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2008年 12月号
BOX版(ネットストーレッジ)……●
Essay……●




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   31日号
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   29日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

12月26日号+29日号では、
まぐまぐ版・「子育て一口メモ」を、HTML版(↑)で
お送りします。

今年1年間、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。

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【子育て・一口メモ】(まぐまぐ版)(見本です)

●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりと
げるというのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。
理由もなく、自分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。
その根性は、励まして伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではな
いので、その理由と原因をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るため
に、アルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。そ
れもそのはず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアル
バムには、楽しい思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするため
にも、アルバムを、部屋の中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことある

とに言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてそ
の自尊心が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たと
えば子どもの名前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところ
に張ったりする。そういう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、
5本、飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、

食なのかしら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにした

ったら、CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心

した献立にする。こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。
いわゆるレトルト食品、インスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合
して、リン酸カルシウムとして、CAは、対外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それ
だけではない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいる
はず。そういうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。
あるいは「私の仕事はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。

ちがっても、暗い印象をもたせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、
足の裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性
は、あらゆる運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうして
それで敏捷性のある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできな
い子どもがふえている。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子ども

多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」
(サロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そ

でない人を、低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそうい
う人ほど、人格の完成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自
己中心性と戦い、子どもに、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。
「いっしょに、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょう
ね」と言ってあげる。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつ
くっていく。これを「個性化」という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、
希望、そして生きる目的へとつながっていく。


●暖かい無視

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、
過関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向
を感じたら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同
時に『ほどよい親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよ
い。
とくに子どもがスキンシップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、ま
た子どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさび
を打ち込み、是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教える
のも、重要な役割。昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、
父親の役割ということになる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなか
ったとしても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるよ

になったわね」と言うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな

で言えるようになったわね」と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ば
すときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。
これは父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだ
ろう。言いたいこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切な

とは、子どもが、楽しく、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そ
のときから人間関係は、スムーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこ
じれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。
これをベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗す
ると、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定
になったりする。いきなりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なこと
をしてはいけない。子どもの側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、
10人のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対
して恐怖心をもっているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、
一度、文字嫌いにしてしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いて
も、それをほめる。読んであげる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エ
ビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。
そのとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」

思ったら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセ

なおす。子どもの小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。
そういう買い物グセが、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなも
のではないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるの
は、甘い。子どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に
先立って、音の分離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そ

とき、手をパンパンと叩きながら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。
そういう子どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるよ
うにするとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という

味。あなたの子どもは、その子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、き
れいな丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなた
の子どもが、多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。
小さなマスなどを、縦線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭

よくなる」という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話す
と、「では」と言って、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、

年後。その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガム
の効用を確認している。この方法は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに
効果的である。

●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばあ
る母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、
教育評論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤
族の子どもは、頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激に
なっているからと考えられる。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【子育て・一口メモ】(まぐまぐ版)(見本です。)

【子育て一口メモ】

●許して、忘れる

 親の愛の深さは、どこまで子どもを許して忘れるかで、決まる。英語では、『for・give 
& for・get 』という。

 この単語をよく見ると、「与えるために、許し、得るために忘れる」とも訳せる。(forgive= 
許す、 forget=忘れる。「フォ・ギブは、与えるため」、「フォ・ゲッは、得るため」と
も訳せる。)

子どもに愛を与えるために、親は許し、子どもから愛を得るために、親は忘れるというこ
とになる。

 子育てをしていて、袋小路に入り、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほし
い。心が軽くなるはずである。


●子どもの横を歩く

 親には、三つの役目がある。ガイドとして、前を歩く。プロテクター(保護者)として、
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。

 いつも子どもの意思を確かめること。(したいこと)と、(していること)が一致して
いる子どもは、どっしりと落ちついている。夢や希望もある。当然、目的があるから、誘
惑にも強い。


●ほどよい親である

 やりすぎない。子どもが求めてきたら、与えどきと考えて、そのときは、ていねいに答
えてやる。昔から『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。

 いつも、「子どもがそれを求めているか」ということを、自分に問いかけながら、子ど
もに対処するとよい。手のかけすぎ、サービス過剰は、かえって、子ども自身が自ら伸び
ていく芽をつんでしまうことになる。


●暖かい無視

 親の過剰期待、過関心、過干渉ほど、子どもの負担になるものはない。「まあ、うちの
子は、こんなもの。親が親だから……」という割りきりが、子どもを伸ばす。

 親は、いつも子どもから一歩退いた位置で、子どもを見守る。野生動物保護団体には、
『暖かい無視』という言葉がある。その言葉は、そのまま、子育てにも当てはまる。

 ちょっと心配のしすぎかな? 手のかけすぎかな? と、感じたら、心のどこかで、暖
かい無視を思い浮かべる。子どもを暖かい愛情で包みながら、無視する。


●子どもは使う

 使えば使うほど、子どもは、すばらしい子どもになる。家事、仕事、手伝いなど。身近
なところから、どんどん、使う。

 使えば使うほど、子どもには忍耐力(いやなことをする力)が身につく。この力が、子
どもを伸ばす。もちろん学習面でも、伸びる。もともと学習には、ある種の苦痛がともな
う。その苦痛を乗りこえる力が、忍耐力ということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

● 父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判

たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


● 逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その
逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋
ということになる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定にな
る。だから子どもが逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子ど

が、約80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、
中には、キックしてくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをも
っている子どもは、約80%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかど
うかは、ぬいぐるみを抱かせてみるとわかる。


●国語教育は、言葉から

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたと
き、「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親

していて、どうして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどう
でも、「バスがきます。あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽

をかぶっていますか」と話す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イ
チ、ニ、サン……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。
さらに手をパンパンとたたいてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を
信号化する。たとえば「2足す3」も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数

信号化という。この力が、計算力の基礎となる。


●子どもは使う

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから
生まれる。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、

なたの子どもに、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と

って、喜んで片づけるようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということ
になる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほ
しい。そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そ

でなく、テレビやゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよ
い。今は、(かわいい子)かもしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとな
も)、
自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから
生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」という

がある。子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっ
しょに釣りに行け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜
んでいるはず。感謝しているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。し
かしこれは幻想。むしろ逆効果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のもの
でも、100倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはい
けない。一度、お金で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、1
0倍、100倍とエスカレートしていく。高校生や大学生になるころには、1000円や
1万円では、満足しなくなる。子どもが幼児のときから、慎重に!


●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、
あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、
いい人だと思っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでな
ければそうでない。子どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを
伸ばしたいと思うなら、まず自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、
大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよく

る」「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未

に不安をいだかせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバー
して、「ほら、やっぱり、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高
さをあわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっ
かりと見つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせ
ても意味はない。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというよ
うな様子を見せる子どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの

で、そうであればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしてい
るようであれば、親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見
て、「何を考えているかわからない」というのであれば、さらに要注意。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親の品格

++++++++++++

賢明な親もいれば、
そうでない親もいる。

子どもを伸ばそうと考えたら、
親も、子どもといっしょに、
伸びなければならない。

賢明な親というのは、
それが自然な形でできる親をいう。

++++++++++++

 「親」といっても、いろいろなレベルの人がいる。賢明な親もいれば、そうでない親も
いる。

 昔、幼稚園で働いていたころのこと。こんなことがあった。

 ある子ども(年長児)が、掛け算の九九を、ソラで言うようになった。「ニニンが4、ニ
サンが6……」と。多分、兄かだれかがいて、その兄を見ながら、九九を覚えてしまった
らしい。

 その子どもを見て、ある親が、「あの子は、天才!」と騒ぎ出した。「幼稚園児なのに、
もう掛け算ができる!」と。

 しかし掛け算の九九をソラで言えるからといって、その子どもが、本当に掛け算を理解
しているとはかぎらない。その子どもにとっては、歌のようなもの。しかしレベルの低い
親は(失礼!)、表面的な部分だけをみて、子どものレベル、さらには教育のレベルまで、
自分で決めてしまう。

 あるいは、こんなこともあった。

 あるとき、職員室へ、若い母親が飛びこんできた。そしていきなり、こう言った。

 「うちの子は、3年保育で、この幼稚園に入った。どうして2年保育で入った○○さん
より、できが悪いのか!」と。つまり「3年保育で入園してきた自分の子どもが、2年保
育で入園してきた○○さんより、できが悪いのは、おかしい」と。

 その母親の子どもは、何かにつけて、できが悪かった(失礼!)。しかしその親は、自分
のできの悪さには、気づいていなかった(失礼!)。

 ……とまあ、実は、こういうケースは、多い。幼稚園や保育園という世界では、日常茶
飯事。そういう話を見聞きするたびに、「幼稚園の先生も、たいへんだな」と思う。

 で、今では少なくなったが、当時は、子どもの能力を、テストの点数だけで判断する親
がいた。学校のテストでつけられる点数である。その点数を見て、一喜一憂するのはしか
たないとしても、そのたびに、家の中で、大騒動。「勉強しろ!」「いやだ!」と。

 しかし親でも、小学3、4年生の問題を解けない人は、いくらでもいる。高校を出たあ
と、(勉強)から遠ざかった人なら、みな、そうではないか。そういう親が、子どもを叱り
ながら、「どうしてこんな問題が解けないの!」「何よ、この点数は!」と言うから、おか
しい。

 (本当に、そういうことがあったぞ!)

 そこで私が、やんわりとその母親に、こう言った。「この問題は、むずかしいですよ。何
なら、一度、お母さん、あなたが解いてみたら、どうでしょう?」と。すると、その母親
は、はにかみながら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 子どもを産むことで、親は親になる。しかし親になったからといって、別の人間になる
わけではない。環境は変わるが、中身まで変わるわけではない。つまりその時点から、親
は、今度は、親になる努力をしなければならない。それを怠ると、名ばかりの親になって
しまう。

 勉強にしても、しかり。

 ほとんどの親は、中学や高校で勉強したことは、そのまま頭の中に残っていると誤解し
ている。しかし実際には、卒業すると同時に、忘れていく。どんどんと忘れていく。英語
の単語や、算数の計算問題を、例にあげるまでもない。

 さらに分数の足し算、引き算のできない大学生となると、いまどき、珍しくもなんとも
ない。

 そこで賢明な親と、そうでない親とは、どこがちがうかといえば、賢明な親ほど、子ど
もに対して謙虚。自分も子どもといっしょに、伸びようとする姿勢が見られる。

 が、そうでない親は、そうでない。「自分は絶対」という自己中心性ばかりが強い。目立
つ。自分の世界だけで、自分の子どもを判断しようとする。先にあげた、テストの点数だ
けで、子どもの能力を判断する親も、そうである。

 どこをどうまちがえたか。どうしてまちがえたか。どこに弱点があるか。そういうこと
は、まったく、みない。だからつぎにどうしたらよいのか、それを的確に判断することが
できない。その判断ができないから、いきなり、子どもに向かって、「もっと、勉強しなさ
い!」となる。

 正直に告白するが、教育をする側の者の意欲、つまり教師としての意欲を引き出すのは、
親である。子どもではない。教師は、親を見て、「教えたい」と思うようになったり、「教
えたくない」と思うようになったりする。とくに、「教えたくない」と思うときは、そうで
ある。親をみて、そう思うようになる。

 「こういう親の子どもは、教えたくない」と思うことは、しばしばある。親をみただけ
で、絶望感を覚えるときもある。たがいの間に、あまりにも遠い距離感を覚えるからであ
る。

 そうそう、たまたま、昨日も、そういうことがあった。

 教室にいると、電話がかかってきた。そして電話口の向こうで、その母親は、いきなり、
こう言った。

 「うちの子を、今度、SS小学校に入れたいのですが、お宅の塾へ入れていただけます
か?」「お宅では、どんなことを教えているのですか?」と。

 私が、「うちは、受験塾ではありませんので、どこかほかのところを当たってみてくださ
い」と言うと、その母親は、「あら、そう」と言って、そのまま電話を切ってしまった。

 名前も言わない。あいさつもしない。おまけに、私の教室を、受験塾と誤解している。
電話の切り方も、ふつうではない。

 そういう母親の子どもは、私は、ぜったいに、教えたくない。その前に、そういう母親
とは、つきあいたくない。時間のムダ。人生のムダ。

 ……と話が脱線したが、最後にこれだけは、気をつけた方がよい。

 あなたの子どもも、やがておとなになる。そのとき、あなたという親が、自分の子ども
に何かを示せれば、それでよし。しかしそうでなければ、あなたという親は、その時点で、
容赦なく、あなたの子どもによって、評価される。

 そのときのためにも、あなたという親は、親として、自分をみがいていかなければなら
ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
親論 親のあり方 親のレベル)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【女児願望の男児(?)】

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

+++++++++

【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、
それをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありまし
た。強く否定していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいい
のでしょうか? どう返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら
病院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知
られている。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、そ
の結果として、性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。
また女子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自
己の変化そのものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあ
れ、ほとんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとな
への脱皮をはかるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を
見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、
自意識が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネ
ガティブ)な世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、
そのひとつである。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱
としての「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させること
ができない「性同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の
身体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の
身体の性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容
できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状
態を指して性同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」
という表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちで
あるため、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性
が食い違った状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多
くの場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致
しているが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や
遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観
察される。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれか
に正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考え
られない症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。
また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づく
ケースもある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障
害者は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状
の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、
(代表的な症例では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 という
のは、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決
して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまった
くなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者
が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウ
ンセリングの場では、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうとこ
ろのニューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、
売春以外観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、
男性型の身体より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去
勢をし、十代後半になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、
それを防ぐための文言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々
を、性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドライ
ンの第2版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明
記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりも
しそうであるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」
というよりも、個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たち
にとっては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということにな
る。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、か
えって追いつめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオース
トラリアで学生生活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもって
いると考えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかという
ことさえ、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うこと
さえ、許されなくなる。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたの
は、X君が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあ
ったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあ
るのを見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたよう
に、ほかに気になることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んで
しまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の
母親は、その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、
わからなくなってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでない
ものを見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうす
ることもできませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方
のないことと、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあ
っていません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問
題だけは、なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なこ
とは、息子が自分で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3
〜4年生くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両
手をすりあわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、
そうした冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでに
Y君に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱ
りと言った。「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてく
ると、Y君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめ
かしいというか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、こ
こに書いたY君である。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校
生と、恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部
の席で、手をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、
それで終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性
同一性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性
障害者ということにはならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、
「自分は女性」と思いこんんでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と
思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」
である。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに
添付する。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が
生まれてくる。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職
に応じたものの考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性
をもつ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、
失敗など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混
乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観
に大きな影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そ
ういう方向で勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を
勧められ、文科系コースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさ
からうなどということは、できなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにも
こうにも、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そ
のときですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自
分の職業を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えて
よい。ほとんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そ
して、その性別にふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まっ
たくの「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなっ
たということもある。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因について
は、いろいろな説があるが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、
いじめられて泣くのは、男児、いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってし
まっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」
になりきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事を
しなさい」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、
自我そのものまで軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代
に押しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだというこ
とになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなけれ
ばならない。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞ
き、男女差別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べ
る学校もふえている。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線
の運転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そうい
う問題も、考えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差
別してはならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、
今後は、性による差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日
本を変えていく。意識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなけれ
ばならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書い
てきたことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。
残念ながら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを
見たこともないし、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無
だった。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、
そうした服装を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、
からかわれた時代もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思
う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、
子どもは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そ
ういう部分で、親として、できることはしなければならない。反対に、してならないこと
は、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、
狩りの仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要であ
る。男児が男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、
考えられる。(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化
するケースもある。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視
点で、一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもし
れない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思わ
れる。仮に性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどな
い。いわんや病院へ連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日
本では、たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、
もがき苦しんでいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、
もがき苦しんでいる人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
同性愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。
しかし現実には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」
を自覚することが多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果と
して、「自分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳を
とってからの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、
若いときに見た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、
女を意識するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自
身のことでよく覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなっ
てしまった。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の
下着を見てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよく
おぼえていない。しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、
私は、そのとき強烈な衝撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致
を起こしたとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるな
ら、問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出て
くるようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だ
けで、こうした人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視
点で、こうした人たちを、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うこと
はできない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的
には、自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしか
に、自分の子どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがあ
る。しかしそれは、(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけ
ながら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が
同居していることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」
というようなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているよ
うにも思う。もしあのとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、
私を病院へつれていくと言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。


 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あ
るいはどんな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につ
いて言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」と
いう図式が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそ
うした原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同
一性障害を問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生
がいたので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、
真顔でこう答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生
もいた。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。
その高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう
書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞
台でギター独奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞く
と、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣く
のはたいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがってい
る。先日も一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、
ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。
母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもら
し」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決
するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポ
カリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はな
にも、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は
女子らしくという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいく
らがんばっても、妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべき
だというのは、おかしい。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教
師は皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(9
8年、浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐
怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、
今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加し
なさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう
日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランス
は第一次大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男
性は限りなく女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツ
の侵略には、ひとたまりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
男児の女児化 男性の女性化)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   22日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●集団不登校(?)

+++++++++++++++

何があったのか?
何が起きているのか?
今、たいへん興味をそそられる事件が、これ。
モルダーとスカリー捜査官なら、すぐさま現地に飛び、
捜査を始めると思う。

(このところ映画の見すぎで、ごめん!)

何でもN県のN市で、児童の集団不登校が
相次いでいるという。

+++++++++++++++

集団不登校?

毎日新聞から記事を抜粋させてもらう。

++++++++++以下、毎日新聞・08・11・25より+++++++++++

●不登校:なぜ?児童23人が「原因なく」 学校が出席を督促 
文科省「聞いたことがない」 

 N市の複数の公立小学校長が今月、登校していない児童13人の保護者に対し、異例の
「出席督促書」を渡していたことがわかった。督促を指示した市教育委員会は「昨年末か
ら、特定の地域を中心に、親の意思で通学させないケースが続出している」と説明する。
一方、督促された親たちは「子供が行きたがらずに登校できないのであって、親の意思で
はない」と話している。

 督促書(A4判1枚)は「○月○日から正当な理由がないのに欠席していますので、直
ちに出席させるようN市立学校管理運営に関する規則第13条第2項により督促します」
という内容。

 今月、市内の公立小学校に通う1〜4年生計13人の保護者に届いた。うち1年生4人
は、入学して一度も登校していないという。

 市教委によると、昨年12月から特定の地域を中心に「ホームスクーリング(自宅学習)
をさせる」と親が申し出て、低学年の児童10人以上が登校しなくなった。2月初めには、
就学通知が届いた新1年生の親からも同様の申し出があり、今年度には「原因がなく登校
しない児童」が23人と倍増。事態を重視した市教委は、家庭訪問などで出席を促したが、
「話し合いに応じる姿勢がない」と判断した保護者に限って、督促書を出した。

 学校教育法では、児童生徒の出席状況が良好でなく、保護者に出席させない正当な理由
がない場合に督促できると定めている。だが、実際に督促書を出す例はほとんどないとい
う。子供が登校したくてもできない「不登校」の場合は対象とならない。

 SM教育長は「異常な事態だ。親の考え方で公教育の機会を奪うのは許されないことを
示し、少しでも子供の登校につながるよう願って督促を決めた」と話す。

 一方、督促書を受け取った母親は「子供が学校に行きたがらず、夜うなされたり、吐い
たりを繰り返したので、仕方なく家で勉強している。学校が理解してくれず、つらい」と
話す。別の母親は「友達関係をきっかけに、前から不登校ぎみだった。子供を理解しよう
と十分に働きかけもせず、なぜ突然こんな文書を出すのか」と不信感を強める。

 文部科学省初等中等教育企画課は、「子供がまとまって登校しなくなり、一度に督促した
ような例は聞いたことがない」と話している。

++++++++++以上、毎日新聞・08・11・25より+++++++++++

まず誤解しないでほしいのは、(1)子どもの教育権は、親に属するということ。
国ではない。
親である。
つぎに(2)義務教育の「義務」というのは、「その教育権を、国に委譲する義務がある」
という意味の義務である。
つまり、未成年者である子どもに、そもそも法的義務は存在しない。

だから子どもを学校に行かせないというのなら、(もしそうであるなら)、子どもをもつ
親の義務違反ということになる。
が、この義務違反には、とくに罰則規定はない。
義務に応ずるかどうかは、あくまでも親の判断による。

ついでながら、英語では義務教育を、「compulsory education(強制教育)」というが、
「強制」の程度は、国によって、異なる。
アメリカだけでも、学校へ通わないホームスクーラーは、推定で200万人を超えている。
子どもが学校へ行かないこと、あるいは親が子どもを学校へ行かせないことを、
「悪」と決めつけてはいけない。

そこでこうした問題が生ずる。
集団不登校の問題である。

気になるのは、記事の中の、「特定の地域を中心に」という部分と、「事態を重視した市教
委は、家庭訪問などで出席を促したが、『話し合いに応じる姿勢がない』と判断した保護者
に限って、督促書を出した」という部分。

教育委員会側も、かなりの努力をしているらしい。
それに対して、保護者側には、「話し合いの応ずる姿勢がない」とか。

さらにもう一点気になるのは、「子供が学校に行きたがらず、夜うなされたり、吐いたりを
繰り返したので、仕方なく家で勉強している。学校が理解してくれず、つらい」という部
分。

「夜うなされたり、吐いたりする」というのは、ただごとではない。
通常、私たちが考える(不登校)もしくは、(学校恐怖症)、あるいは(怠学)とは、少し
内容がちがうようだ。
教育委員会にとっても、またそういった子どもをもつ親にとっても、これは深刻な問題で
ある。

が、これ以上のコメントは、残念ながら、ここではできない。
情報が、あまりにも少なすぎる。

ただ最後の「こうした例は聞いたことがない」という部分には、「?」をつけたい。
こうした集団不登校事件は、過去にもあるにはあった。
裏で宗教(カルト)団体がからんでいたケースもあった。
で、この事件で、(「事件」というほど、大げさなものではないかもしれないが)、重要な
ポイントは、その集団不登校を起こしている保護者、あるいは子どもの間で、横の
連絡があるかないかということ。

その(連絡)があれば、「集団」ということになる。
その(連絡)がなければ、「集団」という言葉を使うのは、不適切である。
たまたまその地域で、不登校児が重なったというだけかもしれない。

あるいは「夜うなされたり、吐いたりする」という症状が、共通して現れて
いるのかどうか?
もし特定の地域で、子どもたちに、集団で同じような症状が出ているとすれば、
それこそ、その背後に何かあるはずである。

また不登校といっても、1人、2人……と周囲でつづくと、その連鎖反応が起きるという
ことも考えられる。
「あの子が行かないなら、うちの子も……」と。
そういうことも考えられなくはない。

どうであるにせよ、毎日新聞の記事になっているくらいだから、ふつうの不登校とは、
内容が異なると考えてよい。

何があったのか?
何が起きているのか?
今、ほんとうに興味をそそられる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親の介護】

+++++++++++++++++++++++

白い薄日の下を、鉛色の雲が、気ぜわしく流れる。
庭の木々が、冬の冷気にさらされ、ときおりザザーッと、音をたてる。
見ると、落ち葉が雨に地面にペッタリと張りついている。
昨夜の雨は、かなり激しかったようだ。
青木の下に無造作に置いてある鉢が、なみなみと水を蓄えていた。

+++++++++++++++++++++++

●介護

老人の事故死が、けっこうあるという。
1週間ほど前、そんな記事が新聞に載っていた。
ベッドの手すりの間に、首や体をはさまれて死ぬ人もいるという。
私はその記事を読んで、即座に母のことを思い出した。
私も「あわや!」というような事故を、3度経験している。

現在、家庭で老人を介護している人も多いと思うので、そのときの
様子を書き止めておきたい。

(1)母が私の家に来たとき、私は母の部屋に、塩化ビニール製の
パイプを、20〜30本ほど、取りつけた。
母は、何かにつかまれば、まだ歩ける状態だった。
ベッドからポータブルトイレへ。
ベッドからソファへ、と。
歩行訓練用のパイプも取りつけた。
塩化ビニールのパイプは、芯は鉄製だが、外は塩化ビニール
でおおわれている。
接着剤で、自由自在に、自分の好きなように工作できる。
が、ある夜のこと。

たまたま家にいた長男が、母の部屋の前を通ると、「助けてくれ」
という声を聞いた。
長男が戸をあけてみると、母は、ベッドとポータブルトイレの間の
パイプに首をはさんで、ほぼ逆さまになっていたという。
長男が見つけたからよかったようなもの。
もしあと1〜2時間、発見が遅れていたら、母は、そのとき
死んでいたかもしれない。

(2)2度目も同じような状況だった。
母は、パイプにつかまれば、何とか立つことができたが、
ペタリと床に座り込んでしまうと、自分では立ち上がることが
できなかった。
やはりある夜のこと。
今度は私が母の部屋の前を通り過ぎると、「起こしてくれ」という
声が聞こえてきた。
いつだったかは忘れたが、寒い夜のことだった。
もしあのときも、朝までそれを知らないでいたら、母は死んで
いたかもしれない。

で、(1)のときもそうだったが、そういう緊急時のため、
無線で作動するスイッチを、首にかけていたのだが、そういうとき
ほど、母は、それがあることを忘れてしまっていた。
一方、たいした用もないときほど、そのスイッチを押したりした。

(3)3度目は、ワイフが発見した。
母は、昼間は静かにベッドで横になっていることが多かったが、
夜になるとあちこちを歩き回った。
部屋の隅に大きなダンボール箱が置いてあった。
母の衣類がそこに入っていた。
母は、その中の衣類を取ろうとしたのだろう。
ワイフが見たとき、母は、頭を下にして、ダンボール箱の中に
さかさまになっていた。

こうした事故が重なると、介護をするほうも、こわくなる。
そのつど、あれこれと配置を変えたり、安全策を講じたりした。
が、母のつぎの事故が、予想できなくなった。

(1)夜中に動き回ることが多い。
(2)緊急連絡用のベルは、あまり役に立たない。
(3)行動が予測不可能。

●家庭での介護は無理

ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談すると、「そうなったら、
添い寝しかありませんね」と言われた。
しかし実際には、添い寝は不可能だった。
それには、こんな事情がある。

どういうわけか、母と、犬のハナの相性がたいへん悪かった。
母がカーテンを開けるたびに、庭先からワンワンと大声で吠えた。
が、母は母で、まだ世も開けやらぬ早朝から動き出す。
これでは近所迷惑、ということで、私たちは母の部屋の電気は、
一日中、つけっぱなしにしておくことにした。
そうすれば、早朝にカーテンを開けることはないと思った。
この方法は、うまくいった。
やがて母は、カーテンを開けなくなった。

そんな部屋で添い寝はできない。
かといって、そのときすでに、パイプの助けなしでは、母は
自分では用を足すこともできなくなっていた。

で、私たちの出した結論は、こうだった。
「家庭での介護は、無理」と。

便の始末と食事の世話まではできるが、入浴となると、かなり
たいへん。
もっとも入浴については、ディサービスを利用して、センターで
してもらっていたので、私たちは何もしなかった。
今では、車椅子に座ったまま、入浴できる。
ほとんどのセンターは、そんな設備を整えている。

母は6か月間、私の家にいたあと、特別養護老人ホームへ入居した。
一年中、冷暖房完備。
まさに至れり尽くせりの環境だった。
そういう環境を知って、それまでの私の家の介護設備が、(設備と
言えるものかどうかは知らないが)、いかに貧弱なものであるかを、
思い知らされた。

たとえばやがて母は、嚥下(えんげ)障害を起こすようになった。
食べたものが逆流して、喉につまったり、食べたものが肺のほうに
入ったりした。
食べたものが肺のほうに入れば、肺炎になる。
それで死ぬ老人も多いと聞く。

もしあのまま私が家で介護をしていたら、母は、そのあと、数か月を
待たずして死んでいたかもしれない。
センターでの介護を見ながら、何度も、私はそれを思い知らされた。
つまり、老人の介護は、プロに任せるのが、いちばんよい。

●生かされているだけ?

が、ここで大きな疑問をもつようになった。
「母にとっては、どちらが幸福なのか」と。

母の立場に、自分を置いてみると、それがわかる。

私なら、たとえ事故で死ぬことになろうとも、自分の家で死にたい。
あるいは家族のいる家で死にたい。
センターはここにも書いたように、至れり尽くせりの環境だが、
しかしそこで長生きすることが、はたして母には幸福なことか、と。

ワイフはああいう性格だから、「私もこういう環境の中で
老後を送れたら、いいわあ」と、そのつど言った。
しかし私はそれには、同意しなかった。

「生きる」というよりは、「生かされているだけ」。
私にはそんな感じがしてならなかった。
つまり「生きる」ということは、もっと別のことだと、私は考えた。
仮に私が母の立場だったら、こう言ったにちがいない。
「もういいから、私を殺してくれ」と。

つまり事故死であるにせよ、そういう状態になったら、その前に、
死んだも同然。
N市に住む学生時代の友人は、電話で私にこう言った。
「あのなあ、林君、自分で飯が食えなくなったら、人間はおしまいだよ。
そうなったら、オレはさっさと死ぬよ」と。

しかし生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたくても生きられない人は、ゴマンといる。
が、死にたくても死ねない人も、これまたゴマンといる。
なかなかうまくいかないのが、世の常、人の常。

センターの母は、孤独だったと思う。
いつしか私たちの、見舞いも、週2、3回から、週に1回程度に
なっていた。
あるいはそれ以下になったときもあった。
が、母のことはいつも気がかりだった。
日帰りの旅行をするときも、その前日には電話を入れ、容態を聞かねば
ならなかった。
仕事をしていても、いつなんどき、携帯電話が鳴るか、それが気になった。
結局、約2年間、母はこの浜松市にいたが、私たちが一泊の旅行をしたのは、
一度だけだった。
三男の大学の卒業式に、仙台市まで行ったのが、そのときだった。

●天命

が、私の母などは、まだ楽なほうだった。
病気らしい病気をもっていなかった。
腹に子どもの握りこぶしくらいの、動脈瘤があったが、老人なら、みな、
同じような動脈瘤をもっているという。

中には、暴力を振るったり、大声で家人を罵倒したりする老人もいるという。
認知症が加われば、さらに介護がむずかしくなる。
脳梗塞を起こしても。介護は、むずかしくなる。
で、私の結論は、こうだ。
「素人には、末期の老人介護は、無理というより、不可能」と。

もちろん中には、「老人だから、事故で死んでもしかたない」と考える
人もいるかもしれない。
私も他人の家族のことなら、そう考えるだろう。
しかし実際、それが自分の肉親となると、そうはいかない。
たとえ事故でも、後味の悪さが、残る。
またいくら母が安楽死を望んだとしても、私はぜったいに、それには
応じなかっただろう。

「いつかは死ぬだろう」とは覚悟していた。
「いつまでもこんな状態がつづくのもいやだ」と思ったことはある。
「早く母の介護から解放されたい」と願ったこともある。
しかしそれはあくまでも心の一部。
毎日、そう思ったり、願ったりしていたわけではない。

が、正直に告白するが、「長生きしてほしい」とは、あまり思わなかった。
それは私のためというよりは、母のためだった。
先ほども書いたように、そんなふうにただ生かされているだけなら、
私ならそれに耐えられなかっただろう。
ひとりポツンとテーブルの前に座っている母を見ながら、
「かわいそう」という思いが、日増しに強くなっていった。
「長生きしたところで、つらい思いをするのは、母」と。

そういう母だったが、08年の2月に脳梗塞を起こすまでは、
頭のほうはかなりしっかりしていた。
冗談も通じたし、昔の話も、よくした。
しかし一度、昏睡状態になり、救急車で大病院へ運ばれてからは、
それ以後、寝たきりになってしまった。

そうそう、その寝たきりについても、素人の介護は無理。
私の知人は、寝たきりの親を介護していたが、床ずれが悪化し、
その部分が腐ってしまったという。
そのため、ひどい悪臭が近所の家に届くほどになったという。

床ずれを防ぐためには、それなりに訓練を受けた看護士や介護士の
助けが必要である。

結局、その知人の親は、それからほどなくして、死んでしまったという。

●事故死

そんなわけで、私は、「夜、寝ている間に、父(母)は死にました」
という話を聞くたびに、ひょっとしたら事故で死んだのではないかと
思うようになった。

もちろん本当に、寝ている間に死んでいく人も多いだろう。
また事故で死んだからといって、その家の人たちを責めているのではない。
そういう事故も含めて、天命は天命。
寿命は寿命。
こればかりは、家族でもどうしようもない。
こと介護について言えば、一生懸命するとか、しないとか、
そういう問題ではない。

淡々とする。
やるべきことはやりながら、いつもそれでよしとする。
「孝行」という言葉で、自分を縛ると、かえって負担感がますだけ。

たとえば最初のころは、私たちも、母をセンターから連れ出し、
近くの公園や、山荘に連れていったりした。
しかし母は、そういったことを楽しむということは、もうなかった。
介護というのは、そういうもの。

……ということは、いつか私たち自身も、いつか介護される立場になる。
これには例外はない。
で、私は母の介護をしながら、いろいろと勉強をした。
そのひとつが、これ。

生きるのも、私ひとりなら、死ぬのも、私ひとり、ということ。
介護はそれ自体、家族に大きな負担をかける。
それを考えるなら、家族に過大な期待をもつのは、酷というもの。
センターへ入れるだけも、御の字。
仮に一度も見舞いに来なくても、私はだれもうらまないし、それを
悲しいことだとも思わない。
私のおかげで息子たちが安心して旅行へも行けないというのであれば、
反対に、念書を書き残してもよい。

「お前たちがいない間に、ぼくが死んでも、気にしないように」と。

そうそう、それから私が死んだら、センターから直接火葬場へ死体を
運んでくれればよい。
そのあとのことは、息子たちに任せる。
遺骨に私の魂など宿るはずはない。
またそんなものを、おおげさに大切にしなくてもよい。

私の魂は、今、こうして書いている文章の中にある。
もしできればいつか、年をとって、今の私と同じ年代になったら、
一文でもよいから、私が書き残したものを読んでほしい。
それが私にとって、何よりもすばらしい供養になる。

……話が脱線したが、介護といっても、自然体で臨めばよい。
そのときどきの自分の気持ちに、すなおに従ってすればよい。

最後に、私の母は、元気なころは、いつもこう言っていた。
「私が死んだら、葬式だけは、きちんと出してほしい」と。
そしてあちこちの葬式を見てきては、「あんなみじめな葬式はなかった」と、
よく批判したりした。

しかしそんな母だったが、この浜松市へ来てからは、まったくの別人に
なった。
私の家に来たとたん、すべてを受け入れ、すべてを許していた。
私たちのやり方に、一言すら、不平、不満を述べることはなかった。
「優等生」という言い方には語弊があるかもしれないが、優等生だった。
まったく手のかからない優等生だった。

だからここへ来てからの母なら、こう思っていたにちがいない。
「葬式? そんなもの、どうでもいい」と。

私たちは母の葬儀を内々で、質素に、それですませた。
私の親類とワイフの兄弟以外、だれにも知らせなかった。
全部で20〜30人前後の、静かな葬儀だった。
若いころの母なら、「あんなみじめな葬儀はなかった」と、
それを批判しただろうが……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●過緊張

++++++++++++++++++

目覚まし時計が鳴る前に目を覚ますような
人は、過緊張の状態にあるという。
「過緊張」という言葉は、今日、はじめて
知った。
それを知って、私はかなり、ショックを
受けた。
私はむしろ、それを自慢にしていた。
「ぼくには目覚まし時計は、必要ない」と。

一方、ワイフはどうかというと、これまた
のんきな性格で、いつも目覚まし時計が
鳴ってから、目を覚ます。
(ときどき寝過ごしてしまうこともある。)

過緊張は、神経症、不眠症などの不適応障害の
原因となりやすいという(某・ニュース・サイト)。
つまり悲しむべきことであって、自慢にするよう
なことではない、と。

子どもの世界には、過保護、過干渉、過関心という
のはある。
しかしそれにしても、過緊張とは……?

ほかに過心配、過不安、過依存、過嫉妬などなど。
いろいろ考えられる。
(しかしどういうとき、「過剰〜〜」といい、どういうとき
「過〜〜」というのか? 過保護とはいうが、過剰保護
とはいわない。過剰行動とはいうが、過行動とはいわない。)

要するに、人間というのは、のんびりと生きたほうが
よいということらしい。
万事、適当。
「まっ、いいじゃないか」という(いいかげんさ)が、
心に風を通す。

しかしこれは子育ての大鉄則でもある。
いつだったか、私は『まじめ5割、いいかげんさ5割』
という子育て格言を考えたことがある。

たとえば子どもを叱るときも、最後の最後まで
追いつめてはいけない。
あるところまできたら、さっと手を引く。
ものを教えるときも、そうだ。
子どもがそれを望んでいないのなら、適当なところで、
適当にやってすます。
こういうとき細かいことを言い過ぎると、子どもは
やる気そのものをなくしてしまう。

で、私のケース。

私は講演するときも、時間通り、ぴったりで
終わるのを得意としている。
講演をしながらも、別の脳みそで、時間を
計りながら、話す。
これは私の特技のようなもの。

しかしどうやら、それもまずいということらしい。
では、どうすればよいのか。
「過緊張」という言葉は、今日、はじめて知った。
つまりこの言葉をよく読むと、程度の問題という
ことがわかる。

「緊張するのは悪くない。しかしそれも度を超すと
よくない」と。

たとえば目覚ましをかけても、その目覚ましが
気になって熟睡できないとか、など。
そうなればそれを過緊張という。

ついでながら言うと、アルツハイマー病などになると、
時間の感覚がわからなくなるという。
ある著名な大学教授だが、講演などを予定よりも
はるかに早く終わってしまったり、
反対に時間を無視して話したりしていた。
それがその病気の初期症状だったということが、
あとになってわかったという。
そういうこともある。

だから目覚ましが鳴る前に目が覚めるといっても、
だからといって、それが悪いことだというふうには、
考えないほうがよい。

適度なストレスは、生活のスパイスとも言われている。
そのストレスがほどよい緊張感をもたらす。
それと同じように考えてよいのではないか。


●消えゆく自転車店

+++++++++++++++++++

街から1軒、また1軒と自転車店が消えていく。
かろうじて開いている店にしても、元気がない。
冬場になると、どの店も戸を閉めて、北風を
しのいでいる。

もしあのまま私が自転車屋の店主として
残っていたら……。
今ごろは、なすすべも知らず、暗い店の
中で、悶々としていることだろう。

それを思うと、とても人ごとに思えない。

+++++++++++++++++++

私の実家も自転車店だったから、そのさみしさが、
痛いほど身にしみる。
「自転車ブームだから……」とはいうものの、
商品数、サービス面において、大型店には
かなわない。

昔、祖父が時計店から帰ってきて、私にこう言った。
「浩司、うちに並べてある自転車をすべて合わせても、
時計屋の陳列に並んでいる一皿分の時計にもならない」と。
自転車というのは、陳列するにも場所をとる。
小さな店だと、20〜30台を並べるのがやっと。
祖父は、それを言った。

また少し前までは、技術面で、大型店といえども、
専門店にはかなわないと言われていた。
が、それも今は昔。

ここ3〜4台は、私も大型店で自転車を購入している。
商品数はもちろんのこと、サービス面、技術面でも、
個人の自転車店のそれを、はるかに超えている。
パンクの修理にしても、どこで買った自転車であっても、
気持ちよくしてくれる。
(このH市には、『他店で買った自転車については、
パンクの修理をしません』という張り紙を出して
いる自転車店もあるぞ!)

値段はどうか?

先日駅前に、ビッグXXXという、電化製品の大型店が
オープンした。
行ってみると、中で自転車まで売っていた。
安い自転車もあったが、電動アシスト車など、
中には10〜30万円もする自転車も並んでいた。
それを見たとき、「ああ、もうだめだ」と思った。
電動アシスト車にしても、街の自転車店で買うよりも、
1〜2割は安い。
「高級自転車は専門店で」という常識も崩れた。

ところで私が子どものころは、商売といっても、
人と人のつながりの中で、成り立っていた。
ものを売り買いしながらも、そこには(つながり)が
あった。
またその(つながり)を無視しては、商売は、
成り立たなかった。
たとえば「あの人は、いつもうちの自転車を買って
くれるから、あの人の店で、テレビを買ってやろう」と。

多少、値段がほかよりも高くても、その人の店で、
テレビを買った。

が、今は、ちがう。
かえってこうした(つながり)を、わずらわしいと
思う人がふえてきた。
実は私もその1人ということになるが、なぜか?

それだけ人との(つながり)が、煩雑(はんざつ)に
なってきたということ。
いちいち(つながり)を考えていたら、息苦しく
なってしまう。
ビジネスはビジネスとして、ドライに割り切る。
その(わかりやすさ)が、大型店にはある。

とは言え、このさみしさは、いったいどこから来るのか。
言い換えると、私が子どものころ、祖父や父が
必死になって守ろうとしていたものは、何かということ。
まさかそういうものが、無駄だったとは、私には
とても書けない。

というのも、小売店というのは、基本的には、
問屋から物を買って、客にそれを売る。
それで成り立っている。
客の立場でいうなら、その物は、安ければ安いほどよい。

自転車店がほかの小売店とちがう点は、2つある。
ひとつは、自転車には定価がないということ。
昔から、オープン価格がふつうだった。
付属品によっても、値段が大きく変わる。
客によっては、ハンドルを換えたり、サドルを換えたりする。

さらに自転車店ごとに、特約店というのをもうけて、
わざと競争できないしくみを、守っていた。

もう一つは、汚れ仕事ということ。
自転車の一部をなおしただけで、手が油でベタベタになる。
それを嫌う人は、多い。
技術職とはいうものの、率直に言えば、たいした技術ではない。
今では自転車といっても、完成品のまま、問屋から運ばれてくる。

自転車店のあり方そのものが、大きく変わった。
その変化を乗り越えた店だけが、生き残る。
そうでない店は、街から消える。
しかし現実には、生き残ることは、不可能。
仮に生き残ったとしても、さらに大きな大型店が、
その向こうで待ち構えている。

こうして街から酒屋が消え、米屋が消えた。
洋服屋も消え、たばこ屋も消えた。
文房具屋も消え、肉屋も消えた。
時計屋も消え、菓子屋も消えた。
しかしそれは同時に街の文化が消えることを意味する。

いいのか?
これでいいのか?
あるいはそれに替わる、新しい文化が、今、どこかで
生まれつつあるのか。
そしてその文化とは、いったい、どういうものなのか。
今の私には、それがわからない。
わからないが、冒頭の話に戻る。

もしあのまま私が自転車屋の店主として
残っていたら……。
今ごろは、なすすべも知らず、暗い店の
中で、悶々としていることだろう。

それを思うと、とても他人ごとには思えない。
がんばれ、自転車店!
負けるな、自転車店!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●気安く生きる

++++++++++++++++++

気安く生きるためには、「無」になって、
すべてを「許して、忘れてしまう」。
へたに欲得がからむから、
あるいは欲得をからめるから、心が迷う。
悩む。
苦しむ。

そこに人間関係がからんでくるなら、
こう思えばよい。
「どうせ相手は、サル」と。
言葉はきついが、だからといって、
相手を「下に見ろ」とか、そういうことを
言っているのではない。

自分もその仲間という意味も含めて、
そう思えばよい。
「あなたがサルなら、私もサル。
どうせこの世は、サルとサルのからみあい」と。

++++++++++++++++++

「無」になる。
そこに生きる真髄が隠されている。
それは私にもわかるが、しかしそれが難しい。

あえて言うなら、寝起きの瞬間。
その瞬間まら、私はすなおに「無」を感ずる。
穏やかで、安らいだ心。
静かで、雑念のない心。

が、やがて心の中がざわつき始め、
そのときから「私」が始まる。

仕事のこと。
家族のこと。
健康のこと。
社会のこと。
世界のこと。

そこに欲得がからんでくると、心は一気に
騒々しくなる。
人間関係がからんでくると、さらに
騒々しくなる。

床から起きあがるころには、頭の中は、
騒音だらけ。
しかしどうすれば、目を覚ましている状態で、
「無」の境地になれるのか。
またその方法は、あるのか。

そこでひとつずつ、頭の中を整理する。
原稿として書きたいテーマもそのとき、
決まる。
が、どうしようもない問題も、ときどき
出てくる。
そういうときは、「許して忘れる」。
「どうせ相手は、サル」と。

そう思うことで、相手を忘れる。
本気で相手にしてはいけない。
相手にする必要もない。

相手にしたとたん、あなた自身も、
そのサルの仲間。

四法印にも『諸行無常』という言葉が
ある。
「万物は常に変化して、少しの間も
とどまらない」(広辞苑)ということ。
世の中はどんどんと変わっていくし、
変わっていくことを、恐れてはいけない。

人間関係もまた、然り。
昨日の友は、今日の他人。
今日の他人は、明日の友。
「こうでなければならない」と自分を
縛れば縛るほど、窮屈になるだけ。

もう少し宇宙的な見方をすれば、
私たちは星がまばたきする、その瞬間に
生きているだけ。
「損をした」と心をわずらわせている
暇があったら、前に向って、楽しく
朗らかに生きた方が得。

もしあなたがそこにいて、この文章を
読んでいるなら、こう思ってほしい。

「ここにいるということを、喜ぼう」
「目が見えることを、喜ぼう」
「文章が理解できることを、喜ぼう」と。

さらにできれば、「音が聞こえることを、
喜ぼう」
「冷たい風を感ずることを、喜ぼう」
「足や手が動くことを、喜ぼう」と。

喜んで、喜んで、喜びまくる。
が、おもしろいもので、
その先に、ひょっとしたら、「無」がある。
つまり「無」というのは、
自分の「命」を喜ぶこと。
その「命」とくらべたら、ほかのすべては、
取るに足らないこと。

その「無」を実感したとき、再び、
穏やかで、安らいだ心にもどる。
静かで、雑念のない心にもどる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争・韓国12月危機説】

+++++++++++++++++

9月危機をかろうじて乗り切った韓国。
しかしそれで危機は去ったわけではない。

が、このところ韓国系新聞を読むと、
調子のよい話ばかりがつづく。
「10月の経常収支が史上最大の黒字」(東亜N報)
とか何とか。
しかし内情は、かなりちがうようだ。
内情は、さらに悪化している。

+++++++++++++++++

先ごろ、新経済閣僚会議のメンバーが発表された。
世界から、20か国が集まる。
しかしその中に韓国の名前はなかった。
が、もしこれが昨年のことなら、韓国はそれに猛烈に
反発したことだろう。
「どうして世界第11位の貿易国を、仲間に
入れないのか!」と。
しかし今は、それどころではない。

月刊「FACTA」(ヤフー・ニュース版)には、
つぎのようにある(12月号)。

++++++++++以下、FACTAより、抜粋++++++++++++

……ウォン危機の底には、04年以来4年連続で赤字となり、資本割れが危惧されている
中央銀行(韓国銀行)の苦境がある。03〜05年にウォン高を抑えようと外為市場に介
入、韓国銀行が通貨安定証券を発行して介入資金をまかない、その返済が年6兆〜7兆ウ
ォンに達して重圧となっているのだ。2120億ドルの外貨準備があると政府がいくら強
調しても、ゴールドマン・サックスなどの先行き懸念が解けない。

++++++++++以上、FACTAより、抜粋++++++++++++

ここに出てくる「通貨安定証券」というのは、
韓国銀行が発行する証券、つまり「外国への借金」をいう。
日本でいえば、日銀が外国に借金をしているようなもの。
こういうことは日本では、考えられない。

その返済額が、年6〜7兆ウォンもあるという(同)。
現在(11・28)、1ドル=0・001ウォンだから、
これで計算すると、6〜7兆ウォンは、60〜70億ドル
ということになる。

日本の借金もよく話題になるが、日本は外国に対しては、
借金をしていない。
国債にしても、外国人の持ち率は、5%前後と言われている。
つまりほとんどが、いわば、身内の借金。
しかも日本政府は、1000兆円近い借金をしながら、
その一方で、1000兆円近い国有財産を保有している。
加えて、日本人がもつ個人資産も、1000兆円以上ある。

日本にすれば、「たったの60〜70億ドル」ということになるが、
日本と韓国では、経済規模そのものがちがう。

同じ月刊「FACTA」(ヤフー・ニュース版)は、つぎのように
書いている。

++++++++++以下、FACTAより、抜粋++++++++++++

暴落した韓国の通貨ウォンが、年末にかけて再び急落するという「12月危機説」が広が
っている。10月28日に1ドル=1450ウォンと1年前に比べ40%以上も下げた翌
日、中央銀行の韓国銀行とFRB(米連邦準備理事会)が最大300億ドルの通貨スワッ
プ協定を結び、ようやく下げ止まった。しかし韓国の企業が保有するデリバティブ(金融
派生商品)という時限爆弾があって、危機が再燃すれば国家が破産状態となる「アイスラ
ンドのアジア版」との観測が出ている……。

++++++++++以上、FACTAより、抜粋++++++++++++

97年の通貨危機のときは、日本は、当初アメリカの反対を押し切って、
総額500億ドルを用意し、(頼まれもしないうちから)、韓国の救済に走った。
IMFにも、まだ余力があった。

が、こうした(恩義)は、韓国には通用しない。
しないことは、その後の、金大中、ノ・ムヒョン政権の対日政策を
みればわかる。
現在のイ・ミョンバク政権も似たようなもの。

そこで韓国は、日本と中国を巻き込んで、スワップ協定を拡大しようと
している。
その財務相会議が、12月14日に開かれるという(同)。

ところで「スワップ協定」とは何か。
簡単に言えば、昔の「講」に似た、資金相互融通制度をいう。
為替相場が変動しても、元の為替相場で返済すればよいという
ところに、大きなメリットがある。
「現代用語の基礎知識」には、つぎのようにある。

『正式には相互通貨取決め(reciprocal currency arrangement)といい、中央銀行間で、
自国通貨を相互に預け合うことをいう。あらかじめ枠だけを決めておき、必要なときには
協定を発動して為替市場の介入などに必要な外貨を取得する。相互の借入れは短期間で、
当初用いたのと同じ為替レートで返済される。アメリカの連邦準備制度は、ドル防衛資金
調達のため世界の主要中央銀行とスワップ協定を締結、交換性停止まで大いに利用した。
近年、アジア地域で域内金融協力の一環でこの種の取決めを拡大する動きが進行中』と。

が、そのスワップ協定に、先ごろ、韓国はとうとう手をつけ始めた。
さらに今日(28日)、「韓国の建設・エンジニアリング大手C&
グループの中核子会社2社は27日、債権者に債務再編を
申し入れると明らかにした」(ヤフー・ニュース)というニュースも
飛び込んできた。

「いよいよ……」という感じだが、この動きは加速することは
あっても、減速することはない。
あがけばあがくほど、その後の谷底は深くなる。
が、これだけは忘れてはいけない。

バブル経済崩壊後、日本がその後遺症に苦しんでいたころ、
韓国は、「これで日本はおしまい。韓国の時代がやってきた」と、
小おどりして喜んでいた。
毎朝、経済閣僚会議を開いて(毎朝だぞ!)、いかにすれば
日本を太平洋の向こうに叩き落とせるかを、それを画策していた。

民間レベルで日韓友好のために努力している人もいるにはいるが、
こと国際経済という立場でみるかぎり、韓国は、日本にとって、
「最悪の反日国家」(三橋貴明氏)であることには、ちがいない。

今度何かあっても、韓国をけっして安易に救済してはいけない。
日本よ、日本人よ、けっしてあの「97年の愚」を繰り返して
いけない。

この戦争に敗れたら、日本に未来はない。
竹島は独島になり、日本海は東海になる。
ついでに対馬すら、韓国領になるかもしれない。
朝鮮半島全体が、核兵器を備えた強大な軍事国家になることだって、
考えられる。

長期的な極東アジア情勢を見据えながら、
私たち日本人は韓国がどうあるべきかを考えなければならない。

負けるな、日本!
がんばれ、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●資本主義

+++++++++++++++++++

38度線のすぐ北側に、開城工業団地
と呼ばれる工業団地がある。
韓国資本で建設された工業団地で、現在
数万人程度の北朝鮮の労働者が、そこで
働いている。

賃金は、日本円に換算して、月額1〜2
万円程度という。

同じような労働環境なのだろうが、この日本では
その約15〜20倍程度の賃金が支払われている。

単純に考えれば、不公平きわまりない……
ということになる。
(何も北朝鮮の労働者のために言っている
のではない。誤解のないように!)

しかしこれが資本主義の論理である。
日本では、1〜2万円の給料では、とても
生活できない。
最低でも、20万円前後は必要である。
生活のレベルそのものが、ちがう。
が、逆の立場に立たされてみると、その
不公平感が怒りに変わるときもある。

その(怒り)を、アメリカへ行ったとき、
私は、アメリカの家を見て、感じた。

広さ、大きさはもとより、豪華さがちがった。
今にして思うと、それが今回のサブプライム・
ローン問題へとつながっていったわけだが、
ごくふつうの大卒の銀行マンでも、映画『ホーム・
アローン』に出てくるような大邸宅に住んでいたり
する。

ふつうの邸宅ではない。
玄関そのものが、ギャラリーのようになっている。
広さは、20畳前後はある。
地下にピンポンなどを楽しむ運動部屋、それに
客室などを備えた、豪華な家である。

私は近くにいたワイフに、こう言った。
「こんなお金があるなら、日本が買い支えているドルを、
少しは使わせてくれればいい」と。

日本が貯(た)めに貯めこんだドル建て外貨は、
言うなれば、塩漬けにされたアメリカ国債のようなもの。
当時(02年)、そのうちのたった5%を使っただけで、
つまり他の通貨に交換しただけで、アメリカ経済は
崩壊すると言われていた。
(結果的に見ると、そのころ崩壊していたほが、
こうまで傷口を大きくしないですんだのかも
しれない……。)

逆に言うと、アメリカ人たちは、日本人と
同じ労働環境の中で、少なくとも4、5倍程度の
給料を手にしていることになる。
その分だけ、よい生活をしていることになる。
(「4、5倍というのは、あくまでも家を見た
感じでの話だが……。)

この三者、つまり北朝鮮と日本、日本とアメリカを
並べてみると、資本主義の論理がよくわかる。
簡単に言えば、強い通貨をもっている国は、強い。
そうでない国は、そうでない。
仮に、今、1ドルが10円程度であったら、
どうだろうか。
日本は世界中から富を買いあさり、アメリカ人たち
が住んでいたような家を、日本中に建てることが
できる。

働く必要はない。
すべて外国への借金ですますことができる。
お金がなくなれば、印刷機を回せばよい。
世界中が、喜んでそれを貯めこんでくれる。

何といっても、1ドルが10円!
ガソリンだって、税金分をのぞけば、1リッター
あたり、現在の10分の1、つまり、
6円前後で買うことができる。
超大型車に乗っても、ガソリン代を気にする
必要はない。

一方、北朝鮮の札は、紙くず同然と言われている。
国際社会では、まったく通用しない。
為替レートそのものが、存在しない。
だから冒頭に書いたように、月額1〜2万円程度の
給料ということになる。
が、この額にしても、北朝鮮では、破格の給料という。
平均的労働者の1か月の給料は、日本円に換算して、
1000円前後、あるいはそれ以下と言われている。

そこで強い通貨をもった国は、その通貨の価値を
維持しようとする。
強ければ強いほど、世界がそれを貯めこんでくれる。
が、この(強さ)を失ったとき、その国の経済は、崩壊する。
現在のアメリカが、その国ということになる。
日本もEUも、その国ということになる。

一方、弱い通貨をもった国は、相対的に(損)が、
大きくなる。

が、この問題は、ここで終わらない。
そのままその国の政情不安へとつながる。
タイの国際空港がデモ隊に占拠された。
インドでは連続爆破事件が起きた。
この1〜2日だけを見ても、こんなニュースが、
縦つづけに、つづいている(08・11・27)。

貧しい国の中でも、さらに隅へと追いやられた
人たちが、そのエネルギーを爆発させる。
この先しばらく、つまり現在の経済的混乱が
落ち着くまで、こうした事件は、つぎつぎと
起こるだろう。

この極東アジアも、おかしい(?)。
とくに北朝鮮の動きが、おかしい(?)。

資本主義の論理は、たしかに矛盾だらけ。
それはわかるが、しかし今、ここでそれを問題にしても
意味はない。
とにかくアメリカには、再起してもらわねばならない。
日本も、がんばらなくてはいけない。
EUにしても、そうだ。

そうでないと、世界は、ほんとうにメチャメチャに
なってしまう。

(参考資料・以下、産経ニュースより)

2000年8月、北朝鮮の金xx総書記と韓国の現代グループの故TM会長が経済特別区
「開城工業団地」開発で合意、03年3月に着工された。第一段階として、韓国土地公社
と現代峨山が、総額2200億ウォン(約270億円)を投じ、07年までに100万坪
(330万平方メートル)を工業用地として開発、繊維、衣類、電気、電子など韓国企業
約250社を誘致する予定。12年には800万坪の工業団地と周辺の新都市など総計2
000万坪を開発、2000社、70万人の大規模団地を造る。(産経ニュース・06年6
月版より)


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   19日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ショック!

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昨日、高校2年の数学の問題が、できなかった。
数2Aの問題である。

簡単な確率の問題だった。
ショックだった。
今日、書店で、もう一度数学の参考書を買い求
め、勉強しなおすことにした。

生徒には、「ごめんね」とだけ謝ったが、実に
情けない話。

実のところ、私は高校生には英語は教えて
きたが、数学は、ここ25年以上、教えていない。
しかし……。

++++++++++++++++++++

【問】
コインを投げて、4回、表が出たら、そこでコインを投げるのをやめる。
6回目にコインを投げるのをやめる確率は、何分の1か。

最初は、「何だ、こんな簡単な問題」と内心では思った。
5回までに3回表が出る確率を求め、それに2分の1をかければよい。
ところが、ここで頭の中が混乱してしまった。

1回ずつコインを投げなくても、5個のコインを同時に投げて、3個が表になる確率
を求めればよいのでは、と考えてしまった。
そこで計算してみると、……答が合わない!

1回ずつコインを5回投げるのと、5個のコインを同時に投げるのとでは、
どこがどうちがうのか?
考えているうちに頭の中がモヤモヤしてきた。
わからなくなってしまった。

私の脳みそについて、かなり老化が進んでいるのがわかる。
こんな程度の問題なら、公式を使わなくても、常識としてできるはず。
悔しさだけが残った。

見ると、その生徒(女子)も、目に涙を浮かべているではないか。
私が「ごめんね」と言うと、その生徒も、「私も悔しい」と。

で、今日から数学の勉強のしなおし。
空き時間に近くの書店で参考書を1冊、買ってくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

++++++++++++++++++++++++++++

●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供
を虐待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に
抱えていたことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護
者の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況――
について選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(1
5%)だった。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)
あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要
因にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、
ヤフー・NEWS・04年12月8日)

+++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●またまた血液型問題

+++++++++++++++++

いいかげんにしろ!

昨夜テレビを見ていたら、またまた血液型に
よる性格判断が話題になっていた。

4年前に書いた原稿があった。
それをそのまま!

+++++++++++++++++

●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対
し、「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明
されていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険が
ある」と指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人
道的に問題がある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方
を助長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年
への配慮を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

+++++++++++++++++++++++++++

 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気
があることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」という
ことは、それ自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはい
けない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながら
も、T社の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的
な貧しさではなく、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そ
してその一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)
というのも、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年
以上、寿司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、
一皿105円の回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆ
とり)というものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけ
ないということ。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもら
うたびに、何かの(盗み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料
入れや傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そうい
う女性を、心の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは…
…。よくわからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++

 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強め
るよう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太っ
た女性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧
侶が、心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰
りかえしていて、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、
ヘビがいる」「あんたは、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャー
ギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なく
とも、大のテレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてし
まうことがある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていること
を、自ら、無意識のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例があ
る。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。
「どうして、そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻
いていた。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っ
ていたら、うしろから自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかって
しまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその
暗示が、無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自
分が、Aさん自身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだ
よ」と私が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。
彼女はいろいろな例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、
ものごとは控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、お
なかいっぱい、ピザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしてお
かなかった、私が悪かった」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それで
も、「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うま
くいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「そ
れを守らなければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことに
なる。あとは、「おかしなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったとい
うわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

++++++++++++++++++

おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++++

●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載
せた。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、
まったくのデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言と
いうのもあった。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこか
のあたまのおかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この
信仰をしたものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした
終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。
しかし、だ。一度だって、こうした予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った
人が、なぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさ
らなる疑問は、そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほと
んどはカルト)から離れた信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力
によって、終末を回避しました」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に
何かが起こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一
人の言葉)とのこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ
〜」ということになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなか
ったからといって、どうということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考える
のが正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の
7月」というのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、
あのノストラダムスの予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位の
お金を稼いだという。世の中をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利
益を、社会に還元すべきではないか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。
人々が不安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうし
たらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予
言になる。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分
を取り巻く運命論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之
介を、私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率
によって、決まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私た
ち自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。
そういう視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト
教系のカルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、
これからこのボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。
「そうだ。君が、ボールを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したこ
とがある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に
立って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の
砂粒の数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一
つにすぎない。地球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴ
ミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る
太陽の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されていると
しても、その神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや
一人ひとりの人間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上
の生物の中で、人間だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題
がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そ
のまた人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あ
なたの家の中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、
1000万人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺
されたユダヤ人の中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。
つまりそういうことを考えていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考
えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教に
せよ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従っ
てするものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということに
なる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチ
キと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるは
ずはない。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自
由なる、意思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自尊感情

+++++++++++++++++++++++++++++++++

『日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大
体満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、
日本は9.4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よ
いところがあると思いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3
年生の39.6%が否定的な回答をしていた』(以上、毎日新聞の記事より・08・11・
26)。

数字をもう一度、整理してみる。

「私は自分に大体満足している」と答えたのは、

アメリカ……53.5%
中国  ……24.3%
日本  …… 9.4%

「自分には、よいところがあると思いますか」という質問に対して、否定的な回答を
したのは、

都内の小学6年生……29.4%、
中学3年生   ……39.6%

++++++++++++++++++++++++++++++++

東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てない子どもの自尊感情を高める指導方
法について研究を始める方針を固めたという(毎日新聞※)。

しかしどうして今ごろ?、というのが、私の率直な感想。
つまりどうして今ごろ、「研究を始めるのか?」と。
こんなことは発達心理学を少しでも勉強してことがある人なら、みな、知っている。
つまり常識。
「自己の同一性」(アイデンティティ)という言葉を知らない人は、ない。
自尊感情にしても、やる気にしても、すべてこの自己の同一性で、決まる。

その自己の同一性について、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気
がついていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がつ
いていないときは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になる人さえいる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろ
うか。実際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自
己概念」という。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く
理想像とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を
確信することができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができ
る。そうでなければ、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではす
まない。心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両
親は、その地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになって
いた。ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。と
たん、つまり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて
不安定になった。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がう
まくかみあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、
そこで不適応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、
ささいなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、
進学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望し
ていたのだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければなら
ななかった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育
てられた。夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえし
た。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存
在だった。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、
進学指導の三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だっ
た。「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、
がんばっているつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数
日後、Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非
行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになってい
た。こうなると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業
中でも、先生に叱られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現
実の自分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、
どうでもよい。ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すば
らしいとは思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分
を否定するCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入って
いてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それは
たとえて言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなもの
ではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、
父親ですら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言
いかえると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければ
ならない自分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの
心をバラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがまま
に育てていくということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保
っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理を
しなくていい」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでな
ければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあ
わせなければならない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生き
がいを見つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢
や希望にそって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういう
ことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

この日本には、子どもたちに用意された道が、一本しかないということ。
すべての問題の根源はここにある。

一人の人間が、子どもからおとなになる過程において、子ども自身が選べる
道が、もっとたくさんあってもよいのではないか。

たとえばドイツやイタリアでは、中学生たちはたいてい午前中だけで授業を
終え、それぞれがみな、クラブに通っている。
その費用は、(チャイルド・マネー)として、国から支給されている(ドイツ)。

東京都教育委員会は、「脳科学の専門家と連携して」、その方法を探るという。
すごいことだと思うが、これは脳科学の問題ではない。
制度の問題である。

今の制度では、(ものを考えない、従順な子ども)のみが、受験競争を勝ち抜く
ことができる。
その異常さに、まずみなが先に気がついたらよい。

(注※)(以下、毎日新聞の記事より)東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持て
ない子どもの自尊感情を高める指導方法について研究を始める方針を固めた。日本の子ど
もは最近の学力テストや国際調査で自己肯定感が低いことが分かっている。いじめや不登
校など教育問題の根底にも子どもの自尊心が少ない点があるともみられ、向上策の開発に
着手する。

 都教委の計画では、都教職員研修センター(文京区)と大学が共同研究を進める。脳科
学などの専門家と連携し、子どもにどのような働きかけをすれば自尊感情が高まるかを探
る。さらに小学校1校を研究協力校に指定し、児童の意識調査を行い、指導方法を実証す
る。事業費として400万円を要求している。

 日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大
体満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、
日本は9.4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よ
いところがあると思いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3
年生の39.6%が否定的な回答をしていた。

 都教委の担当者は「子どもに自信が育つ核心の部分をできるだけ解明し、いろいろな手
立てで働きかけられるようにしていきたい」と話している(以上、毎日新聞の記事より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自尊感情 やる気)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「もます」

+++++++++++++++++

この世界には「もます」という言葉があるそうだ。
それぞれの間で告げ口を繰り返し、たがいの間の
もめごとを増幅させる。

知らなかった。

あとでワイフに聞くと、「女性特有の言葉じゃないかしら」
とのこと。

+++++++++++++++++

「あのAさんが、あなたのことを、こう言っていましたよ」とか何とか言って、
あなたに告げ口をする。
それを聞いて、あなたは怒る。
Aさんのことを、悪く思うようになる。

一方、そのAさんに対しては、逆の告げ口をする。
つまりこうしてたがいの(もめごと)を増幅する。

「もます」というのは、「もめごとを増す」という意味か?
ついでながら広辞苑で調べてみたが、「もます」という言葉は見当たらなかった。

フ〜〜ン。

で、私も最近、その(もます)を経験した。
もます人は、実に言葉巧みに、相手の心を誘導する。
何かの世間話をしながら、その間に、チョンチョンと、告げ口を混ぜる。
言われた方(=私)は、そのときはそのまま聞き流すが、しばらくすると、ムラムラと
怒りが湧いてくる。

「あのAが、そんなことを言っていたのか!」と。

しかしそれこそ、その人の術にはまったことになる。
で、そのことをある人(女性)に話したら、その人がこう教えてくれた。
「先生は、もまされたのね」と。

私「何ですか、もまされた、というのは?」
女「あら、『もます』という言葉を知らないのですか?」
私「知りません。はじめて聞きました」
女「先生は、きっと、いい世界だけで生きてきたのですね」
私「ハア〜〜〜?」と。

女性の職場などでは、この(もます)が、日常的に行き交(か)っているという。
そのため職場を追われた女性も、多いとか。

私も基本的には告げ口は嫌い。
生徒が何かのことで告げ口をしてきても、すかさず追い払うようにしている。
しかしその告げ口をうまく利用して、人間関係を破壊するのを楽しんでいる人もいる。
気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月25日

+++++++++++++++++++

昨日、ワイフと街までの約7・5キロを
いっしょに歩いた。
1時間30分ほど歩いた。
途中、Mという店で、私はかけソバ、ワイフは
かけうどんを食べた。
それぞれ、天ぷら、生卵をつけて、計450円。
1人、225円!
(225円で、昼食だぞ!)
最安記録を更新した。

+++++++++++++++++++

●K国の核兵器

朝、起きたとき、ワイフがこう聞いた。
「足、痛くない?」と。
軽い筋肉痛はあるにはあったが、痛いというほどではなかった。
「まあね」と答えると、「よかった」と。

こうしていつもの朝食が始まった。

私「K国が、12月から南北の連絡鉄道を閉鎖するそうだ」
ワ「どこまでいじけたら、気が済むのかしら?」
私「それにシリアの核関連施設で、K国が提供したと思われる放射性物質が
検出されたらしい」
ワ「ますます6か国協議がむずかしくなるわね」と。

「サンプルの採取は、合意済み」と主張する、アメリカ(ヒル代表)。
「そんな合意はまったくしていない」と主張する、K国。
そこで日米韓の3か国は、今度の6か国協議で、サンプル採取を文書化しようと
している。
しかしそんなことをすれば、シリアへの核開発協力がバレてしまう。
K国が、それに応ずるわけがない。

のんきな韓国政府は、こうしたK国側の動きに対して、「ただの脅し」とか、
「国内の緊張感を高めるため」とか説明している。
が、それはどうか?
一度振りあげた拳(こぶし)は、そう簡単には、おろせない。
K国がこのまま、暴走してしまう可能性は、じゅうぶんある。

ワ「いつ?」
私「金xxなら、今がチャンスと考えるだろうね」
ワ「金xxは、半身不随みたいよ」
私「取り巻きの軍部は、そう考えるだろうね。チャンスというより、今しかない、とね」
ワ「こわいわね」
私「こわいね」と。

極東アジアは、今、最高度に緊張している。
このまま崩壊するか、それとも戦争に打って出るか。
K国は自らの手で、自分の首を絞めながら、最後の選択に迫られている。


●赤黒い帯

飛行機の窓から見ると、はるか地平線の上空に、赤黒い帯が、ちょうど地球を
包むように見える。
今では当たり前の光景だが、この帯は、1970年代のはじめには、なかったはず。
が、1980年代になると、薄い帯となって、それが見えるようになった。
そのころ私も、その帯に気がついた。
そして今、さらに濃い帯が、インドから東南アジアにまたがり、さらに朝鮮半島
付近まで見られるようになったという(08・11・報道)。

地球温暖化の原因となっている帯である。
この帯(膜)が地球をすっぽりと包んでいる。

不気味というより、恐怖!
これは映画の世界での話ではない。
現実の話である。

国際線の飛行機に乗ったら、みなさんもあの黒い帯を、
自分の目で確かめてみてほしい。
そしてそれが5年単位、あるいは10単位で、太くなっていることに
気がついてほしい。
そのときあなたは、きっとこう思うはず。
「人間は、なんて、バカなことをしてしまったのだ!」と。

2100年までに地球の気温は、平均で、4〜5度上昇するという。
しかしここで誤解していけないことは、2100年に、その上昇
が止まるわけではないということ。
その後も、地球の気温は上昇しつづける。
その証拠にというか、仮に、今、全人類が化石燃料の使用をやめた
ところで、あの帯が消えるわけではない。
それはそのままそこに、ずっと残る。

地球温暖化もここまでくると、どうそれを止めるかではなく、
地球をどう癒(いや)すかという問題になってくる。
わかりやすく言えば、地球を取り囲む、あの帯をどうやって消したら
いいかということ。
人間の体にたとえるなら、病気の進行を止めるだけでは、足りない。
治療法を考える。

ひとつの方法として、核兵器のようなもので、成層圏に穴をあける
というのもあるそうだ(「第三の選択」)。
穴をあけて、大気圏にたまった熱を、宇宙へ逃がす。
しかしそれをすれば、帯は消えるかもしれないが、放射能で人類が
滅亡してしまう(同)。
言うまでもなくこの成層圏の中に、オゾン層がある。
そのオゾン層が太陽からの紫外線を受け止め、熱を発する。
だから対流圏では高度が高くなればなるほど気温は低くなるが、
成層圏では、反対に高くなる。

そこで一部の人間だけを宇宙に逃がし、そのあと、成層圏に穴をあける(?)。
そういう計画もあるということを、どこかで聞いたことがある。
もちろん根拠のない風説だが……。

映画なら、娯楽として楽しめるような話だが、ここにも書いたように現実の
こととなると、そうはいかない。
背中がひんやりとしてくる。


●11月26日

昨日は、原稿をほとんど書かなかった。
「書きたい」という気力そのものが、失せてしまった(?)。
何を考えても、中途半端。
脳みその表面を上すべりしてしまう。
「どうしたものか?」と思っていたら、そのうち、風邪の症状が出てきた。

「そうだったのか」と納得して、昨夜は風邪薬をのんで寝た。
今朝も、まだ本調子ではないが、とにかく、こうしてパソコンの前に座っている。

そういえば先日書店へ行ったら、「IMIDAS・2009」が、すでに並んでいた。
毎年買っている。
早いものだ。
今年も残すところ、あと1か月。

2008年を振り返ってみる。

*******以下、HP用原稿*********

【2008年〜2009年】

●2008年の10月、満61歳になりました。

満60歳を起点とするなら、この1年は、おまけの1年。
おまけの1年目。
これといったことを、何もできませんでしたが、何も変わらず、仕事ができたこと、
何も変わらず、生活ができたこと。
それに、心から感謝します。

ただ8月に兄が、そして10月に母が、つづいて他界しました。
そのときは「こんなものかなあ……」と思っていました。
 あっけないというか、ともに静かな最期でした。
 いまだにその実感がないというか、またそこに2人が生きているような
 気がしてなりません。
 
 これは、私の年齢と関係あるのかもしれません。
 「死」を身近に感ずるというよりは、生きている人も、死んだ人も、
 それほど大きな違いはないのではないかと、思うようになりました。

●2009年。

その2009年の抱負といっても、とくにありません。
現状を維持するだけで、精一杯。
健康も仕事も人間関係も……。
それができるだけでも、ありがたく思わなければなりません。
今は、そんな感じです。

ただ(時間)だけは大切にしたいです。
無駄に過ごす時間は、もうありません。

私がここにいて、生きている。
それが重要なのです。
その価値を認識しながら、一日、一日を大切にしたいです。
 
そう言えば、浜松に住むようになってからのこと。
 母はこう言いました。
 私が「お金がほしいか」と聞いたときのことです。
 「お金で、命は、買えん」と。

 あれほど小銭にうるさかった母が、そう言ったのには驚きました。
 「お金では、命を買うことはできない」と。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●健康

健康の要は、「腰」。
(月へん)に(要)と書いて、「腰」と書く。
こんなことはみな知っていることだが、腰の大切さは、老人たちを見るとわかる。

病気という病気ではないが、しかし腰を痛める人は多い。
膝(ひざ)の関節を痛める人も多い。
そして一度痛めると、それがずっと、それこそ死ぬまでつづく。
綿々と、いつまでもつつづく。

そこで40歳を過ぎたら、腰の筋肉を鍛えることを考える。
言うまでもなく、腰というのは、骨と筋肉がペアになって、支えられている。
たいていの人は筋肉が弱くなったとき、つまり筋肉が骨を支えられなくなったとき、
腰、つまり骨を痛める。

そしてもう一つ重要なことは、50歳までに適正体重にしておくこと。
標準体重というのは、若い人も含めた体重をいう。
私の実感では、50歳を過ぎたら、標準体重より、10%前後、軽くしたほうがよい。
ただし細いからそれで安心というわけでもない。
細い人でも、腰を痛める人は多い。
同時に腰の筋肉を鍛えることを忘れてはいけない。
方法としては、サイクリングを勧める。
腰や膝に衝撃が少ない。
年をとってからでもできる。

ただしこれは私の経験からだが、トロトロと短い距離を走っても、
あまり効果がない。
ある程度長い距離を、汗をかくほどに走る。
また自転車をこぐときは、足だけではなく、ハンドルを手前に引くようにして、
全身を使う。

これを5年とか、10年単位でつづける。
おかげで、というか、私のばあい、今のところ、腰痛、膝痛とは無縁である。

元自転車屋の息子として、みなさんに勧める!


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●カルト抜き

 子どもが不登校的な症状を見せたりすると、たいていの親は、その瞬間、パニック状態
になる。その気持ちは、よくわかる。そして自分が感じた不安や心配を、直接、子どもに
ぶつけてしまう。

 「学校へ行きなさい!」「いやだア!」と。

 ときに親は、子どもをはげしく叱ったりする。しかし親のこの一撃が、子どもの症状を、
決定的なまでに、悪化させる。しかし親には、その自覚がない。「子どもが学校へ行かなく
なってしまったら、どうしよう……」と、そんなことばかりを、先に考える。

 では、どうするか? ……ということを書いても、意味がない。親の根底に、学歴信仰、
学校神話が残っているかぎり、この問題は解決しない。子どもは、親の不安や心配を敏感
に感じとってしまう。いくら、親が、口先で、「学校へ行きたくなければ、行かなくてもい
いのよ」と言ったところで、意味はない。

 子どもは、親の心の奥の部分、つまりシャドウを読んでしまう。

 つまりそのシャドウを消さないかぎり、この問題は、解決しない。それを、「カルト抜き」
という。学歴信仰というカルトを抜く。

 ところで、あの忌まわしい事件を引き起こしたO真理教というカルト教団が、またまた
活動を活発化させているという。そういうニュースを見たりすると、たいていの人は、こ
う思うにちがいない。「私は、ちがう」「私には、関係ない」「私は、カルトなど信仰してい
ない」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう言い切ることができるだろうか?

 実は、学歴信仰というのは、立派な、カルトである。ただ日本中の親たちがそのカルト
を信仰しているから、自分ではわからないだけ。日本から一歩、外に出てみると、それが
よくわかる。

 つまりそのカルトを抜かないかぎり、ここでいう不登校の問題は解決しない。仮に、子
どもが、午前中だけでも、学校へ通うようになると、親は、こう言う。「何とか、給食まで
いっしょに、食べるようになってほしい」と。さらに給食までいっしょに食べるようにな
ると、今度は、「午後まで勉強するようになってほしい」と。

 逆のこともある。

 今にも不登校児になりそうな子どもがいた。小学2年生の男の子だった。その子どもは、
そのとき、それでも何とか、学校へは行った。しかし午前中の1、2時間は、保健室や理
科室で、時間を過ごした。

 やっと元気になるのは、3、4時間目くらいからで、ときには、昼休みに時間になって
から、教室へもどっていった。

 それについて母親から、「どうすればいいでしょう」という相談があった。が、私は、こ
う言った。

 「細い糸かもしれませんが、それを切ってはいけない。お母さんは、子どもを『なおそ
う』としているが、なおそうなどと思ってはいけない。現状維持だけを考えてください」
と。

 こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。親は、そのときの状態を最悪と思う
かもしれないが、その最悪の下には、まだ別の「底」がある。この段階で無理をすれば、
その二番底、三番底へ落ちてしまう。

母親「では、どうすればいいのでしょうか?」
私「よくがんばっているわねと、ほめてあげてください」
母親「ほめるんですか?」
私「子どもの立場で考えてみてください。行きたくない学校へ、重い足を引きずりながら、
行っているのですよ。子どもはそのつらい気持ちと、毎日、戦っているのです。だから、
ほめるのです」

母親「でも、このままでは、うちの子は、ダメになってしまいます」
私「何が、ダメになるのですか。何も、ダメなんかには、なりませんよ」
母親「学校へ行かなくなってしまったら、どうするのですか?」
私「いいじゃないですか。そうなっても。お母さんが、あれこれクヨクヨと心配している
分だけ、子どもの心は不安定になります。不登校が不登校として、長引いてしまいます。
子どもが、その気持ちを感じ取ってしまうからです」と。

 そこで親は、心底、こう思わなければならない。「いいのよ、学校なんて、行きたくなけ
れば行かなくても!」と。口先だけではいけない。心底、そう思わなければならない。そ
のために、ここでいうカルト抜きをする。とたん、子どもの表情は明るくなる。そしてし
ばらく時間をおいたあと、また学校へ行くようになる。前に、『あきらめは、悟りの境地』
というエッセーを書いた。これも、その悟りの境地のひとつということになる。

【付記】

 邪悪な「学歴信仰」を隠しながら、子どもに、「勉強しなさい」と言っても、子どもは、
勉強しない。子どもは、親の、心の奥底、つまりは、下心を読んでしまう。

 教育の世界でも、同じようなことが起きることがある。

 ある進学塾の講師は、こう言った。「生徒というのは、いくらいい大学へ入っても、進学
塾へは、礼にはこないものですよ」「結婚式などに招待されるケースは、1000に1つも
ありません」と。

 当然である。親も子どもも、進学塾の講師の下心を、進学塾に通っているときから、す
でに見抜いている。

 「教室」という場所でも、教える側は、「無私」でなければならない。そこにほんの少し
でも、雑音が入ると、やがて子どもは、教師の指導に従わなくなる。1年や2年なら、何
とかごまかすことはできるが、3年、4年となると、そうはいかない。

 昔、月謝袋を、つめ先で、ポンとはじいて、「先生、あんたのほしいのは、これだろ」と
言った高校生がいた。私はその場で、即刻、その子どもを、退塾させたが、今から思えば、
その子どもの言ったことは、正しかった。当時の私は、経営を第一に考えて、仕事をして
いた。彼は、その私の心を見抜いていた。
(はやし浩司 不登校 学歴信仰 カルト抜き シャドウ 細い糸 二番底)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本社会・母系社会?】

++++++++++++++++++++

日本は、概して言えば、奈良時代の昔から
母系社会。
母親の存在が、大きい。

その代表的なものが、「母さんの歌」。
それに森Sが歌う、「おふくろさん」など。

どうして父親を賛歌した歌がないのか?

++++++++++++++++++++

子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!)

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前
向きに生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考え
なくていい。親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形
で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子
どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するの
も、いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行
をするというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育てて
やった」と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」
と、恩を着せられてしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌
手のI氏が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手
一つで、育てられました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」
と。はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。し
かしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなって
しまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつ
めてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、
I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかり
やすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく
当然のこととして、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』
である。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中
で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。
窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目は
かっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あ
なたはどう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけな
くなってしまうに違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べ
ながら、手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にも
ときどき載るよ」「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」であ
る。そう書くべきである。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々
と織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分の
ことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そうい
う言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」と
いう言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければな
らない。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢
が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを
育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本
では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し
売りすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美
徳の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こ
んな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」
と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しか
いない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、
何と六三%である(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本
は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親の
ものでもない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のため
でもある。私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなけ
ればならない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳
ではない。あなたの親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求め
た。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子
にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子
育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6
年)は、次
のようになっている。
 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生
活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身
分制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人
は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。
葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべき
ではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。そ
れこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚
したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は
関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが
仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休
日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚
事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たし
かにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたとい
うが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を
徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春
だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はな
い。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あん
たに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもとき
どき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、も
う論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いと
いうこと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題で
はないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。
身分制度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくな
いが、本当にそんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静
に考えなおしてみてほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●依存心をつける子育て

 森Sの歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人
も多い。しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺
愛児。それはよく知られているが、もう一つのタイプがある。

親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもというこ
とになるが、その根は深い。

Nさん(女性)は、60歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りび
たりになっている。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘というこ
とになる。Nさん自身も、そう言われるのを喜んでいる。いわく、「年老いた母の姿を見
ると、つらくてなりません。もし魔法の力が私にあるなら、母を50歳若くしてあげた
い」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよ
く言われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで1冊の本になって
しまう。

が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるよう
にして子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。
「親は一番大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるの
だ」とかいうようなことを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子
どもの体に染み込ませる。

そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
あるいは親不孝者として、排斥する。こうして日本では、親に対してベタベタの依存心
をもった子どもが生まれる。が、それは多分に原始的でもある。少なくとも欧米的では
ない。あるいはあなたはよい歳をして、「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙
を流している欧米人が想像できるだろうか。

むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立
させることを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで
別にするのがふつうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん
坊のときから、「私は私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。たとえ親子
でも、「私の人生は私のものだから、子どもにじゃまされたくない」と考える。

こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人
だし、欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、
実は私も心情的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。

親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標
にしているあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたもの
だということ。しかもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本とい
う風土の中で作られた子育て法に従っただけに過ぎないということ。

言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流
れている。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、
『おふくろさん』を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来る
と、一斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っている
のか。それは本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、
子育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親
スズメに習って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメ
も逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるも
のだ。本能によるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃
げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てな
がら、まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きて
いくために必要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、
そういう知識や経験を武器として、自分たちの世代を生きる。

そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝
える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところ
に、子育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。

たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。
洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこか
ら来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、そ
の便利さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、
必要でもないような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方
程式だ。二次方程式だ。私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから
今にいたるまで、二次方程式はおろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただ
の一度もない。

さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこう
なると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつと
いうのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚
が満々ている」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、
私たちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ
効率よく、かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだ
ってそうだ。

将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができ
るようにするのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの自立 自立 自立する子供)

(付記)

●私もマザコンだった!

こう書く私も、実は、若いころは、マザコンだった。
30歳を過ぎて、ワイフにそれを指摘されるまで、気がつかなかった。

自分がマザコンであるかどうかは、自分がそうでなくなったときにしか、わからない。
「私は親孝行のいい息子」と、思いこむことで、それを片づけてしまう。
あるいは「私の親は、それに値するすばらしい母親である」と、それを片づけてしまう。

ある男性は結婚するとき、「親孝行をする」を、相手の女性に条件として押しつけたという。
あるいは嫁・姑戦争が激しくなったとき、自分の妻に向って、「私は母をとる。お前の
ほうが出て行け」と言った男性もいる。

私も、そういう男性に近かったかも(?)。

自分からマザコン性を抜くのは、容易なことではない。
脳の、それこそ神経生理のもっとも基本的な部分にまで、刷り込みがなされている。
一度乳幼児期にマザコンになり、また成長過程でそれが修正されないと、男性は、
(もちろん女性も)、マザコンになる。

女性のマザコンを、私は「隠れマザコン」と呼んでいる。
さらに一歩話を進めると、実は、ファザコンと呼ばれる人も多い。
たいていは「親絶対教」の信者で、父親を同じように絶対視する。

「親を尊敬する」というのと、「親を盲目的に信仰する」というのは、
まったく別。
親といえども、ときとして子どもの批判の対象になることもある。
また批判されても、文句は言わない。

子どもというのはいつも、親を踏み台にして、さらに先へと前に進んでいく。
あなたの子どもが親不幸になったからといって、嘆くことはない。
あなたはあなた。
子どもは子ども。
それがいやなら、あなたも、親ではなく、一人の人間として子どもに尊敬される
よう、心がければよい。

「私は親だ」「親に向かって、何だ!」などと親風を吹かしているようでは、
あなたの住む世界は、小さい。
そういうくだらない親意識は、できるだけ早く捨てること。
親子の間にキレツを入れることはあっても、たがいを結ぶ絆(きずな)になることは、
ぜったいにない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●隠れマザコン

+++++++++++++++

子どものマザコン、つまりマザコン性
について。

ベタベタの親子関係は、決して好ましい
ものではない。

+++++++++++++++

 マザコンタイプの子どもは、(おとなもそうだが)、いつも自分の母親が、完ぺきな母親
であることを、求める。(だから、「マザー・コンプレックス」という。)そのため、母親の、
ささいなまちがいさえも許さない。ほんの少しでも、自分が正しいと思ったことに反した
ことを母親がしたりすると、それを怒ったり、ときに、ふてくされたりする。

 自分は、完全に愛されているのだという安心感。
 自分は、何をしても許されるのだという安心感。
 自分は、いつでも、どこでも、母親の関心の的でなければならない。

 言うなれば、幼稚な自己中心性そのもののことだが、いつもその安心感を、母親に求め
る。そしてそれがないと、安心できない。

 この状態は、結婚してからも、つづく。そしてその対象が、母親から、妻へ移動するこ
とはある。

(女性にもマザコンは、多い。女性のばあいは、そのまま母親に対して、マザコンを維
持することが多い。しかも女性のマザコン、これを「隠れマザコン」と言うが、女性の
マザコンは、男性のそれより、はるかに強烈になりやすい。ただ女性と女性との関係で
あるという点で、外からは、わかりにくい。)

 A君(小3)は、学校のテストなどで、よい点をとってきたりすると、すぐ母親に見せ
ていた。そういう形で、一度は、母親に評価されないと、満足しなかった。そのとき母親
が、何かのことで、A君を無視したような態度をとったりすると、とたんA君は、母親に
対して、すねたり、いじけたりした。そしてその状態が、ばあいによっては、1、2時間
もつづくこともあった。

 母親自身が、A君が、マザコンであることに気づいていなかった。つまり母親自身が、
ベタベタの母子関係をつくりながら、それに気づいていなかった。

 こういうケースのばあい、本来なら、父親が、母子の間に、割って入らなければならな
い。でないと、子どもは、そのまま、マザコンを持続してしまう。が、不幸なことに、A
君の父親は、その数年前から、単身赴任で、インドに赴任していた。ますますA君は、マ
ザコンになっていった。

 母子関係が、正常に分離できていない。そのため、弊害は、そのあとになってから起こ
る。男子のばあいだと、おとなになり、結婚してから、起こる。男性のばあいは、このタ
イプの男性は、一般論として、浮気しやすくなると言われている。目の前の妻という女性
に、満足できないからである。

 ある男性(映画監督)は、エッセーの中で、堂々とこう書いていた。「男性は、いつも永
遠のマドンナを求めて、さまよい歩くものです」と。これは、つまり自ら、「私はマザコン
です」と告白しているようなものである。

 男児にしても、女児にしても、子どもがマザコンになってよいことは、何もない。その
マザコンを是正するのが、父親の役目ということになる。もっとも父親が、マザコンのば
あいは、どうしようもないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【野口英世の母】

++++++++++++++++

親子の間の依存性を考えるテーマとして、
野口英世の母をあげてみます。

02年に書いた原稿です。
どこか過激かな(?)と思う部分も
ないわけではありませんが、
もう一度、ここに掲載してみます。

野口英世の母は、ほんとうにすばらしい
母親であったのか?

++++++++++++++++

●母シカの手紙

 2004年に新千円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そ
ういう人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こん
な手紙を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつ
くるトおせてくたされ わてもねむられません」(1912年(明治四五年)1月23日)
(福島県耶麻郡猪苗代町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を
思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開
発課パンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、
こころぼそくありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願
している。
 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮
状や帰国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本
やアメリカを代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決すること
などを切々と書いています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそう
だ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、
手紙を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するも
のであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、
すぐには帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親
が子どもに、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考
えてみればよい。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々
と、家の窮状を訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこ
んな手紙を手にしたら、あなたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまう
かもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでや
った」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んで
もらった」「育ててもらった」と、恩を着せられる。たがいにベタベタの依存心で、もちつ
もたれつの関係になる。そういう子育てを評して、あるアメリカ人の教育家は、こう言っ
た。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせることに無頓着な民族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えて
ください。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきて
ください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未
熟な親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か
何かで伏せっていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。
事実、野口英世記念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、い
っしょに写っている母シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ち
がにじみ出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、
私も昔、学生のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自
分が親になってみると、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いてお
く。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワ
イフといっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがな
い。大卒の初任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれ
たときも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって
帰った。母にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母
を責めているのではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれ
に命令されるわけでもなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実
家での法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地
柄、そういう行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額
が、20〜30万円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これに
ついてはまた別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感という
よりは、社会的重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみる
のは当たり前」「子どもは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子ど
もは、親不孝者」などなど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその
重圧感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をして
いた。「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら
渡さなかった」「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやった
そうだ」と。それは、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だ
った。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が
感じた重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定す
るのか」とか言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。
しかしこれは誤解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に
書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手
紙を読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、
思えない。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。
そこでもう一度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころ
よりもはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカ
は、「子どもが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思
っていたに違いない。

だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろう。
文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解
できなかったかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが
親のめんどうをみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた
手紙は、まさにそうした板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こう
した評論のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、
その母親を批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。現に今、そ
の母シカをたたえる団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした人た
ちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにし
か、書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、
帰ってくるな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝
行など考えなくてもいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元
気か?」と様子を聞くだけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書く
だろうか。一度母シカの気持ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
野口英世 シカ はやし浩司 依存性 相互依存 恩着せ 親の恩着せ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2人の私

++++++++++++++++++

私の中には、たしかに2人の(私)がいる。
その2人が、いつも交互に顔を出す。

先日も、DVDを返しに行ったときのこと、
逆走してきた車に、あやうくぶつけられそうに
なった。

そのとき、「あんな奴は、強制収容所送りだ」
と叫んだ(私)。
実際、ワイフの横で、そう叫んだ。

が、すかさずもう一人の(私)が顔を出し、
「あんな奴、相手にするな。どこの世界にも
バカはいる」と、私をたしなめた。

ここで「強制収容所」という言葉が出てきたのは、
K国の金XXの影響によるもの。
先の(私)は、心のどこかで、金XXというより、
スーパー権力者にあこがれを抱いているのかも
しれない。

ともかくも、そういうわけで、2人、いる。

で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、
こう言った。

「私には、そういうことはないわ」と。

私「ほんとうに、ないのか?」
ワ「ないわ。私は、いつも1人よ」
私「じゃあ、ああいうとき、どう考えるの?」
ワ「あぶないとは思うわ。でも、それだけ」
私「ぶっ殺してやるとか、そういうふうには思わないのか?」
ワ「思わないわね」

私「でも、ぼくの中には2人、いる」
ワ「そういうことも、私にはないわ」
私「ほんとうにないのか?」
ワ「あなただけよ、きっと……」
私「じゃあ、ぼくだけがおかしいのかなあ?」
ワ「そうよ、あなたは、おかしいわよ」と。

+++++++++++++++++++

●どうして2人の私が……?

どうして私の中に2人の(私)がいるかについては、いろいろな原因が考えられる。
それについては前にも書いてきたので、ここでは省略する。

しかし時として、その2人の(私)が、頭の中ではげしく葛藤する。
俗にいう「迷う」というのとは、訳がちがう。
(そう言えば、私のワイフは、服などを選ぶとき、よく迷う。
ときに1着の服を決めるのに、1時間ほども時間がかかるときがある。
これはどういう現象と理解してよいのか?)

攻撃的で孤独に強い私。……これを(私A)とする。
弱気でやさしい私。……これを(私B)とする。

全体のバランスでみると、(私A)は、瞬間、もしくは、
何か事件などが起きたときなどに顔を出す。
ふだんは、(私B)が優勢で、(私A)が顔を出すことはない。
ふつう(私A)が顔を出すのは、(怒り)を覚えたとき。
(私A)が優勢になって、(私B)が隅に追いやられることもある。

が、それは私だけの現象で、ワイフには、それがないという。

ウ〜〜〜ン……。

ということは、私は、人格障害者なのか?
しかし教科書で知る多重人格者とも、ちがうようだ。

ウ〜〜〜ン……。

怒ったようなとき、だれでも、別人格者になるような気もするのだが……?
よい例が、酒を飲んで、まったく別の人間になる人もいる。
私の父がそうだった。
ふだんは静かでおとなしい人だった。
学者タイプの人だった。
しかし酒が入ると、そのまま別人になった。
大声を出して暴れたり、ものを破壊したりした。

……ということは、私は父のシャドウを引き継いでしまったのか?

こうした現象は、私が書く文章にも、見られるかもしれない。
とくに時事問題、国際問題、カルト問題について書くときは、私はきわめて攻撃的な
文章を書く。
しかし一方、心の問題、子育ての問題、教育問題について書くときは、控え目で、
穏やかな文章を書く。

そこで一度、ここで実験をしてみる。
(私A)(私B)のそれぞれと、その双方が混在しているときの(私)の、3種類の
(私)になって、文章を書いてみる。

+++++++++++++++
(私A)

何が反日だ!
何が反米だ!
自由主義貿易圏に身を置きながら、反日、反米を唱えれば、自ら自分の首を
絞(し)めるようなもの。
今朝の為替レートは、1ドル=1494ウォンだぞ!
サブプライム問題が起きたとき、君たちは何と書いていた。
「この問題は、韓国には波及しない」と。
さらにウォン安に向かうと、「輸出に有利になる」と喜んでいた。
しかし輸出先そのものが、なくなってしまった。
9月危機は乗り越えた。
しかし11月危機は、どうか?
さらに来年3月は、どうか?
私たち日本人の知ったことではないが、日本あっての韓国。
それをもっと素直に認めろ。

(私B)

大切なのは、相互の理解と友好。
誤解があれば、誤解を解けばよい。
その努力は忘れてはいけない。
それがわからなければ、地球を、宇宙から見てみればよい。
どういがみあったところで、地球は、宇宙のゴミ。
そのゴミの中の小さな国どうしが争って、どうなる?
どうする?

やがてこのアジアも、EUのように、統合される日がやってくる。
またそうでないと、アジアそのものが、総崩れになってしまう。
韓国が困っていたら、助けてやればよい。
裏切られても、裏切られても、じっとがまん。
それ以上のことを、日本は、あの植民地時代にしてしまった。

韓国のデフォルト(債務不履行)は時間の問題だが、今こそ、
日本は暖かい支援の気持ちを伝えておくべきではないのか。

(私A)+(私B)

反日を唱えるのも結構だが、少し冷静になってほしい。
たかが竹島問題程度のことで、軍事衝突するのもバカげている。
私たち日本人は、この問題を、国際裁判所のような場所で、公式に話しあおうと、
何度も提案しているではないか。
どうして君たちは、それに応じようとしないのか?
それとも何か、つごうの悪いことでもあるというのか?
このままでは韓国経済は、崩壊する。
そのことを今、一番強く肌で感じているのは、君たちのほうではないのか。
今、ここで韓国経済が崩壊すれば、そのときこそ、K国は、待ってましたとばかり、
君たちの国に攻撃をしかけてくるだろう。
そうなれば、竹島どころか、韓半島の全部を、あの独裁者に占領されることになる。
「同胞だから、そこまでしない」と考えるのは、どうかな。
すでに相手は、あなたたちのことを、同胞とはみていない。
どうしてそんなことがわからないのか。
君たちが、それでも反日を唱えるなら、日本だって、選択肢がなくなってしまう。
「韓国崩壊、やむなし」と。
反日・嫌韓は、その双方にとっても、悲しむべきことだと思う。
思うが、私たちは、嫌韓を今しばらく、貫くしかない。

+++++++++++++++++

同じ問題でも、(私A)で考えるのと、(私B)で考えるのとでは、雰囲気が
まるで変わってしまう。
考えてみれば、これは恐ろしいことではないか?

私のような(力)のない人間だから問題はないが、もし同じことが権力者の頭の
中で起きているとしたら、そのつど、政治の向きが180度、変わってしまう。
一説によると、あのドイツのヒットラーでさえ、本当は芸術を愛好した、気の弱い、
やさしい人だったという。
私たちが知るヒットラーは、私でいう(私A)のみが、極端に肥大化した人間
だったかもしれない。

ただ幸いなことに、私のばあい、(私A)が顔を出すのは、先にも書いたように、
(怒り)を感じたときだけ。
もしそうでなければ、私の人格はとっくの昔にバラバラになって、崩壊していた
かもしれない。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   15日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・特集】

●痛みと(怒りの)感情

+++++++++++++++++

まず、こんな仮説を立ててみる。

痛覚が突然刺激されると、突発的に
(怒りの感情)が爆発する。
「痛い!」と感じた瞬間、「この、ヤロー!」
となる。

私はこうした現象は、子どもの世界だけの
ことかと思っていたが、晩年の母も、
そうだった。

晩年の母は、認知症も加わり、思慮深さが
極端に低下していた。
そういうこともあって、自分むきだしの
感情的な行動が目立った。

食事のとき、のどに食べ物がひかかったとき、
介護士の人がそれを吸引しようとしたりすると、
ときどき大声で、「あんたら、鬼やな!」と
怒鳴り返したりしていた。

これは肉体の防御反応ともいえるもので、
「痛い」というシグナルが、脳の中で危険因子
と判断され、それに対して攻撃的に反応する
ためと考えてよいのではないか。

となると、痛覚を感知する脳のその部分に、
(怒り)をコントロールする何かがある。

言いかえると、(怒り)のメカニズムを
解く、何らかの鍵が、そこに隠されている。

これがここでいう仮説である。

+++++++++++++++++

条件反射というと、パブロフということになる。
しかし最近の研究では、ドーパミンという神経伝達物質が、それに深くかかわっている
ことがわかってきた。
条件反射も、簡単に言えば、ドーパミンの増加によるものということになる。
「肉を与える」という合図によって、犬の脳の中にドーパミンが増加する。
それが条件反射となって、外に現れる。

このドーパミンが、「生き延びるために注意を払わなければならない新情報が、
思いがけず現れたことを、私たちに知らせてくれる」(サイエンス・07・12)
ということらしい。

その中には「危険や痛みのほか、セックスや食物、快楽」(同)も含まれるという。
こうした反応は、最近では、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)によって、
リアルタイムで観察することができるという。(すごい!)

ドーパミンが、危険を知らせてくれるとしても、では、(怒り)の感情は、いったい、
どこから発生するのか。
あるいはそれは(怒り)ではなく、別の反応なのか。

……と考えていくと、疑問がまた別の疑問を呼び、自分の思考がどんどんと深みに
はまっていくのがわかる。
まるで底なしの謎地獄である。

こういうとき科学者なら、あちこちから情報を集め、あたかもジグソーパズルを
解くようにして、問題を解いていく。
ときには最新の研究装置を使うかもしれない。
それはたいへんおもしろい作業にちがいない。
恩師の田丸謙二先生も、いつもそう言っている。
「研究ほど、クリエイティブな仕事はない」と。
が、私の能力は、ここまで。
その作業を繰り返す時間もない。
第一、研究装置さえ身近にない。

が、こうした仮説を立てることによって、これ以後、自分を客観的に
観察することができるようになる。
何かのことで(怒り)を感じたようなとき、脳のどの部分がどのように反応するかを、
一歩退いて、観察することができるようになる。

それがわかれば、(怒り)を自分でコントロールすることができるようになるかも
しれない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(11月24日)

●勤労感謝の日

今日、11月23日は、勤労感謝の日。
その振り替えということで、明日、11月24日は、祭日。

しかし「勤労感謝の日」とは、何か?
どこか(こじつけ)のような感じがしないでもない。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『日本の国民の祝日の一つ。日付は11月23日。国民の祝日に関する法律(祝日法)では
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としている。1948年(昭
和23年)公布・施行の祝日法で制定された。
戦前の新嘗祭(にいなめさい; しんじょうさい)の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改め
たものである』と。

「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」とは、あのK国のあちこちに
掲げられているポスターの標語みたいで、おもしろい。
が、また疑問。
「新嘗祭(にいなめさい)」とは、何か。

改めてウィキペディア百科事典をひいてみる。

『11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれ
を食して、その年の収穫を感謝する祭儀。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。
秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼である。

飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。一時中断されたが、元禄時代
の東山天皇の御代に復活した。1873年の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日
に行われていた。1873年から1947年までは大祭日となっていた。

戦後は、勤労感謝の日として国民の祝日となった。新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連な
る神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ・神が召
し上がる食事)を供える形式となった』と。

天皇家の稲作儀礼の日が、戦後そのまま勤労感謝の日になった。
簡単に言えば、そういうことらしい。
が、祝日は祝日。
それ以上に、「働くことができる喜び」というのは、それを失ってみたとき、はじめて
わかる。
「働ける」というのは、健康な人の大特権と考えてよい。
そういう意味で、勤労に感謝するということについては、異論はない。
おおいに感謝すべきである。
感謝するというより、それをすなおに喜ぶ。

息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
冬の冷気を肌で感ずることができる。
まさに、感謝、感謝、感謝。

そう言えば、今朝の私は快調。
風邪らしき症状は、みな、消えた。
体も軽い。

しかし今、大不況のまっただ中で、職を失った人も多いはず。
そういう人たちは、今日の祝日をどうながめているのだろう?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●葬儀が終わって……

母の葬儀が終わって、ちょうど40日目になる。
92歳という年齢もあったが、静かな葬儀だった。
あっけないというか、こんなものかなあと思うような葬儀だった。

が、それから40日。
母の葬儀が、見えないところで、思わぬ波風を立てているのを知った。
参列してくれた人、参列してくれなかった人……。

私自身は、この浜松市で葬儀をしたということもあり、参列してくれなかった人に
対して、どうこう思っていない。
……まったく思っていなかった。
最初から、内々で、静かにすませたいと願っていた。

しかしみなが、みな、同じように考えるわけではないらしい。
それぞれの立場で、それぞれが非難しあっているのを、知った。
「あの人は、どんなことがあっても、来るべきだった」とか、なんとか。

今は、その火消しに追われている。
どうかみなさん、心安らかに。
私自身は、なんとも思っていない。

ただこういうことは、感じた。

若いころ、10年といっても、それほど大きな変化はなかった。
しかし今は、ちがう。
同じ10年でも、みな、大きく変化していく。
たとえば70歳の人は、80歳になる。
今は、伯父が1人、叔母が2人だけになってしまったが、みな、
歩くのもままならないという状態。
葬儀のあと、礼の電話をしてみて、はじめてそれを知った。

少し前、学生時代の友人がこう言った。
「林、60歳を過ぎるとな、どんどんみな、死んでいくぞ」と。
そんな変化を目(ま)の当たりに見せつけられた感じだった。

これからは1年、1年、もっとしっかりとまわりを見つめながら、
生きていこう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある老夫婦の会話

+++++++++++++++++

昨日は、一日、仕事がなかった。
それで一日中、ワイフと時間を過ごした。
午前中に山荘へでかけ、そこで昼食。
夕方帰ってきて、いっしょに料理。
食後は、音楽を聴いたりして、過ごした。

で、昨夜は、早めに就寝。
その床の中で、こんな会話をした。

私「お前だって、したいことがあるだろ?
ぼくのような男と一日、過ごして、
つまらないと思うこともあるだろ?」
ワ「ないわ。あなたこそ、私と一日
過ごして、いいの?」
私「ぼくは、お前さえいればいい。
お前がいれば、さみしくないし、
あとはだれにも会いたいと思わない」と。

そのとき、私はふと、ワイフが先に
死んだときのことを考えた。
もしワイフが先に死んだら、さみしい
だろうな、と。

きっとそのとき私は、こう思うにちがいない。
一晩だけでもいいから、もう一度、
ワイフと寝てみたい、と。
そう思ったとたん、涙が、ポロポロとこぼれて
きた。

冬の寒い夜は、暖かいふとんが、何よりも
ありがたい。
ワイフの肌の温もりが、何よりもありがたい
そう思って、ワイフの顔に毛布をかけてやった。
それを感じて、ワイフも私の顔に毛布を
かけてくれた。

で、今朝、起きるとき、開口一番に私は
ワイフにこう言った。

「せっかくの休みだから、今日は、
思う存分、遊ぼう」と。

++++++++++++++++

●日にちのまちがい

今日は、11月23日。
先ほど書いたエッセーを見たら、「今日は11月24日」となっていた。
このところ、日にちをまちがえることが、多くなった。
これはボケの始まりか?

少し前は、年齢をまちがえた。
満61歳になったのに、62歳と書いてしまった。
これには理由がある。

満61歳になったということは、そのあとは62年目に入ったことになる。
それで62歳と書いてしまった。
仕事上、満1年が過ぎると、「2年目」とか、そういうふうに書くことが多い。

しかし今日は、弁解できない。
今日は、まちがいなく、11月23日。
勤労感謝の日である。
明日(24日)が、その振り替え休日。

どうしてだろう。

すべてを電子マガジンのせいにするわけではないが、電子マガジンを発行していると、
「月」がめちゃめちゃになってしまう。
この原稿にしても、発行するのは、12月15日号。
だから頭の中は、12月ということになる。
しかし発行されてくるマガジンは、先月(10月)に書いたもの。

が、どうして今日を、11月24日と、思いこんでしまったのか。
やはりボケが進んでいるのか?
認知症のテストでも、「今日は何日ですか」と聞かれるという。
それがわからなくなると、かなり重症ということになるらしい。

ゾーッ!


●「マンガ脳首相」(週刊B春)

++++++++++++++++++++

AS首相のボロが、ボロボロと出てきている。
なんともお粗末な首相である。
「おバカ首相」(週刊S潮)とまで書かれている。
実際、おバカだから、どうしようもない。
しかしこんなことは、AS氏が外務大臣だった
ころから、わかっていたこと。
神輿(みこし)のように持ち上げるおバカが
多いから、あんな程度の人物が、首相に
なってしまった!
その責任は、だれが取るのか。

++++++++++++++++++++

『利口な人からは、バカな人がよくわかる。
バカな人からは、利口な人がわからない』と。
これは私が考えた格言だが、ここではその先。
つまり、自分がバカなとき、それを知ることは
可能なのか。
つまり自分で自分がバカであることを、知る方法は
あるのか。

たとえばAS首相にしても、(あくまでも見た感じ
の話だが……)、自分ではおバカとは思っていない
だろう。
それがわかったら、とても首相など、恥ずかしくて
できない。
その前に、総裁選で、立候補など、しない。

おバカを防ぐ方法があるとするなら、思慮深く
なること。
日々に脳みそを研鑽(けんさん)すること。
そうでなくても、AS首相も含めて、私たちの
年代になると、脳みそに穴があいたような状態に
なる。

知恵や知識が、どんどんとこぼれ落ちていく。
思考力や理解力も鈍ってくる。

が、一国の宰相ともあろう立場の人が、
「国際社会の動きは『ゴルゴ13』で勉強する」
(週刊B春・11・27)とは!
あきれるというよりも、情けない。
前にも書いたが、日本人が一億、みな、
総ギャク化している!

そこでこう考えてみる。
AS首相のような人物に、(人物と言ってよいかどうか
わからないが)、自分がおバカであることを
わからせるためにはどうしたらよいか、と。

この問題だけは、神経細胞的にも、基本的レベルの
ものであるだけに、むずかしい。
人は、より自分が賢くなったときだけ、それまでの
自分が愚かだったことを知る。
もしAS首相が自分で自分がおバカであることを
気がつくとしたら、自分でより賢くなったときだけ。
が、その研鑽もしていないとなると、ほぼ
絶望的としか、言いようがない。

そのAS首相はあれこれ理由にもならない理由を
並べて、政権の座に居座ろうとしている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2932)

●うつ病一考

+++++++++++++++++++++

うつ病になると、その人自身も苦しむ。
病気は、病気。
しかし同時に、その周囲の人たちも、苦しむ。
が、それだけではない。

私の印象では、(あくまでも私の印象だが)、
うつ病になると、見た目には精神構造が二重になる。

内にひっこみながら、ときとして外の世界に
向かって、攻撃的になる。
たいていはその双方が、状況に応じて、交互に
現れる。

うつ状態になっても、いつも心は緊張状態。
ささいなことが引き金となって、突発的に
錯乱状態になる。

+++++++++++++++++++++

数日前、どこかの県でどこかの人が、隣人を車でひき殺すという事件が起きた。
隣家との境界問題で、仲がこじれていたという。
間の道幅は、2メートルしかなかったという。
それで「うちの土地にお前の車が入った」「お前の車が、うちの塀をこすった」
という争いになったらしい(報道)。

隣家でも、土地問題がからむと、とかく感情的になりやすい。
が、これに似た話となると、だれしも、1度や2度は経験しているはず。
つまり1度や2度、隣の家と、境界問題で争ったことがある。
が、それはそのとき。
あるいは隣家との関係を考えて、たいていは黙ってそのまま見過ごす。
が、今回の事件は、内容がやや複雑なようだ。

ひき殺された男性の横には、カメラがころがっていたという。
つまりひき殺された方の男性は、相手が自分の土地を侵害しているという
証拠写真のようなものを撮ろうとしていたのではないか。
それを見て、車を運転していた男性が、逆上した(?)。
そしてそのまま車で体当たりして、相手をひき殺した。

この事件と、うつ病とは、まったく関係ない。
ないが、一方、こんな話も聞いたことがある。

その男性は、道路の車が異常なまでに気になるらしい。
どこかのだれかが車を道路にとめただけで、すぐパトカーを呼んだ。
近所の人が、車をとめたりすると、カメラで写真を撮り、それを警察署に
送り届けたりしていた。
道路といっても、団地内の、ほとんど車が通ることがない道路である。
そこに車がとまっていても、それほどその人が迷惑するという感じでもない。
で、最近は、認知症(?)も加わって、とまっている車に、いたずらを
するようになった。

釘やコインで、車に傷をつけたり、あるいはナンバープレートにペンキを
塗ったりする、など。
(もちろん証拠がないので、その男性の犯行とは断言できないが……。)

あとは一日中、家の中に引きこもっている。
言い忘れたが、その男性の年齢は、75歳前後(当時)。

こういうケースのばあい、事件そのものよりも、その男性自身の心の問題を
疑ってみたほうがよい。
その第一が、うつ病ということになる。

そのうつ病の第一の特徴といえば、(こだわり)ということになる。
何かのことで、ひとたびこだわると、そのことが、心の壁にペタッと張りついた
ような状態になる。
そしてそのことばかりを考えるようになる。
「考える」というよりは、ループ状態になる。
そしてその状態を繰り返しているうちに、妄想だけがどんどんとふくらんでいく。
冷静に考えれば何でもないような問題であっても、「ああでもない」「こうでも
ない」と悩み始める。

今回、どこかの県で起きたその事件にしても、どちらかの側の人に、こうした
心の問題があった可能性がある。
あるいは隣家の問題がこじれたことが原因で、そうなったのかもしれない。
どちらであるにせよ、ふつうの心の状態では、こうした事件は起きない。
車で相手をひき殺した男性は、そのまま相手の家にあがりこみ、相手の妻まで
殺害している。

一般的にうつ病というと、悶々と悩むのは、その人自身で、外部の人には
迷惑をかけないと考えられがちである。
しかし実際には、心はいつも緊張状態に置かれ、ささいなことで、それが
爆発することが多い。
突発的に錯乱状態になる。

悪意をもった相手に、カメラを向けられたときの不快感は、それを経験した
ものでないとわからない。
(私のワイフは、一度、ある。)
一方、自分の土地を侵害されたときの不快感も、これまたそれを経験したもの
でないとわからない。
(私も何度かあるが、そのすべてで、泣き寝入りしてすませた。)
そうした不快感が、日常的につづけば、だれだって悶々とした状態、
つまりうつ病になったところで、何ら、おかしくない。

……ここまで書いてワイフに話しかけると、ワイフはこう言った。
「そこまでこじれる前に、どうして話しあわなかったのかしら?」
「警察に間に入ってもらい、話しあえばよかったのに」と。

しかし警察には、『民事不介入』という大原則がある。
こうした民事上の争いには、警察は、ぜったいに協力しない。
またしてはならない。
あくまでも当事者どうしの問題である。
(もちろん法律違反があれば、話は別だが……。)

話を戻す。

こうした事件をみたとき、その断面だけを見て、判断してはいけない。
もちろん表面だけを見て判断してはいけない。
こういう事件にいたる背景には、それまでの確執がある。
そしてここにも書いたように、心の問題がからむことも多い。
繰り返すが、だからといって、当事者のうちのだれかが、うつ病だったとか、
そういうことを言っているのではない。
ふつうの心の状態では、こうした事件は起きないということ。
ふつうでなかったから、事件は起きた。

どうか、誤解のないように!

今回のこの事件が、とても他人ごとのようには思えなかったので、
あえて私の意見を書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●たたり

++++++++++++++++++++

こんな事例があったとする。
あくまでも仮定の話だが、似たような事例は、
あなたのまわりにも、いくつかあるはず。

その家には4人の兄弟姉妹がいる。
しかしどの兄弟姉妹も、結婚まではするのだが、
そのあと、みな、離婚してしまった。
みなそれぞれ、子どもがいたが、子どもたちはみな、
相手方に手放してしまった。

(だからといって、離婚するのが悪いと言うのではない。
今どき、離婚など、珍しくも何ともない。)
平均25%の離婚率として、2人の子どもが離婚する確率は、
16分の1。
3人の子どもが離婚する確率は、64分の1。
4人の兄弟姉妹がみんな離婚する確率は、256分の1。

ふつうに生活していても、兄弟姉妹が4人とも離婚する確率は、
256分の1。
しかし実際には、離婚は兄弟姉妹間で連鎖性をもちやすいので、
うち1人が離婚すると、「私も……」「ぼくも……」となる。
離婚家庭の子どもは離婚しやすいという統計上の数字もある。

が、親は、「これは何かのたたりにちがいない」と考えて、近くの
神社の神主に頼んで、「お祓(はら)い」をしてもらった。

++++++++++++++++++++

悪いことが重なると、それは自分たちの理解を超えた、何かの(力)によって
そうなったと考えやすい。
これは人間が本来的にもつ、脳の欠陥のようなものと考えてよい。
(たたり)という言葉は、そういう脳の欠陥を埋め合わせるために生まれた。
しかし(たたり)などというものは、ない。
あるわけがない。
わざわざ「科学的に……」という言葉など、つけるまでもない。
バカげている。

似たようなものに、(バチ)がある。
それについても、これだけ人間が多い中で、いちいちそんなことを
気にしている神や仏がいたとしたら、そんな神や仏は、エセと考えてよい。

たとえば北極周辺に住む白熊にしても、あと半世紀足らずのうちに絶滅する
と言われている。
原因は、言わずとしれた、地球の温暖化である。
その白熊が、つぎつぎと死んでいく仲間の姿を見ながら、それを(たたり)
とか(バチ)と考えたとした、あなたはどう思うだろうか。

こんな例もある。

その家には3人の息子と娘がいる。
しかし3人とも高校へ入るころから、非行に走るようになり、3人とも、
みな高校を退学させられた。

こういうケースでは、まず疑ってみるべきは、親の育児姿勢。
(バチ)とか(たたり)に結びつけるほうが、おかしい。

さらに交通事故や大病がつづくこともある。
そうなると人は、ますます(バチ)や(たたり)を信じやすくなる。
そしてひとたびそのワナにかかると、それがずっと頭から離れなくなる。
うつタイプの人なら、そのまま、本当にうつ病になってしまうかもしれない。

ところがそういう言葉が、堂々とテレビの中で使われている。
誤解しないでほしいのは、占星術にしても、スピリチュアル(霊)にしても、
それを信ずるのは、立派なカルトであるということ。
言うなれば天下のテレビ局が、テレビという天下の公器を使って、堂々と
カルトを垂れ流している。
まず、この異常さに、みなが、気がつくべきである。

仮に(たたり)というものがあるとするなら、毎日牛肉を食べている人が、
どうして牛にたたられないのか。
仮に(たたり)というものがあるとするなら、病院の医師たちは、どうして
死んだ患者にたたられないのか。

それに(バチ)にせよ、(たたり)にせよ、常に多面性をもっている。
かなり前、1人の子ども(小5男児)がこう言った。
「昨日、遠足だったけど、雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私がすかさず、「そんなのはバチではないよ。
このところの水不足で、農家の人たちは、みな喜んでいるよ」と。

……議論するのも、バカバカしい。
意見を書くのも、バカバカしい。

私も15年ほど前、ある宗教団体を攻撃する本を、何冊か書いたことがある。
そのため、その教団の信者たちが、何組か押しかけてきて、私たち夫婦を
脅かしたことがある。

「お前たちは地獄へ落ちる」とか、なんとか。

しかし結局のところ、なにも起きなかった。
もちろん地獄へ落ちることもなかった。
最初は少なからず、そういうおどしに怯(おび)えたが、
(というのも、中に、頭のおかしい人もいたので、)
それ以後は、もう何を書いても、こわいと思ったことがない。
一連の騒動を経験して、私は、勇気と、それにものを書く
思慮を手に入れることができた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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よろしくお願いします。              はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   12日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新型インフルエンザ

新型インフルエンザは、こわいぞ。
ワクチンは、まだない。

*************************

【BW教室では……】

学校が閉鎖された段階で、BW教室も閉鎖します。
時期を見て、再開します。
連絡は、インターネットの電子マガジンでします。

なお、その間の月謝は、いただきません。

再開した時点で、週割りにして、月謝を調整します。
たとえばその月の第3週目で再開したときは、
その月の月謝は、2分の1というようにします。

*************************

……ということで、S県※では2か月分の食料を確保するように、
各家庭に通知したそうだ。
まだ日本では発生は確認されていないが、確認されたときが、
(終わりの始まり)?
仮に1人の人が発症したとすると、すでにその数百倍の
人に感染しているとみてよい。
その感染した人たちが、さらにウィルスをまき散らす……。

そんなわけで、1人でも患者が見つかったら、その地域の
小中高校は、すべて閉鎖。
が、それくらいのことをしても、感染の拡大は防げないという。
とくに鳥インフルエンザが人間に感染するようになったら、
かなりの人が、それで死亡するという。
致死率80%という説もある。

ゾーッ!

読売新聞(11月19日)は、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、読売新聞+++++++++++++++++

大流行すれば国内で最大64万人が死亡する恐れがあるとされる新型インフルエンザの拡
大抑止策として、厚生労働省が、国内での発生初期に、都道府県単位の大規模な学校閉鎖
の実施を検討していることが19日、わかった。具体的には、いずれかの都道府県で「人
から人へ」の感染が1例でも起きたら、原則としてその都道府県内全域で学校を休校にす
る。文部科学省とも協議を進める。
 
+++++++++++++以上、読売新聞+++++++++++++++++

また新型インフルエンザについては、つぎのように解説している(同紙。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュース+++++++++++++

毎冬流行するインフルエンザとは異なり、人に感染しにくかった鳥などのインフルエンザ
ウイルスが、人に感染しやすいよう変化して発生すると考えられている。大半の人が免疫
を持たないため、世界で爆発的に流行する恐れが強く、政府の推計によると発生時は国民
の25%が発病、医療機関の受診者数は最大約2500万人、死者は同64万人。アジア
などで鳥から人への感染が続く鳥インフルエンザ(H5N1型)が、新型に変化する事態
が最も心配されている。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュース+++++++++++++

近くで1例でも患者が発生したら、とにかく外出をひかえて、家の
中にひきこもるのがよい。
そのために最低でも2か月分の食料は確保しておく。

薬にしても、タフミルに対して耐性のあるインフルエンザが、すでに見つかっている。
タフミルが万能というわけでもなさそうだ。

インフルエンザを防ぐため、コモスイ噴霧器会社の発行するBLOGには、
つぎのようにある。

+++++++インフルエンザから身を守るために+++++++++

1、外出後、食事前は手洗いとうがいをする。
2、上着を不用意に部屋に持ち込まない(出来れば家に入る前たたいておく)。
3、流行期には人ごみなどへの外出はできるだけ控える(特に高齢者や慢性疾患を持って
いる方、疲労時、睡眠不足時)。
4、外出時はマスクを着用する。
5、部屋を定期的に換気したり、適度な湿度に保つ(湿度50〜60%)。
6、十分な栄養と休養を心がける。

万一感染してしまった場合は、早めに医療機関で受診するようにして下さい。また、家族
内での感染を防ぐためには、室内でもマスクの着用が望ましいです。尚、症状の改善後二
日間は、他人へ感染させる可能性があります。

++++++以上、コモスイ噴霧器会社のBLOGより+++++++

(注※)(産経ニュースより)佐賀県の古川康知事は18日の定例記者会見で、新型インフ
ルエンザの発生に備えた食料の備蓄を呼び掛け、近隣県で発生した場合には佐賀県内の学
校を一斉休校にするなどとする県としての対策を発表した。
 対策は、新型インフルエンザ発生時にはできるだけ人が集まらないことが重要とし、各
家庭に約2か月分のコメや缶詰などの備蓄を呼びかけるとともに、患者搬送などの訓練実
施や、発熱患者を受け入れる薬局の指定などを盛り込んだ。

++++++++++++++++++

(付記)以上の引用の中で、とくに赤線を入れたいところは、
「尚、症状の改善後二日間は、他人へ感染させる可能性があります」という部分。
「治った」と思っても、その後2日間くらいは、今度は他人に感染させないよう
注意しなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●エイズが増加

+++++++++++++++++

エイズ(HIV感染者の発症)が、
ふえている。
先進諸国の中で、ふえているのは、
この日本だけという。

+++++++++++++++++

ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

 厚生労働省のエイズ動向委員会は19日、国内のHIV(エイズウイルス)感染者が累
計で1万人を超えたと発表した。新規感染のペースは右肩上がりに増えており、厚労省は
「先進諸国が横ばいの中で日本の感染率上昇は目立っており、啓発が遅れている」と警戒
を強めている。

 厚労省によると、7〜9月に報告があった新規感染者は294人で、四半期ベースでは
過去最多。血液製剤で感染した薬害被害者を除く感染者は累計で、1万247人(男性8
305人、女性1942人)に達した。85年の最初の感染報告から5000人突破まで
は17年かかったが、ここ数年でペースが急激に上がり、03年1月以降の5年9カ月で
5107人の感染者が見つかった。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

子どもたちを守るのは、子ども自身。
方法は簡単。
心のスキを作らない。……作らせない。

自分のしたいことを夢中になってやっている子どもは、
心にスキがない。
(自己概念)と(現実自己)が一致している。
これを心理学の世界では、自己の同一性という。

その自己の同一性の確立している子どもは、心に
スキがない。
つまり外からの誘惑に強い。
抵抗力がある。

が、この同一性の構築に失敗すると、心にスキができる。
とたん、心は抵抗力を失い、外からの誘惑にもろくなる。

大切なことは、子どもの中に一定の方向性を見つけたら、
子どもといっしょに、その方向性に向かって、興味付けを
手伝うこと。
子どもが「バスの運転手さんになりたい」と言ったら、
すかさず、「すばらしい仕事ね。今度の日曜日に、
バスに乗って、町を一周してみようね」と話しかける。

こうした興味付けが子どもを伸ばす。
伸ばすだけではなく、心の抵抗力をつくる。
その抵抗力が、子ども自身を守る。

……これだけで子どもをエイズから守ることができるとは思わない。
しかしぐんと、遠ざけることはできる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●善人vs悪魔

++++++++++++++++++++++

力のない善人を選ぶか、それとも力のある悪魔を
選ぶか。

そこにあなたを長い間苦しめている悪人がいたとする。
そのときその悪人に対して、あなたは力のない善人を選ぶか、
それとも力のある悪魔を選ぶだろうか。

力のない善人は、その悪人を、理解し、包容するだけ。
しかし力のある悪魔なら、その悪人を苦しめ、やがて
破滅に導くことができる。

あなたはどちらを選ぶだろうか?

+++++++++++++++++++++

●悪魔

私はときどきこう思う。
「私にも、スーパー・ナチュラル・パワーがあった
らなあ」と。
そのパワーで、自分のしたいことをする。
なんでもよい。
たとえば近くに悪人がいたとする。
そういうときそのパワーを使って、その人を破滅に
導く。

よく冗談で、「お前は強制収容所送りだ!」と私は
ワイフに言うが、そういう方法もある。
(ワイフに対して、そう言うだけ。……念のため。)
もし私がK国のあの金xxのような独裁者だったら、
そういうことも不可能ではない。
気にくわない人がいたら、片っ端から強制収容所へ
送ればよい。

ただ誤解してほしくないのは、悪魔といっても、
映画に出てくるような悪魔ではない。
罪のない人まで苦しめるようなことはしない。
ここでいう悪魔というのは、人を破滅させるほどの、
スーパー・ナチュラル・パワーをもった人をいう。

●悪魔の魅力

悪魔には悪魔の魅力がある。
あなたの欲望をじゅうぶん満たしてくれる。
それはそれで甘美な世界かもしれない。
悪魔といっても、あなたは人からじゅうぶん、尊敬される。
金持ちで、豪邸に住む。
たいてい欲しいものなら、何でも手に入れることができる。

またあなたが破滅させる悪人にしても、悪人は悪人。
だれが見ても悪人。
そういう悪人である。
悪魔にもいっぱしの正義感はある。
たとえて言うなら、昔、テレビ映画にあった、「必殺仕置き人」
のような悪魔をいう。
闇にまぎれて、悪人をバサバサと切り倒していく。

その「必殺仕置き人」のような仕事を、あなたの
スーパー・ナチュラル・パワーが、かわりにしてくれる。
あなたがそのパワーを使ったところで、あなたには
その自覚はない。
知らない間に、知らないところで、悪人たちは破滅していく。

●再度、質問

そこで再度、同じ質問。
力のない善人を選ぶか、それとも力のある悪魔を
選ぶか。

具体的に考えてみよう。

あなたの職場に、たいへん意地悪な同僚がいる。
いつもあなたに対して、いやがらせを繰り返す。
巧妙な手口を使うこともある。
が、人前では、善人のフリをしている。

あなたはその同僚に殺意に似た、怒りを覚えることもある。
「許せない」と、何度も思ったこともある。

そういうとき、悪魔が近づいてきて、あなたにこう言う。
「あなたに、パワーをあげようか。
私の子分になれば、そのパワーをあげる」と。

つまりパワーのある悪魔になれ、と。

あなたはそのパワーを手に入れれば、その同僚を破滅に
導くことができる。
それによって復讐することができる。

さあ、どうする?

●究極の選択

実は、この話は、私が夢で見たものである。
今朝早く、そんな夢を見た。
まだ夜は明けていなかった。
ぼんやりとワイフの寝息を聞いていると、だれかが、こう
囁(ささや)いた。

「お前は善人になりたいか、それとも悪魔になりたいか」と。
で、私が「悪魔って何か?」と聞くと、そのだれかが、
「悪魔になれば、何だってできるようになる。
超能力(スーパー・ナチュラル・パワー)だって、
手に入れることができる」と。

しばらく考えて、……というより、しばらく頭の中がモヤモヤ
したあと、私はしっかりと、こう答えた。

「ぼくは善人になりたい。そんな力はいらない」と。

このところ善人、悪魔というテーマで原稿をよく書くので、
きっとそんな夢を見たのだと思う。
どうということのない夢だが、目覚めはよかった。

●悪人はいない

悪人はいない。
大切なのは、こちら側のつきあい方。
そのつきあい方で、相手が決まる。
その人が悪人に見えるのは、何か、こちら側にも
問題があるからだ。

……とまあ、そこまで謙虚になるのは、むずかしい。
またそこまで謙虚になる必要もない。

しかし人を憎んだり、うらんだりして生きるのも、疲れる。
ものすごいエネルギーを消耗する。
だったらあとは、負けを認めて、静かにひきさがればよい。
「すみませんでした」と。

ということは、私やあなたが悪魔になったところで、
得るものは何もない。
仮に10人の悪人を破滅させたとしても、そのあと、
新しい悪人が、100人、生まれるだけ。
あなたがパワーで、そういう人たちを破滅に導いたところで、
後味の悪い思いをするのは、結局は、あなた自身という
ことになる。

だから結論は、やはり、「善人のほうがいい」となる。
そのほうが、ずっと気楽。
ワイフも車の中で、こう言った。

「そうねえ、私は、今のままでいい」と。
とくに善人になりたいとも思わないが、悪魔にも
なりたくない。と。
「そんな消極的なことでいいの?」と聞くと、
再度、「今のままでいい」と。

私のワイフのような人を、本物の善人という。

そのあと今朝見た夢を、ワイフに話してやった。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●かにすき鍋

+++++++++++++++++

今夜は豪華に、かにすき鍋。
Bという店に行ったら、かにの特売をしていた。
今は、かに(蟹)のシーズン。
さっそく、かにすき鍋を考える。
……ということで、今夜のメニューは、
かにすき鍋。

おいしかった。
それを家族(3人)で食べながら、ふとこう漏らす。
「我が家は、2日おきに、豪華な料理だな。
明日は茶漬けになりそう」と。

私は料理といっても、鍋料理か、バーベキュー料理しか
できない。
山荘で客人をもてなすときは、たいていこの種の料理。
しかし年季が入っているので、腕のほうはたしか。

……おなかが満足すると、血糖値があがり、精神的に
落ち着く。
今は、そんな気分。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●B・カメラ

今度、駅前に「B・カメラ」という国内でも最大級のパソコンショップが
オープンする。
明日、開店するという。
楽しみだ。

言うなれば、おとなのための知的遊園地。
新製品を見て歩くだけでも、楽しい。
開店当初だけだと思うが、ふつうのデジカメを、1万円以下で売るという。
何を隠そう、この夏前(6月)に2万8000円で買ったC社のカメラが、8000円
とか(チラシ)。

シラ〜〜〜。

で、現在、私のそのカメラは修理に出している最中。
バッテリーが過充電で、いかれてしまった。
充電器の故障ということになるが、店の人は、「バッテリーを交換しなければ
ならないかもしれません」と言った。
値段を聞くと、バッテリーだけで、「5400円+税」とか。
だったら、B・カメラで、新品を買ったほうが安いくらい。
どうしようか?

法律的には、充電器の故障でバッテリーがいかれたのだから、バッテリーも
保証の範囲にあるはず。
因果関係がはっきりしている。
しかし店の人は、充電器の故障は保証の範囲だが、バッテリーは保証の範囲に
入っていないという。
「バッテリーは消耗品だから」と。
そこで私が、「それはおかしい」と反論すると、店の人は、「5か月も使えば、
自然な状態で使っても、バッテリーはだめになります」と。

「????」

このあたりに日本人の法意識の限界がある。
つまりもし店の人の言い分が正しいとするなら、私はこんなこともできる。

まず同じバッテリーを10個、買う。
つぎつぎと過充電し、みんなダメにする。
そしてその10個のバッテリーを店にもっていき、新品と交換してもらう。

いや、そのときは、店の人はそれを拒否するにちがいない。
「故障した充電器を使った、あなたが悪い」と。
そこで私は、こう反論する。
「充電器が故障しているかどうかは、充電してみないとわからない。
私には、責任がない」と。

……自分でも、何を書いているか、わからなくなってきた。
要するに、充電器が故障した。
だから充電器の修理(交換)は、当然である。
その充電器を使って、バッテリーがいかれてしまった。
バッテリーがいかれたから、充電器が故障していることがわかった。
だから5か月使ったにせよ、店はバッテリーも交換すべきである。

わかりやすい例で言えば、ガスストーブの故障で火事になった。
そのときガスストーブの製造会社は、当然、火事についての責任を負う。
ガスストーブの交換だけで、すむ話ではない。

今度あの店に行ったら、そのように主張してみるだけ、主張してみよう。


●AS首相の言動
 
私が予想したとおりのことが、起き始めている。
今週発売の週刊誌には、見出しに「おバカ総理」(週刊S潮・11・27)とある。
何でもオバマ氏と会談したことについて、「オバマは、英語がウメ〜ナ」と
言ったとか(週刊B春・11・27)。
見出しにはさらに大きく、「AS太郎のマンガ脳」とある。
内容はともかくも、そこまで酷評されること自体、情けない。
しかしこんなことは、最初から、わかりきっていたこと。
外務大臣のころの暴言、失言を、今さらここに書き出すまでもない。
AS首相というより、AS首相を選んだ、国民にその責任がある。

そのAS首相は経済危機を理由に、今しばらく政権の座にしがみつくつもりらしい。
が、それが長ければ長いほど、ボロが出てくる。
J党の支持率はさがる。
私がM党の党首なら、もう少しAS氏を泳がせておく。
そのほうが、つぎの選挙では、がぜんM党が有利になる。

(付記)
同年代の人間として、私はこう感ずる。
ああいうASのような人物と、繊細な話をしようとしても不可能ではないか、と。
言葉の使い方が貧弱というか、メチャメチャ。
その場の雰囲気だけで、あとは感情論だけで動いてしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●眠られぬ夜

+++++++++++++++

午後8時ごろ、猛烈な睡魔。
「早く寝ようか」とワイフに声をかけると、
すなおに従ってくれた。

が、そこへ電話。
ある母親からの、相談の電話だった。
それに30分ほど、応対した。
とたん、頭が冴えてしまった。

気温が低かったこともあり、足が冷えた。
ストーブはすでに止めてあった。
それがよくなかった。
その分だけ、頭のほうに血が上った(?)。
こういうの東洋医学では「逆上」という。

そのあと床についたが、(お目め、ぱっちり!)。
ワイフはすぐ寝息をたてたが、私は、ふとんの
中で、じっとがまん。
どこか息苦しかった。
動けばワイフの睡眠を妨げる。

そこで私は起き上がってしまった。
が、こうなると、もう眠られない。
たぶん、夜中の1時ごろまで無理だろう。

しかたないので、居間のコタツに座って、愛用の
ミニパソコンに電源を入れた。
メールを読んで、ニュースに目を通す。

軽い神経痛があるのは、風邪の後遺症か。
頭の側面をピリッ、ピリッと小さな痛みが走る。

私のばあい、こういうときは、無理をしない。
起きていたいだけ、起きている。
そのうち眠くなったら、寝る。
ものの本によれば、人間というのは、1日や2日、
眠らなくても、死ぬことはないそうだ。

しばらくすると、ワイフが心配して起きてきた。
「あなた、だいじょうぶ?」と。

「ぼくはだいじょうぶだから、先に寝てよ」と答える。
長年の習慣というか、ワイフはワイフで私の温もりがないと、
眠られないらしい。
私もそう。
どんなはげしい夫婦喧嘩をしても、その夜にはいっしょに
寝ることにしている。
つまり寝ている間は、休戦。

ひとりで寝るのはつらい。
私のような人間を、「ワイフコン」という。
私が考えた言葉。
つまり「マザコン」と同列の、「ワイフコン」。
ワイフがいないと、何もできない。
あわれな、どこまでもあわれな夫。

日本語では「尻に敷かれた夫」。
英語では「親指の下の夫(a husband under the wife's thumb)」。

しかしこうしてのんびりと、意味のない文章をたたくのも、
悪くない。
文を書くというよりは、パソコンをいじっていることそのものが、
楽しい。

そう言えば先日、新しいパソコンのキーボードにシールを
張っていたら、一人の母親が、「楽しそうですね」と言った。
私は、「。」「F7」「back space」のキーには、シールを張ることにしている。
よく使うキーだからである。
「F7」は、カタカナ・キーとして使っている。

「こういうことが楽しいです」と答えると、その母親もうれしそうに
笑った。
きっとその母親も、パソコンが大好きなのだろう。
たがいの趣味が、ビンビンと一致した。

で、今、使っているパソコンで、いちばん気に入っているのが、
HP社の2133。
つぎがACER社のアスパイア(1)。

書斎には大型のデスクトップが2台置いてあるが、名前はない。
MCJ社の高性能パソコン。
ほかにNECのLaviと、FujitsuのFMVも居間に置いてある。
最近は、めったに使わない。

使い勝手はあまりよくないが、どういうわけか、このところ
ミニ・パソコンが気に入っている。
小さくて、かわいくて、それでいて一人前。
どこへでも持っていかれる。
その利便性が、よい。

……時計を見ると、午前12時を少し回ったところ。
何となく、頭の中がぼんやりとしてきた。
頭のほてりも収まってきたよう。
もうすぐ眠くなるはず。
そうなったら、ふとんの中に潜り込む。

眠られない夜は、無理をしない。
眠くなるまで、好き勝手なことをして時間をすごす。
何よりも、それがいちばんよい。

そうそうハーブ系の睡眠薬、もしくは精神安定剤が
効果的。
これからその睡眠薬をのむところ。
忘れていた!


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●退職後の男たち

+++++++++++++++

定年退職をしたあと、まったく
仕事をしなくなる男性は多い。
約50%がそうではないか。

しかし私のばあい、そういう状態には、
それほど長くは耐えられない……と思う。

気がへんになってしまう。
というのも、仕事をするから、気が紛れる。
仕事をしなくなってしまったら、
気を紛らわすことができなくなる。
もともと(うつ)タイプの人間だから、そのまま
一気にうつ病になってしまうかもしれない。

が、中にはそうでない人もいる。

知人(私と同じ、満61歳)は、最近まで
家の中でゴロゴロしていたという(妻の言葉)。
が、このところ毎日のように、ゴルフに
出かけているという。
コースを回るときもあるという。

そういえば、別の知人(満61歳)もそうだ。
しばらく家の中でゴロゴロしていたあと、
ゴルフ場に通うようになった。

が、その先は、どうなるか?

そういうときは、70歳とか、80歳の男性を
観察してみればわかる。
仕事に復帰する人もいるが、60歳で一度遊び
始めると、急速に社会適応性を失う。
つまり職場復帰がむずかしくなる。

だからできるだけ長く、仕事はつづけたほうがよい。
60歳で引退というのは、早すぎる。
早すぎるというより、もったいない。

が、ここで新しい問題が起きる。
夫が家の中でゴロゴロし始めると、妻のほうが、
それを負担に感ずるようになる。
さざ波が立つように、たがいの間に、緊張感
が走るようになる。
この緊張感がストレスとなって、妻に
はねかえる。

こうなったとき、解決方法は、2つに1つ。
夫が家を出るか、妻が家を出るか。
そこで夫は、ゴルフに通うようになる。
もっとも手っ取り早く、だれにでもできる
運動である。
それにひとりで、できる。

が、つづいても10年。
5〜6年もすると、たいていみな、やめる。
やめて家の中に引きこもるようになる。
それが老後の始まり。

みんなそれぞれ、自分で考えて、自分で判断して
行動しているのだろうが、総じてみると
ひとつの「形」をつくるところが、おもしろい。

ということは、定年退職後の男性は、つぎの
ような段階を経て、老人になると考えることも
できる。

称して、「はやし浩司風、老人段階論」。

第1期……ゴロゴロ期(家の中でゴロゴロする。)
第2期……軽い運動期(何かの運動を始める。)
第3期……倦怠期(病気か何かがきっかけで、運動をやめてしまう。)
第4期……老人期(老化が一気に進む。)

あとは要支援→要介護という段階を踏み、要介護5を経て、
あの世行き。

だからやはり仕事はしていたほうがよい。
どこかで生活の緊張感を保ったほうがよい。
その緊張感が、結局は健康につながる。
肉体はもちろん、精神の健康にもつながる。

東洋医学でも、『流水は腐らず』と教える。
英語では『ころがる石は、コケをつけない』と教える。

だから、満60歳になった、みなさんへ、
もう少しがんばってみようよ。
あわてて老人になることはない。

今夜はこれで、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●オバマ氏の対北朝鮮政策

+++++++++++++++++++

あちこちのニュース・サイトを読む。
オバマ氏の情報を集める。
どんな人で、どんな考え方をする人か知りたい。
が、こと極東アジア政策については、未知数。
今朝、やっとその一部が、あるニュース・サイトに
載った。

北朝鮮に対しては、(1)2国間の首脳会談をする。
(2)「アメ」と「ムチ」の政策を実行する、と。

一方、自分を売り込もうと必死になっているのが、
C・ヒル氏。
北朝鮮を擁護しつつ、北朝鮮側の作業は順調に
進んでいる、と。
6か国協議も、12月中に開くことができると
主張している。

なおC・ライス氏は、退任後は、すでに大学の教授に
なることが決まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●それぞれの家庭の事情

私には、約60〜64人もの従兄弟(いとこ)がいる。
自分でも、すごい数だと思う。
そういう従兄弟たちをながめてみると、人、みなそれぞれということがわかる。
しかも他人とちがい、それぞれの家庭の事情が、直接肌を通して伝わってくる。
他人のような距離感がない。

が、そういう従兄弟でも、60年を経てみると、ここに書いたように、
人、みなそれぞれ。

兄弟姉妹で、友人以上に熱い関係を作りあげている従兄弟もいれば、
兄弟姉妹でありながら、他人以上に疎遠になってしまった従兄弟もいる。
親子、兄弟姉妹の間で、たがいに縁を切ったという従兄弟もいる。

そういう従兄弟たちをながめながら、私は改めて、こう思う。

「自分がそうであるからといって、他人もそうであるとか、そうであるべきと
考えてはいけない」
「自分がそうでないからといって、他人もそうでないとか、そうであっては
いけないと考えてはいけない」と。

が、中には思慮の浅い人がいる。
平気で自分の考えを、他人に押しつけてくる。
このタイプの人は、安易な『ダカラ論』をふりかざす。
あるいは古い因習や伝統を、もちだす。

「お前は子だろ」
「お前たちは兄弟だろ」
「親子だろ」
「親は親だからな」と。

しかしこうした安易なダカラ論ほど、その当事者たちを苦しめるものはない。
(血が通っている分)だけ、その人を苦しめる。

その人の思慮深さは、その人の人間関係についての意見を聞けばわかる。
思慮の深い人ほど、口が重くなる。
一方、思慮の浅い人ほど、無神経、無頓着。
平気でズカズカと他人の家にあがりこんでくるようなことをする。
平気で内政干渉をしてくる。

さらに加齢とともに、繊細に曇りが生じてくる。
相手への思いやりはもちろん、相手の立場でものを考えるということが
できなくなる。
認知症が加われば、なおさらである。
思慮がどんどんと浅くなる。

つまりその人の思慮の深さは、他人への共鳴性の深さで決まるといってもよい。
いくら歳をとっても、その繊細さだけは、失わないようにしたい。


●自尊心vs自意識

自分のもつ人間としての尊厳さ。
それを自尊心という。
これは私たちが生きていくうえで、最後の最後まで大切にしなければならない。
自尊心をなくしたら、おしまい。

その自尊心とよく似たものに、自意識がある。
「私は私」と思うのは、大切なことだが、そのワクを超えて、「私だけが特別」と
思うのは、自意識。
このタイプの人は、自分の価値は認めても、相手の価値は認めない。
自己中心性が肥大化したものが、自意識ということになる。

で、どんな世界にも、自意識が過剰な人というのはいる。
世界が自分を中心に回っていると錯覚する。
ウソや冗談ではない。
本気でそう信じている。

最近、こんな女性(80歳)がいることを知った。
何でも美容院へ行くたびに、1万円のチップを払っているという。
だれしも、ものすごい金持ちと思うかもしれない。
しかし現実は、その反対。

実の娘(65歳)と同居しているが、その娘は近くの事務所で
事務員として働いている。
収入は、それほど多くない。
その娘から金を出させて、そうしている。
(1万円のチップだぞ!)

世間体を気にする人というのは、何歳になっても、そうする。
変わらない。
そしてその世間体の基盤になっているのが、ここでいう自意識である。
それが過剰になればなるほど、世間体を気にするようになる。
本当はだれにも相手にされていないのに、まただれも相手にしていないのに、
自分では、相手にされていると思い込んでいる。
自分は注目されていると思い込んでいる。

私の母にしても、そうだった。

自分の実家の稼業をけなすようでつらいが、私の実家の稼業は、自転車屋。
ただの自転車屋。
先日も中学時代の同窓会に出てみたが、みなが、そういう目で見ているのが
よくわかった。
「林、お前は、あの自転車屋の林だろ」と。
「自転車屋」という部分だけ、ことさら強調する。
(これは私のひがみ意識か?)

大正時代の昔は知らないが、今では、その社会的評価は、あまり高くない。
職業に上下はないが、「上」とは、とても言えない。
ここでいう(そういう目)というのは、そういう目をいう。

が、母だけは、ちがった。
過去の亡霊を、自分から切り離すことができなかった。
町の酒屋や醤油屋、さらには医院と並んで、名門家と思い込んでいた。
晩年になってからでも、私が、「ただの自転車だろ」などと言おうものなら、
パニック状態になって、私を叱った。
「そんなこと、あらへん(ない)!」と。

そういう意味では、母は、きわめて自意識の強い女性だった。
自分が落ちぶれた自転車屋の女主人であることが、人に知られるのを、何よりも
恐れていた。
祖父(私の祖父)の時代の財産など、当の昔に使い果たしてしまっていた。
にもかかわらず、「おじいちゃん(=私の祖父)が財産を残してくれたから、
生活できる」と。
いつも決まって祖父を自慢していた。

こうした偏狭な自意識と闘うためには、自分の住んでいる世界を広くする。
何も自転車屋をつまらない職業と思えというのではない。
大切なのは生き様。
生き方。
それが確立していれば、職業というのは、それこそただの金儲けの手段にすぎない。
おかしな上下意識にまどわされて、卑下する必要は、まったくない。
総理大臣だろうが、自転車屋だろうが、職業は職業。

が、自分の姿を客観的に見るのは、むずかしい。
自分の立場を客観的に知るのは、さらにむずかしい。
しかし方法がないわけではない。

常に相手の目の中に自分を置く。
そこから、自分を見る。
「この人には、自分はどんなふうに見えるだろうか」と。

ただこの時点で注意しなければならないことは、仮にどんなふうに見えても、
気にしないこと。
気にしたとたん、(世間体)が顔を出す。
そのときこそ、「私は私」を貫く。


●エセ科学

今日のネット・ニュースを見ていたら、2つの興味深い記事が目についた。

ひとつは、エセ科学を糾弾する記事。
もうひとつは、霊感商法で犠牲になった人たちの記事。
「最近のスピリチュアル・ブームで、ハードルが低くなったため」とか。

つまりスピリチュアル・ブームでハードルが低くなった分だけ、
霊感商法に対する抵抗力が弱くなり、その犠牲者になる人がふえているという。
その理由として、「テレビ」をあげる。

それについては、何度も書いてきたので、ここでは省略する。

エセ科学と闘うための方法として、まず疑ってみること。
自分の頭で考えてみること。

その記事の中には、こんな記述もあった。

「あの人が言っているからまちがいないだろうという、主体性の
なさが、エセ科学の温床になっている」と。

言いかえると、「テレビで言っているのだから、まちがいない
だろう」という、主体性のなさが、エセ科学の温床になっている。

スピリチュアル……?
いつまでもアホなことを言っていないで、いいかげんに目を覚まそう!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●しつけ

+++++++++++++++++

「しつけ」というときは、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がなければならない。

あいさつの仕方など、国によってみなちがう。
時代によってちがうこともある。
さらに軍人には、軍人のあいさつのしかたがある。

そういうのは、「しつけ」とは言わない。
「作法」という。

たとえば最近、こんなことがあった。

++++++++++++++++++

W君(小2男児)は、インフルエンザにかかり、1週間ほど、
学校を休んだ。
その直後、私の教室に来た。
まだ咳が残っていた。
1〜2分おきぐらいに、ゴホゴホと咳をしていた。

こういうケースのばあい、対処の仕方が2つある。

W君にマスクを渡し、マスクをかけさせる。
あるいは全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

ふつうはW君だけにマスクを渡し、W君だけマスクを
かけさせれば、それですむ。
しかし中に、それをかたくなに拒否する子どももいる。
「罰」か何かのようにとらえる。

そういうときは、全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

が、である。
そういうふうにしても、W君は、ときどきマスクをはずし、
ゴホゴホと咳をする。
私のところへやってきて、面と向かって、ゴホゴホと咳をする。

だから私はかなりきつくW君を叱った。
「人の顔に向けて、咳をしてはだめだ」と。

するとW君は、「手で(自分の口を)押さえた」とか、
「先生の顔には向けてない」とか言って、反論した。

私「あのなあ、咳というのは、手で押さえたくらいでは
防ぐことができないんだよ」
W「いいから、いいから……」
私「いいから、いいからというような問題ではない。
マスクをちゃんと、しなさい」
W「ぼくはもう、治った」
私「治ってない!」と。

ついでに付記するなら、インフルエンザのウィルスに、
おとなも子どもも、ない。
おとな用のウィルス、子ども用のウィルスというのは、ない。
みな、同じ。
だから目の前でゴホンとやられたら、即、そのまま私に
感染する。
防ぎようがない。

ほとんどの人は、(おとなも子どもも)、咳をすることに
たいへん無頓着。
この日本では、とくに無頓着。
それを悪いことと考えている人は、少ない。
満員電車の中でさえ、平気でゴホゴホと咳をしている人さえ
いる。

しかし相手の顔に向けて咳をするのは、相手を手で殴るのと
同じ、暴力行為。
だから私はW君をさらに強く、叱った。

私「私の言うことが聞けないなら、この教室から出て行きなさい」
W「どうしてヨ〜?」
私「どうしてって、みんなにインフルエンザが移ったら、どうする?」
W「だいじょうぶだよ。移らないよ」
私「……」と。

もうおわかりのここと思うが、こういうのを(しつけ)という。
「咳をするときは、口をハンカチで押さえる」
「マスクをかけるのは、常識」
「マスクをしていても、相手の顔に向けて、咳をしない」

こうした(しつけ)には、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がある。
わかりやすく言えば、世界の常識。

……では、なぜ、こんなことを書くか?
実は今、あちこちの幼稚園で、「しつけ教室」なるものが、
たいへん流行(はや)っている。
たいていあいさつの仕方から始まって、箸の持ち方、置き方
などを教えている。

私はそうした(しつけ)は無駄とは思わないが、どこか
ピントがズレているように思う。

もっと基本的な部分で、大切にしなければならないことがある。
たとえば、(順番を並んで待つ)(順番を無視して、割り込みしない)
(他人をキズつけるような言葉を口にしない)など。
しかしそういう(しつけ)は、「しつけ教室?」で学ぶような
しつけではない。
私たちおとなが、日々の生活を通して、「常識」として、子どもの
体の中に、しみこませるもの。
先に書いた咳にしても、そうだ。
自分の子どもが無頓着に他人の顔に向けて咳をしたら、すかさず、
子どもを叱る。
その前に、親自身が自分のエリを正さなくてはいけない。
(しつけ)というのは、そういうもの。

ついでに言うなら、(あいさつ)など、どうでもよい。
したければすればよい。
したくなければ、しなくてもよい。
そんなことをいちいち教えている国は、今、ほとんどない。

たとえば韓国でも、数年前から、授業の前とあとのあいさつを
廃止した。
「起立!」「礼!」という、あのあいさつである。
「日本の植民地時代の亡霊」という理由で、そうした。

が、現在、浜松周辺の学校では、ほとんどの学校で、この種のあいさつを
している。
(当番の子どもが、「これから授業を始めます」などと言い、頭をさげるなど。)
国際性がないという点で、これはしつけでもなんでもない。

(参考)

A小学校……当番が「はじめましょう」と小さい声でいう。
それに答えて、全員が「はじめましょう」と合唱して、頭をさげる。

B小学校……当番が「起立!」と言い、先生が「はじめましょう」と答える。
そのとき生徒全員が、頭をさげる。

C小学校……全員が起立したあと、「今から○時間目の授業をはじめます」と
言って、頭をさげる。

D小学校……当番が「起立!」と号令をかけ、「○時間の授業を始めましょう」と
言う。そのとき生徒と先生が、たがいに頭をさげる。

E小学校……学級委員が、「起立」「姿勢はいいですか」と言い、みなが、
「はい!」と答え、学級委員が「今から○時間目の授業をはじめましょう」と
言って、みなが、礼をする。

ついでながら、アメリカやオーストラリアでは、先生が教室へやってきて、
「ハイ!」とか言って、それおしまい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの非行】

●子どもの暴力+非行

+++++++++++++++++++++

内燃する欲求不満、それが爆発して、子どもは
外の世界で、非行に走るようになる。
ふつうの欲求不満ではない。
「相手を殺してやりたい」と思うほどの欲求不満。
このばあい、相手というのは、多くのばあい、
母親をさす。

が、母親には、その自覚はない。
「私はすばらしい母親」と思い込んでいる。
「私のすることは、ぜったい、正しい」と
思い込んでいる。
この異常なまでの自己中心性が、子どもの心の
中に、殺意を生む。

子どもが非行に走る背景には、その母親がいる。
頭ごなしの過干渉、口うるさく、世話焼きだが、
子どもの心を考えない母親。
一方的に自分の価値観を子どもに押しつけ、
そのつど恩を着せる。
「産んでやった」「育ててやった」「苦労をした」と。
子どもには、それが負担。
ときに重苦しい鎖となって、子どもの首を絞める。
そうした子どもの心さえ、母親には理解できない。

が、家庭の中では何もできない。
悶々とした日々。
晴れることのない、うっぷん。
「殺意」を感じたとしても、それはそれ。
それが外の世界で、爆発する。

過干渉児の第一の特徴といえば、善悪の判断にうとい
ということ。
自分で考えることさえ、できない。
いつも母親に命令されるだけ。
「ああしなさい」「こうしなさい」と。
子どもの非行は、その結果としてやってくる。

+++++++++++++++++++

●異常な過干渉

その母親には、3人の子どもがいた。
が、3人とも、中学へ入るころから、グレ始め、高校へ入るころには、
手がつけられないような状態になっていた。
もちろん高校は、そのまま退学。

その母親と、ある仕事を通して、しばらく交際したことがある。
明るく快活な女性だった。
世話好きで、情報量も多く、何か問いかけると、すかさずペラペラとあれこれ、
教えてくれた。
が、やがて気になることが目立ち始めた。

まず自分を飾るためのウソが多いということ。
口がうまく、その場の雰囲気に合わせて、あれこれと言うが、つかみどころがない。
同じ話を長々と繰り返すことも多かった。
が、その一方で、相手、つまり私の言うことを聞かない。
自分勝手でわがまま。
そして3人の子どもたちの話になると、「私は一生懸命尽くしたが、子どもたちは、
私を理解できない」と。

とくに自分の苦労話になると、ことこまかく、話し始めた。
「息子の塾通いのために、苦労をした。病気でも、休む暇もなかった。
私は息子たちのために、どれほど苦労したかわからない」と。

全体の雰囲気としては、セカセカと、いつも落ち着きなく動き回っていた。
ペラペラとよくしゃべったが、中身がなかった。
一度、何かの資料をインターネットからコピーして手渡したことがある。
しかしそれには、一瞥(べつ)しただけで、何を誤解したのか、
片手でそれを払いのけてしまった。
「私には、こんなものを読んでもわかりません!」と。

そしてある日。
私がその息子の1人と話すことになった。
そのときのこと。
私が息子と話そうとしても、そのつど、間に割り込んできた。

私、息子に向かって、「学校では、部活は、何をしているの?」
母親、割り込んできて、「今は、何もしていないわよね」
私、息子に向かって、「何かしたいことはあるだろ?」
母親、割り込んできて、「先生との相性が悪くて、ハンドボールをしていましたが、
やめました」
息子「……」と。

こういう母親と接していると、絶望感すら覚える。
子どもの立場で考えるなら、殺意を感じたところで、何らおかしくない。
そこで私は、母親にその場を離れてもらい、息子と一対一で話すことにした。
が、その様子を見ながら、部屋から出るとき、母親はこう言った。

「うちには、そういう人(=私のこと)がいないから、いけないのよ」と。

つまり息子たちと、そのときの私のように、静かに会話できるような人がいないから、
「いけないのよ」と。
私には何かしら、捨てゼリフのようにも聞こえた。
あるいは夫に対する、不平、不満を、その一言で表現したのかもしれない。
「夫は何もしてくれないから、私だけが苦労する」と。

●子どもの非行

しかしこのタイプの母親ほど、外の世界で子どもが事件を起こすと、パニック状態に
なる。
ワーワーと泣きわめいたり、子どもをかばったりする。
そして子どもに向かっては、いつ終わるとも知れない説教を繰り返す……。

私はそういう母親を知ったとき、子どもの非行の原因は、母親が作ると感じた。
(そう言い切るのは、少し乱暴かもしれないが……。)
もし家庭が、穏やかで、心温まる場所であれば、子どもは疲れた翼(つばさ)を、
そこで休めることができる。
そのカギを握るのが母親であるとするなら、やはり原因は、母親にあると考えてよい。

が、このタイプの母親は、それすら認めようとしない。
「うちの子が非行に走ったのは、友だちにそそのかされたからです」
「友だちが悪いのであって、うちの子ではありません」と。

自己中心性が、(家族)というワクになると、今度は、(家族)中心性へと
変化する。

「自分の家族は、ぜったい正しい」
「自分の家族のすることには、まちがいない」と。

その息子が高校で退学処分になるときも、その母親は、最後の最後まで、
相手の子どもが悪いと主張した。
言い忘れたが、その息子は、学校で暴力事件を起こし、相手の子どもを2階の窓から
突き落とし、全治3か月の大けがをさせてしまった。

自己中心的であればあるほど、相手の心が見えなくなる。
自分の息子の心が見えなくなる。
その盲目性が、子どもを非行へと追いやる。

+++++++++++++++++++++

以上が、子どもの非行についての一般論ということになる。
もちろん子どもの非行が、すべて、これで説明できるというわけではない。
子ども自身が何らかの心の病気をもっているケースも少なくない。

たまたま昨日、A県に住んでいる、Eさんという母親から相談のメールが届いた。

もちろんEさんが、ここでいう自己中心性の強い母親ということではない。
Eさんは今、懸命に自分を見つめなおそうとしている。
しかしどこかで親子の歯車がかみ合わなくなってしまった。
最初は小さなキレツだったかもしれない。
しかしそれが今、親子の間に、大きな溝を作ってしまった。

【Eさんより、はやし浩司へ】

(家族構成)

父親 サラリーマン、国立大学院卒、監査役会社コンサルタント会社取締役、
父親には、学歴重視があり、子供たちにも小さなころから、自分が卒業した地元の進学校
に入学することを言葉にして、促していた。

母親 わたくし本人、地元A市の短大卒、商社支社に就職、友達の紹介で結婚、二人の息
子出産。

(経過)

長男 18歳、中3から荒れ始め、非行、高校には進学せず、バイクで暴走、万引き、家
庭内暴力もある。
家裁に2度ほど行くが、不処分に終わる。
去年終り頃から落ち着き始め、地元を離れたいといい、A市の方で一人暮らし。高認、
大学進学コースの学校に通いはじめるが、行くことはなく、キックボクシングをやりなが
ら今年の高認を受ける。

次男 16歳、小学校6年から不登校、中2までひきこもる。中1の時、父親と一緒に隣
町のマンションに引っ越す。
長男の家庭内暴力がひどかったこともあるが、父親がそんな家庭から逃げたかったともあ
るように思う。

中3から転校して登校したいといい、転校させ、登校し始める。
3年間の不登校はあったが、もともと頭の切れる子であったため、成績は学年でもトップ
クラス。

今年の初めごろから元のマンションに戻り、一緒に暮らすようになる。
高校も受験し、公立高校に合格するが、8日でやめてしまう。
今年、4月から高校もやめ、家にいる。
少し、コンビニでバイトしたが、続かず、人間関係がうまく結べない。
ちょっとしたことに腹を立て、へそを曲げやめる。

今回、相談は次男のことです。

最近、こだわりが強く、政治の問題を見ても偏りが多く、自分の意見と合わないニュース
などはすぐに切ってしまいます。

右翼、左翼という言葉を口にし、左翼を馬鹿だ、あほだと批判します。
障害者や貧乏人は社会の役立たずだから、おとなしくすべきだなどと暴言を吐きます。
内容はまだまだ稚拙に思え、本当の思想をもった右翼とは違いますが、自分では偉そうに
講釈をたれ、私を罵倒します。

私はただ、うなずくだけ、反対も抵抗もしません。
違うんじゃない?、なんて言おうものなら暴力をふるわれます。

うつ病であるようですが、病院にいくような状態ではありません。本人は拒絶して荒れる
と思われます。
寝る前は死にたい、死にたいと言っていますし、夜中起きて大きな音をたてて、腹が立っ
ていることを知らしめようとする行為が見られます。

小さい頃はK式算数教室にも通い、成績もよく、利口な子でした。
そう演じていただけなのかもしれません。
友達と心を開いて、遊ぶこともなかったように思います。
小学校では優等生、クラスでは人気者でお笑いの漫才をしたりするような子でした。

この状態はしばらく様子を見るしかないのでしょうか。
これ以上荒れないようにするにはどう対処すればいいのでしょうか。

長男の非行のほうが、よほどましなような気がします。
それはそれで大変でしたが、今は落ち着いています。

私は長男に高卒認定試験を進めるわけでも、大学進学をするように言うようなことは一切
しなかったですが、本人がそうしたいと言い出しました。
鉄筋工、溶接工などの仕事を経験し、自分をみつめたのでしょうか、自分で動きだしまし
た。

次男の場合は長男の状況をは違うようです。

接し方で気になる点があれば教えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Eさんへ】

Eさんの心中を察するに、あまりあるものがあります。
心苦労も大きいかと思います。
しかしひとたびこういう状況になってしまったら、鉄則は、ただ2つ。

(1)暖かい無視
(2)求めてきたときが与えどき、です。

あとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任せます。
「直そう」「改めよう」「何とかしよう」とあせればあせるほど、逆効果。
子ども自身も、それを望んでいないでしょう。
あなたがすべてを受け入れ、あきらめきったとき、あなたの子どもは、
あなたに対して心を開きます。

が、その時期といっても、10年後かもしれません。
20年後かもしれません。
しかしいつか「お母さん、ぼくが苦労をかけて悪かった」と言う日がやってきます。

方法は、簡単です。
『許して、忘れる』です。
これだけを念じて、前に進みます。

幸いなことに、あなたは、私に相談のメールをくれました。
あなた自身が、問題解決のために、一歩、踏みだしたということです。

先に、子どもの非行についての一般論を書いてみましたが、もちろんこれはEさんの
ことではありません。
ただ親というのは、親意識が強ければ強いほど、自分ではよかれと思いながら、
子どもに対して、余計なことをしやすいもの。
別のところで、子どもの心を見失いやすいものということです。

Eさんは、メールの中で、「そう演じていただけなのかもしれません」と書いて
おられます。
ここまで気づけば、もう先は、それほど遠くありません。
ふつうは、つまりふつうの親は、ここまでは気がつきません。
「私は正しいことをした」と、自分を振り返るようなことはしません。

で、Eさんのメールを読んで、再確認したことがあります。
それは、「親が子どもを育てるのではない」ということ。
「子どもが親を育てる」ということです。

今のEさんには、そこまではまだわからないかもしれませんが、私には、それが
わかります。
Eさんの2人の子どもは、今、自分の体を張って、Eさんという人間(母親でもない、
妻でもない、一人の人間としてのEさんという人間)を、育てているのです。

あとは謙虚になって、子どもの横に立ってみてあげてください。
くだらない親意識は捨て、友として、横に立つのです。
とたん、それまで見えなかったものが、見えてくるはずです。
もっと大切な、何かです。

それに気づいたとき、今、Eさんがかかえている問題は、すべて氷解し、今のこの
現状が、笑い話になります。

K式算数教室?
高認?
受験?
……みんな、蜃気楼に踊らされているだけですよ!

どうか今の苦労から逃げないでください。
逃げないで、乗り越えるのです。
「ようし、十字架の一つや二つ、背負ってやるぞ」とです。
EさんにはEさんの運命というものがあります。

仮に今、Eさんが今の状況を不幸に感じたとしても、それはEさんの責任ではありません。
おそらくEさん自身も、Eさんの夫自身も、乳幼児期〜少年少女期にかけて、
(あまり幸福でない家庭)を経験しているはずです。
それが今でも、ズルズルと尾を引いている。
だから私は「運命」という言葉を使います。

運命というのは、それを受け入れてしまえば、何でもありません。
へたに逆らうと、運命は悪魔となって、そしてキバをむいて、あなたに襲いかかって
きます。
あなたをとことん苦しめます。

最後に、あなたが苦しんでいる以上に、二男も苦しんでいるということを忘れないように。
あなたから見れば、わがままな息子に見えるかもしれませんが、16歳の子どもが、
16歳という年齢の範囲で、懸命にもがき、苦しんでいるのです。
この年齢では、自分のしたことがわからない、自分のしたいことができないというのは、
たいへんな苦痛なのです。
私自身も、似たような経験をしたことがあります。
その苦痛をEさんが共有できないまでも、暖かい愛でくるんであげたら、二男も救われる
のではないでしょうか。
『暖かい無視』というのは、そういう意味です。

直接的な問題が解決するまでに、まだ1、2年はかかりますが、終わってみると、
あっという間のできごとです。
何ごともなく終わった……という感じになります。
その日を信じて、今は、淡々とやるべきことはやり、あとは時の流れに身を任せて
ください。

それを乗り越えたとき、あなたはすばらしい人間になっていますよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの非行 子供の非行 非行 家庭内暴力)

【Eさんより、はやし浩司へ】(返信)

林先生、早速の返信ありがとうございます。
よくわかります。
次男は優等生を親のために演じていたのだと思います。
小学校のころ、帰宅してランドセルを放り投げ、寝っ転がってマンガを読んだり、友達と
遊ぶことはなかったように思います。

私が学歴重視をして本来の子供のあるべき姿をうばっていたのです。
今反省したところでしかたありませんが、育てなおしをしよう、低学年からやり直そうと
思います。

次男、近頃女装してネットのブログに写真をのせて遊んでいます。
気になりますが、女装することで発散してるのだろうと見て見ぬふりをしてます。
あたたかい無視に徹し、努力し、よい加減の母親に努めます。
ありがとうございました。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●処女でなかったから、離婚?

++++++++++++++++++

時事通信が、こんな愉快な(失礼!)、
ニュースを配信している。

そのまま一部を、紹介させてもらう。

『イスラム教徒のカップル間で、妻が処女と偽っていたとして、夫が結婚の無効を求めた
裁判で、フランス北部ドゥエの控訴院(高裁)は、17日、夫側が勝訴した一審判決を破
棄し、結婚を有効とする判決を下した。

 判決は、妻のうそが仏民法で結婚無効の要件となる「基本的資質をめぐる過失」に当た
るとした一審の判断について、「うそは基本的資質とは無関係」と退け、「処女でないこと
は結婚生活に影響しない」とした。

 夫妻はともにモロッコからの移民で、夫が30代のコンピュータ専門家、妻は20代の
看護師。イスラム教では、未婚女性の婚前交渉はタブー視されている』と。

こうした裁判をフランスで起こしたところが、おもしろい。

「ヘエ〜〜?」と。

+++++++++++++++++

女性の処女性を問題にするなら、男性の童貞性は、どうなのか?
その男性が童貞かどうかは、どうやって知るのか?
あるいは男性は、婚前に性交渉をもってもよいのか。
……となると、イスラム教は完全に矛盾している。

男性が結婚前に性交渉をもつとしたら、相手は既婚女性しかいないことに
なる。
となると、それは不貞行為(こういう古臭い言葉を使うのはいやだが)
ということになる。

イスラムでは結婚するまでは、男性も女性も、童貞であり、処女で
なければならないらしい。
しかしそれで、うまくいくのだろうか?


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●K国の核兵器(東京があぶない!)

++++++++++++++++

韓国のあるコラムニストは、K国を
「狂った犬」にたとえた。
「不治の病にかかった国」と表現した社説もあった。

今のK国は、それに近い。
つぎつぎと対韓国、強硬政策を発表している。
今朝も「12月1日から、南北の交通網を
遮断する」と言い出した。

自分で自分のクビを絞めるような行為を
しながら、その愚かさにさえ、気づいて
いない。

が、油断は禁物!

核兵器は、すでにソウルの地下まで、地下トンネルを
通じて運ばれている。

漁船か何かに忍ばせて、東京湾を経て、東京
もしくは佐世保まで運ばれている。

K国が国内にミサイル発射基地を建設している
というが、あんなのはただの陽動作戦。

私が金xxなら、こうする。

まず適当に挑発しながら、韓国と開戦する。
韓国が反撃に出てきたら、ソウルの地下で
核兵器を爆発させる。
その勢いを借りて、歩兵部隊を一気に南下させる。

その直後、在日アメリカ軍が動いたら、
佐世保、もしくは東京で核兵器を爆発させる。

「核兵器はミサイルで飛んでくる」という発想
そのものが、おかしい。
ミサイルなど使わなくてもよい。
地下トンネルがある。
漁船がある。

私の推察では、すでに核兵器は、ソウルの地下まで
運ばれている。
東京都内にも、何らかの形で、持ち込まれている。

K国軍は、韓国民全体を人質に取る形で、
さらに南下して、全土を掌握する。
K国は、1週間で全土を掌握できると豪語している。
こうなると、アメリカ軍とて、もう手も足も
出せなくなる。

……とまあ、そこまでうまくいくかどうかは
別として、今のK国は、それほどまでに
危険な国であるということ。
その状況に、たいへん近づきつつあるということ。

私が日本の首相なら、放射能検知器を片手に、
東京都内全域、アメリカ軍基地周辺すべてを、
しらみつぶしに検索する。
高性能の検知器を使えば、核兵器なら、数十メートル、
あるいは数百メートル離れていても、検知できるはず。

今、すぐやってほしい。
調べるだけでもよいから、調べてほしい。

なぜこうまでK国が、高飛車に出てくるのか。
出ることができるのか。

その理由は、ここに書いたとおり。
いいのか、日本!
こんなのんきに構えていて!

●『悪魔のつぎの行動は、自分が悪魔になったつもりで考えればわかる』
●『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、悪魔の目的を知ればよい』


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月19日・雑感

●喪中の知らせ

昨日、近くのフォトショップで、喪中のハガキの印刷を頼もうとしたが、やめた。
年末に出す、あれである。
「喪中のため、新年のあいさつを遠慮させていただきます」とか何とかいう、あれである。

しかしバカげている。
こんなハガキを出すこと自体、バカげている。
……ということで、印刷を頼むのを、やめた。

まずその中身を考えてみよう。

毎年、年賀状をたがいに交換している人は多い。
それはそれ。
日本人の国民的行事になっている。
が、喪中にある人が、「新年、あけましておめでとうございます」と書くのは、
おかしい?
だからといって、新年早々、「昨年、母が逝去しました」と書くのも、おかしい?
年賀状を出さないと、相手が心配するだろう……ということで、前もって、喪中の
知らせを書く。

その流れは、よくわかる。
しかし新年は新年。
どうして「明けまして、おめでとうございます」と書いてはだめなのか?
だいたい、喪中とは何か?

広辞苑には、「喪に服している期間」とある。
つまりは「悲しみがいまだ癒やされない期間」のこと?
しかし率直に言って、今年、私は実兄と実母を、あいついで亡くした。
が、悲しさはほとんど残っていない。
だからといって、悲しんでいるフリをするのもいや。
人、それぞれ。
人間関係も、人、さまざま。
この世界では、自分がそうだからといって、相手に同じものを求めてはいけない。
自分がそうでないからといって、相手にそうであってはいけないと言ってはいけない。

が、さみしく思う気持ちはないわけではない。
身内は身内だし、それなりの思い出は色濃く残っている。
それに私の家に来てからの母は、まるで別人だった。
おだやかで、やさしく、遠慮深かかった。
ときどき「これが同じ、あの母か?」と思ったこともある。
兄についても、兄というよりは、いつしか自分の弟、あるいは息子のように
思うようになった。

だからやはり喪中は喪中ということになるのだが、しかしそこまで。
反対に、私は、なぜ日本人がこうまで「形」にこだわるのか、その理由がわからない。
喪中に知らせにしても、(薄墨の文字)でなければならないという。
が、どうして薄墨なのか?
さらに言えば、年賀状にしても、出したい人は出せばよい。
もらいたい人は、もらえばよい。
悲しくて出す気にならなかったら、出さなければよい。
相手がそれで「失礼!」と思うなら、そう思わせておけばよい。
どうせその程度の、つまりは、形だけの人間関係。
そんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。

もっと人間は、自然体で生きればよい。
自由に生きればよい。

昔、スウェーデンの性教育協会の会長に、エリザベス・ベッテルグレンという
女性がいた。
私はその人の通訳として、あちこちの講演会場を回った。
そのベッテルグレン女史は、こう言った。

「性の解放というのは、フリーセックスのことではない。
性にまつわる古い因習や偏見、誤解を解くことです」と。

それからほぼ40年。
日本もやっとベッテルグレン女史の言ったことが理解できるようになった。
が、それだけでは足りない。
真の自由とは、「生きることにまつわる古い因習や偏見、誤解を解くこと」から、
始まる。

自由にものを考え、自由に行動する。
が、それは同時に、きびしさとの闘いでもある。
古い因習に従って生きる方が、ずっと、楽。
味方も多い。
何よりも、まず第一に、何も考えなくてすむ。
が、それでは、ただ「生きただけ」、あるいは「息(いき)ただけ」の人生で
終わってしまう。
「活(い)きる」ためには、自由でなければならない。

……とまあ、そこまでおおげさに考える必要はないかもしれない。
たかがハガキ一枚。
いらぬ波風を立てるくらいなら、静かにいていたほうが、得?
しかし同時にこういうことも言える。

身の回りのささないことからでも改革していかないと、いつまでたっても、
この日本は変わらない。
日本を変えるためには、みなそれぞれ自分の立場で、少しずつでも改革していく。
おかしいものは、「おかしい」と声をあげる。
そういう声が集合されたとき、日本は変わる。
今こそ、そのときではないのか?

で、私の結論。
喪中の知らせなど、だれにも出さない。
バカげている。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月19日(水曜日)

++++++++++++++++++++

昨日は、朝から風邪ぎみで、つらい一日だった。
夕方5時ごろ、悪寒がした。
あわせて腰痛。
腰の関節が痛かった。
もしやインフルエンザ?

夜のクラスをキャンセルして、そのまま帰宅。
しかし帰宅したとたん、元気になってしまった。
あれはどういう風邪だったのか?

++++++++++++++++++++

●歩こう会、再開

しばらく休んでいた「歩こう会」を、12月からまた参加することにした。
レベルは歩く距離によって、上級、中級、初級に分かれている。
中級は、だいたい7〜8キロ前後。
私とワイフは、いつも中級コースを選んでいる。


●友人の交通事故

G県の友人が、5年前に交通事故にあった。
自分の車を運転しているとき、どこかのだれかに追突された。
「車の前後がくっつくほど、ひどい追突だった」という。
そのため、治療に3年。
そのあと裁判に2年もかかったという。

学生時代からの友人である。
症状を聞くと、頭痛や気分の落ち込みなど、いろいろ。
が、保険会社のほうは、老化で起きた症状は含まれないと、補償額を低く
提示してきた。

そこで裁判ということになった。

「保険会社のほうは、できるだけ保険金を安くすまそうとするからね」と友人。
「保険会社に入社した仲間も多いから、気持ちが複雑だね」と私。
あえて言うなら「矛(ほこ)」と「盾(たて)」の関係。
「ほら、A君、あいつはS保険会社で、支店長をしていただろ。
相手の会社というのはそのS保険会社なんだよ」と友人。

それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の立場を守っている。
それはわかるが、一般論から先に言うと、私の経験でもそうだったが、
民間の生命保険会社は、概して支払いが渋い。
「ああでもない」「こうでもない」と、理由にもならない理由をこじつけて、
保険金を支払うのを渋る。

私「ぼくのときも、門前払いだった」
友「最初から、払わないという態度だからね」
私「そうなんだよ。それも窓口の女性が、こちらの話を満足に聞かないうちに
そう言うから、恐ろしい」
友「そういうときは、民事調停でもいいから、裁判を起こすことだよ、林君」と。

つい先日、保険会社の保険金未払いが社会問題になった。
どうやらそうした問題は、氷山の一角らしい。
友人と電話で話しながら、そういう印象をもった。


●お節介焼き

いらぬ節介をしてくる人に対しては、何と返事をすればよいのか。
ワイフとときどき、そんな話をする。
中に詮索好きの人がいて、ああでもない、こうでもないと言ってくる。
それなりのレベルの人がそう言うなら、聞く価値もあるが、
そうでない人がそう言うから、恐ろしい。

で、恩師の田丸先生が、昔、こう教えてくれた。
「そういうときは、私は、『ごちそうさま』と言うことにしています」と。

ナルホドということで、それ以後は、この言葉をよく使う。

私「『ごちそうさま』と言って、あとは無視すればいい」
ワ「そうね」
私「ぼくはね、そういう説教をされそうなときは、『トイレへ行ってきます』と
言って、逃げることにしている」
ワ「それもいい手ね」と。

そういう人を、まともに相手にしてはいけない。
いわば小言のようなもの。
だから昔の人はこう言った。
『小言に怒るな。怒ったときは、小言を言うな』と。
けだし名言である。


●寒波

昨夜から、猛烈に寒くなった。
ゴーゴーと北風が吹いている。
12月中旬ごろの気候という。
不景気風と重なり、気分もよけいに沈む。

やりたいことは、たくさんある。
しかしどれから手をつけたらよいのか。
寒いから、体を動かすのも、おっくう。

こういうときは雑誌を読んだり、本を読んだりして、
頭の中に情報を注入する。
そのうちまた、やる気が出てくるだろう。
元気も出てくるだろう。
それが出てきたら、一気に、すべて片づける。

おはようございます!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪魔論

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あなたがそれを信じても、信じなくても、
どちらでもよい。
この話は、あくまでも、仮に……という話である。
「仮に悪魔というものがいるとしたら……」という
話である。
私自身、映画『エクソシスト』に出てくるような
悪魔の存在は、信じていない。

ここでいう悪魔というのは、心の問題。
心の中の問題。
「心」があるとしたら、その心の中に
すみつく、人間がもつ魔性のようなもの。

その魔性を「悪魔」というならば、たしかに
悪魔というのは(いる)。
それは私やあなたの心の中に(いる)。

++++++++++++++++++++

「心の中に(いる)」というのは、矛盾している。
そもそもおかしい。
「心」というものは存在しない。
だから、その心の中に(いる)というのは、おかしい。
心といいのは、観念的なもの。
存在しない。
だからここでいう悪魔も、観念的なものということになる。

それはよくわかっている。
しかし悪魔というのは、たしかにいる。
「心がある」と思うのと同じくらい、「たしかにいる」。
「いる」というよりは、「感ずる」。
人間が本来的にもつ魔性のようなものと思えばよい。
憎しみや嫉妬、怒りや不満……そういったものを総称したものが、悪魔。
簡単に言えば、そういうことになる。
その悪魔は、私やあなたの心の奥深くに潜んでいる。
私やあなたが苦しむのを、楽しんでいる。

で、とくに興味をもっているわけではないが、欧米人と会話をしていると、よく悪魔論が
話題になる。
ハリウッド映画の中にも、よく登場する。
善の象徴を「神」とするなら、悪の象徴は「悪魔」ということになる。
欧米人は、よくこの2つを対比させてものを考える。
『善と悪は、神の左手と右手である』と説くのも、そのひとつ。
神を信じている人は、同時に悪魔の(存在)を信じている。

で、彼らが考える悪魔論を、私が知りえた範囲で、まとめるとこうなる。

(1)運命をのろうものに、とりつき、その人を破滅させる

私たちの体には無数の「糸」がからんでいる。
家族の糸、親類の糸、社会や国の糸などなど。
能力や肉体の糸というのもある。
そういった糸が、私たちの進むべき道を、ときとして
勝手に決めてしまう。
私たちが望むのとはちがった方向に、私たちを導いてしまう。
それを「運命」というのなら、運命というのは、ある。

そこで大切なことは、その運命を感じたら、そしてその運命が
どうにもならないものであるのなら、静かにそれに身を任す。
運命というのは、逆らえば逆らうほど、ここでいう悪魔となって、
あなたを襲う。
「いやだ」「逃げたい」と思えば思うほど、あなたの身を焦がし、
あなたを苦しめる。
ある女性は、実父の介護をするのがいやでいやでたまらなかった。
だから実父の介護をしながら、それこそ地獄のような重苦しい毎日を
送らねばならなかった。

では、どうするか。

ここにも書いたように、すなおに身を任す。
やるべきことは淡々としながら、時の流れに、身を任す。

で、ひとたび運命を受け入れてしまえば、悪魔は、
向こうからシッポを巻いて逃げていく。

(2)悪魔は情け容赦せず、純朴で罪のない人を犠牲にする。

たとえば悪魔があなたを苦しめようとしたときには、あなたを
ターゲットにしない。
あなたの周囲にいる、純朴で罪のない人を犠牲にする。
あなたの子どもや、あなたの夫や妻など。
そういう人たちを容赦なく、自分の牙(きば)にかける。
悪魔の目的は、あなたを弄(もてあそ)ぶこと。
あなたが苦しんだり、悲しんだりするのを楽しむ。

一見不可解な行動に見えるかもしれないが、西洋ではこう言う。
『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、悪魔の目的を知ればいい』と。

悪魔の目的はあなたを苦しめたり、悲しませたりすることであることが
わかれば、悪魔はもっとも効果的な方法を選ぶ。

ではどうするか。

悪魔というのは、元来、臆病で、気が小さい。
自分の存在を知られることを、何よりも恐れる。
知られたとたん、同じようにシッポを巻いて逃げていく。
恐れる必要は、まったくない。

自分の運命を静かに観察してみて、そこに悪魔を感じたら、それを
すなおに認めればよい。

(3)悪魔は、世俗的な成功や失敗には、興味をもたない。

悪魔がターゲットとするのは、あくまでも私やあなたの(心)。
世俗的な成功や失敗には、興味をもたない。
言い換えると、いかに私やあなたが世俗的に成功していても、また
反対に貧乏のドン底にいたとしても、悪魔は感知しない。

悪魔はそういった世俗性を超えたところに(いる)。

わかりやすく言えば、悪魔がとりついたからといって、事業に
失敗するとか、そういうことはない。

悪魔は、私やあなたの中の、最大の弱点を見つけ、そこを突いてくる。
あなたが孤独に弱い人間であるとわかれば、あなたを孤独にする。
あるいは私やあなたがいちばん大切にしているものを、容赦なく、
殺したり、死に追いやったりする。

では、どうするか。

あなたは惜しみない愛を、まわりの人たちに注げばよい。
もし方法がわからなければ、『許して、忘れる』。
これだけを繰り返す。
悪魔といえども、私やあなたに愛されている人には、手を出さない。
強固な愛で結ばれている人には、手を出さない。
あなたの愛にほころびができたとき、そのほんの一瞬のスキをねらって、
突いてくる。
だからどんなに逆境に落とされたとしても、最後の最後まで、
『許して、忘れる』。
それだけを心の中で念じて、あなたの愛する人を、あなたの愛で包む。

(4)ほかに……

欧米では、悪魔論は、自分を守るための道具として、使う。
というのも、悪魔論は、つねに結果論をともなう。
「結果的にそうなった……」という事実を知って、そこに悪魔が(いた)
ことを知る。
その過程で、悪魔がいたことを知ることはほとんどない。
知ったとたん、悪魔は私やあなたから退散する。
だから結果論ということになる。

では、どうするか。

常に自分の心の中の善と悪を、静かに観察する。
冒頭に書いたように、「神」が善の象徴であるとするなら、
「悪魔」は悪の象徴ということになる。
善にしても、悪にしても、それは私やあなたの心の中に(ある)。
それを知れば、つまり悪魔の存在を知れば、悪魔はそのまま
同じくシッポを巻いて退散していく。

悪魔というのは、だれにも気づかれず、コソコソと悪いことを
するのは得意だが、自分の正体を見られることすら、恐れる。
だったら、その正体を知ればよい。、

●最後に……。

こと悪魔に関して言えば、オカルト的な儀式をして、
追い払うとか、取り除くという問題ではない。
(ハリウッド映画の中では、そういったシーンがよく出てくるが……。)
あくまでも、私やあなたの心の問題ということ。

たとえば今、あなたが、家族のだれかのことで苦しんだり、
悩んだりしているとするなら、どうにもならないものであるなら、
静かに受け入れる。

私も実母の介護をするようになって、それを知った。
たしかに介護は、それ自体、たいへん。
便、食事、入浴の世話。
しかし私たちは最初から、母を許し、忘れることができた。
そのせいか、介護は、拍子抜けするほど、楽だった。

あとは、時間の問題。
空の雲が風に乗って、行くべきところに行くように、
あとは時間が解決してくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
悪魔 悪魔論 心の中の悪魔 悪の象徴)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生きる関門

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生きていると、いつもそこに問題が立ちはだかる。
しかしそれは、生きるための関門のようなもの。
その関門におののいて、逃げ去るのもよし。
しかし関門こそ、自分を飛躍させるチャンス。
その関門を乗り越えたとき、あなたは、その向こうに
別の世界を発見する。

+++++++++++++++++

だれしも苦労はいやだと思う。
できるなら、それを避けたいと思う。
しかし生きている以上、その苦労から逃れることはできない。
ひとつ、そしてまたひとつと、やってくる。

しかしそれは生きることにまつわる関門のようなもの。
その関門におののいて、逃げ去るのもよし。
しかしその関門こそ、自分を飛躍させるチャンス。
逃げ去ったところで、何も得るものはない。
また同じような関門に出会うだけ。
そしてまた逃げ去るだけ。

そこに関門があるなら、勇気を出してぶつかっていく。
関門を乗り越える。
とたん、あなたはその前に、別の新しい世界があることを知る。
それまで知らなかった、まったく新しい世界。
と、同時に、それまでの世界が、いかに小さく、
つまらないものであったかを知る。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●イメージ・トレーニング

+++++++++++++++++

もし今、あなたがだれかとの人間関係に
苦しんでいたら、頭の中で、イメージ・
トレーニングをしてみるとよい。

私たち夫婦も、ときどきする。
ワイフにその人になってもらい、
あれこれと話しかけてもらう。

そしてそれに私がどのように反応したら
よいかを、2人で話しあう。

+++++++++++++++++

少し前、ある事情で、どうしてもその人と会わなければならなくなった。
しかし私はその人に会いたくなかった。
その人をX氏としておく。

X氏は、口がうまく、狡猾(こうかつ)。
大きなワルはしなかったが、小ずるさに、辟易(へきえき)していた。
会うだけで、心臓の動悸がはげしくなる。
何かを話せば、そのまま喧嘩になる。
静かな会話など、もとから不可能。
そんな感じの人だった。

そこである夜、ワイフにX氏になってもらった。
X氏になったつもりで、私に話しかけてもらった。

私「なあ、お前、Xさんになったつもりで、話しかけてみてよ」
ワ「やってみるわ……。ええと、『林君、元気ですか?』」
私「そうそう、そんな感じでいい」
ワ「『林君、君は、いろいろな本を書いているそうだが、資源の無駄づかいでは
ないのかね?』」
私「ハハハ、そうかもしれませんね。ごもっともです……」と。

こうしてX氏と会ったときのことを想定して、頭の中でイメージ・トレーニング
をする。
X氏など、もともと本気で相手にしなければならないような人物ではない。
相手にしても、しかたない。
意味もない。

だから私は、X氏に会ったとき、ヘラヘラと笑いながらやり過ごすことを決めた。
しかしいくらそう決めても、私の心中は穏やかではない。
だから(トレーニング)となる。

ワ「無視したら……?」
私「それもいい手かもしれないね」
ワ「いいこと、私が何を言っても、無視しなさいよ」
私「わかった」と。

いろいろな場面を想定して、トレーニングをしておく。
こうして現実にX氏に会ったとき、どのように反応すべきかを練習しておく。

もし今、あなたがだれかとの人間関係に苦しんでいたら、この方法は、たいへん
有効。
一度、あなたもイメージ・トレーニングしてみるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Art is long, life is short.

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「Art is long, life is short.」は、「芸術は長く、人生は
短い」と訳す。
これについて、Ronald Cliffordは、こう書いている。

一般的に「人生は短いが、芸術は長く(後世まで)残る」と解釈されているが、
それはまちがいである」と。

本当の意味は、「あまりにも学ばなければならないことが多すぎる。
しかしあまりにもそれを学ぶための時間は少ない」だ、そうだ。

もともとは、ギリシアの外科医である、ヒポクラテスが言った言葉という。
つまりここでいう「Art」というのは、美術のような芸術をさすのではなく、
「医療のための技術」ということだそうだ。

ヒポクラテスは、日々の医療活動の中で、「学ばなければならない技術は、
あまりにも多い。しかしそのための時間はあまりにも少ない」と嘆いた。
それがほかの言語に訳されるとき、やや誤訳され、現在のような英文になった。

Chaucerは、つぎのように書いている。

「The life is short, the craft so long to learn.」と。
このばあいは、そのまま「学ばなければならない技術は多く、そのための
時間は短い」となる。

さらにSir John Davies も、つぎのように書いている。

「Skills come so slow, as life so fast doth fly,
 We learn so little and forget so much.」
(人生はあまりにも早く過ぎ去り、技術が身につくのは、遅い。
私たちはほとんど学ばず、そんなにも多くのものを忘れる」と。

「Art is long, life is short.」も、それと同じ意味というわけである。
(以上、「English Proverbs explained」を参照。)

+++++++++++++++++

「English Proverbs explained」は、20年ほど前、オーストラリアの友人が
送ってくれた本である。

それを今になって読み返している。
一行ごとに、まさに新発見の連続。
このことわざにしても、日本では、先に書いたように、「人生は短いが、
芸術として残したものは、死んだあとも、長く残る」と解釈されている。
私も、そう理解していた。
どこかでそのように解釈したエッセーを読んだこともある。

しかしそうではないということらしい。

「学ぶべきことはあまりにも多いが、人生は、短すぎる」と。
またこう解釈した方が、深みがある。
事実、そのとおり。
私にしても、残された時間は、あまりない。
歳をとるごとに、脳みその老化を強く感ずるようになった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Avoid a questioner, for he is also a tattler

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詮索好きな人は、同時に告げ口屋。
あれこれとあなたにものを聞いてくる人は、
同時にあなたから聞いた話を、みなに伝える。

++++++++++++++++++

「Avoid a questioner, for he is also a tattler.」を訳すと、
「詮索屋を避けろ。なぜなら彼は同時に告げ口屋」となる。

たいした用もないのに、ときどき電話をかけてきて、こちらの内情を
さぐろうとする人がいる。
そういう人は、同時に、こちらから聞いた話を、みなに広める。

こんなことがあった。
その前後、私はワイフと喧嘩していた。
私は喧嘩すると、すぐ「離婚してやる!」と言う。
これは私の口癖のようなもの。
ワイフもそれに応えて、「いいわ!」と言う。
そんな最中、1人の知人から電話がかかってきた。
私は電話の中で、「あんなワイフとは、もう離婚してやりますよ」と言った。

が、驚いたのは、その翌日のこと。
別の2人の知人から、電話がかかてきた。
「離婚するって、ホント?」と。
その数日後も、別の知人からも、同じような電話がかかってきた。

「あんなワイフとは、もう離婚してやりますよ」と最初に言った知人が、
みなに電話をかけたらしい。
もちろん私たちのことを心配して電話をかけたのではない。
おもしろい話として、電話をかけた。

だから……あれこれと詮索してくる人には、軽々しく内輪の話はしないほうがよい。
言ったとたん、タトラー(告げ口屋)となって、あなたの話を皆に伝える。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Be just before you are generous.

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嫁(アメリカ人)に小遣いをあげたら、嫁が
すかさず、「あなたはgenerous(寛大)ですね」と
言った。

「generous」というのはそういう意味である。
つまりこのことわざは、「他人にgenerousである前に、just、
つまり公正であれ」という意味になる。

『English Proverbs explained』 の中には、こんな例が
載っている。

「他人にお金をあげる前に、借金を返せ」と。
つまりやるべきことをまずしてから、余計なことをせよ、と。

++++++++++++++++++

このことわざは、いろいろな面で、応用できる。
「まず、すべきことをしろ。道楽は、そのあと」
「偉そうなことを言うなら、まず、自分でしてみせろ」
「まず地盤を固めろ。家を建てるのは、そのあと」など。

あるいは善人のフリをすることは、簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしいことを言えば、たいてい
どんな人でも、善人に見える。
そういう人は、多い。

何を話しかけても、ニンマリと笑って、「私は何でも知っている」
というような様子をしてみせる。
一言ずつ、軽くうなずいてみせる。
しかし頭の中は、カラッポ。
何もわかっていない。
何も理解していない。

そこでまずjust(公正)でなければならない。
「正義」というと、少しおおげさになるが、まず、正義を貫く。
それもしないでおいて、generous(寛大)になっても、かえって
下心を見すかれるだけ。

たとえば今度、政府が、私たち国民に小遣いをくれることになった。
額は、1〜2万円。
たいへんgenerousな行為ということになるが、意図は見え見え。
本来なら、国民はそれを喜び、AS内閣の支持率はあがるはずなのに、
かえってさがってしまった。

消費税をあげるという話を一方で決めておいて、何が小遣いか?、
ということになる。
まずすべきことは、行政改革(=官僚政治の是正)。
無駄遣いをやめて、税金を減らす。
それもしないでおいて、何が小遣いかということになる。

Be just before you are generous.

このことわざは、AS首相にさしあげたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●家離れできない人たち

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親離れ、子離れという言葉がある。
同じように「家離れ」という言葉もある。
この言葉は、私が考えた。

++++++++++++++++++++

概して言えば、女性に多い。
確たる統計があるわけではない。
しかし結婚してからも、実家意識が強く、
家離れできない人は、少なくない。
ことあるごとに「実家」「実家」と、うるさいほど
その言葉を口にする。

実家そのものが、宗教的な本尊になって
いるばあいがある。
心の拠り所になっているばあいもある。
称して「実家意識」というが、骨のズイまで
染みこんでいるため、その意識を変えるのは
容易なことではない。

いろいろなケースがある。

ある女性(現在84歳)は、いまだに
実家といえば、自分の生まれ育った実家をいう。
夫がいたが、夫の実家には、結婚した当初から、
ほとんど足を踏み入れたことがない。

よほどの昔からの名家かと思ったが、話を聞くと、
そうでもない。
終戦まではある程度の田畑をもっていた。
庄屋的な存在だったようだが、戦後の農地解放で
そのほとんどを失った。

結婚してからも、足しげく、実家に通っていた。
が、それに悲鳴をあげたのが、その実家を守る、
嫁、つまり長男の妻だった。

その長男の妻はこう言った。
「叔父、叔母たちは、私をまるで召使いか何かの
ように扱いました」と。

結婚して家を出てからも、(「出る」という言い方は
不適切かもしれないが……)、夫の生活の中に、
自分の根をおろすことができない。
先の女性(現84歳)にしても、「墓参り」といえば、
自分の生まれ育った実家への墓参りを意味する。
夫や夫の先祖の墓参りには、夫が死んでからも、
めったに行ったことがないという。

その女性は、「家」に執着するあまり、その家のもつ
呪縛から自分を解き放つことができない。
つまり「家離れ」ができない。

「家意識」には、そういう魔力も含まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家意識 実家意識 家離れ 家離れできない人 実家にこだわる人 実家論)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●HP2133のキーボードを日本語式に

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パソコンの修理は、脳のトレーニングのようなもの。
ときに将棋をさしているような緊張感を覚えることもある。
が、古いぜんまい式の時計を修理するのとは、わけがちがう。
何しろ、中身が、まったく見えない。

で、おととい、HP社から、日本語キーボードの基盤が届いた。
早速、キーボードを、取り替える。
それまでは英語式キーボードだった。
英語式キーボードは、キーの位置と記号の位置が、一致しない。
それにENTERキーが小さく、使いにくい。
それで日本語キーボードを、別に注文した。

で、HPの指示どおり、あれこれ操作してみたが、どうもうまくいかない。
が、これには理由がある。
私は2133を購入したとき、誤って、Dドライブのシステムを削除して
しまった。
パソコンは日本語キーボード用のドライバーを読みだそうとするのだが、
肝心のそれがDドライブに、それがない。

そこでインターネットを利用して、ドライバーをダウンロード。
が、問題はここで発生。
ソフトの何がじゃましているのかわからないが、何度やっても、エラー。
その夜は、それであきらめることにした。

しかし、である。
翌朝、2133を立ち上げてみると、何と、2133が、日本語キーボードで、
作動するではないか!
これには驚いた。
理由がわからない。
言うなれば、パソコンが自ら、勝手に英語キーボードから日本語キーボードに
改めてくれたことになる。

「こういうこともあるんだなあ」と感心しながら、もう一度、説明書をよく
読むと、こうあった。
「ドライバーをインストールしたら、再起動してください」と。

ナーンダ、と思ったところでこの話はおしまい。
私は再起動をかけることを忘れていた!


●講演会

今日、市内のK小学校で、今年最後の講演会をしてきた。
学校関係の講演会は、これで終わる。
12月になると、学校は別の行事で忙しくなる。

「最後……」ということで、意気込んで行った。
約600人ほどの親たちが、体育館にいた。
が、時間が短かったこともあり、できは最悪。

あとでワイフに聞いたら、「声がうしろのほうまで
届いていなかったみたい」と。
何しろ広い会場である。
私が大声で叫んでも、最後列まで、声が届かない。
マイクの音量も、小さかったらしい。

帰りの車の中で、しばし沈黙。
こういう講演会は、やっても、後味が悪い。
「やった!」という達成感がない。
野球の試合でいうなら、連続三振を取られたような感じ。
自分の失敗で、試合に負けてしまった。

……ということで、帰りには、マイン・シュロス(レストラン)
で、ステーキを食べた。
禁断の肉料理。
やけ食い。
(マイン・シュロスは、安くて、おいしい。
JR浜松駅のやや東側にあるレストラン。
浜松へ仕事か何かで来た人には、お勧め!
ディズニーランドのような楽しい雰囲気が
私は大好き!)

帰ってきてからは、コタツの中で、そのままうたた寝。
いろいろな夢を見たようだが、ぜんぶ、忘れた。
また1月からがんばろう。

そうそう大阪に住む友人が、おととい電話でこう言っていた。
「日曜日(=今日、11月16日)にも、仕事がある」と私が言うと、
「仕事があるいというだけでも感謝しなくちゃあ」と。

大阪は今、冬の陣。
冬のまっただ中。
何もかも、不景気のどん底らしい。
「そうだなあ」というような返事をして、この話はおしまい。

コタツから起きあがって、このエッセーを書いた。

(明日の朝、体重計に乗るのが、コワ〜〜イ。)


●AS首相の誤読

身の丈も知らず、AS首相は外国で、調子のよい話ばかりしている。
何でも今度は、IMFに10兆円も拠出するという。
金(マネー)をばらまけば、それで世界に注目されると思っているのか。
先日の報道によると、原稿の漢字すらも、満足に読めないらしい。

「踏襲」を「フシュウ」と読み、「未曾有」を「ミゾユウ」などと読んでいたという
(中日新聞、報道)。

これに対して、AS首相の周囲の人たちは、「読みまちがいはだれにでもある」
「今度から振り仮名をつける」「老眼を用意していなかった」などと、AS首相を
かばっている。

しかし「踏襲」を「フシュウ」と読んだり、「未曾有」を「ミゾユウ」と
読むのは、読みまちがいではない。
読みまちがいとは言わない。

「踏襲」の「踏」は、「踏(フ)む」とも読める。
だからAS首相は、「フ・シュウ」と読んだ。
「未曾有」の「有」についても、同じ。
つまり、漢字の読み方を知らなかった。
つまり、その程度の首相。

そんな首相が、経済危機を利用して、首相の地位に居座っている。
そして世界で、メチャメチャなことを言っている。

「アメリカドルは、もはや世界の基軸通貨ではない」という国際的な
世論に逆行して、「まだアメリカドルは、健在」と、ひとり日本だけが
がんばっている。

ブッシュ大統領も、苦笑いしていたことだろう。
私がブッシュ大統領なら、こう言う。
「おいおい、そこまでリップサービスをしなくていいよ」と。

AS首相の支持率は、さがりにさがって、過去の歴代首相の中でも、現在、最低。
これではますます、J党はだめになる。

(しかし……それにしても、レベルが低い。
低すぎる。)


●大不況

今回の不況は、ただものではないようだ。
まだまだ序の口。
これから先、どうなることやら?

しかし私は過去、40年近くの間に、何度も不況を経験してきた。
が、こういうときこそ、ふんばる。
ふんばって、ふんばって、最後までふんばる。

前回のとき(バブル経済崩壊後のころ)も、そうだった。
あのときも、私はふんばった。
そのため周囲にあった10教室近い幼児教室は、みな、閉鎖した。
生き残ったのは、私の教室、ひとつだけ。

経済が少し上向いたとき、生徒たちがみな、どっと戻ってきた。

しかし銀行から借り入れをしながら経営をつづけている企業は、かわいそう。
このところ(貸しはがし)が、はげしくなったという話も耳にする。
どうなるんだろう?

大不況も短期間で終われば、まだ何とかなる。
しかしこんな状態があと半年とか、1年もつづいたら、みな、持ちこたえられなくなる。
そのときが怖い。
私の教室だって、事情は同じ。
しかしどうせ今でも、赤字ギリギリ。
これ以上、悪化することはない。

大切なのは、儲けることではなく、仕事ができること。
こうしてものが自由に書けること。
生きがいを失わないこと。

そう考えて、今回も、ふんばる。
土俵の間際で、ふんばる。

さあ、来い、大不況め!
負けないぞ!

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休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(11月15日)

●思考のループ

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うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。
(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。

そこで最近、こんなことに気がついた。

若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。

つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。

「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。

つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。

そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。

たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。

先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。
「私だって、そんなバカではありません!」と。

私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。

が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。

考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。

だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)

認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。

とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。

少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++

思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。

++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーに
している。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。た
しか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさか
のぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を
感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよ
い(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもって
いる。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってし
まうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよ
うな苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感に
なる。しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが
多い。そのためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正
しいかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんど
うなこと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」
とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でな
くなってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考
える」ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならない
のは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状
態(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。
一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止して
しまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と
小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてど
うでもよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」というこ
とには、そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから
人間」である。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブ
レイン」であることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。
どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先
生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い
子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで
遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だ
し、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察す
ると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないとい
った様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考のループ ループ性 ループ状態)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれ
てこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準を
つくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生
まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもな
く、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どう
すれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えること
ができるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そ
べっているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう
(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけ
てよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何
がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるの
はその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
勉強が苦手 勉強が苦手な子供)


(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日
の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみれば
よい。そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注
意で、そのあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれから
か電話がかかってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれ
これ集中的に指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、
とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コー
ヒーを口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。
効果がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そう
いうときあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、
言われたとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、
ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が
襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)
が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、
どうしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」とい
う問題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱい
して、ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくる
だろうか。そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がも
てること、関心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り
組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。こ
れを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処
法ということになる。

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけ
てよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこ
でその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄
棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふ
いている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。
あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問
題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりす
る。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。た
とえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という
問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じよう
に何やら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待
っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、
先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子
どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて
意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないと
いった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニ
ック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引
き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからど
こまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これ
を「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども
次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後ま
で理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が
必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかって
も、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらな
い。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなる
ことそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すというこ
とが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導
するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、
何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開
き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラ
スを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくこ
とができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、
「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかって
いない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭
の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。
それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデント
を使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら
側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左
インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と
考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプ
の子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせ
る。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツ
クンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先が
とがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がと
がっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」
とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導して
いく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、
どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと
考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断
力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合
理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化
していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家
庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」
「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それに
ついてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパター
ン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な
生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、
すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が
起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ま
しくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語
のアルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではな
い。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶
力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真
剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そ
こでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につご
うの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶
というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。
(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶
される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、
短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納され
ねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業
をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記
憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書い
てごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対
してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、
文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようにな
る。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、
そういう思考回路ができてしまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」
と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと
別のところにある。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●離婚するとき

+++++++++++++++++++

離婚する人の気持ちは、離婚する人でないと
わからない。
そこに至るまでには、それぞれ、人には説明しがたい
プロセスがある。
思いがある。
その思いは、複雑。
無数の糸がからんでいる。
が、ひとたび離婚を決めてしまうと、それまでの
世界が一変する。
「それまでの霧がいっぺんに晴れたみたい」となる。
「どうして今まで、こんな人と?」となる。

+++++++++++++++++++

●親子の縁、兄弟の縁

定年離婚というのは、ほとんどのばあい、妻の側から切り出される。
しかもある日突然。
「離婚します!」と。
それについて今朝、ワイフがこう言った。
「そういうときというのは、夫が何を言っても、手遅れなのよ」と。

ゾーッ!

離婚とまではいかないにしても、似たような経験は、よくする。
たとえば友人、兄弟姉妹、親の間など、で。

数日前も、ある従兄弟(いとこ)と話したが、その従兄弟のばあい、
兄弟や姉妹との行き来は、まったくないという。
実家の近くまで行っても、実家に寄らないで、そのまま帰る、とも。
そこでいろいろ話を聞くと、こう教えてくれた。

「兄貴にしても、親父にしても、うるさくてたまらない」と。

どうやら、この(うるさい)という言葉の中に、人間関係の複雑さを解くカギが
あるようだ。
つまりうるさい人間は、夫であれ、妻であれ、親であれ、兄弟、姉妹であれ、
嫌われる。
それが長い年月を経て、積もり積もって、「別れ」となる。
夫婦でいえば、「離婚」となる。

●うるさい人間

うるさい人間というのは、結局は、自己中心性の強い人間ということになる。
自分勝手でわがまま。
他人の話に耳を傾けない。
自分中心の価値観を、相手に押しつける。
「ああしろ」「こうしろ」と。
そして自分こそが、絶対正しいと、信じて疑わない。
これはそのまま、自己愛者の特徴でもある。

自己愛者は、自己中心性が極端に強く、自己の絶対性を譲らない。
だれかに批判されただけで、激怒する。

この自己中心性が、相手を遠ざける。

が、自己中心性が強い分だけ、相手の心の変化を読めない。
読めないから、「ある日突然……」となる。

●乾いた心

離婚はともかくも、……というのは、私自身も経験がないので、
似たような心理状態は、私もする。
たとえば友人にしても、それまでは友人と思っていても、「顔も見たくない」
と思うようになることがある。
「嫌う」という心理ではない。
心そのものが、乾いてしまう。
相手が何を言ってもう受けつけなくなるというよりは、相手の言葉が、
こちらの心に染みこんでこない。
「話をしても、どうせ無駄」とか、「どうせ理解してもらえない」とか。
そういう心理状態になる。

この段階で、言い争うようであれば、まだ救われる。
脈がある。
喧嘩するようであれば、なおよい。

しかしいったん、心が乾いてしまうと、争ったり、怒るということもなくなる。
「別れたい」という積極的な意思すらなくなる。
どうでもよくなって、それが自然な(別れ)につながっていく。

●段階説

そこで離婚に至る過程を、段階的に考えてみる。

(1)葛藤期

喧嘩や言い争いが多くなる。
回数が多くなり、ときにはげしく衝突する。

(2)無言期

たがいの会話が途絶える。
口をきいたとたん、一触即発の状態になる。

(3)第二葛藤期

悶々とした状態で、日々を過ごす。
よくうつ状態がはげしくなる。

(4)離婚期

葛藤がはげしくなり、よくうつ状態が限界に達する。
とたん、相手への思いが、消える。
この段階になると、離婚にともなう敗北感や、世間体に
対する体裁などが消える。
「別れたい」という思いが何にもまして優先する。

離婚する人、あるいは離婚したい人に、それまでの思い出はどうなるのかと
聞くと、たいてい、こう言う。

「楽しかったはずの思い出すら、まったく色あせてしまう」と。

●恩着せ

先にも書いたように、自己中心性の強い人は、相手の気持ちがわからない。
ある夫は、妻が離婚を切り出したとき、こう言ったという。

「今まで、オレは、家族のために粉骨砕身でがんばってきた。
お前たちのために、どれほど苦労してきたかわからない。
何が不満なのだ!」と。

しかし離婚する側は、そういった恩着せがましい言い方そのものが許せない。
恩を着せられれば着せられるほど、相手への気持ちが消えていく。
それもそのはず。
夫婦は、たがいに無私であってこそ、夫婦。
「恩」が入りこむ隙間(すきま)があるほうが、おかしい。

恩着せがましいことを言えば言うほど、夫婦の間の亀裂は大きくなる。

●では、どうするか

夫婦も、無私の愛をつらぬく。
たとえば自分の子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う親がいる。
これも恩着せだが、それが妻に向かうと、「仕事をしてやった」
「お前たちのためにがんばってやった」となる。
その言葉のもつ低劣さは、言うほうにはわからない。
言われたほうにしかわからない。

悪玉親意識、あるいは権威主義的なものの考え方をする人ほど、
こうした言葉を口に出しやすいので、注意する。
悪玉親意識というのは、いわゆる親風を吹かす人をいう。
権威主義的なものの考え方というのは、「夫が上で妻が下」「親が上で子が下」
というように考えることをいう。
たった数歳、年上というだけで、年長意識をもったりする。

悪玉親意識(このばあいは、悪玉夫意識)や、権威主義的なものの考え方は
捨てる。
とくに注意したいのは、無意識のまま、自分の親たちの意識を引き継いで
いるばあい。
こうした意識は、代々、親から子へと、世代連鎖しやすい。
そういう意識をもっている人は、一度、自分の親がそういった意識を
もっていなかったかどうか、心の中で確認してみるとよい。

●付記

あなたのまわりにも、悪玉親(夫)意識や、権威主義的なものの考え方を
する人は少なくないはず。
そういう人の家庭を、ほんの少しだけ、のぞいてみるとよい。
たいてい親子断絶、もしくは離婚寸前という状態であることがわかる。

反対に、親子の関係が断絶している家庭、離婚の一歩手前にいる夫婦を、
観察してみるのもよい。
たいてい親のほうが、あるいは夫のほうが、悪玉親(夫)意識をもっているか、
夫が権威主義的なものの考え方をしているのがわかる。

封建時代の昔から、私たち日本人には、権威主義的なものの考え方が、
骨のズイまでしみこんでいる。
「上下意識」が、それ。
その上下意識が、人間関係をゆがめる。
家庭、家族にあっては、この権威主義は、百害あって一利なし。
そう考えて、まちがいない。

人間に上下はない。
親子の間にも、ない。
夫婦の間には、さらにない。
ついでに言うなら、おかしな武士道なるものには、じゅうぶん、注意したほうがよい。
今、封建時代の負の遺産には目を閉じたまま、武士道なるものを一方的に
賛美する人が、あまりにも多いのには、驚く。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●悪玉夫意識

「私は夫だ」と、夫風を吹かすことを、悪玉夫意識という。
(夫意識にも、善玉と悪玉がある。)

上下意識が強く、「夫(男)が上で、妻(女)が下」と考える。
考えるというよりは、無意識のまま、それを基盤にものを考え、そして行動する。
妻に対して、「おい、お茶!」式の言い方をしながら、それがおかしいと、
みじんも思わない。
反対に、それがあるべき夫、さらには夫婦の姿と思いこんでいる。

悪玉夫意識がおかしいことは、今さら、改めて書くまでもない。
それについては、何度も書いてきた。

で、ここではもう一歩、話を進めて、悪玉夫意識を認めている妻も、
これまた多いということについて書いてみたい。
こういうばあい、妻自身が、悪玉夫意識を受け入れてしまっている。
そしてそれが、夫として、あるべき姿と認めてしまっている。
夫に対して隷属的に仕えることに、なんら疑問を感じないばかりか、
それをあるべき妻の理想的な姿と思いこんでいる。

このタイプの妻は、自分自身も、権威主義的な家庭で乳幼児期を過ごしている
と考えてよい。
つまり封建主義時代の亡霊が、骨のズイまで染みこんでいる。
そればかりか、それがその妻の生き方の柱になっていることが多い。
そのため妻自身に、それを気づかせるのは、容易ではない。

もっとも、それで夫婦の間が円満であれば、それでよい。
夫にとっても、居心地のよい世界かもしれない。
他人である私やあなたが、あえて内政干渉する必要はない。

私の知人夫婦もそうだ。
夫(55歳)はもちろん権威主義的なものの考え方の持ち主。
家事はいっさい、手伝わない。
「男は仕事、女は家庭」という意識を強くもっている。
が、それに答えて、妻(52歳)のほうも、「夫が上で、妻が下」と
いう意識を強くもっている。

こんなことがあった。

夏になると、寝室が湿気(しけ)て困るという。
寝室は、家の裏側にあり、風呂場がその横にあった。
そこで私が「換気扇をつければいい」と言うと、その女性はこう言った。
「とんでもありません。あの家は、夫が一生懸命働いて建てた家です。
そんな家に穴をあけるなんて……!」と。

私は「ハア……」と言っただけで、言葉がつづかなかった。

意識というのはそういうもの。
が、それでその女性がはたして幸福なのかというと、それは疑わしい。
どこかで何かの(わだかまり)を感じているのかもしれない。
どこかで(自分)を押し殺しているのかもしれない。
会話の途中で、「私の夫は、すばらしい人です」と、何度も言った。

ふつうは、そういうことは、あまり言わない。
(私のワイフなどは、ぜったいにそういうことは言わない!)
つまりそうでないから、その心をごまかすために、そう言う。
もちろん自分の心をごまかすために、である。

なお最近の意識調査によれば、約70%の夫が、料理を積極的に
するようになったという(中日新聞・08・11)。
たいへんよい傾向である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
悪玉夫意識 悪玉親意識)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今日(11月15日)は、久しぶりに、山荘ライフを満喫した。
草刈り、焚き火、木の伐採などなど。
大型の草刈り機で、雑木がおい茂る裏山を、バリバリと
刈っていくときの爽快感には、格別なものがある。
ストレス解消には、最高!
パワーを最大にして、日本刀を振り下ろすようにして、一気に
切り倒す。
直径5センチほどの木でも、まるで雑草のように切り倒すことができる。
やわらかいツタのような木なら、7〜8センチまで切り倒すことができる。
バリバリ、ウィーン……バリバリ……と。
自分に向かって倒れてくる木を片腕で払いながら、先へ先へと進む。


汗をびっしょりとかいて、作業は終了。

そのあと、枯れ葉を燃やす。
それを見ながら、テーブルに座って、ジュースを飲む。
ときどき立ち上がって、庭の木を切る。
太い木は、のこぎりで切る。

++++++++++++++++++

裏山の雑木林へ入れるのは、今ごろの季節しかない。
春から夏、秋にかけては、ハチやヘビが出る。

そこで木を切り倒すときは、容赦なく、切り倒す。
一年分を先取りしながら、切り倒す。
手加減してはいけない。
雑木というのは、1年で、大きく成長する。
たとえば山荘の入口に、コナラの木がある。
ほんの5、6年前には、太もも程度の太さしか
なかった。
が、今では、両手で手を回しても、かかえられないほど
大きくなった。……なってしまった。
こうなると、切るに切れなくなる。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子育てストレス

 子育てストレスの第一の原因は
過大な(親意識)。もともと日本人     
は、ガイドとして子どもの前に立つ
のは得意。保護者として、子どもを
押すことも得意。しかし、もう一つ、    
重要な役割があります。それは
子どもの友として、横に一緒に歩く
ことです。                
 子育てストレスを感じたら、(親
意識)を思い切って捨て、心を開放      
し、子どもの友として、子どもと一緒に   
人生を楽しむようにします。
 「私は親だ」「よい親になららけれ     
れば」という気負いが強ければ強いほ      
ど、親も疲れますが、子どもも疲れ
るということです。
 つまりあなたは子どもと一緒
に「第2の人生」を、幼児期から繰り         
返すつもりで楽しみます。(第2の         
人生が終わったとき、ドカッとやっ
てくるのが、老後ですよ!)              
コツは自分の子ども時代を思い出
しながら、あなたがしたかったこ
とを子どもと一緒にすることです。      
あなたがして欲しくなかったことを、
子どもにしなければよいのです。         
そのためにも、まず子ど
もの前で、心を解き放ちます。行動
はその後についてきます。
 子育てというのは、もともと重
労働です。約70%のお母さんが、子
育てをしながら大きな負担を感じて
います。子育てを前向きに受け入
れ、「運命」といってよいのか分かり        
ませんが、運命というのは、逆らえば    
キバをむいて、あなたに襲いかかって     
きます。しかし受け入れてしまえば、    
運命は向こうからシッポを巻いて逃げて
いきます。子育ても、また然り。そこ        
に子どもがいる。その素晴らしさに、
あなたが気づいた時、あなたはこう       
言うでしょう。「子育てストレスってなに?」と。   

子育ての価値、
失う前に気づいて                

 今は大変かもしれません。しか
し子育ての価値は、終わってみると        
分かります。賢明な人は、その価値
を失う前に気づき、そうでない人は           
失ってから気づきます。            
Let's be good Moms!                          


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日、あれこれ・11月13日】

●人体の矛盾

+++++++++++++++++

健康を維持するためには、運動は
欠かせない。
しかし運動には、ある種の苦痛が
ともなう。

なぜか?

もしその人が、運動でなくても、体を
動かすことをやめてしまったら、
不健康が不健康を招き、その不健康がそのまま、
(死)につながることもある。

ならば、なぜ運動することが、快感に
つながらないのか。

++++++++++++++++

●寒い夕方に

寒い夕刻、陽はとっぷりと暮れている。
冷たい秋のかわいた風。
そんなとき自転車にまたがると、思わず
身が震える。
「今夜はやめようか」と、ふと迷う。
しかし運動は欠かせない。
そう思いながら、思い切ってペダルを踏む。

なぜか?
なぜ、運動をすることに、体が抵抗するのか。
運動は、健康を維持するためには、不可欠。
ならば、運動することは、快感でなければ
ならないはず。
わざわざ進化論の常識をもちだすまでもない。
あるいは性行為と比較するまでもない。

しばらく走りながら、自分の体の反応をさぐる。
なぜ、私の体は運動することをいやがるのか。
どこにその理由が潜んでいるのか。

●運動は、無数の苦痛

冷たい風が頬をこすっているとき、私はそれが
こまかい(痛み)であることを知った。
無数の痛覚が、これまた無数の、目に見えないほど
細い針でこすられるような痛みである。

自転車をこぐ太ももにしても、そうだ。
強くペダルをこぐたびに、無数の痛みがジンジンと
足全体に響くのがわかる。

つまり(運動)は、(無数の痛み)の集合で
あることが、これでわかる。
となると、またひとつ謎が生まれる。
同じような運動に、性行為がある。
女性のばあい、性的に興奮状態になると、
指一本すらも通しにくくなるほど、膣が閉じる。
そこへ男性器を挿入すれば、痛いのが当たり前。
女性もそうだが、男性も、である。

が、性行為のばあいは、それはそのまま快感へとつながる。
考えてみれば、これもまた不思議なことではないか。

●欲望が原動力

運動でなくても、(体を動かす)というのは、
健康の要(かなめ)。
しかしその(動かす)こと自体にも、ここに書いた
無数の(痛み)がともなう。

だからこれは人間にかぎらず、あらゆる
動物は、本来、なまけ者にできていると考えてよい。
「できるなら、動きたくない」と。

しかしそこへ(欲望)という、原動力が作用する。
食欲、性欲、その他、もろもろの欲望である。
この欲望を満足させるためには、人間は動かねば
ならない。

そのとき、(運動)という行為がともなう。
それが健康の維持につながる。
言い換えると、欲望が簡単に手に入るように
なればなるほど、人間は、不健康になる(?)。
現代社会は、そういう社会である。
そこで「運動をしよう」となる。

●快感

しかし運動することに、快感がともなわないわけではない。
「快感」というのは、脳内ホルモンの作用によって起こる。

たとえば性行為を繰り返していて、「気持ちいい」と
感ずるのは、脳内ホルモンの作用によるものである。
そのときモルヒネ様の物質が、脳内に充満することが
わかっている。

で、しばらく自転車で走りつづけていると、苦痛が減り、
やがて乾いた冷気が、汗ばんだ肌をこするようになる。
あえて言うならそのとき感ずる快感は、傷んだ肌を、
だれかがやさしく撫でてくれるような快感である。

こうした快感には、つねに中毒性がともなう。
中には、「ジョギング中毒」と呼ばれる人たちもいる。
ニコチン中毒、アルコール中毒と同じように、
ジョッギングもまた、中毒になりうる。

つまり運動も、ある程度習慣性をもつように
なると、快感につながりやすくなる。
事実、夏の暑い日に汗をかき、扇風機の前に
立ったときに感ずるあの快感は、言葉では
表現しにくい。

さらに運動をたっぷりしたあとには、
たとえばその翌朝など、細胞のひとつひとつが、
プチプチとはじけるような感触すらある。

●運動

最近の研究では、運動することによって、
筋肉が刺激され、その筋肉から、若返りに
関する、ある種の物質が生成されることが
わかってきた。

運動を習慣的にすることによって、その人は、
若返ることができるというわけである。
が、何もむずかしい話は必要ではない。
ためしに、その年齢よりずっと若く見える人に、
こう聞いてみればよい。
「何か、運動していますか?」と。

即座に、そういう人たちは、こう答えるだろう。
「しています!」と。

こう考えていくと、「健康というのは、その人の意志と
努力で維持されるもの」ということがわかってくる。
その努力をする人は、健康を維持でき、そうでない人は、
そうでない。

そこで冒頭の話にもどる。
運動にともなう苦痛を、最初の段階で乗り越え
られるかどうか。
それでその人の健康が決まる。
……ということは、意志の問題ということ。
さらに言えば、肉体をコントロールする、
前頭葉の問題ということになる。

意志の強い人は、その分だけ、健康を維持できる。
意志の弱い人は、その分だけ、健康を阻害する。
言うなれば、この部分に進化論の結果が含まれている。

「意志の強い人間だけが、生き残ることができる」と。

つまり人体は、一見、矛盾に見えるようなものを
用意しながら、他方で、人間の進化を促している
ということになる。
仮に運動にかぎらず、何かを成し遂げようという
意志が弱くなれば、人間は、動物に逆戻りする
ことになってしまう。
必要最低限のことだけをして、それでおしまい、と。

寒い夜の運動は、つらい。
しかしその(つらさ)を乗り越えるところに、
人間の生きる原点がある……と結論づけるのは、
少しおおげさだろうか?

(付記)
半面、子どもを観察していると、体を動かすことを、まったく意に介していないことが
わかる。
(中には動きたがらない子どももいるが……。)
動いていることが、楽しくてしかたないといったふうな子どももいる。
となると、(運動嫌い)というのは、年齢とも関係あるのか。
あるいはしたいことをしているときは、苦痛でも何でもない。
が、したくないことを押しつけられたりすると、とたんに苦痛になる。

このつづきは、またあとで考えてみる。
どうも頭の中がスッキリしない。
考えがまとまらない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●損得論

+++++++++++++++++++++

数十億円の損失?
ヘ〜〜エ!
報道によると、あのイギリス王室が、土地の評価価格の
値下がりなどで、数十億円の損失をこうむっているという。

数十億円?

しかし王室ともなれば、それ以上の財産を所有しているだろう。
また女王の年齢にもなれば、金銭的な損失など、「損失」というふうには、
考えないだろう。
それだけの損をしたからといっても、王室は王室。
女王も、そのまま。
何も変わらない。
今年も、バッキンガム宮殿のまわりは、美しい紅葉で彩られている
にちがいない。

++++++++++++++++++++

●金銭的感覚

「損とは何か?」
「得とは何か?」
それを考えていくと、その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという番組である。
しばらくああいう番組を見ていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

●懸命に生きる

私は毎朝起きると、まず心にこう誓う。
「今日こそは、懸命に生きてみよう」と。
しかし今までに、それが実行できたためしがない。
いつも中途半端で終わってしまう。

そこでまず、「懸命」の意味を考える。

たとえば私は、こんなことに心がけている。
昨日も、こんなことがあった。

地元のC新聞社が、私について取材したいと言ってきた。
その日にちを決めるとき、11月5日〜11日までのうちの1日にしてほしいと、
伝えてきた。

こういうケースのばあい、私は、たいてい、最初の日の、いちばん
早い時刻を選ぶ。
このばあい、11月5日ということになる。
「できること」「したいこと」は、けっして、あと回しにしない。

旅行の日程を決めるときも、そうだ。
が、だからといって、それで私が懸命に生きたということにはならない。

「懸命に生きる」というのには、2つの意味がある。
行動面で、やるべきことをやる。
もうひとつは精神面で、やるべきことをやる。

が、ここでひとつの問題に直面する。
最初にあげた、(お金)の問題である。
私は何も、お金を稼ぐことが悪いことだと言っているのではない。
(お金を稼ぐ)というのは、常に手段ではあっても、目的であってはいけない。
たとえば「ただお金がふえればいい」と考えて、お金を稼ぐというのであれば、
ただの守銭奴になってしまう。

しかし子どもが自分の夢を実現できるように、その学費を得るためにお金を稼ぐ
というのであれば、ここでいう「懸命に生きる」ということになる。

が、中には、(私には、そういう人たちの気持ちがどうしても理解できないが)、
お金はじゅうぶんあるはずなのに、「子どもを大学へやるのは、ムダ」と
考えている人もいる。
「子どもを大学へやると、(親から離れて)、遠くに住むようになる。
だから損」と。

そういう人は少数派かと思っていたが、結構、多い。
こういう話をすると、「私の父親がそうだ」とか、「叔父がそうだ」
という声が、かならず、出てくる。

●精神面では……

人格の完成度を測るひとつのバロメーターとして、「他人との良好な人間関係」
があげられる(EQ論)。
他人と良好な人間関係をつくりあげられる人を、人格の完成度の高い人といい、
そうでない人を、そうでない人という。

そういう意味では、私は、きわめて人格の完成度の低い人間だった。
(今もそうかもしれないが……。)

性格的な欠陥、情緒的な不安定さ、精神的な未熟性などが理由である。
だから私のような人間は、いつも、努めて、懸命に生きなければならない。

ワイフとの関係。
息子たちとの関係、など。
親類縁者も含まれるが、しかし私はもう、浜松に住んで40年近くになる。
「兄弟、姉妹」というと、ワイフの兄弟、姉妹ということになる。
ワイフが間で、じょうずにコントロールしてくれるせいもあるが、
今のところ、良好な人間関係を保っている。
7人の兄弟姉妹がいるが、(ワイフを含めて)、みな、仲がよい。

友人については、できるだけ広く、あたりさわりなく交際するようにしている。
が、それにもある程度の努力が必要。
その(努力)という部分に、(懸命さ)が必要となってくる。

●時間という財産

話が脱線してしまったが、最近は、(時間の使い方)の中にこそ、
損・得論があると考えるようになった。
だからといって、あえてお金を嫌う必要はないが、それよりも大切なのは、(時間)。
この限られた時間をいかに有効に使うか。
それでほんとうの、損・得が決まる。

たとえばこんな例で考えてみよう。

日々の生活には困らない金持ちがいたとする。
その金持ちは、毎日、釣り三昧。
あちこちへ出かけていっては、釣りを楽しんでいた。

その金持ちがこう言った。
「こういう道楽をするために、私は今まで、一生懸命、働いてきた。
今こそ、その金を道楽のために使うべきとき」と。

が、この金持ちは、たしかにお金では、得(?)をしたかもしれない。
しかし時間の使い方をみると、損(?)をしていることになる。
「明日も今日と同じ」という人生に、どれほどの意味があるというのか。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしこの世に生きていることを奇跡(アインシュタイン)ととらえるなら、
その奇跡にこそ、無限の価値がある。
その無限の価値に気づかないまま、(時)を浪費することこそ、まさに
損というべきではないのか。

が、それには条件がある。

(1)すべきことを見つけ、それをすること。

ほとんどのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
運動にたとえるなら、早朝のジョギングのようなもの。
健康を維持するためには、運動は不可欠だが、だれだって(多分?)、
苦痛がともなうことは、避けたいと願う。
しかしそれでも(すべきこと)を、する。
これを心理学の世界でも、「自己の統合性」と呼ぶ。
その統合性を確立した人は、強い。

(2)無益であること。

金銭的な損得勘定が混入したとたん、自己の統合性は、霧散する。
どんなささいなことでもよい。
短時間であってもよい。
無私、無益、無我でするところに、統合性の意味がある。
たとえば朝のジョギングにしても、だれかにお金をもらってするようになったら、
おしまい。
「健康のため」という本来の目的を見失ってしまう。
ひょっとしたら、お金が切れたとき、ジョギングそのものをやめてしまうかもしれない。

……しかし(すべきこと)など、一朝一夕に見つかるものではない。
長い時間をかけて、少しずつ、作りあげるもの。
「定年退職をしました。で、明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも
植えてきます」というわけにいかない。

(やるべきこと)そのものが、その人の人生の集大成ということになる。
そのために使うのが、ここでいう(時間)。
その時間を有益に使うことを、「得」といい、無駄に使うことを、「損」という。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「世界の名画」(隠されたミステリー)(PHP研究所版)

+++++++++++++++++++

このところ書店でよりも、コンビニで
本を買うことのほうが多くなった。
(そう言えば、不景気のせいなのか、
書店で並ぶ本の冊数が減っているように
感ずる。
雑誌でも、以前だと、10〜15部くらいは
平積みになったりしていたが、今は、どれも、数冊
程度。)

で、今夜も、近くのコンビニで、1冊、本を買った。
「世界の名画」(隠されたミステリー)という
本である。

家に帰って、コタツの中で、一気に読み終えた。
内容は、以前から知っていたことがほとんどだが、
改めて、そのおもしろさを堪能した。

途中からワイフも横に座り、ああでもない、
こうでもないと言い出した。

昔の画家たちは、絵画を通して自己表現するのみ
ならず、(遊び心)を巧みに、その絵画の中に
織り込んだ。

画家自身の肖像を、その絵の中に混ぜたり、
自分の嫌いな人を、ひどい人にしたりするなど。
こういう(遊び心)が、絵のみならず、人生を
うるおい豊かなものにする。

++++++++++++++++++++++

●冗談

ところでそのコンビニでは、1000円分で、1本のクジが
引ける。
2000円以上に買ったので、私は、クジを2本、引いた。

私「当たり! この店の商品、全部!」と。

クジに当たると、何かの商品がもらえるようになっていた。
私の前にクジを引いた人は、カップラーメンをもらって帰っていった。

私の言葉を聞いて、女子店員が、一瞬、ギョッとした。
私「あのう、この店の商品全部と書いてありますが……」
女「エッ……、そんなはずはないわよ」
私「ハハハ……」と。

そこで2本目を引く。

私「またまた大当たり! 店員と女房を交換と書いてありますよ」
女「失礼ね」と。

横にいたワイフも笑ったが、店を出てから、ふと考えた。
「どうしてあの店員は、『失礼ね』と言ったのか」と。

いろいろな解釈ができるが、
「こんなバー様と同じにしないでよ」とも解釈できるし、
「あんたのようなジジーなんか、いやよ」とも解釈できる。
こういうばあい、「失礼ね」という言葉は、「私をバカにしないでよ」
という意味。

「まずいことを言ったかな」と思いつつ、車に乗った。

……さて、本題。

「世界の名画」(PHP版、定価952円)は、先にも書いたように、
おもしろかった。
それぞれの絵については、ダイジェスト版といった感じで、
つっこみは甘いが、雑学用としては、じゅうぶん。

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に始まり、
プッサンの『アルカディアの牧人』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、
ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と
つづく。

私は個人的には、ルノワールやクリムトの絵画が好き。
ダ・ヴィンチやレンブラントは有名だが、どうも肌に合わない。
どこか技巧主義的?
「絵画」というワクにとらわれすぎて、その中に、画材をギューギューに
押し込んでいる。
その窮屈さが、息苦しさとなって伝わってくる。
(私は、もともと閉所恐怖症なのだ!)
少なくとも、部屋に飾ってまで見たいとは、思わない。

その点、モネやモディリアーニの絵には、開放感がある。
そういう絵なら部屋に飾ることに抵抗感はない。

さらに言えば、「名画」「名画」というが、どうして
ゴッホの絵が、名画なのか。
『ひまわり』にしても、見れば見るほど、不気味。
ムンクの『叫び』などは、見ているうちに、こちらまで
気がヘンになりそう。

私は、こと絵画に関しては、楽しく、わかりやすい絵が好き。
美しい女性の裸体であれば、なおよい。
そう、私も一度でよいから、女性のヌード画を描いてみたい。
一日中、肌の汗腺までジロジロと眺めながら、描いてみたい。
モデルはいやがるだろうが……。

いや、死ぬまでに、1枚くらいは描いてみたい。
こんなことを書くと、ワイフは怒るだろうな……?


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●家族自我群からの解放

+++++++++++++++++

母が亡くなってから、ちょうど1か月が
過ぎた。
昨日、仏壇の購入を最終的に決めた。
「決めた」と言わなければならない
ほど、少し覚悟が必要だった。
何といっても、額がハンパじゃない。

が、このところ、何かにつけて、気が軽い。
母や兄には悪いが、率直に言えば、
母や兄が亡くなって、本当に気が楽になった。
ときどき遠くの潮騒のように、さみしさが
襲ってくることもあるが、できるだけ
それ以上のことは考えないようにしている。

あとはいくつかの法事を、事務的に
こなすだけ。
それが終われば、生まれてはじめて、
私はあの重苦しい、「家族」という呪縛感
から解放される。

私にとって家族とは何か?
そう、それは、心の隅に貼りついた鉛の
ようなもの。
むしってもむしっても、取れない鉛の
ようなもの。

+++++++++++++++++

家族自我群によって起こる「幻惑(作用)」には、相当なものがある。
良好な人間関係にあるときは、それなりにまだ救われるが、ひとたびそれが破壊されると、
(家族)は、心を押しつぶす重石(おもし)となって、その人を苦しめる。
仏教の世界にも、『怨憎会苦』という言葉がある。
四苦八苦のひとつになっている。

私も40代のはじめごろは、経文を唱えないと、あの郷里の町には入れなかった。
ワイフがそうしろと教えてくれたから、そうした。
が、渡る世間は冷たい。
そういう私の心も知らず、「親だろ」「家族だろ」「子どもだろ」と、安易な『ダカラ論』
だけを振りかざして、私を責めた。
中には節介やきの親類がいて、ああでもない、こうでもないと、電話をかけてきたりした。
それは真綿で首を絞められるというか、真綿を喉(のど)の奥に詰め込まれる
ような苦しみだった。

だから私はその親類の男に、こう叫んでやった。

「お前も、ぼくと同じことをしてきたのなら、そうやって偉そうなことを言え。
でなければ、黙っていろ!」と。

私はワイフと結婚する前から、収入の約半分を実家に納めてきた。
27歳を過ぎるころには、税金はもちろん、実家の商品の仕入れ、生活費などなど、
それはすべて私の負担となっていた。
実家の改築費も、全額、私が支払った。
兄や母の介護費用も、すべて、私が支払った。
それだけではない。
母自身は質素な生活をしていたが、そうして仕送りしていたお金の多くは、
母の知人へと流れていた。
経済的な負担感というよりも、私は社会的な負担感と戦わねばならなかった。

依存性というのはそういうもので、一度、それが形成されると、あとはそれを
前提として人間関係が、できあがる。
依存される者は、どこまでも依存される。
依存する者は、どこまでも依存する。
切れることがない。

一時は、大型の爆弾か何かで、あのあたり一帯が、一瞬にして消え去ればよいとさえ
思ったこともある。

そんなこともあって、葬儀費用だけは、意外と気持ちよく支払うことができた。
もちろん全額、私が負担した。
「これでおしまい!」と。
香典も入るには入ったが、葬式費用の何分の一にもならなかった。
だからそれで仏壇を購入することにした。
今さら、多少の援助など、何になる?
そんなお金など、どこにも残したくない。

家族自我群……それは、脳みその奥深くにまで刷り込まれている。
最近の研究によれば、人間も、鳥類と同じように、その刷り込み(インプリンティング)
がなされることがわかっている。
(人間のばあい、生後直後から7か月くらいの間に刷り込まれるという。
この時期を「敏感期」と呼ぶ。)

本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、それから自分を解放するのは、
容易なことではない。
たいていは解放されることもなく、一生、つづく。
人によっては、マザコンになったりする。
50代、60代になっても、「おふくろさん」「おくふろさん」と言って、空を
見あげて、涙を流す人は、たいていこのタイプの人と思ってよい。

もう、家族はこりごり。
うんざり。
だからこそ、私は自分の息子たちには、同じ苦しみを味あわせたくない。
息子たちには、いつもこう言ってきた。

「お前たちの人生は、どこまでも、お前たちのもの。
どんなことがあっても、私やワイフのことは心配するな。
親孝行……?
そんなバカなことは考えなくてもいい。
家の心配……?
それも結構。
私たちはお前たちを育てることで、じゅうぶん、人生を楽しむことができた。
お前たちのおかげで、生きてくることができた。
『ありがとう』と礼を言わなければならにほうは、むしろ、私たちのほうだ。
ありがとう」と。

今、この瞬間にも、家族自我群の呪縛感で苦しんでいる人は多いと思う。
その苦しみは、それを味わったものでないとわからない。
ときに身を引きちぎられるような苦しみとなって、その人を襲う。

そういう人たちには、私は、こうアドバイスしたい。

(1)運命は受け入れる。
(2)健康だけは大切に。
(3)あとは淡々とやるべきことをやってすます。

あとは時間が、解決してくれる。
水が低い所を求めて流れていくように、雲が風に乗って流れていくように、
やがて行き着くところに行き、そこで解決する。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●恩着せ

++++++++++++++++++

恩着せがましい言い方をする人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」
「大学まで出してやった」と。
中には、こんなことを言った母親もいる。

「あんたが子どものころ、あんたは
病気ばかりしていた。
あんたのことで、私(=親)は、どれだけ
苦労したかわからない」と。

しかしそれだけではない。
こういうものの考え方が、その人にとって
常識化すると、ものの発想の仕方そのものが、
すべてそうなる。

何をしても、意識の中で、「してやった」と
とらえるようになる。

「(近所の)Aさんのめんどうをみてやった」
「掃除をしてやった」
「援助してやった」と。

無私、無我ですべきことをしている人は、
そういう言葉を口にしない。

……せめて子育てくらい、無私、無我で
したい。
心を守る、最後の砦(とりで)として。

+++++++++++++++++

先日も実家(現在、空家)へ行ったら、一人の女性が近づいてきて、
私にこう言った。
「お宅の家の溝に落ち葉がたまっていましたから、掃除しておきましたよ」と。
私がすなおに「すみませんでした。ありがとうございます」と言うと、さらに
こう言った。
「隣の人が、苦情を言っていましたから」
「そういう掃除は、キリがありませんね」とも。

どこかイヤミな言い方に聞こえた。

空家にして迷惑をかけていることは悪いことだが、その程度のことなら、みな、
黙ってしている。
私だって、している。
私の家の隣地は竹ヤブになっている。
かっこうのゴミ捨て場になっている。
定期的に清掃するのは、私の仕事になってしまった。
が、だからといって、地主にあれこれと苦情を告げることはない。

山荘の周辺については、なおさら、そうである。
草を刈るときも、自分の土地、他人の土地という区別はしない。
時間と体力、プラス燃料があるかぎり、他人の土地でも草を刈る。
たがいにそうしているから、たがいに「ありがとう」と言うこともない。

が、恩着せがましい人は、そうでない。

私はその隣人のうしろ姿を見ながら、こう思った。
「きっと、家でも子どもたちに、産んでやった、育ててやったと
言っているだろうな」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●『小言を聞いても怒るな。怒っているときは、小言を言うな』

++++++++++++++++

だれの言葉かは忘れたが、昔、こう書いた
人がいた。

『小言を聞いても怒るな。怒っているときは、
小言を言うな』

++++++++++++++++

この言葉を言いかえると、『沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな』となる。

私の近所にも、(小言の神様)のような女性がいる。
話し出したら止まらない。
小言の連続。
小言は小言でも、グチと恩着せ。
こまかい話を、ネチネチと、何度も繰り返す。
で、そういうとき私は、心の中で、歌を歌うようにしている。

古今和歌集にも、こんな歌がある。

『そひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』と。

ここから『浅瀬に仇波(あだなみ)』という諺が生まれた。
つまり「思慮の浅い者は騒がしい」(広辞苑)と。

だからだれかに小言を言われても、怒らない。
怒っているときは、小言を言わない。
ときとして小言が起爆剤となって、大喧嘩に発展することもある。
そうなればなったで、後味が悪いだけ。

しかしこれには、かなりの忍耐力と、それを包容する度量が必要。
私のばあい、その女性を、サルか何かのように思っている。
よくしゃべるが、底が浅い。
頭に飛来する情報を、音声に変えているだけ。
勉強の「ベ」の字もしていない。

……とまあ、その女性の悪口を書いてしまった。
絶縁する日も、それほど遠くはないと思う。
私は悪口を書いた人とは、つきあわない。
私の悪口を陰で言っている人とも、つきあわない。

もうそういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、ない!


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年   12月   1日号
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12月1日……1128号になりました。
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●軽い頭痛

今朝(11月11日)は、軽い頭痛で目が覚めた。
理由は、わかっている。

昨日、小6のクラスでのこと。
このところ睡眠調整がうまくいかない。
それもあって、そのとき私は猛烈な
睡魔に襲われていた。

そんなとき、M君(小6)が、こんな問題を
解いていた。

【問】++++++++++++++++

兄と弟が、時速4キロで、おじさんの家に歩いていました。
ちょうど1時間歩いたところで、兄が忘れ物に気づいて、
時速5キロで、家にもどりました。
弟はそのままおじさんの家に向かって、時速4キロで歩きつづけました。
兄は家で忘れ物を手にすると、時速5キロで、おじさんの家に
向いました。
弟がおじさんの家に着いてから、18分後に、兄がおじさんの
家に着きました。
家からおじさんの家まで、何キロですか。

+++++++++++++++++++

こうした問題では、距離を(X)キロメートルにして、方程式を立てれば、
簡単に解ける。
しかし小学生の問題では、方程式は使えない。
とたん、ものすごいプレッシャー!
ストレス!
が、脳みそは、半分眠ったまま……。
しかも時刻は、終了間際の、10分前!

「解き方はあとでファックスで送るよ」と言いながら、なんとか答は出したが、
どうも自信がない。
このところ計算ミスが多くなった。

で、つぎのクラスまで15分間の休憩があった。
が、再び、あの睡魔!
その睡魔と闘いながら、白い紙に説明をあれこれと書きこむ。
脳みそが、それに抵抗する。
今朝の頭痛は、そのときから始まった。
こめかみの奥が、ツーンと痛くなった。

で、高校生たちが教室へやってきたので、同じ問題を解いてもらった。
自分の出した答を確かめたかった。
「方程式を使わないで、解くんだよ」と。

が、高校生たちでも、ウ〜ン、ウ~ンと、うなり始めた。
それを見て、私は、少しうれしかった。
「もし、高校生たちがスラスラと解いたら、どうしよう……」と、
内心では、そう心配していた。
方程式で解くという方法もあったが、すでにその気力さえ、私には
なかった。

が、やがて……20分ほどして、いちばん頭のよいKさんが、「3キロ!」
と答を出した。

それを聞いて、私は、M君にファックスで考え方を送信した。


●高校生の夢

ところで、ひとりの高校生(高2女子)に、こう聞いてみた。
「君には、何か、したいことがあるの?」と。
するとその高校生はしばらく考えた様子を見せたあと、こう言った。
「ないわ……」と。

私「じゃあ、どうして勉強しているの?」
高「やらなくちゃ、いけないからよ」
私「でも、何か目標がなければ、勉強なんてできないでしょ」
高「めんどうだから、そういうことは考えない」

私「子どもだったら、幼稚園の先生になりたいとか、そういうふうに
答えるよ」
高「私は、もう、そういう子どもじゃ、ないから……」
私「そんなことないよ。すばらしい仕事だよ」
高「だって、うちのママは、ケーキ屋さんとか、パン屋さんになりたい
と言うのは、子どもだって言っている」

私「じゃあ、ケーキ屋さんになりたかったの?」
高「そう……。子どものころはね……」
私「だったら、ケーキ屋さんをめざせば、いいじゃない?」
高「だれでもできる仕事は、収入が少ないって、ママは言っている……」

私「だれでもできる……? そんなことはないよ。大切なことは、
ひとつの仕事を、一生つづけることだよ。プロになることだよ」
高「そうかなあ……?」
私「そうだよ。収入は、あとからついてくるよ」と。

まじめな生徒たちである。
みな、黙々と勉強している。
しかし将来に向かって夢をもって勉強している子どもとなると、ほとんどいない。
「そこに勉強があるから、しているだけ」と、そんな雰囲気。

こうした現実を、世のおとなたちは、いったい、どこまで知っているのだろう。
O市のK市長は、今度、高校生たちとの対話を始めたという。
それはそれでよいことだと思うが、数回程度、チョコチョコと対話をして、
それで子どもたちの気持ちがわかるとしたら、とんでもない誤解。
誤解というより、侮辱(ぶじょく)。

高「先生は、どうだったの? 高校生のとき、夢があったの?」
私「あったよ。ぼくのばあい、とにかく、外国へ行ってみたかった」
高「それだけ?」
私「そう。あの小さな田舎の町を飛び出したかった」

高「ああ、だから英語を勉強したんだア」
私「そうだよ。英語を勉強すれば、外国へ行けると信じていたからね」
高「そういうのでも、夢なのかなあ……? だれだって、行けるよ」
私「今はね。しかしぼくが高校生のときには、外国へ行くなんてことは、夢の
また夢だった」
高「フ〜〜〜ン」と。

そのあと、またその高校生は、自分の勉強にもどった。
いつもの、あの静かな時間が、そのあとつづいた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●11月11日 

++++++++++++++++++++++

もう少しで、11月11日、午前11時11分。
(今、11時07分。)

「1」が、8個も並ぶ。

並んだところで、とくに意味はない。
が、何となく、気になる。
あと3分!

++++++++++++++++++++++

●「聞かないでおこう」

少し前、N県に住む学生時代の友人と電話で話した。
その友人と、こんな会話をした。

私が何かのことで、その経緯(いきさつ)を話そうとしたときのこと。
「話せば長くなるのだが……」と一言、口にすると、
その友人は、すかさず、こう言った。
「じゃあ、聞かないでおこう」と。

内心、「さすが!」と思った。
かなりの人格者とは思っていたが、そこまでの人物だったとは
知らなかった。
「くどくどとした、長い話など聞きたくない」
「聞いても意味はない」と。

それに答えて、私も、「ぼくも言いたくないしね」と。
たがいに電話をはさんで、笑った。

こう書くと、怒る女性もいるかもしれない。
しかし女性のばあいは、男性とは、少し、ちがう(?)。
女性は、一般論として、他人のゴシップが、好き(?)。
「話せば長くなるのですが……」などと言おうものなら、相手のほうから
首をつっこんでくる。
「どうしたの?」
「何かあったの?」と。

そしてそのあと、長〜〜〜〜イ話がつづく。

それぞれの家庭や家族には、それぞれの事情というものがある。
たいていは、複雑。
無数の「糸」がからんでいる。

一方的な話だけを聞いて、どうこう判断しても意味はない。
言うほうも、それがわかっているから、言いたくない。
たいていグチか、悪口になってしまう。
言えば言っただけ、後味が悪いだけ。

しかし……だ、男性の中にも、他人のゴシップが好きという人も少なくない。
つまりそれだけ人間が小粒(失礼!)。
中には「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」(ある西洋の作家の言葉)と
言う人もいる。
用もないのに、電話をかけたりして、相手の内情をさぐろうとする。

その不快感は、それをされたものでないとわからない。
割れかけた心臓に、グサリと刀を突き刺されたかのような衝撃を受ける。
(悲しさ)と(悔しさ)が集合されて、(怒り)になる。
反対に(怒り)が、(悲しさ)と(悔しさ)に分解されることもある。
ここでいう「不快感」というのは、それをいう。

だから……。
他人のゴシップには、耳を傾けないこと。
相手の方から相談でもあれば、話は別だが、こちらから聞き出すようなことはしない。
また聞いても意味はない。
ときにかえって、私やあなたの心を腐らすだけ。
人間性そのものが、落ちる。

そんなわけで、友人のその言葉を聞いたとき、久々に胸の中が、スカッとした。
「じゃあ、聞かないでおこう」と。
すばらしい言葉だ。


●今日からマガジン12月号

この原稿から、マガジン12月号になる。
今月(11月)は、いろいろあって、発行予約が、ほぼ2週間も
遅れている。
本来なら、今ごろは、12月12日号を書いていなければならない。
が、12月1日号!

ワイフはいつも同じことを言う。
「量を減らしたら?」と。
毎回の量が多すぎるから、減らせばよい、と。
そのうちそうなるかもしれないが、がんばれる間は、がんばりたい。
マガジンは、毎回、A4サイズ(40x36)で、20枚以上と、
自分でそう決めている。

しかし無駄なことを書いても、意味はない。
読んでくれる人に悪い。
そこで私がすべきことは、情報集め。
もしマガジンの発行をやめてしまったら、私は情報集めもやめてしまうだろう。
しかしそれこそ、ボケの始まり。
そんな危機感があるから、マガジンの発行をやめるわけにはいかない。

がんばろうと自分に言って聞かせたところで、今日もパソコンの前に座る。


●韓国のひがみ節

++++++++++++++++++

どうしてあの韓国の人たちは、
こうまでひがみぽいのだろう。

いちいち出典を明らかにするのもめんどうだから
それは省略するが、韓国の新聞を読んでいると、ひがみ節ばかり。
ひがみ節のオン・パレード。

まず日本が大陸棚を広げることについて、「日本は
国土の2倍もの大陸棚を自分のものにしようとしている」と。

つぎに米韓交渉の中で、アメリカ側は、韓国の車に高い関税をかけようとしている。
(韓国側は、高い関税をかけて、輸入車を事実上、規制している。)
が、ここまでならまだ話はわかる。
それについて、「どうしてトヨタはよくて、ヒュンダイはだめ
なのだ」と。

いちいち日本をからめてくるところが、怖ろしい。
もし逆に、日本が逆のことを言ったら、彼らは顔を真っ赤にして
怒るはず。

が、つぎの言い分には、さすがの私も頭にきた。

「北朝鮮のミサイルは、日本や日本のアメリカ軍向けのもので、
同じ仲間(同胞)の北朝鮮が、韓国にミサイルを撃つはずはない」
「だから北朝鮮のミサイル開発は、気にしなくてもいい」と。

朝鮮半島が有事の際には、在日米軍が同時に動き出す。
つまり間接的ではあるにせよ、日本は、韓国の防衛に手を貸している
ことになる。
そういう(恩)を忘れて、そういうことを、平気で言う。

さらにこういう意見もあった。
あの朝鮮動乱のときのこと。
日本が北朝鮮を攻撃するための前線基地に使われた。
それは周知の事実である。
しかしそれについても、韓国の人たちはこう言っている。
「日本は、朝鮮動乱を利用して、金を儲けた」と。
「日本が戦後の混乱期から復興できたのは、オレたちのおかげ」と。

で、もし同じような(動乱)が朝鮮半島で起きたら、やはり韓国の
人たちは、同じようなことを言うのだろうか。
もしそうなら、日本は、こう言えばよい。

「朝鮮半島有事の際でも、日本からの米軍の発進を断る」と。

日本としては、それくらいのことを言う権利をもっている。
きわめて高額の基地維持費を、日本側は負担しているからである。

が、韓国のひがみ節は、さらにつづく。

今度は何と、「米朝会議を歓迎する」とまで言い出した。
言い換えると、6か国協議を形骸化する、と。
これは日本にとって、見逃すことができない死活問題と考えてよい。

西洋では、『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、目的を知ればいい』と言う。
つまり北朝鮮の目的は、日本を脅して、超高額の補償金を手に入れること。
そのために何としても、日本の上についているコブ(=アメリカ)を
排除しなければならない。

もし北朝鮮が、核保有国として認められ、かつ、米朝の間で、
「友好条約(=相互不可侵条約)」のようなものが結ばれたら、
そのときこそ、日本は万事休す。

北朝鮮はやりたい放題のことを、日本に対してやることができる。
アメリカは日本が北朝鮮に攻撃されても、北朝鮮がアメリカ本土を攻撃しないかぎり、
日米安保条約は、発動されない。
つまり日本は、丸裸。
米朝(首脳)会談は、そのための第一歩ということになる。

そういうことを韓国は百も知りつつ、「米朝(首脳)会談を歓迎する!」とは!

ついでながら、日朝の間で有事の際には、在韓米軍は、その戦争には、動かない
ことになっている。
日本と北朝鮮が交戦状態になれば、日米安保条約が発動される。
アメリカ軍がそれに介入してくることになっている。
しかし韓国内のアメリカ軍は、動くことができない。
前大統領のノ氏が、米軍との間で、そういう取り決めをしてしまった。

つまりこれほどまでに身勝手な論理はない。

……とまあ、韓国のひがみ節は、今日もつづく。
外見は大きくちがうように見えるが、韓国も北朝鮮も、中身は同じ。
そういう前提で考えないと、あの2つの国を理解することはできない。

(付記)11時11分11秒に、何かしようと思ったが、気がついたら、
もう12時近くになっていた。
残念!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●不景気

++++++++++++++++++++++++++++

すでにこの日本も、100年に一度と言われる、大恐慌の
入り口に立たされてしまった。

いろいろなところで、不景気の話を耳にする。
推測だけでものを書いてはいけないので、具体的に数字をあげてみる。

消費支出は、08年3月から、前年度に比較してマイナス。
直近の8月は、約4%も下落。

企業の倒産件数は、今年に入ってから、約20%も増加。
直近の9月には、1400件(月間)を超えた。

有効求人倍率も、どんどんと低下して、直近の8月には、
0・85%をやや上回る程度。
07年の9月には、1・05%近くもあったのだが……。

さらに機械受注高は、「夏ごろから急減」(東洋経済・11月8日号)とのこと。
前年度同月と比較しても、約12%も下落している。

株価については、今さら書くまでもない。

さあ、どうしよう?

++++++++++++++++++++++++++

こういうときは、話題を変えたほうがよい。
……ということで思い出したのが、何でもセックスレスの夫婦が、
約30%もいるそうだ(08年11月)。

報道の内容だけでは詳しいことはわからない。
どの程度を、セックスレスというのか。
5分程度で、パッパッとすましても、セックスはセックス。
相互にねんごろにマッサージをしあっても、セックスレスはセックスレス。
しかし私はこういう数字を見ると、「もったいない」と思ってしまう。

若いときに、なぜ楽しいことを、もっとしておかないのだろう、と。
30%といえば、3組に1組ということになる。

もっとも年齢によっても、ちがうだろう。
しかし当論文が、少子化の問題をからめているところを見ると、若い夫婦についての
ものと理解してよいのでは。
仮に、20〜30代の夫婦で、3組に1組がセックスレスであるとするなら、
ほんとうに、もったいない!

が、それだけではない。
夫婦はセックスを通して、肉体のみならず、精神の同一化をすることができる。
その同一化は、夫婦円満の基盤といってもよい。
逆に、セックスをしないで、どうしてその基盤を作ることができるというのか。
ほかに方法があるというのか。

「30%も」ということになれば、本気で、「セックス講座」というものを、
みなで開きあったらほうがよい。
「セックスは隠すべきもの」「恥ずかしいもの」という先入観をまず捨てる。
その上で、みなが、もっとオープンにこの問題を考え、どうしたらよいか、
その解決方法をさぐる。

「あら、お宅のダンナは、どう?」
「私、あなたのダンナが好みなの。一晩、貸してくれな〜い?」とか。

中にはセックスが好きで好きでたまらないという人もいるはず。
その「技」にたけている人もいるはず。
そういう人に、講師になってもらえばよい。
しかし一言。

セックスレスと少子化問題をからめる必要はない。
めったにセックスをしなくても、たまの1回で妊娠……ということもありえる。
セックスレス、イコール、少子化ということでもないのでは?

不景気なときは、夫婦で、セックスでもして時間を過ごすのがいちばんよい。
お金もかからない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●それぞれの信者

++++++++++++++++++++

先日、前立腺がんの権威でも知られている
O教授夫妻と会食したとき、O教授の奥さんが、
こう話してくれた。

「主人は、ポポンS※の信者です」と。

「ポポンS」というのは、市販のビタミン剤。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。
どういうわけか、楽しかった。

「うちの主人は、ポポンSをのんでいれば、
だいじょうぶと言っています」と。

++++++++++++++++++++

それぞれの人には、それぞれが信ずる「薬」がある。
幼稚園で教えることになったころ、世話になったM先生は、毎日アロエをすって、
それをのんでいた。
田丸謙二先生は、毎晩、寝る前に、「ハンゲコウボク湯」をのんでいるという。
私たち夫婦も、ハンゲコウボク湯信者になり、この9年間、毎晩、欠かさずそれを
のんでいる。
ハンゲコウボク湯には、がん予防の効果があるという。
昔、東大の薬学部長をしていたM教授が、それを言い出した。
それでM教授を中心としたテニス仲間にそれが広がり、みなが、それをのみだしたという。
私たち夫婦もそれを勧められた。
それ以来、欠かさず、のむようになった。

ほかに私たちのばあいは、毎朝、CA剤とビタミンC剤、ときどき、ビタミンB剤を
のんでいる。
病院でもらう薬(たとえば精神安定剤、睡眠導入剤など)は、症状に応じて、のんで
いる。
薬といえば、それだけかな?
ともかくも、それぞれの人には、それぞれが信ずる「薬」がある。

「ポポン」というネーミングが、おもしろかった。
だからゲラゲラと笑った。

(注※)ポポンS……ポポンSは、シオノギ製薬から発売されているビタミン剤である。
1952年にタケダから発売され、当時爆発的な売り上げを記録していたビタミン剤「アリナ
ミン」シリーズに対抗するカタチで発売される。「ポポン」と言う名前で誕生し、1965年に
は「ポポンS」に改名、更に1986年に「新ポポンS」と改名、2000年に「ポポンS」に戻
すと言う歴史を持つ(以上、ウィキペディア百科事典より)。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある親子の確執

+++++++++++++++++

マガジンの読者の方から、こんな相談
があった。

80歳になる母親が、その女性(57歳)に、
毎日ひどい言葉を、投げつけるというのだ。
その女性は現在、ひとりで、母親の介護をし
つづけている。

とても他人ごととは思えなかったので、昨夜、電話を
してみた。

+++++++++++++++++

その家には、80歳になる母親と、その娘(57歳)が住んでいる。
母親がほぼ寝たきりの状態になって、もう2〜3年になるという。
が、毎日、悪態の連続。
その女性は、「耐えられない」と、電話口の向こうで、何度もそう言った。

「たとえば食事がまずいと、こんなもの食べれないとか、100万円
もってこいとか言うのです。で、私が何か口答えすると、母は、
『お前が子どものころ、私はどんだけ苦労したかわからない。その恩を
忘れるな』と言います」と。

こういうケースのばあい、注意しなければならないことが、いくつかある。

(1)低次元の人と同居していると、自分まで低次元な人間になってしまう。

その女性の母親は、かなり低次元な人とみてよい。
あるいは認知症を発症しているのかもしれない。
ともかくも、低次元な人と同居していると、そのときは、反面教師としてその
人を批判したりはするが、その人自身も、やはり低次元な人間になってしまう。
そのときはそうならなくても、(つまり緊張感がつづいている間は、そうならなく
ても)、その緊張感が取れたとたん、低次元な人間になってしまう。

よくある例が、息子や娘が、加齢とともに、父親や母親そっくりの人間になったり
すること。
自分では気がつかないうちに、そうなる。

だから恩師の田丸謙二先生は口癖のように、いつもこう言っている。
「林君、高次元の人とつきあいなさいよ」と。

(2)低次元な人を、まともに相手にしてはいけない。

これは子育てにも通ずるが、子どもに「バカ!」と呼ばれて、本気で怒る親もいれば、
まったく気にしない親もいる。
しかし相手は子ども。
本気で怒るほうが、どうかしている。
同じように、80歳にもなった母親である。
本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしたとたん、その毒気に巻き込まれてしまう。

(3)老人の心理を理解する。

老人の心理は、キューブラーの『死の受容5段階説』が、そのまま当てはまる。
死を宣告された人は、(否認)→(怒り)→(取引)→(抑うつ)→(受容)の
5段階を経て、やがて自分の死を受け入れるようになるという。

老人もまた、自分の(老後=末期)を、似たような段階を経て、やがて受け入れる
ようになる。

その女性の母親は、キューブラーの『死の受容5段階説』に当てはめると、
(否認)→(怒り)の段階にあるものと思われる。
自分の老後を受け入れらず、その(怒り)を、娘であるその女性にぶつけている。

(4)運命を受け入れる。

こういうケースのばあい、運命に逆らうと、運命は悪魔に変身して、容赦なく
その人に襲いかかってくる。
しかし一度、それを受け入れてしまえば、運命は、(悪魔でもよいが)、しっぽを
巻いて向うのほうから逃げていく。

「どうせバー様のいうこと」と割り切って、相手にしない。
やるべきことはやってあげながら、あとは暖かい愛情で包む。

実のところ、私の母も同じような段階を経て、最後は(受容)の段階へと
たどりついた。
とくに私の家で同居するようになったころには、そうなっていた。
おだやかで、やさしく、ものわかりもよかった。
一度とて、不平、不満を口にすることもなかった。

だからその女性には、電話で、こう言った。

「とにかく、そんな老人は、本気で相手にしてはいけません。
サルか犬のように、思えばいいのです。
本気で相手にしたとたん、不愉快になりますが、あなた自身も、
いつかあなたの母親そっくりな女性になってしまいます。
ユングという学者は、それを(シャドウ)という言葉を使って
説明しました。

身に回りに高次元な人を見つけて、その人と接触したり、
相談したりします。

あとは運命は、受け入れる、です。
そこに運命があるなら、そのまま受け入れます。
逆らえば逆らうほど、苦しむのは、あなた自身ということになります」と。

ついでに言えば、その女性とその女性の母親は、共依存関係にあるとみてよい。
たがいに依存しあっている。
もちろんその女性は、それに気づいていない。

仮にその母親がいなくなったら、そのとたんその女性の心には、ぽっかりと
大きな穴があいてしまうだろう。
で、その穴の中に入ってくるのが、(孤独)。

孤独の恐ろしさは、ふつうではない。
仏教でも最大の(地獄)として、それをとらえている。
つまり無意識のうちにも、その女性は、その孤独を癒すために、(あるいは忘れる
ために)、母親と共依存している。
「孤独で苦しむよりは、母親といっしょに暮らしたほうがいい」と。

親子といっても、内容はさまざま。
みな、ちがう。
理解しあい、励ましあい、仲よく暮らしている親子となると、さがさなければならない
ほど、少ない。
親は子をもうけて、親になるが、よい親子関係をつづけるのは、むずかしい。
「私はだいじょうぶ」と過信している人ほど、あぶない。
念のため!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
共依存 キューブラー 死の受容段階説)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝、あれこれ(11月10日)

●迷信

+++++++++++++++++

迷信のはじまり……仏壇屋のおやじが、
こんなおもしろい話をしてくれた。

「たとえばね、何かの法事をしなかった
としますね。
そのあと、何かの事故が起きたりすると、
『やっぱり、これは先祖様を供養しなかったためだ』
とかなんとか、人は思ったりするものです。

反対にね、もし法事をしたあと、何かいい
ことがあったとしますね。
すると『やはり、先祖様を大切にすることはいいことだ』と、
人は思ったりするものです。

つまりね、林さん、こうして迷信というのが
生まれてくるんですよ。その人の中に……」と。

仏壇屋という職業を通して、そのおやじは、
人の生死を見つめてきた。
私は仏壇屋のおやじらしからぬ話を聞きながら、
そのつど、感心した。
「この人は、ただの人ではないぞ」と。
つまりそのおやじは、人間が根源的にもっている
(弱さ)を見抜いている!

「そんなことを言ったら、仏壇が売れなくなりますよ」
と私は言いかけたが、それは言わなかった。

++++++++++++++++++

私の母は、若いころから迷信深い人だった。
「迷信のかたまり」とさえ思ったことがある。
一貫性がなく、そのつど、迷信に振り回されていた。

もっとも母はそれでよいとしても、それによって
振り回される私たちは、たまったものではない。

たとえば靴一足を買うにしても、時間が指定された。
「夕方から遅い時間に買ってはだめ」とか、
「買うなら、朝にしなさい」とかなど。
ほかに、「表(=玄関)で脱いだ靴は、裏(=勝手場)の
ほうで、はいてはだめ」というのもあった。

ときには、靴を買う日まで、指定されたこともある。
「今日は、日が悪いので、買ってはだめ。あさってに
しなさい」と。

一事が万事。
ありとあらゆることに、その迷信が、入り込んでいた。
学校へ行くときも、裏口から出て行こうとすると、
そこで呼び止められ、叱られた。
「表(=玄関)から出て行きなさい!」と。

幼いころの私はそれに従ったが、小学3、4年生にも
なるころには、息苦しさを覚えるようになった。
私は、そのつど母に反発したが、
母は母で、自分の主張を曲げなかった。
そういう話を、寺や神社で聞いてきて、
いつも私にこう言った。

「そういうことを言うと、バチが当たる!」と。

++++++++++++++++++

迷信、ただの迷信、されど迷信。
その迷信と戦うにも、かなりの勇気が必要。
ゆいいつの武器は、知性と理性、それに知識である。
何かのことで「おかしい?」と感じたら、
そのことについて、徹底的に自分で調べるのがよい。
けっして不可思議なものに心をゆだね、
その虜(とりこ)になってはいけない。

できればはじめから、近づかないこと。

こうした迷信というのは、一度気にすると、
心の内側にペタリと張りつく。
取れなくなる。
取れなくなるばかりか、ときに自分が自分でなくなってしまう。

このことは、子どもの世界を見ているとわかる。
10年ほど前、それについて調べたことがあるが、小学生に
しても、大半が、まじないや、占いを信じている。
「霊」の存在を信じている子どもも、多い。

大切なことは、自分で考えること。
仮に納得がいかないことがあったとしても、それを不可思議な
「力」のせいにしてはいけない。
こんなことがあった。

ある家庭に、3人の子どもがいた。
上から、長男、長女、それに二女。
長男、長女は、中学時代から札付きの番長に。
高校へは進学しなかった。
二女は、だれの子ともわからない子どもを妊娠、そして出産。
長女が、17歳のときのことだった。

それについて、迷信深い叔父が近くにいて、「これは何かのたたり」と
言って騒いだ。
そこでその両親は近くの神社を訪れ、「お祓(はら)い」なるものをして
もらった。

が、原因は、母親自身にあった。
親意識が強く、権威主義。
口もうるさかった。
その上わがままで、思いこみもはげしかった。
子どもの心など、最初から、どこにもなかった。

父親はいたが、週に1、2度赴任先の会社から帰ってくる程度。
母親は自分が感ずるストレスを、そのまま子どもたちにぶつけていた。

子どもたちにすれば、さぞかし居心地の悪い家庭だっただろうと思う。
その結果は、先に書いたとおりである。

つまりほんの少しだけでも、その母親に(考える力)があれば、
こうした事態は防げたはず。
が、その母親には、その力さえなかった。
もっとも今は、3人ともそれぞれが結婚し、家庭をもち、
それなりに幸福に暮しているから、とくに問題はない。

またその後のことは聞いていないが、あの母親のことだから、
今ごろは、きっとこう言っているにちがいない。

「何かあったら、あのX神社でお祓いをしてもらうといいですよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●孤独な職業

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若いときはそれほど強く感じなかったが、
このところ、仕事をしていて、孤独感を
覚えるようになった。

ひとりだけ、ポツンと取り残されたような
孤独感である。
とくに空き時間など、教室でひとりでいると、
それを強く感ずる。

そういう私の心を察してか、最近は、ワイフが
ときどき、いっしょに仕事をしてくれるように
なった。

どこかに講演に行くときも、そうである。
一応「仕事」ということになっているが、
講演料のことを考えたら、仕事にならない。
そういう公演先へ、電車に揺られて、ひとりで向かう。

それでいつだったか、「いっしょに来てほしい」と
言うと、ワイフは、それ以後は、いつもいっしょに
来てくれるようになった。
電車の中で、話し相手がいるだけでも、ありがたい。
たがいのボケ防止にもよい。(多分?)

ワイフへ、

これからも、よろしく!

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