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2007年 12月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●

マガジン2007−12


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 12月 31日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●気になる記事

+++++++++++++++++

HBCラジオ(函館)のBLOGに、
こんな書き込みがあった。それをまず、
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++++++

+++++以下、BLOG、書き込み記事より

私には男の子が3人います。上の子が3歳、下の双子は1歳の時です。やんちゃ盛りで目
が離せず、外出もままならず世間から隔離されたような生活の日々。毎日の子育てに疲れ
て「何で私ばっかり・・・」と卑屈になって、でもそんな自分もまた嫌で落ち込んでいた
頃でした。

ある朝、まだ主人と子どもたちも寝ている時、何気なくテレビをつけると某テレビ番組で
講師の方が子育てについて話をされていました。

その講師の方は「子育ては許して忘れることです」と言いました。「許して忘れる。英語で
言うと"許す"は"forgive"、"忘れる"は"forget;。これを直訳すると"forgi
ve"は"与えるため"、"forget"は"得るため"です。では何を与えて何を得るためなの
か・・・。それは愛です。愛を与えるために許し、愛を与えるために忘れるのです。

しかも子どもたちは、そんな知識がなくても既に実行しているんです。お母さんに叱られ
ても5分か10分もするとケロッと忘れて、またすぐお母さんお母さんと言って寄って来
ます。子どもの方はとっくに"許して忘れる"を実行してるんですねぇ。」

この言葉は、いつもイライラしていた私の心にスーッと染み渡りました。叱ってばかりで
子どもが悪くなくても、自分の感情でつい子どもに当たったこともありました。でもどん
なに怒っても、やっぱり子どもたちは少しすると、お母さんお母さんと言って擦り寄って
来るのです。テレビを見ながら涙が後から、後から溢れ出て止まりませんでした。

今、子供たちは小学校へ通っています。その時の言葉は今も私の中で生きていて、優しい
気持ちでいさせてくれる言葉です。

++++++++以上、書き込み記事より、日付は、7月7日(水)とのみ、ある。

 「朝早く」ということだから、「テレビ寺子屋」? もしそうなら、その講師というのは、
この「私」ということになる。「許して忘れる」は、私の子育て論の根幹をなす育児哲学で
ある。

 しかし気になるのは、後半の部分。こう、ある。

 「しかも子どもたちは、そんな知識がなくても既に実行しているんです。お母さんに叱
られても5分か10分もするとケロッと忘れて、またすぐお母さんお母さんと言って寄っ
て来ます。子どもの方はとっくに"許して忘れる"を実行してるんですねぇ。」と。

 私は、こんなことを、話した覚えはない。話したとすれば、「私たちは、親として、無意
識のうちにも、この許して忘れるを、実行している」ということ。

 この女性は、どこでどのようにして、まただれから、この言葉を聞いたのだろう。その
講師というのは、だれだろう。

 もしこの「私」でないとしたら、その講師は、100%、私の持論をパクったことにな
る。

 一度、詳しく調べてみたい。なお、「許して忘れる」は、私の本などでは、1990年の
中ごろには、あちこちで発表している。また「愛を与えるために許し、愛を得るために忘
れる」というのは、100%、私のオリジナルの解釈である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
許して忘れる 許して、忘れる forgive & forget FORGIVE & FORGET for・give & 
for・get FOR・GIVE & FOR・GET 許して忘れるの育児論 許して忘れるの子育
て論 許して忘れるの教育論 愛を与えるために許す 愛を得るために許す by はや
し浩司)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【大晦日・雑感】

【2008年を展望する】

++++++++++++++++

2008年は、どんな年になるのだろう?

いろいろ考えてみる。

今朝のニュースを読むと、こんな記事
が載っていた。

「ローレンス・サマーズ元米財務長官は、
11月26日、ファイネンシャル・
タイムズ(FT)に投稿したコラムで、
『今年9月のサブプライム問題が起きたときは、
その余波が金融市場にだけ限られたが、
今は、米国経済の低迷のみならず、
世界経済の成長にも悪影響を及ぼすものとみられる」
と警告した。国際通貨基金(IMF)も最近、
来年の米国や欧州連合、日本などの経済成長率は、
今年より下がるだろうと展望した」(東亜N報)と。

何か、いやな感じ……。2008年の景気は、
今年より、悪くなるということらしい。

同じ記事の中には、「大恐慌以来の、衝撃」
という言葉もあった。

しかしあの時代と、現代は、さまざまな点で
ちがう。あの時代は、アメリカ一極にすべてが
集中していた。が、現代は、分散している。

日本がある。EUがある。中国やインドがある。
むしろ今回の、サブプライム・ローン問題は、
「アメリカの終わりの始まり」(経済各誌)
と説く論調が目立つ。 

そのことは、アメリカへ直接行ってみると、
わかる。

ホテルに泊まっても、電気器具は、中国、
台湾製。テレビは、東南アジア製などなど。
かろうじてアメリカ製と言えるのは、家具
くらいなもの。

しかもその家具といっても、見た目には
豪華でも、裏から見ると、板をパンパンと
貼り付けただけの、簡単なもの。

「これでは輸出はできないね」とワイフに
話すと、ワイフもあっさりと、同意して
くれた。

アメリカの産業と言えば、農業、電子産業、
軍事産業、それに映画産業。自動車産業
もあったが、今は、勢いが衰えてきた。

「終わりの始まり」という言葉が、現実味を
帯びてきた。

2008年の世界の動向は、すべてここを
起点とする。またここを起点として、
考える。

+++++++++++++++++

●今朝・あれこれ(11月29日)

 このところ、(寒さ)があまり気にならなくなった。冬の冷気を、むしろ心地よく感ずる
こともある。夏に体を鍛えたせいではないか。今年の夏も、クーラーなしでがんばった。
運動も欠かさなかった。生きざまも、少し、変わった。

 満60歳を迎える前までは、こんなふうに考えていた。たとえばモノを買うときも、「あ
と、10年もてばいい」とか、「どうせ使っても、10年」と。何でも、ものごとを、小さ
く、小さく、考えるようになっていた。しかし今は、ちがう。

 どうしてこの私が、この世界に遠慮して生きなければならないのか。年齢を気にして、
生きなければならないのか。昨夜も、中学生の女の子が、「先生は、いくつ?」と聞いた。
それに答えて、すかさず、私は、こう答えた。

 「あのね、人間は、年齢ではなく、中身だよ」と。

 いくつか数学の問題を相手にして、中学生たちと競争した。私は本気だった。本気で、
問題を解いてやった。今までは、わざと手を抜いたが、もう手を抜かない。抜く必要はな
い。ボケたフリをする必要もない。結果、どの問題も、1、2分で、解いてやった。中学
生たちは、みな、だれも、解けなかった。内心、「ザマーミロ!」と思った。

 国際情勢はどうであれ、私は、これからもずっと、現役のままがんばる。で、ワイフに、
こう言った。「ぼくはね、75歳まで、現役でいくよ」と。ワイフはうれしそうに笑った。

 そうそう、昨夜は、小雨がパラついていた。ワイフが教室まで迎えに来てくれた。しか
し私は自転車で帰った。かなり無理をして走った。そのせいか、今朝は、足が、少し痛い。
痛いと言っても、心地よい痛さだが……。


●失業率が3%

 今月のはじめ、韓国政府は、「韓国の失業率は、3%」と発表した。私はその数字を読ん
で、笑った。どうしてあの国は、ウソばかり並べるのか?

 経済記事に関して、割と正直なのが、韓国の東亜N報。中央N報や、朝鮮N報の記事な
どは、アテにならない。信用してはいけない。その東亜N報に、こんな記事が載っていた。

 「6世帯のうち、1世帯が、無職世帯」(11月26日付)と。もう少し詳しく内容を読
んでみよう。

 「世帯主がこれといった職業を持っていない、無職世帯の割合が韓国の全国世帯の16%
近くあることがわかった。 

28日、統計庁によると、今年第3四半期(7〜9月)、全国世帯の中で世帯主が無職で
ある世帯の割合は15.57%で、昨年同期(14.69%)比0.88%上昇した」
と。

 わかるかな?

 世帯主が無職である世帯が、16%もあるという。簡単に言えば、5軒に1軒。私の家
族にあてはめてみる。

 私という世帯主が無職。考えようによっては、失業率より、この「16%」という数字
は、深刻。息子や娘に仕事があっても、世帯主に仕事がない? あるいは息子や娘にも、
仕事がない可能性も高い。大卒の就職率にしても、20%前後をウロウロしている。

 韓国での統計方法によれば、1か月に、1時間でも働いたら、失業者とみなされない。
そういうことも考えると、「失業率は3%」というのは、まっかなウソと考えてよい。反対
に、どうして「3%」という数字が出てくるのか、不思議でならない。

 東亜N報の記事は、こうしめくくっている。

 「実際に、今年10月の雇用率は60・4%で、前年同月とほぼ同じ水準を維持するの
にとどまったが、非経済活動人口は同期間に、1462万1000人から、1480万8
000人に、18万7000人(1・3%)増加した」と。

 ウソと虚飾で塗り固めた、韓国の経済指標。みなさんも、くれぐれも、ご用心!


●「選挙」というインチキ

 選挙をしているから、民主主義国家ということにはならない。むしろ、選挙という方法
が、民主主義のあり方を、ゆがめているのでは? 今の、日本の政治体制が、そうである。

 政治家たちは、「選挙に勝った」というだけで、したい放題のことをしている。しかし実
際に、実権をにぎっているのは、官僚と、その下で巨大なピラミッドを形成する、役人た
ち。

 政治家にしても、「国民から選ばれた」と、どうして言えるのか? 選ばれたのではなく
て、「自分から選んでくれ」と勝手に立候補して、選挙競争に勝っただけのこと。勝っただ
けで、「選ばれた」と言い出す。巨億の富と権力を、手にする。

 どこかおかしいぞ、日本の民主主義。

 たとえば権力にしても、財力にしても、「一個人」というワクを超えて、強大になりすぎ
ている。私たちが民主主義というときは、まさに、こうした権力や財力を、一個人に集中
させない制度をいう。またそれができてこそ、民主主義という。

 一方、40年前、私がオーストラリアで見た民主主義は、同じ民主主義といいながら、
日本のそれとは、まったく異質のものだった。首相にしても、自宅から自転車通勤をして
いるような感じ。こんな事件も、あった。

 当時の首相だったが、岸壁で、魚釣りをしていて、サメに足をかみ切られるという事件
が起きた。そういう事件が、ユーモラスに、かつそれでいて、どこにでもある事件のひと
つとして語られていた。

 一方、ちょうどその少し前、私が金沢で学生だったときのこと。石川県選出の国会議員
が、防衛庁長官に就任した。その少しあとのことだと思うが、たまたま金沢駅の前を通り
かかると、ものすごい数の車の列に出くわした。

 先頭車から、最後尾車まで、ずらりと、100〜200台。兵隊を乗せた自衛隊のトラ
ックも、何台かつらなっていた。大名行列ならぬ、長官の凱旋(がいせん)行列。こうい
うことが平気でできるのが、日本。そういう光景を見ても、何も疑問に感じないのが、日
本。今の今も、政治は、その流れから、一歩も、外に出ていない。

 さて、選挙。

 よく悪事に悪事を働いた政治家が、失脚するという事件が起きる。そういう政治家でも、
再び選挙に勝って、政治家に返り咲くということがある。当の本人は、「みそぎがすんだ」
などという。「みそぎ」というのは、神道でいう、水による祓(はら)いをいう。

 政治家にしてみれば、それが選挙、ということになる。またそれが民主主義ということ
になる。が、実際に、実権を握っているのは、官僚。これはおかしい。

 もちろん選挙なくして、民主主義はありえない。しかし反対に選挙を利用して、民主主
義を歪曲(わいきょく)することも、許されない。いわんや選挙を利用して、富や権力が、
1個人に集中するような制度を許してはいけない。選挙というのは、民主主義を維持する
ための一手段にすぎない。けっして、それがすべてと考えてはいけない。

 何か、おかしい。何か、へん。今回の一連の防衛省を舞台とした疑獄事件をながめてい
ると、私には、そんな感じがしてならない。

●民主主義(追記)

(付記)

 そもそも民主主義というのは、一定個人、集団への権力の集中を防ぐためのもの。それ
を許してしまえば、行き着く先は、「独裁」。あのK国でさえ、国名の中に、「xx民主主義
人民xx国」と歌っている。

 「民主主義」とは、聞いてあきれる。あきれるが、この日本が、それを笑うことはでき
ない。

 そこで「選挙」ということになるが、選挙そのものが形骸化している。どこの県でも、
県知事はみな、元中央官僚。副知事も、元中央官僚。大都市の市長も、元中央官僚。つま
り選挙という手段が、権力者たちが権力を維持するための(お墨付き)としてしか機能し
ていない。官僚世界でいう、「審議会」のようなもの。適当に有識者を集め、答申を出させ
る。たいていは、あらかじめ用意したシナリオに沿った答申である。

 あとはその答申をよいことに、官僚たちは、したい放題。

 民主主義とは何か? 選挙とは何か? だれしも民主主義イコール、選挙と考えやすい
が、民主主義発祥の地、アテネのポリス(都市国家)には、選挙など、なかった。役人は、
1年ごとにくじ引きで決めていた。

 あくまでも、「民(たみ)」。民あっての代表。その代表は、民のために動く。それが民主
主義。

 しかしこの問題は、選挙というより、結局は、私たち1人ひとりの意識の問題というこ
とになる。その意識を変えないかぎり、この日本に民主主義が定着することはない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●ケチ、一考

++++++++++++++++

ケチはケチでも、時間や健康に、
ケチな人は少ない。しかし時間や
健康に、もっとケチになろう。

お金にケチな人は多い。それはわかる。
しかし時間や健康は、お金よりも
はるかに大切な財産。

その時間や健康を、平気で、ムダに
している人は多い。

++++++++++++++++

 ふつう「ケチ」というときは、お金やモノに対することをいう。それはわかる。しかし
お金やモノよりも、もっと大切なものがある。時間と健康である。

 しかし時間や健康に、ケチな人は少ない。くだらない低俗番組を見て、「しまった!」と
思う人は、少ない。おかしなものを食べたり、飲んだりして、「しまった!」と思う人は、
少ない。

興味深いのは、タバコ。タバコを吸えば、健康に悪い。悪いことを百も承知で、タバコ
を吸う。もし健康がひとつの(価値)と考えるなら、タバコを吸うことは、それ自体が、
「損」。

 なぜだろう。なぜ、お金にはみな、ケチになるが、時間や健康には、ケチにならないの
だろう。

たとえば浜松市の郊外に、食べ放題の店がある。昼食時だと、1400円前後で、好き
なだけ、ものを食べることができる。料理の質も、悪くない。私も一度だけ、家族と入
ったことがあるが、「食べなければ、損」という、何ともあさましい誘惑に襲われ、最後
まで、料理を楽しむことができなかった。

 このばあい、食べなければ損と考えるのは、ほんとうに、正しいのか。ほんとうに、損
なのか。必要以上にものを食べれば、かえって体に悪い。健康を害する。

 健康を第一に考えるなら、粗食であればあるほうが、よい。大食より、小食のほうがよ
い。しかし粗食をたしなむ人や、小食にしている人を、ふつう、ケチとは言わない。

 そこで提案。

 お金やモノにケチになるのは、それはそれとして、時間や健康に、もっと、ケチになろ
う。

 つまらないことで時間をムダにしたり、健康を害するようなことをしたら、はっきりと、
「損をした」と思うようにしよう。

・・・これは、私自身の努力目標ということにもなる。

【補記】

 たまの日曜日。一度、コタツに足を入れたら最後。そこは天国。空は曇天。葉を落とし
た庭の木は、冬のかわいた風の中で、揺れている。

 ぼんやりと庭を見ながら、時間をつぶすのもよし。手元にある雑誌に目を通すのもよし。
しかし時間は、刻々と過ぎていく。

 こういうとき、私は、よくこう思う。私の頭は、たとえて言うなら、会社の社長。体は、
たとえて言うなら、会社そのもの。会社の中では、無数のスタッフが、それぞれの仕事を
もって、働いている。社長である私は、会社のスタッフに命令をくだす。

 「体を動かして、働け!」と。具体的に指示を出すときもある。「足よ、立て」「手を、
動かせ」「外に出ろ」「自転車に乗れ」と。

 しぶしぶながら、スタッフたちが、私の命令に従う。動き出す。ときどき、不平、不満
を口にするのもいるが、それは無視。私はさらに命令をくだす。「早くしろ」と。

 人間の脳みそというのは、本来、怠け者と考えてよい。常に楽な道を選ぼうとする。い
やなことは、避けようとする。だから脳みその言いなりになっていたら、体そのものも、
怠け者になる。が、それでは健康は、維持できない。

 言い換えると、脳みその言うがままにしていたら、人間は、長生きはできない。つまり
これも自然の淘汰(とうた)のひとつと考えることはできないか。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

 「生きたい」という強い意思のある人だけが、この世界では、生き残ることができる。
強い意思をもつ人イコール、強い人間。つまり優秀な種族と考えてよい。一方、その意思
の弱い人は、自滅プログラムが働いて、やがて健康を害し、死ぬ。たとえばコタツの中に
入り、それでよいと思っている人は、(それだけでは決まらないが)、その分だけ、健康を
害することになる。害した分だけ、長生きできない。

 そこで思い切って、自分の体に命令を下す。「動け」「動いて、自転車に乗れ」と。つま
りそれがここでいう(強い意思)ということになる。

 で、動き出すときは、たしかに、つらい。体も、思うように動かない。しかし自転車に
またがり、冬の冷気を頬に感じたとたん、足に力が入る。こぐ。前に進む。とたん、その
つらさが、快感に変わる。

 体が命令どおり動くということ自体が、喜びに変わる。さらに言えば、それが(生きて
いる)という喜びに変わる。

 自分の体を、(私の体)と考えてはいけない。「私の体」と思うのは、その人の勝手かも
しれないが、実は、(私の体)の中で、(私)が、作ったものは、何ひとつ、ない。指一本、
生命の流れの中でできた、つまりDNAの構成物に過ぎない。

 お金がなければ、不幸になる。それはわかる。しかし時間や健康は、お金では買えない。
幸福も生きがいも、お金では買えない。時間や健康には、限りがある。だったら、……同
じことを繰りかえすが、時間やお金に、もっとケチになろう!

(追記)

 昨日、近所の男性が、1人、なくなった。回ってきた回覧板を見ると、満60歳だった
という。

 私は、同年齢の人がなくなるたびに、ズシン、ズシンと、それが胸に響く。どういうわ
けだか、それが胸に響く。

 あとでワイフや息子に聞くと、「心疾患だった」という。息子の同級生の父親だったとい
う。

私「どうして心疾患とわかった?」
ワ「あら、新聞には、そう書いてあったわ」
私「新聞には、そんなことも書いてあるのか」
ワ「そうよ」
私「息子の友人の父親か?」
ワ「そうみたい。私も、名前だけ、どこかで聞いたような感じがするわ」と。

 心疾患……おそらく心筋梗塞のような突然死ではなかったか。団塊の世代が、またこう
して1人、減った。懸命に戦後の時代を駆け抜けてきて、そして心疾患。私の世代には、
会社人間、仕事一筋という人が多い。何かを信じ、何かを求めて懸命に生きてきた。

 回覧板を見ると、2x日に通夜。翌日の昨日、葬儀とある。

私「葬儀は、昨日、終わったみたいだよ」
ワ「早いわね」
私「回覧板が、遅いよ。これでは、回覧板にならない」と。

 ついでながら、私は、新聞の志望者欄は、見ないことにしている。見始めると、クセに
なる。気になる。仕事がら、そういう欄を毎日見ている人もいるようだが、私は、見ない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(11月30日)

●時刻表的生活

++++++++++++++

昨日は、佐鳴湖のそばにある、
カレー・レストランで、カレー
ライスを食べた。

おいしかった。

で、仕事が終わったのが、午後
8時半ごろ。ワイフが、車で
迎えにきてくれた。

この12月1日に封切りになる、
「マリア」のチケットを買うため。

私とワイフは、そのまま映画館に
向かった。

チケットは、買えた。やや後方の
中央席。ラッキー!

ついでに電光の案内板を見ると、
「マイティ・ウーマン」が始まる
ところだった。

「見ていこうか?」と声をかけると、
「ウン」とワイフ。

それでその映画を見てきた。

ブラッド・ピット監督映画だった
というが、騒がしいだけの映画。

星は1つの、★。しかし昼に
食べたカレーライスの味が
胃袋に残っていて、星は、2個。

「1日で、パキスタンを旅行した
ような気分になった」と私。
「パキスタンは行きたくないわ」と、
ワイフ。

+++++++++++++++

 「時刻表的生活」というのがある。毎日、時刻表通りの生活をすることをいう。そうい
う生活をしている人は、少なくない。概して言えば、高齢者に多い。

が、私たち夫婦は、常に、「非時刻表的生活」。仕事そのものは、分刻みで、しなければ
ならない。3時00分から3時50分……と。その反動からか、私は、それ以外の世界
で、時刻に縛られるのが、いや。結婚当初、さらには子どものころから、時刻や時間を
気にせず、自由、気ままに生きてきた。

 私もワイフも、もとを正せば、不良。ハハハ。これはほんとう! 今でこそ、まじめそ
うな顔をしているが、中身は、不良!

 結婚当初は、ほんとうに自由だった。自由というより、メチャメチャ。午前中は幼稚園
で仕事をし、午後からは、そのまま香港や、台湾、シンガポールへ。夕方から夜にかけて
商談をすまし、夜行便で羽田へ。そしてまた幼稚園へ。

 夜中の1時、2時に、ワイフとドライブにでかけるのも、日課のようになっていた。帰
ってくるのは、いつも明け方。映画もよく見た。ラブホテルへもよく行った。その基本は、
今も変わっていない。

 ただ子育てをしている間は、少し、まじめ(?)になった。が、子育ても終わった今、
私たちを束縛するものは、何もない。

私「若いころに、もどったみたいだね」
ワ「そう……」と。

 ということで、昨夜も、深夜劇場へ。観客は、私たちを含めて、たったの5人! ワイ
フは、「貸し切りよ」と、子どものように喜んでいた。(映画館の人には、申し訳ないが…
…。)

 「♪……いくら足が長くても、前の席を蹴らない……」という注意に合わせて、私は、
前の椅子を、足で、ポンポンと蹴ってやった。ハハハ!

 ところで昨夜見た、「マイティ・ハート」は、アカデミー賞の受賞候補になっていたとい
う。今朝、ワイフがそう言った。

私「アメリカ人の傲慢さだけが目立つ、イヤな映画だった」
ワ「そうね。アメリカ人は、世界中、どこでも大切にされるべきって、そんな雰囲気ね」
私「そう。もしあれが、日本人や、インド人なら、パキスタン政府は、ああまで動かなか
っただろうね。それにアメリカ人ほど、強く、パキスタン政府に出なかったと思うよ」と。

 しかしやはり星は1つの、★。ほとんど印象に残らない映画だった。最初から最後まで、
ドタバタの連続。つまり、新手のドタバタ映画。(ごめん!)ハッピーエンドだったら、ま
だよかったが、それもなかった。

 帰ってきたのは、12時、少し前。そのままふとんにもぐって、眠った。


●時刻表的生活

 朝、5時に起床。朝5時半に、雨戸をあけて、カーテンを開ける。7時に洗濯をすまし、
朝食はきっかり、午前7時半……。夏も冬もない。晴の日も雨の日もない。

 そういう生活を、「時刻表的生活」という。東洋医学でも、そういう生活は、健康のため
の第一条件と教える。しかしものごとには、程度というものがある。ある程度の規則性は
大切だが、それが5分刻み、さらには1分刻みになったら、「?」。へん。おかしい。異常。

 つい先日亡くなったが、A氏(享年86歳)という男性がそうだった。毎日の生活のみ
ならず、1週間単位、さらには1か月単位でも、「時刻表的生活」を繰りかえしていた。晩
年になると、家から一歩も外に出ず、1分単位で、規則正しい生活を繰りかえしていた。

 そのため近所の人には、「時計」というニックネームで呼ばれていた。その人の行動を見
れば、時刻がわかったからである。

 で、ある種の認知症にかかると、生活習慣が、時刻表的になることはよく知られている。
つまり脳みそが硬直化し、がんこになる。私の兄も、そうだった。グループホームへ入る
前は、誤差にして、プラスマイナス10分前後の生活をしていた。

 夏でも冬でも、午後6時ごろになると、カーテンをしめ、ドアにカギをかけた。7時に
なると、夕食をせがんだ。「?」と思っている間に、認知症がどんどんと進んでしまった。
そういうケースもあるから、時刻表的生活というのは、けっして、好ましいものではない。

 ある程度は、フレキシブルに生きる。その(変化)が、脳みそに、よい刺激を与える。
それに時刻表的生活というのは、おもしろくない。本人はともかくも、まわりの人には、
おもしろくない。

 反対に考えると、生活が、どこか時刻表的になってきたら、要注意ということになる。
子どもの世界でも、(がんこ)は、クセモノ。自閉傾向(「自閉症」ではない)が、進むと、
がんこな様子を見せるようになる。

 毎日、同じ青いズボンでないと幼稚園へ行かないとか、幼稚園でも、毎日、同じ席でな
いと座らないとか、など。ひとつの(殻=から)の中にこもってしまう。こもると、本人
自身も、身動きが取れなくなってしまう。それが典型的な形で現れるのが、かん黙児とい
うことになる。家の中などでは、ふつうに会話ができるが、外の世界では、貝殻を閉ざし
たかのように、黙ってしまう。

 子どものばあいは、(情緒)の問題ということになる。高齢者のばあいは、(脳みそ)の
問題ということになる。

 ではどうすれば、時刻表的生活を、私たちは、避けることができるか?

 一般論からすれば、子どもの頭のよし悪しは、思考の柔軟性で決まる。臨機応変に、そ
の場であれこれ対処できる子どもは、頭がよい。伸びつづける。

 同じように考えると、高齢を迎えて、思考性から柔軟さが消えたら、それだけ、脳の老
化が進んだと見てよい。言いかえると、高齢になってからも、新しい分野に挑戦していく。
興味をもつ。そういう前向きな姿勢が、脳の硬直化を防ぐ。

 さて、私のこと。兄は兄だが、今のところ、私は、だいじょうぶなようだ。ワイフも、
だいじょうぶなようだ。そのつど、臨機応変に、行動している。変化のある生活を楽しん
でいる。

 ついでに、子どもの(がんこ)について書いた原稿を、さがしてみた。

++++++++++++++++

●伸びる子、伸びない子
                     
 伸びる子どもには、いくつかの特徴がある。

(1)思考が柔軟で、
(2)好奇心が旺盛、それに
(3)生活力(忍耐力)がある。

思考が柔軟ということは、たとえばおとなの冗談が通ずる。反対に頭のかたい子どもは、
おとなの冗談が通じない。こんな会話をする。

私「今日はいい天気だね」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「雲があってもいい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気じゃ、ない!」と。

 好奇心が旺盛ということは、一人で遊ばせておいても、身のまわりから次々と、新しい
遊びを発見したりすることをいう。そうでない子どもは、「退屈だア」とか、「早くおうち
へ帰ろうヨ〜」などと言ったりする。また好奇心の旺盛な子どもは、新しいことを見せる
と、「やる! やる!」と食いついてくる。趣味も多く、多芸多才。友だちも多い。

 そして忍耐力。子どもの忍耐力は、「いやなことをがまんしてする力」のことをいう。た
とえば台所の生ゴミを手で始末できる。寒い夜、回覧板を隣へ届けることができる、など。
忍耐力のない子どもは、「いやだア」と言って、逃げる。よく「うちの子どもは、サッカー
だと一日中しています。そういう力を勉強のほうに向けたい」と言う親がいるが、その子
どもは好きなことをしているだけ。サッカーを一日中しているからといって、忍耐力があ
る子どもということにはならない。

 反対に子どもを伸ばすには、この三つのことに心がける。たとえば頭をやわらかくする
ためには、いつも子どもの周囲に何らかの変化を用意する。

ある母親は、娘のために一日とて同じ弁当を作らなかった。そういう姿勢が、その子を
伸ばした。その娘はやがて女流作家になり、ある都市の教育委員長にまでなった。要す
るに、生活のハバを広くせよということ。その一例というわけではないが、昔から転勤
族の子どもは頭がよいという。つまり転勤という大きな環境的変化が、子どもによい影
響を与えると考えられる。

 好奇心を旺盛にするためには、親自身が自分の世界を広めるつもりで努力する。そして
子どもにいつも、それを体験させる。子どもがある特定のものに執着したり、固執したり
するのは、あまり好ましいことではない。たとえば虫なら虫ばかりに興味をもつとか、あ
るいは特定のズボンでないと、幼稚園へは行かないとがんばる、など。

 最後に生活力(忍耐力)をつけさせるためには、子どもを使って使って、使いまくる。
もう少し具体的には、家庭の緊張感の中に子どもを巻き込むようにする。「あなたがこれを
しなければ、家族の皆が困るのだ」というような雰囲気を、家庭の中に作る。親がソファ
の上に寝そべりながら、子どもに向かって、「新聞を持ってきなさい」は、ない。

 伸びる子どもは、ほかの子どもたちが伸びを止めるようなときでも、そのまま伸び続け
る。そしていやなことや困難なことがあっても、それを乗り越えていく。そして結果とし
て、ほかの子どもより伸びる。

ただしここでいう「伸びる」というのは、学習面で伸びるということではない。勉強が
できるできないは、あくまでも、その結果でしかない。


+++++++++++++++

●がんこな子ども

 「がんこな子ども」というときは、ふつう、つぎの二つのタイプを考える。(1)自分の
カラにこもり、かたくなな態度や様子を示す。ある男の子(年長児)は、幼稚園で、いつ
も同じ席でないと座ろうとしなかった。また別の男の子(年長児)は、毎朝、いつも同じ
ズボンでないと、幼稚園へ行かなかった。ほかに二年間、毎朝迎えにきてくれる幼稚園の
先生に、一度もあいさつをしなかった子どももいた。

 もうひとつは、(2)「自分が絶対正しい」と、かたくなになることをいう。このタイプ
の子どもは、その返す刀で、「相手は絶対にまちがっている」と主張する。そして結果とし
て、自分の思いどおりにならないと気がすまない。あるいは自分の思いどおりにしてしま
う。教える側からみると、ともに何を考えているかわからないタイプの子どもということ
になる。ふつう心と表情が遊離するため、柔和な表情や、穏やかそうな顔つきになること
が多い。

 こうした「がんこさ」は、子どもにとっては好ましくない。子どもの心に何か変調が起
きると、子どもはがんこになる。で、その対照的な位置にある子どもが、「すなおな子ども」
ということになる。

心と表情が一致している子ども、心のゆがみのない子どもを、すなおな子どもという。
うれしいときは心底、うれしそうな表情をする。悲しいときは、心底悲しそうな表情を
する。親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま
スーッと子どもの心の奥にしみこんでいくのがわかる。なおここでいう「心にゆがみの
ある子ども」というのは、ひねくれたり、つっぱったり、いじけたりしやすい子どもを
いう。
 
 子どもにこうしたがんこな様子が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、
家庭環境、とくに親子関係を反省する。もちろん生来の問題もあるが、コツは、今の状態
をより悪くしないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。

私はこのタイプの子どもを預かったときには、とにかく大声で笑わせることだけを考え
て指導する。実際、その「大声で笑う」という行為には、不思議な力がある。もしあな
たの子どもが、ここでいうような「がんこさ」を見せたら、どんな方法でもよいから、
大声で笑わせることに心がけたらよい。大声で声を出させるのもよい。
(02−9−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
がんこな子ども 子どものがんこ 子供のがんこ がんこな子供)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

******************************

さて、今日で、2007年度のマガジンは、おしまい。
次回は、1月1日、火曜日ということになる。

正月休暇のまっただ中だから、読んでくれる人も
少ないと思うが、私は、マイペースで、発行していきたい。

今までも、ずっと、そうしてきた。

で、2008年は、どういう年になるのか?

期待と、不安。プラス心配。私のばあい、現状を維持する
だけで精一杯。またそれができれば、御の字。

ただ新しいことには、どんどんと挑戦していきたい。
2007年は、毎月、4〜6万円分の本や雑誌を買った。
ボケ防止のためと考えれば、安い。

2008年度も、本や雑誌にだけは、惜しみなく、
お金を使いたい。私の知らないことは、目の前に、まだ、
山のようにある。

マガジンは、2月のはじめに1000号を迎える。
1000号だぞ! やっと目標の1000号だぞ!

自分でも、よくがんばったと思う。この4年間だけでも、
原稿用紙(40字x36行)で、2万1000ページもの
原稿を書いた。

2万1000ページといっても、ピンとこない。こないが、
500枚単位で売られている用紙に換算すると、42冊分。
1冊分が4〜5センチの厚さだから、2メートルくらいの高さに
なる。

もしだれかが、それらすべてをプリントアウトしてくれたら、
厚さ2メートル分にもなるということ。

そんな人はいない。いても、読む人は、いない。
不可能。読むだけでも、半年から1年はかかる。

……ということで、2007年度は、おしまい。

みなさん、ここまで読んでくれて、ありがとう。
ほんとうに、ありがとう。また来年も、がんばります。

浜松市    はやし浩司

********************************

【お願い】

 1年以上、マガジンを読んでくださり、これからも読んでくださる
方は、どうか、どうか、まぐプレ(マガジン有料版、月額300円)の
購読をお願いします。

 よろしく、よろしくお願いします。

 申し込みは、

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html

 で、していただけます。

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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2007年】

+++++++++++++++++

この原稿は、マガジン、12月31日
号用。つまり大晦日(おおみそか)。

先ほど、12月28日号の送信予約を、
入れた。で、ここからは、12月31
日号用。

その2007年を振り返ってみる。

いろいろあった。あったが、こういう
ときは、楽しかったことだけを、書き
たい。いやなことは、忘れる。2008年
まで持ち越さない。

+++++++++++++++++

●あいさつ

 何はさておき、読者のみなさんへ、

 今年、1年、マガジンをお読みくださり、ありがとうございました。読者のみなさんあ
っての、マガジンです。毎回、少しずつですが、読者の方がふえていくのを知るのは、ほ
んとうに励みになりました。

 ちかくの(わかば耳鼻咽喉科医院)のスタッフの方は、待合室に、私のマガジンの購読
申込書まで置いてくれています。それを知って、ほんとうに励まされました。この場を借
りて、厚く、お礼申し上げます。

 (本当なら、「置いてくれています」ではなく、「置いてくださっています」と書くべき
なのですね。が、私は、へりくだり語を使うのを、極力避けています。相手が、首相でも、
天皇でも、へりくだり語を使いません。どうか、お許しください。)

 今年も、今日でおしまいですね。来年、2008年も、みなさんにとっても、すばらし
い年となることを、心から念願しています。

 私もがんばります。ですから、どうか、みなさんも、がんばってください。ともに、す
ばらしい新年を迎えましょう。


●楽しかったこと

 楽しかったことは、たくさん、ありました。その一は、何と言っても、三男が無事、大
学を卒業したこと。3年間は、横浜の大学に。つぎの1年間は、オーストラリアに。そし
てつぎの2年間は、航空大学に。そして無事、J社に入社しました。

 現在は成田国際空港で訓練を受け、このマガジンが発行されるころは、羽田空港で。そ
して2008年のはじめからは、カルフォルニアで訓練を受けることになっています。

 とにかく「空」が好きな息子です。「会社も、給料も、どうでもいい。空を飛べれば」な
どと、言っています。

 つぎにワイフと、あちこち、旅行をしたこと。毎月のように、遠出をしました。毎週の
ように、ドライブをしました。「明日、しよう」と考えたら、できるだけ、今日、すること
にしています。「来週、しよう」と考えたら、できるだけ、今週、することにしています。

 母の介護で忙しかったときは、一時、中断しましたが、毎週曜日を決めて、街中の映画
館で映画を見ることにしています。50歳以上は、1人、1000円で見られます。6回見
ると、7回目は、ただです。

 年末にかけて、見たい映画が、毎週のように封切られます。すべてを見るつもりでいま
す。

 が、何と言っても、毎朝、起きるのが楽しかった。私は、起きるとまっさきに、書斎へ
入り、パソコンに電源を入れます。あちこちのニュースに目を通したあと、おもむろに原
稿を書き始める……。

 それが楽しかった。

 私にとって、「生きることは、考えること」。その考えることができる時間は、私にとっ
ては、たいへん貴重な時間です。

 たいてい、朝の5時、6時には、起きます。早いときは、4時に起きます。それから朝
食までの9時までが、私の時間です。

 その間に、マガジン用の原稿を書いたり、HPをいじったりします。マガジンの1日分
を書くのに、だいたい、4〜6時間、かかります。平均して、2日で、1日分のマガジン
を完成します。そして配信予約を入れる。

 朝、目を覚ましたとき、(やりたいこと)が、どっと押し寄せてくるのは、よいことです
ね。これからも、このリズムは大切にしたいと思っています。

 私はみなさんに情報を提供します。どうかこれからも、末永く、私のマガジンを、お読
みください。2008年の2月のはじめ、そのマガジンが、とうとう1000号を迎えま
す。

 つぎにめざすは、2000号です! どうか、また力を貸してください。

 そうそう、できれば、まぐプレ(有料版、月額300円)を、どうか、ご購読ください。
よろしくお願いします。


●2008年の抱負

 2008年の抱負は、HPのほうに書いておきました。とくに「抱負」というのは、あ
りませんが、「何があっても、乗り越えていく」ということだけを目標に、がんばっていき
ます。できるとか、できないとか、自信があるとか、ないとか、そういうことはあまり考
えないようにします。とにかく、やるしか、ないのです。

 2008年は、ワイフとオーストラリアへ行ってきます。ワイフにとっては、はじめて
のオーストラリアです。前から行きたいと言っていましたが、安易な気持ちでは、連れて
いきたくはなかったです。

 オーストラリアは、私にとっては、聖地です。だれにも汚されたくない、聖地です。私
の人生は、あのオーストラリアで始まり、今も、オーストラリアでのあの時代とともに生
きています。死ぬときも、(たぶん?)、あの時代を思い出しながら死ぬと思います。

 メルボルン大学のインターナショナルハウスは、グーグル・アースの、(下記座標)で見
ていただけます。今でも、このあたりを見ると、ときに、目が涙でうるみます。

37°47'17.46"S
144°57'29.11"E

ハウスへは、グーグル・アースを開いたら、(編集)→(プロパティ)へと進み、上記の
座標を、そのままコピーして貼り付けたあと、(OK)をクリックしてみてください。

 中央の赤茶色の屋根の建物が、食堂です。東西、広い公園にはさまれています。メルボ
ルン大学は、ハウスから、南東の方角にあります。中央に総合大学。周辺は、カレッジで
す。

 このハウスにワイフと2泊するつもりです。


●脳みそを使う
 
 ストレスはよくありませんね。しかし使うだけなら、脳みそは、使えば使うほど、効率
がよくなります。シナプスも発達します。ですから、脳みそは、使うにかぎる……。

 ということで、2008年も、脳みその健康も大切にしながら、原稿を書きつづけます。
みなさんとともに、「生きる」ことについて、考えていきたいと思います。

 たった一度しかない人生ですから、思う存分、有意義な人生にしたいですね。


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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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. みなさん、   o o β
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  /
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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 28日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●すばらしい秋

+++++++++++++

今日は、日曜日。
長男と、佐鳴湖を自転車で
一周した。

私は、ずっと、空を見あげながら、
一周した。

気持ちよかった。
青い空に、紅葉が、輝きながら
揺れていた。

+++++++++++++

生きていることは、すばらしい。
少し大げさな言い方に聞こえるかも
しれないが、その(すばらしさ)の
前では、どんな問題も、取るに
足りない、小さな問題。

歩く、走る、息を吸う。はき出す。
それができる人には、当たり前の
ことかもしれないが、そうでない
人には、そうでない。

その(すばらしさ)に、賢い人は、
それをなくす前に気づく。
そうでない人は、それをなくして
から気づく。

つまり生きることは、その愚かさとの
戦いということになる。

ささいな問題にとらわれ、悶々と、
心をこがす。同時に、その(すばらしさ)
を忘れる。

今朝は、こんなエッセーを書いた。

++++++++++++++++++

●体が動く!

++++++++++++++++++

だからといって、運悪く、そういう
状態になった人が、どうこうというわけではない。

そういう状態になりながらも、懸命に生きている
人は、いくらでもいる。家族の暖かい愛情に
包まれ、幸福な人は、いくらでもいる。

たとえば脳梗塞。「血栓性の脳疾患」ともいう。

たまたま私が脳梗塞になっていないのは、
ラッキーだったからにほかならない。

こうした病気は、運と確率の問題。
注意していても、なる人は、なる。
ならない人は、ならない。

今日はだいじょうぶだからといって、だれにも、
明日のことはわからない。来年のことは、
わからない。

5年後、10年後のことは、さらにわからない。

しかし現に今、同年齢の人たちの中でも
その脳梗塞で倒れていく人は、少なくない。

そのまま亡くなってしまう人もいる。
が、一命はとりとめても、さまざまな
後遺症に苦しむ。この病気のこわいところは、
その後遺症にある。

精神状態すら、変わってしまう人もいる。

そういう人たちを見かけるたびに、「明日は
わが身」と思う。胸の中に、ツンとした
緊張感が走る。

率直に言って、つらい。「私なら耐えられるだろうか」
とも思う。

若いころは、そんなことを考えもしなかった。
しかし今は、ちがう。こうした病気は、遠い未来の
話ではない。今という現実の、話である。

++++++++++++++++++++++

 あなたは体が動く喜びを、知っているか? 手や足が、思い通りに動く喜びを、知って
いるか? ふつうに会話ができて、ふつうに食事ができる喜びを、知っているか? 

 私は、知っている。知っているから、今日も、感じた。

 冬の冷気を全身で感じながら、自転車のペダルをこぐ。ブルッと体が震える。足のこわ
ばりを感ずる。しかしそれにかまわず、体を立てて、足に力を入れる。首をすぼめる。前
方をにらむ。腕をぐいと、内側に引く。

 私の体は動く。目が見える。音が聞こえる。風が肌をこするのが、わかる。私はそのと
き、私が生きていることを知る。

 この(生きていること)を原点に考えれば、ありとあらゆる問題が、空中を舞うホコリ
のようになる。とたん、それまで私を押しつぶしていた、わずらわしい人間関係が、煙の
ように消える。

 今日も、町の中にある教室へ来るまでに、何人かの人を見た。一人は車椅子に乗ってい
た。もう一人は、ガラス戸をあけて、どこかの店に入っていくところだった。半身が付随
なのがよくわかった。とくに、ガラス戸をあけて、どこかの店に入っていった人は、半身
が付随なのにあわせて、もう一方の半身もままならないといったふうだった。

 少し前の私なら、「ああ、よかった」「私でなくて、よかった」と思ったかもしれない。
しかし今は、そんな失礼な気持ちは消えた。「私が、こうして自転車に乗っていられるのは、
たまたま運がよかったからだけ」と。

 その人が私で、私がその人であっても、何もおかしくない。

 で、私は、先日、こう考えた。たいへん不謹慎な話に聞こえるかもしれないが、考えた
ことをそのまま書く。

 そのときも自転車をこいでいた。どこかの農道を、ハナ(犬)を引きながら、走ってい
たときのことだった。

 「私は脳梗塞になった」「私は、何年間も、寝たきりに近い状態だった」「が、その私が、
奇跡的に、助かった」「助かって、体が動くようになった」「自転車に乗ることができるよ
うになった」と。

 とたん自転車をこぐという、今まで何でもなかったことが、すばらしく価値があるよう
に思えてきた。

 似たような話だが、こんな手記を読んだことがある。その男性は、長い間、腎臓病を患
っていた。そして最後の手段として、腎移植手術を受けた。そのあとのこと。その男性は、
自分でトイレに立った。そのとき窓から日の光が入ってきて、その男性がする小便を照ら
した。その男性は、自分の小便が、黄金色に輝いているのを知った。

 その男性は、こう書いていた。「あまりの美しさで、思わず、自分の小便を、両手で受け
止めそうになった」と。(実際に、受け止めたと、それには書いてあったような気もする。)

 総じて言えば、「生きる」ということは、そういうことではないのか。つまりものが見え
る。耳が聞こえる。手が動く。足が動く。そしてものを考え、それを文章にすることがで
きる。それらすべてが、実は(喜び)に包まれている。小便をすることだって、大便をす
ることだって、ありとあらゆることが、実は、(喜び)に包まれている! つまりそれが(生
きる)ということ。

 賢い人は、そのもの価値を、失う前に気づき、愚かな人は、そのもの価値を、失ってか
ら、気づく。そのものの価値とは、第一には、「健康」をいう。つぎに「生きること」をい
う。

 そこで最大の問題は、どうすれば、私たちは、その(賢い人)になれるかということ。
もっと言えば、(生きていること)の中に隠されている(喜び)を、どうすれば知ることが
できるかということ。

 その(喜び)さえ知ってしまえば、もうこわいものはない。どんな問題も、その(喜び)
を引き立てる装飾品にすぎない。

 こういう言い方を、このエッセーの終わりにもってくるのは、よくないかもしれない。
しかし事実は、事実。

 どうせ死ねば、この世もろとも、私は消えてなくなる。それまでの人生。たった一度し
かない人生だから、生きて、生きて、生き抜く。全身で生きる喜びを受け止めながら、生
きて、生きて、生き抜く。

+++++++++++

(補記)

 実はこのエッセーを書き始める前、私はある人との人間関係に苦しんでいた。仏教にも、
「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉があるが、会いたくない人と会い、話をしたくな
い人と話をするのは、人間に与えられた、最大の苦しみのひとつという意味である。

 相手がそれなりにレベルの高い人であれば、それなりの対処の仕方もあるが、そうでな
いときは、自分自身の魂まで、汚される。それと戦うだけでも、精一杯。こちら側は相手
にしたくないのだが、相手のほうが、ペタペタと、容赦なく、私にくっついてくる。それ
が原因で起こる不快感は、相当なものである。

 先日も、私が「私は、あなたが思っているほど、バカではないとは思うのですが・・・」
というと、その人もこう言った。「私も、バカではありません!」と。

 そのとき私はこう思った。「バカにつける薬はないナ」と。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●脳の老齢化

++++++++++++++++

脳みそも、加齢とともに、老化する。
そのことがわからなければ、特別擁護
老人センターにいる老人たちを見れば
よい。

そこにいる老人たちにしても、ある日、
突然、ああなるのではない。少しずつ、
ほんとうに、少しずつ、長い年月をかけて、
ああなっていく。

言いかえると、現在の私や、あなたも、
少しずつだが、その「道」をたどりつつ
ある。

例外はない。むしろ「私はだいじょうぶ」と
高をくくっている人ほど、あぶない。

「私も心配」と、それなりの努力をして
人は、まだ救われる。

++++++++++++++++++

●老化の実感

 パソコンをいじっていると、ときどき、脳みその老化を実感する。つい先日までできた
何かの操作が、できなくなるときがある。そういうとき、「私の頭は、いったい、どうなっ
てしまったのか?」とさえ思う。心配になる。

 一方、私の知人の中には、こんな人がいる。今年、65歳くらいになるのではないか。
つきあうようになって、もう30年近くになる。親しくはないが、年に、1、2度、会っ
て、いっしょに食事をしたりしている。

 その知人だが、このところ、知性がその人から消えていくのを感ずる。ものの考え方が、
直感的で、短絡的。話の内容も、どんどんと浅くなっていく。話を聞くと、「この1年、本
や雑誌など、読んだことがない」と。「映画は?」と聞くと、「ああいうものは、頭が痛く
なるから、見ない」と。「外国映画(DVD)も見たことがない」とも言った。彼の家には、
DVDプレーヤーすら、ない。

 読むのは新聞だけ。しかもスポーツ欄だけ。そしてこうも言った。「私は、ものごとを深
く考えないタチでね」「考えても、どうもならない」「考えないで、気楽に生きたい」と。

 私は何度も「そういうものではないのだがなア」と思った。思ったが、年上の人に、そ
の生き様について反論するのも、気が引ける。

 しかし若いときはそれほどの差を感じなかったが、このところ、その差を、大きく感ず
るようになった。それは絶望感に近い(差)と言ってもよい。その人が、私の手の届かな
い、はるか遠くへ行ってしまったかのように感じた。

 そう言えば、介護施設で会う母にしてもそうだ。簡単な会話くらいなら今でもできるが、
その会話にしても、つぎの瞬間には、内容をすべて忘れてしまっている。「今日は寒いな」
「今日は暖かいな」という程度の会話で、終わってしまう。

 母ほどはひどくないにしても、それに近い。
 
●脳みその老化

 ただはっきりしていることは、脳みそも、肉体と同じように、老化するということ。肉
体の老化は、自分でも、客観的に判断することができるが、脳みそのばあいは、そうでは
ない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが老化するから、それに気づくのは、たいへ
んむずかしい。

 再び介護施設の老人たちの話になるが、「私はバカになった」と自覚している老人は、ま
だよいほう。「私はまともだ」「バカでない」とがんばる老人ほど、問題。ピック病(認知
症のひとつ)の老人などは、言うことだけはまとも。だからかえって、扱いにくい。・・・
というような話も、聞いたことがある。

 そこで重要なことは、(1)まず自分自身の脳の老化を自覚すること。特別な訓練をつづ
けないかぎり、脳みそは、確実に老化する。そういう前提で、自分の脳みそを考える。

 つぎに(2)知識や知恵が漏れ出ることはしかたないとして、大切なことは、それ以上
の知識や知恵を、補充していくということ。10の知識が漏れたら、100の知識を注入
する。100の知識が漏れたら、1000の知識を注入する。

 脳の老化と戦うということは、そういうこと。

 さらに(3)、脳みそというのは、タマネギの皮がかがれるように、老化していく。そし
て最後は、中心部の「芯(しん)」だけが残るようになる。そのため、古い記憶だけが表に
出てくるようになる。本人も、それだけが記憶だと思うようになる。

 しかしそうなったら、脳の老化は、かなり進んだと見てよい。わかりやすく言えば、過
去をなつかしんだり、過去の思い出に浸るようになったら、人間も、おしまいということ。
「死の待合室」に、一歩、足を踏み入れたことになる。


●高橋さんと話す

 昨日、高橋さんと電話で話す。実名である。つきあうようになって、もう35年になる。
私と同年齢で、来年、3月、役所を退職する。

 高橋さんのすごいところは、山小屋を、自分で建ててしまったこと。10年近い年月を
かけて、愛知県との県境に近い、Aという部落の中に、建てた。川のすぐそばで、「夏は使
い物にならないよ」とは言っていた。私もたびたび、遊びに行った。泊めてもらったこと
も、何度か、ある。

 (夏場は、川のそばの別荘は、蒸し暑く、それに虫の襲来がひどくて、使い物にならな
いという意味。別荘を建てるなら、丘の上の、風通しのよいところがよい。これは余談。)

 昨日、電話があった。「林さんのBLOGを読んでいたら、ぼくの名前が載っていたから」
と。うれしそうだった。だから今日も、高橋さんの名前は、こうして実名で書くことにす
る。

 その高橋さん、退職後は、本気で、「百姓」(高橋さんの言葉)をするという。広大な農
地も手に入れたという。今度の日曜日に、ワイフと草刈りの手伝いに行くつもり。(奥さん
に農業資格があって、それで農地を手に入れることができたという。これも余談。)

 その高橋さんが、電話でこう言った。

 「ぼくは、これから先もね、前向きに生きていくよ」と。

 大賛成! 中には、うしろばかり振り返って生きている人がいる。私も、一時、そうな
りかけたときがある。しかし先日、満60歳の誕生日を過ぎてから、人生観が一変した。
それまで行く手をさえぎっていた(年齢制限)を、撤廃することができた。とたん、気が
軽くなった。

 「どうせ、失敗しても、もともと」と。これからは思う存分、自分の人生を、生きる。

 昨日も、こういうことがあった。

 ワイフが、夕食を届けてくれた。30分ほど、休み時間があった。近くの公園の紅葉(も
もじ)の話をすると、ワイフが、「見たい」と言った。今が、紅葉、まっさかり! そこで
私はワイフを連れて、公園まで行った。

私「あのな、今夜、仕事が終わったら、映画を見に行かないか?」
ワ「今夜?」
私「そう、深夜劇場だ。今から、チケットだけ、買いに行こう」
ワ「紅葉はどうするの?」
私「もちろん、見る。映画も見る。両方、見る」と。

 というわけで、公園で紅葉も見た。仕事が終わってから、映画も見た。『ボーン・アルリ
メイト』とか何とかいう映画だった。目まぐるしいだけの、中身のない映画だった。星は
1個の、★。しかし楽しかった。ワイフと、ポップコーンを食べながら、見たのが楽しか
った。

 高橋さんと話をしていると、楽しい。前向きに生きている人と話をしていると、そのエ
ネルギーが、ビンビンと、こちらに伝わってくる。私の波長と一致する。

 そうそう、その高橋さん。もとはと言えば、オーストラリアの友人のK君の紹介で、知
り合った。そのK君が、2月に日本へ来る。それを話してやると、心底、うれしそうだっ
た。1月には、南オーストラリア州に住む、R君が来る。来年は、早々から、忙しくなり
そう!


●デニーズのこと

 二男の嫁が、デニーズ。私は、嫁でありながらも、そのデニーズを尊敬している。その
第一、英語がうまい。これは当然であるとしても、アメリカ人だから、みな、英語がうま
いと思うのは、誤解。

 それがわからなければ、日本人を見ればよい。日本人だから、日本語がうまいというこ
とにはならない。彼女の書く英文は、どんな英文でも、超一級。それくらいの読解力は、
私にもある。

 が、それ以上に、私は、デニーズほど、誠実な女性を知らない。どんなささいな約束で
も、きちんと守る。先日は、こんな記事が、二男のBLOGに載っていた。

+++++++++++++

6年目 

この前結婚したばかりのような気がしていたのだけど、今月でもう結婚生活6年目になる。

僕は結婚して2人のすばらしい子供にも恵まれ、文句の付け所のない幸せな暮らしをして
いる、と思う。僕は子供の頃、自分の将来に全くと言っていいほど何も期待していなかっ
た。20歳まで生きられればこんな人生沢山だ、とも思っていた。そんな僕でも、理想と
する家族の姿だけは毎日思い描きながら生きていたのだけど、そんな家族が今僕にはある
ような気がして、もう他に欲しいものなどない。

今日友達の家族が行っているモルモン教の教会で、「トラック・オア・トリーティング」っ
ていう、教会の駐車場でお菓子を配るイベントがあったので家族を連れて行ってきた。今
年の誠司はカウボーイ、芽衣は数年前誠司が嫌がって着てくれなかったスーパーマンの衣
装を「スーパーガール」ということにして、無理やり着せて行くことにした。(明日のトリ
ック・オア・トリーティングでもこの衣装にする予定。)早めに行ったのだけど、もうすで
にキャンディーがなくなりかけているトラックがあった。それを見てディニースが、「キャ
ンディーは誠司だけもらうことにして、芽衣のはいらないわ。他の子供達がキャンディー
をもらえなくなってしまうから」と言った。

僕はこういう妻が誇りに思えてならない。他人のことをまず先に思いやり、どんなにくだ
らない約束でも必ずそれを守る。道徳とか、誠実さとか、そういうのはいくら本を読んで
考えても、誰かから話を聞いても、簡単に身に付けられるような物ではないと聞く。しか
し彼女の日ごろの何気ない行動にはいつも色々教えられてばかりだ。これからも彼女と一
緒に生きていきたい。

+++++++++++++

 さらに、その向学心には、頭がさがる。子育ても一段落しそうなので、今度、奨学金を
得て、大学院へ進むという。誠司は、まだ5歳。芽依は、まだ1歳。が、すでにデニーズ
は、自分の将来を考えている。

 これをすばらしいと言わずして、何という? こういう女性をすばらしい女性と言わず
して、何という?

 かつて二男は、こう言った。「デニーズは、日本の女性より、謙虚深い」と。どういう思
いをもって二男がそう言ったのかはしらないが、今どき、謙虚な日本女性は、いない。さ
がしても、いない。

 親として(こういう言い方は、あまりしたくないが……)、ほんとうに、よかったと思う。


●読者のみなさん、ありがとう!

 このところ、私のHPへのアクセス数が、急速にふえ始めている。今まで、カウントは、
トップページしかとっていなかったが、今度、新しいサービスを導入した。それによって、
各ページへのアクセス数(=実際には、そのページへの件数と、ダウンロードサイズ)を
知ることができる。

 それを見て、驚いた!

 トップページを通さないで、直接、そろぞれのページにアクセスしてくる人が、こんな
にもいるとは、知らなかった。私のHPは、数百ページ以上あるが、どのページにも、平
均して、40〜60人。ダウンロードサイズも、各ページ、1〜10MB!

 単純に計算しても、1日、1〜2万人! (本当は、同じ人があちこちを見てくれると
いうこともあるので、1〜2万件と書くのが、正確。)それにしても、1〜2万人とは! 実
際には、もっと、多い。

 こうなると、やる気満々! さっそく、昨日、「ママ100賢」を、充実させた。新しく、
100ページ、追加した。(読んでくれる人は、「はやし浩司のHP」より、どうぞ!)

 「生きがい」というのは、こうして生まれるものか? 私は、情報を提供する。それに
対して、読者の人が、私に(生きがい)をくれる。自分ひとりだけの世界に閉じこもって
いたのでは、生きがいは、生まれない。今朝も、朝、起きるのが、楽しかった。

 読者のみなさん、ありがとう! おはよう!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私の中学時代】(1)

●OK君

 「中学時代」という言葉を口にして、最初に思い浮かぶのは、OK君のことだ。ザワザ
ワとした記憶の雑踏の中から、まっさきに、彼の顔が飛び出した。色白の、都会的な顔立
ちをしていた。1年生のころは、飛び抜けて成績がよく、私は、OK君には、いつも一目、
置いていた。

 家は、高校の敷地内の職員宿舎にあった。父親が、高校の教師をしていた。町をはさん
で、OK君の家と、中学校は、正反対の位置にあった。私の家は、町の中心部にあった。

 OK君の家には、よく遊びにいった。ついでに高校のプールで泳いだりもした。今で言
う、転勤族で、私の知らないことを、たくさん知っていた。

 が、記憶というのは、残酷なものだ。懸命にOK君のことを思い出そうとするのだが、
あの顔立ちだけで、それ以上のものがつづかない。私のことを、「林君」「林君」と、慕っ
てくれた。腕力は、私のほうがあった。

 名前すらも、忘れてしまった。たしか「博士」の「博」という字があったように思う。
そのOK君は、中学2年生になると同時に、どこかへ引っ越していった。

 私の印象では、その後、OK君は、どこかの大学の教授になったかもしれない。中学時
代のOK君には、すでにその雰囲気が備わっていた。

●クラブ

 私は中学時代、コーラス部と、天文部に属していた。運動部には、入っていなかった。
そのかわりというわけではないが、市内の柔道の道場に、週2、3回、通っていた。

 コーラス部といえば、まっさきに思い出すのが、ST君のこと。彼の弟は、その後、野
口五郎というタレント名で、日本でも有名な歌手になった。ST君は、私より2年、下だ
った。美しい声の持ち主だった。「ボーイソプラノ」を担当していた。

 天文部では、太陽の黒点観測が、いちばんのテーマだった。ほかに反射望遠鏡を作るた
め、毎日、放課後にガラス磨きをした。直径が20センチほどのガラス板を磨いて、レン
ズを作った。

 そのあとそのレンズがどうなったかは、知らない。たしか、大きな反射望遠鏡になった
ような気がする。みんなで、披露会のようなものを開いたのを、記憶のどこかで覚えてい
る。よくは覚えていない。

 柔道は、けっこう、いい線までいった。よく対抗試合にでかけていった。私の得意技は、
大外刈り「おおそとがり」と読む。相手の体を少し回し、バランスを崩させる。そのとた
ん、自分の足裏で相手の足を止め、腕をぐいと引いて倒す。そのバランスを崩させるのが、
天才的に(?)、うまかった。当時は、白帯の上が、茶色帯で、私は、その茶色帯を腰に巻
いていた。黒帯は、高校生以上のものだった。

 が、中学3年の終わりごろ、鎖骨を2度つづけて折って、それで引退。ちょうど受験期
に重なったこともある。

 そんなわけで、今でも、合唱は好き。望遠鏡も好き。それに柔道も、大好き。

●小学時代

 私は小学時代には、わんぱく少年で、通った。いつも「お山の大将」だった。学校から
帰るときも、まっすぐ家に向かって帰ったことは、ほとんど、ない。毎日、道草の、その
また道草を食いながら、家に帰った。

 私は今から思うと、帰宅拒否児ではなかったかと思う。家は嫌いだった。自分の居場所
すら、なかった。

 だから、近くの山の中に、「小屋」とか、「陣地」とかいう名前の、自分だけの住み処(す
みか)をよく作った。少し穴を堀り込んで、その上に棒などをわたして、家をつくった。
屋根は、草や葉を使った。

 当時の私は、杉の木でも、平気で登って遊んでいた。身が軽かった。山の下は墓地にな
っていたが、墓から墓へと、ひょいひょいと、跳んで渡ったのを、よく覚えている。

●繁田晴伸先生

 1年のときの担任が、繁田晴伸先生だった。定年間際の先生で、当時の私から見ると、
おじいさん先生だった。

 きびしい先生で、その上、がんこだった。私はこの先生に出会って、始めて、中学校を
知った。こんな話は自慢にならないが、私が、繁田先生に叱られた、第一号だった。たし
か、外へ出るとき、下駄箱の横にあったスリッパを蹴散らしたのが理由ではないかと思う。
そのとき、叱られた。

 あとになって、「お前は、ぼくが叱った、第一号だ」と、先生に、よくからかわれた。

 やせた、小さな先生で、歯が大きく、外へ飛び出していた。私が先生の似顔絵を描くと、
「ぼくによく似ているなあ」と、よくほめてくれた。タバコが好きで、教室でも、職員室
でも、タバコばかり吸っていた。渡り廊下を歩いているときも、タバコを吸っていた。

 繁田晴伸先生というと、タバコ。タバコ、またタバコ。ほかに思い出すことは、あまり
ない。私は、繁田先生の家に、よく遊びに行った。いや、遊びに行ったのは、先生が退職
してからで、私が高校生のときのことではなかったか。大学生になってからも、ときどき、
行った。それで繁田晴伸先生のことは、印象に強く残っている。

 言い忘れたが、すばらしい先生だった! 大好きだった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
繁田晴伸 先生)


●戸谷成好先生

 中学2年と3年のときの担任が、戸谷成好先生だった。当時、私の中学は、11クラス
まであって、どのクラスも、1クラス、53〜55人だった。

 ときどきサッカーをしたが、22人で、1チームを編成した。だから私は、ずっとあと
になるまで、サッカーというのは、1チーム、22人で、プレーするものだとばかり思っ
ていた。

 だからというわけでもないが、その分だけ、先生と私たちとの関係は、希薄だった。先
生の思い出はいろいろあるが、それは私という(生徒)からの一方的な思い出でしかない。

 品格のある、ひょうひょうとした先生だった。性格は温厚で、私は戸谷成好先生が、自
分を取り乱して、怒鳴ったり、怒ったりしたのを見たことがない。何かを質問すると、ニ
コニコと笑いながら、いつまでもていねいに、教えてくれた。

 当時、まだ若い先生だったから、今でも健在なはず。ただインターネットでいくら検索
しても、先生の名前は出てこなかった。かわりに、戸谷○○という人の名前が出てきた。
東京で、ドクターをしているという。出身地を調べると、戸谷成好先生と同じ郷里になっ
ているので、戸谷成好先生の息子氏ではないかと思っている。(つづく)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・雑感(11月24日)

++++++++++++++++++++++

昨日、やっと寒さがゆるんだ。それでも
早朝の気温は、11度前後。12月下旬
並みの寒さだったという。

その昨日、いくつかの仕事をした。

まずHPに、『子育て格言、ママ100賢』の
第201〜250を、収録した。

この本は、山手書房新社というところから
出版したものだが、現在は、絶版になって
いる。だからこうして無料で、公開しても
問題はない。

で、どこの出版社もそうだが、「HP上で
公開していいか?」と問い合わせると、
返事は、たいてい、「NO!」。ほとんど
絶版状態にある本についても、そうである。

著者には、著作権というものがある。
出版社には、版権というものがある。
いくら自分の書いた本でも、出版社の版権を
侵すことはできない。

ところで、先日、こんなメールをもらった。
その人には悪意はないと思うが、また悪い
人だとは、思っていないが、こういう
内容のものだった。(G県のOさんより。)

何でも私の原稿をもとに、自分の原稿を
書いている。ついては、具体的な例を、
それぞれあげてほしい、と。

読者の皆さんが、私のエッセーを読んで、
家庭という場で、それをどう活用するかは、
その人の勝手。私は、関知しない。自由に
それをしていただいて、構わない。

しかし原稿の流用は別。いわんや、どこかで
発表するために、私の原稿を流用するなどという
ことをしてもらっては、困る。たいへん困る。

もの書きには、もの書きの世界の常識という
ものがある。その人からのメールは、その
常識から、完全にはずれていた。

(ちょっと言い過ぎかもしれませんが、
Oさん、お許しください。)

+++++++++++++++++++++

●「フレックス・レイ」って、何?

 どこかのニュースを拾い読みしていたら、「フレックス・レイ」という言葉が目にとまっ
た。

 「フレックス・レイって、何?」

 そこでヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、NECのHPには、こうあった。

 「NECエレクトロニクス(社長:TZ、本社:神奈川県川崎市)はこのたび、新たに車内
用LANのプロトコルである、FlexRayの推進団体である、「FlexRay Consortium」に加
入いたしました。NECエレクトロニクスはかねてより、車内LAN制御機能の製品展開
をマイクロコンピュータを中心としたシステムLSIで取り組んで参りました。今回のコ
ンソーシアム加入は、当社の車内LAN分野でのシステムLSI事業を更に強化するもので
あります」と。

 要するに、車の中のLANに関する、新しい制御装置のことらしい。近年、車自体が、
全体として、パソコン化している。いろいろな装置が、有機的につながっている。エンジ
ンの指導、ドアの開閉、スピード制御などなど。それを一体的に制御するのが、「フレック
ス・レイ」ということらしい。(まちがっていたら、ごめん!)

 私は、この記事を読んで、「フ〜ン」と感心したり、驚いたり。毎日のように、こうした
新語が生まれる。またそれを知らないと、時代の流れについていけない。それにしても、「フ
レックス・レイ」……ネエ。

 あなたは知っていたか? 私のばあい、こういう新語に出会うと、どうしてもその意味
が知りたくなる。知らないまま、すますことができない。知らないまま、記事を読んでい
ると、イライラする。

 ここまで書いて思い出したが、「シャワー方式」。以前、「シャワー方式」という英語教育
法があった。英語をシャワーのように子どもに浴びせかけながら、英語を教えるという方
法である。英語だけを、ガンガンと子どもに聞かせる。日本語はなし。日本語の解説も、
なし。

 どこかの大学の教授が、どこかでそういう論文を読んだらしい。そこでその方式に沿っ
た、子供向けの英会話教材が開発された。私にも、相談があった。が、私は、即座に、反
対した。

 それがわからなけば、ドイツ語のラジオ放送を、30分だけでも聞いてみることだ。(ド
イツ語のわかる人は別だが……)。たいてい5〜10分もすると、イライラしてくるはず。
あるいは毎日、ドイツ語の放送を、1時間聞いたとしても、ドイツ語を話せるようになる
とは、思わない。……思わないと言うより、そういうことはありえない。

 相手が子どもなら、なおさらである。

 言葉というのは、そういうもの。「フレックス・レイ」という言葉を見たとき、別の心で、
そんなことを考えた。

 ついでに「プロトルコ」って、何?

 「パソコン用語事典」(秀和システム)によれば、「コンピュータ同士で通信する際に必
要な規則」とある。

 コンピュータ同士で、データをやりとりするときには、情報の形式が統一されていなけ
ればならない。通信速度や通信方式、エラーチェックの方法など。そういった約束事項を
統一したものを、プロトルコというらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケア・センターの女性

 母が入居しているケア・センターに、1人の女性がいる。年齢は、93歳だという。母
に会いにいくたびに、大広間にあるソファに座っている。

 「若いときは、さぞかし美しい人だったのだろうな」と思わせるほど、目鼻立ちが整っ
ている。背も高い。いや、実際の背の高さはわからないが、いつ見ても、背筋が、ピンと
伸びている。

 その女性が、5〜10分ごとに、部屋中に響き渡るような大声をあげる。金きり声に近
い。

 「オーイ、メシはまだかア!」
 「わっち(=私)にも、センベー、くれエ!」
 「オーイ、昼飯を食べておらんぞオ!」と。

 間脳(=視床下部)の命ずるがまま、声を発している。それをコントロールする前頭前
葉の活動は、あまりよくないらしい。しかし私はその女性を見るたびに、こう思う。

 「人間も、年をとると、こうなるのか」と。

 しかしここで重要なことは、どんな人もそうなのだろうが、ある日、突然、そうなるわ
けではない。徐々に、徐々に、少しずつ、そうなる。年齢のことはよくわからないが、早
ければ、50歳前後から、そういう傾向が現れてくるのではないか。

 (知的な緊張感が持続できなくなる)→(その人の「地」が、表に出てくる)→(本能
の命ずるがまま、行動するようになる)、と。

 ここでいう「知的緊張感」を司(つかさど)るのが、前頭前葉ということになる。わか
りやすく言えば、この部分が、「理性の司令塔」として機能する。この部分の働きが鈍くな
れば、人間の行動は、より動物的になる。より本能的になる。あるいは、幼稚っぽくなる。

 交通事故か何かで、前頭前葉に損傷を受けた人が、話し方まで、幼くなることは、よく
知られている。

 で、その女性を見ながら、「あの人は、若いころ、どんなだったのだろう」と、よく考え
る。今から、60〜70年前には、さっそうとしたイデタチで、街の通りを闊歩(かっぽ)
していたにちがいない。様子からして、恋愛もし、結婚もし、子どもももうけたにちがい
ない。

 そんな女性が、今、「オーイ、メシはまだかア!」と。今は、まさに、「恍惚の人」(有吉
佐和子)ということになる。

 が、これはけっして、他人の話ではない。私の近未来像であり、あなたの近未来像でも
ある。有吉佐和子は、「恍惚の人」の中で、「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老
もうが待ち受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」と書いて
いる。

 有吉佐和子の心情が、ひしひしとよくわかる。


●絶版本のHPへの収録

 先ほど、絶版となった本を、私のHPに収録したと書いた。今回は、50作分、100
ページ分を収録した。

 それが結構、たいへん。

 ます1ページごと、スキャナーでパソコン内に、取り込む。つぎにそれを、FLICK
R(=無料、画像登録サイト)に、登録する。HPの編集ソフトをたちあげ、ひとつずつ、
HTMLタグをはりつけていく。

 50作分を収録し、HTML送信が終了するまで、休みなく作業を繰りかえして、約2
時間半もかかった。私は、子どものころから、こういう単純、反復作業が苦手。しかしこ
うしてHPに収録することによって、一度は絶版となった本が、そのまま蘇(よみがえ)
る。

 めんどうな作業だったが、それをし終えたとき、ほっとした安堵感を覚えたのは、その
ためか?


●同窓会

 1月に、中学の同窓会がある。ほぼ30年ぶりではないか。当初は、出席を迷ったが、
今となっては、出席したいという気持ちのほうが、強い。

 過去は過去だが、私の人生の一部であることには、ちがいない。みんなどんふうに変わ
ったのかということよりも、どんなふうにこれからの人生を送ろうとしているのか、それ
を知りたい。

 恐らく、同窓会といっても、その場で会って、その場で別れて、それでおしまい。旧交
を温め、それをこれからの未来に生かしていくということは、ないだろう。で、今、いく
つか心に決めていることがある。

 すでに亡くなった人も多いかと思うが、務めてそういう人たちの話はしない。今、みな
が、どんな生活をしているか、そうした安易な詮索もしない。病気の話は、しない。話を
するとしても、中学時代の思い出にかぎる。

 中学時代の私には、(浮いた話)は、何もない。ガールフレンドもいなかった。好意を寄
せた女の子は、何人かいたが、そういう女の子に、私の気持ちを、相手に伝えたことはな
い。

 ラブレターをもらったことはあるが、どの人も、1〜2歳、年下の女の子ばかりだった。
だから今回の同窓会では、とくに気になる女性というのは、いない。が、考えてみれば、
これはとてもさみしいことだ。「異性は、同窓会の花」とも言う。(私が勝手にそう言って
いるだけだが……。)その「花」がない。

 ただ恩師の消息は、知りたい。

 とくに世話になったのが、繁田晴伸先生。「しげた・はるのぶ」と読む。社会科の先生だ
った。1年生のときの担任。当時すでに定年間際だったから、もし元気なら、今年、10
0歳前後になっているはず。

 つぎに戸谷成好先生。2年、3年のときの担任。インターネットで検索してみたが、見
当たらなかった。同姓のドクターが、現在、東京で活躍していることは、わかった。私は
そのドクターは、出身地からして、戸谷先生の息子氏ではないかと思っている。

 ほかに成戸先生。数学の先生だった。Sという先生にも世話になった。音楽の先生だっ
たが、女生徒に手を出し、教職を棒に振っている。私には、いい先生だった。……などな
ど。

 地元に残った友人たちは、こうした話をよく知っているにちがいない。

 友人では、何といっても、砂場君、西部君、須山君、金子君、三輪君に会いたい。みな、
45年ぶりの再会となる。もし同窓会に来てくれれば、の話だが……。


●生涯、現役!

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。着いたときには、すでに午後11時近くになってい
た。

 床の間の掃除をした。正月から2月にかけて、オーストラリアの友人たちが、3週間単
位で、泊まっていっていく。うれしい、楽しみ、プラス、うらやましい!

 日本人は、私も含めて、いつも時間に追いかけ回されている。ピーター・パンに出てく
る、フック船長のようなもの。時計を飲み込んだワニに、いつもビクビクしている。チク
タク、チクタク……と、

定年退職の年齢になったとはいえ、私には、1週間以上の休暇は、まだ、無理。また、
私は、それでよいと納得している。

 内閣府の調査によれば、75歳で、現役で仕事をしている人は、10%程度だという。
私は、その10%をめざして、がんばる。80歳をすぎても、現役でがんばる。80歳に
なったとき、「1週間以上の休暇は無理です」と言えたら、いいな。

 そのための健康づくりだけは、大切に。「健康づくり」というよりは、「健康の維持」。今
ある健康を、大切にしたい。


●韓国の株価

 つい先月までは、韓国のウォン高が問題になっていた。先月は、1ドル=900〜90
5円前後を、ウロウロしていた。が、今は、1ドル=930〜40ウォン。つまりウォン
安。

 韓国を包む経済情勢が、一変した。世界的なドル安。「アメリカの終わりの始まり」とい
うコラムも、どこかで読んだ。

 その影響を受けて、世界の通貨は、ドルに対して、ジリジリとあがり始めている。日本
円も、1ドル=110円前後から、昨日現在は、1ドル=108円まで上昇した。が、韓
国のウォンだけは、ウォン安!

 わかりやすく言えば、韓国そのものが、売りに出されている。原油価格の上昇と重ね合
わせてみると、今、韓国国内がどういう状況になっているかは、容易に察しがつく。

 それに加えて、株価(KOSPI)の大暴落。先月には、2050ポイント前後もあっ
た株価が、現在は、300ポイント近くも、さがっている。韓国のバブル経済が、今、ま
さに、はじけつつある。

 日本は、そのとき不良債権を、銀行が抱えた。韓国は、今、個人がかかえている。その
額、日本円に換算して、90兆円。(90兆円だぞ!)日本の人口規模に換算すると、約3
倍して、270兆円! アメリカのサブプライム・ローンによる焦げ付きが、40兆円前
後と言われている。それと比べただけでも、90兆円という額が、いかにデタラメな額か
が、わかる。

 日本人の私の知ったことではないが、私は同情しない。あれだけ反日感情をむき出しに
されると、同情のしようがない。

 そこで韓国の銀行は、短期外債という名前の借金を重ねに重ねてきた(※1)。韓国の国
民は、そのお金を銀行から借り、株の投資に、血眼(ちまなこ)になった。もしここで株
価が低迷するようなことにでもなれば、(すでに低迷を通り越して、暴落し始めているが…
…)、韓国経済に、明日はない。

 (韓国では、こうした短期外債の借り入れまで、「その他の収支」として、資本収支の中
に、黒字として、計上している。粉飾も、ここまでくると、あきれるというより、笑えて
くる。簡単に言えば、つぎのような手段を、とる。

ウォン高を是正するためには、ドル買い、ウォン売りをしなければならない。しかしそ
れには元手がいる。そこで短期外債という形で、外国から借金をする。その借金で、ド
ルを買う。韓国政府は、ドルをかかえこむことになる。タンスに入れておいても、意味
がない。そこでそのドルで、アメリカの国債などを買う。その国債などを、外貨準備高
に算入する。借金をすればするほど、外貨準備高がふえるという、魔法のような手口は、
こうして説明される。)

 ウォン高から、一転して、行き過ぎたウォン安。原油が1バレル=100ドル近い現在、
韓国は、どうやって、やっていくつもりなのか。すでにガソリンは、韓国では、1リット
ルあたり、日本円で200円を超えている。

 皮肉な言い方をすれば、現在のN大統領には、あと5年、韓国の大統領をしてもらいた
い。韓国経済は、さらに、メチャメチャになる※。

 かつてあの小泉元総理は、公の場所で、こう言った。「後悔するのは、韓国のほうだ」と。
韓国のN大統領が、反日発言を繰り返していたときのことである。

注:私は拉致問題について、抗議の念をこめて、K国の金xxは、「金xx」と表記してい
る。そしてその金xxを援助してやまない、韓国のN大統領を、「N大統領」と表記してい
る。)


+++++++++++++

(注※1、東亜N報、11月24日付記事より)

●外国からの資金調達も困難

韓国政府が海外で発行した外国為替平衡基金債権(外平債)の加算金利が、急騰(外平債
の価格は急落)するなど、金融への不安心理が広がっている。 

23日、ソウル証券市場ではグローバル金融市場への不安に、未来(ミレ)アセット資産
運用の先行売買のうわさまで加わり、コスピ指数は前日より26・14ポイント(1・4
5%)下がった1772・88で取引を終えた。 

株価が7日連続下落したのは、04年10月7〜15日以来、3年1か月ぶりのことだ。
コスピ指数は今月15日の1972・58から下落し始め、23日まで199・7ポイン
トも下がった。 

また、国際金融市場では安全な資産を好む傾向が目立ち、韓国政府が発行した14年満期
の外平債は21日現在、米国の国債金利より1・03ポイント(103bp)高い水準で
取引され、同債権が04年発行されて以来、加算金利は最高値を記録した。 

25年満期の外平債の加算金利も1.3%まで上がり、同じく発行以来最高値を記録して
いる。 

外平債の加算金利が上がれば、国内の各銀行や企業が海外で発行する債券の加算金利が

もに上がり、海外からの資金調達が難しくなる。 

一方、市中金利の上昇の勢いが続き、変動金利付住宅ローンの基準金利である91日満期
の譲渡性預金証書(CD)金利は年5・50%で、前日より0・01%上がり(CD価格
は下落)、01年7月以降、6年4か月ぶりに、再び、年5・50%台に進入した。 

これを受け、銀行から融資を受けて住宅を購入した人たちの利息への負担はさらに増大す
るものと懸念される。

+++++++++++++++

 韓国でいう「外国為替平衡基金債権(外平債)」というのは、外国で発行する、国債のよ
うなもの。その国債が売れないときは、金利を高くする(=おいしいエサをつける)。その
金利が、04年以来、最高値を記録しているという。

 韓国では、こうして集めたお金で、ドルを買い、ウォンを売っている。当然のことなが
ら、こんなことを繰りかえしていたら、韓国内は、ウォンでジャブジャブになってしまう。
そこで韓国銀行は、そのウォンを吸収するために、別枠で、「通貨安定証券」なるものを発
行している。(韓国政府ではなく、韓国銀行が、だぞ!)

 事情を知らない韓国の新聞各社は、「外貨準備高が、世界で〜〜位になった」とはしゃい
でいるが、言うなれば、借金で、外貨を買っているようなもの(※2)。日本では考えられ
ない、もう、メチャメチャな経済政策と言ってよい。


+++++++++++++++++++++

(注※2)

「韓国銀行によると今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億90
00万ドルと、韓国の外債全体の44・3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97
年末)の36・6%よりも7.7ポイント高い」(東亜N報、11月)

 わかるかな? 韓国の外債の内、44%あまりが、短期外債(=借金)によってつくら
れた外債ということ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争(11月25日版)

++++++++++++++++++++++

昨日、「韓国銀行によると、今年6月末
現在、満期1年未満の短期外債の規模は、
1378億9000万ドルと、韓国の外
債全体の44・3%に達する。この比率
は、通貨危機当時(97年末)の36・6%
よりも7・7ポイント高い」(東亜N報、
11月)と書いた。

「短期外債」というのは、1年以内に返済
しなければならない、(外国からの借金)を
いう。その借金が、44%にもなったという。
わかりやすく言えば、その割合が大きければ
大きいほど、その国の財政状況は、悪化して
いるということを意味する。

韓国は、その短期外債をつぎつぎと借り入れ
ながら、今まさに、財政の自転車操業を
繰りかえしていることになる。

+++++++++++++++++++++

「韓国政府が海外で発行した外国為替平衡基金債権(外平債)の加算金利が、急騰(外
平債の価格は急落)するなど、金融への不安心理が広がっている」(東亜N報)と。 

「外国為替平衡基金債権(外平債)」というのは、日本でいう「国債」のこと。つまり政
府の借金。東亜N報の記事によれば、現在、韓国では、その借金が、ままならなくなっ
てきたということらしい。

 その額、06年9月時点で、18兆ウォンと言われている。直近の為替相場で換算する
と、日本円で、約2・1兆円。

 「2・1兆円」と聞いて、「ナーンダ、たったの2兆円ではないか」と思う人がいるかも
しれない。しかしそこは韓国。ちゃんと、その裏には、カラクリがある。「通貨安定証券」
という、カラクリである。

 国債、つまり「外平債」は、韓国政府という「国」が発行する。この「外平債」とは別
に、韓国では、韓国銀行(=日本の日銀に相当)が、独自に発行する、「通貨安定証券」な
るものがある。中身は、国債とまったく同じ。金利を払いながら、市中から、ウォンを吸
い上げている。

 その通貨安定証券の残高が、約200兆ウォンほどあるとされる。日本円で、23兆円!
 これにほかの国家債務を加えると、約400兆ウォン以上。日本円で、46兆円以上!

 日本政府も、多額の借金をかかえているが、いわば(身内の借金)。しかし韓国政府は、
外国に向かって借金を繰りかえしている。

 もしここで、日本の円が、少しでも円高に振れたら、(すでに円高に振れてしまったが)、
韓国経済は、たいへんなことになる。借金の大半が、日本からのものだとすると、そのと
たん、その分だけ、借金の額が肥大化することになる。

 わかりやすく説明しよう。

 あなたは日本の銀行から、1億円、借りた。1円=8ウォンで計算すると、あなたは8
億ウォンを手にすることができる。あなたはそのお金で、株を買ったり、マンションに投
資をすることができる。

 が、円高になり、1円=10ウォンになったとする。そうなるとあなたは、1億円を返
すために、10億ウォンを用意しなければならない。つまり借金が、2億ウォンふえるこ
とになる。

 そこへさらに、ウォン安が加わったら、どうなるか? 実質の借金額は、さらにふえる
ことになる。(すでにウォン安に振れてしまったが……。)

 が、その借金の返済が、ままならなくなってきた。そこであなたは、さらに借金に借金
を重ねる。それが、「韓国銀行によると、今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規
模は、1378億9000万ドルと、韓国の外債全体の44・3%に達する。この比率は、
通貨危機当時(97年末)の36・6%よりも7・7ポイント高い」(東亜N報、11月)
という部分に集約されている。

 この中で、とくに、「この比率は、通貨危機当時(97年末)の36・6%よりも7・
7ポイント高い」という部分に注目してほしい。これだけでも、韓国経済が、今、いかに
危機的な状況にあるかが、わかる。

 なお韓国政府は、ここに書いた、「通貨安定証券なるものは、韓国銀行の発行しているも
のだから、韓国政府、つまり国の借金ではない」という煙幕を張っている。つまり国の借
金から、除外している。これが韓国一流の、カラクリである。

 さて今日の朝鮮N報によると、こうある(11月25日)。

 「こうした状況を物語るかのごとく、04年まで国内証券市場の42%を占めていた外
国人の割合(時価総額基準)が、最近では31%にまで急減した」と。

 外資が、雪崩を打って、韓国から逃避し始めていることを示す。

同じく、朝鮮N報は、「これまで外国人投資家が左右していた国内証券市場が、自然に機
関投資家らに代替されたのは、国内証券市場がそれだけ成熟し、世界的な経済変数から
独立性を確保した証拠だと見ていい。ちなみに台湾の証券市場も外国人の割合が32%
で、韓国と同水準だ」と書いている。

 「台湾と同じ水準だから、だいじょうぶ」と。

 31%なら、31%でよい。その水準で安定していれば、それでよい。問題は、「42%
から31%まで減った」ということ。さらに、そこで止まるという保証は、どこにもない。
それが韓国が現在かかえる、時限爆弾ということになる。

 日韓経済戦争といいながら、実は、韓国は、何も、日本が手をくださなくても、今、自
滅に向かって、まっしぐらに進んでいる。

 なお韓国政府は、今、この時期に、強制連行された韓国人に対して、日本円で、1人当
たり、200〜250万円の補償金を与えると発表した。日本へのアテこすりのようにも
聞こえる。

 しかし戦後、日本政府は韓国に、莫大な額の戦後補償金を支払っている。当時の韓国政
府は、そのお金を、すべて、国家の再建に使ってしまった。「漢江の奇跡」というのも、そ
れで起きた。日本政府も、そのお金がどう使われるか、不問にしたこともある。

 それを今になって、「被害者に補償しなかった」と、日本政府を非難している! それが
ここでいう「アテこすり」という意味である。

 これは余談。


●庭の枯れ葉

 外がだいぶ、明るくなってきた。窓をあけてみると、枯れ葉の山。これから服を着がえ、
枯れ葉を集めて、焚き火。

 今、ワイフが台所で、朝食の用意を始めたところ。それを食べたら、作業にとりかかる。

 そうそう昨夜、ワイフと長男は、「ゾーディアック」というDVDを見た。私は、見なか
った。私は、その間、コタツの中で、居眠り。終わってから、「どんな映画だった?」と聞
くと、「まあ、星は、2つの、★★ね」と言った。「2つも、無理かもしれない」とも。

 私は、見ないことにした。

 ところでおととい見た、ブラッドピット主演の『バベル』だが、日本側のシーンに出て
きた女優は、撮影当時、24、5歳だったという。映画の中では、女子高校生を演じてい
た。全裸シーンも、何か所かあった。

 どこか暗さをたたえる高校生として描かれていたが、アカデミー賞で、何かの賞を取り
損ねたという話を耳にしたことがある。「外人って、ああいう女性が好みなのかなあ」と思
ったりする。

 ところで、一言。

 世界の映画ファンたちよ、ああいう映画を見て、「あれが日本」と、どうか、思わないで
ほしい。よくアメリカ人の友人たちは、こう言う。「ヒロシ、ハリウッド映画だけを見て、
これがアメリカと思わないでくれ」と。それと同じ。

 くれぐれも、よろしく。



●冒頭に書いた、読者の方へ(G県のOさんへ)

 けっして悪意があって、そういうメールをくれたのではないと思う。それはよくわかっ
ている。返事に、私は、「非常識なメールに、憤慨しています」と書いたが、その気持ちは
今も、変わっていない。が、この言葉は、あなたには大きなショックを与えたかもしれな
い。それはそれとして、あなたのこれからの執筆活動の勉強になればと願っている。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 26日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「今」を知らない子どもたち

+++++++++++++

「今」を生きるということは、
今を懸命に生きること。

結果は、あとからついてくる!

+++++++++++++

 私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと二人で、車で日本一周をするつもりです」
と。しかし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。

 日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視す
る。「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。

しかし大切なのは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。こうした結果を大
切にする考え方は、日本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。その一つが、
「未来」のためにいつも「今」を犠牲にするという生き方。

たとえば幼稚園は小学校入学のため、小学校は中学校や高校の入学のため、さらに高校
は大学入試のため、大学は就職するためと考える親は多い。そう考えるのは親の勝手だ
としても、子どももまた、そういう生き方を身につけてしまう。そしていつまでたって
も「今」がつかめなくなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリスには、『休息
を求めて疲れる』という格言がある。「いつか楽になろうなろうと思ってがんばっている
うちに、疲れてしまい何もできなくなる」という意味である。

 一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そ
のまま一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。

たとえば今、10日間の休暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」
をそのまま楽しむ。……楽しむことができる。しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇
が終わってからの仕事を考える。子どももそうだ。

子どもが学校から3日間の休日を与えられたとする。そして子どもが家でブラブラして
いたとする。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こんなことでいいの!」と。
つまり日本人は休みを休みとして楽しむことすらできない。別の友人はこう言った。「1
0日も休みをもらっても、過ごし方がわらない」と。こうした生き方は、よく「仕事中
毒」という言葉で説明されるが、そんな簡単なことではない。根は深い。

 さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても
旅から帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のような
ものだ。試験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」と
か、「旅行しよう」とか考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。

あなたにもそういう経験があると思うが、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩き
する。しかしその抑圧から解放されると、同時に夢も消える。いや、その前に健康がそ
れまで続くかどうかさえわからない。命だってあぶない。そんなあやふやな「未来」に
夢を託してはいけない。夢があるなら、条件をつけないで、「今」始めることだ。繰り返
すが、結果は必ずあとからついてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●過関心は心をつぶす

+++++++++++++++

親の4悪に、過保護、溺愛、
過干渉、それに過関心がある。

+++++++++++++++

 親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。
その過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。

 私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて
授業そのものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線で
ある。それがピリピリと伝わってくる。

そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張している様子
はない。柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い……!

 親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮し
たりする。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返
した子どもとみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。
また自分で考えて行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動を
しやすい。

バスの窓から体を乗り出してみせた子ども(小4男児)や、先生のコップに、殺虫剤を
入れた子ども(中1男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚が
ない。ないばかりか、かえって子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもを
ますます悪い方向に追い込む。

 実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中ま
で、こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうし
た親は、口では「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。
自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。

さらにその原因は何かと言えば、子どもを信じられないという不信感がある。「うちの子
は何をしても心配だ」という思いが転じて、過関心になる。もちろん親自身の情緒的欠
陥が原因となることもある。このタイプの親は、うつ型タイプの人が多く、一度こまか
いことを気にし始めると、そのことばかり気にするようになる。そしてささいなことを
問題にしては、おおげさに騒ぐ……。

 子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもし
そうなら、一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法
はいくらでもある。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、
子育てとは関係のない世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
親の過関心 過関心)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮想現実の世界

+++++++++++

生きるために稼ぐのか、
稼ぐために生きるのか?

すべての疑問は、その
1点に集約される。

+++++++++++

●生きるのがマトリックス(母体)

 生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。あくまでも生きる
ことがマトリックス(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、
仕事のために生きている人はいくらでもいる。たとえば休暇。

 私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、
休みになったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇の過
ごし方を知らないと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育
とて例外ではない。土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいた
とする。そういうとき親は、「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」
とか言って、子どもを追い立てる。

 生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。
この世界にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世
だの、地位だの肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだ
しも、その一方で、本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴
任だ。昔、私のオーストラリアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕
事か!」と。

 もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。
この本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になった
と思ったら、人生も終わっていた……、と。

 子どもをなぜ教育するかといえば、それは子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んで
ほしいからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子ども
に与えることだ。

つまりそれが教育のマトリックス(母体)。たしかにこの日本には学歴社会があり、それ
にまつわる受験競争もある。しかしその本分は忘れてはいけない。これを忘れると、子
ども自身もまた、今のあなたと同じように、いつまでたっても自分の人生をつかめなく
なる。いや、その前に、あなたと子どもの関係は、まちがいなく崩壊する。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●愛情は落差の問題

++++++++++++++

愛情の量は、落差の問題。

多い、少ないではなく、
ふえたか、減ったで、
考える。

よい例が、赤ちゃん返り。

++++++++++++++

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。
(赤ちゃんがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのを
プラス型ということができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、
叱ったり説教しても意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやる
ので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがってい
ます。どうして上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィ
フティ(50%50%)だから文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、
その「50%」というのが不満なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だ
った親の愛情が、五〇%に減ったことが問題なのだ。

もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落
差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよ
い。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあな
たに言ったとしたら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させない
ように、上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれ
てくるのを楽しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生ま
れてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいの
はいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与えること。そうい
う状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争
心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいよう
であれば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を
減らしていく。(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%5
0%)を貫き、そのつど、上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカル
シウム、マグネシウムの多い食生活にこころがける。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
赤ちゃん返り 愛情問題 愛情 落差 落差の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●仮面治癒に注意!

++++++++++++++++

子どもの心の問題に対処するときは、
1年単位の根気が必要。

1年でも早いほうかもしれない。

数年単位で、様子を比較する。

++++++++++++++++

 子どもの心の問題をあつかっていると、ときどき不思議な現象にであう。私が最初にあ
る子どもに出会ったとき、「この子の心の問題がなおるには、数年かかるだろうな」と思っ
たとする。

で、それなりの対処をしているのだが、数か月もたたないうちに、「なおった?」ような
状態になることがある。たとえばF君(年中児・5歳)がそうだった。

最初母親も、「三歳のとき、病院で自閉症と診断されました」と話していた。(たしかに
自閉傾向はあったが、私がみたところ自閉症ではなかった。母親が聞きまちがえたのだ
ろうとそのときはそう思った。)自分勝手な行動が目立ち、私の言うことなどほとんど聞
かなかった。

が、指導を始めて数か月後のこと。ふと気づくと、F君が別人のようにおとなしく、し
おらしい様子で、私の指示に従っているではないか! 驚いてうしろで参観していた母
親のほうを見ると、母親はそれを見て喜んでいたが、どうもおかしい。そこで母親から
あれこれ話を聞くと、F君はある訓練教室で訓練を受けているということがわかった。
はげしい暴力的な訓練で有名な訓練教室である。

 こうしたケースは極端なケースだが、大前提として、子どもの心の問題は、簡単にはな
おらない。無理をすれば一見、なおったかのように見えることがある。私はこれを仮面治
癒と呼んでいるが、仮面は仮面。なおったのではない。症状はさらに奥の深いところにも
ぐったと考える。

心の問題は、決しておさえてなおるものではない。むしろ反対に、不登校にせよ、引き
こもりにせよ、もろもろの情緒障害にせよ、心の問題は、外へ解放させることによって
なおす。1年単位の恐ろしく時間のかかる作業だが、これが大原則である。こうした問
題で、たとえば別の形で強度の恐怖心を与えたりすると、子どもは退避的に、自己をコ
ントロールするようになる。

F君がその教室で受けた訓練は、そういうものだったが、しかしそれは風邪をひいて熱
を出している子どもに、頭から水をかけるようなものである。熱はさがるかもしれない
が、それですむわけがない。事実そのあと数か月もすると、F君に妙な現象が出てきた。
絵を描いているときでも、何を思ったのかひとりでニヤニヤ笑ってみせたり、突発的に
大声を張りあげて、泣き叫んだりするなど。

 子どもに心の問題を感じたら、親のほうが一歩も二歩も引きさがる。今の状態をそれ以
上悪くしないことだけを考えて、無理をしない。無理をすればするほど逆効果。さらに無
理をすれば、ここでいう仮面治癒を引き起こすことがある。

こうなると、「教育」という場で対処できる問題ではなくなってしまう。その訓練教室で
は、「なおった、なおった」とさかんに宣伝しているが、本当に「なおった」とみてよい
のか。私がいう仮面治癒に、皆さんもじゅうぶん注意してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●しつけは普遍

++++++++++++++

子どもにとって、しつけとは?

++++++++++++++

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、そ
の人の人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(70歳女
性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。

近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまう
のだ。人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの
盗みグセは、Tさんが2。30歳のときからあった。

ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。しかし7
0歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例
するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。
むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、
そういうことで決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。

子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方
向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、
ありえない。たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指
導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強
く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、
人の見ていないところでは捨てたりする。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、
話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというの
は、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけて
みれば、それでわかる。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。

しかししてはいけないことをしたときには、どこか不快感が心に充満する。そういう常
識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということ
になる。そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味
で私は、「しつけは普遍」という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
しつけ 子どものしつけ)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

【子どもとゲーム】

++++++++++++++++++++

07年12月12日、東京大学にて、
東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室と
IGDA東京が運営する「東京大学ゲーム研究
プロジェクト」の、第1回公開講座が開催
された。

講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その
報告が、ヤフーに載っていた。

++++++++++++++++++++

●ゲームは、危険か?

 テレビゲームが子どもたちにどのような影響を与えるか。それについて、今までにも、
さまざまな機会で、論じられてきている。

 今度(07年12月12日)、東京大学にて、東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室
とIGDA東京が運営する「東京大学ゲーム研究プロジェクト」の、第1回公開講座が開
催された。

 講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その氏の報告によれば、おおむね、つぎのよう
な内容だったという。結論だけを、ヤフー・ニュースから、いくつかを、かいつまんで列
挙してみる。

★『……続いて、ゲームによって暴力的な傾向が強まるかについて。これは結論から言っ
てしまえば、暴力的なゲームをプレイした場合に、子どもが暴力的な傾向を持つことが認
められる方向の研究結果がある。ちなみにこれは、テレビ映像についても同様とのこと。
暴力シーンによって欲求不満が解消されるという説もあったが、現在はこの説は否定され
ているという』

★『この理由について坂元氏は「ゲームが暴力を学習させる」ことが大きな理由であると
説明。暴力を学習するというのは、暴力によってヒーローが問題を解決したりすることで、
暴力がよい解決手段だと認められてしまうことが挙げられる。特にゲームにおいては自分
自身を反映したキャラクターが相手を倒すことで、ストーリー展開や未知の映像などを含
めた報奨を得る構造になっているため、テレビよりも影響力が強いのではないか、という
説もある。

 また、ゲームの中で暴力を振るうことで、実際に暴力を振るうことにも慣れてしまう。
例えば現実に怒りを感じた場合、我慢する、逃避するなどさまざまな選択肢があるが、暴
力への回路が開かれやすい状態になるというのだ。

 その他、技術が進歩することによって、ゲームがより現実に近づいている点が触れられ
た。そのため、学習された暴力が現実世界でも出てしまう傾向が強まっているという』

★『ゲームによって学力低下が引き起こされるかという点については、明確な関係は今の
ところはっきりしていない。研究も少なく、悪影響の可能性があるのではないか、という
レベルなのだそうだ。ただし、ゲームが図形把握能力など視覚的能力を向上させるという
ことは明らかにされており、先日米サイエンス誌でもこの点に関する研究結果が掲載され
たという』

★『また、日本大学の森教授の著書「ゲーム脳の恐怖」が、発表当時に一大センセーショ
ンを巻き起こしたことは記憶に新しい。これは、ゲームプレイによって繰り返し前頭前野
の活動が低下することで、ゲームから離れても、前頭前野が機能しなくなってしまうとい
う説を述べた本だ。

 この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に関しては、Webサイトや書評によって調査方法の
不備などが指摘されている。また、ゲーム中に前頭前野の活動が低下することは10年以
上前から研究結果として報告されていることでもある

 ただし、脳医学の領域において発達に対する影響がどうなのか、という調査結果は今の
ところない。ゲームによって前頭前野の活動が低下するという経験を繰り返すことで、ゲ
ームから離れても前頭前野が活動しなくなるかどうかということは明らかにされていな
い』(以上、「ヤフー・ニュース・レポートより」07年11月21日)


+++++++++++++++++

 このレポートを読んで、まず気になるのが、(1)直観的なゲーム論には、意味がないと
いう趣旨の内容が目立つこと。(2)レポーター自身が、たいへんな権威迎合主義者で、(た
ぶん?)、教授が言うことはすべて正しいという前提で、ものを書いている点である。

 『子どものことは、子どもに聞く』。それが大鉄則であり、大原則。ゲームにハマってい
る子どもが、どこかおかしくなるという印象は、直接、子どもと何日も、接してみてわか
ること。その変化については、何年も接してみてわかること。しかも多人数の子どもたち
と比較してみて、はじめて、わかること。

 直感が不完全で、信頼性がないというのなら、(レポートの中では、「直観」となってい
るが)、ならば「教育とは何か?」ということになってしまう。

 私はこうしたレポートを読むたびに、「この研究者は、どの程度、子どもに接しているだ
ろうか」という視点で、内容を判断する。阪元氏が、そうではないと言っているのではな
い。しかしレポートを通して知るかぎり、子どもの臭いが、どこにもない。ないのが、気
になる。

 暴力番組の影響で、子どもが暴力的になることは、幼稚園の現場では、すでに30〜4
0年も前から指摘されていることである。当時、それまでにはなかった遊びが、大流行し
た。いわゆる「キック」である。

 K・ライダーの動きにまねて、相手の子どもや先生に、キックを繰りかえす子どもが続
出した。相手が子どもでも、まともにキックされると、大のおとなでも、うずくまってし
まう。それほどまでのパンチ力がある。子どもの足でも、おとなの男の腕ほどの太さがあ
る。

 ゲーム漬けによって、子どもが暴力的になるかどうかという見方は、それ自体が、きわ
めて一面的でもある。

 むしろ心配されるのは、「心の破壊」であろう。

 私の調査では、大きなぬいぐるみなどを、子どもたちが通る玄関先に置いてみたばあい、
「かわいい」と言って、ぬいぐるみに好意的な反応を示す子どもが、約80%。反応を示
さない子どもが、20%。そのうち何割かは、否定的な反応を示し、ぬいぐるみに対して、
キックをしたり、ぬいぐるみを、投げ飛ばしたりする。

 これが私たちの「直観」である。

 もちろんこうした子どもの心が、すべてゲームの影響によって決まるとは思わない。「心」
というのは、たいへん複合的なもので、それこそDNAのように、複雑にからみあってい
る。その結果として、「暴力的であるか、ないか」が、決まる。

 ゲームが子どもの心に影響を与えているかどうかということについては、「ある」と考え
るのが、当然である。ゲームが暴力的であれば、あるほど、そうである。しかしゲームだ
けで、暴力的になるとも考えられない。

 その子ども自身のもつ「質」の問題も、からんでくる。「家庭環境」の問題もからんでく
る。親の冷淡、無視、不適切な育児姿勢があれば、なおさらである。

 こうした論議を重ねる前に、まだどこかに幼児性を残す子どもが、無表情のまま、「殺せ」
「やっつけろ」「やったア!」と、声を出しながらゲームを繰りかえすことの異常さを、ま
ず知るべきである。

 否定的なことばかりを書いたが、阪元氏らの研究が、ムダであるとか、そういうことを
書いているのではない。森氏の書いた、『ゲーム脳の恐怖』については、おおいに参考にな
った。これからもこうした分野での研究は進むと思われる。また進めてほしい。

 私の「直観」によれば、この『ゲーム脳の恐怖』に書かれていることは、現場の子ども
たちの現象を、うまく説明している。レポートは、『この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に
関しては、Webサイトや書評によって調査方法の不備などが指摘されている。また、ゲー
ム中に前頭前野の活動が低下することは、10年以上前から研究結果として報告されてい
ることでもある』と、どこか否定的な見解を述べている。

 この部分を読んで、まず思い出したのが、「タバコ無害キャンペーン」。若い人は知らな
いかも知れないが、私が20〜25歳のころは、どこの駅前でも、旗を立てた一群が、「タ
バコ無害キャンペーン」なるキャンペーンを展開していた。

 「タバコが有害であるということは、科学的に実証されていません」と。

 子どもの世界では、『疑わしきは、罰する』。それが原則。危険確認まで待っていたら、
その間に、子どもの世界は、どこかへ行ってしまう。ゲームについても、しかり。もし私
が言っていることに疑問をもつなら、あなたも、一度でよいから、ゾンビを相手に、刀で
切りまくるゲームをしてみることだ。

 そのあと気分が爽快になり、すがすがしくなる人は、ぜったいに、いない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 子どもとゲーム ゲーム 子供とゲーム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・雑談・11月23日】

++++++++++++++

昨夜、ブラッドピット主演の
『バベル』を見た。

短い作品かな……?、と思って
見始めたが、終わってみると、
3時間!

そんなわけで床に入ったのが、
午前0時半過ぎ。

起きたのが、少し前。午前8時。

今日は、仕事も休み。肌寒さを
感ずる冬の冷気が、心地よい。

おはようございます。

++++++++++++++

●DVD『バベル』

 ブラッドピット主演の『バベル』。過去→現在→過去と、話が飛ぶから、見るときは、注
意が必要。最初は、モロッコ、東京、サンディアゴの3か所で、同時進行の形で、交互に
カメラが回る。サンディアゴ、メキシコのプエルトリコには、20代のころ、行ったこと
がある。

 「?」と思っていると、だんだんとストーリーがつながっていく。あまり詳しくは書け
ないので、内容は、ここまで。

 星は、2つの★★。少しきびしいかな? 東京という都市が、退廃的な都市として、描
かれていた。「すべてのものがありながら、何もない空間」。そんな印象をもった。私はこ
のDVDを見ながら、学生時代に、金沢で、ガイドのアルバイトをしていた自分を思い出
していた。

 当時のアメリカ人は、傲慢(ごうまん)だった。『バベル』の中のブラッドピットも、そ
のタイプの男性として描かれている。気になったシーンをいくつか、あげてみる。

(1)村にひとつしかない電話をかけながら、相手が自分の意にかなわない返事をしたと
き、その受話器を、壁にたたきつけていた。

(2)妻が、尿意をもよおしたとき、ガイド役の男性に、「鍋はないか?」と聞き、その鍋
をもってこさせた。妻に、鍋の中に、小便をさせていた。

 ほかにもあるが、電話機にしても、鍋にしても、モロッコの人たちにとっては、たいへ
んな貴重品。「アメリカ人なら、何をしてもよい」という傲慢さが、ガイドをしていた自分
の記憶と重なった。

 前にも書いたことがあるが、ガイドといっても、実際には、奴隷のようなもの。もちろ
ん中には、親切なアメリカ人もいた。反対に、あれこれ教えてくれた人もいた。が、そう
いうアメリカ人は、少なかった。記憶をたどってみる。

(1)小松空港へ迎えに行き、そこからタクシーで、金沢まで同行したときのこと。「タク
シー代は、予定外だ。私は了解していない。お前が払え」と言われた。

(2)そのアメリカ人は、金沢の町の中で、「ここはどこだ?」と、地図を地面に広げた。
私は、地面にはいつくばって、そのときの現在位置を教えた。そのアメリカ人は、
上から私を見おろしていた。

(3)夜遅く、郊外の温泉宿まで案内した。しかし帰りのバスも、タクシー代もなく、私
は徹夜で、金沢の町まで、歩いて帰った。

(4)忍者寺へ行ったときのこと。その男性と妻の靴を、脱がせたり、履かせたりさせら
れた、などなど。

 当時の日本は、まだそのレベルだった。アメリカ人もまた、そういうレベルで、日本や
日本人を見ていた。印象に残っているのは、カナダから来た家族だった。高校生ぐらいの
女の子が、タンクトップを身につけていた。日本人の私には、あまりにも刺激的だった。

 私はそれを見て、何度も、歩けなくなってしまったのを覚えている。当時の日本で、タ
ンクトップを身につけている女性はいなかった。(これは余談。)

 残念ながら、私は『バベル』を見ながら、当時の、あのタチの悪いアメリカ人を、思い
出していた。ブラッドピットも、小さな部落で、ワーワーとわめき散らしていた。「外国に
いる」という謙虚さが、まるで感じられなかった。それで星は、2つ。時間に余裕のある
人は、見たらよい。

 もう一言。

 東京という都市が、退廃的な都市として描かれていたということは、先にも書いた。か
なり誇張されていた。それはそれとして、このDVDを見ていて、「豊かさとは何か」、そ
れを改めて考えさせられた。

 見終わったあと、「モロッコのほうが、人間的ね」と、ワイフは言った。私も、まったく
同感だった。

……しかし東京というと、どうしていつも、ああまで薄汚い街として、描かれるのか?
 私も東京は好きではないが、しかしあそこまでひどいとは、思わない。東京の人たち
よ、もっと、怒れ!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

【三つ子の魂、百まで】

●乳児の善悪判断

+++++++++++++

乳児にも善悪判断ができると
いう。

そんなおもしろい研究結果が、
ヤフー・ニュースに載って
いた。そのまま紹介させて
もらう。

+++++++++++++

(時事通信・11・23)

生後6か月の赤ちゃんも善悪を区別し、道徳的な判断もできる……。22日付の英紙デ
ーリー・テレグラフによると、アメリカ・エール大学のカイリー・ハムリン氏らの研究
チームがこうした実験結果を明らかにした。

3つ子ならぬ「6か月児の魂も、100まで」ということになる。

 同紙によると、実験では12人の6か月の赤ちゃんに、

(1)丸いおもちゃ「クライマー」が丘を上ろうとするが、失敗する。
(2)三角のおもちゃ「ヘルパー」が、クライマーを丘の上まで押し上げる。
(3)四角のおもちゃがクライマーを、丘の下まで押し戻す……という3つの映像を見
せた。

その後、赤ちゃんにおもちゃを選ばせると、全員が三角に「好意」を示したという。

+++++++++++

 この中で、「三つ子の魂、百まで」を読んだとき、30年前に、私が書いた記事のことを
思い出した。

 当時、『幼児のがくしゅう』(学研)という雑誌があった。その雑誌の付録に小冊子があ
って、それにコラムを書かせてもらっていた。

 その中で、私は、この『三つ子の魂、百まで』について書いた。内容はともかくも、こ
の『三つ子の魂、百まで』という格言が、「差別にあたる」というのだ。雑誌が発行された
あと、ある団体から、猛烈な抗議を受け取ったのを覚えている。

 いわく、「三つ子までに性格が決まるというなら、3歳まで、不幸にして不幸な乳幼児期
を過ごした子どもは、その後、立ちなおることはできないというのか。その後の努力で、
立派に更生した人も多い」と。

 抗議の内容はよく覚えていないが、当時は、まだそういう時代だった。雑誌といっても、
姉妹紙の『なかよしがくしゅう』と合わせて、月に、40〜50万部も売れていた。影響
力も大きかった。

 で、しばらく……というより、40代に入って自分の本を書くまで、私は、意識的に、
この格言を避けてきた。が、今では、ここで見るまでもなく、同じ格言が、堂々と使われ
ている。

 ……となると、あのときのあの抗議は、いったい、何だったのかということになる。一
部の団体の、一部の人たちの過剰反応だったのか?

 この『三つ子の魂、百まで』について書いた原稿を、ここに添付する。

+++++++++++++

●飼い犬考察(「自分」発見のために)

 私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。
これをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。
これをB犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そ
のまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。

 人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同
じようなことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳し
く書けないが、性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないという
こと。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズ
を負っている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、
人間に心を許している。だから、そういうことができる。つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。

 人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔に
できあがったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生
のときでもない。しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかっ
た闇に吸い込まれていくように、記憶が薄れていく。

つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」という人間は、どうやらそのあたりで
完成したようだ、と。「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、私が犬の話を持ち
だした意図が、見え見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかしあまりに
もはっきりとそう書くと、この世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけ
でも、抗議が殺到する。だからどう書いたらいいのか、わからないが、そういうことだ。

 ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の
努力で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのでは
ない。どんな人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情
豊かに育った人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中
を旅してみてほしい。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷
に任せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そ
のきびしい兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中
心的で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主
張する評論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考え
るのは、あまりにも短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。
やり方をまちがえると、かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その
欠陥のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。た
とえばこの日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、
「宿題がある」「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本がもつ特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージ
ラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食が
すむまで家事を手伝うのが日課になっている。

こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、
何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その
分、子どものできる仕事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったとき
のこと、ある母親は、こう言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は
掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、
全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。

こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、
ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、であ
る。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ド
ラ娘になった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。そ
れはちょうど一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻し
たで、子どもはたいへんなストレスをかかえこむ。

本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、乳幼児期に、さんざん、
目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおしま
す」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人
が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんや
スパルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみるこ
とだ。子どもにすべき教育ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、三歳ごろまで
に決まるので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの四
つの意味をもつ。

(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていく
かについて、おおよその見当がつくということ。
(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注
意しろという意味。
(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性
格や方向性はいじってはいけないということ。
(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、
この三歳までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、
使えないことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から
出している雑誌に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「三
歳までに不幸だった子どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「三歳」
と切ることはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もう
だれの目にも明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、
そうは簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格形成第
一期と呼んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格形成第二期と
呼んでいる。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満四・五歳〜五・五歳)の時期である。こ
の時期を経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子は
こういう子だ」というつかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、
それがはっきりしない。が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。
言いかえると、この満四・五歳から五・五歳の時期の、幼児教育が、とくに大切という
こと。冒頭にも書いたように、この時期にできる基本的な性格は、その子どもの一生を
方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分
を飾ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断する
ことができる。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうにな
っていくかについて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、
親から学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようにな
る。しかし学習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、
もっと言えばそういう体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、
今度は、自分で子育てができるようになる。そういう意味でも、この時期は、心豊かな親
の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●三歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまお
う。

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この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
++++++++++++++++++++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、
私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらって
きた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か
月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、
そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言
ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤
解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ
以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、
親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を
許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、
B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子ど
もをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られてい
る。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりな
どのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよく
なるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかが
って行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さ
ない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。その
ため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われる
が、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶよう
に、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほう
から離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだ
ったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もな
い時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析し
ていくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私にな
ったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を
考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家
庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが
問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかな
いことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回さ
れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたか
ら、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世
代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、
ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールするこ
とができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をして
いるぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考
える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおも
しろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、
自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるとい
うことではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されること
である。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
三つ子の魂、百まで 3つ子の魂 3つ子の魂、100まで)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ

++++++++++++++

時刻は、午前6時。たった今、
あちこちのニュース記事を読み
終えたところ。

気になるのは、経済ニュース。
当初、「日本には大きな影響は
ない」と目されていた、アメリカ
のサブプライム・ローン問題。

しかしそのサブプライム・ローン
問題が、ただの台風から、超大型
台風へと発達し始めている。

まさに底なし。日本経済という
大木さえ、大きく揺れ始めた。

経済協力開発機構(OECD)は、
21日にまとめた金融市場動向に
関する定期リポートの中で、
サブプライム・ローン問題に触れ、
金融機関や機関投資家が抱える損失額が
最大3000億ドル(約33兆円)に
膨らむとの見通しを述べた。

その上で、「アメリカの住宅ローンの
市況はこの先一段と悪化する公算が大きい」
とも(日経新聞)。

その影響か、今日(21日)のニューヨーク
市場では、またまた株価をさげている。

終値はまだ報告されていないが、一時は
180ドル以上の値下げ場面もあったという。

++++++++++++++

●万事休すの韓国経済

 韓国の株価の下落が、はげしい。今日までに5日、連続で、株価をさげている。205
0ポイント台から、1800ポイント、ギリギリまで暴落している。つい先月には、「韓国
の株価は、2000ポイント台で安定」(新聞)と、大見得を切っていたが、その夢は、ツ
ユと消えた。

 で、私が驚いたのは、サブプライム・ローン問題が明るみになったとき、韓国の各紙は、
「(アメリカの問題だから)韓国経済には関係ない」と言い切っていたこと。しかしどうし
てそんな、のんきなことが言えるのか。

 現在、韓国の銀行は、ウリ銀行をのぞいて、そのほとんどが、アメリカ系銀行の資本支
配下にある。

韓美銀行……99・9%、アメリカ・シティ銀行グループ
国民銀行……85・7%、バンク・オブ・ニューヨーク
外換銀行……74・2%、ローンスター
ハナ銀行……72・3%、ゴールドマン・サックスなどなど。(%は、外資比率を示す。)

第一銀行にいたっては、100%、アメリカの資本である(スタンダード・チャーター
ド)。ウリ銀行という国策銀行にしても、外資比率は、11・1%である。アメリカの銀
行が風邪をひけば、韓国の銀行は、そのまま肺炎になる。

 その韓国では、現在、猛烈な勢いで、外資が逃避し始めている。株安のほか、ウォン安、
債券安の、俗にいう「トリプル安」。わかりやすく言えば、韓国そのものが、売られている。

 が、時限爆弾は、それだけではない。ここにきて、マンション不況が、深刻な様相を帯
び始めてきている。昨今の韓国の各紙によれば、売れ残りマンションだけでも、9万戸。
しかし実際には、その2倍の18万戸以上も、あると言われている(東亜N報)。

 加えて原油高。短期外債(=外国からの借金)の急増。個人負債の増加。……とくに個
人負債の増加が、すさまじい。今年(07年)に入ってから、日本円で70兆円と言われ
ていたが、80兆円を突破。現在は、90兆円に向かっている。(90兆円だぞ!)

 個人が借金に借金を重ねて、株取り引きに夢中になっている。それが現在の韓国の状況
と考えてよい。

 そんな中、N政権は、今月に入って、「韓国の失業率は、3%」と発表した。私はその数
字を聞いて、思わず、笑った。大卒でも、就職率が、25%(4人に1人)という国であ
る。どうしてそんな国で、3%なのか! 統計の取り方も、日本とは、まるでちがう。韓
国では、1か月に、1時間でも働いたら、失業者とみなされない。

 こうしたウソと虚飾で塗り固められた、韓国経済。すでに崩壊の音が、きしみ始めてい
る。つまり2回目のデフォルト(=債務不履行、国家破綻)は、時間の問題。「時間」とい
うより、秒読みの段階。

 そこで日本。日本は、どう対峙すべきか。

 小泉政権のとき、日本と韓国は、どちらかがデフォルトしたら、相互に100億ドルず
つ、援助するという取り決めをした。実に、巧みな取り決めである。つまりこの取り決め
によって、日本政府は、「100億ドルしか、援助しませんよ」と宣言したに等しい。

 たったの100億ドル! 日本円で、1兆円! 個人負債額だけでも、90兆円である。

 前回、97年の第一回デフォルトのときは、日本政府は、頼まれもしないのに、かつア
メリカの反対を押し切って、総額500億ドルもの現金をそろえて、韓国を援助した。

 しかし韓国には、そうした日本の行動に対して、一片の敬意も示さなかった。示さなか
ったばかりか、「韓国経済を救済したのは、韓国民自身」と、うそぶいている。当時、たし
かに国をあげての、貴金属の国家寄付運動、海外に住む韓国人同胞からの投資運動はある
にはあった。しかしそんな額など、知れたもの。

 最近にいたっては、「(日本などから借りた)お金は、全額、返した」と、居直っている。

 その韓国が、この10年、何をしたか? 金大中、N大統領は、何をしたか? 造船、
鉄鋼、電子、自動車など、日本の基幹産業の(お株)を、つぎつぎと奪いながら、なおか
つ、「日本をたたきつぶせ」の大合唱。その反日感情というか、敵意は、サッカーの日韓戦
を見るまでもない。

 ……で、こうした私の意見に対して、「林は、過激すぎる」という意見もあるかもしれな
い。しかし国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。むしろ私は、甘すぎるほ
ど、甘い、日本人がもつ国際政治感覚に、驚く。あきれる。

 今、まさに、日本の直近で、巨大な反日国家が誕生しようとしている。そういう動きを、
日本は、「友好はいいこと」と、ただ指をくわえて見ているだけでよいのか。何度も書くが、
これはサッカーの試合とは、訳がちがう。勝つか、負けるか。引き分けは、ない。もちろ
ん日本が敗れれば、日本は、太平洋の海溝へ、ほんとうにたたき落とされることになる。

 もちろん日本とて、無傷ですむはずはない。製造機械を中心とした輸出産業は、大きな
打撃をこうむる。だからこそ、今から、そうした輸出産業に対しては、救済策を、講じて
おく。

 また韓国が第2回目のデフォルト(国家破綻)に陥ったときには、日本政府は、前回の
ような「愚」を繰りかえしてはいけない。救済に入るにしても、韓国には、しっかりと頭
をさげさせること。またその言質は、取っておくこと。ギブ&テイクの、「テイク」の部分
を、明確にしておくこと。

 拉致問題にしても、韓国政府は、いっさい、日本側に協力しなかった。日本側の要請を
のらりくらりとかわしながら、「詳しい内容は覚えていない」(N大統領、先の南北首脳会
談の内容について)と。そしてつい先日は、国連でのK国非難決議には、棄権までしてい
る。

 あと数時間で、今日(22日)もまた、日本、韓国の株式市場が開く。どちらが、より
株価をさげるか? その動きを見れば、明日の韓国がわかる。

(付記)

 日韓経済戦争は、(下げ率)でみる、消耗戦の段階に入っている。しかし日本の強みは、
いくつかある。

(1)日本は、外国には、借金をしていない。日本政府は、巨額の負債(=赤字国債)を
かかえてはいるが、言うなれば、一家のおやじが、息子や娘たちに借金をしている
ようなもの。日本政府(=一家のおやじ)には、1000兆円近い、資産がある。

これに対して、韓国は、ばくだいな額を、外国の借金に頼っている。韓国銀行によ
ると今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億9000万ド
ルと、韓国の外債全体の44.3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97年
末)の36.6%よりも7.7ポイント高い。

(2)日本の基幹産業は、トヨタ、ホンダを例にあげるまでもなく、しっかりとしている
こと。韓国なしでも日本は生きて行かれるが、韓国は、日本なしでは、生きていか
れない。韓国の一大産業である携帯電話の分野にしても、製造機械は日本から輸入
し、大半の部品も、日本から輸入している。

(3)日本は、バブル経済の崩壊をすでに経験し、そのノウハウを身につけている。産業
構造そのものが、それに適応できるようになっている。

 心配するな、日本の若者たちよ、子どもたちよ! 日本は、まだまだ大国だぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子の未来より、自分の老後

+++++++++++++++++

正確な数字を見てみよう。

2012年……高齢者人口は、
3000万人に達するという。

その後、2014年まで、高齢者は、
毎年100万人ずつふえるという
(高齢者白書)。

2018年……75歳以上の
後期老齢者の数が、65〜74歳の
前期高齢者の数を上回り、その
ほとんどが、年金収入だけの生活を
するようになる。

現在においても、75歳以上で
職についている人は、10%に
満たない(内閣府調査)。

「私には年金があるから……」と
言っている人でも、安心するのは、
早い。

介護が必要になったとき、そのまま
特別養護老人ホーム(特養)へ、
入居できるとはかぎらない。

全国に特養は、約5500施設、
38万床ある。が、今の今でも、待機者
は、40万人にのぼっていると
いう(「日本の論点08」)。

毎年100万人ずつ高齢者がふえた
としたら、38万床など、まさに
焼け石に水。

さあ、どうするか?、……と
考えたところで、自分の懐(ふところ)
の中を見てほしい。

あなたはそれでも、「子どもの教育
がいちばん」と、胸を張って言える
だろうか。

++++++++++++++++

 私のワイフは、いつもこう言う。「死ぬまでに、私たちが稼いだ財産は、私たちで、全部、
使い切りましょうよ」と。

 家も、土地も、すべて、そのときがきたら、売ればよい、と。私もワイフのこの考え方
に、基本的には、賛成である。私もワイフも、親としてやるべきことは、すべてした。息
子たちは息子たちで、あとは、勝手に生きていけばよい。

 しかしそれで私たちの老後が、安泰というわけではない。今、ちまたでは、「嫌老〜〜」
という本が、話題になっている。どういう内容の本かは知らないが、「嫌われない老人にな
るためには……」という趣旨の本と願いたい。そうでなくとも、このところ、何かにつけ
て、肩身が狭くなっていくのを感ずる。

 つまり「どう生きるか」ということと同時に、「どう迷惑をかけないで生きるか」(田丸
先生弁)ということも、考えなくてはいけない。……というふうに考えていくと、今、子
育てのまっ最中にある人も、まず、自分の老後を最優先にしたらよいということになる。
中には、「老後は、息子や娘たちの世話になる」と考えている人もいるかもしれない。が、
現在のあなたと同じように、あなたの息子や娘たちも、自分の生活を支えるだけで、精一
杯。

 息子や娘たちに、負担をかけることはできない。

 ……しかしそれにしても、2012年までに、65歳以上の高齢者が、私も含めて、3
000万人とは! どうするのだろう? どうなるのだろう? 考えれば考えるほど、不
安になる。そこで私なりの一案。

 今朝も寒い。曇り空。こういうときは、老後のために、体を鍛えるのが、いちばんよい。
イギリスのある科学者の試算によると、タバコを1本数と、寿命が8分間、縮むそうだ。
同じように考えて、ここで1時間、運動をして汗をかくと、寿命が、1日分、延びると考
えては、どうだろうか。週に2日、計2時間ほど運動すれば、成人病を防げるという話も、
ある。

 成人病さえ防げれば、何とか、長生きできる。つまり、これからの高齢社会を生き延び
るためには、健康寿命を、1日でも長く延ばした方がよい。……ということで、今日も、
私は、2単位、運動をこなす。

 団塊世代のみなさん、いっしょに、がんばろう! 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●二重人格性

++++++++++++++

「二重人格性」という言葉を
使ってよいかどうかは、わからない。
適切かどうかも、わからない。

しかし男というのは、(女もそうだと思うが…)、
射S前と射S後では、「女」について、
まったく別の考え方をする。

射S前には、あれほどまでに狂おしく
見えた女性の体でも、射S後には、
ただの(肉のかたまり)に見える。

当然、ものの考え方も変わる。
感じ方も変わる。価値観(?)も、変わる。

その上、それが、瞬間的に、入れ替わる。

そういう「私」自身を観察してみると、
「これもひょっとしたら、二重人格性
のひとつと考えてよいのでは」と、
思ってしまう。

射Sと同時に、脳内で、別のホルモンが
瞬時に放出されるためか?

もしそうなら、もろもろの場面で
私たちが見せる二重人格性といった
ものは、脳内ホルモンの作用に
よるものということになる。

かなり乱暴な意見に聞こえるかも
しれないが、今朝、ふと、そんな
ことを考えた。

+++++++++++++++

●性YOKUのメカニズム

 まず、はじめに。私はほぼ毎日、「R天」というところで、日記を書いている。このR天
には、ひとつの制約がある。たとえば、何かのヒワイ語を使うと、「禁止用語が使われてい
ます」とか何とか、警告文が赤字で表示される。そしてそこで作業は、中断される。

 たとえば、「SXX」も、ダメらしい。「チXチX」も、ダメらしい。たぶん、「女性の体」
とか、「射S」程度の言葉なら、だいじょうぶだと思う。(あとで試してみるが……。)だか
らここでは、この類の言葉は、すべて「X」で表示する。「X」の部分には、適当に文字を
当てはめて、読んでほしい。

 さて、本論。

 冒頭にも書いたように、「二重人格性」という言葉を使ってよいかどうかは、わからない。
適切かどうかも、わからない。しかし男というのは、(女もそうだと思うが…)、射S前と
射S後では、「女」について、まったく別の考え方をする。

 男のばあい、それが、自分でもおもしろいほど、急速に入れ替わる。ときに、射S後に、
「どうしてああまで、女の体を求めたのだろう」と思うことさえある。メカニズム的には、
射S後、脳内である種の脳内ホルモンが分泌され、そのためフィードバック現象が起こる
ためと考えてよいのではないか。

 フィードバック現象(ふつうは単に「フィードバック」と呼ぶ)というのは、脳内でた
とえばAという脳内ホルモンが分泌されると、それを打ち消すための、まったく正反対の
働きをする、別の(−A)という脳内ホルモンが分泌されることをいう。こうして脳は、
自分の脳内を、いつも空(から=ゼロ)の状態に保とうとする。

 で、この話を進める前に、もう一度、性YOKUのメカニズムについて、勉強してみた
い。

 脳の中心部に、間脳と呼ばれる部分がある。その中の視床下部と呼ばれる部分が、性行
動の司令塔と考えてよい。

 たとえば女性のヌード写真を見たとする。すると、視床下部は、「女性を抱いてみたい」
という信号を発する。が、そのとき、「ここで性的に興奮してはまずい」というブレーキが
働く。そのブレーキの役割をするのが、大脳辺縁系ということになる。さらに、「これは写
真にすぎない。いろいろ加工して、わざと情欲をそそるように編集してある」と判断する
のが、前頭前頭野ということになる。

 視床下部は、いわば、原始脳。動物的なものの考え方をする。かたや前頭前野は、人間
の理性を司る。

 で、おおざっぱに言えば、(視床下部)→(辺縁系)→(前頭葉)を経て、性YOKUは
生まれ、コントロールされる。ついでに性YOKUのみならず、食欲、睡眠、血圧なども、
この視床下部によって、基本的にはコントロールされるという(「心の健康辞典」町田静夫
著)。

 では、何が、視床下部に刺激を与えるか、である。

 先にも書いたように、射S前と射S後では、「女」に対する印象は、まるでちがう。つま
り睾丸で作られた精液の量が、性YOKUと深く関わっているのが、これでわかる。ここ
から先は、あくまでも私という素人の仮説だが、それは(血糖値)と(空腹感)の関係に
似ているのではないか。そういう物質が発見されたという話はまだ聞いていないが、睾丸
に精液がたまると、(ある物質)が血液中に放出される。それが視床下部を刺激するのかも
しれない。

 こうして男の頭の中は、「女」でいっぱいになる。ペXXが、勃Xするのは、そのあとの
ことである。(勃Xのメカニズムについては、省略する。)

 ここでいう「ある物質」こそが、性YOKUのメカニズムを解くカギということになる。
つまりそれが脳内に充満したとき、性YOKUが起き、反対にそれを打ち消すために、フ
ィードバック現象が起きたとき、性YOKUは今度は、急速に減退する。

●二重人格性

 しかしここで書きたいことは、性YOKUのことではない。ここで書きたいのは、原因
が脳内ホルモンであるにせよ、ないにせよ、外部的な刺激と、それに反応する自分の肉体
の間で、精神状態も、大きく変化するということ。「変化」というよりは、まるで別人のよ
うになる。

 ここでわざわざ「性YOKU」を取りあげたのは、フロイト流に考えれば、その性YO
KUが、人間のリピドー(=生命力の根源)になっているからである。

 ほかに私のばあい、ワイフと喧嘩しているときと、していないときとでは、ワイフに対
して、感じ方が、まるでちがう。感じ方がちがうから、考え方まで、ちがう。

 喧嘩しているときは、「こんなヤツ、どこかでのたれ死にすればいい」とさえ思う。が、
そうでないときは、「ぼくがいつ死んでもかまわないように、財産だけは、きちんとしてお
いてやろう」と考える。

 これも考えてみれば、二重人格性ということになる。つまり私たちは、日常生活の中で、
無意識であるにせよ、二重人格性を経験しているということ。「二重人格」という言葉に問
題があるなら、「多重構造性」と言いかえてもよい。少なくとも、単一ではない。

 が、この多重構造性がはげしければはげしいほど、自分というものが、わからなくなる。
ときに、自分を見失うこともある。手鏡で、女性のスカートの下をのぞいていた大学教授
を思い浮かべてみればよい。ふだんは立派な(?)学者である。しかしある種の脳内ホル
モンに毒されると、理性のコントロールがきかなくなってしまう。(たぶん?)

 そこで、こういうことは言える。

 よきにつけ、悪しきにつけ、単一性が強い人のことを、「一貫性のある人」という。反対
に多重構造性が強い人のことを、「人格の完成度の低い人」と。

 この先のことは、私にもわからない。これから先、科学が進歩して、この分野も、やが
て詳細に解明される日がやってくるだろう。で、ここでひとつのテーマ。

 もしこの文章を読んでいるあなたが、男性なら、セッXXの途中でもよいから、射S前
の自分と射S後の自分を、冷静に比較してみるとよい。その変化を、観察してみるのもよ
い。私のばあい、気のせいかもしれないが、射S後、脳の中に、ジワーッと、脳内ホルモ
ンらしきものが充満してくるのを感ずる。

 女性のことは、実のところ、いまだに、よくわからない。 

注:S=精のこと
注:結局、この原稿は、楽天日記のほうには、掲載できなかった。
  どの文字が、禁止用語なのか、私には、わからない。きびしい!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 24日
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メリー・クリスマス!!!!!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

メリークリスマス!

●今朝・あれこれ(11月19日)

++++++++++++++

昨夜、どこか風邪っぽかった。
が、外食。大きな店だったが、
暖房があまりきいていなかった。

肉料理を久しぶりに食べたが、
家に帰ると、悪寒。薬をのんで、
そのまま就寝。

ところで、この土日に、2本の
DVDを見た。

『敬愛なるベートーベン』と、
『ドレスデン』。ともに、すばらしい
映画だった。

学生のころは、毎年、第九交響曲を
歌っていた。映画を見ながら、
いっしょに合唱。涙、ポロポロ。
『敬愛なるベートーベン』は、
星は4つの、★★★★。

もう1本の『ドレスデン』も、
星は4つの、★★★★。2時間半もの
大作なので、じっくりと構えて見るの
がよい。

ドイツも、このところ、すばらしい
映画を制作するようになった。
CGも、ハリウッド映画に追いついた
という感じ。

よかった! 感動した!

ほんとうは、どれも星は5つかも
しれない。乱発すると価値が
さがるので、あえて、星は、
4つにした。

++++++++++++++

●ヨセフ

 今度、キリストの父親のヨセフをテーマにした映画が、劇場で公開されるという。公開
されしだい、ワイフと見に行くつもり。ワイフは、たいへん楽しみにしている。

 チラシには、こうある。

 「あの日、ヨセフがマリアを信じなければ、あの時、ふたりが大王による虐殺から逃れ
えなければ、キリストは誕生しなかっった」と。

 キリスト教会の中には、「聖ヨセフ教会」というのもあるが、全体としてみると、父、ヨ
セフの影は薄い。マリア像をかかげる教会は多いが、ヨセフ像をかかげる教会は、ほとん
ど、ない。

私は、若いころから、教会へ行くたびに、それを疑問に感じていた。そういう疑問をベ
ースに、以前、いくつかの原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●育児に参加しない父親

Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか

てきます。

A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうで
はない。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だっ
たかもしれない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。

ある女の子(小5)は母親に、こう言った。「どうしてあんなパパと、結婚したの。もっ
といい男の人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考えれば、母親が別の男性と結
婚していたら、その子どもは存在していなかったことになるのだが…。

 そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方を
する。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親
のヨセフは、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?

 これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、
その一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約30%の夫は、家事をほとん
どしていない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。

 そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親に
してもらう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」
と。決して男尊女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親
なら、私はその反対のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬
しあうことをいう。まちがっても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とく
に子どもの前では、してはいけない。

 こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、
母親の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女
性(32歳)は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑
していた。原因は、その女性の母親にあった。

 母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父
親は、まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親
を、「甲斐性(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?

 これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過
渡期にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約30%の若い夫は、育児はもちろ
ん、炊事、洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。

 …というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を
張っている。あせらず、じっくりと構えること。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●母親の役目

 子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、
絶対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」
という実感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい10歳前後か
ら)が発達してくると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、
自分は父親の子どもではないかもしれない」と思う子どもも少なくない。

ある男の子(小5)は、こう言った。「ママが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、
ぼくは、もっと幸福になれた」と。

 こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと
幸福になれた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚した
の!」と、迫る子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、
その子どもは、絶対に生まれていなかったことになるのだが……。

 このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。
わかりやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。も
ちろん中には、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。
だから父親と母親が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方
をする。歌にしても、母親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。

 たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろ
さん』にしても、母親をたたえる歌である。「♪母さんは、夜なべをして……」とは、歌う
が、同じように苦労をしている父親に対して、「♪父さんは、夜なべをして……」とは、歌
わない。

最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだしたが、そういう歌は例外と考え
てよい。つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親というのは、どこかたた
えにくい?

 このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをた
たえる信者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッ
セーを書き始めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄い
のかしら?」と言ったのが、きっかけになった。

 話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。
子どもにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、
どんなことで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父
さんがいないと、どんなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。

 そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして
結果として、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければな
らない。この仕事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。

方法としては、母親の立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけは
しないこと。もっと言えば、家庭教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせ
るようにする。「これは大切な問題だから、お父さんに判断してもらいましょうね」「お
父さんががんばってくれるから、みんなが安心して生活ができるのよ」とか。

 決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに
高い次元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが
父親なら、その反対のことをすればよい。

 しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。そ
れは今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親
の威厳を回復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」を
もちだしても、子ども自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」と
いう意味での、平等論ということになる。

 またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太
くするかが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラ
バラになってしまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存
在感が薄いことが知られている。

もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくはない
が、失敗する確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今か
ら太くしておく。そしてそれをするのは、母親の役目ということになる。
(03−1−5)

【追記】
 よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題
ではない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。
問題の「根」は、もっと深い。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●父親、ヨセフ

●存在感の薄い、ヨセフ

 イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。
一説によると、そのときヨセフは、マリアと婚約関係にはあったが、マリアとは性的関係
はなかったとされる。また一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせ
たが、ヨセフには、知らせなかったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の
子としての活動を始める前に、死んでいる。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父
親ヨセフは、では、いったい、何であったのか、と。

 この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。
私のような門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を
先に進めてみたい。

●母親は絶対

 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的
な方法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの
関係は、母親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」
の関係にすぎない。このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。

 たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そ
ればかりか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」
という疑いをもつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさ
わしい人物にちがいない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。

 実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気に
さえなれば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一
方、女には、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。

もし男も女も、同等の快感であったとするなら、女はセックスなどしないだろう。その
あと予想される「重荷」を考えたら、とても割にあわない。たとえば男というのは、そ
のセックスの途中であっても、冷静に、女の反応を楽しむことができる。しかし女はそ
うではない。無我夢中というか、我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。

またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐
らく長い間の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと
予想される「重荷」を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがある
から、女も、あと先のことを考えることなく、セックスに没頭することができる?

 となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理すること
はできる。

●親は、母親だけ?

 人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代におい
ては、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形が
できたのは、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、
母親でしかなかったのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、
如実に示されていると考えられなくもない。

 で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存
在することがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれ
を克服した崇高さを、ことさら美化している。

しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が確立した、「現代」から
見た視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛盾する。おか
しい。おかしいから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?

 しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことな
がら、家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考え
る家族観、……つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、
異質のものであったと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」
中心の家族観に改められたのは、戦後のことである。

●母親と父親は平等ではない?

 こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、
同一のものでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子
どもに対する意識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の
子どもではない」と疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見なが
ら、「ひょっとしたら、この子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。
そしてそれがちょうどカガミに映されるかのように、子どもの心となる。

 つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念
は、ずっとあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、
一夫一妻制度が確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、
まさに「精液一しずく」。

 そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考え
る。父親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、
子どもの意識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を
吸う子どもはいない。

●母親は父親を立てる

 で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父
親と子どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子
どもが父親との関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと
自体、すでに、父親と子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。

 つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在
を高める。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というの
は、互いに相手を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。
「大切な判断は、お父さんにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。
そういう姿勢を通して、子どもは、父親像を学ぶ。身につける。

●父親ヨセフの苦悩

 こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストを
もうけるためにマリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなか
ったのではということになる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうを
みるなら、だれでもよかった? ……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を
冷静に積み重ねていくと、そうなる。あるいは、あなたがヨセフならどうだったかという
視点で考えてみるとよい。

 妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつ
めると、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。
そういう状況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。

ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗り越えたところに、父親ヨセフの偉大さ
がある」というような論陣を張るが、それはあくまでも結果論。結果的に、イエス・キ
リストが、偉大な人物になったから言えることであって、そうでなかったら、そうでな
かったであろう。

 いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、お
そらく母親のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と
聞かされていた。イエス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を
感じなかったのか。あるいはそれこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかっ
たのか? 

 「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教
会では、マリア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑
問をもったのがきかっけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこ
かの教会へ行ったときにでも、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)

++++++++++++++

 「マリア」のチラシの裏面には、こうある。

 「本作は、神学、歴史、政治、社会、文化などのあらゆる専門家の協力を得て、マリア
とヨセフ、そしてキリスト誕生までの物語を、忠実に再現。突然、神からの啓示を受けた
若いふたりがどのように困難を乗り越え、お互いの親愛を築いていったのか? そしてク
リスマスの本当の意味とは……」とある。

 映画が楽しみだ。

 そうそう、ほかに、ニコラス・ケイジ主演の、「ナショナル・トレジャー」と、アンジェ
リーナ・ジョリー主演の、「マイティ・ハート」も封切りになる。ワイフは「みんな見に行
く」とがんばっているので、つきあうつもりでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●子どもは甘えるもの

++++++++++++++

「甘え」と依存性は、
まったく別のもの。

まずそういう視点で、
「子どもの甘え」を
考える。

++++++++++++++

 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよい
のが、「甘える」という行為である。

一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え
方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、
人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、その
やさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、
育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分
だけ、人に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。

他人が悲しんだり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくな
る。ものの考え方が、全体にひねくれる。私「今日はいい天気だね」、子「いい天気では
ない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、
子「雲があるから、いい天気ではない」と。

こんなショッキングな報告もある(2000年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、
四分の一もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった0歳児を抱っこする際、以
前はほとんど感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の
1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」
(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」
が33%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応
が二割前後見られ、調査した6項目の平均で25%に達したという。

また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、
平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんを
もつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「ど
うして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。また抱かれない子ども
を調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っている
ケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)
二〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシ
ップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話
している。

 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
甘え 甘える子ども)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生きる本分

++++++++++++++

生きる本分を忘れると、
何のために生きているか、
それがわからなくなって
しまう。

しかし、これほど、恐ろしい
ことはない。

++++++++++++++

 リチャード・マクドナルドという人がいた。数年前に89歳でなくなったが、あのハン
バーガーチェーンの「マクドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている。が、当の
マクドナルド氏自身は、早い時期にレストランの権利を別の人物に売り渡している。

それについて生前、テレビのレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときの
こと。マクドナルド氏はこう答えている。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろは
ニューヨークのオフィスで、弁護士や会計士に囲まれてつまらない生活をしていること
でしょう。(こういう農場でのんびり暮らしている)今のほうが、ずっと幸せです」と。
 
 話は大きくそれるが、私には3人の息子がいるが、そのうちの2人をあやうく海でなく
しかけたことがある。とくに二男は助かったのが奇跡としか言いようがない。そんなこと
もあって、私は二男に何か問題があるたびに、「こいつは生きていてくれるだけでいい」と
思いなおすことで、それらの問題を乗り越えることができた。生きることを原点にしても
のを考えるということは、そういうことをいう。

 私はマクドナルド氏の話を聞いて、大きな衝撃を受けた。日本人には信じられないよう
な生き方だが、アメリカやオーストラリアでは珍しくない。私の友人のP君も、宝石加工
会社をおこし、40数歳の若さで、「輸出高ナンバーワン」で、オーストラリア政府から表
彰されている。

しかしそののちまもなく権利を売り渡し、今はシドニー郊外で悠悠自適の隠居生活を楽
しんでいる。ほかにもこういう例は多い。よく知られた人物としては、ジェームズ・ル
ービン報道官がいる。彼は妻の出産を理由に、ホワイトハウスの報道官を退任。今はロ
ンドン郊外で「主夫業」(報道)をしている。

 ものの考え方というのは相対的なものである。日本人が「あれっ!」と思うということ
があれば、ちょうどその反対のことで、彼らもまた同じように、「あれっ」と思うもの。ア
メリカ人やオーストラリア人にしてみれば、日本人の生き方のほうが奇異に見えることだ
って多い。

……いや、だからといって日本人の生き方がまちがっているというのではない。日本人
は日本人で、今、精一杯がんばっている。こういう生き方しかできないといえば、それ
はし方ないことだ。しかし心の基本が、どこにあるかで生き方そのものも変わってくる。
ものの考え方も変わってくる。もちろん子育てのし方も変わってくる。仕事は大切だ。
名誉も地位も肩書きも大切だ。しかしそれは決して世界の常識ではない。世界の常識は、
もう少し違った位置にある。

 要は、生きる本分を忘れないということ。忘れると、世界から日本はいつも奇異な目で
見られる。個人について言えば、結局は自分の人生をムダにすることになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●日本史

++++++++++++++

日本史も、アジア史の一部でしか
ない。

日本の歴史教育の中で、何が
まちがっているかといって、
日本史を、世界史と完全に
切り離してしまっていること。

「日本だけは特別」と思いたい
気持ちも、わからないわけでは
ない。しかしこうした歴史観は、
日本の進むべき道を、かえって
見誤らせることになる。

++++++++++++++

 テレビの討論番組で、「ぼくたちはアジア人ではない! 日本人だ!」と叫んだ小学生た
ち(5、6年生くらい)がいた。それに対して、アフリカ人の留学生が、「君たちの肌は黄
色いではないか」とたたみかけると、その小学生はさらに、こう叫んだ。「黄色ではない。
肌色だ!」と(2000年)。

 そこで私も小学校の高学年児を対象に、独自に調べてみた。結果、「日本人はアジア人」
と思っている小学生は1人もいないことがわかった(2001年、小学生約20人につい
て調査)。「欧米人とアジア人の中間」「欧米人に近いアジア人」、あるいは中には「ぼくた
ちは欧米人」と答えた子どももいた。

 日本人はまちがいなく、アジア人である。しかしこの日本で教育を受けていると、そう
いう意識が消える……らしい。また、そういう教育をしていない。

30年前のことだが、私がオーストラリアという国から日本を見ても、日本人の目は欧
米には向いていたが、アジアにはまったくといってよいほど向いていなかった。そうい
う日本人をさして、「黄色い白人」というニックネームすらつけられたが、日本人はそれ
をむしろ「誇り」に思ったようなところがある。(実際には、日本人はバカにされたのだ
が……。)

 問題はなぜ、こういうゆがんだ民族意識をもってしまったかということ。その理由の一
つが、日本史を東洋史と切り離してしまったところにある。しかしこれは世界の常識では
ない。

たとえばフランスの大学では、日本語学部や日本語学科は、朝鮮学部や朝鮮語学科の中
に組み入れられている。また欧米の大学では東洋学部というときは、中国研究を意味し、
日本学科はその一部でしかない。

……いや、こう書くと、「君は日本人としての誇りを捨てるのか」という人が必ずといっ
てよいほど現れる。しかし私は何も日本人を否定しているのではない。日本人はアジア
人であり、その先では人間だ。日本人が人間であるとか、アジア人であると言ったとこ
ろで、日本人を否定したことにはならない。むしろ短絡的な民族主義は、えてして国粋
主義に姿を変える。それがこわい。

「日本人はすばらしい」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、その返す刀で、
「他の民族は劣っている」と考えるのは、まちがいだということ。

 これからの日本が、世界の中で生きていくためには、日本人自身が、もっと広い目で自
分を見なければならない。でないと、結局は、日本はいつまでたっても東洋の島国から抜
け出ることができないままになってしまう。私はそれを心配する。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(11月21日)

+++++++++++++++

毎年、秋になると、岐阜に住む
友人が、柿を送ってくれる。

実家が、柿農家だという。自分で
もいで、ふくろをかけたという。

「今年は肥料のやり過ぎで、少し
実がかたい」と、電話の向こうで、
笑っていた。

私は、岐阜弁が嫌いではない。
子どものころは、その岐阜弁に
あこがれさえ抱いた。

郷里のM町に生まれ育った私には、
岐阜弁が、洗練された都会の言葉に
聞こえた。

ありがとう、Nさん!

+++++++++++++++

●ニュー・リッチ

 子どもの学費で悲鳴をあげている人たちがいる一方で、稼いだお金をどう使おうかと、
苦労している人たちがいる。50代や60代の人たちの話ではない。20代、30代の若
い人たちの話である。

 いわゆる「ニュー・リッチ」と呼ばれる人たちである。

 野村総合研究所の推計によれば、金融資産が1億円以上の世帯は、日本に87万世帯あ
るという。しかもその総世帯数の2%に満たない層が、総額213兆円もの資産を占めて
いる。これは日本の個人金融資産の10%以上に相当するという(文藝春秋「日本の論点、
'08」)。

 もちろんこの中には、昔からいう資産家や、医師や弁護士など、特殊な職業の人たちも
含まれる。が、その構図が今、大きく変わろうとしている。

 ゼロ金利政策と、それにつづく超低金利政策。今、日本は、日本国内はもちろんのこと、
世界中に、日本の円が、「ジャブジャブに」(某経済誌)バラまかれている。日本という国
全体が、巨大なサラ金国家になっていると考えると、わかりやすい。

 こうしてバラまかれたお金は、当然のことながら、だれかのところに集まる。私の知人
の中には、いわゆるストックオクションだけで、毎年、1〜2億円の利益をあげている人
がいる。「すごいね」と話しかけると、「ぼくなんか、まだ少ない方だよ」と笑っていた。
その知人は、今年40歳になったばかりである。

 こうした格差をながめていると、それは「格差」というより、「情報の差」ということに
なる。もっと言えば、「交流の差」ということになる。いかにして「質の高い人」とつきあ
うか。その差が、情報の差となり、格差となる。恩師の田丸先生も、会うたびに、私にこ
う言う。「質の高い人たちと、もっと交流しなさい」と。

 もちろん田丸先生は、金儲けのことで、そう言ったのではない。しかしそれは事実で、
その世界でもトップクラスの人には、その人独特の雰囲気というものがある。会った瞬間
に、オーラのようなものさえ感ずる。(私は、「オーラ」なるものは信じていないが……。)
そうしたオーラは、本や雑誌を通しては、ぜったいに感ずることができないものである。

 ニュー・リッチと呼ばれる人たちは、こうした人脈を巧みにたどりながら、それを自分
の利益につなげていく。

 では、どうすれば、その「質の高い人」と交流できるかだが、その第一の条件は、「今、
住んでいる世界から、飛び出す」こと。飛び出して他流試合を重ねていくこと。するとそ
こにひとつの輪ができる。その輪の中に入ってしまえば、しめたもの。……といっても、
その「輪」は、あとになってわかるもの。そのときは無我夢中で、その「輪」に気づくこ
とはない。

 私のばあいも、20代のころは、たしかにその「輪」の中にいた。今でこそ留学といっ
ても、珍しくも、何ともない。だれでもできる時代になった。しかし私の時代には、そう
ではなかった。あの人口300万人(当時)と言われるメルボルン市ですら、日本人の留
学生は、私、1人だけだった。

 私の世話人になってくれたのが、現在の皇后陛下の父親の正田氏だった。(当時は、世話
人がいないと、日本人は、正規の留学が認められなかった。)その正田氏とも、東京へ行く
たびに、電話1本で、会うことができた。

 そんな中、札幌オリンピックのつぎの企画の仕事が、仲間のA氏のもとにころがりこん
できた。A氏は、第一回日豪経済委員会給費留学生。私が、第二回日豪経済委員会給費留
学生だった。メルボルン大学時代の私の友人のP氏も、仲間に加わった。

 私は、三井物産という会社をやめ、その仲間に加わった。当時、財界の大物であった、
今里氏という人物が、スポンサーになってくれた。……とまあ、今から思っても、とんで
もない世界に、私はいたと思う。

 その余録というわけでもないが、浜松に移り住み、ちょうどワイフが長男を妊娠したこ
ろのこと。アメリカからリン氏という、中国系アメリカ人が、私を何度か訪ねてきた。話
を聞くと、何でも、今度、東京に遊園地(彼は「プレイ・グラウンド」という言葉を使っ
た)を作ることになった。ついては、私に、その遊園地の副園長になってくれないか、と
いうものだった。

 名前を聞くと、「ディズニーランドだ」という。が、私は、その世界のことをまったく知
らなかった。私は浜松市の郊外にある、「P」という名前の遊園地を想像していた。だから、
断った。「東京には、2度と戻りたくない」という思いも強かった。

 今のニュー・リッチの人たちにはかなわないが、当時の私は私で、結構、稼いだと思う。
毎週のように外国へでかけ、いろいろな人に出会った。ビジネスもした。が、そのあとい
ろいろと心境の変化もあって、ビジネスの世界からは遠ざかったが、だからといって、何
も、負け惜しみを書いているのではない。

 先に書いたA氏は、外資系企業の社長を歴任している。P氏にしても、オーストラリア
へ帰ってから起業に成功し、40歳そこそこの若さで、自分の会社を、オーストラリアで
も、利益ナンバー・ワンの会社に育てあげている。

 ここで私がここで言う「自分の世界から飛び出す」「輪」というのは、そういう意味であ
る。

 しかし、では、そういう世界が「幸福な世界」「私たちが求める世界」かというと、私は、
そうではないと思う。お金を湯水のごとく使っても、変えられないものがある。変わらな
いものも、ある。それについては、また別の機会に書くことにして、ともかくも、ニュー・
リッチをめざすなら、そういう「輪」の中に入る、ということになる。

 ただ、残念に思うのは、私が若いころには、格差といっても、知れたもの。が、今は、
それがケタ外れになってきている。狂ってきている。冒頭であげた、「日本の論点'08」
には、こんな話が紹介されている。

 「高級外車の国内販売代理店に、1人の若い女性がフェラーリを買いたいと、現れた。
現金で、2700万円をもってきたという。ところが店員は、すぐには売れないと答えた。
フェラーリは注文が殺到し、3年待ちの状態だったからだ。そんなに待てないと、女性が
別の業者に相談したところ、あと1000万円プラスしてくれれば、翌週に手配できると
のこと。彼女はためらうことなく、すぐに全額を支払った……」(P56)と。

 先日もテレビで、掃除機を1回ずつ、使い捨てにしているという女性を紹介していた。(掃
除機そのものを、だぞ!)「ゴミ袋を取り替えることができないから」という理由で、そう
しているのだという。

 フ〜ンとうなっただけで、私は、そこで言葉を失った。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●インターネットの世界

+++++++++++++

インターネットの発明は、
第二の産業革命に匹敵する
ほど、この世界を変えつつ
ある。

(「第二の産業革命」になるか
どうかは、もう少し歴史の中で
熟成させてみないとわからな
いが……。)

一時は、ウィルスなどの出現で、
インターネット限界論も、
強く叫ばれた。が、今は、その声も
弱くなった。

インターネットには、それ以上の
パワーがある。

+++++++++++++

●恐ろしいほどの高速性

 私が何よりも驚いているのが、その高速性である。昔は、こうだった。

 まず雑誌社から1本の電話が入る。「今度の雑誌の付録の原稿を書いてほしい」と。その
とき、同時に、おおまかな内容や字数が、告げられる。

 私はその原稿を書き、それを速達で送る。真夜中に郵便局へ走るのが、当時の日課のよ
うにもなっていた。

 しばらくすると、原稿のゲラ刷りが送られてくる。私は、それにチェックを入れる。あ
るいは電話で返事をする。私が30歳くらいのとき、すでにFAXなるものはあるにはあ
ったが、大きな機械で、ドラムを回しながら、送信するというものだった。

 が、今では、そうした作業が、瞬時にできる。書きあげる原稿の量にしても、比較にな
らない。現在の私でも、単行本の分量にして、(1600字詰め原稿用紙x100〜120
枚分程度)、月に、2〜3冊分は書いている。

 しかもBLOG上で原稿を書くと、その1〜2日後には、検索エンジンで検索できるよ
うになる。

 BLOGだけでも、毎日、数百人以上、HPだけでも、毎日、数百人以上、さらに電子
マガジンについては、毎号3000人以上もの人たちが、私の原稿を読んでくれているこ
とになる。

 (現在BLOGは4誌、HPは6誌、マガジンは3誌、発行している。)

 これに検索エンジンを使って、HPの各ページなどにアクセスしてくれている人を含め
ると、その数は、膨大なものになる。おおざっぱな計算だが、月に、数万から、ばあいに
よっては、十数万人になるかもしれない。

 そういう作業が、たったひとりでできる。この8畳間という小さな部屋の中だけで、で
きる。

●質とマネー

 が、問題がないわけではない。多くの人は、「インターネットで流れる情報には、信頼性
がない」と考えている。

 しかしこれについては、私は、過渡的なものではないかと思っている。インターネット
の世界では、(私の原稿も含めてでの話だが……)、とても原稿にならないような原稿も、
同時に、流されている。そういう原稿が、インターネットの質を落としているのも事実。

 が、このところ、つまりこの数年の間だけでさえ、質が変わってきた。あるパソコン雑
誌(「週刊・アスキー」)の中で、こんなような記事を書いている人がいた。

 テレビができたころ、映画の制作にかかわる人たちは、「テレビは映画には勝ち目はない。
画面がザラついていて、使い物にならない」と言っていたという。

 が、そのテレビも今では、格段の進歩を遂げた。つまり昔のテレビと映画の関係、そし
て今のインターネットと新聞、書籍の関係は、どこか似ている?

 「今の状態」だけを見て、インターネットを判断してはいけない。

 またつぎに、マネーの問題がある。

 昔は、つまりインターネットの世界に入る前は、どんな本を書いても、出版と同時に、
最低でも、30〜60万円の現金収入があった。しかし今は、ほとんどゼロに近い。多く
の人は、「インターネットで得る情報は、タダ」と思っている。

 私にしても、書店での書籍の購入に、月、数万円以上も使っている。が、インターネッ
ト上での支払いには、何かしら、大きな抵抗感を覚える。できるだけタダですまそうとい
う心理が、強く働く。

 これはどういう心理によるものか、私にもよくわからない。ときどき本を買ったあと、「こ
んな程度の情報なら、インターネットでいくらでも、タダで手に入るのに」と思うことが
ある。

 つまりインターネットでは、どうやって情報をマネーにつなげていくか、それが問題と
いうことになる。(これも、私の個人的な問題なのかもしれないが……。)

 しかし全体としてみると、インターネットがもつ影響力には、ものすごいものがある。
たとえて言うなら、野原を自由に走り回るブルドーザーのようなもの。今は、その過渡期
だから、あちこちに不完全な部分があるかもしれない。が、やがてそれも解消されるだろ
う。

 私自身は、インターネットの未来を信じている。

(付記)●地域性について

 若いころ、私を知る人は、みな、こう言った。「君がしているような仕事は、東京でない
とだめだ」「東京へ出てこい」と。

 私も、地方に住むことの限界を強く感じていた。そんなある日のこと。私が27〜8歳
くらいのときのことではなかったか。実名を出して恐縮だが、北海道の札幌にある、ハド
ソンという会社が、今で言う「エクセル」に似た、表計算のソフトを発売した。名前を「カ
ルク」と言った。

 私はそれにとびついた。当時、私は、すでに何台かのパソコンをもっていた。が、何よ
りも驚いたのは、その会社が、札幌にある会社だったということ。「地方の会社でも、こん
なことができるのだ!」と。

 しかし今から思うと、それがインターネットの始まりだったように思う。もちろん当時、
インターネットはなかった。その前身である、(パソコン通信)なるものが、NEC系で始
まったのは、私が35、6歳くらいのときのことではなかったか。

 最初は、カタカナ通信だけ。やがてひらがな通信、さらに漢字通信ができるようになっ
た。私はそのつどパソコン販売店へ足を運び、パソコンを買い換えた。

 話が脱線したが、今では、こうして地方に住む私が、何らハンディなく、世界に向かっ
て情報を発信できる。つまりインターネットが、社会構造そのものがもつ地域性を、完全
に破壊してしまった。「破壊」というより、「垣根」の概念そのものをなくしてしまった。

 これもインターネットがもつ特性のひとつとして、頭に入れておかねばならない。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●メリークリスマス!

++++++++++++++++++

この原稿がマガジンに載るのは、12月
24日ということになる。

メリークリスマス!

が、今日は、11月20日。火曜日。

朝、起きて、あちこちのニュースを読む。

今日(アメリカ:19日)も、アメリカの株価は、
暴落したようだ。200ドル以上もの、棒下げ。

日本への影響は、必至。
さあ、どうなる、日本!

サブプライム問題は、予想以上に
根が深く、大きいようだ。そればかりか、
サブプライム問題が、あちこちの産業に、
飛び火をし始めている。

今は、そんな感じ。

しかしアメリカのドルは、強い!
ほかの国なら、とっくの昔に、破綻。
が、そこは、ドル。
現在、原油は、イランなど、いくつかの国を
のぞいて、そのドルでしか、購入できない。

アメリカにしてみれば、「金に困れば、
ドル紙幣を、どんどん印刷すればいい」
ということになる。

もちろん、そうなれば、インフレ。
ハイパーインフレ。

原油価格にしても、1バレル=100ドル
から、さらに上昇して、200ドルになる
かもしれないという(経済各誌)。

200ドルになれば、原油価格は、
この1年間で、約5倍以上になる
ことになる。

つまりドルの価値が、5分の1に低下
することを意味する。

私のような素人がうんぬんする問題では
ないかもしれないが、日本経済に与える
影響は、はかり知れない。

もちろん私やあなたの生活をも、直撃
する。

明日は、クリスマスというのに、
暗い話で、ごめん!

ともかくも、メリークリスマス!

++++++++++++++++++

●オーパーツ

 昨日、書店でいくつかの雑紙と、オーパーツについて書いた本を買ってきた。

 オーパーツ……「Out of Place Artifacts(場違いな加工品)」
のことをいう。

 世の中には、常識では理解できない、不思議なものがある。本当かウソかは、わからな
いが、その中のいくつかを、ここに列挙してみる(「超古代オーパーツFile」(学研)
より抜粋。)

★超古代核戦争の痕跡(リビア砂漠のガラスなど)
★メカニック・オーパーツ(アンティキティラの歯車など)
★クリスタル&石像物(ヘッジスの水晶ドクロ)
★電気・金属オーパーツ(秦時代のクロムメッキ剣)
★大洪水説の痕跡(アトラス山のノアの箱船)
★巨大遺跡の謎と真実(秦始皇帝時代の地下宮殿)、などなど

 この中でも、私は、最後の「巨大遺跡の謎と真実」の中にある、中国のピラミッドにつ
いて、関心をもった。……というより、このうわさは、かなり若いころから、耳にしてい
た。

 「超古代オーパーツFile」には、つぎのようにある。

 「1945年、中国はシーアン(西安)の南西部の山岳地帯上空を飛行していた、アメ
リカ空軍パイロット、J・ガウスマンが、眼下に出現した、巨大ピラミッドを撮影した。

 彼が後に、ニューヨーク・タイムズ紙上で語ったところでは、ピラミッドは、太陽光を
反射し、白く光っていた。それはまるで、表面に金属板か白いタイルのようなものを施し
たと思われる荘厳な光景だったという。

それを補足するかたちで、つづいて1946年3月、トランスワールド航空のM・シー
ハン元大佐も、シーアンの南、約120キロの地点にある、チンリン山脈のふもとで、
高さ900メートル、基底部が約1・5キロあるピラミッドを目撃したのだ」(P142)
と。

 高さ900メートル! エジプトのギザのピラミッドは、大きいといっても、高さは、
136メートル、基底部は、230メートルにすぎない。

以前、私はそのピラミッドの写真を、何かの本で見たことがある。が、それはただの影
のようになっていて、不鮮明なものだった。この本の中では、それよりもやや鮮明な写
真が紹介されている。それを見ると、そのピラミッドは、はっきりと角がわかる、四角
錐台の形をしているのがわかる。頂上部には、水平になった広場らしきものまである。

 この形を見て、「自然にできたもの」と思う人は、まず、いない。表面こそ、風化か何か
(?)で、でこぼこしているようだが、全体としては、しっかりとした四角錐台の形を整
えている。

 こういうとき役立つのが、グーグル・アース。さっそくシーアン(西安)あたりを、検
索してみる。

 位置としては、

 33°10'58・17"N、108°53'01・81"E、

 あたりだと思う。(シーアンの真南、120キロで検索。)

が、一辺が1・5キロもあれば、それらしき正方形が見えるはずだが、私が見たところ、
それはなかった。また本に載っている写真を見ると、平地の中にそのピラミッドがある
ように見える。しかしシーアンの南、120キロあたりは、チンリン山脈のまっただ中。
本当に、シーアンの南、120キロなのだろうか?

 「?」ということになる。

 しかし何とも、ロマンをかきたてる話ではないか? 平地に高さ900メートルものピ
ラミッドを建設するなどということは、ギザのピラミッドと対比するまでもなく、人間に
は、不可能。あるいはもともと四角錐台に近かった山を削ったのかもしれない。しかし、
だれが、何のために?

 昨日も、自然に目が閉じるまで、私はふとんの中で、その本を読んでいた。そしてその
まま眠ってしまった。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの
症状について、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわ
いものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、ど
んな障害があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはで
きない。わかっていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親
に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通り
たい」という親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信
じたくない」という親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲
しい。それはよくわかる。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子
だった。場面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父
親は、自分の娘のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやっ
てきた。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自
分の子どもの問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座
に返ってくるのは、反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)
が不一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからな
い笑みを浮かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味の
わからない笑みを浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度に
もよるが……)、症状は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、あ
る程度、遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれ
は(過去)の話。教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の
過去を責めても、意味はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくる
のを待った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? そ
れとも隠しているのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)
心を開かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいた
め、予期せぬ問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力
的な様子が、始まっていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が
必要となる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっ
ても、まさに手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒とい
う単位でつづく。突然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、
当時すでに私は50歳を超えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がつい
ていないこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、
親が目をそらしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そ
んなに簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」という
ような判断をくだして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年
とか、あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの
子は、慣れれば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「と
にかく、教室へ置いてくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家では
ふつうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その
問題点に気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」
と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはい
けない。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認
めた上で、その子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たい
へんだが……。)あとは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3〜
4年生を境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅く
なる。あるいは、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そ
んなはずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状
を、かえってこじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。
「一度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではない
だろうか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●道徳完成論
 
+++++++++++++

子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。

称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。

(1)公正性
(2)普遍性
(3)一貫性
(4)正義性
(5)視野の広大性

+++++++++++++

(1)公正性

 たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類に対し
て、
どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いことは悪いこととして、
その
親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相手がだれであれ、ものごとを


に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。

(2)普遍性

 ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生観、


をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、それだけで道徳の

成度の低い人とみる。

(3)一貫性

 言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わったり、様
子が
変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘惑にも弱く、悪事

染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。

(4)正義性

 視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。自分に

して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出すことをいう。
また他
人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。この2つが、日常生活の中
で、

然な形で実行できることをいう。

(5)視野の広大性

 ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」という。
一方、卑
近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をする人は、視野が
狭い
ということになる。

 教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱を参
考に
してみてほしい。何かの役に立つはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 道徳
 

徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供の道徳 道徳教育)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●善と悪

●神の右手と左手
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言
われている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存
在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う
 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、「善をなすには、努力が
必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理
由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であるこ
とをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではな
い。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する
 
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。たとえば日常的なささいなことについては、「考える
だけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会
には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおに
それに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくま
で待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出
す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。
もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時
間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無
限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そ
のものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子
どものばあい、しつけも、それに含まれる。もう一つは、自分で考えるという方法。前者
は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦
痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということ
になるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別
のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」
があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02−10−25)※

++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個
人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わ
ず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のこと
も、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこう
いう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家
は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうな
のか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上
の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力
があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人
をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界
で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。
しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはな
らない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)
をここに転載する。

++++++++++++++++++++

四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさな
いで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカ
ナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマ
りやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもそ
の生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうして
いたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできび
しいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強
しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約
聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になった
が、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身に
ある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んで
いることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際
をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘
は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せ
るか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こうい
うおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問
題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)
 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

振り回される親たち

 少し前、赤ちゃんがおしゃぶりを使うと、指しゃぶりが残りやすいという説があった。
そこで一時期、おしゃぶりが、子どもの世界から姿を消した。しかし今度は、無理におし
ゃぶりをやめさせると、子どもの情緒が不安定になるという説が出た。すると親たちは、
再び、おしゃぶりを子どもに与えるようになった。が、再び、おしゃぶりが、よくないと
いう説がまた出てきた。理由はあれこれあるらしいが、もっともらしい説が、つぎつぎと
育児雑誌をにぎわした。

 そのつど、親たちは、ささいな情報に振り回される。新説が出るたびに、ああでもない、
こうでもないと振り回される。が、またまたまおしゃぶり論争。こんどは、おしゃぶりは、
必要という説。それに火をつけたのが、子どもたちによく見られる、口呼吸。「最近の子ど
もは口呼吸をする。それは母乳で、じゅうぶん育てられなかったからだ」と。あるドクタ
ーが、テレビ番組の中でしゃべったのがきっかけだった。つまり赤ちゃんは、母親の乳首
を吸っている間、鼻呼吸をする。その乳首を吸う回数が少ないと、口呼吸になりやすいと
いうのだ。そして鼻には、バイ菌などを遮断する機能があるので、鼻呼吸する子どもは健
康に、一方、口呼吸する子どもは、病気になりやすい、と。つまりおしゃぶりは、その鼻
呼吸を子どもにさせるには、効果的であるということらしい。とたん、また、おしゃぶり
が、復活した……!

 こういう論争を耳にすると、(私は乳児については、まったくの門外漢ということもある
が)、「?」と思ってしまう。「どうしてもっと基本的なことを論じないのか」と。

 仮に百歩譲って、口呼吸より鼻呼吸が健康によいということにしよう。しかしそれでも、
この問題は、無数にある問題のひとつにすぎない。「無数」だ。こうした情報というのは、
夜のバラエティ番組に出てくるクイズのようなもの。アフリカの一民族が使うような料理
用の道具を持ち出し、「これは何でしょうか?」と。自称、知識人やタレントたちが、さも
したり顔で、それを討論したり、ときには、ギャーギャーと騒いだり……。しかしそれが
わかったところで、どうということはないし、わからないからといって、これまたどうと
いうことはない。少なくとも、テレビというマスメディアを通して、全国の人たちに知ら
せなければならないような問題ではない。

 たしかに口呼吸と鼻呼吸はちがうが、子どもが口呼吸したらしたで、それはそのとき考
えればよい。赤ん坊のときから、神経を使わねばならないような問題ではない。どうして
親たちは、こういう重箱の底をほじくりかえすような、ささいな問題で、そのつど振り回
されるのか? 私にはむしろ、そちらのほうを問題としたい。

 では、どう考えるべきか。 

この口呼吸と鼻呼吸の問題にしても、子育てを自然体でしていれば、何も問題はないは
ず。人類は、そうして何十万年も生き延びてきた。つまりこれからも自然体で子育てを
すれば、何十万年も生きられる。そうした視点に立ちかえれば、一挙に、無数の問題を
解決することができる。口呼吸と鼻呼吸の問題も、それに含まれる。

「口」はものを食べるため。「鼻」は呼吸をするため。そんなことは、自然の中では、常
識ではないか。こうした「自然体」というか、「自然にかえれ」ということを、なぜ、も
っとみんなが声を大きくして言わないのか。言いかえると、もしあなたが子育てをして
いて、何かのことで迷ったり、わからなくなったら、自然にかえればよい。それで結論
は出る。すべてが解決する。私はこうした情報が出るたびに、それに振り回されている
親をみると、「はたして情報とは何か」と、そこまで考えてしまう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(11月16日)

++++++++++++++

今日の一日は、朝風呂で始まった。
起きると同時に、入浴。
まるで温泉気分。

この寒さも、11月らしくて、
心地よい。

そうそう、昨日、ワイフが、
「浜北(=浜松市の北部)では、
紅葉が見ごろよ」と言ったので、
その浜北へ行ってみた。

浜北には、森林公園という、
すばらしい公園がある。

が、どの木も、まだ、青々と
していた。

かろうじてイチョウの木だけが、
黄金色に輝き、秋の風情を
かもしだしていた。

残念!

「12月を楽しみにしよう」という
ことで、昨日のショート・ドライブは、
おしまい。

おはようございます!

+++++++++++++++

●人間の弱さ

++++++++++++++

よきにつけ、悪しきにつけ、
その人には、その人なりの
一貫性がある。

まじめな人は、あらゆる場面で、
まじめ。

小ずるい人は、あらゆる場面で、
小ずるい。

人間の心というのは、それほど、
器用にはできていない。場面に
応じて、まじめさと、小ずるさを
使い分けるということは、
できない。

++++++++++++++

 防衛省を舞台とした汚職事件が、連日、新聞のトップ記事を飾っている。主役は、もち
ろん、あのM政務次官。どこか得体の知れない人物。「政務次官」というのは、「防衛省の
トップ」をいう。防衛大臣につぐ要職。

 そのM政務次官が、(現在は、前政務次官だが……)、退職金の7000万円を国に返上
すると言い出した。「私には、受け取る資格がない」と。どうせ没収される退職金である。
それを知っているから、前もって、返上すると言ってみせた。

 小ずるい人は、あらゆる場面で小ずるい。そういう意味でも、人間の心には、一貫性が
ある。今まで小ずるいことを、さんざんしてきておきながら、この場に及んで、「私には、
受け取る資格がない」とは!

 しかしこのことは、重要な教訓を、私たちに与えてくれている。

 その人の人格というのは、日々の、まさに、ささいな事実の積み重ねで、できあがる。
ウソをつかない。約束(ルール)を守る。その積み重ねが、週となり、月となり、年とな
り、その年が積み重なって、やがて人格となっていく。

 昔から西欧では、『善と悪は、神の左手と右手である』と説く。しかしその善と悪は、け
っして平等ではない。とくに善には、熟成が必要である。その熟成なくして、善はありえ
ない。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 あなたは強大な権限をもった政務次官である。毎年、数千億円以上もの予算を、自分の
力で取り仕切ることができる。しかも毎日、巨額の現金が、目の前を、ベルトコンベヤー
よろしく、右から左へと流れている。

 あなたはほんの少し目をつぶれば、その一部が自分のものになる。しかもどうせ、やが
て煙と消えるお金である。

 そういうとき、だれかがあなたの部屋にやってきて、数千万円の札束を積みあげたとす
る。「ちょっと目をつぶってくだされば、このお金は、あなたのものです」と。

 そのときのこと。あなたがもしその政務次官だったら、それを断る勇気をもっているだ
ろうか。

 数千万円でなくてもよい。たとえば夜、コンビニの前を歩いていたら、サイフが落ちて
いた。あたりは暗くて、だれもいない。で、サイフの中を見ると、10万円近い現金が入
っていた。

 そういうとき、あなたはそのサイフをどうするだろうか。

 ここであなたは、自分自身の中の、善と悪が試される。さらに言えば、善人ぶることぐ
らいなら、だれにでもできる。それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。それ
らしい振る舞いをすればよい。

 しかし自分の中に潜む悪と闘い、善をより強固なものにするためには、時間が必要であ
る。積み重ねが必要である。それが私がここでいう「熟成」という意味である。

 M政務次官。ああいう人間を、本物の「悪」というのだろうが、では、「私ならどうか?」
と考えていくと、ものの考え方が、一変する。あるいは、あなたなら、どうだろうか? つ
まりその(不確かさ)の中に、人間がもつ、根源的な(弱さ)が隠されている。

 だからあのニーチェは、こう言った。

 『ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)と。

 とくに後半の、『悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』という部分に注目してほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●恐ろしい、新手の詐欺、称して「遺産詐欺」

++++++++++++++++

いろいろな詐欺事件を見聞きしてきたが、
私は、これほどまでに恐ろしい詐欺を
知らない。

まさに新手の詐欺。「よく、ここまで
法の盲点をついたものだ!」と感心するほど、
巧妙な詐欺である。

みなさんも、この手の詐欺には、じゅうぶん、
注意されたい。これから先、この手の詐欺が、
急増する可能性がある。

++++++++++++++++

 たいていは、ことの発端は、一通の手紙。手紙というより、書類。それで始まる。

 その書類には、こうある。

 「あなた様の遠い親戚にあたる、○○県○○市の○○氏が、このほど、逝去されました。
ついて、その○○氏が残した遺産が、現金として、300万円ほどあります。法的な手続
きをしてくだされば、そのお金は、あなたのものになります」と。

 ふつう遺産というのは、遺産相続権者である遺産相続人に、引き渡される。死亡したの
が親であれば、配偶者や子に。配偶者や子がいないときは、親の親、親の兄弟、さらには、
親の兄弟の子に。しかしその故人に、こうした遺産相続人がいないときは、さらに回りま
わって、(遠い親戚)に、その遺産が引き渡されることがある。直接の遺産相続権者が、遺
産相続を拒否するばあいも、それに含まれる。

 その書類を受け取った(あなた)は、喜ぶ。思ってもいなかった現金が、遺産として、
舞い込むからである。

 あなたはその(遠い親戚)にあたるその故人をしのびながら、こう思う。「ああ、あの人
が、私に遺産くれた」「あの人は、そう言えば、いい人だった」と。

 そこであなたは、種類に書いてある指示に従って、遺産を相続する。たいては、1、2
枚の書類。住所と名前、それに振込先の銀行名を記入する。印鑑証明を取り寄せ、実印を、
1、2箇所押す。それでおしまい。

 で、1、2週間もすると、銀行から、入金の連絡が入る。あなたはその連絡を受けて、
大喜びする。「遺産が、入ったア!」と。何といっても、300万円! 新車だって、買え
る。あなたは「とりあえず……」ということで、数万円の現金を引き出して、使う。

が、ここからが、恐ろしい! 地獄の始まり!

 しばらくすると、今度は、ナ、何と、2億円の債務確認書が届く。(1億円かもしれない。
5000万円かもしれない。あるいは10億円かもしれない。)

 「故人の○○氏は、私どもに、2億円の借金をして、逝去されました。ついては、遺産
相続人である、あなた様に、その債務を肩代わりしていただきます。XX金融株式会社」と。

 あるいは、「故人の○○氏は、ZZ氏の連帯保証人になっていました。ついては、ZZ氏
の負債を、相続人である、あなたに支払ってもらいます」と。

 この段階で、「私たちは、相続人ではない」と主張しても、あとの祭り。遅い。あなたは、
遺産相続人として、実際の権利を行使してしまっている。しかも実際に、相続したお金に
手をつけてしまっている!

 遺産相続人は、遺産を相続すると同時に、その故人が残した債務についても、相続する
ことになる。(これを「負の遺産相続」と呼ぶ。)一方で、遺産を相続しておきながら、債
務については、「NO!」とは、言えない。つまりあなたは、2億円の債務を、その時点で背
負うことになる。

 (わかるかな? 300万円を手にして、2億円の借金だぞ!)

 で、この時点で、はじめてあなたは、どうして自分のところに回りまわって、遺産がこ
ろがりこんできたかを知る。その故人の直接の遺産相続権者たちは、債務を肩代わりする
のがいやで、遺産相続権の放棄をしていたのだ。だから事情を知らない、あなたのところ
に、回りまわって、それがやってきた。

 ……ということで、あなたは2億円の借金を抱えることになる。あとのことは、推して
はかるべし。あなたはすべての財産を失い、自己破産。

 これがここでいう新手の詐欺である。今、この手の詐欺が、深く、静かに、しかしジワ
ジワとあなたのところにも迫っている。やがて社会問題化するだろう。が、今のところ、
表には出てきていない。

 で、私の印象では、現在、こうした詐欺を、組織的かつ計画的に行っている団体、もし
くはグループがあるように思う。組織的かつ計画的でなければ、またこういう詐欺は、不
可能である。

しかも恐ろしいことに、この手の詐欺は、詐欺といいながら、法的には、どこにも問題
がない。まさに法の盲点をついた詐欺、ということになる。繰り返しになるが、現金に
手をつけた段階、もしくは、書類に実印をついた段階で、あなたは、その遺産(=債務)
相続人になっている。そのあと、「私は相続人ではない」と主張しても、すでに遅い。

 名前をつけるとしたら、「遺産詐欺」ということか。改めて言う。ともかくも、おいしい
話には、くれぐれも、ご用心! 
(はやし浩司 遺産詐欺)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●怒りのない世界

+++++++++++++++

私は、満60歳の誕生日を境に、
「怒り」と決別できたように思う。

以後、一度も、感情的な「怒り」を
覚えたことがない。

しかし(怒り)のない世界が、こうまで
すばらしいものだとは、思っても
いなかった。

私の心の中から、最後まで残って
いた邪悪な感情が消えたように思う。

(まだ結論を出すのは、早いかな?)

+++++++++++++++++

 「怒(いか)り」といっても、大きく分けて2種類、ある。「感情的な怒り」と、「静か
な怒り」である。ものを書くときは、いつもそのうちの「静かな怒り」に支配される。こ
れがなくては、ものは、書けない。

 しかし「感情的な怒り」は、それがある分だけ、その人を見苦しくする。で、その怒り
が試される日が、やってきた。

 この話は先日も書いたが、3週間ほど前のこと。私はどこか頭のおかしい男に、からま
れた。その男は、突然、私に、怒鳴りかけてきた。「お前は、この町を不法占拠している」
と。とんでもない、言いがかりである。

 そのときのこと。私は最初から最後まで、心臓の鼓動を1回とて速めることもなく、冷
静に、その男と対峙することができた。若いときなら、「バカヤロー!」と怒鳴り返して、
喧嘩を始めていたかもしれない。

 が、そのあと、私は不思議な満足感に包まれた。うれしかった。楽しかった。同時に、
怒りのない世界のすばらしさを、実感した。

 ただ私のばあい、「怒り」そのものが消えたわけではない。そうした「怒り」は、こうい
う形で、文に叩きつけることで、解消している。またそういう手段をもっている。つまり
そういう手段が、私の中で、定着した?

 ……ということで、満60歳の誕生日から、3週間あまり。一度だけ、フラットしたこ
とはあるが、今のところ、「感情的な怒り」とは、無縁の世界にいる。あとは、この状態を、
静かに保つだけ。できるだけ長く、もたせるだけ。

 何かと不完全で、問題のある私だが、こうして少しずつ、前向きに自分を引っ張ってい
きたい。

(付記)

 しかし怒りを感じないで過ごすのも、むずかしい。数日前には、こんなことがあった。

 車で交差点を右折しようとしたら、左側のアウトコース(=直進レーン)から、突然、
大回りに右折してきた車があった。その車は、私たちの車の左側を、追い抜いていった。
私たちの車が、あと少しスピードを出していたら、衝突していたかもしれない。もう、メ
チャメチャな運転と言ってよい。

 私は自分の頭に、カッと血がのぼるのを感じた。見ると、60歳くらいの男性だった。
となりには、やはり60歳くらいの女性が乗っていた。ワイフがクラクションを1回鳴ら
した。その車はそのまま走り去ってしまった。

 そして昨夜も!

 夕食を終えたころのこと。突然、FAXが送られてきた。私の家のFAXは、送られて
きたデータを一度、内部に保存してから、打ち出す仕組みになっている。ある程度時間が
過ぎたあとだと、印刷を途中で停止することができない。

 見ると、不動産屋からのもの。マンションやアパートの紹介と家賃がズラズラと書いて
ある。そういうFAXが、5枚も。6枚目の途中のところで、やっと停止できた。

 私は即座に、その不動産屋に電話を入れた。が、応対に出た女性は、明るい声で、「アー
ラ、すみません」と。

私「アーラ、すみませんで、すむ話ではないだろ」
女「番号をまちがえました」
私「何番にかけているの?」
女「448−xxxx、です」
私「それは、私の家の番号でしょう」
女「お客さんが、まちがえて書いたと思います。この番号になっています」

私「それは、お宅の事情かもしれないが、こちらは、迷惑している」
女「ごめんなさい」
私「おたがい、気をつけましょう」と。

 が、である。電話機を置いてしばらくすると、再び、電話。受話器を取ると、またFA
Xが送られてきた。すかさず「停止」のボタンを押す。今度は、1枚目の途中で、FAX
を止めることができた。

 私は再び、不動産屋に電話。同じ女性が出た。

私「あなたたち、いやがらせで、こういうことをしているのですか」
女「そんなつもりは、ありません。電話番号を調べたら、448ではなく、488という
ことがわかりました」
私「……とにかく、あなたでは、話にならない」
女「社長を呼んできます」
私「……」と。

 が、である。今度は、待たされること、数分以上。私は受話器を、おろした。その間、
私は488−xxxxへ、電話してみた。が、「現在、その番号は使われていません」との
こと。その女性は、出まかせを言ったらしい。が、また、電話!

 受話器を取ったとたん、「伊Xさんのお宅ですか?」と。

私「私は、林です」
女「あら、すみません。うちの社員が、電話番号をまちがえたようです。伊Xという方が
書いたとおりの電話番号に、電話したのです」
私「2度もFAXが、送られてきました」
女「……今、調べてみましたが、送信が途中で切れたため、FAXが自動的に、再送信し
たみたいです」
私「そういうときは、一度、コンセントから電源をはずすといい」
女「そうします」
私「とにかく、こういうことは困ります」と。

 あとでワイフに電話の内容を伝えると、ワイフは、「あなた、怒っていたわよ」と。

私「しかし、ああいうケースで、笑ってすますというのは、むずかしい」
ワ「まちがいは、まちがいだから……」
私「事務所の電話機にも、つぎからつぎへと、FAXが送られてくることがある。金融会
社や文具店からのものが、多い。インターネットのスパムメールが、その瞬間、頭の中で、
ダブる。とたん、頭に、カッと血がのぼる」
ワ「止めることはできないの?」
私「自動応答が終わったあとだと、できない。それもね、1枚とか2枚ならいいけど、と
きには、それが5枚とか6枚も、送られてくる。インクリボン代だって、バカにならない
よ」と。

 怒りのない世界とはいうが、この現実の世界で、怒りを覚えないで生活することは、た
いへんむずかしい。

 ……ということで、先に書いた、『今のところ、「感情的な怒り」とは、無縁の世界にい
る』という部分は、こう訂正する。

 『怒りを覚えても、その瞬間だけで、すますことができるようになった』と。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●迷う

+++++++++++++++

数日前、市内でも、NO.2ほどに
大きな、パソコンショップへ、足を
運んでみた。

ねらうは、携帯ワンセグ付きポータブル・
プレーヤー。

この世界では、T社の、ギガビートが、
先行している。値段は、5〜6万円。

が、そこでのこと。携帯電話なるものが、恐ろしく
進化しているのを知る。近く、ワンセグ
搭載の携帯電話が、この冬、あちこちで発売に
なるという。

わかりやすく言えば、携帯電話で、テレビ
が見られるようになるということ。ポータブル
プレーヤーについては、今では、常識。

付属のカメラについても、専用のデジタル・カメラ
程度の性能をもちはじめている。フルキーボード付きの
携帯電話も、すでに、つぎつぎと発売になっている。

称して、「スマート・フォン」! 「頭のキレる
電話機」という意味?

突然、私の志向が、そちらに向かう。

店の人に相談すると、「携帯電話を
買い換えたらどうですか?」とのこと。

フーン、ナルホド! そういうことだったのか。
……とまあ、ひとりで感心する。

++++++++++++++++++

 電子製品は、私にとっては、おもちゃのようなもの。またそういうふうに位置づけて、
買っている。遊んでいる。

 どんなものでも、最先端をいく新製品が好き。またそういうものでないと、満足できな
い。これは私の、昔からのビョーキ。自分でも、それがよくわかっている。

 ポータブル・プレーヤーについても、私は、左耳の聴力を完全に失っている。そんな私に
は、それほど意味はない。ここ20年、「ステレオ」とは、無縁の世界に住んでいる。それ
にテレビにしても、ニュースや報道番組以外、ほとんど見ない。

 その私が、T社のギガビートなる、ポータブルプレーヤーをほしがるというのも、おかし
な話だ。たいてい一通り使ったあとは、息子たちに、払いさげ。そういう流れが、我が家
には、できている。

 しかしそれにしても、携帯電話がここまで進化するとは、思ってもみなかった。付属の
カメラにしても、手ぶれ防止付き、ズーム付きの携帯電話まで、ある。私が現在使ってい
る携帯電話には、フルキーボードがついていて、ワードやエクセルが使えるようになって
いる。またそこで文章を打ち込むと、そのまま自分のパソコンに転送できるようになって
いる。

 実際、そういうふうにして使ったのは、回数にしても、数えるほどしかないが……。

 しかし、おもしろい! 楽しい! ワイフに、「夢ができた」と話すと、ワイフは、「ど
んな夢?」と。

 「今度、携帯電話を変えるよ」と。

 ねらうは、すべての機能をもった、最新型の携帯電話。この冬が、ぐんと楽しみになっ
た。しかしそれにしても、この世界、目まぐるしく動く。あまりにも目まぐるしいので、
ついていくだけでたいへん。お金も、たいへん!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●精神的なゆとり

++++++++++++++++++

働き盛りの40代男性と、
子育て期の30代女性は時間的、
経済的、精神的にゆとりがない
人が多いという(産経新聞)。

++++++++++++++++++

 内閣府が、こんな調査結果を公表した(07年11月17日)。時事通信の記事をそのま
ま紹介させてもらう。

 『内閣府は17日、今年創設した「家族の日」(18日)に合わせて、「少子化対策と家
族・地域のきずなに関する意識調査」の結果を発表した。同居家族とのつながりが「強い
方だ」と考える人は87・8%で、「弱い方だ」の6%を大きく上回った。一方、地域との
つながりは「弱い方だ」が52・5%で、「強い方だ」(45・7%)より多かった』と。

 数字だけを、もう一度、整理してみる。

 同居家族とのつながりが、強い方と考える人……87・8%
 地域とのつながりは弱い方と考える人   ……52・5%

 ほかに、

時間的ゆとりについて「ある」      ……47・2%
時間的なゆとりについて「ない」     ……27・6%

経済的ゆとりが「ある」         ……22・3%
経済的なゆとり「ない」         ……34・5%

とくに子供の教育費など出費がかさむ40〜50代男性や、30〜40代女性は、「ある」
の回答が、おおむね15%にとどまったという。

精神的ゆとりが「ある」         ……38・2%、
精神的なゆとり「ない」         ……22・2%

管理職などにつく40〜50代男性と、子育てや仕事に忙しい30〜40代女性が、「あ
る」と答えた割合は、25〜30%で、平均を大きく下回ったという。

家族の話し合いは「十分している」    ……43%
家族との話し合いは、あまりしていない  ……12%

調査は今年1〜2月、全国の18歳以上の男女4000人を対象に、面接方式で実施し、
2409人から回答を得たものだという。

 今回の調査では、(ゆとり)がテーマになっているらしい。時間的なゆとり、精神的なゆ
とり、それに経済的なゆとりという言葉が使われている。しかし(ゆとり9とは何か。こ
れら3つは、それぞれに関連しあっている。

 経済的なゆとりのある人は、時間的なゆとりができ、ついで、精神的なゆとりができる。
そうでない人は、そうでない。一般論としては、そうなる。もちろん、経済的なゆとりは
なくても、時間的なゆとりや、精神的なゆとりのある人は、いる。そういう人も少なくな
い。が、私は、ここでハタと考えこんでしまった。

 経済的なゆとりについては、よくわかる。しかし「精神的なゆとりとは何か?」「時間的
なゆとりとは何か?」と。とくにわからないのが、精神的なゆとり。あるいは、あなたな
ら、もしだれかに「精神的なゆとりがありますか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか。
あえて言えば、こういうことになる。

 日々の生活に追われ、身のまわりのささいなことに心を奪われ、広く自分を離れてもの
を考えることができない人を、精神的なゆとりがない人という、と。

 反対に、日々の生活は、日々の生活として、天下国家を論じ、心豊かにものを考えるこ
とができる人を、精神的なゆとりがある人という、と。

 そこで改めて、経済的なゆとりについて考えてみる。というのも、経済的なゆとりとい
うのは、あくまでも相対的なものでしかない。毎月、500万円の生活をしている人から
みれば、毎月、50万円の生活など、考えられないだろう。毎月、50万円といっても、
かなりリッチな生活である。もちろん、その反対も、言える。

 同じように、精神的なゆとりも、相対的なものなのか? 答は、「NO!」である。時間
的なゆとりについても、同じ。こんな私でも、時として、時間が惜しくて、睡眠時間を削
ることがある。そういう私を見て、「時間的にゆとりがない人」と思ってほしくない。

 恐らく内閣府が意図した、精神的なゆとりというのは、「心の余裕」を意味するのだろう
が、それでもよくわからない。

 ……とまあ、つっかかるのは、このくらいにしておいて、「精神的なゆとりがある人」が、
38%、「ない人」が、22%というのは、どういうふうに解釈してよいのか、よくわから
ない。(また、つっかかっている!)

 「そういうものかなあ」と思ったところで、この話は、おしまい。

(心のゆとり論)

 運命を前向きに受け入れてしまえば、心に大きな余裕ができる。へたに逆らうから、心
に余裕がなくなってしまう。

 たとえば現在、老人介護に四苦八苦している人は多い。そういう人たちをながめてみる
と、大きく分けて2つのタイプがあることがわかる。

 運命を前向きに受け入れて、出すべきお金は、出す、すべきことはすると、割り切って、
介護している人がいる。「どうせ相手は、老人ではないか」と。ものごとをおおらかに考え
る。

 一方、「お金を出すのもいや」「時間をつぶされるのもいや」と、毎日、不平不満、グチ、
取り越し苦労に、ヌカ喜びを繰りかえしている人がいる。ささいなことを、おおげさにと
らえて、ギャーギャーと騒ぐ。

 当然のことながら、前者のタイプの人には、「精神的なゆとりがある」ということになる。
後者のタイプの人には、「ない」ということになる。

 つまり、「精神的なゆとり」というのは、(生きざまの問題)であって、内閣府のアンケ
ート調査で、調べられるような問題ではないということ。(あああ、またつっかかってしま
った! 今日の私は、精神的なゆとりが、あまりないようだ。気をつけよう!)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【伸びる子、伸びない子、こんな簡単なテスト法】

+++++++++++++

あなたの子どもが、この先、
伸びるか、伸びないか?

こんな簡単なテスト法があるので
紹介する。

用意するもの。

下のイラストを、印刷して、
子どもに見せる。

+++++++++++++

 最近、「数学マジック辞典」(上野登美夫著、東京堂出版)という本を買ってきた。現在、
その中のいくつかを、私の生徒たちに見せ、楽しんでいる。で、たいへん興味深い事実に
気がついた。

 たとえば、つぎのイラストを子どもに見せたときのこと。(無断で、転載して申し訳ない。
このイラスト自体の著作権は、当の昔に消滅していると思われるので、許してほしい。ま
たイラスト自体を転載するのが目的ではないので、許してほしい。マガジンでは、HTM
L版のほうで、紹介。)

 (同書、P88より)

 上の図を線に沿って、3つに分割し、下のように並び替える。すると、人が6人から5
人に減る。同時に四角い板(私は、「チョコレートだよ」と話しているが……)は、4枚か
ら、5枚にふえる。

 この手品というか、マジックを子どもたちの前でしてみせる。そのとき……。

(1)鋭い反応を示し、「どうして?」と真剣に考え込む子ども。
(2)「どうせインチキ」とか何とか言って、まったく興味を示さない子ども。

 もちろんその中間もある。程度の差もある。子どもたちの反応は、さまざま。しかし大
きく分けると、上の(1)と(2)に分かれるのがわかる。

 全体に大きく評価してみると、学習面で伸びつづける子どもは、おおむね(1)のよう
な反応を示す。それだけ問題意識も深く、日ごろから、考える習慣を身につけている。

 が、伸び悩み、何かを教えても、ちょうどザルで水をすくうような感触しかない子ども
がいる。このタイプの子どもは、おおむね(2)のような反応を示す。問題意識も浅く、
好奇心も弱い。日ごろから、生活態度も享楽的。どこか、いいかげん。

 で、こうした子どもの反応は、母親の影響によるところが多い。子どもたちに同行して
きた母親たちにも見せてみたが、母親たちの反応も、大きく分けると、上の(1)と(2)
に分かれるのがわかった。

 さらに母親たちが示す反応と、その子どもたちの示す反応が、ほぼ一致するのがわかっ
た! つまり(考える習慣)=(伸びる子どもの重要な要素)は、母親の影響によるとこ
ろが、たいへん大きいということ。

 そこであなたの子どもはどうか? あなたという親自身は、どうか?

 こういう原稿を読んでいるあなたという親は、(読んでいる)ということ自体、(1)の
タイプの親ということになる。問題意識の浅い親は、こういう原稿を読まない。関心もも
たない。

 だからあなたの子どもは、まちがいなく伸びるタイプの子どもということになるが、そ
れでも……ということなら、一度、このテストを子どもの前でしてみせるとよい。

 「あら、こうすると、6人よね。でもカードを並び替えると、5人になるわね」と。

 対象は、小学2年生前後から、5、6年生まで。それ以下だと、マジックの意味が理解
できない。またそれ以上だと、似たような手品を、学校でもしているので、簡単にしかけ
を見抜いてしまう。

 もし、あなたの子どもが(1)のような反応を示せば、それでよし。もし(2)のよう
な反応しか示さないなら、この先、あなたの子どもは、かなり伸び悩むことを、今から覚
悟しておいたらよい。(失礼!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
伸びる子 伸びない子 伸び悩む子ども)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親が子育てで行きづまるとき

++++++++++++++++

毎年、新しい親は、同じ失敗を
繰りかえす。

それは海辺に打ち寄せる波のよう。

毎回、どれひとつとして、同じ
「水」はない。

しかしそれが繰りかえし、繰りかえし、
海辺に打ち寄せる。

どうして親たちよ、先人の愚を、
自分の知恵に生かさないのか?

もしあなたが「私だけはちがう」と
思っていたとしたら、それは
とんでもない誤解。まちがい。

……だから私は、再び、同じ
原稿を、ここに掲載する。

+++++++++++++++

●私の子育ては、何だったの?

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考え
させられた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私た
ち自身の問題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、
大切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してき
ました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向か
い、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつく
って、食卓も部屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力
もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の
子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費
ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反
して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらい
いの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したら
いいの?」(月刊M誌・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こん
な相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしています
が、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進
もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのもの
だが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室
へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいで
しょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、
今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮に
これらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚や
らせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもが
C中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに
親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく
振り回される……。

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●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も
一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエ
ゴではなかったのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっている
ような経験は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、K
さんを笑っているのでも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったこと
は、すべての親が共通してかかえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目
立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、
小鳥、魚を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子ど
もたちは地理が苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違い
はしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパ
ターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」
というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子ども
は喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめ
るということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、その
サインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾
けないから、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思い
ます」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから
……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と
言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保
護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気に
なるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大
きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよ
い「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んで
いたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエ
ゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしが
みついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表してい
る。

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 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離
れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩み
も、その一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責める
のは、正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。
子どもは、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想と
する子ども像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、
いろいろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うこ
とも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできない
からです。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場
で、もっというなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけ
てみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまう
でしょう。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」
とか、「お母さんも、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですか
ら、それを一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子
どもは、自分の道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子
どもを、側面から支えることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが
子どもになすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、
そういうふうに、考えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行っ
てはほしくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子
どもの間の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題
があったかと聞かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗
したという点です。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性と
いうことで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の
子育てをしてきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよ
くて、2つとか3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してく
ださい。(みんな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みん
な、問題だらけですよ。外からは、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの
不安や心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏
感に感じ取って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番
底があります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届
かない遠くに行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっし
ょに、歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえ
し、(3)ほどよい親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、そ
れまでということです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、
水を飲ませることはできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、
自分を光らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、
一芸が、子どもを伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分
のしたいことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれに
まさる、不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、
前向きに生きている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かな
り親意識の強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう
意識をつくりあげられてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられ
るもの。子どもは、親を踏み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいので
す。それが親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっ
と言えば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということ
です。あなたの子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、
そういうときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そうい
うときは、「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやが
るでしょうが……。)あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むので
す。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、
ママ」と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)
にやって、よい成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんの
かかえている問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクして
いますが、あなたの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているので
す。そういう目で、見てあげてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝の雑談(11月14日)

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内線電話がかかってくる。
朝食の用意ができたという。
ワイフからの連絡。

こういうとき、ワイフは、
たいてい5から10分のサバを
読む。

あわてて行く必要はない。

あれこれ仕事をすませて台所へ。
ワイフがこう言った。

「味噌汁が、冷めてしまったわ」と。

私「今朝は、サバを読まなかったの?」
ワ「できあがってから、電話をかけた
のに……」と。

「サバ」というのは、魚の「鯖」の
こと。

「利益を得るために、数をごまかすこと」
(日本語大辞典)とある。

ナルホド!

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●がんになる確率

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40〜44歳で、28%
45〜49歳で、34%
50〜54歳で、41%
55〜59歳で、45%
60〜64歳で、47%
65〜69歳で、46%。

がんになる確率だそうだ。
(厚生労働省・05年・人口
動態統計より)

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 厚生労働省が発表した人口動態統計を見て、ゾッとした。それによると、50代で、4
1〜45%の人が、がんになる。60代で、47〜46%の人が、がんになる。簡単な数
字になおすと、50歳を超えると、50代の10年間だけでも、約半数の人が、がんにな
るということ。

 ほかに心疾患、脳血管疾患を含めると、50代で、62〜66%、60代で、69%の
人が、これら「三大成人病」になるという。これも簡単な数字になおすと、50代の10
年間だけでも、約70%の人が、がん、心疾患、脳血管疾患になるということ。

 私について言えば、今後、5年間のうちに、がん、心疾患、脳血管疾患になる確率は、
69%ということになる。(約70%!、だぞ。)

 ふつう、確率の世界で、「70%」と言えば、「ほぼ100%」とみる。もっとも、だか
らといって、「死ぬ」ということではない。今では医療も進歩している。がんイコール、死
ではない。心疾患イコール、死ではない。脳血管疾患イコール、死ではない。

 しかし、重篤(じゅうとく)な病気であることには、ちがいない。心疾患といえば、心
筋梗塞。脳血管疾患といえば、脳梗塞を意味する。(ほかにも、あるが・・・。)

 どれも後遺症が残る。私の義兄も数年前、心筋梗塞を経験している。そのため仕事はや
め、以後、1年近く、闘病生活を送っている。現在は、バイパス手術もうまくいって、軽
い農作業くらいならできるようになった。が、それでも、はげしい動きのある運動は、で
きない。いつも、静かにしている。

 しかしそれにしても、すごい数字である。私はこの数字を見たとき、「死」がすぐそこま
で来ているように感じた。「私だけ、例外でありたい」という気持ちはないわけではない。
しかし過去において、私には、その例外的なことは、何もなかった。

 インフルエンザが流行すれば、インフルエンザになった。持病も、いくつか、ある。左
の耳が、聴力をなくして、もう20年近くになる。あるいは私のこの文章を読んで、「林は、
ラッキーだな」と思う人もいるかもしれない。実際、私自身も、そう思っている。今まで、
こうしてまあまあ健康でこられたこと自体、奇跡としか言いようがない。この先のことは
わからない。わからないが、今のところ、だれに対してということではないが、感謝して
いる。

 ただ願わくは、死ぬときは、ポックリと死にたい。ポックリ、とだ。がんは、いや。心
脳血管疾患も、いや。心疾患も、いやだが、ポックリ死ぬには、心疾患が、いちばんよい
かもしれない。

 ・・・で、こうして考えてみると、まず思い浮かぶことは、「人生も、あっけないものだ
なあ」ということ。つぎに思い浮かぶことは、「この先、人は、死ぬまでが人生」というこ
と。

 そしてさらに思い浮かぶことは、「とにかく今日も、懸命に生きてみよう」ということ。

 ……しかし、今、ふと思ったが、この厚生労働省の統計は、どこかおかしい? 私は最
初、40〜44歳で、28%の人ががんになるが、つづく、45〜49歳で、さらに残り
の34%の人が、がんになると読んだ。

 仮に40代でがんになる人が、30%とする。(実際には、28%、34%。)これらの
人のうち、何割かの人は死に、何割かの人は、治癒する。よく「5年生存率」という言葉
が使われるが、そのあと5年以上、生き延びる人も少なくない。

 となると、この厚生労働省の統計は、「新しくがんにはる人」というふうに理解できる。
「がんになる確率」というのは、そういう意味である。「その年齢で、現在、がんになって
いる人」という意味ではない。

 となると、おかしなことになる。

 40代でがんになる人が、30%とすると、50代でがんになる人は、その30%をの
ぞいた、70%の人のうちの、45%ということになる。わかりやすい数字で考えてみよ
う。がんによる死亡率を、50%として計算してみた。

 あなたの町内に、満40歳の住民が、100人いたとする。するとその人たちは、40
代のうちに、30人が、がんになることになる。がんにならなかった人は、70人。がん
になった人のうち、15人が死に、15人が生き残ったとする。その10年後には、満5
0歳の住民は、85人になる。

 50代で新しくがんになる人は、厚生労働省の統計によれば、45%だから、70人x
0・45で、32人ということになる。40代でがんになった人を加えると、30+32
で、62人がそのときまでにがんになったということになる。同じように、16人が死に、
16人が生き残ったとする。その10年後の満60歳の住民は、85−16で、69人に
なる。

 同じように考えて、69人から、すでに40代、50代で、がんになった人を引くと、
69−(30+32)で、がんにならなかった人は、残り、たったの7人になってしまう! 
つまり満60歳を前にして、100人のうち、93人が、がんなるということになる? し
かしそんなことはありえない。

 ……ということは、この統計は、どこか、おかしい! まちがっている! あえて言う
なら、「年代を超えて、約45%前後の人が、一生の間に、がんになる」というふうに解釈
するのがよい。「年代別……」というのが、そもそも、おかしい。

 ハハハ。だからこんな数字を気にするほうが、おかしい。無視するのもよくないが、こ
んな数字を見て、ゾッとすることもない。

 とにかく、今は、私は健康だ。がんではない。がん細胞は、無数にあるのかもしれない
が、今のところ、表には出てきていない。「60代で、がんになる確率は、47%」と聞く
と、ゾッとするが、「死ぬまでに、がんになる確率は、47%」というのであれば、「まあ、
そういうものだろうな」と納得できる。

 だからこの統計は、こう書き改めるべきである。

40〜44歳で、28%
45〜49歳で、プラス6%
50〜54歳で、プラス7%
55〜59歳で、プラス4%
60〜64歳で、プラス2%
65〜69歳で、マイナス1%
……
死ぬまでに、約47%の人が、がんになる、と。

つまり現在満60歳の人は、「60代にがんになる確率は、2―1の1%」と考えればよ
い。100人に1人なら、それほど気にすることはない。(ずいぶんと、勝手な解釈だと
は、思うが……。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●NEETの心理

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NEETと呼ばれる若者たちの心理。
それは、絶え間ない、悶々とした
被害妄想。

何をしても、先をみてしまうという、
虚無主義。

それに、自分を包む、自信喪失。
やる気のなさ。

G県のある母親から、NEETについて
の相談が寄せられた。メールは、転載
不許可ということなので、ここでは
紹介できない。

NEETについて考えてみる。

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 NEET(ニート)と呼ばれる若者たちがいる。「教育も受けない、仕事もしない」とい
う若者たちである。

 このNEETにも、レベル(?)がある。しかしその期間が長くなり、「まじめに働くこ
とさえバカにし始めたら、NEETから逃れるのは、容易ではない」そうだ(「プレジデン
ト・フィフティ・プラス」(07・12・12号))。

NEETということもあって、同時に、健康管理も、おろそかになる。生活態度もだら
しなくなる。あとはその悪循環。年齢とともに、救済が、ますますむずかしくなる。

 最初は、小さな(つまずき)で、始まる。が、この段階で、その予備軍の若者たちは、
それを乗り越えるだけの(忍耐力)を、もちあわせていない。子どもの世界で、忍耐力と
いうのは、(いやなことをする力)をいう。もっと言えば、(苦難に耐える力)ということ
になる。その(力)がない。

 概して言えば、幼児期から、甘やかされて育っている。規範のない生活、一貫性のない
親の育児姿勢、きびしさと甘さが同居する家庭環境、などなど。

 だからこのタイプの子どもは、何かあると、自分の失敗をすぐ、他人に責任転嫁しやす
い。ものの考え方が、常に、他責的。「あいつが悪いから、こうなった」「学校の先生が悪
いから、こうなった」と。

 不平不満も、多くなる。と、同時に、悶々とした被害妄想をもつようになる。が、それ
を表に出すことはない。このタイプの子どもは、心の中に鬱積した不満を、内へ内へとた
めこんでしまう。外に向かって発散するということはない。それがますます妄想を、加速
させる。

 が、それでいて自意識だけは、やたらと高い。何かの仕事を始めても、「つまらない」「こ
んな仕事をしていて何になる」というような考え方をする。そして「自分が満足な仕事が
できないのは、周囲がまちがっているから」「社会がおかしいから」というような考え方を
する。自分の努力のなさや、才能のなさは、棚にあげてしまう。さらに責任を追及される
と、「こういう自分にしたのは、父親だ」「母親だ」と考える。

 だからNEETと呼ばれる若者たちに、「あなたが仕事をしなければ、あなたの家族が困
るんだよ」と諭(さと)しても、意味はない。家族が迷惑をするということ自体が、NE
ETと呼ばれる若者にしてみれば、「当然の帰結」ということになる。

 では、どうするか。

 経済誌「プレジデント・フィフティ・プラス」は、「心を鬼にして、必要な教育は与えた。
これからはひとりで食べていけと、子どもをたたき出すことも必要かもしれない」(P40)
と書いている。

 しかし実際には、NEETと呼ばれる若者たちの多くは、同時に心の病気をかかえてい
ることが多い。NEETになったから、心の病気になったのか、心の病気があったから、
NEETになったのか、それはよくわからないが、それはともかくも、そういうケースが
多い。回避性障害、対人恐怖症、さらにうつ病などがベースにあることもある。

 さらにそれまでの家庭のリズムを変えるのは、容易なことではない。「心を鬼にして」と
いうことになるが、それができれば簡単、ということになる。

 では、NEETと呼ばれる若者たちが、何も考えていないのかというと、そうでもない。
NEETと呼ばれる若者たちは、彼らなりに悩んでいる。一見、だらしない生活態度を繰
りかえしてはいるが、心の中はいつも緊張状態。相談してきた母親は、こう書いている。「一
触即発の状態です。こわくて、何も言えません」と。

 NEETと呼ばれる若者の心は、かさぶたの上に、さらにかさぶたが張りついたような
状態になっている。その心を溶かすのは、容易なことではない。それこそ5年単位、10
年単位の根気が必要である。

 方法としては、(1)暖かい無視、(2)ほどよい世話に心がける。ただひとつ忘れてな
らないのは、NEETと呼ばれる若者にしても、あなたという(家族)が悩んでいる以上
に、悩んでいるということ。苦しんでいるということ。一見すると、怠け病(?)に見え
るかもしれないが、先にも書いたように、そういうわけで、心の中は、いつも緊張状態に
ある。

 その緊張状態を、じょうずに、前向きに生かしていくことができない。発散させていく
ことができない。それがNEETと呼ばれる若者たちの心理と考えてよい。

【はやし浩司より】

 心の病気をベースに考え、一度、心療内科の門をくぐってみるとよいですよ。多くの心
療内科は、そうした若者たちが、サークル的に集まって活動している団体と直結していて、
その子どもにふさわしい団体を紹介してくれます。費用も、1日、数百円から高くて10
00円止まりです。

 サークルでは、「自活できるようになること」を目的に、みなで食事を作ったりしていま
す。不登校中の高校生から、40〜50歳くらいまでの人たちが集まっています。

 一度NEETになってしまうと、そういうサークルへ行くこと自体を拒否するかもしれ
ません。しかしそこはあせらず、じっくりと構えてください。先に書いたように、心の病
気(回避性障害や対人恐怖症)がベースにあると、かなりの時間(=年月)がかかると覚
悟してください。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
NEET ニート 引きこもる若者たち 引きこもり)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●底なしの防衛省疑惑

 連日、新聞のトップは、防衛省疑惑。出るわ、出るわ……という感じ。それを読んでワ
イフがこう言った。

 「あなたはいつも、『4割の善と、4割の悪』と言うけれど、今の日本は、『2割の善と、
6割の悪』ね」と。

 ひょっとしたら、善は、2割もないのかもしれない。つづいてワイフはこうも言った。「こ
んな世界で、子どもたちにだけ善を求めても、しかたないわね」と。

 その通り。

 愛国心教育が必要なのは、防衛省の役人。愛国心教育は、まずそこから始めたらよい。
こういう巨悪を一方で野放しにしておきながら、何が、愛国心教育だ!、ということにな
る。

私「あの世界は、消耗品の世界だろ。ドン、ドンと、爆弾を爆発させれば、1発、100
万円から1000万円が、煙と消える。金銭感覚が、一般社会とは、ズレている」
ワ「消耗した武器や弾薬は、そのまま国から補充してもらうというわけね」
私「そう。お金がまるでベルト・コンベヤーのように、右から左へと流れていく。その途
中で、つまみ食いする人がいても、おかしくない。今度の事件も、そういう流れの中で発
生した」と。


●道路整備に68兆円!

 国土交通省が、11月13日に、「道路整備中期計画」の素案を発表した。それによると、
事業費が、ナ、何と、68兆円!

 もうメチャメチャな金額と言ってよい。日本の国家税収は、年間、45兆円前後。公務
員の人件費だけでも、年間、38兆円前後。(人件費だけだぞ!)ほかにもいろいろあるが、
その上での、68兆円!

 国土交通省は、「揮発油税などの道路特定財源を道路整備で使い切る」という。わかりや
すく言えば、私たちが支払っているガソリン税などをすべて、道路整備に使う、と言うの
だ。

 「もう、道路はいい」というのが、私の意見。「ないよりはあったほうがいい」という論
理だけで、お金を使っていれば、この先、日本は、たいへんなことになる。(すでにたいへ
んなことになっているが……。)

 一方、その68兆円をアテにして、(地方)が動き出している。つまり国がバラばく道路
整備費を、餅まきの餅よろしく、拾うためである。自民党の族議員たちは、「地方活性化の
ために必要」(中日新聞)などと説く。

 ところで小泉内閣のとき、公共事業費は削減された。その削減された分だけ、道路特定
財源に余裕ができた。そこで06年12月、その余裕でできた財源を、道路整備以外にも
使用できるという(方針)が決定された。

 国土交通省が言うところの、「使い切る」という中には、そうした財源も含む。

 しかしそれにしても、バカげている! 道路整備に、68兆円だぞ! 人口を1億人に
して計算すると、国民1人あたり、68万円! 3人家族で、204万円! 5人家族で、
340万円! 

 中日新聞は、こう報道している。

 「参院選の与党惨敗を受け、地方活性化が緊急課題に浮上。活性化は道路でと、勢いづ
く自民党道路族議員や、自治体の動きは、国交省への追い風となった」と(11月14日)。

私「地方の活性化は必要かもしれない。が、何も、道路だけに頼る必要はない」
ワ「どうして道路なのかしら?」
私「土木事業は、それだけ裾野が広いということ。低所得の人たちの職場として機能して
いる……」
ワ「田中角栄の列島改造論の亡霊が、いまだに尾を引いているのね」
私「しかしね、本当のところは、だれも低所得の人たちの心配など、していない。口実に
しているだけ。もっと言えば、低所得の人たちを、利用しているだけ。お前は、ああいう
政治家たちが、ほんとうに、そういう人たちのために働いているように見えるか」
ワ「……見えないわね」
私「だろ……」と。


●月面写真

 日本が打ち上げた月探査機、「かぐや」から、鮮明な写真が送られてきている。今朝の新
聞には、月面を下に、そこに浮かび上がる地球の写真が載っていた。

ワ「地球は、きれいね」
私「ぼくは、地球より、月面のほうに興味がある」
ワ「……」
私「UFOが写っているかもしれない。あるいはもうすでに修正されているかもしれない」
ワ「この黒い帯は何かしら……?」
私「それは単なる影だと思う」と。

 UFOは、確実に存在する。私たち夫婦が目撃しているのだから、これはまちがいない。
あとは、それをどうやって証明するか、だ。

 12月中旬から、「本格的に写真が送られてくる」(報道)ということらしい。楽しみに
しているが、同時に、不安もある。ほんとうにすべてを公開してくれるかという不安。そ
れにもしUFOらしきものが写っていたとしたら、どう考えたらよいのかという不安。

 地球人(=私たち)と、宇宙人は、もしDNAの配列がちがうなら、ぜったいに共存は、
できない。あのホーキング博士も、そう言っている。もし中に、「そんなことはない」「仲
良くできるはず」と思っている人がいたら、甘い。

 同じ人間どうしでも、戦争ばかりしている。そういう地球人が、宇宙人と仲良くできる
はずがない。

私「それにね、戦争といっても、たがいに最終兵器を使うだろうから、悲惨なものになる
だろうよ。相手は、地球をそのものを、こなごなに破壊してしまうかもしれない」
ワ「宇宙人がいるとするなら、宇宙人も、そのあたりをいちばん、心配しているはずよ」
私「そう。地球人は、あまりにも好戦的。気性が荒い。ぼくが宇宙人なら、地球人とは、
仲良くしないね。へたに技術や知識を与えると、それをすべて武器の開発か、そういうも
のに使ってしまう」
ワ「そうね」と。


●保険料は、7万3600円!

 75歳以上の人を対象にした「後期高齢者医療制度」によると、平均的な単身の厚生年
金受給者(年間208万円)のばあい、今度から、保険料は、月額6133円、年額7万
3600円になるという(静岡県・県後期高齢者医療広域連合)。

 (ただし基礎年金=国民年金のみの受給者のばあいは、7割削減した、年額1万080
0円になる。医療機関で、受診・入院した際の自己負担額は、従来どおり、原則1割。治
療費がかさんだばあいの負担を軽減する「高額療養費支給」も従来どおり。)

私「死ぬまで、お金がかかるということ」
ワ「つまりその分、子どもたちの負担ということになるのね」
私「そう。収入のない老人に、お金を払えといっても、無理な話。あるいは、その分、前
もって、貯金をしておくしかない」
ワ「実質的な、年金減らしね」
私「そう。これからも、どんどんと、そうなっていくよ」と。

 医療保険制度がパンクしかけたとき、介護保険制度が生まれた。医療保険制度を救済す
るためである。その介護保険制度も、パンクするのは、もはや時間の問題。そこで厚生労
働省の役人たちは、あれやこれやと知恵をしぼっている。「つぎは、どこから、どうやって、
金を取る?」と。

 この先、こうした動きは加速することはあっても、減速することはない。この日本は、
老人たち、とくに私たち団塊の世代にとっては、ますます住みにくい国になる。で、再び、
道路整備費の話。

私「道路整備費に68兆円ねえ……?」
ワ「おかしいわねエ……?」
私「そのうちの10兆円だけでも、老人介護費用に回せば、要介護4と5の人が現在、3
0万人として、1人あたり、約3300万円の介護を受けられることになる。3300万
円だぞ!」
ワ「日本の財政運営は、デタラメね」
私「簡単に言えば、そういうこと」と。

 現在、要介護4の老人は16万人、要介護5の老人は14万人(厚生労働省・介護保険
事業状況報告・03年調べ)。

 寒かった朝も朝食が終わるころには、ゆるんだ。庭では、白い陽光がまばゆいまでに、
輝いていた。空には、雲、ひとつない。快晴!

 今日も、がんばるぞ! 


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●携帯からBLOGへ

 携帯電話から直接、BLOGへ記事を書き込むことができるという。前から知ってはい
たが、今朝、はじめて、それに挑戦してみた。

 アドレスは、
 post-xvjjxxxxx@tcup.net

 しかし携帯電話に、文字を打ち込むのが、めんどう。私の携帯電話には、一応、フルキ
ーボ−ドがついている。が、それでも、めんどう。機種は、ウイルコムのWS004SH。

 この方法を使えば、出先からも、緊急のばあい、(あるいはヒマなとき)、BLOGへ直
接、記事を書き込むことができる。もっともその緊急性を感じたことは、かつて一度もな
いが……。

 そのBLOGは、つぎのアドレスで開くことができる。興味のある人は、どうぞ!

http://yellow.ap.teacup.com/bwhayashi/

 たった今、記事を確認! 送信、成功!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自動更新というインチキ

+++++++++++++

ある日突然、「契約を自動更新
しました」という通知が届く。

よく読むと、「ウィルス対策ソフト
を自動更新しました。12月12日
からも、弊社の製品を、安心して
お使いいただけます」とある。

今日は、まだ11月13日!

つまり1か月も先に、自動更新をし、
現金が、クレジットカードから、
引き落とされる!

+++++++++++++

 1台、8年前に買ったパソコンがある。現在は、ほとんど使っていない。開くとしても、
数か月に、1、2度。

 そのパソコンに、買った当時、M社のウィルス対策ソフトを導入した。たぶん、そのと
きに、あまり深く考えないで、(契約自動更新)に(レ)マークを入れたのだと思う。以後、
毎年、11月になると、こうして自動更新されることになった。

 実は、昨年も同じようなことが起きた。で、そのときも自動更新を解除しようとあれこ
れやってみたが、画面上には、その方法が、どこにも書いてない。ガイドブックにも、電
話番号らしきものは、どこにもない。あれやこれやしているうちに、12月12日が過ぎ
てしまった。

 しかたないので、私はあきらめた。が、今年も、また!

 しかし昨年とは、事情が変わった。最近、私のパソコンには、1日、数百通ものスパム
メールが入る。そのため一度、すべてのメールは、(ゴミ箱)に入れ、必要なメールだけを
選んで読むようにしている。

 それにまぎれて、(契約更新手続き完了)の知らせ! あやうく、見落とすところだった。

 つまり放っておけば、こうして毎年契約が更新され、そのつど、現金が、クレジットカ
ードから引き落とされることになる。実に、狡猾(こうかつ)なやり方と言ってよい。

 私は、M社に電話をした。抗議をした。確認のメールには、電話番号が記載してあった。

 「引き落とすなら引き落とすで、一度、更新確認のメールをよこすべきではないか」と。
ほかの会社は、みな、そういう連絡をしてくれる。更新確認の連絡もないまま、現金を引
き落とすのは、信義則に反する。

 が、応対に出た女性は、こう言った。「だからこうして1か月前(=つまり今日)から、
連絡しているではありませんか」と。

 私は反論した。「すでに引き落としてから、連絡も何も、ないだろ!」と。

私「1か月前に、引き落とすということは、10万人なら、4億円。20万人なら、40
億円になる。利息だけでも、たいへんな額になる。引き落としは、12月12日の期限切
れの日にすべきでしょう」
女「解約の手続きをなさるということですね」
私「だから、あなたがたのやり方は、狡猾だと言っているんです。つまりズルイ」
女「解約の手続きをしておきます。連絡は、メールでいたします」
私「ちゃんと、更新の確認をしてから、そのあと、現金を引き落とすべきでしょう」
女「林様のアドレスは、xxxxx@xxxxxxですね」と。

 みなさん、あえて忠告する。

 M社のウィルス対策ソフトの、「自動更新」には、じゅうぶん、注意したほうがよい。「自
動更新にすると、割引価格になる」とか何とか書いてある。が、ああいうものにつられて、
へたに(レ)マークを入れると、以後、永遠に、現金が引き落とされることになる。

 M社のような世界的企業が、まさか……?、なんて信じていると、損をする。ご注意! 


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ベッドタイムゲーム
 
 子どもは床についてから眠るまで、毎晩、同じことを繰り返す習性がある。これを英語
では「ベッドタイムゲーム」(日本語では、「就眠儀式」)という。このベッドタイムゲーム
のしつけが悪いと、子どもはなかなか寝つかなくなるばかりでなく、ばあいによっては情
緒そのものが不安定になることもある。もしあなたの子どもが寝る前になると決まって、
ぐずったり(マイナス型)、暴れたりするようであれば(プラス型)、このしつけの失敗を
疑ってみる。

方法としては、(1)毎晩同じことを繰り返すようにする。(2)心安らかな状態を大切
にし、就寝前少なくとも一時間はテレビやゲームなど、はげしい刺激は避ける。(3)ベ
ッドのまわりにぬいぐるみなどを置いてあげ、心が暖まる雰囲気をつくるなどがある。
毎晩本を読んであげるとか、静かな音楽を聞かせるというのもよい。まずいのは子ども
を子ども部屋に閉じ込め、強引に電気を消してしまうような行為。こうした乱暴な行為
が繰り返されると、子どもは眠ることそのものに恐怖心を抱くようになる。

ところで今、年長児(満六歳児)でも、五人のうち三人が、「ほとんど毎朝、こわい夢を
みる」ことがわかっている(二〇〇一年・筆者調査)。「どんな夢?」と聞くと、「ワニに
追いかけられる夢」「暗い穴にいる夢」「怪獣の夢」という答が返ってきた。子どもの世
界がどこか不安定になっていると考えてよい。

ちなみに年中児で睡眠時間(眠ってから起きるまでのネット時間)は一〇時間一五分、
年長児で一〇時間(筆者調査)。子どもが小学生になると、睡眠時間はぐんと短くなるが、
それでも最低九時間半を確保する。睡眠不足が知能の発育に影響を与えるというデータ
はないが、しかし睡眠不足が続くと集中力が弱くなる。あるいは突発的に興奮すること
はあっても、すぐ潮が引くようにぼんやりとしてしまう。園や学校などでの学習面で影
響が出てくる。なお年中児になっても「昼寝グセ」が残っているようなら、その時間ガ
ムをかかせるという方法でなおす。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●じゅうぶんな睡眠時間を

 目をさましてから起きあがるまでの時間には、特別の意味がある。この時間、人間の心
はもっとも静かな「時」を迎える。雑念や俗念、不安や心配、さらには恐怖や妄想から解
放される。つまりこの時間、自分の「原点」をそこで見つめることができる。もっと言え
ば、その人がもっともその人らしくなる……。

 パスカルは『思考が人間の偉大さをなす』(パンセ)と書いている。つまり考えるから人
間は人間である、と。言いかえると、考えるかどうかで、その人の「質」が決まる。知識
や知恵ではない。技術や肩書きでもない。反対に考えない人間がどうなるか。その例とい
うわけではないが、深夜のバラエティ番組に出てくる若者たちを見ればそれがわかる。実
に「軽い」。軽すぎて、「これが同じ人間か」とさえ思うときがある。自ら考える習慣のな
い人間は、そうなる。

 子どもに考えさせる習慣を身につけさせるもっともよい方法は、子どもがひとり、静か
に自分の時を過ごせるような時間と場所を用意することである。総じてみれば日本人は、
集団教育のし過ぎ(……され過ぎ)。一人で静かに考えるという習慣そのものもないし、そ
の価値を認めない。子どもが机に向かってひとりぼんやりしていたとすると、親や先生は、
「何、しているんだ!」と、それを叱る。しかし大切なことは、「自分で考えること」だ。
子どもがあれこれ自分で考える様子を見せたら、そっとしておいてあげる。

 で、その一つの方法というわけではないが、子どもが目をさましてから、起きあがるま
での時間を大切にする。そういう意味でも、静かな目覚めを大切にする。またそのために
も、睡眠時間はたっぷりととる。まずいのは、「もう起きなさい!」と、まだ眠気まなこの
子どもを、床の中から引きずり出すような行為。子どもが静かにものを考えることができ
る、せっかくの時間そのものを奪ってしまう。

 前回と今回は、子どもの睡眠について考えてみたが、もう少し子どもの睡眠には、親は
慎重であってもよいのではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●子どもを自立させる

 子育ての目標は、子どもを自立させること。その「自立」には二つの意味がある。子ど
も自身の自立と、親の自立である。依存心というのは相互的なもので、子どもに依存心を
もたせることに無頓着な親は、一方で、自分自身もだれかに依存したいという潜在的な願
望をもっていると考えてよい。つまり子どもを自立させたいと思ったら、親もまた自立し
なければならない。こんな親(六〇歳女性)がいた。

 会うと私にこう言った。「先生、息子なんて、育てるもんじゃないですね。息子は横浜の
嫁に取られてしまいました」と。そしてさらに顔をしかめて、「親なんてさみしいもんです
わ」と。その親は、息子が結婚して、横浜に住んでいることを、「取られた」というのだ。

 こうした親は、親意識が強く、その強い分だけ、子どもを「モノ」と見る傾向が強い。
そして自分にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、よい子とし、親に反発す
る独立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。こうした親の意識の背景にあるのが、
依存心ということになる。もう少しわかりやすい言葉でいうなら、「甘え」ということにな
る。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。「あなたの人生だから、思う存分、あなたの
人生を生きなさい。たった一度しかない人生だから、思いっきり大空を飛びなさい。親孝
行……? そんなこと考えなくてもいい」と、一度は子どもの背中をたたいてあげる。そ
れでこそ親は親としての義務を果たしたことになる。もちろんそのあと子どもが自分で考
えて、親のめんどうをみるというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

 日本人は、国際的にみても、互いの依存心が強い国民である。長く続いた封建時代とい
う時代が、こういう民族性をつくったとも言える。どこかの国に移住しても、すぐ日本人
どうしが集まり、そこにリトル東京(日本人街)をつくったりする。親子関係もそうで、
互いに甘え、甘えられる親子ほど、よい親子と評価する。しかし依存心が強ければ強いほ
ど、その人から「私」を奪う。しかしこれは、これからの日本人の生き方ではない。少な
くとも、こうした生き方は、世界ではもう通用しない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 子どもにより高価なものを買ってあげるのが、親の愛だと錯覚している人がいる。ある
いは「高価なものを買ってあげたから、子どもとのきずなは強くなった」と考える人がい
る。親は子どもはそれで感謝するだろうと思ってそうする。あるいはそれで子どもの心を
つかんだと考える。しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。

先日も一人の祖母が、孫(小四女児)のために、数万円もするような服を買ってあげて
いるところがテレビで紹介されていた。レポーターが、「(そんな高価なもの)、いいんで
すか?」と聞くと、その女性は、「いいんです、いいんです。かわいい孫のことですから」
と言っていた。

が、こんな愚かなこと(失礼!)をするから、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。金銭
感覚そのものがマヒする。たとえ一時的に感謝することはあっても、その感謝は決して
長続きしない。

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのが
ある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行け
という意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動
車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思
い出が親子のきずなを太くする。

 日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、
そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリア
へ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友
情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼ら
がもっているモノ意識は、基本的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映さ
れる。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫
にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿を振り返っ
てみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●先生の悪口は言わない

 教育もつきつめれば人間関係で決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の
基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の
悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それ
に相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」と
して、それは先生の耳に入る。必ず、入る。

子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、
園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に
反応する。

 一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、
そういうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生
とてこの文を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。

もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが
言っていたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あん
たの教え方ヘタだから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言ってい
た」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。

 教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと
思うえば、いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、
冒頭にあげた「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身では
なく、この人間関係である。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、
それだけではすまない。

 あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従
わなくなる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きでは
ないが……)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、
子どもの耳に入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、
「あなたが悪いからでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●まじめな子ども

 言われたことをきちんと、しかも従順にする子どものことを、まじめな子どもと考えて
いる人がいる。しかしこれは誤解。その子どもがまじめかどうかは、その子どもがどれだ
け自己規範(自分で考え、その判断に従って行動すること)を守れるかどうかで決まる。
こんな子どもがいた。

 ある日、バス停で一人の女の子(小三)に会った。以前の生徒だったので、「ジュースを
買ってあげようか」と声をかけると、その子はこう言った。「いいです。これから家に帰っ
て、夕ご飯を食べますから。ジュースを飲んだら、夕ご飯が食べられなくなります」と。
こういう子どもをまじめな子どもという。

 子どものまじめさは、家庭環境で決まる。しかも〇歳からの乳幼児期にかけて決まる…
…? そのことを、私は二匹の犬を飼ってみて知った。

 私の家には二匹の犬がいる。一匹は、保健所で処分される寸前にもらってきた犬(これ
をA犬とする)。もう一匹は、愛犬家のもとで手厚く育てられた犬(これをB犬とする)。
この二匹の犬は、我が家へ来てからずっと、性格は幼犬のときのまま。A犬は、もう一五
才にもなるが、忠誠心も弱く、裏の木戸があいていようものなら、すぐ遊びに出て行って
しまう。だれにでもシッポを振るから、番犬にはならない。

一方B犬のほうは、態度も大きいが、忠誠心も強い。見知らぬ人が来たりすると、けた
たましくほえる。実のところ人間も犬と同じ。生後まもなくから、親の手を離れて育っ
た子どもや、育児拒否、家庭騒動、虐待を経験した子どもは、A犬のような性格をもつ。
一方、心穏やかな環境で、親の愛をたっぷりと受けて育ったような子どもは、B犬のよ
うな性格をもつ。

これ以上のことは、あれこれ誤解を招くので。ここでは書けないが、子どもをここでいう
「まじめな子ども」にしたかったら(当然だが……)、B犬が育ったような環境で、子ども
を育てる。もっと言えば、子どもの側からみて、絶対的な安心感のある家庭で、子どもを
育てる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう家庭があって
はじめて子どもは、善悪を静かに判断して、それに従って行動できるようになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●マトリックス(母体)の世界

 少し前、キアヌ・リーブズ主演の、『マトリックス』という映画があった。おもしろい映
画だった。仮想現実の世界を母体(マトリックス)と思い込んだ人たち(?)が、本当の
母体を知るという映画だったが、しかしそれは映画の世界だけの話ではない。

 子どもを育てるということは、人間を育てることをいう。教育というのがあるとするな
ら、それは子どもに生きるために必要な知識や経験を、武器として与えることをいう。し
かしそれが今、逆転している。教育のために、子どもを育てるのが、この日本では子育て
の基本になっている。そら進学だ、そら受験だ、と。

人間を育てる世界を母体(マトリックス)とするなら、教育の世界は、いわば仮想現実
の世界ということになる。が、ほとんどの親はその仮想現実の世界にハマりながら、そ
れが仮想現実の世界だとすら気づかないでいる……! こんなことがあった。

 K君(中一)という、本当にまじめな子どもがいた。ただ能力的には、あまり恵まれて
いなかった。私のところへ来ても、ただひたすらコツコツと勉強をしていたが、そんなわ
けで学校での成績は思わしくなかった。で、最初の期末試験が終わったときのこと。K君
の母親から電話がかかってきた。いわく、「成績が悪かった。もっと息子をしぼってほしい」
と。しかし私はこう言った。

「K君には、よくがんばったねと言うことはできても、これ以上がんばれとは、私には
言えない」と。すると今度は父親から電話がかかってきて、「うちの息子はどうしても、
S高(静岡県でも最難関の進学高校)へ入ってもらわねばならない。S高へ入れてもら
えるか」と。そこで私が、「うちは進学塾ではありません」と言うと、「君はうちの子で
はS高は無理と言っているのか。失敬ではないか!」と、怒り出してしまった。

 この両親のばあいも、人間を育てるという本来の母体(マトリックス)を忘れてしまい、
仮想現実の世界で子どもを育てていた。本末転倒という言葉があるが、まさにその本末が
転倒していた。

 映画「マトリックス」は、もちろんSF(空想科学)映画だが、しかしSFとばかり言
えない面がある。一度仮想現実の世界にハマってしまうと、それが現実の世界だと思い込
んでしまう。さて、あなたも一度、あなたの仮想現実の世界を疑ってみたらどうだろうか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】

●老後問題

+++++++++++++++

老後も、たいへん!

満60歳というが、この先、まだ、
25年近く、生きていかねばならない。

(運がよければ、という話だが……。)

25年といっても、健康寿命は、
残り、せいぜい、10年あまり。

つまり健康で生きられるのは、
よくて10年あまりということ。

(これも運がよければ、という話だが……。)

団塊世代を意識してか、このところ、
経済誌各誌は、どれも、老後問題を
特集している。

いくつかを読んでみたが、どれも
ぞっとするような話ばかり。

生きるのもたいへんだが、どう死ぬかも
たいへん。

そんな感想をもった。

+++++++++++++++

●独居老人問題

 この先、独居老人が、ふえるそうだ。統計的な数字など、この際、意味はない。私やあ
なたが、その独居老人になる可能性は、きわめて高い。今、この時点で、「私はだいじょう
ぶ」と断言できる人は、いったい、どれだけいるだろうか?

 孤独と空虚の中で、悶絶死! 他人に発見されたときには、ミイラ! そんな現実が、
今、そこまで迫っている!

 で、国の介護保険制度はどうかというと、これがまったく、アテにならない。今の今で
すら、介護保険制度は、パンク状態。それもそのはず。老人1人分の介護費用だけでも、
30〜35万円もかかる。それだけの費用を、現在は、国と個人(=家族)が分けて負担
している。老人の割合が少なければ、まだよい。しかしこの先、すぐ、3人に1人とか、
4人に1人とかが、満65歳以上の老人になる。

 私たちが介護を必要とするころには、老人は、みな、粗大ゴミ。手厚い介護など、もと
から望むべくもない。


●スラム化するマンション問題

 毎月の管理費をきちんと徴収し、管理人を置いているマンションは、まだ、よい。それ
なりの財産価値がある。しかしその手前の、中小のマンションは、この先、スラム化する
という。つまり財産価値が、ゼロになるという(某・経済誌)。

 これはあくまでも、私の推算だが、仮に住民の10〜20%が、管理費を払えなくなっ
たとすると、とたんに、そのマンションの改修、修理がままならなくなる。老人世帯がふ
えればふえるほど、その可能性は高くなる。

 ある経済誌は、こう警告している。「マンションをもっていれば、葬儀費用くらいにはな
ると考えている人もいるかもしれないが、それは甘い」と。現在、葬儀費用にしても、平
均、200〜250万円(+戒名代)かかるそうだ。


●治療費

 病気にもなれない。がんにでもなれば、200〜300万円程度の治療費が必要だとい
う。特殊な治療を受ければ、それこそ1000万円単位の治療費が請求されるという。

 要するに、それだけの治療費がまかなえない人は、早く死ねということらしい。いわん
や、粗大ゴミとなった私たちに、それだけの治療費をかけて、どうする? いや、一般社
会が、そういう目で、私たちを見るようになる。

 そうなったとき、私たち老人に、もはや居場所は、ない。


●では、どうするか?

 私が読んだのは経済誌だから、(経済的な観点)で、老人問題を考えていた。しかし経済
だけが、すべてではない。また経済だけで、ものごとを考えてはいけない。

 それ以上に重要なのは、(生きがい)である。もっと言えば、夢、希望、それに目的。こ
の3つがあれば、かりに大病になっても、私たちは前向きに生きることができる。前向き
に生きることができれば、それこそ『夕べに死すも、可なり』(=夕方に死ぬことになって
も、悔いはない)ということになる。

 もっと言えば、野で、のたれ死に、そのまま骨となっても、悔いはないということにな
る。治療費だの、葬儀費用だの、そんなことを問題にするほうが、おかしい。天命は天命、
じたばたしたところで、どうしようもない。

 ……とまあ、口で言うのは簡単なことかもしれない。いざ、その場に自分が立たされた
ら、(現実に今、立たされ始めているが……)、そうはかっこよくいくものか? そこでや
はり、(生きがい)ということになる。心理学の用語を使うなら、『統合性の確立』という
ことになる。

 それをどう確立していくか?

 少し前に書いた自分の原稿を読みなおしてみる。

+++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折ら
れてしまう。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にして
きた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができ
なくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということにな
る。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたい
こと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、
この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、
そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになっ
てしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期に
は、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に
立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」で
はない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわか
るようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔い
しれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時
的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考え
る。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分か
ら、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がつい
てみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたよう
な状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。4
0歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りとい
われる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的
には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまり
それをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)
になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。こ
の両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多く
は、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がい
た。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなして
いた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは
何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性
に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問
題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致さ
せていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半
の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで
金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを
見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほ
ど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、その
とおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。そ
の人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんに
なってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、
公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個
人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題
は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も
繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできること
を考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名
誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。という
のも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。そ
の(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この
問題は、(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠
のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を
残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そう
いう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物とい
うのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後は
どうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うな
ら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、
この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れて
くる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だか
らよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけで
はないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論に
よれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」
とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいで
ある。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足
でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほ
しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の
目標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教
団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、
その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがて
そのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいる
かさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。し
かし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってく
る。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、な
い。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。
毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味がある
というのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きてい
るだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味す
る。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、
それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命を
みな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさ
がそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くも
ある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決
して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


+++++++++++++++++

もう1作、「同一性」について書いた
原稿を、掲載します。

+++++++++++++++++

●心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう(エリクソ
ン)。

++++++++++++++++++++

 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つの
ものをあげる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ず
るようになった。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還
暦」の「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)
のときに、干支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」
という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そ
ういうふうにして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男
の子らしくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作
用によるものだという説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子ら
しくしていく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らし
くなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、
今、老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消
えてしまう。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、
私には、独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、
そういうものは、どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、
独自性と言えるようなものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と
思うような部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。
体力も落ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前
にして、「では、どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんど
んと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、
あまり好きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子
でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。とき
どき、そう言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそ
れなりの人に、そう言われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たま
らない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、い
かんよ」とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性
を見れば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思って
いる。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定
してしまうと、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなく
なってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。
その人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが
悪いことなのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だ
が、認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておき
ながら、いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つき
あいにくい。その人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、
明確になってくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教
える側からすると、「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、
愛情飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのな
い子どもになる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た
(つかみどころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人
といい、そうでない人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私
は一貫性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう
思いこんでいるだけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならな
い。視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性
があるかどうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、
あなたという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己
概念)と(現実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立され
たとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑
ぐらいでは、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アイデンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●殺意の認定

+++++++++++++++

少し前、A県で、1人の娘(児童)が、
母親によって、(殺された?)。

検察側、弁護側、双方が認定した
事実によると、あらましは、こうだ。

その母親は、夕方、薄暗くなってから、
「魚が見たい」という娘の希望を
かなえるため、近くの川に行き、娘を
橋の欄干(らんかん)の上に立たせた。

事件(事故?)は、そのあと起きた。

娘は、橋から転落。そのまま死亡して
しまった。

+++++++++++++++

 現在、当裁判は、係争中なので、ここでは事件なのか、事故なのかについてのコメント
は、さしひかえたい。現在、争点になっているのは、「殺意」。母親に、殺意はあったのか、
それともなかったのか。

 刑法でいう殺人罪を適応するためには、殺意の認定は、欠かせない。構成要件のひとつ
になっている。「殺意」がなければ、殺人罪そのものが、成立しない。

 しかし人の心の中を、のぞくことは、だれにもできない。そこで検察側、弁護側双方と
もに、そのときの状況証拠を積み重ねながら、殺意の認定、もしくは、否定を主張する。

もっともこの段階で、母親が、「私は殺すつもりで、娘を、橋の下に突き落としました」
とでも言えば、話は簡単。改めて、殺意の認定を争う必要はない。現実に、娘は死亡し
ているのだから、刑法でいう殺人罪の構成要件を満たすことになる。つまり、殺人罪が
適応される。

 私は、この報道記事を読みながら、ふと、こう思った。「こんなばあいにも、殺意の認定
は必要なのかなあ?」と。というのも、(殺意)などというものは、いつでも、どこでも、
ふとしたきっかけで、だれにでも、起こる。自動車を乱暴に運転する人を見たとき。巨額
のワイロを手にしながら平然としている政治家を見たとき。日本人を拉致しておきながら、
「解決済み」と居直る相手側の政治家を見たとき。

 私のワイフにすら、ときとして、私は殺意を感じることもある。

 しかしいくら殺意を感じても、それを実行するというのは、まったく別問題。その間、
つまり(思い)と(行動)の間には、遠い距離があり、大きな壁がある。

 つまり同じ殺意といっても、空想に近い殺意から、実行行為に近い殺意まで、いろいろ
ある。そういうのを、ひとまとめにして、(殺意)を論じても意味はない。冒頭にあげたケ
ースでも、その母親は娘を橋の欄干の上に立たせ、そこから突き落としたという(検察側
主張)。

 このばあい殺意は、きわめて実行行為に近い殺意ということになる。まわりくどい言い
方になってしまったが、要するに、改めて殺意の認定などする必要など、ない。あるいは
弁護側は、こんなわかりきったケースでも、過失致死罪か何かで、もっていこうとしてい
るのか? さらに言えば、「罪名」に、どうしてそうまでこだわるのか?

こんなことで、重箱の隅をほじくるような議論を重ねていても、意味はない。時間の無
駄。よい例が、あの地下鉄サリン事件である。裁判長の再三、再四の注意にもかかわら
ず、弁護側は、ああでもないこうでもないと、ささいなことにこだわり、裁判を長引か
せた。

 あえて言うなら、これこそがまさに、日本の裁判制度の欠陥と言ってもよい。だからふ
つうの裁判でも、5年とか、10年。ばあいによっては、15年とか、20年もかかる。

 その間に、事件そのものが風化してしまう。被害者の救済も、どこかへ霧散してしまう。
判決がおりるころには、「そんな事件もあったっけ?」となってしまう。しかしこれは悲し
むべきことと言ってよい。

 事件そのものを、過去の教訓として、未来に生かすことができなくなってしまう。

 裁判は迅速に。そのために、はじめからわかりきったことについては、無駄な議論はし
ない。・・・ということで、この話は、おしまい。あの母親には、本当は殺意はなかったの
かもしれない。娘が魚を見たいと言ったので、欄干の上に立たせたのかもしれない。その
とき誤って娘が、川の中に落ちてしまったのかもしれない。

その可能性はないわけではないが、そう考えるには、かなりの無理がある。もしそうな
ら、つまり私がその母親なら、その直後から、大声で叫びながら、娘の捜索を始めただ
ろう。私自身も川の中に飛び込んだかもしれない。

 が、その母親は、どういうわけか、そのまま家に帰り、かなりの時間を経てから、別の
方法で捜索願いを出している。つまり不自然。

 この事件を、端的に言えば、弁護側の主張する(無理)と、検察側の主張する(不自然
さ)との闘いということになる。

(補記、07年11月12日の第8回公判記録より)(秋田「さきがけon the Web」)

 検察側は、自ら「極刑を望む」としたH被告に「あなたにとって死刑以外では不満か」
と質問。H被告は「不満かどうか分かりませんが、主張していることを認められるなら、
私はそれで構わない」と淡々と語った。

 一方、弁護側は大沢橋の欄干に座る長女Aちゃん=当時(9つ)=がH被告に抱きつこ
うとし、振り払ったとする当時の心境をあらためて確認。「(欄干に乗った)Aが初めて自
分の目線より高くなり、高い所から覆いかぶさってくるようになったので。怖いと思った」
と話した。

 
●指手話(ゆび・しゅわ)

 先日、電車で、横に乗った人たちが、指手話というのを始めた。左右の手、3本ずつの
指を使って、会話をするというものだった。珍しそうにながめていると、そのうちの一人
が、私に指手話の説明をしてくれた。

 私はまず、「あ・い・う・え・お」を覚えた。その人は、その指手話を使って、もう一人
別のところに座っている男性と、会話をしていた。

 指手話というのは、耳と目の両方とも不自由な人が使うのだそうだ。私に指手話を教え
てくれた人は、その男性の付き添いの人だった。「無料ではないが、ボランティア活動とし
て、している」ということだった。言い忘れたが、年齢は、45歳くらいの女性だった。

 その風景をながめていて、まず驚いたのは、みな、とても楽しそうだったということ。
その女性が指を折り曲げながら何か男性に話をすると、その男性は、顔中の筋肉をゆるま
せて笑っていた。

 私は、その男性の年齢を聞いた。おそらくその女性はその男性の年齢を知っていたのだ
ろうが、あえて指手話を使って聞いてみてくれた。男性は、はにかみながら、「54」と、
空に数字を書いた。

 それを見て、その女性は笑った。横にいたワイフも笑った。のどかな光景だった。で、
会話も一段落したとき、私は、その女性にこう聞いた。

 「まだお若いようですが・・・」と。54歳で、耳と目が不自由になったという。音も
ほとんど聞こえない。目もほとんど見えない。

 「この人は、まず耳が聞こえなくなったそうです。しばらくすると、今度は、目も見え
なくなったそうです」と。

 そこまで聞くのが、精一杯だった、それ以上は、とても私には聞けなかった。内心、「そ
ういう病気もあるんだな」と、それだけを思った。

 そのグループは、浜松駅のいくつか手前でおりた。手を振ろうとしたが、そのまま雑踏
の中に、姿を消した。

私「54歳でね……。ぼくは、この6年間、何をしてきたんだろ?」
ワ「そうねエ……」
私「ぼくは54歳のころ、毎日、原稿ばかり、書いていた」
ワ「目が見える、音が聞こえるということだけでも、すばらしいことなのね」
私「うん……。そんなこと、考えもしなかった」と。

 しかしそれにしても、さわやかな人たちだった。そういうグループにありがちな(暗さ)
というものが、どこにもなかった。むしろ小学生の子どもたちが、ピクニックか何かにで
かけたような雰囲気だった。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「NO!」をはっきり言う練習

 こうした詐欺商法から身を守るためには、「NO!」を、日ごろからはっきり言う練習を
しておくとよい。だれか、たとえば夫か妻に相手になってもらい、その会話練習をする。
心理学の世界でも、この方法は、きわめて有効であることが実証されている。夫が相手の
ばあいは……。

夫「奥さん、いい薬がありますよ。いかかですか?」
妻「いりません!」「お帰りください!」
夫「金に投資してみませんか?」
妻「興味ありません」「電話を切ります!」
夫「ちょっと遊んでいきませんか?」
妻「お断りします」「さようなら!」と。

 できるだけ大きな声で、はっきりと言うようにする。この訓練を、1、2週間おきくら
いに数度、繰りかえす。

 BW教室でも、私はこの訓練をときどきする。

私「ちょっと遊びに行かない?」
子「NO!」
私「車に乗ってよ?」
子「NO!」
私「お菓子を買ってあげるからさ」
子「NO!」と。

 こうした誘いに対して、反射神経的に「NO!」と言えるようにしておく。これは子ど
もたちの身を守るための、知恵ということになる。

 なお国民生活センターは、HP上で、つぎのように警告している。

 「昨年(06年)の秋頃から「ロコ・ロンドン貴金属取引」「ロコ・ロンドン保証金取引」
といった名称の取引(以下、ロコ・ロンドン金取引)について、「契約したが、大丈夫か」
「取引をしたところ損をした」などの相談が、国民生活センターや全国の消費生活センタ
ー等に寄せられはじめている。 

 相談事例をみると、70歳代〜80歳代の高齢者が取引の仕組みを理解できないまま、
100万円以上の高額なお金を投資し、トラブルに巻き込まれているケースが多くみられ
る。なかには、「投資したお金のほとんどが戻らなかった」という深刻な被害もある」と。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゴミ情報vs良質な情報
 
 入ってくる情報は、常に選択する。まさに世は、情報だらけ。選択しなければ、そのま
まその人は、情報の洪水の中で、溺れてしまう。

 そこで問題は、どうやってその中から、良質な情報を選択していくかということ。その
ためには、まず、身のまわりから、ゴミ情報を削っていく。

 たとえばこれはあくまでも私のばあいだが、バラエティ番組は、見ない。ゴシップ週刊
誌は、読まない、など。そうでなくとも、脳みそは、いつも満杯状態。ゴミ情報を格納す
るだけの余裕は、ほとんど、ない。それに時間も、ない。

が、しかしそれ以上に大切なことは、常に自分で考えること。情報を得ても、自分で判
断し、取捨選択すること。さらにそのためには、できるだけ自分のまわりに、静かな時
間を用意すること。

 この問題は、脳みそ自体がもつ欠陥と、直結している。脳みそ自体がもつ欠陥を、箇条
書きにしてみる。

(1)情報の整理ができない。

いまだに記憶のメカニズムは、はっきりしていない。つまり脳に届いた情報は、そ
れぞれの質と内容に応じて、脳の中の別々の場所に、格納される。わかりやすく言
えば、バラバラの状態であちこちに格納される。

そこで本棚の中の本を整理するように、情報を整理できればよいのだが、それがで
きない。だからときに、たとえば何か問題が起きたようなとき、参考となる情報を
適確に引き出せないまま、ムダにしてしまうことが多い。

(2)過去、現在の記憶が、時系列的に格納できない。

社会科の年表のように脳の中に入った情報が、過去から現在に至るまで、順に並
んでいれば、わかりやすい。あるいは、地層のようでもよい。過去の情報の上に、
新しい情報が塗り固められていくとか。

しかし実際には、脳の中にある記憶には、距離感がない。50年前の記憶も、1
週間前の記憶も、(想起)する段階では、等距離にある。距離感がないから、とき
に、古いキズがそのまま、あたかもつい昨日のようにことのように顔を出したり
する。私たちが「トラウマ」と呼んでいるのも、そのひとつ。

(3)情報の重大性を客観的に判断できない。

そのため、たとえば、身のまわりで、ささいな問題が起きたとすると、そのささ
いなことに振り回されてしまう。そのすぐ外では、環境問題、地球温暖化問題と、
それにつづく食糧危機問題が起きている。ことの重大性という視点からは、かり
に考えるとしても、ささいな問題は、マイナーな問題。が、脳みそは、その判断
ができない。

(4)情報と思考で得た知識を区別できない。

ほとんどの人は、情報の多さをもって、思考力があると錯覚している。しかしもの
知りイコール、賢いという意味ではない。一方、思考することには、ある種の苦痛
が伴う。難解な数学の問題を前にして、四苦八苦している自分を想像してみればよ
い。

そのためほとんどの人は、できるなら思考を、しないですませようとする。数学の
問題でいうなら、解答を丸写しにして、すませようとする。が、脳みそ自身は、情
報で得た知識と、思考で得た知識を区別できない。できないまま、数学の解答を丸
写しにしながら、自分は、賢くなったと錯覚する。

(5)情報、知識の漏出

せっかく得た情報や知識にしても、内容にもよるが、時間の経過とともに、薄れて
いく。消えていく。よい例が、学生時代学んだ英語の単語。そののち、使っている
かどうかによってもちがうが、ほとんどの人は、学生時代に知っていた単語すら、
10年、20年とたつうちに、忘れていく。

この私も、高校生を教えなくなったとたん、頭の中の単語の数が、ぐんと少なくな
ったように感ずる。この傾向が、加齢とともに、加速する。脳みその底に、まるで
穴があいたような状態になる。

 つまりこうして、人は、情報のゴミの中で、ゴミ人間になっていく。先に「ゴミ情報で
いっぱいになった人を、ゴミ人間という」と書いたが、ゴミ情報ばかりに包まれていれば、
ものの考え方そのものが、ゴミ化するということは、じゅうぶん考えられる。冒頭に書い
た、インチキは、その一例ということになる。

 が、現在、思考の前提となる、(静かな時間)そのものが、ない。(静かに考える時間)
といってもよい。しかもその時間というのは、1日のうちで、1時間や2時間では足りな
い。できれば、3時間とか4時間。長ければ長いほど、よい。それはちょうど健康論に似
ている。

 週に1、2時間程度の運動では、健康は維持できない。できれば3、4時間はほしい。
長ければ長いほど、よい。

 賢くなる……つまりは考える人間になるということだが、賢い人からは、そうでない人
がよくわかる。が、だからといって、何も、私が賢い人間というわけではない。賢いかそ
うでないかということは、あくまでも相対的な問題でしかない。より賢い人から見れば、
私は、そうでない人ということになる。

 それはたとえて言うと、山登りのようなもの。低いと思って登った山でも、意外と遠く
まで見えるもの。その山の高さには、限界がない。1000メートルの山の向こうには、
2000メートルの山がある。さらにその先には、3000メートルの山もある。

 さらに悲劇的なことに、賢い人からは、そうでない人がよくわかる。しかしそうでない
人からは、賢い人がわからない。わからないから、えてしてそうでない人は、その段階で、
「私は賢い」と錯覚してしまう。進歩するのを、やめてしまう。

 いろいろ脱線したが、要するに、自ら考えるということ。それがこうしたゴミ情報から、
自分を守るための、ゆいいつの方法ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ゴミ情報 ゴミ知識 思考と情報 情報と思考)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある読者の方からのメール

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WINDOWメールを整理していたら、
1通のメールがそこに残っていた。

ずいぶん前に受け取ったものだが、
こういうメールは、削除できない。
つまりそのまま残った。

そのまま紹介させてもらう。このメール
をもらったころ、マガジンの廃刊を、
本気で考えていた。

+++++++++++++++

こんばんは。林様。

このメールに返信して届くのかよくわかりませんが
お頼りすることにしました。
母親歴10年になる(九州の)M町在住のものです。
この号に、もしかして休刊?、ということが書いてあったので
ちゃんと読んでますよ、ということをお伝えしたかったのです。

私も昨年まで6年間、ネット業界にいましたので
相手からの反応が体感しにくいので、モチベーションがあがりにくい
というネットの現状を知っているつもりです。
そのことをふっと思い出して、ちゃんと読んでますよ!とお伝えしたくなった次第で
す。

次号も楽しみにしていますので頑張ってください。
こちらの希望としては、もうすこし記事が少ないほうが読みやすいです。
盛りだくさんなので。読めずにたまることもあります。
今の半分の量でも十分だと思います。

日本の教育については本当に同感する部分が多いです。
地元公立小学校に子供が通っていますが、正直がっかりさせられることが
多いです。(私立がいいという意味ではありません。)

介護日記も楽しみにしています。
明日は我が身。。。

好き勝手書きましたが、一読者の感想でした。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「ロコ・ロンドンxx」という詐欺商法

+++++++++++++++

またまた新手の詐欺商法!

今度は、「ロコ・ロンドンxx」という名前の
詐欺商法である。

「金の価格が暴騰していますよ」「今、
金に投資すれば儲かりますよ」という
語り口で、近づいてくる。

被害が急増している。東京都だけで、
すでに200件以上の会社(?)が、
活動しているという。被害者の数は、
かなりの数になるはず。全国に、被害者
救済

金の先物取引というと、あの豊田通商事件
を思い出すが、「ロコ・ロンドンxx」は、
先物取引ではない。現物取引を歌っている。

しかしもちろん、(現物=金の延べ板)が、
手に入るわけではない。

みなさんもくれぐれも、ご用心!

なお「ロコ」というのは、固有名詞ではない。
英語の「@=at」にあたる言葉。だから
「ロコ・ロンドン」というのは、もちろん
会社名ではない。「ロンドンにて」という
意味にすぎない。

この部分だけが、たとえば「ロコ・ニューヨーク
xx」というように変えられる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●幼児性心理(H法務大臣の軽率発言)

++++++++++++++++++++++

 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に
分けている。

(1)口唇期……口の中にいろいろなものを入れて快感を覚える。
(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。
(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をもつよ
うになる。

++++++++++++++++++++++

本題に入る前に、まず一般論から。少し前、こんな相談があった。

++++++++

Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言
います。(小二男2

A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えない
ほどまで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。

 乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する
(フロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時
期と考えるとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとな
の性器性欲の基礎になる。)

 たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にから
れる。が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれか
に話す。そのとき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。

 つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを
外に吐き出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランス
をとるためには、必要なことでもある。

 むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、
『抑圧は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。

 N君(小5)という、静かでおとなしい子どもがいた。従順で、これといって問題はな
かった。しかし私はある日、彼のノートを見て、びっくりした。そこには、首のない人間
や、血だらけになってもがき苦しむ顔、ドクロなどが描かれていた。原因は、父親の神経
質な過関心だった。

 言いたいことを言う。思ったことを言う。それができるから、家庭という。あの『クレ
ヨンしんちゃん』の中にも、母親のみさえが、義理の父親に向かって、こう怒鳴るシーン
がある(V16)。「ひからびた、ゆで玉子頭」と。そういうことが自由に言いあえる家庭
というのは、それだけでも、すばらしい家庭(?)ということになる。

 私も、よく生徒に、「クソじじい」と言われる。そこである日、こう教えてやった。

私「もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて、教えて」
私「でも、お父さんや、校長先生に言ってはだめだよ。約束するか?」
子「するする…」
私「ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。

 それからというもの、私のニックネームは、美男子になった。生徒たちは私を見ると、
うれしそうに、「美男子! 美男子!」と。私は一応、怒ったフリをするが、内心では笑っ
ている。
 
+++++++++++

 以上は、子どもの世界の話だが、今日、こんなニュースが伝わってきた。またまたあの
H法務大臣の失言問題である。

H法務大臣が11月3日、地元選挙区の福岡県で「日本にはテロリストがいることを知
っている」と発言したという。

 「本当のことを、事実を言うと、みんながびっくりしてマスコミが騒ぐ。とにかく、こ
の国をテロから守る。テロリストの怖いのが平気でこの国をうろうろしている。私はそ
の事実を知っているから申し上げている」(ヤフー・news・11月3日)と。

 H大臣は、この10月、「友人の友人がアルカイダ」などと発言、官房長官から「軽率だ」
と注意を受け、謝罪したばかりである。いったい、このH法務大臣の頭の中は、どうな
っているのか。実は、その謎を解くカギが、「肛門期」である。

 先に書いたことを、もう一度、おさらいしてみよう。

 「……重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。が、それ
を話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。そのと
き感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい」、である。

 つまりことの真偽は別として、H法務大臣は、まさに幼児の肛門期を地でいくような発
言を繰りかえしているのがわかる。しかしH法務大臣は、幼児ではない。立派なおとなで
ある。しかもふつうのおとなではない。法務大臣という一国家の要職にある人物である。

 わかりやすく言うと、H法務大臣は、幼児性を残したまま、つまり精神的未発達のまま、
おとなになった人物ということになる。地位や肩書きにだまされてはいけない。仮にそう
であるとしても、法務大臣という立場上、証拠に基づかないようなことを軽々に口にすべ
きではない。もし証拠があるならあるで、法務大臣という立場で、法的に処理すべきであ
る。

 恐らくH法務大臣は、要職についたことをよいことに、大物ぶるために、そういう発言
を繰りかえしているのだろう。「私はこれこれしかじかのことを知っている」「だから私は
大物だ」と。そこらの週刊誌のレポーターが、タレントの裏話を得意げに話すのと同じで
ある。

 しかし大物ぶるということは、それだけ小物ということ。中身に一本、スジが通ってい
ないから、こういう軽率な発言を繰りかえす。

 それにしても、いったい、この国の政治家たちは、どうなっているのか? レベルが低
い。……というより、低すぎる。そういう人物が、堂々と、法務大臣という肩書きをぶら
さげている。世の中には、口にしてよいことと、そうでないことがある。その区別すらで
きない? 仮に知っていても、……というより、法務大臣なら、もう少しマシな演説がで
きないものか? 伝わってきている演説内容は一部だが、その一部だけをみても、レベル
の低さがわかる。

 もう一度、H法務大臣の発言を、よく読んでみてほしい。そこには、こうある。

「本当のことを、事実を言うと、みんながびっくりして、マスコミが騒ぐ。とにかく、こ
の国をテロから守る。テロリストの怖いのが平気でこの国をうろうろしている。私はその
事実を知っているから申し上げている」と。

 全体として、「文章」になっていないのがわかる。中学生でも、こんな作文を書いたら、
私なら、容赦なく、「C」をつける。


●今日・あれこれ(11月5日)

+++++++++++++++++

昨日、今日、ほとんど原稿を書かなかった。

講演会のレジュメの作成とか、いろいろ
仕事が重なった。

で、今、やっとヒマになった。
11月5日、午後11時。ワイフは、先ほど
床に入った。

私は書斎に入り、パソコンに電源を入れる。
いつものようにメールを開く。何人かの人たちに、
返事を書く。

雑紙に目を通す。このところ毎日のように
雑紙を買ってくる。昨日も、経済誌を1冊、
買ってきた。『週刊エコノミスト』(11・6)。

雑紙代だけでも、月に2〜3万円になる。
バカにならない。しかしこれもボケ防止のため?
そう思えば、安い。

++++++++++++++++++

●インチキ、またインチキ

 中国人というのは、本をほとんど読まないそうだ。読んでも新聞。が、夕刊まで読む人
は少ないとか。また本といっても、ハウツー本がほとんど。

「北京、上海などの大都市の平均的家庭が1年間に支出する文化的消費は、(テレビ・ラ
ジオ・新聞)の購読のみである。少しましな家庭は、夕刊紙も購読している。読書する
人は、非常に少ないし、読むとしても、金儲けや説得術、ナントカ速成術など、ノウハ
ウものが圧倒的に多い」と。西安生まれの周勍(しゅうけい)氏という、中国人のコラ
ムニストがそう書いているから、まちがいない。

 こうして得た情報を、周勍氏は、「ゴミ情報」と断罪する。中国そのものが、ゴミ情報に
埋もれてしまっている!

 私はこの「ゴミ」という言葉に、新鮮な驚きを覚えた。ナルホド! この言葉を応用す
ると、「ゴミ知識」「ゴミ伝統」「ゴミ文化」というふうにも使える。これらゴミ情報に埋も
れて生きている人は、ゴミ人間(失礼!)?

 その中国だが、7歳半ですでに月経があり、乳房がピンポン玉大になるような、性的早
熟児がふえているという。原因は、言わずと知れた、成長促進剤。従来なら2〜3年かけ
て大きくなるスッポンが、成長促進剤を使うと、わずか数か月で、同じ大きさになるとい
う。

 中国の農民たちは、「養魚池の底に、抗生物質や避妊薬を敷き詰めると同時に、魚のエサ
に大量のホルモンを混ぜる。それは伝染病を予防すると同時に、魚の成長を早める効果が
ある」と。

 スッポンやうなぎだけではない。中国の養鰻業者たちは、こう言っているそうだ。「自分
で育てた魚は、食べない」(同氏)と。

 その記事を読んでいたとき、背筋がゾーッとするのを覚えた。詳しくは、週刊「エコノ
ミスト」(11・9・中国人ジャーナリストの警告)に書いてあるから、興味のある人は、
そちらを読んでみたらよい。

 で、なぜこういうデタラメが中国では平気でなされているかということ。そのコラムニ
ストが言うには、「金銭と権力が癒着し、暴利が権力者の懐にころがりこんでいるため」(要
約)ということらしい。中国ではへたに正義感を燃やすと、かえって社会そのものから、
排斥されてしまう。つまり国中が、デタラメということ。(あるいは国そのものが、デタラ
メ?)

 ときどき日本に漏れ伝わってくる情報は、氷山の一角の、そのまた一角ということにな
る。

 しかし……。日本とて、偉そうなことは、言えない。雪印、ミートホープにつづいて、
赤福餅などなど。ここ1週間だけでも、香川県丸亀市の学校給食材料の産地偽装事のほか、
鹿児島産たくあんが、実は中国産であったり(鹿児島漬け物)、国内産と売っていた三輪そ
うめんも、これまた中国製であったという事件が発覚している(ライスGT社)。さらに愛
知県の地鶏の、名古屋コーチンにも、疑いがかけられている。

また宮崎県の業者が、台湾から輸入したうなぎを、国内産と偽っていたケース。「コシヒ
カリ100%」「山田錦100%」と歌ってる米を、DNA鑑定を使って調べてみたら、
どうもそうでないという結果が出た(通産省)、というようなケースも報道されている。

 食物だけにはかぎらない。Tゴム工業は、断熱パネルの材料に水酸化アルミニウムを混
ぜて燃えにくくした上で不燃性試験を受けて、国土交通大臣認定を不正に得ていたという。
さらに建材大手Nアスが、」耐火性能を偽った住宅建材を販売していたという(日経07・
11・5)。

 あえて言うなら、これもまた、氷山の一角。日本中が、偽装だらけ。本質的には、中国
人も、日本人も、それほど、変わらない。つまりは、ゴミ情報だけで生きる、ゴミ人間?
(失礼! ただし「ゴミ」といっても、価値のない人とか、そういう意味ではない。ゴミ
情報で頭の中が、いっぱいという意味で、「ゴミ人間」という。誤解のないように!)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●ある自己愛者

++++++++++++++

この世界には、「常識」という
ものがある。

その「常識」があれば、当然、
「常識ハズレ」というのも、ある。

しかしそれだけではない。

「常識ハズレ」の、そのまた
「常識ハズレ」というのもある。
「常識ハズレの番外」という
べきか。

++++++++++++++

●常識ハズレ・番外編

 私の知人が、市内で美容院を経営している。従業員は、2人。結構、繁盛している。そ
んなある日、……というか、その少し前、数軒おいた隣に、レストランができた。うわさ
によれば、キッチンの改修費だけでも、数百万円をかけたという。

 が、開店当初から、客は、ほとんどゼロ。理由はいろいろあるが、それはともかくも、
事件は、そのあと、起きた。

 そのレストランの経営者(女性、当時40歳くらい)が、突然、知人の美容院へやって
きた。そのとき客が、4、5人いたという。床には、切った髪の毛が散乱していた。

 そのレストランの経営者が、さめざめと泣きながら、こう言ったという。「お宅には、こ
うして客がたくさん来ている。その客を、うち(=レストラン)へ少し回してくれ」と。

 美容院を経営している知人が、「それはできません」と断ると、そのレストランの経営者
は、その場で土下座。髪の毛の散らかった頭を床にこすりつけて、「お願いします」と何度
も言ったという。

 これには美容院の知人が驚いた。従業員たちも驚いた。もちろん客たちも、驚いた。

 この世界には、「常識」というものがある。その常識があれば、当然、「常識ハズレ」と
いうのもある。が、そのレストランの経営者がしたことは、常識ハズレの、さらにその外
にある。つまり番外!

 が、問題は、それで終わったわけではない。ここからが本番。

 申し出を断られたレストランの経営者は、それ以後、その美容院に対して、猛烈ないや
がらせを繰りかえし始めたという。美容院を経営している知人は、こう言った。

 「証拠がないから、だれが犯人とは言えませんが、車にキズをつけられる。シャッター
にペンキをかけられる。犬の糞が、玄関先に並べられる。さらには、生ゴミが、美容院の
駐車場にばらまかれる。看板に、石をぶつけられる……というようなことがつづきました」
と。

 それからしばらくの間、その美容院の知人は、店のシャッターを半分閉じて、営業をつ
づけたという。「相手が相手ですから、何をされるかわからなくて、こわかったです」と。

●拒否されると、敵 

 自己中心性が極端にまで肥大化した状態を、自己愛という。自己中心性が強ければ強い
ほど、相手の心の動きがわからなくなる。

 そのレストランの女性の心の中に、視点を置いてものを考えてみよう。

 そのレストランの女性は、こう考えた。「近所で開店したのだから、少しくらい、客を回
してくれてもよいはず」→「頭をさげて、頼みに行った」→「土下座までして、頼んだ」
→「しかし断られた」→「そのためレストランの経営が、ますますきびしくなった」と。
そこでそのレストランの女性は、「自分のレストランに客が入らないのは、美容院の経営者
のせい」と考えるようになった。

 そのあといろいろないやがらせ事件がつづくが、もちろん犯人はわからない。しかし常
識を働かせて考えれば、犯人は、だれか、容易に察しがつく。

 常識ハズレの人は、常識ハズレの行為に出る。常識ハズレという点で、一貫性がある。
同じような例を、私も経験している。

 もう30年も前の話だが、当時の私は、それなりにモテた。そんなある日、あるところ
で、こんな事件が起きた。

 何かの仕事でその人を手伝っているとき、横にいた女性(当時、30歳くらい)が、私
の手の上に、自分の手をのせて、こう言った。「今度、ヒマなとき、英会話を教えてくださ
らない?」と。

 どこかなまめかしい声だった。が、私は、ゆっくりと手を放し、「忙しいから……」とい
うような言い方で、それを断った。

 その女性が、である。それから1年以上にわたって、私の悪口を言い始めた。「あの林は、
幼児教室を開いているというが、母親に、手を出した」「生徒がやめると、罰金を請求して
くる」「生徒がやめたら、その妹までやめさせられた」「今、女性問題で、妻とは離婚状態
にある」などなど。

 その前後には、毎晩深夜に、無言電話までかかってくるようになった。

 私は、レストランの女性の話を聞きながら、自分の経験を思い出していた。このタイプ
の女性は、自分の思い通りにならないと、一転、今度は、徹底的に、敵に回る。つまりこ
れも自己愛者特有の症状のひとつということになる。

●自己愛者は孤独

 考えてみれば、かわいそうな女性たちである。美容院で土下座をした女性もかわいそう
なら、私の悪口を言いふらした女性も、かわいそう。(自分)というものが、どこにもない。
そのつど、欲望の命令ずるまま、常識ハズレな行動を繰りかえす。

 もちろんものの考え方も、自分勝手。わがまま。そのため他人が、どんどんと離れてい
く。が、本人は、それでも「自分さえよければ」と考える。自分の自己中心性に気づくこ
とさえない。

 だから、孤独。だから、さみしい。

 だから……と、さらにこの先を書くのは、危険なことかもしれない。しかしこういうこ
とも言える。

 もしあなたが日々の生活の中で、孤独を感じ、さみしく思っているなら、まず疑ってみ
るべきは、自己愛者ではないかということ。自己愛者でなくても、自己中心的な人ほど、
そうである。が、問題がないわけではない。

 仮にあなたが自己中心性の強い人であるとする。その自己中心性に気がついたとする。
そしてその自己中心性を打破するために、何かの活動を始めたとする。が、もしこの段階
で、それ自体が、「自分のため……」「自分の孤独感を癒すため」と考えているようであれ
ば、結局は、元の木阿弥。自己中心性を打破することはできない。

 というのも、その人の自己中心性というのは、脳みその奧の奧まで、イレズミのシミの
ように、しみこんでいる。表面的に化粧した程度では、取れない。消えない。

 自分の脳みその奧の奧までしみこんだシミと戦うためには、それこそ10年単位、20
年単位の努力が必要である。多くのばあい、死ぬまで消えない。あるいは加齢とともに、
ますますひどくなる。

 といっても、この世界は、すべてその自己中心性を基盤として、成り立っている。子ど
もの受験競争から始まり、もろもろの経済活動、さらには政治活動などなど。この世界か
ら自己中心性を取り除いたら、社会そのものが崩壊する。

 そこで重要なことは、家庭だけでも、あるいは学校だけでも、(そうでない世界)にする
こと。「学校が最後の砦(とりで)です」と言った校長(K町K小学校)がいた。親子にし
ても、教師と父母、子どもの関係にまで、自己中心性が入ったら、人は、どこでどのよう
に、自分の孤独やさみしさを癒せばよいかということになる。

 親子は、無私、無欲。無私、無欲であるからこそ、親子という。「損をした」とか、「得
をした」とか、そういうふうに考えること自体、おかしい。「産んでやった」「育ててやっ
た」、さらには「大学まで出してやった」とか言うこと自体、おかしい。もしあなたがそう
いうふうに考えているとしたら、それはそれで構わないが、その代償として、あなたは孤
独や、さみしさと、日々に戦わねばならなくなる。

●レストラン

 話が脱線したが、自己愛者は、自分のことしか考えない。自分の姿しか見えない。だか
らその言動は、どうしても、常識ハズレになりやすい。冒頭にあげた、レストランの女性
が、その一例である。

 で、その女性のレストランだが、皮肉なことに、現在は、その美容院がそこに移転し、
美容院になっている。レストランを経営していた女性は、そののち、H市の郊外へ引っ越
し、今は、どこで何をしているかわからない。

 その美容院の知人は当時を思い出しながら、こう言った。

 「何もかも我流で、常識ハズレでしたね。大理石づくりの椅子を並べたのですが、おし
りが冷たくて、座ることもできませんでした。それに客として行くと、そばにずっと立っ
ていて、『味はどうだ?』『これはおいしいでしょう』と話しかけてくる。うるさくて、た
まりませんでした」と。

 そのレストランに客が入らなかったのは、その女性経営者自身に問題があったからとい
うことになる。自己愛者は、自分の立場でしか、ものを考えることができない。つまりそ
のレストランが失敗するのは、最初からわかりきっていたことということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自己愛 自己愛者)

【付記】

 この原稿を書くきっかけとなったのは、こんな事件があったから。

 1時間ほど休み時間があったので、その間、私は近くの書店で、時間をつぶした。その
帰り道でのこと。突然、1人の男(50歳くらい)が、私に怒鳴りかけてきた。

 「貴様、貴様を不法占拠で、訴えてやる。警察を呼んでやる!」と。気が狂った犬のよ
うな叫び方だった。

 私はとっさの反応として、まわりを見た。が、そこには私しか、いなかった。私は、自
分で自分を指さし、「私のこと?」と。

 するとその男は、ますますいきり立って、「貴様だア!」と。

 ちょうど夕暮れ時で、その男は、私を、別のだれかと見まちがえたらしい。それはわか
るが、しかしそれにしても……???

 あとでこの話をワイフにすると、ワイフはこう言った。「世の中には、おかしな人が多い
わね。でも、そこまで常識からハズレている人は知らない」と。

 そこで私は美容院を経営している知人から聞いた話を思い出した。それをワイフに話し
た。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マンション建設反対

++++++++++++++++++++

私が住む団地の一角に、マンションが建設される
ことになった。もとはといえば病院のあったところ
である。

そのマンション建設に対して、近くの住民の人たちが、
「マンション建設反対運動」を起こした。
「運動」といっても、私は、直接は知らない。
そのあたりを通ると、「建設反対」の大きな看板が、
いくつか並んでいる。

今のところ自治体が動いているという話は聞いていない。
この団地には、すでに、ざっと数えても、4階建ての
マンションが、数棟、2階建てのアパートとなると、
30〜40棟はある。

++++++++++++++++++++

 大きなマンションが建つことによって、当然、その周辺の人たちは、影響を受ける。日
本のばあい、とくに北側に住む人たちが、大きな影響を受ける。日本の家屋は、南側を意
識して建てられることが多い。

 一方、土地をもち、その上にマンションを建てる人には、建てる側の論理がある。経済
という論理である。簡単に言えば、建設許可さえあれば、問題はないはずと考える。この
あたりは、第二種住宅地域。法に定められた基準さえクリアすれば、マンションの建設は、
割と簡単に許可される。たとえ国でもそれを差し止めることはできない。

 そこで住民の人たちに残された方法は、裁判闘争ということになるが、権利の侵害が明
白でないばあいには、それもむずかしい。

 が、だからといって、つまり建設許可がおりたからといって、問題はないはずと考える
のは、おかしい。当然、マンションを建設する人は、その周辺の人たちへの迷惑を考えな
がら、建設すべきである。それに力関係が、まるでちがう。住民は、財力という点でも、
弱者。弁護士に相談することすら、ままならない。

・・・ということで、つまりこの問題は、私の住む地域の人に関することなので、ここ
まで。心情的には、住民の人たちの側に立ちたい。しかしそれでは公正性に欠ける。こ
の種の問題は、では私ならどうするかという立場で考えるのがよい。あなたならどうす
るかという立場で考えるのがよい。もし私やあなたの家の前に、大きなマンションが建
設されることになったとしたら・・・、と。

ところで私は、原稿を書くとき、いくつかの原則を守っている。

 その第一。私の近辺の人たちのことについては、書かない。書くとしても、いくつかの
話を混ぜたり、あるいは架空の話として仕あげる。あるいは人から聞いた話として書く。
どこか遠くで起きた話として書く。私自身の話として書くこともある。近隣に住む人が読
んでも、ぜったいにその人の話だとわからないようにする。話の内容を変える。

 親や子どもの話については、とくに気をつかう。親や子どもの話では、現在、私が関係
している人の話は、どういう形であるにせよ、書かない。(その子どもをほめたり、私の失
敗談として書くことはあるが・・・。)

だからといって、ウソを書いているというわけではない。こうした改変は、この世界で
は常識。またそれをしないと、私の文章が、思わぬところで、その人をキズつけてしま
うこともありえる。この世界には、「炎上」という言葉がある。自分の書いた文章が原因
で、とんでもないトラブルに巻き込まれることをいう。そのためHPを廃止した人もい
る。マガジンを廃刊に追い込まれた人もいる。さらに名誉毀損で訴えられた人もいる。

 だからあくまでも一般論として、ここでは私の意見を書いてみたい。

「マンション建設問題」は、要するに、私的利益と公的利益の(かねあいの問題)とい
うことになる。私的利益を保護し過ぎれば、公的利益がそこなわれる。一方、公的利益
を保護し過ぎれば、私的利益がそこなわれる。

 今回のマンション建設反対運動にしても、その北側に住む人は、(間に、8メートル道路
をはさんでいるが)、大きな影響を受ける。日照時間も減る。が、何よりも、プライバシー
が侵される。マンションからは、庭のすみずみまで見わたせる。マンションの建設に反対
する人の理由も、そのあたりにあるのだろう。

しかしこういうふうに問題がこじれる前に、何とか、ならなかったものか? 話し合い
を重ね、たがいに納得してから建設工事にかかるとか、そういうことはできなかったも
のか? 反対運動をする人にしても、反対運動をすること自体、不愉快。ふつうの人な
ら、それだけで神経が参ってしまう。が、私には事情がまったくわからないので、やは
りこの話は、ここまで。

 ただ一言。マンションを建設する人は、それで迷惑をこうむる人の気持ちをもっと、大
切にしてほしい。「法を守っているから」という理由だけで、好き勝手なことをしてもらっ
ては困る。先にも書いたように、「財力」という点では、まるでちがう。一方、建設する側
には、それだけの財力がある。弁護士も、最初からついているだろう。つまり最初から、「力」
という点では、住民の人たちには、勝ち目はない。

言うまでもなく、「法」というのは、その人が守るべき、最低の規範をいう。繰り返すが、
「許可がおりたから」という理由だけで、財力にものを言わせて、好き勝手なことをし
てもらっては、困る。


●パソコン

 少し前、「これからの人は、パソコンを通信販売で買うようになるだろう」「販売店では、
パソコンは買わなくなるだろう」と書いた。それに対して、BLOGのほうに、いくつか
の反論が届いている。

 いわく、「今の今でも、パソコンがかたまってしまい、真っ青になっている人がいる。そ
ういうとき、一番の助けになるのは、パソコンショップだ。これからもパソコンショップ
は、パソコン病院として、りっぱに機能していくだろう」と。

 さらに「家庭内LANの設定など、身近にプロがいないとできない作業もある。通信販
売で買ったパソコンでは、そこまでケアしてくれない」と。

 私が書いたことは、浅薄だった。私は私の知っている範囲で、また私の仕事の範囲で、
ものを書いた。これがまちがいのもとだった。率直に、反省している。

 たしかにそのとおりで、パソコンがフリーズしてしまったようなばあい、それを自分で
直せる人は、まだまだ少ない。真っ青どころか、心臓が止まる思いをした人も、多いはず。

 そういうとき私は、すかさずメーカーに電話を入れる。が、その電話がなかなかつなが
らない。メーカーによっては、30〜50分、待たされることも珍しくない。しかも中に
は、有料のところもある。「20秒ごとに、8・5円かかります」(M社)とか、なんとか。

 やはり助けになるのは、パソコンショップということになる。

 また家庭内LANの設定などは、そのつど、プロの人と相談しながらしたほうがよい。
ケーブルにしても、2種類ある。まちがえると、インターネットの接続すら、できなくな
る。

・・・ということで、ものを書くときのむずかしさを、改めて、思い知らされた。いく
ら想像力を働かせても、そこには、限界というものがある。私は、こうだと思って書い
ても、それは(私の知っている範囲)でのことでしかない。つまりまちがいだらけ。

 これからは、気をつけます! ごめんなさい!


●中学の同窓会

 この正月に、中学時代の同窓会がある。「中学の同窓会」と書くべきか。どちらにせよ、
今のところ、出席するつもりでいる。ハガキの下に、14、5人の旧友の名前が連ねてあ
った。知るも知らぬもない。みな、幼稚園、小学校時代からの仲間である。

 いろいろ考える。いろいろ思い出す。私にとっては、20年ぶりの同窓会である。正確
には、25年ぶり?

 同窓会といっても、郷里を離れて42年。その間、毎年年賀状を交換する程度の友人は
いるが、とくに親しくしている友人はいない。「話すことは、あまりないだろうな」と思い
つつ、一応、「出席」に丸をつけた。(まだ投函していないが・・・。)

 みなの様子を見たい。元気だろうか? どんなふうに変わっただろうか? 楽しみとい
うより、どこかこわい感じがする。相手も、私を、そんな目で見るにちがいない。


●山荘

 今度、山荘の化粧直しをすることにした。外壁の塗装をすることにした。建築当時、「1
0年はもちます」ということだったが、今年で12年目。地元でも、最優良という折り紙
つきの建築会社に頼んだので、家そのものは、しっかりとしている。

 塗装屋さんと相談しながら、ふとこんなことを考える。「近く売りに出すことになるだろ
うな」と。

 土地の造成に、6年。建築してから、丸12年。あしかけ、19年ということになる。
早いものだ。気がついたら、私も60代。そのうちワイフも車を運転できなくなるだろう。
そうなれば、山荘へ来ることも、できなくなる。

私「ぼくたちが元気なうちに、売ろうか?」
ワ「そうね」と。

 もし山荘を買ってもよいと思っている人がいたら、連絡してほしい。今すぐ・・・とい
うわけではないが、手放す時期は、近い。

 東名西インターからは、車で20〜25分。今度できる第二東名からは、車で、5分前
後のところにある。

 土地は、南向きのひな壇。うしろに家の高さの小山を背負っているから、北風は、ほと
んど当たらない。


●考える子どもvs考えない子ども

 簡単なパズルを出す。小2レベルであれば、「足しても、掛けても、同じ数になるのは、
何と何?」でもよい。

 そのとき、子どもが示す反応を、よく観察してみてほしい。即座に考えるしぐさを見せ、
ぐいと食いついてくる子どもがいる。そういう子どもは、それだけ(思考するクセ)が身
についている子どもということになる。が、そうでない子どもも、多い。「どうでもいいや」
とか、「関係ない」といった様子を示す。おおざっぱにみると、(思考するクセ)のある子
どもが、60%。そうでない子どもは、40%とみる。

 もちろん程度の差もある。同じ(思考するクセ)のある子どもでも、鋭い集中力を示す
子どもは、全体の、20%とみる。

 このタイプの子どもは、学習面でも、秀(ひい)でた能力を示す。そういう意味では、
頭のよしあしは、思考力、さらに言えば、(思考するクセ)で決まる。もちろん生来的な能
力、遺伝的な能力も大きく影響するが、反対に、せっかくすぐれた能力をもちながらも、(思
考するクセ)がないため、能力を生かせないままで終わってしまう子どもも、少なくない。

 思考することによって、脳細胞からシナプスが、伸びる。シナプスどうしがからみあい、
さらに複雑な思考をすることができる。これが良循環となって、その子どもの頭は、ます
ますよくなる。

 あとは時間。時間をかけて、思考するクセのある子どもは、学習面でも、飛躍的に伸び
る。社会人となってからも、伸びる。そうでない子どもは、残念ながら、そうでない。

 では、どうするか?

 つまりその方向づけをするのが、幼児教育ということになる。


●歩く

 昨日につづけて、今日も、8キロの道のりを歩いた。大またで、力を入れて歩いた。明
日は、F市の会館で、講演をすることになっている。地区の先生たち、1000人近くが
集まってくれる。体調を整える。体力を養う。

 今週は、前半、だらけた。後半、毎日2単位の運動をこなした。今夜も、1時間ほど、
自転車で近くを走るつもり。(雨が心配だが・・・。)

 「講演で、あがりませんか?」と聞く人がいる。しかし実際には、睡魔との戦い。私の
昼寝タイムと重なることが多い。話している途中に、ときどき、眠くなる。だから講演の
前は、食事抜き。

 で、終わったあとも、しばらくは、食欲はほとんど、ない。緊張していないようで、緊
張している。その緊張感が、食欲を減退させる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(11月9日)

+++++++++++++++

11月とはいえ、暖かい朝だ。
で、こういう朝を迎えるたびに、
「これでいいのかなあ?」と
思ってしまう。

地球温暖化は、もう、だれの目に
も疑いようがない。

たった30年前のことだが、11月
といえば、この浜松でも、ときに
身を切るような冷気にさらされたもの。

自転車に乗ったとき、手袋を忘れて、
自転車をこぐことができなかった
ことすらある。

過ごしやすいことはよいことだが、
しかしやはり、こう思ってしまう。

「これでいいのかなあ?」と。

+++++++++++++++

●友人の来訪

 来年早々、メルボルンに住むK君が、娘を連れて、日本へやってくる。つづいて、アデ
レードに住む、B君も、やってくる。突然、私の家が、ポッと花が咲いたような雰囲気に
なった。K君が日本へ来るのは、20年ぶり?

 その話をすると、ワイフはこう言った。「みんな、そういう年齢になったのね」と。

 「いろいろめんどうをかけるけど、ごめんね」と言うと、「いいのよ」と。ワイフも、ど
こか楽しみにしているよう。それを感じて、私はうれしかった。

 みんな、2〜3週間の予定で滞在してくれる。向こうの友人たちはみな陽気。ワイワイ
と騒いでいるだけで、気が晴れる!


●株価の大暴落

 ここ数日、株価が暴落につづく、暴落。去年(06年)の8月にも暴落して、1万50
00円台になったことがある。で、昨日(11月8日)の終値は、1万5771円! そこ
で今朝のニューヨーク市場の動きを見ると、またまた暴落。終わりにかけて、ややもちな
おしたというが、それでも前日に比べて、33ドル安。

 たぶん、今日の東京市場も、下落?、……と思って、開場前の値動きをさぐってみた。
いつも午前8時ごろから、株価の動きが表示される。……が、ナ、何と、私のもっている
株(M電工)が、昨日の値段より、70〜80円高でもみあっているではないか! (「高」
だぞ!)

 「こういうこともあるのかなア……?」と思いつつ、前場が開くのを、待つしかない。
この世界では、あまり欲張らないこと。ほどほどのところで、小遣い稼ぎができたら、さ
っさと売る。私はいつも、そうしている。

 心配なのは、円高。今朝は、1ドル=112円! 円高になればなるほど、手持ちの債
券価格(=国際証券の価値)が、さがる。つまり、「損」。こちらのほうは、もう少し長い
スパンでものを考えるしかない。

 
●中学の同窓会

 同窓会の案内をもらったときには、出席するつもりでいた。しかし今回は、やめ。理由
は、オーストラリアの友人たちが来ること。

 「同窓会はやめるよ」とワイフに告げると、「しかたないわね」と。つぎに会えるのは、
10年後? あるいは私のほうが先に、あの世行き?

 ところで、もう一度、株価の動きを見てみると、今度は、ナ、何と、20円安。(「安」
だぞ!)。もみあっているうちに、さがってしまった!

 「こういうこともあるのかなア……?」と、今度は、ため息。今日の株価は、波乱ぶく
み。1ドル=112円まで円高になると、輸出関連株は、軒並み、暴落する。私の予想で
は、前場だけでも、400〜600円の大暴落になるのでは? その程度ですめば、まだ
よいほうかも?

 そうそう朝食のとき、ワイフがこう言った。

 「韓国は、だいじょうぶ?」と。

 韓国も必死。韓国政府は、1ドル=900ウォンを死守ラインとして、猛烈なドル買い、
ウォン売りをつづけている(報道)。しかしそれも時間の問題。昨日、日本の株価は、32
0円程度(2%)の暴落で住んだが、韓国の株価は、60ポイント以上(3・2%)も値
をさげている。

 「まるでエレベーターみたい」と私が言うと、「ほんとうにそうね」とワイフ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争(11月11日版)

++++++++++++++

日韓経済戦争どころか、日本と
韓国の外で、猛烈な台風が吹き
始めた。

アメリカのドル暴落という、台風
である。

現在、1ドル=110円!

たとえて言うなら、日韓経済戦争は、
暴風雨の中での(サッカーの試合)の
ようなもの。

が、暴風雨だからといって、試合を
中断するわけにはいかない。

最初に、ギブアップしたほうが、
負け!

++++++++++++++

●外貨準備高

 韓国は、相変わらず、何とかのひとつ覚えのように、「外貨準備高がふえた」とはしゃい
でいる。

 しかし外貨というのは多ければ多いほどよいというわけでもない。外貨というのは、い
わば、タンス預金のようなもの。海外で運用してはじめて、意味をもつ。東亜N報(11
月10日は、つぎのように伝える。

「10年前、外国為替市場への介入などで底をつく寸前までいった韓国の外貨準備高は、
今、世界5位の規模に拡大した。急落した株価も内外の好材料を追い風に、KOSPI
指数で、2000前後で推移している」

「通貨危機の引き金なった外貨準備高は1997年12月に39億ドルまで減少したが、
その後徐々に増加し、先月末現在で2596億ドルに達している。中国、日本、ロシア、
台湾に次ぐ世界5位の規模だ」と。

 外貨準備高がふえたことで、あたかも韓国が力をもったと言わんばかりの論調である。
しかし先にも書いたように、外貨などというものは、海外で運用してはじめて、意味をも
つ。それがふえたからといって、国力がましたと考えるのは、あまりにも早計。無知。

 外貨というのは、為替変動の調整金として、各国が蓄えるもの。たとえば海外への支払
いのため、急にドルが必要になったようなとき、その外貨を使う。つまりある一定の適正
水準以上に外貨をもっていても、意味はない。ないばかりか、管理に、莫大なコストがか
かる。さらに現在のようにドル安になればなるほど、価値は目減りする。

 それになぜ、韓国の外貨準備高がふえたかといえば、つまりそれだけ、ウォンを売って、
ドルを買い支えたからにほかならない。輸出入で稼いだお金というよりは、ウォン高を防
ぐために、ドルを買いつづけた。韓国政府は、1ドル=900ウォンを死守ラインと設定
している。

 1ドル=900ウォンを割るようなことになると、つまり800ウォン台に入るような
ことになると、韓国の輸出産業は、それこそ壊滅的な打撃を受ける。

 で、韓国は、そのお金を、つまりドルを買い支えるお金を、外国からの借金でまかなっ
ている。同じく東亜N報は、つぎのように伝える。

 「韓国銀行によると今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億9
000万ドルと、韓国の外債全体の44.3%に達する。この比率は、通貨危機当時(9
7年末)の36.6%よりも7.7ポイント高い」と。 

 わかるかな? 「短期外債」というのは、簡単に言えば、「外国からの借金」のこと。
つまりその借金が、1379億ドル。日本円に換算すると、およそ15兆1000億円!
 つまりそれだけのお金を外国から借りて、資本収支に「黒字?」として組み込んだ上、
ドルを買い支えている。

 韓国経済の(恐ろしさ)は、すべて、この1点に集約される。ふつうの国なら、外国か
らの借金は、資本収支に黒字(=外国からの投資)としては組み込まない。「投資」と「借
金」は、まったく異質のものである。

 しかも肝心の経常収支(貿易収支+資本収支)はどうかというと、このところ、どんど
んと悪化している。数字を並べてみよう。

05年に12億4840万ドルの黒字
06年に5億770万ドルの黒字
07年は9月現在で、3億2430万ドル(東亜N報) 

 04年には23億4780万ドルの黒字だったから、たいへんな減りようということに
なる。今年(07年)後半には、原油高も加わり、赤字に転落するだろうと予想されてい
る。つまりこれだけ、ごまかしにごまかしを重ねても、この数字。

 ところでこんな笑い話。

 韓国の失業率が、3%にさがったという。(3%だぞ!)

 インチキもインチキ。大卒の就職率が、25%前後という韓国にあって、どうして3%
なのか!? あまりこういう言葉は使いたくないが、「バカも休み休み、言え」。日本で
は大卒の就職率は、ほぼ100%。その日本ですら、失業率は、5〜6%前後。

 韓国政府が発表する経済指標は、ことごとく疑ってかかってみたほうがよい。

 さて1ドル=110円! 円を一度ドルに交換して借金している韓国にとっては、これ
はたいへん深刻な問題と考えてよい。

 わかりやすく説明しよう。

 1ドル=120円で、あなたが120万円、借りたとしよう。あなたは日本から、ドル
に交換して、1万ドル借りたことになる。(これが円キャリートレード。)が、ここで1
ドル=110円になったとする。あなたは120万円の借金を返すために、約1万100
0ドルを用意しなければならない。(これが円キャリートレードの解消。)

 つまり借金が、1000ドル、ふえることになる。

 もちろん日本とて、無傷ですむわけはない。何せ、暴風雨の中での、サッカーの試合で
ある。つまりこの試合は、最初に、ギブアップした方が、負け。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本!

 ついでに一言。

 韓国という国は、前にも書いたが、国をあげて受験競争をしているような国である。毎
日のように、「世界〜位」「世界〜位」という数字が、新聞の紙面を飾る。「外貨準備高
は、今、世界5位の規模に拡大した」というのも、そのひとつ。

 こういうウソの数字に踊らされている韓国の人たちは、あわれとしか言いようがない。
ホント!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    12月 12日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの3大情動

++++++++++++++

恐れ、怒り、愛情の3つを、
人間の「3大情動」(ワトソン)
という。

これら3つの3大情動は、生後
人間が、生まれながらにして
もっている(感情)と考えられ
ている。

(そうでないと主張する学者
もいるが……。)

この3大情動の反対側にあるのが、
安らぎ、喜び、憎しみということに
なる。

たとえば乳児は、慈愛に満ちた
母親の腕の中では、安らいだ
表情をしてみせる。あやしたり
抱っこしてやると、喜ぶ。一方、
育児拒否、冷淡、無視が日常化
すると、心がゆがむ。憎しみも
そのひとつ。

+++++++++++++++

 人間は、ほかの動物たちと、多くの共通点をもつ。この共通している部分が、人間が生
まれながらにもつ部分と考えてよいのではないか。たとえばワトソンという学者は、人間
の3大情動として、(1)恐れ、(2)怒り、(3)愛情の3つをあげた。

 これらの情動について、人間が生まれながらにもっているものなのか、それとも生まれ
たあと、経験的に身につけるものなのかについては、さまざまな議論がなされている。(私
自身は、そういう議論のワクの外で生きている立場なので、直接は知らない。)

 しかしむずかしい議論などしなくても、犬を見ればわかる。ネコや小鳥を見ればわかる。
人間を含めて、すべての高等動物は、これら3つの情動を、共通してもっている。共通し
てもっているということは、「生まれながら」、つまり生来的と考えてよい。

 これら3つの情動の反対側にあるのが、(1)安らぎ、(2)喜び、(3)憎しみというこ
とになる。

 ところで話はぐんと東洋的になるが、漢方医学では、人間の感情を、5つ、もしくは7
つに分けて考える。

 (怒)(喜)(思)(悲)(恐)の5つである。これを「五情」という。そしてそれぞれの
情動は、「相生(そうじょう)」「相克(そうこく)」の関係で、関連し合っていると、漢方
では考える(素問・陰陽応象大論)。「相生」というのは、(怒)(喜)(思)(悲)(恐)の情
動が、順に、「喜は怒から生まれる……」「思は喜から生まれる……」というように、その
生成順位を言ったもの。

 「相克」というのは、たとえば「怒と思」「喜と悲」は、それぞれ対立関係にあることを
いったもの。たとえば「悲しみにふけっている人には、喜びを与えて、(病気の)治療をす
る」などと応用する。

 この東洋医学の考え方を応用してみると、ワトソンの3大情動は、(恐)と対立関係にあ
るのは、(喜)、(怒)と対立関係にあるのは、(思)ということになる。(詳しくは、「はや
し浩司のHP」→「目で見る漢方診断」(P147))

 話を戻す。要するに、こうした情動は、子どもが生まれながらにもっていて、それが経
験的に、それが外に引き出されるようになると考えるとわかりやすい。たとえばよく知ら
れた例に、「微笑み(ほほえみ)」がある。

 乳児は、生後1、2か月ごろから心を許した母親や父親に抱かれたりすると、微笑みを
見せるようになる。(「天使の微笑」というときは、眠っているようなとき、微笑むことを
いう。)こうした微笑みは、親の愛に包まれたという経験がもとで、外に引き出されると考
えられる。

 怒りについても、同じように考えられる。(ただ乳児のばあい、怒りといっても、顔を赤
くしたり、のどをうならせたりして表現する。)「愛情」、つまり「愛着表現」「愛着行動」
については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 こうした現象をもう少し客観的にみると、人間がもつ豊かな情動というのは、そのつど
引き出され、育てられていくものだということがわかる。その反対の例としてよく取りあ
げられるのが、野生児である。

 生後、何らかの理由で、野生の世界で育てられた子どもを、野生児という。この野生児
に共通して見られる症状が、いわゆる感情の鈍麻である。喜怒哀楽の情動のうち、怒をの
ぞいた感情の発達が、阻害される。1920年に前後して発見された、インドのオオカミ
少女(姉妹)、フランスのアベロンのビクトール少年などの例を、あげるまでもない。

 さらに言いかえると、人間がもつ豊かな感情表現は、それ自体が、人間が人間であると
いう証(あかし)ということになる。もっと言えば、人間がもつ、心の財産と考えてよい。
中には、「何だ、ただの感情のことか」と思う人も多いかと思うが、今、その感情のない子
ども、あるいは感情表現の乏しい子どもがふえている。これらの子どもは、年中児の段階
で、約20%前後はいるとみてよい。

 子どもの情動を考えるひとつのヒントになれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 情動 情動行為 感情 子供の感情表現)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●リタリン

+++++++++++++++

向精神薬の子どもへの投与は、
慎重であるべき。

私は今まで、何度も、そう
書いてきた。

一時的には効果があっても、
その反作用がひどい。

それに脳にはフィードバック
機能というのがある。

向精神薬を用いると、その効果
を打ち消そうとする機能が
働く。

そのため向精神薬の投与を
やめたとたん、症状が一気に
悪化する。

私はそういう事例を、子どもの
世界で、何十例も、見てきている。

で、あのリタリン。

AD・HD児にリタリンが投与され
ているという話は、今では、どこの
学校でも、半ば、常識化している。

しかし同時に、アメリカでは、
リタリンの副作用も問題になっていた。

私はその資料を、すでに5年前から
手に入れ、マガジンなどで報告
してきた。

が、今になって、つまり(常識化した
今)になって、「危険である」と。

こんなバカげた話があるだろうか。
こんなバカげたことが、子どもの世界で
許されてよいものだろうか。

その前に、向精神薬の投与には慎重で
あるべきという、あの常識は、今、
どこへ消えてしまったのか?

おとなとちがい、子どもには、その
成長過程において、自立的に脳を
正常化するという機能が働く。

AD・HDにしても、その時期が
くれば、見た目の症状は、そのまま
消失していく。

幼児期や小学校の低学年児のときに
そうであるからといって、無理を
することはない。無理をしても
いけない。はげしい指導で、
症状をこじらせてもいけない。

リタリンを教訓に、私たち、親や
教育者は、もっと賢くなったらよい。

+++++++++++++++

(リタリンについては、

http://hiroshihayashid.ninja-web.net/

に収録しておきました。参考にしてください。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●60歳+3日

60歳になった。
60歳になっても、
私は生きている。
バンザーイ!

体も動く。
目も見える。
耳も聞こえる。
話もできる。
考えることもできる。
バンザーイ!

仕事もある。
やるべきこともある。
したいこともある。
したいことができる。
私には、夢がある。
バンザーイ!

妻がいる。
家族がいる。
家庭がある。
みな、健康だ。
私も健康だ。
バンザーイ!

体が動く喜び。
仕事ができる喜び。
書きたいことが書ける喜び。
新しい発見ができる喜び。
感謝、感謝、また感謝。
バンザーイ!

満60歳になった。
満60歳になっても、
私は、今、こうして、
今までどおり、生きている。
ものを書いている。
バンザーイ!

+++++++++++++

●生きる

 今日も、自転車に乗って仕事場に向かうとき、1人の男を見た。70歳くらいの男だっ
た。自転車を苦しそうに、押して歩いていた。歩き方が小刻みで、おぼつかなかった。脳
梗塞を起こした人らしかった。

 「大丈夫ですか?」と声をかけたが、返事はなかった。私のほうを見ることもなかった。

 私もやがてすぐ、ああなる。可能性の問題ではない。確実性の問題である。そうでなけ
れば、別の病気で、同じように、そうなる。運がよければ、20年後かもしれない。しか
し運が悪ければ、明日かもしれない。

 が、ともかくも、今は、健康だ。これといった病気もない。大切なことは、今日一日を、
思う存分、生きること。生きて生きて、生きまくること。明日は、今日の結果として、や
ってくる。来年は、今年の結果として、やってくる。

 私の未来がどうであれ、私はその日まで生きる。生きて、生きて、生き抜いてやる。

●運命論

 脳梗塞といっても、今は、処置さえ早ければ、そのあとの症状も軽くすむそうだ。画期
的な新薬も開発された。脳梗塞を起こしてから3時間以内に、その薬を投与すれば、脳の
血管に詰まった血栓を溶かすことができる。

 が、すべての医療機関で、その処置ができるわけではない。副作用も強いことから、処
置の前には、慎重な検査が求められる。が、ある男性(60歳くらい)は、運が悪く、そ
の処置が受けられなかった。そのためその処置を受けたのは、ギリギリの3時間後。遅か
った。そのため脳梗塞の症状が、残ってしまった。左半身が、不随になってしまった。

 レポーターのインタビューに答えてあれこれ話していたが、最後のところで、こう言っ
た。「こんな思いは、私だけで、たくさんです」と。ハラハラと涙をこぼした(NHK・0
7年10月)。

 「こんな思い」というのは、処置を早く受けられなかったことへの無念さを表現したも
のだった。

 こういう報道番組を見ると、胸が詰まる。が、その一方で、その男性の話を聞きながら、
こうも思った。(運命)というものが、避けられないものであるとするなら、そのつど、運
命を受け入れて生きていくことも大切なことではないか、と。

 何度も繰りかえすが、私たちには無数の(糸)がからんでいる。社会の糸、家族の糸、
健康の糸などなど。その(糸)の中で、私たちの運命は決まっていく。つまりその男性が、
半身不随になったのは、適切な処置を、早く受けられなかったことではなく、それ以前か
ら、そうなる(糸)が無数にからんでいたためではなかったからではないか、と。

 たいへん辛辣(しんらつ)な言い方であることは、自分でもよくわかっている。あるい
は脳梗塞という病気は、それほどまでに重いのかもしれない。その男性は、タクシーの運
転手をしていたという。その病気で職も、失った。

 しかし見方を変えれば、現に今、その男性は生きている。完ぺきな処置ではなかったか
もしれないが、20年、30年前なら、命まで落としていたかもしれない。「生きている」
という原点に身を置けば、ハラハラと涙をこぼすことはなかった?

 運命というのは不思議なもので、それに逆らえば、キバを向いて、私たちに襲いかかっ
てくる。しかしそれを受け入れてしまえば、何でもない。運命のほうから、シッポを巻い
て、逃げていく。「これはいやだ」「あれはいやだ」ともがいているときというのは、一日
とて、心の安まる日はない。

 しかし受け入れてしまえば、その日から、その人は前向きに生きていくことができる。
……と書いても、その男性もそうであるべきなどという、失礼なことを言っているのでは
ない。先にも書いたように、脳梗塞というのは、それ以上に重篤(じゅうとく)な病気で
ある。運命として受け入れるのは、あまりにも過酷すぎる。

 それに私とて、今は健康だから、こうして偉そうなことを書ける。しかし私もそうなっ
たら……。本当のところ、自信はない。その男性以上に、無念の涙をハラハラとこぼすか
もしれない。しかし、これだけは言える。

 たとえば私のワイフが、脳梗塞になっても、私は最後の最後まで、ワイフの世話をする。
便の始末だって、する。私はけっして、ワイフをひとりぼっちにはしない。その自信はあ
る。覚悟もできている。私はそのときはそのときで、運命を前向きに受け入れていく。そ
の自信は、ある。

 まあ、ここはあまり深刻に考えないで、今日もがんばって生きていこう!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(11月1日)

++++++++++++++

無事、10月が終わった。
ほっとした。

満60歳が近づくにつれて、
ぐいぐいと、自分が、瓶(びん)
の中にでも、押し込められていく
かのような圧迫感を覚えた。

不快な重圧感だった。

が、それを通り抜けたとたん、
気が晴れた。気が楽になった。

何も変わらなかった。私は私。
いつもの私だった。

だれだ、「還暦」などという、
バカげた言葉を考えたヤツは!

還暦というのは、数え年で、
61歳のことをいう。

十干と十二支の組み合わせで、
数え年で、61歳のときに、
それを祝うことをいう。

12x5=60、となる。

いや、「還暦」というよりも、
還暦に、定年退職という言葉を
結びつけたヤツが悪い。

定年退職というと、「用なし」
「お払い箱」というニュアンスが
ともなう。

それが悪い。

しかしその重圧感というのは、
悪いばかりではない。

それは収縮と爆発を繰りかえす、
宇宙論と似ている?

60歳を過ぎたとたん、私は
爆発した。中身まで、変わった。

私は私の中で、巣くっていた
邪悪な自分と、決別することが
できた。

ワイフに、「ぼくは生まれ変わった
みたい」と話したが、それを今、
たしかなものとして、実感できる。

ともかくも、年齢という(数字)に、
自分をあてはめて考えること自体、
バカげている。

……とはいっても、世間的な常識と
戦うのは、容易なことではない。

いくら「自分は、そうは考えない」と
思っても、周囲の者たちが、それを
許さない。

ジワジワと、私に迫ってくる。
小学生の子どもですら、「先生、
定年で退職するの?」と聞いてくる。

そこでどうだろう。もう定年退職など
という言葉は、廃語にしたら?

働けるかどうかは、その人自身が
決める。その周囲の人たちが決める。

年齢という数字ではない。あくまでも
本人しだい。本人を見て、決める。

「60歳だから……」という「ダカラ論」
だけで、その人を区別するのは、立派な
差別である。

さらに、多くの人は誤解しているかも
しれないが、仕事ができるというのは、
その人の特権である。権利である。

「年金で、悠々自適の老後生活」などと
言っている人は、自らその権利を放棄
していることになる。そんな老後生活に、
どれほどの意味があるというのか?

ともかくも、満60歳を無事、通過!

この先、もう気になる年齢は、ない。
あとは、その日が来るまで、生きる。
ハハハ。このすがすがしさ。それを、
あなたにわかってもらえるだろうか。

ハハハ!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●平凡という罪悪(60歳+4日)

++++++++++++++++

平凡は、それ自体、美徳だが、
その平凡からは、何も生まれない。

あのW・サマーセット・モームも、
『人間の絆』の中で、「幸福に
身を委ねることは、敗北の承認
である」というようなことを
書いている。

その渦中にいる人には、つらい
ことかもしれない。実際、モームは、
若いころ、波瀾万丈の人生の中で、
もがき、苦しむ。が、結局、彼が
得た結論は、こうだ。

「結婚し、子どもをもうけ、
死んでいく」というような、つまり
平凡な人生は、「立派な敗北」である
と。

わかりやすく言えば、人がなぜ
生きるかといえば、そのドラマに
こそ、価値があるということ。

子育ても、またしかり。

何も問題のない子どもをもち、
何ごともなく過ぎていくのも、
ひとつの人生かもしれない。が、
そういった子育てからは、何も
生まれない。何も学ばない。
つまり親自身も、成長しない。

だからといって、苦労するのが
よいというわけではない。だれだって
苦労は避けたい。その一方で、楽を
したい。

それはわかるが、大切なのは、「懸命さ」。
ひたむきな懸命さである。

その懸命さこそが、無数のドラマを産み、
そのドラマが、人生を、心豊かな、
潤いのあるものにする。

++++++++++++++++

 『人間の絆』は、W・サマーセット・モーム(1874〜1965)自身の自叙伝とも
言われている。正直な作家で、ある本(『彩られたベール』)では、実名で書いたため、名
誉毀損で訴えられたりしている。

 もちろん小説だから、細部については、それなりに改変してある。しかし『人間の絆』
の中の主人公、フィリップ・ケアリは、彼自身のことである。

 そのフィリップ・ケアリは、子どものころから、そして最終的にサリという女性に出会
うまで、ふつうでない苦労に苦労を重ねる。とくにフィリップを悩ましつづけるのが、ミ
ルドレッドという女性である。もともとはレストランのウェートレスをしていた女性であ
る。日本的に言えば、そのミルドレッドとの腐れ縁で、フィリップの生活はメチャメチャ
に破壊される。『人間の絆』は、フィリップとミルドレッドの物語と言っても過言ではない。
が、やがてその生活もミルドレッドの悲劇的な終末で、終止符が打たれる。

サリと知り合ったのは、そのあとのことである。が、モームは、冒頭に書いたような結
論に達する。「幸福に身を委ねるということは、それ自体が、立派な敗北である」と。

 それはその通りで、平凡な人の平凡な生活からは、小説になるようなおもしろいネタは
生まれない。その人自身は「私は幸福だ」と思うかもしれないが、その幸福感は、薄っぺ
らく、中身のないものである。それがわからなければ、時には新聞に載る投稿記事を読ん
でみたらよい。

 「庭に、秋の訪れを感ずるススキの穂が咲きました。風に揺れるススキの穂を見ている
と、今は亡き父といっしょに過ごした、楽しかった子どものころを思いだします」と。

 私自身は、ああした歯が浮いたような投稿記事を読むと、時にぞっとすることがある。
それはたとえて言うなら、どこかの役所で、仕事らしい仕事もしないで、のんべんだらり
と時間をつぶしている、公務員を見たときに感ずるような怒りに似ている。「お前ら、それ
でも生きていると言えるのか!」と。

 私は若いころ、モームの書いた『東洋航路』が好きだった。あの本を読んで、……とい
うより同時進行の形で、私は外国へ飛び出した。またそれがきっかけで、モームの本を、
何冊か読んだ。ほかに『月と六ペンス』がある。英文のほうは、大学でも読んだが、やた
らと難解で、翻訳本を横に置きながら講義を受けたのを覚えている。

 が、やはり何と言っても、W・サマーセット・モームと言えば、この『人間の絆』に行
き着く。

 今調べてみたら、1915年発表とあるから、モームが40歳前後の作品ということに
なる。モームは、この本の中に、それまでの自分をすべてぶつけた。

 もっともその後のモームは、超有名作家として、イギリスで富と名声を自分のものにし、
優雅な(たぶん?)、生活を送っている。皮肉なことに、『人間の絆』の中では、上流階級
の夫人たちを随所で嫌っているが、モーム自身は、やがてその上流階級の世界に埋没して
いく。『東洋航路』にしても、当時としては、特別な階級の人のみに許された旅行記であっ
た。

 ……とここまで書いて、さて、私の番。

 これからの10年。私は、どう生きるべきか……? たとえば今まで私は、「はやし浩司」
として生きてきたが、実は、「はやし浩司」だけではない。ペンネームでいろいろな世界で、
いろいろな本を書いてきた。「はやし浩司」に影響があるといけないからという理由で、そ
うしてきた。

 しかしそろそろそうした遠慮とも、おさらばしたい。敵もできるだろう。不愉快に思う
人もいるだろう。しかしこれからは、私は私で生きたい。平凡なんて、クソ食らえ!

 久しぶりにW・サマーセット・モームの『人間の絆』を紐(ひも)解いてみて、今朝は、
そんなことを強く感じた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ヘミングウェイ

+++++++++++++++++

W・サマーセット・モームについて書いたら、
もう1人、どうしても書かねばならない作家
がいる。

E・ヘミングウェイである。
映画を見たこともある。それで私は、
『誰(た)がために、鐘は鳴る』を、英文で
読破した。(英文で、だぞ!)

冒頭の詩は、何度も読んで、暗記
した。

「Anymen's death
deminishes me...
(誰の死なれど……)」という、あの詩である。

幸いなことに(?)、ヘミングウェイ
の書いた英語は、平易で、学生の私にも
ほとんど辞書なしで読めた。

(最初に自信をつけてくれたのが、
『老人と海』だった。それまでは、
英語の本を手にしただけで、おじけついて
しまって、読めなかったのを覚えている。
が、ヘミングウェイに出会ってからは、
一変した。それ以後は、英文の本を、
つぎつぎと読破できるようになった。

ほかに好きだったのは、バートランド・
ラッセルや、オー・ヘンリーの短編小説など。)

このヘミングウェイで特筆すべき点は、
61、2歳の若さで、猟銃自殺を図った
ということ。

記録を見ると、1899年7月21日
生まれ、1961年7月2日、アイダホ
州ケチャムの山荘で猟銃自殺とある。

正確に年齢を計算すると、満61歳で
この世を去ったことになる。今の私と
ほぼ同年齢である。

+++++++++++++++++

 ヘミングウェイに最初に出会ったのは、高校時代だったが、『誰がために鐘は鳴る』に出
会ったのは、映画のほうが先だったと思う。そのあと英語の原書を買ってきて、自分で読
んだ。

 で、当時の自分を振り返ってみて、こう思ったのを覚えている。「どうして鐘が鳴るの
か?」と。

 その答は、原書のほうにあった。「toll(=鐘がなる)」という単語は、「弔いの鐘が鳴
る」という意味である。「ring(=鐘が鳴る)」というときの「鳴る」とは、意味がち
がう。

 この詩を引用して書いたエッセーが、つぎのものである(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++

●脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘
病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使
えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここ
から出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々
に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持
ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病
気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何に
なりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカ
ーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができな
くなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」
と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、
人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は
一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じ
た。

この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが
多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっ
と言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がため
に(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、
一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。

しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれ
ない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨
君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そ
して仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言い
ながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここ
で、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。

++++++++++++++++++

 その一磨君が、私に1枚の絵を描いて残してくれた。その絵は、BW教室に、今の今も
飾ってある。一風変わった線画である。それに何日もかけて、色を塗ってくれた。一磨君
が亡くなる半年くらい前のことだった。その絵は、私の宝であり、同時に私自身の命でも
ある。

 で、当時暗記した英文を、そのままここに書く。(ひょっとしたら、部分的にまちがって
いるかもしれない……。)

 Anymen's death diminishes me,
 Because I'm involved in human−beings.
 Therefore never send to know
 For whom the bell tolls.
 It tolls for thee.

誰の死なれど、我が胸痛む。
我も人の子にありせば、それ故に
問うことなかれ。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや」と。
汝がために鳴るなり。

 この詩はヘミングウェイの書いたものではない。小説『誰がために鐘は鳴る』の冒頭を
飾っている詩である。つまりこの詩を書いた人は、どこかで弔いの鐘が鳴るのを聞いた。
それを聞いて、「あの鐘が鳴るのは、だれのためでもない。自分のためだ」と感じた。「な
ぜなら、いつか、自分も死ぬのだから……」と。

 ヘミングウェイは、この詩に感動した。だから自分の小説の冒頭を、この詩で飾った。
同時に、その詩は、ヘミングウェイ自身、さらにはその小説を読んだすべての人に、こう
伝えた。

 「生きることを大切にしろよ」と。

 しかし……。ヘミングウェイ自身は、猟銃自殺を図っている。すべての富と名声を手に
入れながらも、彼の心は満たされることはなかった? 私にはよくわからないが……、と
いうより、私のような者が自殺するというのであれば、まだ話もわかる。「はやし浩司が、
失意と失望、孤独の中で自殺した」と。

 若いころ、ヘミングウェイが自殺していたと聞いたとき、そして彼が61歳だったと聞
いたとき、「あのおじいさんが……」と思ったのをよく覚えている。ヘミングウェイは、風
貌からしてジジ臭かった。

 しかし今、自分がその年齢になってみて、その考え方は、大きく変わった。「ヘミングウ
ェイも若くして死んだのだなあ」と。

 ところで、私は自殺なんか、しないぞ。富も名声もない。だったら命くらいは大切にし
なくちゃあ。ハハハ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ヘミングウェイ サマーセット・モーム)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●60歳+5日

+++++++++++++++

昨夜は、雨だった。自転車に
乗れなかったので、速歩で、
歩いて家に帰った。

歩いているときから、足がつる
感じがした。おかげで夜中に
脚痛!

無理をしてはいけない。しかし
私は楽しかった。うれしかった。

「私は歩けるんだ」という喜びが、
足の痛さを忘れさせた。

そう、思わず、トトロの歌を
歌いながら、歩いた。

「♪歩こ、歩こ、私は元気……」と。

みなさん、おはようございます。

+++++++++++++++

 満60歳のその日が近づくにつれて、あたかも万力機で体を押しつぶされていくような、
圧迫感を覚えた。

 万力機……ものをはさんで、レバーをクルクル回すと、そのものに、ものすごい力が働
く機械をいう。「まんりきき」という。昔は、どこの自転車屋にも、それが置いてあった。

 いくら「私は私」と叫んでも、意識というのは、そういうもの。昔からの意識が残って
いる。周囲の人たちの意識もある。そうした諸々の意識が、私の意識に作用して、私の意
識を形づくる。

 が、満60歳になったとたん、その圧迫感から解放された! あたかもカゴの中から、
外に放たれた鳥になったような気分だった。スーッと、軽い風が、心の中をかけぬけた。

 60歳+1日目。私は、私が何も変わっていないことを知った。
 60歳+2日目。私を取り巻く環境が、何も変わっていないことを知った。
 60歳+3日目。私は生きている歓びを感じた。
 60歳+4日目。私は、前向きに生き始めた。年齢なんて、クソ食らえ!

 そして今日。私の前に、「年齢」がないことを知った。「年齢」という壁が消えたのを知
った。70歳になろうが、80歳になろうが、生きられるところまで生きる。それが自信
となって、私の心の中に充満し始めた。


●愚かな人を憐れむ

 私の家の隣は、空き地になっている。竹ヤブの雑木林になっている。そこはかっこうの、
ごみ捨て場。それはわかる。

 しかし近所の人の中には、その竹ヤブが、私の私有地と思っている人がいるらしい。私
がいつもゴミ拾いをしているからかもしれない。それはそれで構わない。

 ところが、である。その竹ヤブの中のゴミを、わざわざ私の家の庭先に、放り投げてい
く人がいる。少し前には、古い家具を、私の家の駐車場に投げ込んでいった人がいた。そ
れまでは、竹やぶに捨ててあった家具である。たぶん、「お前の空き地だから、清掃くらい
しろ」という意味で、そうしているのだろう。

 愚かな人だ。そういう行為すること自体、バカげている。それに気づいていない。が、
このタイプの愚かな人は、いくらでもいる。ここにも、そこにも、あそこにもいる。

 しかし自分が一歩、「上」に出てみると、そういう人たちが、哀れで、かわいそうな人に
見えてくるから不思議である。心の病が原因で、そうしている人もいる。私の知人の隣に
は、ことあるごとにパトカーを呼びつけている人がいる。工事の車が止まっても、「駐車違
反(?)」で、パトカーを呼びつけている。

 退職前は、そういう関係の職場で、「長」をしていた人だという。年齢も80歳を超えて
いる。

 この世界、……というより、人間の世界は、動物の世界と同じ。もっと言えば、人間も
動物と同じ。大きくちがうようで、どこもちがわない。むしろ人間のほうが、へたに知恵
がある分だけ、扱いにくい。やっかい。

 では、その(差)はどこにあるかというと、言うまでもなく、(思考力)ということにな
る。思考力があるから、人間は人間。思考力がなくなれば、人間は、動物の世界へと、逆
戻りする。動物そのものに、なる。

 要するに、こうした愚かな行為が平気でできる人というのは、(自分ではそうは思ってい
ないだろうが)、思考力のない人イコール、動物と同じということ。

 とたん、つまりそれがわかったとたん、不思議なことに、そういう人たちに対して、同
情心が生まれる。「憐れみ」とも言う。もちろん私自身が、不愉快に思うことはない。怒り
の気持ちは、さらにない。

 だまって放り投げられたゴミを片づける。犬のハナの糞と同じ。心の糞だ。そんなもの
に、腹をたててもしかたない。

(補記)

 こういう愚かな行為を平気でできる人というのは、たいてい、何かの心の病をかかえて
いると思ってよい。今、その心の病をかかえている人は、多い。また人も、高齢になれば
なるほど、心そのものが変調してくる。おかしな行動を繰りかえすようになる。

 肉体の健康は、外からでもよくわかるが、精神の健康は、外からではわかりにくい。そ
のためなおざりになりがちだが、肉体の健康を考えたら、精神の健康も考える。これは老
後を心豊かに生きるためのコツではないだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●ジョディ・フォスター主演の「ブレイブ・ワン」

++++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わってから、ワイフと、
ジョディ・フォスター主演の「ブレイブ・ワン」
を見た。

簡単に言えば、「復讐映画」だが、ジョディ・
フォスター演ずる、エリカの心の葛藤が
見物。それを演ずるジョディ・フォスター
の名演技が見物。

「許せますか、彼女の"選択"」と、副題に
あるが、選択できないまま、復讐の世界へ
と入っていくエリカ。その(心の葛藤描写)が、
すばらしい。

++++++++++++++++++

 映画『ブレイブ・ワン』については、いろいろ論じられている。ヤフーの検索エンジン
を使って、『ブレイブ・ワン』を検索してみたら、17万件あまりもヒットした。

 そこで私は、少しちがった角度から、この映画を考えてみたい。

 ジョディ・フォスターは、白人である。婚約者とデートしているところを、ギャング(=
暴徒)に襲われる。ジョディ・フォスターは瀕死の重傷。婚約者は、殺害される。3週間
目にジョディ・フォスターが昏睡状態から覚めると、婚約者はすでに埋葬されたあと。映
画は、ここから始まる。

 が、ここからが問題。ジョディ・フォスターと婚約者を襲ったギャングは、有色系。プ
エルトリコ系アメリカ人? もしここで婚約者が白人だったとしたら、この映画は、白人
対有色系の対立映画となってしまう。

 そこで脚本家は、婚約者を、有色系にした。インド系?……配慮(1)

 つぎに刑事。マーサー刑事を演ずるテレンス・ハワードは、有色系。アフリカ系アメリ
カ人。もしこの刑事を白人にしたら、同じくこの映画は、白人対有色系の対立映画となっ
てしまう。

 そこで脚本家は、刑事を、有色系にした。……配慮(2)

 ジョディ・フォスターは、銃砲店へ銃を買いに行く。そこで1人の男から銃を買う。こ
の男は、アジア系アメリカ人。白人でもアフリカ系アメリカ人でもないところが、ニクイ。

 ともかくも銃をジョディ・フォスターに売ったのは、やはり有色系。……配慮(3)

 ドラマは、ここから展開していく。ジョディ・フォスターは、いくつかの(やむをえな
い場面?)を経て、つぎつぎとギャングを殺していく。相手は、すべて有色系。しかしこ
れでは、やはり白人対有色系の対立映画となってしまう。

 そこで伏線として、白人の悪党を登場させる。この男はギャングとちがって、本物の悪
党。ジョディ・フォスターは、この悪党を殺害する。……配慮(4)

 つまりこの映画は、(人種)のバランスをみごとにクリアしながら制作された映画という
ことになる。白人が見ても、有色系の人が見ても、それなりに納得し、見られる映画とい
うことになる。映画のストーリーもさることながら、脚本家は、人種のバランスをどう取
るかで、腐心したにちがいない。その腐心のあとが、ありありとわかる(?)映画だった。

 映画の評価は、どうか? 金曜日の深夜劇場だったが、観客は、私たち夫婦を含めて、
6〜7人前後。ガラガラ以上のガラガラだった。見終わったとき、ワイフは、こう言った。
「(今度見る予定の)スターダストが、楽しみね」と。

 そんなわけで、星は3つの、★★★。ジョディ・フォスターという女優は、しかし、も
のすごい女優だね。すばらしい!

 町の中の劇場を出たあと、夜の町の写真を、何枚か撮った。今度のカメラ(パナソニッ
ク社製のFX33)は、超高感度設定にすると、深夜でも、昼間のように写真を撮ること
ができる。ISO・6400! このカメラは、ほんとうにすごい! これは余談!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

●T氏のこと

++++++++++++++

T氏とのつきあいは、今年で、
もう30年になる。

若いころは、よく行き来した。
市外で、医院を経営していて、
氏自身は、眼科医として、周辺の
人たちからも、尊敬の念を集めて
いた。

知りあったのは、ある小学校で講演を
させてもらったのが、きっかけだった。

T氏も、文を書くのが好きだった。

そのT氏も、今は、アルツハイマー
型の認知症になり、「手に負えない」
ということで、今度、ケア・センター
から老人病院の方へ転院した。

徘徊がひどく、ときに洗面台の上に
乗って、暴れることもあったそうだ。

あのT氏が……と思うと、「つぎは
我が身」と、強く、思う。

+++++++++++++++

 もう10年近く前になるが、T氏が、還暦を記念して、一冊の本を私にくれた。そのと
き書いたエッセーがつぎのものである。このエッセーを読むと、胸が痛い。

+++++++++

●T氏

 今度、T氏が、自費出版で、短歌集を出した。たまたま昨日、T氏の家に遊びにいった
ら、T氏が、うれしそうに、その中の一冊を私にくれた。私は、しばし、その短歌集に見
入った。

 そういうときのT氏の気持ちは、本を出したものでないと、わからない。自分の子ども
以上の子ども。本というのは、そういうもの。自分の命、そのものと言ってもよい。

 死んだあとも、何かしらの足跡を、この世に残したいという思いは、T氏も私も、同じ
ようにもっている。

 もちろん本にもいろいろある。

 一番、くだらないのが、代筆で書いた本。つぎに教材などの実用本、指導書など。こう
いった本は、本ではない。商品。ただの印刷物。

 つぎに評論や随筆など。これらには、ある程度、「私」が残る。しかしどこかで読者の目
を意識した本は、やはり私の本ではない。

 皮肉なことに、自費出版で出した本にこそ、その「私」が残る。自分のお金で出版する
わけだから、だれにも遠慮する必要がない。ありのままの自分を、そのまま書くことがで
きる。

 しかし大きな問題が、一つ、残る。

 読者あっての、本である。だれも読みたがらないような本を出しても、意味がない。た
だのひとり言になってしまう。だからどうしても、そこで読者とのかけ引きが始まる。

 「読んでください」と頭をさげつつ、その中に、自分の読んでもらいたいことを、織り
こむ。いつだったか、「M」という子育て雑誌の編集長をしていた知人が、私にこう話して
くれた。

 「林さん、まず読者を喜ばすことです。読者が喜びそうな記事を、90%、書きます。
残りの10%のうち、5%だけ、自分の意見を書きます。それでじゅうぶんです」と。

 具体的には、「あなたは、すばらしい。いい人だ」と、90%の部分を使って書き、5%
で、「でも、こうすればもっと、すばらしい人になりますよ」と書く。

 雑誌と本は、立場も目的もちがう。だからこの意見が、そのまま本にも当てはまるとは
思わないが、一理ある。

 私はそうして自費出版できるT氏を、うらやましいと思った。私などは、どうしてもど
こかで読者の目を意識してしまう。またそういう自分になってしまった。

 今夜は、少し時間があるので、そのT氏の短歌集を、じっくりと読むつもり。自費出版
にありがちな、独善的なところがない。すべてを、ありのままにさらけ出しているといっ
た感じ。読みごたえのある本である。

 Tさん、ありがとうございました。


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T氏の「還暦のうた」を読む

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 還暦(60歳)の記念出版ということもあって、T氏の新刊には、友や知人の死を悼む
短歌が多い。

 その短歌、それぞれに寄せられた注釈を見ると、改めてT氏の人脈の広さというか、太
さを、思い知らされる。人脈というか、心のパイプの太さといったほうがよいかもしれな
い。

 T氏の父母への思いをつづった短歌につづいて、小学3年生で、T氏と知り合った、鈴
木D君という子どもについて詠んだ短歌もあった。もちろん自分自身の闘病記についても
……。

 その中でも、つぎの短歌には、はっとさせられた。

 ●こと更に病気のことにふれぬげにわれをきづかふ妻はかなしも

 記述をみると、平成5年から7年にかけてと、ある。無頓着というか、鈍感というか、
そのころ、T氏が入院していたとは、知らなかった。何という不覚!

 T氏の短歌は、つづく。

 ●気がつけば我が病室に一輪の椿さしあり手術日の朝

 ●あなうれし芭蕉もきけり馬のしと音たてて出る我がいばりかな

 このあとの短歌には、「手術後尿の出て喜ぶ」と注が書き添えてある。

 ワイフは、さきほどから居間のソファに座って、T氏の短歌集を読んでいる。ワイフも、
一冊もらって、うれしそうだった。

++++++++++++++

 何度も見舞いに行きたかったが、T氏の妻が、「よしてほしい」と言う。見舞いに行くと、
そのあとT氏は興奮状態になってしまうという。「だから、そっとしておいてほしい」と。

 よく無神経な人は、そのほとんどは単なる好奇心から、こうした老人を見舞ったりする。
「好奇心から」だ。

 今回、私も母を介護するようになって、それがよくわかった。見舞いといっても、義理
で来る人もいる。何のために来るのか、それがわからない人もいる。

 家族の私としては、そっとしておいてほしい。そう願う。母にしても、ぶざまな姿など、
そう、人に見せたくもないだろう。

 反対に言うと、もしあなたの近くに、ケア・センターかどこかに入所した老人がいたと
しても、見舞いすべきかどうかについては、その家族の意向をよく聞いてから判断したら
よい。ふつうは、行かない方がよい。

 「見舞いに行けば、喜ぶだろう」と考えるのは、その人の勝手だが、T氏のように、そ
のあと興奮状態になってしまう老人も多い。困るのは施設の人であり、家族の人というこ
とになる。

 もし見舞うとしても、(老人の様態は千差万別で、老人にもよるが)、そっと静かに来て、
そっと静かに帰るのがよい。ワーワーと大げさに騒いだり、手を握って涙をこぼすなどと
いうようなことはしてはいけない。

 在宅介護を受けている老人であれば、なおさらである。私のばあいも、そうした見舞い
は、すべて断った。在宅で介護していると、家庭全体が、ある種の緊張感に包まれる。そ
ういうとき介護の苦労も知らない人がやってきて、もっともらしいことを言ったりすると、
かえって腹が立つ。

 さらには、「これでお母さんも、幸せですね。実の息子さんに世話をしてもらって」とか、
「あなたは親孝行の息子さんですね」などと言う人がいる。

 しかし本音の本音を言えば、こちらは何もしたくてしているわけではない。「親孝行」な
どという軽い言葉で、介護を茶化してほしくはない。それがわからなければ、小便を顔に
かけられながら、下痢で汚れた親の尻を拭くときの苦労を、少しでも頭の中で想像してみ
ることだ。それが毎日、つづく。

 介護は、きれいごとではできない! 現実だ。そこにある現実だ。それが介護だ!

 ……ということで、T氏の奥さんとは、毎週のように連絡を取りあっている。

私「うちの母は、徘徊ということがないだけ、助かります」
妻「へたに元気というのも、困りますね」
私「病院に任すところは任せて、忘れることがいちばんですね」
妻「私も、そう思います」と。

 ところで、先日、T氏の息子氏(45歳)と、通りで出会った。私が、「Tさんは元気で
すか?」と声をかけると、意外と明るい声で、こう言った。「1回しか、見舞いに行ってい
ませんから……」「だから、わかりません」と。

 この半年ほどで、1回? ……T氏の息子氏を責めているのではない。そういう息子氏
を、私は、内心ではうらやましく思った。

 正直に、スラスラとそういうことが口にできるということ。また「1回だけ」というこ
とで、自分を責めている様子でもないこと。そのあと、私なら、何と答えただろうかと考
えた。

 たぶん私なら、世間的な常識に毒されて、「元気ですよ。先日も見舞いに行ってきたばか
りですから」などと、ウソを言ったかもしれない。私は子どものころから、そういう家庭
環境に生まれ育った。一度体にしみこんだシミを、心から消すのは、容易なことではない。
いつもどこかで、世間的な評価を気にしている。体裁を構う。

 だから私は笑って、その息子氏と別れた。ハハハ、と。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   12月 10日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ハレンチ事件

++++++++++++++

たとえば若い男が、美しい
女性のヌードを見たとする。

そのとき、その男は、ムラムラと、
性欲が身体の中でわき起きてくる
のを知る。

一種の条件反射だが、そのとき
脳内では、ドーパミンが放出
されるという。

もう少し詳しくいうと、
脳の中でも、報酬と行動欲求に
関する部分と言われる(線条体)
で、ドーパミンが急増するという。

この変化は、(生存に関する)もの
だけに、「この刺激は強力で、
意志の力だけでこの衝動を克服
するのは、非常に難しい」(アメリカの
国立薬物乱用研究所、N・D・
ボルコフ)とのこと。

私はこの論文(日経・サイエンス、07
年12月号)を読んだとき、内心
ほっとした。「そうだったのか」と、
である。

+++++++++++++++

●ドーパミンという脳間伝達物質

 ほぼ毎日のように、教職者や教育関係者によるハレンチ事件が報道される。学校の校長
や教頭のみならず、大学の教授級の人までも、この種の事件を引き起こしている。教師の
セクハラ事件となると、今どき、珍しくも何ともない。

 なぜか?

 その謎を解くカギが、ドーパミンにあった。ドーパミンというのは、脳間伝達物質のひ
とつで、少なすぎても困る。しかし多すぎても困るという物質である。少なすぎると、た
とえば立ち上がろうとしても足がすくんでしまったり、どう行動したらよいかわからなく
なったりするという。パーキンソン病も、そのひとつ。

 反対に多すぎると、今度は、「幻覚やパラノイア(統合失調症の陽性症状)が起こったり、
発話や運動をコントロールできなくなって、変な恥ずかしいことを思わずやったり、口走
ったりし、不必要とわかっていながら同じ行動を反復する強迫神経症になったりする」(東
京都老人総合研究所・HPより)とのこと。

 このドーパミンが、脳の中でも、(人間の生存)に関する部分に深く関与しているという
ことがわかっている。実際には、そこにはたいへん複雑なメカニズムが働くわけだが、簡
単に言えば、そういうことになる。

 で、その作用は、麻薬によるものと、たいへんよく似ているという。東京都老人総合研
究所の青崎俊彦氏も、つぎのように書いている。

「麻薬そのものがドーパミンと深く関わっていると言いましたが、実際麻薬とドーパミ
ンは切っても切れない仲にあり、パーキンソン病研究を飛躍的に発展させたのも、ある
意味で麻薬中毒患者たちの功績と言ってもいいくらいです」(同HP)と。

 どこか回りくどい言い方になってしまったが、人間の脳みそが勝手に反応する部分だけ
に、「この刺激は強力で、意志の力だけでこの衝動を克服するのは、非常に難しい」(アメ
リカの国立薬物乱用研究所、N・D・ボルコフ)ということになる。

 が、だからといって、教職者や教育関係者によるハレンチ事件を擁護するつもりは、な
い。まったくない。「非常に難しい」が、「不可能」ということではない。ただ私に関して
言うなら、こういうことが言える。

 私にしても(ふつうの男)。だから、(ふつう程度の性欲)はある。しかしそういうもの
を(悪)と決めてかかってもらっては困る。(教育)に関係しているから、そういう(こと)
と無縁であるべきだとか、無縁だとか、そういうふうにも考えてほしくない。

 私がたまたま足を踏み外さないでいるのは、(たまたま)、そうであるからにほかならな
い。相手もいないし、チャンスもない。風貌にも、恵まれなかった。

 そこで重要なのは、教師や教育関係者によるハレンチ事件というのは、その人個人の問
題というよりは、(制度)の問題ということ。こうした事件が起きるたびに、文科省や教育
委員会あたりの人たちは、上意下達式に、綱紀粛正を伝達する。しかし文科省や教育委員
会の人たちがみな、いわゆる(聖人)かというと、そういうことは、ない。ぜったいに、
ありえない。

 男であれば、夜な夜なその種のビデオを見ながら、それをテイッシュ・ペーパーで包ん
で、自分をなぐさめている。当然、頭の中は、ヒワイなことでいっぱい。若い女性の裸体
を思い浮かべることもあるだろう。言い方をかえるなら、『誰が、石もて、打てる
か』ということになる。

 そこで(制度)ということになる。(法の整備)と考えてもよい。すでに欧米では、この
種のハレンチ事件に対しては、厳罰主義が常識化している。アメリカでは、理由や内容の
いかんを問わず、教師が生徒と性交渉をもったら、問答無用式に、即、懲役刑が科せられ
る。

 が、この日本では、信じられないくらい、甘い。ハレンチ事件はともかくも、軽いセク
ハラ事件ともなると、ほとんどの事件は、学校レベルでもみ消されてしまう。教育委員会
レベルでもみ消されてしまう。事件となって報道されるのは、氷山のほんの一角。仮に起
訴、有罪となっても、たいていは執行猶予がついて、そのまま無罪(?)放免。

 さらに(制度)についても、教師は、教室内での教育だけに専念し、またそれ以外の場
所での生徒との接触をいっさい、禁止する。あるいはそういう方向に、もっていく。現在
の日本のように、学校の教師が、生徒の教育はもちろん、生活指導、はては、しつけや家
庭問題にまで首をつっこむほうが、異常なのである。つまり、スキだらけ!

 こういうスキを一方で放置しておきながら、教育者や教育関係者だけを一方的に責めて
も、意味はない。しかたない。

 ……ということで、私はこの論文(日経・サイエンス、07年12月号)を読んだとき、
内心ほっとした。「そうだったのか」と。

 まあ、あえて言うなら、教育者も教育関係者も、自然体で生きればよい。居直ればよい。
「私も、男だ」「ふつうの男だ」と。無理に自分をねじまげるから、コソコソと隠れた場所
で、ハレンチ事件を繰りかえすことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育者のハレンチ事件)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バウチャー制度

+++++++++++++++++

まず6年前に書いた、新聞記事
をそのまま紹介する。

この中で、私はアメリカのバウチャー
制度について、少し触れた。

+++++++++++++++++

●教育の自由化

アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、そ
の「楽しさ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。

写真は、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイ
ザ・E・ペリット小学校。生徒数三百七十名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、
遊具があったりする。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政
府のガイダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長
に「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと「たいへんゆるやかなものです」と笑っ
た。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。

たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガ
ーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と
昼食代などで、週六十ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は
補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピューターの授業をしていること。また
欧米では、図書館での教育を重要視している。この学校でも、図書館には専門の司書を
置いて、子供の読書指導にあたっていた。

 授業は一クラス十六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学
から派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒
れた学校だけが日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよ
い。周辺の学校もいくつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねい
な指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科
書の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、
それは民間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴
史的事実については検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータース
クール、さらには学校券で運営するバウチャースクールなどがある。行き過ぎた自由化
が、問題になっている部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナ
ミックなものにしている。

+++++++++++++

バウチャー券というのは、学校
教育に対してだけしか利用できない、
クーポン券のことと思えばよい。
「商品券」でもよい。

たとえば年間、10万円のバウチャー
券を支給されれば、親は、それを
「学費」として使用することが
できる。

わかりやすく言えば、それにより、
親が国から直接、援助を受ける
ことになる。

「では現金でそれをすればよい」
というふうに考える人もいるかもしれ
ない。

しかし現金だと、それが何に使われるか
わからない。親によっては、遊興費に
流用してしまうかもしれない。

そこでバウチャー券ということに
なる。少し前までは、「クーポン券」
(東京都など)と呼ぶ政治家もいた。

(バウチャー=voucher……
証票、証明書、引換書、商品券のこと
(IMIDAS))

++++++++++++++

 日経ニュースサイトは、つぎのように伝える。

 『政府の教育再生会議(N座長)が検討している「教育バウチャー(利用券)」制度の素
案が、10月27日、明らかになった。保護者が利用券で子供の通う学校を選ぶ仕組みを
まず特区を使って地域限定で導入。小中学校だけでなく高校、幼稚園にも拡大する。公立、
私立から幅広く学校を選択したり、低所得者世帯の私学就学を援助したりする案も検討す
る。

 同会議は教育バウチャー制度について年末にまとめる第3次報告に盛り込む方針。政府
は早ければ来年度にも導入したい考えだが、詰めるべき点も多く想定通り実現するかどう
かは微妙だ』と。

 このバウチャー制度は、日本の教育にとって、画期的な制度となる。この制度により、
従来の国や自治体による補助金制度が、根本的な部分で、ひっくり返ることになる。

 従来の補助金制度では、(国や自治体)は、(学校や幼稚園などの学校法人)という(法
人組織)に、補助金を交付してきた。けっしてハンパな額ではない。だから学校や幼稚園
は、上から落ちてくる補助金だけを見ていればよかった。

 それがバウチャー制度により、国や自治体の補助金が、一度(子どもをもつ父母)を経
由することになる。そのバウチャー券を手にした父母は、学校や幼稚園に対して、バウチ
ャー券という商品券で、学費を支払うことになる。

 つまり親のほうが、学校法人を選択、管理するようになる。当然のことながら、今まで
は、(上)だけを見ていればよかった学校や幼稚園は、バウチャー制度によって、今度は(下)
も見なければならなくなる。それだけきびしい環境に置かれることになる。

 だいたいにおいて、今までの補助金制度そのものが、おかしい。国や自治体は、(法人)
は助けるが、(個人)は助けない。これは欧米の常識とは、逆。欧米では、(個人)は助け
るが、(法人)は助けない。

 バウチャー制度は、そうした日本的な常識を、打ち壊す威力をもっている。あるいはそ
の第一歩となるかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
バウチャー バウチャー券 boucher)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●小・中9年制

+++++++++++++++

欧米では、教育の自由化は、予想
以上に進んでいる。

学校で教えるカリキュラムすら、
それぞれの学校が独自で決めている。

アメリカでは、公立学校であっても、
入学年度を、自由に決めている。

PTAの権限も、日本のそれとは比較に
ならないほど強い。教師の任命権
すら、もっている。つまりPTAが、
「あの教師は不適格」と判断すれば、
その教師はクビになる。

大学教育にしても、単位の共通化は、
今では、常識。EU(ヨーロッパ)
では、完全に共通化されている。

つまりどこの大学で、どのように勉強
しようが、単位さえ集めれば、それで
大学の卒業資格が与えられる。

こうした流れをみると、日本の教育
改革は、50年は遅れた。

けっして大げさなことを言っている
のではない。

私が学生だった1970年のオーストラリア
においてですら、単位の共通化は、
常識だった。

たとえば、メルボルン大学で、1年、2年を
過ごし、そのあと北京大学で1年勉強すれば、
帰国後は、4年生になれた。

アメリカでは、公立、私立を問わず、
転籍、転学は自由。日本でたとえれば、
1年と2年は早稲田大学で過ごし、3年目
からは静岡大学へ転籍できる。そういうことが
平気でできる。

もちろん学部の変更も自由。法学部で入学
し、そのあと、工学部へ転学するというよう
なこともできる。

教育再生会議は、今度、「小・中9年制」
の検討を答申したが、「今ごろねえ……」という
のが、私の実感。

こうした諮問会議で注意しなければならないのは、
たいてい座長と呼ばれる人は、それなりの権威者。

つづくメンバーは、「どうしてそういう人が
選ばれたかもわからない」(T教授)という、
文科省寄りのYESマンばかり。

議案も進行も、すべて役人のお膳立てによって
進められる。

諮問機関そのものが、お役人の(お墨付き機関)
として機能することが多い。

お役人は諮問機関で出された答申をもとに、
あとは「控えおろう」「下に……!」と、
あとは自分たちのしたい放題。

教育再生会議がそうだとは思わないが、そういう
疑いの目は、じゅうぶんもって見たほうがよい。

そういう中で生まれた、「小・中9年制」である。

つまり「地域の実情に応じて、4・3・2などと、
学年のまとまりを設ける」(日経)と。

この「地域の実情」という部分が、クセモノ。
おかしい。何かヘン。何かを隠している?

それについてはまた別の機会に考えるとして、
数字的な制度だけをいじっても、意味はない。

ほんとうに日本の教育を再生させようとするなら、
たとえばPTAの権限を強化するとか、そういう
内部部分の改革を目指さなければならない。
教師の任命権、解雇権まで踏み込む。

それに日本のような(格差社会)で、いくら
教育改革を唱えても、無駄。親たちは日常的な
生活を通して、その(格差)をいやというほど、
思い知らされている。

この(格差)があるかぎり、たとえば進学競争
はなくならないだろう。つまり、教育改革を
いくら唱えても、親たちは、進学率だけを見て、
学校の優劣を決めてしまう。また進学率が
あがるような制度を求めてしまう。

現に今、中高一貫校は、そういう流れの中で
動いている。

福田首相は会議の冒頭、「注目を集める会議と認識している。
国民全員が関心を持っている話題であり、
建設的な議論をしていただきたい」と求めたという(同)。

ほんとうかな?

子どもをもつ親たちが注目しているのは、
どうすれば自分の子どもが、進学競争に
有利になるかということ。

ついでに、教育再生会議では、大学への
飛び級入学についても議論されているという。

これについても、一言。

たとえばアメリカでは、原則として、
小中学校でも、無学年制。どこの学校へ
行っても、学年という「数字」はない。

教室の前にあるのは、そのクラスの責任者
である、教師の名前だけ。

飛び級を自由化するためには、同時に、
「落第」に対する意識を変えなければならない。

アメリカでは、先生が、「お宅の子を、
もう一度、ヒロシ教室で教えます(=落第
させます)」と言うと、親たちは、喜んで
それに従う。

落第ということが、日常茶飯事になされている。
飛び級というのは、その反射的効果として
浮かび上がってくるもの。

「飛び級」という片輪だけを論じても意味は
ない。

+++++++++++++++

以前、書いた私の原稿(中日新聞
発表済み)を載せる。

+++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子ども
の学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多
い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそ
うはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
先日もある母親から電話でこんな相談があった。

何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているという
のだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリア
でもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が
担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%
(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域
参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的
家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない
人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないため
にも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、こ
の日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向
こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロ
シーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する
物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あ
の映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオッ
ト」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パト
リオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)「家族のため
なら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切に
するということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのい
う愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。

九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日
本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%
になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、
日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だ
という(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり
日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質な
ものであることに注意してほしい。


++++++++++++++++++++

(資料)(日経ニュースより)

●教育再生会議が福田政権で初会合、「小・中9年制」検討で一致

 教育再生会議(野依良治座長)は10月23日、首相官邸で福田政権発足後初めての総
会を開き、論議を再開した。柔軟な教育カリキュラムを編成できるようにするため、現行
の小中学校の「6・3」制を見直し、9年制の義務教育学校の創設などを検討することで
一致した。

 教育再生は安倍晋三前首相が憲法改正などと並んで掲げた重要政策の一つ。安倍氏の辞
任で論議が中断していたが、福田首相は冒頭「注目を集める会議と認識している。国民全
員が関心を持っている話題であり、建設的な議論をしていただきたい」と求めた。

 学校制度の見直しは小中一貫の9年制学校をつくり、地域の実情に応じて「4・3・2」
などの学年のまとまりを設ける案を軸に検討する方向。大学への飛び級入学を促進するた
め一段の要件緩和を進める必要があるとの意見も相次いだ。

一方、年末を予定していた三次報告のとりまとめ時期を巡っては「もっと時間をかける
べきだ」との異論も出た。

Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●ゆとり教育

+++++++++++++

ときとして外国から日本を
ながめたほうが、日本のことが
よくわかる。

日本の(ゆとり教育)が始まった
とき、それをまっさきに喜んだ
のが、隣の韓国。

そして今回、その(ゆとり教育)が
見直されることになった。

それにもっとも危機感を抱いて
いるのも、隣の韓国という
ことになる。

++++++++++++++

●東亜N報の記事より

 まず、韓国の東亜N報が、書いている記事をそのまま紹介する。日本の実情を、かなり
客観的にながめている。興味深い。参考になる。

+++++東亜N報(10・29日より)++++++++

日本の中央教育審議会(中教審)は、中間報告書で、ゆとり教育が難関にぶつかった原因を
分析
し、「授業時間を大幅に削減したため、基礎知識を十分に習得できなくなり、思考力と表現力も

てることができなかった」などの反省項目を列挙する予定だ。 

中教審は96年から、思考力や表現力、思いやりなど、「生きていく力」を育成することを公教
育の
目標として提唱してきた。 

02年から施行された現行の学習指導要領は、詰め込み主義教育を改善するという名分によ
って、
小中学校の学習内容を以前より約30%削減し、授業時間も約10%減らした。 

中間報告書の反省項目には、授業時間の削減のほかにも、△「生きていく力」の概念と必要
性を
教師と父兄に十分に説明できなかった、△子どもの自主性を尊重したことで、学生指導をため
らう
教師が増えた、△家庭と地域の教育能力が低下している事実を十分に把握できていなかった
とい
う内容などが含まれるもようだ。 

中教審は、ゆとり教育が難関にぶつかった原因の一つとして、「ゆとり」を強調しすぎたため、
教師
が、基礎知識を教えることまで詰め込み主義教育と誤って理解した点を挙げた。 

文科省が提出し、中教審が現在審議中の学習指導要領改正案は、英語、国語、数学などの
主要
科目の授業時間を10%増やし、選択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる。 

文科省は、このように事実上ゆとり教育を廃棄する方向に政策を旋回しながらも、公式的には
「ゆ
とり教育の理念は間違っておらず、運用上の問題にすぎない」と主張している。 

にもかかわらず、諮問機構である中教審が「反省文」を発表するのは、誤った点を具体的に説

しなければ、一線の学校が教育政策を転換する理由を十分に理解できないと判断したため
だ。

+++++++++以上、東亜N報記事より+++++++++++

 ゆとり教育が始まったとき、おおむね、教科内容は、1年レベルがさがった(小学校)。
楽といえば、楽。教えるのが、ほんとうに楽になった。

 しかしそれも、2年はつづかなかった。3年目に入ると、それが(当たり前)になり、
教える側からすると、その(楽)が消えた。

 が、私の教室では、今でも、ゆとり教育の始まる前のカリキュラムで教えている。たと
えばかけ算にしても、小2の夏休み前から、教えている。が、ゆとり教育では、10月か
ら教えることになっている。小2の算数だけを見ても、3〜4か月、後回しになったとい
うことになる。

 で、その(ゆとり教育)が見直されることになった。当然である。日本を包む国際環境
がきびしさをます中、それに逆行する形での(ゆとり教育)である。当時の韓国は、「これ
で日本を追い抜かせる」と喜んでいた。

 が、それでほんとうに子どもたちに(ゆとり)ができたかというと、それは疑わしい。
たとえば私立中・高学校では、文科省の示すカリキュラムを無視した授業が始まるように
なった。

 現にこのあたりの私立中学校では、英語にしても、公立中学校よりも、6か月から1年、
先取りの教育を展開している。数学にしても、そうだ。(中学1年生で、関係代名詞の勉強
をしているところもあるぞ!)

 それまではというと、私立中・高校は、公立中・高校の受け皿的な存在だった。が、今
は、完全に逆転している。公立中・高校が、私立中・高校の受け皿的な存在になってしま
った。つまりその分、受験競争がはげしくなった。子どもたちは、小学4、5年制から、
進学受験予備校に通うようになった。

 文科省のおかしな制度いじりが、(東京という中央では、それなりにうまく機能していた
のだろうが)、地方の教育を、今、こうして混乱させている。まずもって、文科省は、それ
に気づくべき。反省すべき。

 さらに学校の教師にしても、忙しさのあまり、悲鳴をあげている。それについて書いた
原稿が、つぎのもの。

++++++++++++++

●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たい
てい、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価した
り、教材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間にな
ってしまったという(某、小学校校長談)。

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見るこ
とは、めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、
習熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラス
を、2人の先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったた
めです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だ
けを追い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が
続出している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりま
え。さらにこのところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革な
どで、自宅へ帰るのは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここ
まで追いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たっ
た1〜2人の自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生
に押しつけて、「何とかしろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ
2000年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進
学競争が、激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。
さて、みなさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学
熱 進学指導 詰め込み教育)

++++++++++++++++

 バネというのは、ゆるめるのは簡単。しかし一度ゆるんだバネは、もとには戻らない。
あるいは戻すのに、何倍もの時間と努力が必要。「主要科目の授業時間を10%増やし、選
択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる」というが、そうは、うまくいくものか?

 教育というのは、20年先、30年先を見ながら組み立てる。今、改革しても、その効
果が現れるのは、20年後、30年後。

 文科省の改革(?)は、どれも後手後手という感じがしないでもないのだが、そう思う
のは、はたして私だけだろうか。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●手巻き式の懐中時計vsデジタルカメラ

++++++++++++++

懐中時計とデジタルカメラ。

まったく正反対のモノであるにも
かかわらず、この両者は、私の心を
とらえて放さない。

++++++++++++++

先週、手巻き式の懐中時計を買った。「手巻き式」。約30時間ごとにネジを巻く。巻かな
いと、そこで止まる。その上、ネジが上下に、よく動く。簡単に動く。懐中時計では、ネ
ジを上に引くと、時刻合わせモードになる。そのとき、時刻が狂う。

 時刻が狂う……。そのたびに時刻を合わせる。ほぼ、毎回、この繰り返し。ワイフは、「た
いへんね」と言うが、実は、それが楽しい。実にヒューマン温もりを覚える。

 一方、数日前、新しいデジタルカメラを買った。P社の、FX33。ここ数年、デジタル
カメラは、P社製と決めている。今まで使っていたのは、P社製の、TZ−1。そのカメラ
もよかったが、液晶画面に、ヒビが入ってしまった。修理に出そうと思ったが、修理費は、
最低でも1万5000円とか。(1万円は、店の手間賃。5000円は、メーカーの検査料
ということらしい。)部品を取り替えれば、その分が、さらに加算される。

 「直すより買ったほうが得です」と、店の男に言われた。それでそのカメラを買った。

 そのFX33は、P社のカタログの中でも先頭に紹介されているだけあって、たしかに、
すごい。「トリプル・ブレ防止」なるブレ防止はもちろん、逆光補正、露出補正などなど。
顔を選び出し、その顔にピントを合わせてくれる機能もついている。顔が動いても、追跡
してくれる。すべて自動でしてくれる。すごい! ほかにも新しい機能がある。

 感度は、ISO・6400。(6400だぞ!)かなり暗いところでも、写真が撮れる。
しばらくいじってみたが、そのたびに「すごい!」の連発。ここ1年で、デジタルカメラ
は、格段の進歩と遂げた。そこで私は、実感した。「これでフィルムカメラの時代は、終わ
った」と。

 「終わった」というより、決定的な差がついた。(逆に、フィルムカメラのほうが、デジ
タルカメラ化するということは、ありえるが・・・。)

 考えてみれば、今度買った懐中時計と、デジタルカメラは、正反対の位置にある。

 今どき手巻き式の懐中時計をもっている人は少ない。動力は、もちろん、ゼンマイ。旧
式といえば旧式。文字表示も、アナログ式。

一方、デジタルカメラのほうには、最先端の技術が濃縮されている。私は同時にその2つ
を手の中でいじりながら、どちらも同じ輝きをもって、私の心をとらえているのを知る。
優劣は、つけがたい。

 これはどうしたことか? 時代を超えて、人の心をとらえるものは、同じ、ということ
か? 懐中時計をいじっているのも、楽しい。デジタルカメラをいじっているのも、これ
また楽しい。私はこのところ毎日のように、交互をポケットから取り出して、遊んでいる。

 ……ということは、この先、たとえば100年後でも、200年後でもよいが、そのと
きどきにおいて、そのときの(モノ)が、そのときの人の心をとらえるということになる。
つまりモノの中身ではない。モノそのものが、人の心をとらえる。

 そこでさらに考える。「では、モノとは、いったい、何なのか?」と。

 私のばあい、視覚的な魅力というよりは、モノ自体がもつ機能というか、働きに興味が
ある。だから陶器とか絵画には、あまり興味がない。さらに言えば、手でもつ感触を楽し
む。パソコンにしても、キーボードの感触が大切。とくにノートパソコンは、その感触で
選ぶ。

 人によって、こまかい(ちがい)はあるだろうが、モノの魅力は、どうやら脳みそと直
結していると考えてよい。もっと言えば、脳みそ自体が、自己の欠陥を補うために、モノ
を求めている?

 そのことは、たとえばモノいじりを繰りかえす子どもを見ればよい。たとえば毛布の切
れ端を手放さない子どもがいる。その様子を観察してみると、子ども自身が、陶酔感を味
わっているのがわかる。反対に、取りあげると、とたんに子どもの情緒が不安定になる。

 ……しかしこの私の論理は、どこかおかしい? モノいじりをする子どもは、指先の刺
激を脳みそに伝えることによって、快感を覚える。モノをいしることで、脳内で、モルヒ
ネ様の物質が放出されることが知られている。エンケファリンやエンドロフィンなどであ
る。

 子どもがもつ毛布と、デジタルカメラや、懐中時計を、同じに考えることはできない。
……と思ったが、やはり関係があるのかもしれない。私のばあい、モノの感触を楽しんで
いる。指先でそれをいじっていると、たしかに気持ちがよい。

 ……いろいろ考えるが、どうも、考えがまとまらない。まとまらないから、この話は、
ここまで。つづきは、明日の朝、起きたら、また考えてみる。……ということで、今夜は、
ここまで。明日から11月。おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司

【ハード・クラッシュに備えよう!】

●絶壁に立った韓国経済

 とうとう1ドルが、900ウォンに近づいた。10月31日現在、1ドル=901ウォ
ン! 韓国の経常収支は、実質、赤字! (韓国は、外国からの借金まで、資本収支に、「黒
字」として計上している。)外資は、逃避、また逃避。にもかかわらず、ウォン高、株高、
個人負債は、90兆円(日本円で)!

 危機ラインを突破! 韓国のバブル経済崩壊は、目前。来月(11月)、起きても、おか
しくない。今週、起きても、おかしくない。韓国は2回目のデフォルト(債務不履行=国
家破綻)を迎える。

 日本よ、日本の製造業よ、心して韓国のデフォルトに備えよう!

 韓国がデフォルトに陥れば、韓国への輸出で潤っている日本の製造業は、大きな被害を
被(こうむ)る。その覚悟はできているか。この9月期、朝鮮N報によれば、設備投資は、
マイナスを記録した。

 いわく、「設備投資は今年上期には2けた台の伸びを見せたが、7〜8月に1%台へと落ち
込み、ついに9月期にマイナスに転落した」と。

 韓国がデフォルトに陥ったら、日本政府は、すぐさま日本の製造業、とくに工作機械メ
ーカーなどの救済をめざすべき。また今から、その準備をしておくべし。韓国の救済は、
つぎのつぎでよい。彼らが頭をさげて頼みに来るまで、ぜったいに、救済の手をさしのべ
てはいけない。

 97年のデフォルトのときは、日本政府は、頼まれもしないのに、500億ドルという
現金を用意して、韓国を救済した。今度は、そんな愚かなことをしてはいけない。

 1ドルが900ウォンを切った、その日があぶない!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●Yビヨンの核開発施設は、ガラクタの山!

++++++++++++++++

K国にあるYビヨンの核開発関連
施設は、やはりガラクタの山
だった!

ワシントン発、聯合ニュースは、
「『悪の帝国の核神経センター』という
よりは、1950年代で時間が止まった
ままのジャンクヤードに近い」と
報じている(10月30日)。

++++++++++++++++

 ワシントン発、聯合ニュースはつぎのように伝える(ヤフー・ニュースより転載。)この
ニュースの中で、とくに、末尾にあるつぎの文言に注意してほしい。いわく……。

「水と電気も数時間しか供給されず、光輝くレーザーや最新コンピュータ装備もなく、『悪
の帝国の核神経センター』というよりは、1950年代で時間が止まったままのジャンク・
ヤードに近い」と。

「Yビヨンの核施設はジェームズ・ボンドの映画に出てくる先端技術団地とは距離があり、
放射能に汚染され、崩れたセメント構造物の集合にすぎない」……。北朝鮮が来月1日か
ら核施設の無能力化措置を開始すると明らかにした中、米国の核専門家である戦略国際問
題研究所(CSIS)のジョン・ウォルフスタール国際安保担当専任研究員は、このほど
CSISのホームページに掲載した文章を通じ、Yビヨンの核施設の実態と水準について評価
した。

 ウォルフスタール研究員は米エネルギー省の出身で、1994年の米朝枠組み合意を受
け90年代末からYビヨン核施設の凍結監視団として現地に滞在し、Yビヨンの核施設を
見て回った数少ない専門家だ。

ウォルフスタール研究員は、「水と電気も数時間しか供給されず、光輝くレーザーや最新コ
ンピュータ装備もなく、『悪の帝国の核神経センター』というよりは、1950年代で時間
が止まったままのジャンクヤードに近い」と、Yビヨン核施設の実態を明らかにした」(聯
合・07年10月30日)と。

 「ジャンク・ヤード」というのは、「ガラクタ置き場」を意味する。「junk」……「廃
物、がらくた」とある(日本語大辞典)。

 わかるか?

 6か国協議では、他の5か国は、そんなガラクタと交換に、毎月5万トンもの原油を提
供した! 私は何度も、Yビヨンの核開発関連施設は、「老朽化して使い物のならない」と
書いてきた。K国から亡命してきた、F氏(K国元高官)も、繰り返し、そう言っている。

 毎月5万トンも提供するなら、現物を見てからにすればよかった。ものを買うとき、一
度品物を見定めてから買うのは、資本主義社会の常識でもある。はっきり言えば、アメリ
カのヒル氏は担(かつ)がれた!

 これについても、私は何度も書いてきた。あんな国をまともに信じて交渉する方が、お
かしい。まちがっている。ヒル氏のような、育ちのよい(=育ちがよすぎる)国務次官補
に、K国のもつ(したたかさ)など、理解できるわけがない。

 K国は、もっと別のところで、核兵器の開発を今の今も、つづけている。それを明るみ
にするための5万トンということなら、まだ話もわかる。(恐らくヒル氏は、そう言い訳を
するだろうが……。)

 しかしK国の金xxは、さらにその上をいく、「悪玉」である。そんなことは、今までの
流れを見ればわかるはず。甘いというか、愚かというか、はたまた、バカというか。私の
書いていることが過激だと思う人は、もう一度、先の報告書を読んでみたらよい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●砂糖は白い麻薬

++++++++++++

甘い食品になれた子どもから、
甘い食品を取りあげると、
禁断症状に似た症状が観察される。

私はこのことを、すでに30年前
に発見した。雑紙にも、そう書いた。

それが最近、科学的に、証明され
つつある。

++++++++++++

●禁断症状

 アメリカの国立薬物乱用研究所の、N・D・ボルコフ(女性研究者)は、つぎのような
論文を発表している。

 「……過食症ラットのばあい、砂糖を多く含むエサを与えたあとに、ナロキソンという
オピオイド拮抗剤(脳内快楽物質の働きを妨げる薬)を投与すると、禁断症状が起こる。

 モルヒネを注射したあとに、ナロキソンを投与したのと同じく、禁断症状が生ずるのだ。
この結果から、糖分の多いエサを食べつづけることによって、身体的な依存が生じていた
ことがわかる。人間でも同じ反応が起こるなら、禁断症状を緩和する処置が、ダイエット
に役立つかもしれない」(日経・サイエンス・07・12月号・P55)と。

 これはラットについての実験だから、そのまま人間に当てはまるとはかぎらない。しか
し一歩、近づいた! つまり白砂糖でも、麻薬に似た禁断症状が起こる!

 その30年前に書いた原稿をさがしてみたが、見あたらなかった。そのかわり、当時の
原稿をもとに、書き直した原稿が見つかった。中日新聞に、8年前に発表した原稿である。
この中に書いた、U君というのは、今でもよく覚えている。

++++++++++++++

●砂糖は白い麻薬

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、
突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考
えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)
だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大
量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、
それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったとき
のことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょ
う?」と。

U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみ
られた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう
言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残
したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計
算してみるとU君は1日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。
かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからが
たいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビ
スケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断った
ときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。

夜中に母親から電話があったので、「そのまま砂糖断ちをつづけるように」と私は指示し
た。が、その1週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボ
ーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。

何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見
つめるだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでし
ょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のな
いものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、
子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラ
ム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいは
キーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カ
ルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効
果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間
程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食
品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出
してしまう。

とは言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、
ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとし
た粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(や
わらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味を
つけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末
飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以
上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはでき
ない。

●こわいジャンクフード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食
物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどという
ことは、不必要なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食
品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジ
ャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコ
ール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように
愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多
く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂
糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫
をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しや
すく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、
機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。

+++++++++++++

 30年前の当時、『白砂糖は麻薬』と、私は書いた。U君の禁断症状(ほんとうは、麻薬
による禁断症状というのは、知らなかったが)、その禁断症状を目(ま)の当たりに見せつ
けられて、私は、そう書いた。

 U君は、幼稚園から帰るとすぐ、冷蔵庫を足で蹴りながら、「ビスケット!」「ビスケッ
ト!」と叫んだという。そのあまりの異常な様子に母親があわてて、私に相談してきた。

 が、当時、『白砂糖が麻薬』と考える人は、だれもいなかった。私の意見は無視された。
おかしなことに、当時は、「砂糖は、滋養要素」と考えられ、「甘いものを断つと、かえっ
て子どもの情緒は不安定になる」と主張する学者さえいた。

 私はN・D・ボルコフ(女性研究者)の論文を読んだとき、「やはりそうだった」と、確
信を得た。まだラットでの実験段階だから、先にも書いたように、人間にそのまま当ては
めて考えることはできない。先に、「あと、一歩!」と書いた私の気持ちを理解してもらえ
れば、うれしい。

●お母さんたちへ

 ショッピングセンターなどの飲食コーナーなどへ行くと、よく、子どもの頭よりも大き
なソフトクリームや、ジュースを、食べたり、飲んでいる子どもを見かけますね。

 それがいかに危険なものであるかを知るためには、あなた自身が、一度、自分の頭より
大きなソフトクリームや、ジュースを、食べたり、飲んでみることです。

 量は、体重で計算します。体重、15キロの子どもが、ソフトクリーム1個を食べると
いうことは、体重60キロのおとなが、4個食べる量に等しいということです。

 いくらおとなでも、4個は食べられませんね。食べたら、気分(=頭)がおかしくなり
ます。それだけではありません。一時的な血糖値の急上昇が、その直後に、低血糖を引き
起こすことも、よく知られています。「甘いものを食べて、どうして低血糖?」と思われる
人もいるかもしれません。理由は簡単です。血中に大量のインシュリンだけが残り、必要
以上に血糖値をさげてしまうからです。

 突発的に衝動的な行動に移る子どもは、この低血糖を疑ってみます。わかりやすく言え
ば、突発的に、キーッとか、キャッキャッと、甲高い声を張り上げて、(たいていは耳をつ
んざくような金きり声で)、騒ぐようでしたら、まずこの低血糖を疑ってみます。

 『砂糖は、白い麻薬』です。もしどうしても、甘い食品……ということでしたら、精製
していない、黒砂糖をお勧めします。黒砂糖には、CA、MG、Kなどの天然のミネラル
分がバランスよく含まれていますから、ここでいうような(突発的な行動)は起こりませ
ん。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ボルコフ 過食症ラット 禁断症状)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●科学の勉強

+++++++++++++

台風が近づいているという。
そのため、今日は、雨。

そこで昨日、科学雑誌を
買ってきた。

『日経・サイエンス』誌、
2007年12月号。

午前中は、この雑紙を、
じっくりと読んでみる。

+++++++++++++

 日経・サイエンス(12月号)は、「肥満と食糧危機」が、テーマ。

 が、最初に目についたのが、「宇宙論」(P16〜17)。

 従来のビッグバン説によると、「宇宙は無限のエネルギーと密度をもつ(点)から生まれ
た」(同誌)ということになっている。

 この(点)のことを「特異点」と呼ぶ。この特異点では、私たちがもっている物理学的
な常識は、すべて当てはまらないという。時間もなければ、もちろん空間もない。

 その特異点が、きわめて短時間に、光速をはるかに上回るスピードで急膨張して、今の、
この宇宙ができたという。その急膨張を、「インフレーション」と呼ぶ。

 「(宇宙は)インフレーションを引き起こし、ほぼ均一に平たく引き伸ばされた。そう考
えると、多くの謎が解ける。たとえば時空が平坦で、光がほぼ曲がらず直進するのは、イ
ンフレーションによって、初期宇宙の曲率が平らにならされたためだ」(同誌)と。

 現時点では、この「インフレーション説」が、学会でも有力説になっているが、これに
対して、宇宙の前には宇宙があったという説も、脚光を浴びるようになってきたらしい。

 「ビッグバン以前に、宇宙は収縮し、特異点を作った。その特異点から、再び、現在の
宇宙が生まれた」(要約)と。2001年に発表された、「エピキロティック説」が、その
ひとつ。

 これは宇宙を破滅、再生させるエピキローシスという、古代ギリシアのストア学派の概
念から生まれた言葉だという。

 理由はいろいろ書いてある。それなりに根拠があるからこそ、こうした説が生まれる。
が、それを読んで、いろいろ考える。

 この宇宙がかつて、「点」であったことについては、私も疑問を感じていた。点といって
も、想像を絶するほど固い点であったはず。その固い点が、ある日、突然、爆発した(?)。
ビッグ・バン(=巨大爆発)である。

 プリンストン大学の、P・スタインハート(研究者)も、「そんなことはありえない」と
述べているという(同誌)。そこでこの説を補正するかたで生まれたのが、「ひも理論」。「宇
宙は、かつて点ではなく、ひものようであった」と。つまり「(この宇宙は)、高温高密度
の(ひも)のガスから誕生した」(カナダ・マギル大学・ブランデンバーガー)と。

 しかしこの説については、「まともに相手にしている学者はいない」(同誌)とのこと。

 フ〜ンとうなってみたり、しばし、考え込んでしまったり。読みながら、将棋をさして
いるようなおもしろさを覚えた。

 私たちが現在住んでいるこの宇宙は、その前が何であったにせよ、ビッグバンという大
爆発によって生まれた。今の今も、その爆発はつづいていて、この宇宙は、膨張をつづけ
ている。太陽や地球どころの話ではない。

 この銀河系だけでも、砂丘の砂粒の数ほどの星があるという。(地球は、星ではない。太
陽は、その星の1つにすぎない。念のため。)そういう銀河系が、これまた、砂丘の砂粒の
数ほどもあるという。(望遠鏡などで観測される銀河系や星は、ほんの一部でしかない。こ
れも念のため。)

 こういう記事を読んでいると、気が遠くなる。しかも、だ。この(時間)にしても、(平
坦)なのは、「(宇宙が)ほぼ均一に平たく引き伸ばされた」ためだという(同誌)。

 では、均一に平たく引き伸ばされなかったとしたら、どうだったのか? 私の想像力を
かぎりなく刺激する。たしかに今、時間は、コチコチと、過去から現在、そして未来へと、
(平坦に)流れている。まるで平面を、波が伝わっていくように、だ。

 しかしもし、時間が流れる(平面)が、平面でないとするなら……? いったい、どう
いうことになるのだろう? たとえば時空のゆがみが、あちこちで生まれる。隣の家では、
未来から過去に向かって時間が流れ、その向こうの家では、時間が止まったままになると
いうことも考えられる。さらに、A国では、時間が、速く過ぎ、B国では、時間が、のん
びりと過ぎるということも考えられる。

 あるいはそれが、刻々と変化する……。想像するだけでも、おもしろい。楽しい。

 どうであれ、この銀河系にしても、当初は、小さな点(もしくはひも)であったという
のは、おもしろい。もっとも、「小さい」といっても、大小の概念すら当てはまらない世界
である。何をもって、「大きい」と言い、何をもって、「小さい」というのか。

 さらに、である。これはあのホーキング博士が言っていることだが、そうした宇宙が、
これまた無数にあるという。ここにも、そこにも、あそこにも! わかるか? この大宇
宙のような宇宙が、私たちの知らないところにも、無数にあるという。まるであわ(バブ
ル)のように!

 ……今も、曇天の空をながめてみた。「この空の向こうがねえ……」と。私たちはこの宇
宙の瞬間の、そのまた瞬間を、生きているに過ぎない。小さな、小さな、どこまでも小さ
な、宇宙から見れば、チリのような惑星の上で。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●液体ズームレンズ

 カメラには、レンズがある。(当然である。)そのレンズは、ふつう7〜10枚程度のレ
ンズが組み合わさって、できている。このレンズを、前後に動かすことによって、焦点を
合わせたり、望遠にしたりする。

 ところが、今度、レンズそのものを、人間の目のように、ふくらませたり、しぼませた
りする方法が、発明されたという(アメリカのベンチャー企業・ホロチップ社)。称して「適
応ズームレンズ」。この方法が実用化されれば、理論的には、レンズは、1枚ですむことに
なる。しかも、だ。「レンズの口径を1ミリ前後にできる」(同誌)という。

 日経・サイエンス誌によれば、「数年以内に商品化できる」ということらしい。楽しみだ。


●言葉の爆発(統語的ブートストラッピング)

 「幼児は1歳から2歳の間に、たどたどしい片言から、嵐のようにしゃべりまくるよう
に急変する」(同誌)とある。

 それはよく知られた事実だが、日経・サイエンス誌によれば、「幼児はこの時期に、統語
的ブートストラッピング(新しい言語の意味を、前後関係から決定する能力)など、言葉
の大爆発をもたらす特別な機能を獲得すると考えられている」とある。

 このことは、経験的にも、わかっている。たとえば子どもに、「うさぎさんは、ころんで
ヒロヒリと痛い思いをしました」という文を読んで聞かせたとしよう。

 このとき子どもは、(ころぶ)→(痛い)という言葉の間で、(ヒリヒリ)の意味を知る。
自分がころんで痛い思いをしたときの経験を、そこに重ね合わせる。

 ところが、である。今度は、こんな文を読んで聞かせたとしよう。

 「マグパイは、ガムツリーの上で、大胆な声で、泣きました」と。

 マグパイというのは、オーストラリアに住む鳥の名前。ガムツリーというのは、ユーカ
リの木の別名。子どもは、未知の言葉の間にはさまってしまい、(大胆)という言葉の意味
を知ることはできない。

 乳幼児であればあるほど、知っている言葉の数は少ない。そのため未知の言葉の間には
さまってしまうことが、しばしば起きると考えられる。そこで重要なことは、体験と言葉
を、状況に応じて一致させていくこと。

 たとえば子どもがころんで痛そうなとき、「ヒリヒリと痛い?」と聞くなど。そうするこ
とによって、(ころぶ)という行為と、(痛い)という現象の中で、子どもは、(ヒリヒリ)
の意味を知ることができる。つまり文章を読んできかせただけでは、子どもは、言葉の意
味を知ることはない。(記憶のどこかに、格納しておくという点では、無駄ではないが……。)

 ともかくも、こうした能力を、「統語的ブートストラッピング」という。(私は、知らな
かった!)

 「ブート」というのは、「救済」「援助」という意味。「ストラッピング」というのは、「(ひ
もで)結びつける」という意味。ナルホド! 前後の言葉の援助を受けて、ひもで結ぶよ
うにして、言葉を統合的に理解するから、「統語的ブートストラッピング」。「統語的ブート
ストラッピング」ねえ?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
統語的ブートストラッピング 統語的ブート・ストラッピング)


●肥満

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肥満は、つぎの式で求められる(BMI)。

BMI=(体重、Kg)/(身長、m)の二乗

私のばあいは、64キロ、1・66メートルだから、
BMI=64÷(1・66x1・66)=23・1
となる。

BMI値が、25以上を、肥満(WHO)もしくは、
肥満度1(日本)としている。

25を超えると、肥満関連疾患が、急激に増える
という(日経・サイエンス、07年12月号)。

++++++++++++++++++++++++
 
 約8億人の人が、飢餓で苦しんでいる一方、この地球では、肥満関連疾患に苦しんでい
る人も多い。最近の傾向としては、発展途上国でも肥満が増え、肥満への認識が甘いため、
かえって深刻な社会問題を引き起こしているという(同誌、要約)。

 いくつか気になる事実を拾ってみよう。

●350mlで、速歩で、25分、ジョギングで10分 

 何かの健康雑誌に、「おにぎり1個分のカロリーを消費するためには、1万歩、歩かねば
ならない」と書いてあったのを記憶している。

 つまり1万歩、歩かないと、おにぎり1個分のエネルギーを消費できないということ。
同じような内容だが、「サイエンス」誌によれば、

 「体重60キログラムの人が、100Kカロリー消費するためには、速歩で約25分、
ジョギングなら、10分走らなければならない。350ml入りの清涼飲料水のカロリー
を消費するためには、3キロメートル近く歩かねばならない」と。

 が、実際には、先進国では、1人あたりのカロリー摂取量が、どんどんとふえている。
アメリカでは、1日あたり、3200Kカロリー(1980年)だったものが、3900
Kカロリー(2000年)へとふえている。

 みなさんもご存知かと思うが、アメリカに行って、まず驚くのが、太った人。「多い」と
いうよりは、日本人の基準でみると、ほとんどがそうではないかと思えるほど、多い。太
っているといっても、ふつうの太り方ではない。ビア樽(だる)を、さらに一回り太くし
たような太り方をいう。そういう人が、やたらと目につく。

 3200Kカロリーから、3900Kカロリーへ、つまり700Kカロリー増えると、
どうなるか? その結果が、今のアメリカの現状ということになる。

 では、運動をしてやせればよいと、だれしも考える。が、一度摂取したカロリーを燃焼
させるのは、容易なことではない。1万歩、歩いて、やっとおにぎり1個分のカロリーを
燃焼させることができるという。が、実際に、毎日、1万歩、歩いている人は、いったい、
どれだけいるだろうか。

 サイエンス誌は、健康法として、結論として、つぎのように書いている。

(1)太らないこと。すでに太っているばあいは、体重を減らす。
(2)飽和脂肪(牛肉、豚肉類、乳製品)の摂取を減らす。
(3)固形脂より、植物脂を使用するようにする。
(4)主に野菜、果物、無脂乳製品を食べるようにする。
(5)塩と砂糖(精製糖)は、控えめにする。
(6)薬品や、凝った料理法によらない食事法が望ましい。
(7)たくさん運動し、野外のレクリエーションを楽しむ、と。

 1959年、キーズ夫妻という人が提唱した健康法だそうだ。この方法は「今でも生き
ている」(同誌)と。

●リバウンドを防ぐためには、運動しかない

 アメリカには、よく知られたダイエット法として、(1)アトキンズ・ダイエット法、(2)
ゾーン・ダイエット法、(3)低脂肪食ダイエット法、(4)オーニッシュ・ダイエット法
などがあるそうだ。

 いちばん効果的だったのが、(1)のアトキンズ・ダイエット法だったという。が、しか
し「この方法では、減らした体重を維持するのはむずかしい」(心理学者で、減量法の権威、
J・Hill)とのこと。つまりリバウンドが起こりやすい。

 せっかく減量に成功しても、それからは毎日、空腹感と闘わねばならないということに
なる。

 で、サイエンス誌の出した結論は、こうだ。

 「体重維持のカギは、運動」と。肥満の程度にもよるが、毎日1時間程度の運動が好ま
しい、と。しかし実際には、「毎日1時間以上の運動を生活に組み込むのは、難しい」。そ
こで重要なのが、予防ということになる。「予防こそ、大切」と。

 予防のためなら、1日、15分〜20分程度の運動で、だいじょうぶ、ということらし
い。つまり肥満になってから、運動するよりも、肥満になる前に運動するほうが、効果的
ということになる。それに楽。

 ……そのあたりのことは、私にも、よくわかっているのだが……。

 ほかにもいろいろ書いてある。私のように、(太る)→(減量する)→(また太る)とい
うように、「ヨーヨーのように、体重がふえたり、減ったりするダイエットは、不健康」と
いうことらしい。

 私のばあいは、体重が67キロを超えると、あわててダイエットを始め、64キロ前後
まで落ち着くと、また食べ始める。いつも、この繰りかえし。周期をみると、だいたい、
1〜2か月ごとに、それを繰りかえしている。

 運動はしているが、サイエンス誌を読んだところでは、私の運動量では、どうも不足と
いうことらしい。しかしこれ以上運動量ふやせといっても、どこでどうふやせばよいのか?
 それに体力がつづくかどうか?

 とりあえずできることは、食事の量を控えめにするということ。もうすぐ夕食だが、今
夜は、いつも3分の2程度ですませよう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●トイレ掃除

 私は、今日、トイレ掃除をした。昨日から用具を買いそろえ、今日、それを実行した。
作業の前に、「これからはトイレの中でも、食事ができるようにする」と告げると、ワイフ
は笑った。

 ……まず掃除機をかける。2、3回、繰りかえす。床、壁、便器の周辺を、雑巾で、て
いねいに拭く。ランプを、40Wから50Wに換える。便器は、消毒薬などを使って、磨
く。ピカピカに磨く。バラの造花で飾る。香水の入った瓶を2つ置く。

 そうそう床の上に、新しいマットを敷いた。こまかい汚れは、手袋をして、サンド・ペ
ーパーで磨いた。壁のシミは、ひとつひとつ、白い修正ペイントで塗りつぶした。

 「これなら食事ができる」と実感したところで、トイレ掃除は、終わり。楽しかった。


●マガジン11月号

 マガジン11月号のHTML版(カラー写真版)は、休むつもりでいた。一度は、10
月号の最後で、「11月号は休みます」と書いた。

 しかし取り消し!

 今日、11月号のHTML版を完成させた。新しいカメラを買ったこともある。それに
(休む)ということには、どこか敗北感が漂う。それで取り消した。

 どうか、HTML版のほうも、ときどきのぞいてみてください。がんばっています!


●ホームページ

 今度、N社という会社が、HPの無料サービスを始めた。100MBまで、無料。しか
もアップロード・ファイルサイズについては、3MBまで、OK。(少し前、ファイルサイ
ズ制限なしと書いたが、これはまちがい。)

3MBというと、原稿用紙(40字x36行)にして、500〜700枚程度。さらに
1人で、いくつでも、HPを開設することができる。

 すごいサービスである。有料版にしても、月額、たったの95円!

 さっそく、6つほど、新しいサイトを開設してみた。1つ、2つ目は、それなりに手こ
ずったが、3つ目くらいからは、2〜3分で開設できるようになった。

 ただし「3か月間、アクセス件数がゼロのときは、廃止される」とのこと。

 私は今、動画については、TUBE、静止画(写真)については、Flickrを、そ
れぞれ利用させてもらっている。これから先、HPのほうは、N社のサービスを利用させ
てもらう。

 私のHPのトップページにある、「子育て・あいうえお」、「子育てQ&A」などは、この
N社のサービスを使ったもの。興味のある方は、どうか、のぞいてみてほしい。

 NINJAのHPサービスは、以下のアドレスからどうぞ。

http://www.ninja.co.jp/hp/


●1000号まで、あと30号!

 マガジンは、12月3日で、970号になる。1000号まで、あと30号! 100
0号以後は、どうするか? いろいろ考えるが、何も変わらないだろう。今までどおり、
書きつづける。

 「1000号になったら、2人で、お祝いしようね」と言うと、ワイフは、「うん」と言
ってくれた。どこかでおいしいものを食べて、それでおしまい。もの足りない感じがしな
いでもないが、現実は、こんなもの。

 もし読者のみなさん中で、1001号〜からは、マグプレ(有料版・月額300円)を
読んでもよいと思ってくださる方がいらっしゃれば、よろしく! この1年以上、読者数
は、25人前後のまま。しかし有料ということで、私は、このマグプレを、もっとも大切
にしている。


●あと20分で、10月29日

 このところEマガの配信が、乱れている。予約どおりに、配信されないまま、配信トレ
イに残ったままになる。

 何度か、Eマガ社に問い合わせているが、返事は、なし。しかたないので、毎度、朝に
なってから、手動で、再配信。この2週間ほど、そんな作業がつづいている。

 どうしてだろう? それを確かめるため、つまり、ちゃんと配信されるかどうか、それ
を確かめるため、今夜は、12時(午前0時)まで、起きていることにした。12時に、
10月29日号が、配信されるはず。

 あと17分。

【読者のみなさんへ】

 Eマガは、現在、こんな調子です。できれば、MELMA(無料版)への乗り換えをお
願いします。乗り換えは、私のHPのほうからできます。

 (乗り換え→)http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html

 ボックスに、メールアドレスを書き込むだけです。よろしくお願いします。

 ……以上、意味のない雑談ばかりで、ごめんなさい。たった今(午前12時)、メールボ
ックスを調べてみました。やはりEマガは、予約どおり、配信されていないようです。

 そんなわけで、10月29日も、手動で、配信しました。

 では、みなさん、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争(10月29日号)

+++++++++++++

し烈さを増す、日韓経済戦争。

勝つか、負けるか?

が、今、韓国では、実に妙な
ことが起きている。

外資は逃げる。個人負債はふえる。
しかし株価だけは、上昇する。

なぜか?

+++++++++++++

●ウォン高

 今日(10・29)現在、1ドル=908円(12PM)。「900円を割ったら、韓国
の輸出産業は、壊滅的な打撃を受ける」と言われている。が、その900円まで、あと8
円!

 しかし韓国の大本営発表ほど、いいかげんなものはない。そのつど、言っている内容が、
コロコロと変わる。しかし1ドル=908ウォンというのは、たしかに行きすぎ。それほ
どまでに、ウォンは強いのか? 魅力的な通貨なのか?

●逃げる外資

 ここ2年間で、約83億ドルの外国人投資資金が、韓国から逃げている(東亜N報、1
0−29)。いわく、「KOTRAが28日、国会の産業資源委員会に提出した国政監査資
料によると、国内に投資した外国人投資額のうち、撤収金額は05年に32億8000万
ドル、昨年50億6000万ドルで、2年間の合計は83億4000万ドル(約7兆58
85億ウォン)であるという調査結果となった」と。

 理由は、いろいろある。その中でも、最大の理由が、「労使関係」。韓国の労働組合の強
さは、日本の比ではない。過去、日系企業も数多く、韓国に進出したが、そのほとんどが、
今では撤退している。そうでなくても、反日感情の強い国である。

 が、これだけ外資が逃げるから、その分だけ、韓国経済が打撃を受けているかというと、
そうでもない。当局(KOTRA)は、つぎのように説明している。

 「外国人投資家が国内の事業場を清算し、出資金をすべて回収する事例は少なく、撤収
しても韓国人に持ち分売却を行う場合がほとんどなので、国内経済に及ぼす影響は大きく
ない」(東亜N報)と。

 わかるか? このハゲタカのようなやりかた。

 外国企業が撤退するときも、(その外国企業が)出資金をすべて回収することは、「少な
い」と。わかりやすく言えば、こういうこと。

まず外国人(ほとんどは日本人、当時)に、工場などを建てさせる。つぎに労使紛争を激
化させ、操業を停止させる。嫌気がさした、外国企業は撤退する。その撤退する外国企業
を安く買いたたいて、自分たちのものにする。だから「国内経済に及ぼす影響は大きくな
い」と。

●ふえる個人負債

 目下、韓国人1人あたりの個人負債は、うなぎのぼりというか、天文学的数字にまで、
ふくれあがっている。その額、軽く日本円で、70兆円を超え、90兆円に迫っている。

 90兆円だぞ! 日本の人口規模に換算すると、3〜4倍して、約300兆円!

 そのため、銀行の貸し倒れが、急増中。この1〜6月期の貸し倒れ(貸出債権損失処理
金額)だけでも、2兆6700億ウォンあまり(東亜N報。10−25)。03年以後、銀
行圏だけでも、総額28兆7000億ウォンにもなっている(同)。

 しかもその借金は、ふえつづけている。中央N報の記事いわく、

 「個人負債が国内総生産(GDP)の80%を超えた。22日、韓国銀行の国政監査資
料によると、個人の負債残額は(今年の6月末基準)、699兆1000億ウォン(約87
兆円)で、物価上昇率を考慮しない名目GDP871兆8000億ウォンの80・2%に
達した。2004年末69・6%から昨年末79・1%に急騰したのに続き、80%台も
超えたのだ」(10−23)と。

 個人負債が、GDPの80%を超えたということがどういうことか、あなたにはわかる
か? 簡単に言えばおやじが稼ぐ給料とほぼ同額の金額を、妻がどこからから借りている。
つまり国民のほとんどが、借金漬けということ。借金に借金を重ねて、その金を、何かに
使っている。

 その「何か」とは、何か? 言うまでもなく、「投資」である。「株投資」である。東亜
N報は、こんな例をあげている。

 「ハナ銀行の家計向け融資担当者は「今年、証券市場が好況を享受していることから、
株式やファンドに投資するために信用融資を受ける顧客が多い」と話し、「担保や保証なし
に1億2000万ウォンを借りて株式に投資した事例があるとも聞いている」と説明した」
と。

●借りた金で、株投資

 韓国では、レバレッジ、つまり借りた金で株を購入、その株を担保にまた金を借りる。
その金でまた株を購入。さらにその株を担保にまた金を借りる……が、当たり前のように
なされている。

 その結果が、株価の大暴落と、大暴騰。その繰りかえし。

 私も毎日のように韓国の株価をのぞいているが、もうメチャメチャ。1800ポイント
台に急落したかと思うと、今度は、2000ポイント台に急上昇。そういう変化を、この
数か月、週単位で繰りかえしている。

 今日現在(10―29、午後1時)は、2062ポイント。

 韓国では、法定利息は、年利66%だった。それが最近、49%に引き下げられた。し
かしヤミ金融の世界では、100〜200%が当たり前。

 どうなるか……?、というより、こんなメチャメチャな経済運営をしている国を、私は、
ほかに知らない。一部の、ごく一部の国策企業だけは、毎日のように華々しいアドバルー
ンをあげている。しかしそれは一部。

 もしここでほんの少しでも、株価が低落したり、景気が低迷したら、どうなるか? さ
らに原油高という問題もある。私たち日本人の知ったことではないが、しかし何も、日本
が、韓国のことを心配する必要はない。つい先日も、韓国は、アジアでも最大級の揚陸艦
(兵士上陸用の特殊船)を完成させた。名前はズバリ、「独島」。日本名は、「竹島」。まさ
にやりたい放題。日本が竹島を占拠(?)したら、韓国はその揚陸艦を出動させるつもり
らしい。

 (もし日本が反対の立場で、同じものを建造したら、韓国はどのように反応するだろう
か?)

 ここは静観して、韓国経済の成り行きを見ていようではないか。
(以上、10月29日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(10月30日)

+++++++++++++

満60歳+2日!

何も変わらない。いつもどおり。
しかし運動量は、ふやした。

昨日は、小雨模様の中、2単位。
今日も、2単位(予定)。

その前日は、1時間ほど、歩いた。

体の調子は、悪くない。
(よくもないが……。)

この分なら、60代も、無事通過
できるかもしれない。まだ2日目
だが……。

うしろ向きに生きるのは、やめた。
これからは、どんどんと前向きに
生きる。

私は、ヤング・オールド・マンなのだ!

++++++++++++++

●私は生きている

60歳と、プラス2日。
体は、動く。仕事も、そのまま。
頭の働きも、まあまあ。

何も変わらない。変わらないが、
あの押し詰まったような緊張感は、
いったい、何だったのか?

60歳が近づくにつれて、
気分がふさいだ。あれこれ考えた。

しかしその60歳を過ぎてみると、
目の前が、パッと明るくなった。
気分が楽になった。軽くなった。
たとえて言うなら、暗いトンネルを
抜けたような感じ。

私はたしかに生きている。
その実感。自転車をこぐ足にも、
力が入る。仕事も楽しい。
食事もおいしい。

そうそう昨夜、居間にいたとき、
こんなことがあった。

座椅子から立ち上がろうとすると、
たまたまそばにいたワイフが
手を貸してくれた。

私は立ち上がったあと、また
座椅子に座り直した。

今度は、自分で立ち上がった。
ワイフは、「何も、座り直すことは
ないわよ」と言って笑った。

私は、「いやだね。まだまだ自分で
立ち上がれる」と。

私は生きている。たしかに生きている。
その実感が、楽しい。うれしい。

還暦なんて、クソ食らえ!
バカヤロー!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   12月 5日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●やるせない虚脱感

++++++++++++++

多くの教師たちが今、ある種の
虚脱感に襲われている。

何かがおかしい。何かがへん。
しかしそれを声に出して言うこと
すら、許されない。

そんな虚脱感である。

++++++++++++++

 少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダ
から落として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教
育者のみならず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。

 こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しか
しつぎの瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言
ったらよいかもしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。

 怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。

 もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、
講師のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もう
と思って、席に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見
つめているではないか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。

 で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそうい
うことには無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言っ
た。

 「先生、へんな味はしなかった?」と。

 とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう
一人の中学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとな
って、こう叫んだ。

 「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する
能力もないのか。出て行け!」と。

 あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾さ
せてほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。

で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかっ
た。そういうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人
間を、バカという)を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にし
なければならない虚しさ。教えなければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を
襲った。

 恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を
否定されたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいる
が、そんなものではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさで
ある。

 で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最
近でも起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明
らかに変化している。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさ
ぎを二階のベランダから落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考
えることを、今の子どもたちは、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹を
たてていたら、仕事そのものが成りたたない。

 で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、
道理がわかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチ
ャメチャなことをしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できない
にも、関係ない。

 えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者
と考える。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。
デタラメ。はっきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進
学高校ほど、陰湿ないじめが多いというのは、そういう理由による。

 最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、
その知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、お
かしな子どもを、どんどんと生産している。

 で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふく
らんでいる。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザ
ーで、踏み荒らされるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなるこ
ともある。私一人の力では、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年
金が入るなら、明日にでも足を洗うかもしれない。

 こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。
一日、一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。
そのためには、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあ
とは、自分で行動させ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊か
な子どもにする。

 そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)

【ギャグ化現象】

 日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ご
まかす」などという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くこと
をいう。

●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかける
と、「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐら
かす。「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちて
くると、地球はこなごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」
「からし明太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、
その場をごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャ
ジャ〜ン」と答えるなど。

 こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、そ
れだけで軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オースト
ラリアの友人に、このことを話すと、その友人は、こう言った。

 「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わ
ない。その分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさ
げて、考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
虚脱感 教師の虚脱感5105)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【溺愛】

●母親の溺愛

 溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるもので
はない。「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自
分本位の愛。自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利
用しているにすぎない。

 この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、
知った。

 その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほど
の溺愛だった。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転
して、ついてきたという。

 が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そし
て事件は起きた。

 娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫
婦といっしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、
その母親は、ストーカーに変身した。

 その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。あ
まりにも生々しい話なので、事実だけを、そのまま書く。

+++++++++++++++++

●娘をストーカーする母親

 ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかって
きた。そこに住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。
母親は、こう言った。

 「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、
「どうして知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。

 しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離
れている。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。

 「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン
茶? いったい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あ
んたのダンナを早く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。

 Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚し
た。実際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家
を出た。あとで父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い
目があった。Hは、母親の話をだまって聞くしかなかった。

 が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。

 電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。

 「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたに
はわかっているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、
地獄へ落ちればいいのよ」と。

 それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、
反発することすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがっても
らった。ほしいものは、たいてい何でも買ってもらった。

 大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うこと
ができた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興
費に使うことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。

H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんた
が地獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていって
くれるのかね」と。

 こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、
真夜中に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐ
られるような不安感」と、Hは言った。

 しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出る
ことはあったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、
いつも、Hに、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。

 そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立
ち、それに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、な
かった。しかし娘のHには、違った。

 その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家に
いないことを知っていた。

母「あんたの手料理が食べたいよオ〜」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」

H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣い
て過ごしているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな
狭いアパートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダン
ナなんかとは、別れなさいよ」

H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いく
らお金をかけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、
毎週、高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れた
の?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。

 Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声した
かと思うと、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、
怒った言い方をした翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度
は、今にも死にそうな声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。

 あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう
言ったという。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用
意しておいたからね」と。

 Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従っ
てくれた。Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E
町に住居を移した。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。

母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。
豪勢な生活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」

H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおか
げで、言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子ど
もに言葉を教えない親がいるもんかね」

 そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。

H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。

 「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、
使いたくても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた
言葉。予想どおり、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげ
て、こう叫んだ。

「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。

 この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑っ
た。しかし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、
私はできるだけ聞いたとおりを、忠実に書く。

 で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛
する親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、
同質のものである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。

+++++++++++++++++++

●溺愛

 溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。

+++++++++++++++++++

●溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んで
くれると、私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。
主人なんか、いてもいなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答え
て、こう言った。「異常です」と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親
は自分の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、
泣き明かしたという。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見
ると、いとおしくて、ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみ
る。そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子
どもに恵まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の
死や事故がきっかけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、
夫や家庭、他人や社会に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママ
の典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにい
るわよねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気
がない。幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、
生活習慣がだらしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格
の核形成が遅れる。ここでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といっても
よい。

子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときにな
っても、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくな
る。ちょうどひざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになる
ケース。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、
ママ」と言って、母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一
つは、その反動からか、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。

ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年
少女期への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だ
からたいていの親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。ど
うして、こんな子どもになってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。
しかしそれはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、
何もない。

++++++++++++++++++++++++

同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。

++++++++++++++++++++++++

●マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあ
なたが好きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似
た話はいくらでもある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が
歌う、『おふくろさん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、
ママー」と涙をこぼす民族は、そうはいない。

 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、
マザコンタイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、
マザコンタイプの息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。
その双方が互いにそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずな
い。

意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私
やあなたのような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性
の周囲にいる人たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後
から自分の夫がマザコンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親
と連絡を取りあっているというのだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前
に、実家の母親に報告することもあるという。

しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫
に抗議すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」
と言って、まったく取りあおうとしないという。

 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた
「マザコン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係
だけを想像しがちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることが
ある。そして息子と同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であ
ると思い込む女性は少なくない。

このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばら
しい」と決めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞
きたくない!」と、それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、
親を必要以上に美化する一方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。

つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうで
ないときには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は
少なくない。こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいてい
はその段階で、「断絶」する。

 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らの
マザコン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。

【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人
の中に潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らの
マザコン性を正当化するために、親を絶対視する傾向が強い。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親
である」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向き
に生きていく。それが親としての、真のやさしさではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
溺愛 子どもを溺愛する母親 溺愛ママ でき愛ママ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】(10月25日)

+++++++++++++++

風邪が、はやっているという。
インフルエンザも、はやっていると
いう。

浜松市内の中学校でも、学級閉鎖に
なったところが、チラホラでてきた。

気をつけよう。

+++++++++++++++

●歩く

 久しぶりに、7キロを歩いた。家から教室までの、7キロ。このところ運動不足。体が
老化し始めたのかもしれない。ひざの動きが悪くなった。

 最初の10〜20分ほど、地面の硬さが、直接、ひざに響いた。そのたびにひざが、ガ
クガクした。自分でもそれがよくわかった。自転車には乗っているが、歩く機会が、ぐん
と減った。そのせいだろう。が、しばらくすると、今度は、軽い腰痛。

 体の重心が前に移ると、その分だけ背骨への負担がます。腰痛が始まる。つまり肥満?
 このところ腹が少し出てきた。気をつけよう。

 で、7キロを無事、歩いた。最後に、コンビニで水を買った。歩きながら、飲み干した。
おいしかった。


●ルールが守れない子ども

 ルールが守れない子どもというのは、たしかにいる。何かのゲームをしていても、ゲー
ムそのものを破壊してしまう。一人でもそういう子どもがいると、必ず扇動者(アジテー
ター)が現れる。その同調者を巻き込んで、騒ぎ出す。

 このタイプの子どもは、強く叱るしかない。「君は、このゲームをしてはだめだ。向こう
で待っていなさい」と。しかしそういう指示そのものに、なじまない。さらにはげしく騒
ぎ出す。

 ルールが守れないというのは、ドラ息子症候群のひとつと考えてよい。自分勝手で、わ
がまま。自制心、自律心に欠ける。ルールそのものを、自分で作ってしまう。あるいは自
分の意にそわないと、怒ったり、泣き出したりする。

 年長期から小学1年にかけて、この傾向が、はっきりしてくる。が、このころ気づいて
も、もう遅い。手遅れ。家庭のリズムそのものが、そうなっている。子どもを直すのは、
むずかしい。家庭のリズムを直すのは、さらに、さらに、むずかしい。

 だからこのタイプの子どもは、結局は、行き着くとことまで、行く。行くしかない。そ
こまで行かないと、親も気づかない。

 たとえば今日も、歩いているとき、携帯電話をもったまま運転している人を、何人か見
かけた。その中には、若い母親らしき人もいた。そういう母親は、家庭で、いったいどの
ようにして子どもをしつけているのだろうか。きっとそういう人にかぎって、家では、ガ
ミガミと言っているにちがいない。「約束を守りなさい!」と。

 この問題は、そこまで行き着く。母親が一方で、ルールをさんざん破っておきながら、
子どもに向かって、「約束を守りなさい」は、ない。いや、たかが携帯電話などとは、思っ
ていけない。この世界は、『一事が万事』。車を運転しながら平気で携帯電話をかける人と
いうのは、ほかのところでも、まんべんなく、ルールを破っている。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にできてはいない。ある部分ではまじめで、あ
る部分ではそうでない・・・ということは、できない。つまり携帯電話をもったまま運転
する人というのは、あらゆる面で、ずるい。そのずるさを、子どもは、日常的に見る。・・・
見ている。そしてその子どもは、その子どもになる。

 だから、結局は、行き着くところまで行く。行くしかない。行かないと気づかない。中
には、行き着くところまで行っても、気がつかない人もいる。自分を知るということは、
それほどまでに、むずかしい。

 子どもがルールを破ったら、子どもを責めても意味はない。子どもは、あくまでも、「家
族の代表者」。反省すべきは、まず自分自身。さらには家庭環境ということになる。


●悪よりもこわい、小ずるさ。

 悪は悪。その悪を擁護するつもりは、まったくない。しかしその悪より、さらにタチが
悪いのが、小ずるさ。悪は、まだ、わかりやすい。その分だけ、目立つ。たたかれる。

 しかし小ずるさは、ジワジワと、その人の精神を蝕(むしば)む。長い時間をかけて、
その人の人格そのものを崩す。まさに『一事が万事』。ひとつのことで小ずるい人は、あら
ゆる面で、小ずるい。

 たとえば不倫。私は愛人をもっているような男は、信用しない。命がけの恋愛は別とし
て、自分の妻ですらも、平気で裏切るような男である。友を裏切るようなことは、何でも
ない。いくら「友」と呼ばれても、私は信用しない。

 その私だが、私は小ずるい男だった。すべてをあの時代の責任にすることはできないが、
あの時代というのは、そういう時代だった。何もかもが、インチキ臭かった。またインチ
キをしないと、生きていかれなかった。

 そのころ体についたシミは、今でも残っている。一度体にしみついたシミは、消えない。
ふと油断したようなとき、そのシミが顔を出す。

 ところで今、伊勢神宮のおかげ横丁にある「赤福」が、世間を騒がせている。少し前の
雪印事件もあった、それにミート・ホープ事件もあった。悪質と言えば悪質だが、あの時
代には、みな、同じようなことをしていた。ただ幸いなことに、その時代は意外と早く終
わった。私が小学生に入るころには、朝鮮動乱、学生になるころにはベトナム戦争、それ
ぞれの特需景気で、日本経済は、息を吹き返した。

 が、この小ずるさは、世界では通用しない。よい例が、現在の中国。ダンボール紙入り
の肉まん事件などは、まだ軽い。最近では、下水にたまった廃油から、食用油を作ってい
た業者がいたそうだ。(下水だぞ! わかるか! うんちや小便の流れる下水だぞ!)

 そういうのと比べたら、赤福事件など、何でもない。・・・と言いたいが、世界の人は、
「日本も中国も同じだな」と思うにちがいない。残念といえば、これほど残念なことはな
い。私も、つい先日、あの店で、赤福餅を食べた。「あの赤福餅も・・・?」と、今、思っ
ている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●母

静かな時だった。
ちょうど昼食が終わったところだった。
ヘルパーさんたちは、控え室にもどった。

広い居間には、私とワイフ、それに母だけ。
少し離れたところにもう1人、女性。
時折、獣(けもの)のような声を張り上げる。

私は何も話さなかった。
ワイフも何も話さなかった。
母も何も話さなかった。

時だけが、そのまま流れる。
テレビは、つけたまま。
湿った秋の冷気が、窓から入る。
やさしくカーテンを揺らす。

時計は、午後2時少し前を示していた。
大きな掛け時計で、その下には、
「10月25日、木曜日」と、書いてあった。

そのとき、母が言った。
「ここは、耕(たがや)すものがない」と。
耕す……つまり、野菜を育てる畑がないことを言った。

私「畑がしたいのか?」
母「家の前に、畑があった」
私「そうやな。畑があればいいな」と。

いつもそうだが、私は聞き役。
そこに座っているだけ。

話すこともない。話しても、会話が
かみあわない。

母「ここは退屈や……」
私「退屈か?」
母「ここは退屈や……」と。

いろいろ試してみたが、母の注意を引く
ものはなかった。
どれも長続きしなかった。

母「ここは、いやや……」
子「いややなあ……。こんなところ」
母「はよ(早く)、退院したいな」
私「そうやな、はよ、退院できればいいな」と。

以前より元気にはなった。
が、足は、すっかり使えなくなった。
一日中、車いすか、ベッドの上にいる。

……いろいろ考える。
母を実家へ連れて行くこと。実家の写真を撮って
母に見せること。郷里のM町に連れて帰ること。

私「だれか、会いたい人はいるか?」
母「おらんな。だれにも、会いたくない」
私「だれに会いたい?」
母「ははは、お前や。浩司、お前に会いたい」と。

10分が過ぎ、20分が過ぎた。
私とワイフは、だまって時計だけを見る。

私「じゃあ、帰る」
母「昼飯は食ったか?」
私「ああ、食べた、食べた」
母「じゃあ、食べておんさい(=食べてきなさい)」と。

私とワイフは、椅子を片づける。
通りがかったヘルパーさんに、頭をさげる。

振り返ると、母が手を振った。
ワイフがそれに答えた。
私はだまって、階段をおりた。

++++++++++++++++

 老人といっても、様子は、さまざま。今度新しく入居してきた老人(女性)は、時折、
動物のような奇声を張り上げる。声というより、奇声。

 見ると、ひとりで大きなソファを占領して、そこでヘルパーさんに、何か怒鳴りつけて
いる。が、ヘルパーさんたちは、みな、無視。だからますます大声で、怒鳴る。

 ワイフはそれを見て、「きっと、家ではたいへんだったのね」とポツリ。

 ほかに、一日中、眠っている老人もいる。詩吟のような歌を歌っている老人もいる。歌
うというよりは、「うなる」といったふう。ウ〜ウ〜、と。あるいはだれを見ても、恐ろし
い目つきでにらんでいる老人もいる。

 「私なら、こんなところ、1時間ももたない」と思った。しかしつぎの瞬間、「ほかに方
法はあるのか?」と思った。

 こうした介護施設では、24時間、世話をしてもらえる。食事や入浴の心配もない。何
もかも整っている。恵まれた環境である。

 「在宅介護」という方法もあるが、しかしここにも書いたように、老人といっても、様
子は、さまざま。Oさんの義父は、慢性の腎臓病を患っていた上、夜中中、大声を出して、
家人を呼びつけていたという。

 在宅で介護できる老人もいれば、そうでない老人もいる。家庭の事情も、それぞれ、み
な、ちがう。親子関係も、みな、ちがう。

 母を見舞うたびに襲われる無力感。「あんたの気持ちはよくわかる。でも、どうしようも
ないんだよ」と。

私「正月には、うちへ連れてくるしかないね」
ワ「そうね……」
私「でも、もう、しも(=便)の始末は、したくない」
ワ「……」と。

 介護は、「便」との闘いといっても過言ではない。それが今、拒絶反応となって、私の心
をふさぐ。

私「追いつめられれば、できるかもしれない。でも、もういやだ」と。

 私の母にしても、相手の立場でものを考えるということが、できない。若いときから、
自己中心的な女性だった。老後を迎えて、それがさらにはげしくなった。わがままで、自
分勝手。私の家にいたときも、数日ごとに、「家(=母の生まれ故郷の実家)に帰る」と言
って騒いだ。私たちを困らせた。今も、「ここは地獄や」と、言う。

 が、母というより、介護施設で見る老人たちの姿は、私たちの近未来の姿でもある。実
際には、今のような手厚い介護は、望めない。昨日の新聞報道によれば、医療、介護保険
制度は、すでに破綻状態にあるという。

 自分たちの老後を考えると、ますます気が重くなる。

 ……ということで、昨夜は、仕事が終わると、ワイフと2人で、映画を見てきた。ニコ
ール・キッドマン主演の、『インベェージョン』。「今のうちにしたいことをしておこう」と
私が言うと、ワイフは、快(こころ)よく、それに応じてくれた。

 映画は、星2つの、★★。テーマが陳腐。主演がニコール・キッドマンだったから、何
とか、見られた。そんな感じの映画だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●新しいデジカメを買う

 M電工の株を、1237円で買った。1000株。それが2日前。「底値」と判断した。
こういうときは、同族会社の株価も、参考にする。

 親会社のM電気の株が、やや上昇に転じた。つられてM電工の株価も動き出した。それ
で「底値」と判断した。

 そのM電工の株価が、きのうの午前中だけで、30〜40円、値上がりした。すかさず、
売った。それで3〜4万円、ゲット。そのお金で、同じくM電気の、LUMIX―FX3
3を購入。

 すばらしく頭のよいカメラである。新機能、満載! またまた進化した。ためしに街の
夜景を撮ってみた。昼間の写真のように気楽に撮れる。もちろんブレない!

 家に帰って、株価を見ると、M電工株は、終値で、何と、昨日、1日だけで、100円
近い暴騰。つまり夕方までもっていれば、10万円ゲットできた。惜しかった。しかし人
間の欲には、キリがない。

 ほどほどに儲けたら、それで満足する。これは株売買の世界では、常識。


●P社FX33

 形はシンプル。女性向き。被写体に応じて、人工知能(?)が作動し、それぞれの場面
に最適の補正をしてくれる。もちろん顔認識装置付き。トリプル方式のブレ防止付き。

 感度は、ISO・6400! ふつうのカメラで、1600程度だから、これはものす
ごい数字と考えてよい。ためしに走る車の中から、何枚か夜景を撮ってみた。

 側の風景は、光が帯(おび)のように流れるが、(昼間でもそうだが)、前方の風景は、
まったく問題なく撮れた。すごい!

 顔認識にしても、10人前後まで、ピントを合わせてくれる。すごい! その顔に応じ
て、露出まで決めてくれる。すごい!

 何でも「世界最薄」とか。「こんな小さなカメラがねえ……」と、手でいじりながら、何
度もため息をつく。値段は、Y電気で、3万4000円だった。

 最初は、シンプルなデザインで、どこか物足りない感じ。しかし今は、しっくりと手先
になじんでいる。ひとつ難点を言えば、P社のカメラは、液晶画面の保護が弱い。圧力を
加えると、液晶が簡単に割れる。注意! できれば固(かた)めのケースに入れて、持ち
運ぶのがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●満60歳!

満、60歳。その実感は、ない。まったく、ない。
皆で、鍋料理を食べた。ケーキを食べた。

「(市販の)ショートケーキでいいよ」と私が言うと、
「作るからいい」と、ワイフは言った。

静かな時が流れた。安らいだ時が流れた。
私はパソコンを前にして、眠った。いくつかの夢を見た。

見ると、ワイフが横にいた。「眠ったみたい」と、私。
「もうすぐ、準備ができるから」と、ワイフ。

いつもの夕方。いつもの夕食。そしていつもの誕生日。

長男とワイフが、私の声に合わせて歌ってくれた。

「♪ハッピーバースディ、ツー、ユー」と。

夕食後、みなで、『ロッキー・ザ・ファイナル』を見た。
よい映画だった。なつかしかった。涙があふれた。
60歳の誕生日に、ふさわしい映画だった。

私「あと10年、がんばるよ」
ワ「いつものペースでいいのよ」
私「そうだね」と。

私はここで誓う。

もう1人の邪悪な私とは、決別する。いじけやすく、
ひがみやすく、くじけやすい。そんな私だ。

それにもうひとつ。この先、その10年に、
私の命を賭ける。私の命を燃焼する。燃焼しつくす。

残りの人生は、私のものではない。
私の息子たちのもの。私のワイフのもの。
そして……。

おおげさなことは言えない。書けない。
しかし私の命を、この地球に、宇宙に、
返したい。みなに、捧げたい。

「どんな気分?」と、ワイフは言った。
満60歳になった気分をワイフは聞いた。私は、
「別に……」と答えた。

何も変わらない。その自覚もない。
「60」という数字などに、意味はない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

ただこの闘志は何か? 「やるぞ!」という闘志。
今までになかったもの。何かにつけ、負け戦(いくさ)。
あきらめること、引きさがること、そればかりを
考えていた。が、そんな私の中で、何かが燃えだした。

よい映画だった。『ロッキー・ザ・ファイナル』は、
よい映画だった。こんな私にも、生きる勇気を
与えてくれた。希望を与えてくれた。

私にあるのは、過去ではない。未来だ。
その未来に向かって、私は進む。

「どんなに打ちのめされても、前に進み続ける……。
決してあきらめずに。NEVER GIVE UP!」
「自分を信じなきゃ、人生じゃない」と。

見ていて涙がポロポロとこぼれたのは、そのためか。
35年前の、あの感動、つまりあの当時の感動が、
よみがえってきた。

あの時代、私は、無我夢中で生きていた。毎日、
がむしゃらに働いた。その感動が、よみがえってきた。

これからも、私は、無我夢中で、生きていきたい。
生きていく。私、はやし浩司は、まだまだ現役だ。

その日が来るまで……。

はやし浩司、満60歳の誕生日に。

(付記)

 『ロッキー・ザ・ファイナル』の中の、シルヴェスター・スタローンの肉体を見てほし
い。彼はこの映画を完成させるために、自分の肉体を鍛えた。そのプロ根性が、スクリー
ンを通して、私たちに伝わってきた。それが、私たちを感動させた。

シルヴェスター・スタローンは、役者としてではなく、映画を通して、自分の生きざま
を、私たちに示してくれた。

 ウソやインチキでは、あの映画はできない。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【いじめ】

+++++++++++++

いじめについての相談は、多い。
昨日も、1件、入った。

メールの内容について、「転載不許可」
とあるので、ここでは紹介できない。

以前に書いた原稿を、もう一度、
手直ししながら、改めて
いじめについて、考え直して
みる。

+++++++++++++

●いじめに苦しむ中学生
 
ある母親(静岡県K市在住、STさん)から、相談のメールが入った。内容は、中学二
年生にある娘が、学校でいじめにあっているという。何をしても無視される。仲間はず
れにされる。のけものにされる。そしてそのたびに、娘はつらい思いをしている。だか
ら「娘の心に、キズはつかないか?」と。

 こうした相談をもらうたびに、私は大きな無力感を覚える。その母親は、私に救いを求
めてきている。しかし私には、その母親はもちろん、娘を救う力など、どこにもない。私
がせいぜいできることと言えば、その母親や娘の立場になって、話を聞いてやることでし
かない。

 実は、私も、中学時代のある時期、そして高校時代のある時期、同じような経験をして
いる。こんなことがあった。高校一年の終わりか、二年のときのことだったと思う。

 遠足のバスの、その席決めをするときのこと。クラスに一人、リーダー格の男がいて、
その男が、バスの一番うしろに陣取ってしまった。あとはその仲間と取り巻きが、うしろ
から順に席をとった。担任の教師が、「話しあって、自分たちで決めろ」と言った。それで
そうなった。

 私は、前から二番目の席に座ることになった。となりは、学校ではまったく目立たない、
B君だった。授業中でも居眠りすると、口や鼻から、ダラダラと唾液をこぼす男だった。
そのため、とくに、女子からは嫌われていた。

 私は、だれも座りたがらない、そのB君の横に座った。親しくはなかったが、家が近か
った。それでよく遊びに行ったりは、していた。

 ほかにもいろいろあった。で、そういうときの自分の心理を、思いだしてみると、今で
も何とも言えない重苦しさを覚える。心が空回りしているというか、自分であって、自分
でなかったような……。

 毎日が、そういういじめと、それに対する、虚勢の張りあいの繰りかえしだった。当時
の私は、弱音を吐いたら、負けと思っていた。だからいくらいじめにあっても、それを気
にしないフリをしていた。反対に、ときには、相手に向かって、殴りあいのけんかをしか
けていったこともある。

 私は、そういう点では、決してヤワな男ではなかった。そんな私でも、毎日、学校へ向
かうのが苦痛だった。いつもひとりぼっちだったし、心を許せる友だちはいなかった。私
は、みなから、孤立していた。

 今から考えると、その原因のほとんどは、担任のT教師にあったように思う。高校の入
学当時、私はズバ抜けて成績がよかった。だからT教師はいつも、「林に追いつけ」「林を
追い越せ」と、みなにハッパをかけていた。一方、追われる立場の私には、テストごとに、
「お前は、この科目では、XXに負けそうだ」「YYに追いつかれるぞ」と、脅した。

 そんなわけで私は、高校一年の夏休みには、すでに転校を考えていた。が、母がそれを
許さなかった。母は、あの手、この手を使って、私の転校を阻止しようとした。私はやが
て、八方ふさがりの状態に追いこまれていった。

 私に対する「いじめ」は、そのころから始まった。みなが私には、口をきいてくれなく
なった。もちろんあいさつもない。そのつど、いろいろなスポーツ大会があったが、私は
それからも仲間はずれにされた。

 ゆいいつ、私ができたことは、逆に、彼らを無視することだった。本当は無視などでき
なかったが、気にしていないフリをした。「どうぞ、ご勝手に」と。

●私の経験から

 こうしてあの悪夢のような三年間は終わったが、その結果、私はどうなったか? 孤独
に強くなったというか、そういう生きザマが、身についてしまった。今でも、そのころの
生きザマが、基本になっている。他人に相手にされなくても、かまわないという生きザマ。
結局は、生きていくのもひとり、死ぬのもひとりという生きザマ。ときどきそんな自分を、
「風来坊」とか、「無頼(ぶらい)」とか思うことがある。そういう生きザマを身につけて
しまった。

 いじめによる「キズ」は、たしかにある。ないとは言わない。しかし私のばあい、もう
一つ大きな問題があった。

 私が四、五歳のころから、父は酒におぼれるようになり、数日おきに酒を飲んでは暴れ
た。私には、まさに地獄のような毎日だった。そのため、当然のことながら、心もゆがん
だ。精神もキズついた。今でも、当時のキズが、私を苦しめることがある。

 だから打たれ強いというか、免疫性ができていたというか、学校でのいじめは、あくま
でも私にとっては、マイナーな問題でしかなかった。学校にいるのも地獄なら、家の中に
いるのは、さらに地獄だった。

 こうした私の経験が、その相談の人に役だつかどうかは知らないが、こういうことは言
える。

 質問にもあるように、「キズつくかどうか」ということだが、キズはつく。まちがいなく、
キズはつき、そのキズは一生残る。やわらぐことはあるが、決して消えることはない。今
の私がそうだが、私はいつごろからか、もう消そうとは思わなくなった。そのかわり、キ
ズと、うまくつきあうことだけを考えるようになった。あきらめたというか、居なおった
というか……。

 ただ、誤解しないでほしいのは、キズのない人はいないし、また人は、キズまるけにな
って成長するものだということ。キズをつくような経験は、だれでもいやだ。しかし人は、
キズまるけになって成長する。

 こんなことを書くと、その渦中にいる人に、叱られるかもしれない。以前、私に、「あん
たはいじめの本質がわかっていない。教育評論家として失格だ。筆を折れ。大馬鹿野郎!」
と、手紙を書いてきた女性がいた。私が、「いじめによって、子どもが、キズつくことを恐
れてはいけない」と、何かのコラムに書いたときのことである。その女性は、私の文をし
っかりと読まないまま、「いじめを容認する発言で、許せない」と怒っていた。私は、そん
なことは一言もいないのだが……。

 私は何も、いじめを肯定しているのでも、容認しているのでもない。しかし人は、キズ
つくことで、そうでない人にはわからない、心のポケットをつくる。そしてそのポケット
が多くなり、それぞれのポケットが深くなればなるほど、その人はやさしくなる。人格は
重くなる。

 いじめた人は、そのときは、ある種の優越感にひたることができるかもしれないが、長
い間の人生では、確実に損をする。人生の真理から遠ざかった分だけ、時間をムダにする。

 しかし一方、いじめられた人は、そのときは、深い悲しみや苦しみに襲われるかもしれ
ないが、長い人生の中で、一直線に、真理に向かうことができる。ほかの人が見ることが
できない世界を見、そしてその世界が、どんな世界かを、知ることができる。

 私も、もうずぐ五六歳になる。だから今まで、だれにも話さなかったことを告白しよう。

●クビ切りは、立ち話だった

 三年間勤めた進学塾の講師だったが、クビを切られるときは、立ち話だった。ある日、
教室で資料の整理をしていると、交代したばかりの塾長がやってきて、私にこう言った。「林
君、君は、来月からは、もう来なくていいから」と。

 そのとき私が受けた衝撃がどんなものであったか。それはともかくも、私はそれから数
日間、夜は一睡もできなかった。体中が熱をおび、息苦しさが、私を繰り返し襲った。ワ
イフが一晩中、私を、介抱(かいほう)してくれた。

 で、その結果だが、私は、そのときの悔しさを、バネとすることができた。「いつかあい
つをたたきのめしてやる」と、燃えるような敵意さえ覚えた。もっとも、そのあと私が選
んだ道は、決して楽なものではなかったが、ともかくも、そのときを境に、私の幼児教育
に対する姿勢は、大きく変わった。

 今から思うと、そのときの反骨精神もまた、あの高校時代につかんだ生きザマからきて
いるのかもしれない。怒りを、生きるエネルギーにする。悔しさを、生きるバネにする。
そして苦しみや悲しみ乗り越えながら、ますます強くなっていく。そういう反骨精神であ
る。

 こういう経験から、いろいろなことが言える。

●いじめる側の意識

 私のばあい、高校時代、そうしたいじめにあっているとき、それをだれにも言わなかっ
た。父はもちろんのこと、母にも、そして担任の教師にも言わなかった。これは余談だが、
最近になって、高校の同窓生のY君にその話をすると、Y君は、こう言った。

 「林がいじめにあっていたなんて、信じられない。お前は、いつも明るく楽しそうだっ
た。それにお前は、T(担任教師)に、かわいがられていたと思っていたよ」と。

 さらにこんなこともあった。ちょうど三〇歳になったころ。高校の同窓会があった。で、
その中の一人に、私はこう聞いた。X君といって、そのグループのナンバー2にいた男だ
った。「君は、高校時代、かなりぼくに敵意を感じていたようだが、どうしてか?」と。

 するとその男は、けげんそうな顔をして、「ぼくがア……?」と。

 まったく覚えていないというか、記憶にないというような様子だった。私は、彼の態度
に驚いた。「私をいじめていたことを覚えていない?」と。

 しかしもしそのとき、そのとき彼が、「ああ、そうだったな」とでも言えば、私はその場
でその男を、殴り飛ばしていたかもしれない。その覚悟をもって、私はそう聞いた。が、
その彼が、「ぼくがア……?」と。

 最初、私は、彼がとぼけていると思った。しかしどうもそうでなかったようだ。どこか
狐につままれたような気分だった。そしてつぎの瞬間、私は「では、あのいじめはいった
い、何だったのか」と思った。私の思い過ごし? 誤解? それとも被害妄想? わけが
わからなくなってしまった。

 で、あの状況の中で、つまり私が高校という場でキズまるけになっていたとき、だれか
が私を救うことができたかというと、それはできなかったと思う。父や母の出る幕はなか
ったし、担任の教師の問題ではなかった。いじめるほうはともかくも、いじめられるほう
にとっては、いじめの問題は、どこまでも個人的な問題である。

 本当に助ける力があるなら、相手の子どもを排除するか、さもなければ、私を別の世界
へ運び出す。そこまでしてはじめて、そういうときの私を救うことができる。へたな励ま
しや、へたな指導など、何の意味もない。あれこれ外部の人が口を出すと、かえって事情
は複雑になる。たとえそれが親や教師でも、だ。

 こうして考えてみると、最初に感じた無力感は、そのまま親の限界ということにもなる。
つまり親にできることにも、限界があるということ。親はいつも、その限界状況の中で、
子育てをする。

 親がせいぜいできることと言えば、その限界状況の内側から、子どもの成長を、そっと
静かに見守ることでしかない。それは、とくにこうした問題をかかえた親には、つらくて
きびしい経験かもしれないが、どうしようもない。

 ゆいいつできることと言えば、家庭という場を通して、子どもの心と体をいやす程度で
しかない。そしてどこまでも子ども立場で、子どもの心を理解することでしかない。「がん
ばれ」ではなく、「あなたはよくがんばっているわ」と。

 少し話題を変えてみたい。

 ひとり、印象に残っている高校生に、ヒロシ君という子どもがいた。私は今でも、その
子どもを、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君」と、「君」づけで呼ぶ。そのヒロシ君について
書いた原稿を、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++

●ヒロシ君

 ヒロシ君(中二)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、
いじめられていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱ
い落書きをされても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでい
ただけだよ」と言っていた。 

 そのヒロシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞
で倒れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒロシ君の祖
母から聞いた話だ。

 祖父はヒロシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒロシ
君がひげを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、
祖父とヒロシ君は、センターの北にある神社へ、お参りに行くことになっていたという。

そこでのこと。帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒロ
シ君は、「高校に合格しますようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうし
てお前は、わしの病気が治るように祈らなかったか」と。そこでヒロシ君はあわてて神
社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君(実名)」で呼ぶように
なった。とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒロ
シ君のような子どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大き
な財産を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そして
いつか、そのことで後悔するときがくる。世の中の人はバカばかりではない。しっかりと
人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと判断する。ヒロシ君にしても、学校の先生
には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。ヒロシ君
は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、
いつどこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、
人はいじめられながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えると
ころでは耐える。そうでないと、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒
ぐ。が、こういう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、
限度を超えたいじめは別である。

しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。
親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばって
いるんだよ」と励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とても
つらいことだが、親や教師にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと
耐えるのも、親や教師の務めではないかと、私は思う。

++++++++++++++++++++++

●いじめの背後にあるもの

繰りかえすが、だからといって、もちろんいじめを、私は肯定しているわけではない。
容認しているわけでもない。しかしこの問題は、親たちが考えているより、はるかに根
が深い。

 今のような、つまり、日本のような競争主義の世界では、強者、弱者は必然的に生まれ
る。「勉強しなさい」という、親たちが何気なく使う言葉が、一方で、子どもたちの世界で、
軋轢(あつれき)を生み出す。

 さらに人間という生物そのものが、本来的にかかえる問題もある。弱者を踏みにじりな
がら、あるいは弱者を排斥しながら、人間は進化を重ねてきた。理性を超えた、本能の部
分で、いじめが起こることもある。

 本来なら、社会のリーダーたちが、その弱者の立場で、政治を考え、社会を考えなけれ
ばならない。しかしこの日本では、皮肉なことに、はげしい受験構想を勝ちぬいた、つま
りは、勉強しかしない。勉強しかできないような、いわゆる強者でないと、そのリーダー
になれない。もともと弱者の視点そのものがない。

 文化の完成度は、弱者にいかにやさしい社会かで、決まる。そのやさしさがある社会を、
完成された社会と呼び、そうでない社会を、不完全な社会と呼ぶ。豪華な劇場や、豪華な
道路ではない。あくまでも、「心の中身」で決まる。

 こうした社会や、人間性の欠陥を補うため、制度として、いじめに苦しんでいる子ども
を救う方法も考えなければならない。たとえばこの日本では、子どもたちには、いつもひ
とつのコースしかない。考えてみれば、これほど、おかしな制度もない。いまだにこの日
本は、明治時代の富国強兵策から生まれた学校制度を、かたくなに守っている。

 融通のきかない制度。多様性を認めない制度。実はそういう硬直した世界で、子どもた
ち自身が、窒息している。親たちも、窒息している。いじめに限らず、学校教育がかかえ
るほとんどの問題は、こうした硬直した制度から生まれる。受験競争しかり。荒廃しかり。
校内暴力しかり。

 いじめの問題を、本当に解決しようと考えたら、こうした部分にまでメスを入れなけれ
ばならない。しかし、それは今の日本では、可能なのか?

●どう接したらよいか?

 そこで、こう考えては、どうだろうか。これは私の経験をもとに、「こうあってほしかっ
た」という視点から考えた方法である。

(1)徹底して、家庭を、憩いとやすらぎの場にする。……家庭を、子どもが外の世界で
疲れた心と体を休める場所にする。そのために「暖かい無視」を大切にする。子ど
もの世界を、親の暖かい愛情で包み、一方、子ども自身が親の目をほとんど感じな
いほどまでに、無視する。こうしたケースで、子どものほうから、何か救いを求め
てこない間は、親のほうから、あれこれ、口を出すのは、かえって逆効果。

(2)あくまでも子どもの立場で考える。……こうしたケースで、「がんばれ」式の励まし。
「こんなことでは」式の脅しは、タブー。それについては、もう書いた。大切なこ
とは、子どもの苦しみを共有すること。「あなたはダメになってしまう」式に、不安
や心配を子どもにぶつけてはいけない。さらに「学校が悪い」「友だちが悪い」式に、
怒りやうらみを、他人にぶつけてはいけない。愚かな人間たちを、あわれんでやる。
そういう姿勢が、子どもの心を溶かし、そして豊かにする。

(3)コースは一つではない。……幸せになる道は、決して一つではない。近道もないし、
回り道もない。子どもの世界について言うなら、「学校」だけが、コースではない。
だからといって、学校教育を否定しているのではない。ないが、その学校教育には、
限界がある。「学校」を絶対視してはいけない。大切なのは、そうした幻想から、自
らを解き放つこと。親が、その幻想にとりつかれている間は、子どももまた、その
幻想から解き放たれることはない。集団に属さないから、落ちこぼれという考え方
は、まちがっている。完全にまちがっている。もしまちがっているというのなら、
では、いったい、この私はどうなのか。私は二〇代のはじめから、集団には、まっ
たく属していない。

(4)高い文化をめざそう。……先にも書いたように、文化の高さは、社会的弱者にいか
にやさしいかで、決まる。そういう「やさしい社会」を、みんなでめざそう。こう
した教育のまつわる最大の欠陥は、実は、親たち自身にある。親たちは、自分の子
どもがその渦中にいるときは、あれこれ大きく問題にする。しかし子どもが、卒業
し、「学校」から離れると、その問題から遠ざかってしまう。逃げてしまう。私が何
か、助言を求めても、「私たちは、もう終わりましたから」と。こうした親の気持ち
が、理解できないわけではない。しかしこうした親の「割り切り?」が、問題を順
に先送りしてしまう。むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんの身のまわり
から、「やさしさ」を見つけ、それを育てていく。そういう小さな努力が、この日本
を変える。

 注意すべきこともある。こうしたいじめを経験した子どもは、そのあと、大きく、二つ
のタイプに分かれる。

 ひとつは、いじめの邪悪性に気づき、人間的に自らを昇華していくタイプ。もうひとつ
は、その邪悪さに、染まっていくタイプ。後者の子どもは、いじめられた経験をもとに、
今度は反対に、いじめる側に回ることが多い。

 このいじめとは関係ないが、私は、このことを、自分がドン底に落とされたとき、発見
した。そのことについて書いたのが、つぎの原稿である。話が少しわき道にそれるが、許
してほしい。

++++++++++++++++++++++

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう
意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚
園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣き
つかれるしまつ。私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分
に言ってきかせねばならなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしい
と思うほど、クソまじめな生き方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもや
めた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正
直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命では
ない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振りか
えってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ
決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自
分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今も
その運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていた
だろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪
事を重ねているに違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれな
い。「そのつど私は私の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくな
る。果たして今の私は、本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわしている偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分
で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かさ
れるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考え
てみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断
すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。
つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きなが
ら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。
みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人
ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたも
その悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命とい
うのはある。何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無
視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみることにする。

+++++++++++++++++++++++

【STさんへ】

 相談のメール、どうもありがとうございました。ここでは、「いじめ」について、少し別
の角度から考えてみました。参考になったかどうかは、わかりませんが、今、私が思って
いることを、そのまま書いてみました。

 お嬢さんが苦しんでおられる様子は、メールの内容から、よくわかります。またよく理
解できます。しかしこの問題がかかえる、最大の問題は、その怒りや悲しみを、ぶつける
先がないということです。だれに、どう訴えたらよいのかわからないまま、袋小路に入っ
てしまいます。

 本来なら、「そんなに苦しいのなら、学校なんて、行かなくてもいいのよ」と言ってあげ
たいですね。しかしそれが自然な形で言えるようになるには、親自身、さらには社会全体
がもっている意識を変えなければなりません。

 大切なことは、お嬢さんの「心」を守るということです。いえ、キズつくことから守る
というのではありません。こうしたキズには、必ず、二面性があります。キズを、自分の
心のポケットにする子どももいれば、さらに邪悪な心に転化してしまう子どももいるとい
うことです。

 その分かれ道は、「やさしさ」で決まります。今こそ、あなたという親のやさしさの、そ
の真価が試されるときだと思ってください。あなたの愛情と、それから生まれ出るやさし
さがあれば、あなたのお嬢さんの心がゆがむということは、ありえません。どうか、それ
を信じて、前向きに進んでください。

 悲しいことに、いじめる側は、ほとんど無意識のまま、半ば「遊び」の連続として、そ
れをします。本人たちに、いじめているという意識そのものがないのが、ふつうです。言
いかえると、こちら側が、まじめに考えるのが、アホらしくなるほどです。だったら、無
視すればよいのです。といっても、それは口で言うほど、簡単なことではないですが……。

 そこでどうでしょう。こう考えては……。

 親は、子どもを産んで親になりますが、真の親になる道は、遠い、です。野を越え、山
を越え、嵐の中をくぐり抜けながら、前に進む。そしてその結果として、親は、子どもに
よって、真の親へと育てられる。

 STさんがかかえておられる問題が、決して簡単な問題だと言っているのではありませ
ん。しかしこの問題も、前向きにとらえることによって、あなたはあなたとして、それを
自分を成長させるための道具とすることができるということです。

 そうです。これは深刻な問題です。先にも書いたように、社会全体、あるいは人間が本
性としてかかえる問題です。だったら、みんなで、この問題を考えていこうではありませ
んか。……つまり、私がここでいう「前向き」というのは、そういう姿勢をいいます。

 本当に、無力で、ごめんなさい。しかしね、STさん。こうした無力感は、今、始まっ
たばかりですよ。これから先、STさんも、親として、無数の無力感を覚えるはずです。
どうしようもないカベにぶつかりながら、そのつど、「許して忘れる」。子育ては、まさに
その連続です。

 一つ、視点を外に向ければ、格差、貧困、不公平社会。さらに外に向ければ、争い、飢
餓、戦争。いやおうなしに、子どもたちは、そういう世界に巻きこまれていきます。

 たとえば、こんなこともあります。私の息子の一人も、タバコを吸っています。それま
でははげしく禁煙運動をしていた私ですが、以後、禁煙運動はやめました。無力感という
か、大きな挫折感を覚えたからです。

 しかし今、そういう息子を振りかえりながら、息子には息子の、タバコを吸いたくなる
ような、心の状態があったことが理解できます。そして一方に、エイズだの、麻薬だの、
そういう問題があります。今では、「タバコなど、何でもないなあ」と思うようになってし
まいました。

 こうした無力感を感ずるうちに、これは私のばあいですが、その怒りを、外に向けるよ
うになりました。今、こうして評論活動をつづけているのも、その一つです。で、私たち
が、親としてせいぜいできることと言えば、キズついて帰ってくる息子や娘たちが、心や
体を休める場所を、静かに提供することぐらいでしか、ありません。「いつでも、疲れたら、
もどっておいで」とです。とてもつらいことですが、そっと暖かく、見守ることでしかな
いということです。

 何の力にもなれません。たいへん、申し訳なく思っています。ただそれがどんな形であ
れ、あなたのお嬢さんは、今、懸命に、戦いながら生きています。いじめの問題はさてお
き、私はそういう姿の中に、懸命に生きる人間の尊さというか、美しさを感じます。どう
かそういう視点で、あなたのお嬢さんの成長を、見守ってあげてください。約束します。
あなたのお嬢さんが、この問題を乗り切ったとき、あなたのお嬢さんは、まちがいなくす
ばらしい人間に成長します。そしてあなた自身も、すばらしい人間に成長します。

 どうかそれを信じて、前向きに、ただひたすら前向きに、進んでみてください。

 いっしょに、弱い人をいじめる、アホな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
 いっしょに、弱い人をいじめる、バカな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
 そんな気持を忘れずに。それが、私たちの、やさしさなのです。
(030922)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スズメの放し飼い

+++++++++++++

子育ての最終目標は、
子どもをよき家庭人として、
自立させること。

たとえばスズメを例に
あげて考えてみよう。

+++++++++++++

 拾ってきたスズメの子を育てる。ここまではよくある話である。しかしそのあと、その
スズメを放し飼いにする人は少ない。

 しかしこんな人がいる。

 その人は、スズメを拾ってきて、育てた。ある程度、大きくなったところで、外に放し
た。そのほうが、スズメにとってはよいと考えた。が、そのあとそのスズメは、毎日、エ
サを食べるために、その人の家に戻ってくるという(Y新聞、投書)。

 ……この話を聞いて、私は、新鮮な驚きを感じた。

 私も、私の友人も、よく子どものころ、スズメの子を拾ってきて、育てた。しかしその
とき、外の世界へ放してしまう、というところまでは考えなかった。「放し飼い」といって
も、人間によく慣れさせたあと、ぜいぜい部屋の中で放し飼いにする程度である。

 しかしこの違いは、基本的な子育て観の違いといってもよい。

 スズメの子を拾ってきて育てる。そのとき、スズメの子を育てながらも、その自由には
制限をつける。無意識のうちに、そうする。「育ててやる。しかし逃げていくことは許さな
い」と。

 こうした子育て観は、日本人独特のものと考えてよい。そしてそれが、たとえば子ども
の育て方にも現れてくる。

 今、親たちは、子どもを育てている。しかし外の世界にまで「放し飼い」を許す親は少
ない。大半の親たちは、反対に、外の世界へ逃げてゆかないようにする。意識的な行為と
いうよりは、無意識のうちに、そうする。長い間の伝統の中で、日本人は、そうしてきた。
そういう子育てを、ほとんど考えることなしに、繰りかえしてきた。

 たとえば「子どもをかわいがる」という言い方がある。このとき親は、自分の子どもを、
「かわいい子ども」に育てることを、目標にする。そして親にベタベタ甘える子どもイコ
ール、かわいい子イコール、よい子とする。

 反対に親を親とも思わない子どもを、生意気な子とする。そういう子どものことを、私
が生まれ育った岐阜のほうでは、「きつい子」、あるいは「鬼の子」とも言う。こんな例が
ある。

 K君は、岐阜市から車で、一時間半ほどの距離の田舎町に住んでいた。が、中学を卒業
すると、岐阜市内の高校に通うことを希望した。学力もあった。そういうK君に喜びなが
らも、それに猛反対したのが、実はK君の母親だった。K君の母親は、あの手、この手を
つかって、K君が自分の手元を離れることを阻止しようとした。

 母親はまず、中学の先生のところに話しにいった。そして何とか、岐阜へ行くのを思い
とどまるよう説得してほしいと頼んだ。つぎに、K君の通っていた塾の先生にも、それを
頼んだ。岐阜市にいる叔父(母親の兄)にも、それを頼んだ。しかしK君の前では、何も
言わなかった。母親は、K君に嫌われるのを避けたかったようだ。

 今でこそ、こういう例は少なくなった。が、ないとは言えない。子どもは育てる。しか
し最終的には、自分のもとを離れることを許さない、と。

 この違いが、冒頭のスズメの話である。

 これはあくまでも仮定の話だが、あなたはどちらのタイプに近いだろうか。あなたがス
ズメの子を拾ってきて、育て始めたときのことを想定してみてほしい。(もちろんあなたが
小鳥が好きという前提での話である。)

(依存型ママ)拾ってきたスズメを育ててやる。しかし育ててやるのは、私。自分が「か
わいい」と思う間は、外に放してやらない。あくまでも部屋の中で、あるいはカゴの中で
育てる。そのほうがスズメにとっても、安全と考える。勝手に逃げていくことを許さない。

(非依存型ママ)「かわいい」と思っても、やはり野生のスズメは、外の世界に放してやる
のが一番。さみしいと思うが、外に放してやる。育ててやったというような、恩は着せな
い。スズメにとっては、きびしい世界かもしれないが、それが本来、あるべき姿だと思う。

 私も子どものころ、こんな経験がある。

 何かの映画だったと思うが、野生のライオンの子を育てた人の映画だった。その人はそ
のライオンがある程度大きくなったところで、そのライオンを野生に帰すための努力を始
める。その映画を見ていたときのこと。私は、こう思った。

 「もったいない」と。「せっかく育ててやったのだから、自分でペットとして飼えばいい」
とも。

 実のところ、そう思ったということは、私自身が依存型の子育てを、無意識のうちにも、
容認していたことになる。しかしそれは、私自身がそう思ったというよりは、日本がもつ
大きな流れの中で、そういう意識をつくられたといったほうが正しい。私の父も母も、親
戚の人たちも、そして地域の人たちも、みな、そういう考え方をしていた。……今も、し
ている?

 だから私はその投書を読んだとき、新鮮な驚きを感じた。

私「育てたスズメを、外の世界に放してやるという発想は、ぼくの子ども時代には、なか
った」
ワイフ「私は、小鳥を飼わなかったから……」
私「手なづけて、ペットとして飼うということは、考えた」
ワ「あくまでもペットね」
私「そう。日本人は、子どもを育てながら、どこかでペットを育てるようなところがある。
一人の人間として自立させるというよりは、自分のそばに置いて、かわいがるというよう
にね」
ワ「あくまでも自分のためね」
私「そう。子どものためではない。自分のため。ここに日本人が全体としてかかえる、精
神的未熟性がある」と。
 
(030920)

【追記】

いつか子どもは、あなたから去っていく。そのとき、あなたはどこまで無我の境地にな
れるだろうか。ある父親は、息子にむかって、ことあるごとに、こう言うという。「お前
には、三〇〇〇万円も、かけたからな」と。つまり「学費など、三〇〇〇万円もかかっ
た」と。

 その父親は息子にそう言いながら、「だから何とかせよ」と迫っている。その息子氏は、
私にこう言った。「あれくらい、いやな言葉はない。それを言われるたびに、かえって親へ
の感謝の気持ちが、吹っ飛んでしまう」と。

 しかし父親がそう言うということは、そもそも父親の息子に対する愛情を疑ってみたほ
うがよい。何か、大きなわだかまりがあるのかもしれない。

親が子どもに対して犠牲的になるのはしかたないとしても、それを子どもに押しつけて
はいけない。いわんや恩の押し売りをしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 子どもの巣立ち 依存型子育て)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●脳の老化

+++++++++++++

脳みそも、使っている部分は
発達する。しかし使っていない
部分は、老化する。

同じ脳みそなのに、仕事に応じて、
分業している?

最近、英語を翻訳していて、
そんなことを感じた。

+++++++++++++

 このところ英文を訳していると、ほかでは感じない疲れを覚えるようになった。脳ミソ
の中でも、英語を訳す部分は、使う部分が違うらしい。

 こうした現象は、ほかでも経験する。たとえば私は、単純な反復作業が苦手。すぐイラ
イラしてしまう。あるいはさがしものをしているときも、そうだ。

 脳ミソというのは、部分によって、それぞれが別の働きをもっているようだ。言いかえ
ると、そのつどいろいろな部分を鍛えておかないと、やがて使いものにならなくなるとい
うこと。部分的には、活発に動いていても、ほかの部分がダメになるということは、理論
的には考えられる。

 そこでまた、あえて英文を訳してみる。訳しながら、あれこれ考えてみる。テーマは、「人
生論」。

●人生論

As long as a man stands in his own way, everything seems to be in his way: 
government, society, and even the sun, moon and stars. ー Henry David Thoreau
人が、その本文を忘れないかぎり、すべてのものは、うまくいく。政府にせよ、社
会にせよ、太陽や月や星にせよ。(ソロー)

Disobedience is the true foundation of liberty. The obedient must be slaves. 
ー Henry David Thoreau
不服従は、自由の源泉である。服従的な人は、奴隷でしかない。(ソロー)

If I have got false teeth, I trust that I have not got a false conscience. It 
is safer to employ the dentist than the priest to repair the deficiencies of 
nature. ー Henry David Thoreau
もし私が入れ歯をしたとしても、私は、ニセの意識をもったとは思わない。自然の
欠陥をなおすために牧師を雇うよりも、歯医者を雇ったほうが、安全だ。(ソロー)

Obstacles are those frightful things we see when we take our eyes off our goal. 
ー Henry Ford
障害なんてものはね、目標から目をそらしたときに見る、恐ろしいもののことだよ。
(=目標から、目をそらすまで、障害はない。)(ヘンリー・フォード)

Don't do anything by half. If you love someone, love them with all your soul. 
When you go to work, work your ass off. When you hate someone, hate them until 
it hurts. ー Henry Rollins
何でも中途半端なことをするな。だれかを愛するなら、心底、徹底的に愛せよ。仕
事をするなら、ケツの穴が抜けるほど仕事をせよ。だれかを憎むなら、それで自分
の心が痛むまで、徹底的に憎め。(ヘンリー・ロリンズ)

Never let your sense of morals keep you from doing what is right. ー Isaac 
Asimov
正しいことをするために、あなたの道徳を眠らせてはいけない。

For every problem, there exists a simple and elegant solution which is 
absolutely wrong. ー J. Wagoner, U.C.B. Mathematics
どんな問題にも、それを快活するためにの、完ぺきにまちがっているところの、簡
単で、魅惑的な方法がある。

If something is boring after two minutes, try it for four. If still boring, 
then eight. Then sixteen. Then thirtyーtwo. Eventually one discovers that it 
is not boring at all. ー John Cage
二分間してみて、退屈に感じたら、四分間してみろ。それでだめなら八分間してみ
ろ。さらに一六分間してみろ。つぎに三二分間だ。そうすれば結果的に、あなたは
それが退屈でないと、知るだろう。(J・ケイジ)

Man will often act and live as though he were apart from his body, as if improving 
it from the outside. ー Karl Marx
男というのは、しばしば彼の肉体を離れているかのように行動し、生きるもの。あ
たかも肉体を外から改善するかにように。(カール・マルクス)

When you are content to be simply yourself and don't compare or compete, 
everybody will respect you ー LaoーTzu
ただ自分に満足すればよい。戦うために比較するな。そうすれば皆があなたを尊敬
するようになるだろう。(ラオ・ツ)

The real question of life after death isn't whether or not it exists, but even 
if it does, what problems this really solves. ー Ludwig Wittgenstein
死後の世界があるかどうかは、問題ではない。仮に存在したとしても、それがどん
な問題を解決するというのか。(L・ウィッチンゲンスタイン)

If the brain were so simple we could understand it, we would be so simple we 
couldn't. ー Lyall Watson
脳ミソがそんなにも単純なもので、それを理解したとしても、我々は、そんなふう
に理解できるほど、単純ではない。(L・ワットソン)

First they ignore you, then they laugh at you, then they fight you, then you 
win. ー Mahatma Ghandi
最初は彼らがあなたを無視する。つぎに、あざ笑い、それからあなたに戦いをいど
んでくる。そのとき、あなたは勝つ。(マハトマ・ガンジー)

In the end, we will remember not the words of our enemies, but the silence of 
our friends. ー Martin Luther King Jr.
最後には、あなたは敵の言葉ではなく、友の沈黙のほうを覚えているだろう。(マ
ーティンルーサー・キング・Jr)

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live.
 ー Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないというこ
と。(マーティンルーサー・キング・Jr)

●広い世界

 要するに、いかにして自分の住む世界を広くするかということ。脳ミソのレベルでいう
なら、いろいろな部分を刺激しつづけること。決して、かたよってはいけない。そう言え
ば、昔、こんな人がいた。

 その人は、数学の世界では、かなり名の知られた人だった。小学校の算数教育の世界で
は、とくに有名だった。しかしその人は、五〇歳をすぎるころから、今でいうアルツハイ
マー型痴呆症にかかっていたと思う。

 言うことなすこと、メチャメチャで、トンチンカンだったが、数学の問題だけは、難解
な問題でも、スラスラと解いていた。つまり彼のばあい、脳ミソのほかの部分は、おかし
くなったが、数学の問題を解く部分だけは、そうでなかったということ。もっとも、その
部分も、やがてあとを追いかけるように、おかしくなったが、そういうことはある。

 脳ミソ全体を活性化するためには、いろいろな方面に興味をもち、そのつどチャレンジ
していかねばならない。たとえば、いわゆる専門バカになるのは、たいへん危険なことで
ある。その部分は活性化するかもしれないが、ほかの部分が、ダメになってしまう。

 ……と書いて、「では、私はだいじょうぶか?」と、今、思った。冒頭に書いたように、
英文を翻訳していると、昔は感じなかった、疲れを覚えるようになった。これはどういう
現象によるものか。

 一説によると、言語野は左脳にあるという。しかし英語の意味を直感的に考える部分は、
右脳にあるという。となると、私が感ずる疲れは、左脳と右脳が情報をやり取りする部分、
つまり脳梁(のうりょう)に原因があるのではないか、ということになる。(あくまでも素
人判断だが……。)

 そう言えば、このところ絵を描かなくなった。作曲もしなくなった。少なくとも、この
一〇年、ほとんど、していない。そういう点では、右脳がつかさどっているとされる、ク
リエイティブな力が落ちてきたかもしれない。

 いかにして、脳ミソ全体を使っていくか。脳ミソに新しい刺激を与えていくか。ひとつ
の実験として、ポルノ小説を書いてみる。(あくまでも、創作小説だぞ!) あなたの脳ミ
ソを活性化するのにも、少しは役だつかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 脳の老化 分業)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++はやし浩司5081

●自己の統合性

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. 
ー Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないというこ
と。(マーティン・ルーサー・キング・Jr)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その
日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからで
ある。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街
に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だ
が、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田
切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下
町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがい
を求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでい
く」(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!


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