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2007年 6月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 29日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●学力

+++++++++++++

子どもの学力は、
現在、どの程度なのか?

+++++++++++++

 先日の新聞にも、子どもの学力についての投書が載っていた。どこかの学習塾で講師のア
ルバ
イトをしている大学院生のものだが、「基礎学力の低下予想以上に深刻」(Y新聞朝刊)と。「ま
ず驚いたのが、中学生でも掛け算の九九を完全にマスターしていない生徒が散見されること
だ」
そうだ。

 実際、子どもたちの学力の低下には、ものすごいものがある。少し前も、小学5年生に、公倍
数と公約数を教えたが、(今ではこの単元は、小学6年の2学期に学ぶことになっている)、掛
け算の九九があやしい子どもが、20%近くもいる。「三・九、24」(本当は、三・九、27)
と平気で言ったりする。

小学二年で、掛け算の九九を勉強したから、以後、子どもたちが掛け算の九九はできるように
なったハズと考えるのは、まったくの誤解。幻想。5年生だから、掛け算の九九ができるハズ
と考えるのも、まったくの誤解。幻想。

以前、掛け算の九九がまだできない中学生が、15〜20%もいるという話を聞いたことがあ
る※。私の実感でも、それくらいはいる。(ただ、どの程度をできる、どの程度をできないと
いうか、その判断の基準がむずかしい。)

 話は変わるが、私はこの35年間、何らかの形で、英語とは深いつながりをもって生きてき
た。
そういう自分を振り返っても、30歳以後に覚えた単語は、ほとんど記憶に残っていない。覚え
るには覚えるのだが、すぐ忘れてしまう。反対に20歳前後に覚えた単語は、今でもしっかりと
頭の中に残っている。

しかしこれは私という、「おとな」の話。脳細胞の老化現象が原因だという。その老化現象に
似た現象が、子どもでも起きている?

 そこで改めて調査してみた。もともと私の教室へきている子どもたちは、教育環境的にはレ

ルの高い子どもが多い。しかしそんな子どもでも、小学3年生で、約20%は、掛け算がまだあ
やしい。掛け算の九九は何とか言えても、「三・八?」と聞いたとき、とっさには答えられない
子どもも含めると、もっと多い。

多くの親たちは、「うちの子は小学2年のときには、掛け算の九九がスラスラと言えたから、
もう掛け算はマスターしたはず」と考える。しかしこれも誤解。幻想。今の子どもたちは、数
か月もすると、学んだことそのものまで忘れてしまう。つまりそれだけ覚え方が浅い? 脳に
きざまれていない? それとも老化現象に似た現象がすでに始まっている? 理由はよくわ
からないが、ともかくも、そういうことだ。

 しかし、だ。これはほんの一例にすぎない。今、あらゆる面で、子どもの学力は低下してい
る。
知識や、知力だけではない。「自ら学ぶ力」そのものまで低下している。言われたことや、教え
られたことはきちんとできるが、その範囲をはずれると、まったくできない。考えようともしな
い。先のクラスでも、最後に私はこんな問題を出してみた。

 「30から50までの中に、3と5の公倍数はいくつあるか」と。10人の子どもがいたが、
何とか、考えるそぶりを見せたのは、たったの1人。あとは、「そんな問題、知らない」「解き
方を学んでいない」「めんどくさい」と、問題そのものを投げ出してしまった。

公倍数など、どうでもよいといった様子を見せた子どももいる。言いかえると、今、子どもに
教えるとき、その動機づけをどうするかが大切。ここをいいかげんにすますと、教える割には、
効果がない。……などなど。

 話が三段跳びで飛躍するが、こうした学力低下の背景にあるのは、結局は、飽食とぜいたく

中で、子どもを甘やかしてしまったこと。「腹、減ったア!」と叫べば、みなが何とかしてくれ
る。それと同じように、「わからなイ〜」「この問題、解けないイ〜」と叫べば、みなが何とか
してくれる。そういう環境の中で、子どもたち自身が、自分を見失ってしまった。

 もっともオーストラリアあたりでは、中学1年で、2桁かける2桁の掛け算を学んでいる。日
本では小学三年生のレベル(01年度までの旧学習指導要領)。掛け算の九九ができないから

いって、教育水準が低いということにはならない。

 しかしオーストラリアのばあいは、科目数そのものが多い。どこのグラマースクール(中高一
貫寄宿学校)でも、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、
日本語の五つの言語の中から選択できるし、芸術にしても、音楽、ドラマ、絵画などが、それぞ
れ独立した科目になっている。

環境保護の科目もあれば、キャンピングという科目もある。もちろんコンピュータという科目
もある。数学は、日本と違って、あくまでも教科の一部でしかない。つまりそういう違いも考
慮すると、やはり日本の子どもたちの学力の低下は異常である。
(02−9−18)※
 
※(参考)……東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。
教授
が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、

小学6年生で、80・8%から、61・7%に低下。
分数の割り算は、90・7%から66・5%に低下。
小数の掛け算は、77・2%から70・2%に低下。
たしざんと掛け算の混合計算は、38・3%から32・8%に低下。
全体として、68・9%から57・7%に低下している(同じ問題で調査)、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力
 
子供の学力 学力低下)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】

●日本の教育をゆがめる元凶

++++++++++++

日本の教育システムは、
明らかにおかしい。

しかしそれに対して、
だれも声をあげない。

これもまた、おかしい。

++++++++++++

 「頭がよい」ということと、「勉強ができる」ということは、別。概して言えば、「勉強がで
きる子どもは、頭がいい」。しかし勉強ができる子どもでも、頭が悪い子どもはいくらでもいる。
頭がよくても、勉強ができない子どもは、もっといくらでもいる。

 しかしこの日本では、人生の入り口では、勉強ができたほうが、絶対に得! 一度出世のエ

カレーターに乗れば、あとは自動的に楽な道を歩むことができる。この不公平感が、結局は、

験競争の温床になり、教育をゆがめている。

 自分の二男のことをここに書くのは少し気が引けるが、しかし正直に書く。私の二男は一級

頭脳をもっていた。超一級といってもよい。親バカとしてではなく、一人の教育家として、私は
そう見ていた。しかし中学二年のとき、受験勉強そのものを放棄してしまった。

「パパ、くだらないよ」と。

ほとんど勉強らしい勉強などしたことがなかったが、それでも県内のトップ高校(こういう言
い方自体、不愉快だが……)へ入る力をもっていた。その二男が、受験勉強を放棄したいきさ
つはいろいろあった。それはそれとして、結果的にそうなった。私は、迷いはあったが、二男
を支持した。「お前がそう判断するなら、それはそうだ」と。私は二男の力が、受験勉強をは
るかに超えていることを知っていた。

 で、彼は近くの高校を選んだ。市内でも、A、B、C、Dのランクで言えば、Dランクの高校
である。ワイフは「何もそこまで落とさなくても……」と絶句したが、二男はそういう子どもだ
った。「そのときになったら、勉強するよ。どこの高校でも同じだから……」と。私はそうは思
わなかったが、二男のその言葉を信ずるしかなかった。

 が、入学直後から、二男にとっては失望の連続だったらしい。進学校と教科書そのものが違

ていた。二男はそれにショックを受けた。そしてしばらく通ううち、レベルの低さもさることな
がら、勉強するという雰囲気そのものがないことを知った。二男だけがひとり、仲間から浮いて
しまった。と、同時に、二男も勉強しなくなってしまった。

 高校時代の二男は、まあ、俗な言葉で言えば、遊びほけた。好き勝手なことをして過ごした。
バンドを組んだり、文化祭の実行委員長をしたり。ワンゲル部で、全国の山々を歩いたりした。
高校三年生のときは、たったひとりで、北海道を一周したりもした。

が、いよいよ進学というときになったときのこと。もちろん成績は、その程度。「どこか国立
を……」と私は願ったが、何とか入れそうな国立大学は、I県のI大学しかなかった。もとも
と、国立大学へ進学する子どもは、数年に一人いるかいないかというような高校である。しか
も入れそうなのは、「哲学科」? 私が認める二男の能力は、数理的な能力である。その二男
が哲学科? 模擬試験の偏差値で判断すると、そういうことになった。

 そこで私は二男に、アメリカ留学をすすめた。アメリカ人の知人が、勧めてくれたこともある。
で、私は二男をアメリカへ送ることにした。彼も行く気になっていた。が、私は内心、「どうせ、
1、2年で帰ってくるだろう」と思っていた。

高校からアメリカの大学へ行ったところで、まず言葉のカベがある。ふつうのアメリカの高校
生でも、学位をとってアメリカの大学を卒業することはむすかしい。いわんや、日本の高校生
を、や。まあ、私としては、二男のやりたいようにさせてやるのが一番というような、軽い気
持ちだった。

 が、アメリカへ行ってからの二男は、変わった。当時の二男を直接知るわけではないが、二

が言うには、「狂ったように勉強した」とのこと。で、3年目に、私立大学から、より高度な勉
強を求めて、州立大学に転籍。4年間で、その州立大学で学位を取って卒業した。それもアメ

カでもむずかしいとされる、コンピュータ科学の学位。01年の5月のことである。

 私はその二男を今、頭の中で思い浮かべながら、日本の教育システムの欠陥を、改めて思
い知
らされている。ときどき「もし二男が、あのまま日本のどこかの専門学校か、私立大学へ入って
いたら、今ごろ二男はどうなっていたか」と。おそらくもてる才能を伸ばす機会もなく、またそ
の才能を発揮することもなく、そこそこの人間になっていただろう、と。

少なくとも日本の教育システムの中では、大学入試までで、その人の人生の道筋(コース)は
決まってしまう。それ以後、多少がんばったところで、その道筋を変えることはできない。い
くら能力と才能があっても、だ。しかしこういうしくみの中で、それほど苦労しないでも、の
んきな生活ができる人が生まれる一方、そのしくみの中で、苦労に苦労を重ねても、きびしい
生活を強いられる人も生まれるということだ。しかしこういうしくみこそが、日本の教育をゆ
がめる元凶になっている。

 二男が「アメリカで仕事をしたい」と言ったとき、私はもうそれに返す言葉がなかった。その
とき、二男は、日本そのものに失望していたと思う。今でもときどきこう言う。「日本の教育制
度はおかしい」と。 

二男のホームページ……はやし浩司のサイトのトップページから、どうぞ!


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●子どもが好き?

++++++++++++++

好きか、嫌いかと聞かれれば、
私は「嫌いではない」と答える
ことにしている。

++++++++++++++

 幼児教育をしているから、幼児が好きということにはならない。そこで私は、正直に書く。私
はある時期は、毎日、数100人の幼児に接していたことがある。今でも、いろいろな場面で、
毎日幼児と接している。

そういう立場でいうと、仕事がオフのときには、幼児の顔はできるだけ見ないようにしている。
たとえば電車で旅に出たようなとき、前の席に幼児が座ると、私は席をかえる。幼児を、ある
意味で、どうしても専門的な目で見てしまうからだ。気になってしかたない。落ちつかない。
 
 私のそういう気持ちは、たとえて言うなら、うな丼屋のオヤジのようなものではないかと思う。
浜松でも1、2を争ううな丼屋のオヤジが昔、こう言った。「私はうな丼はまったく食べません」
と。こんな話もある。

 浜松の郊外に、大きな医療病院がある。その病院で、外科部長をしているドクターの息子
(高
校生)に英語を教えていたときのこと。私はある日、ふとその高校生にこう聞いた。「君のお父
さんは、担当の患者さんが急変したら、夜中でも病院へとんでいくのか?」と。

私は「たいへんな仕事だろうな」という気持ちで、そう聞いた。するとその高校生は、「いい
や」と。驚いて、「じゃあ、どうするのか?」と聞くと、「たいてい居留守をつかう」と。「昼
だったら、学会へ行っているとか何とか、ウソをつくこともある」とも。

さらに驚いていると、その高校生はこう言った。「もし夜中に病院へ行くようなことをしてい
れば、翌日の手術にさしさわりがでる。手術では失敗は許されない」と。私はそこまで聞いて、
「さすが、プロだなあ」と、今度は一転、感心した。

 子ども、とくに幼児というのは、そもそも好きになる存在ではない。うるさいし、騒々しい。
私は幼児教育をして、もう30年以上になるが、その幼児教育でいちばんつまらないのは、人

関係ができないこと。その点、高校の先生や大学の先生は、うらやましい。いわゆるおとな対

となの関係をつくることができる。しかし幼児教育には、それがない。ないから、教えるとして
も、いつも一方的なもの。人間関係も、いつも一方的なもの。

この一方性が、幼児教育をつまらないものにしている。いかにその子どもで苦労をしても、離
れるときが、別れるとき。親に感謝されることはあっても、子どもの側からはない。

 さて、ここで暴露する。私も無数の幼稚園の教師や園長に会ってきたが、どの人もみな、「私
は幼児が好きです」と言う。そう言わなければ、仕事が成りたたないからだ。しかしここにも書
いたように、「好き」ということは、ありえない。あえて言えば、「嫌いではない」ということ
か。それなら話がわかる。

幼児の世話をしながらも、それが苦にならない。幼児と接していると、気が晴れる。幼児に教
えていると、笑いが絶えない。だから嫌いではない、と。実のところ私もそうだ。好きではな
いが、嫌いでもない。だから幼児教育ができる?

 ただしこういうことはある。何らかの理由で、1〜2週間も幼児から離れていると、無性に幼
児に会いたくなる。あるいは久しぶりに幼児の声を聞いたりすると、ほっとする。

(追記)
 私が幼児教育の世界にスンナリと入ることができたのは、自分自身の子ども時代と大きく関

していると思う。私は小学校の4、5年生まで、お山の大将として、子どもたちの世界に君臨し
ていた。いつも近くの山の中を歩くときは、年少の子どもたちを子分にして歩いていた。

年齢的には5、6歳から小学3、4年生くらいの子どもたちだった。今でも幼児に接している
と、ときどき、そういう親分的な感覚が、ふと戻ってくるときがある。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●子どもの臭い

+++++++++++++

子どもにとって居心地のよい
世界とは?

そんな視点で、こんなエッセーを
書いた。

+++++++++++++

 子どもは、あらゆるいたずらが好き。そのいたずらは、いわば心のユーモア。そのユーモア

子どもを伸ばす。

そのひとつが落書き。子どもはあらゆる場所に落書きをする。私は、その子どもの落書きに
は、
さんざん手を焼いた。注意しても、しかっても一向に減らない。そこで方針を変えた。

 落書きコーナーをあちこちに作った。教室で渡す私製のノートにも、落書きコーナーを作っ
た。
ほかに机とデスクパッドの間にも、それぞれ画用紙をはさみ込み、それにも落書きコーナーを

った。

とくに効果的だったのは、ここでいう画用紙だった。一応表向きは落書きをしてはいけないと
は言っていたが、それは表向き。子どもたちは、その画用紙に自由に落書きをした。おかげ
で、
ほかの場所への落書きは、まったくといってよいほど、なくなった。

 これは子どもを指導するときのコツだが、押してダメなら、思いきって引いてみる。(あるい
はその反対でもよい。)そこで私は考えた。「〜〜をしてはダメ」と禁止命令ばかり出している
と、子どもの心は萎縮する。そこでさらに私は考えた。「子どもの臭い」。

 ずいぶん前だが、私は、不登校で悩んでいる親の家を訪れて、「おかしい」と思ったことがあ
る。大きな家で、大きな居間があったが、その居間のどこにも、子どもの臭いがしなかった。す
べてがきれいに片づいていた。が、それ以上に「アレッ」と思ったのは、子どものものがどこに
もなかったこと。

ふつう子どものいる家庭では、あちこちに子どものものがゴロゴロしているもの。しかしそれ
がない? そのときはそれで終わってしまったが、今から思い出すと、あの家の中には、子ど
もの居場所がなかったのではないか。もちろんそれが不登校の原因とは言わないが、何らか

形で、関連していたことは、じゅうぶん考えられる。

 同じように、保育園でも幼稚園でも、よい園では、子どもの臭いがプンプンする。あちこちに
子どもの残したシミのようなものがあって、それが全体として、温もりのあるものにする。

しかし中には、まるで、どこかの病棟のように、まったく子どもの臭いのしない園もある。す
べてがピカピカに磨かれていて、落書きどころか、シミ一つ、ない。一見、清潔で、過ごしや
すく見えるかもしれないが、それは本来あるべき子どもの世界ではない。またそういう園へ子
どもをやれば……? 

この先は立場上、書けないが、私なら、そういう園へは子どもをやらない。短い期間ならとも
かくも、1年も2年も通わせれば、子どもの心は、まちがいなく萎縮する。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時間とは何か?】(時間性の問題)

+++++++++++++++

もうあれから30年以上になる。
私は市内のパソコンショップで、
コモドール社のPET2000という
パソコンを買った。

世界ではじめて作られたパソコンで
ある。値段は、当時のお金で、32
〜33万円もした。

あのビル・ゲーツも、同じころ、
同じパソコンを使っていたという。

私はそのパソコンで、二次曲線を描いて
遊んでいた。

二次曲線といっても、黒い画面に、白い
点で、ポツポツと点を描いていくだけ。
そのポツポツと描いた点が、やがて
二次曲線になった。

私はその動きを、いつまでもじっと
ながめていた。それが楽しかった。

+++++++++++++++

●フェムト秒

++++++++++++++

フェムト秒という単位を
知っているだろうか?

1秒を、10の15乗で割った
短い時間を、1フェムト秒と
いう。

++++++++++++++

 フェムト秒という、時間の単位を知っているだろうか? 1秒を、10の15乗で割った短い
時間を、1フェムト秒という。わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というの
は、10の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。

反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒と
いうのは、この地球上では、3100万年分に相当する。(3100万年だぞ!) 数字を見
ただけで、気が遠くなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。(私が計算した
数字なので、まちがっているかもしれない。必要な方は、自分で計算してみたらよい。)

 現在では、そのフェムト秒単位で、分子の動きを追いかけたり、観察することができるように
なったという。このことを逆に考えると、分子の世界では、フェムト秒単位で、ものごとが動い
ているということになる。

 話はずっと飛躍するかもしれないが、こうして考えてみると、私たちが考えている(時間の概
念)ほど、アテにならないものはないということになる。私たちがいう1時間、1分、1秒とい
うのは、それはあくまでも人間が日常生活の中で感ずる概念でしかない。

 たとえば私たちが感ずる1秒という時間の間に、分子の世界では、3100万年に相当する時
間が流れている。極端な言い方をすれば、そういうことになる。

 こうした時間の概念に、哲学的な視点からメスを入れたのが、あのマルティン・ハイデガー(1
889〜1986)である。彼が書いた『存在と時間』(1927年)は、ヘーゲルの書いた『精
神現象学』と並んで、哲学の世界では、最重要文書の一つに考えられている。

 ハイデガーによれば、人間そのものが、時間性をもっているということになる。つまり私たち
は、時間の中で生きているのではなく、生きていること自体が、(時間)であるということにな
る。ハイデガーは、それを「死」と結びつけて考えた。「私たちが存在には、常に死が張りつい
ている」と。

 このことは、介護施設にいる老人たちを見ていると、わかる。昨日も母を見舞うついでに、デ
イ・サービスを受けている老人たちの部屋を見た。老人たちは、小さな紙に、ぬり絵をしてい
た。

 小さな紙である。そこに何匹かの動物が描かれていて、老人たちは、それに色を塗ってい
た。
それは恐ろしくのんびりとした世界であった。私なら、数分もあれば、色を塗ってしまうだろう。
そういうぬり絵を、1時間とか、あるいは2時間とか、そんな時間をかけて、塗る。

 それは私にとっては、衝撃的な光景でもあった。私の世界では、つまり私が見慣れた世界で
は、
時間と私は別のものである。朝、6時に起きる。朝、7時に朝食をとる。朝、8時に散歩に出か
ける。

 しかし老人たちの世界では、私の世界とはまったく別の時間が働いている! 働いていると

うより、老人たちは老人たちの時間の中で、生きている。ということは、同時に、私たちもまた、
私たちの時間の中で生きているということになる。

 私たちがもつ時間は、決して絶対的なものではない。そのことは反対に、子どもたちの世界

のぞいてみると、わかる。子どもたちは、子どもたちの時間の中で生きている。頭の回転も速
い。
気分の転換も速い。

 単純に考えれば、つまりあまりにも常識的に考えれば、子どもたちの頭の回転は速く、老人

ちの頭の回転は、遅いということになる。しかしこうした見方は、あまりにも(作られた常識)
でしかない。「そこにものが見えるから、ある」と考えるのと同じくらい、単純な常識というこ
とになる。

 「単純」というのは、「あまりにも表面的な」という意味である。

 そこでハイデガーがヒントを与えてくれたように、「生きていること自体に、時間性がある」
と考えてみる。そうすると、ものの考え方が一変する。わかりやすく言えば、「生きていること
自体が、時間」ということになる。

 たとえばもう一度、デイ・サービスを受けている老人たちをながめてみよう。その老人たちは、
その老人たちの時間性の中で生きている。私たちからすれば、恐ろしくのんびりとした世界に

えるかもしれない。が、老人たちは老人たちの時間の中で生きているから、自分では、決して、
のんびりしているとは思っていないはず。

 ひょっとしたら、そんなぬり絵をしながらも、「忙しい」と思っているかもしれない。

 この時間性は、加齢とともに、さらに長く、間がのびたものになる。その間がのびきったとき、
人は、「死」を迎える。つまり死などというものは、ある日突然やってくるものではない。それ
ぞれのもつ時間性が、のびきったとき、死がやってくる。言いかえると、老人たちは老人たちで
生きているつもりかもしれないが、すでに限りなく死に近づいているということになる。

 わかりにくい話になってしまったが、極端な例として、こう考えてみるとよい。

 もし私たちがフェムト秒単位で生きることができるとしたら、私たちは、この世界でいうとこ
ろの1秒で、3100万年分の人生を送ることができる。この世界で1秒といえば、瞬間だが、
しかし中身は3100万年分。恐竜の時代にまでは届かないが、人間が小さな哺乳動物だった

代からの人生を生きることができる。

 どちらの人生が長いかということになれば、たとえこの世界で1秒という時間ではあっても、
この世界で100年生きた人よりも、はるかに長く生きることになる。

 そこでまたまた話は飛躍するが、「生きることは時間性の問題である」と考えていくと、「生
きることは、時間との闘いである」ということにもなる。もっとわかりやすく言えば、「私たち
の張りついた死」(ハイデガー)という限界状況の中で、いかに、その死と闘いながら生きてい
くかということ。

 つまりそこに人間の生きる意味がある。さらにさらにわかりやすく言えば、だらだらと、だら
しない人生を生きたところで、そういう生き方には、意味はないということ。意味はないと言い
切るのは正しくないかもしれないが、それに近い。それこそ与えられた命を、無駄にして生きる
ことになる。

 1フェムト秒単位で生きることは無理であるとしても、同じ1秒を、1分、あるいは10分に
拡大して生きることは可能である。ばあいによっては、1時間に拡大することもできる。

「生きていること自体に、時間性がある」という意味がわかってもらえれえば、うれしい。
(2007年6月15日記・(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 
子育て はやし浩司 時間性 生きることの時間性 ハイデガー)

+++++++++++

02年(5年前)の9
月に書いた原稿を添付
します。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジ
ョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノー
ベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 

今は固体表面に吸着した分子1個1個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起

させたり、フェムト秒単位(1秒を10で15回繰り返して割った短い時間)で、その挙動を
追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェム
ト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。ただ、
(1)の分子を見ることについては、もう20年前から技術的に可能という話は聞いていたの
で、「へえ」という驚きでしかなかった。

しかし「フェムト秒単位の観察」というのには驚いた。わかりやすく言うと、つまり計算上で
は、一フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。反
対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒とい
うのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなる
が、一フェムト秒というのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察
できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考
えざるをえなくなってしまう。もし人間が、一フェムト秒を、一秒にして生きることができた
ら、そのたった一秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だった。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ

ガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球の

間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年もかか
る。
しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆっく

と動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然に動いて

ると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、

まりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上の
人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、
カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、
もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100
万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、い
つ、どのようにして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし

それに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでいう
時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。

たとえばロケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。しかしその宇宙の果てに近
づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っている人の動きは、(た
とえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくなる。地球の人間が、一
回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す……、あるいは数千回も
世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほ
んのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。私のような素人でもわかる
ことは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人間にあてはめてみると、よ
くわかる。

たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にするこ
とができる人がいる。反対に10年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわか
りやすく言うと、不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その1年
を、ほかの人の30年分、40年分に生きることも可能だということ。

反対に、「平均寿命まで、あと30年。あと30年は生きられる」と言われながらも、その3
0年を、ほかの人の数日分にしか生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、
そういうものらしい。いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それ
ぞれ3100万年分の人生を送ることができたらと思う。

もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、
たったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと
30年と計算して)、あと60年分、生きることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児
が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間
の単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる一秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日
でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもし
れない。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(6月14日)

+++++++++++++++

やっと6月29日号に追いついた!
苦しい戦いだった。

今朝から、マガジンの6月29日号の
原稿を書く。

遅れること、約14日。本来なら、
今日あたりは、7月16日号のマガジン用
の原稿を書いていなければならない。

+++++++++++++++

 私はマガジン用の原稿は、約1か月前に書くようにしている。安定して、読者のみなさんに、
マガジンを届けるためである。直前になって、バタバタとするのは、いやだ。よい原稿(?)も
書けない。

 が、この1か月、いろいろあった。忙しかった。やる気をなくす事件も、いくつか重なった。
丸1週間、ほとんど原稿を書かない日もあった。

 で、昨日、6月27日号の配信予約をすませた。そんなわけで、今朝から、6月29日号の原
稿を書く。(よかった!)

 だれかのために書くのではない。私自身のために書く。私自身のボケ防止のために書く。こ

は私の頭のジョギングのようなもの。

 しかし遅れること、14日。本来なら、今日あたりは、7月14日号の原稿を書いていなけれ
ばならない。(今日は6月14日だから。)がんばろう! がんばります! 1000号まで、
あと100号と少し!


●はげしい雨

 今朝は、雨戸をたたきつける激しい雨で、目がさめた。昨夜、仕事から帰ってきて、畑に水を
まいた。そんな自分が、バカに見えた。横で寝ているワイフに、「昨日、畑に水をまいて、損し
ちゃった」と話すと、「そうね」と答えた。

 おかげで、今朝は涼しい。このところ毎日、1〜2時間、汗をかいている。そのせいか、体も
軽い。


●畑の収穫

 ところで少しずつだが、畑での収穫も始まった。昨日は、ナスが一個、収穫できた。その前
は、
ピーマンが数個。ネギも収穫期を迎えつつある。あとは、サヤエンドウ。

 そのサヤエンドウだが、田舎の八百屋へ行ったら、ワンパック、100円で売っていた! た
しか苗を120円で買ってきたはず。その苗からは、今のところ、5〜6個しか収穫できていな
い。そのパックを見たとき、自分のしていることが、バカに思えた。

 しかし家庭菜園は、お金ではない。育てる楽しみだ。……とまあ、そう言って、自分をなぐさ
めた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●無価値という恐怖(PART2)

+++++++++++

何がこわいかといって、
自分が無価値と思うことほど、
恐ろしいことはない。

だれからも相手にされず、
だれにも愛されず、
だれにも理解されず、という
恐怖である。

+++++++++++

 自分が無価値と思うとき感ずる恐怖ほど、恐ろしいものはない。それは腹の底から、身をえ

られるような恐怖と言ってもよい。生きる意味もない。生きる目的もない。生きる支えもない。
自分を理解してくれる人もいなければ、生きるための人もいない。

仏教では、孤独を無間地獄のひとつにあげているが、この恐怖も、ひょっとしたら、孤独と同
じくらい恐ろしいものかもしれない。いくら「私は私だ」と言ったところで、人は他者とのか
かわりをもってはじめて、人でいられる。かかわりがなかったら、人は人でなくなってしまう。
それがわからなければ、こんな世界を想像してみればよい。

 その惑星は、犬族が支配する惑星である。簡単な言葉(ワンワンとか、ワォーワォーとか、そ
ういう言葉)しかなく、もちろん文字も文化もない。そういう世界にあなたひとりだけが落とさ
れ、その世界で住むようになったとする。

いくらあなたが犬族の王であったとしても、また数億匹の犬があなたの従ったとしても、あな
たは決して心の満足感を得られないだろう。そればかりか、その孤独と恐怖の中で、狂い死に
するかもしれない。

いや、私もときどき、たとえばタイムトンネルか何かで、数億年前の恐竜時代にタイムスリッ
プしたらどうなるかと考える。想像するのは好きだから、いろいろ考えるが、こういう想像だ
けは、すぐやめてしまう。ぞっとするような恐怖感を覚えるからだ。

 実は私は、それに似た恐怖感を、最近覚えた。昨年、アメリカへ行ったときのことだ。私とワ
イフは、テキサス州のとなりのアーカンソー州というところへ行った。日本人でアーカンソー州
がどこにあるかを知っている人は少ない。

しかしそれと同じくらい、あのアーカンソー州あたりまで行くと、日本がどこにあるか知って
いる人は、ほとんどいない。大学生でも少ない。それはちょうど日本の大学生に、イタリアや
ギリシャがどこにあるかを聞くようなものだ。最近では、アメリカやロシアがどこにあるかさ
え知らない大学生も少なくないという。日本を知らないからといって、アメリカの大学生を一
方的に笑うことはできない。

 そんなわけであのあたりまで行くと、さすが、日本の「ニ」の字もない。臭いすらない。日本
製の車はたくさん走っているが、それが日本製と知っているのは、日本人くらいなもの。ホンダ
にしてもトヨタにしても、彼らはアメリカの車だと思っている。そういう世界にポツンと立たさ
れると、「いったい、自分は何か」とさえ思ってしまう。

心の中で、「私はアジア人だ」「私は日本人だ」といくら叫んでも、その叫び声もそのままど
こかへ消えてしまう。地位や肩書きがあれば、まだ日本という「国」にぶらさがって、「私は
○○部長だ」「私は○○課長だ」と、言えるかもしれない。が、それもない。体格が小さいこ
ともある。レストランへ入って、ほかの客にジロリとにらまれたりすると、それだけでその世
界から拒絶されたかのように感ずる。

 そういう世界では、私がもつ思想や知識、才能など、一片の価値もない。「文を書くのは得意
だ」といくら思っても、それは日本での話。日本語を理解する人すらいない。私はアメリカに滞
在する間、しばしば、こう思った。「こういう世界で、自分の書いた文章が新聞に載せてもらえ
るようになるには、10年、あるいは20年かかるだろうな」と。つまりそれくらい、遠い「距
離」を感じた。

 考えてみればアメリカから見る日本は、本当にちっぽけな国だ。あのテキサス州だけでも、日
本の2倍の広さがある。広さだけで比較するなら、アメリカから見る日本は、日本から見る佐渡
島程度? しかも海の向こうにある佐渡島? そうは思いたくなくても、日本は所詮(しょせ
ん)、
極東の島国。

が、それにしても、アメリカに立つと、どうしてこうまで自分が小さく見えるのか? どうし
てこうまで無力な人間に見えるのか?

 そのとき私は、「自分が無価値と思うとき感ずる恐怖」を味わった。が、それに抵抗しなかっ
たわけではない。私はまず、どんな仕事ならできるかを考えた。しかしアメリカで通用する資格
など、一つもない。日本の大学で得た学位など、まったく意味がない。いくら英語が得意といっ
ても、アメリカ人から見れば、何も話せないに等しい。

「日本レストランの店員くらいならできるかも……」と思ったが、しかし50歳を過ぎた私な
ど、雇ってくれるところもないだろう。だいたい日本レストランといっても、州都のリトルロ
ックにさえ、数軒しかない。肉体労働にいたっては、考えるだけヤボ。

あのあたりには、身長が2メートル近い大男がゴロゴロしている。「こういう国で病気になっ
たら、それでおしまい」と、何度もそう思った。あるいはホームレス? のたれ死に? そう
思うのは実のところ、ぞっとするほど恐ろしいことだった。

 私たちは結局は、何らかの価値を自分で見つけながら、生きている。生きる意味といっても

い。それをさがしながら生きている。言いかえると、それがないときの恐怖を知っているから、
自分で見つけたり、さがしたりする。生きるということは、結局はそういうことかもしれない。
それはちょうど死の恐怖があるから、生きることを大切にすることに似ている。

 何ともわけのわからない文章になってしまったが、最後に、こういうことだけは言える。

生きる目的にせよ、生きる意味にせよ、人は人とのつながりの中でさがし求めていくもの。向
こうからやってくるものではない。自分からさがし、自分でつくり、自分で育てていくもの。
生きる価値もそこから生まれる。

さあて、今日もその恐怖と戦うか!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●BDA問題(6月15日朝記)

+++++++++++++

マカオのBDA銀行にあった、
K国資金が、やっと、その銀行から
離れた。どこかへ送金された。

しかしこれで、BDA問題は、
本当に解決したと言えるのか?

K国自身は、それで満足する
のか?

+++++++++++++

 マカオのBDA銀行にあったK国の資金が、やっとその銀行から離れた。ロシアのロシア極東
銀行という銀行に送金された。いろいろルートをたどってみると、おおむね、つぎのルートにそ
って、その銀行に資金が移されたという。

  K国資金は、(1)まずマカオ金融監督局が指定した口座に送金される。 (2)金融監督
局はこの資金を、マカオのポルトガル系銀行の大西洋銀行に送る。 (3)K国資金は電信為替
(TT)形態に変わり、米国のニューヨーク連邦準備銀行に伝えられる。 (4)この資金はま
たロシア中央銀行に移されたあと、ロシア極東商業銀行にある、朝鮮貿易銀行名義のK国口
座に
送金されることになるということらしい(BDA側の説明)。

 しかしこれで、本当にBDA問題は、解決したと言えるのか? K国自身は、本当にそれで満
足するのか?

 K国資金は、マカオのBDA銀行から、ロシアの極東商業銀行(ウラジオストック)に移動し
たことになる。極東商業銀行はアメリカ政府による制裁措置を受けていないから、基本的に
は、
K国は、そのお金を、全世界のどこへでも、送金することができる。もちろん、資金の出し入れ
も自由にできる。

 しかしここで問題が起きる。極東商業銀行は、K国は、国から現金がもちこまれるたびに、そ
れを疑ってみなければならない。一方、他の顧客たちは、極東商業銀行から、現金が支払わ
れる
たびに、それを疑ってみなければならない。少なくとも、私なら、極東商業銀行との取り引きを
停止する。そんな銀行とは、おっかなくて、つきあう気になれない。世界中の銀行も、また同じ。

 つまりこうして極東商業銀行は、信用をなくす。多大な被害を、こうむることになる。いくら
ロシア政府が、「保証する」と約束しても、それとこれとは、問題の本質がちがう。

 K国は、世界中の銀行で、自由にお金の出し入れをしたのだろう。それぞれの銀行に口座が

れば、それは可能かもしれない。私という個人にしても、外国に住む友人や知人に、送金する

きは、その口座を使う。

 しかしその口座を開設することは可能なのだろうか。そのあたりのことは、それぞれの国が

断することだが、以前ほど楽ではないことは確かだ。たとえばこの日本では、栃木県のU市に

ったAK銀行だけが、ゆいいつ、K国の銀行との取り引きをしていた。しかし今は、その銀行は
倒産している。

 あとはK国の判断ということになる。世界の銀行の判断ということになる。

 さあ、どう出るか、K国! どうする、金xx!

 ……私の予想では、K国は、老朽化して、どうにもならないような核関連施設を閉鎖するフリ
をしながら、さらなる時間稼ぎをするはず。あるいはああでもない、こうでもないと、難グセを
つけながら、さらなる要求をしてくるはず。

 あんな金xxを相手に、まともな交渉を期待するほうが、おかしい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室から】

●万引き

 子どもたち(小4〜6)と、万引きの話になった。そこで私が、「江戸時代に、万引きしたら、
盗んだものにもよるけど、死罪(死刑)になることもあったよ」と話すと、みな、驚いた。

 江戸時代の刑法に、『公事方御定書(くじかたおさだめかき)』というのがある。その下巻に
よれば、10両以上の盗みは、死罪とある。10両という金額が、どの程度のものであったかと
いうのは、時代にもよるが、現在の貨幣価値に換算して、約50〜100万円程度と考えてよ
い。

 ……と書いたところで、「そうかな?」と、私は、思った。

 そこで1両で、米がどれだけ買えたかを、確かめてみた。(インターネットのおかげで、こう
した調べものが、本当に楽になった。ありがたいことだ。)

 江戸初期 1両で2石5斗買えたから……約150000円の価値
 江戸中期 1両で1石  買えたから……約60000円の価値
 江戸末期 1両で3斗  買えたから……約18000円の価値、だそうだ。
(出典は、「東京知ったかぶり」サイト)

 江戸中期でみても、10両というと、60万円程度ということになる。しかしそれで死刑、と
は!

 で、10両以下だと、タタキの刑を受けたあと、入れ墨をされた。が、再犯を重ね、たとえば
入れ墨も3回になると、「江戸払い」の刑。4回目になると、「盗賊」となり、やはり死刑にな
ったという(「日本史おもしろBOOK」PHP)。

 言うまでもなく、刑には、二つの意味がある。一つは、その犯罪者に対する懲罰としての意味
の刑。もう一つは、社会に対する、見せしめとしての意味の刑。「悪いことをすると、こういう
ひどい目にあうぞ」と、民衆に見せることによって、犯罪を未然に防止する。

 「10両で死刑」というのは、「見せしめ刑」としての意味あいが強い。当然、江戸時代には、
現代のような、きめのこまかい捜査方法もなければ、刑事訴訟法もなかった。

 で、そのことを朝食を食べながら、ワイフに話すと、ワイフは、即座に、昨日、会った男のこ
とを思い出して、こう言った。「あの男の人も、イレズミ(刺青)をいていたわ」と。

 その男は、透けて見えるような薄いシャツを着ていた。私たちの横で、100円寿司を食べて
いた。お決まりの若い、きれいな女性を、横にはべらせていた。そのシャツの下に、腕から背

にかけて、大きなイレズミが見えた。見るからに、「オレは、ヤクザだ」という風体(ふうてい)
をしていた。

私「江戸時代には、入れ墨をわかりにくくするために、その上に、別のイレズミを彫りこんだり
したようだ。それで日本人は、イレズミに対して、悪いイメージをもつようになった」
ワ「でもね、あの男の人ね、最後に、ブルーベリーケーキと、ヨーグルトを注文していたわよ」
私「そうだったけ? 映画の中のヤクザとは、だいぶイメージがちがうね」
ワ「そうよ。だから私、思わず、笑っちゃった」
私「きっと、根は気の小さい、やさしい人だったかもしれないね」と。

 で、万引きの話にもどる。死刑の話をすると、子どもたちは、ワイワイと騒ぎだした。

私「死刑といっても、いろいろあったんだよ」
子「どんな?」
私「軽いほうから、下手人(げしゅにん)、死罪、獄門(ごくもん)、火罪、磔(はりつけ)の
5つがあった」
子「軽いというのは、おかしい。どうせ殺されるんだから……」

私「そうだよな。たしかに、そうだ。軽いというのは、ただ殺されるだけの死刑(下手人)をい
うよ。重いというのは、クビを切られ、刑場の門にかけられる死刑(獄門)のことをいうよ」
子「磔(はりつけ)が、一番重いのかア?」

私「そうだよ。みんなが見ている前で、磔(はりつけ)にされ、ヤリで刺されて殺された。それ
が磔(はりつけ)だよ。その刺し方にもいろいろあってね。たいていは苦しんで死ぬように、刺
したそうだ。しかし相手が、子どもを抱いた母親とかのばあいは、苦しまないように、子どもと
母親を、一気に刺したそうだ」
子「子どもまでエ〜?」
私「そうだよね。江戸時代には、家族の中のだれかが罪を犯すと、家族もろとも、死刑になるこ
とが多かった」と。

 私が子どものころには、まだ。「磔(はりつけ)ごっこ」という遊びが残っていた。これは何
かのことで、その子どもをいじめるとき、その子どもを壁に向って立たせ、うしろから、ボール
を投げていじめるという遊びである。

 戦後のあの時代のことである。今、そんな遊びをすれば、それ自体が、(いじめ)ということ
で、大問題になるだろう。が、そのことは、子どもたちには、言わなかった。

私「ともかくも、人のものを盗むということは、悪いことだ。一時は得をしたと思うかもしれな
いが、実は、もっと大切なものを、同時になくすんだよ。しかし盗んだときには、それに気がつ
かない。それに気がつくのは、ずっと、あとになってからだよね」と。

 子どもたちは、「わかった」というような顔をしていたが、本当にわかったか、どうか? 中
に神妙な顔をして、私の話を聞いているものもいたが、万引きの話は、そこまで。私の頭の中
に、
つぎからつぎへと、いろいろな考えが浮かんでは消えた。いつもの、モヤモヤである。

(モヤモヤ、その1)どういう子どもが、万引きをし、どういう子どもが、万引きをしないかと
いう問題。私は、正直に、本当に正直に言うが、万引きをしている子どもを見つけて、それを店
の人に伝えたことは、何度かある。が、万引きだけは、したことがない。 

(モヤモヤ、その2)子どもの小ズルさは、親譲りと考えてよい。親の何気ない日常的な行動を
見ながら、子どもは、その小ズルさを身につけてしまう。わかりやすく言えば、小ズルい親の子
どもは、小ズルい。親を反面教師として、生真面目(まじめ)な子どもになることもあるが、そ
れは例外。

(モヤモヤ、その3)万引きは、犯罪としては、わかりやすい。しかし半ば合法的に、人のもの
を盗むのは、どうか。たとえば官僚が、天下りを繰りかえしながら、そのつど、ばく大な退職金
を手にするのは、どうか。よく「税金ドロボー(泥棒)」という言葉が使われるが、それこそ、
まさに税金ドロボーではないのか。

(モヤモヤ、その4)「10両以上は、死罪」というのは、江戸時代の刑法。しかし農民から、
「五公五民」とか何とか言って、農民から、5割もの年貢を納めさせることは、ドロボー以上の
ドロボー。そうした体制の矛盾をさておいて、庶民だけ、微罪で死刑にするというのは、どう考
えてもおかしい。

(モヤモヤ、その5)損とか、得とかいうが、何をもって、損というのか。何をもって、得とい
うのか。これも私のことになるが、私は生涯において、みなから一方的に、お金を取られること
はあったが、しかし、お金を取ったことは、一度もない。いや、一度だけ、ワイフの父親が死ん
だとき、遺産として、義兄から10万円をもらったことがある。(もらったのは、ワイフだが…
…。)その10万円以外、もらったことがない。ただの一度も、ない。通俗的な言い方をすれば、
私は、いつも損ばかりしていた!

(モヤモヤ、その6)小ズルいことをすれば、そのときは、得をしたと思う。しかし実は、もっ
と大切なものを、なくす。なくすだけではない。もとの自分にもどるだけでも、たいへんな努力
と、長い時間を必要とする。それからさらに、自分を善なる方向にもっていこうとすると、さら
にたいへんな努力と、長い時間を必要とする。人生は、長いように見えるが、そういう意味で
は、
短い。小ズルい人は、人生が何であるかもわからないまま、死んでいく。つまり、結局は、大損
をするのは、その人自身ということになる。

 いろいろ考えているうちに、時間がきてしまった。それで子どもたちとは別れた。
(はやし浩司 江戸時代の刑法 万引き)2011/05/29

【補記】

 この中で、一番気になったのは、6番目の(モヤモヤ、その6)。

 私は、この数年、努めて、他人に対してはもちろんのこと、自分に対しても、誠実であろうと
心がけている。ウソは、もちろん、厳禁!

 が、ここで「務めて」とわざわざ書かねばならないほど、私の「性(しょう)」は、よくない。
はっきり言えば、悪い。私は、子どものころ、その小ズルさのかたまりのような子どもだった。

 が、それに気づいたのは、今のワイフと結婚してから。さらに、私がなぜ、そういう子どもに
なったかを知ったのは、45歳も過ぎてからのことではなかったか。自分の生まれ育った環境
を、
浜松市という、遠いところからながめることによって、それを知った。

 私が、子どものころ、「おもしろい人だ」「楽しい人だ」と思った人たちは、みな、例外なく、
小ズルい人だった。それが20年とか、30年とかたってみて、はじめて客観的にわかるように
なった。

 そういう人たちは、今、かなりの年齢になっている。が、どの人も、いまだに、ウソを平気で
つく。ウソのかたまりで、何が本当で、何がそうでないかわからない人さえいる。

 私をだまして、お金を奪った人もいる。現在の今ですら、私のお金をごまかして使っている人
もいる。

 そういう人たちを見ると、怒れてくるよりも先に、過去の、つまり子ども時代の私自身を見せ
つけられるようで、ぞっとする。そして私は、こう思う。

 「もし私が、今、あの古里にそのまま住んでいたら、私も、まちがいなく、あのままの人間だ
っただろうな」と。

 だから、私にとっては、「務めて」となる。それは私にとっては、とても悲しいことでもある。
つまり私は、ほかの人たちよりも、何倍も、何倍も、回り道をしなければならなかった。多くの
友人も、それで失ったし、多くの人を、キズつけてしまった。

 その結果だが、今では、友人といっても、数えるほどしかいない。本当に信頼できる人と言え
ば、私のワイフしかいない。孤独と言えば、孤独。恐らくこの孤独からは、死ぬまで逃れること
はできないだろう。

 だから人は、子どものときから、そして幼児のときから、誠実に生きるのがよい。しかしその
カギを握るのは、実は、親である。とくに母親である。

 今、あなたが子育てをしているなら、子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうこと
とは関係なく、あなた自身が、誠実に生きる。信号はきちんと守る。駐車場では、きちんと駐車
場へ車を入れる。1円でも、ごまかさない。そうした生きザマが、やがて子どもの心を作る。そ
う、それはあなた自身のためでもあるが、子どものためでもある。

 約束は守る。ウソはつかない。そして自分にも、他人にも、誠実である。それが子育ての基

の一つということになる。

 それはとても気持ちのよい世界だから、あなたも、今日から私の言ったことを信じて、実践し
てみてほしい。あなたも、そのすがすがしさに驚くはずである。

 そうそう、一つ重要なことを言い忘れた。

 自分の誠実さを守るためには、そうでない人とは、勇気をもって、一線を画すのがよい。それ
が、たとえ幼(おさな)なじみであれ、近隣の人であり、親類のひとであれ、そして肉親であれ、
だれであってもだ。つきあいを避けられないばあいもあるかもしれないが、その距離だけは、し
っかりと保つようにする。

それを忘れると、いつの間にか、もとの自分にもどってしまう。邪悪な人間にもどってしまう。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【表と裏】

++++++++++++++++++

みながみなというわけではないが、
私が生まれ育った郷里のM町では、
ときどき、何が本当で、何がウソ
かわからなくなる。

ウソをウソと意識しないまま、平気
でウソをつく。それがその地方の
習慣にもなっている。その場、その場で、
適当なことを言って、とりつくろう。

が、何よりも不思議なのは、そういう
ウソをつかれながらも、つかれた
ほうも平気、ということ。
それなりに、みな、うまく、やっている。

その郷里を離れて、40年。
以前、「飛騨の昼茶漬け」について
書いたことがある。4年前の原稿
である。

++++++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しか
し道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と
答える。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、
さあ、大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわ
けにもいかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使ってい
るかもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかし
て先へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、
聖徳太子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらであ
る。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断る
つもりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっ
しょに、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、
ウソについて、日本人とオーストラリア人とでは、ウソに対する寛容度がまったく違うというこ
とを思い知らされた。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しか
し日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考
える。そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいこと
なのか、悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったか
もしれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりい
た。私の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。
私は毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、
それですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを

う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単に
は変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように
接しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っている
かを考えてみてほしい。

もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、
日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけない。……
とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の
子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ
わ、
10万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろうか。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだ
ろうか。私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと
思う。正直に言えば、そういうことになる。

つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つまりそれは私自身の欠陥と
いうより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなたは、子どものころ、学校
で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03―1―7)

【補記】

日本人のこうした国民性は、話せば長くなるが、長くつづいた封建制度の結果と考えてよい。
今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に正
直に生きる」ということそのものが、不可能だった。

それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。ただここで言えることは、決
して、あの封建時代を美化してはいけないということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの
評価はしなくてはいけない。しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。
(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物)


++++++++++++++++

●表と裏

 私の知人の中にも、こんな人がいる。裏で、私の悪口を言いながら、表では、平気でつきあっ
てくる人である。私はそういう人を見ながら、「この人の精神構造は、いったいどうなっている
のだろう?」と思う。

 が、私は私で、そういう人とはつきあわない。一度でも、そういう事実を知ったら、つきあわ
ない。交際をやめる。年賀状の交換もやめる。が、そういう人にかぎって、騒ぎたてる。

 「あの林は、年賀状の返事もよこさない」とか、何とか。

 あるいは私の動向をさぐってくる。何だかんだと口実をつくっては、近づいてくる。よほど私
のことが気になるらしい。もちろん、私に好意的だから、そうするのではない。私が失敗したり、
不幸になったりするのが、楽しみだから、そうする。それが私にもよくわかる。

 どうせそのレベルの人たちだから、そういう人は、無視する。相手にしない。

 ……ということで、私は若いころ、こんな鉄則を自分につくった。『つきあうなら悪口を言わ
ない。悪口を言ったら、つきあわない』と。

 ついでに同じころ、こんな原稿を書いたこともある。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●電話の口

++++++++++++++++++

あなたは受話器の話し口を手で押さえて、
近くの人と、話をすることはありませんか?

しかし、それはたいへん、危険なこと。
一度でも、それをすると、それが理由で、
相手との人間関係を破壊することになるかも?

++++++++++++++++++

 あなたは今、電話で、だれかと話をしている。だれでもいい。だれかだ。そのとき、あなたは、
近くにいる、子どもか、夫か、あるいは妻と、何か相談しなければならないことができた。受話
器はもったまま、だ。

 そのとき、あなたなら、どうするだろうか。

 一番、安全な方法は、電話機の「保留ボタン」を押すことだ。それを押せば、何らかの音楽が
流れ、会話は、それで完全に、途切れる。

 しかしそこまでは、したくない。その必要は、ない。そういうとき、あなたならどうするだろ
うか。……あなたは、多分、電話の話し口(聞き口ではなく、話し口)の方を、手で押さえる。
そして小さな声で、近くにいる人に、顔をしかめながら、こう言うにちがいない。

 「この電話、あの林からよ。いやねエ〜。どうるす?」と。

 あなたは話し口を手でしっかりと押さえている。だから小声で話したことは、相手には、聞こ
えないと思っている。

 だからそう言い終わると、また手を離して、「そうですねえ、わかりました、林さん」と、明
るい声で話す。

 しかし……だ。最近の電話機は、性能がよい。話し口を手で押さえたくらいでは、会話をさえ
ぎることはできない。あなたの話した言葉は、実は、耳にあてた聞き口からも、相手に伝わる。
話し口も、聞き口も、原理的には、構造は、同じ!

 だから、電話機の口を手で押さえたくらいで、安心してはいけない。最近だが、こんなことが
あった。

 私は、B氏に電話をした。少しこみいった話なので、内容は、省略する。しかしB氏は、留守
だった。(実際には、居留守を使っていた。)かわりにB氏の妻が電話に出た。

私「……では、いつお帰りですか?」
妻「もうすぐ帰ってくると思いますが……」と。

 そのとき、B氏の妻は、受話器の話し口を手で押さえた。その感触というか、手で押さえた感
じが音でわかった。ポンと耳がつまったような感じがした。B氏の妻は、近くにいるB氏に、小
声で、こう言った。「あの林からよ。いやねエ……。この電話、どうする?」と。

 それに答えて、そばにいたB氏は、多分、首を横に振ったのだろう。B氏の妻は、夫の様子を
見て、再び、明るい声で、「ごめんなさいねエ。また帰ってきましたら、林さんから電話があっ
たことを、主人に伝えておきますから……」と。

 ……という、この話は、実は、フィクションである。最近、別のところで経験したことを、私
の話にからめて、作ってみた。

 しかし、現実に、こんなことが私に起きたとしたら、私なら、そのB氏とは、絶交する。つき
あう必要は、ない。つきあいたくもない。

 ……ということで、今日は、電話の話。今でも、受話器の話し口を手で押さえて内密な話をす
る人は、少なくない。しかし、それはたいへん危険なこと。あまりにも無防備なこと。それをみ
なさんにお伝えしたくて、このエッセーを書いた。

 ……この話が、ウソだと思うなら、だれかに協力してもらって、自分で確かめてみたらよい。
私の言っていることがウソでないことが、わかってもらえるはず。どうか、くれぐれも、ご用心!


++++++++++++++

 この中で、私は、「この話は、フィクションである」と書いた。しかし詳しくは書けないが、
似たような経験をしたから、私は、この話を書いた。

 ここでいうB氏も、表と裏のある人ということになる。それまではかなり親しくつきあってい
た人だったが、私は、この電話のあと、B氏とは、縁を切った。ワイフは、「適当につきあって
おけばいいのよ」と言ったが、私には、そういう芸当ができない。若いころならできたかもしれ
ないが、今は、もうできない。めんどうというか、そういう人が近くにいるだけで、神経がすり
減ってしまう。

 が、B氏にはそれがわからない。わからないというか、私がなぜ怒っているかさえ、わかって
いない。だからそのあとも、何ごともなかったかのように、何度も電話をかけてきたりした。

 適当にものを言って、その場をやりすごす。そういう人は、少なくない。好きか嫌いかという
ことになれば、私は、そういう人が、大嫌い! そういう人と、愚劣な交際をつづけて、無駄に
する時間は、私には、もうない!

【補記】

 私は、そういう意味でも、この浜松が、大好き! 私のワイフの兄弟にしても、みな、正直。
本当に正直。表も、裏もない。そのわかりやすさが、たがい人間関係を、さわやかなものにして
いる。

 たとえばこの浜松では、ものの売買をするときでも、(掛け値)ということをしない。(値切
る)ということもしない。そういうやりとりをしているところを、見たことさえない。

 人間関係もそうで、少なくとも私のワイフの兄弟たちは、ありのままの姿で、ありのままに生
きている。飾ることもない。虚栄を張ることもない。見栄や世間体とは、みな、無縁の世界で生
きている。すばらしいことだと思う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝(6月12日)、あれこれ

+++++++++++++++

昨日は、母のところへ、花を届けた。
母は、それを気持ちよく、喜んで
くれた。

今朝も、朝食をとったら、様子を見に
行くつもり。

+++++++++++++++

 昨日、母に花を届けた。ちょうど昼食前で、広間にみなといっしょに、集まっていた。その母
の横に立っていると、母が、あたりを見回しながら、こう言った。

 「みんな、間に合わんヤツばっかやなア」「ワシも、その一人やが……」と言った。

 それを聞いて、私は笑った。横にいたワイフも笑った。「間に合う」というのは、地方の言葉
で、「役だたず」という意味である。

 一度は、アルツハイマーと診断されたこともある母だが、こういうところでみると、その母が
正常に(?)見えるから、不思議である。つまり脳みその評価などというものは、相対的なもの
にすぎない。

 私やあなたが、(まともに見える)といっても、それは私やあなたが住んでいる世界での評価
でしかない。別の世界に行けば、その私やあなたは、天才に見えるかもしれない。反対に、バ

に見えるかもしれない。

 その私だが、職業がら、生徒たちによくバカにされる。子どもたちは、おとなの一部である私
をバカにすることによって、自立を図ろうとする。だからおとなの私たちは、子どもたちにバカ
にされても、それを叱ったり、あるいは威圧によって押さえつけてはいけない。

 昨日も、小6の女の子が私にこう言った。「先生は、クソジジイだ」と。

 私はそれに応えて、「ぼくは、クソジジイではない。大クソジジイだ。ちゃんと、『大』をつ
けろ。わかったか、未来のクソババア!」と。

 彼らの多くは、学校でも、家庭でも、そして進学塾でも、日常的に、息の抜けない緊張状態に
おかれている。それが私にも、よくわかる。せめて私のところくらいでは、自由にものを言わせ
てやりたい。

 どうせ相手は、子ども。ただの子ども。人間の価値など、まだとうてい理解できる年齢ではな
い。本気で相手にしてはいけない。そうそうその女の子は、先日、私に、こう聞いた。「先生は、
『デス・ノート』を知っているか?」と。

 実にくだらない映画である。見る価値もない。もともとは、コミックだったという。「知らな
い」と私が答えると、「エーッ、デス・ノートも知らないの?」と。すっとんきょうな声を張り
あげた。

 つまり私は彼女には、本物のバカに見えたらしい。しかし本物のバカは、どちらなのか? あ
んな映画を楽しんで見るほうが、よほどバカだと私は思うのだが、その子どもには、それがわ

らない。

 つまり脳みその評価には、もうひとつ重要な基準が加わる。「価値観」という基準である。価
値観のちがう世界では、私やあなたは、バカとして評価される。よい例が、カルト教団の世界で
ある。

 何かのカルト教団に入信したある女性は、私にこう言った。「入信したとたん、私の魂が、カ
ラをやぶって、天に昇ったように感じました。そしてまわりの人たちが、みな、バカに見えるよ
うになりました」と。

 その女性は、(思想)を注入されただけなのだが、それでもそう感じたらしい。

 そこで私はあらためて、自分のことについて考えてみる。「私はバカなのか?」と。

 もちろん私は、自分ではバカだとは思っていない。しかし私は小6の子どもたちの世界では、
明らかにバカに見えるらしい。それはちょうど、特別養護老人ホームの中でウロウロする老人
を、
私たちが見るようなものではないか。たしかに脳みその機能は低下している。が、しかし、そこ
に住む老人たちは、決してバカではない。

 人格もある。品格もある。人間としての誇りもある。が、それ以上に、この世界を生き抜いて
きたという実績がある。

 同じように、私にも人格がある。品格はどうかわからないが、人間としての誇りもある。少な
くとも、野山に住む動物たちとはちがう。もちろん60年という歳月を生き抜いて生きたという
実績もある。

 母にしても、記憶力は、たしかに低下した。最近のことは、ほとんど覚えていない。1時間前
のことすら覚えていない。だからといって、「今」というときを生きることがムダということに
はならない。母は、バカに見えるが、決して、バカではない。バカかバカでないかということに
なれば、先の小6の女の子のほうが、ずっとバカである。人間の価値がわからないという点で、
バカである。

 が、小6の女の子の世界から見れば、私がバカに見える……? そんなわけで、ひょっとした
ら、特別養護老人ホームの老人たちから見れば、私のほうがバカに見えるかもしれない。ある

はそういう目で、私を見ているかもしれない。

 ……玄関を出たとき、私は、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●健康器具

+++++++++++++++

ショッピングセンターへ行くと、
いろいろな健康器具が並んでいる。

しかしどれも値段が高い。目的は
それぞれだが、しかしあんなものを
買うくらいなら、自転車を買ったほ
うが、ずっとよい。

値段も安いが、そのほうが、健康の
ためによい。

+++++++++++++++

 数日前、ワイフと近くのショッピングセンターに行った。ワイフの誕生日プレゼントをさがす
ためである。で、そのとき、健康器具コーナーへ足を踏み入れた。

 あるは、あるは……、いろいろな器具というか、機械が、ところせましと並んでいた。私たち
は遊園地で遊具に乗るようなつもりで、それぞれを試してみた。

 馬に乗っているように、台がユラユラ(=パカパカ)と揺れるような器具もあった。これは結
構楽しかった。

 台座がブルブルと震え、その振動が体中に伝わってくるのもあった。これはやがてすぐ全身

かゆくなったので、そこでやめた。

 が、何と言っても、マッサージ機の進化には、目を見張るものがある。値段は、20万円前後
から、高いのになると70万円前後まで。必要な人には、70万円でも高くないかもしれないが、
私たちには、必要ない。私もワイフも、健康。腰痛も肩こりも、ない。

私「こんなもの買うくらいなら、自転車を買ったほうがいいよ。そのほうが、ずっと運動になる」
ワ「そうね」と。

 みなさん、もっと自転車に目を向けよう。とくに50代過ぎの人にはよい。全身運動になるこ
とはもちろん、何よりもすぐれている点は、関節を痛めないということ。値段も安い。買い物や
通勤に乗れば、環境保護にもつながる。

 ……ということで、そのあと、自転車コーナーへ足を運んだ。今では安いのだと、8000円
前後からある。値段だけを見ると心配だが、以前のような粗悪品も少なくなった。結構、しっか
りと作ってある。メーカー品がすぐれているという神話は、とっくの昔に崩れた。そのメーカー
と言われる会社ですら、今では、海外で、自転車を製造している。

 で、結局、何も買わなかった。私が「ごめんね」と言うと、ワイフは、「私は何もいらない」
とさみしそうに言った。今日、何かを買ってやるつもり。

 晃子、ごめん!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ

+++++++++++++++

今朝は、午前4時に起きて、
ハナと中田島海岸まで、散歩に
行ってきた。

気持のよい朝だった。
海辺では、何人かの男たちが
魚釣りをしていた。

「釣れますか?」と声をかけると、
「これから釣るところだ」と言った。

朝もやのかかった、幻想的な
景色だった。ハナはいつものように
砂浜を走って、カラスを追いかけて
いた。

+++++++++++++++

●マッサージ機

 昨夜、近くのショッピングセンターで、椅子式のマッサージ機を買ってきた。ワイフへの誕生
日プレゼントである。

 台湾製で、値段はx万円。日本製のようにゴチャゴチャした機能はついていないが、それなり
の機能はちゃんとついている。モミ、タタキ、指圧など。ワイフは「内臓脂肪にも効果がありそ
う」と言った。ときどき体を、左右にはげしく揺さぶったりする。

 「お前も、とうとうこういうものを使う年齢になったね」と言うと、「そうネ〜エ……」と。
うれしそうというよりは、どこか、さみしそうだった。

 ところで体脂肪だが、私は、現在、23・5%もある。毎日はかっているが、ほとんど変わら
ない。適正値は、私のばあい、20%前後だそうだ。少し太り気味ということらしい。

 少し食事の量を減らさなければ……と思っているが、それがどうもうまくいかない。昨日は、
「S亭」というレストランで、うな丼を食べてしまった。おいしかった!


●運命

 水は流れるところへ、流れていく。ときにがんばって、その流れを変えようとする。が、その
流れを変えることはできない。気がついてみると、ちゃんとそうなっている。

 大切なことは、その(流れ)を感じたら、静かに身を任すこと。受け入れること。許して、忘
れること。あとは時間が、解決してくれる。

 ということで、子育ても、またしかり。それぞれの子どもには、それぞれの(流れ)というも
のがある。その流れを感じたら、あとは、その流れに、子どもを任す。親としてはつらい瞬間か
もしれないが、親があせったところで、どうにもならない。あるいはあせればあせるほど、逆効
果。

 今朝は、海を見ながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●映画のコマ

 デジカメで、ビデオを撮影することができる。私のデジカメでは、1秒につき30コマか、1
0コマか、そのどちらかを選択できるようになっている。

 そのデジカメを見つめながら、こう考えた。

 若いときというのは、1秒につき30コマで、脳の中に記憶が蓄積される。しかし歳をとると、
それが1秒につき10コマ、さらに5コマになる。あるいはもっと少なくなる。

 だから自分の人生を振りかえってみると、若いときほど、記憶がぎっしりとつまっているよう
な感じがする。その分だけ、時の流れが緩(ゆる)やかだった。が、今はちがう。若いときより
活発に行動しているつもりなのに、その記憶が、どこかへ飛んでいってしまう。その分だけ、時
の流れが、速くなっていく。

 仮に、1秒につき5コマしかない映像を、毎秒30コマの映写機で映してみれば、計算の上で
は、6倍、動きが速くなることになる。つまり再生装置でいうところの、(早送り)の状態にな
る。

 (ついでだが、こういうとき、「速くなったように感ずる」と書くのが正しいのか、それとも、
「早くなったように感ずる」と書くのが正しいのか?)

 そこでそのコマ数を決めるものは何かということになる。もしそれがわかれば、50代になっ
ても、60代になっても、密度の濃い人生を送ることができる。

 私は、それは「感動」だと思う。感動のあるなしで、1秒につき、30コマの人生にもなるし、
反対に、5コマ、1コマの人生にもなる。わかりやすく言えば、日々に感動して生きれば、その
分だけ、自分の人生をより長く生きることができる。(時間)という(数字)ではない。中身だ。
あくまでも中身で決まる。

 いくら長生きをしても、のんべんだらりとした生活をつづけていたら、何も残らない。長生き
をしたということにはならない。しかしたとえ1年でも、充実した日々を送れば、私たちはその
1年を、100年分、あるいはそれ以上、長く生きることができる。

 そこで「感動」ということになる。私たちは常に、感動を求めて生きる。いろいろな方向に触
覚をのばし、アンテナを張る。そしていろいろな情報を、そのつど、手に入れる。

 それは私たちの人生を、より密度の濃いものにするためのコツかもしれない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心臓か、それとも腎臓か?

+++++++++++++++

K国の金xxの健康状態が、
このところ急速に悪化していると
いう。

しかしその原因について、
中央日報の日本語版ニュースでは、
「心臓」となっている。

一方、聯合ニュースを翻訳した
ヤフー・ニュースでは、「腎臓」と
なっている。

どちらが正しいのか?

+++++++++++++++

K国の金xxの健康状態が、このところ急速に悪化しているという。

しかしその原因について、中央日報の日本語版ニュースでは、「心臓」となっている。一方、
聯合ニュースを翻訳したヤフー・ニュースでは、「腎臓」となっている。

どちらが正しいのか? まず、その両者の記事をそのまま紹介する。


【中央N報の日本語版ニュース】

北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は、健康状態が芳しくなく、途中休まず
には30ヤード(約27メートル)以上は歩けない状態だという。英紙テレグラフが西側
諸国政府消息筋の話として、10日に北京発で報じた。 

  同紙によると、金委員長は腎臓手術が必要とされるほど体が弱くなっており、平壌(ピ
ョンヤン)駐在外交官らもそうした事実を確信している。外出の際には、歩行の途中に休
めるよう、イスを持った秘書が同行しなければならなかった、と外交官らは話している。
金委員長の健康悪化説は、先月、ドイツ・ベルリンの腎臓専門医療機関出身の医師ら6人
が8日間平壌を訪問したのを機に流れ出した。 

  また、外交官によると、糖尿病でもある金委員長は当時、外科医を含む医療陣が治療す
る患者リストにも名前が挙がっていたものとされる。だが、ドイツ医療陣側は、平壌に滞
在中に労働者3人、看護婦1人、科学者1人だけを治療した、としている。金委員長は今
年、公式の席上に23回しか姿を現していない。そのため健康悪化のためという見方が強
い。昨年は同期間に倍近くの活動(公式の行事に42回出席)をしている。


【聯合ニュースを、ヤフー・ニュースが翻訳?】 

【ロンドン10日聯合】北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の健康状態が芳しくな
く、途中休まずには27メートルほどの距離しか歩けない状態だと伝えられた。英紙テレグ
ラフが西側諸国政府消息筋の話として、10日に北京初で報じた。金総書記は腎臓手術が必
要なほど体が弱くなっている状態で、平壌駐在外交官らもそうした事実を確信していると
いう。外出の際には歩いている途中で休めるよう、いすを持った秘書が同行しなければな
らないほどだったと、外交官らは話している。

 金総書記の健康悪化説は、先月、ドイツの腎臓専門医療機関出身の医師6人が8日間平
壌を訪問したのを機に流れだした。糖尿病でもある金総書記は当時、外科医師を含む医療
陣が治療する患者リストにも名前が挙がっていたとされるが、医療陣側はこれを否定して
いる。

 金総書記は今年、公式の席上に23回しか姿を現していない。昨年は同期間に2倍近い活
動をしていることからも、健康悪化のためという見方は強い。特にこの1か月間ほどはま
ったく公の場に出ておらず、日本の週刊誌なども腎臓手術を受けたと報じている。

【事実は……?】

 そこでニュース源となった、テレグラフの記事を読んでみると、つぎのようになってい
る。

Kim Jong Il, North Korea's reclusive leader, has been so unwell that he could not walk more 
than 30 yards without a rest, western governments have been told.

K国の孤独な指導者、金xx(拉致問題に抗議して、あえて金xxとしている)の健康状態はた
いへん悪く、休みなしでは、30ヤードも歩くことができないと、西側政府は、伝えられている。

Diplomats in the North Korean capital, Pyongyang, are increasingly convinced that the 
65-year-old dictator needs heart surgery to restore his apparently flagging health. He has 
had to be accompanied by an assistant carrying a chair so that, wherever he goes, he can 
sit 
and catch his breath.

P市(K国首都)の外交官たちは、65歳の独裁者は、明らかに悪化した健康を回復するため
に、
心臓の手術が必要であると、ますます確信している。彼はどこへ行くにも、座って呼吸を整える
ために座る椅子を運ぶアシスタントを同行している。

Speculation about the state of Kim's health was heightened when a team of six doctors 
from 
the German Heart Institute in Berlin flew to Pyongyang, the North Korean capital, for eight 
days last month. Kim, who also suffers from diabetes, was believed by diplomats to have 
been among those on the list for treatment by the combined medical and surgical team. But 
a spokesman for the German team said they had only treated three labourers, a nurse and 

scientist.

糖尿病を患っているとされる金xxの健康状態についての推測は、ベルリンのドイツ心臓研究

の6人の医師チームが、K国の首都のP市に、先月8日間滞在したというところから、高まっ
た。
腎臓病については、医学、外科チームによる治療のリストにあがっている。

しかしドイツチームのスポークスマンは、彼ら医師団は、3人の労働者と、1人の看護婦、それ
に1人の科学者の治療をしただけだと述べている。

+++++++++++++++

 つまり原因は、「心臓」だったということになる。もっとも臓器というのは、それぞれが関連
しあっていて、一つが極度に悪化すると、つぎの臓器も、つづいて悪化する。東洋医学(霊枢・
病伝編)でも、そう教えている。

 が、同じく、「肝腎要(かなめ)」(肝心と書くときもあるが、東洋医学では、肝腎と書く)
ということからもわかるように、肝臓、腎臓、心臓は、とくに重要な臓器である。金xxは、こ
れら3つのうち、3つとも悪いと言われている。

 拉致問題、核兵器開発問題を解決するためには、K国を一度、崩壊させるしかない。金xxの
死後、K国が、どのような国家体制をつくるか、あるいは一度、崩壊するのか、ますますK国か
ら目が離せなくなった。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●地図

年長児になると、急速に、地理的空間弁別能力が発達してくる。自分の家の周囲の様子を、
空中
から見たような感じで理解することができるようになる。能力の発達した子どもだと、簡単な地
図を描くことができるようになる。それまでの子どもは、地図といっても、牛の腸のような、グ
ニャグニャした道の地図を描く。

 この能力は、たとえば近所の2つの場所をいい、「どちらが遠いかな?」というような質問を
すると、知ることができる。「ガソリンスタンドと、バス停は、どちらが遠いかな?」と。

 こうした能力は、……というより、こうした能力が未発達なまま、おとなになると、いわゆる、
「方向音痴」と呼ばれる人になる。ひどい人だと、街の中で数ブロック移動しただけで、右も左
もわからなくなる。

 そう言えば、私の知人の1人は、軽い脳梗塞を起こしたあと、自宅近くでさえ、道に迷うよう
になってしまった。ときに、自宅のまわりを行ったり来たりしてすることもあるという。

 この能力も、つまり方向感覚も、年中期から年長期にかけて、急速に発達すると考えてよ
い。

 で、今週、BW教室では、「地図学習」をしている。あらかじめおうちの方に、住所や簡単な
地図を書いてもらい、それを見ながら、子どもたちを指導している。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ

+++++++++++++

今日は、6月11日。月曜日。
はげしい雨がつづいたが、一転、
昨日の午後から、快晴。白い、
空気をそのまま貫くような
朝の光が、まぶしい。

+++++++++++++

●大河ドラマ

 「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見
た。……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。

 それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。

 武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワ

パターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、
こういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こう
いう表情をするものだという、実にわざとらしい演技。

 自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。

 私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったこと
がある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じ
ように、自分の意見を述べあっていた。

 しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べて

た。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役
社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、
そういうシーンをどこかで見てくるとよい。

 領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何の

めに、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために闘
うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。し
かしそういう正義は、まったく、ない。

 要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいる

け。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。

 大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。ど
うしてNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。

++++++++++++

以前、書いた原稿を
添付します。

++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、
欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。
しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」とい
うことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を
加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民
たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美

したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリ
カ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、
質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本にな
っているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本
になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほど
の開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と
説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、
オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学
んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校

組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校を
よい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた

ったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●大学生の親"貧乏盛り"

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万

000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまな
い。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万
円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は

どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、
親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさ
なければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除
制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこ
の十年間、毎年4〜5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金
を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつ
の奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というの
はそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、
世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまで
も個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さ
が積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおく
れている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。

「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、
そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジ
ョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたく
ない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫
のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こ
う側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうする
ようになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手の
ほうに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しなが
ら切る。

これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。た
とえば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、
引きこむようにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうし
た文化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切
にす
る。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかた
ない。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたて

よりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。

つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそう
だ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が
「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。
いつもすべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生
まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残
したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させる
か、
だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明治、大
正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに正当に

価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形
で、あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。

あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、
苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という
年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたこと
を繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一
斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは
本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子

てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げ
る。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能に
よるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたよう
にして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子
育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。

その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、
ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水
道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来
ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利
さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもな
いような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方

式だ。

私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分
や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。

もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつ
というのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が
満々ている」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私た
ちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よ
く、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、
子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするの
が、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。

+++++++++++++++++

自分の書いた原稿の中から、
「大河ドラマ」というキーワードを
使って検索してみたら、あっという
間に、数作見つかった。

本来なら、「中には、大河ドラマの
ファンの方もいらっしゃるかも
しれませんが、お許しください」と
書くべきなのだろうが、もうそういう
おじょうずは、言いたくない。
書きたくない。

……ということで、今朝の雑感は、
おしまい。

おはようございます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●高齢社会白書

++++++++++++++

65歳以上の高齢者が、55年には
人口の40・5%を占めるようになる
そうだ(政府・高齢者白書)。

++++++++++++++

 やがて人口の40・5%が、55年には、人口の40・5%を占めるようになるそうだ。この
ほど、政府は、2007年度版、高齢者白書を発表した。

 「高齢者1人を、わずか、1・3人の現役世代(15〜64歳)が支えることになる」と。

 が、この記事を読んで、まず「?」と思ったのは、「55」という数字。みなさんは、この「5
5」という数字が何であるか、わかっただろうか?

 2055年の「55」? 平成55年の「55」?

 2055年ということであれば、48年後ということになる。平成55年ということであれば、
36年後ということになる。役所の文書だから、多分、平成55年ということだろう。つまり3
6年後。私はそのとき、95歳になっている。

 どんなにがんばっても、そのころには私も、(生きていれば)、超ヨボヨボの老人。しかしそ
ういう私を支えてくれるのは、たったの1・3人。現在のような手厚い介護など、期待すべくも
ない。へたをすれば、……というより、まちがいなく、私たちはそのまま粗大ゴミになる。

 そこでゆいいつ生き残る道があるとすれば、できるだけ長く働いて、貯(たくわ)えをしっか
りとしておくということ。年金など、まったくアテにならない。これには厚生年金も共済年金も
ない。アテにならないことは、今の社会保険庁を見ればわかる。

 60歳で定年なんて、とんでもない話。65歳で定年なんて、とんでもない話。70歳でよう
やく定年。……そういう時代は、すぐそこまできている。

 しかしただ生きるだけでは、意味はない。生きがいをもつというか、(やるべきこと)はやる。
それがこれからの私たちの2老後のあり方ということになる。

 が、何といっても、健康。まず健康。その健康のためには、運動。まず運動。運動あっての健
康。健康あっての(生きがい)ということになる。

 今年満60歳になるみなさん、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●母の旅立ち

+++++++++++++++

昨夜は、母の横で添い寝をした。
しばらくして、母がこう言った。

「寒くないか。ワシ(=私)の
ふとんを使えや」と。

私は、コタツぶとんの上で横になっていた。
見ると、母は、じっと私を見つめていた。

私「だれかに会いたいか?」
母「だれにも会いたくない」
私「その中でも、いちばんだれに
会いたいか?」
母「浩司、お前やナ」
私「ここにいるだろ」
母「そうやナ」と。

しばらく母の実家の話をする。
ついで「今までで、いちばん楽しかった
ことは何か?」と聞くと、
「何にもないなあ」と。

「いやなことは?」と聞くと、
「父ちゃん(=私の実父)が、
酒を飲んだことや」と。

とたん、大粒の涙が、こぼれた。
「ぼくも、いややった……」と。

その前に、姉夫婦と、1時間ほど
電話で話す。

私「まだ特別養護老人ホームへ
入れるという話はできん」
兄「そうやなア……」
私「できるだけ、母のそばにいて
やるよ」
兄「そうやなア……」と。

そんなことを、頭の中で思い出して
いた。

すると母がまたこう言った。

母「寒くないか?」
私「寒くない」
母「わしのふとんを使え」
私「いい……。これでいい」
母「ちゃんとしたところで寝んせエ
(=寝なさい)」
私「ここでいい」と。

いろいろあった。ありすぎて、ここには
書ききれない。しかし恨みも、つらみも
消えた。

そこにいるのは、やさしい母。
私が子どものころに見た、あの母。

私「何か、したいことがあるか?」
母「K村(=母の生まれ故郷)へ
行ってみてエ」
私「行くだけでいいのか?」
母「だれにも会いたくない……」
私「どうして?」
母「会っても、なんも、話しすることが
ねエ(=ない)」と。

……そのあとのことは、どうしても
思い出せない。

多分、私はそのまま眠ってしまったらしい。
気がつくと、だいだい色の、ぼんやりと
した朝日が、カーテンの向こうで
ゆれていた。ときおりはげしい雨が、
窓ガラスをたたきつけていた。

「朝かな?」と思ったが、そのまままた、
一眠りした。

++++++++++++++++

●今朝・あれこれ(6月10日) 

++++++++++++++

今朝は、激しい雷鳴で目が覚めた。
あとで時計を見ると、午前6時だった。
私はそのまま起きた。起きて、普段着に
着替えた。

今日は、日曜日。11時から、老人
ホームでの喫茶会があるという。
それ以外、とくに予定はない。

++++++++++++++

●老人ホーム

 老人のなり方は、千差万別。みな、ちがう。そのことは老人ホームをのぞいてみると、よくわ
かる。

 母は、4人部屋に入ったが、4人部屋といっても、一人分が、12畳間ほどもある。通路も入
れたら、もっとあるかもしれない。

 母のほかに、3人の女性が床に伏せっていた。一人は、寝たきりの状態で、食事も、ヘルパ

さんに食べさせてもらっている。もう一人は、ベッドの上で、ずっと歌を歌っている。もう一人
は、一見元気そうだが、まったく反応がない。

 廊下を出ると広間になっていて、そこには、10〜15人ほどの老人たちが、それぞれ勝手な
ことをしている。しかし何かをしているふうでもない。見たところ、新聞や本をなどを読んでい
る老人は、一人もいない。部屋の中央には、かけっぱなしのテレビ。が、それを見ている老人

いない。

 個性的と言えば聞こえはよい。一人とて、同じ老人がいないのには、驚いた。顔中が、風船

ように腫れた女性、モグモグと口だけを動かしている男性、じっと恐ろしいほどの目つきで、だ
れかをにらんでいる女性、無反応な隣人に向かって、一方的に話しかけている女性などなど。

 老人のなり方は、千差万別だが、みな、こうして最期のときを静かに待っている。そのときが
くるのを、じっと何かに耐えるようにしって待っている。

●ガランとした部屋

 ほかの部屋はどうなっているか? 母のこともあり、いくつかの部屋を回ってみた。見舞客用
の椅子やごみ箱は、どうしたらよいのか。それを知るために、部屋を回ってみた。

 が、土曜日の午後だというのに、見舞客は、ほとんどいなかった。……というより、私たちだ
けだった。またどの部屋も、ガランとしていて、人間臭さがまるで感じられなかった。長期にわ
たって滞在しているのだから、それなりの「蓄積」があるはず。しかしそれがなかった。

 どの人も、生涯において、それなりの生活をし、それなりの財産をつくった人たちにちがいな
い。それなりの人生観をもち、それなりの哲学をもった人にちがいない。それなりの肩書きや

位をもった人も、少なくないはず。

 しかし老人ホームでは、その「臭い」がまったくしない。もちろん病院とはちがう。家庭とも
ちがう。が、これが人生の終着点だとするなら、人はいったい、何のために生きてきたのか、あ
るいは今、何のために生きているのか、ということになる。

 最後に残るのは、ヨボヨボの肉体と、分厚い壁でできた、コンクリートの部屋だけ?

●私の提案

 母が入所したのは、浜松でもいちばん人気と言われる特別養護老人ホームである。設備は
整っ
ている。

 どこかの旅館のような玄関。広い廊下。移動用ベッドが楽々運べるエレベーターなどなど。広
間には、喫茶店風の店まである。

 しかし何か、物足りない? つまり設備は豪華で、立派だが、「緑」がない。どこまでも機能
的にできた「箱」だが、その箱には、窓がない。自然につながる窓がない。

 私なら……という言い方は、誤解を招くかもしれないが、私なら、芝生のはえた庭を中心にし
た老人ホームをつくる。部屋は、木造でもよい。その分だけ、「管理」はしにくいかもしれない
が、そのしにくい部分から、人間臭さが生まれる。老人どうしの交流も、そこから生まれる。

 外から見舞いに来る人にとっても、そのほうが楽しい。

 私は、老人たちの様子を見ながら、その老人たちからは、私たちはどう見えるか、それを考

た。

 何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。もし今の私が、こういうところへ押し込
められたら、私なら、1日も耐えられないだろう。あるいは日常生活に必要な品々を、すべても
ちこむ。もちろんパソコンも、だ。

 しかしここは、そういうことさえできなくなった老人たちが、入るところらしい。私の母が、
おかしなことに、こういうところでは、ごくふつうの女性に見える。

 私は、あいさつ用にと、同じ部屋の老人たちにみやげを買ってきたが、渡すまでもない。その
まま受付にもっていき、そこで若い事務員たちにさし出してしまった。

 私が、「まるでみなさん、反応がありませんから……」と笑って言うと、その事務員は、「当
然です」というような笑顔を浮かべながら、それに応えた。

 外に出ると、豪雨が路面をはげしくたたいていた。私とワイフは、急いで車に飛び込んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●日曜日

+++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
「何歳?」と聞くと、「4x歳よ」と。

「それじゃあ、若いって、バカに
されるから、5x歳ということに
したら?」と言うと、「いいの、4x歳
で」と。

誕生日、おめでとう!

+++++++++++++++

●母の旅立ち

+++++++++++++++

昨夜は、母の横で添い寝をした。
しばらくして、母がこう言った。

「寒くないか。ワシ(=私)の
ふとんを使えや」と。

私は、コタツぶとんで横になっていた。
見ると、母は、じっと私を見つめて
いた。

私「だれかに会いたいか?」
母「だれにも会いたくない」
私「その中でも、いちばんだれに
会いたいか?」
母「浩司、お前やナ」
私「ここにいるだろ」
母「そうやナ」と。

しばらく母の実家の話をする。
ついで「今までで、いちばん楽しかった
ことは何か?」と聞くと、
「何にもないなあ」と。

「いやなことは?」と聞くと、
「父ちゃん(=私の実父)が、
酒を飲んだことや」と。

とたん、大粒の涙が、出た。
「ぼくも、いややった……」と。

その前に、姉夫婦と、1時間ほど
電話で話す。

私「まだ特別養護老人ホームへ
入れるという話はできん」
兄「そうやなア……」
私「できるだけ、母のそばにいて
やるよ」
兄「そうやなア……」と。

そんなことを、頭の中で思い出して
いた。

すると母がまたこう言った。

母「寒くないか?」
私「寒くない」
母「わしのふとんを使え」
私「いい……。これでいい」
母「ちゃんとしたところで寝んせエ
(=寝なさい)」
私「ここでいい」と。

いろいろあった。ありすぎて、ここには
書ききれない。しかし恨みも、つらみも
消えた。

そこにいるのは、やさしい母。
私が子どものころに見た、あの母。

私「何か、したいことがあるか?」
母「K村(=母の生まれ故郷)へ
行ってみてエ」
私「行くだけでいいのか?」
母「だれにも会いたくない……」
私「どうして?」
母「会っても、なんも、話しすることが
ねエ(=ない)」と。

……そのあとのことは、どうしても
思い出せない。

多分、私はそのまま眠ってしまったらしい。
気がつくと、だいだい色の、ぼんやりと
した朝日が、カーテンの向こうで
ゆれていた。

「朝かな?」と思ったが、そのまままた、
一眠りしてしまった。


++++++++++++++++

●運命

 今日、買い物に行くとき、ワイフが、車のハッチバックの角で、頭をぶった。私があけたまま
にしておいたのが、まずかった。

私「ごめん。お前が、荷物を入れると思って、開けたままにしておいた」
ワ「痛かったア……」と。

 ワイフは、しばらく自分の頭をマッサージしていた。

私「頭のケガは気をつけたほうがいい。血栓ができると、それがそのまま脳みその中に入り、

栓性に脳梗塞を起こすこともあるそうだ」
ワ「こわいわね」と。

 そのとき、こんな会話になった。

私「もしぼくが、ハッチバックを閉めておいたら、お前は、頭をぶたなかった」
ワ「そうね。でも、もしそうなら、閉めておいてくれたありがたみが、わからなかったわ」
私「いつものように、なにごともなく、すぎていたよね」
ワ「でも、あなたはハッチバックをあけておいてくれた」
私「荷物を入れやすくするためにね」
ワ「だから、私は、頭をぶった……」と。

 運命というのは、そのときまで姿を現さない。どこかに隠れたまま、私たちを虎視眈々(こし
たんたん)とねらっている。(頭をぶつ)程度のことですんだからよかったようなものの、もし
それが大事故につながるようなものだったとしたら……。

 交通事故でもよい。たとえば交通事故に遭遇すると、ほとんどの人は、「あの日に、車に乗ら
なければよかった」とか、さらに重大な事故だったりすると、「免許証を取らなければよかった」
とか、「車を買わなければよかった」とか、思う。

 しかしその一方で、もし交通事故に遭遇しなければ、そのときはそのときで、何ごともなく日々
はすぎていっただろう。交通事故の恐ろしさなど、知る由もない。車に乗ったことや、免許証を
取ったことや、車を買ったことなどを、後悔することもなかったはず。

 が、ここで運命論者たちは、別の考え方をする。何かの宗教を信じている人に、それは多
い。
つまり人の運命は、超自然的な何かによって、決定されているものだ、と。占いや予言も、こう
した考え方を基盤にしている。

 たとえばワイフが、ハッチバックで頭をぶったことも、さらにその前に、私がハッチバックを
あけたままにしたことも、すでにあらかじめ、決められたことだ、と。

 しかし、これはおかしい。ずいぶんと前だが、私はある男性と、こんな議論をしたことがある。
その男性というのは、あるカルト教団で指導的な立場にいた男性である。

私「私はいま、ここで100円玉を握っている。これから私がこれを落とすかどうか、それも運
命で決まっているのか?」
男「決まっている」
私「じゃあ、これからこのコインを落とす」
男「あなたは、落とすように運命づけられている」
私「じゃあ、やめた。落とさない」
男「それならそうで、落とさないと運命づけられている」
私「じゃあ、どっちなのだ?」
男「どちらにせよ、あなたがするように、すでに運命は決まっている」と。

 その男性に言わせれば、私の意思はないということになる。あっても、その意思すら、あらか
じめ超自然的な何かによって、決定されているということになる。

 ……ということで、あとは、私たち個人の判断ということになる。その男性の言い分を信ずる
か、それとも信じないかという問題ということになる。

 当然のことながら、私は信じない。もし運命があるとするなら、その運命は私たちをつないで
いる無数の糸によって決まる。家族の糸、社会の糸、仕事の糸、健康や肉体の糸、心の問題
など
など。そういった糸が無数にからんで、私たちの進むべき方向を決める。しかしそのほとんど
は、
確率と偶然によって、決まる。

 ただ冒頭に書いたように、その(進むべき方向)は、必ずしも、姿を見せるものではない。交
通事故にしても、事故に遭遇したときはじめて、そこに(予期しなかった糸)があったことを知
る。ワイフがハッチバックで、頭をぶったのも、その一つである。

 さて結論。

 今、おかしな占いが、大流行している。カルト化しているものもある。多くの信者を集めてい
るのもある。さらに最近では、天下のテレビ局が、そうしたカルトに手を貸している。

 こんなことでいいのかなあ?、……という疑問を発したところで、この話は、おしまい。この
ところ、「私の知ったことか!」というニヒリズムばかりが先に立つ。バカな人たちが、バカな
指導者の言いなりになって、バカなことをする。バカなテレビ局が、それに手を貸す。それでぞ
れぞれの人が、その人なりにハッピーなら、それはそれでよいこと。私の知ったことではない。


●自然体で……

+++++++++++++

ますます遅れる。
本来なら、今日あたりは、
マガジンの7月11日号を
書いていなければならない。

しかし6月22日号が、
まだ半分も書いていない。

そのうち、追いつかれるだろう。
そうなったら、マガジンは、
休刊。

しばらく休むことにする。

+++++++++++++

 電子マガジンは、ずっと今まで、1か月先の原稿を書いてきた。そうすることで、読者のみな
さんに、安定的に、マガジンを届けることができた。

 しかしそれがこのところ、思うように書けない。マガジンを出すことのむなしさばかりが、先
に立つ。「こんなことしていて、何になるのだろう」と、そんなことばかりを、考える。本来な
ら、今ごろは、7月11日号か、13日号の原稿を書いていなければならない。しかし実際には、
6月22日号。半分も書いていない。

 そのうち、追いつかれるだろう。アタフタしながら、原稿を書くのは、私のやり方ではない。
しかしそうなったら、マガジンは、しばらく休刊。中には、長く読んでくれている人もいるかも
しれない。が、実際には、読んでくれている人は、恐ろしく少ない。それが最近になって、やっ
とわかってきた。

 1000号まであと少しというのに、何たるザマ! 7月2日号で、903号になる。

 とにかく、ここは自然体でいこう。どうせ、なるようにしか、ならない……。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 22日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある相談から(掲示板より)

++++++++++++++++++

スナックで働くようになった娘(中3)
についての相談があった。

++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

はやし先生へ
初めまして。
高校2年、中学3年、小学校1年と3人の娘を持つ母(40才)です。
今回中3の二女のことで、ご相談したくメールさせて頂きました。

毎日、毎日が不安で、子どもにどう向かっていったらいいのか、自分を見失っています。
私は、長女が6才、二女が4才の時に離婚をしました。そして再婚。

主人(34才)は、それは優しく穏やかな人で、何よりも家庭を第一に考えてくれる、す
てきな人です。正式に結婚するまでには、2年ぐらいおつきあいしていたので、子どもた
ちも、すんなりとお父さんと呼んでくれました。自分でも仕事をもっていたので忙しい日々
でしたが、私の実母がこどもたちの面倒をみてくれていたので、なんとか乗り越えてきた
と思っていました。

二女が、中学に入学し変わっていくまでは・・・。

服装の乱れ、授業態度が悪くなる、部活動をさぼることから始まり、突然の家出。
二女の置き手紙には、自分だけお父さんと話せないのが嫌です。
友達がまだ遊んでいるのに自分だけ帰らなくてはいけないのが嫌です・・・
たくさんの不満がつづられていました。

お父さんも私も、ハッとする所があったと思います。
でもその時の私達は、これ以上娘を悪くさせてたまるか! 絶対目をはなさい。ダメな親
だと思われたくない。すごい意気込みだったと思います。娘の友達の親から、「それじゃあ
まりにも厳しすぎて、窮屈でかわいそうだ。」と言われるほどでした。

先生のHPを読ませて頂いて、確信してしまいました。私は、娘に大きなゆがみを与えて
しまったことにです。

それから、1年半。坂道をかけ落ちるかのように娘は変わってしまいました。
授業妨害、夜遊び、化粧、タバコ、飲酒、万引き、繰り返す家出・・・。

その都度、担任、学年主任、児童相談所、先輩のお母さんがた・・・。

とにかくたくさんの方々に相談し、毎日、今自分たちにできることはなんなのか?
夫婦で話し合ってきました。そして、娘の帰るべき所、心休まる所を家庭にしようとして
きました。

あの子を理解し、温かい気持ちで包んであげたいと、ただただそれだけを考え、必死でし
た。

生活態度は、相変わらずですが、娘の私たちに対する態度が明らかに変わり、笑顔での会
話が増えました。家にいることも多くなりました。きっと良い方向に向かうと信じ・・・。

でも、家出したときに世話になった先輩達とスナックで働きたいと言いだしたのは、2週
間前のこと。「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃま
をしないで、高校進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。
もう万引きなんてしない。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」

もちろん反対しました。説得しました。中学生が夜の世界ではたらくなんて、犯罪じゃな
いか、黙認しろなんて・・・このことは、まだ、誰にも相談できずにいます。

玄関に座り込んで、絶対に行かせないって言うべきか、店に乗り込んで、この子はまだ中
学生なので、連れて帰りますと、強行するべきか。何か行動を起して、その結果今度は、
どうなってしまうのか、不安で、怖くて、夜働きにでる娘になにもできないでいます。

私は、どうすべきなのでしょうか。こんなダメな親ですが、あの子が好きです。大切です。
文章がまとまらずすみません。アドバイスを頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

【はやし浩司からUさんへ】

一言で言えば、『許して、忘れなさい』ということでしょうか。あなたの二女は、あなた
が考えているより、はるかにおとなですし、すでにあなたの手の届かないところに巣立
っています。とても残念ですが、今、あなたができることは、ほとんどというより、何
もありません。

 もしあるとすれば、二女がいつ帰ってきてもよいように、窓をあけ、温かいふとんを用
意しておくことくらいなものです。むしろあなたの心配、不安が、二女を、さらに混乱さ
せる結果となっていることに注意してください。もっと言えば、あなたは二女を、ほとん
ど信じていない。それが二女にとっては、不満であり、苦痛なわけです。

 「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃまをしない
で、高校進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。もう万引
きなんてしない。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」という言葉の中に、今
の二女の気持ちが集約されていると思います。

 今、大切なことは、今の状態をこれ以上悪くしないこと。現状を受け入れ、あきらめ、
この段階で、ストップをかけることです。今、ここで「スナックで働くのを阻止する」と
いう行動に出れば、二女は、さらに、そのつぎのステップへと進んでしまうでしょう。あ
なたは今の状態を、ドン底と考えているようですが、そのドン底にはさらにつぎのドン底
があるということです。

 (本当は、ドン底でも何でもないのですが……。)

 ちょうど半年ほど前にも、たいへんよく似たケースを経験しました。相談をしてきたの
は、中3の男子をもつ母親でした。その男子が、ガールフレンドの家で寝泊まりするよう
になってしまったというのです。

 相手の女子の親は、「もし反対すれば、娘もいっしょに家出してしまうかもしれない」と
いうことで、その男子と同居させていました。(マガジンの過去版で、それについて書いた
ことがあります。)

 こういうケースでも、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて対処する」が
鉄則です。「なおそう」とか、「もとに戻そう」と考えて行動すればするほど、二番底、三
番底へと落ちていきます。(本当は、落ちるのではありませんが……。親から見ると、そう
見えるだけの話ですが……。)

 子どもの巣立ちのし方には、いろいろあります。どういう巣立ちのし方をするかは、そ
の子どもが決めます。しかもその巣立ちのし方は、必ずしも、美しいものばかりではあり
ません。では、どうするか。

 ここまできたら、腹を決めなさい。覚悟しなさい。ジタバタしないで、あなたは自分の
子どもを信じて、一歩、引きさがりなさい。今は、中3ですが、あとは時間が解決してく
れます。

 先の男子のケースもそうですが、その男子は、母親にこう言っていました。「迎えに来た
ら、お前をぶっ殺す」と。が、その男子は、入試直前に家にもどってきました。そして今
は、何ごともなかったかのように、高校に通っています。

 「あなたはあなたの道を行きなさい」「お母さんは、あなたを信じていますからね」と、
一度、肩をたたいてあげる。同時に、あなたは、今の苦しみから解放されます。『あきらめ
は悟りの境地』という格言を考えたこともあります。

 子どもは、許して忘れる。あとは時の流れに任せて、あきらめる。その度量の深さが、
あなたという親の「愛」の深さを決めます。今こそ、正念場ですよ。スナック勤務を勧め
るわけではありませんが、職業に偏見は禁物です。

 あなたにすれば、「どうしてうちの子が!」ということになりますが、いまどき、この種
の問題は、珍しくも何ともありません。あなたの町のあなたの町内でも、あるいはあなた
の近所でも、日常茶飯事として起きていることです。

 二女は、ふつうの子ども以上に、常識豊かな子どもとなって、必ず、あなたのところに
戻ってきますよ。二女は二女なりに、今、自分さがしの旅に出たのだと思ってください。
忘れていけないのは、あなたが苦しんでいる以上に、あなたの二女もまた、苦しんでいる
ということ。加えて、親の束縛感、重圧感、(これらをまとめて自我群と言いますが)、そ
れにも苦しんでいます。

 あえて言うなら、そこまで自分のことを考えている子どもという点で、すばらしい子ど
もではありませんか。今、あなたたちは、たがいにキズつけあっているだけ。どうして愛
し合っていながら、そんなことをするのですか?

 くりかえしますが、あなたが二女を信じているかぎり、またその気持ちが二女に伝わっ
ているかぎり、二女は、今の段階で自分をもちなおし、時期がきたら、必ず、あなたのと
ころへもどってきます。

 だから今すぐ、あなたは二女にこう言ってあげなさい。「お母さんは、どんなことがあっ
ても、あなたを守ってあげるからね。いつでも、好きなときに、もどってきてね」と。

 『許して忘れる』について書いた原稿を添付します。私はこの原稿を書いているとき、
一行ごとに、大粒の涙を流しました。今でもそのときのことをよく覚えています。

++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子
どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育
てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそん
な甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真
の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてく
るような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失
礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそん
な親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよう
に、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなく
してから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には3人の息子がいるが、そのうちの2人を、あやうく海でなくすところだった。と
くに二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、し
かもほとんど人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。

あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮
かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思ってい
た。が、3歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると
上の2人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私
は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、
それもできなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水
泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思い
なおすことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰
り返したときも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きてい
るだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というの
は、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということ
だが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下か
ら見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決す
るから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んで
いると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。

英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与
えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳
せる。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、
この言葉の意味をずっと考えていたように思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切
った。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子ども
ではないか。許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに
愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。

そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。
もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということでは
ない。子どもの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子ど
もを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自
分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分のものとして認
めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生き
ている」という原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い
出してみてほしい。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

+++++++++++++++

もう一作、似たような原稿ですが……。

+++++++++++++++

【子育てのすばらしさを教えられるとき】

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自
分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう
感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ている
と、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。

 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感
じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思っ
て生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れ
のようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育て
をしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流
れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても
いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。

 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものでき
の悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者
や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人
にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、
たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやし
てくれる。

●神や仏の使者
 
たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生き
ることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、
その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、
それでよい。それでわかる。

 子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、
そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未
来永劫にわたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれ
る。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそ
れに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかと
いって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(6月7日)

+++++++++++++++

夜中に、ふとんをはいでしまっていた。
おかげで、今朝は、寝起きから風邪気味。
今日は、K小学校で講演をひかえている
というのに、何たる、ザマ!

少し原稿を書いてから、また床に入る
つもり。風邪薬は、のんだ。食欲は
ある。

あとはビタミンC(アスコルビン酸)を
たっぷりととって、1〜2時間眠る。

+++++++++++++++

●受験に失敗する?

 以前は、このあたりでは、高校入試が、(入試の関門)になっていた。今は、それが3年
早くなり、中学入試が、(入試の関門)になった。

 おかげで進学塾は、息を吹き返した。生徒が、実質、2倍になったことになる。が、そ
の分だけ、つまり受験年齢が低年齢化した分だけ、弊害も現れるようになった。わかりや
すく言えば、このあたりでも、小学3,4年生ごろから、子どもたちは、受験勉強の準備
にとりかかる。子どもたちというよりは、親たちが、準備にとりかかる。

 いろいろ書きたいことはあるが、この話は、ここまで。

 で、そういう子どもたちを見ていると、(成功組)と(失敗組)が、あらかじめ、ある程
度予想できる。(成功組)の子どもは、力に余裕があり、どっしりと落ち着いている。(失
敗組)は、背伸びをしながら、どこかバタバタした状態になる。

 たとえて言うなら、収入の範囲で、安定的な生活をしている組と、借金に借金を重ね、
毎日その借金取りに追いまくられて生活している組ということになる。

 が、この時期、一度、バタバタし始めると、もうあとがない。成績は確実に、さがる。
受験勉強など、どこかへ吹き飛んでしまう。あとは、この悪循環。しかし私の立場では、
何も言えない。言ったところで、親自身に、(聞く耳)がない。親自身も、バタバタした感
じになる。

 これについてもいろいろ書きたいことはあるが、ここまで。今朝は、どうも頭の中がす
っきりしない。やはり風邪のせいか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マガジン

++++++++++++++

本来なら、今ごろは、7月9日
号の原稿を書いていなければ
ならない。

しかし実際には、6月20日号?

遅れること、約20日。

私の電子マガジンも、風前の灯火。

今月(6月)は、HTML版(カラー版)の
マガジンも休止している。

忙しいというよりは、やる気を
支えるだけで精いっぱい。

読者はふえない。協力してくれる
人も、ほとんどいない。

先日は、「電子(無料)マガジンを解約
できない。そちら(=私)のほうで
してくれ」と言ってきた女性がいた。

どうやら別のアドレスで購読を申し込んで、
それを忘れてしまったらしい。

こういうことがつづくと、電子マガジンを
発行するのもいやになる。

しかし1000号まで、あと少し。
がんばろう。がんばります。
がんばるしかない。

+++++++++++++++

 ときどき「私も電子マガジンを発行してみよう」という人に出会う。しかしそういうと
き私は、こう答えるようにしている。

 「何しろ、読者の顔の見えない世界のことですから、それなりの覚悟はしておいたほう
がいいですよ」と。

 「それなりの覚悟」というのは、一言で表現すれば、「ボランティア活動と思うこと」と
いう意味である。その精神がなければ、電子マガジンの発行は、やめたほうがよい。その
精神があるなら、あとは何も考えずに、ただひたすらマガジンを発行したらよい。

 だれのためでもない。自分のためである。たとえて言うなら、毎日のジョギングに似て
いる。書くことによって、脳みその健康を維持することができる。読者がいてもいなくて
も、つまり観客がいてもいなくても、そういうことは気にせず、自分の道を進む。

 もちろん大切なことは、1人でも2人でも、ひょっとしたら熱心に読んでくれている人
がいるかもしれないということを、忘れないこと。1人か2人でよい。そういう人たちは
夜空に光る星のようなもの。小さな希望かもしれないが、その希望が、書く者の気持ちを
支えてくれる。

 私のマガジンについていえば、近くの(わかば耳鼻咽喉科医院)のスタッフのみなさん
が、そうである。一度、「廃刊にしょうか」と迷ったとき、その医院のみなさんが、私を支
えてくれた。だから再び、こう心に決めた。「1000号までつづけよう」と。

 1000号まで、あと1年と、少し。

 やはり風邪気味のようだ。ここで一休止。おやすみなさい! +わかば耳鼻咽喉科のみ
なさん、いつも声援、ありがとうございます!!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●介護の限界

++++++++++++++

このところ、介護の限界を
強く感ずる。

事故もいくつか重なった……。

++++++++++++++

 家庭での介護には、限界がある。その限界を、このところ強く感ずる。事故もいくつか、
重なった。

 ある日、廊下からふと、母の部屋を見ると、母が、さかさまになったまま、ベッドの横
でもがいていた。見ると、ベッドから、体を落とし、頭が、ベッドと手すりの間にはさま
ってしまっていた。

 あわてて起こしたからよかったようなものの、発見が1時間でも遅れていたら、母は死
んでいたかもしれない。

 ワイフも同じような経験をしている。

 母が大声で叫んでいるので見に行ったら、母は、洋服掛けの向こうに倒れ、やはりさか
さまになっていた。頭はその向こうの箱の中に隠れていたという。たぶん、箱の中の自分
の服を取ろうとして、そのまま鉄棒の前回りのようになって、向こう側に落ちてしまった
らしい。このときも、発見が早かったから、よかった。

 ベッドの横の柵は、はずした。洋服の入った箱は、洋服掛けの手前に置いた。が、それ
だけではない。

 母は、窓を閉めるつもりで、別の窓をあけてしまう。だから夜中じゅう、窓があいた状
態になる。それで顔中、蚊に刺されてしまった。ケサ・センターの人はそれを見て、発疹
ではないかと、病院へ母を回してくれた。そして今朝も……。

 たまたま夜中に長男が、母の部屋の前の廊下を歩いていると、母の助けを呼ぶ声が聞こ
えた。見ると、母は、床の上で寝ていたという。ふとんは、反対側に落ちてしまっていた。
母は、落ちたふとんすら、もう、自分では拾えない。

 今朝も、たまたま長男が発見してくれたからよかったようなものの、もし長男が発見し
ていなければ、やはり……? ゾーッ!

 以前は、無線の呼び出しベルをそばに置いたが、夜中に何度も起こされたりしたことも
あり、それは片づけた。しかも肝心なときには、母は、そのベルのことは忘れてしまう。
まだらボケというのか、脳みそも、調子のよいときと、悪いときがある。

 こうしたことがつぎつぎと重なって、このところ、母の介護に限界を感ずるようになっ
た。ケア・マネージャーの方に相談すると、こう言った。「家庭での介護は、無理のようで
すね」と。

 が、特別養護老人ホームというところへは、簡単には入所できない。この2月ごろに相
談に行くと、「2、3年待ちです」とか、「3〜40人待ちです」とか言われた。新規にオ
ープンした老人ホームだと、申し込みと同時に入所できることもあるという。

 で、「2、3年待ちかア〜」ということで、先週、入所申し込みだけでもしておこうと考
えて、近くの特別養護老人ホームを訪ねてみた。母はすでに寝たきりに近い状態になって
いる。介護度は、「4」。「ほとんど5に近い、4」ということだった。

 ところがここで思わぬハプニング……というか、運(「運」という言葉は不適切だが……)
が向いてきた。たまたま相談に行った直前、一人の老人が退出することになった。部屋が
あくことになった。しかも応対してくれた人が、トップの人だった。

 「今なら、何とかできますが……」と。

 特別養護老人ホームにもいろいろある。その老人ホームは、この浜松市でも人気度ナン
バーワンと言われるほど、設備が整っている。個室にしても、15〜20畳間くらいの広
さがある。4人部屋でも、1人分、12畳間近くもある。広々しているのが、何よりもよ
い。

 私はウーンとためらったと、「お願いします」と言った。「入れるときに入っておかない
と、つぎはいつになるかわからないわよ」と、義理の姉も言っていた。もちろん入所する
といっても、無料ではない。その老人の収入と財産に応じて、入所費はちがう。その出費
は、当然、私の負担となる。

 ……こうして私の母は、特別養護老人ホームに入所することになった。「もう少し頑張れ
るかな……」という気持ちもないわけではないが、このところ母は、急速に体力を落とし
ている。今では一度床に座ると、そばに支えがあっても、自分で立ちあがることさえでき
ない。

 ワイフが、介護疲れから解放されるという喜びと、「母もいよいよその時期が来たのだな」
というさみしさ。それが交互に心の中にわいては消える。

 生まれたときは、みな、赤ん坊は同じような顔をしている。しかし臨終の迎え方は、千
差万別。人によって、みな、ちがう。恐ろしいほど、ちがう。センターから出るとき、ワ
イフとそんな話をしていた。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●社会保険庁を解体せよ!

++++++++++++++

社会保険庁のずさんな事務管理に
腹を立てている人は、少なくない。

報道によれば、何と5000万人
分の保険者の記録が、紛失してい
たという。

++++++++++++++

 前からおかしいと思っていたが、しかしここまでおかしいとは、だれが予想していただ
ろうか? あろうことか5000万人分の記録が、紛失していたという。5000万人と
いえば、日本の人口の約半分ということになる!

 そこで政府は、被害者救済法案まで立法して、これら5000万人の人たちを救済する
ことにした(6月5日)。「年金時効撤廃特例法案」というのがそれだが、時効(5年)の
ため受け取れなかった過去の不足分を、一時金として支給する際に、所得税を課税しない
ようにするという。

 はっきり言おう。社会保険庁など、いらない。不要。廃止にしたらよい。

 たとえばドイツを見てみよう。ドイツでは、年金は完全に一元化している。その年齢に
なれば、過去にどんな仕事をしていても、またどこに住んでいても、同じ年金が支給され
る。

 金持ちも、貧乏人もない。公務員も、会社員も、個人商店主もない。みな、一律、平等
である。

 このわかりやすが、その一方で、小さな政府づくりに、手を貸している。で、先日、オ
ーストラリアへ行ったときのこと。オーストラリア人の友人と、年金の話をした。オース
トラリアの制度も、ドイツの制度と、よく似ている。

私「政府が出してくれる年金だけで、生活できるのか」
オ「最低限の生活だが、何とかできる」
私「老人になって、介護が必要になったらどうなのか」
オ「最低限の介護は受けられるようになっている」
私「では、多くの年金がほしい人や、よりよい介護を受けるためには、どうしたらいいの
か?」
オ「個人が、それぞれ、(民間の)保険会社と契約して、保険金をそこへ払っている」と。

 つまり政府は、最低限の年金だが、平等に支給する。それ以上の額については、あくま
でも個人の判断としている。

 わかりやすく言えば、国民年金だの、共済年金だの、厚生年金だのと、区別するほうが
おかしい。このほか、日本には、企業年金というものまである。

さらにその中身を見ると、「追加費用(公務員だけに適応された、支払全額免除制度)」、
公務員の共済制度の中における「職域加算」などがある。加えて最近では、「離婚時の年
金分割制度」まで生まれた。

つまり年金の種類が多ければ多いほど、また中身が複雑化すればするほど、それだけ事
務手続きは、煩雑(はんざつ)になる。そしてその分だけ、それを管理する、より多く
の人員(=公務員)が必要となる。

 今の日本の社会保険庁は、その(結果)と考えてよい。

 そこで登場したのが、年金の一元化。しかしこれとて、うまくいくはずがない。「官民格
差」は歴然としている。「官」が一度手にした利得を、そうは簡単に手放すわけがない。

 だったら、どうすればよいのか? 

方向性としては、ドイツやオーストラリアのように、わかりやすくすればよい。人間は
みな、平等。パートの仕事をした人も、フリーターも、みな、平等。その年齢になった
ら、みな、同じ、年金をもらえるようにすればよい。それで足りないと思う人は、自分
の能力と収入に応じて、若いときから保険に加入すればよい。

 だから……。社会保険庁なんて、いらない! 不要! 現在の年金制度を維持するため
に、どれだけ莫大な税金が、社会保険庁の人件費として、ムダに使われていることか! そ
れがわかったら、社会保険庁など廃止したらよい。

 「5000万人分の記録を紛失した」というが、しかしこの事件は、起こるべきして起
きた事件とも言える。中には、年に数回以上、職業を変える人だっている。失業、就職を
繰りかえす人だっている。そういう人たちが、引っ越しか何かで、転々と住所を変えるこ
とだってある。

 そういう人の動きを、すべて、「記録」によって、把握できると考えるほうが、おかしい。
だったら、ここに書いたように、年金を一元化すると同時に、一律化すればよい。今、す
ぐには無理としても、10年先、20年先にはそうなるようにすればよい。

 「あなたは満65歳になりましたから、今年から、年金を受給できます」と。たったそ
の一言だけで、すべてが片づく。片づくようにする。日本も、なぜ、そうしないのか? 言
い忘れたが、わかりやすい制度、簡単な制度、ついでに小さな政府。これはもう、世界の
常識。日本も、これから先、そういう国をめざしたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●「実感なき景気拡大」

+++++++++++++

戦後の、いざなぎ景気(65〜)、
バブル景気(86〜)についで、
今は、「実感なき景気拡大」期
(02〜)という。

その名のとおり、まったく実感
がない。

+++++++++++++

 戦後の、いざなぎ景気(65〜)、バブル景気(86〜)についで、今は、「実感なき景
気拡大」期(02〜)という。その名のとおり、景気は拡大しているとは言うものの、ま
ったく実感がない。

 経済成長率を比較しても、いざなぎ景気(11・5%)、バブル景気(5・4%)に対し
て、現在の「実感なき景気拡大」は、たったの2・4%。それもそのはず、この間、地価
は30%以上下落、給料も全体としてみると、1・2%も下落している。

 政府と日銀は、「ジャブジャブ」(某経済誌)にお金をバラまいている。しかしそういっ
たお金は、いったい、どこへ消えてしまったのか? 「まさに実感なき景気拡大」という
ことになる。

 ……という話は、書くだけ、ヤボ。ほとんどのお金は銀行へと消え、その銀行は、海外
投資を活発にしつづけている。わかりやすく言えば、日本中の銀行が、今、世界のサラ金
として機能している。そのおかげで、どこの銀行も、今、空前の高利益を手にしている。

 よいのかなア……? よくないのかなア……?

 私にはよくわからないが、現実としては、たしかに生活は苦しくなってきている。物価
が高くなったという印象はないが、何をするにも、お金がかかる。何をするにも、出費が
重なる。

 お金を使わないでいようと思えば、家の中で、ただじっとしているしかない。そういう
意味では、たしかに苦しくなってきている。

 しかしまあ、一度は崖っぷちに立たされた日本経済だが、よくもここまで立ちなおった
ものだと思う。政策がよかったというよりは、中国経済に支えられた。中国特需に支えら
れた。今となってみれば、「中国、様々」ということになる。

 もし中国の経済発展がなければ、今ごろは、本当に日本は、太平洋の海溝へと沈んでい
たことだろう。が、これで問題が解決したわけではない。依然として、日本は、1000
兆円近い借金をかかえている。この借金は、手つかずのまま。本来なら、今、矢継ぎ早に
行政改革(=官僚制度の是正)をしなければならないのだが、それはみなさんご存知のと
おり。遅々として進んでいない。

 むしろ逆に、多少景気がよくなった(?)のをよいことに、ますます「行政」は、肥大
化している。公務員の数にしても、減るどころか、かえって増えている!

 実感なき景気拡大……今しばらくはつづくとしても、先は、それほど明るくない。頼み
の中国にしても、このところ少しおかしくなってきた。おととい、上海B株は、約8%も
下落した。

 暗い話ばかりで恐縮だが、中国がコケれば、この景気拡大も終わる。さあ、どうする、
日本! その準備はできているのか?


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●やはり、おかしい?

+++++++++++++++

K国からの脱北者らしき4人の
乗った小舟が、青森県のある港に
漂着した。

それについて、その直後(6月3日)、
私は、「おかしい」と書いた。

新聞に寄稿した識者(?)は、みな、
「人道」を歌い、「手厚く保護すべき」と
主張していた。

しかしどこをどう考えても、おかしい。
おかしいものは、おかしい。

彼らは、本当に、脱北者なのか?

+++++++++++++++++

 K国からの脱北者とみられる、4人の男女が乗った小舟が、青森県のある港に漂着した。
そのニュースが報道された直後、つまり6月3日、私はそれを、「おかしい?」と書いた。
それについての原稿を、そのままここに再掲載する。

++++++++++

●本当かな?
 
 青森県のある漁村に、小さな舟がたどりついた。K国からの脱北者らしいという。しか
しあんな小舟で、800キロ(中日新聞報道)もの海を渡ることができるのだろうか。写
真で見るところ、幅こそやや広いが、浜名湖でよく見かける釣り船よりも小さい。

 報道によれば、6日間(実際には5日間)をかけて、K国の東海岸から、日本へやって
きたという。単純に計算すれば、800キロ÷(5x24時間)=6・7キロ、つまり時
速6・7キロで日本へやってきたことになる

 さっそく何人かの識者たちは、(人道)という言葉を使って、脱北者らしき人たちを保護
すべきと主張している。

 しかし本当に脱北者なのか? そう考えてよいのか? このところこの浜松でも強風が
吹き荒れていた。天候も不順で、変わりやすかった。現在、事情を調査しているというこ
となので、そのあたりも、当然調べていることと思う。しかしあんな小舟で、800キロ!?

 「北朝鮮には人権がないので出国を決めた。はじめは韓国へ行く予定だったが、軍事境
界線の警備が厳しいので、日本に向かった」(ヤフー・ニュース)と供述している点も、あ
やしい。

 人権があるかないかということは、K国を離れてはじめてわかること。K国から日本へ
やってきた直後に、(人権)という言葉を使うところがおかしい。

 どうも、私には、納得できない。いや、それ以上に、「?」と思うのは、いとも簡単に、
小舟であるにせよ、K国の船が、日本の港に着いてしまったこと。もしそれが武装船だっ
たら、どうするのか? 着いたところが青森の漁港ではなく、原子力発電所の近くだった
ら、どうするのか?

 日本の防衛は、だいじょうぶなのか? 私は、むしろ、そちらのほうを心配する。

 韓国では今、偽装脱北者が問題になっている。脱北者のフリをして、K国から韓国に渡
り、韓国内の脱北者をスパイするという脱北者である。(人道)も結構だが、ことは慎重に!

(付記)若いころ、私も浜名湖でよく釣り船に乗った。ある時期は毎週のように乗った。
そんな釣り船でも、湖が少しでも荒れると、航行不能になる。いわんや、日本海! 「脱
北者」と決めてかかる前に、少し、疑ってみたほうがよいのでは? K国という国は、あ
の手この手、ありとあらゆる手を使って、日本をだましてきた国である。それを忘れては
いけない。

+++++++++++++

 その後の調査で、いろいろなことがわかってきた。

(1)ディーゼルエンジンを2基も、積んでいたこと。
(2)200リットルの軽油を積んでいて、うち80リットルが残っていたこと。

 K国では、軽油1リットルといえば、平均的労働者の1か月分の給料に相当するという。
200リットルと言えば、200か月分!

 さらに仮にそうであったとしても、つまり軽油を手に入れることはできたとしても、木
造の小舟が、110リットル(200−90=110※)の軽油で、800〜900キロ
もの日本海を横切ることができるというのか。

 平坦な自動車道を車で走るときでも、リッターあたり、15〜20キロが限度。浜名湖
を船外機で走るときでさえ、10〜15リッターのガソリンで、1〜2時間程度、周遊す
るのが限度(浜名湖漁船店の主人の話)。リッターあたり、1〜3キロがやっとということ
になる。

 単純に計算すれば、彼ら4人は、軽油だけで200か月分の給料を注いで、日本へやっ
てきたことになる。しかも110リットルの軽油で、直線距離にして、800〜900キ
ロ!

 さらにおかしなことは、写真を見ると、喫水(きっすい・水面から船底面までの垂直距
離)が、あまりにも浅く、側板の高さも、見たところ40センチ前後しかない。加えて平
底の小舟。青森県のある漁師も、こう言っていた。「あんな舟で、よく日本海を渡れたもの
だ」(報道)と。

 波のうねりが1メートルもあり、そこへあんな小舟がつっこめば、舟はたちまち水をか
ぶる。木造船だから沈まないにしても、舟は、そのままバスタブのようになってしまうだ
ろう。

 常識で考えれば、あの小舟は、日本の近海まで別の船で運ばれ、そこから日本をめざし
たということになる。

 が、何と言ってもおかしいのは、漂着直後に、「K国には、人権がない」と発言している
ところ。これは私の経験から考えても、本当におかしい。

 話は、ぐんと過去にさかのぼるが、1970年の春、私は単身、オーストラリアに渡っ
た。そのときのこと。

 私は、それまで日本は自由の国だと思っていた。民主主義国家だと思っていた。が、オ
ーストラリアで見た自由、それに民主主義は、まったく異質のものだった。そしてやがて、
私は、……といっても、何か月もたってからのことだが、「日本には真の自由はない」「日
本の民主主義は、ニセモノだ」ということを知った。

 つまり「K国に人権がない」というのは、K国の外に住んでみてはじめてわかること。
またその上で、そう発言するなら、私にも納得する。しかしK国の外に出たこともない、
K国の脱北者(?)が、「K国には人権がない」とは? そう言えば、別の報道によれば、
「K国には、自由がない」と発言しているとも。

 K国で生まれ育ち、その国で教育を受けたとするなら、K国に人権がないとか、自由が
ないとかいうことは、わからないはず。そういった問題意識をもつことすらないはず。

 何からなにまで、考えれば考えるほどおかしな事件だが、ついでに一言。

 当日(6月3日)、2人の識者(?)が、この脱北者(?)について、新聞にコメントを
寄せていた(中日新聞)。

 2人とも、「人道」という言葉を最前面に出し、「手厚く保護すべし」と述べていた。

 今から思うと、実にオメデタイというか、ノー天気なコメントである。相手は、あのK
国である。今まで、さんざん日本をだましてきた、あのK国である。とくに大阪のK大学
のR教授の発言には、じゅうぶん、注意したらよい。トンチンカンを通り越して、いった
い、この人はどこの国の利益を第一に考えて発言しているのか、よくわからないときがあ
る。

 たとえば先の6か国協議の前には、K国を支持し、「核開発問題は、これで今年中(07
年度中)に解決する」などと発言していた。

 彼らは本当に脱北者なのか。それとも、偽装脱北者なのか。親子兄弟ということになっ
ているが、それが本当かどうかは、DNA鑑定をすれば、すぐわかるはず。そういった面
からも、徹底的に調査すべきである。

 で、もし偽装脱北者ということがはっきりすれば、韓国へではなく、中国経由で、K国
に送りかえせばよい。K国も、喜んで(?)、彼らを迎えてくれるはず。

(注)そう言えば、今回は、あのK国は沈黙を保ったまま。いつもなら、「脱北者を返せ」
と騒ぐはずなのに、どうして今回は、静かなのだろう。考えてみれば、これもおかしなこ
とだ。

(※補注)『K国東部の清津港を木製の船で出港し、今月2日に日本の青森県H町に漂着し
たところを保護された脱北者4人が、船に高価な燃料と予備エンジンを備えていただけで
なく、貧困層にとって入手が難しい腕時計を全員が持っていたことが分かり、論議を呼ん
でいる。共同通信が5日、伝えた。

 報道によると、4人は警察の取り調べに対し、「1日おきにパンを食べ延命した」などと
生活苦が北朝鮮脱出の動機だと主張しているが、高級品所持の発見で4人が中流以上の生
活をしていたのではないかとの見方が出ているという。

 4人が乗っていた木製の船には、予備用を含むディーゼルエンジン2基が搭載されてお
り、軽油200リットルのうち90リットルが残っていた。

 北朝鮮の生活に詳しい山梨学院大の宮塚利雄教授(朝鮮近現代経済史)は、共同通信の
取材に対し、軽油は1リットル当たりの値段が平均的な給与の1か月分で、「予備エンジン
を含め、かなりの資金が必要だったはず」と分析した。

 同教授はまた、「腕時計も北朝鮮では高価な物。普通の市民はまともに食べられるだけで
も窮乏しているとは考えない」とした上で、「タコ漁の収入だけで家計を支え、祖父母を養
ってきた」という供述にも懐疑的な見方を示した』(ヤフー・ニュースより)。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●金は天下の回りもの

自分から自分を、どんどんと取り除いて
いく。自分を飾っているものを、どんどんと
取り除いていく。名誉、地位、そして財産……。

最後に残るのは、自分の肉体と魂。
ふと、そういう自分を見ながら、今まで
こうして無事に生きてこられたことを、
感謝する。

だれに感謝するというのでもない。
自分の(命)に感謝する。(運)に
感謝する。

いろいろあった。いろいろやってきた。
どうということのない人生だったが、
「まあ、こんなもの」と、自分に
言って聞かせる。自分をなぐさめる。

ところでこの年齢になって気がついたが、
「金(マネー)」の世界から縁を切る
ことは、本当に、むずかしい。いくら
切ろうとしても、向こうからペタペタと
張りついてくる。

いまだに「金(マネー)」の毒気が、
身に深く、しみついている。わずかな
「金(マネー)」に執着して、悶々と
魂をわずらわす。

言い忘れたが、名誉や地位など、私には、
もとから関係ない。そういう世界とは、
20代のはじめに、縁を切った。

だからということでもないが、その分だけ、
私のエネルギーは、「金(マネー)」へと
向いた。それほど意識したわけではないが、
結果的にみると、そういうことになった。

が、加齢とともに、体力は衰え、気力も
衰える。当然のことながら、収入も減る。
とたん、またまた、あの毒気。何一つ
不自由はないはずなのに、その毒気が、
私を不安にする。不安定にする。

今、中国では、「金(マネー)」の亡者たちが、
狂ったように、株投資を繰りかえしていると
いう。ときどきテレビのニュースなどでも、
そういう様子が紹介される。

私たちはそれを笑って見るが、しかしどうして
それを笑うことができるだろうか。その姿は、
20年前、30年前の、私たちの姿、そのもの。

もちろん「金(マネー)」がなければ、人は
不幸になる。それはわかる。しかし幸福は、
「金(マネー)」では買えない。心の豊かさは
「金(マネー)」では買えない。さらに言えば、
命を「金(マネー)」では買うことはできない。

にもかかわらず、その毒気で、心をわずらわす。
どうしてか? 

この日本でも、「金(マネー)」が、一般社会で
流通しはじめたのは、江戸時代も中期になって
からだという。

それまでは、「金(マネー)」は、特殊な存在だ
った。私の印象では、今でいう、「債権」のよう
なものではなかったか。証券会社に預けた証券
のようなものではなかったか。

となると、それまでの人たちは、今の私たちと
は、かなりちがった生活をしていたはず。生きる
基準そのものがちがっていた。……となると、
その基準は、何だったのか。どこにあったのか。

そこで再び、今の中国に、思いをはせる。
私が見たニュースでは、人々が、狭い部屋で
ひしめきあって、株価を示す電光掲示板を
じっと見つめていた。ある証券会社の窓口での
光景だった。

それが彼らにとっては「仕事」かもしれないが、
しかしだれも、それを仕事とは思わない。また
そんなことをしても、仕事の実感を得ることは
できない。

つまり私たちは、そういう中国の人たちの延長
線上にいる。なりの果てと言ってもよい。

が、一度体にしみついた毒気を取り除くことは、
容易なことではない。体のシンの、そのまたシン
にまで、しみついている。

あああ……。この毒気を取り除くためには、
いったい、どうすればいいのだ。方法があると
すれば、、うんざりするほどの「金(マネー)」を
手にすること。100億円とか、1000億円
とか……。

しかしそれで本当に、魂は解放されるのか?
「金(マネー)」でけがされた心は解放されるのか?
かえって「金(マネー)」の奴隷になるだけでは
ないのか?

ここらが私の潮時かもしれない。人には、それ
ぞれ潮時というものがある。満ち潮になるときも
あれば、引き潮になるときもある。

つまりあるがままの自分を認め、それを受け入れる。
そして自分自身に感謝する。

今、ここに生きていることに感謝する。ともかくも、
体が動くことに感謝する。ものを考えることが
できることに感謝する。

すべてを、ここを基準にして、ものを考える。
それがこの私から、「金(マネー)」という毒気を
抜く唯一の方法だと、今の私は、そう思う。

【追記】

 昔、「信じられるのは、金(マネー)だけだ」と言った人がいた。かなりの実業家で、市
内に、資金運用のためだけの事務所さえもっていた。私はその事務所で、その人のために
本を代筆していた。

 当時は、その人がたいへん魅力的に見えた。電話1本だけで、10〜100万円単位の
お金を、右から左へと動かしていた。今で言う投資家の1人ではなかったか。市内で結婚
式場や、アパートを経営していた。

 そうそう当時話題になっていた、キュー・エイ・カンという人の書いた経営指南書の大
ファンで、私にもそれを読めと、何冊かくれたことがある。

 もちろん話すことといえば、金儲けのことばかり。顔をあわせれば、すぐお金の話にな
った。私の知らない世界の話だけに、私は、その人に話に夢中になった。プラス、小遣い
も、よくくれた。豪華な料理も、毎週のように食べさせてくれた。

 しかしその人は、そのあと、5、6年で、没落。一つの会社が不渡りを出したのをきっ
かけに、あとは連鎖的に、すべての会社を失ってしまった。聞くところによると、その人
はそのあと、精神病院に入院したという。私はその話を聞いて、「ありえる話だな」と思っ
た。その人は、それまで信仰してきたもの、すべてを失った。

 そのあと一度だけ会ったことがある。どこかのバス停からバスをおり、そのまま前に向
かって歩いていた。そのときは、まるで別人のようになってしまっていた。

 「金の亡者」……こういう言葉は好きではないが、(というのも、嫉妬心もないわけでは
ないので)、「金の亡者」と呼ばれる人は多い。そういう人というのは、うまくいっている
ときは、それなりに元気で、やり手に見える。しかしその「金(マネー)」を失うと、生気
そのものをなくす。

 (信仰)を抜くということは、そういうことをいう。

 昔からこう言うではないか。『金(マネー)は天下の回りもの』と。そんな不確かなもの
に、自分の命をかけてはいけない。またその価値はない。……と自分に言って聞かせて、
今日もがんばろう!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●毒気を抜く

どうせ死ねば、私どころか、
この宇宙もろとも、私から消える。

私が生まれる前の状態に、私はもどる。
「もどる」という言い方はおかしいが、
ともかくも、そういう状態になる。

そんな昔のことでなくてもよい。
私の近くにいた、叔父や叔母でもよい。
あるいは知りあいでもよい。

みな、生きているときには、
それなりにがんばって、生きた。
財産をためた人もいれば、
そうでない人もいる。
しかし財産をためた人にしても、
そういう人は、何を残したか?
今、何が残っているか?

みんな、煙のように消えてしまった。
わずかな財産にしがみついた人も、
そうでない人も、みんな煙のように
消えてしまった。

もちろんお金は必要だ。
生きていくためには、必要だ。
しかしいくらお金に執着しても、
お金のために生きてはいけない。

それがわからなければ、あの
「おしん」を見ればよい。

おしんは、ある時期までは、
生きるために、お金を稼いだ。
が、ある時期からは、お金を
稼ぐために、生きるようになった。

わかりやすく言えば、「金の亡者」
になった。

おしんの息子の代になって、
その息子は、年商数千億円という
規模の商売をするようになった。

それはそれで、この資本主義社会
においては、すごいことだと思う。

しかしその会社は、倒産した。
おしんが築きあげた世界は、
息子の代で、露と消えた。

だからといって、それが空しい
と言っているのではない。

ただそのとき、おしんのドラマを
見ながら涙した人も、その会社が
倒産したとき、涙する人はいなかった
ということ。

「金(マネー)」という毒気に染まると、
自分が見えなくなる。自分を見失って
しまうこともある。

どこかで一線を引きながら、
自分をしっかりと保たないと、
あっという間に、その毒気の餌食に
なってしまう。

それはそれで構わないが、つまり
人、それぞれだが、しかし同時に、
その人は、大切な自分の人生を
無駄にすることになる。無駄にしない
までも、無駄な道を大回りすることに
なる。

……ということで、ここまでは
私にもわかる。が、その毒気を抜くのは、
むずかしい。本当にむずかしい。

幸か不幸か、私という人間は、
そういう時代に生きてしまった。
「金(マネー)」がすべてという
時代に生きてしまった。

ところで昨日(6月4日)、中国の
上海株は、大暴落を記録した。

8%以上という大暴落である。
たった一日で、すべての財産を
なくした人も多いことだろう。
私には、彼らの悲鳴のようなものが、
聞こえてくる。

さあて、今日の日本の株価はどう
動くか? 注視しよう!

++++++++++++++

以前、その「おしん」について
書いたことがある。

++++++++++++++

●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だっ
たかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」
と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目の
かたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでし
まった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難
しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝
自身を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(15
33〜1592)も「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに
自己を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに
思えるが、その実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であっ
て自分である部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADH
D児)と呼ばれる子どもがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身
を離れたところで起こる。子ども自身にはその意識すらない。だからその子どもをしか
っても意味がない。このことは親についても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好
きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、
友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に
行くから、一緒に行ってほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、
軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」
ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、そ
の相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分で
ない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがない
まま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、
もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」
と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」
のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、
ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。
それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくこ
となく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗
を繰り返すことである。
(031025)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身
を起こし、全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語であ
る。97年に約2000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏
の母親のカツさんがモデルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、
おめでたいというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大
型スーパーができ、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受
けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込まれた。

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、
「働く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になっ
てしまった。それはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。

生きることが母体(マトリックス)なのに、働くという仮想現実の世界のほうが、母体
だと錯覚してしまう。

この日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている
人はいくらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、
肩書きを得たとしても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、も
っと別のこと。生きる価値というのは、もっと別のことである。

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要は
なかった。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商500
0億円もの売り上げを記録したというが、そんな必要はなかった。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さん
の管轄だから自転車は売らない」などと言っていた。仮にその町内で自転車が売れたり
すると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。しかしそうした善意など、大型
スーパーの前ではひとたまりもなかった。

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実
の世界の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう価値
基準で人を判断することのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性というこ
とを考えるなら、私の父は生涯貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣ること
は何もない。おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あ
たかも餓鬼のように富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くため
に生きるようになった。

 名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生きるためには
便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を見失う。日
本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣い
たことか。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産した
とき、一部の関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。
これまたおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついてい
る。ふつうの人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

(付記)
 実のところ子どもの世界も同じ。多くの親は、子育ての本分を忘れ、仮想現実の中で子
育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進
学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこ
う言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒ
マはない、と。しかしそれこそまさに「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住み
ながら、そちらのほうを「現実」と錯覚してしまう。

が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切なも
のを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果と
して、親子関係を破戒し、子どもの人間性まで破壊してしまう。自分の人生をムダにし
てしまう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

+++++++++++++++

先に書いた原稿と一部ダブりますが
お許しください。

+++++++++++++++

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身
を起こし、全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語であ
る。97年に約2000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏
の母親のカツさんがモデルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、
おめでたいというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大
型スーパーができ、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受
けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、
「働く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になっ
てしまった。それはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来、
母体(マトリックス)であるはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと
錯覚してしまう。

一つの例が単身赴任という制度だ。もう30年も前のことだが、メルボルン大学の法学
院で当時の副学部長だったブレナン教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期
出張)という制度があるそうだが、法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」
と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒
いだ。教育の世界とて例外ではない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の
生き物(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。

私が「何も死んでいないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。
一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しま
ったことがある。そのときもそうだ。そのときも子ども(小3女児)も、「先生が殺した!」
とやはり泣き出してしまった。

いや、子どもだけではない。当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。
ウソや冗談でしているのではない。マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながら
に供養している女性(20歳くらい)もいた(NHK「電脳の果て」97年12月28
日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人
もいる。しかし本当にそうか? 

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。
この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電
子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む
信者は、どこが違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるい
はどこが違うというのか。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始め
る。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きて
いる人はいくらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や
名誉、肩書きを得たとしても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということ
は、もっと別のこと。生きる価値というのは、もっと別のこと。地位や名誉、肩書きは
あとからついてくるもの。ついてこなくてもかまわない。そういうものをまっ先に求め
たら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要は
なかった。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商500
0億円もの売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さん
の管轄だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。
仮にその町内で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。
相手の自転車屋に気をつかったためである。

しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方
は、まさにめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まる
でブルドーザーで地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実
の世界の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準
で人を判断することのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性というこ
とを考えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさること
はあっても、劣ることは何もない。

おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼の
ように富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるよう
になった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功
者というのは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例
だが、2002年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校
である。その説明会には、定員の約60倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は
約6倍という狭き門になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステ
リー状態になる親も続出した。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そ
のための特別講座の説明会を開いた(2002年2月)。入試が終わってから1か月もた
っていなかった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。私も進学塾の
世界はかいま見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講
座を開くようになったかがよくわかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう
「生きるために働く」というレベルを超えている。

あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの成功者と
いうのは、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら
「成功」とは何かということになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の
安売り攻勢にネをあげた周囲の商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあ
った。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというの
か。生きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。
自分を見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣い
たことか。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産した
とき、一部の関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある
政治家が土建業者から1000万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈
った業者は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈っ
たに過ぎない。

しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間
だから贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。

たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏
という人に対してではなく、B氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからな
い。B氏自身も仮想現実の世界に住んでいるから、その世界での評価イコール、自分の
評価と錯覚する。

しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろう
か。たぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはい
くらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育
ての本分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるい
は人間性を育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばか
りにこだわっている。ある母親はこう言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒ
マはない、と。しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に
住みながら、そちらのほうを「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、
そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切なものを大切でないと思い込み、
大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果として、親子関係を破壊し、子
どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたと
きのこと。私が中学1年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自
転車という意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語
を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。

が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親
はこう言う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだった
の? これではA高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英
語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親すらいる。

こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼
関係、さらには親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会が
あり、そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための
武器として子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」
になってしまっている。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入
れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも
未来のために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中
学校や高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。

こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の
人生をムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』とい
うのがある。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろ
うとがんばっているうちに、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生
も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生き
ざまを知ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、2週間という
休暇を与えられたとする。そのとき、(1)休暇は休暇として。そのときを楽しむことがで
きる。(2)休みが数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わっ
てからの仕事のことばかり考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちの
どちらだろうか。

あなたの子どもの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、(1)子どもは子ど
もで、休みは思う存分、遊べばよい。(2)子どもが休みに休むのは、その休みが終わっ
たあと、またしっかり勉強するためだ。

(1)のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、
その本質は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために
犠牲にする。だから未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえ
て生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。た
とえば仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。
実際に、「死に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。

この結果主義もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といっても
よい。日本人が仏教を取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと
考えてもおかしくない。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてその
パターンに入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。
脳のCPU(中央演算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がい
る。

何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四
国八八か所を巡礼して回ることだそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこ
う思った。「ならば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるい
はその人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性の
ほうが大きい。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こ
う」とか、「旅行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。
抑圧された緊張感の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」と
いう感覚すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠
牲になって当然と考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアム
ズ主演の映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指
導中心の学校教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。
あるのは、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた
思い出に過ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。

だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの
「時」を生きることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果として
やってくる。

●再起をかけるW氏

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。
これまたおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついてい
る。ふつうの人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

いや、実際にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生
きている人はいくらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこ
う言った。「君は幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、
ロクな仕事につけなかったのだろう」と。

彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクで
ない仕事もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によっ
て、人を判断する。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、
リチャード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、1955年に
レストランの権利を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡してい
る。(リチャード・マクドナルド氏は、98年の7月に満89歳で他界。)

そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませ
んか」と聞いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオ
フィスで、弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農
業を営みながら)、のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナル
ド氏は生きる本分を忘れなかった人ということになる。

●残る職業による身分制度

私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、
あんたは道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、
母が言ったことは、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけでは
ない。私は自分のしたいこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでも
ありがたがる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を
必要以上にあがめる。

今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最
下位。さらに幼稚園の教師は番外、と。

こうした序列は、何かの会議に出てみるとわかる。一度、ある出版社の主宰する座談会
に出たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横に座った教授とでは、まるで違った
のには驚いた。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と言いながら、振り向いた
その顔で、教授にはペコペコする。こうした風潮は、出版界や報道関係では、とくに強
い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・2
005)の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが…
…?」と、思わず口をすべらせた新聞社の記者(40歳くらい)がいた。

私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮
想現実の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や
しか見ていない。だからそう言った。

が、このタイプの人たちは、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自
分の人生をムダにしながら、ムダにしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には
関東地域の中高一貫校、約60校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒
業後の進学大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあ
るが、それが実に偽善ぽい。

それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですら
ある。子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押
し込めようとしているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく
 
ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度
自分のまわりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介
かもしれないが、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言う
なら、子どもたちのためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話が
ある。

 先日、60歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉
の夫の友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけ
が人生のような人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
生きる哲学 マトリックスの世界)

【注】

●まちがい(「汝自身を知れ」)

+++++++++++++++++

私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●イランの核兵器開発問題

+++++++++++++++

イランにも、もう一人、国際的な
おバカさんがいる。

アハマディネジャド大統領という
大統領だが、その大統領が、こう
言った。

「イスラエル滅亡の秒読みが始ま
った」(ロイター)と。

+++++++++++++++

 K国の核開発問題も深刻な問題だが、それ以上に深刻なのが、イランの核開発問題。イ
ランのアハマディネジャド大統領はこう言った。

 「イスラエル滅亡の秒読みが始まった」(ロイター・最高指導者ホメイニ師の命日である
4日を前に演説)と。

 もっともこうした報道というのは、全体の一部にすぎない。どういう流れの中で、アハ
マディネジャド大統領がそう言ったか、それを知らないと、その真意を知ることはできな
い。できないが、しかしそれにしても、過激。イスラエルに対する宣戦布告ともとれる発
言である。

 で、その上で、アハマディネジャド大統領はこうつづけたという。「われわれは核(開発)
の権利をわずかなりとも手放すつもりはない」と。

 K国とちがい、イランには石油という資源がある。開発能力も高い。しかもイランは、
イスラエルとの戦争ということにでもなれば、(アラブ)という世界を、そのまま自分の味
方につけることができる。

 で、ことの発端は、イスラエルがレバノンに侵攻したときから始まる。イスラエルは、
昨年(06年)の7月、ヒズボラ(イスラム教シーア派民兵組織)への報復を目的として、
レバノンに侵攻した。ヒズボラは、もともとは、イランが創設した民兵組織と言われてい
る。

 その流れの中で、今回、アハマディネジャド大統領は、「イスラエル滅亡の秒読みが始ま
った」と。

 実はK国も、日本に対して、たびたび同じようなことを言っている。「日本は存在しては
ならない国」とか、あるいは「核兵器開発は日本向けのもの」とかなど。日本はこういう
国だから、K国など相手にしていない。しかしイスラエルはちがう。かねてからイランへ
の単独攻撃を示唆する発言を繰りかえしている。

 が、もし、イスラエルがイランを攻撃するようなことにでもなれば……。それこそ中東
地域は、一気に、不安定になる。日本とて無傷ですまない。90%近い原油の輸入を、こ
の地域に依存している。

 さらにやっかいなことに、そのイランは、水面下でK国と、深く結びついている。K国
はイランにミサイル技術を提供し、イランとK国は、恐らく、相互に核兵器開発技術を提
供しあっている。

 本来なら、アメリカ、ロシア、中国の超大国が結束して、こういう問題に対処しなけれ
ばならない。が、アメリカとロシアは、現在、最悪の状態。アメリカと中国の関係も、こ
のところ急速に悪化している。簡単に言えば、どこでどう戦争が始まっても、おかしくな
い。今はそういう状態ということになる。

 戦場は、イランか? 台湾か? それともK国か?

 アメリカもロシアも、そして中国も、それぞれの相手の国を、何十回も粉々にできるだ
けの核兵器を保有している。戦争のし方もちがってきた。当然のことながら、平和に対す
る考え方も変わってきた。

 以前は、「戦争がない状態」を、「平和」と呼んだ。しかし今は、「戦争状態にありながら、
戦争を自制した状態」を「平和」と呼ぶ。しかしその自制も、今は、まさに風前の燈(と
もしび)。

 日本にとってというより、世界にとって、もっとも好ましいシナリオは、イランについ
て言えば、アハマディネジャド大統領が倒れ、民主勢力がイランの実権をにぎること。K
国ついて言えば、金xx政権が自己崩壊し、K国が国連の管理下に入ること。

 日本は、そういう方向性を描きながら、これからの外交政策を展開していく。

【K国問題】

●アメリカの失敗

(失敗1)K国の核開発問題の解決を、中国に頼ったこと。中国にしてみれば、K国の核
兵器など、痛くもかゆくもない。何ともない。中国が何よりも恐れたのは、K国が自己崩
壊して、大量の難民が発生すること。中朝国境を越えて、中国になだれこむこと。

(失敗2)韓国の「太陽政策」(金大中)、つづく「融和政策」(N大統領)に、明確な異議
を唱えなかったこと。そのつど韓国の大統領の言葉巧みな説得に動かされて、K国に妥協
してしてしまったこと。韓国によるK国への資金援助を、容認してしまったこと。

(失敗3)ヒル氏という、あまりにも育ちのよい優等生を、6か国協議の当事者にあてて
しまったこと。K国は、そんな甘い国ではない。ヒル氏流の道理が通ずるような相手では
ない。はっきり言えば、ヒル氏の手に負えるような相手ではない。

(失敗4)ケリー氏やボルトン氏など、現実派の実務者を、ブッシュ大統領の周辺から排
除してしまったこと。「強硬派」と言う人もいるが、国際政治は、どこまでも現実的でなけ
ればならない。現実的であるということと、強硬ということは、まったく別のことである。

(失敗5)イラク政策の失敗で、ブッシュ大統領が弱気になってしまったこと。自信喪失
の状態といってもよい。ついで、日本を裏切って、米朝の2か国の間だけで、秘密交渉を
してしまったこと。これはライス国務長官の大失態と考えてよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 18日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタボリック症候群

++++++++++++++

メタボリック症候群について、
ここで勉強してみたい。

私の年代のものにとっては、
深刻な問題である。

++++++++++++++

 メタボリック症候群……つまりひとつひとつの症状は、さほどでなくても、それが複合
的に合算されると、重大な病気につながるという。

 メタボリック症候群の概念としては、つぎの3つがあげられている。

(1)高血糖…空腹時の血糖値が110ミリグラム以上
(2)高血圧…血圧130以上、または最小が85以上
(3)血中脂質…HDLコレステロールが、40ミリグラム未満

 こうした症状に合わせて、腹囲が、男性で85センチ以上、女性で90センチ以上あれ
ば、「メタボリック症候群の疑いの強い人」、つまり有病者とみなされる。これらの人は、
脳卒中、心筋梗塞、糖尿病および糖尿合併症などの生活習慣病にかかる確率が、ぐんと高
くなる。

 ……ここまで書くと、ほとんどの人は、「そう言えば、あの人も」「この人も」と思うに
ちがいない。ひょっとしたら、あなた自身もそうかもしれない。厚生労働省の調査によれ
ば、40〜74歳の中高年で、メタボリック症候群の有病者は、940万人。予備軍まで
含めると、1690万人にもおよぶという(06年)。

 1690万人といえば、日本の人口のうち、約6分の1。子どもや若年層をのぞけば、
その年齢の男性のうち、2人に1人、女性のうち、5人に1人の割合ということになる(朝
日キーワード)。

 2人に1人だぞ!

 そこでどうすれば予防できるかということだが、厚生労働省は、具体的に、「週2日以上、
1回30分以上の運動」を提唱している。「その程度でいいのか?」と思いたいが、しかし
実際にその程度の運動でも、している人は、全体の30%程度にすぎないという(厚生労
働省の全国調査、04年)。

 週2回、30分以上の運動!

 私自身は、とてもその程度では足りないと思っている。もし今の私が、週2回、30分
程度の運動量にしたとするなら、数か月を待たずして、私は動けなくなるのではないかと
思う。10日前後、運動をサボっただけで、体はガタガタになる。当然、頭の働きも鈍く
なる。

 が、本当にこわいのは、内臓脂肪だそうだ。

 食事のとりすぎや、運動不足がつづくと、腸や肝臓を支えている腸間膜に脂肪がたまる。
これが内臓脂肪と呼ばれる脂肪である。

 この内臓脂肪がふえると、体内のホルモンのバランスが崩れ、善玉ホルモンが減り、血
糖値や血圧をあげるという(同、朝日キーワード)。そしてそれが生活習慣病を加速させる。

 では、運動量をふやせばそれでよいかというと、どうも、これまたそうでもないようだ。

 私の知人に、今年65歳になる人がいる。60歳で公社を定年退職してからというもの、
ほとんど毎日、ゴルフの素振り練習をしている。が、でっぱった腹は、そのまま。いっこ
うに体重が減る気配を見せていない。

 むずかしい話はさておき、要するに、細胞の中にまで脂肪が入り込んでしまっていて、
少しくらい運動をしたところで、どうにもならないということらしい。そういう人も多い。
つまりこの問題だけは、そうなってからでは、すでに遅いということになる。

 できれば40歳という、危険年齢を過ぎるあたりから、心して、予防しなければならな
い。もっと具体的に言えば、そのころから「運動」を、習慣として、自分の生活の中に定
着させる。50代や60代になって、あわてて運動を始めても、手遅れ。

 ……というようなことを、若い人たちに言っても、ピンとこないかもしれない。30代、
40代の人たちにしてみれば、50代、60代というのは、遠い未来のことかもしれない。
しかしこれだけは覚えておくとよい。

 そう思っているあなたにしても、あっという間に、50代はやってくる。60代はやっ
てくる。10年などという年月は、星がまばたきするその瞬間に、過ぎ去っていく。そし
てあいかわらず、そのときも、私がここにいて、あなたがそこにいる。

 メタボリック症候群……この聞きなれない病名が、ザワザワと耳の中に飛び込み始めた
のは、ここ数年のことである。しかし考えてみれば、そんなことは、昔から常識だった。
食べすぎる一方で、運動不足が重なれば、だれだって、体をこわす。要は、そういうこと
らしい。

 そう言えば、少し前、こんなことを言った文部大臣がいた。そのとき書いた原稿を、こ
こに再掲載する。

+++++++++++++++

●教育長の任命制度

 教育再生会議なる(会議)の動きに、みなさんも、注意したらよい。どうも、おかしい?
 どこか、ヘン? 各地で行われた公開討論会も、やらせだったという。しかも出てくる
答申が、どれも「?」。各県の教育長にしても、任命制度にするとか、しないとか。

 完全に、時代の流れに逆行している。(欧米では、教育は自由化の方向に向っているぞ!)

 どうして中央官僚たちは、こうまで日本人を管理したがるのか? むしろ逆で、文科相
を、選挙で選ぶようにしてはどうか。地方の市町村クラスの教育長が、選挙で選ぶ、とか。

 I文科相に失言には、うんざり。

 「大和民族がずっと日本の国を統治してきたことは、まちがいない」「日本はきわめて、
同質的な国」(長崎県N町での自民党支部大会・07年2月25日)と。

 その上で、こんな発言まで!

 「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていれば、メタボリック症候群にな
る。人権は大切だが、尊重しすぎたら、日本社会は、人権メタボリック症候群になる」と
も。

 とんでもない発言だが、そういうことを、文科相という、(知的世界のトップ)に立つ人
が口にするから、恐ろしい。そうでなくても、日本人がもつ人権意識は、低い。低いまま、
こういうことを堂々と言ってのける。文科相というより、政治家の知的レベルの低さに、
ただただあきれる。

+++++++++++++

「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていれば、メタボリック症候群にな
る」そうだ。

 みなさん、気をつけよう!

++++++++++++

3年前に書いた原稿を
手直してして、お届けします。

++++++++++++

● 悲しき束縛(?)

静岡県K町といえば、昔から、お茶の産地として知られたところである。そのK町にあ
る先生(小学校教師男性)が、こう言った。

 「このあたりでは三世代(同居家庭)が、ふつうです。そういうこともあって、いまだ
に長子相続の考え方が、根強く残っています。

 農家の長男だと、『君は、おとなになったら何になる?』と聞いたりすると、みな、『ぼ
くは、茶畑を継ぎます』などと答えるんですよ。まだ小学二年生の子どもが、ですよ。そ
れも直立不動の姿勢で、そういう言うのですよ」と。

 小さいうちから、祖父母から、「お前は、おとなになったら、この家の農業を継ぐことに
なる」と言われつづけているのだろう。それはしかたのないことかもしれないが、問題は、
女性。母親。嫁。嫁といっても、そのための嫁であることも多い。

 「子どもを産めないため、離婚させられた女性もいます」とも。

 同じようなことは、このH市周辺でも起きている。周辺の農村へ行くと、あと取りが、
そこの家庭でも深刻な問題になっている。代々つづいたミカン農家。しかしその一方で、
そのあとを継ぎたがらない息子たち。

 加えて、一昔前のように、老人たちがいばる時代は、もう去った。どこの家庭でも、嫁
と姑、嫁と舅(しゅうと)の問題をかかえている。一触即発という家庭も少なくない。あ
るいは、今では、同じ敷地内別居も、当たり前。

 が、それはさておき、こんなこともある。

 そのため祖父母たちが、息子や娘たちに、(学問をつけさせる)ことに反対しているとい
うのだ。

 「勉強なんかできると、かえって農家を継ぎたがらなくなってしまうから、勉強させて
ほしくない」と。

 2004年の今、信じられないような話だが、これは本当の話。だからその祖父母は、
その先生に、こう言ったという。「うちの孫は、K農業高校でじゅうぶん。それ以外の道は、
考えていない」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。そしてそれぞれの親は、それぞれの思い
の中で、子育てをしている。

 しかし子どもの人権を考えるなら、日本はまだまだ後進国。甘やかしたり、好き勝手な
ことをさせることが、子どもの人権を守ることだと考えている人は多い。そのため「日本
は、子どもの人権を守っている」と、誤解している人は多い。

 子どもの人権を守るということは、子どもの意思や考え方、さらには、その生きザマを
尊重すること。……と考えて、私は、ここでハタと考えてしまった。

 子ども自身が、「ぼくは、農家を継ぎます」と言ったばあいは、どうなるのか、と。

 しかしこのばあいでも、子どもは自分で考えてそう言っているのではない。言わせられ
ているだけ。つまり子どもの人権を守るということは、こうした押しつけがあってもいけ
ないということになる。

 もしこのことがわからなければ、あのK国を見ればわかる。

 幼稚園児たちが、鉄砲のおもちゃをもって、「将軍様を死守します!」などと、合唱して
いる。何でもあのK国では、日本人を見ると、子どもはそれだけで、泣き出して逃げてい
くという(「週刊文春04年1月」)。

 そういう子どもの姿を見て、あなたは、子どもが本当に自分でそう考えて、そう言って
いると思うだろうか。答は「ノー」のはずである。

 これから先、しばらくこの「子どもの人権」について、考えてみたい。
(040123)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●他人の死を笑わない

 こんなことは、30代や40代のころは、思ってもみなかった。しかし50歳になるこ
ろから、おかしな感情が生まれるようになった。それには、いろいろいきさつがあるが、
それについては、あとから書くとして、こんな感情だ。

 「死」というものが、身近になったせいもあるのかもしれない。たとえばだれかが死ぬ
と、心のどこかがふと、軽くなったように感ずるようになることがある。とくに、どこか
うるさく感じていた人が死ぬと、そうだ。

 その死を喜ぶというわけではない。何というか、気が楽になるのである。

 たとえば近所に、口うるさい人がいたとする。あれこれ私の生活に干渉してきて、あれ
これ言ってきたとする。そういう人が死ぬと、心のどこかで「やれやれ」と思うのである。

 若いころは、そういうふうに、人の死を考えたことがない。「死」そのものが、無縁の世
界のできごとだった。しかし自分の「死」を考えるようになったとき、同時に、他人の「死」
をも考えるようになった。それまでは(ありえない死)だったのが、(ありえる死)になっ
てきた。と、同時に、「死」を、問題を解決するための方法の一つと考えるようになった。

 極端な言い方をすれば、「あいつは、もういい年だから、もうすぐ死ぬ」「早く死ねばい
い」と。そういうふうに思うかどうかは別として、ほうっておけば、それに近い思いにな
るのではないかと思えるような、思い方である。(回りくどい言い方で、すみません。)

 実は、今朝もそうだった。

 ワイフが、「最近、あのMさん、姿を見ないけど、どうしたのかね?」と言ったときのこ
と。Mさんというのは、何かと問題のある人だった。ガンコジジイというか、いじけてい
るというか、近所でも、嫌われ者として名が通っている人である。

 そのときふと、「そう言えば、先月、救急車が止まっていたけど、何かあったかもしれな
いね」と思った瞬間、「早く、あんな人は死んでしまえばいい」と、心のどこかで思った。
……思ってしまった。

 こうしたものの考え方は、概して言えば、老人特有の考え方といってもよい。子どもの
ころ、近所に、そういうことばかりを言っている老人(女性)がいた。

 「あの人は、ああいう人だから、決して、いい死に方はしないよ」
 「あの人が死ぬと、喜ぶ人も多いはず」
 「あの人が死んで、せいせいした」
 「憎まれっ子何とかと言うけど、ああいう人にかぎって長生きするもんだよ。いやな世
の中だね」と。

 私の耳に、そういう言葉が残っている。しかしそのときは、私は、「何て、不愉快な言い
方をするのだろう」と思った。子どもながらに、不愉快だった。「人の死を楽しんでいるみ
たいだ」と。

 しかしそれから40年以上。いつしか私も、同じように考え、同じように思い、そして
同じような言葉を口にするようになった。つまり私自身が、いつの間にか、その(いやな
言い方をする人)になりつつあるのを知った。

 この考え方は、たいへん危険な考え方である。

 他人の死を、楽しむということは、自分の死を、だれかに楽しまれることを意味する。
しかしここで「危険」というのは、そういうことではない。

 こんな老人がいた。

 その老人はことあるごとに、自分より先に死んでいく人を、「あわれなものだ」「ザマー
ミロ」と喜んでいた。葬式などでは、それらしく、しおらしい顔をしていた。が、家に帰
ってくると、「死んだ」「死んだ」「あいつは死んだ」と喜んでいた。

 が、今度は、自分の番になったときのこと。玄関先で倒れたのだが、最後の最後まで、「救
急車を呼ぶな」とがんばった。その老人は、自分が笑われると思った。……らしい。近所
の人は、「他人にそこまで気を使うのかね?」と言ったが、そうではなかった。

 他人の死を笑う者は、他人も、自分の死を笑うと思っている。(本当は、だれも笑ってい
ないのだが……。)そう、自分で、思いこむ。

 つまりこうして、他人の死を笑う人は、自分で自分を、窮屈で、暗い世界へと、追いこ
んでいく。

 聖書では、『憐れみ深い人は、幸いなれ』と教える。それだけ他人の憐れみをうけるから
である。

 この言葉を反対に解釈すると、『他人に冷たい人は、不幸である。冷たくした分だけ、い
つか自分も冷たくされる』ということになる。

 だから決して、他人の死を喜んだり、笑ったりしてはいけない。楽しみにしてはいけな
い。他人の死は、扱いようによっては、酒の肴(さかな)にすら、なる。だからこそ、他
人の死をもてあそんではいけない。

 ある知人は、私にこう言った。

 「林君、ぼくはね、新聞でも、毎日、死亡者欄だけは、欠かさず見ているよ」と。「どう
して?」と私が聞くと、「いえね、商売柄ね」と。

 つまり彼は、そういう形で、他人の死を楽しんでいた。「こいつは、56歳で死んだのか」
「この人は、90歳か。文句ないよな」と。で、その彼がどうかというと、実に醜悪な顔
つきをしていた。つまり、そうなる。

 ワイフが、そう言ったとき、私はふと、「Mさんは、もう長くないかもよ」と言いかけた
が、やめた。そして少しだけ、自分の本心をねじまげて、「何ともなければいいけど。あん
な人でもいなくなると、さみしくなるからね」と。

 つまりこういう形で、自分の中にひそむ、邪悪な気持ちと戦うしかない。私はもともと、
生まれも育ちもよくない。性格もゆがんでいる。このところ、グチばかり言っている。顔
つきも、ますます醜悪になってきた。

 しかし子どものころ見た、ああいう心の貧しい老人にはなりたくない。だから今から、
そうならないよう、戦うしかない。
(040123)

++++++++++

【付記】

この原稿を書いてから、3年と5か月になる。で、今、読み返してみると、幸いなこと
に、私の考え方が大きく変化したのに気づく。

 私はたしかにあのとき、「早く、あんな人は死んでしまえばいい」と、心のどこかで思っ
た。それはよく覚えている。

 しかし今、そう思った自分自身を、不愉快に思う。もし今、どこかのだれかが、こんな
文章を書いたら、「何てやつだ!」と思うかもしれない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●6月2日(土曜日)

++++++++++++++++

数日前、IBM社製の「ホームビルダー」を
買ってきた。ホームページ作成用のソフト
である。

ついでに、2800円+税の解説書も。

しかし悪戦苦闘すること、丸2日!

++++++++++++++++

 わかりにくい話でごめん。

 新しいホームページを開くことにした。まず、ワイフのアドレスで、フリーのHPアド
レスを手に入れた。試しに……と、別のホームページ作成ソフト(=NINJA9)で、
簡単なホームページをつくり、そのアドレスに、転送(FTP送信)してみた。(しかし結
果的にみると、これがまずかった。)

 ここまでは、うまくできた。インターネットで新しいホームページを見ることができた。
で、いよいよホームページビルダーの使用開始!

 ホームページビルダーをたちあげ、新しいホームページを編集した。トップページにつ
づき、いくつかの新しいページを作り、リンクもはった。が、そのアドレスにいくら転送
(FTP送信)しても、画面は、もとのまま。本来なら、上書きされて、新しいホームペー
ジが、そこに現れなければならない。が、それが現れない。

 「????」。つまり、こうして悪戦苦闘すること、丸2日。

 原因は、今日になって、やっとわかった。

 最初に送信したホームページの、ファイル名は、「index.html」。ホームページビルダー
のほうで送信したホームページのファイル名は、「index.htm」。「html」と「htm」
のちがいだが、「html」のほうが、「htm」より、優先権をもつ。

 そこでファイル名を「html」に変更しようしたが、同じファイルを、試しに使った
ソフト(NINJA9)と共有しているため、何度変更しようとしても、拒絶されてしま
う。つまり試しに使ったホームページソフトが、じゃまをしていた。

 しかし久々に、頭の中が熱くなった。4〜5センチほどもある分厚い解説書を、何とか
読みこなした。そして何とか、問題を解決した。

 ……かなりわかりにくい話でごめん。素人の人が読んだら、さっぱり意味がわからない
だろう。私も、実は、原因が、さっぱりわからなかった。しかし途中であきらめたら、こ
の世界では、敗北を認めることになる。

 どうせ相手は、機械。人間が考えた機械。食いついて、食いついて、最後まで食いつく。
問題が解決するまで、食いつく。かならず解決する。その悪戦苦闘が、また、パソコンの
楽しさということにもなる。

 
●原稿書き

 いろいろあって、この4〜5日、ほとんど原稿を書いていない。書きたいテーマはたく
さんあるが、どれもつまらない。「つまらない」というのは、「どうでもいい」という意味。

 新しい時計を買ったとか、教室の子どもたちの失敗談とか、など。

 あえて言えば、K国問題がある。K国の核開発問題がある。私の予想が、100%、的
中した。あまりにもみごとに的中したので、かえって拍子ぬけ。私は、今の状況を、2、
3か月前に、ちゃんと予想していたぞ。

 ……だから今は、K国問題については、しばらく考えたくない。


●希望

 何度も書くが、衣食住に不足、不満があっても、「希望」さえあれば、人間は何とか生き
ていかれる。が、それだけではない。希望がないと、人間は、日々に小さくなる。小さく
なって、ささいなことに心を悩ませたりするようになる。

 が、その希望は、向こうからやってくるものではない。希望は、自分で作るもの。用意
するもの。「努力」という言葉がある。その努力にしても、「希望に向かって」というより
は、自ら「希望を作るため」にするもの。

 今の私には、その「希望」がないのが、気になる。希望がないから、目標がない。目標
がないから、日々を、ただ何となく過ごしているだけ。「これではいけない」と思っている
が、かと言って、どちらへ行ったらよいのか、それもわからない。旅にたとえるなら、単
調な景色の連続。道に迷った状態?

 こういうときは、どうするか。

 ただひたすら前に進むしかない。とにかく前に進むしかない。


●健康

 このところ、健康のありがたみをひしひしと感ずるようになった。何はともあれ、私は
健康に生きている。私のばあい、「健康」というのは、「病気ではない」という意味に加え
て、「死の恐怖を感じない」という意味が含まれる。

 私は心気症。ときにささいな症状を気にして、「大病ではないか?」と思い悩む。大騒ぎ
することもある。が、このところ、少し、考え方が変わってきた。「生きられるところまで
生きて、あとはいさぎよく死のう」と。

 そう言えば、私の母は、介護度こそ「4」だが、健康そのもの。やや便秘症かなという
ことはあるが、便秘症など、病気でも何でもない。そういう母を介護しながら、ときどき、
こう思う。「母は、死の恐怖を感じているのだろうか?」と。

 しかしもちろんそんなことは母には聞けない。また聞いたところで、意味のある言葉は
返ってこないだろう。思考力そのものが、ない。


●健康寿命

 平均寿命に対して、「健康寿命」という言葉がある。これは「実際に健康に生きられる年
齢」という意味である。

 加齢とともに、病気になる人は多い。おおざっぱに言えば、平均寿命から10年ほど引
いた年齢が、健康寿命ということになる。

経済協力開発機構(OECD)の「社会指標報告書」(2005年)によると、健康寿命
は、日本が75歳で一番高く、ついでフランス72歳、ドイツ71・8歳、イギリス7
0・6歳の順だそうだ。

 つまり私たちが健康で生きられる平均年齢は、75歳ということらしい。それ以後は、
がん、脳卒中、狭心症・心筋こうそく、糖尿、高血圧などの病気にかかる確率が高くなる。

 75歳といえば、あと15年。「あと15年か」と思ってみたり、「15年しかないのか」
と思ってみたりする。

 病気、病気の繰りかえしで、残りの10年を生きるのも、難儀なことだ。


●ある離婚

 私の友人夫婦が、最近、離婚した。40年近く、行ったり来たりしていた友人夫婦であ
る。その夫のほうに電話をするつもりで、電話をしたら、奥さんのほうが電話口に出た。

 夫である友人のほうが、家を出たらしい(?)。

 で、しばらく電話で話した。奥さんのほうは、明るく、サバサバした声だった。暗く沈
んでいた夫の声とは対照的だった。私はおかしな感覚にとらわれた。「私は、いったい、ど
ちらの味方をしたらよいのか?」と。

 もともとは、私は夫の友人である。その夫が、結婚した。そして離婚した。本来なら、
私も奥さん(=元妻)のほうと縁を切らねばならない。日本的に考えると、つまり友人で
ある夫に義理立てするなら、そうなる。しかしこの40年の間に、たがいの間に別の関係
ができてしまった。

 その夫婦が離婚したからといって、奥さんとの友人関係まで切れるわけではない。私も
そのうち奥さんと世間話を始めてしまった。いつもの世間話である。

 こういうケースでも、私たちは、けっして相手の内情に、干渉してはいけない。質問を
してもいけない。相手が言いだすまでは、こちらはだまっている。夫婦の関係ほど、複雑
なものはない。

 私たちができることと言えば、相手をそっとしておいてやること。相手が何か助けを求
めてきたら、それにはていねいに応じてやること。……と思いつつ、いつものように、「ま
た遊びにいくよ」「遊びに来てね」というカンジで電話を切った。

 しかししばらくは遊びに行くことはないだろう。何となく、行きにくくなってしまった。


●田崎清忠先生

++++++++++++++

私は中学生のとき、毎晩、
NHKの英会話講座で英語の
勉強をしていた。

そのときの講師の先生が、
田崎清忠という名前の先生だった。

で、ある日、私は、その先生に
手紙を書いた。するとすかさず、
先生から、返事が届いた。

私は天にも昇るような気持ちで、
それを喜んだ。そのハガキは、
今でも、当時のアルバムの中に
張ってある。

私はますます「英語」が好きに
なった。

田崎先生、ありがとうございます!

++++++++++++++

 そののち田崎先生は、どうなったか。インターネットの検索エンジンを使って調べてみ
た。こうあった。

『東京純心女子大学・田崎清忠(たざき・きよただ)学長。
東京高等師範学校(現筑波大学の前身)卒。フルブライト法によりミシガン大学英語研究
所留学。帰国後、NHKテレビ英語会話番組講師。応用言語学と視聴覚教育の手法を用い
て独自の語学番組を構築し、その功績により「放送文化基金賞」受賞。高円宮杯全日本中
学校英語弁論大会、およびホノルル市長杯全日本青少年英語弁論大会審査委員長。著書は
「アメリカ生活語彙辞典」(講談社)、「現代英語教授法総覧」(大修館)、「アメリカン・ラ
イフ辞典」(研究社)など多数。横浜国立大学名誉教授』と。

 そう言えば、田崎先生が、NHKの英会話講座の中で、ミシガン大学の応援歌を取りあ
げていたことを思い出した。「♪ヘイル・ツ・ザ・ビクロリー……」とか何とかいう歌であ
る。今になって、「ああ、あの先生は、ミシガン大学にいたのか」とわかった。

 私は毎夕、あの英語講座で英語を勉強しながら、まだ見ぬ、遠い国々に夢をふくらませ
ていた。


●考えるという習慣

 この4、5日の間、ほとんどものを書いていない。それは先にも書いた。で、おかしな
現象が起きている。

 昨日から少しずつ、またものを書き始めた。が、どうも、調子が悪い。カンが戻らない。
キーボードを打つ指も、どこか、のろい。考えがまとまらない。

 私にとっては、(考えること)イコール、(書くこと)。書いているときだけ、ものを考え
ることができる。

 つまりたった4、5日のことだが、その4、5日の間に、(考えるという習慣)が、かな
り鈍ったことになる。スポーツにたとえるなら、4、5日、運動をさぼったため、体が動
かなくなるのに似ている。

 そう言えば、そういうことはよく経験する。私はほとんど毎日自転車に乗っているが、
やはり4、5日さぼると、そのつぎには、自分の体をたいへん重く感ずる。仮に10日も
さぼれば、体そのものが、動かなくなる。

 精神も体も、毎日鍛えてこそ、健康を保つことができる。それを改めて、今回、実感し
た。


●時計

 月に2、3回、本物の懐中時計が付録についている雑誌が発売になる。その雑誌を買う
ようになって、もう1年近くになる。

 率直に言って、モノは、よくない。すぐ壊れる。値段も、安くない。が、どういうわけ
か、書店で見かけるたびに買ってしまう。今週も買ってしまった。

 今週のは、裏に、SL(蒸気機関車)の模様のついた時計である。やや大型の懐中時計
だが、そのクロームメッキが美しい。布でみがいているだけで、うっとりとした気分にな
る。これはどういう心理作用によるものなのか?

 手でいじっていると、快感につながるのは、指先からの刺激によって、脳内で、モルヒ
ネ様の物質(エンケファリン、エンドロフィン)が分泌されるからということがわかって
いる。

 たしかにこうしてモノをいじっているのは、気持ちよい。子どもでも、モノいじりをす
る子どもは多い。指しゃぶりもその一つ。子どもはそうすることによって、自分の精神を
安定させる。

 それにもう一つ。最近の研究によれば、こうしてモノをいじるのは、ボケ防止のために
もよいそうだ。


●本当かな?
 
 青森県のある漁村に、小さな舟がたどりついた。K国からの脱北者らしいという。しか
しあんな小舟で、800キロ(中日新聞報道)もの海を渡ることができるのだろうか。写
真で見るところ、幅こそやや広いが、浜名湖でよく見かける釣り船よりも小さい。

 報道によれば、6日間(実際には5日間)をかけて、K国の東海岸から、日本へやって
きたという。単純に計算すれば、800キロ÷(5x24時間)=6・7キロ、つまり時
速6・7キロで日本へやってきたことになる

 さっそく何人かの識者たちは、(人道)という言葉を使って、脱北者らしき人たちを保護
すべきと主張している。

 しかし本当に脱北者なのか? そう考えてよいのか? このところこの浜松でも強風が
吹き荒れていた。天候も不順で、変わりやすかった。現在、事情を調査しているというこ
となので、そのあたりも、当然調べていることと思う。しかしあんな小舟で、800キロ!?

 「北朝鮮には人権がないので出国を決めた。はじめは韓国へ行く予定だったが、軍事境
界線の警備が厳しいので、日本に向かった」(ヤフー・ニュース)と供述している点も、あ
やしい。

 人権があるかないかということは、K国を離れてはじめてわかること。K国から日本へ
やってきた直後に、(人権)という言葉を使うところがおかしい。

 どうも、私には、納得できない。いや、それ以上に、「?」と思うのは、いとも簡単に、
小舟であるにせよ、K国の船が、日本の港に着いてしまったこと。もしそれが武装船だっ
たら、どうするのか? 着いたところが青森の漁港ではなく、原子力発電所の近くだった
ら、どうするのか?

 日本の防衛は、だいじょうぶなのか? 私は、むしろ、そちらのほうを心配する。

 韓国では今、偽装脱北者が問題になっている。脱北者のフリをして、K国から韓国に渡
り、韓国内の脱北者をスパイするという脱北者である。(人道)も結構だが、ことは慎重に!

(付記)若いころ、私も浜名湖でよく釣り船に乗った。ある時期は毎週のように乗った。
そんな釣り船でも、湖が少しでも荒れると、航行不能になる。いわんや、日本海! 「脱
北者」と決めてかかる前に、少し、疑ってみたほうがよいのでは? K国という国は、あ
の手この手、ありとあらゆる手を使って、日本をだましてきた国である。それを忘れては
いけない。


●畑作

 前にも書いたが、このところ、畑をいじるのが、楽しくてならない。ヒマさえあれば、
畑のそばに立って、作物が大きくなるのを見ている。少しずつだが、収穫も始まった。

 どうしてだろう? 若いころには感じなかった新鮮さを感ずる。このことは、ワイフに
しても同じらしい。私が畑のそばで雑草を抜いていたりすると、ワイフもすぐやってきて、
手伝ってくれる。

 ひとつには、人間相手のつきあいに、このところ少し、疲れを感じているせいかもしれ
ない。いろいろあった。今も、ある。そういう意味では、野菜は、ウソをつかない。いつ
もそこに、あるがまま。文句も言わない。私が世話をしなければ、そのまま枯れてしまう。


●介護度4

 先日、近くのケア・センターへ行って、今後の母のことについて、いろいろ相談した。
日によってもちがうが、このところ、母は、寝たきりに近い状態になってきた。できるだ
け私の家で世話をしてやりたいが、このところ、ハッと思うような事故がつづいている。

 先日は、ベッドとパイプの間に、体ごとさかさまに落ち、その間に頭をはさんでしまっ
た。部屋中に、歩きやすいようにと、パイプを張り巡らしたのが、かえってまずかった。
たまたまワイフが、それを見つけたからよかったようなものの、あのまま、たとえば一晩
も放置しておいたら、母は、死んでいたかもしれない。

 このことを義理の兄に相談すると、義理の兄は、こう言った。「それは、あぶなかったね
エ〜。へたをすれば、あなたが過失致死罪で告訴されるところだったよオ〜」と。

 ほかにもある。

 今、母のベッドは、東側の窓にぴったりとくっつけて配置してある。朝日が、ベッドに
届くようにと考えて、そうした。

 そのため母は、自分で自由に窓を開け閉めできる。それはそれでよいのだが、夜中に、
まちがえて、窓をあけてしまうことがあるらしい。窓には、外から網戸、ガラス戸、それ
に障子戸(障子は張ってない)の三つの戸がはまっている。

 たとえば掛け布団をベッドの下に落としたりすると、母は、自分でその掛け布団を拾い
あげることができない。そういう状態のとき、窓があいたままで、急に外気が冷え込んだ
としたら、どうなるか? 実は、一度だが、そういう事故があった。

 幸いにもそのときは、軽い風邪程度の症状ですんだが、事故は事故。

さらに最近では、食事を母の部屋に、そのつど運んでいる。が、食べた物を、よくのど
に詰まらせるようになった。ガッ、ガッという咳払いの声がするたびに、私たちは母の
部屋にすっ飛んで行く。

 で、無線の呼び鈴を取り付けたが、これはうまくいかなかった。何でもないことで、私
たちを呼んだりした。日中ならまだしも、真夜中でも、それをした。そのため私たちは、
睡眠不足の日がつづくようになった。が、その一方で、肝心なときには、呼び鈴のことを
忘れてしまっていて、それを使わない、などなど。

 ともかくも、そういうことが重なったので、ケア・センターへ相談に行ってきた。

ケ「あとは、ベッドの横で添い寝をするしかありませんね。隣の部屋にでも、寝泊まりで
きませんか」
私「それはできないです……。隣の部屋といっても、事務機器のある物置部屋になってい
ますし……」
ケ「介護度4ともなると、自宅介護は、無理ですよ」
私「やはり、そうですかア」と。

 ……とは言っても、空き部屋がないかぎり、母は入居できない。センターの人の話では、
「早くて、数か月待ちです」とのこと。

 重〜イ気分になったところで、私をワイフは、ケア・センターをあとにした。


●ワイフのパソコン

 このところワイフのパソコンが、急に、調子が悪くなってきた。OSは、Me。そこで
調べてみると、メモリーが64MBしかない!

 ギョッ!

 「お前のパソコンは、メモリーが64MBしかないぞ。これではパソコンは、動かない」
と。

ワ「あなたのはいくつ?」
私「ぼくのは、3GB!、だぞ。わかりやすく言えば、ぼくのは、3000MB。お前の
は、64MB.3000と64のちがいだ。わかるか?」
ワ「それじゃア、無理ねエ……」と。

 ということで、今日(6月3日)の午後、ワイフと近くのパソコンショップへ行って、
メモリーを買ってきた。値段は、4000円と少し。

私「これで256MBになったから、とりあえずは、だいじょうぶ」
ワ「これで動くようになったの?」
私「まあね。しばらくは問題ないだろう」と。

 ついでに私がもっていた、ディスク掃除用のソフトと、メモリー掃除用のソフトの2つ
を組み込んでやった。この2つのソフトを組み込めば、それなりに快適に動くはず。

 で、そのあとワイフを見たら、どこかうれしそうだった。しんみりとした様子で、自分
のパソコンをながめていた。

わかる、わかる、その気持ち! ワイフもいつの間にか、パソコンおたくになりつつあ
るようだ。


●誠司と芽衣(孫)と、テレビ電話で話す

 ワイフと、それに犬のハナを連れて、今日は、中田島砂丘へ行ってきた。そこで弁当を
食べた。

 で、帰ってきてから、アメリカに住む二男夫婦に電話をした。「これからスカイプしよう」
と。

 スカイプというのは、無料で楽しめる、インターネット電話をいう。もちろん映像も送
れる。わかりやすく言えば、無料のテレビ電話。

 誠司(孫)は今、私が毎回送っている、『ディズニーランド』のおもちゃに夢中だという。
それを聞いて、うれしかった。ついでに誠司が、「♪小さな世界」の歌を歌ってくれた。口
笛も吹いてくれた。

 涙が出そうなほど、感激した。ホント!

 私も、すっかりジジバカになってしまったようだ。


●6月xx日

 もうすぐワイフの誕生日。

 「何か、お前の夫が喜ぶようなものを買ってあげようか」と声をかけると、「そんなもの、
いらない」だってエ!

 ハハハ。


●神様、仏様

+++++++++++++

私のように信仰をもたないものは、
いつも、孤独と同居しているような
もの。

何かの願いごとがあっても、
「神様……」「仏様……」と
祈ることさえできない。

まあ、祈ったところで、どうにも
ならないということはわかっている。

しかしそれでも、祈りたいときがある。

+++++++++++++

 人間というのは、本来的に弱い生き物なのか。それとも、私自身が弱いのか。それはよ
くわからないが、ときどき、(本当は、しょっちゅう)、神や仏に祈りたくなるとがある。

 しかし祈る前に、祈る対象がなくて、そこでやめてしまう。で、そのことをワイフに放
すと、こう言った。

 「祈りたければ、祈ればいいのよ。天に向かってだって、祈ることはできるわよ」と。

 ナルホド!

 そこで私は、こう祈った。「……(秘密)……、ナンマイダ、アーメン、アッラー」と。

 「何、それ?」とワイフが聞いたので、「仏様と神様、ついでにイスラムの神様にも祈っ
た」と。

 こういう私のことを、世間の人は、バチ当たりと呼ぶ。事実そのとおりだから、私は逆
らいようがない。

 これから先、もう一度、宗教についても、いろいろ考えてみたい。

(以上、2007年6月3日の日記でした。バカ話ばかりで、すみません!)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●デスノート

+++++++++++++++

このほど中国政府は、
『デスノート』を、本、DVDを含めて、
すべて発禁処分にした。

子どもたちの間では、大人気の
本である。

当然である。

ああした意味もない愚劣な小説やDVDが、
子どもの世界にはびこっていること自体、
バカげている。

異常と言ってもよい。

+++++++++++++++

 このほど中国政府は、日本で大人気の『デスノート』を、本、DVDを含めて、すべて
発禁処分にした。当然である。新華社通信は、つぎのように伝える。

 『中国政府は(5月)28日から、日本の人気漫画『デスノート』をはじめ、青少年に
悪影響を与える恐れがあるホラー作品を集中的に取り締まり、押収する方針だ。

 『デスノート』は中国の小・中・高校生の間でも広く読まれているが、当局は「子ども
の人格形成に重大な影響を及ぼす」と判断し、単行本やDVDなどをすべて押収することと
した。

 ノートに名前が書かれた人が死ぬという内容の『デスノート』は、日本では単行本だけ
で1500万部が売れ、昨年には映画化もされるなど、大ヒットを飛ばした。

 映画は中国ではまだ公開されていないが、海賊版のDVDが大量に出回っている。

 中国政府による取り締まりは、6月1日の「子どもの日」を挟んで、同月3日まで1週
間にわたり、学校周辺の書店やDVD店を中心に集中的に行われる予定」と。

 先日も小6の女の子が私にこう聞いた。「先生、デスノートって知ってる?」と。私は、
即座に「知らない」と答えた。本当はDVDショップでそれが、たくさん並んでいるのを
知っていた。手にとって、見たこともある。

 くだらない、本当にくだらないDVDである。

女「デスノートを知らないの?」
私「ああ……」
女「遅れてるウ〜」
私「じゃあ、聞くが、ドラッカーの『新しい社会』を知っているか? ヴォーボワールの
『第二の性』でもいい」
女「そんなの知らない……」
私「君たちと住む世界がちがうからというだけで、遅れているということにはならないよ」
と。

 少し前には、ビデオで映された画面から、化け物が出てくるという小説やビデオ映画が
ヒットした。実に意味のない、くだらない小説だったが、それもバカ売れした。そののち、
作家のSは、いっぱしの作家気取りで、あちこちに随筆を書くようになった。が、どうし
てエ〜?

 それにしても、1200万部とは! 子どもたちの世界は、いったい、どうなっている
のか? が、それだけではすまない。

 この時期、つまり子どもの内面化(心の形成)が進む時期に、こうした本に触れるのは、
たいへん危険なことと言ってもよい。言うなれば、カルト教団の信者予備軍を養成をして
いるようなもの。

 現に数日前も、バス旅行をしていた小学生の一団が、吐き気を訴えるなど、ヒステリー
状態になってしまったという事件が報道されていた。バスがトンネルへ入ったとき、だれ
かが「霊を見た」と言ったのがきっかけだった(新聞報道)。

 テレビでは、いまだに、どこかのオバチャンが、占星術だの何だのを口にして、言いた
い放題のことを言っている。それを聞いて、タレントたちは、涙を流して、感激している。

 どうしてこういうバカげた現象が、この日本ではつぎからつぎへと起こるのか? ……
という遠まわしな言い方はやめよう。

 簡単に言えば、日本人全体が、今、ノーブレイン(脳みそなし)の状態になっている。
考えることそのものを、放棄してしまっている。今、それがますます加速している。

 「これでいいのか、日本!」と叫んだところで、この話は、おしまい! 


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝あれこれ(5月30日)

+++++++++++++++++

とくに変わったことはない、平凡な朝。
朝風呂をあびて、パンを一個、かじる。

それからHPを少し更新して、いつもの
ルーティーン(日常行為)。

+++++++++++++++++

●したいことvsすべきこと

 (したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きなちがいがある。当然である。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、苦痛や苦労がともなう。できるなら、しないで
すませたい。したいことだけをして、それですませたい。しかし、そんな人生に、どれほ
どの意味があるというのか。

 たとえばこんな老人がいたとする。

 その老人は、満55歳で定年退職をしてからというもの、一日とて、労働者として働い
たことがない。広い庭……というより、先祖譲りの、広い畑をもっている。その畑に、い
ろいろな種類の花木を植え、日々、庭いじり三昧(ざんまい)。

 これは極端なケースかもしれないが、しかしひょっとしたら、あなたの周辺にも、似た
ような老人がいるかもしれない。こうした老人は、毎日、自分のしたいことだけをして生
きているだけ。

 しかしもしその老人が、少しでも考える力をもち、「だから、それがどうなの?」「どう
したの?」と、自分に問うてみたら、その老人の住む世界は、一変するにちがいない。た
ぶん、自分の生活に疑問をもつだろう。自分のしていることのむなしさに、耐えられなく
なるかもしれない。

 つまりその老人は、(したいこと)をすることによって、(自分がすべきこと)について
は、目を閉じてしまっている。もっと言えば、自分をごまかしている。

 が、だれも、そんな老後が、豊かな老後だとは、思わない。またそうであってよいとは、
だれも思わない。

 そうそうこんな老人もいた。

 「老後はコンパクトに生きることこそ重要」と、身のまわりを、あえてコンパクトにし
てしまった老人である。持家を売り払い、小さなマンションに移り住んだ。世間とのつき
あいも縮小し、当然、活動のハバを狭(せ)めてしまった。

 一見合理的な生き方に見えるかもしれないが、その老人は、(生きる)ということを忘れ
てしまっている。もっとわかりやすく言えば、(死ぬための準備)が、老後のあり方だと思
いこんでしまっている。

 老後になったからといって、コンパクトに生きる必要はない。もちろん収入に合わせた
生活にする必要はある。しかしそれと、「コンパクトに生きる」ということは、別問題であ
る。むしろ逆で、残り短い人生であるがゆえに、私たちは、自分を完全燃焼させて生きて
いかねばならない。

 無駄にできる時間は、一瞬、一秒もない。

 そこで「私にとってすべきことは何か」と、自問してみる。もっとも老後になると、名
誉や地位、肩書きのむなしさがよくわかる。お金については、何も、あえて嫌う必要はな
い。お金では幸福は買えないが、お金がなければ、不幸になる。しかし収入だけを考えて
老後を送るのも、どうか?

 こうして考えてみると、結局は、(人とのつながり)の中に、その(すべきこと)がある
ように思う。あるいは、よく言われるように、「真・善・美」の追求こそが、人が人として、
すべきことかもしれない。

 しかしこれらにはどれも、先に書いたように、苦痛や苦労がともなう。その苦痛や苦労
なくして、すべきことをすることはできない。たとえば私のかつての恩師は、1冊の本を
書きあげるために、毎日、毎晩、目に目薬をさして文献を読みあさっていた。70数歳と
いう年齢で、この世を去ったが、その人はその人で、(すべきこと)をしっかりともってい
たことになる。

 私もあと半年足らずで、満60歳になる。自分では現役のつもりでいるが、まわりの人
たちは、年齢を私にあてはめて、私を見る。とてもいやな気分だ。加えて、いまだに、こ
こでいう(すべきこと)が見えてこない。(したいこと)は山ほどある。しかし何度も書く
が、(したいこと)イコール、(すべきこと)ではない。

 それは何か? 私がすべきことは、何か?

 本来なら、私は40歳前後から、自分のすべきことを考え始めるべきだった。しかし当
時の私は、忙しいだけ。自分を静かに見つめる時間すらなかった。ずるずると、今の年齢
になってしまった。

 ……ということで、目下、自分のすべきことを、懸命に模索している。残り時間は、あ
まりにも短い。あえて言うなら、断崖絶壁の縁(ふち)に立たされているような気分。ワ
イフは、「ボランティア活動でもしようか?」と言っているが、そんな取ってつけたような
ことをしたところで、どうせ身につかない。長つづきしない。いわんや、生きがいに結び
つくことようなことは、まず、ない。

 自分でも、それがよくわかっている。

 が、あえて一言。

 もし今、あなたが40歳前後の人なら、今から、(すべきこと)を模索したらよい。(し
たいこと)ではない。(すべきこと)である。

 それがあなたの老後を、心豊かに生きるためのコツということになる。余計な節介かも
しれないが……。

+++++++++++++++

●真・善・美について

++++++++++

2年前に書いた原稿を
そのまま紹介します。

++++++++++


●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。その
基盤と方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。若い人たち
は、真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。
その価値がわからないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。そしてそ
の価値にひれ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていれ
ばよし。そうでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。そのときを予想しなが
ら、子どもの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。ものを書
き始めたのが、40歳前後。それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くよ
うになったのは、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づ
かなかったのか。どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。本当に悔やまれる。もっと早くスタートしていれ
ば、頭の働きだって、まだよかったはず。どこかボケかけたような状態で、そしてこれか
ら先、ますますボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・
善・美の追求を、今から始めてほしい。30代でも、20代でも、早すぎるということは
ない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。どんな本に目を通しても、出てくるのは、
ため息ばかり。「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。と、同時に、「後
悔」のもつ恐ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。時間や健康、
それに脳ミソの働きには、かぎりがあります。余計なお節介かもしれませんが……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼児教育

 ロボットが、二足歩行で歩き、踊る時代になった。しかし驚くなかれ、私が、幼児教育
に接した、わずか、35年前には、ほとんどの人は、幼児が何であるかさえ、知らなかっ
た。

 幼児は、幼稚。よくて、おとなの卵。未完成で未熟な人間……そんな考え方が、支配的
だった。

 幼児教育の教材すら、ほとんど、なかった。35年前には、自閉症にしても、診断基準
すらなかったし、ADHD児にしても、騒がれ始めたのは、ここ10年である。(日本で、
厚生省が研究機関に依頼して、診断基準づくりを始めたのは、ほんの4年前。)

 私が「幼児教育をしています」と言ったら、「そんなのだれにでも、できるでしょう」と
返答した男がいた。(基本的には、こうした誤解は、変わっていないが……。)

 今でも、若い母親の大半は、そう考えている。それは会話などしなくても、雰囲気でわ
かる。だから私は、何も言わない。どうせ言っても、理解してもらえない。

 もし戦後の日本人が、モノづくりにかけるエネルギーの1000分の1でもよいから、
幼児、なかんずく、人間の研究に向けていたら、日本は、幼児教育の先進国になっていた
だろう。が、実情は、どうか。いろいろな問題をもった子どもが現れるたびに、その診断
基準すら、外国の文献に頼っている。日本人が自らつくりあげたものは、ほとんど、ない。
(まったく、ないのではないか……?)

 もう30年前になるが、ある雑誌で、文部省の技官と対談したとき、その技官は、こう
言った。

 「なぜ、幼稚園で、文字教育を解禁しないのですか」と聞いたときのこと。「ハネがある
でしょう。ハネは、幼児には無理です」と。つまりトメ、ハネ、ハライを、幼児に教える
には、無理だから、と。

 そこで私が「毛筆時代は、もう終わりに近づいています。どうしてハネを無視しないの
ですか」と聞くと、「日本語には、日本語の美しさがありますから」と。

 世界広しといえども、就学前の子どもで、文字教育を受けないのは、日本人くらいなも
の。(ついでに、発音教育も!)

 いまでも幼児教育というと、遊戯やお絵かき、年間行事を追いかけることだと思ってい
る人は多い。小学校へ入るための準備教育と考えている人もいる。しかしそれは誤解とい
うより、まちがい。幼児教育の奥深さは、パソコンにたとえるなら、OS(オペレーティ
ング・システム)のプログラミングほどの深さがある。

 それを理解してもらえない歯がゆさは、キーボードもまだ叩けないような人に、C++
言語の話をするときに感ずる、あの歯がゆさに似ている。そこで私のすべきことは、親を
飛びこし、子どもの中に、微妙な問題点をみつけ出し、臨機応変に、それに対処していく
こと。

 が、だからといって、親を責めているのではない。どんな親も、幼児教育には、まった
く無知なまま、子育てを始める。私もそうだったし、私のワイフも、そうだった。

 親が、自分を知り、さらに、自分の子どもを知るのは、子育ての最中ではない。そのと
きは、ただ忙しくて、毎日が夢中のまま、過ぎていく。親が、自分を知り、さらに、自分
の子どもを知るのは、子どもが親離れし、親が子離れし、ほっと、息をつくころ。

 少し前だが、こんな手紙をくれた母親がいた。

 「息子が高校受験に合格した夜、はじめて、息子の原点は、はやし先生が作ってくれた
のだと気づきました。ありがとうございました」と。

 私はその手紙を読んだとき、涙を流した。本当だぞ! 幼児教育というのは、そういう
ものである。
(050303)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。楽しい。そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。しかしそういう人が、本当に
他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行
動する。「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝
されるだろう」と。さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもら
えるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。自分をよく見せるた
めに、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。しかしフリは、フリ。中身がな
い。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。無意識下のエゴイズムを
いう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識するこ
とができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。その人の心を、
裏から操る。そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末
那識を、強く戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。
「大切なのは、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。町の中で、
クラブ制の窯(かま)をもっていた。教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手
として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。が、
その親切は、ある意味で、計算されたものだった。本当に親切であったから、Xさんは、
その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男
性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだっ
た。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。Xさんが、
「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末
那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題
にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。またYさんを、非難している
わけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。また
それを生きがいにしていたわけでもない。Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだ
け」を考えながら、介護の指導員として活動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんのところへ、ある日、夫が、夫の兄を連れてきた。Yさんの義兄ということにな
る。この義兄は、身寄りがなく、それに脳梗塞(こうそく)による軽い障害もあった。ト
イレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態だった。
年齢は、73歳。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、義兄を虐待するようになった。風呂の中で、義兄が、大便をもらしたのがき
っかけだった。

 Yさんは、激怒して、義兄に、バスタブを自分で洗わせた。義兄に対する、執拗な虐待
が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。同じものしか与えない。初夏の汗ばむような
日になりかけていたが、窓を、開けさせない。風呂に入らせない。義兄が腹痛や、頭痛を
訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。姉は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言い方
である。昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。子ど
もを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」
としてみる。またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。私たちは、ともすれば、
「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。しかしこうした
(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。しかしそれに近い、代償的過保護となると、
「あの人も……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自
分の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護とい
う。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。しかし大きくちがう点は、代
償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要する
こともある。世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。子どもに対する
偽善といってもよい。勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。偽善だらけといってもよい。教育システムそのものが、
そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。教師は、いったい、何%
いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。教育イコール、
進学。進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となってい
る。今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。数年前も、関東地
方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇
っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷
しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。どの私立中高校も、進学のための
特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、
ともかくも、偽善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。文明という、つまりそれまでの人間が
経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。スズメたちの世界は、実に単
純、わかりやすい。礼節も文化もない。スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きて
いる。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせ
よ、人間がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。「私は私であるか」と
問うてみるのもよい。「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親
について言うなら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」
と問うてみるのもよい。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。悪もある。その悪が、ゴ
ミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構え
の一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論 はやし浩司,
幼児教育,子育て論,育児論,教育評論,評論家,育児評論,育児評論家,子育て評論,子育て問題,
育児問題,子育て)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●生きがいとなる基盤

++++++++++++++

自分のことしかしない。
自分のしたいことしかしない。

若い人たちはそれでよいとしても、
人生の先輩である、私たちが
それでよいとは、だれも思わない。

が、この問題は、自分自身の問題
でもある。

そういう生き方をしていると、
結局は、さみしい思いをするのは、
自分自身ということになる?

++++++++++++++

 私は自分の母を介護しながら、多くのことを学んでいる。決して自慢できるような母で
はないが、(それにボケも加わっているが……)、それでも毎日、学ぶことは多い。

 母は、若いときから、自分勝手でわがまま。自分のことしかしなかった。たまに他人の
ために働くことはあったが、それは他人の目を意識して、そうしていただけ。だから他人
には、受けがよかった。

 母を責めているのではない。多かれ少なかれ、だれしも、母のような生き方をしている。
この私だって、そうだ。

 しかしそれが加齢とともに、顕著になってきた。私の家に寝泊まりするようになってか
らというもの、さらにそれがひどくなった。母は、いつも、自分のことしか考えていない。
私やワイフの都合や気持ちなど、まったく意に介さない。自分がしたいことだけをし、ま
たそれを私たちに要求してくる。

 最近では、「実家へ帰りたい」と言っては、私たちをよく困らす。実家というのは、自分
が生まれ育った実家をいう。

 「迎えの車をよこすように、電話をしてくれ」
 「迎えがきてくれると言ったが、どうして来てくれない?」
 「お前たちは、ウソつきや」と。

 適当にあしらうという方法もあるが、それは私たちのやり方ではない。私たちは、いつ
も、本当のことを言うことにしている。

 そういう母を見ていると、最初は、「自分たちはああは、なりたくないものだ」と思う。
つぎに、「どうして母は、ああなってしまったか」と考える。そしてさらに、「では、ああ
ならないためには、どうしたらいいか」と考える。

 もちろん母が、実家に帰りたい気持ちはよくわかる。そこで私は、母の実家の写真を、
A4サイズに拡大し、何枚か、ベッドのまわりに張りつけてやった。古いアルバムも、何
冊か、手元に置いてやった。それなりに効果はあったと思うが、しかし母は、そんなこと
では満足しない。「電話をかけてくれ」「電話をかけさせろ」と騒ぐ。

私「あのなあ、だれがお前のめんどうをみてくれるんだ?」
母「実家へ行っても、メシくらいは、食べさせてくれるはずや」
私「もう、代がかわった。あの家は、あんたのものじゃない」
母「わっち(=私)のもんや」と。

 こんな意味のない押し問答が、繰りかえしつづく。

 わかりやすく言えば、今の母は、感情のおもむくまま、ものを言う。理性によるコント
ロールは、もうほとんどない。それはしかたないとしても、つまり、老人になれば、みな
そうなるという点では、しかたないとしても、それでさみしい思いをするのは、母自身で
はないのか。

 今年91歳になるが、今の元気を保つことができれば、100歳まで生きられるかもし
れないという。ケアマネージャーの人は、そう言っている。つまり、残りの10年を、そ
んな思いで過ごして、よいものか?

 そこで(生きがい)の問題ということになる。が、自分のためだけに生きてきた人に、
今さら、「生きがいをもて」と言っても無理。生きがいとなる基盤そのものをもっていない。
またその基盤は、一朝一夕にできるものではない。10年単位、20年単位という長い年
月を経て、熟成されるもの。

 とても残念なことだが、私の母には、その(基盤)を感じない。どこまでも、どこまで
も、かわいそうな女性である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝(5月29日)、あれこれ

++++++++++++++++

先週は、4日間で、1冊の本の原稿を
まとめた。

新記録である。

で、今週は、その原稿を、5〜6社の
出版社に送る。

それでだめなら、さらに3〜4社の
出版社に送る。

++++++++++++++++

●ホームページ作成ソフト

 この6年以上、私は、ホームページ作成ソフトとして、「N」というソフトを使ってきた。
が、このところ、何かと不便なことがつづく。とくにビスタ(OS)にしてから、ときど
きおかしな暴走が起きる。

 「N」社に相談すると、最後にこう言った。「Nは、初級者向けに開発されたものです。
上級者用として、たとえばホームページビルダー(IBM社製)などがありますから、そ
ちらを検討してみたらどうですか」「今のところ、ビスタ対応版の発売は、考えていません」
と。

 この言葉で決まった。

 さっそく町中のパソコンショップで、ホームページビルダー(11)を購入。ガイドブ
ック付きで、7000円弱で購入できた。目下、半額セール中。

 ガイドブックにざっと目を通してみて、びっくり。「N」とは、各段の差があった。あえ
て言うなら、「N」は、小学生の使うソフト、ホームページビルダーのほうは、高校生の使
うソフトといった感じ。

 私はときどき、こういうヘマをする。つまり最初の選択をまちがえて、ズルズルとその
まま低位のソフトを使いつづけるというヘマである。あああ……今回も、それをしてしま
った。

 しかし今までの蓄積を考えると、ことは容易ではない。これから1〜2年をかけて、少
しずつ、「N」からホームページビルダーに乗り換えていかねばならない。ソフトを交換す
れば、それでよいという問題ではない。

 ……で、今日の日記は、ここまで。今日も忙しい。

【追記】

 ソフト「N」を使って、ビスタ上で作業をしているが、「保存」が、どうしてもうまくで
きない。

 要するに、「N」は、ビスタには、対応していないということ。しかしこういうことがつ
づくと、本当にやる気をなくす。

 いやだなア〜。


●本を書く

 久しぶりに本のための原稿を書いた。これからあちこちの出版社に声をかけるつもり。
何とか早く決まればよいが、……と願っている。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 13日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしま
う。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にして
きた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができ
なくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということにな
る。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたい
こと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、
この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、
そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになっ
てしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期に
は、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に
立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」で
はない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわか
るようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔い
しれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時
的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考え
る。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分か
ら、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がつい
てみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたよう
な状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。4
0歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りとい
われる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的
には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまり
それをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)
になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。こ
の両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多く
は、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がい
た。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなして
いた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは
何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性
に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問
題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致さ
せていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半
の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで
金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを
見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほ
ど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、その
とおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。そ
の人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんに
なってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、
公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個
人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題
は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も
繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできること
を考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名
誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。という
のも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。そ
の(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この
問題は、(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠
のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を
残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そう
いう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物とい
うのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後は
どうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うな
ら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、
この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れて
くる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だか
らよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけで
はないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論に
よれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」
とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいで
ある。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足
でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほ
しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目
標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教
団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、
その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがて
そのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいる
かさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。し
かし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってく
る。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、な
い。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。
毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味がある
というのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きてい
るだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味す
る。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、
それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命を
みな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさ
がそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くも
ある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決
して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今夜・あれこれ

++++++++++++++++

昨夜は、母を、ショートステイ
(一泊介護)に預けて、ワイフと
2人で、山荘に泊まってきた。

山荘に泊まるのは、今年、はじめて。

で、今日の天気に、点数をつけると
したら、100点。満点。

快晴、さわやか、申し分なし。
木々の新緑が、本当に美しかった。

++++++++++++++++

●山荘

 やむをえぬ事情ができたときには、母を、ショートステイ(一泊介護)に預けることに
している。約4500円前後の自己負担で、それができる。

 が、今日は、母をそのショートステイに預けて、私とワイフは、山荘に一泊してきた。
山荘に泊まるのは、母を介護するようになって、はじめて。このところ、何かとストレス
がたまることがつづいた。

 山荘に着いて、まず、山荘全体をおおっている、甘い香りにうっとり。ジャスミンの香
りに、バニラを少し混ぜたような匂い。野生のジャスミンが、山荘をすっぽりと包むよう
に咲いていた。その香りを楽しむことができるのは、5月の第3週目前後の、ほんの3〜
4日だけ。

 天気は快晴。さわやかな五月(さつき)晴れ。森の木々が、いっせいに新緑を輝かせて
いた。1年を通して、ベストシーズンは、この5月の3週目〜4週目。この2週間をのが
したら、何のための山荘か、……ということになる。

 おかげで、今日は、気分そう快。心も軽い。明日は、たまたま休みなので、義理の兄夫
婦を、山荘に招待する。みんなで食事を楽しむつもり。


●桜の木

 その山荘には、1本の桜の木がある。山荘を建てたとき、もう1人の義理の姉が、記念
にと、植えてくれた。

 その桜の木が、結構な大木になった。今年で13年目になる。が、一本の枝が、道路に
かぶさるように垂れてきた。トラックのような車だと、天井をこすってしまいそう。

 そこでその枝を切ることにした。が、昔から、「桜、切る馬鹿」という。「桜、伐(き)
る馬鹿」と書くときもある。桜の木を切ると、その切り口から細菌が侵入して、桜の木を
枯らしてしまう。だから、「桜、切る馬鹿」という。

 義理の姉が、せっかくくれた桜の木だから、枯らすわけにはいかない。そこで、インタ
ーネットを使っていろいろ調べてみた。が、「細菌の侵入を防ぐため、薬剤を塗ればいい」
というようなところまでは書いてあるが、肝心の薬剤の名前がわからない。

 どうしたらいいのか? 農作物用の殺菌剤があるので、明日、それを山荘にもっていく
つもり。切り口に、それを塗り、その切り口をサランラップか何かでおおってみる。私は、
タールのようなものを切り口に塗ればよいのではないかと思っているが、よくわからない。

 明日の朝いちばんに、浜松市のフラワーパークの事務所に電話を入れて、問い合わせて
みる。


●カラスの子ども

 数日前、庭の中に、カラスの子どもが落ちてきた。ハナ(=犬)が、けたたましく吠え
た。それで、それに気がついた。

 さっそく、保護。抱きあげて、手の中でやさしく体をさすってやっていると、そのまま
おとなしくなった。

 カラスという鳥は、たいへん頭のよい鳥である。それはそのとおりで、そんなばあいで
も、即座に、自分の置かれた状況を判断できるらしい。30分もそうしていると、私とい
う人間に、なれてしまった。名前は、「カラ公」。そういう名前にした。

 若いころから、一度はカラスを飼ってみたいと思っていた。じょうずに飼うと、人間の
言葉まで話すようになるという。しかし……。

 どこかでワイフの冷たい視線を感じて、断念。今は、母もいる。その介護だけで、たい
へん。……ということで、カラ公を再び、空に放すことにした。

 言い忘れたが、その間に、水をやったり、ソーセージやリンゴを与えたりした。

 庭に出て、手につかまらせると、しばらくは、そのままにしていた。「いつまでもこうし
ていたい」という気持ちと、「どこかへ飛んで行け」という気持ちが、交互に私の心の中に
浮かんでは消えた。私は鳥が大好き。高校生のときから、ずっと、手乗り文鳥を飼ってい
た。

 が、何かの動きにおびえたのか、突然、カラ公は、大きく羽をバタつかせると、そのま
まキーウィの棚を飛び越えて、空へ。しばらく大屋根に止まっていたが、さらに大きく羽
ばたいて、どこかへ飛んでいってしまった。

 「ぼくが30歳くらいだったら、あのまま飼っていたかもしれない」とワイフに言うと、
「やはり、今は無理ね」とワイフ。

 時間にすれば、2時間足らずのできごとだったが、カラ公のあのぬくもりを、今でも、
忘れない。

それにしても、カラスというのは、本当に頭のよい鳥である。改めて、それを再確認し
た。たとえば透明のガラス戸の前までくると、カラ公は、歩く足を止めて、じっとガラ
ス戸をにらんでいた。ほかの種類の鳥なら、ガラス戸に体をぶつけて、バタバタと暴れ
ただろう。


●畑

 畑といっても、家庭菜園だが、今年は、去年の2倍ほどの広さにした。庭の南端に、そ
れがある。

 ピーマン、シシトウ、トマト、ネギ、サヤエンドウ、キュウリ、ウリ、枝豆、二十日大
根、パセリなどなど。店で売っているような野菜の苗は、一応、全種類を植えた。

 朝、起きると、それを見るのが、このところの日課になっている。それがどういうわけ
だか、楽しい。本当に楽しい。少しずつだが、収穫も始まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●いらぬお節介?

++++++++++++++++

この記事が目に留まったのは、
事件が事件であったからではない。

3回ほど注意深く読んでみたが、
意味がよくわからなかったからで
ある。

++++++++++++++++

 この記事を、まず読んでみてほしい。そのまま引用する。

+++++++++

 『東京のJR池袋駅で96年に起きたR教大生殺害事件の遺族が21日、英国人英会話
講師ホーカーさん(22)の死体遺棄事件で全国に指名手配されている市橋T容疑者(2
8)の父親あてに息子に自首を呼びかけるよう依頼する手紙を19日付で送ったことを明
らかにした(07年5月19日・時事通信)。

+++++++++

 だれが、いつ、どこで、何をした……という部分が、よくわからなかった。だからこの
記事を、私は3回も読みなおした。3回目は、一字一句、ていねいに読みなおした。

 私の読解力が低下したのか? それとも、この文章が、ヘタなのか? ともかくも、内
容は、こういうこと。

自分の子どもを殺された、ある遺族の父親(=小林Sさん)が、別の事件で指名手配さ
れている男(=市川T容疑者)の父親に対して、その父親の息子が自首するよう呼びか
けをしてほしいという手紙を出したということ。

 つづく記事は、つぎのようになっている。

『手紙を送ったのは96年4月にJR池袋駅ホームで男に突き飛ばされるなどして死亡
したR大4年小林Sさん=当時(21)=の父Sさん(61)=埼玉県K部市=。「どう
か親の責任を感じられているのであれば勇気を出してご子息に自首を呼びかけていただ
けないでしょうか」と記している。

 取材に対し、小林Sさんは手紙を送った理由について、「同じ未解決事件の遺族として(ホ
ーカーさんの家族の)心情を察した」などとし、「加害者の親に法的な責任はないが、倫
理的には必ずある。勇気をもって自首を呼びかけてほしい」と話した』と。

 手紙の内容からすると、ホーカーさんを殺した市川T容疑者の父親は、ダンマリ(?)
を決めこんでいるといった印象を受ける。それを見るにみかねた、R大生殺害事件の遺族の
父親の小林Sさんという人が、「それではいけない」と判断して、市川T容疑者の父親に手
紙を書いた(?)……ということらしい。

 「法的には責任はないが、倫理的には必ずある。勇気をもって、自首を呼びかけてほし
い」と。

 しかし……。私は市川T容疑者の父親がどういう人であるか、まったく、知らない。知
らないだけではない。その市川T容疑者の父親が、どのように今回の事件を見つめ、悩み、
苦しんでいるかもわからない。わからないから、私なら、こういう手紙は書かない。

 常識的に考えれば、市川T容疑者の父親は、毎日、毎晩、自分の息子のしたことで、苦
しんでいるにちがいない。そうであるかもしれない市川T容疑者の父親に対して、(あるい
はそうでないかもしれないが)、「勇気をもって」「自首を呼びかけてほしい」と。

 わざわざ「法的な責任はないが……」と書いているところが、気になる。息子が犯した
犯罪について、父親には法的な責任はない。ないことは、法治国家では常識である。にも
かかわらず、「法的な責任はないが……」と書きつつ、法的な責任をにおわせている(?)。
それが気になる。

 つぎに「倫理的な責任」とは、何か。これがよくわからない。倫理的な責任があるかど
うかは、その父親自身が判断することであって、他人ではない。他人である、小林Sさん
という人ではない。

 どんな事情があるにせよ、またないにせよ、こうした事件では、責めるべきは、犯人も
しくは容疑者本人であって、その周囲の人たちではない。もしこんな発想を拡大したら、
それこそ、日本は、江戸時代にまで逆行してしまう。

 「一族郎党、もろともに」という、あの江戸時代である。江戸時代には、家族のだれか
が重大事件を犯すと、親兄弟はもちろん、親族も含めて、一族郎党もろとも、処刑された。

 さらにそれぞれの家庭には、言うに言えない、複雑な事情がある。親子ともなれば、な
おさらで、その間には、複雑な(糸)が、からんでいる。そういう事情を一方的に無視し
て、自分だけの論理を振りかざして、こういう手紙を書くのも、どうかと思う。またそれ
で解決するような問題ではない。

 もちろんだからといって、私は市川T容疑者の擁護をしているわけではない。小林Sさ
んを責めているわけでもない。小林Sさんには、小林Sさんなりの、(思い)があったのだ
ろう。その心情は、よくわかる。

しかしその一方で、『憎むべきは犯罪であって、人ではない』という考え方もある。犯罪
を犯す人にしても、どこかで歯車が狂って、犯罪を犯すようになる。善人も悪人も、紙
一重。大きくちがうようで、それほど、ちがわない。

つまりこの考え方にのっとれば、父親に倫理的責任を求める行為は、まさに(いらぬお
節介)ということになる(?)。

 今は、捜査機関が、血眼(ちまなこ)で市川T容疑者の行方を追っているはず。だった
ら、今は、捜査機関にすべてを任せればよいのではないのか。おそらくその過程で、必要
であれば、捜査機関が、市川T容疑者の家族に、それなりの協力を求めるということはあ
るだろう。しかしそのばあいでも、そうした協力については、できるだけ隠密裏になされ
るのが前提である。

 小林Sさんが、どの程度のことまで市川T容疑者の親に求めているかは、この記事だけ
でけでは、よくわからない。その前に、こうした手紙の内容が、どうしてマスコミに流れ
たのかもわからない。手紙を書くにしても、小林Sさんは、市川T容疑者の父親に、個人
的に書けば、それですんだはずである。

 だから私の意見は、ここまで。全体の印象としては、それがだれであるにせよ、こうし
た手紙を書くこと自体、日本的な感じがする。あるいはみなさんは、どのような印象をも
っただろうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(5月23日)

++++++++++++++++

昨日は、ワイフの姉夫婦と、山荘で
過ごした。

今ごろの季節は、最高! 本当に
すばらしい!

ちょうど梅の収穫期で、私も含めて、
合計で20キロ近く収穫した。

楽しかった。ワイフは、さっそく、
今朝から梅干しづくりにとりかか
っている。

++++++++++++++++

●ビスタの新機能

 ビスタには、自分で自分の脳みそ(CPU)の能力を測定する機能がついている。「パフ
ォーマンスの情報とツール」というのが、それ。その機能を使うと、コンピュータの性能
が点数化して表示される。

 ちなみに私のパソコンの性能は、

 プロセッサ      ……5・3
 メモリー       ……5・6
 グラフィックス    ……5・9
 ゲーム用グラフィックス……5・5
 ハードディスク    ……5.5、となっている。

 4・0〜以上あれば、ビスタは快適に動作するそうだ。

 この中でとくに私の興味をひいたのは、プロセッサの(5・3)という数字。コンピュ
ータは、自分で自分の能力を測定してということになる。しかしどうしてこんなことがで
きるのだろう?

 たとえて言うなら、子どもが、自分でテスト問題を作って、自分でテストするようなも
の。コンピュータは、自分の作ったテスト問題で、自分の能力を、(5・3)と判定してい
ることになる。

『賢い人からは、愚かな人がよくわかるが、愚かな人からは、賢い人がわからない』。これ
は私が考えた格言だが、もう一言、つけ足すと、こうなる。『愚かな人は、自分が愚かとい
うことさえわからない』。

 だからたとえば(4)の能力しかないプロセッサが、どうして自分が(4)と判定でき
るのかということになる。(3)なら(3)でもよい。何か、私の知らないしかけがどこか
にあるのだろう。

 それにしても、今度のビスタは、おもしろいことをしてくれる。


●梅取り

 山の中の生活は、こと「緑」に関しては、ダイナミック。そのことは、以前、自分で木
の苗を植えてみて、気がついた。

 そのとき私は緑花木センターというところで、10数本の苗木を買ってきた。梅の木も、
その中にあったと思う。結構、大きく育った苗木である。が、山で植えてみると、それが
どれも雑草のように小さく見えた。

 これには驚いた。「緑」の基準そのものが、ちがった。

 反対に、山の中ではふつうの木でも、そうでないということは、よくある。ここに書い
た梅の木もそうである。小さな木だと思って、収穫してみたら、20キロ近くもあった。
あるいはもっとあったかもしれない。

 小梅と中梅の2本だったが、その小梅にしても、中梅程度の大きさがある。兄夫婦は、「日
当たりがいいから、こんなに大きくなったんだ」と笑っていたが、そうかもしれない。そ
うでないかもしれない。

 その小梅にしても、家にもって帰ってみると、どれも、大梅のような大きさに見える。
これにも驚いた。

 山の中では、「緑」は、小さく見えても、大きい。「緑」の基準、そのものが、ちがう。


●八百長相撲

 「……?」と思ってながめているのが、相撲の八百長問題。昔から、相撲の世界では、
こうした八百長疑惑は、そのつど現れては消える。つまり、こうした疑惑は、絶えること
がない。

 大前提として頭に入れておかねばならないことは、相撲は、スポーツではないというこ
と。もっとわかりやすく言えば、金儲けのための「興行」。「国技」という言葉は、彼らが、
自分たちのための金儲けをごまかすために使う、口実にすぎない。

 相撲協会にしても、文科省認可の財団法人であるにもかかわらず、どうして1億円単位
の現金が、その間で、乱舞するのか。八百長問題にしても、以前から、弟子が数百万円単
位の現金をもって、相手方の部屋へ、それを届けるというような話は、よく聞いた。もち
ろん相手に、わざと負けてもらうために、である。

 ところで「八百長」というのは、昔、八百屋の長兵衛という人が、碁の勝負で、弱い相
手にわざと負けていたことから、そう言うようになったという(日本語大辞典)。私が相撲
を嫌いになったのは、こうした八百長疑惑が、そのつど現れては消えたからにほかならな
い。

 どこか、うさん臭い。うさん臭いというよりは、「うす汚い」? 金儲けを目的とした興
行なら興行でもよい。だったら、野球やサッカーのように、もっとわかりやすい世界にす
べきではないのか。

 私は、ますます相撲が嫌いになった。

 ……ということで、相撲ファンの方には、たいへん失礼なことを書いたかもしれない。
しかし今、子どもの世界でも、「相撲が好き」と答える子どもは、ほとんどいない。ゼロに
近いのではないか。少なくとも、私は聞いたことがない。


●いらぬお節介

 おととい、「いらぬお節介」というタイトルで、エッセーを書いた。BLOG上で、それ
を発表した。それなりの反響があった。

 私も、日常生活の中で、こうした(いらぬお節介)を、よく経験する。最近では、私の
母の介護について、あれこれ意見を言ってくる人がいる。しかし介護の問題だけは、介護
をしたものでなければ、わからない。

 それに介護老人といっても、まさに千差万別。一人とて、同じような例はない。それが
介護である。

 さらに加えて、それぞれの家庭には、それぞれの事情というものがある。その事情は、
他人はもちろんのこと、親類であっても、わからない。いや、その親類にしても、一方的
な話だけを聞いて、それで自分の意見を組み立ててしまう。

 その上での、(いらぬお節介)である。中には、薄っぺらい(孝行論)を前面に押し立て
て、あれこれ言ってくる人がいる。このタイプの人は、よく、『〜〜ベキ』を口にする。

 「長男だから、家を継ぐベキ」
 「男だから、金を出すベキ」
 「本家だから、墓を守るベキ」
 「産んでもらったのだから、親のめんどうをみるベキ」と。

 しかしこういう言葉が、いかにその人を苦しめるか、言う人は、それがわかっていない。
ばあいによっては、その人の心に、深いキズを残す。

 では、そういうときは、どうするか?

 私のばあい、相手にしないという方法で、対処している。はっきり言えば、無視。どう
せその程度の人たちである。その多くは、江戸時代の封建意識そのものを、踏襲している。
親絶対教の信者、もしくは極度のマザコンタイプ。もともと理性や道理の理解できる人た
ちではない。

 ……というのは言いすぎということは、自分でもわかっている。が、これだけは、私は、
いつも肝に銘じている。

 どんなばあいも、他人の家の事情については、(いらぬお節介)をしない。繰り返すが、
それぞれの家庭には、それぞれの、言うに言われない、深い事情というものがある。安易
な推察だけで、自分の意見を組み立てて、相手にものを言うのは、失敬というもの。

 昔から、こう言う。『口を出すくらいなら、金を出せ』と。少なくとも、お金(マネー)
も出さないで、口だけ出すのは、やめたほうがよい。口を出すことくらいなら、だれにだ
ってできる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの生きがいvs.老後の生きがい

++++++++++++++++++++

もうすぐ91歳になる母が、ふと、こんな
ことを漏らした。

「いつまで、(こんな生活が)、つづくのかねエ?」と。

母は、週に4日、デイサービスに通っている。
が、私の家にいる間は、ベッドから起きたり、
横になったり、あるいはソファに座っているだけ。

私が「あと10年はがんばれるよ」と声をかけると、
「そんなに長くかア……」と。

++++++++++++++++++++

 母を見ていると、母には今、(生きがい)となるような生きがいがないのがわかる。私の
家にいる間は、ベッドから起きたり、横になっているだけ。あるいはソファに座って、外
をぼんやりとながめているだけ。

 話し相手になってやりたいが、耳は、ほとんど聞こえない。補聴器はいやだといって、
耳にはめない。そんな母が、昨日、こう漏らした。「いつまで、(こんな生活が)、つづくの
かねエ?」と。

 そのときは、それほど気にしなかったが、あとでワイフとそのことについて話しあう。

私「何か、母の生きがいになるようなことを用意してやらなければならない」
ワ「……何が、あるかしら?」
私「そこなんだよな。そこが問題だ」
ワ「ケアセンターで、友だちでもできればいいんだけど」
私「あの母では、むずかしいだろうね」と。

 母は、人一倍、自意識が強い。周囲の人たちからチヤホヤされないと、落ちつかない。
そういうタイプの女性である。自分のほうからバカになって、相手の輪の中に飛び込んで
いくということができない。

私「いやね、母を見ていると、老後は、ああであってはいけないとよく思う。つまりね、
母を他山の石として、学ぶべきことはたくさんあるよ」
ワ「そうね。生きがいは他人から作ってもらうものではなく、自分で作るものだし……」
私「作るというよりはね、長い時間をかけて、用意するものだよ」と。

 老後になってから、あわてて生きがいを作ろうとしても、うまくいくはずがない。老後
になる前から、老後になってからの生きがいを用意する。

 で、その母だが、生きがいらしきものがないわけではない。

 若いころからいくつかのクラブに入り、毎日のように、出歩いていた。ちぎり絵クラブ、
詩吟クラブなど。寺の行事には、率先して参加していたし、町内の仕事もよくしていた。
が、今は、何もしない。ちぎり絵のセットを渡してみたことがあるが、「もう、飽きた」と
言って、見向きもしなかった。

 信仰もやめた。植木鉢に花を植えて、それを窓のそばに並べてみたが、最初の数日は興
味を示したが、そこまで。今は、ワイフがその花の世話をしている。

 何もせず、ぼんやりとしているだけ。「退屈だろうな」とは思うが、今の私には、できる
ことは、ほとんどない。まあ、あえて言うなら、母の生きがいは、食べることくらいなも
のか。私の家では、食事の量は控えめしているが、ケアセンターのほうでは、食べ放題、
食べているようだ。それにお茶も飲み放題、飲んでいる?

 毎日、センターでは、2度ほど、オムツを替えてもらっている。ズボンもぬらすらしい。
帰ってくるときは、いつも別のズボンをはいている。

 しかし食べることが生きがいでは、困る(?)。それこそ「何のために生きているのか」
ということになる。

 そうした母を観察していると、そのまま、今度は、子どもの生きがいと結びついてくる。
それぞれの子どもは、何かしらの生きがいをもって、毎日生活をしている。が、中には、
その生きがいがない子どももいる。生きがいと「夢」を同一視することはできないが、小
学の6年生でも、夢をもっていない子どもとなると、30%前後もいる。

 こういう子どもたちは、ただその日を過ごしているだけ。が、子どもにとって、これほ
ど、不幸なことはない。

 もっとも相手が子どものばあいは、生きがいを見つけ、育て、その生きがいをもたせる
のは、親の役目と考えてよい。私が説く、『一芸論』もその一つである。子どもはこの一芸
を柱として、自分の進むべき道を決める。

 が、母のような老人は、どうすればよいのか? それは介護をする私たちの役目なのか?

 何か予定を立てて、母に楽しみにさせるという方法もある。しかし今の母には、それを
理解する力はない。あちこちへ連れていっても、眠っているだけ。かえって母を疲れさせ
てしまう。

 言いかえると、死ぬまで自分を支えてくれる(生きがい)をもつには、どうしたらよい
かということにもなる。これは母の問題というよりは、私自身の問題でもある。「私は、ど
うすればいいのか?」と。今ですら、生きがいを保つのは、むずかしい。そんな私が、こ
のまま老人になったら、私はどうなるのか。

 今の母以上に、みじめな老後生活を送ることになる。

私「生きがいというのはね、結局は、(やるべきこと)ということになるよ」
ワ「死ぬまで、やるべきことをもつということ?」
私「そうじゃないかな。したいことをするというのは、生きがいではない。生きがいには
つながらない。ほとんどの人は、そう思っているけど……」
ワ「そうね」と。

 ますます生活態度がだらしなくなる母。便については、垂れ流しの状態になっている。
寝たきりになるのは、時間の問題。ワイフもこのところ、ときどき、弱音を吐くことが多
くなった。だいじょうぶかな?

 ……ということで、今朝は、老後の生きがいについて、考えてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●黄砂

++++++++++++++

昨日(5月26日)、ワイフと
近くのガーデンパークへ、弁当
を食べに行った。

途中、まわりの景色が春がすみのように
曇っていた。

黄砂(こうさ)である。

毎年今ごろになると、ゴビ砂漠や
タクラマカン砂漠、さらには中国の
高度地帯から、強風にあおられて、
この日本に黄砂がやってくる。

直接的な被害は、まだ出てないが、
黄砂によって、たとえば航空機の
エンジンなどに被害が出ることも
考えられている。

しかし問題は、この黄砂が、ここ
2000年以後、毎年、300〜
400回近くも、この日本でも
観測されるようになったこと。

つまりそれだけ、中国内陸部の
砂漠化が進んでいるということ。

++++++++++++++

 中国東北部の干ばつは、相当ひどいらしい。連日、その地域の町や村では、給水車や軍
が出動して、住民への給水を行っているという。

 そのせいか、ここ数日、この浜松市でも、中国からの黄砂が観測されている。しかも気
象庁の発表によると、その規模も年々大きくなっているという。頻度も多くなっていると
いう。200年以後は、毎年、300〜400回近くも観測され、06年には、9月末時
点で、計619回も観測されたという。

 原因は、地球温暖化によるものと考えてよい。毎年、3〜4月になると中国内陸部では、
強風が吹き荒れるようになる。そのとき、砂漠地帯が雪でおおわれていれば、砂塵、つま
り黄砂が吹きあげられることはことはない。つまりその「雪」がない。だから黄砂が日本
まで、やってくる。

 ところで干ばつと言えば、今年のオーストラリアも、ひどかった。オーストラリアでは、
穀物を冬から春にかけて収穫する。夏は暑すぎて、穀物の生育には向かない。穀物が大地
をおおっている間は、大地もそれなりに湿っている。が、穀物の収穫が終わると同時に、
大地は乾燥する。それがオーストラリアの干ばつに、拍車をかけた。

 友人のN君の報告によれば、今年の1月には、あのメルボルン市でも、45度Cという
猛烈な暑さを記録したそうだ。1970年ごろには、世界で、もっとも気候の温暖な地域
として知られていた、あのメルボルン市で、である。

 ……ということで、地球が温暖化しているということは、もうだれの目にも疑いようが
ない。が、問題は、ここで終わるわけではない。少し前、地球温暖化の問題に触れて、私
は、「不測の事態が不測の事態を招いて、さらに加速度的に温暖化が進むことも考えなけれ
ばいけない……」と書いた。

 実は、この黄砂についても、同じような問題が指摘されている。

 黄砂が砂塵となって舞いあがれば、当然、その分だけ、日光をさえぎることになる。こ
れについて、黄砂は、地球温暖化にブレーキをかけるのではないかという意見もあった。

 が、事実は、どうも逆のようだ。

 空中に舞いあがった黄砂は、そこでさらに太陽の熱を蓄積し、かえって大気を暖めてし
まうというのである。黄砂がそのまま大気圏外へでも飛んで行ってくれれば、話は別だが、
そういうことはありえない。飛行機などから見ると、黄砂は、はうようにして、地上を移
動する。

 そのためさらに加速度的に、地球の温暖化は進んでしまう(?)。つまり地球の気温につ
いては、いまだにわからないことだらけ。一部の砂漠では、住民やボランティア活動の人
たちが、やなぎの木を植えるなどして、砂漠化を食い止めようとしている。その熱意と努
力には頭がさがる。また何としても、砂漠の拡大だけは、食い止めなければならない。

 この問題だけは、(私たちの問題)というレベルでは、もうない。未来の子どもたちや、
さらに、あらゆる動植物を巻きこむことになる。そういう意味では、たいへん深刻な問題
である。

 ……しかし、この無力感はいったい、どこからくるのか? 前回も書いたが、台風1個、
もてあましている人間が、どうして地球規模の気候をコントロールできるというのか。か
といって、人間が人間をコントロールできるかというと、どうも、それもあやしい。

 何かをしなければならないという気持ちだけが、ザワザワと胸の中で騒ぐ。しかしどこ
からどう手をつけたらよいのか。無力感は、どうやらそのあたりから生じているようだ。

 自然というのは、壊すのは簡単。しかし再びつくるとなると、至難のワザ。現状を維持
するだけでも、たいへん! この先、人間はどうするのだろう……と思ったところで、こ
の話はおしまい。私は私ができる範囲で、私の努めを果たす。たいしたことはできないが、
いつか、今の自分を後悔するようなことだけはしたくない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   6月 11日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【相談】

+++++++++++++++

いくつかの相談が、届いています。
それについて考えてみます。

+++++++++++++++

●Tさん(兵庫県在住)より、6歳の子どもについての相談

現在1年生の息子について、相談します。

年中児のときは、自分の席に座れなかったり、みんなと同じ事することを、嫌がったりし
ました。原因が分からないまま年長になりました。それから少しずつ良くなって、卒園の
ときは、普通の子どもになったように思います。

でも、たまに本人が嫌な事があるとき、教室を出ていってしまうことがあるようです。今
は小学校に入学して、1か月以上を経ちましたが、幼稚園のときよりも、もっとひどくな
ったような状態です。

昨日も、英語の授業中、英語が喋られないということで、学校に置いてある荷物をすべて
持って、家に帰ってきました。落ち着いてから、また学校に連れていきましたが、校門の
中に入るのが大変でした。

悩んでいるとき、ネットで先生のホームページを見、是非先生のご意見を聞かせていただ
きたく、メールを出しました。どうぞ宜しくお願いします。

+++++++++++++++

【はやし浩司よりTさんへ】

 メールだけでは、お子さんの様子がよくわかりません。こうして問題になさっておられ
るということから、症状が、かなり顕著に現れているという前提で話します。

 「自分の席に座れなかった」……こだわりの強い子どものように思いますが、しかしこ
の時期の子どもにしてみれば、珍しいことではありません。年中児でも、席につけない子
どもは、10人のうち、1人〜2人はいます。

 そういうときは無理をせず、母親(おうちの方)といっしょに、席に座るなどの方法で、
対処するのが、ふつうです。

 反対に、回避性障害のある子どもや対人恐怖症の子どもも、同じような症状を示すとき
もあります。こだわりが強く、かん黙症や自閉傾向を示す子どももいます。こだわりが弱
い状態を、(がんこ)といいます。

 がんこにしても、子どもにとっては、あまり好ましい症状とは言えません。なお(根性)
と(がんこ)は、理由のあるなしで区別します。かたくなになることについて、正当な理
由があるばあいを、(根性)といいます。理由がなく、一方的にかたくなになるのを、(が
んこ)といいます。

 思考の柔軟性がないとみます。原因はいろいろ考えられますが、年長期を過ぎていると
いうこと、つまりすでに少年期に入っていますので、いまさら、それを問題にしても、し
かたありません。「うちの子は、そういう子」と認めた上で、その子どもに合わせて、指導
します。「治そう」とか、「直そう」とは、考えないこと。無理をすれば、かえって症状が
こじれてしまいます。

 「教室を出ていってしまうことがあるようです」……対人関係をうまく調整できない子
どもとみます。しかしこういうケースでは、子どもを問題にする前に、家族のあり方をま
ず問題にします。

 「子どもは、家族の代表」とみます。つまり代表者として、いろいろな症状を示してい
ると考えます。ほとんどの親は、子どもに何か問題を発見すると、子どもをなおそうと考
えますが、そういう発想では、子どものもつ問題は、解決できないということです。

 いただいたメールだけでは、よく内容がわかりません。そのためにも、もう一度、家族
のあり方を、よく見つめなおしてみてください。たとえば私なら、家に帰ってきてしまっ
た子どもを、再び、学校へ連れ戻すなどということはしません。そうすることの上で、か
なりの(無理)があったと思います。つまりかなりはげしく子どもは、それに抵抗したは
ずです。Tさんが、「中に入るのがたいへんだった」というのは、そういう意味でしょうか?

 それから受ける衝撃は、かなりのものだったと思われます。むしろ私は、そちらのほう
を、心配します。Tさんは、お子さんを、1人の人間として、認めておられるでしょうか? 
もしそうなら、それでよいと思いますが、そうでなければ、子どものとらえ方そのものを
反省してみてください。

 「ときには、いやなこともあるわよね」と、むしろ子どもの側で考えてあげる。そうい
う姿勢がないように感じますが、いかがですか? あるいはTさんは、「学校とは、絶対に
行かなければならないところ」という神話を信じておられるのかもしれませんね。

 ともかくも、いただきましたメールだけでは、お子さんの様子がよくわかりません。こ
うした問題は、ひとりで悩まないで、まず最初に、学校の先生に相談なさってみてはどう
でしょうか。先生なら、直接、お子さんを見ておられますので、適切なアドバイスを得る
ことができるはずです。

 また(心の問題)を感じておられるようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさっ
てみるという方法もあります。校長に相談すれば、専門医を紹介してもらえます。あるい
は各地区の児童相談所、保健所、もしくは保健センターに育児相談の窓口がありますから、
そこで相談なさるのもよいでしょう。

 しかしまあ、いろいろトラブルはあるが、何とか学校へ通っている……というような状
態であれば、あまり深刻に考えず、このまま進まれるのもよいかと思います。小学3年生
くらいになると、自己意識が育ち、自己管理能力も育ってきます。そうなれば、今のよう
な症状は、消えていきます。

 いただいた相談の内容につきましては、(よくある問題)で、それほど深刻に考えなくて
もよいのではと思います。私も、小学3年生のとき、学校を抜け出し、友だちと、木登り
をして遊んだことがあります。とても楽しかったです。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもをよい子にしたいとき 

+++++++++++++

子どもは、使えば使うほど、
よくなる。

忍耐力も、そこから生まれる。

+++++++++++++

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言って
くれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの
本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うこと
です。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身に
つける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、
スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼
は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけな
い。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」
などなど。

つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイ
をしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思
われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息
子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は
自分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり
怒ったりする。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分
より先に行くものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまな
い。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、
目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、
目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活
習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が
強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割に
は、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立
つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に
従って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しか
し一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方その
ものに原因があるからである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って
子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言っ
て、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつく
ってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親
の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこ
からくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞
くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんが
いるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だ
ちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。

話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そ
ういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが2〜
4歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉
強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは
言わない。好きなことをしているだけ。

幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所
の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排
水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。

その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみる
のが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「お
ばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをする
にしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛
を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)
→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食
材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチン
の周囲でうろうろされると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレ
ビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビ
キビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなた
の子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、そ
れでよし。しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあ
り方をかなり反省したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいく
らでもある。食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこ
で洗わせる。フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話
に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そう
いう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそう
いう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度
の苦労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わな
ければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
(4)生活のルールを守らせる。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、
(6)バランスのとれた生活に心がける。

 ここでいう「バランスのとれた生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和し
た生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしま
うような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子ども
の接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言
えない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がか
たよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。


++++++++++++++++

●根性のある子ども

+++++++++++

今、根性のある子どもが
少なくなってきていますね。

どこかナヨナヨしているというか、
ハキがない……?

ときどき、「これでいいのかなあ?」と
思うことがあります。

+++++++++++

 自分の意思を貫こうとする強い自我を、根性という。「私は私」という強い意識を「自我」
という。この根性さえあれば、この世の中、何とかなる。反対にこの根性がないと、せっ
かくよい才能や頭脳をもっていても、ナヨナヨとした人生観の中で、社会に埋もれてしま
う。

 ある男の子(年長児)は、レストランで、「もう1枚、ピザを食べる」と言い出した。そ
こで母親が、「お兄ちゃんと半分ずつにしなさい」と言うと、「どうしても1枚食べる」と。
母親はあきらめて、もう1枚注文したが、その子どもは、ヒーヒー言いながら食べたとい
う。あとで母親が、「おとなでも2枚はたいへんなのに」と笑っていた。

 またある幼稚園で先生が一人の男の子(年中児)に、「あんたなんか、もう、おうちに帰
りなさい!」と言ったときのこと。先生は軽いおどしのつもりでそう言っただけなのだが、
その子どもは先生の目を盗んで教室を抜け出し、家まで歩いて帰ってしまった。

先生も、まさか本当に帰るとは思っていなかった。母親もまた、「おとなの足で歩いても、
一時間はかかるのに」と笑っていた。こういう子どもを、根性のある子どもという。

 その自我。育てる、育てないという視点ではなく、引き出す、つぶすという視点で考え
る。つまりもともとどんな子どもにも、自我は平等に備わっているとみる。それは庭にた
むろするスズメのようなものだ。あのスズメたちは、犬の目を盗んでは、ドッグフードを
かすめ取っていく。そういうたくましさが人間にもあったからこそ、私たちは、何十万年
もの長い年月を、生きのびることができた。

 が、多くの親たちは、その自我をつぶしてしまう。過干渉や過関心、威圧的な子育てや
親の完ぺき主義、さらには親の情緒不安が、子どもの自我をつぶす。親が設計図をつくり、
その設計図にあてはめるのも、まずい。子どもは小さくなり、その小さくなった分だけ、
自我をそがれる。

 反対に自我を引き出すためには、まず子どもは、あるがままを認める。そしてあるがま
まを受け入れる。できがよくても、悪くても、「これがうちの子だ」と納得する。もっとは
っきり言えば、あ・き・ら・め・る。一見いいかげんな子育てに見えるかもしれないが、
子どもは、そのいいかげんな部分で、羽を伸ばす。自分の自我を引き出す。

 ただしここでいう自我と、がんこは区別する。自分のカラに閉じこもり、かたくなな様
子になるのは、がんこという。たとえばある男の子(年長児)は、幼稚園では同じ席でな
いと、絶対に座らなかった。また別の男の子(年長児)は、2年間、ただの1度もお迎え
にくる先生に、あいさつをしなかった。そういうのは、がんこという。

 また自我は、わがままとも区別する。「この前、お兄ちゃんは、○○を買ってもらったの
に、どうしてぼくには買ってくれないのか」と、主張するのは自我。しかし理由もなく、「あ
れ買って!」「これ買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

ふつう幼児のばあい、わがままは無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、
誰も相手にしませんよ」という姿勢を貫く。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
根性 がんこ がんこと根性 根性とがんこ 子どもの自我 子供の自我)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。

そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。

K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたと
する。子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車
の後部座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい
人と思うだろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、
オレたちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなた
も一生懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアド
バイスは、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけている
からだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功
する。そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。
あせればあせるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう
人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油
もない。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかというこ
と。このことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、た
いへんよく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制が
おかしいと、だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを
見ながらも、こう思っている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったから
だ」「今も犠牲になっているからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考える
と、失敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、
そうだ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメ
リカという富者の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところ
までは正当性をもつが、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃
をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうし
た貧者の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸して
いる。むしろ貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミ
サイルを、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。
この日本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を
代表するキャスターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだっ
て、核兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。
つまり、「核兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはお
かしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K
国の政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向
け」でもない。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎ
ない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列
のA放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA
新聞社である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、
私たちは、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家が
いたが、戦争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)
があって、ある日、ボッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、
K国というよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法
はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国
である。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、
米中韓Kの、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4
か国首脳会議については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内
での4か国首脳会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、
韓国とも、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」
という意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K
国はミサイル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの
図式が総崩れとなる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それ
がグローバルな問題へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそ
うなりつつあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せなが
ら、つぎに一気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本
を攻撃しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に
制約されて、防衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃
することもできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、
アメリカがK国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。
そんな疑問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのた
めでもある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たち
も、みな、そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。と
くに韓国のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を
作ったのは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙
(じゅうりん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという
不完全燃焼感(以上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦
争に勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、
向こう(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなけ
れば、韓国の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通し
てみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでい
る。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、
遅いのである。それだけは忘れてはならない。
(07年5月17日記)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(5月18日)

●地球温暖化

++++++++++++++

自然の力は、人知のおよぶところ
ではない。

たとえば今、問題になっている地球
温暖化にしても、不測の事態が、別の
不測の事態を引き起こしている。

たとえば20年前、地球温暖化の影響
で、シベリアのツンドラ地帯の凍土が
解けだすなどということを、
いったい、だれが予想しただろうか。

が、それだけではない。今朝の毎日
新聞には、こんな気になる記事が
載っていた。

何でも、南太平洋の海が、地球温暖化
の影響で、CO2の吸収能力を失って
しまったという。

++++++++++++++++++

 不測の事態が、また別の不測の事態を引き起こす。そしてまたその不測の事態が、これ
また別の不測の事態を引き起こす……。こうして加速度的に地球の温暖化は進み、やがて、
この地球には、人間はおろか、あらゆる生物が住めなくなる……。

 そんなことを考えさせる記事が、今朝(5月18日)の毎日新聞に載っていた。それを
そのまま紹介する。

『二酸化炭素(CO2)の吸収源と考えられてきた南大洋(南緯45度以南)が、最近
はほとんど吸収していないとみられることが、日本など8カ国の国際研究チームの分析
で分かった。

人間活動により強まった風が、地球規模で大気や海洋の循環を変化させ大気から海洋へ
のCO2吸収を妨げているという。大気中のCO2濃度は予想より高まる恐れがあり、
地球温暖化対策として、CO2排出削減策の強化が求められそうだ。18日付の米科学
誌サイエンス(電子版)で発表する。

米国などが1960年前後から実施した観測から、南大洋は海洋全体の約30%に当た
る年間約6億トンのCO2を吸収しているとされた。ところがコンピュータにより吸収
量がその半分程度と試算され、正確な評価が求められていた。

 国際研究チームは、81〜04年に南極・昭和基地など南大洋に囲まれた、11地点を
含む世界40地点で精密に測定された、大気中のCO2濃度を解析。その結果、南大洋
のCO2吸収力は、平均して年間約800万トンずつ弱まり、現在ではほとんど吸収し
ていないという。

 この現象は、(1)温暖化やオゾン層破壊による気温変化で南大洋での風が強まった。(2)
それによって海の循環が変化し、CO2濃度が高く、吸収する余力が乏しい深海の海水
が上昇、海表面付近に広がった……と想定すると、説明できるという。

 研究チームの中澤高清・東北大教授(気象学)は「南大洋が吸収から放出に転じる可能
性がある。海がCO2を吸収する前提で進められている温暖化対策を見直す必要が出て
くるのではないか」と話している』と。

 簡単に言えば、人間が排出するCO2を、海が吸収していた。が、その海が、吸収能力
を失いつつあるということになる。つまりその分だけ、CO2の濃度が高まることになる、
と。が、これで驚いてはいけない。へたをすれば、今度は、「南大洋が吸収から放出に転じ
る可能性がある」とも。

 その結果、この地球は、どうなるか?

 多くの学者は、地球の気温は、一次曲線的、もしくはゆるい二次曲線的に上昇すると考
えている。しかしそんな程度ではすまないと主張する学者も多い。ここに書いたように、
不測の事態が、別の不測の事態を引き起こすということも、考えの中に入れておかねばな
らない。

 つまり、この地球は、今、狂い始めている。そのうちやがて、コントロール不能の状態
に陥るかもしれない。もしそうなれば、あわてて排ガス規制などしても、手おくれ。……
ということになる。

 私たちはそれでよいとしても、未来を生きる子どもたちがかわいそう。かわいそうとい
うより、申し訳ない気持ちにすら、なる。悔やんでも悔やみきれないということは、こう
いうことをいうのか。私たち人間は、あまりにも好き勝手なことをし過ぎた。いろいろな
意見があるが、台風一個、コントロールできない人間が、地球規模の気象をコントロール
できるようになると考えるほうが、おかしい。

 それにしても、もし海が、CO2を放出するようになったら、それこそ、もう地球は、
おしまい。気温は、二次曲線的に上昇し、ここ100年足らずのうちに、それこそ400
度C近くにまで上昇するかもしれない。そういうことを主張する学者も、現にいる。

 今朝は、この記事を読んで、まず一番に、ぞっと、した。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●空気中の窒素の固定化について

+++++++++++++++++

先日、田丸謙二先生にお会いしたとき、
先生が、「豆」を例にとり、空気中の
窒素の固定化について、話をしてくれた。

その中で、先生は、ある物質名を口に
され、それが空気中の窒素を固定し、
たんぱく質をつくり、最終的には、
「豆」になるというような話をして
くれた。

が、その物質、つまりニトロゲナーゼ
という酵素は、分子の数が、20万〜
25万個もあるという。

つまり、人間の力では、とても合成
できない、と。

食事をしながらの話なので、ここに
書いたことは正確ではない。しかし
私は、その話を聞きながら、こう考えた。

+++++++++++++++++

 私は高校生の時、化学クラブに属していた。毎日、放課後、薄暗い実験室で、化学者の
まねごとのようなことをしていた。

 そのときのこと。簡単な例で言えば、水素と酸素を反応(燃焼)させれば、「水」ができ
る。学校の先生は、「水素と酸素がくっついて……」というような説明の仕方をする。しか
し私は、先生に、こう聞いた。

 「水素が酸素にくっつくのですか。それとも、酸素に水素がくっつくのですか。2個の
水素原子がくっつくにしても、順番はあるのですか」「どうしてそのとき、酸素だけが、う
まく水素にくっつくのですか。まちがってほかの原子がくっつくことはないのですか」と。

 先生の説明では、「同時に、まちがえることなく、瞬時にくっつく」ということだったよ
うに思う。しかし、これはおかしい。

 おかしいということを、今度、田丸先生の話を聞いているときにも、感じた。3個や4
個ではない。20万〜25万個もある物質である。わかりやすく説明しよう。

今、ある広場に、20万〜25万人の人を集めたとする。その人たちは、何の秩序もな
く、ゴチャゴチャに入り混じっている。ただここで20万〜25万人といっても、ニト
ロゲナーゼという酵素を作るために選ばれた人たちである。実際には、ニトロゲナーゼ
という酵素を作るのに、不必要な人たちも、混ざっている。数もバラバラ。だから実際
には、100万人とか200万人とか、あるいはもっと多いかもしれない。

 そういう人たちが、ピーッという笛の合図だけで、つまり瞬時に、ニトロゲナーゼを作
る人たちだけがうまく、中央に集まり、一部の狂いもなく、整然と並ぶことができるもの
だろうか。しかし、そんなことは、常識で考えても、ありえない。

 では、どう考えたらよいか。

 ここから先は、あくまでも、私の仮説である。

 高校の時の化学クラブの先生も、そして田丸先生も、「作られる」と考える。しかし実際
には、「作られる」のではなく、「並ぶ」のではないか。つまり一度に集合するのではなく、
一つの核となった分子が、まず、一番結びつきやすい分子とくっつく。すると、つぎに、
その2個の分子が、その時点で、再び、一番結びつきやすい分子とくっつく。今度は3個
の分子が、さらに一番結びつきやすい分子と、くっつく。

 あとはこれを順に繰り返していく。そして結果として、分子の数が、20万とか25万
とか言われる、ニトロゲナーゼという酵素を構成する。

 くっつきやすさを決めるのは、ひょっとしたら、磁場のようなものかもしれない。ある
いは何か、ほかにもあるのかもしれない。それはともかくも、先ほどの例で考えてみよう。

 広場に集まった人たちの中に、数人の人が、入ってきたとする。その人たちは、腕や体
を、少し奇異な格好で折り曲げている。するとそれを見た、周りの人たちの中で、その数
人の人にフィーリングが合う人が、体を合わせる。するとまた別の独特の雰囲気ができて、
また別の人が、それに体を合わせる。

 ……これを繰りかえしていくうちに、結果として、20万〜25万人が、うまく組み合
わさり、ニトロゲナーゼという酵素ができる。

 似たような現象は、自然界では、よく観察される。たとえば植物にしても、一見複雑に
見えるあの形も、実はシンプルな形の繰り返しにすぎないということが、わかっている。
さらにこんな例もある。

 ある種の昆虫は、障害にぶつかると、からなず、右に回り、つぎに障害にぶつかると、
左に回るということが知られている。この性質をうまく使うと、きわめて複雑な迷路から
でも、その虫は、外へ出ることができる。

 その昆虫のその性質を知らない人は、あたかもその昆虫が、(知恵)を使って、迷路から
出たように思い、驚く。しかしタネ明かしをすれば、何でもない。

 つまり分子の(核)となる物質はあるかもしれないが、あとは放っておけば、原子どう
しが勝手に並んでいく。原子が20万〜25万個もある分子となると、そういう方法でな
いと、どうして結合していくか、その説明がつかない(?)。

 そこでもう一つの仮説としては、この並んで行く過程の中で、それを決める何かの別の
作用が働くのではないかということ。それは先にも書いたように、私は磁場のようなもの
ではないかと思うが、もっとほかにあるのかもしれない。

 で、冒頭の話にもどる。

 たとえば水の分子(H2O)にしても、構造式だけをみると、1個の酸素原子(0)に、
2個の水素原子(H)がくっついたように見える。しかし実際には、2個の水素原子(H)
に、1個の酸素原子(0)がくっついたと考えるほうが正しいのでは(?)。となると、順
番は、どちらが正しいのかということになる。

 私の疑問は、そこから始まった。……というだけの話で、何か、根拠があるわけではな
い。また私というド素人のたわごとにすぎない。田丸先生なら、きっとそう思うだろう。
しかしメチャメチャな仮説かというと、そうでもない。

 実は、私には、こんな経験がある。

 1972年のはじめ、日本で初めて、中国での針麻酔術が紹介された。体の手足など、
別の部位に針を刺し、それに低周波の電流を流すと、体の別の部位で、痛覚が鈍磨すると
いう。それを応用したのが、針麻酔である。

 それに対して、私は、つぎのような仮説を立てた。

 脳みその中の痛覚を感じ取る部分は、ちょうど玉ねぎの皮のようになっていて、その一
部が刺激されると、そこでモルヒネ様の物質が放出される。そのモルヒネ様の物質が、玉
ねぎの皮のようになってその上下にある、別の痛覚にも、影響を与える、と。

 当時は、これはとんでもない仮設として、無視されてしまった。針麻酔でいうところの
「経絡(けいらく)」は、神経組織とはまったく別のものと考えられていた。経絡が神経組
織と関係があると認識されるようになったのは、それから10年近くもあとになってから
のことである。

 当時の私は、いろいろなドクター名で、こうした仮説を発表していた。つまりゴースト
ライターをしていた。

 つまり、意外と私の仮説は、当たっている! ……当たっていた!

 で、今回の仮説に名前をつけるとすると、「結合説」に対して、「連続説」ということに
なる。つまり分子というのは、ある一定の規則性をもって、(並ぶ)という習性がある。そ
う考えると、20万〜25万もある、ニトロゲナーゼという酵素が、なぜできあがるのか、
その説明がつく。

 そこで大切なことは、その(核)だけをつくり、それをここでいうような(広場)に投
げ出してやれば、あとは自然に分子どうしが勝手に並んで、酵素を完成させてくれるとい
うことにもなる。全部を(作る)必要はない。あくまでも(核)だけを作ればよい。

 化学から遠ざかって、すでに40年以上になる。だから語句の使い方に、いろいろまち
がいがあるかもしれない。が、今、もし私が化学者なら、このあたりから調べてみたい。「な
ぜ結合するか」ではなく、「なぜ分子が分子を選び、並んで行くか」という観点からである。

 もしこの説を正しいと証明したら、私も「賞」がもらえるかもしれない。ハハハ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●記憶

+++++++++++++++

パソコンを相手に仕事をしていると、
ときどき、自分がボケてしまったの
ではないかと思うときがある。

今朝もそうだ。

パソコンのあちこちをいじっているとき、
「ファイアウォールの解除」という
ページに出会った。

ファイアウォールというのは、外部からの
不正アクセスを防ぐ、「検問所」のような
もの。その検問所も、あらかじめ許可を
与えた相手に対しては、フリーパスで
通過することができる。

四角の中に、(レ)点を入れたものについて
は、フリーパスの状態になる。

いくつかの(レ)点を消したり、入れたり
してみた。遊びのつもりだった。

が、このあと、しばらくして、異変が起きた。
たいした異変ではなかったが、私はもう一度、
「ファイアウォールの解除」というページに
もどって、デフォルト値(元の状態)に
もどすことにした。

が、さあ、たいへん! そのもどり方が
わからない!

「ファイラウォールの解除」というところへ、
どうやってもどればよいのか?

それがわからなくなってしまった。言うなれば、
迷子になってしまった。

+++++++++++++++

 ……というようなことは、パソコンの世界ではよくある。どこかをいじっているうちに、
あるページにたどりつく。で、そのページで何らかの作業をする。が、そのあと、もう一
度、そのページにもどりたいと思っても、なかなか、そのページにもどることができない。

 こういうとき、自分の頭が、どうかなってしまったのではないかと思う。が、よくよく
考えてみれば、これは当たり前のこと。

 記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、記憶として脳み
その中に、蓄積される。

 しかしパソコンを相手にしているばあい、そのうちの(記銘)というプロセスが、ほと
んどないまま、(作業)に入ってしまうことが多い。たとえば今朝、私は「ファイアウォー
ルの解除」というページを開いた。が、それは偶然によるもの。あちこちのページを開い
ているうちに、ふと、そのページにたどりついた。

 つまり最初から、そのページにたどりつくことがわかっていて、そのページを開いたの
ではない。だから「どうやってそのページを開いたか」について、記憶として、どこにも
残っていない。

 だからしばらくしたあと、再び、そのページにもどろうとしても、もどれるわけがない。
ゆいいつの方法は、同じような作業を繰りかえして、再び、偶然、そのページにたどりつ
くというのがある。しかしそれには、恐ろしく時間がかかる。忍耐も必要。「たしか、こう
だった」「いや、ちがう。こうだった」と。それを何度も何度も繰りかえす。

 しかしボケを疑似体験するには、よい方法である。よくボケの初期症状は、もの忘れが
多くなることだという。しかし実際には、(記銘力)そのものが弱くなるとみてよい。最初
から、記憶しようとしない。脳みその中に、情報を刻もうとしない。だから記憶として、
残らない。結果として、(もの忘れがひどい)という状態になる。

 モニターの上では、一枚の紙のように見える画面だが、その向こうには、数万ページに
もおよぶ画面がある。それがパソコンの世界ということになる。今朝も、そのパソコンと
の格闘で、一日が始まった。

 みなさん、おはようございます!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 8日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●やさしい心

+++++++++++++++

ウルトラマンの胸には、小さな
ランプがついている。

そのランプが点滅するようになると、
エネルギーが、そろそろ切れることを
意味する。

いわば警告ランプのようなもの。

+++++++++++++++

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすると、とたんに猛烈なエネルギーを消耗する。ば
あいによっては、1〜2時間でヘトヘトになる。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりするということは、そういうこと。

 一方、人にやさしくしたり、親切にしたりすることについては、いくらそれをしても、
疲れない。愛というか、慈悲というか、そういうものには、限界がない。限界がないとい
うよりは、心の中から、無尽蔵にわいてくる。

 人にやさしくしたり、親切にしたりするということは、そういうこと。

 ところでウルトラマンの胸には、小さな赤いランプがついている。パワーがじゅうぶん
にあるときには、ランプは、ついたまま。しかしエネルギーが限界に近づいてくると、ラ
ンプが、点滅し始める。

 なぜか? ウルトラマンは、相手を恨んだり、憎んだり、怒ったりしているから……と
書くと、あまりにも見え透いたエッセーになってしまう。しかし私は、少し前、幼稚園児
たちとこんな会話をしたことがある。

私「どうして、ウルトラマンは、相手の怪獣を殺してしまうの?」
子「悪いヤツだからだよ」
私「どうして悪いの?」
子「町をこわしてしまうよ」
私「どうして?」

子「悪いヤツだからさ」
私「でも、何か理由があるはずだよ。その理由を聞くとか……あるいは話しあって解決す
るとか、そういう方法もあるよ」
子「そんなこと、できないよ」
私「あるいはね、つかまえて、動物園へ入れるとか……。そういうのは、どう?」

子「そんなこと、できないよ。動物園を破壊してしまうよ」
私「そんなことないよ。頑丈な動物園を作ればいい」
子「悪いヤツは、やっつけるんだヨ」
私「だからさア、何も、殺さなくてもいい。先生(=私)は、そう思うよ」
子「……」と。

 もしウルトラマンが、相手に、やさしくしたり、親切にしたりするというヒーローだっ
たら、どうなるか? たとえば怪獣が現れる。その怪獣に対して、いっしょに遊んであげ
たり、いっしょに食事をしたりするなど。あるいは「町をこわすことは、悪いことだ」と
教えてやるのもよい。

 もっとも、そんなウルトラマンだったら、番組を見る子どもはいなくなるだろう。しか
しもしそうなら、胸の赤いボタンが点滅するということは、ないはず。

 実は、今朝、こんなことがあった。

 母の部屋へ行くと、小便があたり一面に飛び散っていた。幸いにも、防水マットの上だ
ったから、トイレットペーパーで拭くだけですんだ。しかしそれに対して母は、私にこう
言った。「ほれ、そちらも汚れているから、そちらも拭いてくれ」と。

 母の悪いクセだ。母は、それを足の指先で指示する。

 私は濡れたおむつを取り換え、ついで、靴下を取り換えてやった。内心では、「コノヤロ
ー」と思った。しかし私は、思いきって、気分を変えた。変えて、一通り介護がすむと、
母を車椅子に乗せ、庭へ出てやった。庭のすみには、畑もある。

私「今年は、ネギをたくさん植えた」
母「そこにあるのは、エンドウ豆やら?」
私「そうや。もうすぐ収穫できる」と。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすれば、疲れるだけ。疲れれば、かえって損。だっ
たら、その気持ちを、あえて、やさしい気持ちや親切な気持で、置き換えてみる。とたん、
気分が晴れる。

 どうせ相手は、頭のボケた母。本気で相手にするほうが、おかしい。……ということで、
私は冒頭に書いた結論を得た。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすると、とたんに猛烈なエネルギーを消耗する。ば
あいによっては、1〜2時間でヘトヘトになる。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりするということは、そういうこと。

 一方、人にやさしくしたり、親切にしたりすることについては、いくらそれをしても、
疲れない。愛というか、慈悲というか、そういうものには、限界がない。限界がないとい
うよりは、心の中から、無尽蔵にわいてくる。

++++++++++++++++

人にやさしくしたり、親切にしたり
すると、脳の中の辺縁系にある、扁桃体
から、モルヒネ様の脳内ホルモンが
分泌されることがわかってきた。

この脳内ホルモンが、その人に
心地よさを与える。

扁桃体について書いた原稿を集めてみる。

++++++++++++++++

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短
期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶とい
うのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれ
に含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記
憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶
は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日
本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 さらにそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情
報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが
問題によって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであ
ると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが
近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当た
る。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。
しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳と
いうことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などとい
う記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。(以上、「脳のしくみ」
(日本実業出版社)参考、新井康允氏)

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論と
して、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、
最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思
考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)な
ども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」
は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多い
から思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはな
らない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数
ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子ど
もということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここで
ひも解いてみた。


++++++++++++++++

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』
というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であっ
て、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、
つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大
脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。

認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動
機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。つまり「やる気」のある
なしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと
辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するため
の機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新
皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずし
も的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。
いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十
分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』
のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考え
るばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよけれ
ばさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状
回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によ
れば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、
そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気
がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 扁桃核 親切心 やさしい心)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【シャドウ論byユング】

●今日・あれこれ(5月15日)

+++++++++++++++

Aさん(女性)は、長い間、自分の
母親を嫌っていた。会うたびに、Aさん
は、Aさんの母親の悪口ばかり言って
いた。

ただ表面的には、よい母娘関係を装って
いた。が、それはあくまでも「表づら」。
仲は悪かった。

そのAさんの母親は、10年ほど前に、
88歳という年齢でなくなった。

で、しばらくぶりに私は、Aさんに会った。
驚いた。Aさんは、今年、80歳になる。

何と、Aさん自身が、なくなった
Aさんの母親そっくりの人に
なっていた!

++++++++++++++

Aさん(女性)は、長い間、自分の母親を嫌っていた。会うたびに、Aさんは、Aさん
の母親の悪口ばかり言っていた。

ただ表面的には、よい母娘関係を装っていた。が、それは表づら。本当は、仲が悪かっ
た。

そのAさんの母親は、10年ほど前に、88歳という年齢でなくなった。

で、しばらくぶりにAさんに会ってみて、私は驚いた。Aさんは、今年、80歳になる
という。

何と、Aさん自身が、なくなったAさんの母親そっくりの人になっていた!

 ……というようなケースは、たいへん多い。ある人を反面教師として長くつきあってい
ると、自分自身が、その反面教師そっくりの人間になってしまうというケースである。私
は若いころ、ある進学予備校で講師をしているときに、それを発見した。

 私は高校時代、英語教師の教え方が、大嫌いだった。一方的な詰め込み方式。「わかった
か? では、つぎ!」式の教え方だった。

 で、私はいつもこう思った。「もし英語の教師になっても、私はぜったいに、こういう教
え方をしないぞ」と。

 しかしその私が、講師になった。英語を教えた。と、同時に、私は、自分自身が、あの
英語教師そっくりの教え方をしているのを知った。ぞっとした。

 それもそのはず。私はその英語教師を反面教師としながらも、その英語教師しか知らな
かった。だから自分が英語を教える立場に立たされたとき、その英語教師を再現してしま
った。

 冒頭に書いた、Aさんという女性も、そうである。Aさんは、長い間、Aさんの母親を
反面教師としてきた。が、Aさんにしてみれば、親子であるという点で、密着度も高かっ
た。そのためAさんは、今、あれほどまでに嫌っていた、Aさんの母親そっくりの人間に
なってしまった。

 Aさんの母親は、小ずるくて、口がうまく、私と会ったときも、不平不満ばかり並べて
いた。そして今、Aさんも、小ずるくて、口がうまく、私と会うときはいつも、不平不満
ばかり並べている。

 ……ここに書いたAさんも、Aさんの母親も、実は、架空の人物である。ウソを書いた
のではない。こういう話は、何人かの人たちの話を、ひとつにまとめて書く。しかしこう
いう話は、いくらでもある。あなたの周囲でも、さがせばこういう例は、見つかるはず。

 そこで注意しなければならないことは、あなたの近くに反面教師がいるとしても、その
反面教師を批判したり、非難したりするだけでは、いけないということ。批判するにして
も、そのつど、あなた自身は、それ以上の自分をつくりあげていかなければならない。

 「あの人はくだらない人」と、非難することぐらいなら、だれにでもできる。しかしそ
れ以上のものを自分の中に用意するのは、簡単なことではない。その(簡単でないこと)
をしておかないと、やがてあなた自身も、その反面教師そっくりの人間になってしまう。
たとえば子どもの世界でも、それまではいじめらっ子だった子どもが、ふとしたきっかけ
で、今度は、いじめっ子になるというケースが、よく見られる。そして自分がいじめられ
たのと、まったく同じやり方で、今度はだれかをいじめたりする。

 もしその自信がなければ、つまりそれ以上の自分をつくるという自信がなければ、反面
教師と思う人とは、つきあわないこと。距離をおく。いつも客観的な目で、その人や自分
を見る。

 が、親子となると、そうはいかない。そういう問題もある。が、そのばあいでも、自分
は一歩退いて、親を客観的に見る。できれば、批判したり、非難したりすることもやめる。
さらにできれば、無視して、相手にしない。そういう視点を見失うと、やがてドロドロと
した人間関係に巻き込まれてしまう。そしてここに書いたように、今度は、あなた自身も、
その反面教師そっくりの人間になってしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
反面教師)


【付記】

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、
にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であったが
ために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』であ
る。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごと
な演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と
不倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
た原動力になったとも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまう。見抜くだけならまだし
も、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる
本」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●親の気負いの陰にあるもの

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育った親ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」
という気負いばかりが先行し、結果的に、よい家庭づくり、よい親子づくりに失敗しやす
い。

 それを心理学の世界では、「シャドウ」という言葉を使って説明している。

 つまり子どもたちは、親のそのうしろにあるシャドウ(影)を見ながら、自分たちの心
理を形成してしまう。

 ひとつの例として、こんな例を考えてみよう。(例として、正しいかどうかは、まだよく
わからないが……。)

 ある母親は、自分が、大学を出ていなかったことを、いつも、心のわだかまりとしてい
た。そこでその母親なりに、努力した。大学の公開セミナーなどがあると、積極的に参加
していた。資格もいくつか、取った。

 しかし心のわだかまりは消えなかった。学校の父母会の席などで、学歴が話題になった
りすると、その母親は、いつも小さくなっていた。

 そこでその母親は、子どもの勉強にのめりこむようになった。俗にいう、「教育ママ」に
なった。テストの点数が少しでも悪いと、子どもを叱った。そして睡眠時間を削ってでも、
そのテストのやりなおしを、させた。

 こういうケースのばあい、母親は、子どものためを思って、そうしているのではない。
自分自身の中にある、不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだ
けである。

 だから、子どもは、やがてすぐ、そういう親の下心を見抜いてしまう。見抜くだけなら
まだしも、そのシャドウの部分だけを、引きついでしまう。

 で、たとえばその努力(?)のかいもなく、その子どもが、親の希望どころか、自分の
希望ともほど遠い、CC中学に入ったとしよう。ふつうなら、「どこの中学でも同じ」「ま
たがんばればいい」というような、合理的な割りきりをしながら、親や子どもは、それを
乗りこえていく。が、シャドウを引きついだ子どもは、そうではない。

 自分はダメな人間だというレッテルを、自らに張ってしまう。

 「どうせ、私はダメ人間だ」「失敗者だ」「失格者だ」と。さらにそういう思いが肥大化
して、自己否定にまで進んでしまうかもしれない。さらに自ら、自暴自棄になってしまい、
二番底、三番底へと落ちていくかもしれない。

 要するに、親が子どもにきびしい学習を強いたとしても、子どもがそれを、「自分のため
に、親は、がんばってくれている」と感ずれば、子どもは仮に失敗しても、そこを原点と
して、また前向きに歩きだす。

 しかしそのシャドウを子どもが感じたとき、(たいていのケースでは、親自身も、そのシ
ャドウに気づいていないことも多いが)、そのシャドウのもつ、邪悪な部分を、子どもは引
きついでしまう。

 先のケースでいうなら、学歴や肩書きだけで人を判断したり、反対に、それがない自分
を、異常なまでに、卑下したりするようになる。

 たしかに親の気負いが強ければ強いほど、その親は、よい家庭づくり、よい親子づくり
に失敗しやすい。それは、教育の世界でも常識である。しかしなぜ失敗しやすいのか。そ
の一つのヒントが、このシャドウにある。

 まだよくわからない点もあるので、ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
専門家の先生が読んだら、「おいおい、シャドウの意味がちがうよ」と言われるかもしれな
い。

 しかし一つのヒントの一口はつかんだように思う。これから先、このシャドウの問題を、
もう少し、掘りさげて考えてみたい。

 とっかかりとして、私やあなたには、どんなシャドウがあるか? それを考えてみると、
おもしろいのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 (ついでながら、自分の欲望のおもむくまま、犯罪的な行動を繰り返す人を、「エスの人」
という。)

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではない。が、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いて
しまう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、
離れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。(このばあいは、「ニセ超自我」と言
うべきか?)

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我(=ニセ超
自我)を自分のものにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に
根ざしたものであれば問題はない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我の裏には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部
分だけを、子どもが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操って
いる、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。

(私の書いていることは、まちがっているかもしれないが、まちがっていれば、そのつ
ど訂正することにして、今は、このまま原稿にしておく。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の心を見ぬく、子どもたち

 『子は親の背中を見て育つ』とは言うが、同時に、子は、親の背中の奥まで、見ぬいて
しまう。これがこわい。

 たとえばあなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言っ
たとする。そのとき、あなたは、子ども自身のためを思って、そう言っているだろうか。
それとも、自分のメンツや、見栄、世間体のためにそう言っているだろうか。それを子ど
もは、あっという間に、見ぬいてしまう。

 フロイトは、「超自我」という言葉を使って、それを説明した。子どもは、親をその背後
から操っている超自我を見ぬいてしまうと。日本語で言えば、「下心」ということになるが、
そんな簡単なものではない。奥は、もっと深い。親の人間性そのものまで、見ぬいてしま
う。

 見ぬくというよりは、感性として、それを判断するといったほうが正しいかもしれない。
親は無意識のまま、仮面(ペルソナ)をかぶる。その仮面を、子どもは、無意識のまま、
見ぬく。親は、「子どももには、そんなことはできない」と思っているかもしれないが、子
どもは、親が考えているより、はるかに敏感である。私の例で考えてみよう。

 私が高校生のときのこと。進路指導の個別面接があった。その教師は、あれこれと私の
成績をながめながら、「君なら、できる」「がんばれる」「やればできる」と励ましてくれた
が、どこかおかしい(?)。へん(?)。その教師は、本当に私のことを思って、そう言っ
ていたのではない。進学率を高めるためにそう言っていた。それに私はそのとき、気づい
た。と、同時に、その教師への信頼感は、こなごなに消えた。

 その教師にしてみれば、有名大学へ何人、生徒を送りこむかが重要であった。学校の「実
績」をあげるためである。そのため私のばあい、高校2年から3年にかけて、無理やり、
理科系から文科系へ、転向させられてしまった! 「君なら、K大の工学部は無理だが、
K大の文学部になら、入れる」と。今から思うと、私という一人の学生にしてみれば、悲
劇としか言いようがない。

 これは教師と私との話だが、親子の間では、関係が一度こじれると、ことは深刻。親子
であるがゆえに、問題は、底なしにこじれる。が、それだけではすまない。子ども自身が、
親のシャドウ(影)に苦しむことになる。

 具体的に、あれこれということではない。しかしもっと抽象的、観念的な生きザマまで、
親から子どもへと、すべてが伝わってしまう。「学習」というなまやさしいものではない。
子どもの心に、親の超自我が、そっくりそのまま、しみこんでしまう。

 たとえば善悪の感覚、判断能力、倫理観や道徳観など。親がたとえば、小ずるい人間で
あったとすると、子どもも、小ずるくなる。親を反面教師として、別の人格をつくりあげ
る例もないわけではない。しかしそのばあいでも、その子どもは、ほかの子どもたちより
も、何倍も苦労をしなければならない。たとえばほかの子どもなら、自然な形で身につけ
る善悪感についても、不要な葛藤を繰りかえすことになる。

 たとえば親が、駐車場でもないところに平気で車を止めたり、あるいは赤信号でも無視
して、車を走らせていたとする。そういった善悪感は、そっくりそのまま子どもに伝わっ
てしまう。

 そういう親をもった子どもは、不幸である。生活のあらゆる場面で、その小ずるさが顔
を出す。そのため、一事が万事。長い時間をかけて、その子どもは、善良な世界から、遠
ざかってしまう。気がついたときには、まわりは、悪人だらけということにも、なりかね
ない。

 そこでフロイトは、人間がもつ良識や良心は、その「超自我」の中で、つくられると考
えた。その中で作られた良識や良心が、その人の生きザマを基本的な部分で、決定づける、
と。

 このことは、自分の経験に照らしあわせてみると、よくわかる。

 たとえば道路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、「私」、つまり、「私とし
ての自我」は、そのお金をほしいと思う。「拾ってもっていこう」と思う。

 しかしそれにブレーキをかける「私」もいる。「お金がほしい」というのが、自然な「私」
であるとするなら、「もらってはだめ」とブレーキをかけるのは、「私」を超えた「私」と
いうことになる。

 その「私を超えた私」は、自分自身でつくっていくものというよりは、生まれ育った環
境の中で、つくられていくものということになる。もちろんそれをつくっていくのは、親
だけではない。しかし実際には、乳幼児期までには、その方向性が決まってしまう。その
ことを考えるなら、親の責任は、きわめて重大ということになる。

 よく誤解されるが、こうした倫理観や道徳観は、学校での勉強などによって、身につく
ものではない。道徳のテストで、すばらしい点数を取ったからといって、その子どもが、
善人というわけではない。

 こんなテスト問題があった。小学1年生の問題である。

Q……お母さんが、台所で料理をしていました。それを見たあなたは、どうしますか。

(1)手伝う。
(2)そのまま遊んでいる。
(3)どこかへ遊びに行く。

 正解は(1)ということになるが、実際に、料理を手伝うかどうかは、別問題である。
つまりこういうテストで、よい点をとったからといって、その子どもの人格がすぐれてい
るということにはならない。要領のよい子どもなら、よい点を取るため、(1)に丸をつけ
るだろう。

 こんな例もある。

 私の知人に、K氏という人がいる。当時、32歳。

 ある日、K氏のところに、K氏の母親から電話がかかってきた。「Z氏がもっている、山
林を買ってやってほしい」と。

 Z氏というのは、母親の実兄、つまりK氏の伯父である。値段を聞くと、800万円だ
という。さらに話を聞くと、「本当は、2000万円くらいの価値がある」と。

 K氏は、お金を集めて、その山林を、800万円で買った。しかし、その山林は、それ
から30年近くたった現在ですら、100万円にもならない山林だった。

 母親は、伯父と結託して、息子のK氏をだました。だまして、当時、80万円でもよい
値段の山林(地元の森林協同組合の職員)を、K氏に800万円で売りつけた。

 世の中には、親をだます子どもは、いくらでもういる。しかし子どもをだます親も、珍
しくない。しかもそのあとも、伯父なる人物は、毎年、K氏に、8〜10万円の管理費を
請求してきたという。

 K氏は、こう言う。「おそらく、母は、伯父から、いくらかのペイバック(謝礼)を受け
取っているはずです。母も、伯父も、昔から、そういう人間です」と。

 が、問題は、そのことではない。

 そういう母親をもったK氏自身も、母親から、そういう人間性を引きついでいた。K氏
はこう言う。

 「私の体質の中に、実は、母や伯父の体質がしみこんでいるのですね。私は、母と伯父
に800万円、だまし取られましたが、私も、ひょっとしたら、そういうことが平気でで
きる人間なのです。ときどき、そういう自分が、こわくなります」と。

 K氏は、今も、自分自身のシャドウ(影)に苦しんでいる。

以上、私は、超自我について書いてきた。シャドウについても書いてきた。その前には、
(私であって私でない部分)について書いてきた。さらに仏教で教える、末那識(自分
の奥底に潜んで、自分を操るエゴ)についても、書いてきた。もちろん心理学でいう、
潜在意識という考え方もある。

これらは結局は、すべて、(私)を知る手がかりということになる。

 「私のことは、私が一番よく知っている」と言う人は多い。しかし本当のところ、(私)
を知るのは、簡単なことではない。そのことだけでも、わかってもらえれば、うれしい。
(はやし浩司 超自我 末那識 シャドウ 仮面 ペルソナ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●N先生へ

先日、N先生という人と議論をした。
そのとき、N先生の意見を、私は
頭から否定してしまった。

後味が悪かった。N先生は、「美しい
日本語を守るためには、英語教育は
必要ない」という意見だった。

+++++++++++++++

今から、20年も前のこと。
私自身も、それまで15年近く、
幼児や小学生に英語を教えてきた
という経験があります。

それで雑誌を作ろうということに
なりました。

もっとも最初に企画を出したのは、
学研のO氏でした。たいへんすぐれた
編集者でした。

私の仕事は、それを具体化するという
ものでした。

で、生まれたのが、「ハローワールド」
という雑誌です。当時、毎月27〜8
万部も売れたと聞いています。

余談ですが、そのとき、O氏が横浜の
アメリカンハイスクールで見つけて
きた女の子が、西田ひかるさんでした。

私は、小学校でも英語教育は必要だと
感じていました。
同調する先生たちもたくさんいました。

で、その結果、今に見る、小学校における
英語教育が実践されるようになりました。
県によっては、積極的に取り入れている
ところもあります。

もちろん私のした努力など、何でもない
ことです。私自身も、それほど深い教育理念
があって、雑誌の企画を立てたわけでは
ありません。

しかしものをつくるのは、たいへんなこと
です。
とくに教育の世界では、新しい試みを
実践に移すのは、たいへんなことです。

しかしあるとき、突然、一台のブルドーザー
がやってきて、あとかたもなく、こうした
積み重ねを破壊してしまう……。

ご自身は、一度もそういった現場に
立ったこともない。子どもに英語を教えた
こともない。

そういう人が研究室の奥で本を書き、
「小学生に英語教育は必要ない」と。

私自身は、自分で子どもたちに英語を
教えてみて、「やはり必要だ」と感じた
からこそ、雑誌の創刊企画に参加しました。

「英語を勉強したから、日本語がへたに
なる」というのは、まっかなウソです。
(ただ0〜2歳期にバイリンガルにしよう
とすると、言語中枢が混乱するということは
指摘されています。)

つまりそういう憶測+復古主義だけで、
持説を繰り広げてしまう。
本が売れたことは、イコール、それだけ
支持者がいたということにもなりますが、
あの本に関して言えば、どこかで国策と
結びついたように思います。

当時、全国各地で、やらせによる、
公開討論会がさかんに行われていました。
1回の討論会で、2000万円近い、公費が
使われていたそうです。

単行本にすれば、2万冊分です。2000万円
もあれば、売れ行きに火をつけることができます。

N先生には、たいへん辛辣な意見を口に
してしまいましたが、そういう意味で、
私は、無念感というか、挫折感を覚えたのも
事実です。

もちろん個人的に、どうこう思っている
わけではありません。(個人的には、知りません
ので……。)

一言、私の気持ちをお伝えしたくて、
筆をとりました。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   6月 6日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ネット中毒

++++++++++++++

TBS−iニュースに、気になる
記事が載っていた。

題して、「インターネット中毒」。

これからの日本でも急増すると
思われる。早急な対策が必要では
ないか。

++++++++++++++

 インターネットの先進国(?)、お隣の韓国では、今、「インターネット中毒」なるもの
が、問題になっている(TBS−iニュース、5月12日)。

 いわく、「韓国情報文化振興院が今年発表した調査結果によれば、治療が必要な中毒者は
未成年者では14%、大人でも7%にのぼっている」と。

 若者で14%ということは、10人のうち、1〜2人ということになる。先日携帯電話
中毒について書いたが、インターネット中毒のほうは、割合こそ携帯電話中毒より少ない
かもしれないが、中身が深刻。

 TBS−いニュースは、つぎのように伝える。

 『……「とにかく自分がコントロールできなくなりました。キーボードと画面から目を
離すことができないのです。そして、長い間ゲームをしているうちに冷たい汗が流れるの
を感じました」(「インターネット中毒」になった大学生)

 この大学生は、中学生の頃からインターネットのオンラインゲームにのめり込むように
なった。学校にも行かず、1日中パソコンに向かう日々が続き、体調不良に悩まされてい
る。

 半年前、このままではいけないと思い立ち、始めたのがカウンセリング治療だった。今
でも1日12時間もインターネットを使っているが、これでも以前と比べれば、かなりま
しになったという。

 「カウンセリングの需要は増加しています。(インターネット中毒)は、今や全国的な問
題になっているので、全国規模での対応が必要です」(情報文化振興院「インターネット中
毒」担当責任者)。

 都市部から地方へと中毒が広がりを見せる中、韓国情報文化振興院は専門カウンセラー
の養成に力を入れ始めた。40時間の課程を修了した人をインターネット中毒専門カウン
セラーに認定するというこの講座、受講者には地方の行政機関などで働いている人が目立
つ。

 「主婦がチャットにはまったためその浮気相手が夫の職場に押しかけたケースもあり、
また、ゲームをやりすぎる子供に親が手を焼くケースは日常茶飯事です」(受講者=家庭問
題のカウンセラー)。

 この日の授業は「美術治療」と呼ばれるカウンセリング技術についてです。絵を描かせ、
その絵を説明させる過程でコミュニケーション能力を回復させ、自分を客観視させる効果
があると言う。

 「インターネットに夢中になっている子は、家族との対話が断絶しています。絵を通し
て子供の心を理解し、表現することが重要だと学びました」(受講者)

 韓国政府は、今年に入って、インターネット中毒のカウンセリングが受けられる施設を
全国でおよそ30カ所増やすとともに、今後、年間300人程度を目標に専門カウンセラ
ーを養成していくという』と。

 私も、(ゲーム中毒の子ども)をときどき経験している。7、8年前に書いた原稿だが、
それを紹介する。

++++++++++++++

●子どもがゲームづけになるとき

●ゲームづけの子どもたち 

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通
称、マジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっ
ている(2000年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、1人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、
融合させる。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラ
ゴンをフィールドに出せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が九〇〇〇になる」と。

子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的に
はカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカード
を取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、1パック5枚
入りで、150円か330円程度で販売されている。「アルティメット入りのパックは、
値段が高い」そうだ。

●ポケモンからマジギャザまで

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった
子どもたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。

M君(中2)いわく、「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カ
ード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)
は、1000枚近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームの
ことだと思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、
正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王
からマジギャザへと、子どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせなが
ら遊ぶという点では、共通している。

●現実感を喪失する子どもたち

 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわ
からない生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだた
まごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。

中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している20歳代の女性までいた
(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。

そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気
の信号だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。
この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電
子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む
その教団の信者は、方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがど
う違うというのか。ゲームには、そういう危険な面も隠されている。

●思考回路はそのまま

 で、浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王
に、多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持っ
ている。中には1万枚も持っている子どももいる。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フ
ランスバージョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フ
ランス語版は質がよくて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円
の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあると
いう。「大会で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、
たいてい20歳以上のおとなばかりだよ」とも。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなっ
たということ。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード
中毒。この中毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万
円も払ったりする!

●子どもをダシに金儲け

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間1
00億円から200億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表
の数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを
手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、
値段も高い。

しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られる
まま、そうしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放し
になってよいのか。

(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、2001年の終
わりには再び発売されているとのこと。

++++++++++++++

●携帯電話を買う

 とうとう買った。携帯電話だ。ドコモの最新型。1・3メガのカメラつき。ソニーの製
品だ。

 きっかけは、オーストラリアの友人のB君が、携帯電話を買いたいと言ったこと。それ
で携帯電話ショップへいっしょに行き、あれこれ通訳しているうちに、自分でもほしくな
ってしまった。

 いろいろな機種があったが、どうせ買うなら最新型、ということで、それにした。長い
間、悶々としていた気分が、これで吹き飛んだ。手続きが終わるとワイフは、こう言った。
「あんたも、やっと一人前ね」と。そうだ。私もやっと、一人前!

 家に帰って、説明書を見る。ゾクッとするほど、分厚い。こうして機械をいじるのが、
何よりも楽しい。ショップの女の子に、「ぼくは、機械オンチでね。パソコンなど、いじっ
たこともありません……」と言ったら、本気にした。そしてあれこれ手取り、(本当に、手
取りだぞ!)、親切に教えてくれた。合計で、八回ほど、手を握ってもらった。きれいな人
だったから、うれしかった。ははは。

 しかしそれにしても、機能満載! 携帯電話がここまで進化しているとは、思ってもみ
なかった。カメラにしても、ズーム機能までついている。インターネットにメールを送る
こともできる。ほかに留守番電話だの、アイモードだの。ただこの機種(ソニー・SO5
05i)は、閉じた状態で、スイッチが外部に出るため、不用意にスイッチを入れてしま
う可能性がある。いいのかなあ……?

 さっそく、あちこちに電話してみる。うまくつながった。今度は反対に、携帯電話に電
話してみる。これもうまくつながった。しかし一番格安のコースでも、月々の基本料金が、
4000円近くになる。こうした料金でも、まさに「チリも積もれば……」。これから先、
老後に向けて、生活をコンパクトにしようと考えていたのだが……。

 しかしこうした電気製品は、いわばオモチャのようなもの。それにボケ防止になる。と
きどきこういう新製品を買って、頭を刺激する。しかし、私は、実のところ、こうした分
野では、天才的な能力がある。(ホント!)昔、ある医療研究所に、タタミ一枚分ほどもあ
る、大型の電子機器が置いてあった。だれもそれを操作できず、半年ほどそこに放置して
あった。それを私は、一時間ほどで動かしてしまった。あとで所長が、「君は、この機械の
ことを知っていたのかね?」と。(これは自慢!)

 それにしても楽しい。手の中でクルクルと携帯電話をいじっていると、無上の喜びを感
ずる。(これは私のビョーキのようなもの。)そのうち私も、携帯電話を手放せなくなるか
もしれない。今は、その、はじめの一歩? 中毒にならないように、注意しよう。
(030610)

++++++++++++++

 話を戻す。

 TBS−iニュースは、つぎのように締めくくっている。

 『韓国でインターネット中毒が深刻化した背景としては、学歴競争での挫折や人間関係
のストレスに苦しむ人たちが、現実社会からネットの世界へ逃げ込むという傾向が指摘さ
れていて、日本社会にとっても無縁とは思えない問題である』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 ネット中毒 インターネット中毒 ゲーム中毒)

【付記】

 インターネット中毒に陥ること自体、依存うつと考えてよいのでは? さらに最近の研
究によれば、うつ病の「根」は、0歳から2、3歳までの、乳幼児期に作られるというこ
とがわかってきた。

 この時期の安定的な家庭環境(とくに母子関係)が、いかに重要であるかは、いまさら、
ここに書くまでもない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●田丸謙二先生に会う

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ちょうど1年ぶりに、田丸謙二
先生に会った。浜北市のレスト
ランで、いっしょに食事をした。

今年83歳になられるという。
長いつきあいだ。1970年
以来だから、もう37年になる。

私にとっては、恩師でもあり、
友人でもある。

私は、田丸謙二先生に出会うこ
とができたことを、心から誇り
に思う。

+++++++++++++

 そのとき先生は、東大紛争で疲れたとかいうことで、メルボルン大学へ来ていた。人口
300万人(当時)のメルボルン市でも、日本人の留学生は、私1人だけだった。もちろ
んメルボルン大学には、私1人しかしなかった。

 その先生と、3か月もの間、寝食をともにできたことは、私にとっては、生涯の誇りで
ある。いや、そのときは、そんなことは、微塵(みじん)も思わなかった。恩師というよ
りは、「友」として、そのときの日々を過ごした。

 田丸先生を「師」として意識するようになったのは、日本へ帰ってきてからである。田
丸先生は、東大の安田講堂の右手奥にある、理学部に研究室を構えていた。静かな研究室
だった。ご自宅にもたびたび、おじゃました。先生のご自宅は、鎌倉の扇が谷というとこ
ろにある。

 当時の私は、バカだったのか、それともアホだったのか、よくわからないが、先生のこ
とよりも、先生のご自宅の前の南隣の家が、中村光男の家だったということのほうに、感
激した。戦後を代表する評論家であった。

 しかしやがて、私は田丸謙二先生の偉大さを、思い知るところとなった。先生は、30
代の若さで東大教授になり、そののち、文部行政の要職をつぎつぎと歴任。東大の副総長
(総長特別補佐)、日本化学会の会長、国際触媒学会の会長なども、歴任された。田丸謙二
先生の父親の、田丸節郎は、日本学士院の院長を歴任。田丸先生自身も2000年に、学
士院賞を受賞している。

 私は先生を乗り越える方法は、ただひとつしかないと知った。先生が先生なら、私は、
組織の世界とは無縁で、無肩書きで生きることでしかない、と。事実、私は、かなり若い
ころ、組織と肩書きの世界から、縁を切った。「私は、裸で生きてやろう」と思った。

 しかしそれはとんでもないまちがいだった(?)。今にして思うと、そう思う。敗北を認
めるようでつらいが、事実は事実。

 が、田丸謙二先生に会ったとたん、あの学生時代にそのままタイムスリップしてしまう。
先生が先生であることを忘れて、バカ話ばかりしてしまう。

 ところで、こんな重要な事実がある。私やあなたが、今、ここに生きていることができ
るのは、田丸節郎のおかげである。ここに書いた田丸節郎は、ドイツ留学中に、空気中の
窒素の固定化に成功したハーバー博士(アンモニアの合成で、ノーベル賞受賞者)の直弟
子としても活躍した。もしそのとき、ハーバー博士が、空気中の窒素の固定化に成功して
いなければ、人類は、じゅうぶんな食糧を生産することはできなかったはず。自然界にあ
る、石灰窒素には、限りがある。

 が、ハーバー博士の研究で、人類は、「空気から食糧をつくることができるようになった」
(田丸先生)。その結果、今の私たちが、ここにいる。

 そのハーバー博士は、日本へやってきたとき、鎌倉の田丸家を訪問している。そのとき
の写真が、田丸先生のHPに収録されている。興味のある人は、それを見てほしい。先生
は、誇らしげに、こう言った。「私は、ハーバー博士に会ったことがある」と。

私「だって、先生は、赤ちゃんだったんでしょ」
田「そうですね」
私「覚えているんですか、その日のことを?」
田「何も覚えていません。ハハハ」
私「それじゃあ、会ったということにはならない。ハハハ」と。

 先生は、その写真の中で、母親の腕の中に抱かれている。先生は、その写真を家宝のひ
とつとして、大切にしている。

 今でも、田丸先生は、2人のお嬢さんと、弟子たちを生甲斐として、現役で活躍されて
いる。「東大だけでも、8人の弟子が教授になりました。そんなに数が多いのは、私だけで
す」と。また06年の12月から07年の2月までに、1冊の本を翻訳なさったという。
私たちが見習うべきは、田丸先生のような人をいう。

 「大切なことは、人を残すことです」と、先生は、何度も言われた。

 5月12日に撮影したビデオなどは、私のHPのほうに掲載しておきます。興味のある
方は、ぜひ、ご覧になってください。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●小さな世界

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孫の誠司が、フロリダにあるディズ
ニーランドへ行ってきた。

そこから帰るとき、誠司は、かなり
ぐずったらしい。「ここはぼくのHOME
だから、帰らない」とまで言ったという。

その誠司は、「スモール・ワールド」が、
いちばん、気にいっていたという。

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 「小さな世界」……というときには、2つの意味がある。地球そのものを、宇宙的な規
模でながめたときに、この地球を、「小さな世界」という。ディズニーランドには、「スモ
ール・ワールド」という展示館がある。そこで流されている音楽の、「♪小さな世界」は、
それをいう。

 が、もうひとつの意味がある。

 個人がかぎりなく自分の住む世界を小さくし、その世界を、「世界」と思いこむときにも、
「小さな世界」という。

 以前、こんな話を聞いた。

 その家には、80歳を過ぎた女性(=母親)と、60歳をすぎた男性(=その母親の息
子)が住んでいた。

 ともに認知症一歩手前という状態だった。そこでその女性のもう1人の息子が、毎日、
その家に、弁当を届けることにした。1食800円で、2食で1600円。弁当は、ボラ
ンティア活動をしている人たちが、格安で提供していた。

 が、しばらくすると、その女性(=母親)と、男性(=母親の息子)は、その弁当を取
りあって、けんかするようになったという。「お前がワシの分まで、食べてしまった」「ぼ
くの食べる分がない」と。

 一応食器は、洗って返すことになっていたというが、その洗い方についても、けんかが
絶えなかったという。「ちゃんと洗え」「お前のほうが洗え」と。

 何ともあさましい、何ともなさけない話である。人間というのは、努力によって神のよ
うな人間にもなれるが、生き方をまちがえると、この2人のように、ケダモノに近い人間
にもなってしまう。

 そこで大切なことは、小さな世界で、小さく生きている人とは、付きあわないというこ
と。そういう人たちには、そういう人たち独特の魔力のようなものがある。油断すると、
その魔力の虜(とりこ)になってしまう。ドロドロとした人間関係のウズに巻きこまれる
と、そのまま小さな人間になってしまう。

 一方、つねに私たちは、自分の視点を、宇宙の外に置く。その視点から、地球を見、人
間を見る。見るだけでは足りない。今度は、宇宙の歴史の中で、今という(時間)を考え
る。

 私たちが今過ごしている時間は、たとえそれが100年であっても、この宇宙の歴史の
中では、瞬間のそのまま瞬間にすぎない。

 こうした心の操作をつねにしていかないと、私たちはすぐ、先に書いた、「小さな世界」
に引き戻されてしまう。ささいなことで、悩んだり、くよくよしたりする。しかしそれこ
そ、時間の無駄。人生の無駄。

 たとえば私の知り合いの中には、兄弟姉妹で、四つどもえになって、親の残した遺産を
取りあっている人がいる。遺産といっても、1000万円にもならない。(だからといって、
1000万円が小額だと言っているのではない。誤解のないように!)

 「お前は、親父の駐車場を、タダで使っていたではないか。その分を、分与額が差し引
け」「お前こそ、大学の学費を出してみらったではないか。その分を、分与額から差し引け」
と。

 金銭問題がからんでくると、兄弟姉妹でも、他人以上の他人になる。またこうした争い
は、いまどき、珍しくも何ともない。その兄弟姉妹にしても、たがいにこう言っている。「こ
の(遺産)問題が片づいたら、たがいに縁を切る」と。

 しかしこんなことも考えたらよい。

 本当の財産は、何か、と。あるいは、本当に大切にしなければならないものは、何か、
と。

 どちらにせよ、人生にはかぎりがある。50歳の人にしてみても、これから先、人生は、
30〜40年しかない。60歳の人にしてみても、20〜30年。しかもその20〜30
年が、健康なままということはない。

 人生をお金に換算すること自体、まちがっている。が、しかし今生きている(1年)に
は、無現の価値がある。かりに悪魔がやってきて、「1000万円やるから、お前の1年を
私によこそ」と言われたら、あなたはどうするだろうか。それに応ずるだろうか。

 私なら、「ノー」と答える。とんでもない話である。どうせ死ねば、自分の財産、名誉、
地位はおろか、この地球、さらには宇宙ごと、私とともに消える。大切なことは、心豊か
に、穏やかに生きること。1日でも多く、心豊かに、穏やかに生きること。

 そういう生き方をすることは難しいことかもしれないが、そのための努力を怠っては、
いけない。またその努力をするところに、人間の生きる美しさが光る。

 私なんかは、自分人生を振り返ってみても、損をすることはあっても、金銭的な意味で、
得をしたことは、何もなかった。1000万円単位で、損をしたことは何度かある。だか
らこう思う。

 「たかが1000万円ではないか。そんな額で、兄弟姉妹がけんかして、どうなる?」
と。あるいはそうして得たお金を、その人たちは、どうするつもりなのだろう。新車でも
買うつもりなのだろうか? 旅行にでも行くつもりなのだろうか?

 が、はたして、それで心豊かな人生を送ることができるというのだろうか? 私にはま
だよくわからないが、生きるということは、そういうことではないように思う。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●名誉を残す、名を残す、そして人を残す

++++++++++++++++++

田丸先生が、こう言った。

名誉を残す。名を残す。しかしもっと
大切なことは、人を残すことだ、と。

++++++++++++++++++

 83歳になった田丸先生が、こう言った。「私の今の生きがいは、2人の娘と、弟子たち
です」と。

 東大だけでも8人の弟子たちが、教授職についたという。「8人」という数が、どれくら
いすごい数かということは、その世界の人たちにならわかるはず。

 その田丸先生が、さらにこう言った。「人生でいちばん大切なことは、人を残すことです」
と。先生のこの言葉は、私に大きな衝撃を与えた。

 私は今まで、自分の育児論の中で、「子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立さ
せることだ」と説いてきた。しかしいつも、心のどこかで、「それでは足りない」と感じて
きた。

 先生のこの言葉が、私の子育て論の欠陥を、補完した。「子育ての目標は、人を残すこと」。
もし世の親たちが、こういう視点で子育てを始めたら、子育てのあり方そのものが変わる。
当然、その結果として、この世界はすばらしい世界になる。

 人を残す! そうなんだ! そうだったのだ!

 もちろん、今は、そうわかっただけで、「ではどうすればいいのか」という部分について
は、ここでは書けない。ひとつの大きなテーマとして、これから先、じっくりと考えてみ
たい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
人を残す 田丸謙二)


●生きていること自体が、奇跡

+++++++++++++++++++

今夕、濃紺の空を見あげながら、家に
帰ってきた。澄んだ、どこまでも澄んだ、
宵やみの空に、1つの大きな美しい星が、
輝いていた。

それを見たとき、ふと、私は、こう思った。
「生きていること自体が、奇跡だ」と。

つぎの瞬間には、つまり星がまばたきする、
そのつぎの瞬間には、私は、この世から
消える。消えて、なくなる。

星がまばたきする、その瞬間、その私がこの
世界に生まれ、そしてこの世界で生きている。

それを「すばらしい」と言わずして、
何という。

+++++++++++++++++++

 今、あなたが健康なら、それを感謝したらよい。そしてその健康なときを、懸命に大切
にして、生きたらよい。今、あなたが若いなら、なおさらだ。

 何が奇跡かといって、この世界で生きていることを越える奇跡はない。生きていること
自体が、まさに奇跡。その奇跡の前では、名誉も地位も肩書きも、意味がない。もし今の
この「時」を、お金に換算するなら、一瞬一秒には、無限の価値がある。いや、お金に換
算すること自体、バカげている。

 なのに、どうしてみな、今、生きていることを、そんなにも粗末にするのか。名誉や地
位や肩書きにしがみつき、わずかなお金を取り合って、嘆き、悲しむ。時に、憎しみ合う。
奇跡を無駄にしながら、無駄にしているという自覚すらない。
 
 賢い人は、そのものの価値をなくす前に気がつく。愚かな人は、そのものの価値を、な
くしてから気がつく。

 足が動く、体が動く、宵やみの空が見える、冷たい初夏の冷気を、そこに感ずる。楽を
しようと思えば、いくらでもできる。しかし今、私は生きている。生きているという実感
を、肌で感ずる。自転車をこぐペダルに、思わず力が入る。

 濃紺の空には、1つの大きな星。あの星から見れば、この地球なぞ、ゴミにもならない
チリのようなもの。そんな地球にへばりついて、ああでもない、こうでもないと心を煩わ
す。その馬鹿らしさ。その愚かしさ。かつてだれかがこう言った。「人間社会にしても、地
球の表面をおおうカビのようなもの」と。

 イラクでは、スンニ派だかシーア派だか知らないが、外から見れば、骨肉の争いを繰り
かえしている。たがいにたがいを殺しあっている。そういう愚かさを見たとき、「私は彼ら
とはちがう」と言い切れる人は、この世界に、いったい、どれほどいるというのか。

 明日はない。ないと思って、今日を懸命に生きる。そしてその明日に、大病を言い渡さ
れても、悔いのない今日を、今日、過ごす。つまりそういう明日になるかもしれないが、
しかしともかくも、今日、私は生きている。「今」という、この瞬間を生きている。そのす
ばらしさ。尊さ。

 これを奇跡と呼ばずして、何という。

+++++++++++++++++++++

犠牲になることを、恐れてはいけない。
犠牲になっていることを、嘆いてはいけない。
犠牲になることを、避けてはいけない。
犠牲になっていることを、喜ぼう。
相手を安らかにしてやろう。
相手にいいようにしてやろう。
犠牲は、やがて、その数万倍のも光を
ともなって、あなたのところに返ってくる。

+++++++++++++++++++++

【生きる原点】

●黄金の小便

+++++++++++++++++

どんな病気だったか、知らない。
どんなふうに、苦しんだのかも
知らない。

しかしその人は、腎臓移植を受けた。
そして術後はじめて、病院のトイレ
で小便をした。

そのときのこと。窓から入り込む太陽の
光線をあびて、自分の小便が、黄金色に
輝いているのを知った。

その人は、こう書いている。

「その美しさに、驚き、思わず、
自分の小便を、手で受け止めた」と。

+++++++++++++++++

 あるものを忘れて、ないものを嘆く。そこにいる人を忘れて、その人をののしり、罵声
を浴びせかける。あるいは生きていることを忘れて、生きていることを粗末にする。

 悩む? 苦しむ? 迷う? 

 みんな、生きているからこそ、そうする。だから悩んだり、苦しんだり、迷ったりした
ら、ふと、立ち止まって自分を見つめなおしてみたらよい。私たちは生きているがゆえに、
悩んだり、苦しんだり、迷ったりする。すると、とたん、悩んだり、苦しんだり、迷った
りすることが、生きる喜びに変化する。

 あなたが今、満ち足りた充足感を覚え、健康なら、何も言うことはない。そこに家族が
いて、みな、健康なら、何も言うことはない。仮に、不幸であっても、病気であっても、
それで生きることが影響を受けるわけではない。

 もともと何もないという前提で生きれば、失うことすら、何でもない。大切なことは、
今というこの一瞬一秒を、心豊かに、満足して生きることではないのか。

 人生は長いようで短い。本当に短い。……といっても、こんなことを若い人に言っても
わからないだろう。若い人にとっては、時間は永遠。死すら、無縁。

 しかしその時間も一瞬のうちに消える。気がついてみたら、30代、40代。さらに気
がついてみたら、50代、60代。つぎの20年のうちには、大半の人はこの世界から消
えてなくなる。さらにつぎの20年のうちには、生きている人は、ほとんどいない。

 例外は、ない。私も、あなたも、だ。

 知りあいの中には、わずかな財産にしがみつき、きゅうきゅうとしている人がいる。兄
弟姉妹で、争奪戦を繰りかえしている人もいる。あわれで、どこまでも悲しい人たちだ。
そういう人たちは、そういうことで得たお金で、何をしようとしているのか。

 車を買うのか? 旅行をするのか? あるいは家を買うのか?

 仮にそれができたとしても、だから、どうなのか。それがどうしたというのか。

 私には、目が見える。音を聞くこともできる。初夏のさわやかな風を、肌で感ずること
もできる。その気になれば、庭を、自由に歩くこともできる。生きていくためには、働か
なければならない。いやな人とも、つきあわなければならない。苦労はつきものだが、そ
れとて(生きている)という事実の前では、何でもない。働けるということ自体が、財産
なのだ。価値なのだ。

 私は、今、原点から、自分を見つめなおしている。

 食事を作る。食事をする。お茶を飲む。食器を洗う。本を読む。パソコンのキーボード
をたたく。音楽を聞く。何でもないことの連続だが、しかしその何でもないことの中に、
お金では換算できない、無限の価値がある。

 もっとも、こうした状態が、いつまでもつづくとは思っていない。明日、私は、交通事
故か何かで倒れるかもしれない。あるいは、この命も、今日限りかもしれない。

 だからこそ、私は、今というこの一瞬、一秒をかみしめながら生きる。それが私の「生
きる原点」ということになる。
(はやし浩司 生きる原点 生きる喜び)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ

++++++++++++++++

今日は、朝風呂。6時半に起きて、
母の世話。同時に、風呂に湯を張った。
そう言えば、昨日、母は、デイケア
センターで、入浴中、大便を漏らし
てしまった。連絡ノートには、
そう書いてあった。このところ、
大便のほうも、四六時中、垂れ流し
といった感じ。「お前、昨日、風呂
の中で、ウンチしたんだってなア?」
と声をかけると、「知らん」「覚えて
おらん」の一転張り。が、やがて、
こう言った。「だれがそんなこと言っ
た?」と。

少しは記憶が残っているようだ。

++++++++++++++++

 介護制度が、ここまでキメ細かく整備されているとは、私も知らなかった。わずか5、
6年足らずで、よくここまで、整備したものだ。感心する。

 介護制度のありがたさは、それがなくなったときにわかる。たとえばこの大型連休中、
母は、ずっと私の家にいた。それが5、6日もつづいた。とたん、家の中の雰囲気が、お
かしくなった。ワイフも、ストレスを感じ始めた。

私「毎日、シーツをかえなくてもいいよ。消臭スプレーをかけて、干しておけば、それで
いいよ」
ワ「そんなわけには、いかないわよ」
私「みんな、そうしているよ。あのSさん(知人、介護歴10年)も、そう言っているよ。
部屋中、ウンチまるけになっても、放っておけばいいって」と。

 私たちはまだ利用していないが、短期入所というのもある。1週間単位で、施設で介護
老人を預かってくれる。費用は、1日、2600円前後。私はともかくも、ワイフの様子
を見ながら、そのうち施設の世話になるつもり。母も大切だが、ワイフは、もっと大切。
母の介護で、ワイフがダウンするようなことは、あってはならない。

 その母だが、このところ、ワイフに、あれこれ命令することが多くなった。デイサービ
スから帰ってくると、「お茶!」と。先日は、デイサービスの車からおりるやいなや、「タ
クシー代を払っておけ」とも言った。

 そこで私は、母とワイフとの接触を、できるだけ少なくするようにしている。おかしな
ことだが、母という(女性)が、同じ女性であるワイフを、蔑視している。男尊女卑とい
う言葉があるが、それは何も男性だけの問題ではない。女性自身が、女性を蔑視している。
それを女性自身が受け入れてしまっている。そういうケースも少なくない。

 つまり私のワイフは、母にすれば、母の奴隷のようなもの。昔から、母は、異常なまで
に、親意識が強い。母にしてみれば、私は、母のロボット。だからワイフは、母にとって
も、奴隷のようなもの、となる。母は、まさに封建時代の遺物を、そのまま背負っている。

 愚かな意識だが、いまさら、どうこうなる問題ではない。適当に会話を合わせて、あと
は無視。やるべきことはやる。しかし、あとは無視。これは介護をする人にとっては、と
ても大切なことだと思う。

 しかし……。その母を観察していて、ときどき、ゾッとすることがある。あのまま私も
地元に残って、つまり母といっしょに生活をしていたら、今ごろは、母と同じような考え
方をしていたかもしれない。

 幸いにも私は、高校を卒業すると同時に、郷里を離れることができた。自分の郷里を、
距離をおいて、客観的に見ることができた。ついでに世界を見ることができた。だから今、
母と言うより、その母の向こうにある(愚かさ)が、よくわかる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●急速に変わる韓国人の意識

+++++++++++++++

このところ、韓国人の意識が、
急速に親北化している。

韓国の「Joins風向計」調査に
よれば、71%の韓国人が、
対北経済協力を持続すべきと
答えている。

「北を信頼する」と答えた人も、
50%近くにまで上昇している。

+++++++++++++++

 韓国の「Joins風向計」調査によれば、71%の韓国人が、対北経済協力を持続すべきと
考えていることがわかった。

 韓国中央N報は、つぎのように伝えている。

『昨年6月から調べた結果、「南北経済協力を続けるべきかどうか」については、3
3.8%→58%→71%へと着実に上昇しつづけており、K国関連政策への信頼度
も33.1%→36.7%へと上昇していることがわかった』と。

 わかりやすく言えば、この1年足らずの間に、「経済協力をすべき」と考えている韓
国人が、34%から71%へと、ほぼ倍増したということになる。

 これではいくら世界が、K国への経済制裁を決めても、意味はない。核兵器開発問題
にしても、韓国のN政権は、すでにそれを容認してしまっている。アメリカにしても、
自国が直接の脅威に立たされなければ、OKという立場に変化してしまった。ならば、
何のための6か国協議か、ということになる。

 そこで、もうここまできたら、日本は、韓国イコール、K国と考えたほうがよいのでは
ないか。もちろん日本は、軍事力を使うことは許されない。しかし経済戦争という方法が
ある。その経済戦争で、K国はもちろん、韓国をだまらせる以外、方法はない。

 何とも好戦的な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、向こうはその
気でいる。忘れてならないのは、日本がバブル経済崩壊で、地面をのたうち回っていたこ
ろのこと、韓国政府は毎日、(毎日だぞ!)、閣議を開いて、日本の動向をうかがっていた。

 もちろん日本のことを心配して、そうしていたのではない。「日本を太平洋の向こうにた
たき落とすための、絶好の機会」と、それをとらえ、さらなる作戦を練っていた。どうし
てそういう国に、日本は遠慮しているのか。いい子ぶっているのか。少なくとも、日本の
ほうから、韓国を利するような行為だけは、やめたらよい。

 いろいろな意見はあるだろう。しかし今、K国の核ミサイルが、東京めがけて発射準備
段階にあるとしたら、あなたはそれをどう考えるだろうか。それでもあなたは、「友好が大
切」「平和が大切」と、のんきなことを言っておられるだろうか。

 今の日本は、ここを原点として、ものを考えなければならない。
(5月12日記)

【資料】

 北朝鮮のミサイル実験発射が行なわれる前の06年6月20日、ジョインス風向計が行な
った9回目の調査では、

「ミサイル問題と分離して南北経済協力を持続すべき」……33.8%
「ミサイル問題に結び付けて南北経済協力を制限すべき」……51.7%、であった。

それが、07年5月の調査では、

 「経済協力を持続すべき」……71%
「経済協力を中断すべき」……18.4%、となった。

 現政権のK国関連政策について「信頼できる」……36.7%
(とても……3.1%、ある程度……33.5%)で、
昨年の4回目の調査に比べて、3.6%上昇した。
(以上「Joins 風向計」より)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある離婚

+++++++++++++++++

身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、
今、離婚状態にある。離婚したという
わけではないが、離婚を前提とした、
別居状態にある。

年齢は、ともに、59歳。理由はよく
わからない。いろいろあったらしい。
どこかおかしいなとは感じていたが、
しかし夫婦のことは、夫婦しかわから
ない。

私も詳しくは、聞かなかった。

+++++++++++++++++

 身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、今、離婚状態にある。離婚したというわけで
はないが、離婚を前提とした、別居状態にある。

 数日前、そういう連絡を受けた。すぐ電話をしようと思ったが、つらくて、電話をする
ことができなかった。ただメールだけは打っておいた。夫と私は学生時代からの友人で、
もう40年近いつきあいになる。その夫婦と私たち夫婦と、いっしょに旅行したことも、
何度かある。

 そういう積み重ねがあるから、どちらの味方をするとか、そういうことは考えない。そ
っと静かにしておいてやることこそ、大切ではないか。流れとしては、奥さんのほうから
先に、離婚話がもち出されたようだ。

 いろいろ考える。考えるが、こうまで身近な人のこととなると、考えがまとまらない。
以前書いた原稿を、読みなおしてみる。

+++++++++++++

●さらけ出す

 オーストラリア人の家庭へ行ったときのこと。食後、ふと見ると、その家の奥さんが、
だんなさんのひざの上に、抱かれるようにして、もたれかかっていた。が、子どもたち(高
校生の女の子と、私の友人の大学生)は、平気な顔をして、私と、会話をつづけていた。

 今から35年ほど前に見た、光景である。その光景を見て、私がいかに驚いたかは、も
うここに書くまでもない。当時の日本の常識では、考えられない光景であった。今でも、
珍しい。当時ですら、向こうの大学生たちは、大学の構内を歩きながらでも、抱きあった
り、キスをしたりしていた。

 もっとも欧米人が、みな、こうした「さらけ出し」を、平気でしているわけではない。
そのためアメリカなどでは、離婚率の増加とともに、結婚カウンセラーの数が急増してい
るという。こうしたカウンセリングでは、主に夫婦の間の信頼関係の結び方の指導に重点
を置いているという。今、その信頼関係が結べない夫婦がふえている。もちろん、この日
本でも、ふえている。

 結婚したあと、夫婦の会話がない。セックスもない。夫は家事、育児をすべて妻に任せ、
自分は、知らぬ顔。妻は妻で、家庭に閉じ込められ、爆発寸前。夫にせよ、妻にせよ、そ
の原因は、乳幼児期の育てられ方にあるとみる。この時期、子どもは、絶対的に安心でき
る家庭環境の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。自分をさらけ出しても、だいじょうぶ
だという安心感を学ぶ。そしてそれが基本となって、信頼関係の結び方を学ぶ。

 自分をさらけ出すから、信頼関係が結べるということにはならないが、しかしさらけ出
さないことには、結べない。あるがままの自分を、相手にさらけ出す。それはたがいの信
頼関係を結ぶ、大前提ということになる。

 そういう意味では、私が見た、あのオーストラリア人夫婦の光景は、参考になる。反対
に、日本の夫婦だったら、どういう反応を示すかということを考えてみればよい。たとえ
ばあなたたち夫婦は、どうだろうか。

(1)デパートやスーパーでも、平気で手をつないで歩くことができる。
(2)子どもの前でも、平気で抱きあってみせることができる。
(3)客の前でも、平気で、抱きあったり、キスしてみせることができる。

 いろいろなレベルがあるだろうが、日本では、こうした行為を、「はしたない」と否定す
る。しかし「はしたない」とは何か? どうしてそれが悪いことなのか? 私たちも一度、
そういう原点に立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。

 なお私のこうした意見に対して、「アメリカのほうが離婚率が高いではないか」と反論す
る人がいる。「日本より、はるかにさらけ出しをしているアメリカ人のほうが、離婚率が高
い。つまり日本の夫婦のほうが、たがいの関係がしっかりしている」と。

 この反論が、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちたものかは、あなたが妻の立場にいるなら、
すぐわかるはず。日本の夫婦の離婚率がまだ低いのは、夫婦の関係がそれだけしっかりし
ているからではない。とくに妻側が、がまんしているからにほかならない。いまだに、男
尊女卑の思想は、この日本に根強く残っている。もし日本の妻たちの意識が、アメリカ並
になったら、離婚率は、アメリカの離婚率を、はるかに超える。

 私たちは、夫婦の間だけでも、そして子どもの前でも、もっと自分をさらけ出してもよ
い。言いたいことを言い、したいことをする。夫意識など、くそ食らえ。妻意識など、く
そ食らえ。親の権威など、くそ食らえ。親意識など、くそ食らえ! まずあるがままをさ
らけ出す。他人のばあいは、そうはいかないが、夫婦や、親子の間では、かまわない。そ
れが家族の特権でもある。とくに、つぎのような人は、そうしたらよい。

(1)他人と接していると、気をつかい、精神疲労を起こしやすい。
(2)親だから(夫だから、妻だから)という意識が強く、何かにつけて気負ってしまう。
(3)夫婦の間でも、「それはいけないこと」というようなブレーキが働くことが多い。
(4)友人が少なく、さみしがり屋なのに、友人と良好な関係をつくるのが苦手。
(5)いつも自分をよく見せようと、心のどこかで緊張してしまう。あるいは自分を飾る。

 さあ、あなたも、たった一度しかない人生だから、思う存分、自分をさらけ出して生き
たらよい。あるがままの自分で、あるがままに生きたらよい。だれにも遠慮することはな
い。無理をすることはない。それで相手がダメだというのなら、こちらから相手を蹴飛ば
してやればよい。よい人ぶったりしてはいけない。自分を飾ったり、ごまかしてはいけな
い。

さあ、あなたもあなたの心を取り巻いている、無数のクサリを解き放ってみよう。たっ
た一度しかない人生だから、思う存分、自分の人生を生きてみよう! 英語国では、こ
う言う。「心を解き放て! 体はあとからついてくる!」と。よい言葉だ。
(030214)

●自由が新しい宗教であり、それが全世界に広がることは、まちがいない。(ハイネ「イ
ギリス断片」)
●人は生まれながらにして、自由かつ平等である。(フランス人権宣言)


+++++++++++++

【補足(1)】離婚率

 日本人の離婚率が、欧米より低いことについて、先に、「日本の女性が、それだけがまん
強いからだ」と書いた。それについて補足する前に、世界の離婚率を調べてみた。

離婚率 (人口1000人当たり) 日本   ……2・3人(2001年)
                 アメリカ ……4・1人(2000年)
                 イギリス ……2・6人(2000年)
                 韓国   ……2・5人(2000年)
                 ドイツ  ……2・3人(1999年)
                 フランス ……2・0人(1999年)
                 
                          (総務省統計局)

 この総務省の統計局の数字を見てわかることは、日本はアメリカよりも低いが、しかし
他の欧米諸国と比べてみると、それほど低くはないということ。ドイツと同じで、かつフ
ランスより高い。

 アメリカが高いのは、アメリカが多様な民族による移民国家であるためと考えられる。
たとえばテキサス州では、人口の約40%が、ヒスパニック系と言われている。

 日本の女性ががまん強いというのは、女性自身ががまん強いというよりは、社会制度の
不備、それに古い因習や慣習による拘束が、背景にあるためと考えられる。もしこうした
不備が改善され、日本の女性たちが古い因習や慣習から解放されたら、離婚率は、一挙に
上昇すると考えられる。日本の女性たちは、そういう拘束の中で、「離婚したくても、でき
ない」という事情に苦しんでいる。

 だからといって、離婚率が高くなればよいと私は言っているのではない。しかし無理を
して、結婚の体裁だけを整えている家族も多いのも事実。この日本では、女性が経済的に
自立するのは、むずかしい。とくに離婚した女性が、自立するのは、本当にむずかしい。
そういう事情の中で、多くの女性たちが、離婚したくてもできず、がまんしている。

【補足(2)】家庭は兵舎

 せっかくすぐれた才能をもちながら、「家庭」という「兵舎」に閉じ込められた女性が、
そののち、出産、育児を経験するうちに、その才能を鈍らせるというケースは、きわめて
多い。が、それだけではない。

 こうした才能にめざめた女性たちが感ずる、閉塞(へいそく)感は相当なもので、その
閉塞感が大きければ大きいほど、ストレスも増大する。「家庭が兵舎」という発想は、そう
いうところから生まれる。

 たとえばマンションを購入する。仕事をしている夫にとっては、「家庭」かもしれないが、
妻には、監獄に近い。しかし悲劇は、そういう事実を、夫が理解しないことにある。いく
ら見晴らしがよくても、密閉された箱の中のような世界では、一日を過ごすことはできな
い。精神や肉体に与える影響も大きい。

 たとえば、こんな調査結果がある。

妊婦の流産率は、六階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階は5〜7%)。
流・死産率でも六階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。マン
ションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建
ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。 

 マンションなど、高層住宅に住んでいる女性の流産率は、40%もあるという。マタニ
ティーブルーになる女性は、一戸建ての家に住む女性の四倍もあるという!

 実際、私の実践教室は、市の中心部のビルの3階にある。見晴らしは悪くはないが、あ
の閉塞感は、いかんともしがたい。窓の外へは一歩も出られないというだけで、閉じ込め
られた感じがする。そんなわけで、一時間でも休み時間があると、私は近くの書店で、本
を立ち読みして過ごす。設備はいろいろあるので、その気になれば泊まることもできるが、
過去において、一度だった泊まったことがない。

 そういうマンションに閉じ込められた女性にとっては、家庭はまさに、監獄に近いとい
うことになる。夫の発想では、「マンションも買った。……買ってやった。その家庭でのん
びりできるではないか。何が文句があるのか」ということになるが、それは女性たちが感
じる現実とは、かなり違うということ。仮に今の私が妻なら、そういう生活には、一日ど
ころか、半日も耐えられないだろう。

+++++++++++++++++++

 10年ほど前から、「父親の育児参加」が、声だかに叫ばれるようになった。つまりそれ
くらい、日本の父親たちは、育児に無関心。「仕事だけしていれば、一人前」と考える。し
かし育児は、義務ではない。権利である。父親というより、人間としての権利である。反
対に育児が満足できないような職場環境なら、権利侵害で訴えてもよい。

 が、この問題だけは、いくら父親を説得しても、意味はない。先にも書いたように、そ
れは脳のCPUにも関係する、意識の問題だからである。仮に頭で理解しても、いざそれ
をするとなると、父親にとっては、それは苦痛でしかない。かえってストレスがたまると
いうことにもなりかねない。無理に強制することは、できない。

 そこで意識改革ということになるが、先に書いた話に戻ってしまったので、このテーマ
は、また別の日に考えることにする。
(030621)

++++++++++++++++++++++
もう一つ、おまけに……
以前こんな原稿を書いた。中日新聞掲載済み
++++++++++++++++++++++

仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務
省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけ
に、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪わ
れた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京
から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざま
な苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのた
めにゆがめられた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくら
でもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日
本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、
周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第2小法廷は、1999年の9月、次のような
判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えてい
ない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何
をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言
った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに
答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、ア
メリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜ん
で」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに
積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本
が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

++++++++++++++++++++++

みなさん、力をあわせて、日本人の意識改革を進めましょう!

++++++++++++++++++++++

●家庭は少女の監獄であり、婦人の矯正所。(バーナードショー「革命主義者のための格言」)

++++++++++++++++++++++

 夫婦が夫婦であるためには、絶対的な一体化が必要である。「絶対的な」というのは、「疑
いすらもたない」という意味である。

 しかしこの一体化は、一方的なものであってはいけない。よくあるのは、夫だけが、「私
たち夫婦は、一体化している」と思いこむケース。妻の心は、とっくの昔に夫から離れて
しまっている。が、夫は、それに気づいていない……。

 先日、「記憶の棘(いばら)」という映画(DVD)を見た。その映画の中では、夫婦の
心のすれちがいが、伏線として、ひとつのテーマになっていた。

 ……ジョギング中に、夫は、心臓発作か何かで倒れる。妻は、未亡人として、それから
10年近く、亡き夫をしのんで過ごす。映画はここから始まるが、しかしその夫には、心
臓発作か何かで死んだとき、別に、愛人がいた。その愛人とは、妻との離婚を話し合って
いた。知らなかったのは、妻だけだけ……という伏線である。

 「私たちはすばらしい夫婦だった」「私たちは愛し合っていた」と思いこんでいる妻。し
かし肝心の夫は、別のところで、すでに離婚話を進めていた。……というわけである。

 そこで、では、私たちは、どうなのかということ。「私たち」ではなく、「私」はどうな
のかということ。

 ワイフの心の中まで、私はのぞくことはできない。だからひょっとしたら、ワイフも同
じように思っているのかもしれない。今は、夫婦として、私に同調しているフリをしてい
るだけかもしれない。別のところで、離婚の準備をしているかもしれない。

 しかし私は、最近は、それでも構わないと思うようになっている。今まで、ワイフは、
私によくしてくれた。もう、じゅうぶんすぎるほど、じゅうぶんなことをしてくれた。だ
からワイフが、「これからはひとりで生きたい」と言えば、私としては、ワイフにそうさせ
てやりたい。私自身は、ひとりで生きていく自信はないが、それに応ずるしかない。

 だからときどき、私のほうからワイフに、こう言う。「ぼくと、離婚したくないか?」「離
婚したければ、離婚してもいいんだよ」と。

 そのつどワイフは笑いながら、「そんなこと、考えてないわよ」と言う。が、私は、そう
いうワイフを信じていない。本当はどうなのか、私にはわからない。私が反対の立場なら、
つまり私が私のワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。

 それが自分でもよくわかっている。

 しかし今度ほど、「夫婦も、つきつめれば他人なんだなあ」と、考えさせられたことはな
い。身近な、本当に身近なところにいる夫婦の離婚話だけに、ショックも大きかった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 離婚 離婚率 日本の離婚率)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(5月9日)

++++++++++++++++

今朝の私の精神状態は、
あまりよくない。

ささいなことで、すぐイラつく。
Ca、Mg不足か?

昨晩は、寝る前に、米はざしを
食べた。そのためだろう。夜中に
のどがカラカラに乾いた。

そのせいか?

ともかくも、こういうときは、
ひとり、静かにしているのがよい。

++++++++++++++++

 精神が緊張状態になると、ささいなことにピリピリと反応するようになる。そういう状
態の中に、不安や心配が入り込むと、その不安や心配を解消しようと、精神は、一気に不
安定になる。

 情緒不安のメカニズムはこうして説明される。

 ……今朝の私は、目をさましたときから、その緊張状態にある。Ca、Mg不足か? 昨
晩は寝る前に、米はざしでできた、ボールを食べた。3個も食べた。そのためだろう。夜
中に、のどがカラカラに乾いた。そのせいかもしれない。

 こういうときというのは、文を書いても、よい文は書けない。何を書いても、イラつく。
そのイラつきが、そのまま文になってしまう。だから本当は、文も書かないほうがよい。
読んでくれる人を、不愉快にするだけ。

 こういうときは、楽しいことを考えよう。


●リス

 家の前には、衛星写真でもはっきりとわかるほどの森がある。その森にリスが移り住む
ようになって、もう10年近くになる。最初のことは餌をまいたりしてやった。しかしリ
スというのは、たいへんな害獣である。

 リスのおかげで、小鳥たちが巣を作らなくなった。今のところ「害」といても、その程
度だが、リスというのは、シッポの大きなネズミと思えばよい。

 そのリスが、朝早くから、キュ、キュ、キュと小刻みに鳴く。今も鳴いている。そのリ
スについて、こんなエッセーを書いたことがある。日付をみると、02年の9月とある。
この原稿を書いてから、もう5年もなる!

+++++++++++++++

●カラスとリス

 私の家の庭は、不思議な庭で、浜松市内からそれほど遠くないところにあるのに、さま
ざまな動物が住んでいる。何種類かの野鳥のほか、イタチやリス、ハクビシンやタヌキな
ど。ときどき、サルやアライグマもやってくる。ホント! 

 その中のリス。リスが私の家の庭に住み始めたのは、ここ数年のこと。ワイフは最初、
それを喜んだ。リスがやってくるたびに、「リスよ、リスよ」と。こうした動物のほとんど
は、もともと人間に飼われていたのが、逃げたとか、捨てられたとか、そういうものらし
い。種類はわからないが、結構大型のリスで、体長は、体だけで(尾の長さは別として)、
30センチくらいはある。ときどき、つがいで来たり、子ども(?)だけで来たりした。
私たちは、いつしか、そのリスにエサを与えるようになっていた。

 一方、カラスもよく来る。家の前には、このあたりでも最大級のシイの木がある。もと
もと何百年もつづいた旧家の墓地があったところだ。が、このカラスはうるさい。ゴミの
収集日を覚えていて、その日の朝になると、まだ暗いうちから、5、6羽単位でやってき
て、カーカーと鳴く。それで私は、カラスが嫌いだった。が、カラスを嫌う、本当に理由
は、もうひとつある。

 私の庭には、いつも野鳥がいる。キジバト、ヒヨドリ、ツグミなど。ときどき、コジュ
ケイもやってくる。フクロウもやってくる。その季節になると、モズやメジロ、ほかに文
鳥によく似た鳥など。私自身も、庭に鳥小屋をつくり、多いときは、その中で、10羽以
上の小鳥やハトを飼ったことがある。が、ヘビやネコに襲われることが重なり、それで小
屋で飼うのをやめてしまった。で、そういう習慣が残っているのか、野鳥にエサを用意す
るのが、いつのまにか、私の日課のようになってしまった。カラスは、そういう野鳥の、
天敵である。

 が、あるときから、一羽のカラスが、私の庭に住みつくようになった。子どものカラス
かと思えるような、小さなカラスだった。鳴くこともなかったので、私はしばらく様子を
みることにした。いや、内心では、いつか追い出してやろうと思っていたが、それが1か
月、2か月となるうちに、そのカラスがいることには、慣れてしまった。いつ見ても、松
の木の小枝にとまっていて、ときおり庭へおりてきた。カラスのほうから、私たちに近づ
いてきたというのか、そのうち、私たちが庭にいても、すぐそばで平気でエサを食べたり
していた。ハトのためにまいたエサだった。

 一方、最初は歓迎したリスだが、そのリスが庭に住みつくようになると、野鳥の数がめ
っきりと減った。が、そのときはまだ、リスが野鳥の巣を荒らすということは知らなかっ
た。たしかにリスは、木登りがうまい。細い小枝でもスルスルと登って、そこからつぎの
木へ、ひょいと飛び移る。みごとなものだ。

しかし野鳥の巣を荒らすとわかってからは、それはずっとあとになってからのことだが、
見方が変わった。それまではかわいいと思っていたリスだが、どこか大きなネズミに思
えてきた。確かにリスは、尾のついたネズミと考えたほうがよい。畑を荒らすというこ
とも考えるなら、ネズミよりも、タチが悪いかもしれない。私たちはそのうち、エサを
出すのをやめた。

 どうこうしている間にも、カラス、……私たちは「ハグレガラス」という名前をつけて
いたが、そのカラスは、ますます私たちに近づいてきた。しかしそれまでの習慣というか、
先入観というか、私たちはどうしてもそのカラスが好きになれなかった。庭で視線があう
たびに、「シーシー」と追い払った。しかしあのカラスというのは、本当に頭がよい。私た
ちの攻撃の範囲外スレスレのところにいて、好き勝手なことをしていた。そしてその頭の
よい分だけ、ほかの野鳥にはない、「つながり」ができた。もし餌づけをしようと思えば、
いくらでもできただろう。私の手から直接、エサを食べることだって、したかもしれない。
が、私はどうしても、そのカラスが好きになれなかった。実のところ、そのときは、野鳥
の数が減ったのは、リスではなく、カラスのせいだと思っていた。

 そこである日のこと。暑くなり始めた初夏のころだと思う。近くのコンビニに行くと、
小さな袋に入ったロケット花火を売っていた。私は一袋、買った。カラスを追い払ってや
ろうと考えた。が、その日はなかなか、こなかった。集団でやってくるカラスと違い、そ
のハグレガラスは、静かなカラスだった。それに先にも書いたように、体が小さかった。
同情はしなかったが、職業がら、小さいカラスを攻撃するのは、気がひけた。が、ある日、
そのときはやってきた。

ヒヨドリのために置いたパン屑を、そのカラスが食べていたのだ。「道理でヒヨドリが来
なくなったはずだ」と思ったとたん、怒りが充満してきた。私はビンに花火を入れると、
ライターで、それに火をつけた。カラスは、私のほうを見ていたが、どこか親しげな目
つきだった。「やめようか」と思ったが、もう間にあわなかった。花火は勢いよく、ビン
を離れた。

 リスのほうはあい変わらず、私の庭へやってきていた。そして、いつの間にか、ワイフ
が植えた、ポポーやクルミの実を食べ始めた。フェイジョアや柿も全滅状態になった。「リ
スというのは、たいへんな害獣」と気がついたときには、遅かった。そのころには、すっ
かり庭の住人になっていた。「追い払うといっても、方法がないからね」と、ワイフが不平
を言うようになった。「そうだ、あいつは木登りをするネズミだ」と、私。花火を使うこと
も考えたが、そうすれば、野鳥も逃げてしまう。木の実だけではない。野鳥の巣を襲う!
 そのころやっと、テレビで報道されて、それを知るところとなった。

 花火はカラスめがけて、一直線に飛んでいった。そしてカラスを飛び越えたその先で、
パンと爆発した。カラスは、一瞬何がなんだかわからないといった様子を見せたが、どこ
かおもむろに、飛びあがった。私はカラスを追いかけた。カラスは、電線に止まった。と、
そのとき、また視線があった。私に背中を向けていたが、カラスは、じっとそのままの姿
勢で私を見つめた。私も見つめた。時間にすれば、10秒前後のことだったかもしれない
が、私には長い時間に思えた。カラスは、「どうして、そんなことをするのか?」という表
情を見せた。どこか、さみしそうな目つきだった。が、私が大きく手を振ると、そのカラ
スは再びおもむろに飛び去っていった。

 リスのほうは、食べるものがなくなり、エサも与えなくなってからは、姿を見ることが
ほとんどなくなった。「ドングリが落ちればまたくるわね」とワイフは笑っているが、それ
までにはまだ少し間がある。またカラスのほうは、つまりあのハグレガラスは、それから
は姿を見せなくなった。が、どういうわけだか、今、私はとんでもないまちがいをしたの
ではないかという気持ちに、さいなまれている。リスにエサをあげたのは、ともかくも、
その反対の立場で、あのハグレガラスに花火を放ったことを、だ。思い出してみると、実
に、親しげなカラスだった。この20年間で、庭にやってくる動物や野鳥の中で、唯一私
たちに心を許した動物だったかもしれない。私は、その「つながり」をみすみす、自分で
つぶしてしまった。

 今もときどき、庭を見る。見ながらあのカラスをさがす。いつもいたのは、松の木の上
だったが、それ以後、その枝にハグレガラスを見たことはない。ただ心の中では、「たとえ
やってきても、前のようには近くまではこないだろうな」と思う。あるいは「一度、破壊
された関係は、もう戻らないだろうな」と思う。そう思いながら、その松の木を見る。そ
してそのたびに、私という人間の、きわめて身勝手な気まぐれを、つくづくと思い知らさ
れる。
(02−9−28)

+++++++++++++++

このエッセーの中で、私は、「イタチやリス、ハクビシンやタヌキなど。ときどき、サル
やアライグマも来る」と書いた。たった5年前のことである。

 しかしここ数年、リス以外は、見かけなくなった。このあたりも、空き地がほとんどな
くなった。そのせいかもしれない。そのうちリスもいなくなるかもしれない。そう考える
と、何だかさみしい気もする。

+++++++++++++++

●気分

少し気分をもちなおしたところで、
改めて、今朝の雑感。

……このところ新しいパソコンの設定などに
追われて、ほとんど原稿を書いていない。
書きたいテーマはいくつかあるが、
どれも小さな問題ばかり。考えていても、
頭がいっこうに熱くならない。

「どうでもいいや」という投げやりな
気持ちも強い。こういうときはワイフと
散歩に行くのがよい。が、あいにくと今朝は、
そのワイフがいない。

クラブに出かけている。
私はこうして、ひとりで、パソコンに
向かっている。
Bista・Ultimate搭載の
ものすごいパソコンである。

たしかにすごい。以前のXpより、数段、
進歩した感じがする。使えば使うほど、
その思いを強くする。

で、まず補足しておきたいのが、韓国の「東海
(トンヘ)」問題。

韓国の新聞は、連日、この「東海」問題
をとりあげている。

彼らの言い分は、こうだ。

「日本海は、2000年も前から『東海』と
呼ばれていた。アジア大陸の東にあるから
そう呼ばれていた。だから日本海は、東海
であるべき」と。

何度も書くが、韓国にとっては東海かもしれ
ないが、日本にとっては、東海ではない。
北海である

さらに韓国では、東シナ海を「西海」と呼んで
いる。ならばどうして東シナ海も、「西海」と
呼ぶ運動を、いっしょに起こさないのか。
東シナ海は、東シナ海のままでよいのか。

だいたい2000年も前から……という話が、
あやしい。いくら韓国ではそうであっても、
それは日本の話ではない。「アジア大陸の東」と
いうが、アジア大陸の東にある海は、日本海では
なく、太平洋である。

だったら、太平洋を、東海と呼べばよい。

ともかくも、どこからどう考えても、
韓国側の言い分は、おかしい。

前にも書いたが、『坊主憎ければ、袈裟まで
憎い』ということか? 韓国の人の意見を
聞くときは、どこからどこまでが感情論かと
いうことを、慎重に見極める必要がある。
彼らと議論していると、その感情論が、
ウズのようになって、いたるところに
入り込んでくる。

教科書検定問題、首相のY神社参拝問題、
慰安婦問題などなど。今回の「東海」問題も、
そうした大きなウズの中にある。

ともかくも、韓国も日本、日本と、いつまでも
日本にこだわらないで、もう少し広い視野で世界を
見たらよい。

……とうことで、少しイライラが解消した。

皆さん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●モバイル人間

+++++++++++++++

携帯電話を手放せない人は多い。
そういう現象は、若い人たちだけの
ものかと思っていたら、結構、年配の
人でも、そういう人がいる。
それを知り、驚いた。

私が知っているのは、50歳近い女性だが、
携帯電話を家に忘れた日は、仕事をサボってでも、
それを取りに帰るという。

「携帯電話がないと、不安でならない」、
ということらしい。

+++++++++++++++

 携帯電話を中心に、携帯電話でつながる世界を、「モバイル空間」と呼ぶ。そしてそのモ
バイル空間で、いつも携帯電話を手放せない人を、モバイル人間と呼ぶ。いくつかの特徴
がある。その中でも、もっとも重要なのが、「今」の共有。

 携帯電話を手放せない人たちは、いつも、こういうやりとりをしている。「今、どこにい
る?」「今、何をしている?」「今、どう思っている?」と。過去や未来の話ではない。い
つも、「今」を話題にする。「今」の話をする。

 つまりそういう形で、「今」を共有する。と、同時に、自分の「今」を、相手に共有させ
る。こうして自分と相手の「今」を、つなぐ。

 ……という話は、常識で、ここでは、その先を考えてみたい。

 携帯電話が現れる前までは、通信手段と言えば、固定電話と手紙しかなかった。固定電
話というのは、家の中のどこかに固定してある電話機をいう。

 だから他人とコミュニケーションを取るといっても、今から思うと、恐ろしく時間がか
かった。お金もかかった。相手が外国に住んでいたりすると、手紙だと、航空便でも、往
復2週間。電話代も高かった。1970年当時、オーストラリアへ電話をすると、5〜1
0分話しただけで、1000〜2000円ほどかかったように記憶している。今の貨幣価
値に換算すると、5000前後くらいか?

 それが今では、瞬時、瞬時に、ことが進む。インターネットがそれに拍車をかけた。

 こうした時代の変化の中で、私たちがもつ意識も、確実に変わりつつある。思いつくま
まで恐縮だが、それを並べてみる。

(1)短絡性(深く、時間をかけて考えることができない。)
(2)大量性(一度にたくさんの友人と連絡を取りあう。)
(3)速効性(今の問題は、今、解決しようとする。)

 こうした意識の変化の中で、(4)言葉そのものが変質しつつある。モバイル用語という
のがあって、モバイル世界では、モバイルの世界でしか通用しない、独特の言い回しがあ
る。

 さらに(5)新種の孤独感、疎外感が生まれつつある。モバイル世界そのものが、ある
種の共同体を形成し、その共同体から疎外されることによって生まれる、孤独感や疎外感
である。

 携帯電話がない時代には、人間と人間の間には、(時間)というクッションがあった。そ
のクッションのおかげで、自分を見つめなおすことができた。反対に、相手との関係を調
整することもできた。

 が、今は、携帯電話を使って、人間が、(群れ)となって集団行動を繰り返している。言
うなれば、太古の昔、人間がまだ魚だったころの群れ意識を、(多分?)、携帯電話によっ
て、呼び覚まされたということになるのか。わかりやすく言えば、人間は携帯電話により、
再び「個」を喪失しつつある。

 「今」を共有できる人間どうしが集まって、群れをつくる。同じ行動をし、同じことを
考える。そして同時に、その群れに入らないものを、差別し、排斥する。が、同時に、自
分がその群れからはずれされることを恐れる。それがここでいう新種の孤独感と疎外感を
生み出す。

 私の知人の中には、携帯電話を家に忘れると、仕事をサボってまで、それを取りに帰る
女性がいる。20代や30代の若い人ではない。今年、その女性は、50歳くらいになる。
その女性も、こう言う。

「携帯電話がないと、不安でならない」と。

 理由を聞いても、それがよくわからない。「どうして?」と聞くと、「とにかく、不安に
なる」と。

 たかが通信手段ではないのか? 携帯電話がなければ、固定電話機をさがせばよい。あ
るいはその前に、それほどまでに緊急な用事というのは、そうはない。その通信手段が、
本来の通信手段というワクを超えて、人間の心理にも大きな影響を与えつつある。

 大切なことは、仮に携帯電話をもち歩くとしても、それがもつ弊害を理解しながら使う
ということ。決して、「群れ意識」の中で、自分を見失ってはいけない。自分という「個」
を見失ってはいけない。

 さらに言えば、表面的な情報に操られるまま、操られてはいけない。

 そこで、(6)として、つぎのことを書き足す。

 個の喪失と、思考の浅薄化、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
モバイル世界 モバイル人間)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●作られる老人

+++++++++++++++

老人は、自ら老人になるのではなく、
周囲の人たちによって、老人に
仕立てられていく。

そのプロセスは、発達心理学でいう
役割形成にたいへんよく似ている。

たとえば男児は、いつの間にか
男児らしくになっていく。女児は、
いつの間にか女児らしくなっていく。

同じように、加齢とともに、
老人は、いつの間にか、老人らしく
なっていく。

ああ、いやだ!

+++++++++++++++

 いくら抵抗しても、それは打ち寄せる波のように、やってくる。やってきて、私を老人
に仕立てていく。

 最初は、それなりに抵抗する。「私は老人ではない!」と。しかし打ち寄せる波には勝て
ない。そのうち抵抗するのもめんどうになり、あきらめる。受け入れる。

 で、私は4、5年前から、自分の年齢をごまかすようになった。本当の年齢から、10
歳引いた年齢を、自分の年齢にしていた。が、世の人たちは、そういうごまかしを見過ご
してはくれない。私が「45歳です」とでも言おうものなら、すかさず、「そんなはずはな
いでしょう」と、言い返してくる。

 どうしてだろう? よほど寛大な人でも、他人の年齢には、うるさい。ウソを許してく
れない。つまりこうしてそのつど、私は、自分の年齢を思い知らされる。

 が、これは何も、他人だけの責任ではない。今朝、ワイフとこんな会話をした。ワイフ
がこう言った。「私の知っている人で、若いのに、脳梗塞になった人がいる」と。

私「いくつ?」
ワ「43歳だってエ」
私「43歳? ……そんな若さでエ?」と。

 わかるだろうか? 私自身が無意識のうちにも、43歳という年齢を、「若い」と表現し
ている。おそらく、20代、30代の人たちから見れば、43歳の人というのは、オジン、
あるいはオバンに見えるだろう。私も、20代、30代のころは、そう思っていた。

 しかし私は、43歳の人を若いと言う。言いながら、私は自分自身を、老人の世界に押
し込んでいる。「私は私」と思っていたが、その私が知らぬ間に、自分自身を老人に仕立て
ている。この現象は、子どもたちが見せる、「役割形成」という現象に、たいへんよく似て
いる。

 たとえば男児は、とくに何かを教えたというわけでもないのに、成長とともに、やがて
男児らしくなっていく。女児は、やがて女児らしくなっていく。その子どもを包む、周囲
の環境が、男児を男児らしくし、女児を女児らしくしていく。そして最終的には、男児は
男児としての役割をもち、女児は女児としての役割をもつようになる。

 これを「役割形成」という。

 同じように今、私は、自ら、老人らしくなりつつある。それにはいくつか理由がある。

 私の周囲の同年齢の人たちにしても、そのほとんどが、リストラや退職で、現役を退き
つつある。病気になったり、離婚した人も多い。すでに亡くなった人もいる。そういう人
たちの様子を見聞きしていると、「私だけはちがう」と思いたくても、思えなくなる。「明
日は我が身かな」となる。

 それはものすごいパワーと言ってもよい。たとえて言うなら、大きな海流の中で、ひと
り、泳ぐようなもの。情け容赦なく襲いかかってきては、私の中の(私)を押しつぶして
しまう。

私「じゃあ、どうしたらいいのかねエ?」
ワ「簡単よ」
私「……?」
ワ「あのね、そういうジジ臭い人たちとは、付きあわなければいいのよ」と。

 ナルホド!

私「しかしね、まわりの人たちは、みな、そういう目でぼくを見るよ」
ワ「どんな目?」
私「生徒たちですら、『先生は、もうすぐ定年退職するの?』と聞くよ」
ワ「いやア〜ネ〜」
私「本当にいやになるよ。きっと家の中では、親とそんな話ばかりしているんだろうね」
と。

 しかし、ここで負けるわけにはいかない。私は闘う。どこまでも闘う。私は、まだ老人
になるわけにはいかない。役割形成など、クソ食らえ! だれが老人らしくなんか、なっ
てやるかア!

 ……と力んだところで、この話はおしまい。今日も、それは打ち寄せる波のように、や
ってくる。やってきて、私を容赦なく、老人に仕立てていく。

【付記】老齢期の統合性

 何度も書いてきましたが、結局は、この問題に行き着きます。つまり「老齢期の統合性」
の問題です。

 いかにすれば私たちは、老齢期を迎えたとき、(自分のすべきこと)を自覚し、それに向
かって自分を一致させることができるか。(すべきこと)と(していること)が、統合して
いる人は、心豊かで、充実した老後を送ることができる。そうでない人は、そうでない。
つまり、統合性を確立しているかどうかで、自分の老齢期のあり方が決まります。

 その統合性がないと、それこそ本当につまらない老後を送ることになってしまいます。
することといえば、孫の世話と、庭いじりだけ……。そんな老後です。何としても、そう
いう老後だけは避けたいですね。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●荷おろし症候群

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目的の学校(中学、高校)に無事、
入学をはたしたとたん、勉強面で、
無気力になってしまう子どもは、
多い。

勉強面なら勉強面だけで無気力に
なるという点で、いわゆる燃え尽き症候群
(バーント・アウト)とは区別される。

称して、「荷おろし症候群」。

今、そういう子どもがふえている。
程度の差もあるが、たとえば中学
入学の段階で、約20%前後の子ども
がそうなる。

+++++++++++++++

 受験という緊張感から解放されたとたん、勉強面なら勉強面だけで、無気力になってし
まう子どもがいる。ほかの遊びや、クラブ活動のほうは、それなりにがんばる。しかし「勉
強」となっただけで、それから逃げてしまう。やる気を示さない。

 ちょうど荷物をおろしたような状態、つまりそのとたん、疲れがドッと出て、その場で
へたりこんでしまうような症状に似ているところから、「荷おろし症候群」と呼ぶ。特徴と
しては、つぎのようなものがある。

(1)虚脱感(目的を見失う。目的がもてない。)
(2)無気力感(やる気が起きない。)
(3)倦怠感(ぼんやりと、無益に時間をつぶす。)
(4)疲労感(何をしても、疲れる。)
(5)集中力欠如(集中力がつづかない。)
(6)現実逃避性(現実から逃避しようとする。)

 もともと勉強に対して、受動的だった子どもほど、そうなりやすい。親に言われて、勉
強した子どもや、受験塾などで、脅されながら勉強した子どもなど。程度の差もあるが、
全体的にみると、たとえば中学に入学した段階で、約20%前後の子どもが、そうなる。
あるいはもっと多いかもしれない。

 が、表面的には、それほど変わらない。それだけに、家族の人も、それに気がつくとい
うことがない。「うちの子はだいじょうぶ」と考えて、見過ごしてしまう。また先にも書い
たように、勉強面だけで無気力になるという点で、燃え尽き症候群(バーント・アウト)
とは、区別される。

 しかし決して、軽く考えてはいけない。荷おろし症候群にしても、脳の機能そのものが
変調して起こると考える。重いばあいには、そのまま燃え尽き症候群へと進んでしまうこ
ともある。

 ではどうするか……という問題よりも、ここでは、ではどうすれば、こうした子どもの
問題を防ぐことができるかということを考えてみたい。

 ほとんどの親は、(おそらく、あなた自身も)、「いい学校へ子どもを入学させるのは、子
どものため」と考えている。しかしこれがとんでもない誤解! そのことは、自己同一性
の視点から考えてもわかる。

 子どもが何かの(目的)をもって、その(目的)に向かって努力することは、大切なこ
とである。たとえば「ケーキ屋さんになりたい」と思って、お菓子作りの勉強をする、な
ど。

 このばあいは、(自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致している。

 しかし「いい学校へ入る」というのは、ここでいう(目的)ではない。私は「擬似目的」
と呼んでいる。言うなれば、魚を釣るときの、ルアー(擬餌)のようなもの。目的の学校
に入学したとたん、その目的を見失ってしまう。「入学したからどうなの?」という部分が、
ない。ないから、入学したとたん、目的を見失ってしまう。

 しかもたいていの子どもは、受験塾などで、受験勉強を繰りかえしている。そこは「成
績」という数字だけの世界。その数字に脅されて勉強を強いられる。もし反対に、そうい
う世界が楽しいと言う子どもがいたら、その子どもの人間性を疑ってみたほうがよい。

 まともな子どもほど、そういう世界になじまない。なじまないまま、受験競争を強いら
れる。そしてこういう状態が、1年とか2年もつづく。荷おろし症候群というのは、まさ
にその結果として起こる。

 ではどうするか?

 子どもには子どもの能力とリズムがある。その能力とリズムを、的確に見分け、知る。
すべてはここから始まる。それを無視して、「うちの子はやればできすはず」「うちの子は、
こんなはずはない」と、子どもをたきつけても、意味はない。

 以前、私は『伸びたバネは、縮む』という格言を考えた。子どもの能力というのは、ま
さにそうで、無理をして引っ張っても、力を抜いたとたん、もとに戻ってしまう。仮にそ
れで中学受験はうまくいったとしても、今度は、高校や大学受験でつまづく。その時点で、
ここでいう荷おろし症候群を示したり、ばあいによっては、燃え尽き症候群を示したりす
るようになる。

 子どもの能力を競馬にたとえるのは、不謹慎なことかもしれないが、それは、第1レー
スと第2レースで勝っても、第3レースで、あり金すべてを失ってしまうようなもの。要
するに、無理をしても意味はない。

++++++++++++++

以前、何度もこのテーマについて
は書いてきました。

それらの原稿を添付します。

++++++++++++++

●燃え尽き症候群と、荷おろし症候群

 ふと、今、燃え尽き症候群と、荷おろし症候群は、どこがどうちがうか、それを考えた。

 燃え尽き症候群の最大の特徴は、無気力感と脱力感。しかし荷おろし症候群の最大の特
徴は、目的の喪失である。症状としては、よく似ているが、(実際には、区別できないが…
…)、中身はちがう。

 たとえば(明日のジョー)は、がんばりすぎて、そのあと、燃え尽きてしまった。(明日
のジョー)は、燃え尽き症候群の典型例として、よく話題になる。

 しかし荷おろし症候群のばあいは、目的そのものをなくす。何かの目的を果たしたあと、
いわば、宙ぶらりんの状態になる。まったくの無気力状態になるわけではない。ただ、心
に大きなすき間ができるため、誘惑などにもろくなる。

 こうした現象は、大学生を見ていると、よくわかる。

 猛勉強に、猛勉強を重ね、有名一流大学に入学したあと、燃え尽きてしまう学生もいれ
ば、燃え尽きはしないが、何をしてよいかわからず、遊びまくる学生もいる。後者が、荷
おろし症候群の学生ということになる。

 こんな定義をしても、実際には、あまり役にたたないが、今、ふと、そんなことを考え
た。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があ
っても、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引
き出す方法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き
出さねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イ
ギリスの格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』
というのがある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、
何かのことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちにな
る。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親
の私が、子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すこ
とができるかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロー
ルしているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよ
い信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モル
ヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大
脳からのほどよい信号こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何ら
かの心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」
「できたア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、
いつも子どもが感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたの
では、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、
その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そし
ていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらし
い」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上
の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。
ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわ
けで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、
プラスマイナス・ゼロになるということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というの
が条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で
一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気
を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方す
らできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよ
い。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れ
ていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってく
る。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポ
ーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、
子どもを指導し、伸ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるように
なる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知ら
れた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などが
ある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうし
た症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子
育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、す
べて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端
な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、
2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうする
ことによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や
大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボー
ッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、
10〜15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少
なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほ
うだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。そ
の無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどう
か?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変
化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくな
る」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気
を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。そ
の秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、
お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」とい
う思いが、子どもを前にひっぱっていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになること
に、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感
を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切
そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未
来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
外発的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ 荷おろし症候群 
荷下し症候群)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●損

+++++++++++++++

心が広いかどうかは、
「損」に対する、寛大さで決まる。

「損」に対して、寛大な人を、
心の広い人といい、そうでない人を、
心の狭い人という。

言いかえると、人は、損に損を重ねることで、
心を広くすることができる。

+++++++++++++++

 人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。人は、その死によって、すべて
を奪われる。失う。名誉も地位も、そして財産も!

 ところでその人の心が広いかどうかは、「損」に対する寛大さで決まる。損に対して寛大
な人を、心の広い人といい、そうでない人を、心の狭い人という。

 いいかえると人は、損に損を重ねることで、自分の心を広くすることができる。そのこ
とは、反対に、そうでない人を見ればわかる。俗にいう「ケチな人」というのが、それで
ある。

が、ここで誤解してはいけないのは、「ケチな人」というときは、何も、お金(マネー)
だけの問題ではないということ。先日、介護の会に出たとき、こんな話をした女性(6
0歳くらい)がいた。その女性もまた、今年85歳になる母親の介護を、自宅でしてい
るという。

 その女性には、一人、妹がいるの。が、その妹は、母親の介護を、まったく分担しよう
としないという。費用分担はもちろんのこと、ときどき世話を頼むのだが、そのつどあれ
これ口実をつくっては、それから逃げてしまうという。

 「妹は、自分の時間が取られたり、自分の生活のリズムが崩されるのがいやみたいです」
と。

 ここでいうケチな人というのは、生活に対する姿勢が、防衛的な人のことをいう。もの
の考え方が、利己的で、かつ自己中心的。もちろん他人のためには、ほとんど何もしない。
いや、することはあるが、たいていは自分をよく見せるための仮面。たとえば町内で祭り
の世話などは、よくするが、それもどこか打算的。その女性は、そう言った。

 そこで「損」、ということになる。

 もちろん、だれしも損はしたくない。お金はもちろんのこと、時間にしてもそうだ。さ
らに苦労もしたくない。しかし損というのは、自動車のハンドルの(遊び)のようなもの。
(遊び)があるから、自動車を運転することができる。(遊び)がなかったら、運転するこ
とはできない。

 たとえばあなたの近くに、こんな人がいたとしよう。男でも、女でもよい。その人は、
一日中、家の中にいて、自分の好きなことをしている。庭いじりに、家庭菜園。人と会う
こともしないし、町内のつきあいもしない。もちろん訪れる人もいない。

 近所の子どもが庭へ入ってきただけで、それを不愉快に思う。だから、塀の外に、もう
一本、別の柵をつくる。が、それだけではない。

 その人は、道路に落ちているゴミひとつ、拾おうとしない。となりに空地があり、その
季節になると雑草が生い茂る。それについても、逐一(ちくいち)、市役所に苦情を申し立
てたりする。あるいは自分の家の前の道路に、だれかが自動車を駐車したりすると、すぐ
パトカーを呼ぶ、などなど。

 あなたの周囲にも、ひょっとしたら、そういう人がいるかもしれない。しかしそういう
人を、だれも心の広い人だとは、思わない。心の狭い人という。

 しかしそこの「死」を感ずるようになると、ものの見方が一変する。「生」というのは、
たとえて言うなら、光り輝く白い世界。が、その光り輝く白い世界だけに住んでいると、
その(輝き)がわからなくなる。

 その(輝き)は、(死)という暗黒の世界をうしろにおいたとき、それがわかる。闇の世
界があるからこそ、光の世界に輪郭(りんかく)ができる。闇の世界がなければ、影すら、
できない。冒頭に書いたように、人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。
「損」という言い方に語弊があるなら、こう言いかえてもよい。

 やがて襲い来る「死」という「損」の前で、何が、「損」なのか、と。つまり私たちが生
きている間は、その生きていることにまさる価値はない。「損」、そのものが存在しない。

 だから「損」を考えるほうが、おかしい……ということになる。わかりやすく言えば、
あなたの身のまわりのものすべて、そして身近にいる人すべてが、あなたに何かを教える
ためにそこにあり、そこにいる。そこであなたがすべきことは、己(おのれ)の中の善の
心に耳を傾けて、それに従っていきるということ。

 あとのことは、あとに任せればよい。(生きている)ことを無限の価値とするなら、あな
たが「損」と考えるようなことは、その一部にもならない。ゴミのようなもの。そんなゴ
ミに左右されて、迷ったり、悩んだりするほうが、おかしい。気分をクシャクシャさせる
ほうが、おかしい。

 もちろん自ら損をすることはない。大切なことは、心のどこかで「損」を感じたら、そ
のときこそ、あなたはつぎのステップへの階段を昇るときだと思えばよい。つまりそのと
き、「いやだ」と思えば、あなたはいつまでも凡人のまま。しかし笑って過ごせれば、あな
たはすでにそのとき、つぎのステップに昇ったことを意味する。

 私も、過去において、とくに金銭的な意味では、損ばかりしてきた。取られることはあ
っても、もらったことは、ほとんど、ない。ワイフの父親が亡くなったとき、遺産(?)
として、現金10万円をもらった。あとにも先にも、人からお金をもらったのは、そのと
きだけ。

 しかし私はあるとき、こう考えた。

 「健康で今まで、生きてきた。それにまさる価値はない」と。とたん、気が晴れた。ス
ーッとした。大切なことは、いつまでも前向きに、光り輝く白い世界に向かって生きるこ
と。「損」だとか、「得」だとか、そんなことを考えるほうが、おかしい。そんなヒマがあ
ったら、とにかく足を前に一歩、踏み出すこと。

 繰りかえすが、あとのことはあとに任せればよい。

【付記】

 どうしても話は、介護のことになってしまう。たしかに家の中に、老人がいると、自分
の行動が制約される。私のばあいも、母と同居するようになって、1泊旅行というのが、
ほとんどできなくなった。

 もっとも、それができなくなったというわけではない。ケア・マネージャーの人に頼め
ば、あれこれと骨を折ってくれる。ケア・センターのほうで、母を預かってくれる。

 そんなとき、ふと、こう思う。「母のおかげで、好きなことができない」と。

 しかしものごとには、いつも両面がある。(何でも好き勝手なことができる)という前提
で、今の自分を見ると、たしかに不自由である。しかし(何もできない)という前提で、
今の自分を見ると、私は自由である。(何もできない)状態というのは、最終的には(死)
を意味する。

 つまり自由、不自由ということは、あくまでも相対的なこと。何をもって自由といい、
何をもって不自由というか。さらに言えば、自由といっても、行動の自由、肉体の自由、
それに精神の自由がある。

 こと精神の自由に関していえば、だれも、またいかなるばあいも、私の自由は、制約さ
れることはない。肉体の自由も、健康である間は、そうである。精神の自由、肉体の自由
の前では、行動の自由など、大きな問題ではない。

 たまの日曜日だが、母の介護があって、何かの会合に出られないからといって、不自由
になったとは言えない。が、ここでいう「ケチな人」には、それがわからない。「自由がな
い」「自由がない」と、ことさら大げさに騒ぐ。あるいは取り越し苦労ばかりしている。

 しかし最初から「損」を計算に入れておくと、ものの見方が一変する。「損」を前提とし
て、生きる。そのほうが、気も楽。どうあがいたところで、やがて「死」は確実に、私や
あなたのところにやってくる。どうせそのとき、私やあなたは、すべてを失う。その「死」
と比較したら、今、私やあなたが経験している「損」など、何でもない。

 大切なことは、一日でも多く、一時間でも多く、「損」のことは忘れて、心朗らかに生き
ること。私はそう思う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●5月6日、雨

++++++++++++++++

今朝は、朝から大雨。雨戸をたたく
大粒の雨で、目がさめた。

時計を見ると、7時少し前。

あわてて起きる。起きて、家のあちこち
の窓を閉めなおす。

書斎も、窓の内側まで、ビッショリと
濡れていた。あぶなかった!

あと少しで、パソコンまで雨に濡れる
ところだった。

++++++++++++++++

●浜松祭り

 昨夜は、ワイフと2人で、浜松祭りを見に行ってきた。写真をたくさんとった。ビデオ
もとった。

 途中、何人かの知りあいに会った。あいさつをした。ついでに屋台で売っていた、焼き
そばを買った。食べた。結構、おいしかった。

 こと浜松祭りに関して言えば、浜松祭りは、(見て楽しむ祭り)というよりは、(参加し
て楽しむ祭り)。参加する人が主役で、それを見る人は、脇役でしかない。はっきり言えば、
観客など、どうでもよい。祭りをする人も、「見せてやろう」などという意識は、ほとんど、
ない。

 祭りをする人自身が楽しむ。それが浜松祭り。

もしみなさんも、参加する機会があれば、ぜひ、参加してみたらよい。おもしろさが、
数十倍になる。


●ビスタ

 昨日は、古いパソコンから、新しいパソコンへの引っ越しで、午前中がつぶれてしまっ
た。パソコンの引っ越しは、結構、たいへん。

 しかし今度のOSのビスタは、たしかにすごい。XPより、各段の進歩を遂げている。さ
きほど、OS付属のウィルススキャンをしてみたが、20〜30分ほどで終了した。XPの
ときは、市販のウィルス対策ソフトでスキャンしていた。そのときは、7〜8時間もかか
った。

 今のところ、新しいパソコンは、サクサクと、軽快に動いている。気持ちよい。


●今日で連休はおしまい

 私は、こうした連休中は、何も計画を立てないようにしている。旅行もひかえる。人に
会うのもひかえる。どこへ行っても、人また人。それに人と会うにしても、相手の人にも、
つごうがある。

 が、最終日に、この大雨……と思っていたら、今は、雨がやんでいる。シトシト雨に変
化した。先ほどワイフに、「あとで竹の子を見てくる」と言うと、「そうね」と。

 我が家の家の前は、大きな竹やぶになっている。毎年、連休中に、竹の子が出てくる。
雨後の竹の子というが、その雨が、今朝、降った。


●セカンド・ライフ

 今度、新しく、日本でも、「セカンド・ライフ」という、インターネット・サービスが始
まった。パソコン内部の、仮想現実の世界のことである。その世界の住民として登録する
と、その世界の住民として、生活(?)できるという。

 アメリカでは、たいへんなブームを呼んでいるという。実際、その世界で生活しながら、
お金を稼ぐこともできるという。大手の会社も、続々と進出してきている。

 今は雑誌でその情報を収集している段階だが、とてもおもしろそう。近々、私も、その
「セカンド・ライフ」に挑戦してみたい。つまりもう少し様子をみて、安全性が確実に確
認されたら、挑戦してみたい。


●仮想現実

 ここに(現実)がある。それに対して、パソコンの画面の現れる世界は、(仮想現実)の
世界である。一応、そういうことになっている。

 しかしこの(現実)にしても、それが本当に(現実)かどうかということになると、本
当のところ、確かではない。

 (ものが見える)ということにしても、本当は、脳みその後頭部にあるモニターに映っ
た像を、脳みそが「像」と判断しているだけにすぎない。音もそうだ。知覚という知覚、
すべてがそうだ。

 それに(私)と(他人)をへだてる(壁)にしても、その間には、酸素や窒素など、無
数の分子がぎっしりと詰まっている。たまたま(光)が、酸素や窒素を通過するため、こ
こに(私)がいて、そこに(他人)がいるにすぎない。

 この(私)にしても、どこからどこまでが本当の(私)であり、どこから先が、本当の
(私)でないか、よくわからない。よい例が、本能である。私たちのほとんどの行動は、
その本能によって支配されている。(私)ではなく、私でない(私)によって、だ。

 当然、精神も、その影響を受ける。影響を受けながら、「私は私」と思いこんでいる。よ
い例が、性欲。その性欲があるからこそ、男女は恋愛をし、結婚する。無数のドラマも、
そこから生まれる。どの人も、「私は私」と思って、そうしているかもしれないが、つまる
ところ、本能によって、動かされているだけ。

……ということで、本当のところ、(私)など、どこにもない。つまりこの(現実)のそ
のものが、仮想現実のようなもの。もっと端的に言えば、目の前の現実も、パソコンの
モニターに映る世界も、大きなちがいがあるようで、それほど、ない。


●K国は、なぜ預金を引き出さないのか?

 またまたBDAからの送金問題が、暗礁に乗りあげている。(預金の凍結解除問題)が、
いつの間にか、(送金問題)になってしまった。いつものことである。

 ひとつの問題が解決に向かうと、K国は、また別の新たな問題を提起してくる。日本語
では、そういうのを、「ゴネる」という。

 で、その送金先だが、K国は、当初は中国、つぎにベトナム、そしてそのつぎに、ロシ
アをイタリア、今は、アメリカを指定。一方、中国政府は、「あと、2、3日」「もう少し」
「来週中には解決」と、そんな言葉ばかりを繰りかえしている。

 しかし、こう考えてみてはどうだろうか。

 K国には、もうひとつ、BDA問題を解決できないというよりは、解決したくない理由
がある、と。

 もしBDA問題が解決したら、先の6か国協議で約束したように、Yビョンの核開発関
連施設を停止しなければならない。そのために、IAEAの査察官をYビヨンに招かなけ
ればならない。

 しかしこれはK国にとっては、まことにもって、ま・ず・い。

 なぜなら、Yビョンの核開発関連施設はすでに老朽化していて、使いものにならないか
らである。韓国に亡命したFさん(K国政府、元高官)も、そう言っている。「停止」をう
んぬんするような施設ではない。すでに使いものにならない状態になっている。つまりウ
ソがバレてしまう。

 だからあれこれ無理難題をもちかけては、BDA問題の解決を先延ばしにしている? 
しかしそう考えると、現在の、K国の不可解な動きを、すんなりと理解できる。

 なおYビョンの核開発関連施設の周辺では、偵察衛星などにより、いつもとはちがった
動きが報告されている。しかしそれは、「停止のための準備」ではなく、ここでいう「ウソ
がバレないため」と考えるほうが、正しいのでは? もしそうなら、中国政府の発表とは
裏腹に、BDA問題は、今しばらくは、まだ解決しない。


●思考力

 ここ数日、思考力がかなり低下している。自分でも、それがよくわかる。何かを考えて
も、それがそのまま脳の表層部を、上すべりしてしまう。上すべりしたまま、それが脳の
奥深くに入っていかない。

 それにこのところ、どういうわけか、夫婦仲も円満。この2か月ほど、ワイフと口論も
していない。私にとっては、珍しいことだ。むしろワイフのほうが心配して、「あなた、だ
いじょうぶ?」と聞く。

 いいのかなあ……? だいじょうぶなのかなあ……?

 夫婦というのは、(親子もそうだが……)、(安定期)→(倦怠期)→(緊張期)→(爆発
期)→(反省期)→(安定期)という周期で、離れたり、くっついたりする。(安定期)が
長すぎると、かえって心配になる。つづく(倦怠期)→(爆発期)で、その爆発がより大
きくなる。

 で、私が今、心がけていることがある。

(1)できるだけワイフの趣味に合わせて、行動している。
(2)できるだけワイフの苦情やグチに耳を傾けるようにしている。
(3)ワイフだけの時間を用意したり、反対に退屈そうなときには、できるだけ、いっし
ょにいるようにしている。
(4)ジョークを多くし、ワイフを笑わせている。
 
 そしてここがいちばん重要だが、(5)いつも何か、新しい刺激を用意するようにしてい
る。

 ワイフは、たいへん性格の安定した女性である。そういう女性と結婚できた私は、ほん
とうにラッキーだった。そのワイフの遺伝子を受け継いだのだろう。私の3人の息子たち
もまた、性格がたいへん安定している。

 ともかくも、今は、我が家は平凡すぎるほど、平凡。『賢人はふつうの価値を、それをな
くす前に気づき、愚人は、それをなくしてから気づく』というのは、私が考えた格言だが、
今、その(ふつうの価値)を、しみじみとかみしめている。


●Outlook Expressがない?

 BISTA(OS)パソコンを購入して、4日目。今のところ、メールの送受信は、(W
INDOW・メール)を使ってしている。しかしどういうわけか、アドレスの引っ越しが
うまくいかない。

 考えてみれば、BISTAパソコンに、Outlook Expressがないのは、
どうしたことか? 削除した記憶はないし……。

 今までの買ったパソコンには、すべてOutlook Expressがついていた。
だからそれを当り前のことと思っていた。しかしそれがない……?

 明日から、あちこちに電話をかけて、いろいろ聞かなければならないことがある。この
Outlook Expressもそうだが、ソフトによっては、うまく動作しないのも
ある。

 BistaはすぐれたOSだとは思うが、周辺機器のみならず、ソフトまで買い替えな
ければならないのもある。たとえば今まで使っていた、C社の複合機(Malti Pas
s C50)は、Bistaでは使えない。

Bistaが発売になって5か月になるが、それほど売れ行きが伸びていないのには、
そういう理由があるのかもしれない。みなさんもBistaパソコンを購入されるとき
には、じゅうぶん注意したほうがよい。

 機器のドライバーを、それぞれの会社からダウンロードしてインストールすればよいと
は言うが、それだって素人には、チンプンカンプンなことだと思う。

【付記】

 VISTAから、Outlook Expressは、「Windows メール」に変
わったそうです。知りませんでした!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●脅して、はぐらかす

++++++++++++++++

Bたけし氏と言えば、日本でも
人気ナンバーワン(?)のお笑い
タレントである。

そのBたけし氏の番組には、ある
ひとつの共通した特徴がある。

脅して、はぐらかすという特徴で
ある。

++++++++++++++++

 Bたけし氏と言えば、日本でも人気ナンバーワン(?)のお笑いタレントである。一応、
そういうことになっている。事実、Bたけし氏は、その世界では、カリスマ的な存在にな
っている。

 そのBたけし氏の番組には、あるひとつの共通した特徴がある。(1)脅して、(2)は
ぐらかすという特徴である。

 まず脅す。それによって、視聴者を不安にさせる。そのためには深刻なテーマを、取り
あげる。地球温暖化の問題、K国の核ミサイルの問題などなど。最近では、難病を取りあ
げることもある。昨日(5月8日)の某番組でも、難病のひとつを、取りあげていた。

 しかしその部分は、テレビ局側の編集で、かなりシリアスに仕上がっていた。私も見て
いたが、いくつか症状に、思い当たるところも重なり、最後まで見てしまった。

 が、それが終わると、いよいよBたけし氏の登場である。それまでの流れから一転して、
突然、(お笑い)となる。ケバケバしく飾られたスタジオ。居並ぶ、タレントたち。まずB
たけし氏が、いくつかのギャグを飛ばす。それを受けて、別のタレントが、こう言う。「オ
レなんかサア、みんな、(症状が)、当てはまるよ」と。つまり前兆としての症状に、みな、
当てはまる、と。

 とたんスタジオは笑いの渦に包まれる。ゲラゲラ、ハハハ、と。

 わかるかな? この番組制作の手法は、カルト教団が使う手法と同じ。カルト教団でも、
信者を勧誘するとき、同じ手法を使う。

 たとえばまず、「もうすぐ人類は滅ぶ」などと説く。つづいて、「しかしこの信仰を信じ
たものだけが、救われる」などと説く。人は、不安になると、そこに心のすき間ができる。
そのすき間をたくみについて、そこへ(希望)を注入する。

 Bたけし氏の番組でも、Bたけし氏の顔がアップになっただけで、視聴者は、ある種の
安ど感を覚える。つまり視聴者自身が、そういうふうに感ずるように、長い時間をかけて、
すでに洗脳されてしまっている。難病という深刻な問題も、Bたけし氏の口から語られる
と、ただのギャグでしかない。つまりそれこそが、こうした番組の(ねらい)と考えてよ
い。

 しかしこれはたいへん危険なことでもある。

 もちろんBたけし氏に問題があるのではない。そういう番組を編集し、(お笑い番組)と
してしまう、製作者側に問題がある。たとえば少し前も、同じような番組で、地球温暖化
の問題を取り上げていた。

 地球温暖化は、現在、人類が直面する、きわめて深刻な問題である。それはその通りで
ある。が、そういう問題でも、Bたけし氏が登場しただけで、(お笑い)になってしまう。
とたん、それを見た人は、安心感を覚えると同時に、それ以上に、自分で考えることをや
めてしまう。

 それは実に甘美な世界である。つまり視聴者は、その甘美な世界に浸(ひた)ることに
よって、心配や不安から解放される。と、同時に、Bたけし氏というタレントに、希望を
託してしまう。

 わかりやすく言えば、その時点で、Bたけし氏という人物が率いる(Bたけし氏教)の
信者になってしまう。

 こうした心理操作は、Bたけし氏が意図するものではないかもしれない。(結果)として
そうなるというだけのことで、(目的)ではないかもしれない。あるいは反対に、こうも考
えられる。深刻な問題を取り上げるからこそ、そのままで終わっては、視聴者をただ不安
にしてしまう。そこでしめくくりに、(お笑い)によって、視聴者に安心感を与える、と。

 映画で言えば、ハッピーエンドの手法である。

 が、だったら、最初から、深刻な問題を取り上げないことではないのか。昨夜見た、あ
る難病の問題にしても、どこかしら、その難病を、もてあそんでいるかのような雰囲気さ
え感じた。「本当にこの病気で苦しんでいる人が見たら、怒るだろうな」と思ったのは、は
たして私だけだっただろうか。

 つまり(まじめさ)がない。その(まじめさ)がないところが気になった。番組の中で
は、「これが恐ろしい病気の前兆とは……」「さらに前兆がつづく……」「そしていよいよ…
…」と。つまり難病の紹介というよりは、視聴者をハラハラさせるほうに、力点が置かれ
ていた(?)。

 言うまでもなく、ハラハラさせればさせるほど、その直後に登場するBたけし氏の存在
感が、ます。つまりそれこそが、番組制作者の目的ということになる(?)。

 ……ということで、今、何ともおかしなことが、テレビ番組の世界で起きている。それ
を疑問に思うか、思わないかは、それぞれの個人の問題かもしれない。が、あなたも一度
でよいから、私がここに書いたことを参考に、今度、Bたけし氏の番組を見てみたらよい。
何か、新しい発見をするかもしれない。

 何も考えず、ああした番組を、見てはいけない! そのまま受け入れてしまってはいけ
ない! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
カルト カルトの手法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(5月8日)

+++++++++++++++

今日は、朝からいそがしい。
朝食をとったら、すぐ行動開始。

天気予報では、「暑くなる」という
ことだったが、起きてみると、
秋を思わせる、冷気をおびた、
さわやかな風。

一年中、こうだといいのだが……。

+++++++++++++++

●グーグル・アース

 グーグル・アースでは、その場所の経度、緯度が、家単位ほどまで、正確に表示される。
つまりその家の経度、緯度がわかれば、その家を、グーグル・アースで検索することがで
きる。

 この方法で、私は今、いろいろな国の友人や知人の家を、グーグル・アースで検索して、
楽しんでいる。ただ地域によっては、解像度の低いところもあり、およその場所しかわか
らないところもある。

 しかしこの先、グーグル・アースを使った場所探しが、ポピュラーになるだろう。「あな
たの家は、どこ?」「私の家は、37.471746S,144.572911Eよ」と。

 ちなみに、この座標は、メルボルン大学のインターナショナル・ハウスのもの。興味の
ある方は、ぜひ、見てほしい。

 それにしても、すごいことができるようになったものだ。パソコンとつきあっていると、
毎日が、新しい驚きの連続。そこで予言。

学校教育においても、現在の、英語、数学、国語、社会、理科という教科分けが、近い
将来、コンピュータ操作、コンピュータ調査、コンピュータ応用などというように変わ
るかもしれない。(情報)や(知識)の価値がかぎりなく小さくなる。かわって、その(情
報)や(知識)をどのように(応用)していくか。それがこれからの教育の(柱)にな
る。

 わかりやすく言えば、(情報)はコンピュータで仕入れればよい。つまりこれからは、(も
知りの子ども)は、あまり意味がないということ。たとえば社会科の年号にしても、そん
なことは、そのつど、コンピュータで検索すればよい。つまり検索能力も、重要な能力の
ひとつということになる。だからたとえばあと10〜20年もすれば、社会科のテスト問
題も、つぎのように変わるかもしれない。

【問1】

 1561年、織田信長の脅威を感じた、あなた(=今川義元)は、桶挟間(おけはざま)
での戦いを前にして、だれに、どのような指示を出すか。その相手と、指示の内容を80
0字以内で書きなさい。コンピュータは自由に使ってよろしい。

 すでにノート型のパソコンも試作されているという。「ノート型」というのは、本当に紙
でできたノートのような形をしていて、厚さもノート程度。ノートのように丸めたりする
こともできるという。

 子どもたちは、そのつど必要な情報は、ノート型パソコンから手に入れる。それでじゅ
うぶん。大切なのは、(情報)ではなく、(与えられた情報を、自ら考えながら、加工する
力)。これからの教育は、そういう方向に向かって進む。


●ジェット・コースター事故

 この3、4日、新聞やテレビは、ジェット・コースター事故ばかり報道している。まる
で飛行機の墜落事故でもあったかのよう。どこかの遊園地で、コースターの車軸が折れ、
それが原因で事故になった。一人の人が、死んだ。

 それはそれとして、つまり不幸な事故であったことにはちがいないが、しかしたかが事
故ではないか。私も若いころは、好んで、この種の乗り物に乗った。「コースターがレール
からはずれて、地上へたたきつけられるかもしれない」という思いが、恐怖心を呼び、そ
れがまた楽しかった。

 (だからといって、こうした事故があってよいと言っているのではない。誤解のないよ
うに!)
 
 私が言いたいのは、こうした乗り物に乗るときは、それなりの自己責任で乗るというこ
と。「あぶない」と思えば、乗らなければよい。それを事故が起きるたびに、やれ「整備不
良だ」「点検不備だ」と騒ぐ。折れた車軸にしても、10数年以上も取り換えられていなか
ったという。

 しかしここでも問題がある。車軸などというものは、100年たっても折れないものも
あれば、1年で折れるものもある。私は、こんな事故を経験している。

 買って半年もたたない自転車に乗っていたときのこと。暗い夜道だった。いつものよう
にスピードをあげようと、ぐいとペダルに力を入れた、そのときのこと。突然、車体が傾
き、私はそのまま地面にたたきつけられてしまった。

 横にガードレールがあった。その向こう側は、用水路になっていた。幸いにも後続の車
がなかった。もしあったら、そのまま車にはねられていた。

 見ると、自転車の後輪の車軸が折れていた。……というような事故は、多い。つまりコ
ースターの事故は、その中のひとつにすぎない。もちろん整備不良についての責任は、追
及しなければならない。遺族やけがをした人への補償も、当然である。しかし事故は事故。
そのときだけの報道でじゅぶんではないのか。

 こうまで連日、連夜、コースター事故の報道ばかりがつづくと、率直に言って、うんざ
り。
 

●ニュースの選択

 そこでニュースの選択。私は、今、こんな経験をしている。

 インターネットのニュース・サイトの中には、動画と音声で、ニュースを配信してくれ
るところがある。私が好んで見ているのは、TBSのi−news。

 いつも50〜70項目のニュースが並んでいる。そこで私は見たいニュースのボックス
に(レ)を入れる。つまりニュースを選ぶのは、私というわけである。

 そのとき、ふと、こんなことを考える。

 おそらく、報道各社(テレビ局、新聞社)には、毎日、洪水のようにニュースが流れこ
んでくるにちがいない。そういうとき、報道各社は、どのような基準で、ニュースを選び、
それを配信しているかということ。

 ここで報道各社が、(あるいはそれを選ぶ編集局でもよいが)、自分のつごうのよいニュ
ースは配信し、そうでないニュースには目を閉じたら、どうなるか。ちょうど今の私が、
見たいニュースを選ぶように、である。

 いつの間にか、私たちは、彼らにとってつごうのよいニュースだけを見聞きし、やがて
彼らが意図しないまでも、彼らのよいように操られるようになるかもしれない。戦前のあ
の(大本営発表)に、その一例をみるまでもない。

 そこで報道各社の中立性の問題が出てくる。言うまでもなく、報道各社は、努めて、中
立的でなければならない。それは何も、ニュース番組だけにかぎらない。たとえば今の今
も、どこかのオバチャンが、夜の番組に出てきては、(占い)なるものを披露している。タ
レントたちを相手に、まさに言いたい放題のデタラメを言っている。

 娯楽番組といえば、それまでだが、子どもたちに与える影響となると、大きい。そうい
う番組を流すなら流すで、他方で、「そういうインチキにだまされてはいけない」というよ
うな番組も流すべきではないか。あるいは、それに疑問をもつ人たちを同席させる。いや、
その前に、どうしてそういうオバチャンを、テレビに出さなければならないのか。その必
要性はあるのか。

 ちょうど私たちがニュースを選ぶように、だれかがそういうタレントを選び、それを一
方的に報道する。考えてみれば、これはとてもこわいことである。

 ……ということで、最初の話にもどる。

 こうした事故を受けて、国土交通省(国土交通省だぞ!)まで、乗り出してきた。いわ
く、『H三国土交通相は8日の閣議後の記者会見で、部品の亀裂の有無を詳細に調べる「探
傷試験」を法令で義務付けるなど、遊戯施設の定期検査を強化する方針を明らかにした。

 社会資本整備審議会(国交相の諮問機関)の建築物等事故・災害対策部会を10日に開
き、具体策の検討を要請する』(ヤフー・ニュース)と。

 改めて言う。たかがジェット・コースターの事故ではないか!

 
●今度は、「韓国海」?

++++++++++++++

「東海」がだめだとわかると、
今度は、「韓国海(Sea of 
Korea)」?

韓国政府の考えていることが、
私には、よく理解できない。

要するに、「日本」という名前が
嫌いらしい?

++++++++++++++

 日本の南にある海を、「東シナ(中国)海」という。さらにそこから南につながる海を、
「フィリッピン海」という。しかしだれも、そんなことに、文句を言わない。

 が、韓国はちがう。世界中に特使まで派遣して、日本海を「東海」に改めようとしてい
る。当の韓国は、「アジア大陸の東にあるから、『東海』がふさわしい」と主張している。
が、こんなのは、ウソ。韓国では、東シナ海を、「西海」と呼んでいる。韓国の西にあるか
ら、「西海」。だから東に日本海は、「東海」。

 しかしだれも、そんな呼びかけに応ずる気配はない。そこで今度は、「日本海を、韓国海
にせよ」という主張が出てきた。聯合ニュース(5月7日)は、つぎのように伝える。

『国際水路機関(IHO)総会を控え、韓国と日本が東海表記問題をめぐり。対立するな
か、文化財庁のY庁長が東海を、「韓国海(シー・オブ・コリア)」と表記するよう主張
したことが6日に明らかになった』と。

 韓国人よ、少しは、頭を冷やせ! 日本が嫌いなのはわかる。「日本」という名前が嫌い
なのも、よくわかる。しかしもし韓国の言うような主張がまかり通るなら、これから先、
世界中は、毎年のように、海の名前を変えなければならない。たとえばインド洋は、「北オ
ーストラリア海」、メキシコ湾は、「南アメリカ湾」、南シナ海は、「東ベトナム海」と。

 日本海が日本海になったのは、世界の大きな歴史の流れの中で、そうなった。だれがみ
ても、そのほうが、わかりやすかったからである。そして今、「日本海」という名前は、世
界の地理として、定着している。

 「東海」が、「平和の海」(N大統領提案)になり、今度は、「韓国海」(Y文化財庁庁長)
になった。が、それもだめだとなると、今度は、何になるのか? 聯合ニュースは、「韓国
と日本が東海表記問題をめぐり、対立するなか……」と書いている。

 しかし日本が反対しているわけではない。世界の人が、常識として、あきれているだけ
である。どうしてそんなことが、韓国の人たちには、わからないのか。


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