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はやし浩司のメインHP 電子マガジン総合INDEX
2008年 4月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 2日
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★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

私の方の配信手違いで、マガジンのほうでは、別のページを送信してしまいました。
改めて、HTML版を送ります。

すみませんでした。

http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html

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(なお、4月中は、この方式で、つまり別便で、HTML版を送ります。)

浜松市 はやし浩司


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2008−4








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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 30日
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★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●行きすぎた指導(Excessive Teaching)
In one of elementary schools in Japan, a young woman teacher forced a second grader to 
sit and study on the floor, since the girl had forgotten her homework at home. This hurt 
the girl and she started suffering from a mental problem and she refused to attend 
school since then. The teacher has continued visiting her home and trying to hand 
letters to her, but all her actions are refused. This is a sad story for a teacher as well as 
for a girl and for the mother.

++++++++++++++++++

廊下に、土下座させて指導?

しかしそんなのは、指導ではない。
もちろん教育でもない。

江戸時代の昔なら、いざ知らず、
いまどき、廊下で、土下座?

「行きすぎた指導」(校長)で
あることは、事実。

その教師に弁解の余地はない。
ないが、ここでは、一歩、
退いた視点で、子どもの指導に
ついて、考えてみたい。

++++++++++++++++

何といっても子どもの指導で難しいのは、
子どもといっても、千差万別。
生まれ育った環境もさることながら、
「心」の内容も、さまざま。
親の価値観も教育観もちがう。

つまり同じ指導をしても、
それを受け取る子どもによって、
その受け取り方は、みなちがう。

私は、こうした指導を受け取る部分を、
「レセプター」と呼んでいる。

そのレセプターは、みな、ちがう。
このレセプターを無視して指導すると、
たいへんなことになる。

……ということを改めて知らされた
事件が、F県で、起きた。

ふつうの状況なら、ひょっとしたら、
何でもない指導だったかもしれない。

子どもによっては、笑ってすんだ話かも
しれない。

あるいは教師と父母の間に、
一定の信頼関係があれば、別の解決方法が
あったかもしれない。

さらに言えば、教師にしても、まさか
そこまでことが深刻になるとは、
思っていなかったのかもしれない。

「軽い罰(ばつ)」のつもりでした罰が、
子どもの心に大きな傷を残してしまった。

今回の事件は、そんな事件である。

+++++++++++++++++

スポーツ報知は、つぎのように伝える(4月4日、ヤフー・ニュースより)

+++++++++++以下、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

F市立H小学校で3月、20代の女性教諭が当時2年生の女児(8)に対し、忘れ物を理
由に教室で授業を受けさせず、廊下でプリントの問題を解かせ、女児が精神的苦痛を理由
に不登校になっていたことが3日、わかった。

年度末の総まとめに燃える教諭が、女児の週3回の忘れ物に激怒した末に至った「行きす
ぎた指導」(同校校長)。女児の母親からは学校に「(女児が)自傷行為をした」との連絡も
入っているという。

F市教育委員会やH小学校によると"事件"が起きたのは3月14日。始業前、算数のプリン
トの宿題を「忘れました」と申告した女児に対し、教諭が「今はまとめの時期なのに、そ
れでは3年生になれない」「あなたは2年生ではない」などとしかった。

教諭は女児を、同じ階の1年生の教室の前に無理やり連れて行き、放置。同校は廊下と教
室の間に段差や仕切りがない「オープン教室」建築を採用しており、女児の姿は1年生や、
水飲み場で清掃活動をしていた6年生らに見られていた。

1時間目の途中、女児はクラスの記念撮影のため教諭に呼ばれ、教室横の「フリースペー
ス」に入ったが、再び教諭から「1年生からもう一度やり直さないといけない」などと諭
され、廊下に戻った。2時間目、算数のプリントを配布されると、女児はその場でひざを
つき、木の床にはうような姿勢で問題を解いた。

始業前から2時間目の終わりまで約2時間、女児は廊下にいたことになる。3時間目から
は通常通り授業に参加。女児はこの週、算数のプリントの宿題を忘れたのが3回目で、教
諭は「年度末で、しっかりまとめていこうとクラスの意識を盛りあげたかった」と、「廊下
でプリント」指導に至ってしまった心境を説明しているという。

学校には、14日夜に女児の母親から抗議の電話があった。女児はそのまま不登校になり、
春休みに突入。母親から学校に入った連絡によると、女児は病院で「強迫性障害」の疑い
と診断された。女児は「死にたい」「眠れない」と話し、髪の毛を抜くなどの「自傷行為を
繰り返している」との連絡も入ったという。

教諭は「申し訳ない」と、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる。関係者によると、教諭は先生になって今年で3年目。「厳しいとこ
ろもあるけど、熱心」という。

+++++++++++以上、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

記事の内容をまとめると、こうなる。

(1)ある女児(小2)が、忘れ物を繰り返した。
(2)担任の教師が、激怒した。
(3)罰として、廊下で、その女児に学習をさせた。
(4)女児は、自傷行為を伴う、「強迫性障害の疑い」と診断された。
(5)女児は、3月に入って以来、不登校を繰りかえしている。
(6)教師は、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函している、と。

まず、忘れ物について。

子どもによっては、(この女児がそうというわけではないが)、いくら注意しても、
それをなおせない子どもというのは、いる。

集中力そのものが散漫というか、反対に、いつも四方八方に、触覚がのびていて、
そのため、ことの重要度が適確に判断できない。あるいはひとつのことに集中しすぎて、
ほかの面がおろそかになる。

ふつうは、このタイプの子どもは、メモ用紙にメモを残させるなどという方法で
指導するが、学年があがるとともに、症状は、軽減する。
(中学生くらいになると、忘れ物はぐんと減るが、それでも、なおったという
状態にはならない。)

で、こうした症状は、生来的なもので、叱ったくらいでは、なおらない。
そのため、叱っても意味はない。
その子は、そういう子どもと認めた上で、指導するしかない。

全体としてみると、このタイプの子どもは、10〜15人に、1人はいる。
知的能力との関連も指摘されるが、私の知るかぎり、それはない。

その教師は、たぶん、経験も浅いということもあって、そういうことを知らなかった
のではないか。

もちろん繰りかえすが、その女児がそうであったと言っているのではない。

私が言いたいのは、子どもの世界では、忘れ物は当たり前ということ。
みんな忙しい。子どもだって、忙しい。親は、さらに忙しい。
何もかも教師の指導どおりに……というわけにはいかない。
そういうことも知った上で、つまり「忘れ物は当たり前」という前提で、
子どもの指導に当たっていたら、こういう不幸な事件は起きなかったかもしれない。
その教師には、そうした(おおらかさ)が欠けていた?

つぎに、「廊下で学習させた」ということについて。

その教師を批判して申し訳ないが、その教師は、かなり権威主義的なものの
考え方をする教師のように思う。
「謝るときは、土下座」式の、古風な教育観をもっているのかもしれない。

仮に反対の立場で、そういうことをされたら、その教師は、どのように感ずるだろうか。
子どもに土下座をさせてはいけない。
子どもを廊下に土下座させて学習させてはいけない。

武士道とやらを信奉する人にとっては、そうではないかもしれないが、こんなことは、
指導のイロハ。

(もっともアメリカの小学校などでは、図書館などでも、みな、寝ころんで本を
読んでいたりするが……。)

しかし何よりも問題なのは、信頼関係。
教師と子ども、教師と親の間の信頼関係がしっかりしていれば、こうした事件は
起きなかった。
仮に起きたとしても、別の解決方法があったはず。
ばあいによっては、たがいに、笑ってすんだ話かもしれない。

「私、廊下で勉強させられちゃった」
「バカねエ」
「ハハハ」と。

さらに冒頭に書いたように、レセプターはみな、ちがう。
児童心理学の世界にも、「過敏児」「鈍感児」という言葉がある。
繊細な感覚をもっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
(もちろんその女児が、敏感児だったと言っているのではない。誤解のないように!)

A君に有効だった方法が、B君にもそのまま有効とはかぎらない。
ばあいによっては、とんでもない方向へと、ことが進んでしまうかもしれない。
今回の事件も、そういう経緯をたどった可能性がある。

ただ、だからといって、一方的に、その教師を責めるのもどうか?
無知はそれ自体、罪だが、そこまでオールマイティな教師を求めるのも、むずかしい。
「子どもの忘れ物なんて、何でもないですよ」という指導ができるようになるまでには、
10年とか20年の経験が必要。

幼稚園の世界でも、「親がなっていない」「親の顔が見たい」などと言うのは、
たいてい自分で子どもを育てたことのない若い教師。
自分で子どもを育ててみると、そうはいかない。
そうはいかないことを、さんざん、思い知らされる。
と、同時に、こういう生意気な(ゴメン!)言い方は、消える。

その教師にしても、「教師になって3年」とか。
その教師は教師なりに、「熱心に指導」(報道)したのかもしれない。

で、気になるのは、「毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる」という部分。
女児はもちろんのこと、親にも会えない状態がつづいているということか?
親の気持ちもわからないではないが、もしそうなら、親のほうも、ほんの少し、
心を開いてほしいと願う。

大切なのは、子ども。子どもの心。
子どもの立場で見て、親と教師が緊張関係にあるのは、たいへん、まずい。
その緊張関係が、子どもの心をさらに悪い方へもっていってしまう。
その危険性は、ないとは言えない。

……ということで、今度は、教育についての一般論。
こういう事件を見聞きする教師の立場で、考えてみたい。

現在、「教育」そのものが、たいへんやりにくい時代になっている。
今回の事件は別として、どこの学校へ行っても、「萎縮する教師」が話題になる。
今では、子どもに向かって、命令したり、怒鳴ったりすることは、タブー。
「掃除をしなさい!」(=命令型)はだめ。
このS県でも、「掃除をしてください」(=お願い型)、「掃除をしましょう」(=提案型)
という言い方に変わってきている。
プリントを丸めて子どもをたたいただけでも、「そら、体罰!」と、問題になる。

「教師の萎縮」イコール、「教師のやる気の喪失」と考えてよい。

その上、目が回る忙しさ。
子どもが家出をしたときでも、親たちが真っ先に電話をするのが、担任の教師。
学校でもない。自治会でもない。学校の教師、だ。

ある女性が、こんなメールをくれたことがある。

「夫(=中学校教師)は、昨晩も、家出した生徒を捜し回って、家に帰ってきたのは、
午前2時です」と。

こんな事件を見聞きしたら、あの産婦人科医問題と同じように、この先、学校の
教師になる人は、いなくなってしまう(?)。

もちろんだからといって、その教師のしたことを擁護しているのではない。
校長が言っているように、「行きすぎた指導」であることには、ちがいない。
その教師は、してはいけないことを、してしまった。
それは事実。
どうか、誤解のないように!

……ということで、この話は、ここまで。

しめくくりとして、この報道だけでは、これ以上のことはわからない。
今回の事件にいたるまで、何があったのか? またなかったのか?
ただただ残念な事件であることには、ちがいない。

子どもの気持ちもよくわかる。
教師の心痛も、これまたよくわかる。
その間に立って、その親は、本当に苦しんでいる。
本来なら、愛しあい、助けあい、慰めあう人たちが、たがいに袋小路に入って、
もがいている。
これを悲劇と言わずして、何と言う。

早く、その女児が、立ちなおってくれることを、心から願う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 行きすぎた指導 体罰 廊
下で学習 強迫性障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集・東洋医学】

●目で見る漢方診断

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みなさんは、「漢方(医学)」をご存知ですね。
広くは、「東洋医学」とも言います。

最近では、「東洋医学」と呼ぶほうが、
一般的になっているようです。

その「漢方」、ルーツは、「黄帝内経・素問」と、
「黄帝内経・霊枢」という、2冊の書物です。
それぞれ、「こうていだいけ・そもん」
「こうていだいけい・れいすう」と読みます。

「書物」というよりは、「バイブル」と呼んだ
ほうが、正しいかもしれません。

私たちが現在、東洋医学と呼んでいるものは、
これら、黄帝内経・素問、黄帝内経・霊枢に
始まり、同じく、黄帝内経・素問、黄帝内経・
霊枢に終わると言っても過言ではありません。

今度、私のHPのほうで、私が若いときに
書いた、『目で見る漢方診断』を、全ページ、
公開することにしました。

そのこともあって、かつて黄帝内経について
書いた原稿を、ここに再録することにしました。

「漢方!」と、どうか、逃げないでください。
黄帝内経には、日常で役立つ健康法が、
いっぱい書かれています。

もしみなさんが、ここに再録した原稿を
読んでくださり、またHPに収録した
『目で見る漢方診断』に目を通してくだされば、
あなたは、ちょっとした、漢方の「通(つう)」
になれますよ。

おもしろい世界です。
どうか、一度、ドアをたたいてみてください。

Welcome to Chinese Medical Science!

++++++++++++++++++

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、
東洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書か
れたものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、
黄帝内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、
多くの医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中
国に残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和
寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの

的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同
一人物でないかと思うようになった。

黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文明を築いた、シュメール人には、
ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、ここの目的ではないので、省略す
る。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな
変化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、
サルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、
こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真
円である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は

正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の
直径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話
題になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたく
さん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサ
イトを開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもち
ろん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、
NASAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセ
ントにすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しか
し、クレーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、
何でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
ではないか。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合

したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、
メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の「史
記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれたも

と言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に

されてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝
子工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に

んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を

つようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。
「天から来た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(こ
の形に似た楔形文字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味で
ある。メソポタミアでは、神(エホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書
いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。
が、これだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて
呼ぶならわしがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「d
ingir 〜〜」というように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。
たとえば、「キング・ジェームズ」とか、など。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」
という部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れ
るサルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ

になってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、私の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかし
そんなことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が

さくなっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。
「人間は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎ
りなく自分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、
どこまでも明るい。
(030925)

+++++++++++++++

ついでにもう1作!

日付を見ると、2004年の
原稿ということになっています。

内容が一部、ダブりますが、
お許しください。

+++++++++++++++

【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ

も、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった
7500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大
きな変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった
(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。
それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれて
いる。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく
似ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似
た土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つなが
っている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シ
ュメール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、
ほぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってき
たとされる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてか
ら、こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、
35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(た
ぐい)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。
何か、目標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがって
いるかもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、い
つの間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、
中国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)


+++++++++++++++++

そして「黄帝内経」へ……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。
漢方(東洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にある
とは言わないが、しかしこの本がその原点にあることは間違いない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法
と逆であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(きはく)という学者の問答形式
で書かれているが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質
問、さらには矛盾につぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言っ
た」という形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話
をその中に書いている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な
権威ということになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分も
あるが……。)岐伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由が
ある。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢
書「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたこと
が正しいかどうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流
に、だからといって「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかと
いう疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしか
ない。科学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことで
もある。その科学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝とい
う聖王の無謬性(一点のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という
哲学と大きく違う点である。つまり黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせること
によって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情が
ある。黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。し
かし断片的な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことで
ある。たとえばこの私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いま
だに「教育論」なるものは、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くこ
とはできない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医
学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。
これは実は聖書についても同じことが言えるが……。

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謎はつづきます……。

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●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中に
つぎのような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、
「岐伯曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫
氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)とな
る。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の
中にある」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識
をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当
時の常識と考えてよいのか。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世
紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の
王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦七六二年の常識ではなかった
はずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮
内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もな
い状態と考えるのが正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」とい
う意味。気のひとつである。その気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚とい
う。今風に言えば、まさに真空の状態ということになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識
に沿って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始ま
った、蓋天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代であ
る。

恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分
の増さんには苦心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの
話だが……。)その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見ら
れる。つまりわざと医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。

さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんな
ことをこんなところに書く必要はない。この文につづくつぎのところでは、気象の変化
について述べているのである。王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、
改ざんしきれなかったのではないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時
の私は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄
帝ととらえた。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五
〇〇年。今から五五〇〇年前ということになる。

(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)少なくと
も、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。

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もう少し、深く考えてみましょう!

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●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざん
された。それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削
り、新しい文句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、
薮内氏の訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日
余でまたもとの位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、
小曾戸氏のほうでは、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と
気のめぐり方には一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳した
ものと思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。

一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。こ
の部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、
その傾向が見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳して
いる。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言
葉はどこにもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされ
たともとれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考え
られる。

中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。
そういう時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをし
たため、弾圧された人すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の
回転について」)。宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。
さらに中国では、中国式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく
排斥された。そういう時代的背景を忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなけ
ればならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱え
るについて、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられな
いこともない」というように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさき
に削除されたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、
あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからと
いって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されない。

私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、そ
の向こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言い
かたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。


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いよいよ核心部分です!

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●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対し
て、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもど
る」とある。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼ら
は迷わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三
六五日余で一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、
医学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、
そんな常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んで
ほしい。こうある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動き
について聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。い
わんや大気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただ
け、と考えるほうが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに
書く必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、
改めて書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、
それこそまさに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説
はおろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう
前提で訳している。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左
右から」という部分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と
訳したが、本当にそれは正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したら
いけないのか。もし「左右に(回って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置に
もどる」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つ
まり右転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。
つまり左転している。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、
まさにそれをいったものである。

++++++++++++++++++

ここから先は、ロマンです。
壮大なロマンです。

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●火星探査機

 二〇〇四年一月五日。アメリカ航空宇宙曲の無人火星探査機『スピリット』が、火星へ
の着陸に成功した。

 アメリカから日本のどこかにホールインワンをしたようなものだと、マスコミは書いて
いた。着陸地点はかつて湖があったと推測される、赤道付近のグセフ・クレーターだ、そ
うだ。水があったとするなら、生物がいた可能性は、きわめて高い。

 このニュースを聞いたとき、またまた私のロマンが、かぎりなくふくらんだ。火星には、
生物がいたのではないか。しかもその生物は、自ら、火星そのものを破壊してしまうほど、
高度な文明をもっていたのではないか、と。

 一説によれば、火星が今のような火星になってしまったのは、そこに住む生物によって、
環境破壊が進んだからだという。ちょうど、今の地球で起きていることと同じようなこと
が、火星でも起きたということになる。

 この地球も、あと一〇〇年とか、二〇〇年もすると、温暖化がさらに加速され、ゆくゆ
くは、今の火星のようになるかもしれないと言われている。つまり、火星にも、かつて環
境破壊を起こすほどの生物がいたということになる。

 犬やネコのような生物ではない。人間のような生物である。

●人間は、火星人の子孫? 

 ここから先は、荒唐無稽(こうとうむけい)な、ロマン。空想。そういう前提での話だ
が、しかしもし、人間が、それらの火星人によって作られた生物だとするなら、これほど、
楽しい話は、ない。

 最近、人間は、遺伝子の中のDNAを組みかえる技術を、身につけた。この方法を使え
ば、陸を歩く魚だって、作れることになる。空を飛ぶ、リスだって、作れることになる。

 もし火星人たちも同じような技術をもっていたとしたら、自分たちの脳ミソをもった、
サルを作ることなど、朝飯前だっただろう。いや、ひょっとしたら、人間は、そうした技
術によって、火星人ではないにしても、だれかによって作られたのかもしれない。

 そこで、これはあくまでも、仮定の話だが、もし火星人たちが、地球に住んでいたサル
を見つけ、そのサルの遺伝子の中に、自分たちの遺伝子を組みこんだとする。そしてこの
地球上に、新しい生物が生まれたとする。で、そのあとのこと。火星人たちは、その新し
く生まれた生物に、何をするだろうか。

 私が、火星人なら、その生物たちを、教育しただろうと思う。言葉を教え、文字を教え、
そして生活に必要な知識を教えただろうと思う。

 もちろんこれは、ロマン。空想。しかし順に考えていくと、どうしても、そうなる。つ
まり、私が若いころ出あった、東洋医学、なかんずく黄帝内経(こうていだいけい)は、
こうして生まれた本ではないかと、いつしか、私は、そう考えるようになった。

●壮大なロマン

 私は、いつでも、どこでも、コロリと眠ってしまう割には、よく、夜、ふとんの中に入
っても、眠られないときがある。

 そういうとき、私は、この壮大なロマンを、頭の中に描く。

 かつて仰韶人と、シュメール人は、同一の「神」をもっていた。仰韶人の神(帝王)は、
黄帝。シュメール人の神は、エホバ。天を駆けまわる神々は、黄河流域に住む仰韶人に、
科学を。そしてチグリス・ユーフラテス川にすむ、シュメール人には、宗教を与えた。

 こうして地球上で、人間による文明は、始まった……。

 しかしこういう話をまともに書くと、まず、私の脳ミソが疑われる。実際、こうした荒
唐無稽な話をかかげて、おかしな活動をしている宗教団体は、いくつか、ある。

 ただ私のばあい、こうした話はこうした話として、生活の一部に、しまっておくことが
できる。ロマンは、ロマン。空想は、空想。いつもいつも、頭の中で、考えているわけで
はない。

 が、こういう壮大なロマンを頭の中でめぐらせていると、いつの間にか、眠ってしまう。
それはちょうど、私が子どものころ、『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』を、頭の中で想像
しながら眠ったと同じ。そのころの習慣が、そのまま残っている。そう、私には、その種
の話でしか、ない。また読者のみなさんも、そういうレベルの話として、このエッセーを
読んでほしい。

 では、おやすみなさい!
(040105)

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謎の民族、それがシュメール人です。
何でも乾電池まで使っていたという説
があります。

よくオーパーツの一つとして、あちこちの
雑誌にもよく登場します。

しかし知れば知るほど、不思議な民族で
あるのは、事実です。

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●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ
離れた文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、
よく知られている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのこと
だった。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシ
ャオ人(?)の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤ
ンシャオ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだ
けである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味
が、同じであるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、
意味は「星から来た神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書
いた。なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブ
ルとも言われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。
この中の素問は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだ
ろうか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以
後に写本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁
和寺にあるという。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされて
いる。なぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。
年代的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよ
い。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていた
のか。そういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹
介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブッ
クス」(学研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、
と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってか
ら、ティアトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝
突してできたということになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動
説よりは、ずっと、どこか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができ
ない天王星や海王星、さらには冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベー
スに、宗教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これ
またとんでもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! 
それがシュメール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で
考えたり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、もの
の見方が、変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、
こう言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみ
たいなものだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはな
い。ただし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人
だの、中国人だのと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとする
なら、一度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、
西暦3600年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、
ロマンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感
じたようなロマンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始ま
る、あの映画である。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩
いていると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の
帰りにでも、またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の
別の惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。
ひょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをし
ている? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやって
くるのは、多分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消でき
るのも事実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成
構造が、地球とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには
宇宙人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月
を見ながら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情
をしてみせるが、こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の
中で、「ウム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、
数字が並び、その計算式が書いてある。

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1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

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 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、
ニネヴェのアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調
査した結果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に
関するものであると結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(お
よび秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に
太陽のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が
1周してもとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるので
ある。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転
するのに要する時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的で
あるが、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、そ
の移動周期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたって
は、現在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いること
だろう。

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 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、
計算したもの。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまっ
たく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私
たちが知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2
万5920年と、計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげて
みよう。そこには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少
しずつ、西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるよ
うに、1年に、2万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第
一、その時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度妙な
移動など、どうすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置い
てある跳び箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、
500回転周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いて
ある。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描け
ない。しかし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図
形としては、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を
拾ってみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形
文字の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個
数と、点を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれ
ない可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の
点を線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字では
ないか!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書
を買って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でも
よい。その点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文
字と一致するという。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で
交わっている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということにな
る。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結
んでできた文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは
順序が逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が
集合されて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たち
は、文字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったというこ
とになるのだろうか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それ
を結ぶ線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑な
キーボードは必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動か
すことなく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。
想像するだけでも、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚え
た感動がもどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明して
やるつもり。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そ
うねえ」と感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 
運動周期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくび
を始めた。(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

++++++++++++++++++

さてどうですか?

東洋医学に興味をもってくださいましたか?

よろしかったら、『目で見る漢方診断』を
一度、ご覧になってみてください。

私のHPのトップページより、お読み
いただけるようにしてあります。

現在、改訂版を、HPにアップロードして
います。
より読みやすく、編集しています。

よろしく!

+++++++++++++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 黄帝内経 素問 霊枢 漢
方 目で見る漢方診断 はやし浩司 東洋医学 経穴編)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます!
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 4月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●とても、すばらしい話(A Wonderful Story)
My son has written a wonderful story, which was actually happened in one of schools in 
USA. Here I would like introduce it.

++++++++++++++++

息子がこんな記事を、自分のBLOG
に書いた。

そのまま紹介させてもらう。

++++++++++++++++

●ピンクのシャツ 

幼稚園と小学校が普通一緒になっているここアーカンソーでは、
誠司が今年8月から行く幼稚園/小学校へ、今ぐらいから登録の
手続きをしなければいけない。知人とよく小学校の話をしてい
て気になるのは、皆そこへ行っている子供の親の平均収入の話
だったり、NCLBで行っている統一テストの平均点だとか、そう
いうくだらない話が多い、ということだ。

前までは高校でそんな話を聞くことが多かったと思うのだけど、
今では幼稚園からそんな感じなのだろうか。

学校の良し悪し、というのはそこでどんな友達を作り、彼らと
どんな経験をするか、ということに尽きる。

去年の9月の年度始めに起きた(北米の学校は9月に始まる)、
どこにでもある普通の中、高校での出来事。

ある最年少の生徒が、ピンク色のシャツを着て初めてこの学校
へ登校して来た。年上のいじめっ子がその少年を見つけ、「お前、
ホモだろう、明日から毎日ぶっ飛ばしてやる。」などと脅した。
それを見つけた2人の生徒が、僕を含め北米全土が注目する行動
を起こす。

「もういじめなんて沢山だ、と思ったんです。」
後のインタビューでそのうちの一人が話したコメント。

いじめを目撃した次の日、彼らは地元の安売り店でピンク色の
シャツ50着を買い、いじめられた生徒の側に立とうと、翌日
そのシャツを着て登校。Eメールなどで他の友人に呼びかけ、
反いじめの為に賛同するよう促した。次の日、彼らが登校すると、
予想していた10、20人の参加を遥かに上回る数百人もの生徒が
ピンク色のシャツを着て登校し、クラス、学年を超えて学校中が
ピンクだらけになったのだそうだ。

そんな中、いじめられた生徒が学校へ登校してきた時の光景を
目撃したクラスメート達は、「とても感動的な光景だった」と
話している。そのクラスでの模様を想像する度にいつも鳥肌が経つ。

「いい学校」とはどこかに住所付きで存在するのではない。
平均点だとか、いくら予算があるだとか、くだらないデータを
元にアタフタせず、僕はただ誠司によい友達とかけがえのない
思い出を沢山作って欲しいなあ、と願うのみ。
(08年4月1日)

++++++++++++++++++

●『No Country』

たまたま今、『No Country』という映画を見てきた。
07年度、アカデミー賞・4部門を獲得したとか。
期待が大きすぎた分だけ、がっかり。
ただの殺人映画。
頭の狂った殺し屋の、ただの殺人映画。

「どうしてあんな映画が、アカデミー賞?」と、叫びたくなる
ような映画だった。

ただ一点、ところどころに、ベトナム戦争の話が出てきたのが、
気になった。
みな、あの戦争の犠牲者(?)ということか。

星は、ひとつの★。が、本当は、ひとつもつけたくない。
帰り際、「二度と見たくないね」と言うと、ワイフも
すなおに、それに同意してくれた。

で、そのとき、こんな会話もした。

私「どうしてあんな映画が、アカデミー賞で、4部門も獲得
したんだろ?」
ワ「アメリカの世相を、そのまま反映しているからじゃ、ない?」
私「あんなに、殺伐としているんだろうか?」
ワ「かもね……?」と。

で、家に帰って、息子のBLOGをのぞく。
読んで、ほっとする。

いつだったか、息子の友人のスミスという男性が、私たちを
車で空港まで送りながら、こんなことを言ったのを思い出す。

「Mr & MRs ハヤシ、ハリウッド映画だけを見て、
これがアメリカだと思わないでほしい」と。

今、その言葉が、しみじみと胸の中で、響く。

アメリカといっても、広い。このアジアがスッポリと入るくらい
広い。
だからいろいろな人がいて、いろいろなドラマを展開する。
それはわかるが、『No Country』は、たとえそれが
事実ではあっても、いちばん見たくない映画の部類に属する。
(きびしい批評で、ごめん。)

あえて言うなら、だれだって小便をする。大便もする。
しかしだれが、小便する男の映画や、大便をする男の映画を
見たがるだろうか。
とくに子どもには、見せてはいけない!

私「日本にも、昔、緒方拳が主演した、『復讐するは我にあり』
という映画があった。ぼくは、あの映画のほうが、凄味(すごみ)
があったように思う」
ワ「そうね。あの映画のほうが、凄かったわね」と。

そのとき道路で、知りあいの女性が、「こんにちは」と声を
かけてくれた。
その瞬間、私たちは映画の世界から解き放された。我にかえった。

息子へ、

すばらしい話、ありがとう!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●4月1日(火曜日)、2008(April 1st, 2008)
I think of an un-seeable world beyond this seeable world.

+++++++++++++++++

今朝、ワイフより少しだけ早く起きて、
ワイフにこう言った。

「オ〜、外は雪だ。
雪が積もっている!」と。

それを聞いて、ワイフがフトンの中で、
首をすくめながら、こう言った。

「おかしな天気ね」と。

エイプリル・フール!

……という冗談が通じるほど、
今朝は寒かった。
冬に逆戻り?

そんな感じがした。

+++++++++++++++++

●姫路城

昨日(3月31日)は、兵庫県は、姫路城まで行ってきた。
朝方、天気が心配されたが、行ってみると、晴。
ほどよく白い雲が浮かんでいて、写真撮影には、申し分なし。

おまけに桜が、部分的に、満開。
さすが、世界遺産。天下の名城。
まるで夢を見ているかのような、(ホント!)、景色だった。

あとでYOU TUBE用に、動画を編集してみるつもり。

+++++++++++++++++

●光と分子の織りなす世界で……(Un-seeable Another World)
There may be another un-seeable world beyond this seeable world. What we can see 
now is not everything. Or we had better not think this seeable world is all.

+++++++++++++++

今、こうして見えるものだけを見て、
「これがすべて」と思ってはいけない。

この(見えるもの)の向こうには、
まったく別の世界がある?

+++++++++++++++

昨日、バスの中で、こんなことを考えた。
「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」と。

たとえば長野県の野辺山には、電波望遠鏡というものがある。
電波望遠鏡というのは、その名のとおり、宇宙からの電波をとらえて、それを(見る)
望遠鏡である。

もちろん人間の目では、電波を見ることはできない。
一度その電波を、人間の目にも(わかる)ように、画像に変換して、(見る)。

さらに(見る)といっても、実際には、大脳の後頭部にある視覚野に映った映像を、
脳が感知しているにすぎない。
わかりやすく言えば、視覚野というのは、パソコンのモニターのようなもの。
そこに映った映像を、脳が、(見る)。

そこにある物体にしても、そうだ。

どれも分子のかたまり。
かたまりというよりは、集まり。
しかし分子ということになれば、その間にある、空気(酸素や窒素)にしても、
これまた分子の集まり。

が、私たちは、空気を、直接見ることはできない。
「見ることができない」というよりは、「見えないようにできている」。

こうしておおざっぱに考えてみると、「見る」ということにしても、「そこに
物がある」ということにしても、たいへんあやふやなことであることがわかる。
私たちは、すべてのものを見ているように思っているかもしれないが、
その実、私たちのまわりには、見えないものも多い。

そこで私は、あらためて、周囲にある(物)を見てみる。

青い空、白い雲、若葉を吹き始めた山の木々……。
そこにある(色)にしても、これまたたいへん、あやふやなものである。
どうして青が、青なのか。
どうして緑が、緑なのか。
どうして白が、白なのか。

たとえば昆虫などは、人間にとっては同じ赤でも、いろいろな赤に見分けることが
できるという。
中には、人間には見えない、紫外線や赤外線を見ることができる動物もいるという。
つまり、私たちが見ている(色)にしても、絶対的なものではない。

……というふうに考えていくと、「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」
ということになってくる。
このことを逆に言うと、「見えているものだけがすべてではない」イコール、「見えて
いるものの向こうに、もっといろいろなものがある」ということになる。

このことをバスの中でワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「でも、物は、ちゃんと、そこにあるわよ」「手でつかむことができるから」と。

それは、そうだ。

物は分子の(集まり)なら、手も分子の(集まり)。
ほどよく(硬さ)が同じなら、私たちは、その物を手でつかむことができる。
しかし「ほどよい」と言っても、たいへん微妙なもの。
たとえば空気などは、手でつかむことはできない。

反対に、人間の手が、空気のようなものだったら、これまたそこにある物を、
手でつかむことはできない。

(物)といっても、人間にとっての(物)であって、そこに「物がある」と断言
するのは、どうか?

たとえばこの宇宙には、電波の集合体のような、巨大な生物がいるかもしれない。
もしそんな生物がいたとするなら、地球など、スルスルとすり抜けてしまう
かもしれない。

……というのは、荒唐無稽な話だが、たとえばイルカなどは、超音波を発信して、
その反射波をとらえて、脳の中に映像らしきものを映し出すことができるという。
(見る)といっても、いろいろな見方があるということ。
またそれによって、見えるものも、すべてちがうということ。

つまり人間について言うなら、私たちは、人間という生物の目を通して、
それを見ているにすぎない。
しかもその見えるものと言えば、あくまでも人間にとって、見えるものにすぎない。

もし人間が、紫外線まで見ることができたとするなら、青い空は、紫色に見えるはず。
そしてそこにオゾンホールのようなものがあれば、私たちが白い雲を見るように、
紫色の雲を、そこに見るはず。

さらに赤外線まで見ることができたとするなら、光のない真夜中でも、熱を発する
生物を見ることができるはず。
ちょうど軍隊が使っている、赤外線スコープのように、だ。

(物)といっても、光が反射しているから、物としてわかるにすぎない。

私「この世界は、映画、『マトリックス』の世界のようなものかもしれないね」
ワ「どういうこと?」
私「つまりね、ぼくたち自身が、実は仮想現実の世界で生きているかもしれない
ということ」
ワ「別のところに、別の世界があるということ?」

私「そうかもしれない。しかしその別の世界というのは、この世界とは、まったく
異質の世界かもしれないよ」
ワ「まるで、ホーキング博士みたい……」
私「何が?」
ワ「ホーキング博士も、私たちが住んでいるような大宇宙は、ここにも、そこにも、
無数にあると言っているわ」

私「そう……。でもぼくたちは、それを見ることができない。さわることもできない」
ワ「不思議な世界ね」
私「いやね、そういう世界が不思議というわけではないんだよ。ぼくたちが生きている、
この世界もまた、不思議な世界だということだよ」
ワ「……?」
私「いいか。こちらから向こうの世界を見ると、不思議な世界と思うかもしれないが、
向こうの世界からこちらの世界を見ると、不思議な世界に見えるはず」と。

考えれば考えるほど、私たちは、不思議な世界に生きている。
この大宇宙にしても、もとはと言えば、(無)がふたつに分かれてできたという説が
ある。(線)のような世界が、爆発してできたという説もある。

どうやってこの宇宙が生まれたかは別にして、ともかくも、私たちは、風船
(=バブル)のような大宇宙の中で生きている。

この風船のような大宇宙の向こうには、何があるのか。
その向こうは、どうなっているのか。
あるいはひょっとしたら、私たちは、(無)の世界で、生きているのかもしれない。
繰りかえすが、あのホーキング博士は、そうした大宇宙が、ここにも、そこにも、
無数にあると説いている。

しかしそうした世界は、人間が見るかぎり、(無)である。
仮に私の横に、そうした大宇宙があるとしても、私は見ることも、さわることもできない。

さらに仮にその大宇宙の中に、無数の銀河があり、その銀河の一角に地球に似た惑星
があり、そこに生物がいるとしても、それを見ることも、さわることもできない。
私たちにしてみれば、その大宇宙も、世界も、そこに住む生物も、(無)ということになる。

しかし反対に、向こう側の宇宙から見れば、私たちが住む大宇宙も、世界も、ここに
住む私たちも(無)ということになる。

今、私たちが見ている世界の向こうに、いったい、どんな世界があるのか?
それは私にもわからない。
わからないが、これだけは事実である。

そこには、私たちの知らない、まったく別の世界がある。
想像もつかないような、まったく別の世界で、ある。
私たちが見ているこの世界だけを、けっして、すべてと思ってはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ(4月4日)

++++++++++++++++

昨夜は、軽い頭痛。
このところ、何かと、睡眠不足。
それがどこかに、たまってきたらしい。

だから昨夜は、午後9時に、就寝。
が、今朝は、その分だけ早起き。
時刻は、午前5時。

一応、8時間、眠ったことになる。
が、起きてからも、あくびの連続。

私の体は、いったい、どうなって
いるのか?

++++++++++++++++

●「後退」という恐怖

人間の目は、顔面前部についている。
うしろが、盲点。死角。
そのため、人間は、前に向かって進むのが得意。
また前に向かって進んでいないと、不安。
少なくとも、前に向かって進んでいるときは、うしろから襲われるという
心配はない。

たとえば子どもの鬼ごっこを見る。
逃げる子どもは、一目さんに、前に向かって走る。
「全力で、前に向かって走れば、(鬼)は追いつけない」と。

うしろを振り返るということは、めったにしない。
うしろを振り向いたとたん、その分だけ、速度が落ちる。
子どもも、それをよく知っている。

さらに言えば、前向きに走ることはできても、後ろ向きに走ることはできない。
(練習すれば、後ろ向きでも、速く走れるようになれるという説もあるが……。)

こうした人間の特性のせいか、人間は、後退するのが苦手。
後退を強いられただけで、言いようのない不安感に襲われる。
顔を前に向けたまま、後ずさりするときのことを思い浮かべてみればよい。
うしろに何があるかわからないまま、後ずさりするのは、こわい。

……という話を、車の中で、ワイフとする。
どこかの商店街の中を走っていたときのこと。
その地域も、郊外に大型店ができたせいか、毎年、見るたびにさびれていく。
シャッターをおろした店も、目につく。

「かわいそうだね」「そうね」と。

私の実家も、大正時代からの自転車屋だったとはいえ、私が中学に入ることから、
斜陽につづく斜陽。
高校生になるころには、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
また大学時代も、仕送りといっても、下宿代の1万円だけ。それだけ。
その1万円にしても、母は、毎月、「講」※という組織を使って、
工面してくれていた。

「斜陽」のもつ恐怖は、子どものときから、いやというほど、経験している。
さらに言えば、「後ろ向きに歩く」ことの恐ろしさを、いやというほど、
経験している。

私「ああいうところの店の人たちは、つらい思いをしているもんだよ」
ワ「……」
私「明日が今日より悪くなるというのは、いやだね」と。

きっとその内では、「どうしたらいい?」「どうしよう?」という会話が、
毎日のようになされているはず。

私「商店主というのは、意外とつぶしがきかない。ほかに仕事をさがすと
いっても、それができない。50歳を過ぎると、なおさらできない」
ワ「……そのまま、つづけるわけ?」
私「そう、それしかない。毎月のように、家計を切りつめながらね」
ワ「でも、それにも限界があるのでしょう?」
私「あっても、さらに切りつめるしかない」と。

ある段階までは、虚勢や虚栄を張って生きることができる。
しかしそれも枯れるときには、枯れる。
最後は、枯れた木がポキリと折れるようにして、店はつぶれる。

人間の「目」の話が出てきたのは、そのときのこと。
「ほら、人間の目って、前についているだろ。だから後ろ向きに歩くということが、
苦手なんだよ」と。

たとえば……。

私も、現在、こんな問題に直面している。

ワイフが言うには、老後は、家や土地を売って、そのお金で、そういった施設に
入って過ごせばよいと。
「そのために、家や土地を買ったのだから」と。

前向きに(?)、家や土地を買ったころは、それなりに楽しかった。
しかし「売って、そのお金で、老後を過ごす」というのには、ある種の恐怖感が
ともなう。
「さみしさ」とは、内容がちがう。「恐怖感」だ。
断崖絶壁に追いつめられたかのような、恐怖感である。
その恐怖感の中身が、ここでいう、「後退」ではないか?

ワ「あなたは、いつも前しか見てこなかったから、こわいのよ」
私「そうかもね。これからは、うしろも見ながら、歩いていくよ」と。

ところで母が、いつも口癖のように言っていた、「講」とは、何か。
正確には、「頼母子講(たのもしこう)」という。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「……21世紀となった現在でも、日本各地(主に農村・漁村地域)に、無尽や頼母子、
模合と呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた
金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番で
あることが多い)が、金額を総取りする形態のものもある。多くは実質的な目的よりも、
職場や友人、地縁的なつき合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入
っている人もいる。沖縄では県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山
梨県などでもよく行われている」と。

毎週、どこかの家に集まって、1000円とか2000円を出しあう。
そのお金を、順番で、だれかが手にする。
それを「講」という。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●いじけるK国(Sulky North Korea)
South Korea on Sunday reacted calmly to North Korea's threat to suspend all 
inter-Korean dialogue in protest over remarks by Seoul's top general.(UPI)

+++++++++++++++++

「テロ支援国家指定を解除しなければ、
核開発リストを提出しない」と、
理由にもならない理由をこじつけて、
ノラリクラリと、約束を反故(ほご)
にしようとしているK国。

テロ支援国家指定といっても、国連という
国際的な機関が、そう指定しているわけで
はない。

アメリカという一国が、その国内で、
いわば勝手に、そう指定しているに
すぎない。

もしそれが気にくわないというのであれば、
K国はK国で、たとえば「金権腐敗国家」
として、アメリカを指定したりすればよい。

それに仮に解除したところで、国際社会が、
それで同調するわけではない。
国際社会は、国際社会として、独自の
判断で、独自に行動する。

こうした、つまり理由にもならない理由を
こじつけて、ああでもない、こうでもない
とゴネるのが、K国の常套手段。
そのゴネ方は、うつ病質の人のゴネ方と、
どこか似ている?

ささいなことにこだわり、それを針小棒大に
問題にして、おおげさに騒いだりする。

そこへもってきて、このところ、南北関係
が、少し、おかしくなってきた。

おかしくなってきたといっても、韓国が
おかしくなったわけではない。
韓国は韓国として、やっと(まとも)な
ことを言い出した。

それにK国が、反発し始めている。
例によって例のごとく、理由にもならない
理由をこじつけて……。

++++++++++++++++++

ことの発端は、韓国の統合参謀本部議長が、「K国に核攻撃のきざしがあれば、
先制攻撃も辞さない」と発言したことにあるとされる。

しかし当の統合参謀本部議長は、そんなことは言っていない。

正確に統合参謀本部議長の言葉を、拾ってみる。
統合参謀本部議長は、つぎのように言っている。
朝鮮N報の記事をそのまま紹介する(3月29日付)。

++++++++++++以下、朝鮮N報+++++++++++++++

K議長は26日、就任前の国会人事聴聞会で、「K国が核兵器で韓国を攻撃しようとした時、
どう対応するか」との質問に、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃
することで、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることが
ないようにすること」と答弁し、緊急時の軍事攻撃の可能性を示唆した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

K国はこれを、「宣戦布告も同然の無分別な挑発行為」と解釈し、韓国の先制攻撃の動きに
対しては、「より迅速かつ強力な先制打撃で応じる」と断言したという(同)。

++++++++++++++++++

核攻撃を受ければ、ソウルの市民は、一瞬にして、その600万人が命を失うとされる(ア
メリカ国防省の推算)。

問題は、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次に
ミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」
の部分。

同じく朝鮮N報は、30日付のほうでは、つぎのように報道している。

「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイ
ル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」と。

30日付の記事のほうが、正確ということになる。

この発言をよく読んでも、「先制攻撃」という感じは、あまりしない。
少なくとも「先制攻撃する」とは、言っていない。
しかも核兵器をもたない韓国としては、常識的な発言ということになる。
今の今ですら、もしK国が韓国を核攻撃する様子を見せたら、韓国としては、
K国のその場所を攻撃するしかない。

何しろ、たった一発で、600万人の人たちが命を失う。
ソウル市はそれで壊滅し、韓国経済は、そのまま崩壊する。
それを「だまって見ていろ」というほうがおかしい。

つまりは、核兵器というのは、それほどまでに恐ろしい武器であるということ。
その(おそろしさ)を棚にあげて、「先制攻撃は許さない」とがんばるK国のほうが、
おかしい。
狂っている。

自分たちは、「ソウルを火の海にする」「東京を火の海にする」などと、さんざん言いたい
放題のことを言っておきながら、ほんの少し、その反対のことを言っただけで、
大騒ぎする。
その身勝手さ。
その自己中心性さ。
そしてその幼稚さ。

で、そのあと、K国は、矢継ぎ早に、ケソン工業団地から当局者を撤退させ、
ミサイルを東シナ海に発射し、さらに今度は、韓国当局者が、軍事境界線を渡る
ことを禁止するという措置に出た(08年3月)。

どれも、自分で自分のクビを絞めるような行為ばかりである。
だれが得をして、だれが損をするか、もう少し冷静な頭で考えてみたらよい。

……ということで、K国は、今、完全に、現実検証能力を、喪失している。
つまりまるで自分のことが、わかっていない。
この08年には、穀物だけでも、150万トン以上もの不足が
予想されている。

こうしたK国の動きに対して、韓国政府は、今のところ、正式に返答するか
どうかを検討しているという。
2、3日のうちに、その結論を出すという。

まったくもって、わけのわからない国、それがK国ということになる。
が、言いかえると、それだけK国内部が、今、大混乱しているということになる。
恐らくもう、収拾がつかない状態になっているのでは?

「殿、ご乱心!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●やはり、私の予想通りだった!

+++++++++++++++++
決裂したかのように見えた、ジュネーブでの
米朝会議。

すべてのマスコミも、そう報じていた。

しかしその裏で……!

私が、3月14日に書いた原稿をまず、読んで
みてほしい。

++++++++++++++++++++++

(3月14日、記)

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行わ
れた。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定
するなど米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・
太平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもや
っていないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K
国は拡散とウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったこ
とを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したこと
を明らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、
具体的には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会う
つもりはない」としている。

++++++++++以上、3月15日、記+++++++++++

しかし、だ、
こんなニュースが、先ほど、飛び込んできた。
朝鮮N報発、聯合ニュース。

そのまま紹介させてもらう!

+++++++++++++

【ソウル3日聯合】
北朝鮮と米国が外交ルートを使い核開発申告と関連した大詰めの協議を行っており、この
結果により双方の6カ国協議首席代表による会合開催時期が決まるものとみられている。

 双方はまず、核開発申告書の形式を、プルトニウムとウラン濃縮、すべての形態の核協
力の3つの項目に区分し、内容は北朝鮮がウラン濃縮計画(UEP)と、シリアとの核協力
疑惑に介入していたことを間接的に認めることを骨子としているもようだ。

 政府消息筋は「米朝協議が先月のジュネーブでの協議以来、大きな進展を見せているが、
まだ本質的な部分で調整すべきことが残っている。ウラン濃縮もそうだが、核協力の部分
でも双方が折衝と文案整理作業をさらにしなくてはならない」と話している。別の消息筋
は、「ジュネーブでの協議以降、大枠については共感に達しているが、一部項目で詰めの調
整が残っていると考えればよい」とし、今週中に米朝首席代表による会合を開くのは困難
だとの見通しを示した。

 米朝が協議している「間接的な是認」は、米国が北朝鮮との話し合いを基に「北朝鮮が
ウラン活動と核拡散活動に介入したということが米国の理解事項」と明記し、北朝鮮側は
こうした内容に「反論しない」とすることを骨子としていると伝えられている。

双方はこうした趣旨に合う文案作成に入っており、プルトニウムの項目はほとんど整理
され、UEPと核協力の一部をめぐって駆け引きが行われているようだ。

 政府消息筋は、ウラン活動と核拡散活動という大きな項目は簡単だが、その中に盛り込
まれる細部の内容をどうするかがとても難しいことだとし、「これは後に検証の対象にな
るため、北朝鮮としてもむやみに同意するのは難しい問題だ」と話している。

+++++++++++++++++

やはりヒル氏と金氏の間で、密約がなされていた。

(4月3日、記)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 25日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a 
report, regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼ
す影響に関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにし
た。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される
可能性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍
感になるなどと結論づけた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについての
み、年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、
その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の
嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と
説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様の
ような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに
夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームを
してみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、
カウンセラーまで配置される状況になっている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、
書いてから9年にもなるのに、いまだに、抗議の書き込みが
あとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム
 子供とゲーム ゲームの危険性 テレビゲーム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I 
have found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 
愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)】
Japan has been originally a royal bureaucratic country since the Nara Period and still 
now it is. From now on children at schools would be forced to sing an anthem to worship 
the Emperor's Family. 

●愛国心?

++++++++++++++++++

中央教育審議会のある委員は、こう
言った。

「今までの議論は、何だったんだ。
非常に気分が悪い」(中日新聞・3月28日
朝刊)と。

最後の最後の土壇場になって、突然、
文科省は「字句修正」(?)を行った。

そしてそこに「我が国を…愛し」という文言を
挿入し、「(君が代を)歌えるよう指導する
こと」とした。

文科省は、「政治家の圧力」を臭わせて
いるが、審議会そのものがもつ性質上、
それはありえない。

自分たちのよいように審議会を誘導し、
それがうまくいかなくなると、今度は、
外部の圧力を理由にする。

いつもの常套手段である。

国際基督教大学のFH教授も、
「愛国心重視の文言を最後の修正で
加える手法はけしからん。

改正教育基本法は強行採決で成立した。
パブコメ(=パブリック・コメント)は
民意を代表していない。

こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは
まちがっている」(同)とコメントを寄せている。

まったく、……100%、同感である!

++++++++++++++++++

日本の中央教育審議会の答申は、海外ではどのように受け取られているか。
まず、韓国の朝鮮N報の記事を紹介しよう。

『日本の文部科学省は28日、義務教育の小中学校での教育内容に直接影響を与える学習
指導要領を、愛国心を強調する方向で見直し、正式に発表した。

政界の圧力を受け、新指導要領には総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が新たに加
えられ、音楽の教育方針には「(君が代は)いずれの学年においても歌えるよう指導する」
と明記した。

2月に発表された改訂案には、「愛国心」に関する記述はなかった。また、(君が代)をめ
ぐっては「指導する」としただけで、「歌えるようにする」との文言はなかった。朝日新聞
は「保守系の国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は異例の修正
に踏み切った」と伝えた。

一方、渡海紀三朗文部科学相は、27日、国公立小中学校の生徒たちの靖国神社訪問など
を禁じた1949年の政府通達について、「既に失効している」と明言した。靖国神社は太
平洋戦争の戦死者を祭る宗教施設で、日本の戦争史を正当化する戦争博物館(遊就館)が
境内にある』(東京発、N報特派員・朝鮮N報・3月29日)と。

++++++++++++++++++

もう少し修正内容を、詳しく見てみよう。

(小中学校総則)では、

【改正案】「道徳教育は…伝統と文化を継承し、発展させ、…道徳性を養うことを目標とす
る」。

【修正案】「道徳教育は…伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛
し、…道徳性を養うことを目標とする」。

(小・国語)では、

【改正案】「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。

【修正案】「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりす
ること」。

(小・音楽)では、

【改正案】「君が代」は、いずれの学年においても指導する。

【修正案】「君が代」は、いずれの学年においても、歌えるように指導する。

(中・社会)では、

【改正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化を…理解させる」。

【修正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰…を理解させ
る」など。(以上、中日新聞・08・3月28日より)

++++++++++++++++++

これだけ並べてみてもわかるように、修正案なるものは、全体として、「天皇中心の神話国
家」を目指していることがわかる。
その意図が、見え見え。
つまり「国を愛する」という言葉を使いながら、何とかして、それを「天皇家を愛する」
ことにもっていこうとしている。

が、どうして(君が代)を歌うことが、愛国心につながるのか?
(君が代)を歌うから、愛国心があるということにもならないし、反対に(君が代)を歌
わないから、愛国心がないということにもならない。

たかが、ひとつの(歌)ではないか。

もしそれほどまでに国民の愛国心なるものを確かめたかったら、北朝鮮のように、バッジ
制にすればよい。
階級、功績、レベルに応じて、色分けするのもよい。何度も繰りかえすが、(君が代)の「君」
は、「天皇」を指す。

だったら、思い切って、改正案をこう修正すればよい。
「バッジは、いずれの学年においても、胸に着けるように指導する」と。
そのほうが、よほどわかりやすいし、いずれ、日本もそうなるだろう。

で、かつてあの小泉首相は、「君が代の(君)は、(国民)をさす」と説明したが、私はこ
れほどまでの珍解釈を、聞いたことがない。

そこで(君が代)を擁護する人たちは、「君が代は、日本独特の古典音階を使用している、
世界に類のない曲である」と主張する。
それは私も認める。
世界の国家を並べて聞いても、日本の(君が代)には、独自性がある。
すばらしい!

しかし私たちが問題にしているのは、(曲)ではない! 
(歌詞)である!
つまり(君が代)を擁護する人たちは、こうして巧みに、(曲)と(歌詞)を混同させなが
ら、私たちを煙に巻いている、などなど。

さらに憲法を改正して、天皇を現行の(象徴)から、(元首)にするという動きも、目立っ
てきている。
それが「国としての品格である」と説く人もいる。

しかし21世紀の今、どうしてこの日本で、王政復古(Restoration)なのか?
その必要はあるのか? 
どうして(象徴)であっては、いけないのか? 
その前に、天皇家の人たちが、それを望んでいるのか? 
その了解を取っているのか?

日本が民主主義国家だと思っているのは、悲しいかな、私たち日本人だけ。
ウソだと思うなら、外国の人たちに聞いてみることだ。

日本は、奈良時代の昔から、君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)。
今の今も、君主官僚主義国家。
あの北朝鮮だって、一応、「民主主義国家」ということになっている。
(北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」だぞ!)

「審議会」なるものは、彼らの行動を正当化するための、道具。方便。
だいたいどういう基準でメンバーが選ばれるか、それすら明確ではない。
たいていのばあい、YES・MANだけを集め、自分たちにとって都合のよいように、結
論を出させる。
これを「答申」というが、あとはその答申に基づいて、好き勝手なことをする。
そのためにも、答申の文言は、おおざっぱであればあるほど、また抽象的であればあるほ
ど、よい。
いかようにも解釈できる。

あとはその答申に基づいて、「控えおろう!」と。
が、今回は、そんな審議会から出された答申ですら、さらに修正した!

……というわけで、たかが【修正案】と、あなどっていてはいけない。
文科省は、こうした答申が出たことをよいことに、これから先、矢継ぎ早に、(君が代)の
強制を、全国津々浦々の学校にまでしてくるはず。
ついでに靖国神社参拝を、修学旅行の日程に入れるよう強要してくるはず。
各学校では、「天照大神」の神話が、堂々と語られるようになるはず。

徐々に徐々に、少しずつ、しかし長い時間をかけて、日本という国は、そういう方向に導
かれていく。

もちろんその目的は、ただひとつ

天皇を頂点にいだく、官僚主義国家の完成!

もう一度、国際基督教大学のFH教授の言葉を、かみしめてみよう。

「こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは、まちがっている」と。

+++++++++++++++++

●日本の神話

(修正案)の中に出てくる「神話」とは何か。
ウィキペディア百科事典から、そのまま抜粋、引用させてもらう。

+++++++(以下、ウィキペディア百科事典より)++++++++++

『古事記』においては、イザナキがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗
い流した際に、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツク
ヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナキは天照大御
神に高天原を治めるように指示した。

海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため、
イザナキによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高
天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
スサノオの潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、スサノオ
の物実から三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。

天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。

 アメノオシホミミ 
 アメノホヒ 
 アマツヒコネ 
 イクツヒコネ 
 クマノクスビ
 
これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れ
てしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。(知恵の神様の秩父の神様天の八意
思金命(やごころおもいかねのみこと)と天の児屋根命など八百万の神々は天照大御神を
岩戸から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。

葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が
平定され、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生ま
れたので、孫に当たるニニギを降臨させた。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++

こうした神話をもとに、紀元後645年の大化の改新以後、天皇家は、天照大神をまつる
ようになる(ウィキペディア百科事典)。

「……ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノ
ホアカリは尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニ
ニギで、神武天皇の曽祖父にあたる」と。

やがてすぐ、小学校で、こうした神話について、読み聞かせが始まることになる。
子どもの受験勉強に熱心な親たちは、今から、しっかりと予習しておいたほうがよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中央教育審議会 愛国心 
国歌 国歌論 神話 神話教育 官僚主義 官僚主義国家)



Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●依存宗教(Religion to depend on)

++++++++++++++++

何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いなが
ら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一
定に保たれている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよ
い。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮ら
せるかもしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということ
になる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。
インチキ。アホ。バカ。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、
神によって救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、
アルマゲドンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めて
かかるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってし
まう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。
インチキ。アホ。バカ。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と
脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように
見えるはず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れること
ができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こう
いうふうにも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教
とは 宗教論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2533)

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

少し前に書いた原稿だが、気になる。
自分で自分の書いた原稿を、もう一度、
読みなおしてみる。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー 
Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マ
ーティン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング牧師はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。
(きびしい言葉だ!)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その
日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからで
ある。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街
に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だ
が、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田
切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下
町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがい
を求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでい
く」(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自己の統合性 老後の統合
性 生きざま)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●社会科の春休みの宿題(浜松市、某中学校)
(Edo period was one of the most dark and terrifying period even in the world as well as 
in the history of Japan. Only 6~7% of Samurai warriors governed the rest of people and 
80~85% of Japanese population was farmers. The farmers should provide Samurai 
warriors with 40~50% (sometimes 60%) of their products. Farmers did not at all have 
freedom of moving or changing their jobs, of course no freedom of speech. So it was one 
of the most dark and terrifying period.

+++++++++++++++++++++++

(1)共通テーマは、武士、700年間の時代の中で、
人々が、幸せに暮らしたのは、いつか。

(2)社会の安定、自由、繁栄、平和、家族という視点
の中から、ひとつ選んで、追究する。

+++++++++++++++++++++++

中学1年生のKさんが、こんな宿題をもってきた。
春休みの宿題だという。

日本の教育も変わってきた。
もちろん宿題の内容も変わってきた。
これを見たとき、私は、「日本の教育は確実に欧米化している」と感じた。

(暗記)から(思考力)へ。
(ジェネラリスト)から(スペシャリスト)へ。
(従順な子ども)から(問題意識をもった子ども)へ。

その変化は、いろいろな言い方で説明できる。
しかし教育というのは、「学校で学んだことを、すべて忘れてしまったあとに
残っているもの」とするなら、こうした教育は、その(残るもの)を目指した
教育と言える。

すばらしいことだと思う。

で、Kさんには、こう説明した。

(1)武士の時代といっても、きびしい身分制度が敷かれていた。
武士の立場で考えるか、農民の立場で考えるか、それによって、
見方が大きく変わる。

(2)「幸せ」の定義をしっかりとしておくこと。何をもって「幸せ」というか。
   それによっても、見方が、大きく変わる。

(3)「安定、自由、繁栄、平和、家族」の中から、何を選ぶか。
   もちろんそのうちのどれを選ぶかで、見方が、これまた大きく変わる。

私「基本的には、あの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの
暗黒かつ恐怖政治の時代だった。それを忘れてはいけない」
K「結構、みな、楽しそうだったみたい」
私「だれが、そう教えたの?」
K「……教科書……?」

私「移動の自由もなく、職業選択の自由もない。もちろん言論の自由もない。
きびしい身分制度の中で、生まれながらにして、みな、職業が決まっていたんだよ」
K「武士にとっては、住みやすい時代だったかもしれないわね」
私「そう、武士にとってはね。でも、その武士は、6〜7%。農民は、80〜85%。
その農民たちは、武士に虐げられていた」
K「そう? 武士って、そんなに少なかったの?」と。

ちなみに、ヤフー・知恵袋によれば、つぎのようにある。

「幕末の人口約3200万人のうちわけは、諸藩の統計を平均して、武士6〜7%、農民
80〜85%、工商を含む町人5〜6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%と、
推測されている」と。

つまり人口の6〜7%に過ぎない武士が、人口の80〜85%もいる農民を虐げ、
好き勝手な生活を楽しんでいた。
「好き勝手」というのは、農民の納める年貢にしても、収穫高の4〜5割を自分たちの
ものにしていたことをいう。

身分制度については、こんな話が残っている。

浜松市の西に、江戸時代に代々、庄屋として栄えた農家がある。
そんな農家ですらも、上から下まで、厳格な身分制度が敷かれていた。
小間使いは、一生、小間使い。
代々、小間使い、と。

また恐怖政治については、こんな話が残っている。

私の山荘のある地域では、明治時代に入ってからも、士族たちは、
刀をさして歩いていたという。
歩くたびに、刀の鞘(さや)が、カチャカチャと音をたてたという。

農家の人たちは、その音が聞こえてくると、道路の脇に正座して、頭をさげ、
その氏族という人が通り過ぎるのを待ったという。

この話は、10年ほど前、90歳でなくなった女性から、直接、私が
聞いた話である。

こういう(事実)をすべて無視して、「江戸時代は、自由な時代だった」とは、
私はぜったいに言わせない。

Kさんが、どんなレポートを書くかは、私は知らない。
しかしそれが、江戸時代を考える、新しいきっかけになればよい。

……私はKさんが数学の問題を解いている間、「幸せな暮らし」と何か、
それを考えていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 武士 農民 比率 江戸時
代)

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of 
the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is 
not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる
気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other 
brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the 
frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of 
words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない
部分 視床下部 大脳前頭前野)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(今日・雑感・3月27日)

●ボケていく頭(Brains that is rusted)
I saw a movie last night with my wife, which is about Alzheimer's disease. It was a nice
 one and I thought about again what is the brain.)

昨夜、渡辺健、樋口可南子主演の「明日の記憶」(邦画)を見た。
若年性アルツハイマー病をテーマにした映画だった。
よい映画だった。
(あえて星はつけないでおく。)

ヤフーの映画紹介欄には、つぎのようにある。

『第18回山本周五郎賞を受賞した、荻原浩の同名長編を原作に、
『トリック』や『ケイゾク』の堤幸彦監督が映画化した人間ドラマ。
若年性アルツハイマー病に侵された男と、ともに喪失を乗り越えようとする
妻の夫婦の情愛をたおやかに描く。互いを受け止め合い、痛みを共有する
熟年夫婦を、渡辺謙と樋口可南子が好演。人を愛することの根源的な意味を
問いかける重厚なテーマを、ソフトな語り口でつづる堤監督の演出手腕が
冴え渡る感動作』と。

その映画を見ながら、随所で、「明日は、わが身」を実感した。

ただ、私もこのところ、アルツハイマー病になった人たちを、見る機会がよくある。
が、症状は、もっと深刻。
顔つき、そのものが、変化する。
顔じゅうから、緊張感が消え、ダラーッとした感じになる。

映画の中の渡辺謙は、最後の最後まで、りりしい(?)表情をしていたが、
そのあたりでは、少し違和感を覚えた。

で、そのあと、私とワイフは、脳みその検査をしあった。
ああでもない、こうでもない、と。

私「なあ、最近、ぼくの様子、少し、ヘンじゃないか?」
ワ「ヘンじゃ、ないわよ」
私「ボケたとか、そういうふうに思うことはないか?」
ワ「ないわねエ……」
私「でもさ、お前も、同じようにボケ始めていたら、たがいにそれがわからないよ」と。

映画の中でも、最初、渡辺謙は、自分が病気であることに、強く反発する。
ものを投げつけたり、机を蹴飛ばしたり、怒鳴ったりして、反発する。
それもそのはず。
脳みその中枢部分が変化する。
パソコンでいえば、クロック数そのものが、落ちる。
だから自分で自分の変化を知るのは、(理論的には)、不可能。

これは何も、アルツハイマー病にかぎらない。

加齢とともに、脳みその機能が低下する。
しかし低下したことを自分で知るのは、(理論的には)、不可能。
ほとんどの人は、低下していることにすら気づかない。
気づかないだけならまだしも、「私はふつう」「私はまとも」と、がんばる。

それを繰り返しながら、徐々に、5年、10年単位で、ボケていく。

で、最近、私は、こんな経験をした。

6年前の生徒たちの写真を見たときのこと。
全員、幼児教室の生徒たちである。
そこには、5人の子どもたちの顔が写っていた。
が、うち4人まで、名前どころか、そういう子どもがいたことすら、思い出せなかった。

たった、6年前である!

この数字で計算すると、私は、6年前の記憶のうち、80%を失ったことになる。
6年前といえば、2002年。
「2002年には、どんなことをしたか?」と聞かれると、さらに困る。
何があったかさえも、思い出せない。

言い換えると、今という(現在)にしても、6年後には、そのうちの80%が
消えることになる。
さらにその2倍の12年後には、残りの20%のうちの、さらに80%を失う。
ざっと計算してみると、残っているのは、たったの4%!
私が、72歳になるころには、今という(現在)の記憶は、4%しか、残っていない?
生徒数で考えると、100人の生徒のうち、4人しか、覚えていない?

この数字を見て、ゾーッとしない人は、いないと思う。
いや、中には、「私はだいじょうぶ」と思っている人もいるかもしれない。

しかしほんとうに、そうか?
そう信じてよいのか?
むしろ、そういう人のほうが、あぶない?

……と書いただけで終わったのでは、エッセーにならない。
問題は、では、どうしたらよいか、ということ。
どうすれば、ボケていく自分の脳みそと、戦うことができるかということ。

映画「明日の記憶」の中では、妻を演ずる樋口加奈子が、アルバムから写真を
抜き取って、それを部屋中に、張ったり、並べたりする。
この方法は、アルツハイマー病には効果は、あまりないかもしれない。
しかしボケ防止には、よいかもしれない。
記憶を繰り返し再燃させることによって、脳みそ活性化する。
が、問題がないわけではない。
活性化できるとしても、その部分だけ?
ほかの記憶は、どうしたらよいのか?

さらに思考力の維持となると、もっとむずかしい?
思考力が低下すれば、表面的な会話しか、できなくなる。
現在の私の母が、そうである。
「元気?」
「元気だよ」と。
それでおしまい。

(そう言えば、あの母にしても、ほんの5、6前までは、「私はボケていない!」と
がんばっていたゾ。
私が、「おまえ、少しボケたんじゃ、ない?」と言ったときも、そうだった。
母は、ムキになって、それに反発した。)

……ということで、この問題だけは、考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。
わけがわからなくなってしまう。

そこで映画の中で、だれかが、こう言う。
私のボケかけた脳みその記憶によるものなので、不正確かもしれないが、こう言う。

「ものごとには、始まりがあれば、終わりがある」と。
つまりそういう状態になることを、(終わり)ととらえれば、よい、と。

「終わりねエ……」と思ったところで、この話は、おしまい。
考えたところで、どうにもならないし……。

++++資料++++++++++++++++

●若年性アルツハイマー病の初期症状(NPO 朝日ネットワークHPより、抜粋)

こんな症状があったら要注意

若年性アルツハイマーの初期症状としては

●頭痛やめまい   
●不眠
●不安感       
●自発性の低下
●抑うつ状態

などがあります。

発症すると、
自己中心的になったり、
以前より頑固になったり、
他人への配慮がなくなったりします。

●以前よりも自己中心的になった
●以前よりも頑固になった
●他人への配慮(気配り)が、なくなった

(こういう症状がみられたら、専門医に相談したらよい、と。)

(注)なお若年性アルツハイマー病の患者は、推定で、10万人以上
いると推定されている(厚生労働省、補助事業調査)。

さらに、武田病院画像診断センターのHPによれば、つぎのようにある。

認知症の自覚……ないことが多い
進み方……ゆっくり単調に進む
神経症状……初期には少ない
身体の持病……持病との関係は少ない
特徴的傾向……落ち着きがなかったり、深刻味がないことが多い
認知症の性質……全般的認知症(全般的に能力が低下している)
人格・人柄……変わることが多い

+++++++++++++++++

これらの診断基準を見ると、すべて、私に当てはまるから、恐ろしい!
つまり私も、あぶない? とくに気になるのは、「深刻味がないことが多い」
という部分。
このところ他人の不幸話を聞いても、どこかサバサバしている。
相手の深刻味を、自分のものとして聞くことできない。

気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Mar 08++++++++++はやし浩司

●保守点検(Maintenance Check)

先ほど、家電の保守点検の人が、やってきた。
知らなかった。

その保守点検の人が、階下で、電源を落としてしまった。
知らなかった。

パソコンの画面が、一瞬、暗くなった。
パソコンのパイロットランプも、みな消えた。

「パソコンの故障?」と思った、つぎの瞬間、
顔から血の気が引いていくのが、わかった。
3〜4時間分の原稿が、すべて消えた!

こういうときパソコンを使っている人は、
「真っ青」という言葉を使う。
たとえばパソコンの故障でも、ブルー画面(青い画面)が
出ることほど、恐ろしいものはない。

パソコンを使っていて、そのブルー画面が出たら、
パソコンの(臨終)と考えてよい。

私は、真っ青になった。

が、電源はもどった。
しかしデータは、すべて紛失。
その状態で、階下へおりていくと、そこに保守点検の人が!

「電源を落としたでしょ!」と言うと、「すみません」と。

ハア〜〜〜〜〜〜〜!

私「すみませんで、すむ話ではありませんよ、これは!」
男「すみません」「すみません」
私「だから、すみませんで、すむ話ではないのです」と。

書斎に入って、パソコンを立ち上げてみると、データの
90%は、残っていた。
ビスタが、勝手に、データを保存しておいてくれた。

よかった。
ホ〜〜〜〜〜〜〜!

(ビスタって、すごいね!)

あとの心配は、ハードディスク。
突然(=瞬間的に)、電源を落とすと、たまにハードディスクにキズがつくことがある。
ハードディスクが針を落としたまま、フル回転しているときが、ヤバイ!
ハードディスクにキズがついた可能性もないわけではない。

しかしこれについては、一度、検査(ハードディスクのエラーチェック)
をしてみなければわからない。
その検査に、2時間弱は(320GB)、かかる。

私「これだけは、すみませんですむ話ではありませんから、そのときは、
責任を取ってくださいよ」
男「わかりました」と。

しかしそれにしても、不注意な人だ。
電源盤をいじるならいじるで、一言、警告してくれればよかった。

言い忘れたが、保守点検の人は、嘱託で働いている、65歳くらいの男性だった。
そういう人だから、パソコンには、うといのだろう。
それに同年齢ということもあって、同情心ばかり、先に立った。

……ということで、1時間分(ぶん)ほど、今朝は、時間を無駄にした。

なお、エラーチェックの結果は、つぎのようにして、知ることができる。

(ビスタ)のばあい

(1)コンピュータを右クリック
(2)「管理」を選択
(3)コンピュータの管理画面から、(イベントビューワー)→(Windowsログ)
→(アプリケーション)へと進む。
(4)右側の(ログ一覧表)から、(Wininit)をダブルクリック
(5)その下に、「Windows has checked the file system and found no problems」
と記載されていれば、OK.

心配な人は、一度、そこまで調べてみるとよい。



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ミラー反応(mirror phenomenon)
When a boy or girl wants to leave a learning center or a Jyuku, he or she would never 
say straightly "I want to quit it". Or he or she starts speaking ill of teachers, in order to 
let their parents think "Stop going there." This is a common phenomenon but recently I 
have found a kind of "Mirror Phenomenon" in a boy or a girl. He or she reacts badly 
against teachers at the same time they start speaking ill of their teachers. So I call it 
"Mirror Phenomenon".

++++++++++++++++++

子どもというのは、塾や、おけいこ塾を
やめたくなっても、「やめたい」とは
言わない。

そういうときは、まず塾や、おけいこ塾の先生の
悪口を言い始める。

「教え方が悪い」
「ていねいに教えてくれない」
「先生が、サボっている」など。

親をして、「そんな塾などやめなさい」と
言わせるように、しむける。

こうした現象は、学校教育の場では、顕著に
現れる。

それについては、たびたび書いてきた。

が、最近、これとは別に、もうひとつ、
興味ある現象が起きることを発見した。
称して、「ミラー反応」。

子どもというのは、親をして、そういう
ふうに思わせる一方、今度は、先生当人に
対しては、ぞんざいな態度を示すようになる。

子どもなりに、一貫性を保とうとするわけ
である。

つまり、親には、先生の悪口を言いながら、
その一方で、先生に対しては、「私も親も
怒っている」という様子をして、見せる。

だから、ミラー反応。

先生に対して、反抗的になる。
つっぱったしぐさを、して見せる。
言い方が乱暴になる。
先生の指示に従わなくなる。
すなおさが、消える、など。

つまりこういうプロセスを経て、子どもは、
塾や、おけいこ塾を去っていく。

このタイプの子どもは、(親もそうだが)、
あたかも教室を蹴飛ばすかのようにして
去っていくので、それがわかる。

親は、子どもの言い分のみを、一方的に
信じてしまう。

で、このタイプの子どもが、もっとも
恐れるのは、先生と親が直接対話をすること。

「一度、お母さんと話がしたい」などと
言ってみると、それがわかる。

ああでもない、こうでもないという理由を
並べて、取りあってくれない。

「お母さんは、仕事をしている」(ウソ!)
「夜は、おばあちゃんの家に行っている」(ウソ!)
「携帯電話の番号は知らない」(ウソ!)と。

「電話をかけてもいいか」と言って、受話器を
取ったとたん、それに飛びかかってきた子ども
(小5女児)もいた。

『子どもを信じる』ことは、大切なことだが、
ことこういうケースでは、まず子どもを疑って
みること。

で、私のばあい、こうしたケースを毎年の
ように経験している。
だから、その流れが、おおまかにわかる。

(1)まず私に対して、反抗的になる。理由は、
いろいろあるのだろうが、この時期の子どもの心理は、
かなり複雑。

過負担、親の過剰期待、過干渉などが、子どもの
心をゆがめることもある。
それに家庭事情が、からんでくる。

外からでは、理由は、わからない。

(2)親に対して悪口を言い始める。
悪口の内容は、さまざま。かなり知的な操作をするので、
親には、それが見抜けない。

反対に、「私は、もっと勉強したい」「あの教室では
勉強できない」などと言うこともある。

親の態度が、ぐんと冷ややかになることもある。

(3)親から連絡がある。
子どもの言い分だけを聞いているから、いつも
一方的。

先にも書いたように、「蹴飛ばすようにして」やめていく。
たがいの(あいさつ)すら、ないことも多い。
子どもが、そういうふうになるよう、しむけてしまう。

……ということは、何も珍しい現象ではない。
たいへんよくある現象と言っても、よい。

若いころは、それなりに気にしたが、今は、ちがう。
年の功というか、(フン)と笑って、それで
すますことができる。

ときに、「なかなか、やるなあ」と感心することもある。

というのも、この年齢になると、おかしなことだが、
子どもも、親も、同年齢に見えるようになる。
子どもだから、親より劣っているというふうには、
見えない。
親だから、子どもよりすぐれているとも、これまた
見えない。

親に説明して、誤解を解いたところで、どうこうなる
問題ではない。
その時点で、子どもの心は、すでに私から離れて
しまっている。

だからこういうミラー反応を子どもが示し始めた
ときには、私は、こう言うようにしている。

「ここ(=私の教室)をやめたかったら、やめたいと
先生(=私)に話してよ。お父さんとお母さんに、うまく
話してあげるから」と。

ほとんどのばあい、それに応ずる子どもはいない。
いないが、そういうふうに、こちらが一歩、退いて、
話をする。

子どもを追い込むのだけは、私は、避けたい。

++++++++++++++++++++

8年前に書いた原稿を、そのまま載せる。
(中日新聞、発表済み)

++++++++++++++++++++

●単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に
行くところです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小4)の先生は、点の悪い子ど
ものテストは、投げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうとき
はまず、先生の悪口を言い始める。

「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしている」など。

つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけ
で、学校の先生の悪口を言うようになった子ども(小3女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子ど
もの言い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しか
し一方で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中1)も、その言葉で苦し
んでいるはずだった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。

「君の力は君が一番よく知っているはずではないか。だったら、お父さんに正直にそう
言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場が
なくなってしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面
で自分のわがままを通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上に
していた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんな
のがある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表
するということは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参
観にきていた。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私
は少し大げさにKさんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。

と、そのときである。Kさんがスーッと涙を流したのである。私はてっきりうれし泣き
だろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わってから、Kさん
にその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜
んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさ
んは、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みに
じる行為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。
その範囲の行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまち
がえると、この種の抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。

私はAさんのうしろ姿を見送りながら、むしろそちらのほうを心配した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ミラー反応 ミラー現象 
先生の悪口を言う子ども 教師の悪口を言う子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●心と表情のミスマッチ(mismatch between mind and facial expression) 
 
 子どもの心は風船玉のようなものだ。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れる。
反対に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れる
こともある。

問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人
格性をもつことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹
いじめを繰り返す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられ
ないほど、よい子を演ずることが多い。

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。
教える側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ど
も」ということになる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこと
もある。ともかくも心と表情が、ミスマッチ(遊離)するようになる。

ブランコを横取りされても、笑みを浮かべながら渡す。失敗して皆に笑われているよう
なときでも、表情を変えず平然としている、など。「ふつうの子どもならこういうとき、
こうするだろうな」という自然さが消える。が、問題はそれで終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ること
が多い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマ
りこんでしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。

ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪文を、空に向かって唱えていた。「超能力をくだ
さい」と。あるいはものの考え方が極端化し、先鋭化することもある。異常な嫉妬心や
自尊心をもつことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい
情緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、
息を抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よ
い子」になるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。

 子育ては、『まじめ八割、いいかげん二割』と覚えておく。これは車のハンドルの遊びの
ようなもの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、自分を伸ばす。が、そ
の「いいかげん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。外から帰って
きたら、必ず手洗いさせるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそ
れが子どもの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚
がない。ないばかりか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席な
どで、堂々とそれを誇示する人もいる。

 子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行
ってみて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もし
あなたの子どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。

しかし園や学校では、別人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そして
もしそうなら、心の開放を、何よりも大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を
大切にする。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●生命力を大切に(Whatever your child is, it is your child.)

 昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子
どもほど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の
情が薄くなる。しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっ
ても、文字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学
習面でI君に無理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→
(もっと無理をする)の悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれて
しまうぞ」と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一
方、父親は父親で、そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きな
がら私の胸に飛び込んできてくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほ
ど、Iの気持ちが遠ざかっていくのがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走
しそうになると、間に入って、父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主
人なりに息子のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかってい
るから、つらがるのでしょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の
愛。その父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。

 「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ま
すます勉強から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間に
あいます。あきらめて、I君の好きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。

「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」
「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」
「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息
子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」
「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」
「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」
「他人の子ども? 実は私はその問題で、10年以上も悩んだのです。自分の子ども、他
人の子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をして
いません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその
子どもは自立する。そして何十年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親
があせって、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとし
た人間になってしまう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、そ
の瀬戸ぎわにいた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

さらに「抱き癖がつくと、子どもに
依存性がつく」と教える育児書もある。

「抱き癖」と「依存性」は、まったく
別のもの。

そんな区別もつかない人が、
空想だけでモノを書いている?

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。こ
のスキンシップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」
な理由により、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」
というのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味
である。そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベ
イビー」という言葉を使った。

(1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子
どものことを、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」
の表現ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能
面のように無表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能
面のように無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。
そのままというより、こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私は
Sさんが、泣いていることがわかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育
園へ預けました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられた
ということになる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすら
しないとしたら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。
それだけではない。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかっ
てきた。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ
球、大食細胞を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳
児が、母親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラ
クチンなど)が刺激され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍
数が、自分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親の
ほうが、子どもに合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何
か別の作用が働いていると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象
が、よく見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。た
とえば母親が体を丸めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、
右を向いて眠っていたりする。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説
明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべ
きように育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。
するとそのとき、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それ
がスキンシップである。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めて
きたときが、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとす
るのはよくないが(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じて
やる。間を置かない。そしてぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小
魚を放す要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事
情がある母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊か
な心をはぐくむ。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供
 母子相互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキ
ンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケース
もある。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキ
ンシップとは、分けて考える。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】(March 25th)
3300 accesses to one of my blogs were counted yesterday. It is a great thing for me.

●3300件!

昨日、G・Blog、ひとつだけで、アクセス数、3300件を記録した。
1日の記録しては、今までの中でも、最高。
もちろん3300件イコール、3300人というわけではない。
重複閲覧も、その中に含まれる。
しかし、これはものすごいことだと思う。

月間ベースでみれば、3300x30=10万件となる。

ほかに私は、毎日、5つのBLOGを発行している。
そちらのほうも、平均して、毎日、300〜500件のアクセスがある。

もちろんHPへのアクセスもある。
しかしこちらのほうは、実数は、わからない。
アクセス・カウンターをつけているのもあるし、ないのもある。

またメインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6〜7つある。
ページ数だけでも、数百ページ以上。
合計で、500MB前後。

その中でも、最近、人気があるのが、「音楽と私」。
このコーナーだけでも、毎日、300〜600件ものアクセスがある。(毎日だぞ!)
この1月に開設したばかりのコーナーなのだが……。

が、何といっても、私にとって重要なのが、電子マガジン。
こちらのほうは、読者数が、合計で、3000人になった。
毎月、12〜13回、発行しているから、延べにして、約4万人。

毎回、20〜30枚分(40x36)の原稿を載せているから、
原稿枚数(400枚詰め)に換算すると、1回分が90枚。
1か月で、1125枚。
それに読者数の3000を掛けて、340万枚。
つまり340万枚の原稿を、毎月、配信していることになる。

「ものすごいことだと思う」というのは、数字ばかりではない。
こんなことが、浜松という地方都市に住んでいて、できるということ。
しかもそういうことが、東京を通り越して、全世界に向けてできる。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、その(実感)が、ほとんどない。
私の目の前にあるのは、パソコンの画面だけ。

今、その画面をながめながら、「この画面の向こうにねエ〜」と、思った。
この画面の向こうに、この地球と同じくらい広い、世界がある?


●TK先生(My Friend, Prof. TK)

TK先生の体の具合が、あまりよくないらしい。
昨夜も、メールが届いた。
「憂うつです」と、それにはあった。
私も、先生のメールを読んで、憂うつになった。

TK先生との出会いは、1970年。
ちょうどあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた前後のころのことだった。
ラジオか何かのニュースでそれを知り、TK先生にそれを告げたのを覚えている。

以来、今年で、38年目になる。
近くもなく、遠くもなく、それでいて、たがいに言いたいことを、言いあっている。
実のところ、TK先生は、「先生」というよりは、「友」。
身分も立場も、まるでちがうのに、そんな関係でつきあってきた。

こんなことがあった。

いつものように東大の理学部へ遊びに行くと、こう言った。
「5時まで、遊んでいきなさいよ」と。

そのときは、へんに時刻にこだわる人だなあと思った。
が、その5時になって、理由がわかった。
TK先生、専用の黒塗りの乗用車が、理学部の玄関の前に横付けになった。
今は知らないが、東大の副総長(早朝特別補佐)になると、そういう車があてがわれる。
それがちょうど5時にやってきた。

TK先生は、それに私を乗せたかったらしい。
TK先生も私も、車の中では、一言も話さなかった。
が、車を出ると、たがいにゲラゲラと笑いあった。
笑いながら、東京駅の下にあったレストランで、食事をした。
あのとき私は、生まれてはじめて、マンゴーなる果物を口にした。

私がまだ、30歳になる前のことではなかったか?

……こうして書き始めると、思い出はつきない。
しかしそのTK先生が、私の生き方を決めた。
私はTK先生に会ったのがきっかけで、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で
生きてやる」と決めた。
その経緯を話せば長くなるが、ともかくも、TK先生との出会いは、それほどまでに
大きな影響を、私に与えた。

そのことを昨夜もワイフに話すと、こう言った。

「TK先生と出会ったのが、あなたにとってよかったのか、悪かったのか、
わからないわね」と。

TK先生の父親の、TS氏は、日本学士院の院長まで務めている。
「親子2代、つづけて、日本化学会の会長をしました」と、いつだったか、
TK先生が話してくれたのも覚えている。

TK先生のばあい、地位や肩書きだけでも、今では数百以上になるのでは……?
上は国際触媒学会の前会長に始まって、下は鎌倉テニスクラブの会長まで。
ときどき天皇陛下も、そのクラブにやってきて、テニスをする。

それで私は、TK先生に反発した。
反発して、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で生きてやる」と。

……以来、38年。

先生との出会いが、遠い昔のことのようにも思われるし、つい先日のことのようにも、
思われる。

昨夜の返事に、こう書いた。

「一度、そちらへ行きますよ」と。

私はいつもTK先生を追いかけてきた。
今も追いかけている。
だから今度ばかりは、どうしても会わなければならない。

「ひとりで行きます。そうればパジャマ姿でも、先生は気になさらないでしょうから」と、
メールには書いた。

+++++++++++++++

こんな原稿を書いたことがある。
(中日新聞、発表済み。
「世に無不思議な留学記」より。

+++++++++++++++

処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に
籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、
「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう
言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本
語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と
笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなか
った。「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さな
いばかりか、マレー人そのものを、どこか「下」に見ていた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人
にまちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも
嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、
地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しよう
としなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠して
しまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そ
のT君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ−
は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ−は42歳だ。人妻だ。しかも
子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教
授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。
教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ−シアで処刑
されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、そ
れはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、
マレ−シアで、1980年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニ−
とクアラルンプ−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をし
てみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、
見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレ−シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そ
して処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているとい
う。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに…
…」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私
は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私
の心の中で生きている。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●3月26日(March 26th, 2008)

++++++++++++++++++

このところTK先生のことが心配で、
どうも気が晴れない。

昨日もメールを打ったが、返事がない。
いつもなら、半日以内に、かならず
返事をくれるのだが……。

++++++++++++++++++

●ハッピー・ウェンズディ

私は、水曜日のことを、「Happy Wednesday(楽しい水曜日)」と
呼んでいる。
月曜日を、「Blue Monday(憂うつな月曜日)」、
金曜日を、「Dark Friday(いやな金曜日)」と呼んでいる。

月曜日は、仕事がはじまる日。だから憂うつ。
水曜日は、調子が出てくる日。だから楽しい。
しかし金曜日になると、1週間の疲れが、そこにシワ寄せされる。
だから、「Dark Friday」!

が、今日は、水曜日というのに、どうも気分が晴れない。
恐ろしい夢も見た。

理由はいろいろある。
このところ精神状態が、あまりよくない。
ときどき「うつ病って、こういう状態をいうのかな?」と思う。
(あるいはすでにうつ病かも?)
で、そういうときは、幼児を相手に、思いっきり、大声を出して遊ぶ。
たいていは、それで気分が晴れる。

そうそう、こういうときは、何か新製品を買うと、私のばあい、スッキリする。
これは私だけの現象なのか。
それともみなに、共通した現象なのか。
今、ねらっているのは、C社の薄型デジタルカメラ。
昨日、パソコンショップでみかけたが、あの金属感が、たまらない。
脳みその奧まで、ゾクゾクっとした。

しかしデジタルカメラだけでも、4台もある。

それにこのところ私のもっている株の価値は、低迷中!
ここはぐっとがまんするしかない。
が、その分だけ、ストレスがたまる。

ほしいものが手に入らないというのは、それだけでもストレッサーになる。

カタログを読みながら、自分をなぐさめる。

何とか、今日も、ハッピー・ウェンズディになればよいが……。


●いとこ

春休みに、いとこ夫婦が、2組、遊びに来ることになっている。
楽しみだ。

とくに何かを予定しているわけではないが、話しているだけで楽しい。

それとN先生と、会食もしよう。
数日前、電話をしたが、奥さんは元気そうだった。
(あいにくとN先生は、不在だったが……。)


●春休み

私のばあい、春休みが、10日前後もある。
計画はいくつか、ある。

ワイフとの旅行も、予定している。
今度は京都方面と紀伊半島方面へ、旅をしてみたい。

あとは、絶版になった私の本を、HPに収録すること。
これが結構、たいへん!

1ページずつスキャナーで読んで、それをFrickrに
アップロード。
そのあと今度は逆に、1ページずつ、アドレスを読み込んで、
HPに張りつける。

1冊の本を、無事(?)、HPに収録するのに、5〜6時間は
かかる。

「無事」というのは、ときどきソフトがヘソを曲げる。
フリーズしてしまうこともある。
HPのソフト会社に、先日も電話を入れると、こう言った。

「そのソフトは、ビスタには対応していません」と。

しかたないので、今は、騙(だま)し、騙し、使っている。


●バカ番組

昨夜、久しぶりに、テレビで、アホ・バカ番組を見た。
どこかのバラエティ番組だった。

相変わらず、この種の番組は、繁盛しているようだ。
サルのような人間が、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワーワーと
騒いでいた。

「おもしろい」と思う前に、「これが同じ人間か」と思って、
さみしくなった。

「低俗」という言葉があるが、まさに低俗。
コメントするだけの価値もないほど、低俗、低劣、下劣。

ああいう番組は、東京だけの範囲で流して、それで
おしまいにしてほしい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 18日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ネット中毒(Internet poisoning)
According to the newspaper of today, about 210000 young people (6-19 years old) in 
Korea are under the condition they need some kind of medical treatment for the 
internet poisoning.

韓国の東亜N報が、こんな記事を載せている(08年3月24日)。

+++++++++++++++++

米オレゴン健康科学大学のジェラルド・ブロック博士は、
米精神科学会誌の3月号のコラムで、「インターネット中毒は、
精神障害診断マニュアル(DSM―V)に含まれるべきだ」
という韓国青少年保護委員会の昨年のシンポジウム資料などを引用して、
韓国の事例を紹介した。 

ブロック博士は、「韓国ではインターネットカフェでの10件の
心肺関連死亡事故や、1件のゲーム関連殺人事件が起きた後、
インターネット中毒を最も深刻な公衆保健問題と思うようになった」と述べ、
「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、190の病院や治療センターが
学校と連携をとっている」と紹介した。 

同氏はまた、「韓国政府の資料によれば、6〜19歳の青少年のうち約21万人が、
(インターネットのため)苦しんでおり、治療が必要だ」と述べ、
「そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要かもしれない」と明らかにした。 

ブロック博士はまた、「韓国の高校生たちは1週間に平均23時間を
ゲームに費やし、(現在のインターネット中毒者のほか)、120万人ぐらいが
追加で中毒になりかねない危険性をはらんでいるという」と紹介した。 

+++++++++++++++++

日本での調査はないが、この日本でも、事態は、同じようなものと思ってよい。
死亡事故や関連殺人事件が、起きてからでは遅い。早急に、日本でも対策を
立てるべきではないのか。

韓国の状況を、もう一度、整理してみる。

(1)6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である。
(2)そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要と推定される。
(3)そのため韓国には、「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、
190の病院や治療センターが学校と連携をとっている

あまりよく知られていないが、この日本では、テレビゲームを批判しただけで、
たいへんなことになる。抗議の嵐が殺到する。私自身も、経験している。

テレビゲームそのものが、カルト化している。常識で考えれば、おかしなことだが、
その常識が狂い始めている。テレビゲームといっても、それに没頭している人に
とっては、ただのゲームではない。

だから「6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である」と
いっても、その治療を求めているのは、当の青少年たちではない。恐らく、これらの
青少年たちは、治療そのものを、がんこに拒否するはず。

自分がおかしいという認識(=病識)すら、ない。

もちろんインターネット、イコール、ゲームということではない。
反対に、ゲーム、イコール、インターネットということでもない。

さらに言えば、たとえば「検査で正常である」と診断されたからといって、
「問題ない」ということでもない。
テレビゲームを支持する学者たちは、「検査」という言葉をよく使う。
ゲーム脳を否定する学者もいるが、彼らは決まってこう言う。
「検査してみたが、どこにも異常は見られない」と。

しかし教育の現場では、少しちがった見方をする。子どもの微妙な変化をとらえて、
おかしいと言う。様子や行動を観察して、「おかしい」と言う。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

子どもの世界では、常に、『疑わしきは、罰する』。
先手、先手で守ってこそ、はじめて、子どもの世界を守ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳、ネット中毒、イ
ンターネット中毒)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●子は父になる(A Child becomes a Father and the Father returns a Child.)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

スーパーマン・リターンズ(最新作)の最後で、スーパーマンは、
こう言う。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』と。

父親というのが何であるかと問われれば、この一言に尽きる。
私たちは子どもからおとなになり、家庭をもち、子どもをもうける。
その子どもも、やがておとなになり、父親になる。

そのとき、私という(父親)は、父親としての役目を終えるのではない。
私という(父親)は、最後の仕上げとして、子どもたちの中に、
自分の命を伝える。心を伝える。生きざまを伝える。

こうして私は自分の命を、私の父親から引き継いだ命を、子に伝え、
子は、さらにその子へとつなげていく……。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』。

この言葉については、いろいろな解釈のし方があるだろうが、今の私は、
そう思う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

目が見える。
音が聞こえる。
春の風を肌で感ずることができる。
私は、今、ここにいて、そして生きている。

その確かな実感こそが、私が今、生きているという証(あかし)。

昨夜、ワイフが布団(ふとん)の中で、こう聞いた。
「あなたは、何のために生きているの?」と。

私は、ある医師の話をした。
その医師は、記者のインタビューに答えて、こう言った。

「私は、どうせ死ぬなら、がんで死にたい。
脳出血や心筋梗塞で死ぬのはいやだ。

がんだったら、死ぬまでに、しばらくの時間的猶予がある。
その間に、最後にやり残した仕事をすべてする」と。

私「どうせ死ぬなら、がんで死ぬ方がいいという意見は、はじめて聞いた」
ワ「自分が、この世界に生きてきたという証(あかし)を残すためにかしら?」
私「どうも、それだけではないような気がする。もしそうなら、墓石を残せばいい」
ワ「じゃあ、何かしら……」と。

話はそれるが、老年期の入り口に立ってみて、ひとつ気がついたことがある。
つまりその入り口というのは、夢や希望に満ちた、明るい通路への入り口ではない。
その先は、細く、暗闇に包まれた通路への入り口である。
夢や希望など、もちようもない。
またもったとしても、そのままつぎの瞬間には消えてしまう。

このスイッチング(転換)をどうするか?

そういう意味で、今、子育てで夢中になっている人は、まだ救われる。
自分が年老いているという(現実)を、忘れることができる。
が、その子育てが終わったとたん、そこに待っているのは、(老後)。
その老後が突然、目の前に、パッと姿を現す。

多くの人は、そこであわてふためく。狼狽(ろうばい)する。取り乱す。
その先に見える世界は、今まで生きてきた世界とは、まるでちがう。
ちがうから、そこでそれまでの自分の生きざまを、変えなければならない。
が、しかしそんな生きざまなど、どこにも用意していない。
変えようにも、変えようがない。
ないから、ここに書いたように、あわてふためく。

そこでほとんどの人は、その時点で、老後のあり方を模索し始める。
「どう、生きたらいいのか」「どう、生きるべきなのか」と。

しかし同時に、それは(空しさ)との闘いでもある。

享楽的な生き方が、その人の心の隙間を埋めるということは、ありえない。
庭いじりも結構。孫の世話も結構。旅行するのも、これまた結構。
しかしそんなことを繰りかえしたところで、かえってみじめになるだけ。
もっとはっきり言えば、時間の無駄。
刻一刻と、砂時計の砂がこぼれ落ちていくように、時間だけは過ぎていく。

そんな中、息子たちのニュースが、私を励ましてくれる。

私「おかしなことだが、息子たちが、私のできなかったことを、つぎつぎとしてくれる」
ワ「私も、それを感じているわ」
私「だろ……。ぼくは中学生のころには、パイロットにあこがれた」
ワ「どうしてパイロットを目指さなかったの?」
私「メガネをかけている人は、パイロットになれないと聞かされて、あきらめた」

ワ「若い人は、みな、パイロットという職業に、あこがれるわよ」
私「かもしれない……。でもね、今度デニーズが弁護士になると聞いて、ほんとうに
うれしかった」
ワ「それも、そうね。どこかであなたの(命)が、子どもたちに伝わっているみたい」
私「そうなんだよ。そこが不思議なところなんだよ」
ワ「子どもたちは、いつの間にか、あなたの影響を受けていたのね」

私「うん……。E(三男)も、外国に住みたいと言い出したしね」
ワ「それも、あなたができなかったことよね」
私「……できなかった。勇気がなかったのかな……?」と。

そのとき私は、ふと、私の(命)が、息子たちに伝わっているのを感じた。
肉体は別々だが、私自身が、もっと大きな(命の流れ)というか、
そういうものの中にいるように感じた。

何も、私という(肉体)にこだわることはない。
所詮、この世界は、光と分子の織りなす世界。
実体があるようで、その実、それはどこにもない。

もちろんだからといって、息子たちの人生イコール、私の人生というわけではない。
私は、どこまでいっても、私。
息子たちの人生は、息子たちのもの。

私「ぼくのもつ価値観というのは、あまりにも金銭的な欲得に、毒されすぎている」
ワ「カルトのようなものよ。戦後生まれの人たちは、徹底的にそう洗脳されているから」
私「そう。その人の金銭感覚は、年長児から小学1、2年生ごろには完成する」
ワ「それを、ずっと引きずっているわけね」
私「その価値観を、どうやって、打ち崩したらいいんだろう?」

ワ「へたに崩せば、かえって混乱してしまうわね」
私「そう、仏教はいやだから、今度からキリスト教にしますというわけには、いかない」
ワ「カルト教団から抜け出た人を知っているけど、かえって精神不安になってしまったわ」
私「ハハハ、今のぼくがそうかもしれないよ」
ワ「それも困るわ」と。

……とまあ、今しばらく、この混乱は、つづきそう。
私自身も、この先、どうなるか、よくわからない。
「混乱の最中」とまではいかないにしても、混迷している。
ただもし今、「何をすべきか?」と聞かれたら、私は、こう答えるだろう。

「ともかくも懸命に生きてみる。そこに何があるかわからないが、何かがあると
信じて、懸命に生きてみる。今でもそうしてきたし、これからも、そうする」と。

きっと、その先で、何か答が見つかるだろう。今は、それを信ずるしかない。

……しばらくしてからワイフに声をかけてみたが、返事はなかった。
私もそのまま眠気に、心を任せた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. 
But it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call 
it "Money-ism", or "Money Cult".

++++++++++++++++++++++

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべ
きことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよん
だら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、
それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという
番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作
品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござ
れ! が、私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だっ
た。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもない
が、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるよう
になった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、
カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。
このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラ
フ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって
決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、
ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、
この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、
うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」と
か、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、
ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心
というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、
値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段
が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお
金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということ
は、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。
もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重
ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるよ
うになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかし
そのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お
金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってし
まっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまっ
た。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、
ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてそ
の幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小
さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするよ
うになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。
反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ
幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわ
けではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組と
なる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組
によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうし
て日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はど
うなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレ
ビ番組が嫌いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言
われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、その
ときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして
何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになっ
てしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒され
ると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そ
して本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるもの
と思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にす
る。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこ
の世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カル
ト)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●よき日、3月22日(土曜日)(Spring has come!)

++++++++++++++++

今日は、三男とワイフと3人で、
ペンダント作りに挑戦してみた。
舘山寺の温泉街の一角に、それを
体験させてくれる店がある。

そこへ行った。

三男が作るのを見ながら、私は、
ワイフのために、1個作った。

午後からは、家に帰り、長男と、
ビデオ談義。
長男の制作したビデオを見ながら、
ああでもない、こうでもない、と。

夕食は、お好み焼き。それに三男が
料理した、スパゲッティ。
みんなで食べた。

おいしかった。
楽しかった。
久々に、家族の温もりを感じた。

ところで二男夫婦が、今度、
インディアナ州のインディアナポリスへ
引っ越すことになった。

スーパーマンの本拠地は、
インディアナポリス(市)。
関係ないかな?
それとも関係あるのかな?

あとで調べてみる。

インディアナ州へ引っ越すのは、
嫁のデニーズのインディアナ大学への
入学が決まったため。

二男は、しばらく(主夫業)をする
かもしれないという。
妻は大学通い。夫は、子育て。
だから主夫業!

私はそれに賛成した。
「お金は(=生活費は)?」と聞くと、
貯金で何とか、まかなえるとのこと。

ここはLAW SCHOOLへの入学が
決まった、デニーズの勉学が最優先。

とにかくすごいことを、デニーズは、
してくれた!

いつか二男は、デニーズの法律事務所で、
事務員として働くようになるかもしれない。
仕事は、夫婦で力を合わせてするのが、
一番よい。

ふと頭のどこかで、そんなことを考えた。

息子たちよ、嫁と、そして孫たちよ、
いつも私とワイフに、夢をくれてありがとう。
励ましてくれて、ありがとう。

(このところ、何かと落ちこむことが多くて、ね。)

二男は、明日、一度、成田に戻り、
4月7日に、カルフォニア州のNAPAに
転勤することになっている。

しばらく会えないが、しかたない。

……どこか私まで、心がウキウキしてくる。
ああ、もうすぐ春ですねエ〜〜。

もう春かな?

(追記)

インディアナポリス市(Indianapolis)について、市のHPには、
つぎのようにある。

「アメリカのどの州よりもハイウェーが集中して交差していることから、
『アメリカの十字路(Crossroads of America)』と呼ばれている。
インディアナ州の州都が、インディアナポリス。
世界的に有名なスピード・イベント、『インディー500』で
よく知られているこの街は、プロ&アマチュアスポーツキャピタルと
言っても過言ではないほど。バスケットボール(NBA)のペイサーズや
アメリカンフットボール(NFL)のコルツ等、手に汗にぎるスポーツ
観戦を満喫できます。また、近代的な都市インディアナポリスから
少々車を走らせると、そこはもう別世界。コーン畑や大豆畑が一面に
広がります」と。

やはりスーパーマンの本拠地だった!

こんど「スーパーマン」の映画を、もう一度、見てみよう。


++++++++++++++++++

●Deniseからのメール

●Supermanについて

 From this article, it seems that in the comic book series, Smallville, 
USA was originally not listed as being in any state, but the Superman 
movies and television shows place it in Kansas. I think Indiana and 
Kansas are very similar, so one show or movie might have placed it in 
Indiana.

この原稿(ウィキペディア百科事典)によると、(スーパーマンの故郷の)
Smallvilleは、どの州にもないようです。
しかしスーパーマンの映画やテレビの中では、それがカンザス州にあることに
なっています。インディアナもカンザスもたいへんよく似ています。それで
映画の中では、その町を、インディアナ州に置いたのではないでしょうか。

+++++++++++++++++

●そして日曜日(3月23日)(Sunday, March 23rd)
Eiichi has gone back to Narita and he is to leave Japan for Napa, Calif. This coming 
April to have intense training of flight. We saw him off at the near-by station.

三男が、中部国際空港から、成田へ帰った。
ワイフと2人で、近くの駅で見送った。
少し、さみしかった。
つぎに会えるのは、今年の終わり。

「サンフランシスコへ来たら、飛行機に乗せて
あげるよ」と言ってくれた。

三男は、事業者用航空免許をもっている。
アメリカでも、そのまま使えるという。

一度、家に帰ってから、センターの母を見舞う。
今は、個室で、小康状態を保っている。

私たちは、その足で、そのまま山荘へ。

春の匂いが、若葉の上を漂っていた。
「モクレンの匂いだ」と言うと、
ワイフが花の中に、顔を入れた。
「いい匂いね」
「いい匂いだね」と。

昼ご飯を食べて、音楽を聴く。
レモンとキンカンを収穫する。
椅子に寝そべる。また音楽を聴く。

ちょうどそのとき、薄曇りの空を、一機の大型飛行機が、
通過した。
まっすぐな飛行機雲を、うしろに、たなびかせていた。
飛行機雲は、ほぼ真西から真東に延びていた。
その先端に、白い機影。

時計を見ると、午後2時15分。
三男は、午後2時発の飛行機に乗ったはず。

「あの飛行機、Eが乗っているよ」
「そうね」と。

私は窓際に立って、手を振った。
「Eよ、元気でナ……」と言いかけたが、
最後のところで、のどがつまって、声にならなかった。

しばらく私は、空を見あげていた。

ワイフが、「今日はパソコンショップへ寄らないの?」と。
「今日は、いい」と、私は答えた。

ところで、二男の転居先が決まった。

今度は、ブルーミングトンという町らしい。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「Bloomington is a city in south central Indiana. 
Located about 50 miles southwest of Indianapolis, 
it is the seat of Monroe County.」
(ブルーミングトンは、インディアナ中央南部の町。
インディアナポリスから。南西に50マイルに位置する。
それはモンロー郡の行政所在地である。)

日本にいる私から見ると、アーカンソー州も、インディアナ州も、
隣り町のようなもの。

インディアナポリスから50マイル(約80キロ)といっても、
向こうの人たちにとっては、ショッピング範囲。

それはわかるが、デニーズは、毎日、その距離を、
大学まで通うことになる。
「だいじょうぶかな?」と、今ふと、そう思った。



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族】(Spellbinding of Family)
Family works as a home base for each man, but also it works as a burden for each man 
in case its relationship is collapsed.
 
●家族がもつ二面性

常に「家族」には、二面性がともなう。
「家族のためにがんばる」というのが、正の自我群。
「家族であるがゆえに、追いつめられる」というのが、負の自我群。
発達心理学的に言えば、正の自我群というのは、その人を前向きに
引っ張る。
そういう意味で、強化の自我群と表現できる。

一方、負の自我群というのは、それ自体が大きなストレスとなって、
その人を後ろ向きに引っ張る。
そういう意味で、弱化の自我群と表現できる。

「正の自我群」「負の自我群」「強化の自我群」「弱化の自我群」という名称は
私が考えた。どこかで同じ文句を見られた人は、はやし浩司からのパクリと
思ってほしい。(ついでに連絡もしてほしい。)

ところで、どうして「群」という文字をつけるのか?
つまりそれだけ親子の関係が、複雑であることによる。
もろもろの要素が複雑にかみあって、「群」を形成する。
その群、つまりかたまりが、その人の心に影響を与える。
けっして、単純ではない。

同じ自我群でも、正になったり、負になったりする。
そのポイントは、つまるところ、人間関係によって決まる。
良好な人間関係が成立していれば、同じ自我群でも、「正の自我群」となる。
家族の犠牲になりながらも、むしろそれを楽しむことができる。

反対に、ひとたびその人間関係が崩れると、
同じ自我群でも、「負の自我群」となる。
ささいなことでも、大きなストレスとなって、その人を苦しめる。

夫婦関係、親子関係、兄弟関係、親戚関係、すべてについて、そうである。

●ある騒動

正の自我群はともかくも、負の自我群については、どうするか?

私のばあい、「時間」という視点から、こう考えるようにしている。
つまり楽しく過ごすのも、人生。
いやな思いをして過ごすのも、人生。
その人生には、時間という限りがある。
言うなれば、時間というのは、金の砂時計のようなもの。
お金に換算するのは正しくないかもしれないが、へたな遺産より、
はるかに価値がある。それに尊い。

どうせ過ごすなら、楽しく過ごしたほうがよい。
もっと言えば、お金の問題ではない。
いや、負の自我群というのは、たいていのばあい、何らかの形で、その底流で、
金銭問題がからんでいる。物欲がからんでいる。
私の知人の中には、親の遺産問題で、兄弟姉妹で、三つ巴(どもえ)、四つ巴の喧嘩を
くり返した人がいる。
「近所中に聞こえるほどの怒号が、毎晩のように聞こえた」という。
そういった状態が1年近くも、つづいた。

で、その結果だが、うち2人の人は、それから2年足らずの間に、
がんと、脳卒中で他界している。
もう1人は、現在、心臓の動脈硬化症で手術を受けている。

ワイフはその話をしながら、こう言った。
「きっとそのときのストレスが原因で、そうなったのよ」と。

言い忘れたが、その知人の「家族」では、長女が実家と土地を引き継ぎ、
長男と二女、三女が、金銭を受け取った。
受け取った金額は、1人あたり、7000万円だったという。

私「しかしね、7000万円受け取っても、そのあと死んでしまったのでは
意味ないね」
ワ「そうね」と。
私「でもさ、その人たち、7000万円も、どう使ったんだろうね」
ワ「そうね。1人は、家を新築したそうよ」と。

7000万円といえば、はんぱな額ではない。
しかしたとえ小銭でも、騒動の原因となることもある。
汲々(きゅうきゅう)としている人はいくらでもいる。
それが自我群の問題とからむと、とたんに負の自我群に変身する。
人間関係そのものを破壊することも珍しくない。

先の知人にしても、遺産分けがすんだあと、たがいの行き来は、
まったくなくなってしまったという。

兄弟姉妹でも、一度リズムが狂うと、兄弟姉妹であるが故に、憎しみあう。
他人以上の他人になる。そういう例は、ゴマンとある。

●割り切る

では、どうするか?

親子や兄弟はともかくも、親類については、はなから他人と思えばよい。
私の親類にしても、口を出してくる人は多いが、いまだかって
金銭的な援助をしてくれた人は、ひとりもいない。
そういう人たちは、最初から、自我群の(外)置けばよい。
つまり相手にしない。
相手が何を言っても、「ああ、そうですか」と、ヘラヘラと笑っていればよい。

ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、
そうでもしないと、この自我群による幻惑(=呪縛感)から解放されることはない。
言いかえると、自我群による幻惑は、それほどまでに強力であるということ。
本能に近い部分にまで、情報がインプットされているから、
少しぐらい抵抗したところで、ビクともしない。

ともかくも、よき人間関係は、それ自体が、すばらしい財産である。
それを維持するには、コツがある。
(失敗ばかりしている私が、こういうことを言うのも、おかしなことだが……。)

(1)家庭問題には、干渉しない。
(2)金銭問題については、いつも明確にしておく。
(3)グチ、悪口は、タブー中のタブー。

なおこれは余談だが、加えて、加齢とともに、脳みそそのものが硬直する。
硬直した頭で、ぶつかりあうから、たがいに譲らない。
結果として、大騒動に発展する。……発展しやすい。

私も似たようなケースに遭遇しているが、ときどき、その相手との間に、
どうしようもないほど、遠い距離感を覚えることがある。
「この人に説明して、わからせるためには、数年かかるかもしれないな」とか、
「不可能に近いだろうな」とか。

とくに冠婚葬祭の問題がからんでくると、そうである。
「それは迷信だと思います」とでも言おうものなら、
狂ったように、反発してくる。

「お前は、ご先祖様を、どう考えているのかア!」と。

価値観というより、人生観。人生観というより、哲学そのものがちがう。
いや、そういう人には、もとから哲学など、ない。
過去を踏襲しているだけ。

だから私のばあい、適当に合わせて、それですますようにしている。
この世の中、角を立てれば、何かと、やりにくい。住みにくい。

●子育ての中で……

仲がよく見える兄弟・姉妹でも、そこに利害関係がからむと、とたんに様子が一変する。
それが兄弟・姉妹と考えてよい。

一般論から言うと、名前で呼びあう兄弟、姉妹は、仲がよい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」ではなく、「太郎くん」「花子さん」と呼びあう。
上下関係をつくらない、あるいは上下意識をもたせない。

たとえばアメリカやオーストラリアなどでは、こうした上下関係は、いっさい、ない。
親子でも、ない。夫婦でも、ない。先生と生徒、社長と社員にしても、
学校や会社を一歩離れたら、(対等)となる。

しかしこの日本では、そうはいかない。
とくに権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
「ぼくは長男だから」「あなたは男だから」と。
安易な『ダカラ論』をもちだして、自分の立場を正当化しようとする。

このダカラ論が、その関係をより複雑にする。
「私は二男なのに、両親のめんどうをみた」
「私は、嫁で出た身分なので、関係ない」とか、など。

話がそれたが、子どもが複数いるときは、「常に平等」を心がける。
ただ農村地域については、(農業を、後継者に伝えていく)という立場から、
何もかも平等というわけにはいかないかもしれない。
そのため昔ながらの長子存続という習慣も、残っている。
が、その一方で、その習慣にしばられ、もがき苦しんでいる人が多いのも事実。

親類、縁者の目。
近所のつきあい。
年老いていく両親の問題、などなど。
そうした自我群の中で、がんじがらめになっている。
自我群の中で犠牲になった人の苦悩も、これまた大きい。

が、親としては、こうした苦しみを子どもに残すことは、最小限にしたい。
その準備というか、努力は、怠ってはいけない。
とくに今、(財産)と言えるものをもっている人ほど、そうではないか。
「子育て」というと、えてして、(親子関係)を中心に考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(兄弟関係)ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 家族 家族論 家族という
自我群 正の自我 正の自我群 幻惑)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●熟年(定年)離婚(The Retirement age divorce)
More and more wives are to state divorce upon her husband's meet the retirement at 
age limit in Japan.

++++++++++++++++

熟年(定年)離婚がふえている。
ふえているというより、多い。

一般的には、妻の方が、それまで
ためこんできた欲求不満を、そこで
爆発させる。そのために、離婚に至るケース
が多いと説明される。

しかしどうもそれだけでも、ないように
思う。
私自身が、その年齢になって、わかった
ことがある。

その第一は、夫側の情緒がたいへん
不安定になるということ。
(仕事)を失った夫というのは、
いわば糸の切れた凧のような状態になる。

その状態で、精神的な安定を保てと
言われても、そうは簡単にできない。
そのままうつ病になる人だって、いる。

そういう夫と四六時中、顔をつきあわせる。
日経新聞にこんな記事が載っていた(05年
12月4日付)。

++++++++++++++

いわく、「定年退職した男性の8割は、『何もしない人』に
なってしまう。いつも家にいる引きこもりの夫が、
妻の最大の不満原因になる」という。企業戦士だった夫が
くたびれ果て、家庭に戻ってきた時から、妻の日常は激変する。
夫が定年を迎える時、妻の平均年齢は54、5歳だ。
老いはまだ遠く、エネルギーに満ちあふれている。

仕事をもっていたり、地域や福祉・文化活動で忙しい。
夫の方は妻の進化を知らず「めし」「風呂」「寝る」しかいわない、
「三語族」になる。「妻が外出する日は、何時に帰るのか、
とくに食事がどうなるのか心配でたまらない。
そのため妻の外出を禁止する夫もいる」(西田氏)と。

++++++++++++++

そして「引き続いて、夫が家にいることのストレスが、
妻の病気を引き起こすこともあるという」(心療内科医、
黒川順夫氏、「主人在宅ストレス症候群」)と。

++++++++++++++(以上、日経新聞)

「主人在宅ストレス症候群」ねエ……?

で、その結果、夫婦の間のキレツも深くなる。
衝突もする。
その結果として、妻の、それまでの
欲求不満に火がつく。

「仕事、仕事って、あなたの頭の中には、
仕事しかないの!」と。

残念ながら、この段階で、夫の精神状態の
変化に、寛大な妻というのは、そうはいない。
「夫は、うつ病だから……」と、一歩、退いて
夫を客観的に見ることができる妻となると、
さらに少ない?

その場だけの夫を見て、自分の将来の
あり方を、考えてしまう。
「こんな夫と、これから先、いっしょに
生活することは、できない。だから離婚!」と。

つまり私が言いたいのは、熟年(定年)離婚と
いうのは、妻側の欲求不満だけが、原因では
ないということ。

定年で生ずる夫側の混乱が、離婚の引き金を引く。
そういうケースも多いのではないか?
わかりやすく言えば、夫たるもの、安易に、
うつ病にもなれないということ。

寅さんではないが、「男もつらいよ」となる。
ホント!

ちなみに、厚生労働省の人口動態統計03年版によれば、
離婚件数は28万9838組で、前年の28万5911組より、
3927組増加し、離婚率(人口千対)は2・30、
前年の2・27を上回り、離婚件数とともに、明治32年以降、
最高となった。結婚が42秒に1組なのに対して、1分49秒に
1組が離婚していることになるという(All about セカンドライフHPより)。

また、02年は、結婚20年以上の熟年世代、約45500組が離婚。
熟年離婚は、この27年で約3倍にふえたという(同HP)。

(付記)

よくわからないが、私のワイフも、私の知らないところで、
懸命に離婚を模索している(?)。
最近、そんな感じがする。
まあ、もともと私と、好きで結婚した人ではないから、
それもしかたない。

私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に
離婚していただろう。
それがよくわかるから、私も、強く言うことはできない。
今まで、私のような夫に、よく堪え忍んでくれたと思う。ホント!

まだワイフの気持ちを確かめたわけではないが、
もうそろそろ、ワイフを自由にしてあげるのも、
私の努めかもしれない。

と、同時に、私も、心の準備をしておかねばならない。
何も離婚は悪と、決めつける必要はない。

この先、離婚問題について、いろいろ書いてみたい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●地上オゾンの恐怖(Photochemical Oxidant)
Photochemical Oxidant is to affect the growth of plants and vegetables on earth. 
According to the recent research done by Agricultural Environment Technical Center of 
Japan, in China the production of cereals would be dropped abt . 40%~60% by the year 
of 2020.

+++++++++++++++

TK先生から、地上オゾンの話を
聞いてから、もう7、8年になる。

中国から流れてきた排気ガスが、
光化学オキシダントとなって、植物の
光合成に影響を与えるというのだ。

TK先生は、当時、すでに沖縄などでは、
20%近く収穫量が落ちているという
ような話をしてくれた。
(聞き覚えなので、この数字は不正確。)

しかしそれがますます現実味を帯びてきた。

読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞++++++++++

 中国大陸からの大気によって、光化学オキシダントの濃度が上昇する
「越境汚染」問題で、日本海沿岸部のある地点のコメの収量を調べたところ、
内陸部との比較で、約1割少なくなっているとする研究結果を、
農業環境技術研究所(茨城県つくば市)が、20日、山口県で
開かれた日本農業気象学会で発表した。

 光化学オキシダントは近年、日本海の離島などで、高濃度で観測され、
昨年は新潟、大分県で注意報が発令された。
農作物の収量減少は実験から推測されてはいたが、部分的とはいえ、
実際に濃度と収量の関連が裏付けられたのは初めて。

 研究は、長谷川利拡主任研究員によるもの。品種と肥料水準は、
同一の日本海沿岸部の1地点と約30キロ内陸に入った1地点を選び、
1980年からの収量データを比較した。両地点の近くで測定された
光化学オキシダントの5〜9月の平均濃度は、2001〜05年の
平均では沿岸地点が0・045ppmで、内陸地点の0・031ppm
より高かった。

 濃度は沿岸、内陸ともに上昇していたが、沿岸では96〜05年にかけて、
毎年、内陸部の2倍にあたる0・001ppm高くなっていた。

 両地点の玄米の1平方メートル当たりの収量は、
沿岸は80〜96年は平均588グラムだったのが、
97〜05年は560グラムに減った。逆に内陸では、
577グラムから609グラムに増えた。
80年代は沿岸の方が内陸よりも多かった収量が、
90年代半ばから逆転し始め、2000年以降は内陸が沿岸を常に上回った。

 沿岸では、内陸と異なり、夜になっても光化学オキシダント濃度が下がらなかった。
夜間に海からオゾンが流れ込み、昼間の高濃度を保ったとみられる。

 小林和彦東大教授(農学)によると、収量が減るのは、
光化学オキシダントの主成分であるオゾンが植物の葉の中に入り、
光合成作用を妨げるため。農作物への影響について、
中国では研究者らが「2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少する」と推定している。

+++++++++以上、読売新聞(3月20日)+++++++++++++

とくに気になるのは、最後の部分。そこには、こうある。

「中国では研究者らが、2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少すると推定している」と。

わかりやすく言えば、光化学オキシダント濃度(地上オゾン)がふえるため、
中国では、2020年には、大豆、トウモロコシ、小麦の収穫量が、半減する
というのだ。

しかしこれは何も、中国だけの話ではない。

読売新聞によると、すでに新潟県、大分県では、「注意報」まで発令
される状態になっているという。

今では酸性雨による木々の立ち枯れなど、珍しくも何ともない。
この日本でも、ごくふつうの景色になってしまった。

そこへ今度は、光化学オキシダント!

さらにそれに加えて隣の韓国では、中国からの黄砂による健康被害まで
報告されるようになっている。
黄砂は、大気汚染とは、直接には関係ない。
しかし(大気汚染)→(温暖化)→(砂漠化)→(黄砂の大量発生)と
つなげてみると、元凶は、やはり大気汚染ということがわかる。

不測の事態が、また別の不測の事態を生み出す。
このドミノ倒しによって、地球環境は、爆発的に悪化する。
ほんの7、8年前には、科学者の間では、ほんのうわさ話にしか過ぎなかった。
「地上オゾン」という名前すら、世間ではほとんど知られていなかった。

私が5年前に書いた原稿を載せる。日付は、03年の4月になっている。

+++++++++++++++++

●異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。
で、そういう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度
という、観測史上はじまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5
月末に、30度を超えたと思う。そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたよ
うな気がする。(あいまいな記憶で、申し訳ありません。)それが今年は、去年より、約4
0日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。
それがふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳
ぐのが許された。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10〜15日
過ぎのことだった。しかし今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉は
ない。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし3
0年ごとに5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今
年の気温は平年並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進
行している。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感
は、とてもそんなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせ
て、ウソを言っているのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実
感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000〜02年度においてさえ、この浜松市での最
高気温は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウ
ソ。昨年は、わりと涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、
あった。「今日の最高気温は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見な
がら、「どこの気温のことを言っているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のよう
になると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこま
でいかなくても、あと10年もすれば、2〜3月期に、30度を超えるようになるかもし
れない。そうなれば日本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく
見えてくるから不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何と
かなる。が、地球温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。

だから、地球温暖化を考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静か
に滅亡するか」という問題になってしまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわな
い。問題は、それまでのプロセス。人間は、決して静かには滅亡しないだろう。恐らく
(というより、確実に)、まさに地獄を経験するに違いない。秩序やモラルは崩壊し、殺
人や暴力が、日常的に横行するようになる。略奪や殺人が、日常的に横行するようにな
るかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」は、悲惨(ひさん)なものになる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び
出すという方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世
に残すという方法。地球の周辺に、何かのガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるとい
う方法。あるいは太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」
をあけるという方法などがある。

どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。いざ
となれば、方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業
自得としての結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちで
ある。これから先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うの
と同時に、考えれば考えるほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問
題だけは、もうくるべきところまできたような感じがする。単純な問題ではないだけに、
どこから手をつけてよいのかさえわからない。たとえばこんなこともある。

 ところで「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々
の排気ガスや煙が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一
つだが、その地上オゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこで
あの北朝鮮だが、近年、農業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、
地上オゾンではないかと言われている。

もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。日本
も、沖縄あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受け
る。そしてその結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわ
けではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が
根拠になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を
出すことができません。)

(注)ここでいうTK先生というのは、光合成、触媒の世界ではよく知られた、田丸謙二
先生をいいます。

+++++++++++++++++

最後に、昨日、こんなニュースが新聞に載っていた。
何でもあの火星から、塩のかたまりが、見つかったという。
しかもその塩のかたまりが、何百か所から見つかったという。

つまりかつては、火星にも海があったということ。

このことが何を意味するか?
一説によれば、火星にも人間のような知的生物がいたという。
その知的生物たちが、現在の地球人と同じように、発展とともの(?)、
火星温暖化を招いてしまったという。

もちろんこれはSF的な話でしかない。

……とまあ、いろいろ考えられるが、そこでどうだろう。
このあたりで、名前を変えてみたら……?

「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」と。
そうすれば、もう少し、ことの深刻さを、より多くの人にわかって
もらえるようになるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地球温暖化 地球火星化
 光化学オキシダント 地上オゾン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【3月21日】

●離婚問題(Divorce for My Case)

+++++++++++++++++

恐る恐る、聞いた。
とうとう、聞いた。

「お前なあ、ぼくと別れたいなら、別れてやってもいいよ。
いろいろ苦労もかけたし……。
ぼくのほうが、この家を出ていっても、いいんだよ」と。

するとワイフは、こう言った。

「何、言っているのよ。
私は、そんなこと、ゼンゼン、考えてないわよ」と。

私「ゼンゼンって?」
ワ「あなた、どうかしてるんじゃない、ない? そういうふうに考えるのは、
うつ病だからじゃ、ない?」
私「でも、お前って、そういう雰囲気をもっているよ」
ワ「ないわよ……」
私「だってさあ、結婚なんて、こりごりとか、そういうふうに言うじゃない」
ワ「そりゃあ、そういうふうに言うこともあるけど、そのときは、そのときよ」と。

ホ〜〜〜ッ! クビがつながった?

熟年離婚というのは、私の年代の男たちにとっては、深刻な問題。
ほとんどのばあい、夫である男たちが気がつかないところで、
妻である女のほうが、先に心の準備を始めてしまう。

で、ある日、突然、妻の方から、別れ話を切り出される。
夫のほうが、狼狽(ろうばい)する。うろたえる。

まあ、夫のほうがビクビクしながら生きるのも、よいのではないか。
つまりワイフの前では、夫たるもの、それくらい謙虚に生きた方がよい。

私「ぼくね、お前に離婚されたら、ひとりぼっちになってしまうよ」
ワ「わかっているわよ。あなたって、かわいそうな人ね」
私「うん」と。

今しばらくは、私の家庭も、安泰なようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●新製品(iPod Touch)

+++++++++++++++++

S社のW−マンを買って、数か月になる。
で、たまたまパソコンショップへ足を運んでみると、
そこにA社の、iPod Touchというのが目にとまった。

何となくすごいとは思っていたが、これほど、すごいものだとは、
思っていなかった。

三男がたまたま帰省していたので、「買ってあげようか?」と
声をかけると、英語式に、「Thank you」と。

それでそれを買ってやった。
メモリーは、(8GB)のでよいと言ったので、それにした。

+++++++++++++++++

いったい、この世界は、どこまで進歩するのだ!

こんどのiPod Touch は、YOU TUBEをそのまま
ダンロードできる。インターネットの端末機としても、
もちろんそのまま使える。

驚いたことに、世界の地図が、まるごと、そのまま入っている。
1時間ほど、さわらせてもらったが、驚きの連続。

フ〜〜ン、ヘ〜〜エ、と。

大きな画面で、タッチ操作できるところも、すばらしい。
軽くトントンと2度たたくと、画面が拡大されたり、
あるいは2本の指で、画面をはさむようにこすると、
縮小したりする。

S社には悪いが、これでは勝ち目はない。
デザインも、劣る。
改めて、自分のW―マンをながめる。
そしてこう思った。

「かつての日本は、こういうヒット作を、つぎつぎと売り出し、
現在の地位を確立した。その元気は、どこへ消えたのか」と。

タッチパネルにしても、もとはといえば、日本の技術者の
発明である。

「ぼくもほしいなあ」と思ったところで、おしまい。
今しばらくは、W−マンを使うしかない。

心のどこかで引け目を感じながら……。


●若い人たちのBLOG

このところよく若い人たちのBLOGを読む。
参考になる。おもしろい。

「そういうものでもないんだがなあ」と思う半面、
同時に、「私も若いころは、そうだったなあ」と思う。

若い人たちは若い人たちなりに、懸命に模索している。
そこにある何かをつかもうと、がんばっている。

一方、私について書いているBLOGも、ある。
数年前までは、そういうのを読むのが、こわかった。
できるだけ読まないようにしていた。

が、最近は、一歩退いて、醒(さ)めた目で読むことが
できるようになった。

もちろん中には、私のことをボロクサに書いているのもある。
「まだ、あのオッサン、がんばっているようだな」とか、何とか。
私が書いた「ポケモン・カルト」が、よほど気にくわなかったらしい。

しかしそれも、一面。
そういう一面が無数に集まって、今の私がある。
そこは謙虚に反省しよう。

ところでその「ポケモン・カルト」だが、あの本は、ポケモンという
ゲームを通して、人間がもつカルト性を問題にしたもの。
ポケモンそのものは、コミック雑誌の主人公にすぎない。

その本の冒頭の部分を紹介しよう。

+++++++++++++++++++++

●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中
心に、3〜4名の若者があと追い自殺をした。家族によって闇から闇へと隠された自殺者
は、もっと多い。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうする
のだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あ
なたの子どもだとしたら……。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件が
アメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船
とランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠
牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒
による集団自殺事件がある。

この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌まわしい事件
が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計で
ある。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それで
ある。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)
が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あ
のたまごっちを供養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのでは
ない。本気だ。本気で供養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもい
た(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の
範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどう
なるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、21世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、
それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現
の自由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、そ
の延長線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカ
ルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをな
くしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそうだったが、
最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカル
ト教団がある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球
が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、こ
の日本ではまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本
当に安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者
になってからでは遅い。このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくり
とながめてみてほしい。

++++++++++++++

これだけ読んでもらっても、「ポケモン・カルト」の本旨というか、
書いた目的がわかってもらえるはず。

が、その読解力もない(?)。

この種の読者は、(ポケモンを批判された)ことを、そのまま(自分が
否定された)と勘違いしてしまうらしい。
あるいはタイトルしか、読んでいない?
もう少し中身までじっくりと読んで、その上で、批評してほしかった。

ともかくも、先ほども、いくつかのBLOGをのぞいてみた。
おもしろかったのは、ある女性の書いている料理レシピのBLOG。

「なかなかおいしそうだな」と感心して、そのBLOGを閉じようとして、
そのとき気づいた。

表題に、「ワンちゃんのレシピ」と書いてあった。
何と、ペットの犬の料理法について書いたBLOGだった!

「みんな、一生懸命なんだなあ」と思って、今度はほんとうにそのまま
そのBLOGを閉じた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    4月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月xx日
Today is the worst day even for me. I had a small meeting with young mothers about my 
class. Several mothers came to the meeting, where one of mothers asked my principle of 
education. Another mother asked me if there is an elevator service or not. When I 
showed some medical books which I wrote, a mother asked me if I have a license of a 
medical doctor or not. I said there is no problem to write a medical book for doctors even 
though I am not a medical doctor. There are some prejudice and misunderstandings. I 
felt so bad with a headache on the way. So I say today was the worst day of my life, or I 
felt rather despair.  
 
今日は、私の生涯において、最悪の日だった。
「絶望」という言葉があるが、それに近いものを感じた。

教室の説明会をした。
何人かの母親たちが集まってくれた。

その席でのこと。
1人の母親が、こう質問した。
「このビルには、緊急避難階段はないのですか?」と。

私の教室は、ビルの3階にある。
「ありません」と答えるのが、精一杯だった。

「あなたの教育方針を示してほしい」
「あなたはどういう子ども観をもっていますか」とも。

また私が書いた東洋医学の本を見せたときも、
こんな質問が出た。

「あなたは医師の免許をもっているのですかア?」と。
どこか、「そんな本は、書くべきではない」というような
言い方だった。

それについても、「医師の免許をもっていなくても、
医学の本を書くのは、自由です」と。

ほかにもいろいろあった。
自分の気力の限界を感じた。
「年齢」という壁も感じた。

で、帰り際、何人かの母親たちは、こう言った。
「うちへ帰って、(入会するかどうか)、子どもと
よく相談してから決めます」と。

4歳の幼児と相談する?
いや、だからといって、親たちを批判しているのではない。
私のようなジジイ教師は、お呼びではない。
どこかモウロクしている?
私も若いころは、50歳以上の人は、みな、ジジイに見えた。

所詮(しょせん)、私のしている仕事というのは、
その程度のもの。
この世界では、誠意や実力など、何の意味もない。
避難階段も駐車場もないから、月謝を、安くしている。
またこの私ほど、最前線で幼児を見てきた教師もいない。

私は、投げ出しそうになる気持ちを懸命に抑えて、
一応、最後まで、説明会をこなした。
途中からは、偏頭痛との戦いだった。

結果、何人かの人が、入会してくれることになった。
うれしかった。
「いい子にしますよ」と約束した。

わかってくれる人は、わかってくれる。
が、そうでない人は、そうでない。
私は、その何人かの人のために、がんばる。
あとの人は、こちらから入会を断る。
たとえ申し込みがあっても……。

昔から、こう言うではないか。
『一寸の虫にも、五分の魂』と。

教育の自動販売機論が言われるようになって、もう
20年になる。
「教育は、お金さえ出せば、だれでも買えるもの」と。
今の母親たちは、そういう世界で、育った人たちで
ある。

私のような小さな教室でも、「入会はお断りします」などと
言うと、たいていの母親は、販売拒否にでもあった
かのように、怒り出す。

実際、「どうしてうちの子が、入れないのですかア!」と、
電話口の向こうで、怒鳴り散らした母親もいた。

で、家へ帰るとき、こう考えた。

「私がこの36年間、してきたことは、何だったのか」と。

そのとき、ふと、冒頭に書いた絶望感を味わった。
重い煙が、心をおしつぶした。
ため息も出なかった。

ついでにニヒリズムも……!
「もう、こんな仕事、やめてしまおうか」とか、
「無料マガジンの発行なんか、やめてしまおうか」とも。

しかし……私は、めげないぞ!
こういう日本にしてしまったのは、ほかでもない、この私たちだ。
私たちに、その責任がある。
「若者は、また、歩き始める」(♪「若者たち」)だ。

ハハハ!

学生のころは、いつもこの歌で救われた。
またまた今日も、この歌を歌うことで、救われた。
ザ・ブロードサイド・フォーのみなさん、ありがとう! 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき子どもの心
There was a child treated by mother cruelly….

母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に
保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」
とか、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、
「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、い
つもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることは
できない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者た
ち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「も
う、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来な
さい」と。しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私は
きっとこう言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに
戻りたい」と。それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた
生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人も
いる。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会という
ワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家
に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW君という友人がいた。10年ほど前、くも膜下出血で死んだ
が、円空(えんくう・17世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その
彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬ
んだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。
死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし
今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にい
ないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がど
うあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生き
てみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して
希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだ
けかもしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と
思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うと
き、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌っ
たとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02−11−20)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【善も悪も、紙一重論】(Good Man & Bad Man)
There is not much difference between good men and bad me. Good men become good 
men because he is in good world. Bad men become bad men because he is in bad world. 
There is not much difference.)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っ
ただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、
大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよ
い子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観な
ど、すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見
た「よい子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。

またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。たとえば息子が同性愛者にな
ったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思
えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)そ
れだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もあ
る。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ
呼び出された。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談
があったので、私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあう
ことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、
あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭
もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろ
うから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室に
いると、いつもより30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君
はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言え
ば、子ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師
の問題ではない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようと
することだ。そしてその像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教
師にもない。

大切なことは子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな
方向性をもっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。た
いへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同
じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在
しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを
考えても、意味はない。まったくない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう
意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚
園で講師になったとき、すべてをなくした。

母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は毎晩、自分のアパー
トへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。ただ
私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をす
るようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正
直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命では
ない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しか
しその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身
で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう
言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今も
その運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていた
ことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事
に悪事を重ねているに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命
を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、
本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分
で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かさ
れるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考え
てみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断
すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。
つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きなが
ら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。
みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人
ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたも
その悪人になっているかもしれない。

そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにくい話
をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別
のところで考えてみることにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●すばらしい人たち、二人の知人

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、
K氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、
もっともすばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この
二人ほどすばらしい人を、私は知らない。

この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。
またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさること
ながら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。
その人たちの言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを
楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉
で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのま
まさらけ出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たい
ていの人は、心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんど
は、他人には知られたくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだま
しながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本
の四タヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱
税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で
議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。

四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわし
い。昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、
多分、毎日、いかにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違い
ない。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手
にしなくなる。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほう
がよいかもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりす
る。自分という人間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで
考えることにして、そんなわけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。と
きどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。

が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識し
たとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居
なおって生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えて
いく道。いや、一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道
なのかもしれない。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでも
ある。疲れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスは
ない。あるいは反対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放される
ことになる。人はなぜ、ときとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分
と、ニセの自分が遊離するからだ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私は
ヘトヘトに疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言し
たことも何度かある。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。
しかしそれ以上に、私を疲れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツ
ンとした緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分で
なくなってしまう。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。と
きどき講演をしながら、その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさ
えあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかし
それは言葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出
したら、それだけで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がい
つもつきまとった。そのときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、
恥ずかしくないような自分になろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り
口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が
悪人になるとしたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決ま
る。つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、
やがてその人の人格をつくる。

日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもそ
の人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれ
て身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする
人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あ
くまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが
鳴れば玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソ
コンに向かって、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人
間は、もともと善良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠く
なる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去ってい
たはずである。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越
えてきたということは、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証
拠にほかならない。私たちはまずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。
水の中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無
理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、
決して深追いをしない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあっ
たからこそ、こうした生き物は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて
例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……
 
で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言
っても、それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。い
や、今でも油断をすると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすること
がある。これは人間が本能としてもつ本性のようなものだから、それから決別すること
は簡単ではない(※1)。

それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまで
が自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼ
れてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもで
きる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、
生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またならねば
ならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるが
ままに生きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。
そういうときはどうすればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、
ひょっとしたら、みんな去っていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接し
たら、その誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そう
いう力がある。そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。

たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から
消えていくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、
S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした
二人の知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへ
ん失礼な言い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっ
ただろう。

しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく
似ているのに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「な
ぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、
その共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を
伴走する。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間
が歩く程度では、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなと
きでも、だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえ
たりすると、私の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、
私が見ても、「ああ、かっこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそ
れがわかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。
しかし自尊心はもっている? 

もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力を
する。私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度
が超えると、いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをした
り、虚勢を張ったり、自分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本
能で、どこからが自分の意思なのか、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこ
かからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわ
からない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++++

以上、善人論、悪人論について書いた原稿を
掲載してみた。

理由は、実は、つぎの2つの記事を読んで
ほしかったからである。

2つも、ヤフー・ニュース(3月20日)に
載っていた記事である。

++++++++++++++++++++

●ヤフーの記事より転載(要約)

まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。そうわかって
はいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある。

 18日、東京地裁の初公判。女性の顔面を殴るなどして手提げバッグを奪ったとして、
強盗致傷の罪に問われた男性被告(35)もその1人だった。

 起訴状によると、被告は今年1月8日、東京都足立区の路上を歩いていた女性=当時(5
0)=を路上に押し倒し、ガードパイプに女性の後頭部をたたきつけるなどした上で、
現金約6万5000円やキャッシュカードなどが入った手提げバックを奪った。女性の
頭部などに全治10日のケガを負わせた。罪状認否で被告は起訴事実を認めた。

 被告は、郷里の家族とは音信不通の状態だったという。
 弁護人「家族は父母と兄、妹がいる?」
 被告「母は中学3年のときに死にました」
 弁護人「父親とは18年間、会っていない?」
 被告「はい」

 父親との折り合いが悪かった被告は、中学校を卒業すると、東京の寿司屋で働き始めた。
それ以降、職を転々としながら働き続けた。犯行前に勤務していたのは警備会社だった。

 弁護人「12月28日にもらった給料はどうした?」
 被告「その日は家賃と弁護士費用を払った」
 弁護人「いくらですか?」
 被告「家賃は3万8000円、任意整理の弁護士費用が1万5000円」

 被告はその後、パチスロでさらに2、3万円を浪費した。次の勤務日、被告は出社しな
かった。
 被告は消費者金融に約210万円の借金があったほか、上司にも2、3万円の借金があ
った。

 弁護人「なぜ(上司への)2、3万円の借金で行くのをやめた?」
 被告「何度も怒られて、注意されて、もう無理かなと思って」

 年末年始はゲームセンターでのゲームや、パチスロをして過ごした。自宅に帰るのも面
倒だったので、新宿の漫画喫茶に寝泊まりした。

 弁護人「そのうち金がなくなるのは目に見えている。どんなことを考えていたの?」
 被告「どうなってもいいや」
 弁護人「どうなると思った?」
 被告「死ぬか、犯罪を起こすか」

 なぜ被告は犯罪の引き金を引いたのだろうか。

 弁護人「なぜ決意した?」
 被告「おなかがすいたし、自殺する勇気がない」
 弁護人「頭を下げて仕事に戻るという選択肢は?」
 被告「その時点ではどうなってもいいやと」
 被告は犯行を「後悔している」と述べ、弁護人からの問いに泣きじゃくった。
 弁護人「時計の針を戻せたら、どこでどうすればよかった?」
 被告「生まれてこなければよかった。どこでって、生まれたこと自体がもう…」

 検察側の求刑は懲役7年だった。客観的な犯行事実を見れば、「金がほしい」という犯行
の動機は短絡的で、ガードパイプに頭部をたたきつけるという犯行の態様も危険極まり
なく、求刑が重いのも理解できる。金がなくなった経緯も自業自得だ。だが、心の中で
そう単純に切り捨てられなかった。

 中学校を卒業したらすぐ故郷を離れて上京し、家族の愛情も知らず、ただ働いて生きて
いくだけだった被告の「生まれてこなければよかった」という言葉が心に引っかかった。
罪滅ぼしが済んだ後は、これからの人生で「生まれてきてよかった」と思える瞬間を自
分の力で見いだしてほしい。

 判決は3月28日に言い渡される。(末崎光喜)

+++++++++++++++++

同じく、3月19日に、こんな記事も載っていた。

+++++++++++++++++

●でも思うようにもうからず…

 東京地裁の被告人席に座った熟年夫婦。サラリーマンとして勤め上げて定年退職した夫
(63)と、その妻(57)の第二の人生は、夫唱婦随の乱交パーティー主催だった。

 夫婦が問われたのは売春防止法違反罪。起訴状によると、夫婦は平成19年11月15
日、東京都品川区五反田のホテルにいた4人の男性に3人の女性を派遣して、売春を斡旋
(あっせん)。罪状認否で夫婦は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、夫婦は昭和52年に結婚。夫は広告代理店を定年まで
勤め上げた。妻は専業主婦だった。

 夫婦には月20万円の年金収入があったが、夫は16年4月ごろ売春斡旋業をスタート。
一人で続けるのは難しくなり、約1年後に妻を引き入れた。妻は嫌がったものの、結局は
夫の求めに応じた。インターネットで客を募集し、月に2回ほど乱交パーティーを主催し
ていた。

 男性被告が代理店に勤務している間は、どこにでもある普通の家庭だった。それがなぜ
売春斡旋のような裏の仕事に手を染めるようになったのか。

 弁護人「どうして売春斡旋を始めたのか」
 夫「売春クラブをやっている女性の友人から誘われて」
 弁護人「その女性とはどうやって知り合ったのか」
 夫「会社時代に飲み屋で知り合った」
 裁判官「よりによってなぜこんな仕事を」
 夫「友人ができるなら自分にもできると思った」

 乱交パーティーの売り上げは20万円。このうち、ホテル代、食事代、避妊具代などに
2万円。派遣する女性への支払いが3人で12万円。純利益は6万円にしかならなかった
という。

 「思ったほどもうからなかった」。夫は法廷でうなだれた。

 弁護人は妻に一緒にやり始めた理由を聞いた。

 弁護人「嫌だと思っていたのになぜ一緒に始めたのか」
 妻「家が古いから立て替える資金ができるといわれて。そんなに怖いと思っていなかっ
た」

 生活費と家の建て替え資金。この2つの理由で飛び込めるほど気軽な稼業ではない気が
したが、それ以上の理由は、被告人の口からは語られなかった。

 弁護側証人として、夫婦と同居していた二男が出廷。「こんなことをしていたなんて、ま
ったく知らなかった」と絶句した。

 妻は「両親がこんなことをして、裁判所に来てもらうことは、何とも言いようがない」
と述べ、おえつを漏らした。

 最後に裁判官は妻を諭した。「夫を止めるべきだった。二度とないように、あなたがしっ
かりしないといけない」。

 検察側は夫婦いずれにも懲役2年、罰金30万円を求刑した。判決は29日に言い渡さ
れる。(末崎光喜)

++++++++++++++++++

以上が、ヤフー・ニュースに載っていた2つの
記事である。

あなたは、これら2つの記事を読んで、どう感じたで
あろうか。

もちろん犯罪にもいろいろある。同じ犯罪でも、
被害者や遺族の立場で見ると、まるでちがって
見えるということもある。

冒頭で、記事を書いた末崎氏が述べているように、
「まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。
そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある」というのは、
まさに正論である。

善人と呼ばれる人でも、そのうちの何割かは、「悪」である。
一方、悪人と呼ばれている人でも、そのうちの何割かは、「善」である。

要は、バランスの問題。
ときに善が崩れて人(=子ども)は、悪人になり、
悪が暴走して人(=子ども)は、悪人になる。
根っからの善人など、いない。
根っからの悪人など、いない。
むしろ善人ぶっている人のほうが、不気味。
仮面をかぶりながら、かぶっていること自体に、気がついていない。

……話が脱線しそうなので、ここまで。
子どもを見るときの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 善人論 悪人論 善悪 子
どもの善悪)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●形だけの人間関係(Formal relationship between people)

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形だけの人間関係がどういうものか、それを知りたかったら、
老人ホーム(=特別養護老人ホーム)をのぞいてみるとよい。
そこにあるのは、すべて「形」だけ。

形だけの言葉。
形だけの世話。
形だけの心配。
形だけのやさしさ。
形だけの人間関係。

老人ホームのスタッフの人たちを責めているのではない。
むしろ、その逆。

老人ホームにいる老人たちと、心を交わすのは、不可能。
とくに要介護度4とか5の老人については、そうである。
まともな会話すら、できない。
そういう老人たちと、(形だけではない人間関係)を
築くのは、もとから、不可能。

それにそこにいる老人たちは、先が短い。
「もうすぐ死ぬ」という前提で、スタッフの人たちは、世話をする。
心の準備をする。

そうでもしなければ、つまりへたに心を入れてしまえば、
みな、ズタズタにされてしまう。
ひとりの老人が亡くなるたびに、みなが大泣きをするという
わけにはいかない。

教育の世界には、「10%のニヒリズム」という言葉がある。
どんなに教育に没頭しても、最後の10%は、自分のために
とっておく。
それがないと、教師たるもの、やはり身も心も、ズタズタに
されてしまう。

しかし老人ホームでは、「99%のニヒリズム」ということになる。
またそれがないと、あの仕事は、できない。

で、私は、この数日、ふと気がついた。
実は、この私自身が、形だけの人間関係にあるのではないか、と。

数日前、風邪で(?)、少し、寝込んだ。
そのときのこと。
ワイフがときどきやってきて、「どう?」と聞く。
そのとき、ふと、こう思った。思ったというよりは、知った。

「形だけだな……」と。

本気で心配しているというよりは、うるさい旦那だから、
適当に様子を見にくるといった感じ。
それが私にも、よくわかった。

私は、そういう夫である。
それを認めるのはつらいことだが、事実は、事実。

つまり恐らくワイフは、私との夫婦生活をつづけながらも、
30〜60%のニヒリズムをすでに用意しているのかもしれない。
ワイフの口癖は、ただひとつ。
「結婚は、こりごり」
「来世では、別の男性と結婚する」と。

そういう視点で、ワイフを観察してみると、老人ホームで働く
女性たちと、様子がよく似ているのがわかる。

やるべきことはやります。しかしその範囲。
ひょっとしたら、私はともかくも、ワイフのほうは、私への
愛情は、とっくの昔に冷え切っているのかもしれない。
たとえばワイフは、毎週、2つのクラブに通っている。
定期的に、みなと、食事会などを楽しんでいる。
しかしそういうところへ、私を誘ってくれたことは、一度もない。
メンバーの中には、夫婦で来ている人も多い。
そんなわけで、話をしても、うわべの話だけ。
あるいは、あまり話をしたがらない。

私は、それに気がつかなかっただけ。
おめでたいといえば、これほど、おめでたい話はない。

しかしこれも夫婦。
いろいろな夫婦を見てきたが、夫婦に定型はない。
だから私たち夫婦は、だめだとか、そういうことではない。
要するに夫婦といっても、共同体なのだから、共同できる部分では共同し、
それ以外の部分では、おたがいに割り切って生活する。

「私たちは私たち」と、納得することこそ、重要。
もちろん離婚の可能性もないわけではない。
しかしどうせどちらか一方が先に死ねば、結果的に
離婚したのと同じ状況になる。

ここは逆に、60%のニヒリズムを利用して、淡々と生きるしかない。
80%でも、90%でもよい。
まあ、私も、そのうち、離婚の話がワイフのほうから、
切り出されるかもしれない。

その覚悟だけは、いつでもしている。ホント!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●テレビと子ども(TV's & Children)
According to the recent survey done by South Korea Broadcasting Institute, the more a 
family get rich, the more the hours that children watch TV get short. Those children 
who lives in a bigger house watch TV for a shorter time.

++++++++++++++++

韓国の、法曹映像産業振興院が、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。
「両親の経済、教育水準が高いほど、
子どもの視聴時間が短くなる」という。
(朝鮮N報)

++++++++++++++++

韓国の放送映像産業振興院(KBI)は、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。

両親の経済および教育水準が高いほど、子どものテレビ視聴時間が短くなるという。
(08年3月17日)

「青少年のテレビ視聴行動および利用者の特性分析」と題する報告書によると、

(1)66平方メートル未満の住宅に住む青少年は、1日平均で67分間、
地上波テレビを視聴しているのに対し、
(2)264平方メートル以上の住宅に住む青少年は、5分の1水準の
わずか13分にとどまっていることが分かったという。

 また、

(1)借家で暮らす青少年は1日平均69分間、地上波テレビを視聴しているが、
(2)実家で暮らす青少年の視聴時間は平均52分と、親の経済水準と子どもの
テレビ視聴時間との間には、少なからず関係があることが分かった。

さらに、

(1)最終学歴が、中卒の世帯主の元で育つ青少年の地上波テレビの
平均視聴率(全番組に対する青少年の1年間の平均視聴率)が6・45%だった
のに対し、
(2)大卒以上の世帯主の元で育つ青少年のテレビ視聴率は3・02%と
実に半分にとどまった。同調査は昨年(07年)、1年間にわたって
ソウル地域、1550世帯を対象に実施された。

今回の研究を進めたKBIのパク・ウンジン研究員は「経済および教育水準の高い両親は、
子どものテレビ視聴を慎むよう指導しているためと分析される」と話した。

一方、テレビを消すと、新聞や本に接する時間が長くなるという実験を、
EBSテレビが行った。

EBSの「リアル実験プロジェクトX」という番組が、13世帯32人の住民が
暮らす全羅南道莞島郡タラン島で40日間にわたって「テレビを消す実験」を
行ったところ、

(1)実験前に「新聞を全く見ない」と答えた人の割合(92・8%)が、
実験後には57・1%にまで減ったほか、
(2)「週に1、2回見る」と答えた人の割合(7・1%)は、35・7%にまで増えた。
(3)また「週3日」と答えた人は、実験前には一人もいなかったが、実験後には
実に7・1%にまで増えた。

(以上、朝鮮N報・3月17日版より転載。私のほうで、箇条書きに修正)

++++++++++++++++

わかりやすくいえば、収入が少なく、家が小さい家庭では、子どものテレビ
視聴時間が長くなる。
反対に、収入が多く、家が大きい家庭では、子どものテレビし長時間が、短く
なる、ということ。

(高学歴)→(収入が多い)→(大きな家に住む)→(?)→(テレビ視聴時間
が短くなる)
……というように関連しているということらしい。

問題は、この(?)の部分である。

(大きな家に住む)→(ほかに娯楽も多い)
(大きな家に住む)→(開放感がある)
(大きな家に住む)→(相対的にテレビのある部屋が小さくなる)など。

いろいろ考えられる。

また興味のあるのは、EBSが行った調査。
(しかしこの種の番組には、「ヤラセ」が多いので、そのまま信用するわけには
いかないが……。日本にも似たような番組があった?)

「13世帯32人の住民が行った実験」。
なんと、「40日間、テレビを消す実験」をしてみたという。

その結果、新聞を読む人がふえ、回数もふえたという。
当然といえば当然の結果だが、その前に、「新聞をまったく見ない」という
人が、92・8%もいたのには、驚いた。

「92・8%」といえば、ほぼ100%とみてよい。
最近、この日本でも、「本どころか、新聞さえも読まない若者たち」が、
問題になっている。
しかし、それは若者たちの話。
今回の調査とは別に、「韓国の人は、新聞を読んでいない」ということを改めて、
知った。プラス、驚いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist テレビと子ども テレビ視
聴時間)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●高額教材を違法販売(中日新聞)(A Swindle Business…10 million yen =1 million US 
dollars, for one-year course of lesson!)
Shizuoka Prefectural Government has disposed one "learning center" company in 
Shizuoka to stop working for three months.

+++++++++++++++++++++++

静岡県は、(3月)18日、高額な学習教材を不適切な
方法で販売したとして、特定商取引法に基づき、
「家庭教師のF」を名乗って営業している家庭教師
派遣業・学習教材販売の「W」をに対し、19日から
3か月の業務停止にすると発表した。

…(中略)…

家庭教師と高額な学習教材をセットにする業者をめぐる
トラブルは、全国各地で相次いでいる。

中には家庭教師が辞めても、解約に応じなかったり、
高額な解約料を求めたり、つぎつぎと学習指導と称する
教材購入をもちかけられ、中には、1000万円以上に
金額がふくらんだケースもある
(以上、中日新聞、3月19日、朝刊より)

+++++++++++++++++++++++

あのね、こういうトラブルは、もう15〜20年前から、あったの。
私が直接、見聞きしたのは、こういうケース。
このケースとて、20年近くも、前の話。

浜松市内に、K・スタディ(仮称)という教材販売会社があった。
(現在も、どこかにあるかもしれない。)
家庭教師と教材を、セット販売するという会社だった。

契約料は、年間120万円弱(当時)。
「月4回、家庭教師を派遣して、子どもを指導する」というものだった。

が、その教材たるものが、スゴイ!
ダンボール箱、一箱分もあった。

それを見ただけで、その子ども(小6男子)は、おじけづいてしまった。
そこで解約、ということになったが、そのとき、その子どもの母親が
私に相談してきた。「解約できないが、どうしたらいいか?」と。

K・スタディは、こう説明したという。

「教材は、一度、封を開けられたら、商品価値がなくなる。
家庭教師は、あくまでも、教材の指導員として、会社のほうから
無料で、派遣するもの。だから解約はできない」と。

たまたま同じころ、別の親から、そのK・スタディについて相談があった。
やはり「解約したいが、解約に応じてくれない」と。
その親を、Bさんとしておく。

話を聞くと、こうだ。

「2、3か月、家庭教師に来てもらったが、子ども(中1男子)との相性が悪かった。
そこで家庭教師をかえてもらった。が、それでもうまくいかなかった。
で、解約しようと、K・スタディに行ったが、解約に応じてもらえなかった」と。

私は、そのK・スタディに電話を入れた。

担当者は、私に、こう説明した。

「私の方では、1年契約で、家庭教師と雇用契約を結んでいます。子どもとの
相性が悪いときには、教師をかえていますが、中途で解約はできません。

Bさんの件では、うちの家庭教師に問題があったというよりは、お子さん自身の
ほうに問題があるように思います。

当然、1年分の家庭教師料金は、払ってもらいます」と。

また教材については、こう言った。

「うちは家庭教師の派遣が、主な仕事です。教材は、あくまでも、そのための
ものです。費用の大半は、家庭教師代と考えてください」と。

つまり教材をつつけば、家庭教師を理由にして、解約に応じない。
家庭教師をつつけば、教材を理由にして、解約に応じない。

彼らの常套手段である。

そののち、K・スタディは、事務所を別のところに移した。
最近は名前を耳にしていない。恐らく、名前を変えて、どこかで営業
しているのだろう。

で、今朝の新聞。

今回営業停止処分をくだされたのは、静岡市に本社(?)を置く、
「W」だったという。
中日新聞の報道記事によれば、「2003年以降に保護者から、
県民生活センターに寄せられた苦情が、計135件に達した」
「それで処分に踏み切った」と。

しかしこんなことをしても、モグラ叩きのモグラのようになるだけ。
彼らは、所在地を変え、名前を変えるだけ。
教材にしても、表紙の1枚を取り替えるだけで、すむ。
(中規模クラスの進学塾では、どこでもやっていることだが……。)

要するに、親のほうが賢くならないと、この問題は、解決しないということ。

そうそう先の、K・スタディの件のときは、私は、親たちからの相談を
受けながら、こう思ったのを覚えている。

「月額8000円の月謝で教えている私は、バカみたい」と。

しかも私のばあい、今でも、毎月、月割りの月謝として、親たちから、直接、
手渡しで受け取っている。

(毎月だぞ! こんな良心的な教室が、ほかにどこにある?
どこの教室でも、3〜6か月分の前納式が常識。教材費、テスト代、講習費は
銀行からの自動引き落とし。途中で退会しても、そうした費用は、いっさい、
返してくれない!)

最近になって、私の教室でも、やっと、「退会届は、前月の3週目まで」
という規約を作ったが、当時は、月末の最後の週になって、
「今日でやめます」式の、やめ方をする親も珍しくなかった。

それを、前納で、120万円も払うとは!
私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。

親の気持ちもわからなくもないが、こうした教材会社には、じゅうぶん注意した
ほうがよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●命(Life)
We often say "life" is important. But what does this actually mean? I take up three 
elements in "Life" itself. They are "Time", "health" and "reason to live".

「命を大切に」とは、よく言われる。
子どもにそう言うときもある。
しかし「命」とは、何か。

私は、つぎの3つをあげる。

「時間」「健康」、それに「生きがい」と。
この3つを、重ねあわせて、「命」という。

まず(1)時間。

時間には限りがある。
その時間を、どう使うか。
年数ではない。
使い方。
20年を短いと言う人もいる。
1年を長いと言う人もいる。
生き方によっては、20年も一瞬で終わる。
1年を、100年にすることもできる。

さらに最近では、健康寿命という言葉もある。
平均寿命から、10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。
晩年の10年間は、病気との闘いということになる。
さらに50歳を過ぎると、健康な人でも、体力、気力がぐんと落ちてくる。
30代の人にしても、残された時間は、ほどんどない。
40代の人にすれば、なおさらだ。

つぎに(2)健康。

健康には、2つの意味がある。
肉体の健康。それに精神の健康。
東洋医学では、これら2つを、同じものと考える。
西洋でも、「健康な肉体に、健康な精神が宿る」という。
その反対でもよい。

その健康は「作る」ものではない。
「守る」もの。
今日、健康なら、その健康を明日につなげる。
が、大切なのは、運動。
さらに言えば、運動するという習慣。
その習慣が、その人を健康にする。

さいごに(3)生きがい。

人は、何もなくても、夢や希望があれば生きていかれる。
夢や希望がないと、ほかでどんなに満たされていても、生活は空虚。
よい例が、老人たちが住む、ケア・センター。

豪華な設備の整った一室で、3食、昼寝つきの生活をしている。
先日も、ボランティアの人たちが、そこで歌を歌っていた。
が、それを聞きながら、かろうじて反応している老人は、ひとりだけ。
残りの老人たちは、うつろな目つきで、空をながめていた。

生きているというよりは、生かされているだけ。
だれかが、「死の待合室」と呼んだが、健康な人なら、みな、そう思うだろう。
私の母にしても、先週、医師に、(とうとう)、こう言われた。
「今後は、治療しない」「延命処置もしない」と。
「とうとう」というのは、救急車で、運ばれることがつづいたことによる。

夢も希望もない。
それがあの待合室にいる老人たちである。
しかし夢や希望があれば、その先に目標が生まれる。
目標が生まれれば、生きがいも、生まれる。
「生きがい」、つまり「私は生きている」という実感、それが大切。

以上、「命を大切にする」ということは、
時間、健康、そして生きがいを大切にすることをいう。
「命を大切にする」といっても、ばくぜんとしていて、わかりにくい。
だからこうして、その中身を分析してみた。


●記憶(memory)
We are losing memories so easily especially when we stand at the doorway of old men.

今朝、ぞっとすることがあった。
けっして大げさなことを言っているのではない。
本当にぞっとした。
こんなことだ。

今朝、パソコンの中で写真をさがしていた。
息子の結婚式のときの写真が、どこかへいってしまった。
そのときのこと。

少し前に教えた子どもたちの写真が、何枚か出てきた。
日付を見ると、2002年となっていた。
たった6年前である。

そこには、5人の幼児の顔が写っていた。
私が教えた子どもに、ちがいない。
が、うち4人には、まったく見覚えがなかった。
「こんな子、いたっけ?」と思ってしまった。
それで、ぞっとした。

教えたということは、少なくとも1年間はつきあったはず。
にもかかわらず、名前どころか、教えたという記憶すら残っていない。

いや、どこかで見た顔だな……という程度には、覚えている。
しかし、そこまで。

記憶というのは、そういうものか。
子どものころに出会った人は、今でもよく覚えている。
しかしこの年齢になると、たった6年前の子どもたちのことですら、
(よほど何かのことで印象に残らないかぎり)、
そのまま忘れてしまう。

加えて、ぞっとしたのには、もうひとつ理由がある。

もし記憶というのが、そういうものであるとするなら、では、私は
この6年間、何をしてきたのかということになる。
6年前の「私」でもよい。

無駄に過ごしていたとは思わないが、言うなれば、穴のあいたバケツに、
水を汲んでいただけ。
汲んで入れた分だけ、穴から、水がこぼれ出て行った。

私が教えたはずの子どもたちでさえそうなのだから、ほかの記憶、
たとえば読んだ本とか、見た映画、旅行、会話、それに私が書いた文章とか、
そういうものも、そうであるにちがいない。

何もかも、ポッカリと記憶の中から消えてしまっている。
その可能性は、ないとは言わない。

認知症のはじまりなのか。
それとも私の年代の人たちは、みな、そうなのか。
ただ、「中には覚えている子どももいる」という点で、認知症ではないと
信じたい。
もし認知症のはじまりなら、全員、忘れてしまっているはず。

ともかくも、私は、ぞっとした。
この先、こういうことは、もっと多くなるにちがいない。
今、教えている子どもにしても、5、6年後には、きれいに忘れてしまう。
もしそうなら、「今」という時間は、いったい、何なのか。
言い方を変えるなら、「今」という時間そのものが、無駄になってしまう。

では、それを防ぐためには、どうしたらよいのか。

ひとつの方法は、常に、自分の記憶を刺激するというのがある。
アルバムだけではなく、その子どもの様子や特徴を、そのつど思い出す。
文章にして残して、あとで読みなおしてもよい。
思い出しながら、記憶を新しくしていく。

けっしてぼんやりとしたまま、その日、その日を、送ってはいけない。
自分では、「私は私」と思っていても、5、6年後には、その私が
消えてしまう。
半分とか、さらに10分の1になってしまう。

私のばあい、5人のうち、4人まで忘れてしまっていたから、80%の
記憶が消えたことになる。

言いかえると、2002年のあの時代の、80%を失ったことになる。

だからぞっとした。

そう言えば、私の母にしても、結婚してからの記憶がほとんどないことがわかる。
夫、つまり私の父のことすら、覚えていない。
ときどき口にするのは、母が子どもだったときのこと。
つまり子どものときから、今の時代まで、その間の記憶がどこかへ消えてしまっている。

が、もし母が、その過程で、つねに自分の記憶を刺激していたら、
そういうことはなかったかもしれない。
母は、忘れるまま、忘れてしまった。
私には、そんな感じがする。

「今」を生きるということは、今というこの「時」を、しっかりと脳みそに
刻みながら生きることをいう。
その努力を怠ると、あとは認知症の世界に、まっしぐら!
肉体の健康と同じように、脳みその健康も、維持しなければならない。

しかしそれは可能なのか……?

さあ、新しい本を読もう。新しい音楽を聴こう。
今という時間を、文という形で、しっかりと残しておこう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月17日】(March 17th)
I have been enjoying writing very much. Only when I am writing, I feel alive! To live 
means as for me, to write and think. Thinking is one of the most important part of my 
life.

+++++++++++++++

昨日は、午後から偏頭痛。
夜になって、薬をのみ、そのまま就寝。

今朝は、午前4時起き。

マガジンの配信を確かめる。
読者は、4人、ふえた。

そのほとんどは、近くのW医院のみなさんに
よるものだと思う。

その医院では、受付に、私のマガジンの申し込み用紙を
置いてくださっている。

ありがとうございます!

++++++++++++++

ところで私の知人に、パソコンは使わないという人がいる。
公認会計士をしている人だが、失明の危険があるからだという。
「きっと、ストレスからだと思います」と言うと、「そうだ」と。
その知人は、右目の視力を、ほとんど失った。
そのため現在は、公認会計士の仕事は、休業中。

パソコンを使っているから、失明するということではない。
原因は、やはりストレス。
私も30歳のはじめごろ、過労で(?)、片側の耳の聴力を、完全に
失っている。

「神経が焼き切れた」と、私は、自分ではそう思っている。

が、これだけ毎日パソコンに向かっていて、なぜ私は、だいじょうぶなのか?
ふつうなら、その知人のように、視力を失っていたとしても、おかしくない。

答は簡単。

ストレスをためないからである。
最初から、無私、無欲。
パソコンに向かうのを、楽しんでいる。
損得を考えていたら、マガジンなど、発行できない。
損得を考えていたら、ストレスばかりたまり、気がへんになってしまうだろう。

こうして文章を打ちながらも、その先のことは、何も考えていない。
だれかのために書くのではない。
あえて言うなら、自分のため、ワイフのため。
さらに言うなら、頭のジョギングのようなもの。
毎日、こうして文章を打つことで、私は、頭の健康を維持している。

だからこうして毎日、文章を打つことができる。

そんな私だが、ゆういつの励みは、こうして読者の方がふえること。
1人でも2人でも、うれしい。
4人というのは、ほんとうに、うれしい。

3月17日に、読者登録してくれた4人のみなさん、
ほんとうにありがとうございます。
おかげで、今朝は、頭痛も消え、たいへん気持ちよく、こうして文章を
打つことができます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●バッハのCanon+言語学(Canon de Pachelbel and Linguistics)

++++++++++++++++

ワイフが、すてきな演奏を見つけた。
ヨハン・セバスチアン・バッハのCanonを演奏したものだった。
さっそく、「音楽と私」のワイフのコーナーに、
それを収録した。

それはそれとして、その下のコメント欄に、
こんな書き込みがあった。

演奏の崇高さもさることながら、その内容の
深さに驚いた。
どこかのだれかと、どこかのだれかが、ギリシア語に
ついて、書き込んだものである。

そのまま紹介させてもらう。

【K】Really. If you aren't too retard to search by internet, you'd discover all greek 
culture and religion are based on India's one. You'd discover that antique greek 
language is derived from sanskrit.

もしあなたが、インターネットで遅れていないなら、すべてのギリシア文化と宗教は、イ
ンドに基づいていることを知るでしょう。古代ギリシア語は、サンスクリットから分岐し
たものです。

【I】But you're a retard, and won't see this at all.
Greek doesn't derive from sanskrit. Sanskrit and Old-Greek derive from the old 
indo-european language, the mother of all languages of europe (except finnish, 
ungarian, 
estonian and bascian), persia and northern India. Greek, Sanskrit, Old persian, Old 
german, Latin, the celtic and slawic languages are brothers, the roman, german, 
slawian and iranian languages their childs. We are all cousins. No one is superior or 
older. So, excuse me, but first you have to inform you, than you can go on to post

しかしあなたのほうが遅れている。そんなことはない。
ギリシア語は、サンスクリットから分岐していない。サンスクリットと古いギリシア語は、
古いインドーヨロピアン言語、つまり(finnish, ungarian,Estonian,bascianをのぞく)す
べてのヨーロッパ言語、ペルシア語、北インド語の母体、から派生したもの。
ギリシア語、サンスクリット語、古代ペルシア語、古代ドイツ語、ラテン語、ケルト語、
それにSlawic語は、兄弟です。ローマ語、ドイツ語、イラン語は、その子どもです。私た
ちはみな、いとこというわけです。
どれが優性で、古いということはありません。
ですから失礼ながら、(こうした書き込みをする前に)、あなたはまず自分で勉強なさるこ
とです。

【K】Not at all, Indo-european is a colletion of dialects and antique languages, not a 
language by itself.

ちがいます。インドーヨーロピーアン言語は、方言と古典言語の集まりで、言語そのもの
ではありません。

【I】No. I talk about the theoretical Indogerman/Indo-European language. So please, 
first study the material of the proto-language, if you want, the mother of all languages. 
This faculty was founded by the Study of F. Sassetti. He swa, that latin and sanskrit are 
similar. Out of this studys, derives the field of Indo-European studies, founded in the 
19th century. If you went to university, and talk with the professors, you will hear, that 
Sanskrit, Latin and Old Greek are equal.

いえ、私は、理論的なindogerman/indo―ヨーロピーアン言語について書いているのです。
それでまず最初に、もしお望みなら、すべての言語の母体である試作言語の資料を勉強し
てください。
この学部は、F.Sassettiによって、創立されました。彼は、ラテン語とサンスクリット語は、
類似していると言いました。これらの研究から、19世紀に始まったインドーヨーロピー
アン語の研究が派生しました。大学へ行き、教授たちと話をするなら、サンスクリット語、
ラテン語、それに古代ギリシア語は、平等であるということを耳にするでしょう。

++++++++++++++++++

ここに出てくる、【K】さんは、英語国の人だと思う。
【I】さんは、英語からみて、英語国の人ではないと思う。

しかし、たかが(失礼!)、YOU TUBEの1ページで、
こういう論争をするところがすばらしい!

で、この書き込み(POST)を読んでいて、昔、カレッジにいた、
講師のことを思い出した。

名前は、ジョン・ダナムと言った。彼も言語学者だった。
で、ある日、こんなことを教えてくれた。

言語を分類するとき、(あくまでも彼の理論によるものだが)、「ない」という
否定語を見るとよい、と。

たとえば、日本語で、「私はリンゴが好きではないことはない」と、「ない」を
2度重ねると、肯定の意味になる。

(マイナス)x(マイナス)=(プラス)というわけである。

しかし英語で、(NOT)を重ねると、強調になる。
たとえば「I don't don't like you.」と言えば、大嫌いという意味になる。

ジョン・ダナムは、大学構内のどこかの芝生の上に座りながら、そんな話をしてくれた。
そのときの様子を思い出した。

ところで、John Danum(?)は、今ごろ、どうしているのだろう。
「ダナム」には、「h」という文字があったように、思う。
「Danhum」だったかもしれない。あるいは「Dunham」だったかもしれない。

さっそく、インターネットで調べてみた。

結果……かなりありふれた名前ということもあって、ジョン・ダナムには、
たどりつけなかった。
生きていれば、今ごろは、70歳くらいになっているはず。
大の日本びいきで、私にたいへん親切にしてくれた。

いつかジョン・ダナムが、私のことを検索したとき、この原稿が
すぐ目にとまるようにしておこう。

Hiroshi Hayashi Melbourne Uni. Australian John Dunham a linguist International 
house 1970 Please contact me if you see this Dear John Dunham, how are you going? Do 
you remember me? I am Hiroshi Hayashi, a college student of I.H. 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●私が残りの人生で、すべきこと(What I should do in the rest of my life)
What I should do in the rest of my life is to make my wife happy and not to let her worry 
about. I shall keep working until the day comes when I can't work anymore. 

+++++++++++++++

私がすべきこと。
第一に、仕事。
これは死ぬまでやる。
やるしかない。

ワイフや家族に、心配をかけたくない。
だから最後の最後まで、元気でがんばる。
苦しくても、つらくても、がんばる。

そう、ワイフには、もう、これ以上、心配をかけたくない。
だからカラ元気でも何でもよい。
ワイフの前では、バカ話をして、
楽しく過ごす。

ジジ臭い話は、やめた。
精神的にガタガタするのも、やめた。

ワイフの前では、いつも新鮮な夫(?)でありたい。

そのときがきたら、そのとき。
そのときまで、元気でがんばる。

これが今朝の誓い。
いつまでつづくかな?

+++++++++++++++++++

●インディアナ大学(Univ. of Indiana)
My daughter-in-law passed the exam to enter Law School and she will attend classes at 
Indiana University in Indiana from this summer, with full scholarship. Sage and Mae, 
you have a great mother! 

嫁のデニーズの大学が決まった。
インディアナ州にある、インディアナ大学だという。
アメリカ東部では、名門校。
そこで法曹になるための訓練を受ける。

当初、LAW SCHOOLに合格したと聞いたとき、
私は、我が耳を疑った。

ふつうLAW SCHOOLへ入学するためには、
4年生の大学で法学部を修了し、その試験に合格
しなければならない。
日本でいう、司法修習制度にあたる。

しかも学費は、全額、奨学金でまかなうという。

誠司と芽衣という2人の子どももいる。

今朝(3月18日)、その連絡が、二男からあった。

……とたん、私の中にも、闘志がムラムラとわき起こってきた。
「負けてはいられない!」と。

あのデニーズが、私ですらできなかったことを、した!
なしとげた!

浜松の田舎で、グズグズしていて、どうする?
どうなる?

まだまだ私の人生は、長い。
できることは、山のようにある。
しなければならないことも、山のようにある。

私には、これといった財産はない。
しかし息子たちが、財産だ。
私が落ちこんでいると、いつもかならずといってよいほど、
こうして息子たちに励まされる。

がんばれデニーズ、宗市!

誠司、芽衣、お前たちは、すばらしいママをもっているよ!

<a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818012"><img 
src="http://art3.photozou.jp/pub/641/3641/photo/7818012.jpg" alt="P1060676" 
width="144" height="108" style="border:0" /></a><br /><a 
href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818012">P1060676</a> posted by <a 
href="http://photozou.jp/mypage/top/3641">(C)BWのはやし</a>

<a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818013"><img 
src="http://art4.photozou.jp/pub/641/3641/photo/7818013.jpg" alt="P1060675" 
width="450" height="338" style="border:0" /></a><br /><a 
href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818013">P1060675</a> posted by <a 
href="http://photozou.jp/mypage/top/3641">(C)BWのはやし</a>
(インディアナ大学)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●マガジン・4月11日号

このマガジンは、4月11日号ということになる。
(これを書いているのは、3月19日。マガジンは
1か月前に、配信予約を入れることになっているので、
約1週間遅れということになる。)

いろいろあった。

昨日は、朝方、はげしい悪寒。
私は子どものころから、扁桃腺炎になりやすい。
悪寒は、その前兆。
昨日のも、たぶん、それだった。

「インフルエンザか?」と、かなり心配したが、
症状は昼前には、治まった。ホッ!

いろいろある。あるが、ともかくも、今日もこうして
元気でいられることに感謝、感謝、また感謝!

ここまで読んでくださった、読者のみなさん、
ありがとうございます!


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   4月 9日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page055.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●モノで釣る(Tempted by a Thing)
It is a kind of taboo to tempt children by a thing, which he or she wants to get, while we 
are teaching. But it is sometimes very efficient to make them calm or to educe his or her 
self-control ability.

++++++++++++++++

ADHD児と呼ばれる子どもは、
たとえばカルタ取りのようなゲームが苦手。
集中力そのものが、つづかない。

一方、こんなこともある。

同じように騒がしい子どもでも、
時と場合によって、静かに落ち着くという
のであれば、ADHD児ではない。

ADHD児は、定例的に騒ぐ。
強く制止しても、その瞬間だけの効果しかない。

簡単な見分け方としては、(モノで釣る)
という方法がある。

この方法は、教育の世界では、邪道という
ことになっている。

私もそれを認める。
しかし子どもによっては、自己管理能力を
引き出すには、たいへん効果的な方法で
あることも事実。

この方法によって、子どもの自己管理能力を
引き出すことができる。

こんなことがあった。

T君(小2)という騒々しい子どもがいた。
父親はADHD児ではないかと、悩んでいた。
しかしADHD児ではなかった。

私たちの世界では、「あなたの子どもはADHD児です」
と、診断するのは、タブー。

しかし「ADHD児ではないと思います」と
言うのは、自由。

私はT君の父親に、こう言った。
「ADHD児ではないと思います」と。
それには、理由がある。

ある日のこと。
T君が、テーブルの上にあるミニカーを目ざとく見つけて、
こう言った。「ほしい!」と。

T君は、ミニカーを集めていた。

しかしこういうとき、子どものほしがるものを、
すぐに与えてはいけない。
しばらく、子どもをじらす。じらしながら、こう
言う。

「じゃあ、今日のレッスンで、一度も注意されなければ、
このミニカーをあげる。どうだ?」と。

T君は、その取り引きに応じた。

いつもならワイワイと騒ぐ。ときに教室中を、
ひっくり返してしまうこともある。

が、その日は、別人のようにまじめに(?)、
私の指示に従った。

つまりADHD児なら、こういうことはありえない。
ADHD児は、先にも書いたように、
自己管理能力を超えたところで、暴れたり、騒いだりする。

だからT君の父親には、こう言った。
「T君は、ADHD児ではないと思います」と。

子どもをモノで釣るのはよくない。
しかし時と場合によっては、効果的である。
さらに言えば、小学2〜3年にかけて、
自己管理能力が、急速に発達してくる。

現実検証能力というか、自己認識能力というか、
自分を客観的にながめ、判断する能力が、
急速に発達してくる。

この時期をうまくとらえると、ADHD児であっても、
急速に落ち着いてくる。

その力を引き出すためにも、(モノで釣る)という
方法は、時と場合によっては、有効である。

その一例として、T君のことを記録しておく。

(付記)

この指導には、こんな余談がある。
レッスンのあと、T君にミニカーを渡すと、
ほかの子どもたちが騒いだ。
「どうしてT君にだけ、ミニカーをあげるのか」と。

実は、その数だけ、私はミニカーをほかに用意しておいた。
私は引き出しからミニカーを取り出すと、
それをほしいと言う子ども全員に、ミニカーをあげた。

こういう配慮も、必要である。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●好きな子、嫌いな子(Those whom we like, those whom we don't like)
Here I introduce an easy way to know its each relationship between children, developed 
by Morea. Just advice children to write the names, with whom he or she wants to sit 
next or with whom he or she doesn't want to sit next. Then we can know who is suitable 
as a leader of the class or who is supposed to be bullied in the future. Then we can apply 
this for preventing of bullying among children.)

+++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
この原稿が、思わぬところで、
反響を呼んでいる。

「反響」といっても、
たいしたものではないが、
まず一読してほしい。

++++++++++++++++

【あなたは過関心ママ?】

●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだ
が、しかしそれが度を超すと、過関心になる。こ
んなことがあった。

ある日一人の母親が私のところへやってきて、
こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好
きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うち
の子(小二男児)のように友だちがいない子ど
もはどうすればいいのか。そういう子どもに対
する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議
に行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。
さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでな
くても、神経質になる親はいくらでもいる。「進学
塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッ
と血がのぼる」と言った母親もいたし、「子どもの
テスト週間になると、お粥しかのどを通らない」
と言った母親もいた。しかし過関心は子どもの心
をつぶす。が、それだけではすまない。母親の心
をも狂わす。

●育児ノイローゼ

 子どものことでこまかいことが気になり始めた
ら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、ささ
いなことで極度の不安状態になったり、あるいは
激怒しやすくなるのほか、つぎのようなものがあ
る。(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡り
する、(2)ものごとを悲観的に考え、日常生活が
つまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、(3)
不眠を訴えたり、注意力が散漫になったりする、
(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、(5)
他人との接触を避けたりするようになる、など。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも
珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子
どもが犠牲になることも多い。

●汝(なんじ)自身を知れ

 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自
身がそれに気づくことは、まずない。気づけば気
づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。そ
ういう意味でも、自分のことを知るのは本当にむ
ずかしい。『汝自身を知れ』と言ったのはキロン(ス
パルタの七賢人の一人)だが、哲学の世界でも、「自
分を知ること」が究極の目的になっている。

で、このタイプの親は明けても暮れても、考え
るのは子どものことばかり。子育てそのものに
すべての人生をかけてしまう。たまに子どもの
できがよかったりすると、さらにそれに拍車が
かかる。いや、その親はそれでよいのかもしれ
ないが、そのためまわりの人たちまでその緊張
感に巻き込まれ、ピリピリしてしまう。学校の
先生にしても、一番かかわりたくないのが、こ
のタイプの親かもしれない。

●生きがいを別に

 子育ては人生の「大事」だが、しかし目標では
ない。そこでこう考える。『子育ては子離れ』と。
子育てを考えたら、一方で手を抜くことを考える。
手を抜くことを恐れてはいけない。子どもという
のは不思議なもので、手を抜けば抜くほど、たく
ましく自立する。

要するに「程度を超えない」ということだが、
それがまた親子のきずなを深める。あのバート
ランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベ
ル文学賞受賞者)もこう言っている。『子どもに
尊敬されると同時に子どもを尊敬し、必要な訓
練はほどこすけれども、決して程度を超えない
親のみが、家族の真の喜びを与えられる』と。

●一人の人間として

 あなたが母親なら、母親ではなく、妻でもなく、
女性でもなく、一人の人間として、生きがいを子
育て以外に求める。ある母親は、娘が小学校へ入
学すると同時に手芸の店を開いた。また別の母親
は、医療事務の講師をするようになった。地域の
会に積極的に参加するようになった人もいるし、
何かのボランティア活動をするようになった人も
いる。

そういう形で、つまり子育て以外のところで、
自分を燃焼させる場をつくり、その結果として
子育てから遠ざかる。

+++++++++++++++++++++

●ソフト開発

この中で、私は、「好きな子どうし並ばせてみる」ということについて、書いた。
ここに書いた母親は、それを問題にした。

しかしこの方法、つまり「好きな子どうし並ばせてみる」というのは、
心理学的に、子どもどうしの人間関係を知るひとつの方法として、
たいへん有効である。子どもの深層心理を知り、さらには、(いじめの問題)
を解くカギになる。

もっと言えば、この方法は、モレノという学者が考えた、「ソシオメトリー」
として、心理学の世界では、確立された方法のひとつである。

具体的に方法を説明しよう。

私の教室に、7人の子どもがいる。全員、小4である。
その子どもたちに、一枚の紙を渡す。

「あなたはだれと並んで座りたいですか。名前を1人書きなさい」
「またあなたは、だれと並んで座りたくないですか。名前を1人書きなさい」と。

「秘密は守ります」「だれにも見せない」ということを、何度も念を押す。
この方法を応用するためには、何よりも、教師と生徒の間の信頼関係が大切。
その信頼関係がなければ、この方法を、応用することはできない。

で、7人の子どもがこう書いたとする。

A:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……F

B:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……C

C:いっしょに座りたい人……A
  いっしょに座りたくない人……F

D:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……G

E:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……G

F:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……E

G:いっしょに座りたい人……E
  いっしょに座りたくない人……F

そこでこれらの関係を図表化してみる。
A、B、C、D、E、F、Gの7人を、それぞれ線でつないでみる。

すると、Cに、人気が集まり、一方、Fが人気がないのがわかる。
Cとライバル関係にあるBは、Dに好意を寄せている。
Gも孤立しているが、Bの仲間に入れることは可能である……などなど。
そういうこともわかる。

つまりこの方法によって、そのクラスが、どういう人間関係で構成されているか、
おおまかに知ることができる。
同時に、人気のある子どもや、そうでない子どもを知ることによって、どの子どもを
リーダーにすると、クラスがまとまり、またどの子どもが、仲間はずれにされているかが、
わかる。

仲間はずれにされている子どもは、当然、将来、いじめの対象になることも考えられる。
またその相関図がわかれば、どうすれば、いじめを防ぐことができるかもわかる。

ここでは7人の子どもを例にあげたが、簡単なプログラミングで、
50人単位、100人単位の人間関係を知るソフトも可能である。

(二男に頼めば、すぐソフトを開発してくれると思うが……。
BASIC言語でもよければ、私にもできる。EXCELでは無理だと思う。
どなたかスポンサーになってくれる人は、いないか?)

プリグラミングの条件として……。

(1)「座りたい人」を(+1)にする。
(2)「座りたくない人」を(−1)にする。
(3)(+)の得点の多い人を、青い円で表示する。
   得点に応じて、円の大きさを変える。
   たとえば(+3)の人は、円の半径を30ドットにする。
   (+5)の人は、円の半径を50ドットにする。
   (−)の得点の多い人を、赤い円で表示する。
(1)それぞれの相関関係を、図表化する。
たとえば、いっしょに座りたい人に向かっては、青線表示。
座りたくない人に向かっては、赤線表示。
(2)その相関関係を、シャッフルしながら、まとめていく。
(方法としては、赤線、青線の長さが最短になるように表示する。)
(3)こうして人気のある人、人気のない人が一目でわかるようにする。
ライバル関係(派閥の長関係)にある人は、黄色の線でつなぐ。
その人を救済する立場にある人を、緑の線でつなぐ。

教育関係(学校)では、この方法で、教師は、いじめの対象となりやすい子どもを
事前に知ることができる。
またどうすれば、その子どもを、ワクの中に取り込めるかもわかる。

時間があれば、ソフトの開発をぜひやってみたい。

(私はこう見えても、20代の終わりごろから、30代のはじめ、自分で
ソフトを開発して遊んでいた。一度だけだが、私が開発した、「宇宙空間移動
ゲーム」は、地元のパソコンソフト会社が、買いあげてくれた。)
(これは自慢話!)

ともかくも、そういうこともあるから、学校の先生が、「好きな子どうし並んでみなさい」
と言っても、親は、過剰に反応しないこと。
子どもの人間関係を、それによって、簡単に知ることができる。
ひょっとしたら、その先生も、この方法を試してみたのかもしれない。

……ということで、以前書いた原稿を、ここで再度、とりあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist モレア ソシオメトリー 
人間相関図 いじめの問題 いじめの予防策 いじめ予防法)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月15日の終わりに……】

+++++++++++++++++

今日も、終わった。
時刻は、午後10時20分。
静かな夜だ。

で、今日の反省。

運動は1単位(40分)のみ。
ワイフと長男と3人で、佐鳴湖を
一周した。プラス、ハナ(犬)も。

そのあと山荘で昼寝。
パソコンショップに寄って、
それから夕食の買い物。

夜になって、ビデオ編集。
今夜は、「嵐の夜に」をYOU TUBE
にアップロードした。

息子の音楽に、孫たちの写真を載せた。

夕方三男から電話。
アメリカでの訓練を受ける前に、
浜松へ来るという。

1週間もいるという。

「そんなに長くいるのか?」と聞くと、
「うん」と。

この先、1年以上、また会えない。

今度は、カルフォルニアのNAPA
というところに行くという。
ワインの産地として知られている。

考えてみれば、私も若いときは、
毎週のように世界を飛び回っていた。

そういう時期も、あっという間に過ぎた。

私がした経験や、知恵を、できるだけ、
三男に伝えたい。

1週間で足りるかな?

アメリカには二男もいる。
子どものときから仲のよい兄弟だった。
すでに連絡を取りあっていると思う。

二男は喜んでいるはず。

末永く、仲よく暮らしてほしい。

3人とも、みな、いつまでも元気でいてほしい。

ところでハナ(犬)の様子が少しおかしい。
このところ日に日に、体力が落ちていくのがわかる。

今朝も佐鳴湖をいっしょに一周したが、
最後の4分の1は、自転車のカゴに乗せて走った。

どこかぐあいでも悪いのか?
見た目には元気そうなのだが……。
一度、病院へ連れていってみよう。

+++++++++++++++++

(追記)

眠る前に、ワイフと、私のHPを見る。
「音楽と私」を見る。
YOU TUBEで、音楽を聴く。
ときどきいっしょに歌うこともある。
このところは、毎晩のように、そうしている。

それで……というわけでもないが、
床に入ったのが、12時ごろ。
おかげで今朝は、7時、起き。
今日は日曜日。
いろいろやることがある。

母の見舞いと、畑の種まき。
時間があったら、HPのトップページの
写真を替えてみたい。

みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●一事不再理(Double Jeopardy)
Double jeopardy is the most important principle in its criminal prosecution laws. 
Otherwise law system itself would be collapsed. But how about the criminal act 
committed outside Japan, and by a Japanese? The victim was also a Japanese. Mr. MK 
was arrested in Japan for suspicion of murder in USA. He was innocent in the judgment 
in Japan. 

産経新聞は、つぎのように伝える。

「アメリカ・ロサンゼルスで、1981年に起きた銃撃事件で、日本での無罪確定後にサ
イパンで逮捕された元会社社長、MK容疑者(60)のロサンゼルスでの弁護人、マーク・
ゲラゴス氏は14日、逮捕は、『一事不再理』の原則を定めた米憲法修正第5条に反すると
して、逮捕状の無効確認を求める申し立てをロス地裁に行った」と。

「一事不再理」というのは、それぞれの国内においては、もっとも重要な大原則のひとつ。
もしこの原則を崩してしまうと、法秩序そのものが、崩壊する。
それはわかる。

しかしこんな例で考えてみよう。これは極端なケースということになるが、
たとえば、どこかの国のバカが、この日本へやってきて、日本人を拉致したとする。
日本側の捜査の結果、その拉致実行犯たちが特定できたとする。
隣のK国なら、K国でもよい。拉致実行犯たちは、K国で生活していた。

そこでK国政府は、日本からの報告に基づき、その拉致実行犯たちを逮捕し、
裁判にかけたとする。(もちろん形だけの裁判だが……。)
が、結果は、無罪。

さて、ここからが問題。

その拉致実行犯たちが、のこのこと、この日本へやってきたら、どうなるか?
日本の警察は、どうするか?
当然、日本の警察は、拉致実行犯たちを逮捕するだろう。
逮捕したあと、当然、日本の刑法に従って裁判にかけようとするだろう。
が、そのとき、拉致実行犯たちは、こう叫ぶ。
「一事不再理だア!」と。

A国人が犯した犯罪は、世界のどこで犯したとしても、A国国内で処罰する。
これを属人主義という。
B国国内で起きた犯罪は、どこの国の人間であろうとも、B国国内で処罰する。
これを属地主義という。

K国は、属人主義なのか、属地主義なのかは知らない。

日本の刑法は、原則として、属地主義を採用している(刑法第1条第1項)。

「日本国内で犯された犯罪については、何人に対しても刑法の適用される」と。

だからK国の拉致実行犯たちが、のこのこと日本へやってくれば、
K国内での裁判結果はともかくも、日本の警察は、彼らを逮捕することになる。

問題は、日本人がアメリカで犯した犯罪である。
今回のMK事件が、それに当たる。

本来なら、この事件は、アメリカ国内で起きた事件だから、(同時に、
日本国内で起きた事件ではないのだから)、同じく属地主義をとるアメリカに
裁判権がある。当初から、アメリカ側に裁判を任せればよかった。

何も、被疑者であるMKという男を、本来なら、日本で裁く必要はなかった。

が、これについては、日本の法律は、属地主義を採用ながらも、重大犯については、
属人主義を採用するという、二段構えの考え方を採用している。
ほかに保護主義、あるいは世界主義という考え方をするときもある。

MK事件では、被害者も、日本人だった。
それで属人主義が、すんなりと(?)、通ってしまった。

たとえばあのMK事件で、被害者がアメリカ人であったら、どうであっただろう。
アメリカ側は、属地主義を前面に出して、MKという男をアメリカに引き渡すよう、
強く要求していたであろう。
当然、MKという男は、アメリカ国内で、裁判を受けた。

で、日本での裁判結果は、無罪。
かぎりなくクロに近いが、日本では、状況証拠には、原則として、
証拠能力はないということになっている。
さらに2人(以上?)いたであろう人物のうち、どちらが実行犯なのか、
特定できなかったこともある。
それで無罪になった。

さて問題は、カルフォルニア州へ護送されるMKという男は、一事不再理を理由に、
無罪放免になるかどうか、である。

(1)アメリカで起きた犯罪は、アメリカ側に裁判権がある。
(2)外国で受けた裁判は、一事不再理に当たらない。

この2点だけをとれば、MKという男は、再度、アメリカで裁判を受けることについては、
何ら問題ないということになる。

が、ひとつ大きな問題がある。
恐らくこのあたりを、MK側の弁護士がついてくると思われるが、
ならば、なぜアメリカ側は、MKなる男を、アメリカ側に引き渡すよう
要求しなかったのかということになる。

(要求しなかった)ということは、(裁判権を放棄した)、あるいは、(MKという
男がしたであろう犯罪行為については、不問に処す)という意思表示をしたことに
なる。

そのあたりの書類がどうなっているか? つまりMKという男を日本側に引き渡す
ためにやりとりしたであろう書類が、どうなっているか?

今ごろMKという男の弁護士は、血眼(ちまなこ)になって、その書類を
探し回っているにちがいない。
仮に両国間でやりとりされたであろう、MKという男の引き渡しに関する約文が
一枚でも出てくれば、一事不再理の原則にのっとって、
MKという男が、無罪放免になる可能性は、きわめて高くなる。
日本側の最大の盲点は、この一点に集約される。

(日本側は、そうした書類を開示することはないと思われるが……。
しかし裁判の成り行きによっては、わからない。)

注視!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●悪化する韓国経済(その後)(3月15日版、2008)
(South Korean Economy which is getting worse and worse.)

++++++++++++++++++++

「日韓経済戦争」を書くようになって、
もう5、6年になる。

彼らの「反日」には、「嫌韓」で応えるしか
なかった。

N前大統領は、公式の場で、「日本よ、いい気に
なるな」と言った。

それに応えて、日本のK首相(当時)は、
「後悔するのは、韓国のほうだ」と。

その前後から、日本は、台湾への猛烈な投資を開始した。
韓国と台湾は、経済構造がよく似ている。
多くの産業で、競合部分も多い。

韓国をたたくには、台湾に代理戦争をしてもらうしかない。

で、その結果。つい先ごろ(3月はじめ)、IC関連
の売上高で、台湾は、韓国を抜いた。

この流れは、大統領がかわっても、止まらない。
韓国経済は、ますます悪化の一途をたどっている。

「親日」とまではいかないにしても、「反日でもない」
現在の大統領だが、「助け」を出すのは、ここは
慎重になったほうがよい。

東亜N報は、つぎのように伝える(3月15日)。

(1)雇用情勢が悪化し、全国の売れ残りの分譲マンションが、通貨危機以来最多の水準
に増えた。
(2)韓国経済の現状が悪化し続けている。国際原油価格の最高値更新が続く中、ウォン
安が進み、物価上昇の勢いもしばらく続くものと見られる。株価も下がった。 
(3)13日、統計庁によると、非経済活動人口のうち「休職」に当たる人は、今年2月
現在162万8000人で、初めて160万人を超え、関連統計を取り始めた03
年以来、月別基準では史上最高値を記録した。 
(4)また、企業への入社や公務員試験などを準備する「就職準備者」も、2月現在60
万7000人となり初めて60万人を突破した。 
(5)2月現在、81万9000人の失業者に休職や就職準備者を合わせた「事実上の就
職浪人」は305万4000人に上る。これは昨年2月の297万1000人に比
べて、8万3000人(2.8%)増加したものだ。 
(6)売れ残りのマンションが増え、資金力の弱い中小建設会社の相次ぐ倒産への懸念も
高まっている。 
(7)13日、国土海洋部によれば、今年1月末現在、全国の売れ残りのマンションは1
2万3371戸で、過去最多だった11万6433戸(1998年7月の通貨危機
当時)を上回っている。 

規模こそ小さいが、アメリカのサブプライム問題と、
韓国のマンション問題は、構造が、たいへんよく似ている。

さらに不気味なのが、失業者問題。
数字だけを見ると、合計で、たったの305万人ではないか
ということになる。総人口比でみるかぎり、6・2%。
(韓国の人口を4900万人、外務省、'07で、計算。)
が、統計の取り方そのものが、日本とは、ちがう。

韓国では、1か月のうち、たった1時間でも働いたら、
失業者(休職者)とみなされない。

ちなみに、日本と韓国では、失業者の定義は、つぎのように
なっている(労務安全情報センター)。

日本……労働力調査。調査週において仕事がなく、かつ求職活動を行い、就業可能であっ
た15歳以上の者。過去の求職活動の結果を待っている者を含む。

韓国……労働力調査。仕事がなく、就職の意志があり、求職活動を行っている15歳以上
の者。悪天候あるいは一時的な病気のために求職活動ができなかった者や、新しい仕事を
始めるために待機中の者を含む。

中小の建設業者の倒産がはじまったときが、最後。
韓国経済は、ドミノ倒しのようになって、崩壊する※。

ドル安で、世界の通貨は、その反動として、高騰している。
日本の円も、昨年(07)の120円台から、100円台にまで
上昇した。

しかし韓国のウォンだけは、1ドル=905ウォン前後から、
何と、1000ウォン近くにまで、さがっている!

アメリカのドル以上に、ウォンが猛烈な勢いで、売られて
いることを示す。

(注※)
民間の投資家たちは、(マンションを購入)→(そのマンションを担保に、銀行からお金を
借り入れる)→(そのお金で、またマンションを購入)→(そのマンションを担保に、ま
た銀行からお金を借りる)→……ということをつづけている。これを「レバレッジ」とい
う。

マンションの価格が上昇しつづければ、投資家たちは、利益を享受することができる。し
かしマンション価格が低下し始めたとたん、こんどはドミノ倒しのように、巨額の負債を
抱え込むことになる。

アメリカのサブプライム・ローン問題も、こうして起きた。アメリカでは、住宅が対象で
あったのに対して、韓国では、マンションが対象になっている。上記(6)と(7)に、
とくに注目してほしい。「マンションが売れ残りはじめた」という。つまり「マンション価
格が、さがり始めた」ということになる。ゾーッ!

(注※)(韓国S経済研究所発表報告書より・08年3月)

「報告書によると、1997〜2006年世界IT企業3351社の国家別経営成果を分
析したところ、台湾企業の売上は12.6倍、純利益は5.5倍増となり、世界の平均(売
り上げ2.0倍、純利益2.7倍)を大きく上回った。 

また、同期間の年平均売上げの伸び率も32.5%と、韓国(22.5%)と中国(31.
5%)を抜いていることがわかった。 

これを受け、世界IT企業の売上げに占める割合も台湾は10.5%で、米国(31.5%)
と日本(30.0%)に次いで3位に上がり、韓国(6.5%)を追い越している。売上
高の世界IT企業トップ100のうち、台湾企業は13社で、韓国(5社)より多い」(以
上、報告書より)。 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行わ
れた。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定
するなど米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・
太平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもや
っていないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K
国は拡散とウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったこ
とを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したこと
を明らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、
具体的には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会う
つもりはない」としている。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「がんばれ!」の意味("Ganbare" and "Take it easy")
We say in Japan, "Ganbare!", in case they would say "Take it easy", but these does not 
mean the same. I found it while I was running with my dog, Hana this morning.

言葉というのは、おもしろい。
たとえば日本語で、「おはよう」は、英語で、「GOOD MORNING
(よい朝)」という。

しかし実際には、その意味まで考えて、あいさつする人はいない。
つまり意味はちがっても、目的、内容は、同じ。言う人の気持ちは、同じ。

いくら遅く起きても、「おはよう」は、「おはよう」。
いくら悪い天気でも、「GOOD MORNING」は、「GOOD
MORNING」。「よい朝」は、「よい朝」。

……というふうに、考えていたのだが、こんな場面に出くわした。

いつものようにハナ(=犬)と散歩に出かけたときのこと。
ハナは、人間にたとえると、もう80歳を過ぎている。
このところ、毎月のように体力が落ちていくのが、わかる。

私は自転車で走る。
ハナはその横を走る。

近くに佐鳴湖という、周囲が、7〜8キロの湖がある。
その湖を一周するのだが、最後の4分の1くらいになると、私のほうが
ハナを引っ張って走るようになる。

ハナはハーハーと、苦しそうに、あえぎながら走る。

そんなとき、私は、思わず、こう言ってしまう。
「ハナ、がんばれ!」と。

と、そのときのこと。「こういうとき英語では、『TAKE IT EASY!』
と言う」と思った。

「がんばれ」も、「TAKE IT EASY」も同じような意味だとばかり
思っていた。いや、意味はちがっても、使う場所、それを言う人の気持ちは、
同じと思っていた。

が、である。

「ハナ、がんばれ!」と言ったときは、私のほうが、ペダルに力を入れる。
「ハナ、TAKE IT EASY」と言ったときは、私のほうが、ペダルから、
力を抜く。

内心、ふと、おもしろい現象だなと思った。

「TAKE IT EASY」というのは、「気を楽にしろ」という意味である。
言っている私は、同じ私なのに、ペダルに力を入れたり、抜いたりする。
繰りかえすが、「TAKE IT EASY」と言いながら、私はペダルに力を
入れることはできない。

で、子育ての話になるが、日本人が、日本語で、「がんばれ」というときは、
そこに「力」入れる。
子どもに向かっては、「もっと、力を入れなさい」となる。

一方、英語国で、「TAKE IT EASY」というときは、そこから「力」を
抜く。
子どもに向かっては、「もっと力を抜きなさい」となる。

このちがいは、大きい。……というより、では英語で、「がんばれ」は、何と
言うのか。子どもに、もっと力を入れてほしいときには、何と言うのか。
改めて考えなおしてみたが、私の貧弱な英語力では、それがわからない。

日本語の「おはよう」は、「GOOD MORNING」なのだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Take it easy TAKE IT 
EASY がんばれ がんばれ論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●ある選択(A Final Choice)
G-san's husband is going to a city in Saitama-pref for his new job, and asked for my 
advice whether it is better for her to go with her husband or let her husband go alone. 
She has one daughter and one son. They are elementary school pupils. Which do you 
think it is better for her? The school teacher said to her, "It is better for your husband to 
go alone and leave your daughter and son here in Hamamatsu for their studies".

Gさんが、こう相談してきた。

「夫が、今度、埼玉県に転勤することになりました。
ついて、私や子どもも同行すべきかどうかで、悩んでいます」と。

Gさんが悩むには、それなりの理由がある。

現在、娘(小6)と、息子(小2)が通っている学校が、子どもたちに
たいへん適した学校であるということ。「環境がすばらしい」と、Gさんは言った。

埼玉県は、受験競争がはげしく、のんびり屋の娘と息子には向かないのでは
ないかと心配している。
よい学校や、よい先生にめぐり会えるかどうか、それも心配している、と。

そこで学校の先生に相談すると、担任(小6の娘)の先生は、こう言ったという。
「お父さんだけが、単身で赴任をしたほうがいいのでは……」と。

学校の先生は、「転校したからといって、今より、よい学校に入れるとはかぎらない」
という意味で、そう言ったらしい。

わかりやすく言えば、Gさんは、(1)子どもの教育を中心にものを考えるか、
(2)家族のつながりを大切にしてものを考えるか、その選択に迫られている
ということになる。

夫が埼玉県へ単身で赴任すれば、その時点で、家族はバラバラになってしまう。
Gさんは、「だからどうしたら、いいか?」と。

で、私は、こう言った。
「夫婦の問題だから、夫婦のきずなを最優先にして考えたらいいのでは?」と。
というのも、こうした相談そのものが、たいへん日本的である。

もしアメリカあたりで、夫が単身でどこかへ赴任すると言いだしたら、妻のほうから
離婚を申し出るだろう。いわんや子どもの学校のために、夫婦がバラバラに暮らすと
言ったら、笑い話にもならない。

もし、それでも……ということになれば、子どもだけを、現地の寄宿舎学校に
残すという方法を選択するかもしれない。
さらに言えば、こうしたケースでは、子どもの意思も尊重しなければならない。
子どもは、どう望んでいるのか?

しかしこの日本では、そうはいかない。
「現実」がそこにある。
学校を離れて道はない。
学校に背を向けたら最後、コースの外にはじき飛ばされてしまう。
Gさんも、それをよく知っている。

そこで究極の選択。あなたならどうする?

子どもの教育を考えて、夫には、単身で赴任してもうか?
それとも、家族、とくに夫婦のきずなを優先させるか?


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●沈黙の価値
The value of Silence
In western world they say, "Don't speak out unless you know the value of silence".
In Japan we also say that "Silence is Gold" or "The mouth is the beginning of a trouble".
These proverbs mean that we had better not speak out unsure things in the public, or it 
often hurts other people's minds unexpectedly. But I have found another meaning in the 
proverb while I am talking with a care-manager of old men. This is an article I write 
about the another meaning of it.

『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』という格言がある。
どこかで読んだ、西洋の格言である。
同じような格言だが、日本では、『沈黙は、金なり』という。
『口は災いのもと』というのもある。

要するに、つまらないこと、くだらないことは、しゃべるなという意味である。
が、最近、『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』には、もっと
別の意味があることを学んだ。

結論を先に言えば、ものごとは、考えてから、しゃべれということ。
さらに、知ったかぶりをするな。わかったフリをするな。
へたな同情をするな。だれかの不幸を、酒の肴(さかな)にするな。

さらに『沈黙の価値』がわかるようになると、相手の本心まで見ぬけるようになる。
相手がよく考えてしゃべっているか。本当にそのことを知っていてしゃべっているか。
本当にこちらの苦労が、わかっているか。本当に私に同情しているか。
本当に私の秘密を守ってくれるか。

ケアセンターでケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人が、こんな話を
してくれた。

その女性(60歳)は、その地域でも、すばらしい女性と評価されていた。
ヒマを見つけては、ひとり住まいの老人宅を訪れて、そういった老人の世話を
していた。
ときには、一日がかりで、1人の老人のために、車を走らせることもあったという。

が、その女性の父親(当時、80歳くらい)が、認知症になってしまった。
その女性の介護を必要とするようになった。
とたん、その女性の様子が変わった。

あれほどにまで、こまめに他人のめんどうをみていた女性だったが、
ことそれが自分の親となったとき、今度は、虐待に近い行為をするようになったという。
たまたまそのケアマネの人が、訪れたときも、朝食も、昼ご飯も、
ご飯とみそ汁だけだったという。夕飯も、それに近いものだったという。

つまりその女性は、自分をよく見せるために、善人のフリをしていた。
もっと言えば、老人を、自分の(飾り)に使っていた。

だから会う人ごとに、それとなく自分の行為を吹聴していた。
方法は、こうだ。

まず、さもある老人に同情しているかのようなフリをする。
そして「かわいそうだ。あの人は、本当にかわいそうだ」と言う。
「ひとり住まいで、家族にも見捨てられている」と言う。
ときに、涙声になることもあったという。
そして相手が、自分の話術の中に入ってきたのを見届けると、おもむろに、自分の
自慢話をその中に混ぜる。

「私ね、見るに見かねて、書類を作ってあげたのよ。書類といっても、
隣町に住む息子さんのところまで、行かねばなりませんでしたよ」とか。

ケアマネの人は、こう言った。
「そのときはわかりませんでした。あの女性が、そういう人だったとはね」と。

こういう例は、多い。ウソで塗りかためたような善人である。

……ということで、つまりそういう話を聞いたあと、実は、私自身も、他人に対して、
その女性と同じようなことをしているのに気がついた。
ここでいう「へたな同情」というのが、それに当たる。

それほど悲しくもないのに、悲しんでいるようなフリをする。
それほどつらくもないのに、つらがっているようなフリをする。

そういうときの自分は、思い出しても、ぞっとする。
自分の醜さを、見せつけられるようで、ぞっとする。

一方、こんなこともある。

二男の嫁のことだが、生粋の南部生まれ。南部育ちのアメリカ人である。
その嫁のことを見ていると、「よくまあ、ここまで真正直に生きられるものだ」と、
感心することが多い。

日本的な、(おじょうず)や(体裁)を、まったく言わない。
言わないものは、言わないのであって、まったく言わない。
白人の世界のことはよく知っているつもりだったが、そんな私でも、
最初は、嫁の姿勢に面食らった。とまどった。

日本的に言えば、裏表がない。見たまま、言ったままが、嫁ということになる。
が、つきあうようになって、6年。

今では、もっとも信頼できる友人(?)の1人になっている。
ウソや隠しごとが、まったくない。
一度、「あなたにも恋人がいただろうに、どうして(アジア人の)息子なんかと
結婚したの?」と聞いたことがある。
すると嫁は、過去につきあった男性のことを、ことこまかく、まるでレポートの
ように書いて、私にメールで送ってきた。

これには私も驚いた。ワイフも驚いた。「別に、そこまで聞くつまりはなかったの
に……」と。

つまり嫁にすれば、何でも、ウソや隠しごとなく相手に伝えることが、親密さの
表れと取ったようだ。
またそれが嫁の住む世界では、常識だったのかもしれない。

やがて私たち夫婦も、自分たちのことを、ウソや隠しごとなく、話すようになって
いた。

で、その結果だが、私も、嫁に対してだけは、ウソをつかない。
どんな約束でも、きちんと守る。
嫁は嫁で、私が頼んだことについては、きちんとこたえてくれる。
どんなささいなことでも、だ。

そういう嫁を見ながら、ワイフはいつもこう言う。
「アメリカ人って、本当にわかりやすくていいわね」と。
と、同時に、私たちの周囲の人たちが、あまりにもわかりにくいので、驚く。
とくに郷里のG県のM町の周辺の人たちは、そうである。
(みなが、みな、そうというわけではないが……。)
ときに、何が本当で、ウソかまったくわからなくなるときがある。
いつもキツネとタヌキの化かしあい。そんな印象すらもっている(失礼!)。

表ではニコニコ笑いながら近づいてきて、話を聞く。裏では、こっそりとそれを
酒の肴にしたり、私の悪口を言ったりする。
「油断もスキもあったものではない」というのは、ああいう地方で、使う言葉
なのかもしれない。

だからあえて言う。『沈黙の価値のわからぬものは、しゃべるな』と。
それは同時に、私とあの郷里の決別を意味する格言でもある。

(あ〜あ、これで私はますます郷里へ帰りにくくなるぞ!)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●自転車通勤(Eco-cycling)
In Japan we have too many road which do not have even sidewalks for walkers. Then 
cyclists on bikes have no choice but to run on the sidewalks together with walkers, 
which causes accidents more often as the number of bicycles is increasing. Then a new 
road traffic act is planning to restrict cyclists from the sidewalks. But this is completely 
against the flow of the age. To prepare suitable circumstances for cyclists would be 
better for the Global Warming problem.

++++++++++++++++

自転車に対する風当たりが、このところ、急に
強くなってきた。

自転車は、現在、指定歩道、通称「自歩道」
のみ、通行を許可されている(道路交通法
63条4項)。

もとはと言えば、自転車対自動車の事故が
急増したことが、理由である。

が、原則として、自転車は、軽車両。走行空間は
一般車道ということになっている。

こうした一般論をふまえて、「自転車は
車道を走れ!」と。

言うまでもなく、歩道を歩く歩行者を保護
するために、である。

しかしいきなり「車道を走れ!」は、ない。

その第一。

この浜松市について言えば、そもそも、
歩道すらない道が、多い。

たとえば浜松市の西に、N高校がある。
その横が私の通勤路になっているが、
そこにも歩道はない。

あるとすれば、道路脇に引かれた一本の
白い線だけ。

幅は、50センチ、あるかないかというところ。
しかも片側だけ。

N高校の先には、N中学がある。
小学校も、いくつかある。
その道路は、約1・5キロにわたって、文教地区と
いうことになっている。

その歩道(?)にしても、ところどころ電柱や、
道路標識で、さえぎられている。

あえて「車道を走れ」と言われるまでもなく、
車道を走るしかない。

そういう現状を一方で放置しておきながら、
歩道のあるところで、「車道を走れ」と
言われても、どうもすっきりしない。

それまでは、命がけで走ってくる。(ホント!)
歩道のある道路に出て、やっとほっとする。

さらに言えば、新しくできたバイパスには、
歩道がある。が、こんどは極端すぎるほど、
極端に立派な、歩道。
歩道の幅は、4メートル以上もある。
しかも両側に!

そういう歩道が、歩行者のためだけというのは、
どう考えてもおかしい。

オーストラリアなどのように、歩道を2つに
分けて、「歩行者用の歩道」と、「自転車用の
走行道(lane)」にするということは、できないのか。

それがだめなら、つまり歩道もないような狭い路地は、
思い切って、一方通行にし、その分、歩道や自転車用
の走行道にしたらよい。

たとえば長野県の飯田市などは、市内については、
一方通行道路をふやし、歩道を整備している。
やろうと思えば、この浜松市だって、それが
できないはずはない。

自転車は、環境にもやさしい。
地球温暖化が叫ばれている現在なら、なおさらである。
つまり自転車が走行しやすい道路を用意することは、
これからの地球を守るためにも、必要、かつ不可欠!

自転車を「悪」とするのではなく、自転車は「善」
であるという前提で、ものを考える。

たとえばフランスなどでは、すでに「自転車シャアリング」を
実施しているとこともあるという。
パリ市のばあい、カード1枚で、市内750か所の
サイクルポートで、自由に自転車を乗り降りすることが
できるという。

「発足して1か月で、利用者数が165万人に達し、
通勤、通学の足を自転車にかえる人もふえたという」
(「日本の論点」2008、P741)と。

その上で、歩行者の安全をどう守るかを考える。

そこで私からの提案。

(4)歩道のない道路は、原則として一方通行化する。
(5)一方通行化し、片側を、歩行者用の歩道と、自転車用の車道に分ける。
(6)現在ある歩道についても、歩行者用と自転車用に分ける。

さらに言えば、自転車に乗ることは、健康にもよい。
もし日本人の約30%が、自転車通勤を始めたら、
いったい、どれくらいの医療費が助かることか。

たとえば、1週間に2000kcal以上の運動をする人は、
500kcal以下の人に比べて、

冠動脈疾患は 25・7→ 16・4人
脳卒中は    6・5 → 2・4人
呼吸器疾患は  6・0 → 1・5人
がん     25・7 → 19・0人へと、死亡者数が、
減るということがわかっている。
(ハーバード大学卒卒業生、16939人の、16年間にわたる
追跡調査結果。1万人あたりの死亡者数)

歩行のばあい、20〜30分で、100kcal、
自転車のばあい、17〜40分で、100kcalの
エネルギーを消費するという(参考:「コアラ通信」)。

毎日、1時間前後、自転車に乗って、軽く汗をかくだけで、
いわゆる成人病と言われている疾患が、約3分の1から2分の
1にまで、減るということになる。

つまりその分、おおざっぱに計算すれば、国による医療費負担も、
3分の1から2分の1に減るということになる。

「自転車は歩行者にとって危険だから、歩道から締めだそう」と
考えるのではなく、「どうすれば自転車に乗る人たちが
より安全で便利になるか」という視点で、もう一度、この
問題を考えなおしてみてほしい。

地球の環境を守るため。
個人がより健康になるため。
そして日本の医療費負担を軽減するため。

ちなみに私は、この40年近く、自転車通勤をしている。
おかげで、成人病とは、まったく、無縁。
いつも同年齢の人たちより、10歳は若く見られている。

自転車通勤は、健康にもいいですよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自転車 自転車通勤 歩道 
自転車道 浜松市 道路行政 提言 自転車道 提言 歩道)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」というインチキ(Spiritual Boom in Japan)
More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They 
believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? 
Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in 
having sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is 
very dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely 
connected with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about 
them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
インチキもインチキ、どうしてそういったインチキが、こうまで
堂々と、この世の中で、大手を振って歩くのか。歩くことができ
るのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性
はゼロ。ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30〜
40年前に、この日本に現れた。何かのオカルト・ブームがきっかけ
だった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人
は多い。「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、
あなたは、知っているか?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、
はては、「あなたの先祖は、人を殺している。そのタタリ」だのと、
とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきでは
ないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中に
クイを一本打つ程度の効果しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行
部数で、700万部を超えているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、
先月、月間ベースで、やっと10万件を超えた。が、それでも、70分の1! 
テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、インチキをインチキとも気がつかず、テレビという
巨大マスメディアに、言いように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんなインチキを野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんな
ことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。思考力を失った人間が
どうなるか? あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。さらに言えば、
思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、
親類縁者の人たちから、「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と
言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、
「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、
「ショウ入れをしないと、位牌をまつっても意味がない」とか、
さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、
世界の音楽なり、民族舞踊なりを見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、
どこのバカがそんなことを口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、
若い人たちに、ソッポを向かれる。「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される
理由も、そこにある。結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。難解な数学の問題を
前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、
あなたはどう感ずるだろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚える
かもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという
不安があるなら、なおさらだ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、
200年、300年後には、人類はもちろん、あらゆる生物が、この
地球上から消える。このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを
口にする、おかしさ。そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、
隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、インチキだよ」と。その一声が、私たちの良識となって
若者たちや、子どもたちの未来を明るくする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist スピリチュアル スピリチ
ュアル・ブーム 精霊 聖霊 霊 カルト 迷信 オーラ論 オーラ)

(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。
(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は
京都大学理学部のほうには、残っているはず。)
京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせて
くれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したという
ことだった。
私は、地元の医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学
まで出かけていった。
(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の
人が、声をかけてくれたように記憶している。)
そのときの実験は、こういうものだった。
(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)
たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わる
というものだった。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。しかし肝臓が悪く
なったりすると、その色がxx色に変化する、と。
(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)
体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的
につくり、それを暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察する
というものではなかったか。
もちろん、そのあと、それは手品に近い、インチキと証明された。
人間にオーラなど、ない。あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司     08年 4月 4日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page053.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

HTML版のほうで紹介しています。

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page053.html

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often 
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the 
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, 
where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and 
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(3月10日)

●雷鳴

今朝は、雷鳴で、目が覚めた。本当は、その少し前から
目を覚ましていたが、雷鳴で、床から起きあがってしまった。

一度、遠くで鳴ったあと、つぎに近くで、ゴロゴロ、ドシャン!、と。

あわてて書斎へ飛び込み、パソコンの電源を抜いた。が、そこまで。
そのあとは、そのまま静かになった。

温暖前線が北上したのだろう。そのあと、生暖かい風を感じた。
私は書斎に、どっかりと座った。
今日も始まった。

3月10日、月曜日! おはようございます。


●鼻歌検索

鼻歌で歌を歌うと、それが何の曲かを検索してくれるサービスがある。
「MIDOMI」というサービスである。

さっそく試してみた。

(1)マイクに向かって、鼻歌で歌を歌う。
(2)それをアップロードする。
(3)しばらくすると、いくつか、似ているとされる曲が、リストとなって画面に現れる。
(4)その中のどれかをクリックする。
(5)どこかのだれかが歌っている曲が、流れてくる。

私の評価は、イマイチ。

(1)かなり有名な曲でないと、検索できない。
(2)検索されて出てきた曲も、鼻歌程度。(音楽ではなく、鼻歌、あるいは独唱。)

これから先、さらに充実することを願いながら、そこまで。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●今日こそは……!

++++++++++++++++

毎朝、起きては、同じことを考える。
「今日こそは!」と。

「今日こそは、充実した1日を送るぞ!」と。

健康だ。食事もおいしい。
体の調子もよい。
が、何よりもすばらしいのは、死の恐怖と無縁でいられること。

まずワイフにあいさつをする。
お茶を飲む。
新聞を読む。

そしておもむろにパソコンに電源を入れ、
画面を開く。

ニュースに目を通す。
音楽を聴く。
その音楽を聴きながら、雑誌を読む。

そして頭の中で、おおまかな計画を立てる。
返事を書かねばならない手紙も、数通、ある。
原稿も書きたい。
やりたいことは、山のようにある。

あああ、時間が足りない。
時間がほしい。

今の私には、無駄にできる時間など、一瞬、一秒もない。

そこに真実があるのに、手が届かない。
どうしても、手が届かない。
このもどかしさ。この歯がゆさ。

とりあえず、過去に出した本を、HPにアップロードしよう。
昨日、第2章まで載せたから、今日は、第3章だ。
うまくいけば、1時間ほどで、作業は終了するはず。

+++++++++++++++++

●不安神経症(Panic Disorder)

ワイフの友人に、不安神経症の人がいる。
いつもあれこれ悩んでは、取り越し苦労ばかりしている。
そこでワイフが、その人にこう言った。

「運命は、あきらめて、受け入れればいいのよ」と。

これは私の言葉である。

しかしそれでその人の不安神経症が収まるわけではない。
年齢は、今年、55歳になるという。
女性である。

その人のばあい、人前に出ただけで、体が緊張するという。
全身に汗をかき、手が震えることもあるという。
病院で薬をもらっているらしいが、しばらくのみつづけていると、
効かなくなるという。

不安神経症。ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。

以前は、急性不安神経症、もしくは全般性不安障害と呼ばれていたが、
1980年にアメリカの精神医学会は、「パニック障害」(DSM−III)という
呼称に統一した、と。

「パニック障害は、強い不安感を症状とする、精神疾患のひとつ」
(ウィキペディア百科事典)ということらしい。

定型的なパニック障害の症状としては、

(1)突然生ずる、パニック発作。
(2)つづいてその発作が起きるのではないかと恐れる「予期不安」。
(3)さらに長期化すると、症状から逃れられない恐怖感から、
生活範囲を限定することなどだそうだ(同)。

パニック発作時には、(1)突然、動悸などの自律神経症状と強い不安感に
襲われる。(2)自律神経症状には、めまい、動悸、手足のしびれ、吐き気、
息苦しさなどがある。

また(3)不安感には、ばくぜんとした不安と、死ぬのではないか、
気が狂うのではないかという恐怖感もある。
しかし(4)これらの症状は、とくべつな処置がなくても、1時間以内、
長くとも数時間のうちに回復するという(同)。

こうした症状を、ワイフに読んで聞かせると、「あの人も、そのとおりの
ことを言っていたワ」と。

表には出てこないが、パニック障害の人も、多いようだ。
そう言えば、私も、似たような症状を経験することがある。
言いようのない不安感に襲われ、その不安感が、頭の中にペッタリと
張りついてしまうような感じになる。

しかしそれほど長つづきしない。たいてい2、3日のうちに、
消える。軽い動悸はあると思うが、それ以外の症状は、あまりない。

私「みんな、不安なんだね」
ワ「そうみたいね」と。

ところでYOU TUBEには、すばらしい音楽も収録されている。
私のHPの「音楽と私」のところからも楽しんでもらえるようにしてある。
とくにお勧めなのが、「いやし系音楽」。

心が疲れている人は、どうか一度、のぞいてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●見栄や体裁(Vanity often makes us blind in our lives)
Some people insists on vanity even after he becomes 50, 60 or 70 years old. For those 
who do not, these sorts of people looks stupid, but he himself can't see himself.)

見栄や体裁を気にする人というのは、50歳になっても、60歳になっても、
はたまた70歳になっても、気にするものらしい。

「自分はすばらしい人間」と思うのは、その人の勝手。しかしこのタイプの人は、
他人も、そういう目で自分を見ていると思いこんでいる。錯覚している。
そこで他人の目に応えようと、見栄や体裁を気にする。

そうでない人から見れば、バカげた、実にバカげた行為なのだが、自分では
それがわからない。わざと大物に見せるために、気をつかう。苦労する。

「先日、名古屋市の助役(そんな人はいたかな?)と会食をしたとき、
市の道路行政について、一言、苦情を言っておいたよ」とか、何とか。

私たちは、その人を判断するとき、その人の中身を見る。
少なくとも、私は、そうしている。
地位や肩書きではない。そんなものは、カラスの羽をかざる、ゴミにもならない。
経歴にしても、大切なのは、「何をしたきたか?」だ。

個人の欲得の追求など、いくら重ねても、他人である私には意味はない。
前にも書いたが、昔、こんな人がいた。

当時、私の家は、斜陽につづく斜陽で、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
そんな私の家にやってきては、金儲けの自慢話ばかりしていた。

「昨日は、株で、10万円、儲けたよ」、
「税務署と交渉して、50万円、税金を安くさせたよ」とか。

こんなことも言った。この話は、今も強く私の印象に残っている。

「私が、このあたり(=町内)で、所得税の支払額では、一番なんだよ」と。

私が中学生くらいのときのことではなかったか。私の母は、ああいう女性だから、
表では、にこやかにそういう話を聞きながら、その裏で、「あのXXめ!」と、
その人が帰るたびに、玄関に塩をまいていた。

で、ある日、私は、母にこう言った。

「そんなに不愉快な相手なら、つきあわなければいいのに」と。

しかしその人は、定期的にやってきては、自慢話をした。
きっとその人にしてみれば、そういう話をするのが、楽しかったのだろう。
とくに、私の家のような、サビれかかった家では、そうだ。
自分の優越感を、この上なく、満足させられる。

こういうバカ(「バカ」と呼んでもさしつかえないと思うが……)は、
どこにでもいる。

価値観、人生観そのものが、幼稚で未熟。

が、50歳も過ぎたら、できるだけ早く、こうした亡霊とは決別したほうがよい。
見栄、体裁という亡霊である。
でないと、私であって、私でない部分に毒されて、自分の人生そのものを見失う。

たとえば私が子どものころには、まだこんなことを自慢している人がいた。

「私の叔父は、海軍の中佐だった」とか、何とか。

さらに言えば、こうした価値観、人生観は、国によって、みなちがう。
たとえばあのオーストラリアでは、外交官といっても、外国に駐在する
公務員程度の意味しかなかった。
日本では、「外交官」というだけで、周囲の人たちは、大騒ぎしたが……。

銀行員にしても、オーストラリアでは、高卒の人たちが就く仕事ということに
なっていた。当時の日本では、大卒のエリートが就く仕事ということに
なっていたが……(1970年当時)。

反対に、ユンボやブルドーザーなどを操作して土木工事をする人は、
「工事技術者」と呼ばれ、大卒工学部卒業程度の資格がないと、それを
することができなかった、などなど。

このあたりのことは、「世にも不思議な留学記」に書いておいたから、
興味のある人は、ぜひ、呼んでみてほしい。HPのトップページから
読んでもらえるようにしてある。

要するに、最後に残るものは、「私」でしかない。
私たちは、裸で生まれ、そして裸で死ぬ。
目の前にある、モノや財産にしても、「私」を支える力にはならない。
それこそ、爪楊枝(つまようじ)にも、ならない。

私の母にしても、あれほどまでに小銭に執着した人だったが、今は、
財産といえば、お茶を飲むコップや、身のまわりの衣服くらいなもの。

元気なときは、テーブルの前に座った女性と、テイッシュ・ペーパーを
投げあって、喧嘩ばかりしている。

大切なことは、できるだけ早い時期に、「私」を知り、その私を
追求すること。
その時期を逸すると、繰りかえすが、結局は貴重な時間を無駄にし、ついで
自分の人生を無駄にすることになる。

そういう人を、私は、すでに、何人も見てきた。

方法は簡単。つまりそうならないための方法は、簡単。
いつも「だから、それがどうしたの?」と、自分に問いかけながら
行動するとよい。

もちろん人の話を聞くときも、そうだ。
「だから、それがどうしたの?」と。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●近代性と幸福の追求
(Modernization and its pursuit of Happiness -2-)

大切なことは、近代性の追求は、必ずしも
幸福にはつながらないということ。
つまり人間生活が近代化するからといって、
我々、人間が、幸福になるというわけではない。

人間生活の近代化と、幸福の追求は別のものである。
そういう前提で、近代性を考える。

近代性に、過剰な期待を寄せるのは、正しく
ない。

幸福感の確立は、もっと別のところにある。
そこで重要なことは、幸福感は幸福感として別のところで
確立しながら、近代性をその中に取り込んでいくということ。

この操作を誤ると、何のための進歩かということになる。
ばあいによっては、私たちが近代的社会と呼ぶところのものは、
かえって退廃する。


●本を読む老人たち
(Old men who enjoy reading books)

今日、あるところへ行った。その一室に、20人ほどの
老人たちがいた。年齢は、70〜80歳くらいか。

驚いたことに、その中の2人が、単行本を手にし、
それを読んでいた!

1人は男性で、推定年齢、75歳くらい。
もう1人は女性で、推定年齢、70歳くらい。

男性のほうは、どこかたどたどしい読み方をしていた。
女性のほうは、私たちが本を読むのと変わらない様子で、
読んでいた。

近寄って、どんな本を読んでいるか確かめたかったが、それはできなかった。
ただ男性の読んでいた本は、挿し絵からして、軍記ものだということがわかった。

すばらしい!

2人は、ほかの老人たちとは、明らかに、様子がちがっていた。

ともに頭脳明晰(めいせき)という感じがした。
頭脳が明晰だから本を読むのか、それとも、
本を読んでいるから明晰なのか、それは私にもわからない。
わからないが、その年齢で、本を読んでいる人は珍しい。
すばらしい。
そのすばらしさを、改めて痛感した。

が、ふとこうも思った。

せっかく本を読むのだから、それを消化して、(昇華でもよいが)、モノを書けばよい。
小型のパソコンか何かをもっていれば、さらによい、と。

いろいろな老人を見てきたが、単行本を読む老人は、少ない。
ざっと思い出しても、私の祖父母も、両親も、叔父、叔母たちも、
「読書」とは、まったく無縁の世界に住んでいた。

姉夫婦にしても、本を読んでいるという姿は、見たことがない。
ビデオすら見たことがない。

「それではいけない」とは思うが、だからといって、どうしようもない。
姉夫婦は姉夫婦。つまり人は人。それぞれ。

そこで私は、こう決めた。

これからはどこへ行くにも、小型のパソコンをもって歩こう、と。
今、この文章を書いているのは、ToshibaのダイナブックSS・3010。
買った当時は、25万円ほどした。
小型ノートパソコンのハシリで、買った当初から、故障の連続。
今も、夏の暑い日には、暴走を繰りかえす。
しかしその(人間ぽさ)が、楽しい。
裏面に1998年、購入とある。
もう10年も使っていることになる。
古いパソコンだが、いまだに手放せない。


●読書
(Reading Books)

再び、読書の話。

「読書をまったくしない」という人は、珍しくない。
しかしそういう人は、どこか底が浅い。
それもそのはず。
人は、読書を通してのみ、他人の深い思想に触れることができる。
そのことは、自分で文章を書いてみると、わかる。

文章を書いているときというのは、そのつど、考える。
ときにつぎつぎと、新しい発見をすることもある。
こうした現象は、ふつうの会話では経験できない。
いわんやそのレベルの人と、いくら会話をかわしても、意味はない。
思想が深くなるということは、ありえない。
ばあいによっては、ループ状態にはいる。
10年前、20年前に考えたのと同じことを、口にしたりする。

だから読書をする。
読書をすることによって、ループ状態から、抜け出ることができる。

たとえば私はたった今、「内部目標、外部目標」について書いた本を読んだ。
「大脳というのは、生きがい感としての内部目標を、最上位の目標としてすえ、
それに基づき、外部の状況と時間変化に対応する」とある。
「そこでは、脳の外部世界の状況に対応するため、外部目標を必要とする」と。

「ナルホド」と同意できる部分もあるが、「?」と思う部分もある。

この文章の筆者は、ひとつの例として、たとえばエベレスト登頂をあげている。
「エベレスト登頂」を内部目標とするなら、そのための準備をしなければならない。

体を鍛えたり、費用を捻出したりする。それが外部目標ということになる。

内容はともかくも、つまりこうして私自身も、脳みそを使う。考える。
こうした一連の脳みその活動こそが、重要である。
そうした刺激というのは、人は、読書のみによって得られる。

反対に、読書をしない人は、どうなるか?
言うまでもなく、通俗的になるだけ。
通俗が悪いというわけではないが、通俗性は、多くのばあい、凡人性につながる。
ハイデッガーが定義した、「ただの人(Das Mann)」というのは、そういう人を指す。

つまり「ただの人」になるか、ならないかは、
読書が、重要な役割をなす。
もちろん作文や、それにつづく思索でもよい。
ほかにも方法はあると思うが、読書が、もっとも手っ取り早い。

アメリカでも、「読書(Reading)」を、教育の「柱」にしている。
日本でも、ここ5年ほど、読書の重要性が、再認識されつつある。
とてもよいことだと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、
正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 4月 2日
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★★★HTML版★★★(マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page052.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page052.html
のほうで、「幼児を伸ばす、100の箴言」を公開しています。
どうか、そちらをお読みください。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●捕鯨をやめよう!(I am against Whaling and we should stop whaling right now! We, 
the Japanese has been doing whaling under the name of "Research", about which all of 
us know it is a fake. One of my boys whom I have been teaching said, he has eaten a 
whale in somewhere in a very expensive restaurant. Then I asked him where he ate, but 
he said, "My dad told me it is a secret between us and Dad told me not to tell anyone 
about it." We have been killing whales for food. Australian people are angry, very angry 
about the Japanese whaling. Stop whaling right now or you should see the film "Earth", 
produced by BBC in England. You will know it is really a matter of stupidity after 
seeing the film. They are highly intelligent creatures like us, human-beings. How come 
are we so stupid?

++++++++++++++++++

オーストラリアから来た友人に、こう聞いた。
日本へ来て、何に驚いたか、と。
彼にしてみれば、15年ぶりの来日である。
その彼(56歳)が、こう言った。

オーストラリアでは、毎日、日本の捕鯨問題が
新聞のトップ記事になっている。
日本では、それがほとんどといってよいほど、
報道されていない。それに驚いた、と(08年2月)。

捕鯨問題は、現在進行形で、日豪関係に、
暗い影を落としつつある。たいへん暗い
影である。

「調査捕鯨」というバカげた名前の捕鯨は、
やめよう。「調査」だと?

結局は、食用のためではないか。

こんな話もある。

私は封切り日に、「EARTH(アース)」という
映画を見てきた。
それについて、子どもたちに、「クジラを食べるの
はもうやめよう」と言うと、1人の子ども(小学生)
がこう言った。

子「ぼく、クジラを食べたことがある」
私「どこで?」
子「だめだよ。パパが、内緒だって、言ってた」
私「浜松で食べたの?」
子「だから、言えないの。パパに怒られる」と。

雰囲気からすると、どこかの高級料亭で、料理として
出されたらしい。

日本人にとって、クジラというのは、そういうもの
である。

+++++++++++++++++++

(3月8日、ヤフーニュースより)

水産庁に入った連絡によると、7日午後1時すぎ(日本時間午後0時半すぎ)、南極海を航
行中だった調査捕鯨母船「日新丸」に、米国の反捕鯨団体「シー・シェパード」の「ステ
ィーブ・アーウィン」号が接近し、約1時間10分にわたって計4回、薬品入りの瓶6〜
7個と白い粉の入った袋約10個を投げつけた。無線で警告したがやめなかったことから、
日新丸に乗船している海上保安官が警告弾を7発投げた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●捕鯨に反対!(I oppose to whaling under the name of "research".)

I am strongly to oppose to the Japanese whaling and protest against the government. 
Mr. Nakagawa, a high-official of Japanese government said that we should sink the 
boats with military weapons, if they continue to disturb our whaling on the public 
ocean. How come could he say such a stupid and brain-less opinion? As a matter of fact, 
who are eating whales in Japan? Only very limited rich people can eat them, not people 
like me. Whales are being served as food at very expensive restaurants. We should not 
be stubborn about this matter, since the relationship between Japan and Australia is 
now under very critical situation. We don't need any more "Research". Why should we 
kill whales for the "Research"? We, the Japanese, are taught we have been whaling for 
the research. But we know this is a fake. Nikkei Newspaper also says, "whaling is our 
culture". This is also a fake or a lie. Whaling is not our culture. Stop whaling right now. 
They are not fish, but creatures with very high intelligent wisdom and brains.

+++++++++++++++

自民党の中川昭一元政調会長は
こう言った(NIKKEI NET・3月9日)。

南極海で調査捕鯨中の母船が、アメリカ
環境保護団体「シー・シェパード」から、
薬品入りの瓶などを投げつけられた事件に関して、
「海賊行為だ。日本人も負傷している」と。

「海賊行為」?

そしてその上で、
「調査捕鯨妨害については、武器で威嚇か撃沈を」
(3月9日、フジテレビ番組の中で)と。

とうとうでてきた、とんでもない意見!

こうした流れを受けて、日経新聞は、つぎの
ような社説を掲げている。

(1)反捕鯨団体の活動は、海賊行為である。
(2)シー・シェパードは、崇高な行為であると錯覚している。
(3)反捕鯨を理由に、豊富な資金を集めている。
(4)(日本は)、持続可能な海洋生態系の保存と利用を目的としている。
(5)したがって無法な挑発には、毅然と立ち向かうべきである、と※。

 日経新聞の社説は、「異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は、
必ず衰退する」と結んでいる。

 つまり日本が捕鯨をするのは、「文化」である。
その文化を理解しない反捕鯨国は、「必ず衰退する」と。

 ここまで言い切ってよいものか。また言い切れるものか。

 世界中の人たちが、捕鯨に反対している。捕鯨国と呼ばれる国は、
数えるほどしかない。

 そこで日本が考えた苦肉の策は、「調査捕鯨」という名前の捕鯨。
「調査」という名前を、堂々とつけるところが、恐ろしい!
しかし中身は、食用を目的とした、捕鯨。しかも現在、クジラの肉は、
超高級食材として、そういうレベルの人たちだけが、そういう割烹
でしか、口にすることはできない。

 前にも書いたが、オーストラリアでは、連日、日本の
捕鯨船の記事が、新聞のトップページを飾っているという。
つまりこのままでは、日豪関係に、取り返しのつかないキレツを
入れることにもなりかねない。

 仮に今、中川氏が言っているように、「撃沈」ということまで
すれば、そのまま戦争になってしまうかもしれない。オーストラリア
海軍だって、だまってはいないだろう。つまり今、それくらい
オーストラリア人たちのテンションン(緊張感)は高まっている。

 私たちが子どものころは、クジラは、ただのサカナだった。
学校の給食にさえ、クジラの肉が並んだ。しかし今は、ちがう。
クジラは、おそろしく知的な動物であることがわかってきた。
数千キロ離れたところでも、言葉による会話もできるという。

 クジラの生態がわかればわかるほど、クジラというのは、殺しては
ならない生き物だということがわかってくる。この問題は、
「世界中の海に鯨があふれても……」(産経新聞・社説)という
視点だけで考えてはいけない。あるいはクジラがふえたことで、
人間は、どのような迷惑を受けているというのか。

 さらに「シー・シェパードは自らの不法行為を、
崇高な使命を帯びた英雄的な行動のごとく見せ、
資金を集めている。その術中にはまってはなるまい」(日経新聞)とあるが、
たとえそうであるにせよ、相手は、比較にならないほど、
小さな団体。捕鯨船の大きさと、彼らが乗っているボートを
比べただけでも、それがわかる。

 そういう相手に向かって、海上保安庁の船まで出して、
「撃沈せよ」とは! つまり日本はそうまでして、捕鯨を
守らなければならない理由は、どこにあるのか? 
またそうまでしなければならない理由は、どこにあるのか?

 冷静になるべきは、我々、日本人のほうではないのか?
改めて、日本の捕鯨、つまり殺鯨に反対する。

+++++++++++++++++

(注※)日経新聞・社説(CNBC)を転載

 今回の一連の事件は、明らかな国際法違反であり、今後さらに重大な被害が発生するの
を防ぐ意味でも、常習的な海賊行為として、徹底的に捜査・究明すべきである。団体の本
部がある米国、活動拠点のオーストラリア、船籍があるオランダ、それぞれに捜査協力と
再発防止を求めるのが、日本政府の課題だろう。

 三国とも政府は反捕鯨を掲げているが、船舶襲撃の刑事事件として、冷徹な処理を求め
ればいい。シー・シェパードは自らの不法行為を、崇高な使命を帯びた英雄的な行動のご
とく見せ、資金を集めている。その術中にはまってはなるまい。

(中略)

 捕鯨問題について私たちは、持続可能な海洋生態系の保存と利用をめざし、思い込みや
非難・中傷ではなく、あくまで科学を論拠にすべきだと主張してきた。国際捕鯨委員会(I
WC)では、これまで議論を積み重ね、新しい商業捕鯨の仕組みを科学委員会がまとめ上
げている。

 改訂管理方式と改訂管理制度からなる新しい仕組みは、合理的な監視システムの下で、
個別の生物種も海洋生態系全体も保全される形で商業捕鯨を行うのがねらい。反捕鯨国の
科学者も納得したこの制度を、総会では反捕鯨国が導入に反対して、事態は止まったまま
だ。いまだ商業捕鯨再開のメドは立っていない。

 「世界中の海に鯨があふれても、商業捕鯨では1頭もとらせない」と宣言する反捕鯨国
もあって、まともな議論が通じにくい状況なのは確かだ。しかし、ここが正念場である。
鯨の個体数をしっかり調べたことで、世界的な環境保護団体が、海洋生態系の保全という
観点から、合理的な捕鯨制度に関心を示している。

 無法な挑発は毅然(きぜん)と退け、理不尽に対しては、共生の科学と寛容の哲学で辛
抱強く説得するしかない。異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は必ず衰退する。

+++++++++++++++++

●調査捕鯨?(Research Whaling?)
The Japanese government explains that whales eat too much fish and mollusk and it is
 damaging Japanese fishing in the oceans. But is this true?

 日本政府というより、日本側の言い分は、こうだ。

 「クジラは、食物連鎖の頂点にいる。そのクジラがふえすぎると、海洋生物全般に影響
を与える。日本は、その調査のために、捕鯨をしている」と。おおまかに言えば、そうい
うことらしい。

 しかしクジラが食物連鎖の頂点にいるというのは、まっかなウソ。クジラが食用として
いるのは、マグロでもカジキでもない。クジラにもいろいろな種類がいるが、南極に住む
クジラが主食としているのは、ナンキョクオキアミ。マッコウクジラは肉食もするが、深
海の軟体動物。まず、内閣広報室の言い分をそのまま紹介する。

+++++++++++++++

●クジラの餌の生態についての周知度

 クジラの餌の生態について、知っているものを聞いたところ、「クジラはオキアミなどの
プランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サケなどを主要な餌として食べている」
を挙げた者の割合が、52%と最も高く、以下、「漁業者が漁獲する前に、はえ縄にかかっ
たマグロをクジラが食べてしまうなど、クジラにより漁業が妨げられる事例がある」(1
2・9%)、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量
の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」(10・4%)などの順となっている。
なお、「わからない」と答えた者の割合が41・4%となっている。

+++++++++++++++

 つまり内閣府の言い分は、こうだ。イルカやクジラが食べる魚の量には、たいへんなも
のがある。推定で、2・8〜5億トン。これは「世界中の人間が食べる、魚の消費量の9
000万トンの、3〜5倍の量」(日本鯨類研究所)。だから捕鯨することによって、クジ
ラの数を制限する必要がある、と。

 (イルカやクジラと、「イルカ」も、含めていることに注意してほしい。)

 しかしこれは、ウソ。南極でエサをとるクジラは、ナンキョクオキアミを主食としてい
る。マッコウクジラは、肉食もしているが、深海の軟体動物を主に食用としている。財団
法人「日本鯨類研究所」ですら、「人間の漁業と直接は競合していない部分の方が、遙かに
大きい」(同、HP)と述べている。

 なおナンキョクオキアミにしても、年間数千万トンもの余剰資源があるとされる(同、
HP)。

 もちろんイカなどを食べる、「歯クジラ」もいる。しかし数は少ない。こうしたクジラ、
さらにはイルカまで、いっしょくたにして、「クジラは……」と論ずるところが、恐ろしい。

 さらに言えば、内閣府は日本の漁業を心配しているようにも見えるが、実際には、日本
の港に入ってくる魚の大半は、外国の漁業船団がもちこんでくる魚である。海上で、外国
の漁業船団と交渉して、日本の漁船が魚を買い受けるというケースも少なくない。人件費
という面からも、日本の漁業船団は、少なくとも現在は、外国の漁業船団には、太刀打ち
できない。開店休業状態にある。

 本音の本音を言えば、捕鯨をすることで利益を得る、ほんの一部の漁業関係者を保護す
るために、調査捕鯨をしている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(参考資料)(内閣広報室の資料より転載)

 都市規模別に見ると、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面
漁業生産量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は大都
市で高くなっている。

 性別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、
サケなどを主要な餌として食べている」、「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグ
ロをクジラが食べてしまうなどクジラにより漁業が妨げられる事例がある」、「イルカやク
ジラが餌として食べている魚介類の量は,世界の海面漁業生産量の3倍から5倍にのぼる
量であると推定されている」を挙げた者の割合は男性で高くなっている。

 性・年齢別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、
タラ、サケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は、男性の40歳代から
70歳以上で、「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグロをクジラが食べてしまう
など、クジラにより漁業が妨げられる事例がある」を挙げた者の割合は、男性の30歳代、
40歳代で、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量
の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は、男性の40歳
代から60歳代で,それぞれ高くなっている。

 職業別に見ると,「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タ
ラ、サケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は自営業主、管理・専門技
術・事務職で、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産
量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は、管理・専門
技術・事務職で、それぞれ高くなっている。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


 絶滅の危機に瀕している生物は、多い。もちろんその原因は、私たち人間にある。そう
いう巨大な問題をさておいて、「クジラがふえすぎている」は、ない。食料としての魚も必
要かもしれないが、海の生物くらい、そっとしておいてやってもよいのではないか?

 クジラにしても、ふえすぎれば自然淘汰されるだろう。大切なことは、自然との共存で
ある。人間があえて、その自然に手を入れる必要はない。日本人がもつ(自然観)は、け
っして、世界の常識ではない。

 それについて、以前、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシン
のよう」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには1740年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や
農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにし
ても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そう
いう謙虚さをもつことである。

少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切に
しましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
 age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●老人力(Young Old Man)

+++++++++++++++++++++

母の介護をするようになって学んだものは多い。
それはそれ。
しかしその半面、私は老人になることに、恐怖感を
抱くようになってしまった。

それがわからなければ、半日でもよいから、
あのケア・センターに身を置いて、あそこにいる
老人たちを観察してみることだ。

みな、それぞれ、それなりの過去をもった人たちである。

中には、東京のあのK大学を卒業したあと、
ヨーロッパのある大学に留学した経験のある人まで
いる。

そういう老人たちが、人間であることをやめてしまって
いる。

あの世界では、「私だけはだいじょうぶ」と思って
いる人ほど、あぶない。……そうだ。
今の私もそうかもしれないが、健康であっても、
(あるいは健康で長生きをすればするほど)、
みな、例外なく、ああなる。

しかしものごとは、暗いほうばかりを見て
いてはいけない。考えてはいけない。

「老人力」(瀬川原平)という言葉もある。
老人になること、結構。
バカになって、アホになること、これまた結構、と。

老人になることを恐れるのではなく、
老人であることを前向きに受け入れていく。

それが老人力。

我々は、ヤング・オールド・マンなのだア!

しかし、一方でこの恐怖感と、どう戦えばよいのか。
ワイフに相談すると、ワイフはこう言った。

「まだ30年も先の話でしょ。そんなこと、今から
心配しても、しかたないでしょ」と。

どうして私のワイフは、いつも、ああまで
楽天的なのか?
楽天的でいられるのか?

うらやましい!

+++++++++++++++++

(参考)

2015年には、老人性痴呆症、つまりボケ老人と言われる人は、
200万人に達するだろうと言われている。
(現在は、160万人と言われている。ウィキペディア百科事典)

老人性痴呆症は、血栓性の痴呆症と、アルツハイマー型痴呆症に
大別される。

血栓性の痴呆症というのは、脳の血管が詰まって起こる痴呆症をいう。
脳欠陥障害型痴呆症とも言われる。脳梗塞や脳内出血が原因となると
言われているが、脳梗塞による多発性痴呆が、そのほとんどをしめる。

症状としては、
(1)がんこになる。
(2)自己中心的になる。
(3)抑うつ感が強くなる。
(4)睡眠障害が起こる。(以上、初期症状)
(5)健忘障害
(6)道に迷う
(7)高度の知的障害が起こるようになる。(以上、「心理学用語」かんき出版)

さらにウィキペディア百科事典のほうでは、「軽度認知障害の症状」として、つぎのものを
あげる。

「加齢関連認知低下とは、6か月以上にわたる緩徐な認知機能の低下が、本人や家族など
から報告され、客観的にも認知評価に異常を認めるが、認知症には至っていない状態であ
る。

認知機能低下は、

(1)記憶・学習
(2)注意・集中
(3)思考(例えば、問題解決能力)
(4)言語(例えば、理解、単語検索)
(5)視空間認知、のいずれかの面に該当する」と。

+++++++++++++++

こうした初期症状が、自分自身に現れたとき、それを自分で認識できるかどうか。
理屈で考えれば、「できない」ということになる。
脳のCPU(中央演算装置)が、おかしくなるわけだから、自分がおかしいということす
ら判断できなくなる。

よい例がADHD児である。

小学3年生前後以下の子どもに、「あなたが騒ぐと、みなが迷惑するんだよ」と説明しても
意味はない。
「騒いでいる」という認識すらない。
「迷惑をかけている」という認識は、さらにない。

が、小学3年生以後、このタイプの子どもは、急速に落ち着きを取り戻してくる。
自己認識力が育ち、自分自身を客観的に見ることができるようになるからである。

「自分が騒げば、みなが迷惑する」ということが、自分でもわかるようになる。
とたん、自分で自分をコントロールするようになる。

では、老人性痴呆症のばあいは、どうか。

私の周辺にも、「?」と思われる人は、何人かいる。
このところ急速にがんこになり、自己中心的になってきた。
自分でもうつ病を自認し、薬も服用している。

しかしそういう人でも、「おかしい?」と思うのは、周囲の人たちであって、本人ではない。
むしろ本人は、「私は、ふつう」と思いこんでいる。
何かのことで、それを指摘すると、逆に、「あなたのほうがおかしい」とやり返される。

こと老人性痴呆症に関しては、「病識」をもつことはないようだ。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、自分の姿を自分で、客観的にとらえることができるようになるのか。

前にも書いたが、私のばあいは、自分の書いた文章を比較することで、ある程度、その変
化を客観的に知ることができる。

5年前に書いた文章、10年前に書いた文章を読み返してみる。
そのとき、「最近書いた文章は、つまらない」と思うようであれば、痴呆症が進んでいると
いうことになる。
反対に、「以前は、鋭い文章を書いていたな」と思うようであっても、痴呆症が進んでいる
ということになる。

……ということで、実は、私は最近書いている文章が、以前の文章より、かったるくなっ
ているのを感ずる。
体裁を変えたこともある。

以前は、学校で教える作文形式の体裁で、文章を書いていた。
今は、インターネット上で読みやすくするため、このように文章を、一文ずつ、一行で表
現するようにしている。

それもあるが、このところつっこみが甘くなったように感ずる。
言うなれば、駄文につづく駄文。

たしかに私の脳みそも老化しているようだ。
ゾーッ!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●エリクソンの心理社会的発達

+++++++++++++++++

渋谷昌三氏が書いた「心理学用語」の中に、
興味ある表が載っていた。

そのまま転載させてもらう(P175)。
(「心理学用語」・渋谷昌三・かんき出版)

*********************
エリクソンの心理社会的発達
*********************

段階        心理社会的危機

―――――――――――――――――――――

乳児期        信頼 対 不信
乳児前期      自律性 対 恥、疑い
乳児後期      自主性 対 罪悪感
児童期       勤勉性 対 劣等感
青年期     自我同一性 対 同一性拡散
成人前期      親密性 対 孤独
成人後期      世代性 対 停滞
老年期     自我の統合 対 絶望

*********************

 この中でとくにわかりやすいのは、(あくまでも現在の私の立場での話だが……)、老年
期である。

 エリクソンは、老年期は、「自我の統合」を構築すべき時期だとする。いろいろに解釈で
きるが、要するに、老齢期を前向きにとらえて、その中で、(自分のすべきこと)と、(現
実にしていること)を統合させていく。

 それが「自我の統合」、もしくは、「自我の統合性」ということになる。

 が、その構築に失敗すると、その先で待っているのは、「絶望」ということになる。

 そこでもう少し、過去にさかのぼってみる。エリクソンは、成人前期には、「親密性」の
構築をしなければならないと説く。わかりやすい例では、恋愛、さらにそれにつづく結婚
がある。その親密性の構築に失敗すれば、「孤独」になる。もちろん親密性の追求は、何も、
恋愛や結婚だけにかぎらない。友との友情でもよい。近親者とのつながりでもよい。

 さらに進んで、成人後期には、「世代性」の構築をしなければならないと説く。

 世代性というのは、「私」というワクを超えて、私がもつ価値観、経験、知識を、つぎの
世代に伝えようとすることをいう。

 たとえば私にしても、ある時期から、「私の子ども」「他人の子ども」という垣根が消え
たように思う。年齢的には、45歳前後ではなかったか。それまでの私は、「私の子どもは、
私の子ども」「他人の子どもは、他人の子ども」というような考え方をしていた。

 が、この世代性の構築に失敗すると、悶々たる日々を過ごすことになる。それをエリク
ソンが「停滞」と言ったかどうかは知らないが、「明日も今日と同じ」「来年も今年と同じ」
という日々がつづくことになる。

 そして老年期。

 これについては冒頭に書いたとおりだが、この時期、「絶望」は、まさに「地獄」。私の
祖父はいつも口ぐせのように、こう言っていた。「地獄も極楽も、この世にある」と。絶望
は、この世の地獄ということになる。

 その先に、ほんのわずかでも希望があれば、人間は生きていくことができる。しかしそ
の希望をなくしたら……。

 生きているといっても、生かされているだけ。死ぬこともできず、さりとて、殺してく
れる人もいない。死の待合室で、死に神が来るのを、ただじっと待っているだけ……。

 では、どうすればよいのか?

 実は心理学では、「どうすればよいのか」という部分については、教えない。エリクソン
にしても、「自我の統合性こそ重要」と説くが、ではどうすれば、私たちは、絶望から逃れ
ることができるのかというところまでは、説かない。

 ここから先は、哲学、宗教の関する世界ということになる。わかりやすく言えば、私た
ち1人ひとりの(生きざま)の問題ということになる。というのも、大半の人は、そこま
で考えない。

 考えても、孫の世話と庭いじり。それが老後のあるべき姿と考える。もちろんそれを否
定しているのではない。しかしそれはあくまでも一部であって、すべてではない。またそ
れができる人は、今の世の中では、幸福なほうの人かもしれない。

 孫といっても、親子がそのものが断絶しているケースも少なくない。庭といっても、庭
すらない家庭も多い。

 さらに一歩進んで、「大人旅」(=数か月から数年をかけてする大旅行をいう)とか、「楽
農生活」(=趣味で農業を営みながら、自然を楽しみながら生きることをいう)とかいう言
葉も、ある。

 もちろん宗教に走る人もいる。布教活動に専念する人もいる。が、それでも「絶望」か
ら救われない人も多い。 

 「自我の統合性」の問題は、それほどまでに大きな問題であるということ。何度も繰り
かえすが、一朝一夕にできるものではない。

 エリクソンの「心理社会的発達」の表を見ながら、改めて、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エリクソン 心理社会的発
達 統合性 自我の統合性 自我の統合 自己同一性)


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2008−4



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