを教えられた可能性が高くなる。
……というような例は、最近にもあった。

藤木Sによる、石器捏造事件も、そのひとつである。
言い換えると、日本の考古学は、どこかおかしい。
一度耳障りのよい説が発表されると、みなが疑うこともなく、それに同調してしまう。
常識そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。
これは考古学者にとっても、(プラス、日本の歴史学者にとっても)、たいへん
悲しむべきことと言ってよい。

そこで話を戻す。

天皇家の墓であるなら、「陵墓」として保護するのはしかたないとしても、
天皇が生まれる以前の、たとえば箸墓古墳のような古墳は、発掘調査を許可しても
よいのではないか。

天皇のルーツについても、そこに謎を解く鍵があるのに、それには触ることもできず、
みながワイワイ、ガヤガヤと議論をつづけている。
邪馬台国については、さらに騒々しい。

しかしそれこそ時間の無駄。
労力の無駄。
この時代の、私たちがもっている英知そのものの、無駄。
あるいはこの先も、こうした不毛な議論を、延々とつづけるというのか。

そもそも宮内庁というのは、何なのか。
私にはさっぱりわからない。

さらに言えば、日本の歴史学者たちも、「日本史」という狭いワクの中だけに
閉じこもっていないで、「東洋史の中の日本」という視点で、日本の歴史を
ながめてみる必要がある。

「日本だけは特別」と考えたい気持ちはわからないでもないが、日本史も
東洋史の一部でしかない。

(付記)

「わからないならわからないで、そっとしておけばいい」とか、
「それがわかったところで、どうなのか」という意見もある。

しかしほかの分野では、みなが、(わからないこと)を、懸命にわかろうとしている。
その先に何があるかわからないかもしれないが、そこに(わからないこと)があれば、
果敢なく、それに挑戦していく。
それが(真理の探究)ではないのか。

そこに(わかるもの)があるのに、あえてそれには目を閉じ、ああでもない、
こうでもないと議論をつづける、そのおかしさに、みながもっと気がつくべきではないの
か。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 東洋史 日本史 天皇のル
ーツ 邪馬台国 卑弥呼)


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年   10月 1日号
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10月1日現在……1102号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●山の朝

++++++++++++++++++++

今、気温はどれくらいかな?、と聞くと
たった今、床から起きてきたワイフが、
「24度」と言った。

肌寒さを感じさせるような朝である。
昨夜は、やや厚いふとんをかぶって、寝た。

天は高く、秋を思わせる薄い雲が、幾重にも
重なっている。
その間から淡い水色の空が、顔を出している。

カラスの声、コジュケイの声……。
空気はしっとりと湿っていて、動くものはない。
おだやかで、やさしい朝。
深い緑、それが見渡すかぎり、太平洋の先までつづいている。

時刻は午前6時を少し回ったところ。

「今日も暑くなるかねエ?」と声をかけると、
「ゆうべは寒かったわネ」とワイフ。

+++++++++++++++++++++

●今日の目標

そこで今日の目標。

(1)このパソコン(ASPIRE ONE)に、ウィルス対策ソフトをインストールする。その
ために町の中のパソコンショップへ行く。
(2)マガジン9月号(HTML版)を、アプロードする。
(3)庭と畑の草を刈る。(先日、私の家の庭に、マムシが出た。それについて近所の人が、
「一匹出たということは、数匹いると思いなさい」と教えてくれた。マムシという
のは、1匹だけでは、生息しないそうだ。マムシは、草むらに住む。)

あとは、いつもの日曜日。

ところでこんなことを書いている本があった。

●ブルー・マンディ

どうして「ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)になるかといえば、
日曜日の過ごしかたに問題があるから」(ある女性精神科医の書いた本)と。

つまり日曜日にだらしない生活をしてしまうと、その夜は、熟睡できない。
だから翌、月曜日は、朝から気分が晴れない。
それがブルー・マンディにつながる、と。

つまり日曜日こそ、スポーツをしたり運動をしたりしなければならない。
そしてその夜は、ぐっすりと眠る。

とは言われても、日曜日だけでも、ダラリとしてみたい。
ヒゲも剃らず、髪の毛もとかさず、時間にしばられず……。
その結果として、ブルー・マンディがあるとするなら、
ブルー・マンディを受け入れるしかない。

で、私はブルー・マンディというのは、もっと生き様に関連しているもの
ではないかと思う。
日曜日にゆっくり休む。
そのときついでに、自分のしていることが、生物としての人間の(基本)と
ズレていることを知る。
つまり休むことによって、(自分を取り戻す)。
が、月曜日に待っている世界は、何もかもが、その(基本)とはズレている(?)。
その調整がストレッサーとなって、その人を憂鬱にする。

ここでいう(基本)というのは、私の目前に広がっているような世界をいう。
もともと人間というのは、こういう世界に住んでいた。
が、実際の生活は、その(基本)から、かなりズレている。

都会に住んでいる人には失礼な言い方になるかもしれないが、都会の生活は、あれは
人間の生活ではない。

先日も横浜で通勤列車に乗り合わせたが、あれはひどい。
電車の中の人たちは、トラックに詰め込まれた家畜のよう。
窓の外に垣間見える景色は、まるで巨大な墓石のよう。
聞こえるのは、ゴーゴー、キンキンという機械的な音。

そういう生活に慣れろと言われても、今の私には、もうできない。
おそらく毎日が、ブルー・マンディになってしまうだろう。

その本を書いた女性精神科医は、ブルー・マンディを「悪」として、とらえている。
「悪」というより、それを治すには、どうしたらよいかという立場で、本を
書いている。
しかしもし私が社会学者なら、こう考えるだろう。

「人がブルー・マンディになるのは、その人に原因があるからではない。
社会のほうが、ゆがんでいるからだ」と。
またそういう視点で、この問題を考える。

何も日曜日は、月曜日のためにあるのではない!
その日曜日すらも、翌日の仕事のための準備に使うとしたら、では、
人は、いつ、どこで心と体を休めればよいのか?

ブルー・マンディというのが、それほど深刻な問題であるとするなら、
月曜日は、仕事は午後から、とすればよい。
私が政治家なら、そう提案する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ブルー・マンディ ブルーマンデー ブルーマンディ)

(補記)

日本人と、たとえばオーストラリア人の生き方を比較してみたばあい、
大きくちがう点が、ひとつ、ある。

日本人というのは、常に、未来のために現在を犠牲にするという生き方をする。
子どもの教育についても、幼稚園教育は、小学校での勉強のために。
小学校教育は、中学校での勉強のために。
中学や高校での教育は、その先の大学受験のために、と。

こうした意識は、社会へ入ってからも、変わらない。
つまり日本人は、いつも鼻先にニンジンをぶらさげながら、生きる。

で、やっと仕事から解放され、自由になったと思ったとたん、そこに
待っているのは、「老後」と。
そういうことになる。

一方、オーストラリア人は、そうではない。
常に「今」の生活を大切にする。
そういうものの考え方が、子どものときから徹底している。
『休息を求めて疲れる』というのが、愚かな生き方の代名詞のようにも
なっている。
(これについて書いた原稿があるので、あとでさがしてみる。)
私の友人のP君にしても、42歳ごろまでに稼ぐだけ稼いで、
全豪一の高所得者になったあと、会社を売り払い、現在は、
レーシングカー・チームをつくり、世界を渡り歩いている。
P君のようなケースは例外であるとしても、そういう生き方が
自然にできるような下地が、オーストラリアにはある。

要するに、この問題は、「働くために休むか」、それとも
「休むために働くか」という、択一の問題に行き着く。

意識のもち方が、180度ちがうから、たがいにたがいを理解するのは、
不可能と考えてよい。
実のところ、この私にしても、いまだに日本式の仕事観が心の中に居座っている。
長い休暇があっても、その休暇を楽しむというよりは、いつも心のどこかで、
休み明けの仕事のことを心配している。
しかしこれではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ『やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた』という
ことになりかねない。

しかしそんな愚かな生き方が、あるだろうか?

さらに中には、40年前、50年前の学歴をぶらさげて生きている人がいる。
自分では「偉い」と思っているのかもしれない。
「自分はみなに、尊敬されている」「尊敬されるべき」と考えている(?)。
しかし中身が、まったく、ない。
「これが私だ」というものが、何もない。
ないから、ますます過去の学歴にしがみつく。

現在を常に未来のために犠牲にして生きていると、そういう(愚かさ)に
気がつくということもない。

かわいそうな人だと、私は思う。

【休息を求めて疲れる】

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯
状回という組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思
考システム」)。脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無
気力になるという。もっとも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを
念頭におきながら、子どもの心をみるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がな
く、それ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家
で教えていても、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっ
ているだけのようです。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、
ゲームや絵を描いたりしていて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロし
ています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のん
びりしすぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、
異常もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意し
ても、なおりません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわから
ず、悩んでいます。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて
頂きたいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意   
                            
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、
つまり「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底と
いう。が、それで終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎ
の底をめざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭
教師をつける)→(さらにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、そ
の悪循環をどこかで感じたら、鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と
思い、あきらめる。こういうケースでは、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」というこ
とを繰りかえしながら、ますます状態が悪くなる。

●リズムの乱れ

 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリ
ズムがまったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それ
を表している。つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩
いているのがわかる。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。
そういうYUさんだが、子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、
私が一番よく知っている」「子どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズ
ムのなかにあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そ
のリズムの乱れに気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ

 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? 
だからといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さ
だけが、目立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケース
では、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだ
け。こういう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学
歴信仰が疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、
カルト。脳のCPU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。
以前、「勉強にこだわってはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言
った。「他人の子どものことだと思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省

 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべき
は、親のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。
しかし学校から帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロして
いてはいけないのか。学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。
そこで一日を過ごすということが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、
よく知っているはず。そんな子どもに向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして
言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そう言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」
という生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて
疲れる』生き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子ど
もはいつまでたっても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽
になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない

 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師
の、よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつ
なげる。しかしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、
冷水を浴びせかけるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りする
だけ。その場だけを何とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、
必ず、いつか、こういう子育て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆
(きずな)すら、こなごなに破壊する。

●ふつうの子ども論

 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからない
でもないが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。
そればかりか、さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターン
を子どもに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそ
れ以上に大切なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけるこ
と。しかし心のどこかに、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればする
ほど、親は、子どものもつ「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑
になる。このYUさんのケースで言うなら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、
子どもにその自覚がない以上、なおるはずもない。またそれだけの自意識がければ、自分
でなおすこともできない。小学六年生といえば、すでに言葉の問題をうんぬんする時期を
過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもなるというのなら話は別だが、そうで
ないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした親の姿勢が、文字嫌い、本
嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているということ。そうでないことを
望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?

 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならな
いことは、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多
分、絵といっても、アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。し
かしそれとて伸ばせば、一芸になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ば
したらよい。今の段階で、絵やゲームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、
二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、そ
れはまさにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。
「もっと勉強しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなけ
れば、勉強をしようとしない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は
山のようにあるのだろうが、その失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。そ
の責任をおおい隠し、子どもに押しつけても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの
立場で、子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解
いてみようね」と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、
悩む。そういう姿勢が、子どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおる
ころには、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、Y
Uさんは、もっと早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何
とかなる」「何とかしよう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年
生なのだ。が、ここでまた「何とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに
大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛

 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないと
みてよい。私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そ
ういう私の意図がわかれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことを
よくも、言うものだ!」と怒るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみ
たほうがよい。何か、大きなわだかまりがあるかもしれない。望まない結婚だった。望ま
ない子どもだった。あるいは生活が不安定だった。夫に、大きな不満があったなど。そう
いうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへの過干渉や過関心になる。その背景には、
親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一
人の友として受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの
前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。
この三つ目は、実は日本人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、
子どもの横を歩いてみる。これは今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが
絵を描いていたら、YUさん、あなたもいっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲー
ムをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲームをすればよい。そういう姿勢が子
どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったとき、あなたが「勉強しようね」
と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一方で子どもの世界を否
定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができるというのか。こ
ういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……

 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう
考え方もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えること
は、私はYUさんとの間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私と
の間に、遠い距離を感じたことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、
その価値に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇
跡なのだ。そういう視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、
ここに書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。
掲載予定日は、二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、
連絡ください。連絡がなければ、了解していただいたものを判断させていただきます。
よろしいでしょうか。はやし浩司
(03−1−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが
見出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのもの
でした。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が
悔やまれ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよ
いのかわかりません。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思
います。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●物欲

++++++++++++++++++

物欲のメカニズムについては、前にも
書いた。
何かの刺激が与えられると、脳の視床下部というところから、
強力なシグナルが発せられる。
このシグナルに応じて、ドーパミンという
ホルモンが分泌される。
このドーパミンが、線条体というところを
刺激する。
すると、「欲望」が、ググッと湧き起こってくる。

この欲望について、最終的には、大脳の前頭前野
がコントロールすることになるが、理性だけの
力でコントロールするのは、不可能と考えてよい。

よい例に、アルコール中毒やニコチン中毒がある。
過食症もそのひとつと言われている。

中身はちがうが、脳内で起こるメカニズムは同じ。

で、今夜その物欲の恐ろしさを経験した。
理性を超えた、物欲の恐ろしさ、である。
ということで、ハハハ、何を隠そう、
新しいパソコンを買ってしまった。
「買ってしまった」というくらい、まったくの衝動買い。

FAXの印字リボンを買いに行ったのだが、そこで、
「エイサー」のミニ・パソコンが目についた。
「ASPIRE ONE」。
思わず手にとってみた。
キーボードを軽く叩いてみた。
とたん、あの物欲。

ガガーンと脳みそを刺激した。
とたん、がまんできなくなった。

で、買ってしまった。

では、少し前に買った、HP社の2133は、どうなったか?
どちらも今、流行のミニ・パソコン。

が、HP社の2133は、英字式キーボード。
ワープロ中心に使う私にしてみれば、どこか使いにくい。

ということで、買ってしまった。
キーサイズは、やや狭いかなというところだが、私の指は、平均的な人より細い。
あとは「慣れ」の問題。

で、今、そのパソコンを使って、この文章を書いている。
デスクトップのようなわけにはいかないが、サクサクと文章が
打つことができる。
気持ちよい。

しかしそれにしても、物欲には、ものすごい力がある。
で、ワイフにこう言った。

「浮気性の男というのがいるだろ。そういう男は、『女性の肉体』
を見ると、あるいは想像すると、物欲と同じメカニズムが
脳内で働くのではないか。『欲しい』と思ったとたん、ブレーキが
きかなくなる。ぼくのばあいは、電気製品だが、電気製品で
ほんとうによかったね」と。

ワイフは「何、言っているの!」というような顔で、私を見つめ返したが、
無言のままだった。

言い忘れたが、HPの2133は、しばらく書斎のサブノートとして
使うことにする。
現在、書斎では、大型のデスクトップパソコンを2台使っているが、
XPパソコンのほうは、どうも調子がよくない。
ときどき、予期しないところで、フリーズしてしまう。
マザーボードに故障があると思われるが、よくわからない。

そのXPパソコンのかわりに、しばらく使う。
しかし2台は、いらない。
たぶん、そのあとは、息子たちのだれかに、払い下げることになる。
いつものことだが……。

(補記)

ほしいものを手に入れたとき、ほっとしたような安堵感を覚える。
心地よい満足感である。
この満足感を冷静に観察してみると、何かの試合で勝ったときに感ずる
満足感に似ている。
甘い陶酔感もともなっているから、きっと脳内で、モルヒネ系のホルモンが分泌
されているにちがいない。

この陶酔感が、新しい受容体を形成する。
あるいはそれまでにあった受容体を補強する。
そのため、こうした欲望には、反復性が生まれる。
ちょうどアルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見ただけで、酒を
飲みたくなるのと同じように、新しいパソコンを見ただけで、それが
ほしくなる。

今日、新しいパソコンを買ったからといって、ここで終わるわけではない。
しばらくすると、また新しいパソコンがほしくなる。
あとは、この繰り返し。

では、こうした受容体が「悪」かといえば、そうでもない。
サッカーボールを見ただけで、足がウズウズする人だっているはず。
欲望は、よい方向に導けば、その人を前向きに伸ばしていく。
スポーツ選手などが、そのよい例ということになる。
が、導き方が悪いと、多くのばあい、その人をかえって後退させてしまう。

欲望は、つねに両刃の剣であることを忘れてはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月30日(土曜日)

●山城新伍のこと(がんばれ、山城新伍!)

+++++++++++++++++

昨日、俳優の山城新伍のことを書いた。
若い人たちは知らないかもしれないが、団塊の世代につづく、つぎの世代の人たちの間で
は、絶大な人気があった。
『白馬童子』という名前を知らない人はいない。

実は私も、山城新伍のファン。
飾り気のない、あの毒舌が好きだった。
ちょっと、(あるいは、かなり)、スケベぽい俳優だったが、憎めなかった。

その山城新伍は、現在、特別養護老人ホームに入居しているという。
69歳という。
糖尿病の悪化で、体が不自由になったらしい。
「週刊B春」誌によれば、悪化し始めたのは、離婚問題がこじれた10年ほど前からとい
う。
逆算すると、現在の私の年齢ということになる。
だから、よけいに山城新伍のことが気になる。

どうしてだろう?
どうしてこうも、気になるのだろう?

山城新伍という俳優は、世俗的な見方をすれば、大成功者(?)ということになる。
収入にしても、私たち庶民とは、2桁はちがう。(……と思う。)
ああいう人たちは、私たちが1万円稼ぐような場面で、100万円単位のお金を稼ぐ。
交友関係も広い。
そういう大成功者でも、現在は、「昔のマネージャーと弟氏が、2か月に一度くらい面会に
来る程度」(同誌)という。
本人もリハビリをつづけているとはいうが、「治る見込みもない」「そっとしておいてほし
い」(同誌)とのこと。

ファンの1人としては、「がんばって復帰してほしい」ということになるが、同時に、「長
い間、ごくろうさん」という気持ちもある。

山城新伍とは比較にならないが、現在の山城新伍の姿は、10年後、あるいは20年後の
私自身の姿いうことになる。

その山城新伍のことを思い浮かべながら、「人生って、こういうものかなあ」と思う。
「こういうものであったいいのかなあ」とも思う。
言いかえると、「人生って、何なのか」とも。

あるいはこうは考えられないだろうか。

山城新伍の人生を、誕生のときと今のときを、一本の線でつなぐなら、その間の人生は幻
のようなもの、と。
ひょっとしたら、私たちは、この光と、分子の織り成す世界で、踊らされているだけかも
しれない。
もともと価値のないものを価値あるものと信じ、価値のあるものを、価値のないものと思
い込んでいる。
マスコミの世界では、とくにそうだ。

こうした世界を、「夢」と表現する人も多い。
日蓮もそう言ったし、織田信長も、そう言った。
実体があるようで、その実、実体がない。
「私」にしても、どこからどこまで私で、またどこから先が私でないかも、わからない。

が、意識そのものがズレているから、それにすら気づくこともない。
だからといって、山城新伍の人生が無駄だったとか、そういうことを
言っているのではない。
私たち自身もまた、程度の差こそあれ、山城新伍と同じことをしているということ。

山城新伍は、私よりもはるかにダイナミックな人生を歩んできた。
しかし老後を迎えた今、そこに待っていたのは、『恍惚の世界』だった。
有吉佐和子の言葉を借りるまでもなく、こんな皮肉なことがあるのだろうか。
「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何
のために生きたことになるのだろう」(有吉佐和子「恍惚の人」)と。

では、どうすればよいのか。
どうすれば「夢」を夢と気づき、どうすればその「夢」から自分を
解放することができるか。

それについては、私は、「ゴールのない旅のようなもの」と思っている。
老後はだれしも避けられないものであり、夢から自分を解放することはできない。
が、老後になっても、何かの希望をもち、その希望に向かって生きていくことができる。

ゴールできないからといって、あきらめてはいけない。
つねに旅をすることこそ、重要。
けっして立ち止まってはいけない。
死ぬまで、歩きつづける。

釈迦はそれを『精進』という言葉を使って説明した。
それは健康論に似ている。
究極の健康論などというものは、ない。
日々に努力をしてはじめて、健康というのは維持できる。
その努力をやめたとたん、健康は下り坂に向かう。

で、私自身は、『怪傑ハリマオ』や、『月光仮面』の世代である。
『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』、さらには『赤胴鈴之助』の世代である。
しかしその結果、今の私があるとしても、あの世界は、「夢」だったのかもしれない。

山城新伍にしても、そうだ。
『白馬童子』で世に出たが、その流れの中で、踊らされただけ。
むしろ現在の山城新伍のほうが、(本物)かもしれない。

週刊B春誌によれば、こうある。

「……こちらではどんな生活をされているのですか」という質問に対して、「週末なんかは、
みんなでパーティをやったりね。まあ、楽しいってことはないけれど、皆さんと明るく交
流はしていますよ。ここでは『山城新伍がいる』なんて言う人は、だれもおらんから。こ
こが終(つい)の棲家(すみか)ですよ」と。

山城新伍は、与えられた世界を受け入れ、その世界で、今、懸命に生きようとしている。
ひょっとしたら、山城新伍は、その世界で、本当の「私」を発見しつつあるのかもしれな
い。
山城新伍という俳優が、ますます好きになった。
芸能界に復帰したら、私はまっさきに、彼を応援する。

++++++++++++++++

(補記)
まとまりのない文章で、すみません。
私もこうした問題になると、どう考えたらよいのか、よくわかりません。
仮に70歳まで元気で生きたとしても、あるいは80歳まで元気で生きたとしても、その
先で待っているのは、『恍惚の世界』(有吉佐和子)。
できるだけ長く、元気で生きたいとは思ってはいますが、無益に10年、生きながらえた
として、それにどういう意味があるというのでしょうか。
20年でも、同じです。

遅かれ早かれ、どうせ老後はやってきます。

大切なのは、「長く生きる」ことではなく、「どう深く生きるか」ということなのですね。
あとはその目標に向かって生きるだけ。
がんばるだけ。
その先に何があるか、本当のところ、私にもわかりません。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●「何を言いたいのか、さっぱり、わかりません」

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先日、私のBLOG(Yブログ)に、こんなコメントが寄せられていた。
「あなたの書いている文を読んでも、意味がわかりません。何を言いたいのか、それもさ
っぱり、わかりません」と。

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文の感じからして、若い女性のコメントだと思う。
事実、そのとおりだから、反論の使用がない。

で、私はそのコメントを読んだあと、その女性がコメントをつけた自分の記事を読みなお
してみた。
時代は変わっても、それぞれの世代に人たちがすることは、似たようなものという内容の
ものだった。
たとえば流行についても、私たちは私たちの時代で、流行を追った。
今の若い人たちから見れば、かび臭い流行だったかもしれないが、それでも流行だった。
同じように、今の若い人たちが追いかけている流行にしても、つぎの世代の人たちは、同
じようにいつか、かび臭く思うだろう。
つまり中身はちがっても、やっていることは同じ。
時代ごとに、みな、それを繰り返しているだけ、と。

が、その人は、それについて、「理解できない」と。

私は何度も自分の書いた文章を読みなおしながら、「どこに問題があるのだろう」と考えた。
私は自分なりに、わかりやすく、読みやすい文章を考えて書いているつもりである。
しかしそう思っているのは、私だけ(?)。
このところ頭のサエも、鈍ってきた。
その分だけ、文章がまとまらなくなってきた。

言うまでもなく、文章というのは、人に読んでもらってはじめて、命を得る。
これを段階的にチャート化すると、こうなる。

(1)読んでもらう。
(2)理解してもらう。
(3)賛同してもらう。

読んでもらえるだけでも、感謝。
理解してもらえれば、うれしい。
賛同してもらうということは、ほとんど期待していない。

そこで私はこう決心した。
これからは、若い女性にももっと理解してもらえるような文章を書こう、と。
「理解できないのは、君たちのほうに原因がある」などという、高慢な気持ちはもっては
いけない。

では、どうすればよいのか。

私はこの文章もそうだが、こんなことに注意している。

(1)句読点をふやしている。(2)1文ずつ、改行している。(3)1文を、できるだけ
短くしている。(4)できるだけ漢字を使わないようにしている。(5)難解な言葉
を、使わないようにしている、などなど。

あとは、(6)具体的なエピソードを多くし、(7)読者の人に楽しんでもらえるようにし
ている。

読者の人あっての、文章である。
私はそのコメントを読んで、改めて、それを肝に銘じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●異変? 少なくなったスズメ!

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今年、私の家の庭にやってくるスズメの数が、
激減している。

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例年だと、数10羽単位の群れが、ときに2つ、3つ
とやってくるのだが、今年は、やってきても、5、6羽。
ときおりやってきて、あとは閑散としている。

夏前には、子連れのスズメもやってきたが、それでも
10組とか20組程度?

そのため与える餌の量も、ぐんと減った。
例年だと、近くの農協で、20キロ入りの飼料が、春先から夏までに
2、3袋、必要だった。
今年はまだ、1袋が、3分の1も残っている。

「どこかで、だれかが、スズメを殺している」と、私は思っている。
だれとは言わないが、スズメを害鳥と思っている人は多い。
とくに秋の米の収穫時にはそうだろう。

それはわかるが、その時期をのぞけば、スズメは、益鳥である。
農作物に害を与える害虫を、食べてくる。

これは私の邪推かもしれないが、もしどこかでスズメを殺して
いる人がいたら、どうかそういうことはやめてほしい。

そうでなくても野鳥の住む区域が、どんどんと狭くなっている!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●今日から10月号

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この原稿から、電子マガジン10月号用
ということになる。

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●擬似認知症

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今日、おもしろい実験をしてみた。
称して、「擬似認知症」。

記憶障害というのが、どういうものか
それが私にも、わかった。

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近所に、よくしゃべる女性がいる。
悪い人ではないが、話し始めると、止まらない。
その女性が、台所へおりていくと、そこにいた。
ワイフと楽しそうに会話をしていた。
お茶を飲みながら、少し離れたところに座った。

ほんとうはすぐ書斎へ戻りたかったが、その
女性に呼びとめられた。

そのときのこと。
はじめはその女性といくつか言葉を交わした。
が、そのあと私は目を閉じて、心の中で、歌を
歌い始めた。

「♪アメージング・グレイス」である。
50〜60%は歌えるが、あとは
懸命に思い出しながら歌った。
もちろん口は動かさなかった。

そのとき私はその女性が何を話しているか、
よく理解できた。
そのつど、「そうだな」とか、「なるほど」と
思った。

しかし、だ。
そのあと、おもしろい現象が起きた。

その女性はそのまま帰ったが、私は私が心の中で
歌を歌っていたとき、その女性がどんな話をしたか、
まったく、思い出せなかった。

私「あのね、ぼくね、あの人が話をしているとき、
ずっと心の中で、歌を歌っていたよ」
ワ「わかっていたわ。あなた足で、リズムをとっていたから」
私「それでね、そのときは、その女性がどんな話をしていたか
よくわかったはずなんだけど、どんな話をしたか、今、
まったく思い出せないんだよ」と。

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という3つの
プロセスを経て、脳の中に記憶として残る。
(記銘)というのは、「書き込み」のこと。
(保持)というのは、「保存する能力」のこと。
(想起)というのは、「思い出す能力」のこと。

たとえば私たちは乳幼児期の記憶について、思い出すことができない。
が、だからといって、記憶がないわけではない。
このばあい、(記銘)と(保持)はしているが、(想起)することはできないだけ。
つまり記憶はどこかに残っているのだが、それを記憶として取り出す
ことができない。

そこで今回の実験。
私はその女性が話をしている間、心の中で歌を歌っていた。
歌詞はうろ覚えだったから、懸命に思い出しながら、
それを歌っていた。

その女性の話は、私の脳には届いていた。
だからそのときは、その女性がどんな話をしているか、理解できた。
しかし私は歌を歌うことで、脳の中にその女性の話を刻まなかった。
脳の立場でいうなら、(記銘)が、阻害された。

だからその女性が帰ったあと、その女性がどんな話をしたか、
思い出せなかった。
この現象は、認知症の患者に起こる記憶障害とよく似ている(?)。

ワ「どんな話をしたのか、覚えていないの?」
私「思い出せない・・・」
ワ「あの人の叔父の話をしていたのよ。あの人の叔父がね、イタリアへ
行ってきたんだって」
私「そんな話をしていたの・・・」と。

そこで同じ実験を、今度は、ビデオを見ながらしてみた。
古いビデオを見ながら、私は、心の中で、歌を歌ってみた。
今度はよく知っている、「♪サウンド・オブ・サイレンス」にしてみた。

が、これはうまくいかなかった。
映画の字幕を読んでいたためだと思う。

つぎにワイフが何かを勝手に話し始めたときに、してみた。
夕食のあとのことだった。
私はまた心の中で、歌を歌ってみた。
「♪アメージング・グレイス」にしてみた。
そしてあの女性のときのように、目を閉じて、そうしてみた。

ワイフが何を話しているかは、理解できた。
そのときは、「そうだな」とか、「フ〜ン」とか、思った。
しかししばらくしてから、ワイフの話したことを思い出そうと
してみたときのこと。
私は何も覚えていないことを知った。

実験、成功!

こうして私は、認知症の擬似体験をすることができた。

(方法)
(1)目を閉じて、視覚的な情報を遮断すること。
(2)相手が話しているとき、心の中で歌を歌う。あまり歌詞を知らない歌がよい。

(応用)
(1)いやな相手と話をするときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。
(2)聞きたくない話を聞くときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。

・・・しかしこれはあくまでも実験。
実際、認知症か何かで記憶障害に悩んでいる人には、たいへん失礼な
実験かもしれない。
それはわかっている。
それにこんなことが日常的に起きている人には、たいへん深刻な
問題である。
それもわかっている。
しかしこういう実験をしてみることによって、記憶障害というのが
どういうものか、具体的に理解できる。
深刻さも理解できる。

なおこの実験のヒントをくれたのは、小学生の子どもだった。
その子どもがある日、こう教えてくれた。

「ぼくは、ママに叱られているときは、いつも心の中でポケモンの歌を
歌っている」と。
何でもそうしていると、母親に叱られても、気にならないのだそうだ。

不謹慎な応用かもしれないが、もしあなたの近くに口うるさい人が
いて、何か、小言を言い始めたら、この方法を応用してみるとよい。

記憶に残らないから、その分だけ、あとで気にしないですむ。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●北朝鮮の女スパイ

+++++++++++++++++++

このたび、北朝鮮の女スパイが、韓国で
逮捕された。
この日本にもたびたび、来ていたという。
与えられた任務のひとつは、脱北して
日本へ移り住んでいる人たちの住所と
名前を調べるというものだったという。
(韓国紙、報道)

+++++++++++++++++++

●とんでもない話!

もしこれが事実とするなら、とんでもない話である。
北朝鮮はその女スパイからの情報をもとに、北朝鮮から
逃げてきた人たちに対して、何かをするつもりだった。

中国へ逃げた人たちに対しては、拉致した上、北朝鮮へ連れ戻して
いたという事実もある。
その女スパイが関係した人たちだけでも、かなりの数になるという。

もしこんなことが実行されていたとしたら、(すでに実行された
かもしれないが)、日本は同じ過ちを繰り返すことに
なった。
日本人が北朝鮮の特殊部隊に拉致されたのは、日本政府にも責任がある。
かんたんに言えば、「日本政府がだらしないから、こういうことが起きた」。

そしてまた今度、こういう女スパイを摘発できなかったということは、
やはり、「日本政府がだらしないから」ということになる。

もちろん最大の悪は北朝鮮の金xxだが、彼の犯罪を許してしまった
日本政府にも、責任がある。
が、どうして日本政府は、こうまで甘いのか?
だらしないのか?

日本には日本の特殊な事情がある。
それはわかる。
しかし世界は、もっと別の基準で動いている。
緊張感そのものがちがう。

韓国筋の情報によると、その女スパイは、朝鮮S連の幹部とも
連絡を取りあっていたという。
(当の幹部は、「名前を使われただけ」と弁解しているが……。)
もしこれが事実なら、朝鮮S連そのものが、北朝鮮スパイ団の
中心的拠点ということになる。
(わかりきったことだが……。)

そういう団体が、堂々と日本国内で、北朝鮮から逃げてきた人たちを
拉致し、再び北朝鮮へ送り返そうとしていた。
順に考えていけば、そういうことになる。

こんなとんでもない話が、どこにある?
それにもう一言。
こんなとんでもないことに対して何もできない、だらしない国が
どこにある?

繰り返しになるが、拉致問題にしても、日本政府にも責任がある。
その責任を忘れてはいけない。

(補記)
この2〜3年はないが、それ以前は、こういう記事を書くと
必ずといってよいほど、ハングル文字で書かれた抗議文が
メールで届いた。
幸いなことに、私は、朝鮮語がほとんどわからない。
さらに最近では、韓国、北朝鮮からのメールは、すべてフィルターを
かけて処理している。

「この日本が安全で自由な国だ」と、もし、あなたが思っているとしたら、
それはとんでもないまちがいである。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争(08年8月29日版)
Japan vs. South Korea, Economic War
(Aug. 29th, 2008)

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反日も結構だが、現在の韓国に
とって、反日政策は、損になることは
あっても、得になることは何もない。

今、韓国経済は、危機的な状況にある。
まず朝鮮N報の記事を紹介する(8月29日)。

+++++++++++++++

韓国政府や金融機関、企業が外国の政府、金融機関、企業などに返さなければならない対
外債務は6月末現在で4197億6000万ドル(約45兆8000億円)。
これに対し、外国為替市場が注目しているのは1年以内に償還しなければならない流動対
外債務(短期対外債務と償還時期まで1年以内の長期対外債務の合計)になった。

流動対外債務は6月末現在で2223億2000万ドル(約24兆2600億円)に達し、3月末よ
りも61億9000万ドル(約6754億円)増えた。対外債務に占める流動対外債務の比率も
昨年末の75.8%から6月末には86.1%に上昇した。当面返さなければならない借金による
圧力が大きくなっている計算だ。

 対外債務が増加しているのに対し、政府が万一の際に対外債務償還に当てるための「実
弾」に当たる外貨準備高は年初来減少傾向だ。外貨準備高は3月末の2642億ドル(約28
兆8300億円)をピークに6月末に2581億ドル(約28兆1600億円)、7月末に2475億ド
ル(約27兆円)へと減少。8月末も2400億ドル(約26兆1800億円)をやや上回る水準
になるとみられる。
(以上、朝鮮N報、8月29日)。

数字が並ぶので、わかりやすく解説しよう。

あなたは小さな町工場の社長。
現在、あなたは、4200万円の借金をかかえている。

そのうち今年中に返さなければならない借金が、2200万円。
この額は、毎月約20万円ずつ、ふえている。

が、会社の資産、つまり家庭で言えば貯金は、現在、2400万円しかない。
去年(07年)には、2600万円あったので、200万円も減ったことになる。

今の状態で、2200万円の借金を返したら、残りは、たったの200万円という
ことになる。

仕事は、このところ赤字つづき。
しかも原油高で、支払い額もふえつづけている。
先月7月だけでも、107万円も、何かと出費がふえた。

そこであなたという社長は、二者択一問題に迫られている。

「既に危険水準に到達しており、為替安定か外貨準備高確保かという二者択一が必要だ」
(朝鮮N報)と。

会社の経営のため、貯金を切り崩して赤字を補うか、それとも、将来に備えて貯金を維持
するか。

つまり為替を安定させるために外貨を使うか、それとも外貨を確保するか、と。
しかし為替を安定させるとしても、その額は、残り、200億円分程度しかない。

以上が韓国の現状ということになるが、悲劇は重なる。

世界的に、とくにアメリカ系の銀行は、外資を引きあげる動きを見せている。
つまり「貸した金は返せ」と。

ところが、である。
つぎの数字を冷静に見てほしい。

第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

わかるかな? エッ、まだわからない?

国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。
国民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。
しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨーク! 
アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくは
その支店と考えてよい。

つまり韓国の銀行は、そのほとんどが外資銀行(=アメリカの銀行)ということ。
97年のデフォルトのあと、そうなった。

本家の本店で、外貨がショート(不足)すれば、当然、これらの銀行は、各国から外資を
まっさきに、引きあげる。
朝鮮N報も、こう書いている。

「米国の住宅景気低迷とそれに伴う金融不安は回復の兆しを見せていない。その上、メリ
ルリンチ、リーマン・ブラザーズなどウォール街の金融機関は住宅景気低迷で不良債権が
増え、全世界から資金を引き揚げている。万一の際に使える豊富な外貨準備がない状況で
外国資本が一気に還流すれば、韓国の外貨準備高は流動性危機に直面する可能性がある」
と。

私の知ったことではないが、アメリカの銀行は、甘くないぞ!

この日本も借金だらけ。
しかし日本が韓国とちがう点は、日本は外国からは金を借りていない。
いわば身内の借金ということになる。
わかりやすく言えば、親(=国)が、子(=国民)から借金している。
その国民が、1100兆円という莫大な金融資産を保有している。

一方韓国は、外国から借金をしている。
いわば街なかのサラ金からの借金ということになる。
しかも個人負債が、1世帯当たり、500万円に迫っている。

韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負債
は過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。
日本の人口で計算しなおすと、4倍の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3
倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えて
いるということになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万
ウォン(約38万円)に迫ることになる。

ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・4%増加。一方、同じ期間の国民所得は2・
2%の増加にとどまっているという。

危険度という点では、日本と韓国とでは、比較にならない。

なお今日、1ドル、1085ウォンにまで下落している。
外資の流出が止まらない状況と考えてよい。

なお韓国政府は、このところ立て続けに、大本営発表を繰りかえしている。
「韓国経済は安定している」という大本営発表である。
こうした大本営発表には、くれぐれも注意したほうがよい。
2008/08/29記


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