新規ページ014
はやし浩司のメインHP 電子マガジン総合INDEX
2007年 4月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●

マガジン2005−10


☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 4月 30日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●少人数校の問題

++++++++++++++++

少人数校を嫌う親たちは多い。
しかしどうして少人数校では、
いけないのか?

++++++++++++++++

 よく少人数校が問題になる。昨日、講演をしたT小学校のI校長も、それを話題にした。

 そのT小学校のI校長は、こう言った。「親は、よく少人数校を問題にします。中学にな
って、大規模な学校へ進学したときに、困ることはないのかとです。しかし、そういう問
題は、入学時のときだけです。子どもたちは、すぐ新しい環境になれます」と。

 この日本で、小規模校や大規模校が問題になること自体、おかしい。総じてみれば、日
本の学校は、どこも、大規模校。国際的な水準でみれば、そうなる。

 オーストラリアの学校と比較するのもヤボなことだが、オーストラリアには、「無線学校
(エアースクール)」というのもある。小学3年生ごろまでは、家庭で、無線で勉強する。
スクーリングも、週に1回程度。しかも集まって、10名前後。

 で、そういうところの子どもたちが、どこかおかしいかといえば、そういうことはない。
むしろ、人間関係が濃密で、その分だけ、人とのつながりを大切にする。私自身が、それ
を友人の家で、体験している。

 一方、すさまじいのが、東南アジアの国々の学校。昔、香港で、中学生らしき子どもた
ちがゾロゾロとビルの中へ入っていくのを見たことがある。日本の都会にあるような、ビ
ルである。

 「何ごとか?」と思って見ると、それが中学校だった。もちろん校庭など、ない。「どこ
にあるか?」と聞くと、「運動は、屋上でする」とのこと。

 そういう学校とくらべると、日本の学校は、恵まれている。

 ……というようなことを総合すると、私の結論は、ただ一つ。小規模校であるからとい
って、問題は、何もない。ただし、1クラス10人以下になると、子どもたちのもつエネ
ルギーが、消沈してしまうのではないか? 私の経験では、1クラス12〜15人。1人
の教師が、ほどよく把握できる。この人数だと、問題のある子どもの出現率も、だいたい
1クラス1人程度におさえられる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ギルフォードの立体知能モデル

++++++++++++++++

子どもの知能は、多方面から、
多角的に判断しなければならない。

ある一面だけを見て、一方的に
判断すると、子どもを見誤る
原因となる。

++++++++++++++++

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。
(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●自分の子どもの心を読む

 「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と言う親ほど、本当のところ、子ども
の心がわかっていない。

 反対に、「うちの子のことがよくわからない」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心
が、よくわかっている。

 心というのは、おとなであれ、子どもであれ、そんなに簡単にわかるものではない。「よ
く知っている」と言う親ほど、知ろうと、努力しない。だから、ますます子どもの心を見
失う。

 反対に、「よくわからない」と言う親ほど、子どもに謙虚になる。子どもの心に耳を傾け
る。だから子どもの心が、読める。

 まずいのは、親の判断だけで、子どもの心を決めつけてしまうこと。こうした決めつけ
が習慣化すると、子どもは自分の意思を自分で表現できなくなってしまう。もちろんその
時点で、親子の間に、深刻なキレツが入ることになる。

 子どもの心を見失う親の特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独断性

 子どもに対してというより、日常生活全般にわたって、独断性が強い。がんこで、人の
話を聞かない。他人に何か言われると、その何倍も、反論したりする。

(2)狭小性

 自分の世界が、小さい。限られた人たちと、限られた範囲でしか、交際しない。当然、
人の好き嫌いがはげしい。

(3)偏見性

 独得の価値観をもっていることが多い。「A高校の出身者には、いい人はいない」とか、
など。ものの考え方が、極端であったり、どこか偏屈であったりする。

(4)無学性

 人間の脳ミソというのは、常に刺激していかないと、刺激を止めたときから、退化し始
める。それは健康に似ている。運動をやめたときから、体の調子は、悪いほうに向かう。

 このタイプの人は、そういう意味での、刺激を嫌う。勉強しない。本も読まない。それ
以上に、考えない。知的な意味で、進歩がない。

(5)過干渉性

 子どもの価値観まで、親が決めてしまう。私が子どもに向かって、「楽しかった?」と聞
いても、親が、すぐその会話に割りこんでくる。「楽しかったでしょ。だったら、楽しかっ
たと言いなさい!」と。

(6)威圧性

 威圧的な育児姿勢は、百害あって一利なしと覚えておくとよい。悪玉親意識の強い人、
権威主義的傾向の強い人、親風を吹かす人、家父長意識の強い人は、その子どもに対する
育児姿勢が、どうしても威圧的になりやすい。 

そしてあとは、お決まりの言葉。「うちの子のことは、私は一番よく知っている」と。そ
して長い時間をかけて、親子の間に、大きなミゾをつくる。

 あなたも、もし、「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と思っているなら、本
当にそうか、一度だけ、自問してみるとよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感、あれこれ】

●浮気性

++++++++++++++

日々に進化するネットの世界。
ついていくだけで、やっと。
が、それだけではない。

ふと振りかえると、自分だけが
どんどんと取り残されていく。

今、発行している電子マガジンに
しても、すでに時代遅れ?

そんな感じがしてならない。

+++++++++++++++

 インターネットをしていると、つぎつぎと、新しいサービスが始まる。電子マガジンサ
ービスやネットタウンサービス、それに携帯電話HPサービスなど。これらは、古いほう
だが、それだけではない。今度は、F社から、「F・ネットワーク」というのが、始まった。

 いわゆる仲間づくりのためのサービスと考えると、わかりやすい。

 おもしろそうだったので、入会してみた。

 で、この世界、日進月歩というか、新しいサービスだけに、使いやすい。画面も見やす
い。それでついつい、「Fネットワーク」に、ハマってしまった!

 しかし我が身は、一つ。パソコンに向える時間にも、限りがある。そこで一つのサービ
スに熱中し始めると、別のサービスが、おろそかになる。

 こうしておろそかになったものに、チャットがある。今は、ほとんど、していない。つ
ぎに掲示板もおろそかになってきた。今は、かろうじて、電子マガジンを発行しているが、
会員数がふえない日がつづいたりすると、とたんに、やる気をなくす。

 仕事としてしていれば、そういうこともないのだろうが、もちろん仕事ではない。サー
ビスというより、ボランティア。ボランティアというより、脳ミソのジョギング。何とか、
1000号までは、つづけたい。

 こうして考えてみると、私は、かなりの浮気性である。一つのことに夢中になり、それ
が一巡すると、つぎのものへと興味の対象が、移動していく。

 ホームページにしても、今は、新しく、「はやし浩司の書斎」というのを、つくっている。
今は、それが楽しい。

 ただ、問題がないわけではない。

 それぞれのサービスを通して、それぞれの世界の人たちと知りあい(?)になる。それ
はそれで楽しいことだが、やがてどの人がどの人だったのか、わからなくなってしまう。
それにせっかく一つのサービスで知りあった人でも、そのサービスから遠ざかると、その
まま、疎遠になってしまう。

 人間関係が希薄になったというか、なりつつある。もともと顔を見たこともない人たち
だし、声も聞いたことがない人たちである。だから忘れるのも早い。とくにこのところ、
初老性のボケもあるのか、よけいに早く忘れる。数週間も間をおいたりすると、「そんな人、
いたかな?」(失礼!)と思ってしまう。

 こうしたインターネットがもつ欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。いろい
ろ考えるが、妙案が浮かばない。というのも、これは私だけの問題ではないからだ。相手
の人にとっても、立場は同じ。私は忘れたくなくても、相手の人は、私のことなど、すぐ
忘れる。

 そこで今は、こう割りきっている。

 相手の人も、私のことなど、すぐ忘れるだろう。だから、はじめから、何も期待しない、
と。考えてみれば、さみしい世界。ホント!

【補記】

 しかし、もう、電子マガジンの時代は、終わったのかもしれない。ある時期、つまりマ
ガジンの全盛期には、どのマガジンも、爆発的に、読者をふやすことができたという。が、
私がマガジンを発行したのは、その時期が過ぎて、下火になったころ。

 が、このところ、ますます下火になってきたのではないか?

 こうまでいろいろなサービスが出まわってくると、マガジンを出す意味が、どんどんと
薄れてくる。私自身も、ときどき、何かしらムダなことをしている気持ちに襲われる。

大きな流れとしては、発行者と読者との、相互コミュニケーション型のサービスの方に
人気が移りつつあるのではないか? またそういう方向に進んでいるのではないか? 
あくまでもそう思うだけだが……。

 「マガジン」という以上、もう少し、雑誌型のマガジンにしてもよいのではないか。読
み物あり、コラムあり、と。今のやり方は、どちらかというと、報告書を、読者のみなさ
んに、ただ一方的に送りつけているだけ。そんな感じがする。

 今日もまた、「これでいいのかなあ?」と疑問のまま、マガジンの発行予約を入れる。

 ……そうそう、もう一つ、問題点が浮かんできた。

 以前は、朝起きるとすぐに、パソコンにスイッチを入れ、ほとんどそのまま原稿を書き
始めることができた。

 しかし今は、あちこちのサイトをチェックしたり、あるいは書いた原稿を、あちこちの
サイトに転送したりする手間に、かなりの時間をとられるようになってしまった。実際に
は、朝起きてから、原稿を書き始めるまでに、何だかんだと、1時間ほど、時間がとられ
てしまう。

 これはかなりの時間のロスと考えてよい。

 そんなわけで、やはり、どこか一本に、活動の本拠地を、しぼらねばならない。浮気ば
かりしていると、それこそ、わけがわからなくなってしまう。

 そういうことで、1000号までは、電子マガジンに、精力を傾けることにした。改め
て、今、そう、自分に言ってきかせた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもや孫とのつきあい

+++++++++++++++++

孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

+++++++++++++++++

 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少
し脱線したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●コンフリクト(葛藤)

+++++++++++++++

人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

+++++++++++++++

 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●息子や娘の結婚

++++++++++++++++

息子や娘の結婚、さらには結婚式に
ついて、どのように考えたら、よいのか。

自分の息子たちのこともあり、このところ、
それについて、よく考える。

++++++++++++++++

 息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘
に、その相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立
感を覚える。

 これは、私だけの感覚か。

 最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかというこ
と。……ではないか?

 「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、
保守的になる。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。

 もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、
意味がない。

 そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取
り越し苦労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。

 で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生ま
れ育った環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。
が、何よりも気になるのは、(5)その相手の性格、である。

 おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よ
い。すなおな心であれば、さらによい。

 ……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、そ
れを求めてしまう。

 ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身に
つくものか? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎ
ると、いろいろな模様が、そこに現れるようになる。

 つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どう
せ結婚するなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。
映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズのように、である。


●結婚式(PART2)

 数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが届いている。

 「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性
からは、こんなものも……。

 「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。

 で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40
万円程度とのこと。それでも、豪華なほうだという。

 二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、
10万円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパー
ティに、10万円程度。計、総額で、30万円弱。

 もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。

++++++++++++++++++

●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。浜松市内の、あるホテルであげた。費用は、350万円
プラス150万円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、
それは基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、
ちがっていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。

 (オーストラリアでは、ニセ牧師を演じて、お金を取ると、逮捕されるそうだ。)

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今
に見る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいという
のなら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)

++++++++++++++++

【追記】

 結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見る
たびに、「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。

 昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネを
して、どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化
なのだろうか。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。

 アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、
結婚式のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、
ほとんどを準備する。

 すると、その女性(30歳)は、こう言った。

 「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメ
リカには、定着しないでしょうね」と。

 そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、
新婦の友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」
という意味が、ちがうのではないのか?

 いろいろ考えさせられる。

 ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなか
った。それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」
と聞いたら、「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。

 毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじる
ことなど、できただろうか。
 

Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●もう一人の私

+++++++++++++++

心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。

そうでない人を、そうでないという。

+++++++++++++++

 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こと
さら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってし
まう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこや
かに笑いながら、その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものでは
ないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウ
ナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいうところの人間関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリ
と笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、
とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すた
めに、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に
善人ぶって、自分を飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●幻惑からの脱出

++++++++++++++++

親子であるがゆえに生まれる、
強烈な関係。そしてそれが生まれる
束縛感。

これを心理学の世界では、「幻惑」という。
しかし実際には、そうでない親子も多い。

そうでないというのは、親子関係と
いっても、心理学の教科書どおりには
いかないケースも、あるということ。

++++++++++++++++
 
テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いてい
る。その少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所
も転々と、かえているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛
をともなう。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる
束縛感には、相当なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれし
も考えるところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こん
な例がある。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が
必要になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、
大企業のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを
待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費
を渡していた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」
というような会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、
遊びまわっていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車
まで買い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが
苦しむことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れな
い。もちろん親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子
であるため、絆(きずな)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、
人格否定、自己否定にまで進んでしまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこ
と、近所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に
出ることができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分
は人間として、失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところ
まで行くと、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、
この幻惑から、のがれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。こ
れからは、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないよう
な会話かもしれないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもある
ような、ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たち
のことは、ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるに
せよ、「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、
無数のというか、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、
行きつくところまで、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。
どこかで殺人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻
惑から逃れることはできない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いとい
うこと。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。
母親は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、
何も、親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。
本当は、あんな母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だ
なんてほめられると、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、
かなり深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦し
んでいるなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは
割り切って、つきあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同
じような幻惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そ
そのとき、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれ
ができないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」
と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」
と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。し
かしそれは、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻
惑から解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親
自身が、子どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、
ベタベタの親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それ
を強要してはいけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれ
ば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面
に作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かと
いうと、そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自
我群というものがどういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように
思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるの
ね。何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、
重圧感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものであ
る。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、
父親が、息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰っ
たのですが……」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前
は、人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたこと
で、心に大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そうい
うことをするな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばり
つける人が、よく用いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その
女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言います
よ。『また、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、
扱い方がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。
だから、適当に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう
人たちに抵抗しても、意味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるよ
うな問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子ど
もが、いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。
親孝行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。
家の心配? バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きてい
きなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことに
なる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の
愛というものではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。こ
のタイプの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、
それ。「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」と
か。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、
出してやった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労し
ている姿を、「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫
(その母親の長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当た
らなければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか…
…というようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私
という)親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になる
のを楽しみに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、
例外とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、
他山の石となる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというよ
り、家族の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともあ
る。「家族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。
息子がいますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」と
いうことか。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけな
い。親は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるという
ことは、それくらい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●離婚

 ワイフがこう言った。

 「女っていうのはね、離婚するときは、夫に体にちょっと触れられただけでも、気分が
悪くなるものよ」と。

 そこですかさず私が、ワイフの太ももに触ると、ワイフは、さっと、体をよけた。

私「ははあ、ぼくに触られるのが、いやなんだ?」
ワイフ「ちがうわよ。くすぐったいからよ」
私「ちがう、ちがう、今のはいやがっているみたいだった」
ワイフ「ちがうってば」と。

 私の立場は、きわめてあぶないようだ。明日あたり、離婚を申し出られるかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●人格の完成

+++++++++++++++++

人格の完成度は、どこをどう見て、
判断すべきなのか。

そのヒントとなるのが、「人格論」
である。

+++++++++++++++++

 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。

 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。

 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。

 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。

 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。

 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。

 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。

 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。

 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。

 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)

 3つ目に、社会性。
 
 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。

 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。

で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)

 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。

 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。

 がんばりましょう! がんばるしかない!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日から4月

++++++++++++++++

今日から、4月。
(電子マガジンでは、4月30日号。)

静岡市では、今日、何と、31度の
真夏日を記録したそうだ。

4月1日に、気温、31度!

ギョーッ!

これはエイプリルフールではなく、
本当の話。

++++++++++++++++

●4月6日に、アメリカ軍が、イランを攻撃?

 外電だが、4月6日に、アメリカ軍が、イランを攻撃する予定だという。すでにアメリ
カは、臨戦態勢に入ったとか。が、もしアメリカ軍がイランを攻撃するようなことにでも
なれば、日本も、大きな影響を受ける。そればかりか、アメリカ、イスラエルを片方に置
いた、中東大戦争へと発展する危険性すら、ある。

 イランの核兵器開発問題は、こじれにこじれ、もうにっちもさっちもいかないところま
できている。ドイツもフランスも、サジを投げた。ロシアも投げた。そこで危機感をいだ
いたイスラエルが、アメリカを動かした(?)。

 明日からの国際ニュースから、目が離せない


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 27日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page027.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【前号からのつづきです】

●日本

 このオーストラリアから見ると、日本が、小さな国に思えてくる。……思えてくるとい
うよりは、かつてそう思った自分を思い出す。そしてそれがそのまま、今の私の印象に変
わる。

 しかしやはり、小さな国だ。しかしその一方で、それが私の国。その国では、日本語が
通ずる。習慣も、風習も、私に体にしみこんでいる。

 そういう国を大切にしなければならないことは、当然のこと。もし日本語が消えてなく
なってしまったら、私が今まで書いてきたことは、すべて、そのままツユと消えてなくな
ってしまう。私が私でなくなってしまう

 何も愛国心なんて、ぎょうぎょうしいことを言わなくても、そんな(心)ならだれでも、
もっている。いざとなれば、私たちは、日本人として、すべきことをする。

●3月24日

 今日は、結婚式。一生の間で、かくも緊張する日は、そうはない。結婚する当事者にと
っても、また、その親たちにとっても。

 昨夜は、D君は、午後8時ごろ、床についた。私も、それを聞いて、そのあとすぐベッ
ドに横になった。睡眠薬を、4分の1錠ほどのんだ。2錠、のむことになっているが、2
錠ものんだら、気がヘンになってしまう。

 朝まで、ぐっすりと眠った。……というより、またまたあの屋根をたたきつけるような
雨で目がさめた。水不足で悩むオーストラリアにとっては、まさに恵みの雨。どれだけ多
くの人たちが、その音を待ち望んでいたことか。

 時計を見ると、午前4時。風呂タブに湯をはって、風呂に入る。

●部屋

 オーストラリア人の家は、どこも、大雑把(ざっぱ)。これについては、前にも書いた。
壁も厚く、床もしっかりとしているが、大雑把。日本でいうような、プレハブ工法の家は、
まだ少ないようだ。またそういう建て方には、なじまない。

 レンガ職人が、レンガを積み重ねて、家を建てる。そんな感じがする。

 で、掃除の仕方にもよるのだろうが、大きな家になると、どこも、ほこりまるけ。D君
の家も、奥さんが亡くなって、3か月になる。掃除らしい掃除は、していないらしい。

 それに加えると、間取りがメチャメチャ。日本でいうような「型」というものがない。
ただあえて言うなら、共通点としては、玄関を入ると、やや長い廊下があって、その両側
に、部屋がある。一番近い部屋が居間ということになる。その奥が台所にキッチン。さら
にその奥が寝室といったぐあいである。

 家の建て方は、イギリス流。しかしそこからが、問題。今朝も、髪をとかすクシをさが
すため、母屋(おもや)のほうへ行ってみたが、迷路の中に入ったような気分になった。
何度か来たことがある家とはいえ、右へ迷ったり、左へ迷ったり……。

●無理ができない

 自分では若いつもりでオーストラリアへ来たが、どうもそうではないようだ。

 何をしても、疲れが先に立つ。幸いにも、昨夜は、すぐ眠ることができたが、それとて、
簡単なことではない。加えて、風邪が抜けない。いまだに鼻水が出る。のどが痛い。

 観光旅行なんて、とても考えられない。ホテルに寝泊りしながら、その周辺を歩き回る
程度で、疲れてしまう。またそれでじゅうぶん。

 何かの目的があれば話は別だが、観光名所など、今の私には、ほとんど興味はない。

 このあたりでは、ヘアー・クリームは、理髪店で買うとか、子どもの遊び場(野外)に
は、コルクが敷き詰めてあるとか、そういったことのほうが、おもしろい。ふだんの、何
気ない生活の中にこそ、見所がある。

 それにしても、無理ができなくなった。よく50歳をすぎて、単身赴任で、外国へ行く
人がいる。が、健康管理の面だけでも、たいへんなことだと思う。それがよくわかった。

●やはりホテルのほうがよい

 せっかく招待してくれたので、それについてとやかく言うことはできない。しかし次回
からは、ホテルに泊まることにする。

 ホームステイだと、いろいろ気をつかう。バスタブにしても、使いっぱなしというわけ
にはいかない。きれいに洗い流したあと、タオルもきちんとかけておかねばならない。使
ったクシは、洗って、もとの位置に置かねばならない。……などなど。

 ベッドにしても、そうだ。こちらでは、日本でいう布団のようなものは、使わない。寒
いときは、毛布を重ねて使う。その毛布を、そのたびに、たたまなくてはいけない。

 そういった作業が、結構、たいへん。めんどう。

 今さら親交を深めるということも、あまりない。会うときは会う。またその範囲で、会
う。……そういう意味では、D君は、私のことを、学生時代のままの私に思っているよう
だ。

 往復の旅費だけで、20万円弱。それにおみやげだ、祝儀だとかで、結局は30万円近
い出費。ホームステイをして、数万円の宿泊費をケチって、それでどうなるというのか。

●一転、冬の冷気

 大陸の気候は、急激に変化する。しかもその変化の仕方が、はげしい。

 昔、サンパウロに行ったときのこと。朝は、寒いので、セーターが必要だった。が、昼
ごろになると、今度は一転、夏の陽気。一日の間でも、寒暖の差がはげしい。

 今が、そうだ。昨日は、「異常な暑さ」だった。しかし今朝は、冬のような冷気を感ずる。
これが大陸の気候の特徴。島国の日本では経験できない気候である。

 つまりその分だけ、彼らは彼らなりに、地球温暖化の問題について、敏感に反応する。
30年前には、世界一、気候が温暖なところとして知られていたメルボルン市だが、ここ
10〜20年で、大きく変化した。

 市内の議会前に立っている大理石の像にしてみ、酸性雨の影響らしく、見る影もなく、
ボロボロになっている。

 とても悲しいことだが、この地球は、確実に病み始めている。しかも急速な勢いで、病
み始めている。

●書くということ

 パソコンをあちこちにもって歩くのはたいへんなことだが、しかしそれさえあれば、こ
うして自由気ままに時間をつぶせるというのは、すばらしい。

 画家がスケッチをするようなものか。

 もし何もすることがなかったら、時間をどう過ごすか、それだけで、イライラしてしま
うはず。しかしパソコンに向かったとたん、指がキーボードを求めて、動き出す。とたん、
退屈を忘れる。

 今回は、古いパソコンだが、私が一番気に入っているのが、P社のLet's Note。
今回は、それをもってきた。キーボードの感触が、よい。ストロークは浅いが、その分、
疲れが少ない。

 で、こうして思いついたままを書く。ほとんど意味のない文章ばかりだが、頭の体操に
はなる。それに書いていると、それまで気がつかなかったことに、気がつくことが多い。

 ただD君は、本が好き。自分では、書かない。だからいつも本を読んでいる。一方、私
自身は、本は、あまり好きではない。興味のある本しか、読まない。

 これは、野球の中継を見て楽しむタイプの人と、自分でプレーをして楽しむタイプの人
のちがいではないか。

●早く日本へ帰りたい

 D君には悪いが、早く、日本へ帰りたい。そばにいると、空気みたいで、その存在価値
がわからないが、ワイフがそばにいるのと、そうでないのとでは、私自身の精神状態は大
きくちがう。

 私が見たいというよりは、私がワイフに見せたいものが、ここには、山のようにある。「見
せたいのに、見せられない」……というのは、たしかにストレスだ。波にたとえるなら、
さざ波のようなストレス。それがどこへ行っても、ザワザワと襲ってくる。

 次回は、必ず、ワイフを連れてくる。ワイフも、来たがっていた。

 昨日来たばかりなのに、今朝は、こう思う。「あと、1日のがまん」と。

●ネクタイ

 ネクタイには、最後まで迷ったが、結局は、正式の(?)、黒にした。D君が、茶色の縞
模様のを貸してくれたが、やはり、ここは正式の色でいこう。

 日本人は、礼に始まって、礼に終わる。……という言い方は好きではないが、せっかく
日本からもってきたことだし、「黒でも悪くない」というのなら、黒でよい。

 ところで、失敗談が、いくつかある。

 オーストラリア人の家庭では、多くは、土足でもよいということになっている。それは
それで結構なことだが、そのため、床が汚い。ドロとか、そういうもので汚れるというこ
とはないにしても、ハウスダストや髪の毛、その他、もろもろのホコリがたまっている。

 大きな家になると、掃除もままならないらしい。

 で、日本から、日本型の礼服をもってきたが、これが100%、ウール。下にそれを落
とすたびに、ドカッと、礼服にホコリがつく。そのたびにタオルで、拭くのだが、拭いた
だけでは落ちない。しばらくすると、ホコリが全体に広がっているのがわかる。

 そこで礼服を、壁にかけるのだが、オーストラリアでは、床よりも壁のほうが汚れてい
る。床掃除をする人はいても、壁掃除する人はいない。

 しかたないので、またまたドアのサンに礼服をかける。しかしそのたびに、下へ、ドサ
ッと落ちる。

 あああ……。

 こんな作業だけで、何十分も無駄にした。やはり、日本の家のほうが、好きだ。

●6か月ぶりの雨

 昨夜の雨は、6か月ぶりの雨だったそうだ。驚いた。「6か月!」と驚いていたら、「も
っとなるかもしれない」と。

 オーストラリアの水不足は、かなり深刻なものだったようだ。

 で、朝起きると、私は近所の写真を撮りにでかけた。オーストラリアでは、ごくふつう
の住宅地とみてよい。どの家にも、たくさんの木が植えられていた。しかし問題は、水。
きれいな庭木がある家の前には、たいていこんな標識が門のところにつけられている。

 「うちの庭木に与える水は、リサイクルしたものです」とか。

 そうでも書かないと、近所の人たちに、にらまれるのだろう。わかる、わかる、その気
持。

●標識

 道路を歩いていて、おかしな標識に出会った。カメのマークでもあるようで、カメでも
ない。その下には、時速20キロと書いてある。

 通りかかった人に、「あれは何のサインか」と聞くと、「先に、丘があるから」と言った。
しかし丘など、どこにも見えない。

 そこで「?」な顔をしていると、道路を指差した。そこには、道路を横切って、高さ、
10センチほどに、盛り土がしてある。つまり車が、スピードを落とすように、わざと盛
り土をしてあった。

 速い速度だと、車が、バンプしてしまう。「いいアイデア」と感心する。

●売り家

 道路を歩いてみて、売り家が意外と多いのには、驚いた。このあたりの人たちは、収入
に応じて、つまりヤドカニのように、家から家へと渡り歩く。もちろん、貧しくなれば、
貧しい家に移る。

 日本でいうような「家意識」というのは、まったく、ない。昔、福沢諭吉が留学先で、「ワ
シントンの子孫はどうしているか?」と聞いたときのこと。アメリカ政府の高官たちは、
みな「知らない」と言ったという。

 それを聞いて、福沢諭吉は、たいへん驚いたという。当時の日本の常識では、考えられ
ないことだった。

 一方、日本では、いまだに、「家」にこだわる人が多い。人は何かの(心のより所)がな
いと生きていけないのかもしれない。

 となると、オーストラリア人たちは、何を、(心のより所)として生きているのかという
ことになる。

 D君にしても、過去の話は、ほとんどしない。自分のキャリアを自慢することもない。
サバサバしている。

●6か国協議

 先ほど、インターネットで、日本の「朝日ニュース」を見た。どうやら6か国協議は、
休会に入ったようである。

 よかった!

 これで中国のメンツは、丸つぶれ。韓国も、援助をしにくくなるだろう。ロシアは、先
に抜けてしまったようである。ひとりガッカリしているのがヒルさんらしいが、そんなこ
とは、最初からわかっていたはず。

 金xxは、まともではない。たった28億円のことで、その数十倍もの援助をフイにし
ている。このあたりが、常人では理解できなところ。

 一方で、テロで脅しながら、「テロ国家指定を解除しろ」とは! しかもBDAで制裁解
除しても、ほかの銀行がそれに追従するとは限らない。「やっぱり、K国は信用できない」
となれば、ますます制裁の度合いを高めるだけ。

 わかっていないな?

●ワイフ

 今ごろワイフは、ひとりでさみしがっているだろうか。それとも、「鬼のいない間に……」
とか何とかで、羽を伸ばしているだろうか。

 私にはわからないが、私のほうは、早く、ワイフに会いたい。何を見ても、ワイフに見
せたい。そんな気持ばかりが先に立つ。

 まあ、たまには、離れ離れになるのもいいだろう。「ひょっとしたら、飛行機事故で死ぬ
かもしれない」とワイフに言うと、ワイフは、「生きて帰ってきてよ」と言った。

 うれしかった。

●結婚式

 結婚式は、市内近くの教会で行われた。それが午後2時半。

 それから私たちは、それぞれの車に分乗して、披露宴会場へと向かった。それが何と、
車で、1時間半もかかるところにある、遠くの会場!

 1時間半というが、オーストラリアでは、高速道路(フリ−ウェイ)を使っての1時間
半である。日本の感覚からすれば、2つも3つも離れた町で披露宴をするようなもの。こ
れはアメリカでも感じたが、こうした大陸では、距離感が、日本のそれとはまったくちが
うようだ。

 で、その会場というのが、中世の城を思わせるような古い建物。シェークスピアの劇が
そのままできるような建物だった。

 そういう建物が、まるで映画のセットのように並んでいる。オーストラリア人にとって
は、何でもない雰囲気かもしれないが、私は感動した。1時間半もかかってきたというの
に、それをすっかり忘れて、私は夢中で、デジカメのシャッターを切りつづけた。

●明かり

 披露宴会場は、薄暗かった。それぞれのテーブルに、ローソクが3本ずつ。あとは周囲
の壁に、4、5本ずつ。部屋を暗くして、さらに暗くしたような感じだった。

 私が周囲のオーストラリア人に、「暗くないか?」と聞くと、「暗いが……」という返事
がかえってきた。しかし一向に気にする気配はない。「このほうが、落ち着いて話ができる」
と。

 で、そのうち、欧米人と日本人のちがいの話になった。「私たちの目は、小さく細い」「君
たちは、北欧という、もともと太陽光線の少ないところで進化した」「だから薄暗いところ
でも平気なのだ」と。

 彼らは日中ともなると、みな、サングラスをかける。日本人とオーストラリア人とでは、
感ずるまぶしさに、ちがいがあるようだ。

●花婿

 花婿は、市内で証明器具を扱う会社を経営している。個人でしているという。こうした
ケースは、オーストラリアでは珍しくない。若い人たちは、どこかの会社に属することよ
りも、独立して何かの事業をおこすことを望む。

 国民性のちがいというよりは、教育の仕方のちがいによる。さらに言えば、もともとオ
ーストラリアという国は、開拓の時代から、そういう国だった。アメリカにも、西部開拓
史のような歴史があったが、オーストラリアにも、あった。

 そうした精神が、今でも力強く生きている。

 が、半面、弊害もある。オーストラリアでは、大きな組織が育たない。D君は、こう言
った。

 「オーストラリアのような国は、アイデア(知恵)で勝負するしかない。そのためにも、
個人の競争は欠かせない」と。

 しかし雨後の竹の子のように、新しい事業が生まれ、同じ数ほどの事業が、つぎつぎと
つぶれていく。これがオーストラリアの現状ではないか。

●ギリシア人街

 私がオーストラリアにはじめてきたころには、ギリシア人やイタリア人は、街の一角に
集団で住んでいた。どちらかというと貧しい人たちだった。

 それが今では、すっかりサマ変わりしていた。「ギリシア人たちはどこへ行ったのか?」
と聞くと、D君は、こう言った。「彼らは貧しいから、一生懸命に働いた。で、今では金持
ちになった。金持ちになって、それぞれが独立して暮らすようになった」と。

 皮肉なことに、今、オーストラリアでは、もとからいた白人、これをレイジー・オース
トラリア人というが、その白人が、相対的に、貧しくなりつつある。

 そのうち、中国系の移民や、インド系の移民、さらには韓国系の移民たちよりも、貧し
くなるかもしれない。

●インターナショナルハウス

 メルボルン(タラマリン)空港に向かう途中、D君が、インターナショナルハウスに寄
ってくれた。時間は、15分。

 私は車から飛び出すと、カメラを前にもち、あたりかまわず写真を撮り始めた。

 が、昔のようにだれでも入れるわけではない。玄関のガラス窓越しに、たまたま近くに
いた女性に声をかけると、玄関を開けてくれた。

 「1970年の学生です」とだけ、自己紹介した。学生かと思ったが、その女性は、な
まりのある英語で、「チューターだ」と言った。

 カレッジでは、学生と同時に、年長の講師が、チューターとして、いっしょに寝泊りす
ることになっている。その女性が、あちこちを案内してくれた。……といっても、案内は
必要なかった。

 ただおかしなことに、私はトイレがどこにあるかを忘れてしまった。毎日使っていたは
ずなのに……。近くにいた女子学生に、場所を聞くと、地下室にあることがわかった。

●夢が、現実に!

 あの時代は、私にとっては、今では、夢のようなもの。本当にあの時代があったのだろ
うかとときどき、思う。

 しかし決して、(夢)ではなかった。インターナショナルハウスは、ちゃんと、そこにあ
った。何もかも、そっくりそのままの形で、そこにあった。

 それは新鮮な驚きだった。体中が、時の流れを感じ、その流れが、サーッと心を洗って
いくかのように感じた。

 私は、37年前に、たしかにここにいた。そして今もここにいる。

 私はハウスで、ハウス・タイ(ハウスの紋章の入ったネクタイ)を買うつもりだったが、
あいにくの日曜日。事務所は閉まっていた。

 近くにいた学生が何人か、あれこれ骨折ってくれたが、事務員がいなかった。私はてい
ねいに礼を言うと、ハウスの外に出た。

●マルチカルチュアル

 オーストラリアは、多民族国家である。さまざまな人種が、たがいの領域を守りながら、
共存している。こんなことは、今さら説明すべきようなことでもない。

 で、改めて、民族とは何か、考えてみる。わかりやすく言えば、オーストラリアには、
オーストラリア人と言われるオーストラリア人は、いない。オーストラリアに住んで、オ
ーストラリア国籍を取った人が、オーストラリア人ということになる。

 それこそ先祖をたどれば、メチャメチャ。祖父はイギリス人で、祖母はウクライナ人。
父は、中国系の女性と結婚して……というようなことが、この世界では、珍しくない。

 こんな世界で、「私は、日本人」と主張しても、ほとんど、意味がない。「アジア人」と
言ったほうが、彼らには、わかりやすい。実際、私は、1970年当時、そう言っていた。

 繰りかえすが、こんな世界で、へたに武士道なるものを強調すれば、変人扱いされる。
どこまでも無色、透明になって、彼らの世界に溶けこむこと。こういう世界で、楽しく生
きていくためには、それしかない。

●披露宴

 話が前後するが、許してほしい。

 披露宴は、メルボルン市の郊外にあるレストランで行われた。ゆるい坂をのぼった山の
上に、それがあった。

 10〜15戸くらいの家やレストランが散在していた。どの家も、中世の城を思わせる
ような建物だった。

 しかしそこはさすが、オーストラリア人。1人の男性(60歳くらい)が、こう教えて
くれた。

 「ミスター林、あの壁を見てごらん。黒い石と、白い石が、まだらに積まれているだろ。
白い石は、どこかの家を解体してもってきた石なんだよ」と。

 つまり中世の城に似せてつくってはあるが、廃材を組み合わせて作った建物ということ
になる。しかし私を感動させるには、じゅうぶん。

●美しい女性

 美の基準が、西欧化してしまっている以上、これはどうにもし方のないことかもしれな
い。しかしその基準をさておいても、まるで絵から抜け出てきたような美しい人を、何人
か見かけた。

 その中の1人が、レストランでメイドをしていた女性である。

 年齢は20歳前後か? 金髪というよりは、銀色の髪の毛だった。肌は透きとおるよう
に白かった。「どうしてこんな美しい人がこんなところにいるのだろう」と、正直、そう思
った。

 美しさのレベルがちがう。彫りの深い顔。知性的な目つき。細く流れるように額を走る
まゆげ。見ているだけで、うっとりする。まるで絵の中から飛び出したような女性だった。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ

++++++++++++++++++++++

嵐のように過ぎた、10日間。忙しかった。
本当に忙しかった。

が、今日は、一段落。昨夜、やっと、9時間、
ぐっすりと休むことができた。

いろいろあった。たくさんあった。
ありすぎて、ここには、書ききれない。

しかし、原稿書き、再開!

これから1週間、思う存分、原稿を書く。
書ける。

バンザーイ!

++++++++++++++++++++++

●健康診断

 私の健康を心配した人もいるかもしれない。(キーボードを叩く、指が、どこかもどかし
い。しばらくパソコンから遠ざかっていたためだろう。)

 しかし安心してほしい。先週、市の医療センターから、検診結果が届いた。結果は、1
項目を除いて、オール(A)!

 その1項目というのは、「脂質」。総コレステロールが、前回は283mg/dl、今回
は、216mg/dl。200mg以内が健康値だそうだ。それで(B)。

 ついでに、HDL(善玉コレステロール)は、47mg/dl。
 中性脂肪は、114mg/dl。ともに正常範囲。

 心電図、肝機能検査、血液検査、尿検査、すべて異常なし!


●思いつくまま

 今朝(4月1日)は、起きてきて、まず新聞に目を通す。大きなニュースはない。が、
やはり気になるのは、6か国協議。

 4月14日までに、初期段階を、アメリカとK国がすますことになっている。が、どう
やら、それが事実上、不可能になりつつあるようだ。BDAにあるK国資産の移転を、中
国銀行が拒否しているためらしい。

 文句があるなら、K国は、直接BDAへでかけて行き、自分で預金を引き出せばよい。
しかしそれもできない。架空名義であったり、名義人がすでに死亡していたり、さらには、
同一人物が、別名でいくつもの口座をもっていたり……。

 あの国は、やることなすこと、すべてインチキ。デタラメ。

 韓国と中国は、かなりあせっているようだが、ここは、静観。日本がすべきことは、音
なしの構えで、様子をうかがうこと。もともと日本を蹴飛ばしてまで、合意にこぎつけた
(?)、6か国協議。日本は、無視すればよい。

 「どうぞ、ご勝手に!」。

 これでヒル国務次官補も、少しは、目が覚めたことだろう。このアジアで、日本をはず
して、何ができる?

●春休み

 今日から9日間の春休み。しかしこの10日間、本当に忙しかった。時間単位で、あち
こちを飛び回っていた感じ。新幹線に乗った回数だけでも、6回。その間に、日本とオー
ストラリアを往復。講演2本。それに息子の大学の卒業式。

 今のところ、大きな予定はない。F市の友人夫妻が、遊びにくることになっているが、
日時は、未定。

 ワイフのほうが、「好きなことをしよう」と、はしゃいでいる。肝心の私は、のんびりし
たいと思っている。ともかくも今日は、家で、のんびりしたい。疲れた……というより、
やっと一息ついた。

●畑

 ニンニクの茎が、ぐんぐんと太くなっている。ネギも芽を出してきた。インゲンは、ど
ういうわけか、種をまいてから、2週間以上になるというのに、いまだに芽を出していな
い。カイワレダイコンは、いっせいに芽を吹き出した。……などなど。

 このところ起きると一番に、畑へ行き、その様子を見る。どうということのない習慣だ
が、それが結構楽しい。

 今年は、畑を拡張するつもり。現在は、10坪程度の畑だが、できれば15坪くらいに
したい。この春休み中に、しよう。

●浜名湖一周

 近く、長男と、浜名湖を一周するつもり。楽しみ。数日前、ワイフが地図を買ってきて
くれた。が、改めて、それを見て、ゾーッ。

 思ったより、距離がありそう。だいじょうぶかな?

●熟年離婚・定年離婚

 昨夜、恐る恐る、ワイフに聞いた。「お前、ぼくと、離婚したいか?」と。

 するとワイフは、「何、言っているの?」「楽しいのは、これからでしょ」と。

 どうも、私は、ワイフの言うことが信じられない。本当は、離婚を考えているのかもし
れない。今、熟年離婚、定年離婚というのが、ふえている。

 ちなみに、今朝の中日新聞の特集記事を読むと、(夫の)定年後の生活について、妻たち
は……、

 楽しみにしている   ……11・5%
 どちらかといえば楽しみ……49・6%
 どちらかというと憂うつ……35・0%
 憂うつ         ……3・8%、だそうだ。
(04年、博報堂、エルダービジネス推進室調べ)
 
 「どちらかというと憂うつ」と「憂うつ」を加えると、約40%の妻が、「憂うつ」と答
えているという。

 「そういうものかなア」と思ってみたり、「これが現実だろうなア」と納得してみたり…
…。

 気をつけよう。つまり、世の夫たちよ、「夫である」という権威主義を捨て、妻へのサー
ビスを充実しようではないか。「おい、お茶!」「飯!」「風呂!」では、妻のほうが逃げて
いくということ。

 実のところ、私もあぶない(?)。

●ループ状態

 だれとは言わない。しかしボケていく人には、一定のパターンがあることがわかる。つ
まり思考が、ループ状態になる。

 つまり思考が、同じところをぐるぐると回り始める。言っている内容は、そのつどちが
う。が、よくよく考えてみると、「同じ」ということになる。

 進歩がない。発展性もない。同じ悩みにしても、そのつど、ターゲットが変わるだけ。「A
さんが悪い」と言い、そのAさんとの問題が片づくと、今度は、同じように、「Bさんが悪
い」と言い出す。

 あとは、この繰りかえし。

 もう少し整理してみると、こうなる。

(1)思考がループ状態になる。思考が堂々巡りして、先に進まない。
(2)思考のハバが狭くなる。こまかいことを気にする。針小棒大に考える。
(3)がんこになり、偏屈になる。「自分が絶対正しい」という妄想にとりつかれる。
(4)趣味や興味のハバがせまくなり、交友関係も貧弱になる。
(5)考えることを自ら、拒否するようになる。「本を読むと、頭が痛くなる」などと言
う。
(6)学習能力が低下し、音楽を聞いたり、映画を見たりということが少なくなる。

 これらは、いわば、ボケの初期症状ということになる。あとは時間をかけて、ゆっくり
と、本当にボケていく。

 では、それを防ぐためには、どうすればよいのか。

 私は、チャレンジ精神こそ大切だと思うが、この先は、もう少し考えてから、書いてみ
たい。

●時計

 昨日、書店で、時計を買った。定期的に発売になる、時計雑誌である。その雑誌のおま
けに、ホンモノの時計がついてくる。

 かなりの個数が、集まった。しかし昨日買ったのは、欠陥品。

 1時間で、何と、15〜20分も、進んでしまう。しかしこれではいくら、おもちゃで
も、使いものにならない。

 で、夜になって返品に行く。幸いにも、レジの人がこころよく応じてくれたので、よか
った。

 私は、子どものことから、時計が好き。こまかいメカを見ていると、それだけで、楽し
くなる。

●息子の卒業式

 息子の大学の卒業式が、無事、すんだ。卒業生は、15人。来賓が30人近く。父母が
40人近く。あとは在校生が15人程度。

 厳粛な、ひさびさに見る、よい卒業式だった。

 父母は、みな、正装。来賓も、みな、正装。胸に赤いリボンをつけられたときには、グ
グーッと熱いものが、こみあげてくるのを感じた。

 Eよ、おめでとう!

 しかしこれからはもう学生ではない。社会人として、自覚して、行動してほしい。軽率
なミスは、もう許されない。よく心して、先へ進んでほしい。

●OBのU君

 数日前、BWの卒業生のU君が、突然、BW教室へ寄ってくれた。今は、名古屋大学の
医学部に在籍しているという。今度、2年生になるという。

 幼児クラスのときから、小学6年生まで、BWへ来てくれた。そのとき父親の転勤で、
名古屋へ引っ越した。

 若いころは、教え子を、東大へ入れるのが私の夢だった。しかし当時は、いくらあせっ
ても、それができなかった。

 が、今は、ちがう。卒業生の消息を聞くと、「あいつは、東大で……」「あいつは、東京
理科で……」「阪大で……」という言葉が、簡単に返ってくる。みな、当たり前のように、
有名大学(こういう言い方は、好きではないが……)へ、スイスイと入っていく。

 (だからといって、どうということはないが……。大切なことは、それぞれが、自分の
夢を達成すること。)

 幼児期に、いかにその方向性をつくるか。改めて、その方向性の重要性を、実感する。


Hiroshi Hayashi+++++++++Mar 07+++++++++++はやし浩司

●オーストラリア・雑談

+++++++++++++++++

オーストラリアでは、今後、裸電球の
販売が、禁止されるという。かわって、
蛍光灯の使用が奨励されるという。

地球温暖化の防止対策のひとつだという。

+++++++++++++++++

 オーストラリアでの地球温暖化の影響には、かなり深刻なものがある。あのメルボルン
市にしても、私が行ったとき、たまたま、雨が降った。ものすごい大雨だった。6か月ぶ
りの大雨だったという(07年3月末)。

 かなりまとまった雨のようだったが、それでも足りない、とのこと。「こういう雨が1週
間は降ってくれないと、水不足は解消されない」と。私の友人のD君は、そう言った。

 帰りに飛行機から、南オーストラリア州を見たが、砂漠につづく砂漠で、川らしいもの
は、どこにも見えなかった。オーストラリアの干ばつは、きわめて深刻なようだ。

 で、今度、オーストラリアでは、裸電球の販売が禁止され、かわりに、蛍光灯の使用が
奨励されるようになったという。今すぐ、裸電球が、使えなくなるということではない。
しかし裸電球は、熱をもつ。熱をもつ分だけ、環境を破壊する。

 裸電球……と聞くと、私たちは、日本型のフィラメント方式の電球を思い浮かべる。し
かし現地で見ると、彼らがいう「裸電球」というのは、日本でいうハロゲンランプのこと
であることがわかる。(あるいはそれを報道したニュース機関の、翻訳のミスか?)

 小さなランプだが、強烈な光を発する。そういうランプが、どこの家でも、天井や壁に、
1〜2個つけてある。明るさとしては十分だが、その分だけ、電力を消費する……らしい。
そのランプの販売が禁止された。

 反対に、日本では、ハロゲンランプを使用している家は、少ない。私の家でも、防犯灯
の中に組みこまれている程度。小さなランプだが、見ると、200Wとか、300Wとか、
書いてある。

 日本でも、ハロゲンランプの使用は、控えるべき時期にきているように思う。


●タバコが1箱、1000円!

 オーストラリアでは、タバコは、すべて一律、1000円。1箱、1000円。しかも
パッケージの裏には、カラーの写真入で、恐ろしいことが書いてある。

 『喫煙は、肺気腫を起こす。
  肺気腫というのは、肺の中の気泡が少しずつダメージを受け、やがて呼吸困難を引き
起こす病気である。患者は、その病気を、生きる地獄と表現している。ほとんどすべての
肺気腫は、喫煙によってもたらされる。

 あなたも禁煙できる。131−848まで電話してほしい。あるいは医師に相談するか、
www.quitnow.info.auまで、連絡してほしい』と。

 このHPには、恐ろしい写真が、ズラリと並んでいる!

 日本でも、1箱1000円にすべきという意見がある。それに対して、「貧しい人が困る
から、かわいそう」という反対意見もある。

 しかし現に、1箱1000円(10ドル)にしている国がある。それでそれなりに効果
をあげている。日本も、そうしたところで、何も、おかしくない。1箱2000円でもよ
いのでは……?

 貧しい人たちが、タバコを吸って病気になり、さらに貧しくなる。「貧しい人が困るから」
という論理は、どこかおかしい?


●結婚・チン騒動

 オーストラリアでも、結婚式の当日、花嫁がどこかへ逃げてしまうという事件(?)が、
よくあるそうだ。知人が、パーティの席で、そんな話をしてくれた。

 「日本でも、ときどきそういう話を聞く」と私が言うと、みな、驚いていた。「日本では、
アレンジ・マリジ(見合い結婚)がふつうというから、そういうことはないと思っていた」
と。

 しかし、現実には、ある。

 私の知人の息子も、結婚式の当日、花嫁に逃げられてしまった。結婚式は、そのまま中
止。町の中に、マンションまで買って新婚生活に備えたというが、それが、ムダに終わっ
てしまったという。

 こういうケースのばあい、当然のことながら、慰謝料がからむ法律問題へと発展する。
しかしそれも酷というもの。逃げるほうだけを一方的に責めるのも、どうかと思う。しょ
せんわからないのが、男と女の関係。相思相愛で始まった恋愛でも、そのうち、熱が冷め
ることだって、ありえる。相手をだましたとか、だまさなかったとかいう話とは、わけが
ちがう。

 むしろ自分の心を偽って、ずるずると、意味のない結婚生活をつづけるほうが、罪とい
うもの。疑問に感じたら、たとえ結婚式当日でも、キャンセルすればよい。そのほうが、
ずっとわかりやすい。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 25日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page026.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【オーストラリア】

+++++++++++++++++

2007年3月22日(木)、
私は、オーストラリアへと旅立った。

友人のお譲さんの結婚式に
出席するためである。

その友人と会うのは、15年ぶりかな?
よくわからないが……。

+++++++++++++++++

●オーストラリアへ

 静かな朝だった。薄いモヤのかかった山々を、ぼんやりとした光が照らしていた。行く
筋にも延びる、低い雲。ひんやりとした冷気。3月22日。木曜日。私はこれから、オー
ストラリアのメルボルンへと向かう。

 ワイフと東名西インターで別れ、そのまま中部国際空港行きの高速バスに。窓の外の景
色を見ながら、考えるのは、37年前のこと。しかし頭の中は、まだ眠ったまま。ぼんや
りとした景色が、気ぜわしく、目の前を流れていく。

●記憶

 記憶というのは、タマネギのようなもの。中心に若いころの記憶が残っていて、そのあ
と、皮を重ねるように、記憶が重なっていく。新しい記憶ほど、外側を包む。

 が、歳をとると、今度は反対に、外側から記憶から、皮がはがれるように消えていく。
あるいはバケツの底にあいた穴のようなもの。新しい記憶が重なるたびに、それ以上の記
憶が、その穴からどこかへ漏れていく。

 そんなわけで、古い記憶だけが、そのまま残る。より鮮明に、記憶に残る。

●37年

 ちょうど37年前の今月、私は、オーストラリアへ渡った。当時は羽田から、シドニー
へ。そこから飛行機を乗り継いで、メルボルンへ。

 懸命に、そのとき覚えた感動を思い起こそうとする。が、どうもつかみどころがない。
そこにあるはずなのに、そのままスーッとどこかへ逃げてしまう。あのときは、夢と希望
に満ち溢れていた。すべてが金色に輝いていた。

 私は天にも昇るような気持で、飛行機に乗った。

●中部国際空港

 空港へは、2時間ほど前に着いた。ロビーは混雑していたが、手続きをすましたあとは、
一変した。中は、閑散としていた。国際線の出発ロビーは、左側。目の前には、コリアン・
エアーのジャンボジェットが、どこかくすんだ、水色の機体を、横たえていた。

 その向こうに、JAL機が数機。そんなとき、ふと、「国際って何だろう」と思った。「世
界」でもよい。この空港にも、世界中の飛行機が集まっている。まわりを通り過ぎる人た
ちも、それぞれの国の言葉を話している。

 37年前とは、大きく、事情が変わった。あのころの私は、外へ飛び出すこと。それし
か考えていなかった。「大学はどこにしたい」と聞かれたときも、一番、遠い、メルボルン
大学を選んだ。とにかく、遠くへ行きたかった。

●友人の娘

 あさって、友人の長女が結婚式をあげる。それに招待された。しかし本当は、友人の妻
の葬儀に参列するつもりだった。しかし航空券が取れなかった。友人の妻がなくなったの
は、12月の終わりだった。

 メールで何度かやりとりしているとき、友人が、3月に娘が結婚するという話をした。
それで3月にした。葬儀と結婚式。日本では、正反対に考えられている。こうした意識が、
オーストラリアでも同じかどうかは知らないが、私が行くことで、友人の悲しみが少しで
も和らげばよい。

 結婚式に出るのは、あくまでも口実? 

●メルボルン

 メルボルンは、私にとっては、とても大切な町だ。私の青春時代のすべてがそこにある。
私の人生は、あのメルボルンで始まった。

 で、先に書いたタマネギの話だが、タマネギにも、いろいろな大きさがある。大きなタ
マネギもあれば、小さなタマネギもある。もしあのころ、あのまま、大学を卒業して商社
マンか何かになっていたとしたら、私は、大きなタマネギを知らないまま、それなりの人
生を送っていたかもしれない。

 私はあるとき、友人に、こんな手紙を書いた。「ここでの1日は、金沢で学生だったころ
の1年のように長く感ずる」と。

 決して、オーバーなことを書いたのではない。本当にそう思ったから、そう書いた。

●飛行機恐怖症

 私は飛行機恐怖症である。飛行機に乗るたびに、おかしな緊張感にとらわれる。体がカ
チカチになる。一度、飛行機事故を経験してから、そうなった。

 それ以後もたびたび飛行機に乗ってはいるが、旅先で、不眠症になってしまう。そのた
め、海外へ行くときは、睡眠薬(睡眠導入剤)は欠かせない。

 その私が、また飛行機に乗った。いやな気分だ。このままだったら、偏頭痛が始まるか
もしれない。そんな雰囲気だった。私は、水を、1時間あたり、1リットルの割合で飲ん
だ。座席が通路側だったのが、よかった。そのつど、トイレへ足を運んだ。

 が、シンガポールのチャンギ空港に着くころからその偏頭痛が始まった。若いころは、
偏頭痛で苦しんだ。

 今は、よい薬がある。

 第一段階。まずB錠Aで痛みを抑える。それで聞かなければ、C剤。それでも効かなけ
れば、Z剤。1錠、500円(保険価格)という高価な薬である。

●チャンギ空港

 チャンギ空港(Singapore Changi Airport)は、大荒れの天
気だった。一度着陸に失敗したあと、飛行機は、空港上空を、30〜40分ほど、旋回し
た。ときどき、稲妻の閃光が走るのが見える。機体が大きく揺れる。

 隣の若い男女は、のんきにガイドブックを読んでいる。それがおかしいほどに、不釣合
いな様子に見えた。

 2、3度、積乱雲に入ったようなダウンバースト(急降下)を経験する。そのたびに、
飛行機は、パワー全開にして、また機首を上に向ける。この繰りかえし。息子がいつか言
った。

 「高度、x00メートルまでさがって、視程がx000メートル以下だったら、着陸は
許可されない」と。

 xの部分の数字は、忘れたが、こういうときのために、こまかいルールが設定されてい
る。

 が、ともかくも、飛行機は着陸した。私は飛行機を出ると、トランスファー(乗り継ぎ)
ルームへと向かった。

●死ぬこと

 飛行機が空港の上を旋回しているときのこと。私は、ふと、死ぬことを考えた。このあ
たりが、私の、かなりうつ的なところ。あるいは飛行機恐怖症のせいかもしれない?

 しかしどういうわけか、こわくなかった。死ぬ覚悟はできていた。「このまま死んでも、
構わない」とさえ思った。死ぬといっても、一瞬だ。脳みそに痛みが届く前に、私は気を
失い、そのまま死ぬ。

 ジタバタしても、しかたない。おかしなことだが、「私はじゅうぶん、人生を楽しんだ」
「これ以上、何を望むのか」と。そういう思いが、交互に頭の中をかけめぐり、死への恐
怖をやわらげる。

 人には、それぞれ運命というものがある。その運命のほとんどは、私が知らないところ
で、私の力の及ばないところで、決まる。死も、そのひとつ。死ぬときは、死ぬ。死なな
いときは、死なない。そんな運命を、だれが、避けることができるだろうか。

●チャンギ空港(2)

 トランスファー・ルームをあちこち歩いて、やっと、パソコンコーナーを見つけた。無
料のインターネット・コーナーはいくつかあったが、電源を用意したデスクは、一か所だ
けだった。運良く、ひとつだけ席があいていた。

 英語では、「Laptop Access」というらしい。そういう表示が、デスクの上
に書かれていた。ナルホド!

 隣の席の男性は、シンガポール英語を話す日本人だった。ときどき携帯電話で、だれか
と連絡を取りながら、パソコンのキーボードをたたいていた。

 キンキンと、語尾を短く切る英語。インド英語にも似ているが、かなりちがう。慣れな
いと、聞きづらい。

 先ほど、案内人に、「待ち時間が5時間もある」とこぼしたら、「シンガポール観光をし
てききたら」とすすめられた。「2時間でできるから」と。私は、礼だけは言ったが、「N
o」と答えた。

 この雨だ。それに軽い頭痛が残っていた。まずB錠Aを試してみる。それを口の中で、
かじりながらのむ。

●シンガポール

 シンガポールには、何人か友人がいる。学生時代からの友人である。しかし今回は、連
絡を取らなかった。オーストラリアの友人たちにも、連絡を取らなかった。

 葬儀のかわりに結婚式に出る私が、観光旅行など、できるわけがない。私がすべきこと
は、静かに、友人の指示に従うことだ。何もすることがなければ、静かに、家の中で、彼
の帰りを待つこと。

 しかしシンガポールが、ここまで発展するとは! 37年前に、だれが予想しただろう
か。大きさで言えば、名古屋の中部国際空港の2、3倍程度といった感じだろうか。アジ
アのハブ空港を自負するだけあった、さすがに大きい。デスクから見たところでは、滑走
路が平行して2本、走っているのがわかった。

 ハブ空港……。自転車のハブのほうに、世界中の飛行機が、ここに集まるようになって
いる。(それにしては、私が見ている間、それほど、頻繁に飛行機が離発着しているといっ
たふうでもなかったが……。)

 こんな小さな国が、韓国の数倍もの、貿易黒字をたたき出している(06年)。

●私の人生

 私の人生は、前にも書いたが、オーストラリア留学時代に始まった。それが、結局は、
その時代で終わる。少し前までは、「終わるような気がする」と書いたが、最近は、それが
確信に変わってきた。

 あの時代が、暗闇を照らす灯台のように、それからの私の人生を、照らしてくれた。方
向を示してくれた。今までも、何度か足を踏み外しそうになったことがある。が、あの時
代が、再び私をもとのコースにもどしてくれた。

 私は根っからの善人ではない。悪人でもないが、少なくとも、善人ではない。もし私に
あの時代がなかったとしたら、今の私は、大きく変わっていただろう。

 それに私は、歳とともに、ワイフのすばらしさが、よくわかるようになった。そんな私
を、ワイフが支えてくれた。私のワイフは、私の心を写すカガミのようなもの。私の美し
い面も、そして醜い面も、そのまま映しだしてくれる。

 私はそれを見て、自分を軌道修正することができた。

●日本人

 少し前、日本人のことを、「極東アジアの島国に住む原住民」と書いた。この言葉を聞い
て、ムッときた人もいるかもしれない。しかし世界から見れば、それに近い。

 先日も、ワイフが、「(浜松から)東京まで、飛行機で30分!」と驚いていたが、地図
で見ても、そんなもの。世界で見る世界は広いし、世界で見る日本は、小さい。これはど
うしようもない事実であって、さからいようがない。

 このシンガポールから見ても、日本は、はるか北にある島国でしかない。一方、シンガ
ポールは、インドネシアやインドとの交流も深い。東南アジアの中心部に、どっしりと自
分の位置を確保している。

 すでに経済の中心は、このアジアでは、日本の東京から、このシンガポールに移動して
いる。このことはアメリカに住んでみるとわかる。アジアのニュースは、日本のニュース
も含めて、このシンガポール経由で、アメリカに流れている。東京ではない。シンガポー
ル、だ。

●気温29度

 シンガポールの気温は、29度。空港の窓のガラスに手で触れてみたが、それほど、熱
気はなかった。雨で気温がさがったのか?

 若いときは、シンガポールの異国情緒に、たまらないほどのいとおしさを覚えた。W・サ
マーセット・モームの小説を読んだこともある。今、その名前を思い出せない。モームは、
このシンガポールにも、長期滞在している。

 そんなこともあって、ふと今、「もし、私がここに住んだら……」と考える。しかし空港
というところは、一見、華やかだが、その一方で、恐ろしく孤独を感じさせる。

 私という植物の(根)が切られてしまったかのような孤独感である。たとえばこんなと
ころで、日本の武士道を説いたら、どうなるのだろう。ニュージーランドのマオリ族がす
るダンスのように、思われるかもしれない。おもしろいが、それだけ。

●インド

 今度は、横にインド人の若いビジネスマンが座った。自信に満ちあふれ、マナーもよい。
これも37年前には考えられなかったことだ。

 インドの経済発展は、すさまじい。やがては中国以上の経済大国になるかもしれない。
もともとイギリスの植民地だったところだから、身のこなし方も、どこかイギリス風。彼
らは、「紳士」の見本を見て育っている。

 で、気になるのが、6か国協議。今ごろ北京では、その6か国協議が行われているはず。
あの金xxは、たったの28億円にこだわって、昨日は、会議そのものを、ボイコットし
てしまった。

 今ごろは、どうなっていることやら?

 だいたいにおいて、あの金xxが、核開発を断念するはずがない。核兵器は、まさに彼
の力のシンボル。本尊。核兵器あっての、K国である。今の今も、核兵器がなかったら、
だれがあんな国など相手にするか? 金xxも、それをよく知っている。

●英語

 英語というのは、不思議なものだ。私のばあい、外人の顔を見たとたん、頭の中が英語
モードになってしまう。

 よく地方の郷里に帰ると、その地方の方言で話すという人がいる。私も、若いころ、そ
れを経験した。しかし同じ日本語ということもあって、40〜50歳をすぎるころからは、
郷里の岐阜に帰っても、浜松弁を話すようになった。

 少し無理をすれば、岐阜弁を思い出すことはできる。が、最近では、違和感を覚えるこ
とのほうが多い。

 が、英語はちがう。一説によると、日本語は、左脳に格納されているという。一方、英
語は、右脳に格納されているという。使っている脳みそそのものが、ちがう。

 そう言えば、このところ、英語を日本語に翻訳するのが苦痛になってきた。これは右脳
と左脳をつなぐ、脳梁(のうりょう)の機能が衰えてきたためかもしれない。

 多分、友人のD君に会ったとたん、私の脳みそは、100%、英語モードになるはず。
言葉だけではない。ジェスチャも、発想も、そしてジョークも。

●心を許す

 このことと関係があるのかもしれないが、私は、日本語で話している間は、その人に対
して、心を開くことができない。

 しかし英語だと、心をそのまま開くことができる。たとえば違法駐車した人がいたとす
る。相手が日本人だと、こちらのほうが緊張してしまい、うまく、それを注意をすること
ができない。

 しかし相手が欧米人だったりすると、ごく自然な形で、つまり相手に不快感を与えない
ような言い方で、それを注意することができる。相手も、ニッコリ笑って、それに従って
くれる。

 これは私が留学時代、彼らの世界に、何も考えずに飛び込んでいったせいではないか。
私はすべてをさらけ出し、彼らの世界の中に、飛び込んでいった。もちろん自分が日本人
であることさえ忘れた。

 今、そういう意味で、私が心を開ける相手は、少ない。私のワイフのほか、数人の友人
でしかない。友人というのは、オーストラリア人である。

 彼らなら、言いたいことがそのまま言える。彼らも、言いたいことをそのまま、言う。
D君は、大学の教授職にありながら、私のことをいまだに、「Fuck and Blod
dy Bastard」(こんちくしょう)と呼んでいる。彼にしても、ほかの世界では、
めったに使わない言葉である。

●空港

 空港で見る世界は、まるで別世界だ。以前。アメリカのヒューストン空港で、こんなこ
とを感じたことがある。「ここはまるで、スターウォーズの世界だ」と。

 その空港よりはまだよい。しかしどの人も、それなりの服装で身を飾っている。ときど
き、ハッとするようなスタイルの女性を見たりする。「これが私と同じ人間か」と思うと同
時に、自分の姿を横に想像して、落胆する。

 しかし空港は空港。横にいる若いインド人にしても、ここで別れたら、二度と会うこと
はないだろう。午後8時の便で、インドへ帰るという。昨日まで、香港で、電子部品の商
談をまとめていたという。

 が、もし私が今、20代なら、すぐ名刺を交換して、何らかのビジネスに話をつなげた
かもしれない。が、今は、もうその元気はない。ないというより、これから先、何ができ
るというのか。

●携帯電話
 
 ところで隣のインド人のところに、電話がかかってきた。それでしばらく。携帯電話の
話になった。そのあと、そのインド人に聞いた話。

 日本のみなさん、驚くな!

 インド人がインドで、携帯電話を購入したとする。ごくふつうの、どこの店でも売って
いる携帯電話である。

 その携帯電話は、シンガポールでも、ごくふつうに使える。香港でも、台湾でも、オー
ストラリアでも、ごくふつうに使える。料金は、国際ルーミング・ファシリティという組
織を通して、カードで、支払うそうだ。

 プリペイド(先払い)ではなく、ポウストペイド(後払い)だ、そうだ。

 彼は、言った。「日本だけは、例外。日本だけでは、使えない」と。

 こうした事実を、いったい、どれほど多くの日本人が知っているか。日本は、島国だ。
いまだに鎖国している?

●ラウンジ

 空港内のラウンジで、生演奏が始まった。曲は、映画『南太平洋』から、『魅惑の宵』。
ここからバリ島までは、近い。バリ島へ行く人は、一度、このチャンギ空港を経由する。

 ロマンチックな曲だ。日本で聞くのと、どこかちがう。たまたま外は、夕暮れ時。ラン
プは、雨でしっとりと濡れている。

 三男は、やがてすぐ、こういう空港を職場にして働くようになる。世界中を飛び回るよ
うになる。3、4年もすれば、今の私のとは、まったくちがった国際感覚をもつようにな
るにちがいない。どんな感覚をもつようになるだろう。

 きっと私の知らない世界を、無数に見るにちがいない。(すでに、私の知らない世界を見
ているが……。)

 ときどき三男に会って、私の知らない世界のことを聞くのが、これからの私の楽しみの
ひとつになるだろう。

●明日はオーストラリア

 シンガポールからメルボルンまで、私は窓側の席にすわる。「〜〜A」という席である。
窓側でもよいが、水分の摂取は、ひかえめにしなければならない。だいじょうぶかな。

 朝、目がさめるころ、眼下には、真っ赤な大地が見えるはず。37年前には、それを見
て驚いた。本当の驚いた。

 その感激が、もう一度、よみがえってくればいい。私は、そのとき、こう思った。「この
下では、みな、英語を話している」と。

 そのときは、それがとても不思議な感じがした。

 さあ、これから簡単な食事をして、搭乗手続きをすまさねばならない。

 時刻は、午後7時20分。日本は、午後8時20分。あたりは、まだ何となく明るい。

●暗闇の世界

 飛行機は、現地時間で、午後9時に飛び立った。久々に、ジャンボジェットである。席
は、ほとんど最後尾の、窓側。

 最悪だった。狭い。窮屈。隣に、オーストラリア人の若いカップルが座った。イギリス
からの帰りだという。しばらく話が、はずむ。

 離陸後、窓の外をながめる。飛行機は、ジャワ島を横切って、まっすぐ下へ南下。うと
うとし始めたところで、夕食が始まった。狭い。窮屈。食事のトレイを置いたら、それで
ひざの上はいっぱい。

 私は、窓に顔をこすりつけて、眼下の景色や、空を見た。そこには、何もさえぎるもの
がない、満天の星空が、広がっていた。

●白人の世界

 白人の世界では、日本で言うような、ファジーな情というものが通じない。YESと言
えば、YES。NOと言えば、NO。白黒がはっきりしている。

 あいまいな言い方が、通じない。ときとして、日本人の私は、それに戸惑う。が、それ
に慣れれば、あとは、楽。そういう意味では、彼らは、彼らの言葉を借りるなら、インデ
ィペンデント(独立的)な民族である。

 日本人が農耕民族なら、彼らは、狩猟民族ということになる。農耕文化圏では、たがい
助けあわないと生きていかれない。一方、狩猟文化圏では、荒野の中で、ひとりで生きて
いかねばならない。

 となりの若いカップルと話していて、ふと、それを感じた。親切な人たちで、こちらが
質問すると、ケカケラと明るい笑顔を振りまきながら、あれこれ教えてくれる。が、しっ
かりと一線を引いている。

 もっとも白人といっても、いろいろな白人がいる。概して言えば、イギリス系は、ドラ
イ。ドイツ系は、イギリス系よりも、どこか日本的。

●一路、南下

 飛行機は、オーストラリア大陸を横断するかと思ったが、そのまま南下。これは、気流
にうまく乗るためではないか。あるいは、万が一のために、飛行場のあるところをつなぎ
ながら、飛ぶためではないか。

 よくわからないが、地図の上では、何かしら大回りしているような感じがした。

 で、そのころなると、満天の空が、さらに輝きを増した。地平線に、薄いモヤのような
ものがかかっているのさえ見えるが、その上は、まばたきもしない星の空。

 で、一度、南氷洋に出たあと、今度は、進路を、まっすぐ東に変えた。かなりの大回り
だが、しかし時速130〜50キロの追い風に乗ったらしい。対地速度は、950キロを
超えていた。やはり、気流に乗るために、大回りしたようだ。高度は、1万1200メー
トル。

●眠る?

 眠ったのか? それとも眠らなかったのか? よくわからない状態で、飛行機は、ビク
トリア州に入った。町ごとの明かりが、まるで島のようにところどころ見える。広大な国
である。

 まだ、暗くて、朝日に照らし出された真っ赤な大地は見えなかった。やっと朝日が見え
たところで、飛行機は、着陸態勢に入った。高度をさげた。とたん、メルボルンの町並み
が、見えてきた。まだ薄暗い早朝だというのに、無数の車が道路を走っていた。

 不思議と感動はなかった。もっと感動するかと思っていたが、それはなかった。静かな
朝だった。それ以上に、頭の中がぼんやりとしていた。

●メルボルン空港

 通関をすませ、荷物を受け取ると、そのまま廊下へ。ゆるいスロープのついた廊下だっ
た。この廊下だけは、この37年、変わっていなかった。

 空港全体は、大きくなっていたが……。

 大きな金属製のドアを抜けると、人垣の向こうに、D君が立っていた。細くなった。そ
の分、背が高くなったよう思う。それをさっそく話題にすると、「糖尿病になってしまった」
と教えてくれた。

●臭(にお)い

 それぞれの都市には、それぞれの臭いというものがある。それは飛行機を降りたったと
きだけわかる。昔、別のオーストラリア人の友人がこう言った。「羽田へ着いたとき、魚の
臭いがした」と。

 メルボルンには、メルボルンの臭いがある。鉄がさびた臭いと、皮の臭い。それに乾い
た土の臭い。とくに土の臭いは強烈だ。

 もっとも、この臭いは、半日もすると、消える。鼻のほうが、においに慣れてしまうた
め。

 「今年は水不足でたいへんだった」と、D君が言った。途中、アルバート湖という小さ
な湖があったが、「水位がかなりさがっている」とも。オーストラリアは、去年の終わりか
ら、干ばつに襲われている。

●D君の家

 D君の家は、メルボルン市の中心部から、車で30〜40分ほどのところにある。カー
ネギーという名前の地区である。

 そのカーネギー自体が、ひとつの商圏を作っている。アメリカや日本のように、郊外に、
巨大なショッピングセンターがあるというわけではないらしい。通りの商店街の通りには、
かなりの人たちが、歩いていた。

 私は、近くの電気ショップで、コンセントにつけるアダプターを買った。コンセントの
形状がちがうため、オーストラリアでパソコンを動かしたり、電池に充電するときは、必
要である。

 値段は、500円前後。こちらでは消費税は、10%ということらしい。あとは近くの
店で、お菓子類をたくさん買いこんだ。そのまま日本へのみやげにするつもり。

●落差

 この37年間、メルボルン市の中心部は、大きく変わった。しかし郊外は、そのままと
いったふう。そのせいか、37年前には、すばらしく立派に見えた家々が、今では、反対
に、みすぼらしく見える。

 相対的に、日本の家々が、よくなったためではないか。

 当時は、1ドルが、400円。今は、100円前後。一時は、50円以下になったこと
もある。37年前には、スウェーデンについで、世界で、2番目にリッチな国ということ
になっていた。

 が、今では、通りこそ広いが、日本の家々のほうが立派に見える。快適さという点でも、
日本の家々のほうが、よいのでは? どの家も大雑把(ざっぱ)。地震のない国だから、ど
んな作り方でも、建てられる。が、その分だけ、きめこまやかさがない。

 レンガを両側に積んで、木材を渡して、部屋をつくる。あとは屋根を作って……という
感じの家。

 「日本の家のほうがいいよオ〜」と思ったところで、この話は、おしまい。

●独立心

 オーストラリアでは、個人が、独立して仕事をするケースが多い。組織に属して、サラ
リーマンになるというよりは、自分でする。

 車で走っていると、それらしい車と何台か、すれちがった。「掃除屋」「電気修理屋」な
ど。

 車一台と、電話一本だけで仕事をしているらしい。あるいはインターネットだけ。日本
だったら、行政が介入してきて、「管理」「管理」となるところだが、オーストラリアには、
それがない。

●暑い秋

 D君が、「今日は暑い」と言った。「異常に暑い」と言った。昼をすぎるころには、シャ
ツ一枚でも、ジワジワと汗が体中からにじみ出てきた。

 日本が3月ということは、それに6か月を足したのが、メルボルンの季節ということに
なる。つまり、日本で考えれば、9月の23日。

 数年前だが、日本でも9月の終わりまで、30度近い気温だったから、今は、その反対
のことが、メルボルンでも起きているのかもしれない。

 しかし強い日差しだった。紫外線をそのまま感じるような日差しだった。私はあたり構
わず、写真を撮った。

●日本

 当然のことながら、ここオーストラリアでは、日本の情報は、ほとんど入ってこない。
念のためにD君に、「6か国協議はどうなった?」と聞いてみた。元国防省の役人だった彼
でさえ、「知らない」と言った。

 今、オーストラリアには、多くの韓国人が住んでいる。通りを歩いても、ハングル文字
の店が目立つ。このカーネギー地区では、日本食のレストラン(テイク・アウトの店)は、
1軒だけ。

 私も、ここ2日、日本にニュースは、まったく見ていない。あとで友人に頼んで、日本
のニュースを見せてもらうつもりではいる。が、このメルボルンから見るところでは、日
本も韓国も、同じ。

 日本人にとって、ノルウェイも、スウェーデンも同じ。それと同じに考えてよい。

●移住

 日本人だけの単独の移住は、たいへんむずかしい。当然のことながら、オーストラリア
も法治国家。生きていくことには、無数の法律が、からんでくる。それをひとつずつ理解
しながら生きていくのは、たいへん。だれかの手助けがないと、不可能。

 加えてここメルボルンでは、日本人だからという甘えは許されない。ベトナムやカンボ
ジアからの移民と、基本的には、同じ。「私は日本人」と威張っていられるのは、どこかで、
日本に(根)を張っている人だけ。日本の会社名を背負ったサラリーマンとか、領事館の
役人とか、そういう人たちだけ。

 病気になったら、どうする? どうなる? 老後を迎えたら、どうする? どうなる? 
……そんなことを考えていくと、先がどんどんと暗くなる。

 やはりするとしても、長期滞在型の移住のほうがよい。たとえば3か月とか、長くても
半年とか。移住までして、オーストラリアに住むことはない。

 仕事や生きがいがあれば、話は別だが、こんなところで、何もすることもなく、ただぼ
んやりと過ごしていても、意味はない。

 ……というのが、今の私の結論ということになる。つまり「移住は、やめよう」と。

●生活水準

 なにをもって、「高い」とか、「低い」とか言うのかわからないが、生活水準ということ
になれば、日本とオーストラリアは、それほど、ちがわない。ただ日本では、貧富の差と
いうか、(格差)が大きい。ここ10年、その(格差)がますます大きくなったように思う。

 一方、オーストラリアでは、その(格差)をあまり感じない。ある一定以上の収入にな
ると、突然、税率が高くなる。そういうこともあって、みな、中産階級? ざっと見ても、
そんな感じがする。

 そのことを、別の知人と話題にすると、その知人は、こう話してくれた。

 「オーストラリアでは、年収が6万ドルを超えると、所得税が、44%になる」と。

 そのためメチャメチャな金持ちもいない。しかしメチャメチャな貧乏人もいない。この
国は、ラッキーな国だ。資源が豊富だし、何といっても、国土が広い。同じ家にしても、
全体的に見ると、日本の2倍はある。そう、何もかも、2倍といった感じ。

●スコール

 ベッドに横になっていたら、突然、電車が走り抜けるような音がした。近くに、電車線
路がある。「電車かな?」と思ったが、そうではなかった。

 スコールだった。突然の大雨だった。

 すごい大雨! ゴーッと降りだしたか思うと、地面をたたきつけるかのような音。トタ
ン板でできている屋根が多いせいか、音もすごい。

 が、10〜20分ほどで、それが終わった。空は暗くなったままだが、先ほどまでの蒸
し暑さは、どこかへ消えた。

 なぜ、私がこうして家にひとりでいるか? ……D君は、娘さんと、明日の結婚式のリ
ハーサルにでかけている。私が留守番というわけ。

●プレゼント

 こうした習慣は、アメリカだけかと思っていたが、ここオーストラリアでも、花嫁、花
婿にあげるプレゼントがダブらないよう、あげるプレゼントを、デパートに代理登録して
おく制度がある。

(デパートで登録番号を言えば、その人にあげるプレゼントの一覧表が出てくるしくみ
になっている。一覧表は、インターネットでも検索できるようになっている。)

 たとえば電気ヒーターが2つあっても、しかたない。そこでAさんが、先に、電気ヒー
ターを買い、先に登録しておくと、つぎに電気ヒーターをあげたいと思っているBさんは、
リストを見ながら、別のものにする。

 日本ではお金をあげる習慣になっている。だったら、お金にすればよいと思うのだが…
…。言い忘れたが、ここオーストラリアでも、リセプション(披露宴)のとき、お金を渡
す習慣があるそうだ。

 金額は、100ドル前後。日本円で、1万円くらいか。

 なおプレゼントは、結婚式の前日に、花婿の夫のほうが受け取るのだそうだ。そしてそ
のプレゼントは、結婚式のあとの披露宴の席で、花嫁に渡されることになっている。プレ
ゼントは、純白の包装紙で包むのが慣わしだとか……。

●風邪気味

 どうも鼻水が抜けない。セキも出る。熱はないと思うが、その一歩手前で、グズグズし
ている感じ。こういうとき、外国に出ていると、何かと心細い。

 正直言って、早く、日本に帰りたい。ふと、「どうしてぼくがここにいるんだろう」と思
う。片道、22時間。メルボルンは、遠い。距離的には、日本とニューヨークほどではな
いか。地球儀上での、直線距離にしての、話だが……。

 で、近くのレストランで、今日はダイエットも忘れて、肉類の多いチャーハンを食べた。
あとは風邪薬をのんだ。

 横になったところで、またまたスコール。しかたないので、体を起こして、パソコンに
向かって、文章を書くことにした。

●大学生

 近くにモナーシュ大学の分校がある。その分校に通う学生たちを見る。みな、天下を取
ったような顔をして、食事をしたり、話しこんだりしている。

 私もかつてはそうだった。……と同時に、(時の流れ)を感ずる。私が学生のときには、
影も形もなかった連中である。そういう連中が、いつの間にか、この世に生まれ、私たち
を追いやり、そこにいる。

 「彼らはどこから来たのか?」と考えるのは、ヤボなこと。そういう私だって、どこか
ら来たのか、わからない。わからないまま、当時は、私なりに、結構、偉そうな顔をして
いた。

●D君の奥さん

 D君の奥さんが亡くなって、もう3か月になる。で、そのD君の家に来てみて、気がつ
いたこと。

 やはり(家)というのは、奥さんがいてはじめて、光る。台所にしても、まるで学生の
寮のように汚れ、乱雑になっていた。

 家具にしても、どれも、無造作にそこにあるだけといった感じ。で、私は、私のワイフ
がいなくなったときのことを考える。多分、私の家も、このD君の家以上に、荒れるにち
がいない。

 そのD君だが、もともと静かな男だった。しかし奥さんを亡くして、すっかり自信をな
くしているといったふう。声にもハリがない。自分の娘にさえ、どこか遠慮している。私
には、そんな感じがした。

 世の夫たちは、妻の前で威張っているかもしれないが、それは妻がいるからこそ、でき
ること。夫婦の価値は、それがなくなってはじめて、わかること(?)。

 ……ところで、スコールが去って、秋の虫たちが鳴き始めた。日本では聞いたことのな
い声である。いくつも鈴を、連続して鳴らしているかのような音。貝殻をすり合わせてい
るかのような音にも聞こえる。

 それからもうひとつ。このオーストラリアにも、日本で見るのとまったく同じドバトが
いるのには、驚いた。よく見てみたが、区別がつかない。それほど、よく似ている。

●照明器具

 電化製品の質の悪さには、驚く。近くの店の中をのぞいてみたが、どこかみな、粗悪品
といった感じ。

 このオーストラリアでも、液晶テレビを売っている。日本のP社製のもあったが、その
数倍の数ほど、韓国のL社製のものが並んでいた。見た感じでは、L社製のほうが美しい
画像を映していた。

 「本当にP社製かな?」と思った。ひょっとしたら、中国製のニセモノかもしれない。

 一方、韓国製って、意外にがんばっているといった感じ。

 で、その電気製品だが、全体的には、日本の10年前レベルといったところか? 家具
も大雑把(ざっぱ)。デリカシーを感じない。

 この部屋にも、小さな、裸電球が一個ついているが、それだけ。明るさはまあまあだが、
直接見ると、目が痛い。いわゆるハロゲンランプというのか。日本でいう、蛍光灯がほと
んどないのには、驚いた。

●アズ・ユー・ライク

 欧米では、客がくると、「好きにしなさい」というような、もてなし方をする。またそれ
が最高のもてなし方ということになっている。

 友人のD君は、離れの一軒家を貸してくれた。冷蔵庫も置いてくれた。キッチンもトイ
レも、そのまま使える。

 そういう(もてなし方)を知らないわけではないが、日本人の私には、どこかさみしい。
先ほども、自分でミネラル・ウォターを買ってきた。こういう部屋でひとりで飲んでいる
と、何となくさみしい。つまらない。

 あちこちを引き回されるよりはよいが……。

 ただ私のばあいも、オーストラリアから友人が来たようなときには、「好きにしなさい」
というようなもてなし方をする。相手が何かを望むまで、こちらからは口を出さない。相
手が何かを頼んできたら、それには、誠心誠意、応ずる。相手がやりたいようにさせる。

●老人介護

 オーストラリアでも、老人介護のことがよく話題になるそうだ。で、私が聞くと、D君
は、こう教えてくれた。

 みな、保険(インシュアランス)に入っているから、それで自分で自分の老後をみるこ
とになっている、と。

 「日本では、子どもがいるときは、親のめんどうをみるのが義務化されているが、そう
いうことはないのか?」と聞くと、きっぱりと、こう言った。「ない」と。

 オーストラリアでは、子どもだからといって、親のめんどうをみなければならないとい
うことは、ないようだ。

私「保険に入っていない人はどうするのか?」
D「国がめんどうをみてくれる。しかしサービスは限られたものになる」と。

●移民国家

 こうした移民国家に着てみると、民族とは何か、それがわからなくなる。日本にも、「武
士道こそ、日本民族が誇るべき、精神的基盤」と説く人がいる。

 気持はわからないわけではない。しかし国際的にみると、「士」の意味すら、よくわから
ない。中国では、「士」を、別の意味で考えている。もともと「士」という言葉は、中国か
らきた言葉だから、日本が勝手に、まげて使っていることになる。

 弁護士、会計士の「士」と考えたほうが、より中国語の「士」の意味に近いのではない
か。

 ともかくも、こんな国に来て、「私は日本人だ」といくらがんばっても意味はない。民族
意識というのは、そういうもの。いわんや、「大和民族のほうが、朝鮮民族よりすぐれてい
る」と叫べば、(その反対でもよいが……)、変人あつかいされるだけ。

 当のオーストラリア人たちには、そうした民族意識がない。

(次号へ、つづく)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================













☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 23日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page025.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●気うつ症の子ども

+++++++++++++++++

元気がない。
ハキがない。
もちろん目標も、目的もない。

そんな子どものことを思い出した。

+++++++++++++++++

 もうあれから五年になるだろうか。夏休みの間だけ、預かってほしいと頼まれたので、
私はその子ども(中二男子)を、一か月だけ教えた。そのときの記録が、ファイルの中か
ら出てきた。

A君の症状

●子どもらしいハツラツとしたハキがない。何かを問いかければ、ニンマリと笑ってそれ
に答えるが、どこか痛々しい。
●「何が心配だ」と聞くと、「テスト」と答える。頭の中は、テストのことばかりといっ
たふう。「がんばって、それでだめなら、いいじゃない」と言うと、「夏休みあけのテスト
で悪かったら、ガックリすると思う。そういう自分がこわい」と。
●「どんな夢を見るの?」と聞くと、「ときどき、こわい夢」と。そこで「どんな内容か
な?」と聞くと、「内容は覚えていない。でも、こわい夢」と。何度問いただしても、「こ
わい夢」というだけで、内容はわからなかった。
●「家では、だれがこわい人から?」と聞くと、「お父さん」と。「どうして?」と聞くと、
「テストの点が悪いと、しかられる」と。
●「今、一番、何をしたいのかな?」と聞くと、「写真を撮りたい」と。彼の趣味は、カ
メラをいじることだった。写真を撮るというよりも、毎日、自分のカメラをみがいていた。
カメラは、一五台くらいもっているとのこと。
●学習は、すべて受け身。私が「〜〜しよう」と声をかけないと、そのままじっと座って
いるだけといったふう。無気力。「最近、大声で笑ったことがあるか?」と聞くと、「あま
りない」と。
●「睡眠はどうかな?」と聞くと、「ときどき、朝の三時か四時ごろまで眠られないこと
がある」「朝早く、目が覚めてしまうことがある」と。
●「家の中で、一番、気が休まるところはどこかな?」と聞くと、「ふとんの中……」と。
「お母さんはこわくないの?」と聞くと、「お母さんもお父さんの仕事を手伝っているから、
家にいない」と。
●「食事はどう?」と聞くと、「このところあまり食べない」と。しかしA君は、ポッテ
リと太った肥満型タイプ。水泳部に属しているということだが、筋肉のしまりがない。「結
構、太っているんじゃないの? 何を食べているの?」と聞くと、「あまり食べていない」
と。この年齢の子どもは、もう少し身なりに神経をつかうものだが、髪の毛はボサボサ。
無精ひげはのび放題のびていた。強い口臭もあった。

A君の症状で一番気になったのは、ここにも書いたように、ハツラツさがなく、どこか
もの思いげに、暗く沈んでいたこと。ため息ばかりついて、私が指示しなければ、何も
自分ではしようとしなかったこと。一度は、本人が何かをするまで待っていたことがあ
るが、ほぼ三〇分間、何もしないでボーッと座ったままだった。

 こういうケースでも、私はドクターではないから、「診断」するということはできない。
夏休みが終わる少し前、迎えに来た母親に、「負担を軽くしてあげたほうがいいのでは……」
と言うと、母親は笑いながら、「今が、(受験勉強では)一番、大切な時期ですから、あの
子にはがんばってもらわないと」と言った。

 結局、子育てというのは、行き着くところまで行かないと、親は気づかない。たいてい
の親は、「うちの子に限って」「まさか……」「うちはだいじょうぶ」と思って、その場、そ
の場で無理をしてしまう。この無理が、子どもをやがて、奈落の底にたたき落としてしま
う。私は別れるとき、「この子は、もう勉強についてはあきらめたほうがよい。またそうす
ることがその子どものために最善」と思った。思ったが、結局は言えなかった。

 ……それから三年。久しぶりにその子どものうわさを聞いた。今は、私立高校(このあ
たりでも、公立高校よりもランクが下と言われるD高校)に通っているということだそう
だ。「元気かな?」と聞くと、彼をよく知っている高校生はこう言った。「うん、あいつは
元気だよ」と。私はほっとすると同時に、「そんなはずはない」と思った。何か大きな問題
をかかえているはず。しかしそれ以上は、聞かなかった。かえってこの時期、不登校でも
起こしてくれたほうが、あとあとの症状は軽くすむ。問題を先送りにすればするほど、症
状は重くなり、なおるのに長期化する。今、青年期に、精神的な問題を起こす子どもが、
ものすごくふえている。「ものすごく」としか書きようがないが、あなたの周辺にも、一人
や二人は必ずいるはず。私はそれを心配した。

(子どもの気うつ症)

●親の過負担、神経質な過関心、威圧的な過干渉、価値観の押しつけ、権威主義が、慢性
的につづくのが原因として起こる。
●気うつ症に先立って、神経症を起こすことが知られている。チック、吃音(どもり)、
夜尿、頻尿など。腹痛、頭痛もよく知られた症状である。
●症状としては、ノイローゼ、うつ病に準じて考えられている。

(1)気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、思考障害(頭が働かない、思考がまとまら
ない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(2)神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(3)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。
さらにその状態が進むと、
(4)ぼんやりとして事故を起こす(注意力欠陥障害)、
(5)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(6)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(7)同じようにささいなことで激怒したり、ぐすったりする(感情障害)、
(8)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(9)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こ
うした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。

要はその前兆をいかにとらえるかだが、これがむずかしい。多分、あなたも、「うちの子
はだいじょうぶ」「私はだいじょうぶ」と思っている。親というのは、そういうもので、
自分で失敗し、行きつくところまで行かないと、わからない。自分では気がつかない。
これは子育てが本来的にもつ、宿命のようなものと考えてよい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●笑い話

++++++++++++++++

あなたの子育てチェック!

++++++++++++++++

 ある日一人の男が、そのあたりでも有名な精神科医のところへやってきた。そしてこう
言った。
 
「ドクター、私は、夜もよく眠られません。人と顔を合わせるのも、おっくうになりまし
た。生きているのもつらいです。どうしたらいいでしょうか」と。

 するとその精神科医は、こう言った。「そういうときは、笑うことです。大声で笑うこと
です。そう言えば、遊園地に道化師ショーというのがありますから、あそこへ行ってみた
らどうでしょう。あそこには、おもしろい道化師がいます。みんな、腹をかかえて笑って
います。あなたもあそこへ行って、大声で笑ってみてはどうでしょうか」と。

 するとその男は、こう言った。「いえ、ドクター、それが私にはできないのです。私がそ
の道化師ですから……」と。

●私のばあい
 
 私にもこんな経験がある。浜松に住むようになって、近所のH内科医院にずっと世話に
なっているが、ある日、そのドクターに、こう相談した。

 「先生、最近、こまかいことが気になると、そればかりを考え、頭から離れないことが
あります。どうしてでしょう?」と。

 するとそのH医師は、あれこれ症状を並べ始めた。「夜、眠られないでしょう」「はい」「朝、
早く目が覚めることがあるでしょう」「はい」「気が滅入って、テレビや新聞を見るのもい
やになることがあるでしょう」「はい」と。

 私はさすがドクターだと感心した。よくもまあ、他人の症状がこうまで、正確にわかる
ものだと。そこで私はそのH医師にこう言った。「さすが、先生ですね。よく私の症状がわ
かりますね」と。するとそのドクターは、こう言った。「いえね、林さん、実は私もそうな
んですよ、ハハハ」と。

●自分のこと

 子育てをしていると、子どもの中に、自分の過去を見るときがある。「ある」というより、
その連続。そういうとき私はいつも、「自分もそうだったから……」と、ヘンに納得してし
まう。たとえば息子の一人が、金庫から、一〇万円単位のお金を盗み、それを使っていた
ことがある。そのときも、私は息子を叱りながらも、「ああ、私もそういうことをしたこと
がある」と思った。一〇万円という大金ではないが、私も子どものころ、五円とか、一〇
円とか、ときどき店の金庫から、お金を盗んで使ったことがある。

 こういう心の操作は、子育てをしていく上では、とても大切なことだ。ふつうは、「自分
はどうだったか」「自分ならできるか」「自分ならどうするだろうか」という視点で見る。
そうすると、それまでは見えていなかった子どもの心が見えてくる。

 最近でも、子ども(生徒)たちが、カード集めに夢中になっているのを見たときのこと。
私はふと、自分の子ども時代を思い出した。私が子どものころは、相撲取りのカードとか、
プロ野球の選手のカードを集めていた。岐阜のほうでは、パンコと呼んでいたが、メンコ
も人気があった。そういう記憶が心のどこかに残っているから、「くだらないから、やめろ」
とは、とても言えない。一応叱りながらも、心のどこかでそれを許す。

 実はこうした操作は、それができる親には、ごく自然にできるものだが、できない親に
はできない。とくに子ども時代、とくに悪いこともしなかったという親ほど、できない。
それだけ許容範囲が狭いということになる。さらに子ども時代、優等生だったという親ほ
ど、できない。そういう意味では、子ども時代に、男の子でいえば、わんぱくで、いろい
ろなサブカルチャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、親になると、よい親に
なる。

 私も、子ども時代、とくに小学六年生ごろまでは、目いっぱい、わんぱく少年で育った。
わがままで、傲慢で、自分勝手で、自己中心的な部分もあったが、それだけに、子どもの
世界を広く知っていた。当時、子どもの世界で流行した遊びは、すべて経験した。そうい
う私だから、今、わんぱくな男の子を見たりすると、正直言って、ほっとするような懐(な
つ)かしさを覚える。つい先日も、こんなことがあった。

 今、S君(小三)という子ども(生徒)が、私の教室に来ている。存在感のある子ども
で、ワーワーと騒いでばかりいる。その子どもが実に楽しい。ユーモアのセンスも抜群だ
し、感受性も強い。親はホトホト手を焼いているようだが、私はそうでない。その子ども
をからかったり、反対にからかわれていたりすると、そのままストレスがどこかへ吹っ飛
んでしまう。そんなある日、母親がやってきて、こう言った。

 「先生、すみません。うちの子はああいう子で、何かとたいへんでしょう」と。

 そこで私はこう言った。「いいえ、ぜんぜん。S君は、私の子ども時代、そっくりの少年
です。かえって教えやすいです」と。そう、私はそのS君の心が、まさに手に取るように
わかる。わかるから、教えやすい。

(補足)
 もちろん嫌いなタイプもある。ネチネチしたり、グズグズしたりするタイプ。いい子ぶ
るタイプ。つげ口をする子どもなど、卑怯(ひきょう)なことをするタイプ。とくに私は
つげ口が嫌い。私にあれこれつげ口をしてくる子どももいるが、そういうときは、「つげ口
をするのはもっと悪いこと。自分で相手に文句を言いなさい」とはねのけることにしてい
る。ホント。つげ口は、いやなもの!

【あなたのチェックテスト】

 あなたの子育て失敗危険度をチェックしてみよう。あなたの子ども時代は、どうであっ
たか。

(1)ずっと優等生で、勉強もよくでき、親にも、期待された。
(2)それなりの範囲の、できのよい友だちとだけいつも、つきあっていた。
(3)中学、高校、大学と、わりとスンナリと、進学した。
(4)結婚も、みなに祝福され、これといって問題なく、した。
(5)今の生活は、平均以上だと思うし、これといって問題はない。

 このテストで、三〜四個、当てはまるようであれば、それだけ子育ての許容範囲がせま
いとみる。あなたの子どもがその範囲に収まっていれば問題はないが、その範囲を超えた
とき、あなたはそうでない人より大きなショックを受ける。そしてそのショックが、家庭
騒動、さらには親子の間にキレツを入れる原因となる。くれぐれも、ご注意!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●暴論は疑う

++++++++++++++

子育ての世界には、暴論と
呼ばれるメチャメチャな
育児法がある。

そうした暴論には、みなさん、
くれぐれも、ご注意!

++++++++++++++

 少し前、子どもの不登校や情緒障害を、怒鳴り散らして「治す(?)」という指導者がい
た。テレビでも何度か紹介されたことがあるが、ただただ(?)クェスチョンマークだけ
が並ぶような指導法だった。

 ときとしてこういう暴論が、世間をにぎわす。少し前には、Tヨットスクールというの
があった。死者まで出す、めちゃめちゃな指導法だったが、当初は、マスコミにも取りあ
げられ、結構話題になった。
 
 私はずっと子育てや、育児論を最前線で見てきたが、結論はただひとつ。「暴論は疑う」
だ。

 子どもの心は、ときとしてガラス箱のように、デリケートでこわれやすい。そしてこわ
れた心は、こわれたガラス箱のように、簡単には、もとに戻らない。それこそ一年単位の
時間と努力が必要。それを数回、怒鳴っただけで治す(?)とは! 私もその指導者が書
いた本を、二冊買って読んだが、正直言って、「?」の本だった。一冊は、自分が高校生の
とき、父親の車を盗んで、無免許で乗り回したとか、そういう話が書いてあった。つまり
「そういう経験が、今、役にたっている」と。

 それ以上のことは私にはわからないので、反論のしようがないが、子育てには、近道も
抜け道もない。あるとすれば、あなたがそこにいて、子どもがそこにいるという事実。そ
の事実だけを冷静に見つめて、子育てをすればよい。仮に子どもに問題があったとしても、
「なおそう」とか、「なおしてやろう」とか、さらには、「なおさなければ」と思う必要は
ない。今ある事実を、あるがままに受け入れて、その中で、あなたとあなたの子どもの人
間関係をつくればよい。

 つぎの原稿は、こうした暴論について書いたもの。

+++++++++++++++++++++++

(暴論1)

スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷
に任せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そ
のきびしい兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中
心的で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主
張する評論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考え
るのは、あまりにも短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。
やり方をまちがえると、かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない!)その
欠陥のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。た
とえばこの日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、
「宿題がある」「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本
独特のおかしさは、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオ
ーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を
手伝うのが日課になっている。こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先
される。が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生
活は便利になったが、その分、子どものできる仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何
をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。
料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届
けてくれます」と。こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、こ
こからが問題だが、ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」こ
とができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ド
ラ娘になった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。そ
れはちょうど一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻し
たで、子どもはたいへんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気
づかねばならない。が、乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、
ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手と
いうもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよ
い。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその教育をし
たかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。

+++++++++++++++++++++++

(暴論2)

「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の評論家(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責
している場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対
して、その評論家が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもら
ったあと、だれに言葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者
は額から汗をタラタラと流すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその評論家の、そういう言い方は卑怯(ひきょう)だと思う。強い立場のものが、
一方的に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だ
とするなら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれ
ば一対一の人間関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れる
ときには切れる。切れないと思っているのは、親だけで、親はその幻想の上に安住してい
るだけ。そのため子どもの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻
に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか!」
と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親に
ついていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、親として当たり前のことで
はないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」と
いう言い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まっ
たく別のニュアンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれ
ながらにして対等の人間としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なも
のではない。親自身も、子育てをすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから
生まれる。人生そのものがうるおい豊かなものになる。

私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という
意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言
うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。
そういう気持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の
息子たちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても
終わりに近づくと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなって
くる。いわんや、「親孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私
は一向に構わない。「そんなヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそ
う教えている。この私自身が、その重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の評論家の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするよう
な嫌悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

++++++++++++++++++++++++

(暴論3)(少し前に掲載した原稿です)

子どもにはナイフを渡せ!

●墓では人骨を見せろ?

 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると
一冊の本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子ど
もにやる気を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでし
ょうか」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるた
めには、お墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかに
もこんなことが書いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?

 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよ
い。家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよ
い、など。本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、
「夫婦喧嘩は子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これに
はさすがの私も驚いた。

●子どもにはナイフをもたせろ?

 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよ
いかわからない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡
せ」と。「子どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。
そのあとしばらくしてから、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さす
がにこの評論家は自説をひっこめざるをえなかったのだろう。ナイフの話はやめてしまっ
た。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行され
た。その小冊子は今も私の手元にある。

●ゴーストライターの書いた本

 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論
家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する
姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気
持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉
強への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそうい
うスパイのような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は
家庭訪問のとき、必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その
家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出
した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴース
トライターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、
その先生専用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書
いているとのことだった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブッ
クは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、
出版界ではかなり話題になったことがある。

●タレント教授の出世術

 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それ
を学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿に
する。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプ
のゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持
ちこんだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような
言い方で、こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもい
いのですが……」と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積み
になっていた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)
本が、五〜六冊あった。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過
ぎた老人が書いたとは思われないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、
文体にしても、若々しさに満ちあふれていた。

●インチキと断言してもよい

 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、こ
の世界では常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価される
しくみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだ
け引用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そ
ういう慣習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書
き」に弱い、日本人自身にある。

●私の反論

 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また
見せたからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、
順に反論しておく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、
子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣
を通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかっ
たとき、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方
法をまちがえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなる
かもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。
こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!

 さらに子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこ
ととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくな
ったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら
まだしも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せた
からといって、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせ
ろと説いた評論家の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち

 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、
そういうとんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが
世間の風が吹くたびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもを
ゆがめる。

++++++++++++++++++++++

 こうした暴論がなぜ生まれるか。その背景には、独断と独善がある。だからといって、
私の意見が正論とは思わないが、私のばあい、すべての授業を公開することで、つまりい
つも親の視線と監視のもとに自分の教育を置くことで、そのつど軌道修正してきた。いま
だかって、非公開で授業をしたことはないし、参観を断ったことがない。これは教育を組
みたてるときには、たいへん重要なことだと思う。あえていうなら、世間的な常識の注入
ということになる。これがないと、教育者も評論家も、軌道を踏みはずすことになる。理
由は、簡単。英語でも、教師のことを、「子どもの王(King of Kids)」という。つまり
独裁者。世間的な常識の注入がないと、その独裁者になりやすい。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●相撲(すもう)

++++++++++++++

4年前だが、相撲について書いた
原稿が、これ。

今、読みかえしてみると、
「ますます、そうだ」と
思える点が多い。

++++++++++++++

 私は子どものころ、相撲が大好きだった。私だけではない。日本中が、大好きだった。
テレビで相撲の中継が始まると、みな、テレビの前に集まった。相撲は、まさに日本の国
技だった。

 しかしそれから五〇年。この模様は、すっかり変わった。今では、子どもでも、相撲を
見る子どもは、ほとんどいない。実のところ、私も、この三〇年、ほとんど見ていない。
何がどう変わったのかは知らないが、興味をなくした。

 そういう中、先日、横綱のT関が、引退した。そのニュースは、NHKの昼の定時ニュ
ースのトップで、報じられた(〇三年一月)。私は時計を見ていたが、そのニュースだけで
六分間! そしてそのあと、怒涛のように、T関のニュース、またニュース。NHKでも、
その夜、T関の特集を組んで報道していた。

 しかし、だ。たかが横綱が引退したくらいのことで、そんなに大騒ぎしなければならな
いのだろうか。常識で考えても、おかしい。「国技」ということはわかるが、それほどまで
に国技にこだわらなければならない理由など、どこにもない。たとえば今は、冬場所だが、
BS放送でも、午後一時前後から、夕方六時前後まで、実況中継している。毎日、五時間
である! NHKと日本相撲協会の関係は、きわめて深い。どう深いかは、また別のとこ
ろで書くとして、何ともうさん臭いものを感ずる。

で、その結果、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。ときどきマス
コミにも漏れ、そのつど話題になるが、そういうのはまさに氷山の一角? 数年前だが、
「金による八百長は、日常茶飯事」と暴露した、元力士もいた。

 私は何も、相撲の実況中継に反対しているのではない。しかし「程度」というものがあ
る。今、日本人の何%の人が、そういう実況中継を、午後一時から見たがっているのか、
一度調査してみたらよい。報道の世界にも、需要と供給のバランスというものがあるので
はないのか。相撲の実況中継に毎日五時間も取られる分だけ、ほかの報道がなおざりにな
る。少なくとも、まだ観客がほとんどいないうちから、中継を始めなければならない理由
など、ない。ちなみに昨年(〇二年一一月場所)の観客動員数は、六割前後※(1)(読売
新聞)。どの場所も空席ばかりが目立つ、さみしい状況となっている。

 相撲は残念ながら、スポーツではない。興行である。興行である以上、金儲けが目的。
金儲けが悪いと言っているのではない。金儲けなら金儲けでよいが、だったら、そこには
一線を引くべきではないのか。こうまで国やNHKが、相撲協会を助けなければならない
理由など、ない。また、助けてはいけない。反対にスポーツというなら、もう少しわかり
やすくしてはどうか。少なくとも柔道とか、剣道のように、だ。今のやり方は、税金の使
われ方という意味においても、公平さを欠いている。少なくとも、民主的ではない。

 ……こう書くと、「相撲こそ、日本の伝統文化だ」と反論する人がいる。型、型、型でが
んじがらめになった、あの相撲を、だ。ならば、私は反対に問題にしたい。なぜ、日本人
は、こうまで「型」にこだわるのか、と。型が文化であると思い込んでいる人すら、いる。
あるいは型を守ることが、伝統文化を守ることだと錯覚している人すら、いる。しかし型
は文化ではない。文化というのは、観念をいう。考え方をいう。たとえばベネディクトは、
『菊と刀』の中で、「キリスト教的欧米文化は、罪の文化である。日本の文化は、恥の文化
である」と書いている。そういうのを文化という。

 だからといって繰りかえすが、私は相撲を否定しているのではない。それを守りたいと
いう人がいて、それを守るという人がいるなら、それはそれでよいことだ。私のような人
間がとやかく言っても始まらない。相撲によく似ているが、私も学生時代、宝生(ほうし
ょう)クラブという、謡(うたい)のクラブに入っていた。京都の能舞台で、うなったこ
ともある。それはそれで結構楽しかったし、よい思い出になっている。

 ただ私が心配するのは、型にこだわるあまり、日本人は、どうしても生きザマがうしろ
向きになりやすいということ。ときには型が、ブレーキになることもある。何かにつけて
型を決めてから行動しようとする。そのため、その分、進歩が遅れてしまう。決しておお
げさなことを言っているのではない。あの堺屋太一氏も、「(日本の社会)は、厳しい新規
参入の制限、伝統的様式による規格化、独占の管理機構(日本相撲協会)という、市場原
理の働かない(相撲型社会である)」(講談社刊「大変な時代」)と書いている。堺屋氏は
相撲型社会を決して、ほめているのではない。「このままでは日本はダメになる」と警告し
ているのである。

教育の世界とて、例外ではない。たとえば文字の、トメ、ハネ、ハライがある。その上、
書き順まである。こういうものに子どもたちは神経をすり減らしているから、文字を書
いて考えたり、自分を表現したりすることが、どうしてもなおざりになってしまう。恐
らく世界でも、もっとも思考能力のない民族はといえば、私たち日本人ではないのか。
ロンドン大学の森嶋名誉教授も、そう書いている。「(日本の学生は)、自分で考え、判断
する訓練が、もっとも欠如している※(2)」と。

 相撲から文化論、さらには教育論にまで、話が飛躍してしまったが、NHKや日本相撲
協会が、必死になって、観客需要をつくろうとしても、それは無理というもの。なぜなら、
それを決めるのは、一部の指導者ではなく、私たち民衆だからである。いくら「相撲はお
もしろぞ」と私たちを扇動しようとしても、私たちが「おもしろくない」と思えば、それ
までのこと。その意識そのものが、まさに文化ということになる。

 冒頭にも書いたように、私も子どものころは、相撲が大好きだった。そういう私でも、
このところ相撲が低調ということについて、それほど悲しいという思いはない。理由のひ
とつとして、金まみれのスキャンダルがつづいたこと。今の今でも、ここにも書いたよう
に、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。そういう話を聞かされるた
びに、「結局は私たちは、だれかの金儲けのために利用されただけ」という思いにかられる。
つまり私のばあい、そういう思いが消えないかぎり、再び相撲が好きになることはないと
思う。
(03−1−25)

※(1)……〇二年一一月場所、観客動員数(読売新聞調べ)
    初日     ……6310人
    二日目〜六日目……5050人〜5850人
         (満席で8720人)

※(2)……ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教
え過ぎの教
育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考
え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本
当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と。

●伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得る
ものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。(三木清「哲学ノート」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●伝統論

+++++++++++++++

保守主義者たちは、「伝統」という
言葉を使って、自分たちを正当化する。

「伝統」という言葉を口にすれば、
それですべてが解決すると
信じている。

しかし果たして、それでよいのか。

+++++++++++++++

 伝統は、それ自体は、経験の集合である。先人たちの積み重ねてきた知恵や情報が、そ
の中には、ぎっしりとつまっている。

 しかしその伝統にしばられるのは、正しくない。伝統は、いつも、よりよい伝統によっ
て置き換えられなければならない。またそうであるなら、それ以前の伝統が否定されても、
何ら悲しむべきことではない。なぜなら、伝統そのものも、無数の取捨選択の結果でしか
ないからである。相撲を例にあげて考えてみよう。

 相撲はまさに日本の伝統的スポーツ。しかしその相撲は、ある日突然現れ、そして完成
したわけではない。今に見る相撲になるまでに、無数の人たちと、無数の試行錯誤が繰り
かえされた。しかしどこかで完成されたわけではない。今の今も、その試行錯誤の過程に
あるとみるのが正しい。だとするなら、過去にこだわるあまり、「完成した」とみるのは正
しくない。改良すべき点があるなら、どんどんと改良していったらよい。

 たとえば相撲では、けがをする人が絶えない。理由は、土俵が上に盛りあがっているか
らだ。だったらなぜ、土俵を地面と同じ高さにしないのか。あるいは、ころんでもけがを
しないように、同じ高さのワクを広げてもよい。またあのマワシにしても、どうしてそれ
がパンツではいけないのか。こういう意見はどこか極論に聞こえるかもしれないが、「過程」
というのは、そういう意味である。過去にこだわりすぎるあまり、試行錯誤する過程を否
定してはいけない。

 もちろん伝統を頭から否定してはいけない。それはいわば、無数の石で積みあげられた
塔のようなもの。こわすのは、だれにだってできる。それに簡単だ。大切なことは、こわ
すならこわすで、それに代わるもの、あるいはもっとすばらしいものを用意しなければな
らない。「相撲はつまらないからやめてしまえ」と言ってはいけない。私たちが考えるべき
ことは、「どうすれば、もっとおもしろくできるか」ということ。

 もっとも相撲のばあい、「伝統」という言葉を、逆手にとって利用している面がある。「伝
統だから守ろう」という立場ではなく、「伝統だから守るべき」、さらには、「伝統だから、
ありがたく思え」というふうにである。この傲慢(ごうまん)さは、いったい、どこから
くるのか。

私はその理由の一つとして、「興行」という名のもとの「金儲け」をあげる。つまり今の
相撲は、伝統を守ろうとか、守らないとかいうレベルの話ではなく、むしろ「伝統」と
いう言葉を利用して、金儲けの道具に使われている。よい例が、外人力士たちだ。彼ら
は日本の伝統を守るために、日本へやってきて、力士になったのではない。ボランティ
ア精神など、みじんもない。あくまでも、金儲けだ。わかりやすいと言えばわかりやす
いが、そのわかりやすい分だけ、そこに不純なものが、にじみ出てくる。その不純なも
のを、おおい隠すために、むしろ「伝統」という言葉が利用されている。

 だったら、なぜ、相撲を、もっと前向きにとらえないのか。柔道や空手のように、国際
的なスポーツにするという方法もある。少なくとも、組織まで、かたくなに守らねばなら
ないという理由はない。もっとも組織にメスを入れたら、その組織の中で安穏としていた
人には、大打撃になる。だから当然のことながら抵抗するだろう。つまりその抵抗の道具
として、ここでも「伝統」という言葉が利用されている。

 こうした例は、日本の中に、無数に残っている。相撲だけではない。伝統という言葉を
利用して、既得権を守る。排他的になる。独善的になる。そして改革をこばむ。三木清(哲
学者、1897−1945)は、それではいけないと言っている。彼はこう書いている。「伝
統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るもの
はまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ」(「哲学ノート」)と。つまり伝統と
いうのは、形を変え、また壊しうるものでなければならない、と。

 私たち日本人は、「伝統」という言葉にあまりにも、おびえすぎているのではないのか。
あるいは、子どものときから、ことあるごとに、そう洗脳されつづけてきた? あなたも
子どものころ、学校や近隣で、耳にタコができるほど、「伝統を守ろう」という言葉を聞か
されてきたと思う。そしてその結果、ちょうどどこかの宗教団体の信者が、本尊におびえ
るように、「伝統」という言葉におびえるようになってしまった? しかし何も恐れること
はない。もし今までの伝統より、すばらしいものを用意できるなら、その伝統にこだわる
必要はない。またこだわってはいけない。

 そこでここでの結論として、私はこう考える。

 伝統とは、それ自体が、伝統の種である。種であるから、心のどこかにまいてこそ、意
味がある。やがて実をつけることができる。決してその種を手の中で、握ったままにして
おいてはいけない。握ったままにすれば、腐るだけ。腐って滅びるだけ。
(03−1−25)


Hiroshi Hayashi+++++++++Mar 07+++++++++++はやし浩司

●自然教育

+++++++++++++++

自然教育は、どうあるべきか。
その前に、「自然」を、私たちは、
どう考えたらよいのか?

+++++++++++++++

 地球温暖化の問題は、年々、深刻さをましている。しかしこういう言い方は、ほかの国
の人たちには失礼かもしれないが、日本ほど、ラッキーな国はない。

 四方を海に囲まれ、しかも中央には、三〇〇〇メートル級の山々を連ねている。これか
ら先、地球温暖化の問題が起きてくるとしても、日本に被害がおよぶのは、最後の最後。
海面上昇にしても、また水不足にしても、当面は心配ない。が、油断してはいけない。そ
のひとつ。食料とエネルギーの確保。

 ……というようなことは、私が書いても意味がない。そこでここでは、もう一歩、先に
話を進める。

 いろいろ誤解があるようだが、世界の中でも、日本人ほど、自然に対して破壊的な民族
は、そうはいない。よく「日本人は自然を愛する民族だ」というが、これはウソ。日本に
緑が多いのは、たまたま放っておいても緑だけは育つという、恵まれた環境だからにほか
ならない。

 つぎに「自然を大切にしましょう」と、声高に叫ぶのは勝手だが、その「自然」がやさ
しいのは、ごく限られた国々でしかない。たとえばアラブの、つまり砂漠の国々へ行って、
「自然を大切に」などと言おうものなら、「お前、アホか!」と言われる。ほとんどの国で
は、自然というのは、人間が戦うべき「脅威」ということになっている。つまり、これら
の点でも、日本は、本当にラッキーな国である。

 しかしもともと日本人は、自然に対して、受け身の民族であった。が、その姿勢が大き
く変化したのは、戦後のことである。それについて書いたのが、つぎのエッセー。

+++++++++++++++++++++++

この私の自然論は、
少し難解なため
興味のある方だけ、
お読みください。

+++++++++++++++++++++++

自然論

 フランシス・ベーコン(1561−1626、イギリスの哲学者)は、「ノーヴェム・オ
ルガヌム」の中で、こう書いている。「まず、自然に従え。そして自然を征服せよ」と。こ
のベーコンの自然論の基本は、人間と自然を、相対した関係に置いているというところ、
つまり人間がその意識の中で、自然とは別の存在であると位置づけているところにある。

それまでのイギリスは、ある意味で自然に翻弄されつづけていたとも言える。つまりベ
ーコンは、人間の意識を自然から乖離(かいり)させることこそが、人間の意識の確立
と考えた※。この考えは、その後多くの自然科学者に支持され、そしてそれはその後さ
らに、イギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740年ごろから始まった産
業革命の原動力となっていった。

 一方、ドイツはまったく別の道を歩んだ。ベーコンの死後から約100年後に生まれた
ゲーテ(1749−1832)ですら、こう書き残している。「自然は絶えずわれわれと語
るが、その秘密を打ち明けはしない。われわれは常に自然に働きかけ、しかもそれを支配
する、何の力ももっていない」(「自然に関する断片」)と。さらにこうも言っている。「神
と自然から離れて行動することは困難であり、危険でもある。なぜなら、われわれは自然
をとおしてのみ、神を意識するからである」(「シュトラースヴェルグ時代の感想」)と。

ここでゲーテがいう「神」とは、まさに「自己の魂との対面」そのものと考えてよい。
つまり自己の魂と対面するにしても、自然から離れてはありえないと。こうしたイギリ
スとドイツの違いは、海洋民族と農耕民族の違いに求めることもできる。海洋民族にと
って自然は、常に脅威であり、農耕民族にとっては自然は、常に感嘆でしかない。海洋
民族にとっては自然は、常に戦うべき相手であり、農耕民族にとっては自然は、常に受
け入れるべき相手でしかない。が、問題は、イギリスでも、ドイツでもない。私たち日
本人はどうだったかということ。

 日本人は元来農耕民族である。ドイツと違う点があるとするなら、日本は徳川時代とい
う、世界の歴史の中でも類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治を体験したということ。その
ためその民族は、限りなく従順化された。日本人独特の隷属的な相互依存性はこうして説
明されるが、それに反してイギリス人は、人間と自然を分離し、人間が自然にアクティブ
に挑戦していくことを善とした。ドイツ人はしかし自然を受け入れ、やがてやってくる産
業革命の息吹をどこかで感じながらも、自然との同居をめざした。

ドイツ人が「自然主義」を口にするとき、それは、自然への畏敬の念を意味する。「自然
にあるすべてのものは法とともに行動する」「大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証
する」(「断片」)と書いたカント(1724−1804)に、その一例を見ることができ
る。一方、日本人は、自然を従うべき相手として、自らを自然の中に組み入れてしまっ
た。その考えを象徴するのが、長岡半太郎(1865−1950)である。物理学者の
彼ですら、こんな随筆を残している。「自然に人情は露ほども無い。之に抗するものは、
容赦なく蹴飛ばされる。之に順ふものは、恩恵に浴する」と。

日本人は自然の僕(しもべ)になることによって、自然をその中に受け入れるというき
わめてパッシブな方法を選んだ。が、この自然観は、戦後、アメリカ式の民主主義が導
入されると同時に、大きく変貌することになる。その象徴的なできごとが、田中角栄元
首相(1972年・自民党総裁に就任)の「日本列島改造論」(都市政策大綱、新全総、
国土庁の設置、さらには新全総総点検作業を含む)である。

 田中角栄氏の無鉄砲とも思える、短絡的な国家主義が、当時の日本に受け入れられたの
は、「展望」をなくした日本人の拝金思想があったことは、だれも疑いようがない。しかし
これは同時に、イギリスからアメリカを経て日本に導入されたベーコンイズムの始まりで
もあった。日本人は自らを自然と分離することによって、その改造論を正当化した。それ
はまさに欧米ではすでに禁句となりつつあった、ハーヴェィズム(「文明とは、要するに自
然に対する一連の勝利のことである」とハーヴェィ※2は説いた)の再来といってもよい。

日本人の自然破壊は、これまた世界の歴史でも類をみないほど、容赦ないものであった。
それはちょうどそれまでに鬱積していた不満が、一挙に爆発したかのようにみえる。だ
れもが競って、野や山を削ってそれをコンクリートのかたまりに変えた。たとえば埼玉
県のばあい、昭和三五年からの四〇年間だけでも、約二九万ヘクタールから、約二一万
ヘクタールへと、森林や農地の約三〇%が消失している※3。田中角栄氏が首相に就任
した1972年以来、さらにそれが加速された。(イギリスにおいても、ベーコンの時代
に深刻な森林の減少を経験している。)そこで台頭したのが、自然調和論であるが、この
調和論とて、ベーコンイズムの変形でしかない。基本的には、人間と自然を対照的な存
在としてとらえている点では、何ら変わりない。そこで私たちがめざすべきは、調和論
ではなく、ベーコンイズムの放棄である。そして人間を自然の一部として再認識するこ
とである。私が好きな一節にこんなのがある。ファーブルの「昆虫記」の中の文章であ
る。

「人間というものは、進歩に進歩を重ねたあげくの果てに、文明と名づけられるものの
行き過ぎによって自滅して、つぶれてしまう日がくるように思われる」と。

ファーブルはまさにベーコンイズムの限界、もっと言えばベーコン流の文明論の限界を
指摘したともいえる。言い換えると、ベーコンイズムの放棄は、結局は自然救済につな
がり、かつ人間救済につながる。人間は自然と調和するのではない。人間は自然と融和
する。そして融和することによってのみ、自らの存在を確立できる。自然であることの
不完全、自然であることの不便さ、自然であることの不都合を受け入れる。そして人間
自身もまた、自然の一部であることを認識する。たとえば野原に道を一本通すにしても、
そこに住む生きとし生きるすべての動植物の許可をもってする。そういう姿勢があって
こそ、人間は、この地球という大自然の中で生き延びることができる。
 
※……ベーコンは「知識は力である」という有名な言葉を残している。「ベーコンは、ル
ネッサンス以来、革新的な試行に哲学的根拠を与えた人物としても知られ、『自然科学
の主目的は、人生を豊かにすることにある』とし、その目標を『自然を制御し、操作す
ること』においた。この哲学が、自然科学のイメージを高め、将来における科学の応用、
さらには技術や工学の可能性を探求するための哲学的根拠となった」(金沢工業大学蔵
書目録解説より)。

※2……ウィリアム・ハーヴェイ(1578−1657)、医学会のコペルニクスとも言

われる人物。彼は「自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたも

のである」と説いた。

※3……埼玉県の「森林および農地」は、昭和35年に296・224ヘクタールであっ
たが、平成11年現在は、211・568ヘクタールになっている(「彩の国豊かな自然環
境づくり計画基礎調査解説書」平成九年度版)。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================




☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用).  mQQQm
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 20日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page024.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親の愛情不足?

++++++++++++++

ある講演会場で、1人の父親が、
こんな質問をしてきた。

++++++++++++++

Q:私がテレビを見ていると、四歳の娘がすぐひざの上にのってきます。どう対処したら
いいでしょうか。(父親、IセンターA保育園での講演後の質問より)

A:よく誤解されるが、親に愛情がないから、子どもが愛情不足の症状(欲求不満など)
を示すのではない。子ども側から、働きかけがあり、そのとき、親が拒否的な態度に出た
りすると、子どもは愛情不足の症状を示すようになる。もう少しわかりやすく説明すると、
こうなる。

 親子の愛情(たがいの愛着行動)は、相互的なものである。親は子どもに対して、愛着
行動を示す。たとえば子どもを抱きあげ、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするの
がそれ。一方、ここで重要なのは、子どもも、親に対して愛着行動を示すということ。

最近の研究では、生まれたばかりの新生児ですら、親に対して、愛着行動を働きかけて
いることがわかっている(イギリス、ボウルビー、ケンネル※)。親に微笑みかけたり、
手足をバタつかせたり、あるいは泣いて甘えたりするなど。

 この子どもからの愛着行動の働きかけがあったとき、親がそれを受け止めてやるかやら
ないかで、愛情不足かどうかが決まる。つまりこのとき、子どもの側から見て、それを親
に受けいれてもらえないとき、その時点で、子どもは「不満足感」を、欲求不満症状に変
える。このことは、つぎの点で重要な意味をもつ。

(愛情表現)

子どもを抱きながら、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするのは、ここにも書い
たように、親側から子どもへの愛着行動ということになる。しかしそのとき、子どもが
それを望んでいないとしたら、子ども側からみれば、それは迷惑な行為ということにな
る。親は、「子どもは喜んでいるハズ」「うれしがっているハズ」と考えてそうするが、
それは親の身勝手というもの。またそういうことをしたからといって、子どもが満足し
たり、深い親の愛を感ずるということにはならない。それがわからなければ、あなた自
身のことで考えてみればよい。

 もしあなたが妻で、今、部屋を掃除していたとする。そのとき夫がうしろからやってき
て、あなたにその気もないのに、あなたを抱き、「愛している、愛している」と、体中をさ
わり始めたとする。そのとき、あなたは夫に愛されていると感じ、それを喜ぶだろうか。
喜ぶ人もいるかもしれないが、しかし大半は、それを迷惑に思うに違いない。

 しかしあなたが反対に、体の中に燃えるものを感じ、それとなく夫の体に触れたとする。
そのときあなたの夫が、「うるさいな……」というような表情をして、あなたの体を払いの
けたとする。つまり夫に拒否されたとする。そのときあなたはどう感ずるだろうか。

 つまり子どもも同じで、子どもが愛情不足を感ずるのは、子ども側から何かの働きかけ
をし、それが親に拒否されたときである。言いかえると、子どもが何らかの形で、親に対
して愛着行動の働きかけがあったときこそ、親側の愛情表現の見せどころということにな
る。いくつかの例で考えてみる。

●子どもが親のひざの上に座ろうとするとき
●子どもが親に甘え、体をすりよせてくるとき
●子どもがぐずり、わけのわからないことを言って、ダダをこねるとき
●何か新しいことができるようになて、それを親に見せにきたようなとき

こうした働きかけは、必ずしも平和的なものばかりではない。中には、わざと親を困ら
せたり、あるいは攻撃的、暴力的な方法で表現する子どももいる。こういうときどのよ
うに対処したらよいかは、また別に考えるとして、基本的には、子どもの心を大切に受
け止めてあげること。つまり相談(冒頭)のケースでは、父親は、ある程度子どもが満
足するまで、そのままの姿勢を保つのがよい。

 というのも、こうしたケースでは、子どもが親のひざに抱かれたいと思うのは、あくま
でも症状とみる。もっと言えば、情緒を安定させるための、代償行為と考える。だからこ
の段階で、父親が、娘を拒否すれば、その時点で、子どもの情緒は一挙に不安定になる。
言いかえると、子どもはこうした代償行為(よく知られた例に、指しゃぶりなどがある)
を繰りかえすことで、自分の情緒を安定させようとする。もっと言えば、「なぜ抱かれてく
るか」という原因をさぐってみることこそ大切。その原因を放置したまま、症状だけを攻
撃しても意味はない。それはたとえて言うなら、肺炎で熱を出して苦しんでいる子どもに、
「熱をさます」という理由で、水をかけるようなもの。

(愛情は量ではなく質)

よく「私は子どもを愛せない」と悩む親がいる。しかし問題は、愛せないことではない。
問題は、子どもが親に対して何らかの愛着行動を働きかけてきたとき、それに答えるこ
とができるかどうかである。つまりその答え方ができれば、それでよし。しかしそれが
できないときに、問題が起きる。たとえば子どもが、母親の服のゾデを引っぱりながら、
「ママ〜」と甘えてきたとする。そのとき大切なのは、その瞬間だけでもよいから、子
どもの甘えを受け止めてあげること。そして子どもの側からみて、「絶対的な安心感」を
覚えられるような状態にすること。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という
意味。

 そういう意味では、愛情は、量の問題ではなく、質の問題である。ベタベタの愛情が、
好ましいわけではない。先にも書いたように、親側の一方的な愛情は、子どもにとっては、
迷惑ですらある。つまり愛情が多いからよいというのでも、また少ないから悪いというの
でもない。要は、子どもがそれで安心感を得られるかどうかである。その点だけ注意すれ
ば、「子どもを愛していない」ということに悩む必要はない。(愛していれば、それに越し
たことはないが……。)

 結論から言えば、子どもが親のひざのなかに入ってきて、甘えるしぐさを見せたら、子
どもがある程度満足するまで、抱いてあげる。子どもにとって、父親のひざは、まさにい
こいの場。体を休め、心をいやす場。それだけではない。親子の情愛も、それで深めるこ
とができる。また親の立場からしても、子どもの体のぬくもりを感ずることは、とても大
切なことである。こういう時期は、その渦中にいると、長く見えるが、終わってみると、
あっという間のできごと。あとあと人生の中で、光り輝くすばらしい瞬間となる。だから
そういう時期は、そういう時期として、子育てとは別に、大切にしたらよい。

※……母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これ
よく知られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」が
あることがわかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互
作用が、新生児の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情
緒的、精神的欠陥が現れるという。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ふつうこそ、最善

+++++++++++++++

ふつうこそ、最善。
ふつうの価値は、それをなくしたとき、
はじめて、知る。

賢い人は、それをなくす前に知る。
愚かな人は、なくしてから、知る。

+++++++++++++++

 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。
賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。

 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。
それまではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったこと
がある。そのため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと
歩いている人が信じられなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それ
までとは違って見えたことはない。

 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。で
きるなら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値が
わかる。平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の
中で光り輝くのは、平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。

 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、
つらい。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、そ
れは喜びに変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。

こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦
労も知らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に
入れておくとよい。

子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの
成長を望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と
望みながら、同時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその
子育てが終わると、とたんに、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れ
が、容赦なく、あなたを責め始める。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。そ
れは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよい。

 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく
過ごすことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、
何と味気なく、つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てが
ほぼ終わりかけたときに気づいた。

子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値があ
る。そのときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う
私も、偉そうなことは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさ
に愚かな人ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ては目標さがし

++++++++++++

子育てをしながら、常に、
親は、目標をさがす。

子育ては、まさに目標さがし。

++++++++++++

「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはな
い。そのときどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態
で、どうして子育てができるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを
聞いて、言いようのない不安にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、
と。

 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心
の地図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広け
れば広いほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。

 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に
対して、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受
けた子育てが最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そし
て自分だけの子ども観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと

そういう点では、「私の子どものことは私が一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、
正しい」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。この世界には、そういうジンクス
(=悪い縁起)がある。つまり心の地図を広くするためには、謙虚であればあるほど、
よい。

 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒ
ントとして、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立さ
せることこそ、まさに子育ての目標である、と。

 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよ
き家庭人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリア
でも、カナダでも、ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、
私が直接、確認した。フランス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導する
のですか?」と聞いたときのこと。「そんなのは、常識です」と。

 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。
歴史は歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代
の圧制暴君たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、
殺されたことか! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖
政治の時代だった。それを忘れてはならない。

 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会
から、能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そ
して出世主義社会から、家族主義社会へ。

 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。
そしてその地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」という
ことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●限界を知る

++++++++++++++

限界を知ることは、敗北を認める
ことではない。

むしろ限界を知らない親のほうが、
こわい。子育てで失敗する確率の
ほうがずっと、高い。

++++++++++++++

 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分の
ことならともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、
親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここま
で」と思いなおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなもの」とあきらめ
る。その思いっきりのよさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、その
時点から、子どもは前向きに伸び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」
などと言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときか
ら、親の言い方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんば
っている、よくがんばったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。
子ども自身が、その限界のカベを破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のこ
とで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただっ
てやる気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「も
っと働きなさい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の
無理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態
度は大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学
に……」と思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とか
A中学に……」となる。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理するこ
とないよ」となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いとい
うこと(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりに
も多いということ(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こ
なごなに破壊してしまう親があまりにも多いということ(失礼)。さらに、行きつくところ
まで行って、はじめて気がつく親があまりにも多いということ(失礼!)。またそこまで行
かないと、気がつかない親が、あまりにも多いということ(失礼)。それを避けるためにも、
親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。限界を認める。親としては、つらい作業だが、
その度量の深さが、親の愛の深さということになる。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子
どもも少なくない。ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期
待させながら、自分のわがままをとおしていた。

その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠した。先生にほめられたことだ
けを話し、叱られたことは話さなかった。

 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君
がいちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言っ
た。その男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。しかしその男の子は、それを
父親には言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなることを、その男の子はよ
く知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮
面がはがれたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子
どものほうが自ら親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮面に注意

+++++++++++++++

仮面にご注意!

だれしも人前では、ある程度の
仮面をかぶるもの。
しかし仮面は、仮面。

それを脱ぎ忘れたとき、
その人は、自分を見失う。

子どもも、またしかり。

+++++++++++++++

もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよ
い。それは、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、
いない。「できがいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た
結果として決まることで、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。

 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先
生の指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこん
だ。たしかに優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。小学五年生の
ときのこと。これから夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのことを心
配していた。

私が「そんな先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その女の子にし
てみれば、それが彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろそれ
を喜んでいるふうだった。「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望
みをかなえさせてあげたいです」と。
 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害
(過食、拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引
きこもるようになってしまった。

こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、そ
れに気づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、
親がそう思うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの
子どもは、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(1)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくで
きる。マナーもわきまえている。人前では礼儀正しい。

(2)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生に
指示に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。

(3)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、
ぐずったりすることも少なく、独立心が旺盛にみえる。

(4)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現する
ことが少ない。万事にがまん強い。

(5)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このま
ま優秀なまま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければな
らない。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。
もちろん子ども自身の問題もある。仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くこ
とができない子どもとみる。しかしそれとて、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互
愛着行動のどこかに問題があったとみる。子どもの側からみて、満たされない愛、あるい
は大きなわだかまりや、欲求不満が、その背景にあったとみる。

 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子
どもの心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。
その時期は早ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……
というより、なおすのは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうか
らである。そういう覚悟で、時間をかけて対処する。

 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう
言った。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩
連続でとまることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰って
きます」と。

 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているとい
う。そのため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、
本当に多い。

 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、
いいかげんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさい
ほど自己主張し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいな
ら、むしろそれを喜んだらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、
そういうもの。そうであるべき。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●「こまかい指導は、子どもをつぶす」
 
++++++++++++++

子育ては、おおらかに!

こまかいことは、ガミガミ言わない。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

++++++++++++++

★文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や
 書き順は言うにおよばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、
 こまかい指導はしないこと。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、
 ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうまでこだわらねばな
 らない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美
 しさを否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順など
 をしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人がいる。しか
 し文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しく
 ない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコン
 が発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。

 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた
 作文を見て、私はびっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなもの
 がいっぱいあった。そこで私がそのクラスの先生(小三担当)に、「なおさ
 ないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピアの時代
 から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。また
 ルール(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸
 をつけないでほしい。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切な
 ことは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」という思いを、子どもがもつ
 こと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイプの親
 や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に
 今、「作文は大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子ど
 もは少ない。よく日本のアニメは世界一というが、その背景に子どもたちの
 作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれない。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところ
 はなおせばよい。またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子
 どもを勉強好きにする。

 

(補足)もともと「学ぶ」は、「マネブ(まねをする)」に、由来するという。つまり日
本では、「先人のマネをする」が、「学ぶ」の基本になっている。そのひとつが、日本独
特の「型」教育。日本人は、子どもを、型にあてはめることを教育と思い込んでいる。
少なくとも、その傾向は、外国と比べても、はるかに強い。そのよい例が、英語の書き
順。

 たとえば「U」は、まず左半半分を上から下へ書き、つぎに右半分を上から下に書い
て、底の部分でつなげる。つまり二画だそうだ。同じように、「M」「W」は、四画だそ
うだ。こういう英語国にもない書き順が、日本にはある! 驚くというより、あきれる。
ホント!

 そのため、日本では、今でも、先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進
める。アメリカやオーストラリアでは、先生は、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」
と授業を進める。この違いは、大きい。またその根は、深い。

 もうトメ、ハネ、ハライなど、もうなくしたらよい。それを守りたいという人に任せ
て、少なくとも、学校教育の場からは、なくしたらよい。(もう二〇年前から、私は、そ
う主張しているのだが……。)書き順にしても、それにこだわらなければならない理由な
ど、もう、ない。守りたい人が守ればよい。守りたくない人は、守らなくてもよい。そ
れよりももっと大切なことがある。その「大切な部分」を、教えるのが教育ということ
になる。この「ワンポイントアドバイス」の中では、それを書いた。

 ただこういう私の意見に対して、「日本語の美しさを君は否定するのか?」という反論
もあるのも、事実。とくに書道教育関係者からの反論が、ものすごい。しかしこのアド
バイスの中にも書いたように、「美しい」とか、「美しくない」とか思うのは、その人の
勝手。それを他人、なかんずく子どもに押しつけるのは、どうか。私は、トメ、ハネ、
ハライがあるから文字が美しいとか、ないから美しくないとか、そういうふうには、思
わない。みなさんは、この問題を、どう考えるだろうか?


●国語の勉強は、読書に始まり、読書に終わる。アメリカの小中学校へ行って驚くのは、
どの学校にも、図書室が、学校の中心部にあること。(たいていは玄関を入ると、そのすぐ
近くにある。)そして小学校の場合、週一回は、「ライブラリー」という勉強がある。これ
はまさに読書指導の時間と思えばよい。さらに驚くべきことは、この読書指導をする教師
は、ふつうの教師よりもワンランク上の、「修士号取得者」があたることになっている。こ
のあたりにも、日本とアメリカの教育に対する考え方の違いが、大きく出ている。もちろ
ん、アメリカには、英語の書き順などない。(また書き順と構えなければならないほど、文
字の数がない。)※


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2050年までに、2度!

++++++++++++++++++++

国際的な権威機関(ヤフー・ニュース)
の最新研究結果によれば、

「今後も温室効果ガスの抑制ができなければ、
地表温度は2050年に2度、世紀末には、
5度上昇するだろう。

2度の上昇は氷河の融解と、海水の体積膨張を促し、
海面が急上昇する恐れがある」とのこと。

++++++++++++++++++++

 このほど上海を訪れた、イギリス「ガーディアン」紙記者の、ポール・ブラウン氏は、
つぎのように発言した。

「今後も温室効果ガスの抑制ができなければ、地表温度は2050年に2度、世紀末には
5度上昇するだろう。2度の上昇は氷河の融解と、海水の体積膨張を促し、海面が急上昇
する恐れがある。上海のような海抜の低い沿海都市は、水没の危機に瀕するだろう。広州
の平均気温があと3度上昇したら、真夏はエアコンなしでは到底耐えられない暑さになる」
(ヤフー・ニュース)と。

「地球表面温度があと2度上昇すれば、上海は水没する!」とも。

2007年3月17日に開かれた、広州市科学技術協会と英国領事館が共同で開催したシ
ンポジウムでの発言である。「同氏は16年間一貫して、地球の温度変化に着目してきた環
境専門記者。今回の訪中には、国際的な権威機関の最新研究結果を携えてきた」(同・ニュ
ース)という。

 とうとうここまできたかというのが、地球温暖化の問題。

学生時代、ローマ会議に出席してきたという学者が、私がいたカレッジに寄ったことがあ
る。ローマ会議というのは、世界の賢人たちが集まって開く会議である。

 その秘密会で、地球温暖化と食糧危機の問題が討議されたという。が、当時は、食糧危
機のほうが、深刻な問題とされていた。1970年のことである。

 地球温暖化については、「ハワイでの観測によれば、二酸化炭素は、ほとんどふえていな
いので、心配しなくてもいい」ということだった。

 が、それ以後、地球温暖化は、予想を上回る速度で、進んだ。20代、30代の人には
わからないかもしれないが、50代以上の人なら、みな、知っている。この日本にしても、
私たちが子どものころよりも、はるかに暖かくなった。

 しかし本当の問題は、地球温暖化ではない。そのため、人類が絶滅することでもない。
その過程で、人類は、まさに地獄を経験するだろうということ。

 人々はわずかな食料と水を求めて、殺しあうようにさえなるかもしれない。現に、K国
を脱北したある女性は、こんな証言している。

 「自分の息子(数歳)が、いなくなった。母親が、血眼になってさがしたが見つからな
かった。が、数日後、肉類などを売る闇市へ行ってみると、自分の息子の手が、店先につ
りさげられて、売られているのを知った」と。

 こういうことが日常茶飯事に起こるようになると、人間の心は、マヒする。そのマヒし
た状態が、積み重なって、さらに大きな地獄絵図へとつながっていく。そうした状況に、
人類は、いつまでもちこたえることができるだろうか。

 社会秩序は崩壊し、道徳、倫理も地に落ちる。人類はかぎりなく動物化し、醜い争いを
繰りかえすようになる。頭の狂った独裁者が現われ、核兵器のような武器を使って、情け
容赦なく、敵対する国々を滅ぼすかもかもしれない。

 地球温暖化には、そういう問題も含まれる。ヤフー・ニュースは、「真夏はエアコンなし
では到底耐えられない暑さになる」というが、エアコンの能力にも限界がある。説明書な
どによれば、(45度が限界)というようなことが書いてある。つまりエアコンがエアコン
として機能するのは、45度までということ。

 「45度!」と聞いて、驚いてはいけない。今年(07年)の夏、オーストラリアの各
地では、40度以上の気温を記録している! 風呂でも、42、3度が限界。

 が、そこで地球温暖化が止まるわけではない。今、ここで人類がいっせいに、化石燃料
の使用をやめたとしても、地球の気温は、2100年以後も上昇しつづける。そのころに
は、私やあなたは生きていないかもしれないが、あなたの孫や、ひ孫は生きている。

 しかし今度の発言は、2050年についてである。あと43年。その2050年ですら、
地球の気温は、2度も上昇するという。

 何度も書くが、「2度」という数字を甘く見てはいけない。ほんの0コンマ数度あがった
だけで、今のような変化をもたらした。2度も上昇したら、地球は、どうなることやら。

 不測の事態が、別の不測の事態を引き起こし、地球環境そのものが、メチャメチャにな
ってしまうかもしれない。たとえばツンドラの凍土が溶けて、メタンガスが大量に発生す
るとか、海流の流れそのものが変化するとかなど。

 私やあなたはともかくも、2050年といえば、あなたの子どもは、確実に生きている。
そういう子どもたちが、ここでいう地獄を経験しないという保証は、どこにもない。

 恐ろしい話を書いてしまったが、何か、打つ手はないのか?

 ただ個人的なことを言えば、私はこの35年以上、ずっと自転車に乗っている。どこへ
行くにも、できるだけ自転車に乗っている。ときどきワイフの小型車に乗ることはあるが、
それはやむをえないばあいだけ。だから、意外と、サバサバとしている。またそういう気
分になれる。

 「まあ、しかたないな」と。「人間は、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。これも自
業自得というもの」と。

 これからも死ぬまで、私個人は、地球環境をできるだけ破壊しないように行動したい。

【提案】

 みんなが、自分でできる範囲で、環境保護に、力を入れよう。大きなことはできないが、
身のまわりには、できることが、たくさんあるはず。そこで私のささやかな提案。

●公官署の役人、学校の教師たちは、自転車通勤をする。車に乗るときも、相乗り
をする。
●民間でも、自転車通勤を奨励する。車に乗るときも、相乗りを奨励する。
●快適な生活そのものが(悪)であるという前提で、ものを考えるようにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++Mar 07+++++++++++はやし浩司

●息子のBLOGより

++++++++++++++++++++

人には、コースというものがある。
そのコースに入っているときには、
それがわからない。

そのコースからはずれたとき、はじめて、
そこにコースがあったことを知る。

息子は、もう、あの飛行機には乗れないと
いう。

……いつか、私も同じような思いを

したことがある。それを思い出しながら、
息子のBLOGを読む。

+++++++++++++++++++++

【EのBLOGより】


 最終技能審査にも無事合格し、これで僕は晴れて、この航空大学校を卒業できることと
なった。事業用操縦士免許(飛行機・陸上・多発)と計器飛行証明の資格を引き下げて。

 試験は散々だったけど、講評が終わり審査官が部屋を去った後、共にC'Kを受けたきん
にくんと握手し抱き合って卒業おめでとうを言い合った。試験中は最後のフライトをかみ
締める余裕なんてなくて、降機後もゆっくり飛行機と話せなかった。このときようやく落
ち着いて『終わり』を感じることが出来て、『すべての終わり』を感じることが出来て、溜
まっていた涙があふれ出た。

 総飛行時間220時間30分、総着陸回数483回。

 苦しかった時間、数千時間。涙を流した回数、数百回。もう飛びたくないと思った回数、
数十回。上空でお腹が痛くなった回数、数回。もう諦めようと思った回数、0回。

 夕べ僕は夢を見た。空を飛ぶ夢だった。航大に入学する直前まで、僕は夢の中では自由
自在に飛べていた。飛べることが前提になっていた。どんな夢でも、飛べることに変わり
はなかった。それが、航大に入った途端、飛べなくなってしまった。というか、飛ぶ夢を
見なくなってしまった。

 久しぶりに見た空を飛ぶ夢。ビルの屋上から、両手を広げ、フワリと浮き上がる。どこ
へ向かうでもなく、特別高いところでもなく、ただ飛ぶことが目的の、短い空中遊泳。『こ
れくらいはいいよね』みたいな後ろめたさを感じていた気がする。飛べなかったのではな
く、もしかしたら我慢をしていたのかもしれない。夢見ることを我慢して、現実だけを見
つめてきた。僕は久しぶりに、夢を見た。

 目が覚めて、思い出す。もう航大の空は飛べない。ランウェイ・エンドまで暇つぶしに
散歩した。下から見上げた同期のC'K機。僕はもうあそこには行けない。西日の中に消え
ていくやけに大きなC90とゆっくりと流れる金色の雲。頭上をかすめる旅客機。柵の中
で風に揺れるススキが、何だか羨ましく思えた。僕もずっとここにいたい。ずっとここで
夢を見ていたい。でも先に進まなきゃ。

 次の夢を探しに行こう。


Hiroshi Hayashi+++++++++Mar 07+++++++++++はやし浩司

●マリアの処女懐胎について

++++++++++++++

どうして、キリスト教では、
父親、ヨセフの影が薄いのか?

私なら、妻が、私の知らないところで
「妊娠した」と言ったら、それだけで
離婚を考える。

「神の子」と言ったら、「お前は、アホか!」と
言って、妻を家から、たたき出す。(多分?)

あなたなら、どうするか?

それについて……

++++++++++++++++

 マリアの処女解体について、オーストラリアの友人(M大学教授、E・I氏)から、こん
な情報が入ったので、報告する。

Dear Hiroshi,

Thank you for your phone call and for your concern. Melbourne is in no
danger. The fires are about 300 kilometers away. There was a lot of
smoke over Melbourne yesterday but today the sky is clear.
Australia will have severe bush fires about every 20 years I think.
As for the virgin birth and Mary, some scholars say this is based on a
mistranslation of the Greek New Testament. They say the word should be
be "young woman" not "virgin". Roman Catholics believe in the Virgin
Mary but many other Christians have a different view of this. There has
been a lot of discussion of this in recent years.
Dennis

浩司へ

心配してくれてありがとう。
メルボルンは心配ありません。
山火事からは300キロ離れています。
昨日は煙が届きましたが、今日の空はきれいです。
オーストラリアは20年ごとに、大きな山火事に襲われます。

処女懐胎をメアリー(マリア)についてですが、
「ギリシャ語の新約聖書の誤訳である」という説もあります。
その語は、「処女(バージン)」ではなく、「若い女性」と翻訳すべきだというのです。
ローマカトリック教会は、「処女」を信じていますが、多くのほかの
宗派は、違った見解をもっています。
最近、この点についての議論がたくさんなされています。
DDより

+++++++++++++++

 こうした誤訳の中で、私自身が発見したものに、つぎのようものがある。

 ミケランジェロが彫刻した「ダビデ王の像」には、額のところに、二つのコブ状の角(つ
の)がある。それとよく似た角が、中国の神農(炎帝のこと。黄帝はこの炎帝を倒して位
についたとされる。

神農は、漢方医学の神様と言われている)の額にもある。不思議な一致である。そこで
その共通点の根拠をさぐってみたところ、ミケランジェロは、当時の常識に従って、ダ
ビデ王の額にコブ状の角をつくったのがわかった。しかし、それは「角」ではなく、「光
線(RAY)」だった。つまり誤訳だった。

つまりダビデ王は、頭から光線を出していたという。その「光線」が「角」と誤訳され、
ヨーロッパには、「コブ状の角」として伝わった。このことは、私が直接、あちこちの領
事館に問い合わせて知ったことである。

それでミケランジェロは、ダビデ王の額に、コブ状の角をつくった。話せば長くなるが、
結論を簡単に言えば、そういうことになる。

 こうした誤訳を私自身も確認しているので、「若い女性」を、「処女」と誤訳したと聞い
ても、私は驚かない。キリスト教徒の人には悪いが、こうした誤訳は、聖書(とくに旧約
聖書)の中には、いたるところにある。

+++++++++++++++

 さて本題。

 あなたが夫であるとする。結婚という結婚ではないにしても、一応結婚していたとする。
同棲(どうせい)という形でもよい。ともかくも、ある日、突然、妻が妊娠した。あなた
には、セックスをした覚えはない。そこであなたは妻に、「だれの子だ!」と問いつめた。
すると妻は、「神の子だ」と。

 このとき、妻の言葉をそのまま受け入れるのは、たいへんなことだ。私なら、「何をバカ
なことを言うか!」と、妻を一蹴(いっしゅう)するに違いない。が、ヨセフは、父親と
して、イエスを受け入れた。そしてイエスを育てた。それはたいへんな苦悩であったに違
いない。「違いない」と書くのも、はばかれるが、しかし私なら、耐えられない。一説によ
ると、マリアは神の啓示を受けたというが、ヨセフは受けていない。またヨセフは、一説
によると、イエスが神の子としての仕事を始める前に、他界している。私は、オーストラ
リアの友人にそのことについて聞いた。「ヨセフは、君たちの世界では、どう理解されてい
るのか」と。それについての返事が、冒頭にあげた、メールである。

 あなたはこの問題を、どう考えるだろうか。「おもしろい問題」と言うと少し語弊がある。
キリスト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。しかし考えるテーマとしては、お
もしろい。この問題は、これから先、機会を見つけて考えてみたい。また新しい情報が入
ったら、報告する。なお、D君の意見では、「マリアを祭るのは、主にローマンカトリック
だ」とのこと。参考までに。

++++++++++++++

Dear my friend, DD,

Thank you for your mail.
The reason why I have been interested in Maria and Joseph, Mother and Father of 
Jesus Christ is that the concept of family is different between mothers and children, and 
between fathers and children. I mean hereby that the Austrian psychologist Dr. Froid 
once wrote in is book, that the relationship between mothers and children is stable but 
the relation between fathers and children is less stable. Then I have come to notice that 
in Christianity people worship Maria, not but so often Joseph. So I wondered why?  
Wasn't Joseph a father of Jesus Christ? Everybody says the father of Jesus Christ is 
God himself, not Joseph. If not then, what was he? For what he was with Maria and 
Jesus Christ? Some people say that Joseph was not met by angels as Maria was, and 
Joseph passed away before Jesus Christ started his job as a son of God. Then what was 
Joseph? Could he accept Maria with Jesus Christ? If I had been Joseph, I would not 
have been able to accept it, but frankly would have kicked out my wife when she had 
said that she had got pregnant but the baby was not my son. I can understand the 
concept of marriage was not the same as we have now. But still there are lots of 
un-understandable facts, about which I asked you over the phone. So I have been 
thinking about this. Thank you for your comments, which is very helpful.

Hiroshi

メール、ありがとう。
なぜ今、ぼくがマリアとヨセフに興味があるかといえば、母親と子ども、父親と子どもの
関係は、違うのではないかということを考えているからです。
フロイトも、そう言っています。
キリスト教では、マリアを祭りますが、それに比べてヨセフの影は、薄いですね。
それでキリスト教国では、どのように考えているかと興味をもったわけです。
ヨセフは、イエスの父親ではなかったのか、と。
一説によると、ヨセフは、マリアのように、神の啓示を受けていない。
またイエスが神の子としての仕事を始める前に、ヨセフは死んでいる。
となると、ますますわからなくなります。当時の結婚の形態が今と違うことは、ぼくにも
理解できます。
しかし理解できない面もたくさんあります。で、このことをずっと考えていました。コメ
ントを送ってくれて、ありがとう。

浩司より

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の悩み

 オーストラリアの別の友人のJJから、こんなメールが届いている。このところ息子(2
3歳)の婚約のことで悩んでいる。毎日のように、メールを交換している。今朝も、こん
なメールが、届いた。

 JJが言うには、息子(SS)の婚約者(LL)と、彼のワイフ(NN)と娘(RR)との折
り合いが悪いということらしい。息子の婚約者が、あからさまに、息子に、「私は、あんた
のお母さんと、妹が嫌い」と言っているらしい。それで友人のJJは、その調整に苦しんで
いる。これは私が何度かアドバイスしたあとの、友人からのメールである。

「Thanks for your reply.

We have essentially taken the view that you have advised.

基本的には、君の忠告に従う。

NN(his wife) in particular has spoken her mind to SS (his son) and LL(his fianc?) in 
her usual very frank manner. Now the engagement is announced she has decided to 
"step out of the picture", not interfere any more and give what support is necessary.

私の妻はいつものフランクな言い方で、息子とフィアンセには、話しかけてはいる。しか
し婚約が発表されてしまった今、フィアンセは、「写真の中から飛び出した」(いい子ぶる
のをやめた)ようだ。で、私は彼らにあまり干渉しないで、必要なことはする。

I don't think LL is a particularly Bad person, just that she lives on her emotions and 
needs all attention focused on her. Especially SS's. NN and RR (his daughter) are a 
bit more skeptical about her.

フィアンセは、とくに悪い女性ではないと思う。ただ彼女は息子の関心を自分にひきたい
ため、感情に任せて生きている。それで妻や妹は、彼女に懐疑的になっている。

I find I can't "connect" with LL. There is not much feeling comfortable or communicating 
easily with her.

フィアンセのLLとよい関係を保つことはできない。彼女といっしょにいても、私は居心地
は悪いし、気が休まらない。

Let's hope they both "grow up" and see the world and particularly NN and RR in less 
black and white terms.

彼らが成長し、彼女がワイフや娘を、あまり白黒はっきりとした目で見ないようにするの
を望むしかない。

My job is to keep talking to SS and LL and try to push them gently in the right 
direction. 
There is no particular "bust up" between them and me.

私がすべきことは、息子やフィアンセが、ワイフや娘に正しい方向でやさしく接するよう
に、話すこと。彼らと私の間は、とくに悪いというわけではない。

Things are even more complicated though, since RR 's new boyfriend, DD, is partners 
with SS in a building construction business. Worse than that he is a long time friend 
and ex-boyfriend of LL's!!!!

が、さらに悪いことに、もっと事情は複雑。というのも、娘の新しいボーイフレンドのDD
は、息子のSSの仕事仲間。そのボーイフレンドのDDは、息子のフィアンセのLLの、前
のボーイフレンド!!! 長くつきあっていた。

Oh what a tangled web we weave!!!

何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!

JJ

JJより」

 こうしたメールの内容はともかくも、私がいつも不思議に思うのは、つぎのこと。

このJJ君にしても、日本では考えられないほど、すばらしい環境の中に住んでいる。今
度新しい二階建ての家を建てたが、周囲には、ほかに家が見当たらない。少し離れたと
ころには、小さな湖がある。もちろんそれも彼の敷地の一部である。奥さんは女医で、
自分は、政府の農業指導員をしている。息子はアデレード大学を卒業し、建築技術者。
娘は、今、同じ大学の医学部に通っている。そういう彼が、「どうして悩むのか?」と。

「ない人」には、ないことがわかるが、「ある人」には、あることがわからない。私から
見れば、その友人は、まさに夢のような生活をしている。いや、私も若いころ、いつか
オーストラリアに移住して、そんな生活をしてみたいと何度も思った。しかしその友人
にしてみれば、それがふつうの生活であり、何でもない生活ということになる。だから
私はこうしたメールを交換しながらも、つい、こう言いそうになる。「君たちはうらやま
しいような生活をしているのだから、まずそれに感謝しなければいけない。息子が多少、
気に入らない女性と結婚することになっても、がまんしなければいけない」と。

  しかし、もちろん、当の本人にとっては、そうではない。深刻な問題である。私には
その「深刻さ」が、不思議でならない。

●幸福というのは、遠くの未来にあるかぎり光彩を放つが、つかまえてみると、もう何で
もない。……幸福を追っかけるなどは、言葉のうえ以外には、不可能なことなのである。(エ
ミール・アラン「幸福語録」、1861−1951、フランスの哲学者)

アランは、「幸福などというものは、手にしたとたん、幸福ではなくなる」と。……とな
ると、これは、そのまま私たちの問題となる。今、私は幸福でないと思っている部分は
多い。しかしその中には、人もうらやむような幸福があるかもしれないということ。そ
れについては、老子(中国、道家の根本書物、「老子道徳経」ともいう)は、こんなふう
に書いている。

●不幸は、幸福の上に立ち、幸福は不幸の上に横たわる、と。

つまり不幸があるから、幸福がわかり、幸福があるから、不幸がわかる、と。もう少し
わかりやすい例では、他人の不幸を見ながら、自分の幸福を実感する人は、いくらでも
いる。そういう点では、人間は残酷な生きものである。ラ・ロシェフーコ(フランス人
作家)も、「われわれはみな、他人の不幸を平気で見ていられるほど、強い」(「道徳的反
省」)と言っている。

これらは、いわゆる幸福相対論だが、相対論だけではすまされないところが、幸福論の、
また深遠なるところである。こう書いている神学者がいる。

●ささいなことで喜びをもちうることは、子どものみではなく、不幸な者の、高貴な特権
である。(リチャード・ローテ「箴言(しんげん)」、1799−1867、ドイツの神
学者)

少し皮肉的な言い方だが、ローテが言っているのは、こういうことだ。

 子どもはささいなことで喜ぶ。同じように不幸な人は、身のまわりから、ささいな喜び
をさがして、それを幸福とすることができる、と。つまり幸福というのは、相対的なもの
であると同時に、視点の違いによって、どうにでもなるということ。幸福だと思っている
人でも、視点を変えてさがせば、不幸なことはいくらでもある。同じように不幸だと思っ
ている人でも、視点を変えてさがせば、幸福なことはいくらでもある。もっと言えば、「幸
福」などというものは、得体の知れないもの。さらに言えば、実体のない幻想ということ
になる。

 友人のメールを読みながら、その内容もさることながら、私は幸福論について、改めて
考えてなおしてみた。多くの文人や哲学者たちが、人生最大のテーマとして考え、そして
考えてきた「幸福論」。これで結論が出たわけではないが、今日はここまででひとつの区切
りとしたい。このつづきは、また別の機会に考えてみる。

 しかしそれにしても、まずい。娘のボーイフレンドが、息子のフィアンセの、元ボーイ
フレンドというのは! 向こうで「ボーイフレンド」というときは、性的関係のある人を
いう。日本では、こういうのを、「腐れ縁」という。こういう腐れ縁は、何かにつけてトラ
ブルのもと。しかしこの問題だけは、親でもフタをすることはできない。言うべきことは
言いながらも、あとは様子を見るしかない。まさに「何とからんだクモの巣を、私たちは
編むことか!」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Mar 07+++++++++++はやし浩司

●安倍内閣の国際外交

++++++++++++++++

安倍内閣の国際外交のまずさは、
今回の6か国協議に集約されている。

理由の第一。安倍総理大臣は、自民党の
中でも右派と目されている。その安倍総理大臣が、
さらに右派と呼ばれる人たちと、くっついて
しまった。

いわゆる極右民族主義者と呼ばれる人たちと
である。

これらの人たちは、「武士道こそが日本が誇るべき
民族精神」と説く。「対米追従外交反対」と説く。

おまけに拉致被害者たちまでもが、これらの
人たちと、くっついてしまった。

それがわからなければ、被害者同盟の人たちが、
壇上で、どういう政治家たちと並んで座って
いるか、それを見ればよい。

これでよいのか、安倍総理大臣!
拉致被害者のみなさん!

+++++++++++++++++

 あなたにはブッシュ大統領の怒りが、わかるだろうか? 今ごろ、……というよりは、
昨年の終わりごろ、ブッシュ大統領は、こう思っていたにちがいない。

 「日本に、思い知らせてやれ!」と。

 あろうことか、日本の防衛大臣や外務大臣は、ブッシュ大統領が一般教書演説をしたそ
の直後、イラク戦争を批判してしまった。「まちがっていた」「幼稚だ」と。

 本来なら、安倍総理大臣は、就任直後、ブッシュ大統領に会うべきだった。あいさつす
べきだった。しかし自民党の中でも、極右勢力の言うがままに、就任後、この8か月、一
度も、アメリカへ行っていない。来月4月に日米首脳会談が開かれることになっているが、
今ごろ、ノコノコとアメリカへでかけていって、何ができるというのか。何が変わるとい
うのか。

 たった1年前、ブッシュ大統領は、こう言っていた。

 「K国への金融制裁解除は、ぜったいにしない」と。

 それが今、あっさりと、くつがえされてしまった。しかも、「現在、K国がもっている核
兵器については、不問にする」とまで!

 韓国の高麗大学の姜教授は、「アメリカの目的が、『K国の過去の核は問題視しないが、
その代わり核物質の外部流出を防止する』という方針に変わったのかもしれない」(朝鮮N
報・3月19日)と述べている。

 わかりやすく言えば、アメリカは、自国の国益を最優先させながら、その一方で、「日本
や、韓国のことなど、知ったことか!」と。

 日本の極右勢力のみなさん、もっと、現実を見ろ! これが現実。

 今日(20日)も、日本は、孤立無援のまま、6か国協議に出席している。今の日本に
できることは、中国に泣きつき、アメリカに泣きつくこと。それだけ。しかし中国もアメ
リカも、日本を完全に見放している。この先、日本は、どうやって、あのK国と、単独で
対峙していくつもりなのか。

 だいたい、日本の外務大臣ともあろう人物が、英語で、まともに演説したり、議論でき
ないというところがおかしい。文科大臣までもが、「(小学校での)英語教育は必要ない」
と言っている。

 私たちは、極東アジアの、その島国に住む、土着民族のままでよいのか?


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================


***************************





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 18日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page023.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある母親からの相談より

+++++++++++++

傷つく子どもの心。
しかしそれに気づく親は、少ない。

が、だからといって、親を責めては
いけない。

親は親で、そのつど、懸命に考え、
もがきながら、子育てをしている。

つまりこうして親は、賢くなっていく。
その過程では、いろいろあるだろうが、
それはそれ。

以前、こんな相談があった。

+++++++++++++++++

名はHKと申します。
  
 早生まれで2月の、先月四歳になりました、息子が1人おります。
 F男という名前です。
 
 めぐりめぐってはやし先生のHPにたどり着いた次第でございます。
 どうぞよろしくお願い致します。
 
 まずは息子の事から話します。
 
 2歳になるころにうちのF男にどもりの症状が出ました。
 そのときは1週間くらいで治り、今も全くそういうチックは無く、生活しております。
 
 昔から育児サークルへ行っても私のそばから離れず、神経質っぽく、
 すぐ、よく泣く子供でした。今もちょっと言われただけですぐ泣く子です。

 公園に行っても、お母さんも一緒にというのがもう口癖のようになっていました。
 早生まれで3歳になってすぐ3年保育の保育園へ通わせるようになりました。
 最初のうちは泣きましたが、他にも泣いている子どもがいるので、
 そのまま通わせました。
 
でも思いのほかすぐに泣かずにバスに乗れるようになりましたが、
 いまいち、保育参観なども見ていても、覇気が無く、
 つまらなそうでした。
 
そのうち、お遊戯会などがあり、楽しいというようになりました。
 でも、冬休み明けにまた嫌がるようになり、
 しぶしぶ行くといった感じでした。
 
幼稚園でのお友達も、同じ学年の年少さんとではなく、
 1つ下の、小さい年少さんが5人ほどいるのですが、その子達と遊んでいるようです。
 同じ年少さんは遊んでくれないと言っています。
 
家では、1人で遊ぶ時間もちょっと出てきましたが、
 じっくり1人遊びができなくて悩んでいます。
 ちょっと遊んでも、すぐ「お母さん、一緒に遊ぼう」「遊んで」というのが
 口癖です。私も私で、遊んでやればいいのですが、家事もあったりして、
 少しの合間に遊んであげてもまた次の用事があるときに
 離れるときに泣かれるとやなので、
 遊んであげない事がほとんどです。

 遊んでいても、自分の思うとおりにいかないと、すぐ息子の機嫌が悪くなり泣いたり、
怒ったりして、 
 不安定だなと感じます。
 私もどちらかと言うと、イライラしがちな短気な性格です。
 先生のHPを見ていてこれだと思ったのが、自分がブランコを使っていても、
 自分より強そうな子だと、ニヤニヤしながら貸してしまう、そういうタイプの子です。
 
 先日、2月の保育参観と、役員会の時にむすこの幼稚園での生活の様子で
気になった事があるので、相談したいと思い、メールをさせて頂きました。

家でひとり遊びができないといいましたが、園でもそうみたいでした。
 だいたいの年少さんは、皆それぞれひとり遊びをやりながら
友達とかかわっているといった感じなのですが、
 
うちの子だけ、その日、との時によっても違うのですが、
 この子と思うと、そのこに執拗について回ります。
 ついてこられる子は迷惑そうな感じで、やめて! ついてこないで!と言われても
 ニコニコして、ついて回っています。 
 それはいかがなものでしょうか?

 ひとり遊びができないというのは、私が十分に遊んでやらなかったからでしょうか?
 どうも、相手にされてないようで、
うちの子が入っていっても遊びに入れてくれないので、
 お友達同士が遊んでいる後ろを、まねしてついてまわっいることも多いようです。
 
  
 昔からママ友達5人ほどで集まることが多いのですが、
 自然に子供は10人ほど集まります。
 ほとんど男の子ばかりなのですが、その中でも皆は2階で遊んでいるのに、
 うちの子だけ未だに溶け込めず、ひとりで下でもてあましているといった感じです。

 でも、昔はずっと私のひざの上から離れなかったということを考えると、
離れるだけましと考えているのですが……
 
親としてはもっともっとと欲が出てきてしまうのですね。
 良くないですよね。
 
 私もこういうHPを見れば見るほど、神経質になってしまい、
 あ〜しなければ、こ〜しなければ、今こう言ったら機嫌悪くなりそうとか、
 いちいち考えてしまい、
 自然に息子と接することができなくなってきました。
 
 もっと、ゆっくり、息子を見てやろうと思うのですが、
ちょっとした事がすぐ気になってしまい、
 いちいち考え過ぎてしまいます。
 
自分の悪い癖です。
 先生の話にもあった、息子と2人で歩いていても息子のペースが
遅すぎていつも私が先に立って歩くタイプです。

 父親もそういうタイプです。
 先生のHPを見てからは気をつけています!
 あまり過干渉にならないようにも気をつけています!
 子供と遊ぶのが苦手な方です。
 でも、もう1人子供が欲しいのですが、もう2度も流産していて、
 もうそろそろまた頑張ろうかと思っているところです。
 
 長々と聞いて頂きまして、有難うございました。
 ほんとはもっともっと話したいことが沢山あるのですが、まとまらないので、
 この辺で。
 
 アドバイス、お待ちしております。
 どうか、よろしくお願い申し上げます!
 
    兵庫県H市、HKより

++++++++++++++++++++++++++

【HKさんへ】

HKさんの問題点を整理してみると、つぎのようになる。
 
●2歳になるころにうちのF男にどもりの症状が出ました。
 そのときは1週間くらいで治り、今も全くそういうチックは無く、生活しております。
 
●昔から育児サークルへ行っても私のそばから離れず、神経質っぽく、
 すぐ、よく泣く子供でした。今もちょっと言われただけですぐ泣く子です。
 
●幼稚園でのお友達も、同じ学年の年少さんとではなく、
 1つ下の、小さい年少さんが五人ほどいるのですが、その子達と遊んでいるようです。
 同じ年少さんは遊んでくれないと言っています。
 
●じっくりひとり遊びができなくて悩んでいます。
 ちょっと遊んでも、すぐ「お母さん、一緒に遊ぼう」「遊んで」というのが口癖です。
 
●遊んでいても、自分の思うとおりにいかないと、すぐ息子の機嫌が悪くなり泣いたり、
怒ったりして、 不安定だなと感じます。
 
●私もどちらかと言うと、イライラしがちな短気な性格です。

●家でひとり遊びができないといいましたが、園でもそうみたいでした。
 だいたいの年少さんは、皆それぞれひとり遊びをやりながら
友達とかかわっているといった感じなのですが、
 
●うちの子だけ、その日、その時によっても違うのですが、
 この子と思うと、そのこに執拗について回ります。
 ついてこられる子は迷惑そうな感じで、やめて! ついてこないで!と言われても
 ニコニコして、ついて回っています。 
 それはいかがなものでしょうか?

●ひとり遊びができないというのは、私が十分に遊んでやらなかったからでしょうか?
 どうも、相手にされてないようで、
うちの子が入っていっても遊びに入れてくれないので、
 お友達同士が遊んでいる後ろを、まねしてついてまわっいることも多いようです。
 
●ほとんど男の子ばかりなのですが、その中でも皆は2階で遊んでいるのに、
 うちの子だけ未だに溶け込めず、ひとりで下でもてあましているといった感じです。

●先生の話にもあった、息子と2人で歩いていても息子のペースが
遅すぎていつも私が先に立って歩くタイプです。

●父親もそういうタイプです。
 先生のHPを見てからは気をつけています!
 あまり過干渉にならないようにも気をつけています!
 子供と遊ぶのが苦手な方です。
 でも、もう1人子供が欲しいのですが、もう2度も流産していて、
 もうそろそろまた頑張ろうかと思っているところです。
 
++++++++++++++++++

●HKさんのお子さんのF男君について、考えてみる。

 2歳のときに、吃音(どもり)が出たということから、F男君を包む家庭環境が、どこ
か神経質であったことがうかがわれる。子どもの側からみて、全幅の安心感を得られない
ような状況と考えられる。

 症状だけをみると、母子分離不安をまず疑ってみるべきでしょう。ギャーッと大声を出
して、親を追いかけるプラス型。ジクジクとして、情緒がきわめて不安定になるマイナス
型に分けて考えます。

 ……と言っても、第1子のばあい、ほとんどの親は、神経質な子育てをする。不安先行
型、心配先行型の子育てである。しかしこれはある意味では、当然のことであって、だか
らといって、親を責めることはできない。(HKさんも、自分を責めてはいけない。)

 メールを読んで、気になるのは、親子のリズムが、合っていないこと。どこかにHKさ
んの「設計図」があり、HKさんは、その設計図に合わせて、子どもを「作ろう」という
意識が強いこと。たとえば子どもが泣くことについても、「泣いてはだめ」という前提で考
えてしまう? なぜ、泣くのか、あるいは「泣いても、私がガードしてあげよう」という
視点が、あまり感じられない?

 子どもが泣くのは、子ども側から、それ自体が親への働きかけとみると同時に、ストレ
スの発散をしながら、心の調整(バランス)をとっていると考える。またその前提として、
F男君が、やや情緒が不安定になっているとみる。

 幼児のばあい、情緒不安は、(1)攻撃型、(2)内閉型、(3)固執型に分けて考える。
ささいなことが引き金となって、(とくに不安、心配)、子どもの心は一挙に不安定になる。
不安や心配を解消するためである。

 「泣く」という行為は、風邪にたとえると、「熱」のようなもの。熱だけを冷ます方法も
ないわけではないが、しかし熱をさげたからといって、病気がなおるわけではない。同じ
ように、「泣く」という行為だけをみて、それをなおそうとしても、意味はない。ないなば
かりか、かえって症状をこじらせてしまう。

 F男君のケースでは、乳児期に、何らかの原因で、不安(基底不安)を覚えてしまった
ことが考えられる。親自身が、それに気づかないことが多い。軽い置き去り、拒否的態度
など。迷子かもしれないし、無視(親はその気がなくても)、冷淡など。分離不安的な症状、
孤立恐怖症的な症状が、F男君には、みられる。

 こうした不安が基本にあって、いくつかの恐怖症を併発している。対人恐怖症も、その
一つ。仲間と遊べないが、年下の子どもと遊べるというのは、年下の子どもとの世界のほ
うが、居心地がよいからである。一般論から言えば、より年下の子どもとの世界を求める
のは、愛情不足(愛情を求める代償行為)が原因と考える。親にはその自覚がなくても、
子どもは満足していないということ。

 親のイライラほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。もっとも約70%の母親
が、何らかの形でイライラしているから、だからといって、HKさんは、自分を責めては
いけない。

 しかし疑ってみるべきは、母親自身の欲求不満。家庭に閉じ込められることから発生す
る不満、結婚生活の心配、望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、な
ど。そういう欲求不満が、ときとして、イライラに転ずることもある。そういう自分自身
の欲求不満を、F男君にぶつけていないか? 

 ひとり遊びができないのは、あくまでも、その結果でしかない。F男君は、不安なのだ。
基本的に不安なのだ。母子の間に、絶対的な安心感を覚えることができないでいる。絶対
的というのは、「疑いをいだかない」という意味。

●では、どうするか?

 濃密なスキンシップを、大切にする。その前に、HKさん自身の中にある、不安や心配、
「うちの子は問題がある」式の心配を、払拭(ふっしょく)する。そのために、子どもの
前では、「あなたはいい子」を繰り返すとよい。

 方法としては、添い寝、手つなぎ、抱っこをふやす。子どもが求めてきたときは、子ど
ものほうから、体を放そうというそぶりをみせるまで、力強く、抱く。「もういい?」と、
声をかけてあげるとよい。

 とにかく、F男君自身が、いだいているであろう、「不安」と戦うこと。F男君のことで
はない。あなたの不安でもない。F男君の不安である。そのために、F男君には、全幅の
安心感を与えることだけを考える。まさに何があっても、「許して忘れる」こと。

 HKさんは、「私は短気だ」と言っているが、戦うべきは、その短気ということになる。
しかし心配してはいけない。子どもは、満4歳半くらいから、幼児期から少年少女期への
移行期に入る。このとき、もう一度、子どもの性格そのものを、つくりかえることができ
る。この時期をのがしてはいけない。最後のチャンスと考えてよい。

 大きな失敗ではないが、しかしHKさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをし、ど
こかでF男君の心を置き去りにしてきた。それはそれとして、これからは、それを改める。
F男君のうしろを、1歩退いて、歩く。これから1年半が勝負と、思うこと。この時期を
のがすと、悪い面も、すべて性格として定着してしまうので、注意する。それこそずっと、
ハキのない子どもになってしまう。

 私のHPを読んで不安になるというのは、むしろよいこと。不安になることを、不安に
思ってはいけない。HKさん自身が、自分の問題点に気づき、それを改めようとしている
ためと考えてよい。しかしこの不安も、「私は、子どもを愛している」「子どもが好きだ」「ど
んなことがあっても、許して忘れる」と宣言すれば、消える。そしてそのときから、私の
HPを、気楽に読めるようになる。

(マガジンも発行しています。どうかご購読ください。無料です。)

 こうした問題を考えるとき、大切なことは、何が「原因」で、何が、「随伴症状」かとい
うこと。たとえば分離不安にしても、ひとり遊びができない(孤立恐怖症)にしても、さ
らには対人恐怖症にしても、その症状だけを問題にすると、「原因」を見失ってしまう。そ
して対症療法ばかりを繰り返しているうちに、かえって症状をこじらせてしまう。

 原因は、ここにも書いたように、子ども自身がもっている、「基底不安」。その不安だけ
を見すえながら、親子のあり方を、再構築するとよい。あとの問題は、それが解決すれば、
自然消滅する。

●具体的には……

(1)濃密なスキンシップを与える。とくに子どもが求めてきたときは、いやがらず、力
いっぱい、抱く。
(2)「あなたはいい子」「すばらしい子」を口ぐせにする。
(3)CA、MG分の多い、食生活にこころがける。甘い食品をひかえる。
(4)HKさん自身の心の問題と戦う。過去を冷静にみつめ、その過去と決別する。何か、
わだかまりがあるときは、それに気づく。気づくだけで、よい。子どもを育てるのではな
い。これから生涯の友を育てるのだと考える。そういう意味で、子どもの横に立ったもの
の考え方をする。
(5)随伴症状(ひとり遊びができない。よく泣く)は、子どもが安心感を覚え、満足感
を覚えるようになった段階で、消えるので、この際、無視。おおらかに受けとめること。
(6)母子分離不安による症状が強いばあいには、「なおそう」と考えるのではなく、今の
状態を今以上に悪くしないことだけを考えて、こまめに愛情表現を繰りかえします。

 さあ、HKさん、自信をもって、前に進みましょう。あなたはこれから先、子どもと人
生を分かちあうのです。子どもを子どもと思うのではなく、友として、迎えいれるのです。
親の気負いなど、どこかへ捨てなさい。子どもに教えられることを、恥じてはいけません。
謙虚になるのです。親意識も、捨てなさい。あなたの子どもがさみしそうだったら、親友
として、そのさみしさを共有すればいいのです。そうすれば、あなたの不安も、解消しま
す。約束します。

(HKさんへ)

 以上のように、HKさんからのメール、および、私の返信を、次回のマガジン(xx号、
予定)に掲載しますが、よろしいでしょうか。よろしくご理解の上、ご協力いただけたら
と思います。ご都合の悪い点があれば、改めますので、できるだけ早く、お教えいただけ
たらと思います。勝手なお願いですみません。マガジンの購読申し込みは、私のHPのト
ップページからできます。
(030311)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【基底不安】

++++++++++++++++++

(不安)そのものが、心の病気と考えて
よい。

アメリカの精神医学会の手引書(DSM−IV)
「精神障害の分類と診断の手引き」でも、
(不安が強い人)を、人格障害の人と
クラス分けしている。

+++++++++++++++++

 不安感の強い人は多い。心が安定した状態を、(健康な心)とするなら、(不安)そのも
のは、(心の病気による症状のひとつ)と考えてよい。アメリカの精神医学会の手引書(D
SM−IV)「精神障害の分類と診断の手引き」(第4版)でも、(不安感が強い人)を、人
格障害者のひとつとして、クラス分けしている。

 その(不安感が強い人)は、(1)回避性人格障害、(2)依存性人格障害、(3)強迫性
人格障害に分けて考えられている(同、手引書)。

 清水弘司氏の「性格心理学」(ナツメ社)をもとに、自己診断項目を並べてみると、つぎ
のようになる。(本書の中の記述を、自己診断風に、箇条書きにしてみた。)

(1)回避性人格障害

(ア)自分に対する評価が低い。
(イ)自分が傷つくことを恐れて、人との関わりを避ける。
(ウ)自己否定的な意識が強い。
(エ)対人関係において、極端に臆病になる。
(オ)その一方で自尊心が強い。
(カ)批判されたり、恥をかいたりするのを嫌う。
(キ)自分を確実に受け入れてくれる場以外には、出たがらない。

(2)依存性人格障害

(ク)自分に自信がない。
(ケ)他人への依存心が強い。
(コ)自分で何かを計画して実行することが少ない。
(サ)失敗を他人のせいにする。
(シ)保護を失うことを恐れて、他人に迎合することが多い。
(ス)親しい人が離れていこうとすると、必死にしがみつこうとする。

(3)強迫性人格障害

(セ)極端な完全主義者
(ソ)考え方にも行動にも、柔軟性が欠ける。
(タ)規則、順序、予定などを守らないと気がすまない。
(チ)細部にこだわりやすい。
(ツ)融通がきかないため、不要な回り道をすることがある。
(テ)他人にも完全主義を強要することが多い。
(ト)他人に仕事を任せられず、自分自身は仕事中毒になりやすい。

 以上の項目に、いくつか当てはまれば、あなたは、人格障害の疑いがあるということに
なる。つまりこうしたテストは、自分をさらに知るためのひとつの手がかりになる。

 で、私のばあいだが、自分の過去を振りかえってみたとき、いつも(不安)が、心の基
底にあったのがわかる。それがあるときは、回避性障害的な症状となって、外に出てきた
り、また別のときは、依存性人格障害的な症状となって、外に出てきた。強迫性人格障害
的な症状となって、外に出てきたこともあるように思う。

 そのときは、そういう自分に気がつくということはなかった。ただ幸いなことに、極端
な状態になるということはなかった。言いかえると、だれしも、そのときの状況に応じて、
そういった精神状態になるということ。それは肉体の病気に似ている。

 風邪をひいたこともある。食あたりで、下痢をしたこともある。偏頭痛に苦しんだこと
もある。つまり人間の心というのも、そのつど、いろいろな病気にかかるということ。だ
から一部だけをみて、自分が精神障害者と決めつけるのは、正しくない。

 むしろこわいのは、(病識)、つまり、「自分が病気である」という意識がないケース。こ
のタイプの人は、まず、こうした文を読まない。その前に、自分を知ろうともしない。多
くは、その知力、能力そのものに欠ける。

 言いかえると、この文を読み、自己診断をした人は、それだけ症状が軽いということに
なる。

 さて、あなたは、どうか?

 ついでに言うと、ここでいう(不安)、もしくは(不安感)は、自分の努力で解消できる
ような生易しいものではない。心理学の世界にも、(基底不安)という言葉がある。その人
の心の奥底に住みつき、生涯にわたって、その人を苦しめる。

 で、大切なことは、そういう(不安)、あるいは(不安感)があるにしても、それを解消
しようと考えるのでなく、じょうずにつきあうこと。心の傷というのは、すべて、そうい
うもの。

+++++++++++++++++

過去に、「基底不安」について書いた
原稿をここに収録しておきます。

+++++++++++++++++

●心を許さない子ども

 無視、冷淡、親の拒否的態度は、子どもに深刻な影響を与える。乳幼児期に、心のさら
け出しができないため、親のみならず、他人と良好な人間関係を結べなくなる。

子どもは、絶対的な信頼関係のある親子関係の中で、心をはぐくむことができる。「絶対
的な信頼関係」というのは、どんなことをしても、また何をしても、許されるという信
頼関係である。親に対して疑いをいだかない安心感をいう。

 この信頼関係が欠落すると、子どもは絶対的な安心感を得られなくなり、不安を基底と
した心理状態になる。これを「基底不安」というが、その不安を解消しようと、子どもは
さまざまな方法で、心を防衛する。(1)服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、(2)攻撃的
態度(威圧したり、暴力で相手を屈服させる)、(3)回避的行動(引きこもる)、(4)依
存的行動(同情を求める)などがある。これを「防衛機制」という。自分の心を守るため
に働く、無意識下の行動と考えるとわかりやすい。

 このタイプの子どもは、孤独と不安を繰りかえしながら、そのつど相手を求めたり、拒
絶したりする。まさに「近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく」の人間関係をつくる。本
人はそれでよいとしても、困惑するのは、周囲の人たちである。あるときはベタベタと近
づいてきたかと思うと、つぎに会うと、一転、冷酷な態度をとったりする。親しみと憎し
み、依存と拒絶、密着と離反、親切と不親切が、同居しているように感ずることもある。

 が、悲劇はつづく。

 他者とのつながりがうまく結べない分だけ、独善的、独断的な行動が多くなる。一見す
ると主体的な生き方に見えるかもしれないが、その主体そのものがない。私の印象に残っ
ている女の子(中2)に、Bさんという子どもがいた。

 Bさんは、がんばり屋だった。能力的には、それほどでもなかったが、そのため勉強も、
よくできた。親は、そんなBさんを、よくほめた。先生も、ほめた。とくに気になったの
は、融通(ゆうづう)がきかなかったこと。ジョークを言っても、通じない。このタイプ
の子どもは、自分だけのカラに閉じこもりやすく、がんこになりやすい。

 そのBさんが、ここに書いた、決して心を許さないタイプの子どもだった。そのときま
でに、すでに私のところへ5、6年、通っていたが、いつも心を風呂敷で包んだような感
じがした。俗にいう「いい子」ではあったが、何を考えているか、よくわからなかった。

 決して勉強が好きというわけではなかった。しかしBさんにとっての勉強は、まさに自
己主張の道具だった。(勉強ができる)=(優秀であるという証明)=(みなにチヤホヤさ
れる)というように、である。ここにも書いたように、一見、主体性があるようで、どこ
にもない。Bさんは、いつも自分の評価を他人の目の中でしていた。

 もうおわかりかと思う。このBさんが、とっていた一連の行為は、自分の心の中の不安
を解消するためであった。勉強という手段を用いて、他人に対して優位に立つことにより、
自分にとって居心地のよい世界を、まわりに作るためであった。先にあげた防衛機制の中
の、(2)攻撃的態度の一つということになる。

 Bさんは、勉強がよくできる分だけ、孤独だった。友だちもいなかった。しかも自分よ
り目立つ仲間は、すべてライバルだった。Bさんの前で、ほかの子どもをほめたりすると、
嫉妬心からか、Bさんは、よく顔をしかめた。が、そのBさんが、ある日、とうとう勉強
でつまずいてしまった。最初は「勉強がわからない」と、よくこぼした。つぎに数か月先
のテストのことを心配したりした。親はBさんに頼まれるまま、進学塾をもう一つふやし、
家庭教師もつけた。しかしそうすればするほど、Bさんの勉強は空回りをし始めた。

 とたん、Bさんは、プツンしてしまった。ふつうの燃え尽き症候群と違うのは、無気力
症状は出てこないこと。別の形で、攻撃的になるということ。Bさんのケースでは、その
まま、本当にあっという間に、非行の道へ入ってしまった。髪の毛を染め、ツメにマニキ
ュアをし、そしてあやしげな下着を身につけるようになった。と、同時に、私の教室をや
めた。しばらくしてから、ほかの子どもたちに、Bさんが、学校でも札つきのワルになっ
たという話を聞いた。

 Bさんを知る、ほかの母親たちは、こう言う。「えっ? あのBさんが、ですか?」と。
実のところ、この私ですら、その変化に驚いたほどである。授業中でも、先生を汚い言葉
で罵倒(ばとう)して、部屋から出て行くこともあるという。

 ……では、どうするかということではない。あなたの子どもは、だいじょうぶかという
こと。あなたの子どもは、乳幼児のとき(2〜4歳の第一反抗期)から、あなたに対して、
好き勝手なことをしていただろうか。わがままというのではない。言いたいことを言い、
したいことをしたかということ。もしそうなら、それでよし。しかし乳幼児のとき、どこ
かおとなしく、仮面をかぶり、手がかからない子どもだったとしたら、ここでいう「心を
許せない子ども」を疑ってみたらよい。そして今は、その「いい子」かもしれないが、そ
のうちそうでなくなるかもしれないと、警戒をしたほうがよい。

 心の問題は、簡単にはなおらない。なおらないが、警戒するだけでも、仮に問題が起き
たときでも、原因がわかっているから、対処しやすいはず。またあなたの子どもが0〜2
歳であるなら、これからの反抗期を、うまく通り過ぎることを考える。この時期は、子ど
もの心を形成するという意味で、きわめて重要な時期である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【「私」論】

++++++++++++++++++

だれも、「私のことは私がいちばん、
よく知っている」と言う。

しかし本当に、そうか?

そう言い切ってよいか?

むしろ(私)をいちばん知らないのは、
私自身ではないのか?

そんなことを知ってもらうため、
「私論」を書いてみた。

+++++++++++++++++

●基底不安

 家庭という形が、まだない時代だった。少なくとも、戦後生まれの私には、そうだった。
今でこそ、「家族旅行」などいうのは、当たり前の言葉になったが、私の時代には、それす
らなかった。記憶にあるかぎり、私の家族がいっしょに旅行にでかけたのは、ただの一度
だけ。伊勢参りがそれだった。が、その伊勢参りにしても、夕方になって父が酒を飲んで
暴れたため、私たちは夜中に、家に帰ってきてしまった。

 私はそんなわけで、子どものころから、温かい家庭に飢えていた。同時に、家にいても、
いつも不安でならなかった。自分の落ちつく場所(部屋)すら、なかった。

 ……ということで、私は、どこかふつうでない幼児期、少年期を過ごすことになった。
たとえば私は、父に、ただの一度も抱かれたことがない。母が抱かせなかった。父が結核
をわずらっていたこともある。しかしそれ以上に、父と母の関係は、完全に冷えていた。
そんな私だが、かろうじてゆがまなかった(?)のは、祖父母と同居していたからにほか
ならない。祖父が私にとっては、父親がわりのようなところがあった。

 心理学の世界には、「基底不安」という言葉がある。生まれながらにして、不安が基底に
なっていて、そのためさまざまな症状を示すことをいう。絶対的な安心感があって、子ど
もの心というのは、はぐくまれる。しかし何らかの理由で、その安心感がゆらぐと、それ
以後、「不安」が基本になった生活態度になる。たとえば心を開くことができなくなる、人
との信頼関係が結べなくなる、など。私のばあいも、そうだった。

●ウソつきだった私

 よく私は子どものころ、「浩司は、商人の子だからな」と、言われた。つまり私は、そう
言われるほど、愛想がよかった。その場で波長をあわせ、相手に応じて、自分を変えるこ
とができた。「よく気がつく子だ」「おもしろい子だ」と言われたのを、記憶のどこかで覚
えている。笑わせじょうずで、口も達者だった。当然、ウソもよくついた。

 もともと商人は、ウソのかたまりと思ってよい。とくに私の郷里のM市は、大阪商人の
影響を強く受けた土地柄である。ものの売買でも、「値段」など、あってないようなもの。
たがいのかけ引きで、値段が決まった。

客「これ、いくらになる?」
店「そうですね、いつも世話になっているから、1000円でどう? 特別に勉強(=安
く)しておきますよ」
客「じゃあ、2つで、1500円でどう?」
店「きついねえ。2つで、1800円。まあ、いいでしょう。それでうちも仕入れ値だよ」
と。

 実際には、仕入れ値は、500円。2個売って、800円のもうけとなる。こうしたか
け引きは、日常茶飯事というより、すべてがその「かけ引き」の中で動いていた。商売だ
けではなく、近所づきあい、親戚づきあい、そして親子関係も、である。

 もっとも、私がそういう「ウソの体質」に気づいたのは、郷里のM市を離れてからのこ
とである。学生時代を過ごした金沢でも、そして留学時代を過ごしたオーストラリアでも、
この種のウソは、まったく通用しなかった。通用しないばかりか、それによって、私はみ
なに、嫌われた。さらに、この浜松でも、そうだ。距離にして、郷里から、数100キロ
しか離れていないのに、たとえばこの浜松では、「かけ引き」というのをまったくしない。
この浜松に住んで、30年以上になるが、私は、客が店先で値段のかけ引きをしているの
を、見たことがない。

 私はウソつきだった。それはまさに病的なウソつきと言ってもよい。私は自分を飾り、
相手を楽しませるために、よくウソをついた。しかし誤解しないでほしいのは、決して相
手をだますためにウソをついたのではないということ。金銭関係にしても、私は生涯にお
いて、モノやお金を借りたことは、ただの一度もない。いや、一度だけ、10円玉を借り
たことがある。緊急ための電話代だった。

●防衛機制

 こうした心理状態を、「防衛機制」という。自分の身のまわりに、自分にとって居心地の
よい世界をつくり、その結果として、自分の心を防衛する。私によく似た例としては、施
設児がいる。生後まもなくから施設などに預けられ、親子の相互愛着に欠けた子どもをい
う。このタイプの子どもも、愛想がよくなることが知られている。

 一方、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような子どもは、どこかどっしりとしていて、
態度が大きい。ふてぶてしい。これは犬もそうで、愛犬家のもとで、ていねいに育てられ
たような犬は、番犬になる。しかしそうでない犬は、だれにでもシッポを振り、番犬にな
らない。私は、そういう意味では、番犬にならないタイプの人間だった。

 ほかに私の特徴としては、子どものころから、忠誠心がほとんどないことがある。その
場、その場で、相手に合わせてしまうため、結果として、ほかのだれかを裏切ることにな
る。そのときは気づかなかったが、今から思い出すと、そういう場面は、よくあった。

だから学生時代、おかしなことだが、あのヤクザの世界に、どこかあこがれたのを覚え
ている。映画の中で、義理だ、人情だなどと言っているのを見たとき、自分にない感覚
であっただけに、新鮮な感じがした。

 が、もっとも大きな特徴は、そういう自分でありながら、決して、他人には、心を許さ
なかったということ。表面的には、ヘラヘラと、ときにはセカセカとうまくつきあうこと
はできたが、その実、いつも自分を偽っていた。相手を疑っていた。そのため、相手と、
信頼関係を結ぶことができなかった。いつも心のどこかで、「損得」を考えて行動していた。
しかしこのことも、当時の私が、知る由もないことであった。私は、自分のそういう面を、
母を通して、知った。

●母の影響

 私の母も、よくウソをついた。で、ある日、私の中に「ウソの体質」があるのは、母の
影響だということがわかった。が、それだけではなかった。私の母は、私という息子にさ
え、心を開くことをしない。詳しくは書けないが、80歳をすぎた今でも、私やワイフの
前で、自分を飾り、自分をごまかしている。そういう母を見たとき、母が、以前の私そっ
くりなのを知った。つまりそういう母を通して、過去の自分を知った。

 が、そういう私という夫をもつことで、一番苦しんだのは、私のワイフである。私たち
は、何となく結婚した。そういうような結婚のし方をした。まさにハプニング的な結婚と
いう感じである。電撃に打たれるような衝撃を感じて結婚したというのではない。そのた
めか、私たちは、当初から、どこか友だち的な夫婦だった。いっしょにいれば、楽しいと
いう程度の夫婦だった。

 そういうこともあって、私は、ワイフと、夫婦でありながら、信頼関係を築くことがで
きなかった。「この女性が、私のそばにいるのは、お金が目的だ」「この女性は、もし私に
生活力がなければ、いつでも私から去っていくだろう」と。そんなふうに考えたこともあ
る。

同時に、私は嫉妬(しっと)深く、猜疑心(さいぎしん)が強かった。町内会の男たち
とワイフが、親しげに話しているのを見ただけで、頭にカーッと血がのぼるのを感じた
こともある。

 まるで他人のような夫婦。当時を振りかえってみると、そんな感じがする。それだけに
皮肉なことだが、新鮮といえば、新鮮な感じがした。おかげで、結婚後、5年たっても、
10年たっても、新婚当初のままのような夫婦生活をつづけることができた。これは男女
のどういう心理によるものかは知らないが、事実、そうだった。

 が、そういう自分に気づくときがやってきた。私は幸運(?)にも、幼児教育を一方で
してきた。その流れの中で、子どもの心理を勉強するようになった。私はいつしか、自分
の子ども時代によく似ている子どもを、さがすようになった。と、言っても、これは決し
て、簡単なことではない。

●自分をさがす

 「自分を知る」……これは、たいへんむずかしいことである。何か特別な事情でもない
かぎり、実際には、不可能ではないか。どの人も、自分のことを知っているつもりで、実
は知らない。私はここで「自分の子ども時代によく似ている子ども」と書いたが、本当の
ところ、それはわからない。無数の子どもの中から、「そうではないか?」と思う子どもを
選び、さらにその子どもの中から共通点をさがしだし、つぎの子どもを求めていく……。
こうした作業を、これまた無数に繰りかえす。

 手がかりがないわけではない。

 私は毎日、真っ暗になるまで、外で遊んでいた。
 私は毎日、家には、まっすぐ帰らなかった。
 私は休みごとに、母の実家のある、I村に行くのが何よりも楽しみだった。

 こうした事実から、私は、帰宅拒否児であったことがわかる。

 私は泣くと、いつもそのあとシャックリをしていた。
 静かな議論が苦手で、喧嘩(けんか)になると、すぐ興奮状態になった。
 私は喧嘩をすると、相手の家の奥までおいかけていって、相手をたたいた。

 こうした事実から、私は、かんしゃく発作のもち主か、興奮性の強い子どもであったこ
とがわかる。

 私はいつも母のフトンか、祖父母のフトンの中に入って寝ていた。
 町内の旅行先で、母のうしろ姿を追いかけていたのを覚えている。
 従兄弟(いとこ)たちと寝るときも、こわくてひとりでは、寝られなかった。

 こうした事実から、私は分離不安のもち主だったことがわかる。

 ……こうした事実を積み重ねながら、「自分」を発見する。そしてそうした「自分」に似
た子どもをさがす。そしてそういう子どもがいたら、なぜ、その子どもがそうなったかを、
さぐってみる。印象に残っている子ども(年長男児)に、T君という男の子がいた。
 
●T君

 T君は、いつも祖母につられて、私の教室にやってきた。どこかの病院では、自閉症と
診断されたというが、私はそうではないと思った。こきざみな多動性はあったが、それは
家庭不和などからくる、落ち着きなさであった。脳の機能障害によるものなら、子どもの
気分で、静かになったり、あるいはおとなしくなったりはしない。T君は、私がうまくの
せると、ほかの子どもたちと同じように、ゲラゲラと笑ったり、あるいは気が向くと、静
かにプリント学習に取りくんだりした。

 そのT君の祖母からいつも、こんなことを言われていた。「母親が会いにきても、絶対に
会わせないでほしい」と。その少し前、T君の両親は、離婚していた。が、その日が、や
ってきた。

 まずT君の母親の姉がやってきて、こう言った。「妹(T君の母親)に、授業を参観させ
てほしい」と。私は祖母との約束があったので、それを断った。断りながら、姉を廊下の
ほうへ、押し出した。私はそこにT君の母親が泣き崩れてかがんでいるのを見た。私はつ
らかったが、どうしようもなかった。T君が母親の姿を見たら、T君は、もっと動揺した
だろう。そのころ、T君は、やっと静かな落ち着きを取りもどしつつあった。

 T君が病院で、自閉症と誤診されたのは、T君に、それらしい症状がいくつかあったこ
とによる。決して病院を責めているのではない。短時間で、正確な診断をすることは、む
ずかしい。こうした心の問題は、長い時間をかけて、子どもの様子を観察しながら診断す
るのがよい。しかし一方、私には、その診断する権限がない。診断名を口にすることすら、
許されない。私はT君の祖母には、「自閉症ではないと思います」ということしか、言えな
かった。

●T君の中の私

 T君は、暴力的行為を、極度に恐れた。私は、よくしゃもじをもって、子どもたちのま
わりを歩く。背中のまがっている子どもを、ピタンとたたくためである。決して痛くはな
いし、体罰でもない。

 しかしT君は、私がそのしゃもじをもちあげただけで、おびえた。そのおびえ方が、異
常だった。私がしゃもじをもっただけで、体を震わせ、興奮状態になった。そして私から
体をそらし、手をバタつかせた。私が、「T君、君はいい子だから、たたかないよ。心配し
なくてもいいよ」となだめても、状態は同じだった。一度、そうなると、手がつかられな
い。私はしゃもじを手から離し、それをT君から見えないところに隠した。

 こういうのを「恐怖症」という。私は、T君を観察しながら、私にも、似たような恐怖
症があるのを知った。

 私は子どものころ、夕日が嫌いだった。赤い夕日を見ると、こわかった。
 私は子どものころ、酒のにおいが嫌いだった。酒臭い、小便も嫌いだった。
 私は毎晩、父の暴力を恐れていた。

 私の父は、私が5歳くらいになるころから、アルコール中毒になり、数晩おきに近くの
酒屋で酒を飲んできては、暴れた。ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと、人が変わっ
た。そして食卓のある部屋で暴れたり、大声で叫びながら、近所を歩きまわったりした。
私と姉は、そのたびに、家の中を逃げまわった。

●フラシュバック

 そんなわけで今でも、ときどき、あのころの恐怖が、もどってくることがある。一度、
とくに強烈に覚えているのは、私が6歳のときではなかったかと思う。姉もその夜のこと
をよく覚えていて、「浩ちゃん、あれは、あんたが6歳のときよ」と教えてくれた。

 私は父の暴力を恐れて、2階の1番奥にある、物干し台に姉と2人で隠れた。そこへ母
が逃げてきた。が、階下から父が、「T子(母の名)! T子!」と呼ぶ声がしたとき、母
だけ、別のところへ逃げてしまった。

 そこには私と姉だけになってしまった。私は姉に抱かれると、「姉ちゃん、こわいよ、姉
ちゃん、こわいよ」と声を震わせた。

 やがて父は私たちが隠れている隣の部屋までやってきた。そして怒鳴り散らしながら、
また別の部屋に行き、また戻ってきた。怒鳴り声と、はげしい足音。そしてそのつど、バ
リバリと家具をこわす音。私は声をあげることもできず、声を震わせて泣いた……。

 声を震わせた……今でも、ときどきあの夜のことを思い出すと、そのままあの夜の状態
になる。そういうときワイフが横にいて、「あなた、何でもないのよ」と、なだめて私を抱
いてくれる。私は年がいもなく、ワイフの乳房に口をあて、それを無心で吸う。そうして
吸いながら、気分をやすめる。

 数年前、そのことを姉に話すと、姉は笑ってこう言った。「そんなの気のせいよ」「昔の
ことでしょ」「忘れなさいよ」と。残念ながら、姉には、「心の病気」についての理解は、
ほとんどない。ないから、私が受けた心のキズの深さが理解できない。

●ふるさと

 私にとって、そんなわけで、「ふるさと」という言葉には、ほかの人とは異なった響きが
ある。どこかの学校へ行くと、「郷土を愛する」とか何とか書いてあることがあるが、心の
どこかで、「それができなくて苦しんでいる人もいる」と思ってしまう。

 私はいつからか、M市を出ることだけしか考えなくなった。M市というより、実家から
逃げることばかりを考えるようになった。今でも、つまり55歳という年齢になっても、
あのM市にもどるというだけでも、ゾーッとした恐怖感がつのる。実際には、盆暮れに帰
るとき、M市に近づくと、心臓の鼓動がはげしくなる。40歳代のころよりは、多少落ち
着いてはきたが、その状態はほとんど変わっていない。

 しかし無神経な従兄弟(いとこ)というのは、どこにでもいる。先日もあれこれ電話を
してきた。「浩司君、君が、あの林家の跡取りになるんだから、墓の世話は君がするんだよ」
と言ってきた。しかし私自身は、死んでも、あの墓には入りたくない。M市に葬られるの
もいやだが、あの家族の中にもどるのは、もっといやだ。私は、あの家に生まれ育ったた
め、自分のプライドすら、ズタズタにされた。

 私が今でも、夕日が嫌いなのは、その時刻になると、いつも父が酒を飲んで、フラフラ
と通りを歩いていたからだ。学校から帰ってくるときも、そのあたりで、何だかんだと理
由をつけて、友だちと別れた。ほかの時代ならともかくも、私にとってもっとも大切な時
期に、そうだった。

●自分を知る

 そういう自分に気づき、そういう自分と戦い、そういう自分を克服する。私にはずっと
大きなテーマだった。しかし自分の心のキズに気づくのは、容易なことではない。心のキ
ズのことを、心理学の世界では、トラウマ(心的外傷)という。仮に心にキズがあっても、
それ自体が心であるため、そのキズには気づかない。それはサングラスのようなものでは
ないか。青いサングラスでも、ずっとかけたままだと、サングラスをかけていることすら
忘れてしまう。サングラスをかけていても、赤は、それなりに赤に見えてくる。黄色も、
それなりに黄色に見えてくる。

 たとえば私は子どものころ、頭にカーッと血がのぼると、よく破滅的なことを考えた。
すべてを破壊してしまいたいような衝動にかられたこともある。こうした衝動性は、自分
の心の内部から発生するため、どこからが自分の意思で、どこから先が、自分の意思でな
いのか、それがわからない。あるいはすべてが自分の意思だと思ってしまう。

 あるいは自分の思っていることを伝えるとき、ときとして興奮状態になり、落ちついて
話せなくなることがあった。一番よく覚えているのは、中学2年になり、生徒会長に立候
補したときのこと。壇上へあがって演説を始めたとたん、何がなんだか、わからなくなっ
てしまった。そのときは、「あがり性」と思ったが、そんな簡単なものではなかった。頭の
中が混乱してしまい、口だけが勝手に動いた。

 私がほかの人たちと違うということを発見したのは、やはり結婚してからではないか。
ワイフという人間を、至近距離で見ることによって、自分という人間を逆に、浮かびあが
らせることができた。そういう点では、私のワイフは、きわめて常識的な女性だった。情
緒は、私よりはるかに安定していた。精神力も強い。たとえば結婚して、もう30年以上
になるが、私はいまだかって、ワイフが自分を取り乱して、ワーワーと泣いたり、叫んだ
りしたのを、見たことがない。

 一方、私は、よく泣いたり、叫んだりした。情緒も不安定で、何かあると、すぐふさい
だり、落ちこんだりする。精神力も弱い。すぐくじけたり、いらだったりする。私はそう
いう自分を知りながら、他人も似たようなものだと思っていた。少なくとも、私が身近で
知る人間は、私によく似ていた。祖母も、父も、母も、姉も。だから私が、ほかの人と違
うなどというのは、思ったことはない。違っていても、それは「誤差」の範囲だと思って
いた。

●衝撃

 ふつうだと思っていた自分は、実は、ふつうではなかった。……もっとも、私は、他人
から見れば、ごくうつうの人間に見えたと思う。幸いなことにというか、心の中がどうで
あれ、人前では、私は自分で自分をコントロールすることができた。たとえばいくらワイ
フと言い争っていても、電話がかかってきたりすると、その瞬間、ごくふつうの状態で、
その電話に出ることができた。

 自分がふつうでないことを知るのは、衝撃的なことだ。私の中に、別の他人がいる……
というほど、大げさなことではないが、それに近いといってもよい。自分であって、自分
でない部分である。それが自分の中にある! そのことは、子どもたちを見ているとわか
る。

 ひがみやすい子ども、いじけやすい子ども、つっぱりやすい子どもなど。いろいろな子
どもがいる。そういう子どもは、自分で自分の意思を決定しているつもりでいるかもしれ
ないが、本当のところは、自分でない自分にコントロールされている。そういう子どもを
見ていると、「では、私はどうなのか?」という疑問にぶつかる。

 この時点で、私も含めて、たいていの人は、「私は私」「私はだいじょうぶ」と思う。し
かしそうは言い切れない。言い切れないことは、子どもたちを見ていれば、わかる。それ
ぞれの子どもは、それぞれの問題をかかえ、その問題が、その子どもたちを、裏から操っ
ている。たとえば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えなくなると、ギャーッとものす
ごい声を張りあげて、あとを追いかけたりする。先にあげた、T君も、その一人だ。

 その分離不安の子どもは、なぜそうなるのか。また自分で、なぜそうしているかという
自覚はあるのか。さらにその子どもがおとなになったとき、その後遺症はないのか、など
など。

●なぜ自分を知るか

 ここまで書いて、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「あなたは自分を知れと言う
けど、知ったところで、それがどうなの?」と。

 自分を知ることで、少なくとも、不完全な自分を正すことができる。人間の行動という
のは、一見、複雑に見えるが、その実、同じようなパターンの繰りかえし。その繰りかえ
しが、こわい。本来なら、「思考」が、そのパターンをコントロールするが、その思考が働
く前に、同じパターンを繰りかえしてしまう。もっとわかりやすく言えば、人間は、ほと
んどの行動を、ほとんど何も考えることなしに、繰りかえす。

 そのパターンを裏から操るのが、ここでいう「自分であって、自分でない部分」という
ことになる。よい例が、子どもを虐待する親である。

●子どもを虐待する親

 子どもを虐待する親と話していて不思議だなと思うのは、そうして話している間は、そ
ういう親でも、ごくふつうの親であるということ。とくに変わったことはない。ない、と
いうより、むしろ、子どものことを、深く考えている。もちろん虐待についての認識もあ
る。「虐待は悪いことだ」とも言う。しかしその瞬間になると、その行動をコントロールで
きなくなるという。

 ある母親(30歳)は、子ども(小1)が、服のソデをつかんだだけで、その子どもを
はり倒していた。その衝撃で、子どもは倒れ、カベに頭を打つ。そして泣き叫ぶ。そのと
たん、その母親は、自分のしたことに気づき、あわてて子どもを抱きかかえる。

 その母親は、私のところに相談にきた。数回、話しあってみたが、理由がわからなかっ
た。しかし3度目のカウンセリングで、母親は、自分の過去を話し始めた。それによると
こうだった。

 その母親は、高校を卒業すると同時に、一人の男性と交際を始めた。しばらくはうまく
(?)いったが、そのうち、その母親は、その男性が、自分のタイプでないことに気づい
た。それで遠ざかろうとした。が、とたん、相手の男性は、今でいうストーカー行為を繰
りかえすようになった。

 執拗(しつよう)なストーカー行為だった。で、数年がすぎた。が、その状態は、変わ
らなかった。本来なら、その母親はその男性と、結婚などすべきではなかった。しかしそ
の母親は、心のやさしい女性だった。「結婚を断れば、実家の親たちに迷惑がかかるかもし
れない」ということで、結婚してしまった。

 「味気ない結婚でした」と、その母親は言った。そこで「子どもができれば、その味気
なさから解放されるだろう」ということで、子どもをもうけた。それがその子どもだった。

 このケースでは、夫との大きなわだかまりが、虐待の原因だった。子どもが母親のソデ
をつかんだとき、その母親は、無意識のうちにも、結婚前の心の様子を、再現していた。

●だれでも、キズはある

 だれでも、キズの1つや2つはある。キズのない人は、いない。だから問題は、キズが
あることではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振りまわされること。そして
同じ失敗を繰りかえすこと。これがこわい。

 そのためにも、自分を知る。自分が、いつ、どのような形で、今の自分になったかを知
る。知ることにより、その失敗から解放される。

 ここにあげた母親も、しばらくしてから私のほうから電話をすると、こう話してくれた。
「そのときはショックでしたが、そこを原点にして、立ちなおることができました」と。

 しかし自分を知ることには、もう一つの重要な意味がある。

●真の自由を求めて

 自分の中から、自分でないものを取り去ることによって、その人は、真の自由を手に入
れることができる。別の言葉で言うと、自分の中に、自分でない部分がある間は、その人
は、真の自由人ということにはならない。

 たとえば本能で考えてみる。わかりやすい。

 今、目の前にたいへんすてきな女性がいる。(あなたが女性なら、男性ということになる。)
その女性と、肌をすりあわせたら、どんなに気持ちがよいだろうと、あなたは頭の中で想
像する。

 ……そのときだ。あなたは本能によって、心を奪われ、その本能によって行動している
ことになる。極端な言い方をすれば、その瞬間、本能の奴隷(どれい)になっていること
になる。(だからといって、本能を否定しているのではない。誤解のないように!)

 人間の行動は、こうした本能にかぎらず、そのほとんどが、実は、「私は私」と思いつつ、
結局は、私でないものに操られている。1日の行動を見ても、それがわかる。

 家事をする。仕事をする。育児をする。すべての行為が何らかの形で、私であって私で
ない部分によって、操られている。スーパーで、値ごろなスーツを買い求めるような行為
にしても、もろもろの情報に操られているといってもよい。もっともそういう行為は、生
活の一部であり、問題とすべきではない。

 問題は、「思想」である。思想面でこそ、あらゆる束縛から解放されたとき、その人は、
真の自由を、手に入れることになる。少し飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、その
第1歩が、「自分を知る」ということになる。

●自分を知る

 私は私なのか。本当に、私と言えるのか。どこからどこまでが本当の私であり、どこか
ら先が、私であって私でない部分なのか。

 私は嫉妬深い。その嫉妬にしても、それは本当に私なのか。あるいはもっと別の何かに
よって、動かされているだけなのか。今、私はこうして「私」論を書いている。自分では
自分で考えて書いているつもりだが、ひょっとしたら、もっと別の力に動かされているだ
けではないのか。

 もともと私はさみしがり屋だ。人といるとわずらわしく感ずるくせに、そうかといって、
ひとりでいることができない。ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」※は、どこかで
書いた。私は、そのヤマアラシに似ている。まさにヤマアラシそのものと言ってもよい。
となると、私はいつ、そのようなヤマアラシになったのか。今、こうして「私」論を書い
ていることについても、自分の孤独をまぎらわすためではないのか。またこうして書くこ
とによって、その孤独をまぎらわすことができるのか。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。しかしそれをしないで、その人は、真の
自由を手に入れることはできない。それが、私の、ここまでの結論ということになる。

●私とは……

 私は、今も戦っている。私の体や心を取り巻く、無数のクサリと戦っている。好むと好
まざるとにかかわらず、過去のわだかまりや、しがらみを引きずっている。そしてそうい
う過去が、これまた無数に積み重なって、今の私がある。

 その私に少しでも近づくために、この「私」論を書いてみた。
(030304)※

※ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」……寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、た
がいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相
手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマア
ラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあっ
た。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 16日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page022.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己同一性(アイデンティティ)

++++++++++++++++++

(自分はこうあるべきだ)というのが自己概念。
その自己概念に対して、そこには、
現実の自分(=現実自己)がいる。

この自己概念と現実自己が、どの程度一致しているか。

それが、「自己同一性」の問題ということになる。

「アイデンティティ」の訳語である。

「自己同一性」を、「自我同一性」と書く
研究者もいる。

アイデンティティの確立した子どもは、
どっしりとした落ち着きがある。そうでない
子どもは、そうでない。

いつも将来に対する、ばくぜんとした
不安感に襲われる。自発的、自主的な
行動ができなくなる。

しかしこれは、子どもだけの問題ではない。

+++++++++++++++++++

●子どもの問題
 
(自分はこうあるべきだ)(こうありたい)と、自分が心の中に描く自己像を、(自己概
念)という。

 たとえて言うなら、恋愛期を思い浮かべてみればよい。恋愛前には、ほとんどの男女は、
(理想の異性)を、頭の中に描く。

 一方、そこには、現実の自分、つまり現実自己がある。いくら理想の異性を頭の中に思
い浮かべても、その前に、理想の異性が現れなければ、どうしようもない。仮に現れても、
相手にされるかどうか、わからない。

 もちろん電撃に撃たれるような恋をして、相思相愛で、結ばれるカップルもいる。そう
いう状態を、自己概念と現実自己の一致した状態という。

 で、子どものばあい、つぎの4期を経て、アイデンティティを確立する。

(1)人形期
(2)反抗期
(3)模索期(モラトリアム期)
(4)同一性の確立
 
(1)人形期……親の期待に応え、親の希望どおりになろうと努力する時期。年齢的には、
〜満10歳(小学3、4年生)。
(2)反抗期……やがて子どもは、自ら自己概念を描き始める。そして現実の自分とのギ
ャップを知り、葛藤する。親からの呪縛感に反抗する。年齢的には、〜18歳前後。
(3)模索期……自己概念に自分を近づけようとしたり、あるいは自己概念そのものを求
めて模索する。年齢的には、〜24、5歳前後。
(4)同一性の確立……(自分のしたいこと)と(自分のしていること)を一致させる。

 ここに年齢を、例としてあげたが、同一性が確立する時期は、それぞれみな、ちがう。
中学、高校生ぐらいのときに、すでに方向性の定まっているいる子どももいれば、30歳
を過ぎても、方向性の定まらない子どももいる。

 ひとつの例をあげて考えてみる。

 A君(年長児)は、クラスでもよく目立つほど、聡明な子どもだった。母親は、「将来は、
医者にしたい」と言った。A君も、「ぼくは、医者になる」と言った。

 この時期、子どもは、親の価値観をそのまま受けいれ、親に好かれようと、無意識のう
ちにも、親の描く(自己像)を受けいれようとする。

 が、小学4年生になったとき、変化が起きた。A君は、サッカーが好きだった。それま
では、近所の子どもたちとサッカーをして遊ぶことが多かった。が、母親が、無理やりA
君を進学塾に入れた。週3回の塾である。

 そのため、母親はA君に、「サッカーをやめるように」と言った。A君はそれについて不
満だった。が、母親に従った。

 小さなキレツだったが、やがてそのキレツは大きくなった。塾から返されるテスト結果
を見て、母親は、A君を叱ることが多くなった。「こんなことでは、S中学に入れないわよ!」
と。A君には、それが「こんなことでは医者になれないわよ」と聞えた。

 こうしてA君は、やがて反抗期へと突入していった。それまでは母親に従順だったのだ
が、その母親に対して暴言を吐いたり、ときには、ものを投げつけるなどの暴力行為を働
くようになった。

 何とかA中学に入学したものの、A君の心の中には、挫折感が残ったままだった。母親
に反抗しながらも、その母親の期待に応えられなかったという挫折感。A君は、悶々とし
た気分で、毎日を過ごした。

 が、ある日、A君は、遊園地で、数人の男女が、着ぐるみ身を包み、舞台の上で踊って
いるのを見た。楽しそうだった。と、そのとき、A君の心の中で、何かが光るのを感じた。
最初は小さな光だったが、やがてその光は、心の中全体を照らすようになった。

 A君は、そのままA高校へと進学した。が、勉強はつまらないものだった。勉強に興味
をもつことができなかった。で、親に内緒で、あちこちの養成所の案内書を手に入れた。
A君はある日、その案内書を母親に見せた。「ぼくも、この仕事がしたい」「学校をやめて、
養成所に通う」と。

 母親は、絶望感から、半狂乱になってしまった。父親を巻きこんで、それに猛反対した。
が、A君の意思はかたかった。「ぼくは、どうしても、そこへ行く」と。

 家出寸前のところで、親のほうが、折れた。「そこまで思っているなら……」ということ
で、親は、養成所の近くにワンルームマンションを借りてやった。A君は、そのまま高校
を中退した。

 で、そのA君だが、現在は、その劇団でも指導的な立場について、活躍している。全国
のイベント会場で、踊っている。

 以上が、A君の例だが、どこからどこまでが、人形期で、どこからどこまでが反抗期。
さらには、どこからどこまでが、模索期かということは、ここに改めて説明するまでもな
い。A君は、こうして自己の同一性を確立した。

●退職者の問題

 しかし自己同一性の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。近くに、こんな知人が
いる。

 その知人は、最近定年で退職したのだが、退職してからも、それまでと同じように、か
ばんをもって、会社に行く。もちろん会社に行くのではない。行くフリをしているだけ。
電車に乗って、街までは行くのだが、あとは、何をするでもなし、何もしないでもなし。
一日をそうして過ごして、そして夕方には、家に帰ってくる。

 妻や子どもたちには、「職さがし……」と言っていたそうだ。いや、退職直後は、その会
社の子会社の倉庫会社で、倉庫番の仕事をしていたのだが、1週間もつづかなかったとい
う。

 この退職者のばあい、それまでは会社一筋で、仕事をしていた。「一社懸命」という言葉
も、よく使った。が、退職と同時に、その(糸)が切れてしまった。と、同時に、アイデ
ンティティがばらばらになってしまった。心理学の用語を使うなら、(アイデンティティの
拡散)ということになる。

 子どもでも、アイデンティティが拡散すると、心理的にもきわめて不安定になることが
知られている。将来に対して大きな不安感をもち、自主的、自発的な行動がとれなくなる。

 その知人も、同じように考えてよい。家にいても、することがない。家族からは、ゴミ
のように思われている。(それはその知人の被害妄想のようなものだったが……。)かとい
って、自分がしたいことすら、はっきりしない。だから当然、自分で何をしてよいのかわ
からない。心そのものが、宙ぶらりんのような状態になる。

 では、どうすればよいのか?
 
 実は、この問題は、私自身の問題でもある。

 ときどき私は、「いったい、私は何をしたいのか」と思い悩むことがある。そこでいくつ
かそれを頭の中で、思い描いてみる。

☆オーストラリアへ移住したい。
☆世界中を旅行してみたい。
☆旅行記を書いてみたい、など。

 しかしそのあとがつづかない。「だからどうなの?」「それがどうしたの?」と聞かれる
と、返答に困ってしまう。その前に、生活費の問題もある。健康の問題もある。私が本当
にしたいこと、あるいはすべきことは、もっとほかにあるように思うのだが、それがはっ
きりとしない。つまり退職後の自己概念が、どうしても描けない。

 自己概念が描けないのに、どうして、現実の自分を、その自己概念に近づけることがで
きるのか?

 「有名になりたい」という気持ちは、今でもないわけではない。それにお金は嫌いでは
ない。しかしそれとて、「だから、どうなの?」と聞かれると、これまたはたと、返答に困
ってしまう。

 言いかえると、定年退職をするということは、同時に、どうやって自己概念をもつかと
いう問題ということになる。それがはっきりしないまま退職してしまうと、ここに書いた
知人のようになってしまう。

 しかし老後は長い。人によっては、退職後、20年とか、30年もつづく。それだけの
年月を、無益に過ごしてしまうというのも、どうか?

 そこで青年期には、模索期(モラトリアム)という時期がある。わかりやすく言えば、(私
さがしの時期)ということになる。この時期を通して、青年は、(私)をさがし求め、その
(私)に行きつく。

 同じように、退職者にも、模索期(モラトリアム)があってもよいのではないか。……
といっても、青年のように、時の流れに身を任せ、のんびりしていることはできない。残
された時間には、かぎりがある。青年期とちがい、時間の流れが、速い。あっという間に、
1年とか、2年が過ぎていく。加えて、体力、気力ともに、衰えてくる。

 で、再び、私のばあいだが、実のところ、(したいこと)が、はっきりしない。今まで、
生活に追われるまま、そんなことを考える余裕すらなかった。(したいこと)そのものが、
土の中に埋もれてしまっている。そんな感じがする。

 そんなわけで、今も、こう考えている。「私は、何をしたいのか」「何をすべきなのか」
と。まさに私は、模索期(モラトリアム)に入ったことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自己の同一性 自己同一性 自我同一性 自己概念 現実自己 モラトリアム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心の傷】

●心を司る脳

++++++++++++++++++

脳みその中心部に、辺縁系と呼ばれる組織体がある。
昔は、「原始脳」と呼ばれ、機能を失った脳という
ことになっていた。 

しかしそれがとんでもないまちがいであることが、
最近の研究でわかってきた。

原始脳どころか、人間の心を司っている。

++++++++++++++++++

 今までに、「辺縁系」について私が書いた原稿を、いくつか検索してみた。内容が、かな
りの部分でダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短
期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶とい
うのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれ
に含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記
憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶
は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日
本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だ
けでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題
によって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであ
ると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが
近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当た
る。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。
しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。こ
の危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳とい
うことになる。

人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こ
しながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論と
して、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、
最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思
考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)な
ども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」
は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多い
から思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはな
らない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数
ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子ど
もということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここで
ひも解いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』
というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であっ
て、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、
つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大
脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬も
この中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組
織があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説
明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族
維持などを維持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新
皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずし
も的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。
いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十
分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』
のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考え
るばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよけれ
ばさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状
回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によ
れば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、
そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気
がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る
漢方診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな
部分がそれぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成している
というのだ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別
される古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の
思考作用をコントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段
階で結論を出すのは危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通して
いる。あえて結びつけると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、
情報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。

これは漢方でいう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを
満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃
体ということになる。もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもな
い。その動機づけを決めるのが、帯状回ということになる。これは漢方でいうところの
「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というときは、ただ単に知恵や知識が
豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。

が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切
である。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっ
ていくというわけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活
動の一部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動
(漢方では「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●無理に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』
というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であっ
て、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、
つぎのように説明されている。

●動機づけを決める帯状回?

 大脳半球の中心部に、間脳とか脳梁とか呼ばれている部分がある。それらを包み込んで
いるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつか
さどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯
状回という組織がある。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の
活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従
来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。しかし最近の研究
では、それぞれにも独立した働きがあることがわかってきた(伊藤正男氏ほか)。)

●やる気が思考力を決める

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新
皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずし
も的確ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞ
れに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれてい
ても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲
む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

●乗り気にさせるのが伸ばすコツ

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。新井氏はこう書いている。「考えるにしても、
一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違う
でしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、
これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によ
れば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、
そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気
がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●脳と心と快感

 人間の体は、数十万年という、まさに気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化し
てきた。指一本、爪の形や位置にしても、そこには、長い進化の歴史が刻まれている。そ
れは常識だが、実は、人間の心も、環境に適応するため、そのつど進化してきたと考える
のが、正しい。

 私は今、脳の中心部にある、扁桃体と呼ばれている部分に、たいへん興味をもっている。
(扁桃核ともいう。)

この扁桃体というのは、大脳の辺縁系の中、つまり新皮質部の下にある原始的な脳の一
部だと思えばよい。(原始的という言い方は正しくないかもしれない。大脳連合野の新皮
質部が比較的あとになって発達した脳であることに対して、そう言う。新皮質部は、人
間の思考など、知的活動をつかさどる。)

この扁桃体が、人間の情動活動に、たいへん深く関わっているということが、最近の研
究でわかってきた(伊藤正男氏の思考システムより)。

 たとえばこの扁桃体を、サルの実験などで、刺激したり、反対に破壊したりすると、情
動的な大きな変化が起こるという(新井康允氏)。「サルの扁桃体とその周囲の大脳皮質を
壊すと、情緒的反応性の低下が見られ、ヘビやイヌをふだんは怖がるのに、扁桃体を破壊
されたサルは、ヘビやイヌを近づけても、平気になってしまう」「扁桃体とその周囲の大脳
皮質を壊された雄ネコは、ウサギに交尾しようとしたり、ばあいによっては、ヒトに性行
動を示した例も報告されています」(新井康允氏「脳のしくみ」)と。

 こうした事実から、新井康允氏は、つぎのように結論づけている。

 「このようなことから、扁桃体は、外から入ってくる刺激について、それぞれ生物学的
な意味づけや、生物学的価値判断をくだし、快、不快、恐怖といった情動反応を起こさせ
るメカニズムがあると考えられます」(同書)と。

 伊藤正男氏も、「(思考は大脳連合野がつかさどるが)、満足、不満足の価値判断は、新皮
質が行うのではなく、扁桃体の快、不快システムを転用して、満足、不満足の価値判断を
くだしているのではないか」(同書)と述べている。

つまり私たちのもつ常識的な反応は、知的な活動によるものというよりは、もっと原始
的なレベルで、脳の機能の一部として起きているのではないかということ。たとえば人
に親切にしたり、やさしくしたりすると、たしかに気持ちがよいが、そうした快感は、
脳そのものが判断しているということだ。で、もしこれが事実なら、これは重大な意味
をもつ。

 仮に、これはあくまでもこれは仮定の問題だが、もし人間が、仲間を殺すことに快感を
覚えるようなシステムをもっていたとするなら、人間はとっくの昔に絶滅していただろう
ということ。もし人間が、仲間に意地悪をしたり、いじめることに快感を覚えるようなシ
ステムをもっていたとしたら、人間はとっくの昔に絶滅していただろうということ。人間
が今の今、こうして生き延びていること自体、脳のシステムの中で、それを判断するしく
みが働いたということになる。たがいに助けあい、たがいに誠実であることに快感を覚え
るようになっているということになる。つまりこうした扁桃体があるということが、まさ
に進化の結果といえるのではないのか。

 もしこのことがわからなければ、今、こんな実験をしてみるとよい。どんなことでもよ
い。あなたの身の回りのことで、何か問題がおきたとき、正直に、そして誠実に、その問
題に対処してみてほしい。人に親切にするのもよい。そのとき、あなたは今まで感じなか
った、快感を覚えるはずである。この快感の根源こそが、新井氏や伊東氏のいうところに
よる、(多分? まちがっているかもしれないが……)、扁桃体の快、不快システムによる
ものということになる。私はこのことを、こんな事件を通して、学んだ。

 少し前だが、私は100円のペンを7本買って、1000円札を出した。で、レジの女
性からつり銭を渡され、店を出ようとするとき、手の中を見ると、つり銭が300円以上
あるのに気づいた。私は瞬間、「アッ」と思った。が、1、2歩、歩いたところで、振りか
えり、「あのう……」と言った。見ると、いつの間にか店長の女性もそこに立っていて、ニ
コニコ笑いながら、こう言った。「今、すべての商品を10%引きにしていますから」と。

 私はその一言で、心の中が晴れ晴れとした。そうした状態を、快感というのなら、それ
はまさに快感だった。私もニコニコ笑いながら、「そうですか。ありがとうございます」と
頭をさげたが、その快感は、私の大脳連合野によるもの、つまり知的活動によるものとい
うよりは、もっと深いところから湧(わ)きあがってくるものだった。

 だから……、というのは失礼かもしれないが、(というのも、すでにそんなことを実践し
ている人も多いと思うので)、こうした知識を一度頭に入れながら、あなたも一度、心の実
験をしてみてほしい。何かのことで、そういう立場に立たされたら、正直に、そして誠実
に対処してみてほしい。人に親切にしてあげたり、やさしくしてあげるのもよい。そして
そのとき、あなたの心(情動活動)が、あなたの中でどう反応するかを静かに観察してみ
てほしい。それが、あなたの中の扁桃体による作用ということになる。

 むずかしい話になってしまったが、以上をまとめると、こういうことになる。

●人に親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、気持ちがよい。
●人に正直に接したり、誠実に接すると、気持ちがよい。
●その快感は、大脳辺縁系の扁桃体が判断して、生み出す。

つまりそういう機能があるがため、人間は今日の今日まで、進化の過程で生き延びるこ
とができた。そうでなければ、もうとっくの昔に絶滅していたはずである。進化論とい
うと、肉体という「形」ばかりが問題になるが、「心」もまた、問題とされるべきである。

それがわからなければ、あなたも心の実験をしてみるとよい。だれかに、親切に。だれ
かに、やさしく。だれかに、正直に。だれかに、誠実に。あなたもきっと、今までにな
い快感を覚えるはずだ。あなたの脳の中には、そういうシステムがすでに、できている。
それを信じて、一度実験してみてほしい。私がここに書いたことの意味を理解してもら
えるはずである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、
魚そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰
り返す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせ
る場面に、よく出会う。

たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、
さまざまな感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがあ
る。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の
発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、
扁桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野
の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。
するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみる
と、それは知的な判断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な
部分によってそうしていことがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく4〜6歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であ
ることがわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、
生まれながらにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなった
と考えるのが正しい。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、
絶対に悪い子どもにはならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断
言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよ
くわかる。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺し
ても、それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚
えるとか。新生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早く
ミルクをよこしやがれ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間
はとっくの昔に、絶滅していたはずである。つまり今、私たちがここに存在するというこ
とは、とりもなおさず、私たちが善人であるという証拠ということになる。私はこのこと
を、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、こ
の1、2年で1度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、
場合によっては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣
の中の幼虫を地面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば10分もたたないうちに、
無数の小さなアリが集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかか
っているのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあ
るハチの幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っ
ているだけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうも
それだけではないように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる
排泄行為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考え
る。そして相手が楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はア
リたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。

つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行
動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういっ
た重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔
に絶滅していたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜
びを感じているに違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しか
も過酷な肉体労働をすることができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それ
とも悪なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存
在」なのである。私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠
である。繰り返すが、もし私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔
に、恐らくアメーバのような生物にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じて
よい。自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それ
に従って行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほど
いい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子ど
もに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くす
るコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感を
もたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も
多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられる
か」とか考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そう
いう前向きな姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロ
ー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほ
めて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機
能そのものが、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらな
ければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきている
ように感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交
通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思
う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こう
して自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」
なのか。手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)
がない。あるはずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子は
こういう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残
るようになる。(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳
の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないこと
になる。そのことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわ
りは若さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現した
らいいのかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その
裏から基本的に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言
葉をつくらないといけないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。い
わばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプロ
グラムと考えるとわかりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまり
にすぎない。そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にあ
る神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳の
OS」と表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに
支配され、その範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のキロンも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的
というわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜
62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さを
なす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、
釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行する
こと。ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死
ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)
をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はない
ことになる。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒン
トとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』であ
る。彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もち
ろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考
えることができる。書くことイコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていな
い。

++++++++++++++++++++

〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きると結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と
いうのである。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日・あれこれ

++++++++++++++++

背筋が寒い。
風邪?
そんなわけで、今日は遠出もせず、
(買い物には行ってきたが……)、
家でおとなしくしていた。

熱はない。
ほかに症状もない。
花粉症による寒気と似ている。

気をつけよう!

++++++++++++++++

●モニター

パソコンの、モニターを取りかえた。19インチ・ワイドのモニターにした。広い。大
きい。見やすい。
 
 ほんの数年前には、「1インチ、1万円」と言われていた。が、今は、19インチ・ワイ
ドのモニターが、2万9000円。つまり1インチ、1600円弱。そう言えば、今朝の
チラシには、8GのUSBメモリーが、8800円とあった。

 これも数年前には、考えられなかった値段である。

 ほかにもある。SDカードにしても、今では、2GBのものが、やはり、何と、900
0円前後で手に入る。

 で、モニターの話。日本のB社製とあるが、実際には、台湾製。パソコンのモニターと
して使うには、申し分、ない。

 ところでワイフが、「パソコンを買いかえたら?」と、さかんに言ってくれる。GOOD 
WIFE! しかし、古いパソコンには、それなりの愛着、というものがある。指にもな
じんでいる。今、この文章を打っているパソコンは、もう、8年近くも使っている。人間
にたとえるなら、80歳というところか?

 その間、内部の部品は、マザーボード以外は、ほとんど取りかえた。ハードディスク、
CDドライブ、メモリーなどなど。その上、改造に改造を重ねた。つまりその分だけ、捨
てがたい。

 そんなわけで、もうしばらく、このパソコンを使ってみる。

(注)私は、安全のため、文書作成用のパソコン、インターネット用のパソコン、HP編
集用のパソコンと、それぞれ使い分けている。今日、モニターを取りかえたのは、その中
の、文書作成用のパソコン。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●常識

+++++++++++++++++++

もしあなたが、どこかの銀行マンだったとする。
そのあなたが、にせ札をつかまされたとする。

額は、1億円。精巧なにせ札である。
もし、あなたがそういうことをされたら、
あなたはどうするだろうか?

 ものごとは、常識で考えればよい。

+++++++++++++++++++

 もしあなたが、どこかの銀行マンだったとする。そのあなたが、にせ札をつかまされた
とする。額は、1億円。きわめて精巧なにせ札である。ふつうの鑑定機では、鑑別できな
い。

 もしあなたが、そういうことをされたら、あなたは、どうするだろうか? そのときあ
なたは、「よくあることだ」「しかたないさ」と、笑って過ごすことができるだろうか。も
し、あなたがもう少し悪人なら、知らぬ顔をして、そのにせ札を、別の銀行マンに渡すこ
とも考えられる。あるいは、そのお金を、ほかの決済に使うことも考えられる。

 もしバレたら、そのときはそのとき。「私も知りませんでした」と言えばよい。

 が、ふつうの銀行マンなら、怒る。まともな銀行マンなら、怒る。銀行という業種は、
信用が第一。にせ札を取り扱っていたとなれば、信用度は、地に落ちる。だれかがにせ札
と指摘した段階で、そのにせ札を渡した相手に、食ってかかるにちがいない。「どうして、
お前は、こんなものを、私に渡したのだ!」と。

 私なら、そのにせ札を相手に叩きかえしてやる。叩きかえした上で、損害が発生してい
るなら、損害賠償を求める。もちろん、取り引きは停止。世界に向かって、「あいつは、ひ
どいやつだ」と声を大きくして叫ぶにちがいない。

 その(あなた)と、マカオのBDA銀行を、置きかえて考えてみればよい。ここにいた
って、BDA銀行は、「K国との取り引きは、正当なものだった」「マネーロンダリング(資
金洗浄)はしていなかった」「逆に、アメリカを訴えてやる」と、息巻いている。

 しかしどう考えても、お・か・し・い?

 当初、アメリカが、BDA銀行との取り引きを中止したとき、BDA銀行は、それに反
発するどころか、すなおに、K国との取り引きを停止してしまった。K国に対して、怒っ
た形跡すらない。まったく、ない。

 それを見た、世界中の銀行が、「K国は信用できない」と、K国との取り引きを停止して
しまった。これはアメリカにしてみれば、予想外のできごとだった。まさに予期せぬ波及
効果が現れたことになる。

 BDA銀行は、はじめから、それがにせ札と知っていた。知っていたからこそ、即、K
国との取り引きを停止した。もし知らなかったというなら、その時点で、アメリカに反発
したはず。K国に対しては、激怒したはず。アメリカに対しては、「私は知らなかった」と
主張し。K国に対しては、「よくも、だましたな!」と怒ったはず。

 しかしそういう形跡は、いっさい、ない。ないから、やはり、BDA銀行は、グルだっ
たということになる。ものごとは、常識で考えればよい。常識が、ときに、何万もの証拠
より、正確に事実を言い当てることがある。今回も、そのひとつと考えてよい。

 私の推理によれば、こうだ。

 あるとき、K国の政府高官(あるいは外交官でもよい)がBDA銀行にやってきた。「に
せ札を買わないか」ともちかけられた。額は、10億ドル。そこでBDA銀行の幹部は、
そのにせ札を調べる。が、どこをどう見ても、ホンモノ。ホンモノそっくり!

 「これならいける!」と、BDA銀行の幹部は、判断する。買値は、半額の5億ドル。
つまり差額の5億ドルは、そのまま、まるまる、BDA銀行のふところに入る。こんなお
いしい話はない。

 BDA銀行の幹部は、そのあと、その10億ドルを、あちこちにバラまく。何かの決済
をとおして、バラまく。

 実際には、最初は小額から始まったにちがいない。やがてそれがふくらみ、1億ドル、
10億ドルとなったにちがいない。長い時間をかけて、BDA銀行は、K国のにせ札の洗
浄に、手を貸したことになる。

 これはあくまでも、私の推理である。しかし荒唐無稽な推理かというと、そうではない。
ほとんど事実に近い推理と考えてよいのでは……。

 BDA銀行にしても、今さら、「マネーロンダリングに手を貸していました」とも言えま
い。だから、精一杯の虚勢を張って、「アメリカ政府を訴える」という姿勢に転じた。しか
し実際に、訴えることはないだろう。それこそ、自ら墓穴を掘ることになる。ヤブヘビに
なるかもしれない。

 今ごろ、BDA銀行は、大ジレンマに落ちているはず。24億ドル全額は、返したくな
い。大半はにせ札だから、真正なドル札を、どこから仕入れてこなければならない。しか
し正当な預金であるとするなら、24ドル全額、返却しなければならない。 

 恐らく中国政府は、「24億ドル、全額、返してやれ」と、BDA銀行に迫っているはず。
しかしそんな現金、どこにある? アメリカにしてみれば、ハシタ金だが、マカオ第4位
の銀行にしてみれば、大金。

 考えられる唯一の方法は、中国政府が、裏金で、BDA銀行を援助すること。が、もし
そんな動きを、世界の銀行が知ったら、世界の銀行は、ますますK国と取り引きをしなく
なる。事実上の経済制裁は、つづくことになる。

 ここ数日の、BDA銀行の動きは、まさに見ものである。
(3月18記)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 13日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page021.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●定年

+++++++++++++++++++++

子どもというのは、先生の年齢を、たいへん
気にしている。

父親や母親の年齢以上に、先生の年齢を気にしている。
これは子どもの、どういう心理的作用によるものか。

いくら私が、「49歳だ」と言っても、
子どもたちは、信じない。「先生は、59歳だ」と
言いかえす。

なおかつ、最近では、「先生は、いつ、定年退職
するの?」と聞く子どもも多い。

この時期は、とくに、それが話題になる。

+++++++++++++++++++++

 ときどき私は、ボケたフリをして、レッスンを進めることがある。そういう私を見て、
子どもたちは、不安そうな表情をしてみせる。「先生、だいじょうぶ?」と。

私「もし、ぼくがボケたら、どうする?」
子「先生が、生徒より頭が悪いなんて、おかしい」
私「そうだよね」と。

 実のところ、4、5年前までは、高校生も教えていた。しかしもうやめた。教えられな
くはないが、体力の消耗がはげしい。「消耗」というよりは、教えたあと、脳みそが興奮状
態になってしまう。そのまま夜、寝つかれなくなってしまう。高校生を教えるのは、たい
てい、7〜10時の時間帯になる。もちろん、夜中の、である。

 今のところ、ボケた感じはない。頭の回転も、高校を受験する生徒たちよりも、速い。
質問には、スパスパと切りかえすことができる。しかし最近、ふと、そんな自分に自信が
なくなるときがある。

 何かの説明をしているとき、(わかりやすく説明する)というよりは、(説明だけをして、
おしまい)ということがふえてきた。子どもの立場になって考えるのが、おっくうになっ
てきた。どことなく、ボーッとしたまま、教えることがある。

 集中力が鈍ってきたということか? よくわからないが、どうやら、そういうことらし
い。

 が、その一方で、教え方が、穏やかになったように思う。若いころは、「何度、説明した
らわかるんだ」というような教え方をしていたと思う。今は、同じことでも、何度も、繰
りかえし、教えることができるようになった。子どものほうも、わかるまで、繰りかえし、
聞きにくる。

 ところで、子どもというのは、先生の年齢を、よく知っている。いろいろと気になるら
しい。先日も、ある子ども(小5)が、こう言った。「先生、もうすぐ定年退職?」と。

 この言葉には、ドキッとした。「今の仕事は、無理だから、やめろ」というふうに聞こえ
た。「どうして、そんなことを、子どもが話題にするのだ」とも、思った。

 老人は、自ら老人になるのではない。まわりの人たちによって、老人に仕立てられてい
く。あるいは、(老人)というワクの中に、押しこめられていく。発達心理学の世界にも、
(役割形成)という言葉がある。それに近いものと考えてよい。

 いくら「私は老人ではない」とがんばっても、まわりの人たちが、それを許してくれな
い。「老人は、老人らしく……」というふうにして、私をして、老人にしてしまう。

 そこで私は私なりに、精一杯、それに抵抗してみせる。しかしその力にも、限界がある。
子どもたちだけではなく、若い母親にしても、私は、ジジイなのだ。「ジジイの先生より、
若い先生のほうがいい」となる。

 つまり、こうして私は、自分の定年を迎えつつある。

 まあ、こういう不平、不満、愚痴は、もうやめよう。「健康で、仕事ができる」というだ
けも、御の字。感謝しなければいけない。あるいは、それ以上に、いったい、何を望むこ
とができるのか。

 で、子どもたちは、私を、「クソジジイ」と呼ぶ。私は、それに対して、「ぼくは、クソ
ジジイではない。大クソジジイだ。わかったかア!」と言いかえす。この時期になると、
そういうやり取りが多くなる。私にとっても、3月というのは、いやな季節だ。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●文部科学大臣からのお願い

2007年の11月、日本の文部科学省のI大臣は、全国すべての公立学校にあてて、つ
ぎのような通達文を送った。

++++++++++++++++

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ
弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかし
いことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめ
よう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近
所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられている
ことを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさ
んへ、

このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです、いじめられている
子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないとも言われ
ます。

一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱き取った生命。無限の可能性を持つ子どもた
ちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化を見つけるためにも、毎日少しで
も言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。

子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡し合い、子どもの生命を護る責任を
お互いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日

文部科学大臣 伊吹B明

+++++++++++++++++++

 この通達文を読んで、まず気がつくのは、2つのキーワード。「恥」そして「卑怯」。も
う一度、繰りかえす。「恥」そして「卑怯」。

 その部分だけを、もう一度、読んでみてほしい。

 『弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。仲間といっしょに友
だちをいじめるのは、ひきょうなこと。君たちもいじめられるたちばになることもあるん
だよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うよ
り、今、やっているいじめをすぐにやめよう』と。

 あなたはこの2つのキーワードを読んで、何か、思い当たることはないだろうか? し
かしもしあなたが、220万人の1人なら、思いあたることがあるはず。そう、あの本で
ある。2006年、日本一のベストセラー書になった、あの本である。

 藤原M氏の書いた、『国家のH格』という、あの本である。藤原氏は、いじめについても、
「卑怯」を教えれば、それで解決できるというようなことを書いている。

 私はこの一文を読んだとき、『国家のH格』が、この通達文書とつながっているのを感じ
た。感じたというだけで、それ以上の根拠はない。100%、私の推察。私の憶測? あ
くまでも、私の「勘」である。

 しかしもし私の勘が正しいとするなら、『国家のH格』という本と、この文部科学省の大
臣の通達文書とは、どこかでつながっている。仮にもしそうであるとするなら、日本人の
心が、私たちの知りえない、巨大な策謀の中で、だれかによって、よいように操られてい
る?

 しかし、これはあくまでも私の推察。私の憶測?

 そうでないことを願う。もちろんだからといって、藤原氏が、その策謀の片棒をかつい
だとか、そういう失敬なことを言っているのではない。藤原氏の本は、あくまでも藤原氏
の本。かりにどこかでつながっているとしても、それは結果論。藤原氏の本は、利用され
ただけということになる。

 そこで改めて、この通達文書について考えてみる。言いたいことは、つぎの4点。

(1)友だちをいじめるのは、恥ずかしいこと。
(2)そういういじめをすると、あとで後悔するということ。
(3)いじめられている子は、だれかに話そう。
(4)それを話すことは、恥ずかしいことでも何でもないということ。

 ……なるほど。ウ〜ン。

 書きたいことは山ほどある。が、しかしここまで。が、あえて言うなら、今どき、「恥」
だとか、「卑怯」だとか……。私には、こういう言葉に、どうしてもついていけない。仮に
恥じるとしても、それは自分に対してのもの。また「卑怯」という言葉にしても、それは
「愛」という言葉ほど、あいまいもことして、つかみどころのない言葉はない。

 だったら、もっと端的に、「友だちを愛しましょう」と、なぜ、I文部大臣は、言わない
のだろう。そのほうが、ずっと、わかりやすい。説得力もあるし、国際的にも通用する。
まさかI文部大臣も、日本式の武士道の信者? もしそうなら、話はわかる。藤原氏の書
いた本に、強く感銘を受けたとしても、私は、驚かない。

 今の日本の動きを見ていると、日本全体が、どこか右へ、右へと流されていくように感
ずる。それとも、私が、左へ、左へと傾いているのか。それはよくわからないが、……と
いうのも、私は、自分では中立だと思っているので、ともかくも、今、日本は、戦前歩い
た、その同じ道を再び歩もうとしているのではないか。この通達文を読むと、私には、そ
んな感じがしてならない。

++++++++++++++++++++

批判ばかりしていてはいけないので、
私が書いた文を、ここに掲載します。

++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

 この詩の中で私は、善悪の感覚は、乳幼児期につくられることを言いたかった、です。
つまり善悪の判断の基本となる、「ここちよい響き」「いやな響き」というのは、すでに乳
幼児期に作られるということです。よく「善悪の判断は、学校で、しかも道徳の時間に学
ぶもの」と考えている人がいますが、それは頭の中で考える「善悪の判断」です。もちろ
んそれがムダだとは思いませんが、その前提として、こうした「響き」があるかないかが、
その子どもの心の基本になります。子どもは心豊かで、愛情にあふれた、静かで、思いや
りのある環境で心をはぐくみます。乳幼児期の「心の環境」を大切にしてください。(この
詩は、「子どものページ」にも掲載してあります。)


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●書店で……

+++++++++++++++++++++

書店へ行くと、まっさきに足を運ぶのが、
パソコンの雑誌コーナー。

そのあとは、週刊誌コーナー。

で、そのあとのことだが、私は、できるだけ
場違いのコーナーを回るようにしている。
ときには、女性月刊誌のコーナーも。

これはとても重要なことだと思う。
私にとって、一番こわいのは、脳みその
かたより。

+++++++++++++++++++++

 ここ数か月、月刊誌をほとんど、買っていない。よく読む月刊誌は、「現代」「諸君」な
ど。「Saピオ」は面白いが、どこかかたよっている。「諸君」も、以前は、毎月欠かさず
買っていたが、このところ、その(かたより)を感ずるようになった。過激になってきた
というか、右翼的になってきた(?)。

 いつも、バカなことしか書いてないのが、女性週刊誌。若いころは、主婦と生活社で出
していた、(今でも出しているが)、「J」という女性週刊誌のフリーの記者もしていた。こ
れは、本当だぞ。ちゃんと、名詞まで、もっていた。

 しかし一応、目を通しておく必要がある。ほかに、子どもの雑誌など。私にとって、一
番こわいのは、脳みそのかたより。ものの考え方が、偏屈になること。そういう老人を、(若
くても、偏屈になる人は多いが……)、もう何百人と見てきた。

 脳みそというのは、やわらかければ、やわらかいほど、よい。そのためには、いろいろ
な分野について知り、考えること。そのためには、書店では、できるだけ、いろいろなコ
ーナーを回るようにしている。

 が、育児書コーナーだけには、ぜったいに、近づかない。本も読まない。理由は、いく
つかある。

 その1。他人の育児法の影響を受けたくない。
 その2。他人の育児法を読んで、カリカリしたくない。
 その3。あとで、パクッたとか、盗作したとか、思われたくない。

 ときどき、親切にも(?)、他人の書いた育児書を送り届けてくれる人がいる。しかし私
は、そのまま本箱の隅にしまってしまう。育児雑誌も、そうである。読みたくもない。読
む価値もない。私は、どこまでいっても、私。そういう本や雑誌で、あれこれわずらわさ
れるのは、ゴメン。

 ……と書くと、「はやし浩司の育児論は、かたよっている」と思う人がいるかもしれない。
しかし私の(師)は、いつも子どもたち自身だった。今も、そうだ。何かわからないこと
があると、かならず、子どもたちに、それを問うようにしている。いつも子どもを見なが
ら、ものを考えている。

 画家にたとえて言うなら、写真を見ながら絵を描く人もいるかもしれない。しかしそれ
以上に大切なのは、その場の雰囲気というか、空気の流れ、風の匂い。それを肌で感じな
がら、絵を描く。育児論にしても、同じようなことが言える。

 子どもを実際教えたことのない、どこかの大学の教授が書いたような育児書など、私に
は、意味がない。興味もない。(そういう本のほうが、よく売れるが……。)

 ああ、また愚痴ぽくなってきた。今朝の私は、どこか、へん。ものの考え方が、沈んで
いる。昨夕から断食しているせいかもしれない。空腹感がものすごい。血糖値がさがって
いる。そのためイライラする。今朝は、健康診断がある。それまでは、「お湯しかだめ」と
いうことになっている。


●校長が万引き

++++++++++++++++++

どこかの高校の校長が、万引きをしていて
逮捕された。

が、驚いたのは、万引きしたという事実ではない。
その校長が校長をしている
高校のHPを見たときのこと。

教師陣が紹介されていたが、その紹介欄が
すごい。

++++++++++++++++++

 どこかの高校の校長が、万引きをしていて、逮捕された。それえ自体は、何でもないニ
ュース。万引きなど、今どき、珍しくも、何ともない。どこかの校長がそれをしたとして
も、驚かない。以下はそのニュース。News−iより、そのまま引用。

++++++++++++

 千葉県君津市の食料品店で、ハチミツや調味料を万引きしたとして、私立高校の校長の
男が逮捕されました。男は「ストレスがたまっていた」などと話しているということです。

 窃盗で現行犯逮捕されたのは、千葉県鴨川市の私立高校「千葉M高校」の校長・鈴木Y
容疑者(48)です。

 調べによりますと、鈴木容疑者は今月12日、君津市の食料品店でハチミツ1ビンと、
うま味調味料1ビンを上着の中に隠し、店の外に持ち出そうとしました。

 しかし、従業員の男性に発見され、その場から逃げ出したものの、100メートル先の
田んぼの中で取り押さえられたということです。

 逮捕された当初、鈴木容疑者は、「職についていない」などと話していましたが、14日
になって高校の校長であることを明かしたということです。

 鈴木容疑者は「学校に迷惑がかかると思い言えなかった」「ストレスがたまってやってし
まった」と話しているということです。

 そこでその千葉M高校のHPを開いてみた。読んでみた。そして驚いた。万引き事件に
驚いたのではない。その教師陣の紹介コーナーには、つぎのようにある。

 冒頭には、「東京、超一流校の教員頭脳が、本校に集結」とある。そして教員紹介のとこ
ろには、7人の教員が紹介されている。

 まず万引きをした、鈴木Y校長について……。

【鈴木Y】

D蔭学園(毎年東大合格者は常にトップ10に入り、一橋大学、東京工業大学、国公私立
医学部、早稲田、慶応、上智、東京理科大などで全国トップの実績を挙げている学校です)
では、毎年東大100名前後、早慶上智はそれぞれ数百名という合格者を出して来た受験
数学のエキスパート。

偏差値を大幅にアップさせる「教科書と受験レベルのギャップを埋める指導法」には定評
があります。結果として、偏差値60以下の生徒を数多く東大等に合格させてきた実績が
あります。また、D蔭学園のオリジナルテキスト(数学関係)の大半を執筆してきた実績
にも目を見張るものがあります。受験数学指導のエキスパートと言えるでしょう。また、
12桁までの暗算が可能な、暗算の達人でもあります。D蔭学園時代は、サッカー部の顧
問もしており、教え子で、現在Jリーグで活躍している選手も数多くいます。

【国語科 X】

法政大学文学部大学院博士課程修了。代々Gゼミナール(45年におよび進学指導の第一
線で活躍する予備校で高校や大学から依頼を受けて、さまざまな側面から教育のサポート
をしている)と、駿台Rンデンスクールの看板教員。分かりやすい教え方、特に古文・漢
文の入試のポイント指導には、抜群の定評があります。予備校時代は、生徒が溢れて満室
になるくらいの人気講師でした。受験国語のエキスパート教員です。趣味は、水泳です。

【英語科Y】

上智大学文学部大学院博士課程卒。埼玉の進学校 浦W第一女子高等学校(生徒の進路希
望の実現をめざし、授業改革に取り組むひとつとして「生徒による授業評価」を行ってい
る学校で、国公立大学に現役100名超える合格者を出している学校である)にて、英語
科の看板教員として活躍されていました。特に受験英語の指導については、この先生の講
義を受講すれば参考書がいらないと言う位、文法指導、読解指導、英作文指導どのジャン
ルをとっても抜群の指導力です。また、教え方も丁寧で、難解なことを理解しやすく教え
てくれるとの評判も高い英語のエキスパート教員です。特進コースの担任をしています。

【数学科Z】

日本大学理工学部修士課程修了。渋谷M張シンガポール校や開C学園(最難関大学に現役
で合格する、中高一貫教育カリキュラム教育をとり、東京大学現役合格率埼玉県内、NO
1の学校)にて教鞭をとられた数学科のエキスパートです。また、中学校時代から、数学
研究会で活躍された経歴もあり、受験数学は言うまでもなく、パズルや、知的数理のジャ
ンルにも精通しています。数学の、受験と研究、両方の力を兼ね備えた教員です。

 ……とつづく。

 これだけ読んでも、いったい、この高校は何かと思ってしまう。ホント! ものすごい
高校であることにはちがいないが、まるで予備校が、そのまま全日制の高校になったよう
な感じ。

 へ〜と驚くだけ。つまり校長が万引きしても、私は驚かない。今は、そういう時代であ
る。しかし、こういう高校を、はたして、(教育機関)と呼んでよいのか。またそこでして
いることを、(教育)と呼んでよいのか。

 今では、こういう高校のほうが、繁盛するらしい。しかしこういう高校で育った(?)、
子どもたちが、やがて日本の中枢部を担うようになると思うと、ゾッとする。

 「いいのかなあ?」と思ったところで、この話は、おしまい。それにしても、日本の教
育、どこか、おかしいぞ!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●欲望一元論

++++++++++++++++++

食欲、性欲、物欲……、
それぞれ形はちがうが、中身は、同じ。
そう考えると、欲望というのが、
どういうものか、わかる。

++++++++++++++++++

 今日、ワイフと、スーパーへ買い物に行った。それまでは、食欲は、ほとんど、なかっ
た。朝食が遅かったこともある。「昼は、簡単でいいよ」と、私は、2度、3度、そう言っ
た。

 が、その気持ちは、突然、消えた。スーパーの入り口で、焼きそばの実演販売をしてい
た。濃いソースが、熱で焼けるにおい。そばが鉄板の上で、油をはじく音。それを見たと
たん、ムラムラと食欲がわいてきた。

私「昼は、焼きそばにしよう」
ワ「そうね」と。

 それはちょうど、若い男が、(若くなくてもそうだが)、女性のヌードか何かを見たとき
の気持ちに似ている。似ているというより、同じ。それまではその気がなくても、女性の
ヌードをみたとたん、ムラムラと性欲がわいてくる。

 ここで私は食欲と性欲を分けて書いたが、形こそちがうが、中身は、同じ。ちがうと考
えるほうが、おかしい。(おいしそうな焼きそばを見る)→(食欲がわいてくる)。(若い女
性のヌードを見る)→(性欲がわいてくる)。

 この時点で、つまり、おいしそうな焼きそばを見たり、あるいは女性のヌードを見たり
したとき、その欲望を、うまくコントロールできる人は、意外と少ないのではないだろう
か。ほとんどの人は、そのまま、焼きそばを食べる。そのまま、女性を抱く。

 つまりここで自制心の問題が、生まれる。欲望をうまくコントロールできる人を、自制
心のある人という。そうでない人を、自制心のない人という。わかりやすく言えば、この
とき、頭の中で、本能と理性が、はげしくぶつかりあう。

 この(葛藤)こそが、人間が、人間である証(あかし)ということになる。ほかの動物
たちと、ちがう点ということになる。

 そこで本題。

 食欲、性欲と並んで、物欲というのもある。たとえば、あなたが政府の高官か何かであ
ったとする。そのあなたの前にある日、建設会社のだれかがやってきて、500万円単位
の現金を、あなたの机に積んだとする。1000万円でもよい。5000万円でもよい。

 ワイロだ。公共事業にからんだ、ワイロだ。あなたはそれを知っている。が、相手の男
は、「あなたの政治資金として使ってほしい」「このことは、私以外、だれも知らない」と
言ったとする。

そのとき、あなたは、それを断ることができるだろうか? あなたが食欲や性欲をコン
トロールできるように、物欲(それを物欲と言ってよいかどうかという問題もあるが…
…)、その物欲を、コントロールできるだろうか?

 そこで私は、(欲望一元論)を説く。

 つまり欲望をコントロールする力は、一元的なもの。食欲や性欲をコントロールできる
人は、同じように、物欲をコントロールできる。食欲や性欲はコントロールできないが、
物欲はコントロールできる人というのは、いないと考えてよい。あるいは反対に、食欲や
性欲はコントロールできるが、物欲はコントロールできない人というのは、いないと考え
てよい。

 もっとわかりやすく言えば、一事が万事。食欲や性欲をコントロールできる人は、物欲
もコントロールできる。食欲や性欲をコントロールできない人は、物欲もコントロールで
きない。

 人間の脳みそは、一見複雑に見えるかもしれないが、それほど、器用にはできていない。

 そこでたとえばある県のある知事を念頭に置いて、ものを考えてみる。どこの知事とい
うわけではない。あくまでも架空の知事である。その知事は、自分の名誉欲、出世欲を満
たすために、知事になったとする。たまたま知名度もあった。その流れに乗って、知事に
なったとする。

 うわさでは、いろいろと女性問題も起きているようである。今は離婚しているが、東京
にも、また地元にも、それぞれ愛人がいるという。俗な言い方をすれば、女にだらしない。
そういうことから、その知事は、性欲のコントロールが、甘い人と考えてよい。

 今は、知事になったばかりで、それなりに品行方正だが、そういう知事のところへだれ
かがやってきて、たとえば机の上に、大金を積んだとする。地元の建設会社の社長である。
そういうとき、その知事は、ここでいう自制心を、うまく発揮できるだろうか。

 私の(欲望一元論)に従えば、答は「NO!」ということになる。食欲や性欲にだらし
ない人は、同じように物欲にもだらしないと考えてよい。反対に考えれば、知事になるよ
うな人は、それなりに、あらゆる場面で、品行方正でなければならない。またそういう人
物を、知事として、選ぶべきである。

 繰りかえすが、(女性にだらしない人)が、(ワイロにはきびしい)ということは、あり
えない。欲望というのは、そういうもの。形はちがっても、中身は、同じ。

 もしそういう知事が、現実にいたとするなら、やがて、何年か先には、ボロを出すはず。
実際、そういう知事は、過去にも、何人かいた。よく知られている例として、大阪府の知
事をした、YNがいる。

 見るからにだらしなさそうな顔つきをしていたが、最後は、選挙運動を手伝っていた女
性にセクハラ行為をはたらき、政界から追い出されている。

 昼の焼きそばを食べながら、ワイフにその話をする。つまり(欲望一元論)の話をする。
それについて、ワイフは、こう言った。

 「若いときは、食欲と性欲は別のものと考えていたわ。物欲も、そう。でも、歳をとる
と、食欲や性欲、とくに性欲を客観的に見ることができるようになるのね。そして自分に
気がつくのよ。みな、同じ」と。

 ただ性欲や物欲はともかくとして、食欲だけは、死ぬまでつづく。今の私の母がそうで
ある。今の母に、食べ物を見せると、それだけで顔つきが、おかいいほど、変化する。目
つきそのものが変化する。まるで獲物を見つけた動物のような、鋭い目つきになる。

 もともと欲望に対するコントロールが苦手な人だった。それが今、90歳という年齢を
超えて、食欲という形になって現れている。つまり、そういうことはある。

 が、欲望一元論は、欲望一元論。人間がもつ欲望は、もともとは、同じものと考えてよ
い。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(3月14日)

+++++++++++++++++++

昨日は、寒かった。その一言。東北地方では
雪まで降ったという。

そんな夜、ワイフが、仕事場まで、迎えに
きてくれた。自転車で帰るつもりだったが、
私の意志は、それほど、強くない。

一応、「自転車で帰るからいい」とは言ったものの、
そのまま、「じゃあ、今夜は車で帰る」となって
しまった。

このところ、(寒さ)に、強くなったように思う。
冬の冷気を、心地よく感ずることすら、ある。

英語では、「フレッシュ・エアー」という。
昔、友人のN君が、いつもそう言っていた。

N君は、ひとり旅が好きで、いつも、ひとりで
旅をしていた。

冬の日も、雨の日も。キャンピング道具一式を
もって、ひとりで、キャンプにでかけていた。

雨が降っているにもかかわらず、出かけていくので、
私は驚いた。が、N君は、こう言った。

「ヒロシ、ぼくは、雨の音が好きなんだ」と。

最近になって、私は、やっとN君の気持ちが、
理解できるようになった。

自然に、夏も冬もない。晴れも雨もない。

人間にとってつごうのよい季節だけが、季節ではない。

冬の寒さもしかり。

おとといも、風呂から出ると、パンツ一枚で、
庭の真ん中に立って、星空を見あげてみた。
心のどこかで、ふと、「寒中水泳みたい」と
思ったが、そんな感じだった。

おかげで、今朝になって、のどと、腰が痛い。
どうやら、それで風邪をひいてしまったらしい。

それで昨日、ワイフがそれを心配して、仕事場まで、
迎えにきてくれた。

++++++++++++++++++++++

●世の中、暗いニュースばかり?

 このところ、明るいニュースが、少ない。今朝(3月14日)も、株価は、大暴落。何
がどうなっているのか、私にも、よくわからない。わからないというより、もう、どうで
もよくなってしまった。

 が、性分というか、習慣というのは、こわいもの。私はいつものように、パソコンを立
ち上げると、読みたくもないのに、政治ニュース、経済ニュースに目を通す。そしてあれ
これ考え始める。

 ときどき別の声が、こうささやく。「お前が書いたところで、どうせだれも、気にしない」
「お前は、だれにも相手にされていない」と。

 私のしていることは、町のおやじさんたちの、政治談議のようなもの。おばさんたちの、
井戸端会議のようなもの。

 まあ、あえて言うなら、頭の体操。今風に言えば、IQサプリ。私は考えることによっ
て、脳みそを活性化させている。(多分?)読んでくれる人がいれば、それでよし。だれも
読んでくれていないとしても、それも、それでよし。

 そこで、まず、拉致問題について、考えてみる。

●拉致問題

 拉致被害者の気持ちはよくわかる。それはそれとして、なぜ、拉致事件が起きたかとい
えば、国防の怠慢(たいまん)。それが第一に、あげられる。その前後には、いくつかの不
審な事件が、たてつづけに起きていた。しかし警察はもちろんのこと、政府も、何ら手を
打たなかった。

 中には、K国に拉致された被害者から届いた手紙を、わざわざ朝鮮S連の幹部に届けた
政党すらある。A新聞などは、「拉致事件は、日本政府のデッチあげ」という論陣を張って
いた。

 で、拉致事件が発覚した。拉致被害者の家族たちが、動き出した。ここまでは、私にも
理解できる。が、その運動が、いつの間にか、自民党の中でも右派と呼ばれる人たちと結
びついた。「制裁」という言葉も、その流れの中から、飛び出した。

 拉致被害者が、先頭に立って、「制裁」という言葉を使うこともある。

 たまたまK国への風当たりが強くなっていた時期と重なる。K国の核兵器開発問題が、
それにからんできた。つまり、話が、ゴチャゴチャしてきた。(拉致)→(制裁)→(K国
の核兵器開発問題)→(制裁)、と。

 それが「拉致問題の前進なくして、援助はありえない」という、日本政府の基本姿勢に
変わった。

 しかし拉致問題は、制裁では、けっして解決しない。そのことは、この日本を見れば、
わかる。いまだに日本政府は、(戦争責任)すら認めていない。もし認めるようなことをす
ると、その(責任)は、(天皇)にまで及んでしまう。官僚主義国家を内含する日本政府と
しては、これは、まことにまずい。

 (天皇)という絶対的権威者を頂点にあおいでこそ、官僚主義国家は、官僚主義国家と
して、成りたつ。

 拉致問題の最高責任者は、言うまでもなく、K国の金xxである。この事件には、国家
のトップがからんでいる。K国が、拉致問題の責任を認めない理由は、ここにある。(今さ
ら、私が説明するまでもないことだが……。)

 で、ここからは私の意見。ときどき拉致被害者がマスコミに向かって会見を開くことが
ある。つい先日も、そうである、それはそれとして、このところ、必ずといってよいほど、
その横に、何人かの政治家たちが並ぶ。

 問題は、その政治家である。先にも書いたように、自民党の中でも、右派と呼ばれる政
治家たちである。つまり拉致被害者たちが、いつの間か、そうした政治家たちと結びつい
てしまっている。もっと言えば、拉致被害者の人たちの活動が、どこか右翼的色彩を強め
ている(?)。もっとわかりやすく言えば、(拉致問題)という(人権問題)が、いつの間
にか、(人権問題)にかこつけた、(反共運動)にすりかえられてしまっている。(政治活動)
と言ってもよい(注※1)。

 その会見でも、「対米追従外交は、許さない」などというようなことを、拉致被害者たち
が口にしていた。(横にすわっていた、政治家だったかもしれない。)

 本当はそうではないのかもしれないが、一般社会では、そのように誤解され始めている。
が、これは拉致被害者の人たちにとっても、マイナスにこそなれ、あまりプラスにはなら
ないのではないか。

 そこで世界の人たちは、日本の拉致問題を、どう見ているか。

 たとえば韓国の人たちは、こう考えている。「戦前に日本がしたことを考えるなら、日本
は、『人権』『人権』と、偉そうなこと言うな」と。中国も、同じように考えている。さら
にここにきて、アメリカ内部にも、(従軍慰安婦問題)にからんで、こうした動きに同調す
る人たちがふえてきている。

 無理やりであったにせよ、あるいは、なかったにせよ、外国の女性たちを、(慰安婦)と
して戦地へ送りこんだ、日本政府。考えるだけも、ゾッとする。そしてその(慰安婦)を
抱いた、兵隊たち。それを考えると、さらに、ゾッとする。

 日本の中でも、80代、90代の人たちの中には、その(慰安婦)を抱いた人もいるは
ず。そういう人たちが、音なしの構えで、だんまりを決めこんでいる。それを考えると、
さらにさらに、ゾッとする。

 K国が、拉致問題をあいまいなまま終わらせようとする背景には、そんな心情的反発も
ある。

 さて、先の日朝首脳会談で、K国側は、拉致被害者の存在を認め、うち何人かを、日本
へ返してきた。その日朝首脳会談の席で、当時の小泉首相が、10兆円にも及ぶ、経済援
助を申し出ていたという。そんなニュースが、数日前、韓国の報道機関から流れた(注※
2)。

 経済援助の内容が、ことこまかく記されていたところを見ると、恐らくこの情報は、K
国側がリークした(=漏らした)ものらしい。それにしても、会談のウラで、こういう密
約がなされていたとは? しかも10兆円!

 別にK国を擁護するわけではないが、もし、この話が事実とするなら、K国が、「日本は
ウソばかりついている」と騒ぐ理由は、こんなところにもあるのではないか。日本の政治
家たちのやっていることも、どうも、信用できない。

 マカオのBDA銀行は、全額、K国に凍結資金を返還しようとしている。韓国は、早々
と、K国への支援を始めている。ひとり「制裁」「制裁」と叫んでいるのは、日本だけ。今
となっては、その声も、どこか、むなしく響く。

(補記)

 ……と書いていたら、今朝(13日)、こんな情報が飛びこんできた。アメリカの財務省
が、BDAを、「懸念対象銀行」から、「対象」銀行へ変えたというのだ。わかりやすく言
えば、国務省のK国寄り政策に対して、財務省(もともと反K国的)が、BDAをつぶし
にかかったということ(注※3)。

 私は、これが世界の良識だと思う。BDAは、K国からのにせ札をにせ札と知りながら、
マネーロンダリングに手を貸していた。そんなマネーを「返せ」というK国もK国だが、
制裁を解除するという国務省も、国務省である。

 正義は、どこへ消えた?

 財務省と国務省の対立。その対立を、ブッシュ大統領は、どのように調整するというの
だろうか。ここ1両日は、このニュースから、目を離せない。

(3月14日記、この原稿がマガジンに載るころには、国際情勢は大きく変化しているか
もしれません。なお、この原稿は、3月14日に、楽天日記のほうに掲載しておきます。)

++++++++++++++++

注※1…… 北朝鮮による拉致被害者の家族会メンバーが、3月11日、都内で開かれた
支援組織「救う会」の全国会議に参加し、米国にならって日本が独自に北朝鮮を「テロ支
援国家」に指定できるようにする法整備を政府や国会議員に働きかけることなど、当面の
活動方針を決めた。(以上、ヤフーニュースより。)

注※2……日本政府は02年9月に、当時の小泉純一郎首相がK国・平壌を訪問するに当
たり、日朝関係が正常化し経済協力を行うことになれば100億ドル(約10兆円)規模
の無償支援を行うとの意向を事前に北朝鮮側に伝えていたとする主張が出された。 

 この対K国経済協力資金は現金ではなく、役務と財務を10年間で分割し100億ドル
を提供するというものだったという。

これとは別途に有償で輸入決済資金、プロジェクト借款、公共事業推進借款などの円借
款も提供し、最貧困国向けの0・75%という低金利を適用し、10年据え置き30年
償還の条件を付けるとしていたとの主張だ。

過去の補償問題についても日朝がともに財産請求権を放棄した上で、こうした日本の資
金提供に合意し、実務的な手続きを残し妥決した状態だったと強調した。金xxが日本
人拉致の事実を認めたのもこのためだとしている(以上、韓国、統一部事務官論文より。)

注※3……米財務省が、マネーロンダリング(資金洗浄)などK国の違法資金取引疑惑を
受けていた、マカオの銀行バンコ・デルタ・アジア(BDA)に対する制裁措置として、
米国内行とBDAの取引を禁じる方針を固めたようだ。北朝鮮の凍結口座の解除問題にか
らみ、核問題にどのような影響がもたらされるか注目される。 

 米財務省官僚は13日、聯合ニュースの電話取材に対し、BDAに関する決定が14日
か15日にも正式に発表されるだろうと述べた。米国はBDAをマネーロンダリングの「懸
念対象」から、「対象」機関に指定する予定で、マネーロンダリングに関与したBDAの主
要幹部を起訴することも検討しているという。

こうした措置が取られた場合、BDAの外国為替取引機能が停止され破産する可能性も
高く、マカオの金融当局は清算のため売却や買収合併(M&A)手続きに入ることが予想
される。(以上、聯合ニュースより。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あわてふためく日本政府

+++++++++++++++++

対米追従外交はしないとがんばった、
安倍総理大臣、A外務大臣、自民党の
右派勢力。

総理大臣になって、もう8か月に
なろうというのに、総理大臣は、いまだに、
アメリカ詣(もうで)すら、していない。

4月に日米首脳会談が開かれるが、
今ごろアメリカへ行って、どうなる
というのか?

総理大臣は、何を話しあうというのか?

+++++++++++++++++

●つげ口をされた私

 国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。このことは、もう、何十回も書い
てきた。

 ところで最近、こんなことがあった。

 もう20年ほど、つきあってきた人(=Aさん、女性)だが、私の書いた本を別の人(B
氏、男性)に見せ、「あの林が、こんなことを書いている」と、その別の人に、つげ口をし
たという。

 私は、何も、そのB氏のことを書いたのではない。似たような話は、いくらでもある。
が、B氏は、自分のことを書かれたと思い、私に電話をしてきた。私は、B氏に、事情を、
ていねいに説明した。

 が、私が感じた怒りは、そのままだった。そのAさんというのは、そのあとも、あたか
も私のファンであるかのように、振る舞っていた。私は、Aさんとは、絶交した。

 こうした信義に反する行為は、とことん、相手を怒らせる。とくに、今は、そうだ。ア
メリカは、多くの犠牲者を出しながら、あのイラクで戦争をつづけている。正しいとか、
まちがっているとか、そういうことを論議しても、意味はない。それが現実。そういう最
中、日本のA外務大臣や、K防衛大臣は、そのアメリカを陰で、批判した。

●対米追従外交?

 対米追従外交と批判されようが、笑われようが、今の日本は、アメリカに追従するしか
ない。でないというのなら、どこのだれが、日本にかわって、K国の核兵器開発問題を抑
えてくれるというのか?

 中国か、ロシアか、EUか? 答は、NO!

 このことも、もう何十回も書いてきた。しかも私は、今回の6か国協議の前に、そう書
いてきた。

 本来なら、安倍総理大臣は、就任直後、イのいちばんに、ワシントン詣(もうで)をす
べきだった。ブッシュ大統領に、あいさつすべきだった。

 それを「対米追従外交」と、一部の右派勢力というより、そのまた右にいる極右勢力の
批判に流されるまま、中国を先に訪問し、ついで、ヨーロッパを先に訪問してしまった。
8か月間も、アメリカ詣でをしていないということ自体、歴代の首相の中でも、異常事態
としか、言いようがない。

 おまけに、A外務大臣、K防衛大臣らの、失言につづく、失言。「アメリカは幼稚」「ア
メリカのイラク政策は、まちがっていた」「アメリカは、根回しというものを知らない」な
どなど。

 ブッシュ大統領が、日本を見限ったところで、何ら、おかしくない。それがわからなけ
れば、相手の立場で、ものを考えてみることだ。どうしてアメリカが、日本の平和と安全
に、責任をもたねばならないのか?

●孤立無援の日本

 で、この極東アジアにおいて、今では、日本は、孤立無援の状態。アメリカにさえ裏切
られた。

 今朝(3月16日)のヤフー・ニュース(産経新聞)を読むと、日本政府の狼狽(ろう
ばい)ぶりが、よくわかる。

 『日本政府は、米国がK国への金融制裁問題で、凍結されていたK国関連口座の解除を
事実上容認したことを、比較的冷静に受け止めている。ただ、米国の譲歩に乗じて、K国
が強気に出る懸念もある。このため、政府は今後、核放棄に向けた具体的措置をK国がき
ちんと履行するかどうかを、注視していく。また、拉致問題解決への進展がなければK国
の要求に応じない考えで、安倍晋三首相は15日、「日本の制裁は今後とも続ける」と語っ
た。

 A外相も参院外交防衛委員会で「(米国が)譲った形になるが、朝鮮半島の非核化のため
に協議が動いた点は評価すべきだ。少なくとも寧辺の核施設の停止の話などが進み始める
ならいい」と述べた。

 政府は金融制裁問題での米朝協議の進展が、核施設の停止・封印などで合意した2月の
6カ国協議につながったとみてきた。今回の措置も織り込み済みといえ、首相は日本の対
応への「影響はない」としている。ただ、K国が改めて金融制裁の全面解除に固執するな
ど、国際社会の圧力を逆手にとった駆け引きを演じる懸念は残る。

 政府が警戒するのは、金融制裁解除をきっかけに関係国が態度を軟化させることだ。こ
のため6カ国協議の場などで、米中韓露に連携強化を働きかける。特にK国とテロ支援国
家指定の解除について協議を始めたアメリカには、拉致問題解決を解除の条件とするよう
強く求め続ける方針だ』と。

 まさに、打つ手なし。首相は日本の対応への「影響はない」としているというが、どこ
までがんばれることやら? そう言わざるをえないところまで、今、日本は、追いこまれ
ている。

 K国は、アメリカと国交をある程度正常化したあと、つぎに日本の料理にとりかかる。
核兵器で脅しながら、日本から巨額の賠償金を手に入れる。そのための準備を、着々と進
めている。中国も、韓国も、それに協力し始めている。どうしてこんな簡単なことが、日
本の総理大臣に、わからないのか。
(3月16日記)

【付記】

 少し前まで、極右団体の間では、「アメリカは、日本を51番目の州にしようとしている」
という意見が、よく聞かれた。「だから、アメリカを排斥せよ」と。

 しかし私が知るかぎり、アメリカ人は、だれもそんなことを言っていない。つまりそれ
は日本人の、勝手な被害妄想。誇大妄想。「誇大妄想」というのは、だれも、日本のような
小さな島国など、相手にしていない。

 そのことがわからなければ、自分の目を、ワシントン市に置いてみることだ。ハリウッ
ドがあるカルフォルニア州にではなく、ワシントン市だ。

 そのワシントン市から日本を見ると、日本は、ヨーロッパの向こうの、シベリア大陸の
そのまた向こうの、中国の果てにある。それがわかる。

 どうしてそんな国の、平和と安全を、アメリカという国が、守らねばならないのか。「5
1番目の州」などという発想は、とんでもない発想と考えてよい。

 が、極右勢力の核にいる、民族主義者たちには、それがわからない。いまだに、「大和民
族が、どうのこうのとか、あるいは日本を統治してきたのは、大和民族」などと、チンプ
ンカンプンなことを口にしている。

 安倍総理大臣も、A外務大臣も、自民党右派というよりは、そのまたさらに右にいる右
派と考えてよい。あくまでも結果論だが、今となってみると、そんな感じがしてならない。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 11日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page020.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感】

●ある母親の相談

 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかな
くて、困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが
寝てから、仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少な
いからだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「う
ちは疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子ど
もには、心のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞
くと、こう話してくれた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。
そして休みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的
な安心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだか
ないという意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ
体を起こして逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを
見せて、抱っこしようとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く

 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かも
しれないが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の
関係を思い浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開
きあっているときは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないと
きは、男の側からみると、何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたい
へん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベ
ッタリと親に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓
の鼓動のリズムまで同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感
に包まれていると考えてよい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていく
というのであれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、
子どもが心を開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのでは
ない。父親のほうにある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。
もっとはっきり言えば、父親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだ
け。

●原因は父親の幼児期に

 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。
しかし一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、
父親自身が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。
そういう意味で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケ
ースは、その親の親が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にま
でなった人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が
一番、ついで父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口
答えするなどということは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということな
どということは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」
という意味すら理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なも
のの考え方にどっぷりとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要で
ではないでしょうか」などと、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」
を考えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権
威を認めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は
家事はもちろんのこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子ども
の運動会や遊戯会、さらには父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏
の体にしみこんだ「質」のようなものだった。「父親がそんなことするものではない」とい
う意識があったのかもしれない。いや、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の
中になかった。

●親像がない?

 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親
とみてよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の
親たちは、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てな
どかまっているヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、
親像がないため、どうしても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形
で親像が入っている親は、これまた自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自
身が、子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここ
に書いたように、心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かっ
て」とか、「私は親だ」という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざし
てしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもっ
ている土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では
明日から、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。
私もその母親と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろう
な」と思った。ただ最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話を
してください」と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●誠実論

++++++++++++++++

「誠実」には、2つの意味がある。

他人に対する誠実。
そして自分に対する誠実。

++++++++++++++++

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげ
てあった。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。
他人に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、
こと足りる。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないというこ
と。となると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大
前提として、自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を
見ると、一〇万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。ど
う思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いで
はない。そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとす
る。そのときだ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」
ということがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のもの
にするのは、悪いことだ」と。

 この段階で、二つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらって
しまおう」という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういう
とき、自分は、どちらの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面
によく立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなく
なってしまうことがある。あるいは相反した自分が、二つも三つもあって、どれに誠実で
あったらよいのか、わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。
本立ちて道生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこ
そ、進むべき道が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にす
る前に、まず基本的な道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、
誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者
が多く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも
私など、もともと相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎
重でなければならない。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本
当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思
う。今のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。
つまり自分に誠実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確
立しなければならない。もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、
それこそたいへんなことになってしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、
それで満足してしまっていたら、この世は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳の
ない人には、誠実な人間はいないということになるのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、
関係のありそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。
駅の構内であれば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考え
ないようにしている。どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返す
ようにしている。本当の私は、もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。
だから、教条的に、そう決めている。それはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くよう
な、高邁(こうまい)な境地に達するには、まだまだ時間もかかるだろう。一生、到達す
ることはできないかもしれない。だから、そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深
い。それがわかってもらえれば、うれしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【正解のない世界】

+++++++++++++++++

もともと生きることに、正解など、ない。
ないのに、いつも、人は、正解を求めようとする。

子どもの世界とて、同じ。

今の教育は、正解などあるはずもないのに、
その正解を押しつけようとする。

+++++++++++++++++

●二枚の絵

玄関先に、一人の男の人(おとな)が立っている。手前に子ども(幼児)がいる。そん
な一枚の絵を見せながら、子ども(年長児)たちに、「この絵の中の二人は、どんな話を
していますか?」と質問。すると、一人の男の子が、こう答えた。

子「(男の人が)入ってもいいですか?」と言った。
私「でも、玄関は、もうあいているよ」
子「うん、そう」
私「では、子どもは何と言っているの?」
子「帰ってください」
私「ということは、その男の人は、何?」
子「どろぼう」と。

今度は別の絵。一人の女の子(幼児)が、ふとんの中で寝ている。そのそばに男の子(幼
児)が立っている。同じように、「この二人は、どんな話をしていますか?」と質問。す
ると今度は、一人の女の子が、こう答えた。

子「(女の子は)遊ぼうと言っている」
私「どこで?」
子「おふとんの中で……」
私「じゃあ、男の子は、何と言っているの?」
子「うふん……」
私「まさか……、ラブラブ?」
子「ちがうわよ!」

 ときとして、子どもたちは、こちらが意図しない考えをもつ。最初の絵は、お客さんが
来たところを想定し、「こんにちは」「いらしゃいませ」と答えるのを、期待していた。二
枚目の絵は、「早く元気になってね」「ありがとう」と答えるのを、期待していた。しかし
子どもたちは、ここに書いたように答えた。もちろん私は爆笑。ゲラゲラ笑ってしまった
ので、授業にならなかった。

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテスト
に、こんなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの
絵の中から、答を選んでください。
(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子
どもは、(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、
ひとりの母親がこう言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のま
わりでウロウロされると、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽で
す」と。つまり建て前では、(2)が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を
出した。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテス
トでは、本音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などとい
うものは、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解
を求めようとする。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。
が、それで終わるわけではない。ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出した
ときのこと。一人の学生が、「答のない問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってか
かったという。その教授は、「この世界のできごとは、九九・九九%、正解のないことばか
り。なぜ今の学生は、正解にこだわるのか」と笑っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学
だが、T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしま
った。この状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分
離方法を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参
考書もちこみOKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にすると
いうもくろみがある。当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さ
きの教授は、こう話してくれた。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値
は、ますますさがってくる。大切なのは、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生み
だすかです」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだ
ろうか。そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもた
ちにかぎらず、私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろ
うか。私は子どもたちの前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につなが
るものの考え方の、大きなヒントが隠されているような気がする。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月x日

++++++++++++++++++

今日、偶然にも、2人の友人に会った。

1人は、H氏。50歳くらい。
もう1人は、N氏、60歳くらい。

本当は年齢を知っているが、あえて
あいまいにしておく。

長いつきあいだ。

別れるとき、N氏とは、今度、いっしょに
食事をすることにした。

H氏には、まだ話していないが、奥さんと
近く、山荘に、来てもらうつもり。

4月に入ったら、連絡しよう。

++++++++++++++++++

●浜名湖1周

 今度、長男と、浜名湖を自転車で一周することにした。「やってみようか?」と声をかけ
ると、「暖かくなったら、いいよ」と。「あまり暑くなってからでもしかたないので、4月
にしよう」と言うと、「うん」と。

 浜名湖の周囲には、その浜名湖をぐるりと1周する形で、自転車道が完成している。1度
はしてみたいと思っていた。「これがぼくの人生で、最初で最後の思い出になるかもしれな
い」と、私は言ったら、長男も、そう思ったらしい。意外とあっさりと、同意してくれた。

 が、私は毎日、自転車で体を鍛えている。一周できるだろう。しかし長男は、そうでな
い。いくら若くても、鍛えていなければ、そうでない。一周は、無理かもしれない。

 ともかくも、楽しみだ。ざっと計算してみると、一周、60〜80キロはある。曲がり
くねった道だから、道のりは、もっとあるかもしれない。時速10〜15キロで走っても、
6〜8時間はかかる。かなりきつい行程だ。休みながら走れば、何とかなるだろう。

●GOOD NEWS

 それからGOOD NEWS! 今日、三男の就職先が正式に決まった。航空会社のJ
社。勤務地は、成田空港だそうだ。今日、昼食をとりながら、ワイフと2人で、静かに乾
杯した。

 あとは、いつもどおりの1日。午前中は、O幼稚園で、講演。午後は、仕事。夜は、D
VD鑑賞。液晶テレビを買ってから、映画館へは、ほとんど足を運んでいない。それまで
は毎週金曜日の夜は、ワイフといつも映画を見に行っていた。金曜日の夜は、満50歳以
上は、入場料金が半額になる。

●新年度

 今年も、インターネットを通して、たくさんの生徒が入会してくれた。毎年2月になる
と、「BWも、今年度でおしまいかな」と思う。が、3月末になると、息を吹きかえす。こ
の20年間、その繰りかえし。それがBW。

 N氏にそのことを話す。体力的にも、そろそろ限界に近づいてきた。無理はできない。
とくに今は、精神の安定に心がけている。

●株価暴落

 ところで話は、ぐんと深刻になるが、ここ数日、株価が、全世界的に暴落している。む
ずかしい理論など、必要ない。アメリカへ行ったことがある人なら、だれでもわかると思
うが、こういうこと。

 「どうして、そんなに働きもしないアメリカ人が、こんないい生活ができるのだろう」
と。

 一方、中国やインドでは、それが反対になる。東南アジアの国々へ行けば、さらに、そ
れがよくわかる。「どうしてみんな、こんなに一生懸命働いているのに、生活が貧しいのだ
ろう」と。

 この日本について言うなら、どちらかというと、アメリカに近い。全体としてみると、
それほど働いていないのに、みな、そこそこに、よい生活をしている。

 つまり世界は、(富)をもつものと、もたないものの間で、不公平が起きている。それが
今、世界的な株価の暴落で、調整期に入った(?)。

 日本は、アメリカに近いから、その分だけ、下に落ちるということか。

●韓国のおバカ大統領

 で、問題は韓国だ。あのN大統領が、またまた、おかしなことを言いだした。どうして
あの人は、こうまでものの考え方が、うしろ向きなのだろう。今度は、日本に向かって、「誠
意を見せろ」(3月1日)と。天皇や日本の首相が訪韓するたびに、「謝罪しろ」「謝罪しろ」
の大合唱。いったい日本は、何度、それも、いつまで謝罪しつづけたら、韓国は気がすむ
のか。

 要するに、今の日本は、韓国とは、仲よくできないということ。ついでにK国とも。

 目下、その韓国だが、日本との間で、し烈極まりない経済戦争が進行している。まさに
「死闘」というにふさわしい。勝つか、負けるか。

 ノー天気なオバチャンたちは、「イー様」「ヨン様」と浮かれている。よい年齢のオバチ
ャンたちだ。そんなオバチャンたちが、(追っかけ)までしている。本当にどうかしている。
日本が今、この極東アジアでどんな立場にあるか、それが少しでもわかったら、そんなア
ホなことはできないはず。(私は、あえて「アホなこと!」と断言するぞ!)

 いいか! この戦争に破れたら、日本の明日はないのだぞ! それがわかっているのか
ア!

 少し頭が熱くなったので、軽い話をしよう。

●自転車屋

 私は、当然のことながら、自転車に興味がある。実家の稼業は、その自転車屋だった。
その自転車だが、少し前まで、1万円の自転車に驚いていたが、最近では、7500円の
ものまである。7500円だぞ! (私が子どものころでさえ、1万円というのは、破格
の値段だった。)

 ところで私がいつも修理を頼んでいる自転車屋だが、どうも、元気がない。毎年、店に
並ぶ自転車の数が、どんどんと減っている。店のおやじも、元気がない。近くのショッピ
ングセンターでは、100台とか200台もの自転車を、並べて売っている。値段も、安
い。最近では、サービスもよくなった。これでは個人の自転車店には、勝ち目はない。

 では、どうすればよいのか?

(1)道路沿いの、車のホコリをかぶっているような店では、勝ち目はない。(油で
店も、勝ち目はない。)
(2)歳をとったおじさんが、セーターを着て仕事をしているような店では、勝ち目は
ない。(ふだん着で仕事をしている店では、さらに勝ち目はない。) 
(3)値段があやしげな店では、勝ち目はない。
(4)自店で、独自のカラー印刷の広告を出せないようでは、勝ち目はない。

 この反対の店にすれば、個人の店でも、生き残ることができる。つまり、それなりのセ
ンスがあり、若い店員が生き生きと仕事をしている。そして雑誌にも、値段が載っている
ようなメーカー品の自転車を並べている。そんな店なら、勝ち目はある。あとは、高級品
で勝負するという方法もあるが、個人の店では、たいてい失敗する、

 ただし、近くに大型のショッピングセンターがないこと。いくらなんでも、近くに大型
のショッピングセンターがあったら、勝ち目はない。

 私という素人の商店評論だが、それほど、まちがってはいないと思う。私は子どものこ
ろから、先にも書いたように、その自転車屋を見て育った。

●貧乏人vs金持ち

 あまりバカな話ばかり書いていてはいけないので、シメに、少し、有益な話(?)をひ
とつ。

 金持ちが、それなりの人格者になるのは、当たり前。また人格者のフリをするのは、簡
単。しかし貧乏人が、人格者になるのは、むずかしい。人格者のフリをしても、すぐボロ
がでる。……これは私の意見ではない。論語の中に、そういうようなことが書いてある。

 それを、今、思い出しながら、自分の意見を書き加える。

 ……というより、今日、ワイフとそのことを話題にした。「貧しいと、人間性まで狂って
くるから、いやだね」と。

 たとえば生活が貧しくなると、ひがみやすく、ねたみやすくなる。それ以上に、人を恨
みやすくなる。こうしてその人の精神は、少しずつ、蝕(むしば)まれていく。結果とし
て、人格者とは、ほど遠い人間になってしまう。みながみなというわけではないが、そう
なる可能性は低くはない。

ワ「生活に余裕がなくなるからね」
私「そうなんだよな。つまるところ、余裕の問題ということになる」と。

 言いかえると、いくら生活が貧しくても、心の余裕さえあれば、自分の人格を保持する
ことができる。みがくこともできる。反対に、いくら生活が豊かでも、心の余裕のない人
は、そうでない。高級車に乗って、御殿に住んでいても、人格に疑問符のつく人は、いく
らでもいる。

 では、心の余裕とは何か? どうすれば、心に余裕をもつことができるか?

 ひとつの方法として、『運命を受けいれる』というのがある。自分の置かれた立場、境遇、
環境を、そのまま受けいれる。不平、不満をもたず、日々に、満足して生きる。

 私がここでいう「運命」というのは、その人をつないでいる、無数の「糸」をいう。家
族という糸、親類という糸、地域、社会、国という糸、それに日本人という糸など。私自
身の肉体、健康という糸もある。そういう無数の糸が、それぞれの人を、からみながら、
その人の生きる道を定めている。それが「運命」ということになる。

 それを先に受けいれてしまう。「何もベンツに乗れなくても、ビッツでじゅうぶんではな
いか」と。(これは、私自身のことだが……。)

 要するに無理をしないということ。そういう気構えが、心の余裕をつくりだす。

ワ「論語って、すごいことが書いてあるのね」
私「ホント」、……ということで、今朝の雑感は、おしまい。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●一日の交通費、1万1000円!

+++++++++++++++++++

数年前のことだが、この浜松市でも、
市議会議員の交通費が、1日(1日だぞ!)、
「片道、5000円」ということになった。

片道、5000円ということは、往復で、
1万円。議員が、どんな方法で議会に
来ようが、1万円ということ。

(この数字については、記憶によるもの
なので、正確ではない。)

当時、私は、その金額に驚いた。
仮に10日間、議会に顔を出せば、
それだけで、10万円、と!

+++++++++++++++++++

地方議会に出席した議員には、交通費が支払われている。日額で支払われることが多く、
それを「費用弁償」という。

この「費用弁償」ほど、不透明なものはない。読売新聞の全国調査によれば、47都道府
県・15政令市議会のうち、廃止しているのは大阪、堺両市だけ。実費のみの支給も鳥取
県と静岡市にとどまるという(07年3月11日)。

それによれば……、

 『40都道府県・12市は、一律または自宅からの距離に応じて定額を支給している。
このうち15都道県・7市は自宅が近い議員にも1万円以上を支払っており、実態とかけ
離れた高額支給が鮮明になった。交通手段を問わず、たとえ歩いたとしても定額が支払わ
れる仕組みだ。

 調査は2月末現在で実施した。一律で定額支給しているのは10市。最高は広島市の1
万1000円で、札幌、仙台、横浜、名古屋、京都、福岡市が1万円』(読売新聞)と。

 しかしこんなメチャメチャな交通費が、どこにあるだろうか? ……とだれしも、思う。
思って当たり前。しかし、こうして市議会の議員にそれなりのウラがある。わかりやすく
言えば、役人側の、(議員懐柔策)。議員にアメをしゃぶらせながら、役人たちは、自分た
ちの特権を、拡大する……。

 この浜松市でも、数年前、市議会議員の交通費が、「片道、5000円」という条例が可
決された。当時、それを私に教えてくれた議員の人(女性)は、こう言った。「(議会では)、
だれも、反対しなかった」と。

 が、こうした条例の改正案の可決には、ウラがある。つまりこうした改正案が出される
ときは、ほとんどのばあい、役人の待遇向上(?)のための法案が、抱き合わせになるこ
とが多い。

 ご存知の方も多いと思うが、議会といっても、質問書も、答弁書も、実は、担当の役人
が書くことが多い。つまり議員は、役人の作った質問書を読み、その一方で、これまた役
人の作った答弁書を読む。

 国会ですら、そうなのだから、いわんや、地方議会をや、ということになる。「作文力の
ある議員は、ほとんどいない」「いや、その前に、役人が、情報をしっかりとにぎっている
から、議員は、役人に頭をさげるしかない」と。そんな声も、よく聞かれる。

 役人が、なぜ役人なのかといえば、(情報)を握っているからである。役人に嫌われたら、
情報に接することすら、できない。

 この浜松市がそうであるというのではないが、そんなわけで、実際に、地方議会を牛耳
っているのは、役人たちと考えてよい。少なくとも、役人たちは、そう考えている。

 そこでたとえば、役人たちは、自分たちの特権を拡大するとき、一方で、議員側にも、
それなりのアメを用意する。用意しながら、「あなたたちも、いい思いをさせてあげるから、
同時に、この法案を通してくれ」と言う。

 私は憶測で書いているのでは、ない。こんなことは、この日本では、常識! 役人と議
員は、いつもそのウラで、談合を繰りかえしている。(談合だぞ!)繰りかえしながら、長
い時間をかけて、自分たちにとって都合のよい世界を、作りあげる。

 今回、読売新聞社は、全国調査をして、「1万1000円」という金額を公表した。しか
し私が知るかぎり、こんなのは氷山の一角。さらに言えば、その奥には、さらに巨額な特
権、つまり役人の特権が隠されている。

 少し前にも話題になったが、役人の世界には、8年間で、たった5日、勤務しただけで、
その間、ずっと、満額の給料を手にしていた人すらいる。5年間で、8日だったか? ど
ちらにせよ、これを役人の特権と言わずして、何と言う。しかしそんな例は、いくらでも
ある。あちこちにゴロゴロしている。

 ……ということで、私たちは、もう少し、怒ってもよいのではないだろうか? その(怒
り)なくして、民主主義の発展は、ない!


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●中教審答申

+++++++++++++++++

中教審の答申が、公表された。
それによれば、

(1)義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設する。
(2)教育長任命時の国の承認制度復活には反対する、だそうだ。

+++++++++++++++++

●教審答申のポイント

 ◇学校教育法◇

・義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する
態度」を新設する。
・義務教育年限は9年の現行通りとする。
・学校は自らの評価制度を設けるべきだとの努
 力義務規定を新設する。情報開示規定も新設する。
・副校長、主幹などの設置規定を新設する。

 ◇教員免許法◇

・免許状の有効期間は10年間とする。
・分限免職処分を受けた場合は免許状失効する。
・更新時の講習時間は30時間程度とする。

 ◇地方教育行政法◇

・教育で著しい不適切行為がある場合、国が
 教育に関する責務を果たすための仕組みが
 必要(教委への勧告・指示権限に関し賛否両論併
 記)。
・教育委員に必ず保護者を含むようにする。
・教委は第三者らによる点検・評価を受けて
 議会に報告する。
・教育長任命時の国の承認制度復活には反対する。
・教委が私学に指導する制度には反対する。
・文化とスポーツの管轄は教委から首長に移
 すことを可能とする。

(以上、毎日新聞 07−03−10)

 今回の中教審のポイントを、さらにしぼると、つぎの2点に集約される。

(1)義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設する。
(2)教育長任命時の国の承認制度復活には反対する。

 ここで重要なのは、「態度」の内容。そしてだれかが、中教審に対して、「承認制度の復
活」を協議するように働きかけたという点。言うまでもなく、その(だれか)というのは、
文部科学省の官僚たちである。

 どうして国=官僚たちは、こうまで国民を束縛したがるのだろう? 「自由」を一方で
標榜(ひょうぼう)しながら、やっていることは、(しめつけ)一辺倒。EUにせよ、アメ
リカにせよ、世界の教育は、自由化に向けて、まっしぐらに進んでいる。カナダでは、学
校の設立そのものが、ほとんど自由化されている。

 教科書検定にしても、欧米の国々の中で、それをしている国が、どこにある? アメリ
カでは、公立の学校ですら、PTAで、自由にカリキュラムを組んでいる。

 これでは外国から見れば、日本もK国も、同じ。区別のしようがない。あるいは、あな
たなら、シリアとクウェートのちがいを言うことができるだろうか?

 が、問題なのは、「我が国と郷土を愛する態度」の「態度」。

 これから文部科学省はこの答申を受けて、したい放題のことをしてくるはず。拡大解釈
は、官僚たちの常套(じょうとう)手段。国歌、国旗の問題にとどまらないだろう。へた
をすれば、そのうち、学校の各教室に、天皇、皇后の写真が、並べて飾られるようになる
かもしれない。

 だいたい、どういう基準で、またどうして、中教審のメンバーたちが選ばれたか、それ
すら明確ではない。「選ばれた」という時点で、すでに、(イエス・マン)だけが選ばれた
と考えるのが、自然である。

 そういう人たちが、文部科学省の意向に沿った答申をし、それを受け取った官僚たちは、
「お墨付きを得た」とばかり、それをもとに、好き勝手なことを始める。

 このやり方は、大正デモクラシーを押しつぶしながら、軍国主義への道を歩んだ、あの
時代に官僚が見せた手法と同じではないか。……と言っても、官僚ばかりを責めるわけに
は、いかない。私たち国民にしても、(考えること)を、放棄してしまっている。賢い国民
というよりは、ますます愚かになりつつある。どこかのお笑いタレントが、県知事になっ
たとしても、それを何ら疑問に思わない国民である。

 この国民にして、この国家である。

 いったい、この先、この日本は、どうなっていくのか? 忘れてならないのは、貴族政
治にせよ、独裁政治にせよ、為政者がまず手をつけるのが、(教育)だということ。戦前の
日本も、そうである。

 あの軍国主義を、先頭に立ち、もっとも過激に日本を先導したのが、ほかならぬ当時の
文部省である。

 あえて評価するなら、「教育長任命時の国の承認制度復活には反対する」という部分。い
くらイエス・マンの集団とはいえ、最後のところで、一縷(いちる)の良心が残っていた
ということか。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●孤立する日本

++++++++++++++++

失言につづく、失言。
今度は、日本のA総理の失言。
失言というより、あまりにも、
タイミングが悪かった。

おかげで、アメリカでは、
反日の大合唱。

ボストン・グローブ紙まで、
「日本に裏切られた」という
社説をあげるまでになっている。

++++++++++++++++

 産経新聞は、つぎのように伝える(3月10日)。

『米下院でのいわゆる慰安婦問題に関する決議案は、慰安婦を、「日本政府による軍の強制
売春システム」と定義し、日本政府の公式謝罪と、歴史責任の受諾、若年世代に対する教
育強化−などを求める内容だ。

(中略)

最近のアメリカリベラル紙の対日非難は、慰安婦問題の強制性を裏付ける証拠を否定した、
安倍晋三首相の発言に的を絞っている。これらメディアはもともと、首相を、「民族主義者」
とみる傾向が強く、強制性の否定や再度の謝罪拒否という発言が、固定観念を刺激した形
だ。

 決議案について、下院では月内に外交委員会での採決を経て、4月の安倍首相の訪米日
程をにらみながら、本会議採択を目指すとの見方が強い。首相発言の影響で、決議を阻止
するのは厳しくなったとの懸念も出ている』と。

さらに、8日付のボストン・グローブ紙社説は、首相発言が、「近隣アジア諸国にとどまら
ず、同盟国たるアメリカの信頼も失った」と決めつけ、ロサンゼルス・タイムズ紙の社説
(7日付)が、天皇の謝罪を公然と要求するなど、リベラル系メディアを中心とした対日
非難は、エスカレートしている(ヤフーニュース)。

 ここで注目すべき点は、アメリカのマスコミは、はっきりと(天皇の戦争責任)を追及
し始めているという点。いくら日本国内で、日本人が、「そうでない!」と叫んでも、そう
いう声は、届かない。それが、世界の常識ということになる。

 が、なぜ、戦後60年以上もたって、(今)なのか? 時、同じくして、6か国協議の部
会が、開かれている。日本は、日朝部会の席で、「拉致問題の解決なくして、国交正常化は
ありえない」「援助もしない」と主張している。そしてアメリカには、「拉致問題の前進な
しでは、テロ支援指定解除をしないでほしい」と、要請している。

 しかしすでに、米朝間では、テロ支援指定解除の話しあいが、進んでしまっている。韓
国の聯合ニュースは、9日、つぎのように伝えている。

『先の米朝国交正常化に関する作業部会で、K国が年内に核施設を「無能力化」する措置
を取ることができるとの立場を示し、アメリカがこうした措置に呼応して、テロ支援国指
定解除と対敵通商法の適用終了を履行することで、双方が原則的に一致した』と。

 以上を、簡単にまとめてみると、こうなる。

(1)アメリカは、米朝の2国間協議を始めてしまった。
(2)アメリカは、拉致問題にこだわる日本を無視して、テロ支援指定国家解除の道筋
をつけてしまった。
(3)アメリカにとっての国益は、「核の解除」から、「核の拡散」へと、移動してしま
った。
(4)アメリカには、日朝間の話しあいの仲介をする意図は、まったくない。

 アメリカのヒル国務次官補は、米朝交渉の中で、拉致問題を取りあげたと言っている(日
本側報道)。しかし肝心のK国の代表は、「拉致問題の話はなかった」と言っている。どち
らが本当のことを言い、どちらがウソを言っているのか。

 日本政府は、「日本は孤立していない」とさかんに言っているが、日本は、今、完全に孤
立している。しかし問題は、なぜこうまで孤立したかではなく、アメリカに、こうまで裏
切られたか、である。

 外務大臣、防衛大臣、それに総理大臣の失言につづく失言が、その背景にあったことは
言うまでもない。とくに、今度の安倍総理大臣の発言は、あまりにもタイミングが悪かっ
た。安倍総理大臣は、「(アメリカの下院で非難決議が採択されても)、謝罪しない」と言い
切ってしまった。

 アメリカが激怒して、当然。ボヤボヤと反日感情が、くすぶっていた。そこへ安倍総理
大臣は、ガソリンをまいてしまった。これで一気に、日本非難が、加速してしまった! 簡
単に言えば、そういうことになる。

 では、どうするか? 日本は、どうなるか?

 6か国のうち、日本をのぞく5か国は、日本を悪者にしたてながら、K国の核開発問題
に取り組むことになる。アメリカは、(そして韓国も中国も)、「現在、K国がもっている核
兵器については不問にし、開発と拡散だけを抑え込もうとしている」。一方、K国は、「ア
メリカとの国交正常化を最優先にし、6か国協議をつづけようとしている」。最近の国際情
勢の動きをみていると、どうやらそれが結論ということになる。

 つまり、日本にとっては、最悪のシナリオということになる。今後、日本は、核兵器の
影におびえながら、日朝交渉を進めることになる。莫大な戦後補償を支払うことになる。

 私は、もう4、5年前から、こう書いてきた。「拉致問題にからめて、K国を制裁しては
いけない。人権問題として、世界に訴えていくことこそ、重要」と。「拉致被害者の気持ち
は、わからないわけではないが、制裁では解決しない」と。

 それがいつの間にか、核開発問題による制裁と、区別がつかなくなってしまった。そし
て今は、「拉致問題に前進がなければ、K国援助はない」ということになってしまった。

 そこで日本がとるべき手段は、ただひとつ。

 国際外交の常識として、ここは、静かに、嵐が過ぎ去るのを待つのがよい。謝罪すべき
ことは、謝罪し、姿勢を低くして、嵐が過ぎ去るのを待つがよい。そしてK国が、シッポ
を出すまで、じっと、がまんする。

 米朝交渉は、かならず、行きづまる。すでにアメリカの国務省の中には、米朝交渉を重
荷に感ずる雰囲気が大きくなっているという。その重圧感は、今後、ますます大きくなる
はず。そうなったとき、そこに、スキができる。

 そのとき、日本が、そのスキに割って入ればよい。それまでじっと、がまんする。大切
なことは、これ以上、日米関係を悪化させないこと。理由は、簡単。今の日本にとって、
頼れる相手は、アメリカしか、いない。「バカだ」「アホだ」と言われても、アメリカの足
元にすがるしかない。悲しいかな、それが今の日本の置かれた、きびしい現実ということ
になる。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================






☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   4月 9日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page019.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どもの言葉(乱れる言葉)

+++++++++++++++++

昨日、生徒たちと、こんな会話をした。
だれかが、「先生、トイレ!」と言ったときのこと。

私は、「もう少し、言葉を、ていねいに話そう」と
指導した。そしていろいろな例をあげて、
日本語のおかしさを、指摘した。

つぎの原稿は、そうした視点から書いたもの。

+++++++++++++++++

ある夏の暑い日、1人の女の子(小2)がこう言った。「私、今日、プール、ない!」と。
ほかの子どもが、「今日、私、プール、あった」と言った言葉に対してそう言った。私は
そのときふと、「こういうとき、IBMの翻訳ソフトなら、こういう会話をどう翻訳する
だろうか」と考えた。ちなみに、私がもっているソフトで、実際、翻訳してみた。つぎ
のがそれである。

 「私、今日、プール、ない!」……"Pool and there is nothing me and today." (プール、
私と今日、何もない)
「今日、私、プール、あった」……"today and me -- a pool -- "(今日と私……プール)

 仮にもう少し原文に忠実に翻訳して、たとえばアメリカ人に、「Me, today, pool, no!」
「Today me, pool, yes」と言っても、多分その意味は通じないだろう。

 そこで私はその女の子に、つぎのように質問しながら、正しい言葉で言いなおさせた。

私「あなたはプールをもっていないの?」
女「私が、もってるんじゃ、ない」
私「プールがどうしたの?」
女「プールがなかった」
私「どこになかったの?」
女「そうじゃなくて、プールはあるけど、プールのレッスンはなかったということ」

私「プールがレッスンするの?」
女「あのねえ、私がプールへ行かなかったということ」
私「どうして?」
女「だからさあ、プールがなかったの」
私「プールがなくなってしまったの?」

女「そうじゃなくてエ〜、今日は水泳のレッスンはなかったということ」
私「だったら、最初から、そう言ってね」と。

 こういうとき英語では、「私は今日、スイミングのレッスンには行かなかった」というよ
うな言い方をする。IBMの翻訳ソフトで、翻訳させると、今度はちゃんと、「"I did not go 
to the lesson of swimming today."」と翻訳できた。

今、書店へ行くと、日本語についての本がたくさん並んでいる。その理由が、少しは理
解できたような気がした。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●依存性

+++++++++++++++++++

人間が動物としてもっている、(群れ意識)、
それが、依存性に転化した。

その依存性は、本能的であるがゆえに、
なかなか、その輪郭(りんかく)を外には現さない。

そのため、「私は独立心が旺盛だ」と思って
いる人でも、依存性の強い人は、多い。

+++++++++++++++++++

 「よい人間でいよう」「よい夫でいよう」「よい妻でいよう」、さらには、「よい親でいよ
う」と思うこと自体、すでに、それが依存性の表れとみてよい。人間は、だれかを意識し、
自分の立場を意識したとたん、そこに(保護)と(依存)の関係をつくる。

 誤解してはいけないのは、保護意識が強いからといって、依存性が弱いということには
ならない。「だれかに保護してもらいたい」「だれかに依存したい」という意識が転じて、
得てして、それが他人を保護するという意識に変わる。そういった例は、親子の間で、よ
く観察される。

 たとえば子どもの受験競争に狂奔する親。このタイプの親は、一見すると、保護意識が
強く、その分だけ、独立心が旺盛のように見える。しかし実際には、子どもに依存したい
という意識が基本にあって、それが転じて、親をして、子どもの受験競争に駆り立てる。
もう少しわかりやすく言えば、子どもを1人の人間として認めていない。つまりはそれだ
け子離れできない、未熟な親ということになる。

 が、だからといって、依存性のない人はいない。だれでも、多かれ少なかれ、依存性を、
体質としてもっている。実際には、「私は私」と、自分を確立しながら生きるのは、この世
界では、容易なことではない。子どもについて言えば、「うちの子は、うちの子」と、子ど
もを守りながら生きるのは、この世界では容易なことではない。

人に依存して生きることによって、自らがもつ重荷を、軽減することができる。その分
だけ、気が楽になる。

 半面、独立的であろうと思えば思うほど、そこにあるのは、(孤独)。言いかえると、依
存性がもつ甘美な世界と、独立性がもつ孤独な世界は、ちょうど対照関係にある。だから
人は、無意識のうちにも、独立的であろうとするよりは、だれかに依存しながら、楽に生
きる道を選ぼうとする。冒頭に書いた、(群れ意識)というのも、そこから生まれた。

 私は、これを昔から、「甘い誘惑」と呼んでいる。が、その甘い誘惑から自分を切り離し、
独立して生きることは、容易なことではない。たとえば(自由)という言葉がある。人が
真に自由を求めようとするなら、まず、この甘い誘惑から自分を切り離さなければならな
い。

 話がわかりにくくなってきたので、もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 ある教会に、1人の信者がやってきた。その信者は、白内障で、視力がかなり低下して
いた。が、その少し前、手術で、白内障が治った。

 その信者は、教会の祭壇の前に正座すると、こう言った。「神様が私を守ってくださった
おかげです」と。何度も何度も手を合わせ、祭壇に向って、礼拝した。

 しかし白内障を治したのは、実は、神ではない。病院のドクターである。しかし依存性、
このばあい、神への依存性の強い人には、それがわからない。「神様が、白内障を治してく
れた」と考える。しかも白内障といっても、今では、簡単な手術で治すことができる。

 しかしその信者は、自分では、けっして神に依存しているとは、思っていない。「神を信
じている」とは言うが、「依存している」とは言わない。しかし依存は、依存。それがわか
らなければ、子どもの受験について、合格祈念をしている親の姿を思い浮かべてみればよ
い。

 そんなことに(力)を貸す仏や神がいたとするなら、その仏や神は、エセと考えてよい。
常識のある人なら、そう考える。しかし依存性が強くなると、それがわからなくなる。そ
して子どもが運よく(?)、目的の学校に合格できたりすると、「仏様のおかげ」「神様のお
かげ」と喜ぶ。

 子どもの能力ではない。子どもの努力でもない。仏や神のおかげと、それを喜ぶ。

 こうした依存性と戦うためには、まず自分の中の、依存性に気づくこと。たとえばあな
たが子どもの歓心を買うために、何か高価なプレゼントを買い与える場面を想像してみる
とよい。そのときあなたは、心のどこかで、「買ってやる」という、(やる意識)をもつか
もしれない。

 それも立派な、依存性である。だから子どもがあなたの期待に応えなかったりすると、「あ
んな高価なものを買ってやったのに」と、子どもを叱ったりする。子どもが高校受験に失
敗した日に、私にこう言った母親さえいた。「子どものころから、音楽教室や体操教室に通
わせましたが、みんな、ムダに終わりました」と。……ムダ?

 さらにそれが高じてくると、子どもに向って、「産んでやった」「育ててやった」「大学ま
で出してやった」となる。が、それについては、もう、何度も書いてきたので、ここでは
省略する。

 話をもどす。

 概していえば、日本人は、民族学的な視点からしても、依存性のたいへん強い国民であ
る。日本人独特の集団意識、ムラ意識などに、その例をみる。「みなで渡れば、こわくない」
という発想を共にもつ。つまりそれだけ日本人は、独立心が弱く、さらにその分だけ、(自
由)というものがどういうものであるか、それを知らないでいる。自由とは、もともとは、
「自らに由(よ)る」という意味である。

 ……以上、思いついたまま、メモ風に書いたので、どこかチグハグな感じがしないでも
ない。雑感として、ここに記録する。(07年3月9日)

+++++++++++++++++

つぎの原稿を書いてから、もう4年に
なる。

同じ、(依存性)をテーマにした原稿だが、
そのままここに紹介する。

+++++++++++++++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」
は言わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に
要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話
をするたびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外
に、(だから何とかしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。
そういう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つ
い先日も、ある女性(60歳)と、K国について話しあったが、その女性は、こう言った。
「アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間ど
うしが、助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。一見、なご
やかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。
総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その
依存性が結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」
「ほかの人と違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こ
うした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。
あるいは相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、ある
いは同情を買ったりする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげた
から、感謝しているハズ」と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何か
をしてくれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。そ
れ以外の世界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。もの
ごとを、ナーナーですまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、
どうしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子
イコール、できのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればある
ほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、
まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しか
し今、日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として
確立していない。あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、ある
いは封建時代の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性
が、外の世界からみて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつ
までたっても、日本人が国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラル
である日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」)

+++++++++++++++

ついでにもう1作。
中日新聞発表済み。

+++++++++++++++


●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分
こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分
のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親
は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あ
なたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで
子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」と
いうタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●友だち親子

++++++++++++++++

友だち親子がよくないという意見もある。

「よい」という意見もある。

しかし人間に、上下はない。そういう
視点でみると、「どうして友だち親子が
悪いのか」ということになる。

はっきり言えば、親の権威など、クソ
食らえ!

++++++++++++++++

 02年の3月、玩具メーカーのバンダイが、こんな調査をした。「理想の親子関係」につ
いての調査だが、それによると……。

 一緒にいると安心する ……94%
 何でもおしゃべりする ……87%
 友だちのように仲がよい……77%
 親は偉くて権威がある ……68%

(全国の小学4〜6年生、200人、および五歳以上の子どもをもつ30〜44歳の父母
600人を対象に、インターネットを使ってアンケート方式で調査。)

 一方で「現実の親子関係」では、

 子どもと何でもおしゃべりすると答えた父親 ……72%
 父親と何でもおしゃべりすると答えた子ども ……49%

 この調査からわかることは、子どもは親に、「友だち親子」を求めているということ。そ
れについて、バンダイキャラクター研究所の土居由希子氏は、「友だちのような親子関係は、
『家族の機能が失われつつある』という文脈で語られることが多いが、実はそうではない。
家族がひとつにまとまるために、これまでの伝統や習慣にかわって、仲のよさや、共通の
趣味や話題が必要となっているようだ」(読売新聞)とコメントを寄せている。

 また父親の72%が、子どもと何でもおしゃべりすると答えているのに対して、子ども
の側は、49%であることも注目したい。父親と子どもの意識が、微妙にすれているのが、
ここでわかる。

 親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、総合的にみても、子ども
の前やうしろを歩くのは得意だが、子どもの横を歩くのは、苦手。バンダイの調査に対し
て、「親の威厳こそ大切」という意見もある。しかしこうした封建時代の遺物をひきずって
いるかぎり、子どもは親の前で心を開くことはない。はからずも、「いっしょにいると、
安心する」を、94%の親子が支持している。この数字のもつ意味は大きい。
(02−7−25)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●倫理規範

+++++++++++++++++

弱者にいかに温かい世界かで、
その世界の優劣が決まる。

弱者に冷たい世界は、それだけで、
劣った社会と考える。

+++++++++++++++++

 昨日、テレビの「討論バトル」という番組をみた(〇二年七月)。今回は、暴走族と、4
人の講師(?)たちとのバトルだった。チャンネルをかえていたら、たまたまその番組が
飛び込んできた。

 案の定、4人の講師たちは、暴走族の若者たちを完全否定。ジャッジ役のおとなたちも、
完全否定。暴走族の若者が、1人の講師に向かってあれこれ反発すると、40歳くらいの
女性はこう言った。「あなたがたは、人生の先輩者の意見を、もっと前向きに聞くことがで
きないの!」と。

 私は、暴走族の若者たちをかばう気持ちは、毛頭ない。好きか嫌いかと言われれば、嫌
いに決まっている。しかしああまで一方的に、彼らを否定することもできない。

理由の第一は、彼らは、一見「強者」のフリをしているが、その実、社会の底辺を生き
る、「弱者」でしかないということ。学校の先生から見放され、親たちからも見放され、
将来への夢や希望も、ことごとくつぶされた若者たちである。それだけに将来に対する
不安や心配も大きい。運転免許証以外、資格をもっている若者はいないだろう。身を寄
せる、温かい家庭すらもっていない。彼らは彼らなりに、精一杯、自己主張しているだ
け。

ゆいいつ心を開くことができる相手というのは、自分と同じような立場で、同じような
苦しみのわかる仲間だけ。そういう仲間の間で、たがいに慰めあっている。不安や心配
と戦っている。もしそれが悪いというのなら、では、ほかに彼らには、どんな方法があ
るというのか。

 はからずも1人の若者がこう叫んだ。「お前たち(おとな)に、偉そうなことを言う資格
などあるのかよ!」と。その通り。私たちおとなに、彼らを責める資格などない。この日
本だけをみても、不正義と不公平が満ち満ちている。コースに乗っただけという理由で、
その恩恵を受ける人は、とことん受ける。そうでない人は、少しばかりがんばったところ
で、どうにもならない。こうした無力感は、多かれ少なかれ、だれで感じている。が、若
いがゆえに、彼らはそれを人一倍、強く感ずるのだろう。それを彼らは、暴走させている
だけだ。

 いや、実のところ、この私とて、毎日、暴走しそうな自分を必死に押し殺して生きてい
る。体には無数のクサリががんじがらめに取り巻いている。こうしたクサリから解放され
たら、どれほど気が楽になることか。できるなら私も、バイクの音をバリバリとたてなが
ら、天下の国道を、思う存分、自由気ままに走り回ってみたい。

しかし現実は、どこへ行っても、規制、また規制。生きることすらままならない。何を
するにも、資格だの認可だの許可がいる。職をなくしたから、では明日からリヤカーで
も引いて、屋台のラーメン屋でもしたいと思っても、それは不可能。調理師の免許、保
健所や市役所への届け出、検査、認可が必要である。尾崎豊の言葉を借りるなら、私た
ちはまさに「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、あがきもがいているだけ?

 今の日本のしくみの中では、ある一定の割合で、彼らのような若者が生まれる。学校で
の勉強でも、いまだに「みんなが百点でも困る。差がつかないから。しかしみんなが0点
だともっと困る。差がわからないから」が基本になっている。10%のエリートを生み出
す一方、10%の落ちこぼれが、必然的に生まれる。そういうしくみになっている。

言いかえると、彼らこそ、こうしたゆがんだ教育体制の犠牲者にすぎない。もっと言え
ば、彼らが彼らであるのは、彼らから夢や希望を奪ってしまった私たちにこそ、その責
任がある。さらにもっと言えば、彼らは重い心の病気にかかっている。そういう若者を、
一方的に否定することはできない。いや、否定したところで、問題は何も解決しない。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

【4年前の正月】

+++++++++++++++

原稿の整理をしていたら、
たまたま4年間に書いた原稿が出てきた。

「おもしろい」と思った。
自分で書いた原稿を自分で評価するのも
おかしなことだが、そう思った。

++++++++++++++

●演歌の世界

 02年度も、最後の部分だけだが、NHKの紅白歌合戦を見た。私が子どものころは、
視聴率も、80%以上あったという。あの番組は、まさに国民的番組であった。が、今は、
見る影もない。どういうわけだか、おもしろくない。時代が変わったのか? 私の趣向が
変わったのか? それとも番組自体が、つまらないのか?

 こう書くと、紅白歌合戦を楽しんだ人には失礼になるかもしれない。「何、言ってるの! 
私は楽しんだわ」と。

 こういうエッセーを書くとき、一番神経をつかうのは、「私はこうだから……」という理
由だけで、ものごとを決めてかかってはいけないということ。個人的な好き嫌いを、ほか
の人に押しつけてはいけない。

紅白歌合戦についても、そうで、「私がそう思うから」という理由だけで、「つまらない」
と書いてはいけない。それに「つまらない」と書く以上、それにかわる案なり、方法を
提示しなければならない。批判したり、批評したりする程度なら、だれにでもできる。


 「紅白」の紅白というのは、もともと、女性の生理の血の赤と、男性の精液の白を意味
しているそうだ。外国では通用しない、日本独特の色彩観である。(あるいは中国からきた
色彩観か?)たとえばアメリカでは、結婚式でも、花婿、花嫁以外は、男性はダークのス
ーツだが、女性は、ブルーとかオレンジに、色がある程度、限定されている。これは花嫁
の美しさを目立たせるためではないか。日本でも、結婚式では、そういう気配りをする。

……というように、あれこれ思い浮かべても、「男は白、女は赤」という場面は見たこと
がない。そう言えば、私の二男の結婚式で驚いたのは、列席してくれた男性たちが、皆、
黒いネクタイをしていたことだ。「日本では、葬式のときに黒いネクタイをする」と言い
かけたが、この話は、だれにもしなかった。

さて、本題。紅白歌合戦では、最後(トリ)を、演歌歌手が占めた。男性は、演歌歌手
のK氏につづいて、I氏。女性は、Iさんだった。私が紅白歌合戦をつまらないと思っ
たのは、もともと演歌が好きでないこともある。人間の心を、安っぽい論理で、決めて
かかるところが、好きでない。酒、夜、女、雨が、テーマになることも多い。

私は酒は飲めない。夜は苦手。女は関係ないし、雨より、青い空が好き。それに若いこ
ろから、義理とか人情とかいう言葉が好きではなかった。昔、『甘えの構造』という本を
書いた土居健郎氏は、「人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理
人情が支配的なモラルである日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった」
と述べている(「甘えの構造」)。そういう点では、演歌は、どれもネチネチしている。カ
ラッとしていない。

 ……とまあ、私は、またまたひどいことを書いてしまった。日本の民族的音楽である、
演歌を批判してしまった。きっとこのエッセーを読んで、怒っている人もいることだろう。
もしそうなら、許してほしい。だからといって、私が正しいとか、こうあるべきだとかと
書いているのではない。あくまでもひとつの意見として読んでほしい。

 ただこうした私の趣向の背景、つまり演歌がどうしても好きになれない理由には、こん
なことがある。

 私の父は酒乱で、数日おきに酒を飲んで暴れた。そしてそれは私が5歳くらいのときか
ら、私が中学2年生くらいになるときまでつづいた。そのあとは、父も肝臓を悪くし、酒
が飲めなくなったが、そんなわけで、私は今でも、酒臭い人間が、大嫌い。ゾッとするほ
ど、大嫌い。

だから何かの理由で、酒場のようなところに入ると、その酒臭さに、耐えられなくなる。
演歌は、そういう酒場のようなところで歌われることが多い。カラオケができてからは、
なお一層、その傾向が強くなった。だから、演歌を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。
この嫌悪感だけは、どうしようもない。演歌に、そういうイメージが焼きついてしまっ
た。そう言えば、ワイフと結婚する前も、私はワイフにこう聞いた。「あなたは、演歌が
好きですか?」と。するとワイフは、「大嫌い」と。それだけではないが、それで私はワ
イフと、安心して結婚することができた。

 ただ、美空ひばりだけは好きだった。とくに「悲しい酒」だけは、好きだった。美空ひ
ばりは、演歌歌手というレベルを超えた歌手だった。「悲しい酒」にハマったときは、ワイ
フといっしょに風呂につかりながら、歌い方を何時間も練習した。これは私の唯一の例外
か?
(03−1−2)

●あとで聞いたら、02年度の紅白歌合戦は、演歌ばかりではなかったそうだ。しかした
またま私が見たときは、演歌ばかりだった。不運な偶然が重なったのかもしれない。少な
くとも、ここ15年くらいは、紅白歌合戦は、ほとんど見ていない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●正月2日

 たき火をしようと居間におりたが、外を見ると、強風。そこでワイフに、ふと、「ドライ
ブでもしてこようか?」と声をかけると、「いいね」と。そこで正月2日だったが、ドライ
ブにでかけた。

 車は、トヨタのビッツ。私たちは、勝手に、「ビンツ」と呼んでいる。ドイツのベンツを
もじって、そう呼んでいる。

 コースは、浜松市内から、国道1号線に入り、そこからバイパスを通って、新居まで行
く。そしてそこから浜名湖1周コースに入る。このコースだと、ドライブをしている間中、
右側に海が見える。

 途中、浜名湖鉄道のK駅で、昼食。駅を改造したレストランで、マスコミにもよく紹介
される。料理は……と書きたいが、ここから先は書けない。(だからといって、推薦してい
るわけではないので、誤解のないように!)

 それからまた走って、細江町へ抜け、そこから姫街道を通って、市内へもどる。時間に
して、ちょうど2時間半のコースだった。ちょっとドライブというときには、よい距離だ。
気分転換になる。

 途中、ワイフといろいろな話をする。たいていは、くだらないバカ話だが、ときどき哲
学的な話もする。あとは、ただひたすら雑談、また雑談。「若いときは、よくドライブをし
たわね」とワイフ。「そうだね、毎晩したね」と私。

 私たちは、よく真夜中にドライブにでかけた。夜中の11時とか、12時に、である。
そしてあちこちを回ったあと、明け方に帰ってくることもあった。自由業とは、まさに私
のような仕事をいう。そういう点では、私たちは、本当に好き勝手なことができた。

 当時は、貯金もしなかった。翻訳料で少しでも、予定外のお金が手に入ったりすると、
そのお金をもって、隣の浜北市の旅館で1泊してきたりした。そして翌日は、また幼稚園
へ……。収入も、仕事も不安定だったが、私たちには、こわいものは、何もなかった。不
安もなかった。今でも、こうしてドライブをしていると、あのころの自由奔放(ほんぽう)
さが、そのまま心の中によみがえってくる。

 明日からは、人に会わなければならない。行かねばならないところもいくつかある。そ
れに正月明けの仕事の準備もしなければならない。こうしてゆっくりと原稿を書けるのも、
今夜まで。……といっても、こういうふうにヒマなときほど、原稿は書けないもの。頭の
回転がどこか鈍る。私は、仕事をしていたほうが、頭の調子はよいようだ。だから、今は、
こんなどうしようもない駄文しか、書けない。ここまで読んでくれた人には申し訳ないと
思う。どうか許してほしい。
(03−1−2)※


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●人生は、無数の選択

 ときどきふと、考える。どうして今の私は、今の私なのか、と。そして同時に、「もし、
あのとき……」とも考える。「もし、あのとき、別の選択をしていたら、私の人生は、大き
く変わっていたかもしれない」と。

 しかし私は、こうも考える。私はそのつど、無数の選択を繰り返してきた。それはC・
ダーウィンの進化論のようなものだ。今の私は、そういう無数の選択をくぐりぬけながら、
今の私になった。しかしその選択をしたのは、私自身であって、ほかのだれでもない、と。

 たとえば私があのままM物産という商社で働いていたら、私は「社畜」(会社の家畜とい
う意味)になって、いまごろは、狂い死にしていたかもしれない。私という人間は、そう
いうタイプの人間だった。いや、死なないまでも、今ごろはどこかの精神病院に入院して
いるか、心筋梗塞(こうそく)か何かで、倒れていたかもしれない。つまり私がM物産と
いう会社を飛び出したのは、私自身が、そういう未来を避けるために、そのように選択し
たからだ。

 だから、ひょっとしたら、私でなくても、私のような人間が、同じような立場に置かれ
たら、やはり私と同じような運命をたどったであろうということ。そう、それを「運命」
というなら、たしかに運命というのは、ある。

 私は、結局は、たいした人間にはなれなかった。これからもなれそうもない。このH市
という、地方都市にうずもれて、このまま人生を終えることになる。それは私の本望では
ないが、しかしこれが私の限界なのだ。私は私なりに、精一杯、生きてきた。その精一杯
生きる過程で、無数の選択を繰り返してきた。今も、毎日のように選択を繰り返している。
しかしいくらがんばっても、その限界を超えた選択は、私にはできない。

 たとえばこの正月になって、どうも体の調子が悪い。原因は、運動不足だということは
よくわかっている。しかし私ができることといえば、せいぜい、犬のハナと散歩に行くこ
と。本当なら、トレーナーを着て、10キロくらいランニングするのがよいのだろうが、
この寒さでは、それもできない。する気が起きない。そこで私は、自分の限界を感ずる。
その限界の中で、私はハナとの散歩を選択した。つまり、こうして、無数の選択が積み重
なって、私の運命が決まっていく。

 いろいろ私自身についての不満もある。後悔というほどのものではないが、「ああすれば
よかった」「こうすればよかった」と思うこともある。しかし私はそのつど、最善を尽くし
てきた。そのときどきに、その限界の中で、最善の選択を繰りかえしてきた。その結果が、
今の私であるとするなら、私には、ほかにどんな道があったというのか。

 もちろん私にも、その限界を超えた「夢」がある。しかし夢は夢。しょせん、かなわぬ
夢。そこには私の実力がからんでくる。運、不運もある。私の精神的欠陥や性格的欠陥も
ある。そういうものを総合的に考えてみると、やはり今が、限界。この程度が限界。ある
いは今以上に、私は、何を望むことができるのか。

 私が今、できることは、その限界状況と戦いながら、よりよい選択をそのつど、してい
くしかない。たとえばハナと散歩にでかけても、いつもより距離をのばしてみるとか。い
つもより、より速くいっしょに走ってみるとか。ささいなことだが、こうした選択をする
ことで、明日が決まる。だから過去をほじくりかえして、後悔しても、意味はない。後悔
する必要もない。あの宮本武蔵も、『我が事に於て後悔せず』(「独行道」)と書いているが、
私も、自分のことでは、後悔しない。……したくない。
(03−1−2)※

(追記)ときどきワイフにこう聞く。「お前は、ぼくと結婚して、後悔していないか? も
っと別の人生を歩きたかったのではないないか?」と。

するとワイフは、「これが私の人生だから」と言う。ときどき、「私は家族のみんなが、
それぞれ幸せになってくれれば、それでいいの」と言うときもある。そこでさらに私が、
「何か、やり残したことはないか?」と聞くと、「私は家族が幸せになるのを見届けたい
だけ」と。

実は、私も同じように考えるようになってきた。残りの人生は、家族や、ほかの人たち
のために使いたい。

+++++++++++++++++

(後記)

4年前の原稿だから、「未熟だったなあ」と
思う部分もあれば、「なかなか鋭いなあ」と
思う部分もある。

原稿も、古い原稿になると、自分で書いたと
いう意識は、あまりない。(書いたことすら
忘れてしまっているので……。)

しかし読んでいると、何というか、
スーッと、脳みその奥の奥までしみこんで
いくのがわかる。

それもそのはず。いくら忘れたとはいえ、
その過去の上に、今の私がある。

文体も、私のもの。

+++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●日本人のあいまいさ

+++++++++++++++++++++

嫁のデニーズ(アメリカ人)が、先ほど、
こんなメールを書いてきた。

ある人にスカイプ英会話の案内をした。
もう数日になるのに、返事がない。

どうしたらいいか、と。

つまりデニーズは、もう一度、メールを
書くべきかどうかで悩んでいる。

+++++++++++++++++++++

 アメリカのばあい、大統領に手紙を出すと、必ずといってよいほど、返事がかえってく
る。(もちろん大統領自身からではないが……。)

 オーストラリアでもそうである。欧米諸国は、みな、そうである。

 しかしこの日本では、そうではない。私のBW教室でも、つぎのようなことが、よくあ
る。

 「教室を見学をしたい」というから見学をしてもらう。しかし大半の親子は、そのまま
帰ってしまう。私のほうとしては、「入会してもらえるかどうか、その意思表示をしてほし
い」と思っているが、そのまま帰ってしまう。何も言わないで、帰ってしまう。

 で、こちらのほうが不安になって、「どうしますか?」と聞くと、「家へ帰ってから、相
談して決めます」と。

 見学についてもそうだが、案内書についてもそうである。「案内書がほしい」と言うから、
送る。しかしそのあと、そのままという人が多い。

 が、アメリカには、そういう習慣(?)は、ない。ないというか、こういうケースのば
あい、けっして、あいまいなままにしておかない。教室の見学をすれば、その場で、YE
S・NOをしっかりと意思表示する。案内書を送れば、かならずそれに対する返事をくれ
る。

 「日本は礼儀の国」とは言うが、ことこの部分についての、礼儀はない。

 だからデニーズには、こう返事を書いた。

 「日本人は、YES・NOをはっきり言うのを嫌う国民です。ものごとをあいまいなま
まにしておくのを、より好む国民です。だから相手から何か言ってくるまで、待つのがい
いです」と。

 ついでに、日本人のダブル・マインド(心の二重構造性)についても、書いた。いわゆ
る、(本音と建て前論)である。

 しかし今は、そういう時代でもないと思うのだが……。

++++++++++++++++++

本音と建て前で思い出したのが、
教師言葉。この教師言葉ほど、
本音と建て前を使い分けるものもない。

++++++++++++++++++

●教師言葉

 子ども(小2男児)がもらう成績表の通信欄。そこには、こうある。「運動は活発にでき
ました。授業にも集中できるようになりました。1学期は飼育係をし、友だちと協力して
動物を育て、思いやる心を学びました。2学期は学習面での飛躍が期待されます」と。

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまった
ような言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れて
います」とは言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。

こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さ
っぱりできない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしろ)」と言う。

あるいは問題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されています……
(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」「私の
力不足です……(もうギブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私にほうでお
さえておきます……(問題児だ)」などと言う。ほかに「静かな指導になじまないようで
す……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少し人気があってもいいのですが……(嫌
われている)」「協調性に欠けるところがあります……(わがままで苦労している)」「ほ
かの面では問題はないのですが……(学習面では問題あり)」というのもある。

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子です
ね」と言われたときは、すなおに喜んでよい。

先生は、おせじではほめない。おせじを使わなければならない理由そのもがない。裏を
返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめられたことがないという
のであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうがよい。

幼児のばあい1つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子ど
もの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないのなら、かなりの問題のある
子どもとみてよい。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや
先生から耳にする、日ごろの評判を基準にして、それを決める。

 さて冒頭の通信欄だが、プロはこう読む。「運動は活発にできました……(学習面はさっ
ぱりダメ)」「授業にも集中できるようになりました……(集中力がなく、問題児だ)」「一
学期は飼育係をし、友だちと協力して動物を育て……(一人では責任ある行動ができない)」
「思いやる心を学びました……(自分勝手でわがままだ)」「二学期は学習面での飛躍が期
待されます……(今は、学習のほうは、さっぱりダメ。家庭で何とかしろ)」と。

 今回は生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と
教師の価値観やエゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこ
に「子ども」が介在すること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉
は、そういう世界から必然的に生まれた。ある意味でやむをえないもの。

だいたいにおいて、あなたという「親」だって、先生の前では本音を言わない。……言
えない。言えば、たいへんなことになってしまう。それをあなたは、よく知っているは
ずだ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教師言葉 本音論 建て前論)


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●デニーズへ、

+++++++++++++++++++

ときとして、デニーズは、日本の風習に
とまどうことがある。

YES・NOをはっきり言わない日本人。
ものごとを、あいまいなまますまそうとする
日本人。

そういう日本人を見て、いらだつことも
多いらしい。

反省!

+++++++++++++++++++

デニースへ、

アメリカのばあい、大統領に手紙を書くと、必ず、大統領から返事がきますね。大統領以
下、みな、そうです。上院議員、下院議員、それに州知事も、みな、そうです。そういう
システムが、できあがっているのですね。

以前、こんなことがありました。

私の生徒が、オーストラリアへの大学への進学を希望したときのことです。私は、何校か
の願書を取り寄せてやりました。で、うち一校については、願書を出し、その大学付属の
語学校(ランゲージ・スクール)の入学の手続きを、すませました。

あとの数校については、日本流に、無視。が、こうした行為が、相手の大学の入学登録事
務所(レジストレーション・オフィス)の担当の人を怒らせてしまいました。「キャンセル
するならするで、どうして返事をくれないのか」とです。

こうしたトラブルは、よく経験します。たとえばいくつかの出版社に、原稿を送ったとし
ます。日本では、そうした行為に対して、返事をくれる出版社は、まずありません。ほと
んどのばあい、無視されて、ポイ、です。返事をくれるときは、「出版、OK」というばあ
いだけです。相手の出版社にしてみれば、「あなたが勝手に送り届けてきたのだから、返事
をする必要はない」ということになります。

ですから、日本人とビジネスするときは、(忍耐)が必要です。とくに、日本人は、YES・
NOをはっきり言うのを、きらいます。あいまいなまま、その場をやりすごそうとします。
さらに、YESと言いながら、NOのばあいがあったり、NOと言いながら、YESのば
あいがあったりします。

これも実際あった話しですが、アメリカの外交官が、あることで、日本の政治家に決断を
迫ったときのことです。その日本の政治家は、こう答えました。「前向きに検討してみまし
ょう」と。

そこでアメリカの外交官は、YESかNOかと迫ったというのです。で、再び、その日本
の政治家は、「前向きということは、前向き。検討してみます」と。

おかしな問答ですが、このばあい、アメリカ人の外交官には、日本の政治家の返事が、「N
O」に聞こえたかもしれません。日本の政治家は、「YES」のつもりで答えたのですが…
…。

そんなわけで、日本でビジネスをするときは、繰りかえしますが、(忍耐)が必要です。相
手が返事をしてくれるまで、じっと待ちます。が、だからといって、誤解しないでくださ
い。日本人が、(ていねいな国民)ではないということでは、ありません。

結論が出るまで、時間がかかるということです。そしてそれまでは、できるだけ、あいま
いにしておこうという心理的作用が働くためです。YES・NOをはっきり言って、結論
を出すよりは、日本人は、そのほうが人間関係が、スムーズに流れると考えるわけですね。

日本流に言えば、「やるべきことはしながら、あとは時間を待つ」です。これは日本人とつ
きあうときのコツです。よく覚えておくとよいでしょう。多分、息子のSにも、そういう
部分が残っていると思います。

【デニーズからの返事】

Thank you very much for the information! I know of people being vague 
about answering yes and no in Japan; Soichi and I have talked about that 
before. But when I asked him about what to do about a non-responsive 
customer, he didn't have any idea. Perhaps it is because he has not had 
a chance to live as an adult in Japan yet. Maybe he never quite caught 
onto that courtesy.

情報、ありがとうございます。日本では、YES・NOをはっきり言わないで、あいまい
にしておくということを、知っています。ソーイチと私は、以前、それについて、話しあ
ったことがあります。しかし何か連絡しても、返事のない人には、どうしたらいいのかと、
ソーイチにたずねたことがあります。しかし彼には、わかりませんでした。

たぶんそれは、ソーイチが、日本で、おとなとして生活した経験がないからではないかと
思います。そういうような(日本流の)礼儀作法を知らないのでしょう。

I honestly thought that in Japan, people probably returned emails right 
away, even more quickly than in America, because of how prompt and 
punctual people are about being on time for work. Here people do not 
worry so much about that. If we're a few minutes late, we'll make up 
for it at the end of the day. 

私は、日本では、人々が、すぐ返事をくれるものだとばかり、思っていました。アメリカ
人よりも、早くです。というのも、日本人というのは、仕事面で、時間に正確で、迅速な
国民と思っていたからです。アメリカでは、だれかが、2、3分遅れただけで、その日の
終わりには、それをつぐなおうとします。

It's very interesting to me to find all of the little differences in the 
cultures. I appreciate your letting me know. That's very helpful!!!!

文化について、ささいなことでも、そのちがいを知ることは、とても興味深いことです。
私に教えてくれたことを感謝します。とても助かりました。ありがとうございました。

Denise


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================




☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 6日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page018.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●赤ちゃん返り

+++++++++++++++

愛着行動は、親から子どもへの
一方的なものではない。

子どもも、実は、親へ、愛着行動を
繰りかえす。

親にとってかわいい子であることを、
子どもは本能的な部分で、演出しよう
とする。

+++++++++++++++

 子どもの世界には、「赤ちゃん返り」と呼ばれる、よく知られた症状がある。下の子ども
が生まれたことが原因で、上の子どもが、赤ちゃんのようになる症状をいう。それまでし
なかったおもらしを、再び、し始めたり、態度、しぐさ、それにものの言い方などが、赤
ちゃんのようになる。「ママ」のことを、「ウマーマー」と言ってみせたりするなど、言い
方そのものが、ネチネチとした言い方になることも多い。

 本能的な嫉妬心が、子どもの心をゆがめると考えるとわかりやすい。つまり生まれたば
かりの赤ちゃんは、自分のかわいさを親にアピールすることで、親の保護を受けようとす
る。こうした行為は、意思的な行為というよりは、本能的な行為と考えるのが正しい。つ
まりこの時期、愛着行動は、親から赤ちゃんに対してだけではなく、赤ちゃんからも親に
対してと、その双方向においてなされる。

 それを「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」と呼ぶ学者もいる。

 で、下の子どもが生まれたりすると、上の子どもは、もう一度、親の愛情を自分のもの
にしようと、本能的な部分で、親への働きかけ(アタッチメント)を始める。それが「赤
ちゃん返り」である。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●人間の刷り込み

+++++++++++++++++

人間の脳にも、刷り込みがあるという。
生後直後から、数週間の間に、
それがなされるという。

この期間を、「敏感期」と呼んでいる。
親子の関係を築く、とくに重要な時期と
考えてよい。

+++++++++++++++++

●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オ
ーストリア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学
賞受賞者)という学者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなか
った。最初に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調
べたのを覚えている。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、
「そんなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞い
たりしたものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後す
ぐから、24時間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしが
きかなくなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ
学者もいる。その鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生
後直後から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新
生児は、生後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、
脳の中に刷り込むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、
新生児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛
情の絆(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビ
ーが使い出した言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、
肉体的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児
症候群」と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離
れて育てられた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・か
んき出版)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、
似たような症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、
そのキズは、一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(や
りなおしのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題である
ことに気づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、
多い。言いかえると、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、その
まま、引きずっていることになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦
しんでいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳
幼児期にあるかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)
に苦しんでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)がある
と書いた。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られ
た部分)は、(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、そ
れは(あなた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも
他人のことを考えているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られ
てきた。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという
問題である。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れ
ば知るほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということにな
る。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだっ
たかを、ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあな
た自身を知る、一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、
この原稿は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこみ)


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●兄弟(姉妹)

++++++++++++++

兄弟は、他人の始まりともいう。

親にすれば、どの子も、わが子。
しかし兄弟どうしの間では、
その論理は、通用しない。

中には……というより、その多くは、
他人以上の他人になる。

「兄弟だから……」という、『ダカラ論』
ほど、アテにならないものはない。

+++++++++++++++

 兄弟(姉妹)には、つぎの7つの関係がある。

(1)対立関係(兄弟同士が、対立する)
(2)協調関係(たがいに力を合わせて行動する)
(3)相補関係(たがいに足りないところを補いあう)
(4)競争関係(たがいに競争する)
(5)主従関係(上の子が、下の子を従わせる)
(6)類似関係(たがいに、よく似てくる。まねをする)
(7)依存関係(たがいに、依存しあう)

 「兄(姉)だから……」「弟(妹)だから……」という、ダカラ論は、できるだけしない。
良好な兄弟関係をつくるためには、これは鉄則である。

 たとえば長男が、長男らしくなるのは、日常的に、「あなたは長男だから……」と言われ
ることによる。親は、長男に、長男としての自覚をもたせるためにそう言うが、しかしこ
うしたダカラ論は、思わぬところで、その子どもを追いつめることになり、ついで苦しめ
ることになる。

 よく知られた例に、反動形成がある。「あなたは兄だから……」と言われつづけると、子
どもは、本来の自分とは反対側の自分を、自分の中につくりあげてしまう。たとえば弟(妹)
の前で、ことさらよい兄(姉)を演じてみせるなど。

 そこまで行かなくても、仮面をかぶったり、心を偽ったりするようになる。こうした現
象が日常的につづくと、子どもの心は、本来そうである自分から、遊離してしまう。そし
てその結果として、兄弟関係を、ぎくしゃくとさせる。

 「兄弟(姉妹)は、仲がよいほうがいい」……というのは、当然であるとするなら、い
くつかのコツがある。

●上下意識は、もたない

 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人
からこの意識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれ
ている。今でも、長子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的
なものの考え方をしているようなら、まず、それを改める。

●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子ども
を呼ぶ。たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前
で呼びあう兄弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

●差別しない

 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置か
れる。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なの
である。そういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、
不平等に対して、きわめて敏感に反応しやすい。

●嫉妬はタブー

 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬
は、確実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。
この嫉妬がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、た
がいに嫉妬させないようにする。

●たがいを喜ばせる

 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い
物に連れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」
というような買い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思
いやりの心を育てるためにも、重要である。

●決して批判しない

 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば
兄に何か問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口し
た段階で、あなたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、
あなたは聞くだけ。決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけな
い。

 いくら兄弟でも、同じように育つというわけではない。たとえば兄が、C小学校で、弟
が名門(こういう言い方は不愉快だが……)のS小学校へというケースは、少なくない。

 そういうとき親は、「兄がひがまないでしょうか?」とよく相談してくる。

 仮にひがむとしても、しかしそういう下地をつくったのは、親自身である。そのことを
棚にあげて、「ひがまないでしょうか?」は、ない。

 つまりそういう下地を、日ごろから、作らないこと。「あなたはお兄ちゃんだから、がん
ばってS小学校へ入ってね」とは、たとえば、言ってはいけない。弟に対しては、「あなた
もがんばって、お兄ちゃんと同じS小学校に入ろうね」とは、たとえば、言ってはいけな
い。

 兄弟どうしの問題は、たいへん重要であると同時に、デリケートな問題である。決して、
安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 兄弟 兄弟の問題 兄弟の育て方 育てかた)
(041124)

【補記】

 ワイフには、ワイフを入れて7人の兄弟(2男5女)がいる。

 その兄弟を見ていて、気がついたことがある。つまりワイフの兄弟は、本当に仲がよい。
信じられないくらい、仲がよい。

 その秘訣の一つが、長女のE子さんをのぞいて、上下意識がまったくないということ。
E子さんは、ワイフの家族の中では、母親がわりだった。それでどこか家父長意識がある。
しかしそれでも、仲がよい。(ワイフの母親は。、若くして他界。)

 で、気がついたのは、ワイフの兄弟は、たがいに、ずべて名前で呼びあっているという
こと。「兄」とか、「姉」という言葉を、私は、聞いたことがない。

 一方、私が生まれ育ったG県は、何かにつけて、上下意識が強い。あらゆるところに、
身分意識が入ってくる。そのため、兄弟でも、「上の兄」「下の兄」「三番目の兄」というふ
うに呼びあったりする。序列をつける。そしてその序列に従って、上下関係、つまり命令
と服従の関係をつくる。

 みながみな、そうではないと思うが、この静岡県とG県を、おおざっぱに比較すると、
それだけ静岡県は、G県と比較すると、開放的ということになる。

 そんなわけで、やはり子どもは、名前で呼んだほうがよい。そのほうが、兄弟(姉妹)
は、うまくいく。が、それだけではない。

 子どもは、自分の立場を無意識のうちにも、自分の役割を形成していく。男の子は男の
らしく、女の子は女の子らしくなっていくのが、それである。

 それを役割形成というが、その役割形成がよいものであれば、問題はない。しかしその
役割形成によって、子ども自身が、不必要な役割をつくり、その重圧に苦しむことがある。

 先日もある女性から、こんなメールが届いた。いわく、「私の兄は子どものころから、長
男、長男と、耳にタコができるほど、言われつづけました。妹がもう1人いますが、兄は、
家の跡継ぎになるのが当然といったふうに育てられました。家のあとをつぐのは、当然、
親のめんどうをみるのは、当然、と。そういう兄をみていると、かわいそうです」と。

 いまだに長子相続的な考え方が残っていること自体、おかしなことだ。江戸時代の身分
制度の亡霊そのものといってよい。

 最近になって、江戸時代の武士道を礼さんする人が、たくさん出てきたが、封建時代が
もっていた負の遺産を清算することなく、一方的に、こうした武士道を礼さんすることは、
危険なことでもある。

 あの江戸時代という時代は、世界でも類をみないほど、自由と人権が抑圧された、暗黒
の時代であってことを、忘れてはいけない。人々は、移動することもできず、職業選択の
自由もなく、思ったことも言えなかった……などなど。厳格な身分制度も、その一つ。

 話は少し過激になったが、大切なことは、子どもに上下はないということ。人間に上下
はないということ。おかしな上下意識は、もう、このあたりで、捨てよう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
兄弟 兄弟論)

Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●子どもの国語力

++++++++++++++++++

子どもの国語力は、親が決める。

親が、「テメエ、殺すぞ!」というような
言い方をしていて、どうして、子どもに、
国語力が育つというのか。

++++++++++++++++++

 先日、ある小学校で講演をしたら、その学校の校長が、こんなエピソードを話してくれ
た。

 その校長が、コンビニのレジの前で並んでいたときのこと。前に立った若い母親が、子
どもを、こう言って、叱っていたという。

 「テメエ、殺すぞ!」と。

 子どもは、5歳くらい。何かのことで、母親の言うことを聞かなかったらしい。それで
その母親は、そう言った。

 校長は、その言葉に驚いた。そして私に、こう言った。「今の若いお母さんたちは、ああ
いう言い方をしているんですねえ」と。

 子どもの国語力は、母親の会話能力によって、決まる。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。

+++++++++++++++++

【子どもの国語力が決まるとき】

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣ってい
ると思われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこ
がどう違うかを調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校
ジャン」というような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」とな
る。たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」
と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バン
バン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まった
くわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウ
ン」だけで会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどう
だったの?」、娘「まあまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみた
が、どの子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を
習う外国人のようにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごら
ん」、子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそ
のことを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホン
トにモウ、ダメネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。
毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話
し方をしていて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持って
いますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まっ
てこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞い
ているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それ
こそ立て板に水のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を
音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、そ
の音を自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文
字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも
使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をす
るとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわか
ってもらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だ
と思っている人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。

ある男(五四歳)はこう言った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、こ
の国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味
では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の国語力 子どもの国語力 言語能力 言葉能力)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【読者の方より……】

 埼玉県にお住まいの、SY子さんから、こんな質問がありました。

+++++++++++++

毎回楽しみに読ませていただいています。

少し前のマガジンになりますが、カレンダーのお話が載っていて母からの話を思い出しま
した。

日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでか
ら働く。だから日曜から始まると・・・。

本当なのかはわかりません。母は他界しているのでどこからその話を知ったのかも分から
ないのですが、「だから頑張ってから休む、頑張ってからご褒美がもらえるのよ」と言う話
に、納得した記憶があります。

先生はこの説、どうお考えになるでしょうか?? 先生のご意見が聞けたらまた勉強にな
るかと思います。

+++++++++++++

★日曜日か、月曜日か?

 そこでインターネットを使って、調べてみた。

 西暦1年1月1日は、何曜日だったか? それがわかれば、カレンダーは、月曜日から
始まるのか、日曜日から始まるのか、それがわかるはず。

 で、私は若いころ、何かの雑誌で、西暦1年の1月1日は、日曜日だったと読んだこと
がある。もし、そうなら、カレンダーは、日曜日から始まるのが正しいということになる。

 が、しかし実際のところ、本当のことは、よくわからないそうだ。現在のグレゴリオ暦
が使われるようになったのは、西暦1582年の10月15日以後のこと。(14日以後と
いう説もある。)それ以前は、ユリウス暦が使われていたという。

 ただ、東京天文台の公式見解では、西暦1年の1月1日は、土曜日だったという。

 カレンダーは、月曜日から始まるのか。それとも日曜日から始まるのか。

 ……という議論は、あまり意味がないのでは……?

★文化のちがい

 ここまで書いて思い出したが、こうした「ちがい」というのは、カレンダーだけではな
い。生活のあらゆる場面で経験する。

 アメリカ人やオーストラリア人は、包丁やナイフを、押しながら、ものを切る。日本人
は、引きながら切る。

 同じように、刀で相手を殺すとき、欧米人は、刺しながら、相手を殺す。日本人は、一
度刀を前に出し、引きながら、相手を殺す。

 ヨーロッパでは、車は左側を通行する。これは馬に乗った騎士が、たがいに相手と戦い
やすい位置に自分を置くためである。それを説明したのが、下の図である。

 (日本でも、車は左側を通行する。刀は左側にさして、右手で抜く。そのためすれちが
うときは、相手を自分の右側に置かねばならない。それで左側を通行するようになった。)

 (馬に乗って、右手で剣をもった姿勢を頭の中で、想像してみてほしい。馬どうしは、
たがいに左側通行になる。)

         ■■●■→
            I      
                 I
              ←■●■■

(●が剣士。■が馬。Iが刀)

 一方、アメリカでは、車は右側を通行する。これは馬車をひっぱる人が、たがいに馬車
をぶつけないように、すれちがったためである。馬車をひっぱる人は、馬の左側先頭に立
つ。たがいに右側を通行すると、すれちがうとき、たがいに顔を合わせることができる。

          ← ■■■
           ●
 
          ●
       ■■■ →

(●が馬車を引く人、■■■が、馬車。反対だと、たがいにすれちがいにく
くなる。それで右側通行になったという。)

 ほかにもたとえば、日本人は、あいさつをするとき、頭をさげる。これは相手に、「頭を
切られても、文句ありません」ということを伝えるためだそうだ。

 一方、欧米では、握手をする。それは、たがいに剣をもっていないという示すためだそ
うだ。

 それぞれの文化には、さらにその背景となる文化がある。そうした文化が無数に積み重
なって、今の文化をつくりあげている。

★日曜日は、安息日

 ……と考えていくと、カレンダーにも、無数の文化が凝縮されていることがわかる。毎
日、働きづめでは、体がもたない。だから日曜日という、安息日をもうけた。この日は、
皆が、休息できるようにした。

 そう言えば、私がオーストラリアにいたころは、日曜日といえば、メルボルン市内の商
店街は、すべて、店を閉めていた。(最近は、日曜日にも開店している店が多くなったと聞
く。)

 一方、日本には、大安、友引、仏滅……などという言い方がある。今でも、それに応じ
て、その日の行動を決めている人は多い。これは、一つの寺で、たとえば葬式と結婚式が
重ならないようにするためであった。

 いろいろ、ある。

 で、SY子さんのメール。こう書いてある。

 「日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休ん
でから働く。だから日曜から始まると……」と。

 しかし本当にそうだろうか。私が知るかぎり、私が子どものころでさえ、日曜日などは、
あっても、ないようなものだった。その前の、つまり江戸時代から、戦前にかけては、盆
と正月しか、休みのない人もいたという。日曜日イコール、休みという考え方が定着した
のは、戦後のことではないか。

 さらにこのところ、正月の三が日ですら、仕事をする人がふえてきた。私が子どものこ
ろには、正月の三が日というのは、絶対的な休日になっていた。商店街の「初売り」にし
ても、たしか正月の3日の午後か、もしくは4日ではなかったか。

 が、今は、ちがう。どうちがうかは、みなさん、すでにご存知のとおりである。

 便利になったというか、めちゃめちゃになったというか……。曜日というものが、あま
り意味をもたなくなってきた。

★私は、日曜日始まりが、好き

 で、私のばあいだが、やはり、カレンダーは日曜日始まりのものがよい。月曜日始まり
のカレンダーをたまに使ったりすると、かえって混乱してしまう。(実は、もう、何度も失
敗している。)

 SY子さんは、はたしてどうだろうか? しかしSY子さんのお母さんは、すばらしい
お母さんだと思う。それが正しいかどうかという問題は、さておき、そういう指導ができ
る母親というのは、そうはいない。

 「休んでからがんばる」より、「がんばってから休む」。そのほうが、何となく、合理的
である。私自身も、そういう生きザマのほうが、性(しょう)にあっているような気がす
るのだが……。

++++++++++++++++

【異論・反論】

 欧米人は、「休んでから働く」という。(本当は、どちらとも言えないのだが……)、ここ
まで書いて思い出したのが、『休息を求めて疲れる』という、イギリスの格言である。この
格言は、愚かな生き方の代名詞にもなっている。

 「いつか楽になろう、いつか楽になろう」と思ってがんばっているうちに、気がついて
みたら、自分の人生が終わっていたという生きザマである。

 これについて、以前、一度、原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れて
しまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生
き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、
ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自
分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう
生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の
位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。
しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現
実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だ
け。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そ
ういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、
大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」
ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといって
も、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではな
いか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったも
のを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本で
は「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくても
いいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本
的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味が
わからないのではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++

 この生きザマは、おとなだけのものではない。小学校の勉強は、中学入試のため。中学
校の勉強は、高校入試のため。そして高校での勉強は、大学入試のため……。そういうふ
うに、「未来のために現在を犠牲にする」という生きザマを繰りかえしていると、いつまで
たっても、その「時」を、自分のものとすることができなくなる。

 さらに、このことは、「生きるために働くのか」、それとも、「働くために生きるのか」と
いう問題にまで、行きつく。

 その点、欧米人の生きザマは、わかりやすい。彼らの考え方の基本にあるのは、「自分の
生活を楽しむために、お金を稼ぐ」。その前提で、彼らは仕事をする。だから、土日はもち
ろんのこと、1、2か月もつづくバカンスでも、目いっぱい、楽しむ。

 一方、日本人は、そうではない。「仕事がある」と言えば、たいていの家事は、免除され
る。子どもでも、「宿題がある」「勉強がある」と言えば、家事の手伝いが免除される。仕
事第一主義が悪いというのではない。しかし日本人は、仕事のためなら、家庭を犠牲にす
ることをいとわない。少なくとも、少し前までの日本では、そうだった。

 しかしなぜ仕事をするかといえば、それで得たお金で、家族と楽しく過ごすためではな
いのか。お金はお金。どこでどう稼いだかは、問題ではない。が、日本では、その中身も、
問題になる。

 これは私自身のことだが、私は、若いころ、がむしゃらに働いた。1か月のうち、休みが
1日だけということも、長くつづいた。が、それでも、私の収入は、大手企業に勤める同
年齢のサラリーマンの給料と、ほぼ同額だった。それはそれとして、そのときのこと。私
は、ふと、こう思った。

 「サラリーマンがもらう10万円も、私が手にする10万円も、10万円は10万円。
何もちがわない」と。

 しかし世間は、そうは見なかった。「大企業から給料としてもらう10万円と、今でいう
フリーターが手にする10万円はちがう」と。おかしなことだが、当時は、まだ、そうい
う風潮が根強く残っていた。そのころ私に面と向かって、こう言った男性(50歳くらい)
さえいた。

 「お前は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にも、つけなかったんだろう」
と。

 仕事に、ロクな仕事も、ロクでない仕事もない。あるいは、何を基準にして、仕事をそ
ういうふうに、より分けるのか。

 ……というふうに考えていくと、仕事をしたあと、褒美(ほうび)として、休みをもら
うよりも、楽しんでから、仕事をいたほうが、よいということになる。事実、私の年齢に
なると、ポツポツと、他界していく人が現れるようになった。

 これは私の姉の友人のことだが、その友人は、死ぬまで、まさに(仕事の虫)。明けても
も暮れても、仕事ばかりの人生を送っていたという。で、そこそこの財産を作ったが、あ
る日、車を運転しているときに心筋梗塞を起こし、そのまま死んでしまった。

 その友人について、私の姉はこう言った。「何のための人生だったのかねえ……?」と。
つまり、仕事、仕事で明け暮れて、その最後にポックリと死んでしまった友人を思い浮か
べなら、その友人の人生は、何だったのか、と。

 こう書くと、SY子さんのお母さんの意見を否定することになる。しかしそれもつらい。

 そこで折衷(せっちゅう)案ということになる。

 日曜日から始まるカレンダーも、おかしい。しかし月曜日から始まるカレンダーも、お
かしい。だったら、水曜日から始まるカレンダーを作ってみたらどうだろうか。

 水、木、金、土、日ときて、つぎに、月、火とつづく。考えるだけでも、楽しいではな
いか。

 こうすれば、仕事も、褒美も半々ということになる。仕事のために、家庭を犠牲にする
こともないし、反対に、遊んでばかりいて、仕事をしなくなるということもない。

 要するに、ほどほどに仕事をし、ほどほどに人生も楽しむということ。

 何でもないメールだったが、(最初はそう思ったが……)、SY子さんのメールは、たい
へん意味のある、つまり考えさせられるメールだった。

 SY子さん、ありがとうございました。

【補記】

 戦後の日本といえば、日本全体が、基底不安型の国家になっていたのでは……。敗戦に
よって、日本人は、精神的基盤というか、バックボーンをなくしてしまった。

 その結果、大半の人は、「マネー信仰教」というカルトに走った。新興宗教が、雨後の竹
の子のように生まれたのも、この時期である。

 「働いていないと、不安」「せっかくの休みになっても、休み明けの仕事を考えると心配
で、ゆっくり休むこともできない」と。

 こうして働き蜂が生まれ、仕事中毒の人が生まれた。周囲の社会も、そういう人たちを、
「企業戦士」とたたえた。

 その結果、今に見る、繁栄した国家が生まれたが、心の空白感はそのままだった。「何か、
おかしいぞ」「どこか、へんだぞ」と思いながらも、それが何であるかさえ、わからないま
まだった。ずるずると生きてきた。現代に至った。

 が、ここにきて、今、日本人の心に、一大革命が起こりつつある。権威の崩壊と、出世
主義の崩壊である。

 それにかわって、新家族主義が台頭してきた。「仕事よりも家族が重要」と考える人は、
99年ごろには、40%(文部省)前後にすぎなかった。が、最近の各種調査によれば、
それが80〜90%までにふえている。

 日本人は、内面社会に、より充実した幸福感を求めようとしている。もっとも、今は、
まだ模索段階で、そこに確固たる信念を見いだしたわけではない。「今までの生きザマは、
どこかおかしいぞ」「まちがっていたのでは?」という思いが、新・家族主義へ走る原動力
になっている。

 こうした流れの一方で、過激な復古主義が、勢力を伸ばしつつあるのも、事実。

 江戸時代の武士道をたたえたり、明治時代に入ってからもてはやされた、徳育教育を教
育の柱に持ち出す人も、多い。さらには、戦前の、民族主義を先頭にかかげる人もいる。
天皇制復活の動きも、あちこちに見られる。

 たしかに今の日本の世相は、混乱している。バックボーンをなくした状態というのは、
こうした状態のことをいう。

 しかし、ここで重要なことは、私たちは、前に進むということ。「混乱したから、過去に
もどる」のではなく、「混乱の中から、未来に向かって、何かを生み出す」ということ。言
うまでもなく、改革思想は、こうした混乱期に生まれる。安定期には、生まれない。

 言いかえると、今こそ、そのチャンスということになる。新しい日本を生み出す、好機
ということになる。

 さあ、私たちは、失敗にめげないで、前に進もう! 新生、日本のために!

【補記2】

 みながみな、そうではないが、しかし、今、日本へビジネスマンとしてやってくる、あ
の中国の人たちの見苦しさは、いったい、何か? おかしいというより、狂っている。

 口を開けば、「マネー」「マネー」。明けても暮れても、「マネー」「マネー」。考えること
は、すべて、「マネー」「マネー」。まさに金の亡者。体中を札束でくるんだような人ばかり。
まるでマネーという獲物をねらう、ハゲタカのよう。

 しかしその姿は、30年前、40年前の、私たち日本人の姿そのもの。と言うより、今
の中国人たちを見ていると、あのころの日本人を、そのまま思い出す。私たちも、実は、
そうだった。

 そう言えば、当時、どこかの会社のカレンダーには日曜日がなく、「月・月・火・水……」
となっていた。実のところ、私の家もそうだった。ハハハ。(笑って、ごまかす。)

 決して中国の人を笑っているのではない。私自身の過去を笑っている。ハハハ。得たも
のも、多いが、そのため、犠牲にしたものも、多い。今から思うと、もう少しましな方法
で、人生を楽しむことができたのではないかと思う。

 何か、不便なことがあれば、すぐモノを買って、解決する。そんな世相だった。おかげ
で、私の狭い家の中には、モノがあふれ、自由に歩くことさえ、ままならなかった。

 今回の、SY子さんが投げかけてくれたカレンダーの問題には、本当に、いろいろ考え
させられる。SY子さん、重ねて、ありがとうございました。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家計負債が、72兆円!

+++++++++++++++++

「世界にもっとも、(好影響)を与えている
国は、カナダと日本」だ、そうだ。

こういう事実を、韓国のN大統領は、
どこまで知っているのだろう?

韓国のN大統領も、狭い世界の中だけで
ものを考えず、少しは、井戸の中から、
顔を出してみてはどうだろうか。

+++++++++++++++++

「世界に最も好影響を与えている国は、カナダと日本」という、そんな調査結果が、こ
のほど、公表された」(読売新聞、07年3月7日)。

 読売新聞の記事をそのまま紹介する。

『イギリスのBBC放送と、アメリカのメリーランド大学が、27か国の約2万800
0人を対象に行った世論調査で、日本の国際的影響力が高い評価を得ていることがわか
った。

 調査は、昨年11月〜今年1月の間に実施され、英国、カナダ、中国、フランス、イン
ド、イラン、イスラエル、日本、北朝鮮、ロシア、米国、ベネズエラ、欧州連合(EU)
のそれぞれについて、世界に「好影響を与えているか」「悪影響を与えているか」を聞い
た。

 「好影響」は、カナダと日本が54%で並んでトップ。EU(53%)、フランス(50%)
がつづいた。日本について「悪影響」との回答は20%。「悪影響」との回答の方が多か
ったのは、中国と韓国だけだった』(YOMIURI ONLINE)と。

 ここで注目すべき点は、「悪影響との回答の方が多かったのは、中国と韓国だけだった」
という点(原文のまま)。

 こうしたニュースは、中国はもちろん、韓国の中では、ぜったいに報道されない。戦後、
アメリカ、そして日本が、敷いてきた自由貿易体制の中で、今、経済的繁栄を謳歌しなが
ら、反日、反米を説くおかしさ。そのおかしさを、少しは、中国も韓国も知るべきではな
いのか。

 とくに、韓国。N大統領。「反日」を唱えれば、それだけで支持率があがると、いまだに
思いこんでいる。しかも何をしても、「日本は悪い」と。アメリカで、アメリカの議員が、
従軍慰安婦問題をとりあげれば、「ありがとう」と。そして「日本は必死で、ロビー活動を
展開し、この問題をもみ消そうとしている」(東亜N報)とも。

 東亜N報は、つぎのように報道している。

 『日本は、首相官邸主導で、アメリカ政府や関係議員に、「採択阻止の協力」を要請し
ている。安倍首相の訪米日程を当初の予定より多少繰りあげる方向で調整しているのも、
これと無関係ではない』(3月3日)と。

 これほどまでに、憶測と被害妄想のかたまりのような記事はない。今どき、ロビー活動
をするのは、世界の常識ではないか。しかも韓国は、つごうのよいときだけ、新米的にな
る。反米なら反米でよいから、アメリカの議会の動きなど、気にしないこと。

それにしても、安倍首相が、採択阻止のために、訪米の日程を繰りあがている? フ〜
ン。知らなかった……。

 が、日本は、そうまで悪者なのか? 韓国の新聞記事を読んでいると、おかしな錯覚に
とらわれる。たとえば日本が偵察衛星をあげたことについても、「K国の核開発にかこつけ
て」と、「かこつけて」という言葉を使って、報道している(朝鮮N報)。

 つまり「K国の核開発にかこつけて、韓国をも偵察する衛星を打ちあげた」と。少し前
には、「中国が衛星破壊実験をしたのは、日本の偵察衛星の破壊実験が目的だった」(朝鮮
N報)とも。

 まさに言いたい放題。つまり韓国では、こうして韓国内の反日感情をもりあげている。

 しかし世界の人たちは、日本をそうは見ていない。見ていないことは、今回の調査結果
でもわかるはず。

 どうにもこうにも、仲よくできない国、それが韓国。そしてK国。心理学の世界にも、「好
意の返報性」という言葉がある。「魚心あれば、水心」ともいう。相手の感情に応じて、こ
ちらの感情も形成される。日本の私たちのもつ、反韓国感情のほとんどは、韓国の人たち
自らが作りだしていると考えてよい。

 (私は、現在のN大統領政権になってから、ますます韓国が嫌いになったぞ!)

 その韓国。韓国銀行の統計によれば、昨年末(06年)現在で、家計での借入など借金
の総額が、581兆9635億ウォン(約71兆7094億円)となり、前年比では60
兆4676億ウォン(約7兆4508億円)=11・6 %=増加したという。

 家計の借金が、史上最大規模の、72兆円にも達したというのだ(朝鮮N報・3月7日)。

 日本は、バブル経済期に、銀行が不良債権をかかえたが、韓国では、家庭が不良債権を
かかえていることになる。しかしそれにしても、72兆円とは! 日本の人口規模に換算
すると、210兆円! 210兆円だぞ!

 ハハハ、私たち日本人の知ったことかア!

 いいか、日本政府! 今度韓国経済が破綻しても、ぜったいに日本のほうから助け舟を
出すな! 相手が頭をさげて頼みにくるまで、出すな! ぜったいに、出すな!


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   4月 4日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page017.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
●電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生徒の依存性

 教える立場のあるものは、いつも、生徒の依存性に注意を払わなければならない。はっ
きり言えば、「生徒に、依存心をもたせてはいけない」。

 仮に教師が、生徒に依存性をもたせると、(教育)というよりも、それは(カルト)に近
い関係になる。教師は、どこまでも教師。カルト教団の教祖であっては、いけない。

 たとえば教師と生徒は、いつかどこかで出会い、そして別れる。わかりやすく言えば、
教師と生徒の関係は、その出会ってから、別れるまでの関係である。つまり、教える側も、
学ぶ側も、その(別れ)をいつも、心のどこかに用意して、教え、そして学ぶ。

 そういう意味では、(教育)というのは、その人の(土台)のようなもの。

 私は中学時代、M氏という、バリバリの共産党員の先生に習った。塾の先生だった。何
度も市長に立候補したが、最後まで当選することはなかった。

 しかし私は、心の中で、いくらその先生を尊敬していても、私自身は、共産党員にはな
らなかった。私が尊敬したのは、そのM先生の生きザマだった。

 たとえばM先生は、正月の年賀状も、自分で歩いて配達していた。夏になると、毎日、
長良川で水泳をしていた。そういう生きザマだった。事実、M先生は、(当然のことだが…
…)、塾の中では、共産党の話は、まったくしなかった。マルクスの「マ」の字も、話さな
かった。

 だから私は、M先生を尊敬しながらも、M先生を自分の土台とすることができた。恐ら
く私も、M先生も、いつかくる(別れ)を予想しながら、つきあっていたのだと思う。

 そんなわけで、教師は、生徒に依存心をもたせてはいけない。「いつか、そのときがきた
ら、あなたはあなたで勝手に生きていきなさい。あとのことは、私は知らない」と。そう
いうクールさ(=ニヒリズム)をもつ。

 それが私は、教師と生徒の、あるべき関係だと思う。余計なお節介かもしれないが……。
(はやし浩司 理想の教師 教師と生徒 生徒と教師)

++++++++++++++++

(補記)

 今、ふと、こんなことを思った。

 M先生は、そのあと何度か市長選に出たが、毎回、破れた。つまりそれなりの人物だっ
たということになる。が、私たちの前では、共産主義の「キ」の字も話題にしなかった。

 しかしそれは、つまりM先生が、仕事と主義を分けていたのではなく、私たちのような
子どもを相手にしていなかったと考えるほうが、正しい。

 私も同じような場面に、よく出会う。たとえば子どもが、私に向って、「先生は、バカだ
なあ」と言ったとする。しかしそういうとき、私は、「君たちなんか、相手にしてないよ」
と、心の中で思う。

 こちらはその子どもの心のスミのスミまでわかる。しかしそんなことを説明しても意味
はない。説明するとしても、何年もかかるだろう。それは乾電池のつなぎ方をやっと覚え
た子どもに、ラジオの回路の話をするようなものかもしれない。

 あのM先生も、いつも、そう思いながら、私たちを見ていたにちがいない。私は見たこ
とがないが、市議会の場などでも、M先生は、かなりはげしい議論をしていたそうだ。私
たちの前では、静かで、学者のような先生だったが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●赤ちゃんがえりのあとに……

 下の子どもが生まれると、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よくある。
それはそれだが、そのとき、上の子どもが、下の子どもに、執拗な攻撃性を示すことがあ
る。

 ふつうの攻撃性ではない。「殺す」寸前のところまでする。そのため、下の子どもが、上
の子どもに、恐怖心さえもつようになることがある。

 ……という話は、この世界では常識だが、今日、こんなメールを、ある女性(埼玉県U
市在住、TEさん)から、もらった。

 その女性は、三人兄弟(上から、兄、自分、妹)の、まん中の子どもだった。兄とは、
4歳ちがい。妹ととは、1歳ちがいだった。いわく……。

 「私は、もの心つくころから、兄にいじめられました。そんな記憶しかありません。父
や母に訴えても、相手にしてもらえませんでした。兄は、父や母の前では、借りてきたネ
コの子のように、おとなしく、静かだったからです。

 で、私は毎日、学校から家に帰るのがいやでなりませんでした。兄は、父や母の目を盗
んでは、私と妹を、(とくに私を)、いじめました。何をどういじめたかわからないような
いじめ方でした。意地悪というか、いやがらせというか、そういういじめ方でした。

 よく覚えているのは、私が飲んだ牛乳に、兄が、何かへんなものを入れたことです。お
かしな味がしたので、すぐ吐き出したのですが、かえって母に叱られてしまいました。『ど
うして、そんなもったいないことをするのか!』とです。

 で、私が中学生になったとき、とうとうキレてしまいました。兄ととっくみあいの喧嘩
になり、兄の顔に、花瓶をぶつけてしまいました。そのため兄は、下あごの骨を折ってし
まいました。

 たいへんな事件でしたが、それ以後は、兄のいじめは止まりました」と。

 ……と書いて、私は、今、おかしな気分でいる。

 今の仕事を35年近くもしてきたにもかかわらず、こういう問題があることに気づかな
かった。自分の盲点をつかれた感じである。赤ちゃんがえりを起こした子どもについては、
よく考えてきた。が、しかし、その赤ちゃんがえりを起こした兄や姉の下で、いじめに苦
しんだ、弟や妹のことについては、考えたことがなかった。

 つまり赤ちゃんがえりを起こす子どもの側だけで、私は、ものを考えてきた。そして赤
ちゃんがえりを起こした子どもについて、「被害者」という前提で、その対処法を書いてき
た。しかしその赤ちゃんがえりを起こした子どもは、一方で、下の子どもに対しては、加
害者でもあった。

 実際、このタイプの子どものいじめには、ものすごいものがある。ここにも書いたよう
に、(下の子どもを殺す)寸前までのことをする。そういう意味で、動物がもつ嫉妬という
感情は、恐ろしい。人間がもつ本性そのものまで、狂わす。

 弟を、家のスミで、逆さづりにして、頭から落とした例。自転車で体当たりした例。シ
ャープペンシルで、妹の手を突き刺した例。チョークをこまかく割って、妹の口の中につ
っこんだ例などがある。

 このタイプのいじめには、つぎのような特徴がある。

(1)執拗性……繰りかえし、つづく。
(2)攻撃的……下の子を、殺す寸前までのことをする。
(3)仮面性……上の子が、親の前では、仮面をかぶり、いい子ぶる。
(4)計画的……策略的で、「まさか」と思うような計画性をもつ。
(5)陰湿性……ネチネチと陰でいじめる。

 この中で、とくに注意したいのが、(3)の仮面性である。もともと親の愛情を、自分に
取りかえすための無意識下の行為であるため、親の前ではいい子ぶることが多い。そのた
め下の子どもが、上の子どものいじめを訴えても、親が、それをはねのけてしまう。親自
身が、「まさか」と思ってしまう。

 で、さらに一歩、踏みこんで考えてみると、実は、こうした陰湿な攻撃性をもつことに
よって、上の子ども自身も、心のキズを負うということ。将来にわたって、対人関係にお
いて、支障をもちやすい。こうした陰湿な攻撃性は、外の世界でも、別の形で現れやすい。

 たとえば学校などで、陰湿ないじめを繰りかえす子どもというのは、たいてい、長男、
長女とみてよい。

 そういう意味でも、人間の心は、それほど、器用にはできていない。結局は、その子ど
も自身も、苦しむということになる。

 さらにいじめられた下の子どもも、大きな心のキズをもつ。たとえば兄に対してそうい
う恐怖心をもったとする。その恐怖心が潜在意識としてその人の心の中にもぐり、その潜
在意識が、自分が親となったとき、自分の子どもへのゆがんだ感情となって、再現される
ということも考えられる。

 実はここに書いた、埼玉県のTEさんも、そうだ。最初は、「上の兄(8歳)を、どうし
ても愛することができない」という悩みを、私に訴えてきた。その理由としては、TEさ
ん自身の子ども時代の体験が、じゅうぶん、考えられる。断定はできないが、その可能性
は高い。

 何度も今までにそう書いてきたが、決して赤ちゃんがえりを、軽く考えてはいけない。
この問題は、乳幼児期の子どもの心理においては、重大な問題と考えてよい。
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 負の性格 下の子いじめ 攻撃性)


●負の性格

 「負の性格」という言葉は、私が考えた。

 その人がもつ、好ましくない性格を、「負の性格」という。たとえば、いじけやすい、ひ
がみやすい、つっぱりやすい、ひがみやすい、くじけやすい、こだわりやすいなど。

 こうした性格は、その人を、長い時間をかけて、負の方向にひっぱっていく。他人との
関係で、いろいろなトラブルの原因となることもある。

 問題は、こうした負の性格があることではなく、そういう負の性格に気づかないことで
ある。気づかないまま、その負の性格に、操られる。そして自分では気づかないまま、同
じ失敗を繰りかえす。

 こうした現象は、子どもたちを見ていると、よくわかる。ひとつのパターンに沿って、
子どもは行動しているのだが、子ども自身は、自分の意思でそうしていると思いこんでい
る。
 
 ただここで注意しなければならないのは、仮にひがみやすい性格であっても、その子ど
もが、いつも、そうだということにはならないということ。

 相手によっては、素直になることもある。明るく振る舞うこともある。そういう意味で、
人間の心というのは、カガミのようなものかもしれない。相手に応じて、さまざまに変化
する。

 言いかえると、子どもを伸ばそうと考えたら、この性質をうまく利用する。こうした変
化は、子どもほど、顕著に現れる。そして仮に負の性格があっても、それをなおそうとは
考えないこと。簡単にはなおらないし、また「それが悪い」と決めてかかると、子ども自
身も、自信をなくす。

 で、問題は、私たちおとなである。

 こうした子どもの問題を考えていくと、その先には、いつも、私たちがいる。「私たち自
身はどうか?」と。

 考えてみれば、私も、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。そういう負
の性格をいっぱい、かかえている。で、そういう性格が、おとなになってから、なおった
かというと、そういうことはない。今でも、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみ
やすい。

 ただ、そういう自分であることを知った上で、じょうずにつきあっている。どこか、ふ
と袋小路に入りそうになると、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と思いなおすようにし
ている。「自分を知る」ということは、そういうことをいう。

 だれしも、二つや三つ、四つや五つ、負の性格をもっている。ない人は、いない。要は、
それといかにじょうずにつきあうかということ。そういうこと。
(はやし浩司 負の性格 いじけやすい ひがみやすい)


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●老人の赤ちゃん返り

++++++++++++++++++

下の子どもが生まれると、上の子どもが、
赤ちゃん返りを起こすことがある。

つまり本能的な部分で、このタイプの子どもは、自らを、
赤ちゃんぽくして、親の愛(=本能的な愛)を、
自分に取りもどそうとする。

本能的であるがゆえに、叱っても意味はない。
子ども自身にも、その自覚はない。
意識的な行動というよりは、無意識的な行動である。

同じように、老人にも、赤ちゃん返りに似た
現象が起きることを発見した。

称して、「老人の赤ちゃん返り」。

++++++++++++++++++

 生後直後の赤ちゃんでも、親に対して愛着行動(アタッチメント)を繰りかえすことが、
最近の研究でわかってきた。わかってきたというより、常識。親から子、子から親へと、
相互に働くことから、相互愛着(ミューチュアル・アッタチメント)という。

 (それまでは、愛着行動は、親から子への一方的なものと考えられていた。)

 つまり赤ちゃんは、本能的な部分で、(かわいさ)を演出し、親の愛(=本能的な愛)を
呼び起こそうとする。つまりこうして赤ちゃんは、親の愛を自分にひきつけ、親にめんど
うをみてもらうとする。

 もしこの段階で、赤ちゃんが、親に向って、「コノヤロー、テメエ、早く、乳、よこせ!」
というような態度をとったら、親は、子どもを育てない。つまり、その時点で、人類は、
絶滅していたことになる。

 だから赤ちゃんは、親にとっては、かわいい。かわいいから、親は、赤ちゃんを育てる。
ほとんどの母親が、赤ちゃんの泣き声を聞いたとき、いたたまれないような愛くるしさを
覚えるのは、そのためと考えてよい。

 人類が、(ほとんどの動物も同じように考えてよいが)、過去、数十万年という長い歴史
の中を生き抜いてくるこができたのは、この(かわいさ)があったためということになる。

 で、その(愛)に不安を感じたとき、子どもは、赤ちゃん返りを起こす。よくある例は、
下の子どもが生まれたようなとき。嫉妬(しっと)は、子どもの心をゆがめる。ゆがめる
だけならまだしも、自分の生存がおびやかされるような不安を感ずると、本能そのものが、
目覚める。

 それが赤ちゃん返りである。つまり子どもは、もう一度、赤ちゃんにもどり、親の愛を
取りもどそうとする。赤ちゃんらしくして、親の本能をくすぐろうとする。

 ……というのは、子どもの世界の話。実は、老人にも、似たような現象があるのがわか
る。現在の私の母が、そうである。

 現在、私の母は、90歳。ベッドから半径3〜4メートル以上は、離れることができな
い。少し前までは、這って行動していたというが、私の家では、しない。手すりから手す
りへと、つたって歩いている。下半身も不自由になったが、脳の中の三半規管に、問題が
あるようだ。手すりにつかまっていても、まっすぐ立っていることができない。

 母は、私たちの介護なしでは、生きていくことはできない。そういう母だが、懸命に、
やさしい母を演じながら、私たちの関心をひこうとする。いや、最初は、「やさしい母」と
思ったが、よく観察してみると、どうもそうではない。

 絶えず同情を買うような、表情、しぐさをしてみせる。私たちがそばにいるとわかると、
突然、変化する。弱々しく、ひ弱な母に変身する。変身するというより、それが身につい
てしまっている。

 ただ私は、子どものころから、そういう母を、うしろから見て育っている。表では、今
にも死にそうな声で、「浩司、元気……?」と言ったあと、私が何か口答えでもしようもの
なら、突然キレる。怒鳴り散らす。「何だ、子どものクセに、親に向ってエ!」と。

 今の母は、言うなれば、仮面をかぶった母ということになる。しかもその仮面を、取り
はずすことを忘れてしまっている。だから私たちと同居するようになって、もう、3か月
になろうというのに、心の交流がない。心を閉ざしたまま、それを開こうともしない。

 よい母は、よい母なのだが、まるで他人のよう。他人に接するように、私たちに接する。
「よい母に見せるためには、どうあるべきか」……ということだけを考えて行動している。
そんな感じすらする。長い間、老人をつづけているうちに、どうやら、そうなってしまっ
たらしい。

 その(よい母)は、まるで、赤ちゃん。オギャーオギャーとまでは泣かないが、それに
近い行動をとる。ベッドから起きあがるときも、わざと体を二転、三転させたりする。そ
して手を私のほうに差し出し、「助けてくれエ……」と。

 ネチネチとした言い方、甘え方は、まるで赤ちゃん。が、どこか不自然。そのどこか不
自然なところが、本物の赤ちゃんとちがうところ。つまり赤ちゃん返りを起こしている幼
児、そっくり。

 つまり母は母で、そういう形で、私たちの愛を、自分に向けさせようとしている。

 ……こうして考えてみると、人間が本能的にもつ性(しょう)というのは、そうは簡単
には変わらない。変えられない。人間の脳みその奥深くにまで、しみこんでいる。そして
それが、90歳という年齢になっても、必要に応じて外に出てくる。

 対する私は、「どうせ、本気で相手にしてもしかたないから……」と、適当にあしらって
すます。ときに、冷たく、突き放すこともある。「自分のことは、自分でしな!」と。そう
いうとき瞬間、母の目は、鋭く冷たい眼光を放つ。いくら笑顔をとりつくろっても、目だ
けは、笑わない。暗く沈んでいる。が、私は、無視する。

 つまりそうすることのほが、かえって母には、よい。運動にもなる。そのあと、戸のす
きまからのぞいて見ていると、まるで別人のように、自分で起きあがって、好き勝手なこ
とをしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
老人の赤ちゃん返り、赤ちゃん帰り、あかちゃんがえり)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●交流分析

 人とのかかわり方を見て、その人の性格を分析しようというのが、「交流分析」。たとえ
ば、事業か何かで失敗した人がいたとする。

 その人との濃密度にもよるが、そのとき、その人への接し方には、さまざまなパターン
に分かれる。

 精神分析学者のバーンは、つぎの3つに分類した。

(1)親の心(P)
(2)おとなの心(A)
(3)子どもの心(C)

 「そんなことでは、ダメでしょ」「ちゃんとがんばりなさいよ」と、親の立場で、叱った
り励ましたりするのが、親の心(P)。「失敗はだれにでもある」「では、こうしたらどうか
な」と、冷静に判断して、理性的に解決策を考えたりするのが、おとなの心(A)。「ワー、
どうしたらいいの」「あなたはこのままダメになってしまう」と、子どものように、取り乱
して、相手を責めるのが、子どもの心(C)ということになる。

 子どもの心(C)が、悪いというわけではない。ときには、子どもの心(C)にかえり、
自然や芸術に感動することも必要。またおとなの心(A)が、よいというわけではない。
おとなの心(A)が強すぎると、権威主義的なものの考え方をするようになったりする。

 大切なのは、「バランス」(バーン)。

 この3つの心をじょうずに使い分け、そのつど、臨機応変に対処していく。たとえばみ
なで、楽しく騒ぐときは、いっしょに騒ぐ。しかし必要に応じて、威厳を保ち、相手を指
導すべきときは、指導する。それがうまくできる人、つまりほどよくバランスのとれた人
を、「協調性のある人」という。人格の完成度の高い人という。

 これら3つの心は、そのつど、微妙に変化する。変化して、当然。たとえば子どもが何
かの失敗をしたとする。お茶をこぼしたときを考えてみればよい。

 そういうとき、ときには、カッと頭に血がのぼり、子どもをはげしく叱ることもあるだ
ろう。またべつのときには、冷静に、「これからは、気をつけよう」と諭すこともあるだろ
う。

 そういう変化をコントロールするのが、自己管理能力ということになる。最近の研究に
よれば、大脳の前頭前野がその管理能力に、深くかかわっているそうだ。

 ……そう言えば、あのフロイトも、(超自我の人)、(自我の人)、(エスの人)という言葉
を使って、同じようなことを説明していた。

 ともかくも、人は、他者とのかかわりをもってはじめて、人となる。いくら人格的に高
邁(こうまい)でも、他者とのかかわりをもたない人は、人でないと断言してもよい。交
流分析は、その(かかわり方)をみて、その人の性格を分析する方法と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
交流分析 バーン 性格 性格論 おとなの心 子どもの心 親の心)


●超自我の人、自我の人、そしてエスの人。

++++++++++++++++++++

超自我の人、自我の人、そしてエスの人。

「エスの人」というのは、自分の本能の
命ずるまま、欲望に溺れて生きる人をいう。

++++++++++++++++++++

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。
いつもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府に住んでいる、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
のばあいは、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、相手が、それなりの(おとな)であるなら、私には、どうしてよいか、わからな
い。(ごめんなさい!)

++++++++++++++++++

 バーンが考えた、(1)親の心、(2)おとなの心、(3)子どもの心を、フロイトのこの
理論に当てはめると、親の心は自我の人の心、おとなの心は超自我の人の心、子どもの心
というのは、エスの人の心ということになる。(必ずしも一致するわけではないが……。)

 「エス」というのは、体の中心部から人間を動かす原動力のようなものを考えたらよい。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と呼んだ。つまり本能のこと。

 いつだったか、私は、「理性(前頭前野)の力で、この性的エネルギーをコントロールす
ることは、容易なことではない」と書いた。その気持ちは、今も、変わっていない。つま
りその力は、それほどまでに強力なものであるということ。

 だからEQ論でも、人格の完成度を、その管理能力をみて、判断する。自己を管理する
能力の高い人を、人格の完成度の高い人といい、そうでない人を、そうでないという。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日・あれこれ(3月5日)

+++++++++++++++++

春のような陽気。
どんより曇った灰色の空。
しかし春は、春。

昨日、まだ3月のはじめというのに、
この浜松市では、気温24度を記録した。

暑さを感ずるほど。

そのせいか、周囲の緑がいっせいに、
活気づいた。

桜の開花も、桃の開花も、みな、
例年より2〜3週間以上、早いという。

+++++++++++++++++

●偏頭痛

 今朝は、7時半に起きる。夜中に、頭痛。いつもの偏頭痛(?)。がまんして目を閉じて
いたら、そのまま熟睡。起きたときには、痛みは、ほとんど消えていた。よかった!

 偏頭痛は、眠っていても痛い。これがほかの頭痛、たとえば二日酔いによるものとか、
風邪によるものとかのちがい。

 朝、起きて、市販のB剤をのむ。あとは、お茶をたてつづけに、1リットルほど。一度、
水分を大量に補給して、血管を拡張させる。そのあと、排尿で、一気に、収縮させる。私
のばあい、軽い偏頭痛は、こうして治している。(どうか、まねをしないように!)

 偏頭痛というのは、血管が拡張して、周囲の神経を圧迫するために起こる。私の治療法
は、それなりに理屈にかなっている。


●花粉症

 今年の、花粉飛散量は、例年になく多いそうだ。私は、12年ほど前までは、その花粉
症で苦しんだ。が、今は、初期だけ。つまり最初の1週間程度だけ。あとは、そのまま、
症状が消えてしまう。

 花粉症が消えたとき、春のすばらしさを、改めて満喫するようになった。それまでは、
冬が終わることから、憂うつでならなかった。が、今はちがう。かつて苦しんだ分だけ、
春をすばらしく思うようになった。

 花粉症で苦しんでいる人には、申し訳ないが……。


●長男と浜名湖一週

 4月に、長男と、浜名湖一周を計画している。「してみないか?」と声をかけると、「暖
かくなったら、いい」と。

 おそらく、私にとっては、最初で最後の冒険になるだろう。新しい自転車を1台、新調
するつもり。今朝、そのことをワイフに話すと、「あなたは鍛えているからいいけど、Sに
は、無理かもしれないわ」と。

 「いいよ、ぼくは、Sのペースで、うしろを走るから」と。今日にでも、地図を買って
きて、計画を練るつもり。


●EのBLOG

 息子のEが、正式に、JALのパイロットとして、就職が決まった。最初の勤務地は、
成田。国際線パイロットに1歩、近づいた。

 が、問題が起きた。JALの職員の人に、「JALの内部のことは書かないように」と。
息子のEは、この2年間、ずっと、日記風のBLOGを書いている。それがJALの人の
目にもとまっていたようだ。

 私も、同意見。これからは学生ではない。息子は気をつかって、「J社」と書いていたが、
「J社」でもまずい。だれが読んでも、JALとわかってしまう。「世界の旅行記でも書い
たら?」と、私は提案しているが……。


●株価、大暴落!

 ここ1週間、株価の動きが異常。飛行機にたとえるなら、積乱雲か何かにつかまってし
まい、乱高下しているような感じ。あるいは地面にたたきつけられているような感じ。

 私のように、小遣いの範囲で株の売買を楽しんでいる人には、そうではないが、一方で、
今ごろ、まっさおになって、対策を考えている人もいるはず。全財産を失った人もいるか
もしれない。とくに証券会社に踊らされて、中国株を買った人など。

 ちなみに3月5日、午前11時(日本時間)現在、世界の株価は、つぎのようになって
いる。

日本    ……364円安      2・2%↓
韓国    ……韓国23ポイント安  1・7%↓
台湾    ……114ポイント安   1・5%↓
シンガポール……85ポイント安    2・8%↓

問題の中国・上海株(B株式指数)は、4・6ポイント安で、2・7%↓。

 日本の株価は、さがりすぎ? ほんの少し金利をあげただけで、急激な円高を招いてし
まった。それが株価(輸出関連株)の下落につながった。1週間前に、私は、「まだ切りあ
げの時期が、早すぎる」と書いた。それがはからずも、当たってしまった。

 (私には、結構、先見の明があるのだぞ。損得勘定なしに、無我、無益の状態で、もの
を書いているからね。)

 では、どうなるか?

 ここ1か月は、大混乱がつづく。私のような素人は、株を塩漬けにして、嵐が過ぎ去る
のを待ったほうがよい。


●ISO・3200

 今度のデジカメ(P社のFZ50)は、すごい。超高感度に設定すると、ISO・32
00にまで、感度をあげられる。

 これで夜空をとると、まるで、昼間のような写真がとれる。

 昨夜、その写真をワイフに見せると、「これ昼間にとったのでしょ」と言った。私の言う
ことを信じなかった。しかし夜の写真である。月は明るかったが、夜は、夜。

 そこで気がついた。

 夜でも、超高感度のカメラ(目)で見ると、昼のように見える。

 ……よく宇宙人の目は、大きいという。宇宙という暗い空間を行き来しているうちに、
目だけが大きくなったらしい。だから宇宙人は、みな、目に、サングラスとして働く、透
過性の膜を張っているという。

 あくまでも、SF的な話のひとつだが……。

 しかし宇宙人には、夜でも、昼間のように明るくものが、見えるはず。夜中でも、空は、
水色の空に見えるはず。

 超高感度のカメラで、夜空をとると、その空が、水色になっていた。これには、驚いた。
夜でも、空は、青いのだ。水色なのだ!


●失言外交

+++++++++++++++++

日本の国際外交のお粗末さには、あきれる。
ホント!

すべてが、後手、後手。今は、打つ手なし!

「拉致問題が解決しなければ、援助はいっさいしない」と、
いくら声高に叫んでも、今となっては、負け犬の遠吠え。

競技場の外から、ワォー、ワォーと叫ぶだけ。

アメリカに裏切られても、文句、ひとつ言えない。
おまけに、失言つづき。

一連の失言が、日本を窮地に陥(おとしい)れた。
称して、「失言外交」。

+++++++++++++++++

 「黙っていても、アメリカは日本を助けてくれるだろう」という夢に、日本はとりつか
れていた。日本は、何もしなかった。しないばかりか、アメリカの批判までしてみせた。
あの防衛相は、あろうことか、ブッシュの一般教書演説のその直後に、それをやってしま
った! 「アメリカのイラク政策は、幼稚」「まちがっていた」「アメリカは根回しをしら
ない」と。ブッシュ大統領が、怒って当たり前。

 とたん、極東アジア情勢が、急変した。ドイツで米朝2国間協議がなされ、裏取り引き
で、覚書まで交わされた。「まさか、そこまではしないだろう」と、日本政府は思っていた
にちがいない。甘いと言えば、甘い。当時、日本におけるアメリカ軍の基地移転問題は、
こじれにこじれていた。

 現在、韓国とK国の間の、南北閣僚級会談は、終了したところ(3月3日)。「南北閣僚
級会談は、成果なく終わった」(日本の報道機関)ということになっているが、だれがそん
な話を信ずるか? 

 K国のP市を離れるとき、K国の代表たちは、みな、韓国の代表たちに、にこやかに手
を振っていたという。K国の代表は、大声で笑っていたという。

 一方、今、ニューヨークで米朝会談が進められている。米朝会談は、今後「今後、定例
化される」という。……となると、日本は、どこに身を置いたらよいのかということにな
る。日本の居場所すらない。言うなれば、住所不定。そんな状態。

 しかしまあ、それにしても、お粗末な外交。小泉さんから安倍さんにバトンタッチした
だけで、かくも、極東情勢が急変するとは! 実のところ私にも予想していなかった。小
泉さんは、イギリスへの留学経験がある。安倍さんは大学を卒業したあと、会社員をして
いたという。世界を見る目が、180度、ちがっていたということか?

 どうして日本の外務省は、アメリカの心変わりを、先に読めなかったのか。同時に、ど
うして何らかの手を打てなかったのか。国際外交の世界には、いつもウラがある。ウラの
そのまたウラがある。

 すでに今ごろは、こんなウラ取り引きがなされていることだろう。
 
●南北統一後も、K国は、核兵器をもってもよい。(アメリカ、中国)
●K国への補償は、すべて日本にさせる。(他の4か国)
●日朝交渉は、日本の問題。(アメリカ)
●米中で、アジアの富を、2分する、と。(アメリカ、中国)
●K国の憎悪の念は、日本に向けさせる。(韓国)

ここまで追いつめられると、日本にとって考えられる、つぎの手は、つぎの3つ。(1)交
戦覚悟で、日朝交渉に臨む。(2)韓国経済を破綻にもちこむ。(3)アメリカから日本の
債権を引きあげる。「引きあげる」と脅すだけでもよい。

 しかしどれも今は、実行不可能なことばかり。そんなわけで、ここは静かに、時の流れ
を待つしかない。将棋にたとえるなら、王将を左右に動かしながら、相手の出方を待つし
かない。

 どこかでスキが生じたら、そのスキに割って入る。今は、それしかない。

 それにしても、日朝交渉の部会が、ハノイでなされるとは! どうしてハノイなのか…
…というところから読めば、この先、日本がどうなるか、おおかたの予想はつくはず。あ
やうし、日本! どうする、日本!

●HPのタイトル

 FLASHを使うと、動きのある画像を、HP上に載せることができる。このところ安
価なソフトが出てきた。以前は、FLASH作成ソフトというと、4〜5万円はした。今
は、1万円弱で買える。

 で、それを使って、HPのタイトルを作りなおしてみた。興味のある人は、どうか、私
のHPをのぞいてみてほしい。

 で、こういうことに夢中になっているときというのは、時間が過ぎていくのを忘れる。
床についてからも、「ああしよう」「こうしよう」と考える。そのまま眠ってしまう。


●青い空

 ここ数日は、空ばかり見ている。青い空に、白い雲。風が強い日は、空も美しい。私の
ような人も少なくないと思う。私は、白い雲が好き。そんなわけで、ここ数日は、ヒマさ
えあれば、雲ばかり、撮影している。

 そうそう、木々の若葉が、少しだが、吹き出してきた。春の気配を、あちこちに感ずる。
新しいデジカメも手に入った。よい写真を撮って、マガジンに載せたい!


●卒業式

 息子の大学の卒業式が近づいてきた。ホテルとチケットの予約を、今日の午後、すます。
無事、就職先も決まった。よかった。

 それにしても、長い大学生活だった。横浜のY大学に3年。それからオーストラリアに
1年。航空大学に2年。計、6年。息子は息子なりに、よくがんばった。


●教育長の任命制度

 教育再生会議なる(会議)の動きに、みなさんも、注意したらよい。どうも、おかしい? 
どこか、ヘン? 各地で行われた公開討論会も、やらせだったという。しかも出てくる答
申が、どれも「?」。各県の教育長にしても、任命制度にするとか、しないとか。

 完全に、時代の流れに逆行している。(欧米では、教育は自由化の方向に向っているぞ!)

 どうして中央官僚たちは、こうまで日本人を管理したがるのか? むしろ逆で、文科相
を、選挙で選ぶようにしてはどうか。地方の市町村クラスの教育長が、選挙で選ぶ、とか。

 I文科相に失言には、うんざり。

 「大和民族がずっと日本の国を統治してきたことは、まちがいない」「日本はきわめて、
同質的な国」(長崎県N町での自民党支部大会・07年2月25日)と。

 その上で、こんな発言まで!

 「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていれば、メタボリック症候群にな
る。人権は大切だが、尊重しすぎたら、日本社会は、人権メタボリック症候群になる」と
も。

 とんでもない発言だが、そういうことを、文科相という、(知的世界のトップ)に立つ人
が口にするから、恐ろしい。そうでなくても、日本人がもつ人権意識は、低い。低いまま、
こういうことを堂々と言ってのける。文科相というより、政治家の知的レベルの低さに、
ただただあきれる。

 
●今日も始まった!

 Eマガの読者が、3人、ふえた。うれしかった。大きなことは望まない。望みようもな
い。今は、こうして少しでも、Eマガの読者がふえることだけが、楽しみ。励みになる。

 今日も、がんばる! 今日、新たに購読を申しこんでくれた3人のみなさん、どうもあ
りがとう!

(付記)

 この日本で、文科相のような人を批評、批判できるのは、私のような立場のものだけ。
学校社会では、文科相といえば、宗教団体の中における法主(ほっす)のようなもの。ク
ビまでは飛ばないが、かなりヤバイ。

 どこの組織にも属さず、好き勝手なことが書ける。これが私の強み。利点。私の特権。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●精神不安

 S県のKKさん(女性)が、精神不安で悩んでいるという。

 「何をしても落ちつきません。夫は『気はもちようだ』と言います。わかっていますが、
この不安感は、どうしようもありません。とくに何か、問題があるというわけではないの
ですが、不安でなりません」と。

 不安イコール、情緒不安と考えてよいのでは……? 精神そのものが、不安定になって
いる。そこへ心配ごとや、不安なごとが入ると、情緒は、その心配ごとや、不安なことを
解消しようと、一気に不安定になる。

 イライラしたり、反対に怒りっぽくなったりする。突発的に、喜怒哀楽がはげしくなっ
たりする。ささいなことで、激怒することもある。

 こうした症状は、だれにでもあるのでは……? 私は、花粉の季節(毎年2月末〜3月)
になると、心身のだるさを覚え、ついで精神状態が、不安定になる。毎年のことだから、
このところは、自分で自分をコントロールする方法を、身につけた。「ああ、今の自分は、
本当の自分ではないぞ」と。

 幸いにも、ワイフが、きわめて安定した女性なので、そういうときは、すべての判断を
ワイフに任す。「お前は、どう思う?」「お前なら、どうする?」と。たいていの問題は、
それで解決する。

 あとはCA、MGの多い食生活にこころがける。CAの錠剤も、私には、効果的である。
戦前までは、CA剤は、精神安定剤として使われていたという。

 もともと私は、基底不安型の人間だから、心配性。そのため、いつも不安とは、隣りあ
わせにいる。とくに、今は、いろいろ問題があって、何かにつけて、落ちつかない。

私の欠陥は、いくつかの問題が同時に起きたりすると、パニック状態になること。具体
的には、大きな問題も、小さな問題も、同時に悩んでしまう。

 だからそうなる前に、つまり自分がそうならないように、気をつける。この世界でも、
予防こそが、最大の治療法なのである。だから、あまり変ったことはしない。「平凡」を感
じたら、それがベストだと思うようにしている。そしてその状態を、できるだけ長く守る
ようにしている。あとは、よく眠る。運動も効果的。

 あまり参考にならないかもしれない。どうか、めげないで、前に向って進んでほしい。



●義理の兄夫婦の離婚問題

 もう一通、N県にお住まいの、SHさん(女性、35歳)からのメール。いわく、「義理
の兄夫婦が、離婚寸前。仲が悪そう。こういうとき、私は、どうしたらいいか。毎月のよ
うに離婚騒動を繰りかえしている。しかし離婚はしないようだ……」と。

 夫婦というのは、おかしなもので、結論を言えば、夫婦のことは、夫婦にしかわからな
いということ。殴られても、蹴られても、「今の夫がいい」と言う妻がいる。あるいはまっ
たく収入がなく、一日中パチンコばかりしている夫でも、「今の夫がいい」と言う妻がいる。

 もちろんその反対の妻もいるだろう。要するに、夫婦の問題は、どこまでも夫婦の問題。
その夫婦に任せるしかない。

 では、夫婦を最後の最後で結ぶ、「絆(きずな)」は何か。

 私は(やすらぎ)だと思う。その(やすらぎ)が、ほんの瞬間でもあれば、夫婦は夫婦
でいられる。反対にそれがないと、いくら体裁をとりつくろっても、夫婦の関係は、やが
て崩壊する。

 で、私たち夫婦のばあい、その(やすらぎ)とは何かを、私はよく考える。

 これは結婚当初からの習慣になっているが、どちらかが夜、床にはいるときは、必ず、
いっしょに入るようにしている。とくに、冬の寒い日は、ワイフのぬくもりは、ありがた
い。つまりそれが私にとっては、(やすらぎ)であるように思う。

 この(やすらぎ)があるから、あとは一日中、それぞれが勝手なことをしていても、私
たちは夫婦でいられる。仮に見た目には、大喧嘩をしても、また元のサヤに収まることが
できる。夫婦というのは、そういうものか?

 多分、SHさんの義理の兄夫婦にも、どこかにその(やすらぎ)があるのかもしれない。
またそれがあるからこそ、離婚しないで、最後のところで、たがいにふんばっているのか
もしれない。外見だけを見て、その夫婦を判断してはいけない。

 その点、欧米人の夫婦には、学ぶべき点が多い。たとえば寝室にしても、ほとんどがダ
ブルベッドで寝ている。50歳になっても60歳になっても、そうだ。つまり一日のうち
の三分の一から、四分の一を、いっしょに過ごすことで、夫婦の絆を守っている?

 誤解のないように言っておくが、アメリカは別として、今では、日本の夫婦の離婚率の
ほうが、ヨーロッパ各国の夫婦の離婚率より高いことを忘れてはならない。

 さてあなたは、今の夫(妻)に、どこでどのような(やすらぎ)を覚えているだろうか。
これは私の勝手な解釈によるもので、何も参考にならないかもしれない。しかし今の私の
考えによれば、その(やすらぎ)を、どこかで覚えれば、それでよし。そうでなければ、
ひょっとしたら、あなたも、離婚予備軍かもしれない。

 反対に言うと、たがいにその(やすらぎ)をもつということは、夫婦円満のカギになる
ということ。毎晩、同じベッドで、たがいの寒さを防ぎあって寝るというのも、その一つ
の方法かもしれない。

 そう言えば、ここ数日、暖かいと言っても、夜は寒い。しばらくストーブを使っていな
かったが、ここ数日は、使っている。そのせいか、昨夜は、改めてワイフの体のぬくもり
を、ありがたく感じた。
(はやし浩司 夫婦絆 夫婦のきずな やすらぎ 夫婦のやすらぎ)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   このマガジンは、購読登録してくださった
.QQ ∩ ∩ QQ         方のみに対して、Eマガ社、BIGLOBE
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      まぐまぐ社より、配信しています。
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      購読解除は、末尾、もしくは、それぞれの
. みなさん、   o o β     会社の解除方法にしたがってください。  
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   0年 4月 2日(No 864)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
4月2日、マガジンは、864号になります。100号まで、136号です。
★★★HTML版・カラー・写真版★★★
**********カラー版です。写真の紹介もしています***********
まぐまぐプレミア読者の方のために、HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。

************************

電子マガジンを、HTML(カラー+写真版)でも、お届けしています。
見本版をご覧くださる方は(↓)を、クリックしてください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html

********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【いじめ】

+++++++++++++++++++

管理、管理、また管理。

子どもたちが窒息している。
おまけにあろうことか、教育再生会議なる
会議が、それに拍車をかけようとしている。

あやういところで流れたが、
教育長の国の任命制度なども、それ。

そこで子どもたちは、不満の
はけ口を、弱いもの、少数なものに
向けようとする。

本来なら、そうしたエネルギーは、
親に向かい、教師に向かい、
さらには社会に向かわねばならない

が、それができない。その力もなければ、
方法も知らない。
できないから、そのエネルギーは、
子どもどうしの仲間に向かう。

これが、いじめる側の、
いじめの構造と考えてよい。

++++++++++++++++++

 昨夜(3月3日)、NHKで、「いじめ問題」の特集番組を流していた。いろいろな専門
家が集まり、いろいろな意見を述べていた。「いじめはなくなるか、なくならないか」と、
(YES・NO)方式で、そのつど、アンケート調査もしていた。(YES・NOで答えら
れるような問題でもないと思うのだが……。)

 最初の部分と、最後の部分は見ていないので、こう言い切るのは危険なことかもしれな
い。が、(いじめる側)を擁護する意見が、まったくなかったのには驚いた。「いじめる子
どもは絶対的な悪である」という大前提が、まず、はじめにありき。その上で、「どうしよ
う」「こうしよう」と。

 「擁護」と言っても、誤解しないでほしい。私は何も、「いじめが悪いことではない」と
言っているのではない。いじめは悪である。それはそうだ。ただ、しかしいじめる子ども
にしても、それなりの背景というか、理由があるということ。もっと言えば、この問題は、
(いじめる側)の子どもの心の奥深くまで、メスを入れないと、解決しないということ。

 善人も悪人も、紙一重。

 何度も書くが、『抑圧は、悪魔をつくる』(イギリスの教育格言)。つまり抑圧された状態
が長くつづくと、人の心は悪魔的になる。ものの考え方、行動が、悪魔的になる。人間の
心の奥底に隠されている邪悪な部分が、抑圧によって、えぐり出されるためと考えてよい。

子どもの世界とて、例外ではない。今、子どもたちは、(学校)という場で、窒息してい
る。管理、管理、また管理。さらに(受験競争)という(勉強)が、子どもたちをしめ
つけている。本来なら自由化に向わねばならないはずの教育が、今、逆行しようとして
いる。教育再生会議なる会議も、そういう方向に向っている。

 あやうく流れたからよいものの、教育長の国の任命権もそのひとつ。とんでもない話で
ある。

 先日も、ある小学校の校長がこう言った。「昔は、学校帰りに道草を食いながら、遊んで
帰るというのが、当たり前だった。しかし今は、それができない。まっすぐ家に帰るよう、
親も教師も、そう指導している」と。

 私も、小学生のころは、めったに、まっすぐ家に帰ったことはない。学校の門を出たと
ころで、私たちはすべてから解放された。好き勝手なことをした。ザリガニを取ったり、
ドジョウを取ったりした。夏の暑い日だと、魚釣りをして帰ったこともある。

 そういうことが、当時は、まだ自由にできた。

 ただ、当時もいじめは、あったと思う。私もいじめられたし、(私にはその意識はなかっ
たが)、だれかをいじめたこともあると思う。しかしそうした解放感にひたることによって、
(抑圧)の大部分は、解消されたと思う。いじめる側にしても、またいじめられる側にし
ても、だ。

 さらに言えば、いじめる側の子どもの心は、私たちが考えているほど、単純なものでは
ない。そこには、人間が動物としてもっている、(本能)の問題もからんでいる。集団で行
動しようとする(群れ意識)、さらには、弱くて、力のないものを、ふるい落とそうとする
(種族選択意識)、さらには、自分より弱者を身近に置くことによって、安心感を得たいと
いう(優越意識)などなど。

 群れの中にいることによって安心感を覚える。(とくにアジア人種はそうか?)半面、そ
の群れからはずれるものを許さない。自分とは異質なものを、許さない。群れを否定する
ものに対しては、それを徹底的に攻撃する。

 より優勢な種族を残そうと、弱いものや、劣等なものを、ふるい落とそうという意識も
働く。動物の世界では、よく見られる現象である。たとえば私の庭には、毎年、ドバトが
やってきて巣をつくる。たいてい2羽のヒナがかえるが、うち1羽のヒナは、ある時期に
なると、もう1羽のヒナに巣から落とされ、殺される。

 さらに自分より弱いものをそばに置いておくということは、それだけで、安全が担保さ
れる。まずその弱いものが犠牲になり、つづいて、自分となる。だから人間は、ほかの動
物たちと同じように、自分より弱いもの、劣等なものを身近に用意することによって、自
分の安全を担保しようとする。

 人間は、「私たちは、ほかの動物たちとはちがう」と考えがちだが、人間がほかの動物た
ちと、ちがうと考えるほうが、おかしい。むしろ、動物そのもの。ときには、動物以下に
もなる。動物でもしないような愚かなことを、平気ですることさえある。

 いじめには、こうした問題が複雑にからんでいる。

 例によって例のごとく、じめられた経験のある子どもたちが、涙ながらに、「いじめられ
るものの苦しみをわかってください」と訴えていた。その気持ちは痛いほど、よくわかる。
いじめは、根絶しなければならない。繰りかえすが、悪である。

が、ではその子どもたちが、反対の立場になったら、どうなのだろう。はたしていじめ
とは無縁の、すばらしい子どもになるだろうか。この問題は、個人というワクをこえて、
その向こうにある、人間を見て考えなければならない。いじめの問題には、人間が人間
であるがゆえにかかえる、本来的もつ問題がからんでいる。

 ある教師はこう言っていた。「じめは、努力でなくなります」と。

 しかし本当に、そうか? 現実には、教師の間のいじめほど、すさまじく、はげしいも
のはない。そんなことは学校教育にたずさわっているものなら、みな、知っている。わか
りやすく言えば、教師どうしが、いじめに明け暮れていて、どうして子どものいじめをな
くすことができるか、ということ。私はこの意見には、「?」を、10個ほど、感じた。

 たいへんきわどい問題である。それはわかっている。

 しかしこれだけは言える。抑圧された心は、そのはけ口を、どこかに向ける。向けなけ
れば、その人自身が窒息してしまう。子どもとて、同じ。

 そこで本来ならそのエネルギーは、親や教師に向かうべき。あるいは社会に向かうべき。
「どうして勉強なんか、させるのだ」「受験競争をなくしてほしい」と。しかし子どもには、
その力がない。方法も知らない。だからそのエネルギーは、内へと向かう。中の世界へと
向かす。自分より弱いもの、かつ少数なものに向かう。それが(いじめる側の、いじめの
構造)である。

 つまりこの部分にまでメスを入れないと、いじめの問題は解決しない。

 むずかしい話はさておき、一方で、子どもたちを受験競争でギューギューにしめつけな
がら、その一方で、「いじめをなくすにはどうしたらいいか」は、ない。抑圧と、いじめは、
相関関係にある。そう言い切ってもよい。

つまり、現象として表れる、いじめだけを問題にしても、ナンセンス。たとえて言うな
ら、熱を出している患者の熱だけを見て、病気を論ずるようなもの。私には、その番組
を見ていて、そう感じた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
いじめ いじめの問題 いじめる側の論理)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「生」の原点

+++++++++++++++++

90歳になった母。
その母を見ていて、重大なことに気がついた。

+++++++++++++++++

 デイサービスに行かない日は、母は、1日中、自分の部屋にこもって、好き勝手なことを
している。寝たり、起きたり、ソファに座ったり、ときおり、便器に座ったり……。

 いろいろ試してはみたが、母は、もう、何にも興味を示さない。テレビを見せても、う
つろな目で、ながめるだけ。写真や本はなおさらで、見るといっても、瞬間的。ときどき
衝動的に、「M町(=郷里)に帰りたい」とか、「○○さん(=友人)に会いたい」などと
言うが、つぎの瞬間には、それを忘れてしまう。

 「何のために生きているのだろう?」と、ときどき思う。「もし私が母なら、退屈すぎて、
気がへんになってしまうだろう」とも。しかし母は、平気。まったく何もしないまま、1日
を過ごす。

 そんな母だが、目の色を変えるときがある。まるで別人のような反応を示す。そのとき、
母は、ふだんは見せないような行動をとる。たとえば朝などは、ベッドから体を起こすだ
けでも、たいへん。たいへんというより、起きあがれない。しかしそのときは、ちがう。
体をひょいと起こし、ベッドの下におりる。

 食事のときである。

 私が食事を届け、ソファの横の台の上に置く。そのとき母は、ベッドの上で休んでいる。
そこで私は、「おなかがすいたら、食べるんだよ」と声をかける。が、もうそのときには、
母は、ベッドから体を起こし、ソファに向かって歩こうとする。

 こんなことがあった。

 夕食がすんで、あと片づけもすんだころのこと。私は小さなケーキをもって、母の部屋
に入った。母は、食事がすむと、いつも、そのままベッドに入って、横になる。そこで私
はそのケーキを、台の上に置き、そっとその場を離れようとした。大きな電気を消し、枕
もとの小さな明かりだけにした。

 母が、「何や?」と言ったので、「ケーキや」とだけ答えた。が、それを聞くと、母が体
をがばっと起こしたではないか! 先にも書いたが、ふだんは見せない行動である。

 私は何かしら背筋に冷たいものを感じた。その場を離れた。部屋から出て、ドアを閉め
た。

 が、気になった。あちこちの部屋の戸締りをしたあと、透き間から、母の部屋をのぞい
た。そのとき背筋の冷たいものが、体中に広がった。ぞっとした。あの母が、両手で、ケ
ーキをむさぼっているではないか。「食べている」というような、上品な雰囲気ではなかっ
た。しかも床の上に正座したまま……。

 薄暗い部屋だったこともある。私は見てはいけないものを見たような気分になった。そ
の場を離れた。

 ワイフにそのことを話すと、ワイフも、「そう言えば……」と言って、こう言った。「お
母さんたら、食べ物には、ものすごい執着心を見せるわね」と。

 しばらくしてからまた、私は母の部屋にもどった。あと片づけをするためである。母は、
再びベッドの中に入っていた。ケーキで汚れた手を、テッシュペーパーで拭いたらしい。
それがひとかたまりになって、皿の上にあった。が、ひとかけら、ケーキが床の上に落ち
ていた。

 私はそれをつまんで、皿の上に載せようとした。その瞬間、母の声が聞こえた。「それを、
くれ!」と。見ると母が、ものすごい目つきで、そのケーキをにらんでいるではないか。

私「落ちていたから、捨てる」
母「いいから、くれ」
私「捨てる」
母「食べるから、くれ」と。

 私はまだ背筋に冷たいものを感じていた。母の意思を無視して、それを紙でくるむと、
そのままゴミ箱に捨てた。が、すぐ取り出した。そのときの母なら、ゴミ箱から取り出し
てでも、それを食べただろう。そんな気がした。

 あのフロイトは、「生命力」の原点に、「性的エネルギーがある」と説いた。若い人たち
を見ていると、それはそうだろうと思う。人間の生きるすべてのエネルギーは、どこかで
「性」と結びついている。

 しかし老人は、どうだ? 母に性的エネルギーがあるとは、とても思えない。しかし食
欲に見せる、あの貪欲までのエネルギーは何か。そこでフロイトの弟子のユングは、フロ
イトの説を修正して、「性的エネルギーではなく、生的エネルギーである」と説いた。結果、
この子弟は、袂(たもと)を分かつことになった。

 母を見ていると、それがよくわかる。つまりなぜユングが、「生的エネルギー」と言った
か、その意味がよくわかる。今の母にしてみれば、食事だけがゆいいつの楽しみ。食べる
ことだけが、生きがい。あるいは生きているという証(あかし)。母にとって、生きるとい
うことは、食べること。その原点にあるのが、「生的エネルギー」ということになる。

 フロイトとユングのどちらが正しいかということになれば、こと、老人を見るかぎり、
ユングのほうが正しいということになる。言うなれば、「性的エネルギー」も、「生きたい
というエネルギー」が基本にあって、そこから生まれると考える方が、自然である。

 つまり母のばあい、らっきょうの皮のように、母の心を包んでいたものが、つぎつぎと
はがされた。そのあと、最後に残っていたものが、「食欲」ということになる。私の母は、
社交的で、ほんの少し前までは、1日中、あちこちの友人宅を飛び回っていた。多芸多才で、
趣味も多かった。そういう母が、今は、無気力になったまま、1日中、自分の部屋にこもっ
ている。

 そんなわけで、「腹、減った」という言葉が、今の母の口グセにもなっている。ときどき、
「昼飯を食べておらん」というようなことまで言う。その数分前に食事を終えたはずなの
に、そう言う。

 母というより、人間が本来的にもつ「欲望」の強さに、改めて、驚く。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●自分の中の邪悪さ

+++++++++++++++++++

遠い昔、
私は、母の子だった。

しかしその母と別れて住むようになって、
40年以上。

が、どういうわけか今また、私は
母といっしょに暮らしている。

その母を見ていると、そこに、ときどき、
自分の(過去)が、そこにあることを知る。

+++++++++++++++++++

 遠い昔、私は、母の子だった。しかしその母と別れて住むようになって、40年以上。
盆暮れのときには、そのつど帰っていたが、しかしその程度。その私が、今、どういうわ
けか、その母といっしょに暮らしている。

 その母を見ていると、そこに、ときどき、自分の(過去)が、そこにあることを知る。

 よい部分もあれば、そうでない部分もある。私は、母に溺愛されて育った。それはそれ
で感謝しなければならないことかもしれない。が、溺愛は、決して、「愛」ではない。私は、
母のモノとして、つまり、母を慰めるための道具として、育てられた。

 少年時代は、母の期待にこたえることだけが、私の生き様(ざま)だったように思う。
が、それだけではない。私は、母のもつよい部分はもちろんのこと、そうでない部分まで、
そっくりそのまま引きついでしまった。

 そうでない部分の多くは、邪悪な部分といってもよい。母と別れて住むようになって、
私はその部分と、ずっと自分の中で戦ってきたように思う。母はまだ生きているので、そ
れについて詳しくここに書くことはできない。しかしいつだったか、これももう、ずいぶ
んと前のことだが、こう思ったことがある。

 「母だって、ただの女性ではないか」と。何も、(ただの女性)であることが悪いという
のではない。「親である」という幻想に振りまわされて、過大な期待はしてはいけないとい
うこと。それに気がついた。

 以来、私は母を冷静に見ることができるようになった。と、同時に、自分の中の邪悪な
部分についても、冷静に見ることができるようになった。

 邪悪な部分……しかし、それはけっして、単純な問題ではない。自分の心の中に、顔の
シミのように、しみついている。ある時期は、自分の中のそれと戦うために、もがき苦し
んだこともある。そういう部分を、今、母は、平気で私に見せる。

 頭に、カチンとくることもある。心だけが、過剰に反応することもある。しかし母は、
母。しかも90歳をすぎている。脳みその働きも、よくない。つまり私が本気で相手にし
なければならないような相手ではない。だから、瞬間的にはカチンときても、つぎの瞬間
には、笑ってすます。

私「あのバーさん、またやったよ」
ワ「放っておきなさいよ」
私「わかってる……」と。

 親といえども、けっして(親である)という立場に甘えてはいけない。親だって、1人
の人間。いつかその親も、1人の人間として、子どもに評価されるようになる。つまりそ
のとき、その評価に耐えられるような親であれば、それはそれでよし。そうでなければ、
そうでない。結局は、さみしい思いをするのは、親自身、つまりあなた自身である。

 ところで今、あの森Sが歌う、『おふくろさん』が、世間の話題になっている。何でも森
Sと、作詞家の間の関係が、険悪なものになっているという。ときどき、私はあの『おふ
くろさん』を、批評する。日本的な、実に日本的な歌であるという意味で、批評する。

 ここに書いたこととあまり関係ないかもしれないが、それについて書いた原稿を、ここ
に添付する。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

日本人の依存性を考えるとき
 
●森Sの『おくふろさん』

 森Sが歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。

日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは
日本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の
親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。

そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコ
ール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して
保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子
ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着は
もちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげ
たまま、教室に戻ってきたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。で
きないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助け
てくれるのだろう。

そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミ
ルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系
の家庭では、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ど
も」という考え方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいた
のだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話
に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないで
ね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立
させること」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなた
の子どもはどうだろうか。

依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それ
である。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすい
たア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強く
なると、こういう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森Sの歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさん
よ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背
後には、日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)

●夫婦別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれ
が顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のよ
うな世論調査結果を発表した(二〇〇一年)。それによると、同制度導入のための法律改正
に賛成するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査
(九六年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧
姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前
回五五・〇%)にあがったというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可
能性が高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族
の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一
体感が弱まる」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が六六・〇%
で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回った。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇
歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は六九・四%だった。なお夫婦別姓制度
導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓を名乗ることを
希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとどまったという。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●老人医療(終末期医療)

+++++++++++++++++

要するに政府は、

高齢者の医療費を、もうこれ以上、
負担できないということらしい。

はっきり言えば、お金がナ〜イ。

高齢者医療制度もそのひとつ。

75歳以上の高齢者でも、保険料を1割
負担するということになっているが、
実際には、そのお金は、家族が支払うこと
になる。

+++++++++++++++++

 母を介護してみて、いろいろ気がついた点がある。一見すばらしく見える制度だが、中
身は、矛盾だらけ。75歳以上の高齢者が1割支払うという、高齢者医療制度にしても、
結局は、その家族が支払うことになる。一方で老齢年金を受け取りながら、その一方で、
保険料を払う?

 さらに(流れ)をみると、負担増に苦しむ国が、抑制策に四苦八苦している姿が、浮か
びあがってくる。たとえば05年末に、政府は、突然、「介護病床を廃止する」と発表した。

 それまでは、高齢者の長期入院医療が可能だったが、それができなくなった。これにつ
いては、私も、「しかたない」と思っていた。どこの大病院も、長期入院を繰りかえす高齢
者で、あふれかえるようになったからである。つまり病院そのものが、行き場を失った高
齢者の養護施設のようになってしまった。

 しかし一律、廃止してしまったのも、どうかと思う。それまで38万床もあった、介護
保険、医療保険の適用病床が、15万床の医療病床だけになってしまった。つまり長期入
院を繰りかえしていた高齢者たちは、そのまま介護施設に移された。

 わかりやすく言えば、パンク状態だった医療保険を、国は、こうして救済した。さらに
わかりやすく言えば、国民に、医療保険と介護保険の2本立てで、負担を強いることによ
って、医療保険を救済した。

 つまりその分、国民は、負担増を強いられることになった。現に今、若い世代は、医療
保険と介護保険の、両方の保険料を、支払わねばならない。さらにここにきて、高齢者医
療制度である。

 一応建て前は、75歳以上の高齢者ということになっているが、実際に支払うのは、そ
の家族。私の家庭でいえば、私ということになる。その上、医療費の3割負担!

 要するに国は、こう言いたいのだ。「お金が、ナ〜イ」と。

 では、どうすればよいのか。

 私の母にしても、寝たきりの状態になるのは、時間の問題。そうなれば、私ではもう世
話はできない。特別擁護老人施設への入居ということになるが、それも簡単ではない。「緊
急性の高い人から入居できます」ということだが、言いかえると、「緊急性」とは、「終末
性」ということになる。

 死ぬ間際でないと、入居できないということらしい。つまり、「それまでは、在宅で世話
をしろ」と。

 施設で過ごさせるよりも、在宅で世話をしたほうが、高齢者にとってもよいことはわか
る。しかし在宅医療制度も、今、始まったばかり。在宅医療制度に対応した診療所にして
も、ひどいところ、たとえば富山県では、5000人につき1か所しかない。

 わかるか?
 
 75歳以上の高齢者5000人につき、1か所しかないのだぞ! どうやって、1か所
の診療所が、5000人もの高齢者のめんどうをみることができるというのか?

 これから先、ますます住みにくくなる、この日本。とくに私たちの世代は、そうだ。こ
の先のことを想像すると、ぞっとする。心暖かな家族に恵まれ、たがいに世話をしあうよ
うな家庭環境があれば、まだよい。しかし実際には、そういう家庭は、さがさなければ見
つからないほど、少ない。

 少し前にも書いたが、私たち高齢者が、社会の粗大ゴミになる時代は、すぐそこまでき
ている。

 どうすればいいのだ! どうしたらいいのだ!、と叫んだところで、この話はおしまい。
要するに、自分の老後は、自分で守るしかないということ。国なんて、まったく、アテに
ならない!

(補記)

 育児BLOGが、いつの間にか、老人介護BLOGになってしまった。おかしなことだ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝あれこれ

+++++++++++++++

昨日、上海株が、大暴落した。
9%前後の、大暴落だったという。
で、その影響を受けて、日本の
株価も、暴落。

が、一転、今日は、アメリカの
株価が、急反騰。……ということは、
日本の株価も、急反騰するはず?、
……と思って、3月1日の株価を
見ているが、動きが鈍い。

私のような素人では、理解しがい
何かが、起きている!

+++++++++++++++

 わかりやすく言えば、今、中国は、お金がジャブジャブの状態。そのお金が行き場を失
って、株式市場に流れこんでいる。中国における株価の上昇は、尋常ではない。それと同
時進行の形で、中国の外貨準備高が、2006年10月末現在で、1兆ドルを超えた。日
本を抜いて、世界一の規模を更新している。

 少し経済をおさらいしてみよう。

●流入する外貨

 中国には今、ぼう大な額の外貨が流入している。わかりやすく言えば、こうだ。

 もしあなたが手元に、100万円をもっていたとする。何か、投資に向くものをさがす。
そこで中国の人民元に目をつける。その100万円で、中国の人民元を買う。やがてその
人民元の価値があがることを知っているからだ。

 こうして世界中の人たちが、人民元を買う。それが外貨となって、どっと中国に流入す
る。

●ドルを買う中国人民銀行

 そのままにしておけば、人民元の価値は高まり、人民元の上昇をもたらす。が、人民元
が上昇すれば、中国にとっては、輸出に不利になる。05年度の外貨の増加分の約210
0億ドルのうち、約半分が、輸出によって稼いだお金である。

 ご存知のように、(100円ショップでもわかるように)、中国は安い製品を作って、そ
れで世界中からお金を稼ぎまくっている。

 そこで人民元の価値をあげないよう、中国人民銀行(=日本の日銀)は、ドルを買って、
人民元を下げようとする。繰りかえし市場介入をつづける。

 その結果、中国人民銀行には、ドルがたまる。そのまま外貨準備高となって、数字の上
に表れる。それが1兆ドル。

●人民元をなぜ、あげない

 ならば、人民元を元高にもっていけばよいのでは……ということになるが、中国では、
農村地区から、ぼう大な数の労働者が都市部に集まってきている。こうした人たちに仕事
を与えるためにも、中国は、最低でも、7〜10%程度の成長率を維持しなければならな
い。

 わかりやすく言えば、本来なら、1人分の給料を、10人の労働者に分けてでも、職場
を用意しなければならない。

 もし成長率がさがるようなことにでもなれば、こうした労働者を吸収できなくなる。と
たん、それは暴動に発展するかもしれない。中国政府は、それを恐れている。

●行き先を求めてさまよう外貨

 06年に1兆ドルを超えた外貨だが、中国とて、それをタンス預金しておくわけにはい
かない。つまりこのお金が、チャイナマネーとして、動き出している。具体的には、海外
での企業や資源の買収など。海外で土地(資産)を購入したり、海外での投資へと向って
いる。

 中国、恐るべし……ということになる。

●救済されるアメリカ

 一方、アメリカは、これまたぼう大な額の貿易赤字に苦しんでいる。その額、毎年、8
000億ドル前後。が、どっこい。この赤字額を埋め合わせるかのように、このアジアで
は、日本も含めて、輸出産業の競争力を維持するため、せっこら、せっこらと、ドルを買
いこんでいる。

 わかりやすく言えば、紙くず同然のドル紙幣を、みんなが買い支えている。

 こうしてアメリカとアジアは今、もちつ、もたれつの関係で、成りたっている。が、そ
れほど、基盤は、しっかりとしていない。ささいな(うわさ)だけで、株価が暴騰したり、
反対に暴落したりする。

 今回の上海株式の暴落は、そうして起きた。

●(金)価格の上昇

 要するに、アメリカもアジアも、マネーと呼ばれる札が、ジャブジャブの状態になって
いるということ。わかりやすく言えば、世界中の中央銀行が、フル回転で、札を増刷して
いるということ。

 が、紙は、紙。そんなものでは、燃料にもならない。食料にもならない。そこでそのお
金が、「金(きん)」へと向っている(?)。

 田中貴金属工業の貴金属相場によれば、去る2月27日、この10年間で、「金(きん)」
は、最高値のグラム2819円を記録している。

 その翌日の2月28日には、123円安という暴落を記録したが、今朝、再び、上昇に
転じた。3月1日の価格は、グラム、2737円。各国の中央銀行は、「金(きん)」を売
却しつづけているが、それ以上に、中国、さらにはインドでの需要のほうが大きいという
こと。

 このようにアジアの金融情勢は、今、めまぐるしく動いている。「この先、どうなるか…
…」ということよりも、「私たちは、どう資産を守り、ふやしていったらよいか」というこ
と。

 で、今朝は株価はどうなるかと、注視してみた。アメリカの株価が急反騰したから、(1
30ドル超の上昇)、日本も……と思っていたが、まったく予想ははずれた。日本の株価は、
昨日暴落した価格のまま。

 「?……」。

 そこで調べてみると、上海をのぞいて、韓国、香港、タイ。ジャカルタ市場ともに、み
な、値をさげているのがわかる。

 ……私には、理由がわからない……ということで、冒頭に書いた話にもどる。私には理
解しがたい、何かが、このアジアで起きている。

(付記)

 要するに、それだけたがいの不信感が強いということか。疑心暗鬼の世界で、株価だけ
が、勝手に乱高下しているといった感じ。


Hiroshi Hayashi+++++++++MAR.07+++++++++++はやし浩司

●あきれた話だが……

++++++++++++++++++

どこかの大学の教授が、不要ゴミを
川原に捨てて、逮捕された。

ある大学の法学部の教授だったという。
警察官に事情を聞かれたとき、「礼状は
あるか」と、それを拒否したという。

あきれた話だが……。

++++++++++++++++++

ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

『引っ越しの際に不要になったごみを、川岸に不法投棄したとして、広島県警広島北署は
27日、福岡県志摩町、広島S大法学部教授、松尾T憲容疑者(48)を、廃棄物処理法
違反容疑で逮捕した。容疑を認めているという。

 調べでは、松尾容疑者は、今年2月19日午後4時〜同5時半ごろ、広島市安佐南区沼
田町伴の奥畑川の岸に、車や徒歩などで数回にわたり、不要になった鍋や衣類、カーペッ
ト、書類などのごみ計67キロを投棄した疑い。

 松尾容疑者は民事訴訟法を専攻し、03年4月から同大に勤務。単身赴任で投棄現場近
くのアパートに住んでいたが、今年3月末で退職し、自宅のある福岡県に引っ越しをする
作業をしていた。

松尾容疑者はごみを捨てる姿を近所の住民に目撃されており、同署が事情を聴こうとした
ところ、「令状はあるのか」と拒否。そのまま福岡県に転居していたという』と。

++++++++++++++++++++

 こうしたエッセーでは、実名を出さないことにしているが、あまりにもあきれた事件な
ので、実名をそのまま載せることにした。

 「法学部の教授がねえ?」というのが、率直な感想だが、世は、インターネット時代。「松
雄T憲」で検索すると、150近い検索結果が出てきた。というのも、法学部の教授とい
っても、いろいろなタイプがある。

 純粋に学者畑を歩いて教授になった人もいれば、法曹(弁護士、検事)を経て、教授に
なった人もいる。松雄なる教授は、有斐閣という、法律の専門書を出版する出版社から、
何冊かの専門書を出している。学者畑を歩いてなった教授のようである。

 あまりにもあきれた事件なので、これ以上のコメントのしようがない。ないが、これを
読んだとき、ムラムラと大きな怒りを私は覚えた。つい先日も、私の家の横の空き地に、
ダブルベットを放棄していった人がいた。その処分をするのに、私とワイフで、3、4時
間もかかった。こういうのを心理学の世界でも、「同一視」という。「転移」でもよい。『坊
主、憎ければ、袈裟まで憎い』という、それである。

 今でも、夜中にこっそりやってきて、大きなゴミを捨てていく人は絶えない。物干し台
や、自転車など。少し前には、車を捨てていった人もいた! この記事を読んだとき、そ
のとき覚えた怒りが、そのままムラムラと起きてきた。

 が、さらにあきれるのは、警察官が事情を聞こうとしたところ、「礼状はあるか」と、そ
れを拒否した点。

 いるいる……こういう権威主義者! バカ者! 広島ではなく、福岡で逮捕されたとい
うことだから、一応、福岡まで、逃げていったらしい。

 法律家の法律知らずとは、まさに松雄教授のような人間をいう。このタイプの人間は、
常識でものを考える前に、「まず、法律ありき」という考え方をする。わかりやすく言えば、
法律家として、失格。こういう人間が、法学部の教授として、教壇に立っていたかと思う
と、ぞっとする。

 で、もうひとつ、インターネットのこわいところ。こうして実名が報道され、あちこち
で記事が引用されると、「松雄T憲」という名前は、ほぼ永遠に、そのまま残ってしまうと
いうこと。「松雄T憲、ゴミの不法投棄で逮捕」と。つまり法律家としての彼の生命は、そ
れで終わり。

 便利な世の中になったが、考えてみれば、これも、恐ろしい話ではないか。昔は、『人の
うわさも、45日』と言った。今は、永遠。

(補記)
 私はちゃんと、「松雄T憲」と、名前を伏せたぞ!


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                  
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================











戻る
戻る